俺がかろうじでこの戦線を生き残り続けてきた話なんて、別に聞きたい奴もいないだろ。
アニが女型の巨人だったとか、ライナーとベルトルトが裏切り者だったとか、俺がわざわざ説明しなくても、どうせ全部知ってんだろ?
それを知ったところで、大した衝撃も絶望もなかったよ、俺は。
あったのは「やっぱりな」という感覚と「逃げられた」という後悔だけ。
クーデターの時も、俺はただ状況に流されていただけ。リヴァイ班でもハンジ班でもなかったからな。
ある日突然調査兵団の活動が停止したかと思ったら、あのクリスタがヒストリアとかいう名前の女王様になってた。
俺は調査兵団の一員だったけど、ずっと蚊帳の外にいた。
だから詳細は省くが、とにかくまだ生きている。
で、今。もう猛烈に腹が減っていて……ものすごく不機嫌なんだ。これ以上思い出させないでくれ。
俺がそう言うと、駐屯兵団あがりのサンドラとゴードンは、あからさまにガッカリした表情を見せた。
トロスト区での戦闘以降、俺はもう巨人の肉を一欠片も食べていなかった。
ウォール・マリア奪還作戦が迫っている。俺はまた、目的意識というものを失っていた。ただ流されるままに戦場に向かい、この空腹が消えてくれることをずっと祈っていた。
***
俺はマレーネ班の一員として、ウォール・マリア奪還作戦に参加していた。
ワイヤーを放ち、小型巨人の首筋に鋭い刃を叩き込む。蒸気が立ち上る中、さらに次の獲物へと飛んだ。
「フィン、左側!」
同僚の叫び声に反応し、素早く方向を変える。すでに二体の巨人を仕留めていた。疲労は蓄積されていたが、まだ戦える。まだ、生き残れる。
そう思った矢先だった。
全身が獣じみた体毛で覆われた、異形の巨人。そいつと目が合ったような気がして、思考が止まった。理性より先に、背骨の奥で「ヤバい」と叫ぶ本能の声が響いた。
「全員、散開せよ!」
班長の命令が響く。しかし、その声が途切れる前に、獣の巨人は周囲の岩を掴み、投げ始めた。
最初の一撃は遠くで爆発音を立てた。だが次の瞬間、視界が回転した。
「な……」
声を発する間もなく、巨大な岩塊が俺の右側に直撃した。
激痛が走り、右腕が宙を舞うのが見えた。それが自分の腕だと、しばらく認識できなかった。鮮やかな赤が視界を染め、空中で回転しながら、落下する。
今度こそ、終わりか――
地面に叩きつけられる衝撃と共に、意識は闇に呑まれていった。
冷たい。
それが最初に感じた感覚だった。俺は目を開けた。灰色の空がぼんやりと見える。周囲には兵士と馬の遺体が散乱していた。俺が倒したはずの巨人の残骸は、すでに蒸発してどこかに消えていた。
「……生きてる……のか?」
右腕の痛みを確かめようとして、凍りついた。腕がない。肩から先が完全に消失していた。血は止まっているように見え、包帯を巻いて止血した形跡がある。
誰がやった? 周りは死体しかない。俺が自分でやったとしか思えないが、記憶がない。
「生存者確認! こちらに生存者!」
遠くから声が聞こえてくる。駆け寄ってくる兵士は調査兵団の連中ではなかった。駐屯兵団だ。
――戦闘が、終わっていた。どうやら既に遺体の回収が始まっているようだった。
駆け寄ってきた兵士の顔に安堵の表情が浮かぶ。
「良かった、あと少し遅れていたら……」
が、兵士は言葉を切り、俺の顔を見つめた。
「君……その口は?」
「え?」
そう言われて気が付いた。
唇の裏に、ぬるりとした感触。舌で転がして……俺は全身を硬直させた。温かい、肉。血の味。繊維質の破片が歯の裏に残っている。
倒した巨人はもういない。蒸発してる。じゃあ、これ……何だ?
そんなわけないよな? まさかな? 戦場のどさくさで、無意識に、味方の兵士を、なんて――
その想像が脳裏に浮かんだ瞬間、胃の奥が痙攣した。
恐怖が背筋を走った。答えを知りたくなかった。
「どうした?」
兵士が心配そうに尋ねるが、俺は何も答えられなかった。
口の中にあった肉は、もう形を失っていた。噛み砕いた覚えも、咀嚼した記憶もないのに、舌が血の味を覚えていた。
***
兵団幹部たちが集う会議室には、秘密と緊張が濃密に漂っていた。珍しく、そこに女王ヒストリアの姿はなかった。
閉め切られた扉の向こうでは、警備の足音が時折響くだけ。その足音が遠ざかるのを待つように、ザックレーが喉を鳴らし、会議の口火を切った。
「港の建設工事は順調に進んでいるようだな」
指先で机を叩く音が、参加者全員の注意を引き寄せる。
「で、今日は……」
「女型の巨人の継承について、話しておきたい」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凝固した。
「……アニ・レオンハート」
ナイルが小さな声でその名を呟くと、会議室の誰もが身を強張らせ、僅かに背筋を伸ばした。
かつて女王と同期の訓練兵だった女。その名前は今や兵団の誰もが口を閉ざす存在だった。
ザックレーはこめかみを指で軽く叩きながら、眼下の影を深めた。
「陛下の前では言いづらいこともあるだろう。もちろん後日報告はするが、今日は忌憚のない意見を聞かせてほしい」
その言葉に、全員が僅かに姿勢を緩めた。権力を持つ者たちだけの密室で、彼らは本音を語り始める。
「水晶体の中で意識があるかどうかも不明。このまま寿命を迎えれば、力は失われる」
ナイルの言葉に、幹部が互いに視線を交わす。彼らの顔には、焦りと不安が隠しきれずに浮かんでいた。
「それは困る」
幹部の一人が言った。
「ただでさえ熟練兵は減り、新兵の訓練も追いついていない。我々にとって、巨人の力は貴重な兵器だ」
「だが継承の手段がない。いま自発的に巨人化できるのは……」
「エレン・イェーガーとアルミン・アルレルトの二名。しかし、彼らでもあの水晶体は砕けませんよ」
割って入ったのはハンジだった。
「ハンジ。マーレの義勇兵たちの技術提供は?」
ザックレーが問うと、ハンジは小さく首を振った。
「世界情勢や建設技術などは積極的に供与してくれていますが、巨人に関する情報を出し渋っている印象があります」
ハンジの言葉に、会議室には一瞬の沈黙が降りた。やがて一人が、重い決意を込めて言葉を発した。
「……それでも、いざという時に備えて継承者だけは絞っておくべきだ。混乱を避けるためにもな」
「候補はいるのか?」
ザックレーの一言を合図に、会議室には重い沈黙が落ちた。
誰もが口を開こうとしない。名前を口にするということは、その者に死の烙印を押すことに等しかった。
「ヒストリア女王に……」
「おい、不敬が過ぎるぞ」
ナイルの声には怒りが滲んでいた。彼は顔を顰め、別の提案を促すように視線を巡らせる。
「サシャ・ブラウスはどうだ?」
一人が慎重に提案した。
「近接戦にも長けているし、生存率も高い」
その提案に頷きかける者も現れ始めた矢先、鋭い声が空気を切り裂いた。
「待ってくれ」
ハンジの声が部屋の空気を裂いた。メガネを押し上げながら続ける。
「女型だからといって、継承者が女でなければならない理由はない」
その一言で空気が変わった。誰もが自然とハンジに注目する。
「……では、誰を想定している?」
ザックレーが尋ねた。ハンジは一度深呼吸してから答える。
「フィン・トーテツ」
その名が落ちた瞬間、会議室は静まり返った。
「誰だ?」
「そんな兵士、聞いたことがない」
声には警戒と疑念が滲んでいた。ハンジは淡々と説明を始めた。
「調査兵団所属。ウォール・マリア奪還作戦の生存者。身体能力もそこそこ、訓練兵時代の成績も悪くなかった」
ハンジは一拍置き、懐から数枚の報告書を取り出した。皺の寄った紙束を机に広げると、会議室の空気が変わる。
「そしてトロスト区の戦場で、『巨人の肉を口にしていた』という報告がある」
その言葉が、会議室の空気を凍らせた。椅子の軋む音が鳴り、誰かが息を呑む音が聞こえた。
「は……?」
「……正気か?」
「ただの狂人じゃないか」
嘲りや不信の声が交錯する。ハンジは報告書を見つめながら、言葉を紡いだ。
「彼には意志というものがない」
その言葉に、兵団幹部たちの表情が強張る。
「誰かを守りたいとも、戦争を終わらせたいとも思っていないようだ。ただひとつ、明確にあるのは――『喰う』という衝動だけ」
部屋の温度が一気に下がったように感じられた。誰かが不安げに口を開く。
「それはただの空腹ではないのか?」
「違う」
ハンジの声は強くなる。
「彼が喰いたがっているのは『肉』じゃない。私には、彼は巨人という存在そのもの……その中身を、記憶を、無意識に取り込もうとしているように見える」
「……つまり、そのフィン・トーテツとやらは巨人の本質を感覚的に理解していると?」
ナイルが恐る恐る尋ねた。
「かもしれない」
ハンジは報告書から顔を上げ、部屋の全員を見渡した。
「普通の兵士にはない、奇妙な直感と執着。それは危険であると同時に、制御可能な力でもある」
「あぁ……餌を与えれば動くってことか」
幹部の一人が震える声で呟いた。
「兵団の命令を彼に流し込めば、それが彼の『存在理由』になる。うまくやれば、非常に従順な兵器になり得るな」
ずっと黙っていたピクシスが、少しだけ微笑んで言った。
「危険だが使いやすい。まるで言葉の通じる獣のようだ」
「……私も、実際に見た」
ハンジが言う。
「彼が、巨人の肉を口に含む瞬間を。……信じられないほど、嬉しそうだった」
その言葉が、会議室全体に染み込むように響いた。誰もが、その光景を想像して身震いする。
しばし、誰も言葉を発しなかった。針が時を刻む音だけが、部屋に鳴り続けていた。
***
右腕の感覚が消えてからどのくらい経ったのか、正確にはわからない。
俺の仕事はいつの間にか事務ばかりになっていた。片腕がないからそれも仕方ない。
ずっと蚊帳の外にいるだけの兵士だった俺は、今や戦力外の兵士になっていた。
エルヴィン団長は片腕でも馬に乗り、立体機動装置を使いこなし、前線に立っていたのにな。
マーレへの潜入調査だって、俺は誘われてすらいない。そんな計画、サシャに聞かされてから初めて知った。
起きて、仕事して、食って、横になる。腹が鳴って、目を覚ます。そんな日々が続いていた。何も変わらない。何も湧いてこない。ただ、今日も腹が減っていた。
この日も、俺はただ書類を眺めていた。
ノックの音がして、扉が開く。
「よっ。生きてましたか?」
顔を覗かせたのはサシャだった。手に包みを抱えている。笑っていた。いつものように。
「マーレに行ったんじゃなかったのか」
フィンは目を逸らさずに言う。
「発つのは明日ですよ」
サシャは勝手に椅子を引いて、俺の隣に座る。そして、持ってきた包みを開いた。
「はい、差し入れ。特製干し肉と……特製黒パン!」
「特製って。どうせ作ったのお前じゃなくてニコロだろ」
「袋には包んだのは私です」
「ったく……」
サシャが笑いながら包みを差し出す。俺は無言でそれを受け取り、視線を落とした。
「前も、干し肉くれたよな」
「ああ、あのとき。倉庫の裏でこっそり食ってたら、結局見つかりましたよね」
「覚えてたのか」
「忘れませんって。あのときの教官の表情ときたら……」
サシャは、俺に対する差し入れのはずだったパンを取り上げ、ちぎって自分の口に入れた。じっくり味わうように、目を細めている。
「……サシャは、静かだな」
サシャが咀嚼の手を止めて、目を丸くする。
「え? うるさいってよく言われるんですけど」
「違う。そういう音じゃない」
俺は目を伏せたまま続けた。
「中にある音だ。心臓の音とか、胃が軋む音とか……俺には、うるさい奴がわかる。中に『何か』を飼ってる音がするやつら」
「……へぇ?」
いつの間にか、サシャはパンを全て食べ尽くしていた。今は干し肉の一欠片を噛んでいる。俺のための差し入れじゃなかったのかよ。
部屋の静けさに、彼女の咀嚼音だけが響く。
やがて、サシャが静かに呟いた。
「それ、褒めてるんですか?」
「どうだろな。俺にも、よくわかんねぇ」
その言葉に、サシャはふっと笑った。
そして立ち上がり、少しだけ干し肉の残りを机に置いた。
「美味しいものがあったら、お土産にしてあげます」
「食えるもんで頼む」
「そーいう言い方やめなさい。まず感謝することが先ですよ!」
そう言って笑いながら、サシャは部屋を出ていった。足音が遠ざかっていく。
俺は机のままに少しだけ残された干し肉を手にとって、口に運び、噛む。塩気があって、硬くて、しょっぱい。
――腹の音は、少しだけ、静まっていた。
転換点は、サシャたちがマーレに発ってから、すぐだった。
昼過ぎ、執務室の窓から見える空は重たく曇っていた。誰かが走る足音が、廊下を通り過ぎていく。それも一度や二度ではなく、何度も。
何かが起きている。ドアがノックもなく開いた。
「大変なことになった」
入ってきたのはフロックだった。
相変わらず不機嫌そうな顔をしている。だが、今日はそれ以上に何かを抱えているようだった。
「何かあったのか?」
「……エレンとミカサが、消えた」
フロックの顔には、怒りでも哀しみでもない、ただ「言葉を選ぶのが面倒」だと言わんばかりの諦めがあった。
その一言で、俺の手元から書類の束が滑り落ちた。乾いた音が部屋に響く。何枚かが床に散らばっていく。
「いなくなった?」
「ああ。二人ともマーレで行方不明だ。兵団の誰にも、エレンから何の連絡もない。潜入調査に同行した連中から、さっきようやく便りが届いた。他の連中はいったん島に戻る予定らしい」
フロックが続ける。
「兵団は隠そうとしてる。だが無理だ。エレンがいなければ、抑止力はもうない。……俺たち、終わりかもしれないぞ」
「……それで、どうするんだ」
「どうもしねぇよ。誰も何もできねぇ。マーレは宣戦布告の準備を進めてるらしいからな。どの程度猶予があるか分からないが……このままじゃ、世界中がこの島を囲む。それだけだ」
フロックは吐き捨てるように言い残して、部屋を出ていった。閉じられた扉の向こうで、彼の足音が遠ざかっていく。
この作品は、エレンとミカサが二人で逃避行したIFルート世界が舞台です。