光の完璧かつ神々しさすら感じられた演技に、会場内はスタンディングオベーションで応え、新たな絶対女王の誕生を万雷の拍手で祝福した。
ミーア・オセロットのバックフリップの衝撃すら上書きされ、このオーストラリア大会が全て彼女のための大会であったかのような強烈な印象を残した。
間違いなく、狼嵜光の最高の世界デビュー戦となった。
次の瞬間起こった事を除いては。
バックフリップがフィギュア競技界で長く認められなかった理由は、その危険性や脚への負担以外にもう一つある。
氷板へのダメージが大きい。
観客の方に手を振り、世界から浴びせられる歓声に浸っていた光は、ミーアのバックフリップが開けていた大穴に気づかなかった。
こけっ
心が滑走から離れていた光はこの陥穽にドはまりし、盛大に前コケした。
一瞬で会場がしんと静まりかえり、続いてどよめいた。
「大丈夫!? 光さん!」
司の大声が会場に響き渡る。
……そんな大声出さないで。恥ずかしい……
光は真っ赤になり、司の顔を見ないように大きく顔を背け、そそくさと足早にゲートへと向かった。
こけっ。がしっ。
焦ってた上前を見てなかった光は、自分のバックフリップの開けた穴で再度盛大に前コケし、手すりにしたたかに顔を打ちつけた。
―――
「鼻血なんて出てませんから! やめてください! もうすぐカメラ映ります!」
キスクラは大騒ぎだった。
光の顔面に氷嚢を押し付けようとする司と、それを拒む光。
「鼻血出てなくても、女の子の顔に傷とか腫れとか残ったら……」
「都合のいい時だけ女の子扱いしないでください! 傷も腫れも大丈夫です! そんなもの押し当てたら化粧崩れちゃいます!」
「化粧なんかより冷やさないと!」
「カメラの後にしてください!」
とうの昔にカメラに映っていたばかりか、点数の発表もあったのにそんな様子のキスクラ。
滑走からの一連の映像は全世界に放映され、天才狼嵜光の世界デビュー戦にして初優勝の記録として後々まで語られる事となった。
競技後の転倒やキスクラでの醜態も含めて。
この大会は狼嵜光の輝かしい世界への第一歩であったにも関わらず、別の意味で彼女の黒歴史となってしまった。
―――
表彰式の後、司は別室に呼び出され、ライリーの詰問を受けていた。
「さて、司先生。バックフリップは試合では跳ばせない約束でしたね。なぜ、狼嵜光選手は約束を破って跳びましたか?」
司が苦しそうに答える。
「ミーア選手のバックフリップに触発されたものだと思います。ミーア選手もアドリブで跳んだものだと推測しますが、狙いは光さんにプレッシャーをかける目的だと考えます。
ミーア選手は総合点数では勝てないにせよ、観客の注目を集める事で自分の優位性を示そうとしたものだと思われます。このようなショーマンシップ要素の強すぎる思考はコーチではなくミーア選手の性格によるものかと……」
ライリーは司の弁明を鼻白んだように突き返す。
「はあ? 光ちゃんも勝手に跳んだから、自分のせいではないと?」
司は慌てて謝る。
「そ、そんな訳では! すいません」
ライリーは冷たい目で司を見据える。
「ミーアの跳んだ目的なぞどうでもいいです。私が聞きたいのは、なぜ光ちゃんも跳んだか、です。
特に聞きたいのは、試合前のあなたと光ちゃんのやりとりです。司先生。あなた滑走前に光ちゃんがバックフリップ跳ぶかもって勘付いてませんでしたか?」
司は正直に答えた。
「はい。滑走直前、ミーア選手のバックフリップはアドリブだとの話をした後の様子から、自分もアドリブで勝手に跳ぼうとしている可能性が高いと」
「まあ、ミーアのアドリブについて話したのは仕方ないですね。それで触発されて跳びたがるとまでは予想できないでしょうから。
しかし、跳びたそうと気付いた時、なぜ彼女を止めるよう注意喚起しませんでしたか?」
司は苦しそうに緊張しながらもハッキリと答えた。
「それはできません。事前ならともかく、滑走の直前にそのような念押しを入れることは選手の積極姿勢を損ねます。特に、光さんはプライドの高い選手です。
コーチと選手は対等の関係と考えますが、氷上では選手は一人です。そこは手を離さなければならないと考えます」
ライリーはため息と共に、首を振りながら言った。
「私がなんでこうやって怒ってるかわかります?
バックフリップなんて何回跳んでもいいです。彼女ならしっかり跳べますし、負担も心配する腰の横軸にはほぼありません。
私が心配するのは4回転の封印への影響です。
今日は問題ありませんでしたが、前の選手が高得点を出すなどして、4回転を出さないと負ける可能性が生じた場合です。そういう日は必ず来ます。今シーズンにでも」
司はそれに対しては毅然とした態度で答えた。
「はい。バックフリップを黙認したことが、4回転の封印に悪影響ある事はわかっています。
しかし、俺の姿勢は4回転に対しても同じです。事前に4回転無しで勝つように準備することが光さんのコーチとしての課題と考えますが、実際に4回転がないと負ける状況が生じた際にどうするかは彼女の判断になってしまいます。
俺は、彼女の将来性を鑑み、たとえ負けてもいいから跳んで欲しくないと思いますが、その選択を彼女に迫ることはできないと考えます。もちろん、彼女が迷うようなら『跳ぶな』と答えますが」
ライリーはガックリと肩を落とした。
「勝ちにこだわる彼女を氷上で縛るような事はできない、と言うのですね。はあ、ちょっとだけガッカリです」
司はそんなライリーの様子に同じく消沈した。
「すいません……選手の選択の責任の取れないコーチと言われても仕方ありません。これで光さんの担当を降ろされてもやむなしと考えます」
ライリーは顔を背け、手を顔に当てながら言った。
「第三戦後、検討します」
<<<<嘘嘘嘘嘘>>>>
「まあ、私ならあの場あの状況で上手い言葉が出てきたかまではわかりませんが、せめて『任せた』でなく『信じているよ』だったかな、と思います」
司はライリーの提案にハッとした顔になり、続いて顔に手を当て後悔の念を露わにした。
「しまった……。そうですね。その言い方の方が良かったですね。申し訳ございません……」
司はライリーの指導の巧みさに感銘を受け、自らを恥じた。同じように手を顔に当てるライリーを、自分に失望して落胆しているものと誤解した。
ライリーは一人勝手に自分の言動でダメージを受けていただけだった。
『あの二枚舌ハゲジャンプコーチのセリフを、こんな正直な男に使い回しさせるなんて屈辱……でも、他に上手い言い方なんて私も思いつかない……』
「最後にもう一つ。このように詰問を受けたことは生徒には気取られないように」
「はい。指導者としての体面を保てるようにします」
「違います」
「?」
「あなたがこの件で私に叱られたと知ったら、光ちゃん、きっとまた跳びます」
「……俺、彼女に嫌われてます?」
真顔で聞く司に、ライリーは本日何回目かのため息と共に答えた。
「おそらくは、そう思います」
<<<<嘘嘘嘘嘘>>>>
―――日本、蓮華茶FSC
練習の終わった鹿本すずは、大急ぎでロビーに向かうとテレビの前の大和絵馬に聞いた。
「間に合った? 光はんは?」
「終わったよ。やっぱり優勝した」
テレビ画面には表彰台のVTRが流れていた。
「やっぱ優勝したか……あれ? 光はん、顔腫れてない? 転倒した?」
「うん……」
すずは盛大に誤解した。
「そんなひどい転倒したのに持ち直して1位キープしたか……さすが光はんやな。顔腫らしてても表彰台の真ん中が似合うわ。
けどな、もっと表彰台の真ん中が似合うのは、この、鹿本すずや! 見とれ! 今シーズンにでも光はん左右に侍らせて表彰台の中央に立ったる!
何せ、ウチには……」
そうやってすずが一人舞台を打っていると、ロビーのドアが開けられた。
「あれ? コーチ? いいの? 絵馬ちゃんいるよ?」
コーチと呼ばれた男はすずの声に構わずロビーに入り、テレビを覗き込んだ。
「あれ? 顔に怪我してない?」
絵馬が目を丸くしながら答えた。
「あの、すごい滑走でバックフリップも跳んで優勝したけど、滑走後に戻る時に転倒して……」
コーチと呼ばれた男はそれはどうでもいいとばかりに大きなため息を吐いた。
すずはたまらずツッコミを入れた。
「なんや、転倒したって滑走後なんかーい。感動して褒めてソンしたわ」
―――
帰りの飛行機の中で、光はライリーに恐る恐る聞いた。
「あの……。バックフリップ勝手に跳んでごめんなさい」
「別にいいわよ。ただ……」
「ただ?」
不安そうに聞き返す光にライリーはニヤリと笑って言った。
「またバックフリップ跳んだら、みんな今大会の事思い出しちゃうかもね。『狼嵜光は、ジュニアデビューのオーストラリア戦でもバックフリップを跳んで優勝したが、滑走後に2回も転倒して顔を打ち、キスクラでも大騒ぎ。表彰台でも顔を腫らしていた』ってね」
「……もう跳びません」
光は苦虫を噛み潰した顔をした。
ライリーはここで司と美蜂に思い出話を振った。
「そう言えば、去年のJGP第一戦のタイ戦思い出すわね。帰りの飛行機の中でいのりちゃん、司先生と夏休みの宿題ドリルを……」
その話が始まった時、光はロコツに顔を逸らした。
その様子に嫌な予感がしたライリーは光に聞く。
「まさか……夏休みの宿題が終わってないなんて言わないよね?」
光はニコリと笑みをつくって答えた。
「まさか!? そんな事ないですよ」
<<<<嘘嘘嘘嘘>>>>
光の嘘に勘付いたライリーは、シラを切る光に揺さぶりをかける。
「そっかあ。実叶さんがまだ夏休みバイトやってくれてるうちに手伝ってもらおうかなと思ったんだけどな」
バレてる、と悟った光は申し訳なさそうに答える。
「あの、ほんと。あと、ちょっとだけ。ちょっとだけです……」
「夏休みもあとちょっとだけだけどね。じゃ、実叶さんに相談するか」
―――スターフォックス
スターフォックスの留守を預かる胡荒コーチは、ライリーからの電話を受けた。
「はい、胡荒です。はい。実叶さんですね。はい、明日からで? 多目的室? ああ、光ちゃんの夏休みの宿題で。いえ、今ちょうど……」
多目的室では実叶が休憩時間を利用していのりの夏休みの宿題を見ていた。
「ほら、のんちゃん。もう光ちゃんも帰って来るからね。頑張ろうね」
「あとちょっと、あとちょっとだから……」
「夏休みもあとちょっとよ」
そこに、胡荒コーチが入ってきた。
「あ、すいません胡荒さん。多目的室使われます?」
「いえ。明日からです。ちょっと実叶さんにお願いしたい仕事がありまして……」
胡荒コーチは夏休みの宿題に追い込まれてるいのりに目を向けながら思った。
光といのりの2人。似た者同士だなと。