すずの滑走が始まった。
彼女のフリーの曲は国民的歌手の歌った芸能界もののアニメのアニソンだったが、ここから常人とちがう。テンポがまずフィギュアで使われない速さだし、そもそも歌詞付きの曲を編曲もせずにそのまま使ってくるのが恐ろしい。
イントロのないストレートなラップの始まりにスパっと振付を合わせ、いきなり観衆の目を奪う。
曲の中の転調やテンポチェンジを演技の緩急にも上手く合わせ、各々のエレメントを計算して繋げていくところが、本人の類稀なセンスで芸術と言えるまでのものに昇華されている。
本人のアイドル性が曲の題にも合っている。その傍若無人に氷の上を駆け回る姿の大胆さと、時折見せるミステリアスな雰囲気の二面性が、よく対比されている。「曲の世界に引き込まれる」とはまさにこの事という感がある。
ライリーが司に語りかけた。
「怖い子ですね」
「……? 怖い、というのは?」
ライリーは冷静にライバルとなる子の分析をしていた。
「高難度のジャンプすら自分のプログラムの世界の中の一要素、引き立て役にしてしまっている。
彼女、最初にさらっと3A+3T跳びましたよね? でも、見ている者はプログラム全体に惹きつけられている。3A+3Tのコンビネーションすら、このサイケデリックなまでのパフォーマンスの中ではインパクトではない。鹿本すず世界構築のためのイクイップメントの一つにまで落とし込んでいる」
司もハッとさせられた。今しがた跳んだ単独3Aすら、振り付けと同じ芸術性の一要素として演技の中に溶け込んでいる。
「そうですね。これでジュニアの子というのは確かに恐ろしいですね……」
「しかも、ジュニアのフレッシュさを活かしてもいる。これはバカになりませんよ。ウチの子達が心配です。」
最後の抱擁ポーズまでミスのない圧巻の演技が決まると、皆惚けたような顔をしていた。
これから滑るスターフォックス3人組を除いて。
すずはリンクサイドの、これから滑る光、亜子、いのりのスターフォックス3人組に手を向け、「次はあなたたちの番ね」というような挑発的な表情をした。
「すずちゃん。やるね」
いのりが厳しい表情で言うと光が揶揄うように言った。
「あれ? いのりちゃん。怖いの?」
いのりは視線はリンクに向けたまま、表情を崩さず考え込むように答えた。
「うん。そうだね」
すずの方を見て思案にふけったままのいのりに、光は少しむくれたような表情で聞き直した。
「私より怖い?」
「……うーん」
いのりはやはり、リンクから降りたすずに視線を向けたままだった。
むかつく……
そのいのりの態度に気分を害した光は、演技で見返してやろうと思い、颯爽とリンクに向かう。
映画「群狼」のテーマの暗澹たるも勇ましい導入と共に、獣のような疾走感でリンクを走る姿は見るものの背筋を凍らせるものだった。
そうして、見る者の注目を集め、期待を高めておいて大技を披露する。
……シュタッ、シュタッ
おおおっ!?
見事な3A+3Loのコンビネーションに驚嘆の声が上がる。
そのまま、鋭利な牙を持つ美しい獣が氷上を舞う。まるでここは私の狩場だとでも言うように。
全身に凍てつく雰囲気をまとい、触れる者を屠らんとばかりに駆け回る流麗な姿に、皆は金縛りにあったように目が釘付けになる。
高度な技が、女王の圧倒的なカリスマ性を伴って繰り広げられる。ただの曲かけの場が国際大会の様な異様な雰囲気になった。光がトレーニングウェアでなければ、何かの大会かと勘違いしてしまう者もいただろう。
そうして演技が終わると、亜子が文句たらたらに光に近づいてきた。
「光ちゃん」
「うん? 何?」
「曲かけの場であそこまで本気でやってどうするの? すずちゃんの思うツボじゃん」
光はちょっとしまったという顔になった。
「……ちょっとムカついたというのもあるかな」
亜子は呆れ顔だ。
「まあ、こういう雰囲気になったらしょうがないね。スターフォックスの面目もあるし、手抜きと思われない程度にやってくるよ」
そう言って亜子はリンクに向かう。
光はいのりのところに行くと、声をかけた。
「どう? 私の演技」
いのりは目をキラキラさせて興奮して答えた。
「うん、すごかった! 私もがんばるね!」
「……」
どうも思ってた反応と違ったので、光は聞き直した。
「すずちゃんより怖かった?」
「怖い?」
キョトンとした表情のいのりに、光は自分の勘違いを悟った。どうやら、いのりの言っていた「鹿本すずが怖い」というのは、演技の素晴らしさとは無関係なようだ。
いのりも少し考えて、つっかえながら答えた。
「えっと、光ちゃんの滑りはすごいけど、怖いというのとは違って……」
「あはは、もういいよ。亜子ちゃんの方が始まるよ」
自分の勘違いを悟った光は、笑って流してリンクの方に目を移した。
亜子の演技もまた目を見張るものだった。レオニードの渾身の振付は亜子の器用さにピッタリとハマり、亜子が昨年まで伸び悩んでいたパフォーマンス力を劇的に向上させていた。
さらには最初のジャンプでは3A+3Tを飛んでみせた。
これには光も驚いた。「手抜きと思われないように」なんて言いつつ、対抗心を掻き立てられてしまったのは亜子も同じのようだ。
トドメには最後のジャンプも3Aを跳んでみせた。
これは確かアクセル前提の振付になっていたはずだったのだが、曲かけなんだから2Aでもよかったはずなのだが……
これには光も苦笑いし、戻ってきた亜子に思わせぶりに「お疲れ様〜♪」
と揶揄うような声をかけた。
亜子は何故かサバサバとした顔で、
「いやあ、すずちゃんの思うツボだったわ」
と、返した。
女子のトリを務めるのはいのりだ。
「逆に見せた方がいいかなぁ……ぶつぶつ」
そんな事を呟きつつ、リンク中央に向かった。
いのりの様子をリンクの逆サイドからニヤニヤ笑って見てたのは鹿本すずだ。
「ノービスの子だって4回転頑張ってるのに、ジュニアが誰も跳ばないなんてヌルいことはないよなぁ。最年長のいのりちゃん」
その鹿本すずの予想に応えるように、いのりが最初跳んだジャンプは4S+2Tだった。会場から拍手が湧き起こる。
「スケーティングもさらに磨きがかかっとるなあ……」
いのりも昨年のJGPよりさらに表現力が向上し、特にコレオシーケンスの中での技の繋がりやリンクの空間の使い方が練り上げられていた。
スターフォックスで広いリンクをふんだんに使えるようになった成果である。
中盤で跳んだ3Lz+2Tのコンビネーションの2Tがやや回転不足だったが、その他は特に目だったミスなく練習は終了した。
リンクサイドに戻ってきたいのりに、光は少し残念そうな表情で聞いてきた。
「最後の方のジャンプ、単独3S。本番では4Sにするつもりでしょ? 跳んでもよかったのに」
いのりは少し意外そうな顔で答えた。
「うん、そう。それはさすがにわざとらしかったよね。
まあ、練習だからあまり無理はしなかったのもあるし、すずちゃんの意趣返しもあるからね」
「?」
光は「すずへの意趣返し」のところの意味はわからなかった。
いのりは説明した。
「多分、すずちゃん4回転跳ぶよ。4Tか4S。今日の演技では隠してた」
―――その夜
ホテルの大部屋では、コーチ同士の懇親会が行われていた。昨年までと違うのは、ライリーや鞠緒といった女性コーチ陣も、例年の女性同士のお茶会ではなく、男性陣と同じ会に参加している事だ。
理由は情報交換。いつもながらのメンバーとは言え、今年はいつも通りでない事が多すぎる。
その話題の中心は、移籍によりいのりや光を擁する事になったライリー・フォックスだ。
「いや、すごかったですね。スターフォックスのお三方、技も振付もさらにそれぞれ磨きがかかりましたね」
布袋野兎太コーチが激賞するが、ライリーは謙遜して返す。
「いえいえ。私なんてただ周りの人に頼ってばかりの若輩者ですよ。金メダルを取ったとは言え、競技期間も短く経験も少ないので、こうして情報収集してるほどで」
それに対して兎太コーチは笑いながら返す。
「何をおっしゃいますやら。うちのカンナやキノが4回転跳ぶのにもご協力頂いて。しかも、ハーネス練習の解説動画公開や、他クラブからの高難度ジャンプ講習受け入れなどノウハウの普及にも余念がない。
今年は日本スケート界が大きく進歩する年になりますね。もう、ライリーさんのスターフォックスには足を向けて寝られませんよ」
目が笑っていない。ライリーがこういう日本独自の言い回しを使われる事を好む事をわかってながら言っている。
あからさまなおだてにノリつつ、ライリーは蛇崩の方に話を向けた。
「あらあら。私もスケート界全体の発展は嬉しいですが、情報共有して自分のところの選手をより強くしたいとの下心あってのものですよ。今日も蛇崩先生にいろいろ教えていただきましたし」
蛇崩は苦笑いしながら返す。
「いえいえ。あんな小技ならナンボでも。こちらも色々勉強さしてもろて、ホンマありがたい限りですわ」
そんな蛇崩の表情のほころびを伺いつつ、ライリーは鋭い質問を投げる。
「そう言えば、蛇崩先生も司先生とやりとりして、ハーネス使った指導法も初めてらっしゃるとの事ですよね。寧々子ちゃんが4S跳べるようになったのは聞きましたが……すずちゃんも4回転跳ぶんでしょう?」
蛇崩の表情が固まる。周りのコーチ陣もどよめく。
「どうしてわかりましたかね?」
ひきつり笑いと共に聞き返す蛇崩に、ライリーは事もなげに返す。
「ふふ。見抜いたのはいのりちゃんと亜子ちゃんです。
選手目線だと意外と気づいちゃうものなんですね。
4Sか4Tとは言ってましたが……」
蛇崩は仕方ないというように打ち明けた。
「まだ、演技に組み込めるほどではないんですわ。あの3Aのように自然に組み込めるようになるのはちょいと骨で。まだ、成功してもジャンプが悪目立ちしますんや。
全ジュニまでにはそこそこ仕上げられると思うんですが……」
ライリーは少し心配そうに聞いてきた。
「そうでしたか……ジャンプは習得してからが大変というところもありますものね……」
そこで、鞠緒がちょっと我慢できないというように割り込んできた。
「あ、あの……ちょっと高難度ジャンプについて、司先生とライリー先生にぶしつけな質問が……」
ライリーも司も、身構える事なく促す。
「構いませんよ、どうぞ」
「俺で答えられる事でしたら」
鞠緒がその質問を口にした時、部屋の中の空気が凍りついた。コーチ陣の誰もが知りたいと思いつつ、誰も聞けない内容だった。
「狼嵜光選手の4回転ジャンプについてです」
すずの滑走の時に、何故か『ゲッター!』と叫んで、熱い鼓動を取り戻した者がいるとかいないとか