―――ジュニア合宿2日目、深夜
慎一郎と司は深夜のリンクに立っていた。司のシングル用のシューズは
「司先生。本日はどうもありがとうございました。おかげで理凰の3Aも大分戻ってきました」
「いえいえ、こちらもお手伝いできて何よりです。
それに、今からはこちらがお願いする番ですから。
鴗鳥式ルッツ。ご教授お願いします」
慎一郎は司に念押しした。
「その、私が言うのもなんですが。
このルッツ大変難物で、おすすめはできないものです。
いのりさんは女子選手ですが手足の長さがあるということでかろうじて身体的要件を満たしているというのはわかりますが……」
「4Lzです」
「!?」
司の返しに慎一郎は目を丸くした。
「いのりさんに『4Lzが跳びたい』と言われた時には正直どうしようかと思いました。
しかし、このルッツなら可能性がわずかにあります。
賭けるのに十分な可能性です」
慎一郎は目を伏せて絞り出すように言った。
「……このルッツがどう呼ばれているか知ってますか?
私を、『鴗鳥慎一郎を銀メダリストにしたルッツ』と言われています。
『同じ力で他のジャンプを磨けば、鴗鳥は金メダルを取れていた』とも。
そして、何より私自身、このルッツを4回転まで磨き上げる事、叶わなかった……」
司は目を細めて言った。
「口さがない人は『鴗鳥を銀メダリストにしたルッツ』の意味をそう取るかもしれませんが、俺はそうは取りません。
慎一郎先生は夜鷹選手が引退した後も、夜鷹選手に挑もうとしていた。現役最後まで。あのジャンプはそれがよくわかるジャンプです。
先生のジャンプを高く評価し、憧れ研究する者は俺以外にもいますよ。
夜鷹選手は追いつけない偶像ではなく、追い抜くべき目標だと示してくれたことは、若き選手等にも多くの希望を与えてくれました。
このジャンプはあなたという銀メダリストを生み出したのと同様、これからもメダリストを生み出していくでしょう。そして、いつかは金メダリストも。
あなたのジャンプ、受け継がせて下さい。」
「そこまで言っていただければ嬉しいですが……
念のために聞いておきますが、膝や腰に問題があるのでこのルッツを選んだわけではありませんね?」
慎一郎の確認に司は答えた。
「はい。今回やる事にしたキッカケは将来の4Lzへの望みを繋ぐことです。
いのりさんの成長痛ももうじき治まる見込みですし、膝やその他の不安もありません。メディカルトレーナーの方にも現段階でもフォームのチェックもしてもらってます」
慎一郎はにこやかな顔でハーネスを手にした。
「では、こちらもこのルッツのキモとなる、しかし、わかりにくいポイントをいくつかお伝えします。
私がもう磨き上げること叶わないこのルッツ、しかとお伝えします。よろしくお願いします」
慎一郎は司を跳ばせ、ハーネスで吊りつつ指導する。
それは、指導者と教え子というよりは、ここにいない夜鷹の高みへの挑戦のための共闘であった。
「まず、大きな見逃しやすいポイントは脚の締めと開きです。回転力を得るためには跳び出しでいきなり締めるのではなく……」
「上半身の締めも気をつけて下さい。これも実は左右対称ではありません……」
「これは女子選手にも当てはまるかはわかりませんが、ひとつ大きなつまづきポイントになり得ますので説明しますと……」
一つずつ丁寧に説明されていくポイントを、司は渇いた大地が水を吸うように吸収する。
ハーネスを外された後もしばらく研究を重ね、鴗鳥式ルッツの極意への道筋を掴んだ司は最後に誓うように言った。
「……ありがとうございます。今日教えられたような事に自力でたどり着こうとしたら何年もかかっていたでしょう。
この技、しっかり受け継がせていただきます」
―――選手のホテル、理凰と朱蒴の部屋
理凰は、昨日からすこしはマシではあるものの、やはりどよんと沈んでて、元気はまるでない。
陰キャな朱蒴もさすがに慰めにかかる。
「理凰くん、元気出しなよ。今日は3A跳べたんでしょ?」
理凰はベッドに腰掛けたまま憮然として答える。
「ちゃんとクリーンに降りられるのは2〜3割くらいで、まだ全然です。
こんなんじゃ……」
理凰は吐き出すように、消え入りそうな声を絞り出した。
「こんなんじゃ、全然狼嵜光に届かない……」
朱蒴は理凰を優しく諭すように言った。
「理凰くん。その、理凰君の理想が高いのはわかるよ。
でも、狼嵜光に届くような選手なんて世界中探してもいる? 4Lz含め3本の4回転に3A+3Loなんて、ライノバック選手でも厳しいよね?」
朱蒴が前回オリンピックの男子金メダリストの名を挙げて諭すと、理凰の表情がわずかに緩んだ。
「以前、司先生に似たような事言われました。『夜鷹純を目指してるの?』って」
「はは! 夜鷹純か! いいね。理想が高いのは分かるよ。でもさ、僕らまだジュニアなんだし、そんなに焦る必要ないと思うんだよね」
朱蒴は笑い飛ばそうとするが、ふと、真面目な表情に戻った。
「焦る理由は、光ちゃん?」
朱蒴がそう聞くと、理凰は自嘲気味に答えた。
「あはは。昨日自分で喋ってしまいましたよね。
そうです。そのとおりです。
例え振り向かせることはできなくても、忘れられないくらい強くはいたい……」
朱蒴は呆れたような、また、少し自嘲まじりの顔で理凰をからかった。
「2人でアイスダンスできる理凰くんたちのほうが、ただ逆リフトされてるだけの僕なんかよりよっぽど目があると思うけどね」
理凰は少し照れて、ベッドに寝転がり伸びをうった。
「そんなことないです。朱蒴くんは3Aも跳べて、4Sも跳べるようになったことでいのりを超えた。俺はまだ光の足元にも……」
その言葉を聞き、朱蒴はおもむろに立ち上がると隣のベッドに横になる理凰を睨みつけて『ばんっ』と手をつき、いわゆる『床ドン』の体勢になった。
驚く理凰に朱蒴は凄みを利かせる。
「おい。ふざけるな」
「何!? どうしたの朱蒴くん?」
朱蒴は昂然と胸を張って言った。
「いのりちゃんは3Aなんか跳べなくったって、可愛くて強くて優しくてミステリアスで、おまけに汗だっていい匂いなんだ。僕より弱いなんて思ってないし、光ちゃんにもそのうちきっと勝つ」
たじろぐ理凰をベッドに残して、朱蒴は自分のベッドに戻る。
「スケーターの価値も男の価値も、跳べるジャンプでは決まらないよ。ハートで負けないことだね」
理凰は敵わないといった表情になった。
「朱蒴くんがいのり狙いで良かった。
同じスターフォックスだから心配だったんですよ。光が朱蒴くんの方好きになったらどうしよう、なんて」
朱蒴は苦笑した。
「おいおい、カンベンしてよ。同じ名古屋で司先生の弟子だったという関係で、『いのり』なんて名前呼びの仲なんだからこっちがいのりちゃんとキミとの関係警戒するくらいだよ。
スターフォックス、僕の下の男子もノービスBとかだから安心して」
理凰は悩み顔で言った。
「はあ、朱蒴くん。ちょっとお願いがあるんだけど、いい?」
「いいよ? なんだい?」
「打ち明けたい秘密の話があって、誰かに打ち明けて楽になりたいんだけど、光の家族や他の人を巻き込む話なんで一方的に打ち明けるにもいかない話なんだ。
絶対に他の人に話さないって約束して欲しいんだけど……」
理凰の申し出に朱蒴はうなずく。
「いいよ。それならこっちも秘密の話をする。家族の話なんだけどね。それで絶対安心でしょ」
「はい。でも、こちらから話します」
理凰は、夜鷹純の事を朱蒴に打ち明けた。
夜鷹純が孤児である光を鴗鳥家に連れてきたこと。真夜中にスケートリンクを貸し切り、光を秘密トレーニングしてた事。自分も夜鷹純のレッスンを受けたいと言って拒否された事。それで夜鷹純を嫌いになったが、知らず知らず夜鷹純のスケートを真似してしまっていた事などなど。
司やいのりに知られていることや今は夜鷹は行方不明なことまで含め、洗いざらい話終わった理凰の表情はかなり楽になっていた。
「ふうん。光ちゃんの強さにはそんな秘密があったんだ」
朱蒴は驚いた顔で理凰の話を聞いていたが、やがて理凰に言った。
「でも、僕の母親が夜鷹純好きで、夜鷹純の事よく聞いてるから思うけど、理凰くんは夜鷹純のレッスン、受けなくてむしろ助かったんじゃないかな?」
「?? どういうこと?」
朱蒴が説明する。
「夜鷹純って、かなり、コーチには致命的なまでに口下手らしいんだよね。でも、逆に光ちゃんはすごく再現力が高くて、見たら口で説明されなくてもなんでも真似できちゃうんだ。
だから光ちゃんには夜鷹純のコーチが合っててあんなに強くなれたけど、他の子には合ってなかったんじゃない? だって、それで強くなれると思うなら、慎一郎先生はどんなことしてでも夜鷹純にやらせようとするだろうし、夜鷹純も断らないと思う。
それをしないってことは、慎一郎先生も夜鷹純のコーチは理凰くんには合わないって思ったんでしょ」
理凰は目を伏せ、思い返す。思い当たるところがありまくりである。
「確かに、そう、かも、しれません」
「あはは、自己解決しちゃったね」
理凰はまた一つ、光に対するコンプレックスを克服しつつあった。
「じゃ、僕の秘密を打ち明けるとするかな」
「なんだかすいません……」
理凰が頭を下げた。
『代わりになんか朱蒴くんの秘密を聞く』なんて了解してしまったが、生々しい話とかだったらどうしよう。さっき、いのりの汗がどうとか言ってたけど、まさか二人は結構進んで……
それはないか。家族の話だって言ってたし。朱蒴くんはバスの隅っこで開封されたうまい棒が何味かわかるくらい鼻がいいから、近くで汗嗅いだだけだろうし……
聞き手に回った理凰の方が緊張する状況の中、朱蒴の暴露話が始まった。それは、予想外のものだった。
「理凰くん。同人用語で『ナマモノ』とか『NMMN』とかわかる?」
「わかりません」
「タレント等の実在の人物を題材にしたBLもの、つまり男性同士の同性愛もの創作物だね、それを隠語で『ナマモノ』とか『NMMN』とか言うんだけど……」
なんだか話が予想の斜め上になってきた。
「僕の母さん、有名な夜鷹選手の追っかけだったけど、それだけでなく『ありのみ』ってペンネームで、そによだ本、つまり、キミの父親の鴗鳥慎一郎選手と夜鷹純選手を、……題材……にした同人漫画本を大量に描いていたんだ。それも、2人のジュニア時代、結婚前の学生時代から」
「Oh……」
あまりのことに理凰は日本語が出なかった。
「コミケでも売れず、同じ趣味の人同士の交換等で入手するしかないものだけど、倉庫の中の鍵付きボックスに大量の薄い本がある。家族にはバレてないと思ってるけど、僕も父さんも知ってる。鍵、壊れてるから。
二人の引退後も描き続けてて、やめたのは僕がスターフォックスに入った6年前。
これなら秘密の重さとしては釣り合ってるでしょ? 下手したら僕の母さん、キミの父さんや夜鷹純に訴えられかねないわけだし」
朱蒴はおどけてそう言ってくれたが、理凰は質の違う秘密の重さに身震いした。
「僕が言うのもなんだけど、そんなもの描かれるくらいの男にならなきゃと思う。注目に負けない人であることは世界一になるための条件だと思うから。
さあ、今日は寝て、明日頑張ってまた強くなろう」
朱蒴は理凰にそう言うと就寝した。
「『フィギュアスケート』『NMMN』……」
理凰は寝る前に気になってエゴサしてしまった。
幸い、理凰や朱蒴の本はまだ世に存在しないようだったが、代わりになぜか『よだつか』なる概念がこの世にある事を知ってしまい、世間の広さの恐怖の中眠りについた。
『りおひよ』なる概念の誕生はジュニア合宿の翌月だった。
「そんな、朱蒴が理凰君と同室なんて……ああっ!? もうやめたはずだったのに……実の息子を題材にする背徳感が筆を加速させる……朱蒴、許して……」
「6年前に活動を終えたハズの伝説のそによだ専NMMN作家のありのみ氏が新作!? しかもそにJr.の理凰をネタにした『りおひよ』本!? この人、ジュニア合宿の部屋割りとかどうやって調べたんだろ?」