「フィンに許された捕食対象は顎のみ。……理解できてる?」
あの日のアルミンの言葉が、俺の頭から遠ざかる。
マーレの軍港が、激しい光と爆発に包まれた。
地鳴りが大地を震わせる中、俺は戦場に立っていた。顎を捕食し姿を変えた影響なのだろうか、足首の負傷は既に修復されていた。
戦鎚の巨人が立ち上がる。その巨体は確かに地上にある――しかし、本能は別の何かを感じ取った。
「こっちはフィンを援護! 残りは車力と鎧に備えろ!」
ジャンの指示が飛ぶが、その瞬間、地面から鋭利な結晶の杭が突き出した。
俺の脚部を狙った完璧な不意打ち。辛うじて跳躍で回避するが、着地した場所にも既に次の罠が待っていた。
コニーが空中から戦況を見下ろしているのが見えた。
戦鎚の本体は明らかに地上にいるのに、攻撃は地中のあらゆる場所から飛んでくる。地面全体が武器と化したかのようだった。
周囲に杭が次々と立ち上がり、まるで建築現場のような様相を呈していく。計算された戦術で、俺の動きを完全に封じ込めようとしている。
――ドォォン!
突然、俺の背後でマーレ軍の対巨人野戦砲が炸裂する。砲弾が頭上を掠め、目の前の建物を一瞬で瓦礫の山に変えた。
「マーレの連中、顎が喰われても戦意を失ってねぇぞ!」
コニーが叫んでいる。マーレ軍は組織的な砲撃で援護を開始していた。
俺はとっさに顎で近くの瓦礫を噛み砕き、その破片を掴んだ。砲撃で生まれた瓦礫の山――これもまた格好の武器になる。戦鎚に向かって投げつけながら、同時に飛来する砲弾を別の瓦礫で叩き落とす。
「フィン、何をしてる! そんなことしたってキリが――」
ジャンの制止の声を気にも留めず、俺は続ける。俺が混乱の末に無謀な反撃に出たと思ったのだろう。
――ドォォォン!
砲撃音。マーレ軍は戦鎚の構築した結晶の構造物を盾に使いながら、相変わらずこちらを狙い撃ちしてくる。戦鎚とマーレ軍の連携――奴らはもう、エレンがこの場に出てこないと踏んでいるようだった。
俺は、混乱するどころか集中していた。
瓦礫を投げつけながらも、地面に耳を澄ませる。音、振動――戦鎚が何かを構築している音、結晶を生成する音、そして背後から響く砲撃音。
奴は……地中にいる。
意識の奥底で、獣じみた本能が囁いた。それは俺自身の本能なのか、継承した巨人達から得た力によるものなのか、俺にももう分からない。
地中に潜む異質な存在感を察知した。
戦鎚の繰り出す柱の隙間を縫うように移動し、女型と顎の持つ反射神経で、戦鎚が次々と放つ硬質な矢を回避する。身を捻ってマーレ軍の砲弾を避け続け、音と振動を頼りに、本体の在り処を探る。
――バンッ! バンッ!
狙撃音。マーレ軍は砲撃だけでなく、ライフルでも攻撃を仕掛けてきた。俺の動きを読んで先回りし、回避できない角度から次々と弾丸を撃ち込んでくる。
ある場所で足を止めた。
静寂。しかし、俺にとってはその静寂こそが騒音だった。
「そこ、露骨にうるせぇんだよ」
振り向いた場所――そこは異様に「音のない地帯」。隠れているつもりで、それはむしろ存在を暴露しているようなものだった。
飛びかかる。地面が裂け、杭が砕け散る。鋼鉄の爪が大地を切り裂いた。軽く舗装された程度の地面など、顎の巨人から得た爪の前には紙切れ同然だった。
どこよりも「うるさい場所」である静寂地帯に距離を詰め、戦鎚が展開する武器を粉砕しながら突き進む。
地中から取り出されたのは、水晶体。そしてその中にいる、戦鎚の本体。
アニの時と同じ。だが、今度はあの時のドリルのような、まどろっこしい真似をしなくても……
「おい待て、フィン……やめろ!」
ジャンの制止の声が響く前に、牙が戦鎚を口に捉えた。
水晶の中の本体が、ギロリと俺を睨みつける。
それでも止まらなかった。
マーレ軍が砲撃を放つ。戦鎚を救おうとする絶望的な一撃が、俺の頭部をかすめる。
しかし。
――ビキ
水晶がひび割れる音。
誰も命じていない。許可も出ていない。
それでも俺は――戦鎚の巨人を水晶ごと食い破り、そこから流れる全てを、余すことなく飲み干した。
砲弾の直撃を受けながらも、捕食は完遂された。
一瞬だけ、戦場に静寂が訪れる。マーレ軍の砲撃も、戦鎚を失った衝撃で途切れている。
「......」
兵士たちは誰も言葉を発せなかった。フィンの口元から滴る血を見て、ジャンは絶句している。コニーは立体機動装置のワイヤーにぶら下がったまま、茫然と戦場を見下ろしていた。
「クソッ......」
獣の巨人との戦闘を終えたリヴァイが近づき、険しい表情を見せる。
「もう抑制が効いていない」
兵団の兵士たちの間に緊張が走った。これはただの規律違反か、それとも暴走の始まりか。もはや誰にも分からなかった。ただ一つ確かなのは、フィンの巨人の口元に浮かんだ、言葉にならない笑みだった。
そして再び、その体に変化が現れる。巨人を喰ったことによる変化というよりも、それは周囲に自分が目当てのものを喰ったということを見せつけているかのようだった。
フィンの肘から先が硬質化する。それは顎の爪や牙のような鋭さを持ちながらも、女型の機動力を活かすための関節の可動域を残していた。
脚部も同様の変化を見せた。膝から下が部分的に結晶化し、まるで装甲のようになっている。この脚で駆ければ、結晶の硬度で地面を叩き割りながら移動できる。
三つもの知性巨人が融合した、前例のない存在。
その姿を目の当たりにした時、誰もが同じことを思った。
これは――悪魔だと。
戦況が一変したのは、その直後のことだった。分断されていたはずの車力と鎧の巨人が、遅れて姿を現した。
戦鎚が撃退されたことにより息を止めていたマーレ軍だったが、報復とばかりに激しい砲撃を再開する。彼らの砲口は、もはやフィンだけでなくパラディ島勢力全体に向けられていた。
――ドドドドドドッ!
マーレ軍はすでに顎、戦鎚を失った。獣の巨人も戦闘不能。その怒りを晴らすかのごとく、弾幕のような砲撃が戦場を蹂躙し始める。
「雷槍を持った奴は鎧に集中、他は車力に備えろ!」
ジャンが叫ぶが、その声も砲撃音にかき消されそうになる。
「チッ……飢餓の野郎を止めるより、使い潰す方がマシか」
リヴァイの苦々しい呟きが、砲撃の轟音と風に消えていった。
車力の巨人・ピークが建物の屋上から戦場を見渡した瞬間、背筋に悪寒が走った。
「この巨人、全員を喰いにきている……」
本能が警告した。
この巨人と直接対峙してはいけない。もう、ここに始祖が現れることはない。ライナーに伝えなければ。
そして、気付く。
――なぜ、獣の巨人を喰っていない?
ジークが倒れている箇所に一瞬だけ目をやる。
「パンツァー隊、一旦退くよ! あの巨人はいいから、撃つなら立体機動中の兵士だけに狙いを絞って!」
ピークは即座に撤退を決断した。
獣の巨人が喰われていないのは……そこに「本体」がいないからだ。兵団もあの巨人が戦鎚を捕食するのは予定外だったように見える。本能だけでうごくあの巨人が、倒れたままの獣を放置するわけがない!
パラディ島の兵士の一人が、パンツァー隊による砲弾の直撃を受けた。建物の壁に叩きつけられる。兵士は各自回避行動を取るが、敵の連携攻撃は執拗だった。
「フィンを援護するどころじゃねぇ!」
立体機動装置の兵士たちが次々と墜落し、地上戦を強いられる。パンツァー隊の狙いは的確で、パラディ島勢力の機動力を完全に封じ込めようとしていた。
ピークは四足を活かして立体的な離脱ルートを選択する。煙幕に紛れ、射撃の隙を縫って戦場から逃れようとした。
しかし、フィンはそれを許さなかった。
地面が隆起する。戦鎚の能力で生み出された硬質化の杭が、車力の進路を完全に封鎖した。
まるで獲物を狩る獣のような、計算されたような動き。
「……暴走していない! フィンはまだ状況判断ができている!」
建物の屋根からフロックが叫んだ。
しかし、それは完全な誤認だった。フィンに戦術など存在しない。
逃がすか。喰わせろ。
そう言わんばかりの衝動、ただそれだけ。
その時、車力の身体を硬質化された杭が貫いた。腹から身体を貫く杭に押し上げられ、車力の体が宙に高く浮かぶ。
ピークの絶望の表情が、フィンの瞳に映る。
「うわあああ!」
硬質化された杭による串刺しは、ピークの背に乗っているパンツァー隊を巻き添えにした。
しかし全員ではない。
――ドドドドドドッ!
かろうじで残されたパンツァー隊の一人が、最後の抵抗を試みる。車力の背中から、フィンに向かって全弾を撃ち込もうとしている。しかし、フィンの硬質化された腕は、いとも簡単に通常兵器の攻撃を弾き飛ばす。
杭に貫かれた車力の巨人の肉体から抜け出したピークが、満身創痍の状態で地に落ちる。
しかし、フィンが彼女を右手で掴み取る。
残されたパンツァー隊の一人が絶叫した。
「ピークさん!!」
「……まだ、もう一度巨人化すれば……!」
ピークがかすれた声で呟く。しかし、遅かった。
巨人化の隙など与えることなく、フィンは……悲鳴すら届かない一瞬で、無慈悲に彼女を口の中に放り込んだ。
「ふざけやがって……!!」
串刺しにされた車力の背中に残されたままのパンツァー隊の一人が、銃を構えた。しかし今度の狙いはフィンではない。
「死ね! 悪魔どもめが!!」
錯乱したマーレ兵が、狂ったように周囲へ乱射を始める。銃弾が建物の壁を削り、瓦礫を舞い上げながら無差別に飛び交った。
「クソッ、なんだあいつ……マーレ側の人間まで巻き込むつもりか!?」
コニーが叫ぶが、男の耳には届かない。ピークを失った絶望と怒りが彼を支配していた。
そこへ、物陰に身を潜めていたサシャが、冷静に照準を合わせる。
一発で仕留めなければ、乱射は続く。
深く息を吸い、引き金を絞った。
「……っ、が、あ……!」
男の額に銃弾が命中し、ようやく狂気の乱射は止んだ。
「そろそろ飛行艇が来る、全員乗り遅れるなよ!」
ジャンの指示が戦場に響く。
その声を聞いたフィンも、雷槍で攻められ続け、既に満身創痍になっているライナーの方に視線をやった。
戦闘の終わりが近付いている。
その時。
――パンッ!
銃声が、一発。
フィンが振り返った瞬間、サシャの体が血煙を上げて崩れ落ちるのが見えた。
腹部に赤い染みが広がり、彼女の手から銃が滑り落ちる。
「サシャ!」
コニーの絶叫が戦場に木霊した。誰が撃ったのか、どこから狙われたのか――混乱する戦場では判然としない。隠れていたマーレの狙撃手か、瓦礫に紛れた残存兵か。
しかし混沌とした戦場では、もはやそれは些細な問題でしかない。サシャは敵に撃たれた。それだけが真実だ。
「クソッ、出血が……!」
「時間がない、まず周りの敵を片付けろ!」
兵士たちの声が錯綜する中、フィンの巨体が静止した。
次の瞬間、フィンが咆哮を上げた。
それは今まで誰も聞いたことのない、純粋な殺意に満ちた獣の叫び声だった。
「おい、フィン……!」
ジャンの制止など、もはや意味をなさなかった。
ライナーに向かって突進する。それはもう、戦術でも戦闘でもなかった。
廃墟と化したレベリオの街に、二つの巨大な影が対峙する。
(なぜ、お前が)
片膝をついたライナーがフィンを睨む。鎧の巨人はパラディ島勢力による雷槍の集中砲火を受け、既に装甲が剥がれつつあった。もはやその身体に、かつての鋼鉄の堅牢さは残されていない。それでも、ライナーの視線は、なお正面を捉えていた。
目の前に立つのは、顎・戦鎚・女型・車力――四つの力を取り込んだ異形の巨人。
フィン・トーテツ。兵士でも英雄でもなく、ただ喰い続けた男の末路。
その口元には血が垂れ、目は何も映していなかった。
訓練兵時代、寝言のように「腹が減った」としか言わなかったフィンが、今は四体もの巨人を宿し、怪物と化して目の前に立っている。
(何のために、誰のために……そんなことになっている)
ライナーがゆっくりと立ち上がる。レベリオの街はもはや見る影もない。建物という建物は崩れ落ち、煙が立ち昇る中で、最後の決戦が始まろうとしていた。
鎧の巨人の両腕に残った装甲が、メキメキと音を立てる。筋肉が膨張し、最後の力を振り絞る。
先にフィンが動いた。
その動きは、ライナーが知る誰かを彷彿とさせた。
ライナーの拳が空を切る。フィンの身体は既にそこにはなく、側面から鋭い蹴りが襲いかかる。ライナーは辛うじて腕で防御するが、衝撃で後退を余儀なくされた。
続いて戦鎚。巨大な戦斧がライナーに向かって振り下ろされた。ライナーは両手でそれを受け止めるが、その瞬間、フィンの膝蹴りが腹部に突き刺さった。
(ぐっ……!)
だがライナーも防戦一方ではない。フィンの蹴り足を掴み、そのまま投げ技で地面に叩きつける。体重差と装甲の厚さが物を言った。フィンの身体が地響きと共に瓦礫の山に沈む。
ライナーは立ち上がろうとするフィンに向かって拳を振り下ろした。しかし、フィンは素早く横に転がり、同時に戦鎚の武装、今度は巨大なハンマーを創造した。
ライナーの拳とハンマーが激突する。
ハンマーにひびが入り、それは次の一撃で粉々に砕け散る。
戦鎚の硬質化武器が万能ではないことが証明された瞬間だった。しかしフィンは怯むことなく、すぐに新たな武器――今度は長槍を創造し、隙を突いて攻撃を仕掛ける。
戦いは激化した。ライナーの重厚な打撃とフィンの多彩な攻撃が交錯する。
組み技、投げ技、打撃技。あらゆる格闘技術が繰り出される中、多彩な巨人の能力で翻弄するフィンの前で、戦闘前から満身創痍だったライナーは徐々に劣勢に回り始めた。
四つの巨人の力継承したフィンは、まさに化け物だった。
一つ一つの攻撃は完璧に計算されており、まるで何年もの戦闘経験を積んだ戦士のような動きを見せる。
ポルコが見せたような俊敏な動きにライナーが対応しようとすれば、今度はアニを彷彿とさせる格闘技が襲い掛かり、ピークのようなトリッキーな動きで翻弄される。戦鎚の武装を破壊すれば、すぐに新たな武器が現れる。
ライナーの脳裏に、訓練兵時代の記憶が走馬灯のように駆け巡る。フィンはいつもヘラヘラと対人格闘訓練を受け流していたような男で、こんな無茶苦茶な動きができるような兵士ではなかったはずだ。
今の彼は、歴代の継承者たちが持っていた技術や記憶を喰らい尽くしただけの、空の器。過去の亡霊たちの傀儡。
そしてその身体からは、今も底知れぬ貪欲さが滲み出ている。
ライナーの装甲から蒸気が噴き出し、限界に近づいている。それでも、彼は戦い続けた。
最後の一撃は、フィンの完璧なカウンター攻撃だった。
ライナーの渾身の右ストレートを躱し、同時に創造した戦鎚の巨大な鎚で、ライナーの胸部装甲を打ち砕く。
装甲が砕け散り、ライナーの巨体が崩れ落ちた。
蒸気が立ち昇る中、ライナーは仰向けに倒れていた。もう立ち上がる力は残っていない。
フィンが近づいてくる足音が聞こえる。
ライナーは空を見上げた。不思議と、恐怖はなかった。怒りも、絶望も。
(これで終わりか。俺も……世界も)
フィンの影がライナーの上に覆いかぶさった時、ライナーは静かに目を閉じた。
(いや……終わらないか。俺が喰われても、こいつにはまだ『次』が……)
静かになったレベリオに、パラディ島の飛行艇が近付いている。
純粋な破壊衝動。
フィンは鎧の巨人の頭部を鷲掴みにして口元に運んだ。
「やめろ、フィン! もう十分だ!」
誰の声も、もう届かない。鎧の巨人の肉を貪り喰い、その血を啜る様は、もはや人の理解を超えていた。
戦場に響くのは、咀嚼音だけ。兵士たちは誰も動けずにいた。
「自壊する」
リヴァイがフィンのうなじに斬り込んだ。フィンを引き摺り出したのは捕食完了の直後だった。
立ち上がる気力すら失ったフィンの体は、乱雑に抱えられ、飛行艇に勢いよく蹴飛ばされ、鍵のかかった部屋に放り込まれた。
「説明しろ、フィン」
ハンジがナイフを首元に突きつけながら詰め寄っても、呆然としたままのフィンは一言も返さない。
重苦しい沈黙が機内を支配する。瞳に光はなく、まるで人形のように虚ろだった。
兵士たちは誰も言葉を発さなかった。発することができなかった。
彼らが目撃したのは戦闘行為ではない。これは戦争ではない。純粋な、理性を失った獣の捕食行為を見せつけられただけだった。
飛行艇のエンジン音だけが、静寂を破っていく。
フィンは目を閉じ、ゆっくりと意識を手放した。