朝から、兵団本部は騒然としていた。
伝令が駆け、兵士が怒鳴り、資料が机に叩きつけられる音が、館内のあちこちから響いていた。
騒ぎは尋常ではない。騒いでいる者たちの口からも、具体的な情報はなかなか出てこなかった。ただ、一つだけ確かな事実がある。
エレン・イェーガーとミカサ・アッカーマンの二人が、マーレ上陸後に忽然と姿を消した。
痕跡がまるでない、という事実だけが、兵団を真綿のように締めつけていた。
「自発的な失踪なのか、それとも何者かに連れ去られたのか……」
「目撃情報すらないなんて異常だろう! ハンジは、アズマビトの連中は何をしている!?」
司令室では、複数の幹部たちがそれぞれ異なる推測を口にし、互いを睨みつけていた。
「ジークが裏で糸を引いている可能性もある。最初からマーレが組織的に動いていたと考えるべきでは?」
「証拠はない! 憶測で兵を動かせるか!」
「だが、抑止力が消えた今、敵国が動かない保証もない!」
荒れる会議、立ちすくむ伝令。指示が二転三転し、末端の兵士たちは指揮系統の混乱に翻弄されていた。
廊下には、無言で装備を整える兵士と、呆然と立ち尽くす兵士が交差していた。ざわつきは徐々に焦燥に変わり、焦燥は苛立ちに変わっていく。
「……また戦争になるんだな」
誰かのぼそりとした声が、空気を凍らせた。
そんな状況下でも、俺はのんきに食堂でスープをすすっていた。
フロックが息巻きながら通り過ぎ、俺に向かって怒鳴りつける。
「島が燃えるって時に、呑気にメシか!」
エレンがいなくなってからというものの、こいつは以前に増して余裕がない。俺はフロックに聞こえないよう、静かに呟いた。
「……よく吠える奴だ。喰われる寸前の家畜かよ」
***
石造りの建物の一室。曇りきった窓から、マーレの街の輪郭が滲んで見える。
そこに、ジーク・イェーガーはいた。
彼は椅子にもたれながら、両手を組んでいた。視線は机の一点を刺すように見つめ、その目の奥には焦燥がこびりついていた。
「エレンが、消えた」
誰にも届かない問いを呟いたあと、ジークは息をついた。組んだ手をほどき、額を押さえる。
(マーレの精神病院で接触するはずだった。あいつは一体何を……)
思考が何度も堂々巡りする。
(いずれにしても、早く見つけないとまずい)
椅子が軋む音とともに立ち上がる。部屋の隅に置いてあったグラスを掴むが、飲まずに置き直す。
パラディ島に先を越されたら、彼らはきっとエレンの継承をためらわない。すぐに他の誰かに巨人の力を移そうとするはずだ。それだけは、避けなければ。
ジークは顎に手を当てながら、かすかに目を細めた。
(俺の声なら、きっとエレンにまだ届く。グリシャの洗脳を解き、必ず二人で計画を実現させる……でも、どうやって?)
今、ジークは動けない。マーレにいる以上、表にも裏にも出られない。
(……イェレナに懸けるしかないのか)
***
イェレナは歩きながら、黒い手袋の指先を軽く噛むようにして外す。
(エレン・イェーガー。ジークの弟、英雄となるべき存在。だがこうなった以上、彼のことはもう諦めた方がいい)
兵団がエレンを確保すれば、彼は必ず排除されるだろう。それが合理的判断であり、彼らのすることだ。
そう考えたイェレナは、既に動いていた。
秘密裏に巨人化薬を確保していた。アニの水晶体を割るため、顎の巨人の牙も入手済みである。こんな小さな一欠片だけであの水晶体が割れるとは思っていないが、ハンジと義勇兵たちなら、あらゆる方法を編み出すだろう。
兵団は女型の継承方法を探している。まずはそれに協力し、エレンの捜索を同時に進めてもらう。
(私は……代替案を用意しておく。ジークに従う「次の継承者」。保険は、最低限必要だ)
イェレナは、女型の巨人の最有力継承者とされている兵士の名前を頭に描いていた。
フィン・トーテツ。
数日前、兵団の記録でその名を目にし、少しだけ様子を見た。兵士としてはそれなりに優秀。だが……彼にはおよそ、中身と呼べるようなものが、ない。
空っぽな人間。命令にただ従うだけの兵士。
ちょうど、フロックをうまく操作したときのことを思い出した。
あのときも、特別なことは何もしなかった。ただ彼の「自尊心」に触れるような言葉を選んだだけだが、たったそれだけで、フロックはエレンとイェレナを簡単に引き合わせてくれた。
フィンも、きっと同じような兵士だろう。イェレナの口元に笑みが浮かぶ。
(……もっとも、彼は女型の継承者候補だ。兵団が、一人に複数体もの巨人を喰わせるとは思えない。だが唾をつけておく価値はある。今は、そういう時期だ)
***
「女型の巨人 継承者:フィン・トーテツ」
通達はあっさりしたものだった。兵団本部の一室で渡された一枚の書類を、俺はじっと眺めていた。俺の寿命は、こんな短い文字の中に収められていた。
先日、マーレの潜入調査から急いで帰ってきた同期と今後について話していた時の光景が、鮮明に蘇る。
「兵団は女型の継承を急いでいる。水晶体を砕く技術の開発に大急ぎで取りかかっている様子だ」
アルミンがハンジから聞いた事実を仲間たちに告げる。このときは珍しく、そこに俺もいた。
「技術はさておき、継承者はどうなるんだ?」
コニーがそう言うと、ジャンが何気なく答えた。
「女型ってんだから、女が継ぐ方が自然なんじゃないか」
誰もがうっすらと考えていたことを、ジャンは思わず口にした。
「じゃあ……」
そこまで言って、コニーは思わず口をつぐんだ。ジャン、コニー、アルミンの視線は、一様に同じ方向を向いていた。
窓際でリンゴを皮ごとかじろうとしていたサシャは、その視線に気づくと、口元に浮かべた笑みを一瞬揺らがせた。
けれどすぐに、いつものように肩をすくめた。
「そんなに私の力が必要ってことなら……まぁやりますけどね」
そのとき、カタンという音が室内に響いた。俺が机に置いていたマグカップを倒した音だった。
「やめろ」
一気に静まる空気。
「ふざけんな。サシャに喰わせるわけねぇだろ」
俺は椅子を押して立ち上がる。その勢いで椅子が床に倒れ、鈍い音を立てた。
「俺が継ぐ。……喰うのは、俺だ」
ジャンとアルミンが言葉を失い、床に落ちた椅子を見つめた。サシャは食いかけのリンゴを机に置き、俺に何かを言いかけてやめた。コニーは窓の外を見て、わざと目を合わせないようにしていた。
誰にも、俺の発言の真意は分からなかったと思う。なんせ俺自身にも分かっていなかったのだから。
***
廊下をぼんやり歩いていると、突然背後から肩を掴まれた。
振り向くと、捕虜のニコロが息を切らして立っていた。レストランで働いていると聞いていたのだが、わざわざ俺を探しにきたらしい。こいつ随分と自由に動いてるな。
汗で濡れた前髪の下から、鋭い目線が俺を射抜く。
俺は立ち止まり、通路の窓から見える灰色の空を見つめながら、ニコロが何か言うのを待っていた。
ニコロは筋が浮き出るほど強い力で、その拳を握りしめていた。
「聞いたよ。女型を継承するって……」
「そうらしい」
「それって、サシャを守ってくれたんだよな?」
「違う」
「あんたが継ぐって言わなきゃ、あいつは絶対……断れなかったと思う」
「継承者を決めるのは俺たちみたいな末端の兵士じゃない。全て兵団幹部の会議で決められた」
そこまで言って、俺は口を閉ざした。
瞼の裏に、継承者候補に挙げられた瞬間のサシャの表情が浮かぶ。恐怖を隠したような笑顔だった。
「フィン、お前、サシャのこと……」
「だから、違う」
一言だった。迷いも、逡巡もなかった。
ニコロが戸惑いの顔で口を開きかけるが、俺はそのまま踵を返して歩き出した。
「あいつが継ぐのは違う。俺が思ってるのは、それだけだ……」
背中越しに漏れたその声は小さかったが、ニコロには明確に聞こえていたようだった。彼は言葉を失い、その場に立ち尽くしている。
俺は歩きながら、握りしめられたままの自分の拳を見た。まだ震えている。でもそれは、怒りでも悲しみでもない。
「別に、守りたかったわけじゃない……でも」
もしも、サシャが巨人になってしまったら。俺は彼女のことも「喰いたい」と思ってしまったのだろうか。
あんなに「静か」だったサシャが、他の奴らみたいに、「うるさく」なる、なんて。
そんな想像に、俺は何故か耐えられる気がしなかった。
自分で自分がわからない。
ただ一つ分かるのは――もしサシャが巨人の力を継承したとしても、俺は彼女のことだけはきっと喰えなかっただろうという事実だけ。
そんな矛盾した考えが胸の奥で冷たく、重く、沈んでいった。
***
本来、水晶体のアニを噛み砕けるような技術を、この島は持ち合わせていない。アズマビトや捕虜を頼っても、アニを守る水晶には傷一つつけることができなかった。
……イェレナが、奇妙な材質の「予備資材」を持ち出してこなければ。
「顎の巨人の牙の破片……ねぇ。どうして最初から言わなかったんだい」
ハンジはため息まじりに言った。
パラディ島へ移送されたコンテナの中に、それはひっそりと隠されていた。イェレナはとぼけるように肩をすくめる。
「隠していたわけではありませんよ。こんな小さな破片、お伝えするほどの物ではないと思いまして」
「巨人化薬まで手配して、随分と手際が良い」
「皆さんのためですから」
ハンジとイェレナの会話は続く。
「調べさせてもらったよ。あの牙の構造……通常の硬質化とはまったく違っていた。雷槍の技術を応用すれば、一点集中の刺突型ドリルくらいならギリギリ作れるかもしれない」
「雷槍。あの爆発する……」
「爆薬は使わない。スプリング式で圧縮して、一点に突き立てるだけの構造にする。静かに、だが確実に芯を貫く」
「粉砕するのではなく、貫通させる、と」
「完全な破壊は無理でも、アニの脊髄液だけを取り出すくらいなら……君たち義勇兵の協力があれば、いける」
巨人の継承に必要な条件は二つ。
女型の巨人の保有者であるアニが死ぬこと、無垢の巨人の状態で彼女の脊髄液を摂取すること。
脊髄液が枯渇すれば、人はいずれ意識を失い、呼吸が停止し、死を迎える。それは水晶の中のアニとて同じだ。
まず水晶体のアニにドリルを突き刺し、脊髄液を全て抽出する。
彼女の死を確認した後、一刻も早く無垢の巨人の口腔に脊髄液を注入し、咀嚼反射を利用して摂取させる。
アニの肉体ごと喰うという行為が不可能である以上、摂取には工夫が必要だった。
どれだけ時間に猶予があるのか、全く分からない。
ドリルを突き刺している間にアニが姿を変えてしまうかもしれないし、彼女を殺したとして、脊髄液の摂取が間に合うのか。
失敗すれば、この島は女型の巨人という貴重な兵器をただ失う。成功率は不明。
だが、兵団は継承に成功した。
***
冷たい。狭い。動けない。息ができない。けれど、それらすべてを凌駕する感覚があった。
それは、絶望的な恐怖。
目の前に広がっているのは、水晶体の内側から見える歪んだ世界だった。
瞬時に理解した。これはアニの視点。彼女の身体。彼女の生きた牢獄。
背後から、眩しすぎる光が浸食してくる。その鈍い光とともに、全てを破壊するような異様な音が耳をつんざく。その音が近付くたびに、魂が凍りつく。
これは……ドリルだ。
鋭利な刃を持つ、無情に回転する金属の杭。無慈悲に、確実に、粘膜と肉を切り裂くために、背後に迫っている。ゆっくりと、しかし一瞬たりとも止まることなく。逃げ場などない。
(やめて。来ないで。やめて、やめて……!)
声にならない悲鳴が、頭蓋の内側で炸裂する。
恐怖で体が痙攣するのに、全身が動かない。手があるのに、宙を掴むこともできない。喉があるのに、誰も聞こえない虚空に叫ぶだけ。
そのとき、乾いた唇が震えるように開いた。一人の「少女」としての声が、切れ切れに漏れ出す。かすれて、引き裂かれるような音色。
「や、やめて……! ……怖い、いやだ……死にたくない……やだ……っ!」
か細い、弱々しい、けれど全ての生への執着と恐怖が凝縮された、断末魔の叫び。
「父さん! 父さん!! 助けて!!」
その絶叫は、魂そのものが引き裂かれる音だった。
その声に応えるものはなく、ただドリルの機械音だけが、いよいよ大きく、近く、彼女の後頭部へと――
「うわああああああああっ!!」
次の瞬間、俺……いや、継承された女型の巨人は、地を砕きながら咆哮を上げた。
以前投稿した短編集から、一部の文章をほぼそのまま再利用しています。