九つの巨人全部喰う(完結)   作:雄魔雌

8 / 12
08 リバウンド

 勝利の帰還は、まるでパラディ島勢力が全面敗北したかのような静寂の中で迎えられた。

 

 潮風に混じる血と硝煙の匂いが、まだ港の空気に漂っている。降り立つ兵士たちの足音は重く、勝利の凱旋というにはあまりにも陰鬱だった。

 彼らの顔には、レベリオでの「勝利」への複雑な感情が深く刻まれていた。狙い通りに襲撃を完遂し、マーレが所有する巨人の力を全て奪取した――しかし、結果が狙い通りだったとは言えない。

 

 戦死者の名前が読み上げられる度に、会議室の空気は重苦しさを増していく。一つ一つの名前が、生きた人間の記憶と共に響く。その中にサシャの名前もあった。

 

「現地で犠牲になった兵士の遺体は回収できていません。飛行艇に運ぶ余裕はなかった」

 

 ヒストリア女王の前で、ハンジが報告書を読み上げる。彼女の手に持つ紙が、微かに震えているのが見て取れた。

 フィンはここにいない。彼の身柄は、石造りの地下牢で厳重に拘束されている。

 

 レベリオの戦場——あの血と煙に包まれた混乱の中で、彼は計画どおり顎の巨人を継承した。そこまでなら、まだよかった。その後の暴食に関しては、兵士の間でも激しく意見が割れていた。廊下でのひそひそ話から、食堂での険悪な空気まで、島全体が不穏な雰囲気に包まれている。

 

「タイバー家や巨人の力を全て失ったマーレと、今この時に共闘しようという国はないだろう。フィンが一人で巨人の力を独占してしまったとしても、まだ我々に時間はある」

「いや。今すぐではなくとも、技術力に劣る我々はすぐに攻め込まれる」

「あんな戦場で誰かを無垢の巨人化させて継承しようだなんて、最初から計画に無理があった。そんな余裕はなかった」

「フィンの判断が正しかったと?」

「結局エレンを見つけられない限り、どうすることもできない」

 

 命令を聞くこともできず、島を守る抑止力としても不十分。フィンという兵士は戦況判断を誤り、得体の知れない力を宿した「失敗作」とされつつあった。そんな評価が、密かに語られ始めている。

 

「彼が殺されれば、我々は巨人の力を失ってしまう。それだけは絶対に避けなければならない」

 

 ハンジの声が、まるで自分に言い聞かせるように会議室に響いた。薄暗い室内で、兵団幹部たちの表情は一様に険しい。彼らの目には、疲労と諦めの色が濃く浮かんでいる。

 

「他の人間に継承させるメリットも現状では薄い。扱いは慎重にならざるを得ない」

 

 ザックレーが深いため息と共に呟く。

 

「我々の見込み違いだったか。実に惜しい。あれだけ素晴らしい造形美を持っていながら」

 

 彼はフィンの不気味な巨人姿を脳裏に浮かべながら、続けた。

 

「もはやフィンは何をするか分からん男だからな。特に、亡命してきたジークとの接触は絶対に避けなければならない」

「優先順位を明確にしましょう。まずはジークの持つ獣の巨人をヒストリア女王に継承させること。同じく重要なのがエレンの確保。フィンの運用は、正直なところ二の次です」

 

 ハンジの肩が小さく震えた。自分が推薦した人物への責任の重さが、その心を押し潰そうとしていた。

 

「……ハンジの任命責任が問われるのは当然だが、それはエレンを見つけた後でいい」

 

 冷たい現実的な声が、ハンジを追い詰める。

 

「巨人は複数いるから抑止力になる」

 

 ピクシスが呟いた。

 

「一人だけあれこれ欲張っても意味がない。そのくらい分かりそうなものだがな――酒でも飲まんとやってられん」

 

 その言葉は、不在のフィンへの厳しい批判だった。

 

 

 

***

 

 

 地下牢の湿った空気は、カビの匂いがした。石壁から滲み出る水滴が、規則正しく床に落ちる音だけが響いている。

 

「おい」

 

 フィンが全身を拘束される地下牢の前で、ジャンが鉄格子を握りしめながら声を掛けた。

 フィンがゆっくりと顔を上げる。その目は虚ろで、まるで魂が抜けてしまったかのようだった。

 

「何もかも一人で喰いつくして、どうやってこの島を守るつもりだったんだ」

 

 ジャンの声には怒りだけではなく、深い困惑と失望が隠されていた。

 フィンは口を開こうとした。しかし記憶が曖昧になっているのか、彼は曖昧な表情を浮かべるだけ。その反応に、ジャンの表情がさらに険しくなった。

 

「責任の取り方を聞いてんだよ。教えてくれ。今後どうするべきなのか、俺たちがお前の力をどう使えばいいのか。何の考えもなく全部喰いつくしたなんて言うつもりじゃないよな?」

「おい、ジャン……やめとけって」

 

 コニーが慌てて止めに入った。しかし彼の声にも、以前のような親しみは全くない。むしろ、距離を置こうとする明確な意思が見える。かつての仲間への複雑な感情が、彼の表情を歪めていた。

 

 そこに、足音が響いた。ハンジが現れる。その顔には深い疲労の跡がある。

 

 「地鳴らしの手段を確保したら、君よりもっとうまく巨人を操作できる人材を兵団は探すだろうね」

 

 ハンジの言葉は冷静だったが、その奥に隠された痛みは誰の目にも明らかだった。フィンは無表情でハンジを見つめている。その視線には、人間らしい感情のかけらも見当たらない。

 

「早急にエレンを見つけること以外、君に挽回のチャンスはないよ。……私にとってもね」

 

 静寂が地下牢を支配する。水滴の音だけが、時の流れを刻んでいた。

 

「あーあ」

 

 ハンジの声に疲労が滲む。

 

「そもそも巨人に向いてる人間なんているのかな。過ぎたる力を持つのにふさわしい人間なんてさ……この世界には、いないよな」

 

 ハンジが苦笑した。その笑顔は、あまりにも悲しかった。

 

「だから私たちは、君に期待するしかなかった。君を選んだことが間違いだったなんて、そんなことは言わせないでくれ」

 

 その言葉と共に、重い沈黙が地下牢を包んだ。

 

 

 

***

 

 

 

 僕がフィンという男について語るとき、それは同時に自分自身の観察力の限界について語ることでもある。

 人は往々にして、他者を理解したつもりになりがちだ。しかし今思い返せば、彼について僕が知っていたことは、表層的なものばかりだった。

 

 訓練兵時代のことを思い出す。

 

「集団生活とか、人に会わせることとか……特に苦じゃない」

 

 当時、フィンはそう言っていた。しかし実際のところ、彼が集団生活に馴染んでいるとはとても言い難かった。食堂での彼の座る位置、訓練中の立ち位置、休憩時間の過ごし方――全てが微妙にずれていた。いつも苦しそうな表情を浮かべていたのを、今でもはっきりと覚えている。

 

「俺は空気が読める男だからな」

 

 それも彼がよく口にしていた言葉だった。だがそれも真逆で、彼は雑談全般が明らかに苦手だった。会話の輪に混じってはいるのだが、まるで透明人間のように存在感がない。そこにいるのにいないような、奇妙な感覚を覚えた。たまに何か発言すると、皆が「珍しいな」という顔をした。その瞬間、彼の表情に一瞬の痛みが走るのを、僕は見逃さなかった。

 

 決して疎外されていたわけではない。しかし彼はいつも何かが物足りないような、どこか遠くを見つめるような表情をしていた。「何を考えているか分からない」「何をしでかすか分からない」……そんな風に遠巻きにされることが多かった。

 

 エレンが、彼について一言呟いたことがある。それは夕暮れの訓練場でのことだった。

 

「あいつ、昔のオレに似てる気がする」

 

 そして、まるで独り言のように付け加えた。

 

「あれは、お前に……アルミンに出会う前のオレだ」

 

 エレンの言葉の意味を、当時の僕は理解していなかった。

 今なら分かるかもしれない。フィンが孤独の中で何かを渇望している目。居場所を求めながら、同時にそれを拒絶してしまう矛盾。自分の感情を表現することが苦手なのか、彼は全てをひっくるめて「腹が減った」と常に言っていた。

 

 フィンに転機が訪れたのは、サシャと親しくなってからだった。理由は分からない。おそらく彼女の素直さが、彼の警戒心を溶かしたのだろう。サシャと話すときだけ、彼はいつも表情を和らげた。まるで仮面を外したかのように、本来の彼が顔を覗かせた。

 

 

 しかし卒業後、再び彼が遠巻きにされる事件が起きた。

 

「トロスト区で、巨人の肉を食っていたらしい」

 

 そんな噂が流れたのだ。真偽のほどは定かではなかったが、噂だけで十分だった。

 

「たまにいるんだよなぁ」

 

 上官が、まるで害虫を見るような目で言った。

 

「本物の狂人か、狂人ぶることで自己を主張したいやつ」

 

 どちらにしても、避けられる理由としては十分だった。食堂で彼の周りだけ席が空く。訓練でペアを組む時、最後まで余る。そんな日々が続いた。

 しかし、サシャだけは彼を庇った。

 

「フィンは悪い人じゃないですよ」

 

 フィン自身も、自分が常に遠巻きにされていることを痛いほど理解していたのだろう。彼がサシャに声をかけられたとき、その目に少しだけ涙が浮かんでいるのを見た。

 なぜ涙を浮かべるのか、当時の僕には分からなかった。今思えば、彼女だけが彼の孤独を理解していたのかもしれない。

 

 サシャの言う通り、フィンは決して悪い人間ではなかった。ただ、他人に興味を持つ方法を知らなかっただけだ。あるいは、興味を持つことで自分が傷つくということを、深く恐れていたのかもしれない。

 人は自分について語るとき、必ずしも真実を語るわけではない。時として嘘をつき、時として自分自身を欺く。フィンという男は、まさに「真実を語りたがらない人間」だった。

 

 しかし今や――彼はもう、人間ですらなくなってしまった。

 

 

 

***

 

 

 

 街のはずれに、巨人が座っていた。

 

 その光景は、まるで悪夢のようだった。十五メートルはあろうかという巨体が、古い石像のように完全に動かない。住民たちは恐る恐る迂回して歩く。子供たちは親に手を強く引かれ、振り返ることも許されない。母親たちの小さなすすり泣きが、風に混じって聞こえてくる。

 

「見た目は不気味だが……動かなけりゃ、ただの巨人と変わんねぇな」

 

 監視に当たる駐屯兵団の兵士の一人が、緊張を隠すように呟いた。

 

「これ、本当に知性があるのか?」

 

 別の兵士が不安そうに応じる。しかし巨人――フィンは一切反応しない。ただ虚空を見つめ続けている。

 

 一羽の鳩が、恐れを知らずに巨人の頭に止まった。羽ばたきの音が静寂を破る。しかし巨人はピクリとも動かない。鳩は安心したように羽を整え始めた。その様子が、状況の異常さをさらに際立たせる。

 

「静かすぎて不気味だ」

 

 兵士たちの不安な声が広場に響く中、巨人は呼吸すらしているかどうか分からない完全な静寂を保っていた。人間であることを完全に放棄し、ただ存在するだけの何か――もはや生物とも思えない存在になってしまったようだった。

 

 鳩が頭から飛び立っても、巨人は微動だにしない。

 

 

 

 フィンは地下牢からの拘束を解かれた後、すぐにエレンの捜索に加わった。しかし問題はその後だった。

 巨人化した姿から人間の姿に戻ることが、ほぼなくなったのだ。

 彼は日中どころか、何日も、何週間も、巨人の姿のままで過ごした。車力の巨人の持続力があればこの程度どうということもなかった。

 

 

 しかし、住民の恐怖は日増しに高まっていく。やがて兵団からの指示が下される。壁内での巨人化は住民に恐怖を与える。かといって壁外で無防備に彷徨われても困る。エレンの捜索という名目で、人気のない壁内の荒野を歩かせることになった――これは実質的な追放に近かった。

 

 巨大な影が荒野を歩く。足音が大地を深く震わせ、鳥たちが驚いて飛び立つ。しかしそれは機械的で、まるで自動人形のような動きだった。時折立ち止まり、大地を虚ろに見つめる。何かを探しているのかもしれない。あるいは何も考えていないのかもしれない。その真意は、もはや誰にも分からない。

 

 夕陽が巨人の背中を赤く染める。その光景は言いようもなく美しくもあり、同時に絶望的だった。もう人間ではない何かが、人間だった頃の記憶だけを抱えて、あてもなく荒野を彷徨っている。

 

 

 

 

 

「あなたは間違っていない」

 

 ある日の夕暮れ、巨人の前に現れた女性——イェレナが、廃墟となった建物の屋上から静かにフィンに語りかけた。巨大な顔が彼女を見下ろしている。その表情を読み取ることは困難だが、確実に視線は彼女に向けられているようだった。

 

「レベリオの戦場で、あんな状況で……誰が巨人を継承できましたか? 皆が結果論であなたを責めているが、私はあなたが最善を尽くした結果だと信じています」

 

 巨人がゆっくりと頷いた。その動作は、まるで重い石の扉が開くようだった。

 

「フィン。なぜ、巨人の姿から戻らないのですか?」

 

 風が吹き、イェレナの髪が揺れる。しかし巨人からの答えはない。

 

「……戻りたくないと?」

 

 イェレナは理解したかのような微笑みを浮かべた。

 

「わかりますよ」

 

 

「フィン。あなたは……生まれてきたこと自体が間違いだったのだと、そう思うことはありませんか?」

 

 その瞬間、巨人の瞳が明らかに動いた。まるで心の奥底に隠していた感情が、突然表面に現れたかのように。人間らしい何かが、その巨大な瞳に宿ったように見えた。

 

「もし、あなたがそう思うなら。ぜひ、ジークの話を聞いてみてください。あなたになら、きっと分かるはずです」

 

 再び、風が強く吹いた。

 

「あなたは選ばれた器です。空っぽなんかではありませんよ」

 

 イェレナの言葉が、響いて消えた。巨人は再び虚空を見つめている。しかしその瞳に、わずかながら光が宿っているようだった。

 希望なのか、絶望なのか。それは誰にも分からない。

 

 

 

***

 

 

 

 世界から完全に隔絶されたかのような、静寂に包まれた山小屋。薪を割る規則正しい音だけが、静まり返った森に響いている。

 

 エレンが斧を振り下ろすたび、乾いた音が冷たい空気を切った。汗が頬を伝い落ちる。しかし彼の表情は不思議なほど穏やかだった。まるで失われた日常の一部を、ここで取り戻したかのように。

 

「もうすぐできるから」

 

 台所からミカサの優しい声が聞こえる。シチューの温かな匂いが漂ってきた。二人だけの、束の間の平和な時間。

 

 エレンが薪を割り終えて振り返ったとき、ミカサが窓際に立って外をじっと見つめているのに気づいた。その姿勢には、明らかな緊張があった。

 

「……あれ、は……?」

 

 ミカサの声が小さく震えている。エレンは斧を静かに置いて、彼女の隣に立った。

 

 遠くに巨大な影が見えた。ゆっくりと、まるで散歩でもするように歩いている。夕陽に照らされたその姿は、美しくも不気味だった。

 

 エレンは無言でその影を見つめ続けた。表情には複雑な感情が交錯している。

 あれが誰なのか、彼は確実に知っている。そして、やがて全てが終わるときが、必ず来ることも。

 

 二人の間に沈黙が流れた。シチューが煮立つ音だけが、静寂を破っていた。

 影は大地の向こうに消えていく。しかし、その存在感だけが山小屋に残り続けた。それこそが、終末への予兆だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。