しまった。寝坊した。
兵舎のベッドから慌てて飛び起きる。支給された制服のジャケットを羽織り、朝食のことも忘れて集合場所に向かう。
「おー、フィン。そんなに慌てることねーぞ。どうせ今日も壁の補修だ」
同僚の声が聞こえた瞬間、フィンの視界に映ったのは背中の薔薇の模様。
その瞬間、時が止まったかのような静寂が彼を包んだ。
「あれ?」
俺の頭はどうやらまだ寝ぼけているらしい。
一瞬だけ違和感があったのだが、すぐに思い出した。
俺は訓練兵を卒業した後、トロスト区の戦闘でも命からがら生き残って。
結局、駐屯兵団に入ることを選んだんだった。
別に悪くない日々だ。飯には困らないし、住民に頼られたり感謝されるのも、結構嬉しいもんだ。
でも、頭をよぎるのは、訓練兵の頃に出会った「アレ」の記憶。
あの日、訓練兵に与えられた調整日という名の休日に出会った、アレ。アレに出会ってからというものの、ずっと俺には迷っていることがある――
***
「エレンはもう使えない」
イェレナは苛立っていた。彼女の口から吐かれた言葉は、冷酷な現実認識に基づいていた。
「ミカサ。どうやってエレンを唆した、あのクソガキ……」
拳が机を叩く。
ジークは今もエレンが自分に協力してくれると信じているようだが、イェレナは既にその可能性はないと踏んでいた。
男女二人の逃避行。そんな選択をするような愚か者が、生殖能力を奪う安楽死計画に賛同なんてするわけがない。
下手したらもう子供がいるかもしれない。いつの時代も、魔性の女が男の判断を狂わせる。
***
フィンがエレンを発見したという報せが兵団に入った。
ウォール・マリアの外れにある山小屋で暮らすエレンとミカサの存在を、彼はしっかりと把握していた。
「フィン」
リヴァイの声に、巨人姿のままで佇むフィンは素直に頷いた。
「お前とアルミンに先導してもらう。エレンの居場所を確認し、安全を確保しろ。俺はジークと共に後から向かう」
リヴァイとジーク、その他兵士たちが馬で移動していた。フィンやアルミンの部隊とはかなりの距離をとっている。
「なぜ分かれて行動する必要があるんですか」
「イェレナ、俺はお前がなぜここにいるのか説明が欲しい」
「何か問題でも? 兵団の許可は得ていますよ」
「……」
「フィンとアルミンに先行偵察させ、安全を確認してからジークを連れて行く。当然の判断だ」
リヴァイの声は冷静だった。しかし、心の奥底では何かが引っかかっていた。上層部の指示が微妙に曖昧だったこと、明確な説明がなかったこと。
だが、リヴァイはあくまでも兵士だった。命令に従うのが彼の役目だ。たとえ疑問があったとしても、それを口にはしない。
「なあ。なんであいつら巨人化してるの? 怖いんだけど」
ジークが不満げに呟く。彼の声には、不安が滲んでいた。
フィンとアルミン。二体の巨人が、遠く離れた前方で、大地を踏み荒らしながら歩いていた。ジークやリヴァイとは別動隊として先行している。
二人が巨人の姿でいる必要は全くない。こんな目立つ形で移動するのはどう考えてもおかしい。エレンに存在を知らせているようなものだ。
フィンが人間姿に戻らなかったせいで、こんな形をとらざるを得なかった。
フィンの脇には雷槍を携えた兵士たちが控えている。彼の暴走に備えていることは明らかだった。
しかし突如、フィンの巨人だけが、目の前から消えた。
まるで大地に呑み込まれたかのように、十五メートル級の巨体が跡形もなく消失した。
リヴァイの心臓が凍りつく。
しばらくして、残された超大型巨人――アルミンの体から爆風が吹き荒れる。
熱風が草原を焼き尽くし、土煙が舞い踊る。何か異常事態が発生したことは明らかだった。
リヴァイが構える。立体機動装置のブレードが、夕日を反射して光る。
そして再び、眼前に超大型巨人が姿を現した。
モクモクと立ち上る蒸気の中から現れたその巨人を見て、誰もが最初はアルミンだと思った。超大型巨人は一体しか存在しないはずだった。
しかし、現れた巨人の大きさを見て、異変に気づく。超大型なのはサイズだけで、顔が全然違う。その顔は――
「……!」
「……は?」
イェレナやリヴァイが驚愕し、ジークも叫ぶ。
「おい!」
「あれ、フィンじゃねぇか! 話が違う、ふざけんなよ!!」
ジークの右手が口元に向かう瞬間、リヴァイは既に動いていた。
立体機動装置のワイヤーが空気を切り裂き、リヴァイの身体が弾丸のようにジークに向かって飛ぶ。リヴァイの膝蹴りがジークの顎を下から突き上げた。
「がっ……!」
ジークの身体が宙に舞い、馬から落下する。だが、それで終わりではない。リヴァイは空中で体勢を立て直し、地に落ちたジークの両腕を背後から掴んで関節を極める。一瞬でジークの動きを封じた。
「リヴァイ! お前、状況が分かってるのか!」
「見ればわかる」
ジークの声は怒りと絶望に震えている。だが、リヴァイの表情は氷のように冷静だった。
「……そうか」
そして、恐ろしい現実が明らかになる。
「アルミン。喰われたのか」
***
時間は少し遡る。
フィンが、唐突に巨人化を解いた。
巨大な肉塊が地面を揺らしながら崩れ落ち、その中心部から人間の姿が現れる。その姿は尋常ではなかった。
口の端から鮮血がとめどなく流れ落ち、その紅い筋が顎を伝って首筋を濡らしている。顔は蒼白を通り越して灰色がかり、まるで死人のようだった。立ち上がろうとした足がふらつき、膝から崩れ落ちそうになる。
「おい、大丈夫か!」
兵士の一人が慌てて駆け寄り、フィンの腕を支えた。しかし、触れた瞬間、兵士の顔が青ざめる。フィンの体温は異常に低く、まるで氷のようだった。
「巨人化の限界が来てるんじゃないか……」
別の兵士が震え声で呟く。フィンの呼吸は浅く、時折激しい咳き込みと共に血の塊を吐き出していた。彼らの間に緊張が走る。
「こいつ、死ぬんじゃないか」
その言葉が、戦場に重い沈黙をもたらした。兵士たちは互いに視線を交わし、誰も口に出せない可能性について考えていた。
遠くで、超大型巨人の姿のアルミンがフィンを見つめている。その巨大な目に映る光は、複雑な感情を物語っていた。巨人の口がわずかに開き、低い唸り声が響く。
「どうする?」
兵士の一人が震え声で問いかけたが、誰も答えなかった。
リヴァイ兵長がここにいれば、この状況を打開できたかもしれない。しかし彼はジークの監視に手を取られ、この場にはいない。
アルミンもまた、巨人化を解くことを躊躇していた。フィンの異常な状態を警戒し、距離を保ったまま様子を窺っている。しかし、フィンの容体は刻一刻と悪化していた。
「……僕が?」
アルミンの心に、一つの可能性が浮かび上がった。
――自分が、フィンを捕食する。
言葉にするのも憚られる選択肢。しかし、この状況下では、それが最も論理的な解決策に思えた。
まだエレンの居場所にたどり着いていない。しかし、今のフィンの状況を見れば、もはや歩いていた道すら正しかったのかどうか分からない。
「……後で、君の記憶を見せてくれ」
超大型巨人の巨大な手がゆっくりと地面に向かって伸びる。フィンを支えていた兵士たちが慌てて後退し、その場にフィンだけが残された。彼はもはや立っていることもできず、膝をついたまま血を吐き続けていた。
巨人の指が、フィンの体を優しく掬い上げる。アルミンは可能な限り慎重に、まるで壊れやすい陶器を扱うように、フィンを持ち上げた。超大型巨人の口がゆっくりと開き、蒸気が立ち上る。
「さよなら……フィン」
フィンの体が巨人の口の中に滑り込む。アルミンは一瞬の躊躇いを見せたが、やがて口を閉じ――フィンを飲み込んだ。
巨大な喉が動き、フィンの姿が見えなくなる。
兵士たちは、固唾を呑んで見守っていた。
その時だった。
超大型巨人の腹部が異常に膨らみ始めた。
内側から何かが激しく暴れているかのように、巨人の体が不自然に歪む。そして次の瞬間――腹部が内側から、爆発するように破裂した。
血と肉片が飛び散る中から、新たな巨人の姿が現れる。
それはフィンだった。
しかし、その姿は普通の巨人とは明らかに異なっていた。顔にある口だけでなく、腹部にも巨大な口が裂けており、そこからは無数の牙が覗いていた。
アルミンの最後の思考が脳裏を過ぎる。
「丸呑みしてしまった」
フィンとアルミンの最大の違い。
捕食経験。
アルミンは、フィンのうなじを噛み切らず、そのまま飲み込んでしまったのだ。
もう遅かった。フィンの巨人は腹部の口でアルミンのうなじを噛み砕き、そのまま呑み込んでいく。
超大型巨人の巨体が崩れ落ちる中、フィンは立ち上がった。
血に塗れたフィンの巨人が、周囲を見回す。その視線に捉えられた兵士たちは、本能的に恐怖を感じて後退した。しかし、逃げる間もなかった。
兵士が構えた雷槍を、フィンは鋭い爪で一瞬で破壊した。
逃げる者を、硬質化で作り出した槍で貫く。
切りかかる兵士を、足で蹴とばした。
そしてフィンは、まるで空腹を満たすかのように、手当たり次第に兵士たちを掴み始める。悲鳴が戦場に響き渡るが、それも一瞬のことだった。巨人の口が大きく開き、この場の兵士たちを次々と呑み込んでいく。
腹部の口も同様に活動し、まるで二つの顎で獲物を貪るかのように、容赦なく人間を捕食していく。血しぶきが宙を舞い、骨の砕ける音が不気味に響く。
やがて、その場には誰もいなくなった。飢餓の巨人だけが、血に塗れた戦場に立ち尽くしていた。
***
遠くでこの異常事態を察知したリヴァイとジークが、フィンたちの方向を見た。そこに立っているのは、一見すると超大型巨人のように見える巨体。しかし、リヴァイの鋭い眼は、それがアルミンではないことを即座に見抜いた。
「得体の知れない化物に横取りされる筋合いはない」
リヴァイの脳裏に、獣の巨人を仕留めるという約束が過ぎった。敵に殺されるのは構わない。しかし、訳の分からない化け物に『栄養』として喰わせるのは、侮辱以外の何物でもなかった。
リヴァイの目が冷たく光る。彼は地面に押さえつけたままのジークの首筋に刃を向けた。ジークの肌が刃の冷たさを感じ取り、身を竦ませる。
「これで終わりだ、毛玉野郎」
リヴァイが刃を振り下ろそうとした、その時だった。銃声が鋭く響く。
イェレナの弾丸がリヴァイの肩を掠め、肉を裂いた。鮮血が飛び散り、リヴァイの身体がバランスを崩す。一瞬の隙を突いて、ジークが身を翻す。
「クソ……」
リヴァイは地面に着地し、肩から流れる血を押さえながら舌打ちした。絶好の機会を逸した悔しさが、彼の表情を歪ませる。
「フィン! 何をしている!」
イェレナが絶叫する。銃を構えたまま、彼女の顔は絶望に染まっていた。計画は完全に破綻していた。フィンは制御を失い、アルミンを捕食し、兵士たちまで無差別に殺戮していた。
ジークは己の手を噛み切り、その場で巨人化した。
轟音と共に巨大な肉体が立ち上がり、地面が激しく揺れる。獣の巨人の巨体が戦場を見下ろし、その威圧感が空気を震わせた。
「どーすっかなぁ」
ジークの声に、諦めにも似た感情が混じっていた。
「俺に勝てる見込みがないんだけど」
超大型巨人と化したフィンの姿を確認すると、ジークは距離を取った。
彼の長い腕が地面の瓦礫を掴み、握り潰して投擲用の石を作り出す。土埃が舞い上がり、視界を遮る煙幕となった。
最初の投石が空を切って飛ぶ。巨大な石塊がフィンの胸部を直撃するかと思われた瞬間、異常な光景が展開された。
フィンの巨人の腹部に開いた口が、まるで生き物のように大きく開いて石を受け止め、そのまま呑み込んだのだ。
咀嚼音が不気味に響き、石が粉砕される音が戦場に響く。
「あーっ、それずるくない!?」
ジークの声に動揺が滲む。続けざまに投げた石も、フィンの手や腹の口によって次々と「捕食」されていく。まるで攻撃が栄養になっているかのような異様な光景だった。
しかし、フィンは積極的に攻めてこない。ただそこに立ち、投石を受け止めて呑み込むだけだった。
「こんな小石じゃダメだよな……」
ジークの視線が、戦場に散らばる兵士たちの死体に向けられる。彼の表情が歪んだ笑みを浮かべた。
「これで満腹になってくれよ」
獣の巨人の巨大な手が、付近で倒れている兵士の亡骸を掴む。まるで石ころを投げるように、人間の身体をフィンに向かって投げつけた。
その瞬間、戦場の空気が変わった。
「テメェ……!」
リヴァイの声が、氷よりも冷たく響く。肩の傷から血を流しながらも、彼の目は怒りに燃えていた。立体機動装置のガスが噴射音を立て、リヴァイの身体が宙に舞い上がる。
ワイヤーが獣の巨人の腕に巻きつく。リヴァイは猛烈な勢いで巨人の身体を駆け上がり、刃を振るった。一撃目が獣の巨人の肩を深く切り裂き、筋肉繊維が千切れ飛ぶ。
「!!」
ジークの悲鳴が響く中、リヴァイは容赦なく攻撃を続けた。二撃目、三撃目と刃が巨人の肉体を切り刻み、血しぶきが宙を舞う。
獣の巨人が反撃しようと腕を振るうが、リヴァイは既にその場にはいない。立体機動装置を駆使して空中を縦横無尽に飛び回り、まるで蜂のように巨人を攻撃し続ける。
「動くな」
リヴァイの刃が獣の巨人の腱を切断する。巨人の膝が崩れ、地面に膝をついた。その隙を突いて、リヴァイは獣の巨人の首筋に向かって突進する。
しかし、ジークも必死だった。最後の力を振り絞って腕を振り回し、リヴァイを払い落とそうとする。巨大な手がリヴァイを捉えそうになるが、彼は間一髪でワイヤーを射出して回避した。
「しつこいんだよ!」
ジークが吠える。しかし、その声には既に諦めの色が濃く滲んでいた。
リヴァイの最後の一撃が、獣の巨人のうなじを深々と切り裂く。致命傷だった。ジークの意識が薄れていく中、巨人の身体がゆっくりと崩れ落ちる。
「おいフィン」
彼はフィンの巨人を見上げて言った。もう、兵団がジークをフィンに喰わせようとしていたことを察していた。
「もういい。お前が食え。あとは知らん。喰いたいんだろ。お前の選択だ」
リヴァイのお膳立てで、フィンは獣の巨人を捕食した。ジークの絶叫が戦場に響き、やがて静寂が戻る。
イェレナが発狂し、銃をフィンに向けて乱射したが、鎧の装甲を有したフィンに弾丸は弾かれるばかりだった。やがて彼女は兵士たちに取り押さえられ、拘束される。
***
獣の巨人の捕食を終えた超大型のフィンが、突然動かなくなった。
フィンが動かないことに慣れていた兵士たちは、はじめは特に違和感を覚えなかった。
しかしあまりにも長時間動かない。兵士の一人が、恐る恐る接近する。
巨人の体に手を触れた瞬間、兵士たちは愕然とした。
それはもぬけの殻だった。
中身のフィンは、どこかに消えていた。
***
一人、戦場を離れて走る影があった。それはフィンだったが、もはや人間の姿ではなかった。
顔こそ人型だが、巨大な口からは無数の牙が覗いている。体は四足でありながら人型の要素も残し、背中には翼とも触手ともつかない器官が蠢いている。
そして最も異様なのは、体中に口が開いていることだった。腹、背中、四肢、至る所に口があり、それぞれが独立して動いている。
これは超大型巨人でも、これまで知られてきたどの巨人でもなかった。それは飽くことなき食欲の権化、永遠に満たされることのない空虚の象徴。欲にまみれた、醜悪な化け物。
フィンは一人、エレンたちのもとへ向かっていた。その足音は地を震わせ、行く先々で鳥たちが空に舞い上がる。新たな捕食者の出現を、本能的に察知して。