夏休みの初日の土曜日の朝。
スターフォックススタジオに実叶の姿はあった。
この夏休みの実叶のバイト先だ。
「ようこそ実叶さん。じゃ、施設から説明するね」
司が研修を進め、ライリーと胡荒コーチが幼児体験レッスンの段取りを説明する。
「シンクロナイズドスケーティングはいいアイデアでしたね。ある程度集団行動わかる子たちでないとできませんが、日本の子供なら全然できますものね。盲点でした」
ライリーが実叶の着想を改めて褒めると、実叶も笑顔で応える。
「お役に立てて光栄です」
「ほんと、私運がいいですよね。ところで、一昨日までの教育実習、どうでした?」
ライリーが尋ねると、実叶は少し恥ずかしそうに答えた。
「いい生徒ばかりで、良い経験になりました。その、光ちゃんも熱心に私の授業聞いてくれて」
そこで、ライリーは鋭く突っ込んで来た。
「実は、光ちゃんが3週間も連続で学校休まなかったことって、今までなかったんですよ。その事で、何か言われませんでした?」
「……実は、結構言われました。助かったって。
特別競技部って、先生も扱い難しがってるみたいなんですよ。学校が部活指導してないから、学校で統制して『赤点出した子の部は次のテスト前週間部活禁止』とかやっても、学校外の人に指導受ける子とか効果ないみたいで……
そもそも、今回みたいに一年のスポーツクライミングの子が前回赤点出したからって、フィギュアやスピードスケート、MTBの子までが部活禁止とかおかしいって言われちゃいますよね」
そこでライリーは深入りしてきた。
「でも、課外活動はともかく、光ちゃんみたく通常授業休む事については学校も良く思わないでしょう?」
「……実際そうでしたね」
「実際、こちらも困っているんですが、私やクラブの立場では言えないところもあって。学校の先生方も通り一遍のことは言えても、世界トップレベルの選手に説得力ある指導できるかというと難しく……」
そこでライリーは上目遣いで慇懃な言葉遣いで頼みごとをしてきた。
「でも、もしかして実叶さんなら、というところありまして、ご協力お願いできます?」
―――同日、日乃出大学附属桜佳中学女学生寮
今日はいのりの家に行く約束の日だ。
光が日焼け止めを塗っているところに、ジャージ姿の星羅がノックをして入って来た。光は慌ててTシャツを羽織る。
「ちょっと、星羅ちゃん! 返事待ってから入ってよ」
「なんや? またパンイチで寝とった?」
「違う! 着替えてたの!」
「ああ、お出かけね? 昨日の夜もお出かけだったのに?」
「今日はいのりちゃん家!」
「そうなん? あ、部室の洗濯機使うけど、中に光ちゃんの入ってたから。乾燥まで終わってたから出しといたよ」
光は星羅を睨みつけて、星羅の手からウェアの詰まった洗濯ネットを回収する。
「ありがと」
礼を言いつつも憮然とした様子の光に星羅はおどけて返した。
「そんなに睨まなくても、匂いじゃなくて名前で確認したって」
星羅は鼻が利くので洗濯ものの匂いも部屋の匂いも嗅がれたくない。
―――
光はTシャツにジョガーパンツ、サイクルヘルメットにサングラス姿になると、寮の玄関の名前札と配食札を裏返し、自転車を取りに特別競技部の倉庫に向かった。
倉庫の隅では光が寄付したドラム式洗濯機が回っている。星羅のウェアだろう。
寮の洗濯機は消灯後使用禁止なので、練習等で消灯後帰ることの多い光はわざわざ高価な乾燥機機能付き洗濯機を部に寄付して、共用にして皆で使っている。
特別競技部の子は金持ちの子が多いので、自分が使いたいものを部に寄付して共用にして使う子は他にもおり、倉庫の別の隅には数年前に自転車競技の子が置いていったエアダスターが鎮座している。
そういった形で部に貢献している光なので、倉庫の中の自転車競技選手の使うサイクルラックに「私のトレーニング器具なので」と、高価なスポーツ自転車を2台引っ掛けていても誰も文句を言わない。
スターフォックスに通う時や夜出かける時はサイクルジャージにレースパンツ履いてスピードの出るロードバイクで出かけるが、今日は普段着でいのりの家なので街乗りに向いたクロスバイクを選び、ハンドルに引っ掛けるだけのカゴを取り付け、カバンを放り込んだ。
夕飯までご馳走になって帰る予定なので手土産も準備してある。実叶さんはスターフォックスでバイト中だが、夕飯の時までには戻るらしい。
自転車をこいでいのりの家に着いた。いのりの家はスターフォックスが斡旋した集合住宅で、最上階の5階が大家の家、下の階に店子が入っている。いのりの家は2階だ。
ワンピース姿のいのりが迎えに出てくれた。
「あ、光ちゃん。自転車はそこね。……今日はロードバイクじゃない自転車なんだ」
「うん。お邪魔しまーす」
中ではいのりの母ののぞみが迎えてくれた。
「いらっしゃい。光ちゃん。どうぞ」
「どうも、これ、お土産の紅茶とはちみつです」
「あらあら。これはご丁寧にどうも」
リビングにヘルメットとカバンを置きつつ、光は目ざとくリビングの隅の手すりと姿見に注目した。
「あ、コレ、バレエの練習用?」
「そう。ここにスマホ置いて音楽かけたりするの」
いのりは楽しそうに解説する。
さらに、いのりは自分の部屋に光を案内した。
「わ、いのりちゃんのお部屋、お姉さんと一緒の部屋なんだ」
「うん。前のお家は自分の部屋あったんだけど。新しいお家は小さいから。でも、一応仕切りカーテンはあるけど」
「大変じゃない?」
「そうだね。やっぱり練習からの帰り遅くなったりしたときに、お姉ちゃん起こさないようにするのは気を使うね」
そう言って、いのりは机の上にあるロフト部を指す。
「あれ? あそこで寝るの? お姉ちゃんの方にしか梯子ないよね? いのりちゃん寝る時どうするの?」
光が質問すると、いのりは靴下を脱ぎ出した。
「寝る時はこう」
素足で机の端に足をかけ、壁を伝って、ロフトの柵部に手を掛けて越えて布団に入る。ここまで無音。
「あはは。いのりちゃん忍者みたい」
光も靴下を脱ぎ、ロフトに登る。広いロフト部は二人が寝られるスペースがあったが天井は低く、実叶との寝床の間も仕切りのボードがあるだけだった。
「ここも仕切りだけ……天井低くて音も匂いもこもっちゃうよね」
光は鼻をひくひくさせてがっかりしたように言う。
「いのりちゃんや実叶さんは大丈夫なんだね……。私だと耐えられないな」
いのりはどちらかというと一人で寝るのが苦手なくらいだ。
「やっぱり光ちゃんは自分の部屋がないとイヤなんだ。今の寮は個室なの?」
「もちろん個室で鍵もかかるんだけど、消灯前は籠って誰も入れないのはダメって規則だから、星羅ちゃんとかノックするだけで入ってくるのよね……」
「あー。友達とかでも、毎日いつでも入って来られるのはさすがにイヤだよね」
「鴗鳥先生のところにお世話になってた時は、カギなんてなくても入ってくるのは理凰や汐恩だったし、何より星羅ちゃんとか鼻が利くから……」
過去を懐かしみつつ現状にため息を吐く光
いのりもちょっと気にしたように鼻をひくひくさせる。
「ふーん。私の部屋、匂わない? 大丈夫?」
「いのりちゃんもお姉ちゃんも全然大丈夫じゃない。必要ないってうらやましいな」
そうやっていのりが鼻をひくひくさせてると、リビングからのお茶の香りがしてきた。
「あ、なんかいい香り」
「私の持ってきたお茶が沸いたみたいだね。行ってみよう」
リビングでは、光の持ってきた紅茶が淹れられていた。
「この紅茶、すごくいい香りね」
のぞみの言葉に光は笑顔で答える。
「フレーバードティーで、私のお気に入りなんです。いのりちゃんと一緒に飲もうと思って」
「わ、すごくいい香り付きのお茶だね。ありがとう」
いのりの気に入った様子に光も満足だった。
それから2人はお茶を楽しんだ後、リビングの机の上に夏休みの宿題を広げた。ジュニア合宿等で忙しくなる前にできるだけ宿題を片付けてしまう作戦だ。
……と、いう事になっているが、実際はいのりと仲良くなりたい光の作った口実だった。
光はいつも休みの宿題をあまり提出しない。冬休みの宿題に至っては「大会に出てたんですが、何か?」とばかりに全ブッチする強者である。
今回の夏休みの宿題も少しだけしかやらないつもりだったが……
いざ、勉強時間が始まるとおしゃべりなど挟む間もないほど、いのりは集中してドリルに挑み始めた。
いのりはいのりで「光ちゃんに迷惑かけたくない」と必死だった。その迫力に引きずられて、自然と光も勉強に集中する。
2人は勉強もまるで違うタイプだった。
いのりは数学にせよ英語にせよ、とにかくがむしゃらに進めるタイプで、計算間違ってたり単語わかってないが故のミスが多い。たまにいる「頑張ってるけどなかなか成績伸びないかわいそうなタイプ」だ。
対して光は記憶力も地頭も良いので、中学レベルのドリル問題なら難なく解けてしまう。授業出てなかったのでテストでは成績落としていたところも、ここ3週間の夏休み前に復習で埋められたのであまり隙はない。逆に言えば、「すぐ安全圏まで追いつけるので普段から低空飛行しているタイプ」だ。
ともあれ、複数人でやると勉強も捗るもので、2人が予定していた以上に課題は進んだ。いのりの方の出来は別として。
区切りが付き、ちょうど本日の勉強はここまでといったところで実叶も帰ってきた。