「調査兵団が実験用の巨人を捕獲した。現場を見学したい者はいないか」
教官の言葉に、一同は静まり返った。
巨人実験の主任は調査兵団の変人として名高いハンジ・ゾエ。何をするのか分かったもんじゃない。そんな狂気の現場を見学しに行くなど、正気の沙汰ではない。誰も手を挙げようとしなかった。
「食事は出ますか?」
ヘラヘラと手を挙げた俺の質問がふざけているように聞こえたのか、教官がこちらを強く睨みつける。
「ハンジに掛け合え」
「出るらしいぞ。サシャ、当然お前も……」
俺がサシャに声をかけようとした時、思いもよらない相手が口を挟んだ。
「お前な、調査兵団は巨人の調理をする所じゃないぞ」
「あ?」
声の主はエレンだった。俺は振り返った。こいつが俺に話しかけてくるなんて、珍しいことだった。いや、珍しいどころか、初めてかもしれない。
「節度を持てよ。お前、ただでさえ浮いてんのに。そんなことしてまで目立ちたいのか?」
「なっ……」
顔が熱くなる。動揺で心臓が早鐘を打った。
まさか、浮いてる奴に浮いてるなんて指摘をされるとは思っていなかった。エレンだって、決して周りに溶け込んでいるタイプではないのに。
「ち、ちげーよ! 誰が喰うか、巨人なんて!」
声が裏返った。情けない。
「……俺は行かない。せっかくの休日に、わざわざ巨人なんか見学してたまるか」
ブツブツ小さな声で呟く俺をみて、周りの奴らがくすくすと笑う。俺はなんとも言えない気持ちでその場に立ちすくんでいた。
腹が減っているのは相変わらずだったが、なぜか食欲は失せていた。
***
ウォール・ローゼのとある一角で、俺は小麦粉にまみれていた。
あの頃の面影はどこにもない。小太りになった体は、兵士としての鍛錬を積んでいた頃とは正反対だった。店の奥から漂ってくるパンの香りが、今や俺の日常になっていた。
外からは、住民の激しい声が聞こえてくる。イェーガー派と呼ばれる兵士達を熱狂的に支持している連中だ。
兵団への批判、エレンへの崇拝、そして世界への憎悪。
俺はそれらを苦い思いで聞いていた。
ここ数年で、街の様子はすっかり変わってしまった。これまで知らなかった「世界情勢」とかいうものが報道され始めて以来、街の景色は何も変わらないのに、暮らす人々はどこか慌ただしく、怯えと苛立ちを隠さないようになっていた。
訓練兵団を卒業後、俺は一瞬だけ駐屯兵団に所属していた。でもすぐに辞めてしまった。結局、俺に兵士なんて向いていなかったのだ。
そして今、この街にいる。毎日パンを焼いて、人々の腹を満たしている。
パン屋といっても、看板メニューはミートパイ。なんせ肉が入ってるから……そう言うと豪華そうに聞こえるが、実際は豆のすりつぶしがほとんどだ。香辛料と焼き方で割と誤魔化してる。
店のドアが叩かれる音がした。開店時間にはまだ早い。
「まだ準備中ですよ」
俺が顔を上げると、長髪を乱雑に束ねた男が顔を覗かせていた。俺は一瞬で悟った。あの頃とは随分変わったが、間違いない。
エレン・イェーガーだった。
「おまっ……」
「よお」
「どっから来た!? 目立つだろ、とりあえず店の中に来い!」
確か噂では、エレンは兵団に拘束されているはずだった。何故こんなところをふらついているんだ? え、脱獄? どうなってる?
俺は慌てて彼を店内に引き込んだ。こんなところに島の有名人がいると知られたら、一帯がパニックになる。
店の奥から、妻が顔を覗かせた。
「どちらさま?」
「クルーガーです。フィンとは兵団の同期でした」
エレンが偽名を使ったので、俺も少し安堵した。賢明な判断だ。
「あら、そうなの! 見てこの人のお腹、元兵士とは思えないでしょ」
「やめろって」
妻は俺の腹を叩いた。別に揺れるほど脂肪が付いてるわけじゃないんだが、兵士の頃に比べればずっと筋肉は落ちている。恥ずかしかったが、それが今の俺だった。
エレンを店の奥に通して、俺たちはテーブル越しに向かい合って座った。
「お前、兵団に拘束されてるって話じゃ」
「ここも一つの道だからな。どうとでもなる」
「また訳の分からんことを……」
エレンとは特別親しかったわけではない。だからこそ、なぜエレンがわざわざこんな場所を訪ねてくるのか、全く心当たりがなかった。
「パン屋で働いてたのか」
エレンの声には、どこか懐かしさが込められていた。
「あぁ。駐屯兵団に入ったけど、やっぱり俺には合わなくてな。フラフラしてるときにここの親父さんに声をかけてもらって。結局、弟子入りしたうえに婿入りまでしちまった」
「パンじゃなくて私が目当てだったんでしょ?」
「おーおー、まぁそういうこった」
妻が遠くから茶化すように言うと、エレンが少し笑った。
「姓も変わったのか」
「おう。もうトーテツじゃない。フィン……ただのフィンだ」
エレンが思い出したように口を開いた。
「お前、覚えてるか? 調査兵団が実験用の巨人を捕えたってとき、手を挙げようとしてただろ」
「あったな。調査兵団がどんなメシ食ってるのか気になって……でも、エレンが突っかかってきたんだよな」
俺の記憶が蘇る。あの日のこと。
***
訓練兵に与えられた貴重な休日を、俺は一人でダラダラと過ごしていた。実験用の巨人を見学に行くのはもう諦めた。部屋の窓から見える青空が眩しすぎて、まるで自分の心の暗さを照らし出しているようで居心地が悪い。
目的なんかなかった。ただエレンに言われた言葉が胸に刺さって、訓練所に残っているのが息苦しくて、逃げるように街に出た。足取りは重く、行き先も分からないまま石畳を踏みしめていた。
露天の店先を眺めながらぼんやりと歩いていると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。とある店の親父に声をかけられた時、俺は立ち止まることも忘れて呆然としていた。
「食べてみるか?」
「え?」
親父の声は温かく、優しかった。俺は慌てて振り返る。現実に引き戻されたような感覚だった。
「このパイ、俺が作ったんだ」
最初は警戒した。胸の奥で警戒心がざわめく。ふっかける気か、と身構える。
でもその顔をよく見ると、親父はシンプルに腹ペコの顔をしている俺を心配しているだけのようだった。その眼差しには打算も邪心もなく、ただ純粋な親切心が宿っていた。
「……」
震える手でパイの一欠片を掴む。指先が微かに震えているのは、空腹のせいなのか、それとも人の優しさに触れた動揺なのか、自分でも分からなかった。それは目の前でキラキラと輝いて見えた。
思わずむしゃぶりつく。口の中に広がる温かさと豊かな味わいに、目頭が熱くなった。
「慌てるなって」
親父は心底楽しそうに笑っていた。
俺は無言で食い尽くした。一口一口を噛みしめながら、こんなに美味しいものを食べたのは、生まれて初めてだと実感していた。味だけではない。この温かさ、この優しさ、この瞬間の幸福感——全てが初めての体験だった。
「どうだった?」
「……美味しいです」
親父の問いかけに、一瞬だけ喉が詰まった。感情が込み上げて、うまく言葉にならない。
「だろ? このパイな、実は」
親父は周りをキョロキョロ伺い、まるで秘密を打ち明けるように小声で言った。
「……巨人の肉を使ってるんだよ」
俺は一瞬固まった。血の気が引くような感覚と同時に、心臓が激しく鼓動を打った。しばらくの沈黙の後、親父が腹を抱えて笑い出した。
「なわけねーだろ! まさか本当に信じたか?」
その屈託のない笑い声に、俺は何も言えなかった。恥ずかしさと安堵が入り混じって、顔が火照るのを感じた。
「……いくらですか。払います」
俺は慌てて財布に手を伸ばす。この優しさに対して、何か返さなければという想いが溢れていた。
「怒るなよ。代金はいらない。代わりに宣伝してきてくれ、これお土産」
「そういうわけには……」
「一人で食べ尽くすなよ」
パイを押し付けられて、俺は訓練所に戻った。
帰り道、俺の心は不思議な温かさで満たされていた。久しぶりに、人の優しさというものを思い出したような気がした。
サシャにお土産のパイを渡すと、彼女は目を見開いて驚愕の表情を見せた。
「フィンが、食べ物のお土産を……!?」
サシャの驚きように、俺も少し戸惑った。確かに、こんなことをするのは初めてだった。
サシャがパイを一気に口の中に放り込んだ。その慌ただしい様子を見ていると、なんだか心が軽やかになった……が。
サシャは、食べて喋ってむせてせき込んで泣いている。いや流石に忙しすぎるだろ。お前には行儀作法というものが存在しないのか。
「じぇんだい未聞にょ出来事ですよ!!」
サシャは食べながら話すせいで、言葉が無茶苦茶になっている。その必死な様子が可笑しくて、俺の口元に小さな笑みが浮かんだ。
すると騒ぎを聞きつけた同期が俺とサシャを囲み始めた。
「おい、それ何だよ! 俺らのは!?」
「サシャだけずりぃぞ! どこの店だ?」
「そんな良いモン、二人で独占するな」
「次は連れていけ!」
同期たちの賑やかな声に包まれた。コニーがサシャの手に残されたパイを奪おうとして、サシャが猛獣のような瞳で抵抗した。ジャンが「肉使ってるとかマジかよ」と羨ましそうに俺の話を聞いている。
こんなにたくさんの同期に囲まれて騒いだのは、初めてのことだった。でも、悪い気はしなかった。
次の調整日、俺はしぶしぶたくさんの同期を連れて行った。「しぶしぶ」と言いながらも、実は内心では少し楽しみにしている自分がいて、それが不思議だった。店の親父は相変わらず人懐っこい笑顔で俺たちを迎えてくれた。
「今日はちゃんと払います」
俺は真剣な顔で言った。
「おう。そうしてくれ。ちゃんと宣伝してくれたんだな」
「……はい。なんとなく、あいつらにも、食べさせたいと思って」
その言葉を口にした瞬間、俺は自分でも驚いた。いつから俺は、誰かのことを考えるようになったのだろう。
親父の特製ミートパイ。金のない訓練兵でも手の届く値段。飛ぶように売れていった。
「誰かに食べさせたいと思ってもらえるようなものを作れるなんて、幸せだよ」
親父が笑う先で、サシャがミカサとパイを半分に分けて食べていた。珍しい。いやよく考えたら、サシャは別に大食いってわけじゃなかったもんな。そういうこともあるか。人と分け合う優しさを持っているんだ、サシャは。
アルミンが噛みしめるようにパイの味を楽しんでいる。その繊細な表情に、俺は微笑ましさを感じた。エレンは無言で、どこか必死な顔で口の中に急いでパイを詰め込んでいる。いつものエレンらしい、真剣すぎる食べ方だった。コニーは二つ目を食べるかどうか、財布と真剣に相談しているようだった。
みんなが笑う顔を見て、俺もどこか満たされているような気持ちになった。
「自分で作ったわけじゃないのに、なんか……嬉しいもんですね」
俺は親父に向かって、素直な気持ちを口にした。
「お前も作ってみるか」
「何言ってんすか。俺は兵士ですよ」
その時、店の奥から誰かがこちらを覗いているのが見えた。恥ずかしそうに隠れている小さな影に、俺の胸がくすぐったくなった。
「……?」
「俺の娘だ。あいつ、お前がまた来ないかって楽しみにしてたんだぞ」
親父の言葉に、俺の心臓が跳ねるように鼓動した。
「からかわないでください。そんなバカな」
顔が熱くなるのを必死に隠しながら、俺は慌てて否定した。
「本当だって。おーい、こっちこいよ」
それからというもの、訓練に戻ってからも、俺の気持ちはどんどん「そっち」に惹かれていってしまった。俺を惹きつけたのはパイの味だけではなかった。うまそうに食べる仲間の顔、自分を受け入れてくれる親子の温かさ。訓練中もずっと、それは俺の脳裏から離れなかった。
いつの間にか、食事当番の時も手つきが上手くなって、同期とのコミュニケーションも自然に増えていった。料理をしながら、あの親父の手つきを思い出し、仲間たちの喜ぶ顔を想像するようになった。
「お前が当番の日は飯がうまい気がする」
同期にそう言われ始めてから、俺はずっと自分を悩ませていた「空腹」を、少しずつ忘れるようになっていった。
***
「俺のこと、腹ペコすぎて巨人を喰いかねないような奴だと思ってたんだな」
「あぁ。フィンの腹は……いつもうるさかったからな」
「今はこんな腹だけどな」
俺が腹を叩くと、エレンは苦笑いを浮かべた。
「そういえば、サシャは元気か?」
「……」
「訓練兵の頃、俺の友達なんてあいつくらいだったからな。腹一杯に食わせてやりたい」
突然、エレンの表情が急に暗くなった。
「死んだ」
その一言が、俺の世界を一瞬にして崩壊させた。
「えっ……」
心臓が止まりそうになった。サシャの笑顔が脳裏に浮かび、それが儚く消えていく。
「……そうか」
それ以上、言葉が出てこなかった。喉が詰まり、胸が苦しくて、何も考えられない。ただ、深い悲しみが俺の心を包み込んでいく。
俺は震える手でエレンにパイを差し出した。この状況で何ができるのか分からないが、せめて。
「うまいな」
エレンの声は平坦で、感情を押し殺しているようだった。
「あぁ。思わず貪り食っちまうほどの旨さだろ。これを食べてくれる人の顔を見るのが……今の生きがいだよ。俺はこのために生まれてきたんだなって、そう思う」
俺は必死に言葉を絞り出した。
「そうか」
エレンの声は、どこか遠くを見つめているようだった。
「邪魔したな」
「おう、気をつけろよ」
椅子から立ち上がるエレンの姿に俺が言いようのない寂しさを感じていると、彼が突然こちらを振り返った。
「あ」
「ん? どうした」
「持ち合わせがない。今日は奢ってくれ」
「仕方ねぇな」
俺は苦笑いを浮かべた。昔のエレンらしい、不器用だけど、どこか憎めないような頼み方だった。
エレンは何事もなかったように、店を去っていった。結局どうやって、何をしに、この店を訪れたのだろう。そして街の大通りを堂々と闊歩するエレンの後ろ姿を眺めていると――
一瞬だけ、俺の意識が飛んだ。
巨人の肉を貪る自分。敵も味方も関係なく、次々に人間を捕食していく怪物の姿。血と肉の味、絶望的な飢餓感、そして――止まらない食欲。
「どうかしたの?」
妻の心配そうな声が、俺を現実に引き戻した。
「あ、いや……」
俺は慌てて首を振る。冷や汗が背中を流れていた。
「さっき、恐ろしい夢を見たような気がする」
「こんな昼間に?」
「ああ、なんか……」
俺は混乱したまま首を振った。あの夢は一体何だったのか。それは夢というには、あまりにも現実感がある悪夢だった。
「……腹が減らないか?」
「さっきクルーガーさんとパイを食べたばかりでしょ」
妻が呆れたように言う。確かにそうだった。
「そうだな」
俺は腹を撫でた。昔は何を食べても満たされなかったのに、今は……あたたかくて、ちょっと苦しい。
「やっぱ、腹八分目くらいがちょうどいいよな」
それからすぐに、エレンによる地鳴らしが始まった。
大地が震え、空が割れ、世界が終わりを告げようとしていた。その時、俺の心は複雑な感情で満たされた。
彼は世界を滅ぼすといった。
あの日、店を訪れたあいつはひどく穏やかな顔をしていたのに。その優しい表情の奥に、これほどの絶望と決意が隠されていたなんて。本当は、こんなことになるまで追い詰められていたのか。
先日見た夢の世界を思い出す。エレンの選択が、俺にはどうしても他人事だとは思えなかった。あの悪夢の中で、俺もまた怪物になっていた。
ひょっとしたら、あの夢は真実だったんじゃないか? ふとそう思った。
夢にしては現実感がありすぎる。他人の記憶を欲し、全てを己の中に取り込もうとする、止まらない飢餓感――全てが生々しく、恐ろしいほど鮮明だった。
あの夢の俺は、巨人を食べたせいで、全てが狂い始めた。だとしたら、エレンの歯車が狂い始めたのはどこなんだ?
しばらくして、人々の歓喜の宴が始まった。街は異様な興奮に包まれていた。世界が滅ぶのがそんなに嬉しいか。俺の心は複雑で、その狂騒を素直に受け入れることができなかった。
しかし一方で、忙しさに対する有難さがあるのも確かだった。かつてないほどパイがよく売れる。
「お待ち」
ふと、表のテーブルに座っている人影を見て、俺は驚愕した。心臓が跳ね上がるような衝撃が走る。
「……アニ?」
アニ・レオンハートだった。見間違えるわけがない。彼女の特徴的な金髪と、あの冷静な横顔。訓練兵の頃から何一つ変わっていなかった。
彼女はこちらに気が付いていない。さっきから必死で俺の作ったパイを貪り食っている。その食べ方は、まるで何かに取り憑かれたように激しく、いつかのサシャを彷彿とさせた。
そして彼女の隣にいるのは……アルミンに、コニーだ。こいつらも、俺のパイを食ってる。子供の連れがいるようだ。誰なんだろう。
懐かしい顔ぶれに、俺の心は複雑に揺れた。
「……」
なぜか、とてつもない罪悪感が俺を襲った。重い感情が胸の中で沈んでいく。夢の話とはいえ、なぜか彼らにとても酷いことをしたような気がする。あの悪夢の中で、俺は――
「ちょっと外す、店を頼む」
妻にそう言って、俺は彼らのテーブルに駆け寄った。心臓が激しく鼓動を打っている。
「ほら」
俺はテーブルに金を置いた。手が微かに震えていた。
全員が「え?」という表情で顔を上げ、しばらくしてから俺の顔を思い出したように見えた。
「……フィン?」
アルミンの驚いた声に、胸が懐かしさで満たされた。俺は精一杯明るく振る舞った。
「よお、久しぶりだな。パイ代は返すよ、俺の奢りだ」
「いいのか?」
コニーの遠慮がちな声にも、俺は心の底から答えた。
「もちろん。そんなに急いで、どこに行く気だ」
「えっと……」
気まずそうな顔を見て、俺は彼らがエレンを止めに行くつもりなんじゃないかと思った。
「俺さ」
思わず口を開いた。
「エレンの選択が正しいとまでは言えないけど、選択を間違えたのはエレンじゃないと思ってるよ。間違えたのは、俺が……」
俺は突然、何を言っているんだろう。寝ぼけて夢と現実の区別がつかなくなったのか?
それでも言葉は止まらなかった。
「いや。この島すべての人間が、揃ってエレンに責任をなすりつけただけ」
俺の声は苦いものになった。胸の中が後悔と自責の念で満たされる。
「フィン、君は……」
アルミンが何かを言いかけた。その優しい瞳に、俺は昔の記憶を重ねた。
「……なんでもない、忘れてくれ。今がいちばんの稼ぎ時なんだ、まだまだパイを焼かなきゃいけないから、もう戻る」
俺は慌てて話を逸らそうとした。
「そうだ」
俺は振り返る直前で、どうしても聞かなければならないことを思い出した。
「サシャの墓の場所だけ、教えてほしい」
***
サシャの墓は、兵士の共同墓地にあった。
夕日が差し込む静寂な墓地で、俺は一人立ち尽くしていた。風が頬を撫でていき、どこか寂しげな音を立てて木々を揺らしている。墓石に刻まれた「サシャ・ブラウス」の文字が、夕陽に照らされて金色に輝いて見えた。
俺は震える手で、特製干し肉、特製パン、それに特製パイを墓前に並べた。あと葡萄酒も。一つ一つを置くたびに、胸の奥にチクリとするような痛みを感じる。
「今日は全部、お前にやるよ」
俺は墓石に向かって呟いた。声が掠れて、思うように言葉が出てこない。涙が頬を伝って落ちていく。
地鳴らしが止まったと聞いた後、俺はやっぱりあの「夢」は「夢」じゃないと思った。あの「道」は、俺の現実だ。
俺は、他人や世界という物語を無責任に貪る、まさに悪魔そのものだった。他人のストーリーを奪い、喰って、自分の存在意義を得ようとした怪物。
血と肉の味が口の中に蘇り、吐き気を催す。そんなのはよくない。それは人間じゃない。俺の拳が震えた。自分への嫌悪と恐怖で、体が震えて止まらない。
食べることは生きること。そして、誰かに食べてもらうことは、その人の生を支えること。
最初に教えてくれたのは、サシャだった。
いつも腹を空かせていた俺に、彼女は屈託のない笑顔で自分の食べ物を分けてくれた。「一緒に食べよう」と言ってくれたあの優しい声が、今でも耳に残っている。それは単純な優しさではなく、食べることの本当の意味を、生きることの本当の意味を教えてくれる行為だった。
「来るのが遅くなって、ごめんな……」
俺は嗚咽を堪えながら呟いた。
サシャがこの世界のどこかで、まだ腹を空かせているような気がした。あの人懐っこい笑顔で、「お腹空いた」と言っているような、そんな幻想が、俺の心を優しく包んでくれる。
あれからエレンは、地鳴らしによって人類の八割を虐殺したという。
正しい行いとは言えないだろう。残された二割は、犠牲になった八割を正当化するにはあまりに小さく、静かで、頼りない。
でも、俺だって――
手が震えた。記憶の奥底から、あの地獄のような光景が蘇ってくる。
九つの巨人のうち、七つもの巨人を喰いつくした。八割の継承者を虐殺し、罪のない兵士の命すら奪った。血の海の中で、俺は怪物として牙を剥いていた。あの時の俺は、もう人間ではなかった。ただの飢えた動物だった。
それでもエレンが「腹八分目」で止まったこと。俺を「腹八分目」で止めてくれたこと。
それは、この地獄のような世界で、エレンという存在が――全てを貪るだけの動物ではなく、たしかに人間だったという証明だった。
「エレン」
俺は空を見上げた。夕陽が雲を染めて、美しい橙色の世界を作り出している。
「今の俺は、お前のおかげで、まだ人間だ」
風が涙を乾かしてくれる。サシャの墓前で、俺は静かに誓った。
「また来るよ。今度は妻と一緒に」
これからも、人に食べてもらうために料理を作ろう。誰かの笑顔のために、誰かの「美味しい」のために。
それが俺にできる唯一の贖罪であり、愛というものの形なのだから。
「なんか最初に期待してた話と違う」と思われた方も多いと思います。
最初の数話は「無理。エタるor削除確定」などと思いながら書いていましたが、想定以上の反響をいただき、閲覧していただいた皆様のおかげでなんとか完結できました。本当にありがとうございます。