スターフォックスの夏季幼児体験レッスンは順調だった。開くたびに本コースや特別コースへの入会が最低一人決まる、しかも男子が多い。クラブとしては歓喜雀躍モノだった。
というのも、どうやら先日入会した最住鷹彦少年、地元の幼児サッカークラブでは有名な生徒だったらしく、彼がサッカークラブをやめてフィギュアを始めたことで、真似して流れる生徒が続出したのだ。
隣町のサッカークラブでの熱中症事案も保護者にフィギュア転向を促すきっかけとなった。保護者も暑いフィールドより涼しいリンクサイドで子供を見守りたい。
「ふんふふんふふーん♪」
鼻歌が止まらないライリーに対し、司は渋い顔でリンクの上の光を凝視している。
「? 司先生、どうされました?」
「いや、狼嵜光さん。気をつけた方がいいかと」
「? 何に?」
「どうも、バックフリップに興味持っちゃったみたいなんです」
ライリーはリンクに目を向ける。確かに、そう言われると先ほどから通常のジャンプ準備と違う不自然な滑走体勢を取ることが何度かあった。バックフリップの体勢を考えてると言われれば、それがしっくりくる。
「大会前に困ったものですね」
「そうなんです……」
と、そこへスマホ片手にいのりがやってきた。
「司先生! 何で光ちゃんにだけバックフリップ見せたんですか!? 私、先生がバックフリップできるなんて知りませんでしたよ! ズルいです! 私にも見せてください!」
スマホの中には鷹彦母の撮影した司のバックフリップ動画が転送されていた。
「ダメだよ。危ないから……」
司が危ないと言うより、狼嵜光が危ない。次に見せたらそれを見取って、絶対に跳ぶに違いない。
縦に跳ぶバックフリップは、危険度もさることながら足腰への負担も4回転の比ではない。大会前に絶対にやらせられないと司は考えた。
対してライリーは別意見だった。
「いいんじゃないですか? 跳んであげても。ついで、光ちゃんにはちゃんと教えてあげれば。
きちんと習得できていればそれ程危険ではないものですし、光ちゃんはちゃんと封印の約束を守れる子ですよ」
「え? 光ちゃんに教えてあげるんですか?」
いのりの反応に、司は渋い顔で聞き返した。
「まさか、いのりさんも跳びたいとか?」
「……いえいえ! 見たいだけで跳びたいとはさすがに……」
いのりの答えに司はホッとした。
「勝手にやると危ないから、やりたい時は言ってね。ちゃんと習得すれば危ない技ではないから」
光にも、ちゃんと習得させれば危ない技ではない。いや、勝手にやりそうな状態をそのままにしておく方が危ない。
そう思い直した司は光に呼びかけた。
「光ちゃん。ちょっとこっち来て」
―――トレーニングルーム
司は光をトレーニングルームに連れて行った。司が跳んでみせると期待してたいのりは少しがっかりしつつも、光への指導に興味深々で聞きいる。
「やっぱり跳ぼうとしてたの、わかっちゃいました?」
光はイタズラっぽく舌を出す。
「そりゃ、いつも見てるからね……。
バックフリップで危険なのは『試しに跳んでみる』事だから。中途半端に跳ぶと頭から落ちて死亡事故すらありうる。
君に教えるのは、君は見ただけでそれなりに、中途半端には跳べるジャンプ力とセンスがあるからね。あと、4回転をきちんと封印しているから、勝手に跳ばないと信じている」
そこでいのりに向いて補足した。
「縦に跳ぶから脚にかかる負担も4回転より大きい。ジャンプ制限もしているいのりさんには教えられない。ごめんね」
「い、いいですよ! 私は見たかっただけですから。さすがに、ジャンプ練習本数削ってまでは跳びたくありませんし……」
いのりは少し残念そうだった。
「光さんに教えるのも、力任せの僕の跳び方ではなく、身体の軽さと小ささを活かした跳び方だからね。その方が脚の負担も少ない」
「……そこまで考えていただきありがとうございます」
光は何故か赤くなった。
そして、光のバックフリップ指導が始まった。
「補助してあげるから、こう、真上に跳んで膝を高い位置で抱えるイメージ。そり返らずに顎を引いて、地面が見えたら膝から手を離す。そう……」
「は、はい……」
何気に、司に補助されてジャンプするのは初めてだった。と言うより、夜鷹の「見た? やって」だけの、ほとんど見取り稽古のみでジャンプを習得してきたので、新鮮な感じすらした。
光はすぐ、陸上で補助なしでバク宙ができるようになってしまった。
「やっぱりすぐだったね。この分なら氷上でもすぐバックフリップできるよ」
―――
……シュタタッ
司の言うとおりだった。
光はすぐバックフリップできるようになってしまった。
「すごーい! 光ちゃん!」
「おめでとう。光さん。習得だね」
はしゃぐいのりに対し、光は何だか信じられないような表情だった。
「……なんだか。呆気なかったです」
光の素っ気ない感想に司は微笑して答える。
「そりゃどうも。
危険だし、脚の負担もあるけど、感覚さえ掴めば難しい技ではないからね。とはいえ、バク転を覚えるステップやトランポリン使わなくてもすぐ習得できるのは光さんの才能あってこそだから。他の子はこんな早く習得できないよ」
光は新技を覚えた高揚が身を震わせるのを感じたが、努めて冷静に振る舞った。
「司先生。ありがとうございます。ちゃんと封印して、試合では使わないようにします」
「はい、よろしくね。試合で使ったりしたら、俺がライリー先生に折檻されちゃうから」
おどけてそう言う司に光も冗談を返す。
「あはは。ライリー先生に折檻される司先生見たいから跳んじゃいそう」
「こら!」
―――
その日の夜の帰り道、光は困っていた。
見取りする以外の方法で一から技を覚えた高揚が止まらない。司から補助を受けた感覚がまだ身体中に残っている。そのウズウズする感覚は、夜鷹純から勝手に見取って4Lzを覚えた時の比ではなかった。
普段はこんな感覚は、こうして帰り道の数キロをトレーニング兼ねてロードバイク漕いで帰れば収まるものだったが、今日はそれでは収まりそうもなかった。
「ローラースケートの方が良かったかなぁ……いやいや、あれは司先生に見つかって怖かったからもうやめた。今日は……」
光は荷物の中の準備を確認すると、自転車のライトを消して坂道の方に進路を変えた。
―――深夜、結束家
クラブから帰って来たいのりも就寝し、自分も寝ようとしていた実叶はスマホの着信で起こされた。
「はい? ライリー先生? はい。戻れます。
……ワゴン車の運転? はい。できますけど。
……交番ですか!?」
―――スターフォックススタジオ前
ライリーからの連絡を受けた実叶がスターフォックスに行くと、ライリーがクラブのワゴン車の前で待っていた。
「ごめんなさいね。実叶さん。夜中に呼び出したりして」
「はい。光ちゃん。どうしたんですか?」
ライリーは申し訳なさそうに説明する。
「ほら、あの子帰り自転車でしょ。どうも帰りにライトの電池切れて、無灯火運転で警察に捕まっちゃったみたいなの。私一人だと運転心細いんだけど、光ちゃん、司先生は呼んでくれるなって」
「あらあら……。私はカナダでも運転してたんで夜道も大丈夫ですよ。……光ちゃん、あまりみんなに知られたくないんでしょうね。こっそり行きましょう。どこの交番ですか?」
―――多摩湖に程近い交番
交番では、サイクルジャージ姿の光が女性警官に付き添われ、保護されていた。
光はライリー等の姿を見ると平謝りした。
「ごめんなさい……」
「大丈夫よ。でも、何でこんな所の交番で?」
ライリーの質問に光が申し訳なさそうに答えた。
「帰りにちょっと運動したくて遠回りして、多摩湖通り走ろうとしたら、途中でライトの電池切れちゃったんです」
<<<<嘘嘘嘘嘘>>>>
ライリーには光の嘘はわかったが、ここでは流す事にした。
「あらあら。それはしょうがないわね」
女性警官が補足する。
「道沿いの公衆トイレのとこに自転車施錠してありますので回収忘れないで下さいね。そこで保護したので」
ここで、女性警官は一言注意を添えた。
「無灯火運転はもちろんですが、深夜に人気のない公衆トイレの使用も危ないですよ」
「はい。すいません……」
特に非行や虞犯少年と思われたわけではないのでそれ以上おとがめなし。学校への連絡等も不要で、そのまま自転車を回収して光を寮まで車で送る事となった。
最後に女性警官は言った。
「お気をつけて。世界戦控えた大事な選手ですし」
「あら、ご存知でしたんですね。どうもすみませんでした」
ライリーは礼を言って光を車に乗せた。
光は運転席に実叶がいるのを見て少し驚いた。
「実叶さん……。運転、実叶さんだったんですね。
すいません。いのりちゃんやクラブや学校のみんなには内緒でおねがいします」
「大丈夫よ。次から気をつけてね。無灯火で事故とか起こしちゃったら大変だからね」
「はい……」
ライリーは光の隠し事が気になったが、光がしょげてしまっているのを見て追求しなかったので、光が何をしてたのかに勘付いた者はいなかった。
女性警官一名を除いては。
ライリー達が帰った後、女性警官は一応実施していた持ち物検査の写真データを再確認した。
「切れた自転車ライト。スマホ、財布、バッテリー。鍵束。防犯ブザー。
香水と化粧道具。ウェットティッシュ、ハンカチ。
蚊取りスプレーとトイレ消臭スプレー。ファ◯リーズ。
日焼け止めクリームと股ずれ防止クリーム。
スポーツサングラスの入ったケース。
着替えとタオルの入ったジップロックにゴミ袋……」
光の嘘に気づいた女性警官は隠蔽のために写真データを消して、同情のため息をついた。
「寮生活、大変なんでしょうねぇ。壁も薄いのかしら?」
―――
寮に戻った光は、自転車を片付けてシャワーを浴びると、サイクルジャージを大量の消臭ビーズと共に洗濯機に放り込んだ。
「怖かった、怖かった……。けど……ダメダメ! もう、やめる! 2度としない!」
いくら光がスリルを好む性癖とは言え、今日のようなスリルはもう真っ平だった。