―――トルコ、イスタンブール
いのりと朱蒴はアジアとヨーロッパの交差点の街、イスタンブールに降り立った。他の日本人選手は、女子は一戦派遣選手の小雀白花、男子はフランス戦で4位の理凰だ。
朱蒴は第2戦のラトビアで2位を取っているので、このトルコ戦で1位か2位ならファイナル出場が決まる。幸い、男子の顔ぶれ的にはラトビア戦より良く、朱蒴の1位は十分狙える。
一方、女子は割と激戦だ。去年のファイナリストの中でも今期成長著しいミーアといのり。ミーアもオーストラリア戦で2位だったので、今大会では1位か2位をとる必要がある。いのりも第7戦ポーランドで鹿本すずと当たってしまう以上、やはり、ここで1位か2位をとっておかないと厳しい。
そして、理凰は……
―――
理凰は食事の席でも明るくふるまっており、やはりフランス戦で4位と好成績が取れたことが良かったのかと、司は安心した。
朱蒴が話しかけてみると全然違っていた。
「あっはっは。だって、もうしょうがないじゃないですか」
理凰は開き直っていた。
「僕は前回4位だったんですよ。ファイナルに残るには1位しかない。でも、朱蒴先輩。今回の男子の顔ぶれ見て下さいよ。3A持ちだけでも他に5人。うち4回転持ちが先輩含めて2人。下手したらフランス戦より激戦じゃないですか? ははは」
ヘラヘラとそんな事をたれ流す理凰に、朱蒴は眉をひそめる。
「僕はジュニア初年度ですし。もう、ファイナルは無理と割り切って自分の実力出すだけ。大コケしなけりゃ万々歳。プレッシャーないですよ。先輩といのりのアベック優勝、応援させていただきます」
そんなお世辞めいたことを言う理凰に、朱蒴は鼻白んだようにため息を吐く。
「まあ、確かに理凰君には負けられないね。そんな事を言っている理凰君にだけはね」
朱蒴の言葉には少しトゲがあった。例え実力が足りなくても常に頂点を目指す姿勢を見せる事はアスリートとしての礼儀。例え同じ日本の選手であってもこの大会では敵であり、理凰の言葉は敵に対する礼儀に欠けている。
しかし、慎一郎はそんな理凰を咎めはしなかった。
フランス戦の開始前に見られたような、プレッシャーで萎縮しまくっていた時に比べれば、今の開き直った様子は数倍マシである。ここで叱責してハッパをかけてしまって、うっかりまた緊張しすぎになってしまったら、フランス戦の時のように試合にあたって持ち直してくれるかはわからない。
司もそんな理凰の様子は心配だったし、いのりはありありと軽蔑の目を向けていたが、誰も理凰にそれ以上何も言わなかった。
―――翌日。大会リンク、ショート前日公式練習
公式練習ではちょっとした騒ぎが起きていた。
各国の女子選手達は口々にリンクの氷質への違和感を口にする。
『柔らかすぎる』
『いや、柔らかくないが、沈む』
『着地する時に酷く違和感がある』
中には感覚を失ったのか転倒を繰り返す選手もいた。
「いのりさん。氷の感覚、どう?」
心配そうに尋ねる司にいのりは元気いっぱいに答える。
「大丈夫です! 柔らかそうに錯覚しますが、エッジが逃げたりはしません。乾いてしっかりした氷なので、ステップもやりやすいです。
あ、でも、着地がなんかソフトになるかな? 跳び出しは……3Lz+3Tコンビネーションだけ心配なので、そこだけ詰めます」
「よし、OK! 行ってきて」
「はい!」
しっかりと感覚を掴んでアジャストに向かっているいのりの様子に司は安心して、他の選手に目を向ける。
他の選手は明らかに調子を崩している。ミーアに至っては2Aの助走スピードを誤ったのか、白花と危うく接触するところだった。
ミーアは手すりに手をついて息を整えつつひとりごちた。
「調整にちょっと時間がかかるかな……これがおじさんの言っていた『トルコの氷』か……」
リンクサイドで観察している司のところにライリーと鴗鳥慎一郎が様子を見に来た。
「司先生。いのりんの様子どう?」
「見てのとおり、バッチリです。氷の方は何かおかしいようですが、いのりさんはしっかり対応できてます」
氷の異変については慎一郎が解説した。
「私も聞いたことがあるだけですが、一部で『トルコの氷』等と呼ばれ、たまに起きる現象のようです。
このリンクだけでなく、近くのリンクも同じようになるらしいので、水質や気温、湿度などが原因と推定されますが、はっきりした事はわかっていません。
選手によって柔らかく感じたり、沈むように感じたりと様々で、感覚を崩す選手も多いらしいですが……」
心配そうな表情の慎一郎に対して、司は胸を張って答える。
「心配いりません。いのりさんは氷の特性を理解して、うまく調整できています。他の選手との修正力の差は明らかです」
次の瞬間、その言葉は証明された。
……シュタッ
「「おおっ!?」」
リンクサイドから驚きの声が上がる。
いのりが4Sを跳んだのだ。
いのりは注目の視線を引き連れたまま、得意げな顔で戻ってきた。
「司先生。もう、バッチリです。
着地で沈み込んで減速する感覚があるんで、コンビネーションはちょっと調整必要でしたが、それも完璧につかみました。
単独ジャンプはやり易いくらいです! 4Sの着地がむしろラクです!」
ライリーは拍手で褒める。
「さっすがいのりん! 後のグループで滑る男子にも氷の感覚、教えておいてあげてね」
いのりははにかみ笑いだった。
『嬉しいのはわかるけど、他のクラブの先生もいる前で『いのりん』呼びは恥ずかしいよ……』
そこへ、息を切らしつつ白花がやって来た。
「いのりちゃん。調子いいべ」
「ありがとう。白花ちゃん。白花ちゃんはどう? なんかさっきぶつかりそうになってなかった?」
白花はため息をついて言った。
「この氷の具合さ合わせるので、やっとだじゃ。ミーア選手、助走速すぎだべ。なんであんな速ぐなんのが、わがんね」
「ははは……災難だったね。みんな氷の感覚に戸惑ってるのかな? 柔らかく錯覚するけど、エッジ流れたりしないし、ジャンプの着地が楽でいい氷だとは思うけど。コンビネーションだけは気をつけて調整しなきゃと思う」
「やっぱりそうだが? いのりちゃん、よぐわがってるな。私はやっとわがってきだとこだ。早ぐ調整しねぇど、時間なくなってまうなぁ」
白花は足早に練習に戻った。
他の選手にはまだ転倒を繰り返して首を捻っている者も多い。
これは荒れた試合になるかもと司は思案した。
そこへ、慎一郎が頭を下げてきた。
「すいません。結束選手の言っていた氷質のこと、理凰にも伝えさせていただきます」
ライリーは笑って流す。
「全然いいですよ。お互い頑張りましょう」
とりあえず、いのりについては問題なく公式練習を終えた。
―――その晩
滑走順も1グループ3番手と悪くない順番を引いて、上機嫌のいのりのスマホに電話がかかってきた。
光からだった。
『もしもし、いのりちゃん? 今電話、大丈夫?』
「あ、光ちゃん。大丈夫だよ。今抽選会終わったところ。第1グループ3番手だから悪くないね」
上機嫌のいのりに、光はおずおずと申し訳なさそうに話を切り出してきた。
『そう、良かったね。
……あの、いのりちゃん。もし、見てたらでいいんだけど……』
「何?」
『男子の、えっと、理凰くんの調子はどうかな?』
いのりは頭に「?」マークが付いた。
なんで私に聞くんだろう? 鴗鳥先生や司先生やライリー先生の方が見ているだろうに。同じ男子の朱蒴先輩だって、私よりは見てるはず。
光にとってみれば、他の誰かに聞く事はできなかった。
スターフォックスでも理凰とアイスダンスしたりしたこともあり、理凰との仲を疑われるどころか公認カップル扱いしてくる子までいる。その上、前日のフランス戦ではキスまでしてたんじゃないかとかネットでも噂されている。
そして、今や別クラブの選手となった以上、コーチ達にも朱蒴にも聞きづらいことこの上ない。
唯一、いのりだけは理凰との仲を茶化してきたりしないし、一時期姉弟子だったというつながりがかろうじてある。
光はそう考えていのりに聞いたのだが、いのりはいのりで問題がないわけではなかった。
光と理凰との仲に勘付いてる大多数のクラブ仲間なら、勘付いているからこそ配慮して、光の前で理凰のことを酷評したりしないだろう。しかし、小学生並みに奥手のいのりは二人の仲に全く勘付いてはいない。
加えて、昔は確かに姉弟子と弟弟子の関係だった理凰だが、今や別クラブで、男子クラブメイトの朱蒴のライバル選手である。天秤は身内に傾き、言い方は少しキツくなってしまった。
アスリートとして不甲斐ない昨日の理凰の態度に対する嫌悪感もあっただろう。
「なんか、ちょっといくじなかったね。
朱蒴先輩には勝てないって、ファイナル諦めてたし。そんな姿勢じゃ絶対勝てないよねって思ったよ。まあ、クラブにとっては好都合だね」
光はその答えに少しショックを受けた。
『そ、そう……。あ、変なこと聞いてごめんね。それじゃ、いのりちゃん頑張ってね。またね』
「ファイナルで待っててね。またね」
通話を切った光はすぐさま、スマホのアドレス帳を「い」から「り」まで、急速フリックしながら毒づいた。
「もう! あのバカバカバカバカ……」
―――
「よし。いいぞ」
理凰も抽選会で1グループ4番と悪くない順番を引いた。順調だ。
公式練習もいのりのおかげで氷の特性を早めに把握することができ、3Aも跳べそうな仕上がりに持っていけた。
ファイナルこそ無理だが、シーズン初めには考えられなかったほど良い成績が出そうだ。
きっと光も満足してくれるだろう。
そう思っていた理凰の甘い考えは、スマホにかかってきた光からの着信で脆くも崩れ去った。
ぷるる……
「あ! もしもし光! こっちは順調だよ」
『理凰……わかっているよね? 大変だよね』
「? 何が?」
『何が、って。わかってないの? 理凰はフランス戦4位だったから。ファイナル出るにはもう、優勝するしかないよね?』
「」
『何? もうリップサービスは売り切れ? 私のリップサービスが足りなかった?』
「そ、そそそそっ! そんなワケ……!」
『じゃ、優勝して、ファイナル行く、って言って。誓って。約束して』
「……」
『(なんで!? 挫けないで立ち上がってよ! 理凰!)』
「……約束する」
『! 約束したよね? 待ってるよ! 朱蒴くん倒して、ファイナル来てよね!』
「……はい」
『ありがとう! またね! 頑張ってね!』
―――
光はスマホを置いて言った。
「これでよし!」
少しもよろしくなかった。
そうやってハッパをかける事は、結束いのりにはかつて確かに効果があったし、大成功だっただろう。しかし、その成功体験に基づき、理凰に「優勝してきて。約束だよ」などとプレッシャーをかけるのは、真面目なのに小心者で自信に欠ける理凰にとっては全く逆効果だった。
せっかく先日のフランス戦での好成績で芽生えた、小さな小さな自信のつぼみを、光という巨人が花壇ごと踏み荒らして行った。
「理凰。滑走順は悪くなかったな。……理凰!?」
慎一郎は泣きそうな顔で廊下にへたり込んでいる息子を見て、何があったのかと頭を抱えた。