パラディ島が世界に向けて平和を訴える道は絶たれた。――そもそも平和と言っても、それはヒストリアを犠牲にした上で地鳴らしという防衛手段を背後にちらつかせた、世界に対するただの脅迫でしかなかったのだが。
エレンの不在はまだマーレ側に伝わっていないはずだ。だがそれも時間の問題。このままエレンが見つからなければ、この襲撃が捨て身の悪あがきでしかないということが露見してしまう。
静かな軍港の船の上。アルミンは一人、拳を握っていた。
「僕らは今度こそ……世界中に本物の『悪魔』であることを証明することになってしまう」
これが正しいと、胸を張って言える者などいない。だが、もう後戻りはできない。
「でも、こうするしかなかった」
***
俺は今、レベリオ収容区内にある建物の屋上で新聞を読んでいる。
ページがめくられるたび、紙の音が妙に重く響く。指は動いているが、目は内容を追っていない。
視界の端では、祝賀の準備が進んでいた。タイバー家による宣戦布告式典。広場には市民が集まり、兵士が整列し、演説台が整えられていく。
新聞の隅に載っていた日付を確認した。
(今夜、あの建物を崩す)
ステージの構造、退避ルート、市民の導線。すべては頭に入っていた。だが、思考の奥では別の音が鳴っていた。
(もう少しで、また……喰える)
……違う。
(喰いたいんじゃない。もう、俺が自分を証明するには、もうそれしか残ってないだけだ)
うるさい。静かな街の風景の中で、自分の内側だけが騒がしかった。
アニの声が、今この時も脳の端で囁いている。
アルミンが言うには、継承者の記憶は映像を通して五感で受け止める形で発生するらしい。俺もアニが死ぬ直前の記憶を見たから、何となく分かる。
この声がアニの記憶じゃないということなら、頭に鳴り響くこの音は、ただの幻聴なのかもしれない。
俺という存在は、一体何なのだろう。
思えばいつも、自分の空腹を満たすことばかり考えてきた。俺には結局それ以外何もなくて、そんなすきっ腹にアニという他人の人生を丸ごと飲み込んでしまった結果、自分というものを持たない俺は今、もう死んだ女に身体を乗っ取られかけている。
薄々気付いていた。
俺は、喰っているはずが、喰われている。
こんなはずじゃなかった。
通りを楽しそうに歩む親子がいる。俺はじっくりと観察した。俺がこれから殺すであろう人たちを。
今夜、顎の巨人を喰う。
今度はちゃんと――アニも含めて、消化したい。俺が、俺という存在を確立するために。
***
「マーレの戦士よ」
軍服を着た男がやって来た。付け髭と帽子。イェレナだった。すれ違う兵士も疑いの色を見せない。
「ブラウンにフィンガー。マガト隊長がお呼びだ」
「は? 二人だけ?」
「ガリアードはここに残れ」
「俺はぁ?」
ジークのとぼけたような声が響く。
「イェーガーは別動隊に合流だ」
言われるがまま、兵士たちは分断されていった。ポルコだけが、憮然とその場に取り残された。
***
広場に鐘が鳴る。タイバー卿が壇上に上がる。
「パラディ島に、宣戦布告を――!」
その瞬間。
建物の裏手で閃光が爆ぜた。大気が震え、地面が割れ、巨大な影が立ち上がる。
女型――いや、女型のはずの、その異形。
十五メートル級の巨体が、まるで悪夢から這い出したかのように舞台を粉砕する。瓦礫が雨のように降り注ぎ、ヴィリー・タイバーの絶叫が一瞬で途切れた。巨人の口から血が滴り落ちる。
「あの特徴……進撃の巨人ではない!?」
「違う、女型……? いや違う、なんだあれは!?」
民衆のパニックが伝染する。足音が重なり合い、悲鳴が空気を引き裂く。地獄絵図の始まりだった。
「テメェ……誰だっ!!」
ポルコの雄叫びが瓦礫に反響する。咆哮と共に、顎の巨人が飛び出した。
外壁を蹴りつける衝撃で、煉瓦が粉々に砕け散る。空中で身を翻すと、崩れた広場の瓦礫を踏み台にして加速。その速度は弾丸のようだった。
フィンが構え直す間もなく、顎の巨人はすでに懐に潜り込んでいた。
(速い……!)
一瞬で間合いを潰される。
ポルコは真正面から突っ込むのではなく、地形を利用した攻撃を選択した。瓦礫の山を滑るように駆け上がり、斜め下から女型の左腕に襲いかかる。
バギィッ――!
骨が砕けるような音。フィンの左手の指三本が顎の中で粉砕され、筋繊維がブチブチと千切れていく。激痛が神経を走り、女型の巨人が咆哮を上げた。
「!!」
フィンが後退しようとするが、ポルコは容赦しない。戦闘経験の差が如実に現れていた。
顎の巨人は瞬時に跳躍し、三階建ての建物の屋根に着地。そこから再び急降下――狙いはうなじではなく、足首の腱。一撃で移動能力を奪う、計算し尽くされた暴力だった。
「速すぎる……」
フィンの思考が追いつかない。格闘術で反撃を試みるが、ポルコは接触戦を避けて削り続ける戦法に徹していた。
突っ込んでこない。擦れ違いざまに咬む。
掴めそうで掴めない距離を維持し、建物の壁面を蜘蛛のように這い回って奇襲を繰り返す。狭い市街地の地形が、完全にポルコの武器となっていた。女型の機動性も十分高いが、この場は断然ポルコに有利だった。
(……もっと開けた広場側で巨人化するべきだった。建物が密集したこの場所は、俺に不利すぎる)
倒壊した厨房から漏れた蒸気、燃料倉庫の爆破で生じた煙幕。視界の遮蔽を武器にして、顎は低く沈みながら女型に迫ってくる。そして再び、その足に噛みつく。
次の攻撃で――足首の骨が完全に砕け散った。
ミシミシと軋み、ゴキリと音を立てて女型の巨人が片膝をつく。巨体が地面に激突し、街全体が揺れた。視界が白濁する。だが――その瞬間。
腹の奥底から、異質な何かが這い上がってくる。
(喰え……もっと、もっと……もっと喰えなきゃ、俺じゃなくなる……!!)
女型の眼球が血走り、口から泡を吹く。理性が消失し、純粋な捕食欲求だけが残った。
フィンの巨体が、負傷を無視して跳ね上がる。そして次のポルコの突進を――あえて正面から迎撃した。
顎の巨人が全速力で牙を剥いて突っ込んでくる。だがフィンは、その首を右腕で受け止めた。
ドゴォンッ――!
衝撃波が建物の窓ガラスを全て粉砕する。ポルコの勢いが急停止し、顎の巨人の首が女型の掌中で軋んだ。
(止めやがった!? 正面から……こんな馬鹿な!?)
フィンの左腕は、一部硬質化が進んでいた。
女型の巨人に備わっていないはずの硬質化という能力を、フィンが使いこなしていた。
それはアニの女型にしか使えないはずだった。様々な脊髄液を飲まされたアニだからこそ、できたこと。
しかし彼はなぜか、それを発現させた。
「……来いよ、顎」
フィンが左腕を大きく振りかぶる。そして――女型の拳が、顎の巨人の口腔内に深々と突き刺さった。
ズドォォォンッ――!
衝撃でポルコの体が吹き飛ぶ。瓦礫の中に激突し、建物を崩して通りまで突き抜けた。
「なんなんだこいつは!? ……そんなナリで、女型の巨人のつもりかよ!?」
体を起こしながらポルコが絶叫する。その時――
空から金属音が降り注いだ。
建物の屋上にアンカーが発射され、立体機動装置のワイヤーが戦場を覆い、パラディ島の精鋭兵士たちが舞うように滑空する。
「顎だ! 計画通り、包囲しろ!」
兵士たちが顎の巨人を囲むように回り込み、狙撃と切りつけのタイミングを図る。
「生身って、オイ……!」
ポルコが巨体を震わせて後退する。だがすぐ横で、フィンが獲物を見つめる捕食者の眼で静かに見つめていた。逃げ場はない。
「……ピークとライナーは!? 戦鎚は!? なぜ出てこない!!」
応答はない。市街全体にパラディ島の部隊が展開し、マーレ軍は各所で分断されていた。
そしてその時、遠くで激しい閃光が上がった。戦鎚の巨人がようやく出現したのだ。しかし既に手遅れだった。エレン・イェーガーの襲来を警戒するあまり、戦鎚もマーレ軍も、完全に虚を突かれていた。
パラディ島の兵士による一斉射撃。雷槍が戦鎚のうなじを正確に捉え、爆煙の中に巨体が崩れ落ちる。
さらにポルコは見た。遠くで、獣の巨人がリヴァイ兵士長に斬り伏せられる姿。
「戦士長……!?」
ポルコの一瞬の動揺を、フィンは見逃さなかった。
雷槍が横から飛来し、顎の巨人の左太腿を直撃。爆発で筋肉が吹き飛び、ポルコの体勢が崩れる。
そこへフィンが全速力で突進した。十五メートルの巨体が地面を蹴り、地面に足跡を刻みながら顎の巨人に襲いかかる。
「その力……よこせ! 全部全部、俺のものだ、俺が喰うためのものだ!!」
女型の口が耳まで裂け、内側に牙が二重三重に生える。フィンは完全に理性を失い、純粋な捕食本能だけで動いていた。
ポルコが防御のために腕を上げるが、女型の顎がそれを食い破る。
「ぐぁっ……!」
肘から先が千切れ、ポルコが絶叫を上げる。そのまま地面に叩きつけられ、フィンの巨体が上に圧し掛かり、ポルコを完全に組み伏せる。
フィンの口が大きく開く。唾液が滴り、歯がギリギリと音を立てる。硬質化と肉食獣の本能が混ざり合った顎が――顎の巨人のうなじを食い破った。
一噛み。二噛み。
グシャリ。グチャリ。
ポルコの生命が、フィンの喉を滑り落ちていく。
咀嚼。嚥下。捕食、完了。
肉を喰らい、骨を砕き、記憶を血と共に飲み干す。
その瞬間――女型の姿が変貌した。
爪が鋭利な刃に変化する。筋肉の密度が増し、牙が口から突き出した。二つの巨人の力が融合し、新たな怪物が誕生していた。
「巨人が、そのまま姿を変えるなんて……聞いたことがない」
「悪魔が、化物が……!」
マーレの兵士たちが銃を構えたまま、恐怖に震える声で呟いた。
そしてフィンは、再生しつつある戦鎚の巨人にゆっくりと視線を向ける。血まみれの口を歪めて笑みを浮かべながら。
「さっき雷槍が通ったな。……地上に現れたあいつには、あの特殊な硬質化がないってことか」
フィンは本能的に戦鎚の弱点を見抜いていた。うなじに本体がいないことを、捕食者の嗅覚で感じ取っている。
「――お前のうなじは、静かすぎんだよ!!」
新たな獲物を見つけた怪物が、血と硝煙に染まった戦場で雄叫びを上げた。
そろそろ書くのがしんどくなってきました。そんなに長い話にはならない予定なので頑張りたい。