駐屯兵団のピクシス司令がこう言っていたらしい。「超絶美女の巨人になら、喰われてもいい」と。
「俺それわかるわ」
「マジ?」
そう言うと、食堂の一角で笑いが起きた。
俺の隣でコニーは笑っていたが、斜め前にいるミーナは気持ち悪いものを見るような目で俺を見ていた。
兵団の飯は相変わらず味気なく、量も足りない。それでも冗談ひとつで笑えるくらいには、まだみんな余裕があるらしい。
俺が志望先を駐屯兵団から調査兵団に変えたことは、すでに同期にも伝わっていた。背後から冷ややかな声が投げかけられる。
「よっ、巨人の名誉養分候補」
俺は苦笑いを浮かべて受け流した。本当の理由なんて、口にできるはずもない。
喰われたいんじゃなくて、喰いたい。
同期の前でそんなことを言うわけがない。少しでも零せば、笑いではなく恐怖の沈黙が訪れるだろう。俺は空気が読める男なのだ。
夜が深まり、就寝前の男子寮。ランプの光が揺らめく中、俺はダズと他愛もない話をしていたが、向かいのベッドでミリウスとナックがアニ・レオンハートの話題に熱中しているのが、つい耳に入った。
「罰ゲームで一緒に組んだけどさ。無言で関節極められてマジで怖かった」
「お前すげえな。あいつに睨まれたら俺はそこで諦めるわ」
「怖いよな、あの目……」
「あ、でもよ。後ろ姿はいいよな」
「は?」
「いやホラ。うなじ、チラチラ見えんだよ。あのフードから」
「どこ見てんだよ」
二人の会話に、己の内側から湧き上がる衝動を抑えきれず、俺は割って入った。
「確かに、あれはいいな」
「お、フィンが食いついた」
「珍しい」
喉の奥から滲み出る言葉を止められなかった。
「なんかこう……噛みつきたくならないか?」
部屋の空気が凍りついた。
誰かが息を詰まらせた。誰かが咳き込んだ。誰かのベッドから、身体が滑り落ちる音。
「お前……」
「いや、それはちょっと……」
窓際のベッドから、ベルトルトの赤く染まった顔が見えた。
「ベルトルト、顔真っ赤じゃねぇか!」
少し離れた場所で、ライナーが鋭い目で俺を見据えながら言った。
「やめとけ。殺されるぞ」
「別に変な意味じゃない」
弁解しようとした俺に、ジャンが呆れた表情を浮かべて噛みついた。
「バカお前、どう考えても変な意味しかねぇだろ」
本当に性的な意味ではなかった。だが、誰にも理解されないだろう真意を説明する気力は湧かなかった。
あのうなじを見ていると、どうしようもなく「うるさい」のだ。あの白い肌の下、筋肉と骨の奥で――何かが叫んでいる。何かが蠢いている。何かが解放を求めている。
多くの奴らは、静かだ。
だがアニの中には何かがいる。得体の知れないものが脈打っている音が、俺には聞こえる。
それを俺は、「喰えるかどうか」の音と勝手に名付けていた。
アニに限らず、時々俺には「こいつなら喰える」と直感的に理解できる人間がいる。
理由はわからない。体格でも、性格でも、強さでもない。ただ、音が聞こえる。その人間がいるだけで、なんとなく空間がざわつくというか、心の底がぐらぐら揺れるような、そんな音を感じる。
うるさいやつがいる。そのやかましさが、俺を惹きつける。
たとえば、エレン。
壁の外に出る、自由が欲しい、全部ぶっ壊す――何度も何度も、怒鳴ってる。飢えてるみたいに。ああいうのは、喰える音がする。
ライナーもだ。
表面は冷静を装っているが、その厚い背中からは悲鳴が漏れている。でかい図体の奥で、何かが絶え間なく泣き叫んでいる。間違いなく、喰える。
ベルトルトは少し違うかもしれない。
だが、あの静かな佇まいの下に、異常な速さで脈打つ心臓がある。恐怖と罪悪感に震える心臓が。
こいつら全員、「中」に何かある。
気づけば俺は、無意識に人を選別するようになっていた。
喰えるか、喰えないか。それだけで。
誰かに打ち明けたことはない。アニのうなじの話でさえドン引きされたのだ。「エレンなら喰えそう」なんて口にすれば、狂人として壁外に追放されるだろう。
どうして俺は、喰えるか喰えないかで、人を見てるんだろう。
まともじゃないって自分でも思う。でも、そういうやつらの近くにいると、空腹が少しだけ紛れる。
ただ、サシャだけは別だ。
あれはなんか違う。パンを盗んで走り回り、肉を奪い、常に食べ物のことしか考えていないように見えるサシャは。
あいつのことは、喰いたくない。
***
トロスト区。初陣だった。
今、この言葉を口にできるということは、俺がまだ生きているという証だ。
超大型巨人が出現したと聞かされた時こそ空気は沈んでいたが、統率の取れた隊列で戦線に立った時、俺は本気で勝てると思っていた。ようやく訓練の成果を見せる時が来たのだと。
「前方に五メートル級、接近!」
「各自、持ち場に散開!」
「第四班は東へ!」
指揮の声が響き、立体機動装置のワイヤー音とガスの噴射音が交錯する。これは何度も反復した動きのはずだった。
「いくぞ!」
同期の声に頷き、壁を蹴った瞬間――何かが違った。
訓練場の木製の標的、そして以前見た被験体の巨人との決定的な違い。それは、全身が自由に「動く」ということ。
巨人が頭を回転させ、俺たちを見た。
あの目。あの目だ。
急に、何も考えられなくなった。喰いたいとか喰いたくないとか、もうそれどころじゃなかった。
厳しい訓練で叩き込まれた作戦も、立体機動装置の扱いも、戦術も、全部すっ飛んだ。ただ目の前に巨人が現れた瞬間、脳が真っ白になった。
誰かが叫んでいる。聞き取れない。耳鳴りがする。
心臓が喉まで突き上げてくるような感覚。鼓動が耳に響く。汗が目に流れ込み、視界が歪んだ。
俺が見た最初の犠牲者は、フランツだった。ハンナを守るんだと意気込んで飛び立ったあいつは巨人の腕にすぐ捕まって、何の抵抗もできずに……一瞬で下半身を喰いちぎられていた。
「フィン! フランツを助けて!!」
「助け……つったって……!」
上半身だけになったフランツにすがりつくハンナの相手をしている余裕など、俺にはなかった。
「うわああああああっ!!」
すぐ隣で、別の女性兵士の悲鳴が途切れた。振り向く余裕もない。
「とりあえずここから離れろ! お前も喰われるぞ!」
「フランツはまだ喰われてない! だから、救護班を……!」
もう相手にしても仕方がない。俺は彼女の懇願を無視して、ワイヤーを前方の建物の壁に射出した。とりあえず、巨人に見下されない屋根の上に逃げ出してしまいたかった。
その後すぐにアルミンが二人の前に飛んで行ったようだが、彼も結局は二人を置いてどこかに飛んで行ってしまった。
俺が行く先を決めかねて屋根の上で様子を伺っていると、七メートルはありそうな巨人が、建物の角から現れた。それは緩慢な動きに見えたが、トロスト区の狭い路地では、それすら致命的なスピードだった。
「おいハンナ! お前も逃げろ!」
俺は屋根の上から叫んだ。しかしハンナは巨人の姿を認めたにも関わらず、なおもフランツへの人工呼吸を繰り返していた。
正気じゃない。巨人が近付いているんだぞ!?
巨人の口が開く。顎が外れるように大きく。無表情のまま。
ハンナの体が、歯の間に挟まれた。
「いやぁぁぁぁぁ!!」
彼女の悲鳴と、骨の折れる音。
血が噴き出し、周囲の壁を赤く染める。喰われる。潰される。吹き飛ばされる。俺は愕然としながら、屋根の上でその光景をただ眺めていた。
一時撤退の鐘の音が、遠くで鳴り響いている。
その後、何人も目の前で消えていった。
視界の端で、仲間の体が千切れる。骨が砕ける。誰かの腕が飛び、誰かの顔が潰れた。
そのたびに胃が跳ね、喉が痙攣する。嘔吐感と恐怖で、意識が遠のきそうになる。
それでも、立体機動装置のグリップだけは手放さなかった。それが唯一の生存線だった。
「撤退命令だ! 本部に集合、急げ!」
誰かの声が聞こえて、俺は弾かれたように動いた。
建物の間を滑るように進む。もう考えない。本能だけが体を動かす。ワイヤーを射出。ガスを噴射。体を引く。再び射出。再び噴射。
すぐ後ろで誰かが叫んだ。
振り返ると、同期のフーゴが十メートル級に捕まっていた。
「たす……け……」
弱々しい声。それが彼の最後の言葉になった。
指令は「本部に集合」だ。
俺は彼を見捨てた。このままじゃ、自分の命さえ守れない。誰も助けられない。
「くそ……クソッ! クソがっ!」
怒りで涙が滲む。情けなさに歯を食いしばる。
本部の塔まであと少し。あと三つ、建物を越えれば――
「来るな!」
塔の方から悲鳴が聞こえた。目を凝らすと、すでに巨人が塔を取り囲んでいた。俺はこの場から離れて逃げるため、ガスを噴かせようとしたが……もう、ほぼ空っぽだった。
「なんで……なんで俺が、こんなとこで……」
俺は建物の屋根の上に両膝をついた。涙で視界が滲む。己が死ぬことを、もう悟っていた。
「なんで俺が喰われなきゃなんねーんだよっ!!」
俺は叫んだ。はっきりと叫んでいた。心の中ではなく、声に出して。
この叫びが、巨人の注意を引いたらしい。
十メートル級の異様に長い腕を持つ巨人が、ゆっくりと俺の方を向いた。
「くそ、くそ、くそ……」
方向転換。ついワイヤーを別の建物に打ち込もうとして、ガスがほぼ残っていないことを思い出した。
背後から、息の詰まるような熱気。人の体温よりずっと高い、生々しい熱。
振り返った瞬間、巨人がそこにいた。
でかい。汚い。歪んだ顔。俺を見ている。あの虚ろな目が、確かに俺だけを捉えている。
巨人の口が開く。歯が見える。舌が見える。喉の奥が見える。
あ――喰われる。
「嫌だ……いやだいやだいやだいやだいやだいやだッ!!」
必死に次の一手を探す。俺はパニックに陥っていた。目の前には巨人。あと数秒で、俺がその胃袋に収まってしまう。
そこまで考えて、ようやく立体機動のことを思い出した。ガスはほとんど空っぽだが、こいつを一体仕留めるくらいなら、まだ――なんとかなるかもしれない。
巨人が手を伸ばしてきた。俺は屋根の上を全力で走り、必死に巨人の首筋を狙えるような位置を確保して、慌ただしくワイヤーを放った。
巨人に刺さった。ワイヤーが巻き取られる音、金属が軋む悲鳴。
足が宙を蹴る。弧を描くように体を旋回させる。巨人が振り向こうとするが、遅い。滑車の原理と落下の勢いだけを頼りに、俺はただ本能で体を動かした。
そして巨人の首筋に肉薄した瞬間、右手の刃を全身の力で振り下ろす。
「……死ね!」
視界が赤く染まる。温かい液体が顔にかかる。金属が肉を切り裂く感触があった。巨人のうなじに刃が食い込み、巨人の体が崩れ落ちて、それは地面に倒れ込んでいった。
そして俺も着地に失敗した。屋根の上には戻れず、体は固い地面に転がっていた。
肘と膝を擦りむき、制服が破れる。膝をつき、砂煙の中で咳き込む。息ができない。足が震えて立てない。血と汗が混じり、目が焼けるように痛い。
だけど――生きていた。
巨人が倒れた場所から少し離れた路地の影。瓦礫と血の匂いが立ち込める死角に、俺は身を潜めていた。
肩が上下に激しく揺れている。まだ呼吸が整わない。酸素を求めて口が開き、閉じる。胃が痙攣している。内臓全体が波打つように動く。
「はぁっ……はぁっ……」
戦闘のあとの震えが、ようやく引いてきた。手の震えを見つめる。血に濡れた指が陽光に照らされ、鮮やかに輝いている。自分の血か、巨人の血か、もはや区別がつかない。
でも、それだけじゃない。さっきから、腹の奥が……うるさい。
空腹? いや、これは違う。
肉体の内側から何かが這い上がってくる感覚。
意志とは関係なく、足が動き始めた。俺はふらふらと、崩れた巨人のうなじに向かって歩き出す。
周囲に仲間はいない。巨人も、本部に引き付けられている。
もうガスがないから、俺もここから動けない。次の巨人が来たら流石にもう死ぬ。
さっき倒した巨人の体は、すでに蒸気を上げて消えかけていた。
だが、まだ残っている。
刃が食い込んだ場所。致命傷を負わせた、あの一撃の痕。皮膚がめくれ、まだ熱を持って蠢いている肉。
赤黒く濡れたその組織に、右手を伸ばした。
「ふざけんな、ふざけんなよ……」
ぐちゃっという音と共に、指が肉に沈む。
粘る。裂ける。温かい。
脈打つような感触。まるでまだ生きているかのようだ。
「お前が俺を喰うんじゃない、俺が、お前を喰うはずだっただろ……!」
俺は、巨人の傷口に齧り付いた。
躊躇なく。考える間もなく。本能だけが体を動かす。口の中に広がる血と肉の塊。
塩気も、鉄臭も、腐臭も、すべてが舌に乗る。味覚が過敏になっているのか、一つ一つの感覚が鮮明に脳に届く。
噛む。嚙み切る。咀嚼する。
グチャグチャという音とともに、歯が肉を引き裂き、顎が上下する。唾液と混ざり、半液状になった肉片が舌の上を転がる。
飲み込む。飲み込む。もっと、もっと。
むさぼるように。獣のように。人間性を忘れたように。
そして目を閉じて、あの時のような「視界」が現れるのを待った。
………来ない。何も、見えない。
期待した感覚が、どこにも訪れない。体は変わらない。意識は同じままだ。
「……なんだ、これ……違う……」
前に巨人の肉を喰ったときは、自分の中に何かが流れ込んでくるような感覚があった。それは生命の本質に触れるような強烈な感覚だった。
それなのに、今は――何もない。
俺は手を止めて、地面にへたり込む。手の甲で唇を拭うと、赤黒い血が滲んだ。
喉の奥が焼けているような気がしたが、胃は冷たい。心臓も、脳も、静かだった。
「……なんで、満たされない……?」
その声は俺の口から出たはずなのに、まるで「俺じゃない何か」が喋っているようだった。
目の前の巨人の肉片は、ただの死体だった。そんなものを喰らったところで、「誰も」いなかった。
腐った肉。動かない塊。無機質な物体。空っぽの容器。魂を失った殻。
「記憶……」
小さく呟く。
ただのタンパク質じゃない。骨でも筋でもない。
俺は、あの時の「あれ」が欲しかった。巨人の視界をジャックするような感覚と、誰かの、記憶。
渇望していたのは、形のあるものではなかった。それは血肉ではなく、その向こう側にある何か。
俺は自分の手を見つめた。血に染まった指先。まごうことなき人間の指だ。
「違う巨人なら……」
立ち上がる。足がふらつく。でも、目的意識だけは明確だった。
次は、違う巨人を探す。
だからまだ死ねない。生き残って、調査兵団に入って、俺は……
「……次はもっと、うるさい奴がいい」
「全兵士は速やかに集合場所へ向かえ!」
「生存者確認を急げ!」
本部で何が起きているのかも知らないまま、結局、俺は生き残った。血を拭い、制服を整える。表情も平静に保つ。
「怪我は?」
呼びかけてきたのはサシャだった。
「かすり傷だけだ」
「そうですか。お互い、運が良かったですね」
俺は嘘をついた。しかし彼女は安心したように笑った。
少し前を歩きながら集合場所に向かうサシャの背中を、俺はじっと見つめた。
正確には、そのうなじを見ていた。
サシャのうなじからは何の音も聞こえなくて、俺は少しだけ安心した。