世界を壊すのは特別な悪魔じゃなくて、いつだって末端の凡人のささやかな欲望から始まる。
ただ、その欲望を生み出すのは……もっと大きな絶望なのかもしれない。
俺はあの時、別にアルミンに喰われてもいいと思っていた。
団長だってジャンだってコニーだって、あいつだったら文句ないんだろう。
アルミンは俺なんかよりずっと賢くて、仲間達からの信頼があって、どんな事態でも打開できる奴なんだって。考えなしに喰うことしかできない俺とは違うんだって。
でもアルミンは俺を噛まなかった。その甘さが俺を生かしてしまった。
超大型巨人の胃の中で俺は思った。
これは偶然じゃない。
俺という愚かな怪物が、償うことのできない責任を何らかの形で果たすまで、この物語は終われない。
頭の中は戦場のようだった。
いくつもの音が同時に響き、俺の意識を引き裂いていく。これはただの耳鳴りだと、最初はそう思った。しかし違う。耳を塞げば視界に現れ、目を閉じれば耳元で囁いてくる。
これは継承者たちの記憶。
「私は絶対に父のもとに帰る。どんな手段を使ってでも」
「俺がアニキの分まで顎の巨人としての使命を果たす」
「胸を張って生きろ……ヒストリア」
脳裏に血のように滲み出す、過去の記憶たち。
愛する人への想い、自己犠牲への覚悟、最期まで貫いた矜持……声は途切れることなく続いた。
「私は兄さんをずっと見守ることしかできなかった。ここで、タイバー家の使命を果たす」
一族の重責と、それを背負い切れなかった無力感。
「……私は、自分を信じてよかったと思いたい」
ピークの記憶。寒い夜、震える手で書いた父への手紙。
「母さん。俺は……間違ってなかった、のか……」
ライナーの震えるような声。
いくつもの声が、交互に、時に同時に、頭の中で重なる。
俺の中に入ってきた人間たちが、誰も黙ってくれない。俺は彼らに侵食されている。
「エレン。君が見たかった世界は、ミカサと逃げた先にあったのか?」
アルミンに宿るエレンの記憶。友情と困惑、そして理解しきれない選択への苦悩。
「仕方がなかったんだ。誰も悪魔なんかじゃないし、殺したくなんかない。でも……僕だって……」
ベルトルトの声。友情と任務の板挟み、そして最期の瞬間まで抱えた孤独。
「生まれてきたこと自体が、間違いだったのかもな」
ジークの記憶に眠る複雑な感情。
頭の中に響く声は、突如こちらに矛先を向ける。
「お前は誰も愛さずに、ただ他人を消費しているだけだ」
「一人になって、やっと分かったか? 彼らが何を捨てて戦っていたか」
「お前は喰って、知ったつもりになってるだけだ。俺たちは、血の中で背負ってきた」
「自分が悲劇の主役だとでも思ってるのか?」
「違う。お前は逃げるために『食欲』という名の信仰にすがっただけの、凡人だ」
「わかるか? それが違いだ。なぜお前が誰とも信頼を築けなかったか」
歩きながら頭を振った。
俺はいつの間にか、巨人から人間の姿に戻っていた。頭の中は黙ることがなく、永遠に俺に語り続けてくる。
「うるさい……うるさいんだよ……!」
そんな正論だけぶつけられて止まれるような真人間なら、俺だって巨人を喰い続けたりしなかった。
呟きは風に攫われた。足音だけが、静寂の山に響いていく。
少し離れた場所に、ポツンと建てられた小屋が見える。
自分が女型の継承者に指名されたとき、「選ばれた」ような気がして、高揚したのも事実だった。
しかし俺は誰の期待にも応えられなかった。選ばれたなんて、俺の順番が来たなんて、気のせいでしかなかった。
俺が過去に無垢の巨人を喰ったということが、兵団に筒抜けだった。俺が候補になった理由はただそれだけ。気味が悪くて頭の狂ったフィンという一兵卒が、つなぎとして兵団に使い捨てられただけの話。
俺にできることなんて捕食だけなのに、俺は喰うほどに信頼を失っていった。喰うことで俺のものになるはずだった「憧れの景色」は、喰べるたびに俺のもとから遠ざかっていった。
世界はパラディ島に怨嗟を投げつけてきたけれど、島の中でも同じことが起きていた。勝手に巨人化能力を独占した俺という異端は、格好の捌け口だった。
イェレナが俺を懐柔しようと近付いてきたとき。嘘だってバレバレだったけど、あんな言葉でも少しだけ嬉しかった。ただ、ジークの安楽死計画とかいうやつには賛同しかねる。
俺は、そんな悠長な計画には耐えられない。
かといって、兵団に従って部分的な地鳴らしを実行するなんてつもりも、毛頭ない。
俺は進撃と始祖の巨人を喰った後、自分自身をヒストリアに喰わせる。「不戦の契り」だ。全部の力を女王が保有すればいい。
兵団の抵抗? 知るか。九つの巨人の力さえあれば、女王への接近くらいどうとでもなるだろ。
ヒストリアが九つの巨人を全部喰えば、この力を兵器運用できるような奴はこの世からいなくなる。マーレからもパラディ島からも知性巨人という抑止力は失われ、どちらもただ世界に滅ぼされるのを受け入れるだけ。
こんな島、滅べばいい。
マーレもパラディ島もエルディア人もユミルの民も、全部知ったことか。
壁の外も内側も、全部壊れてしまえ。
***
山小屋の扉が軋んだ。
木枯らしが吹き抜け、暖炉の炎が震えた。扉を開いたのは――フィン。虚ろな瞳、そして荒い息遣い。足取りは重く、まるで死神だった。
服に付着した血は乾きかけていて、布地にこびりついている。それが彼のものなのか、それとも他者のものなのか――ぱっと見では、判断がつかない。
扉は半開きのまま、冷気が室内に流れ込んでいる。フィンは片手で扉の縁を掴み、もう片方の手は腹部を押さえていた。内臓に深刻な損傷があることは明らかだった。
「……来たか」
エレンの声は、嵐の前の凪のように静かだった。彼は薪を暖炉にくべながら、この瞬間を何年も前から知っていたかのように佇んでいた。
薪が弾ける音が室内に響く。オレンジ色の炎が揺れる影を壁に作り出し、二人の男を不気味に照らしていた。
台所の方から、包丁がまな板に当たる音が聞こえた。ミカサが夕食の準備をしているのだろう。だが突然の訪問者に、その音は途切れた。彼女も異変を察知したに違いない。
フィンは扉の前で立ち尽くしていた。
言葉が喉に詰まる。何を話せばいいのか、何から始めたらいいのか……。
時計の針の音が静寂を刻んでいたが、しばらくして、胸の奥から湧き上がる激情が、フィンの口を開かせた。
「俺は必要のない存在になった」
罪を告白する罪人のように、その声は震えていた。
「この島にとっても、世界にとっても」
その言葉は山小屋の空気を重くした。血の匂いが部屋に漂い始める。
ミカサは台所で手を止めている。包丁を持ったまま固まっているということが分かった。エレンが暖炉の前で肩を強張らせる。
「いや」
フィンは自嘲的に笑った。
「最初から、俺なんていらなかったんだろうな」
沈黙が流れた。暖炉の火だけが、パチパチと音を立てている。
「でも、このままでは終われない」
彼は拳を握りしめた。爪が掌に食い込んでいく。
「進撃と始祖を食べなきゃ、俺は終われない」
フィンの目に、狂気じみた光が宿っていた。それは諦めとは正反対の、執念深い炎。
「だからエレン、全部渡してくれ。俺は今度こそ、世界が望むような……」
フィンの声が高まった。その激情は、すでに爆発寸前だった。
「正しい悪魔になる」
その言葉に、エレンがゆっくりと顔を上げた。
台所から皿の割れる音が聞こえた。ミカサが手を滑らせたのだろう。陶器の破片が床に散らばる音が、この場の緊張を一層高めた。
「進撃の巨人は、未来の継承者の記憶をも覗き見ることができる」
エレンは静かに首を振った。ゆっくりと立ち上がる。
「この意味がわかるか?」
エレンの問いかけは、まるで最後の審判のようだった。
フィンは凍りついた。血の気が引いていく。膝が震え始め、壁に手をついて身体を支える必要があった。理解が、恐ろしい理解が彼を襲った。
「……そうか」
震え声で呟く。魂が身体から抜け出ていくかのようだった。
「そういうことか」
彼は床に膝をついた。力が抜けて、立っていることができなくなったのだ。血溜りが広がり、膝を染めていく。
「やっぱり俺は、最初から……いらなかったんだな」
しかし、その絶望の中に狂気じみた笑いが混じった。彼は顔を上げ、天井を見上げながら乾いた笑い声を上げた。
「ここで死ぬのか。何も果たせず、何者にもなれず、ただ他人の人生を強奪して……」
フィンのいる場所から、ミカサの姿が見えた。
「なあ。どっちがやるんだ。さっきからミカサが刃物を構えてるの、バレてるぞ」
ミカサの手が震えた。暖炉の明かりを反射して、包丁が鈍い光を放っている。彼女の顔は見えなかったが、その肩は小刻みに震えているようだった。
エレンは首を振った。その動作には、確固たる意志があった。
「ここじゃない」
彼は立ち上がった。そして外套を手に取る。
「場所を変えよう。ミカサ、待っててくれ」
***
外は雪が降り、薄らと積もり始めていた。細い雪片が二人の男の頬を打ち、すぐに溶けて水となって流れ落ちる。
「お前を悪魔にしたのは、オレの選択によるものだ」
エレンの声が響き、フィンは顔を上げた。
「この世界に、過去も未来もない。それでも、その世界にも……当たり前だが、オレとミカサ以外の人間の生活がきちんと存在している」
「この世界? なんだそりゃ」
フィンは笑った。皮肉に満ちた笑いだった。
「何の話だか分からんが……」
フィンはよろめきながらエレンに近づいた。
「あれだけ自由を声高に唱えてたエレンが、女と逃げるような選択をするとはな」
「羨ましいよ。それは、お前が人間だったことの証だろ」
その言葉を発した瞬間、フィンの中で何かが崩れた。
膝から崩れ落ち、雪の中に倒れ込む。雪が彼の血を吸い込み、周囲を赤く染めていく。
「俺はどこで人間をやめたんだろう。やっぱり、実験用巨人の肉を食っちまった時か?」
声が震えた。自分への嫌悪が溢れ出した。彼は雪を掴み、顔に押し付けた。冷たさが火照った頬を冷やす。
エレンの瞳に衝撃が走った。
「……お前、そんなことをしたのか」
「知らなかったか? 調査兵団の連中なら、もう全員知ってると思ってたよ」
フィンは自分を嘲笑った。仰向けになり、空を見上げる。雪片が彼の瞳に落ち、涙のように頬を伝った。
「でもそんなの、今更だろ。もう喰っちまったんだから」
ついに、本音が溢れ出した。
「……羨ましかったんだ、巨人が。辛かったんだ、現実が」
「どうかしてるよな……」
フィンは小さく呟いた。しかしそれは、心の底からの、魂の奥底からの叫びだった。
「生きる目的とか、理想の政治とか、信じるべきものとか。俺は……みんなが大好きな、そういう『大きな物語』の一員になれなかった。だからずっと、訓練兵の中でも浮いていた」
彼の声は絞り出すようだった。エレンは黙ってフィンの話を聞いていた。
「動物は、欲望を満たすのに他者なんか要らない。食欲、睡眠欲、性欲……満たしてしまえばそれで終わり」
「でも人間はそうじゃない。欲望を満たすには、他者が必要だ。誰かに必要とされたいとか、認められたいとか、嫉妬されたいとか」
フィンは起き上がり、拳で胸を叩いた。
「俺は即物的な方法で欲望を満たそうとしたから、人間をやめて動物に成り下がってしまった。薬物中毒者と何も変わらない。巨人の捕食という行為を通して、今も他人の記憶を貪るだけ」
右目から、一筋の涙が流れた。
「俺の物語はとても小さい。世界という大きな物語を、俺という空っぽの人間が……こんなに小さくしてしまった」
「アニも、ポルコも、ラーラも、ピークも、ライナーも、アルミンも、ジークも。俺みたいな人間が食っていい存在じゃなかった。俺が人間性を捨てたせいで、こんなことになった。たくさん死んだ。たくさん殺した。サシャだって、結局……あれは俺が殺したんだ」
彼は、彼が捕食した者たちの名前を呼んだ。一つ一つ、大切に、痛みと共に。
「でも」
風が吹いた。雪を巻き上げ、二人の姿を一瞬見えなくした。
「それでも、止められないんだ。始めたからには、終わらせなきゃならないんだ」
巨人の咆哮が響いた。
雷鳴が轟く。
雪は巨人化の熱で溶け、蒸気となって立ち上がる。森の木々は倒れ、大地には深い亀裂が走っていた。
フィンの体が発光し、巨人化の爆発により発生した熱風が立ちのぼる。
「来いよ、エレン」
全てが一つの肉体に無理やり詰め込まれ、継ぎ接ぎの怪物と化した姿。あちこちに開いた口が、好き放題に言葉を語りだす。複数の声が重なり合った不協和音だった。
「俺はここで死ぬらしいが、九つの巨人全部を喰えないと決まったわけじゃない。喰ってから死ぬか、喰われて死ぬか。それが俺の最後の二択だ!」
沢山の口から、血のような涎のような、涙のような液体が流れていた。
それは彼が喰らった者たちの悲しみなのか、それとも彼自身の絶望なのか。
フィンが硬質化した拳を振り上げ、巨人化したエレンに突進する。
しかしその腕はエレンに届くことなく、彼は突如膝から崩れ落ちた。
身体はいたる所から血を吐き続け、その内部構造は破綻しかけていた。彼の精神も、肉体も――もう戦う力など残っていなかった。
自分自身の限界こそが、彼の「最後の敵」だった。
エレンの巨人が静かに歩み寄る。そして、フィンの巨人の首に手をかけた。
そして、たったの一噛みで。
フィンの巨人は崩れ落ち、その傷口は蒸気となり、少しずつこの世界から消え始める。
そして、エレンが――九つの巨人全てを喰った。
***
「フィン」
突然、サシャの声がした。
お前のことなんか、食べていないのに。少し猫背気味に笑っている。いつものあの顔で。
「全部、一人で食べちゃったんですか?」
声は柔らかい。でも、そこには確かな重さがあった。
「……食べてない」
「食べてますよ」
サシャは決して俺を責めていないのに、俺には逃げ場がなかった。
「あの日、一緒に実験用の巨人を見学に行ったとき……フィンは、巨人のことを羨ましそうに見ていましたね」
サシャは雪の上に膝をつき、俺の頭を膝の上に乗せていた。
「どうして、自分じゃない誰かになりたいだなんて……」
俺は答えた。最後の告白を。
「自分が、何者かになれる気がしたんだ。喰えば、その人になれるって」
「でも結局、誰にもなれなかった。喰っても、俺は『俺』のままだった」
ずっと頭の中に蠢いていたのは、ただの継承者の「記憶」じゃない。聞こえてくる声、見えてくる景色、全てが彼らの「願い」だった。
俺を責め立ててきた声も、決して彼らの記憶じゃない。あれは俺自身の声だった。
帰りたかった場所。守りたかった家族。失いたくなかった絆。俺が踏みにじった、他人の物語。
「自分の物語じゃ、足りなかったんですか」
「私のあげたパンじゃ……物足りなかったんですか」
その声に、俺は胸ポケットに手をやった。マーレに発つときにサシャがくれた……結局、一口も手をつけられなかったパン。
もうだいぶ前の話だ。こんなところにあるはずがない。
しかし、手に何かが触れた。それら小さく、硬いもの。取り出してみると、それはボロボロと崩れて小さなクズになっていく。
俺は……あれだけ優しくしてくれたサシャにすら、何も自分から渡したことがなかった。
「……ごめん」
雪が小さな結晶となって輝いている。
俺はもうここで終わるけど。
もし違う道を選んでいたら。
次は……
***
エレンは山小屋に戻った。扉を開けると、暖かい空気が彼を包んだ。暖炉の火は相変わらず燃え続けており、部屋に温かな光を投げかけている。
ミカサは食卓で待っていた。二人分の食事が用意されているが、彼女の分は手つかずのままだった。彼女の目は赤く、泣いていたことが分かった。
エレンは静かに席に着いた。
しかし、食事にはほとんど手をつけなかった。フォークを持つ手が震え、食べ物を口に運ぶことができない。そして、手が止まった。フォークを置いて、ぽつりと呟く。
「……違うんだ、フィン」
ミカサが顔を上げた。彼女の瞳には疑問があった。
「選択を間違えたのはお前じゃない」
エレンの声は震えていた。
「オレが、お前に責任をなすりつけただけ」
彼は立ち上がった。椅子が床に擦れる音が響く。
「本当に終わらせなきゃいけないのは、オレの方だ」
エレンは窓辺に歩み寄った。外では雪がまだ降り続けている。フィンが倒れた場所も、もう雪で覆われているだろう。
世界は自分たちだけでできているわけじゃない。他人の人生を無視して、己の幸せだけを享受することはできない。
フィンは、エレンの選択が作り出した悪魔でもあった。
ささやかな生活に憧れて――ただそれだけのために選んだ世界の裏でも、結局誰かが犠牲になる。どんな場所で生きようとしても、結局その裏には散っていく多くの命がある。その象徴が、フィンという動物化した男だった。
「お前はあの日、巨人を喰うべきじゃなかった」
風が吹いた。冷たい風が、窓ガラスを震わせた。
「だから……」
言葉は静かに消えた。しかし、その決意は揺るがなかった。
エレンは顔を上げ、ミカサを見つめた。彼女の瞳には涙があった。しかし同時に、理解もあった。
窓の外で雪が降り続ける中、エレンとミカサは静寂の時を過ごした。
夢のような「道」が終わる瞬間が、二人のもとに近付いていた。
次が最終話です。