「実叶さん。おかえりなさい。お邪魔してます」
「ただいま。光ちゃんいらっしゃい」
実叶の帰りを待ちわびていたように玄関に出てきた光に、実叶は両手を広げていのりに見せるような笑顔を見せる。
「お姉ちゃん。バイトどうだった?」
いのりが聞くと実叶は陽気に答えた。
「うん。今日は研修だけだったけど、すごく良かった。
司先生はもちろん、ライリー先生も胡荒先生もいい人で、いい職場だなって思ったよ。もう、バッチリ!」
「ふふ、実叶さんがスターフォックスでコーチやってるところ、早く見てみたいです」
光が言うと、実叶は少し恥ずかしそうな顔をした。
「コーチじゃなくて、ただのアシスタントよ。幼児体験レッスンで教えるだけね」
夕食の準備をしていたのぞみが実叶に手伝うよう言う。
「実叶、手伝ってくれる? クレープ焼くのは実叶じゃないと」
「はーい。ホイップクリームとポテトサラダは冷蔵庫に入れておけばいい?」
「ポテトサラダはもう盛っておいて」
いのりが目をキラキラさせた。
「わ、クレープパーティ、久しぶり! 私も勉強終わったし、手伝う!」
「そう? じゃ、ピクルス切って盛ってくれる? 4本くらい」
「はーい」
いのりがキッチンに向かったのを見て、光は当惑した。いのりが料理ができるとは意外で、ついつい聞いてしまった、
「あ、いのりちゃん。大丈夫?」
「? 何が? あ、お客さんは座っててね」
いのりは何で「大丈夫?」なんて聞かれたかわからなかったが、実叶がくすくす笑ってからかう。
「いのりちゃん、包丁で手を切っちゃうとか思われたんじゃない?」
「え? ひどいなぁ。きゅうり切るくらいは大丈夫だよ」
そう言うといのりはエプロンを着けて、ピクルスを輪切りにしつつ、光に聞いた。
「光ちゃんは桜佳中で調理実習とかやった?」
「え、ええと……」
面倒そうでサボったので、何をやってたか覚えていない。
いのりは自分の失敗談を語った。
「私は実習肉じゃがで、ピーラーで皮を剥いて切るところまでは何とかいったんだけど、煮る時に混ぜすぎて、じゃがいもぐちゃぐちゃに崩れちゃった……」
そう言ってテーブルに出したピクルスの輪切りも、少し歪で厚さも揃ってなかった。
「光ちゃんはやっぱり料理も上手なの?」
え?
光は自分がなぜ料理上手と思われてるのか理解できなかった。が、いのりにとっては光は特に、光以外の大抵の選手もなんでもできる子に見えている。
ルクスでもスターフォックスでもジュニア合宿でもいのりの周りは委員長タイプの優等生ばかりで、いのりは周りにお世話になりっばなしであった。同クラスの萌栄さえ、成績では国語と英語以外いのりを上回っているし、持ち前のセンスの良さで体育や技術家庭等副科目は抜群である。
いのりからして見れば光はスケートの才にも、夜鷹純のコーチを受けられる等環境にも恵まれた優等生の完璧超人に見えるのだろうが、光からして見れば逆だった。
親もなく、良くわからない躾の厳しい環境で育った。狼嵜から夜鷹に託されてからはスケートのみを頼りに生きてきた。鴗鳥家では暖かく迎えられていたが、スケートの為に離れてしまった。
夜鷹純との厳しい契約に応じる為、学校よりもスケートを優先してきたが、ついには夜鷹純は「僕がこのまま『コーチ』として君を導く限り、君は僕の歩んだ道は進めない」と言って去ってしまった。
対して、いのりはスケート以外に才はないが、温かい家族や友人たち、そして何より熱意あふれる司先生にスケートでもスケート以外でも支えられている。司先生の導くままに、学業も犠牲にせずにいる。
私から見れば、いのりちゃんの方が何でも持っているように見える。
光はそんな心の動揺をごまかすように答えた。
「え。私、料理とか全然だよ。でも、アスリートとして自己管理やっていく為には最低限できなくちゃだめだよね」
最低限……光はそう言いつつ、夜鷹純の料理事情を思い返していた。
バケツに低温調理器を突っ込んで鶏肉を温めるだけ。味付けも何も無い効率的な栄養摂取の為の行為……
さすがにアレよりはできる、と思う。が、実のところ鴗鳥家のエイヴァも平均的なアメリカ人らしく、料理で包丁を使う機会は少なく子供たちにも使わせなかった。なので、光も火を使う料理はゆで卵くらいしか作ったことはなく、包丁やピーラーも使ったことはない。やればできると思うが……
「自己管理のため……そうだよね。私も頑張らないと」
なぜか、いのりの中では光は「何でもできるけど謙遜してる子」になってるらしい。
「はいはい。今日はそんなこと気にせずにたくさん召し上がれ」
そう言って、実叶は器用にホットプレートでクレープを焼く。その様子に光も惹きつけられる。
「上手ですね。どこかでバイトしてたんですか?」
「ううん。高校の時の文化祭でクレープ屋やったから」
実叶が答えると、いのりの姉自慢が始まった。
「お姉ちゃんすごいよ。文化祭の時もくるくるって簡単にクレープ焼いちゃってたの」
「文化祭の時はクレープ用鉄板だったから、あっちの方が簡単だったかな」
光は文化祭の話題に食いついた。
「私、文化祭委員になっちゃって、占いやるコトになっちゃった」
「占い? 面白そう。
私も文化祭委員なんだけど、楽したいからボードゲームカフェやることにしたら……」
「……やることにしたら、どうなったの?」
「クラスのみんなが盛り上がっちゃって、脱出ゲームコーナーができたり、私や萌栄ちゃんフィギュアの衣装着て来ることになったりして……光ちゃんは衣装とかどうするの?」
「私は手抜き! 部の先輩が残してくれた衣装や占いカードそのまま使うの」
「あはは。私のボードゲームカフェのアイデアも、実はお姉ちゃんの高校の時のネタをそのまま使ってるの」
「ふふ。2人とも文化祭委員で手抜き自慢してるんだ。でも、面白そうだからいいよね」
実叶がクレープを焼きながらそうツッコミを入れると、2人とも恥ずかしそうに目を合わせる。
「桜佳中の文化祭って、西三中の前の週だよね。見にいくね!」
「え、ええと。よろしくね」
光は自分の文化祭以外で時間使いたくないので「私も見に行く」とは返せない。それに……
「私はJGPの1、3戦終わってるからいいけど、いのりちゃんは5、7戦でしょ? いいの?」
夏休み含め、シーズンの早めから試合を詰めてシーズン中の負担を抑える方針の光に対し、成長痛が治らず、身長の伸びもリスク要因だったいのりは成長の鈍化を期待して後半に試合を固めた。
結果、成長痛も身長も治まりつつあり、ルッツのフォーム変更の時間も稼げたので、狙いは当たったのだが。
「? あ、まぁ、私の文化祭の翌々週が5戦で、土日どちらかは今日みたいに休養日とるし、試合前の……」
そう言えば、光は試合前ギリギリまでかなり練習を詰めるスタイルだ。
光の質問の意図を悟ったいのりは試合前調整について答えた。
「前々週は、文化祭の翌日の代休と秋分の日で詰めて、最後の土日で詰めたら以降抑え目調整で移動に備えるかな。
光ちゃんは一戦目オーストラリアで時差も少なめだし、夏休み中だしギリギリまで詰めるやり方でいいんじゃない?」
そこで実叶はツッコミを入れてきた。
「ギリギリまで詰めるのはいいけど、夏休みの宿題は終わらせてないとね。去年のタイ戦後のいのりみたいに帰りの飛行機の中で司先生とドリル解くような羽目になっちゃうよ」
いのりはプンスカと怒った。
「もう! 光ちゃんにバラさないでよ!」
光はひきつった笑みを返した。
とても他人事ではない。
司先生にそんなところを見られたくない。あの人にだけは絶対に。
そんな事になるくらいなら、宿題ドリルを遠征に持って行ったりしないし、提出諦める方を選ぶ。
「わ、私はそうなったら諦めて、提出しないかな」
「え?」
その言葉はいのりには意外だった。
完璧女王は授業に出なくても金メダルのため練習漬けでも長期休暇の宿題なんてささっと仕上げて提出するものだと勝手に思ってた。事実、今日も一緒にドリルを進めてた。
それは女王を万能と信じる臣民の幻想だった。
いのりの勝手な幻想を破りつつ光は少し視線を背けた。
「な、夏休みはさすがに少しはやるよ。冬はさすがに全部やらないけど」
「全部……やらない。そんなの、いいんだ」
ショックを受けるいのりにあわてて光は弁明する。
「わ、私だって一生懸命やらないと金メダル取り続けられないから。ほら、中学校とか、成績全部赤点でも卒業できるし。スケートが大事ならそれくらいの覚悟がないと……」
「それくらいの覚悟がないと……」
学業に対する考えが揺らぎ始めたいのりを実叶が軽く掣肘した。
「合宿も寮生活も1人でできるような子のマネをしていいのかな? のんちゃん。将来大変な事になるよ」
いのりはハッとして我を取り戻した。
スケート以外のステータスが底辺の自分が学業まで怠れば将来どうなるかはわかっていた。
光も実叶の方を見て「しまった」という顔をした。
もう実叶は教育実習生ではなくなったとは言え、一昨日まで桜佳中の教壇に立っていた。そんな人の前でさっきのような事を言ってしまい、さすがに呆れられただろうが、それくらい仕方ないかとも思った。いのりに完璧女王と誤解されたままよりはいい。
それに、光には成績や学業のことで文句なんて言わせないだけの実績と自信があった。良くは思われないだろうが、自分の強さはスケート以外の事を犠牲にできる信念と環境の上に成り立っているとも思っている。
一方、実叶は午前中に聞いたライリーからの頼み事を思い出していた。
『実は、光ちゃんに効きそうな良い諫言があるんですが、私は立場等上、言えないんですよ。
もし機会があれば使ってみてもらえます? 光ちゃんが学業等への姿勢を見直すキッカケになるかもとも思いますので。
あ、私が教えた事はくれぐれもナイショで』
この言葉がどう効くのか全く想像できないが、使うとしたらこのタイミングだろう。
実叶は口を開いた。
「光ちゃんってさ……」