重力が引き裂かれるような感覚と共に、視界が歪み、内臓が裏返るほどの圧迫感がタヴを襲った。銀灰色の靄の向こうで空間の継ぎ目が軋み、異なる位相がぶつかり合う閃光が時折走る。
ここはアストラル界。物質界と外方位界を結ぶ銀の虚空だ。風も重力もなく、意思で姿勢と移動を制御する。時間は流れるが、ここにある身は老いも飢えも進まない。タヴは流れに漂う黒い岩塊、漂流岩のひとつに靴底を触れさせて体の向きを固定し、周囲を探るため感覚を広げた。
彼がここへ来た目的は、アストラル界の各所に散発している次元の裂け目のひとつを調査することだ。裂け目とは、次元の境界に走る転位の傷で、外の界へ道をつくる門でもある。目の前のそれは人ひとりが余裕で抜けられる幅を保ち、縁が薄く光っていた。だが、戻り道となる回路が見当たらない。
「……意図的に開けられたものだな。しかも片道切符だ」
思考をまとめる間もなく、漂流岩の縁から三メートルほど離れた位置に、髪一本の幅から始まる鋭い銀の切れ目が走った。刃で空間を割ったような光の縁が瞬時に広がり、縦長の口を開く。裂け目から黄土色の肌と黒い斑を持つ戦士たちが滑り出る。
銀色の甲冑に、金色の眼。無重力下でも乱れない構えを見れば、ギスヤンキだと分かる。彼らは武器を構えたまま、意思で姿勢を制御しながら半円に展開し、漂流岩の縁と裂け目を同時に監視する布陣を取った。先頭の戦士がタヴを視認し、短く吐き捨てる。
「Intruder. You do not belong here(侵入者め。ここはお前の居場所ではない)」
声が終わるより早く、今度はその反対側の虚空に紫がかった楕円の輪郭が滲み出る。光ではなく、冷たい圧の波が先に胸を打った。縁取りは脈打つ脳波のように震え、中心部から黒い瞳と触手の影がにじむ。
灰紫の皮膚から、頭部を覆う複数の触手まで見間違えようがない。現れたのはマインド・フレイヤーだった。彼らもまた、裂け目の調査に来たらしい。群れの前面に出た一体が、短くテレパシーで指示を飛ばす。
【まずはあの男を排除せよ。裂け目は我らが解析する】
タヴにとって、ギスヤンキとマインド・フレイヤーは幾度も刃を交わしてきた相手だ。構えと初動を見れば、次に何が来るかは呼吸より先に読めた。
(また次元荒らしと触手野郎に鉢合わせか……。界の厄災どもめ)
タヴが外套の内で指をわずかに曲げた瞬間、ギスヤンキの一人がグレートソードを構え、漂流岩の縁から推進をかけて一直線に突っ込んでくる。タヴは掌を上げ、魔力を瞬時に組む。
「《Shield(盾)》」
掌の前へ透明な力場が立ち上がり、剣撃を斜めへ弾く。火花に似た光がタヴの頬を掠めた。ギスヤンキが手首を返して二撃目へ移る間にも、背後ではマインド・フレイヤーの触手が大きく開き、精神を押し潰す力が膨れ上がっていく。
タヴは岩塊の縁を蹴り、姿勢を反転させて思念の推力を足した。ギスヤンキも追撃を捨て、横へ滑る。そこへマインド・フレイヤーの《Mind Blast(精神爆砕)》が放たれた。
扇状の精神波は漂流岩の表面を撫で、離れかけた二人へ追いつく。触れた石肌の輪郭が二重にぶれた。波が意識へ届く寸前、タヴは別の術を組み上げる。
「《Intellect Fortress(知性の城砦)》」
意識の外側で見えない壁が閉じる。衝撃が正面からぶつかり、頭蓋の内側を白く灼いたが、思考までは奪われない。離脱が間に合わなかったギスヤンキは波をまともに受けて硬直し、甲冑の肘を岩肌へ打ちつけたまま無重力の中を漂う。タヴは短く息を吐き、反撃の雷光を掌に集めはじめた。
その時だ。裂け目が急に大きく脈動した。内側から押し出されるように輪郭が震え、縁が乱反射を繰り返す。ギスヤンキもマインド・フレイヤーも、その異常な振動に動きを止めざるを得ない。
反応より早く白光がタヴの視界を塞ぎ、身体は裂け目へ引きずり込まれた。
抵抗の余地はなかった。彼の意識は、震える次元の渦へと呑み込まれていった。
*
……風が吹いていた。草の匂いがした。
タヴは、硬い地面に顔を伏せたまま、しばらく動けなかった。空気の重さ、光の質、風の流れ、すべてが違う。
腕を地について身を起こし、周囲を見渡す。そこは、岩と草原が混ざり合った丘陵地帯。遠くに木々の影が揺れている。空を見上げると、見覚えのない星座が無数に煌めき、奇妙に明るい星が一際強く輝いていた。
少なくとも、知っている世界ではない。
タヴは丘陵と木立を視線で一巡し、背後にも動く影がないと確かめてから呼吸を整えた。指先に魔力を集め、《Plane Shift(次元間転移)》の術式を展開する。ベルトポーチから故郷の存在界に同調させた音叉型のロッドを取り出し、軽く叩く。微かな単音へ魔力が結びつき、境界を探って外へ伸びた。
音叉は正しい音を返した。だが、注ぎ込んだ魔力は行き先の縁を掴まない。境界の手触りがどこにもない。切り口が生まれず、編んだ術式は空気の中でほどけて消えた。
音叉が故郷の音を返した以上、行き先は誤っていない。閉じているのは、そこへ至る道だった。
眉間を押さえるように一度だけ目を閉じ、タヴは音叉型のロッドをベルトポーチへ戻す。次に取り出したのは、対になった滑らかな魔石、《送信石》だ。石を介して短い言葉を届ける《Sending(送信)》へ意識を切り替えた。
相方を誰も持っていなければ、その時点で術は起動せず、それと分かる。
石を掌に収め、額に当てる。短い文を声には出さずに思念で結ぶ。
【交戦中に不明界に転移。自力での帰還は困難。状況確認と救援を求む】
石の内部で言葉が灯り、対となる魔力へ細い糸が伸びる。だが、行く手の見えない膜へ触れた途端、その感触は断たれた。返答も、言葉が届いた手応えもない。やがて石は熱を失い、掌の中で沈黙した。
石が起動した以上、対となる一方は誰かの手にある。それでも、言葉はこの場所の境界を越えなかった。
タヴは送信石をポーチへ戻し、もう一つの手を試す。異界の存在を本来の故郷へ押し戻す《Banishment(放逐)》を、自分自身へ向けて組み始める。
彼は自身を対象に定め、意図的に抵抗を緩める。術が身をつかむ。ふっと体が軽くなり、引き潮のように故郷へ引かれる感触があった。しかし、すぐに硬い皮膜へ突き当たる。軽い破裂音が空気に混じり、タヴは同じ場所へ弾き返された。転移は何かに阻まれ、成立しない。
仕組みの異なる三つの術を重ねても、戻される位置は変わらなかった。
風が草を伏せて通り過ぎる。雷も嵐も気配を見せず、丘陵には葉擦れだけが続いていた。
ここが自然に形成された次元であれば、境界はもっと粗く、どこかに魔力の綻びがあるはずだ。ところが、指先で探る限り流れに段差がない。いずれの方角でも、編み目は同じ張力で結ばれている。あまりに均一な手触りに、探っていた指が止まった。
魔力は通る。それでも術式を広げるたび、見えない手に押し戻されるような抵抗が指先へ返ってきた。
*
目覚めてから二日後、タヴは歩き続けていた。丘陵地帯を抜け、獣の痕跡と人の足跡が交じり合う獣道を辿り、小川に沿って移動する。
川辺で何度か水を飲み、野草を焼いてしのいだ。焚き火すらも魔法を使わず火打石で起こす。異質な魔力の使用はこの世界に悪影響を与えるかもしれないと、本能が警鐘を鳴らしていた。
空に漂う魔力の粒子、土に染み込んだ力の流れ。すべてが整っている。
(……誰かが、意図して作った世界……か)
そんな思考を巡らせながら、三日目の夕暮れ時、ようやく集落が視界に入った。
灯り。煙。人影。
それは確かに人の営みだった。タヴはその小さな集落の外れに身を潜めていた。村には焚き火が灯り、獣の肉を焼く匂いが風に乗って届く。人々は何かの言語で話していたが、内容は分からなかった。
この世界の文化をさらに深く理解するため、タヴは《Comprehend Languages(言語理解)》を詠唱した。あらゆる言語を読み、聞くための魔法だ。耳に届いていた言葉が、次第に意味を帯び始める。
彼は集落の外から人の出入りと火の扱いを眺め、力を見せず、接触もしなかった。どれだけ力があろうとも、異邦人がこの世界で生き延びるには、まず相手の暮らし方を知る必要がある。
その日の夜、村から少し離れた森で奇妙な光景を目にした。
人の姿を模した何者かが、額から短い角を二本伸ばし、紫がかった光を滲ませながら獣の死骸に手順を踏んで何かを施していた。顔立ちは整っており、口元はわずかに笑っている。瞳には理性がある。空間に染み込むような不快な魔力の残滓が残り、呪詛に近い匂いを放っていた。
(なんだあれは……)
タヴは魔力の流れを探る。だが、構造が読めない。魔法というより、意思を帯びた儀式的な干渉に見える。しかも、その干渉はこの世界の魔力となじみ、根を張っていた。
彼の世界にも、角を持つ人型の種族はいた。ティーフリングはヒューマンに似ているが、尻尾や異色の瞳が目立つことが多い。カンビオンには翼や尾、サテュロスには蹄と獣脚がある。だが、目の前の存在はどれにも当てはまらない。ヒューマンに近い体つきで、外見上の差は額の角くらいだった。
タヴは枝を踏まないよう足を戻し、森の縁から村の近くへ回り込む。焚き火のそばで交わされる会話に耳を傾けると、「魔族」という単語が何度も飛び交っていた。そのたび、森の獣の死骸や額の角が話に結びついている。
村人の言葉と森で見た姿が、ひとつの呼び名で繋がった。あれは、この世界に存在する種族の一つで、「魔族」と呼ばれている。まるで肉体が魔力そのもので構成されているようで、生体というより、歩く魔力器官に近い。正体の解明も急ぎたいが、今は別の懸念が優先する。
(……誰があの裂け目を開いた?)
ここは恐らく、外界から切り離された封鎖次元だ。通常なら、干渉どころか所在の特定すら困難であるはずだ。それを見つけ、境界に穴を穿つには、生半可な魔法や技術では到底届かない。ギスヤンキやマインド・フレイヤーのように次元航行と侵入を常道とする巨大勢力が関わっているか、あるいは神格に等しい介入が働いたと考えるのが現実的だ。
しかし推測だけでは何も分からない。帰還の糸口を見つけるためにも、この世界の魔法体系、言語、信仰、社会の構造を確かめるべきだ。そして、もし多元に及ぶ脅威がこの世界を足場にしようとしているなら、早期に兆候を掴み、最小の被害で断たねばならない。
タヴは低く身を縮め、息を整えて外套の裾を押さえた。風が草を撫で、焚き火の光が遠くで揺れる。遠くで雷鳴が鈍く転がった気がした。
「……仕方ない。調べてみるか、この世界の全部を」
囁きは誰にも届かないほど小さい。タヴは身を屈めたまま茂みの陰を伝い、足音を消して村を離れた。
*
見渡す限り、荒涼とした岩山と苔むした斜面が広がっていた。風は鋭く、寒気を伴って肌を刺す。空気は乾燥しているのに、足元は湿り気を帯びている。どこかで雪解け水が流れているのだろう。
タヴは外套を深く被り、足音を殺しながら尾根を登っていた。
この辺りの魔力は、尾根を越えるたび同じ方角へ引かれていく。風に逆らう流れまであった。
何日目の探索かは分からない。アストラル界から転移して以来、魔法は必要最低限に絞り、火も道具で起こしてきた。焚き火を熾すのも、周囲に足音や息遣いがないと確かめてからだ。
岩の切れ目では魔力が溜まり、数歩先では急に薄れる。その繰り返しは、偶然には見えなかった。
小高い岩山の尾根に辿り着いたとき、タヴは足を止めた。西の方角、霧に包まれた谷間に淡い輝きが見える。初めは朝焼けの反射かと思った。だが、光の質が違う。陽の光ではない。まるで金属へ魔力を流し込んだような、冷たい光だ。霧の奥には、塔と城壁を備えた黄金の建造物が浮かんでいる。だが、見つめようとするたびに視界が滑る。
タヴは目を細めて魔力感知を広げるが、感触がなかった。視界には塔も城壁もあるのに、感知を通すと、谷には何もない空白しか返ってこない。
視覚だけを残し、感知から都市を隠す認識阻害。それも、内外からの侵入を防ぐ結界と重なり、谷一帯を覆っている。タヴはしばらく見つめ続けたが、何度視線を送り直しても、黄金の都市は確かな輪郭を結ばない。
結界の縁には継ぎ目も、力が流れ込む起点も見つからない。術者も目的も見えないまま、タヴは位置と光の強さを記憶に刻む。
この世界の魔法体系はまだ把握しきれていない。下手に触れば、結界に呑まれる可能性もある。調べるのは後だ。タヴは踵を返した。
*
山を下り、川沿いの獣道を辿りながら、小さな集落を探す。途中で魔力の痕跡を発見した。だが、どれも断片的で不明瞭。高原に住む魔物や、魔族のものである可能性もあった。
その中に、廃村の家屋が一軒、木の骨組みを剥き出しにしていた。風雨に晒された板は灰色に痩せ、何年も放置されている。それでも足元には、人が立ち入った跡が消えずに残る。
削れた木片、踏み固められた土、斧の痕。斧の痕は苔に覆われず、割れた木片にはまだ白い木肌が残っている。風雨に薄れきっていない痕跡は、数週間前まで誰かがここにいたことを示していた。
タヴは削れた木片の向きと土の窪みを一つずつ拾い、その痕跡を辿った。
そしてようやく、小さな集落に辿り着く。石造りの簡素な家々が並び、斜面には段畑が広がっていた。放牧された山羊の鳴き声も聞こえる。暮らしは質素だが、確かな人の営みがあった。
タヴは石造りの家屋の陰に身を隠し、遠くから集落を観察する。
そこでは、タヴと背丈や体格の似た住人たちが日々の仕事に勤しんでいた。農夫が鍬を土へ入れ、その脇を子供たちが山羊を追って駆けていく。言葉も衣服も見慣れないのに、その暮らしは故郷の辺境と大きく変わらなかった。
習慣から歩き方や道具を持つ手へ目を凝らしても、異形を示す動きは見つからない。数日前に見た集落の住人も同じだった。肌や髪には個人差があっても、骨格と仕草は記憶にあるヒューマンの範囲に収まっている。
同じ種族だと断定するには、この世界のことをまだ知らなすぎる。それでも、外見だけで異物として弾かれる心配は薄い。家屋の陰で張りつめていた肩から、わずかに力が抜けた。
(俺がヒューマンだったのは……運が良かったかもしれない)
*
風が白い霧のように地を這い、吹きさらしの丘陵を切り裂く。タヴは、外套の裾を両手で押さえながら雪原を進んでいた。視界の果てまで続く白い地表。空は曇天、太陽の輪郭さえ曖昧で、どこからどこまでが地平なのか分からなくなる。
寒さは魔法で抑えられるが、使用は最低限にとどめた。戦闘に備えて防御や感知の術を即応できる状態に整えてはいるが、今のところ近くに敵の気配はない。
静かすぎる。魔力が地中へ沈んでいるように感じられた。
集落で聞いた名によれば、この雪原はシュマールという。鉱物資源の産地であると同時に、魔物の徘徊地でもあるらしい。村人たちの会話で何度も耳にした名詞がひとつあった。
聖雪結晶。
希少な鉱物で、魔法薬や装飾品、あるいは祝福の儀式などに用いられるらしい。空気中の微細な魔力粒子を吸収・凝縮して成長する性質を持ち、この地方特有の気候と魔力構造でしか生成されない。
だが、それが採れる場所は決まって凶暴な魔物の縄張りに近く、まともな採掘には相応の戦力と準備が要る。そんな場所に、人は集まる。風の向こう、視界が開けた斜面の先に、焚き火の煙が見えた。丘を越えた先には、いくつもの布と木材で囲われた仮設の野営地が広がっていた。粗末なテント、荷車、焚き火の煙、そして人の声。
商人が荷を下ろし、武装した男女が地図を囲んでいる。タヴは外套のフードを深く被り、風下からそっとその営みを観察する。
鉱山の補給拠点と考えれば、これほどの規模を維持できるだけの採掘価値があるはずだった。
彼は荷車やテントを遮蔽にして、野営地との距離を少しずつ詰めていく。人の出入りと手元を追い、こちらを探る者がいないか見渡す。幸い、あからさまな魔法感知の術を使う者はいなかった。
魔法を感知される危険は低い。こちらへ目を向ける者が途切れた今なら動ける。
距離を保ったまま、野営地の端にある荷車へ近づく。商人らしい男が箱を数えていた。タヴは一呼吸おいて影から回り込み、《Tongues(言語会話)》へ《Subtle Spell(呪文発動秘匿)》を重ねる。聞いた言葉を理解し、自分の発話を相手の言語へ置き換える術だ。唇が動いたのは、男へ話しかける時だけだった。
「……手が足りないのか?」
男は肩を跳ねさせて振り向いた。箱の上に置いた指が、数えかけのまま止まる。
「お、おう? なんだ、あんたも冒険者か?」
「通りがかりの旅人だ。少し食料が必要でな。手伝えることがあるなら、少し働かせてもらいたい」
男は一瞬考え、近くのテントを指差した。
「なら、あそこの焚き火台の薪を運ぶのを手伝ってくれ。あとで飯を分けてやる」
「承知した」
男は片眉を上げた。
「……ずいぶん堅い喋り方だな。まあ、頼んだぞ」
男が離れていく。タヴは「堅い喋り方」という一言に眉を寄せた。《Tongues(言語会話)》を介した自分の言葉が、相手にどう響くかまでは分からない。次からは言葉を選ぶ必要がありそうだった。
タヴは薪の束を運び、荷車の車軸を修理し、火を維持するための草木を集めた。すべて、魔法は使わない。薪の束は重く、腕に食い込むたび息が漏れた。タヴは元々、筋力にはまるで自信がない。だが、運び方を工夫し、少しずつ無理のない負荷で仕事を進めた。筋骨隆々とした冒険者が運ぶような大荷物とは違い、手伝いに求められたのは体力より手数だった。この程度なら問題はない。
人目につかず価値を得るなら、この手段がもっとも確実だった。
やがて食事の時間になると、商人たちは鍋を囲んで煮込み料理を分け合う。タヴも端に座り、無言で湯気の立つ肉と豆のスープを啜った。温かさが、疲れた身体に染み渡る。商人たちは時折こちらを見るだけで、素性も旅の理由も問わない。タヴは鍋の端で交わされる地名と品物の値を聞きながら、次の一匙を口へ運んだ。
食事を終えると、タヴは再び立ち上がり、地図を見ながら作戦会議をしている冒険者たちの輪に近づいた。彼らは採掘隊の護衛契約について話している。鉱脈の場所、周囲の魔物の出現頻度と討伐の難度、成功報酬の分配。戦力が経済活動に直結し、力が通貨に等しい構図は、タヴにとっても馴染みのあるものだった。
手段さえ選ばなければ、この世界でも生きていける見込みはあった。
冒険者たちの輪を離れたタヴは、人の集まりから一歩外れた焚き火のそばに腰を下ろした。夜の風は一層冷たくなり、炎がかすかに揺れる。彼はその熱を背に受け、沈黙の中で耳を澄ませた。隣の木箱には商人が腰掛け、干し肉を裂きながら隣人と小声で話している。その話題は北部高原の東端にあるという、ノルム商会領のことだった。
「ノルム商会領ってのはな、鉱山がいくつもあるんだ。鉄に銀、聖雪結晶の精錬場まであるらしいぜ」
「ああ、街道も整ってるらしいな。あそこに行けりゃ、まともな宿も道具も揃う」
交易の中心地なら、情報と物資も集まる。
タヴは耳にした断片的な情報を繋ぎ合わせ、この世界の流通は地方ごとの商会やギルド、領主勢力が支えているのだと見当をつける。ノルム商会領もその一つで、北部高原の中では比較的安定しており、城壁に囲まれた拠点都市として機能しているらしい。
城塞都市への出入りには手続きが要る。よそ者が素直に通してもらえるとは限らなかった。
彼は小さく息を吐き、焚き火の向こうに続く東の街道へ顔を向けた。
それでも行く価値はある。今のタヴには地形と社会構造の把握が必要で、まとまった金も欲しい。問題は門を通る方法だった。
次の目的地への思案を巡らせながら、タヴは焚き火のそばで一晩を明かした。星が昇り、やがて夜が明ける。空は濃い青から薄明に変わり、周囲のざわめきが少しずつ増えていく。
朝、物資の整理を終え、道具の手入れを済ませたタヴは、立ち上がると商人の一人に目を留めた。声をかける直前、《Tongues(言語会話)》へ《Subtle Spell(呪文発動秘匿)》を重ねた。言葉の隔たりはすでに消えている。
「ノルム商会領へ向かうには、どの道を通ればいい?」
焚き火のそばにいた男は目を細め、地図を広げた。
「ここからなら……トーア大渓谷を越えるのが早いが、あそこは難所だ。渓谷沿いに上流まで進めば浅瀬はあるが、だいぶ遠回りになるぞ」
「トーア大渓谷……どんな場所なんだ?」
「深さが三千メートルあるらしい。それに風がひどい。下手すりゃ荷馬車ごと吹き飛ぶ。昔は誰も越えられなかったが、最近は向こう側から来たって話もある。ただ、どうやって渡ったのかまでは知らんがね」
何らかの手段があるのかもしれない。だが、それが今も使えるかは分からなかった。
《Wind Soul(風の魂)》を使えば、峡谷そのものは越えられる。雷鳴と雷撃を受けつけず、強風の中でも飛行を保てる力だ。だが、三千メートルの谷を横切れば、両岸のどこからでも姿を捉えられる。この世界の魔法使いが空をどう使い、何が高空を縄張りにしているかも、まだ分からない。
タヴは飛行を保留し、渓谷沿いに地形を確かめる道を選んだ。上流の浅瀬まで遠回りする前に、渡渉できる場所か、誰かが使っている通路を探す方が先だった。
*
数日後、タヴは切り立った岩壁の間を縫うようにして進み、風のうねりを感じながら尾根に出た。そこで彼の視界に飛び込んできたのは、断崖をつなぐ巨大な橋だった。石と金属を組み合わせた橋脚には長い風雪の跡が刻まれている。その一方で、踏板や接合部には新しく取り替えられた箇所があり、今も定期的に手が入っていると分かる。
だが問題は橋そのものではない。黒い影が三つ、橋を塞ぐように上空を旋回していた。翼を広げれば十メートルはあろうかという鳥型の魔物だ。三体は高度をずらし、橋へ近づく者を見張っている。
峡谷に吹き付ける風は、彼らの存在によって乱されている。単なる自然現象とは思えない。意図的に風を操っているのかもしれない。魔物が縄張りとして橋を守っているのか、それとも誰かが配置したのか。
橋を使うなら、あの鳥どもを無力化する必要があった。
タヴは峡谷の縁から両岸の岩棚を見比べ、風が途切れる位置を探った。足場は乏しく、乱流を正面から受けずに射線を取れる場所も限られる。周囲の風へ魔力を馴染ませると髪が浮き、足元に淡い波紋が広がった。
風を背に橋の入口まで進む。頭上では三体の羽ばたきが峡谷へ降りる流れを押し返し、互いの下へ渦を作っていた。最も低い一体が旋回を終え、タヴへ胸を向ける。大地を撫でる風と峡谷へ落ちる乱流の隙間を読み、右手を掲げた。
掌に集まった力が四条の《Eldritch Blast(怪光線)》となり、乱流を縫って走る。先頭の一条が低空の個体の翼を破り、傾いた胴へ二条が続いた。残る一条は急旋回した別の個体の翼端を削る。
最初の個体が谷へ落ちきる前に、タヴは左手を残る二体へ向けた。《Quickened Spell(呪文高速化)》で重ねた光線が、体勢を戻そうとする一体と上空へ逃れた一体を続けて捉える。二つの影が高度を失うと、橋上の風から荒れた渦が消えた。
タヴが橋へ足を踏み入れる。踏板はわずかに軋んだものの、構造は揺るがなかった。
魔法で補強された形跡はなく、職人が組んだ石と金属だけで強風と歳月に耐えている。踏板から接合部まで、誤差のない造りだった。橋を渡りきり、緩やかな斜面を下った先の林の陰から、誰かの低い声が聞こえた。
「He, du da(おい、そこのあんた)」
声の方向に顔を向けると、小柄な人物が立っていた。ターバンを巻いた頭、整えられた口ひげ。腰に重そうな工具を提げ、分厚い革のブーツを履いている。
体格と顔立ちは、タヴのいた世界でいうドワーフに近かった。
男は何かを話しかけているようだったが、言葉は分からない。タヴは小さく息を吐き、《Subtle Spell(呪文発動秘匿)》を重ねた《Tongues(言語会話)》を起動する。
「……すまない、もう一度言ってくれ」
「……あんた、魔法使いか?」
「まあ、それに近いものだ」
タヴは曖昧な返事を返し、身構えた。自分の魔法を見られていたのだ。もし異質に思われたなら、余計な疑念を生む可能性もある。
必要になれば、適当に誤魔化すつもりだった。
だが、男はタヴの手元を追いもせず、眉も動かさなかった。魔法を気にした様子もなく、用件を切り出す。
「そうか。とにかく助かる。あんたが魔物を倒したところを見てたんだ。見事だった」
男はゲーエンと名乗った。
「この橋の整備を任されてる。儂が二百年かけて架けた橋だ」
二百年という歳月は、先ほどのドワーフという見立てを裏付けた。
タヴの世界に存在するドワーフと同じく、寿命が三百年ほどの種族なら、ゲーエンにとっては人生の大半を橋の建築に費やしたことになる。
「最近、あの鳥の魔物がこの辺りの岸に巣を作っちまってな。倒しても、またすぐ来る。見ろよ、あれ」
ゲーエンが指差す先、崖の上部にいくつかの岩が不自然に崩れていた。枯れ枝や羽根のようなものが風に揺れている。
「巣そのものの場所はまだ突き止めきれてないんだが、崖のどこかにあるはずだ。放っておくとまた増える」
「……で、俺にどうしろと?」
「そいつを何とかしてほしい。あんたみたいな腕のある奴じゃないと、無理だろうしな」
「断る。俺には俺の用事がある。慈善活動に手を貸すほど暇じゃない」
ゲーエンはしばらく無言になり、一度だけ橋へ目をやった。足を踏み直してから、タヴへ向き直る。
「この橋はな、儂の故郷が魔族に焼かれてから作り始めたんだ。あのときここに橋があったらみんな助かった。誰かが、どこかへ、安全に渡れるように……そういう場所を、どうしても残しておきたくてな」
タヴは沈黙したまま彼を見た。
(後悔から半生をかけて築いた橋……そのために魔物退治を頼む。理屈は理解できる)
「報酬による」
短く言い切る。ゲーエンは困ったように頭を掻いたが、やがて何かを思い出したように呟いた。
「……魔導書ならある」
「どんな魔導書だ?」
「パンケーキを、上手にひっくり返す魔法のやつだ」
「……は?」
「表と裏が均等に焼けて、焦げずにふっくら仕上がる。あと材料もある。小麦粉と卵もな」
タヴは二度ほど瞬きをし、しばらくゲーエンを見つめた。返事はすぐには出なかった。
タヴは、生まれ持った血と自然の力から魔力を引き出すソーサラーだ。その中でも、嵐と結びついた《嵐の魔法》の系譜に属している。書かれた手順をなぞって術を身につけるわけではないため、魔導書を読んでも、そこにある魔法をそのまま使えるようにはならない。
だが、頁に組まれた術式を追い、自分が感覚で行っている魔力操作と比べることはできる。パンケーキ一枚を返すための魔法でも、この世界で何を術式へ切り分け、どう現象へ結ぶのかは読み取れるはずだ。帰還の糸口がどこに潜むか分からない以上、用途の可笑しさだけで切り捨てる理由はなかった。
「……興味はある。その魔導書、譲ってもらえるなら、協力してもいい」
ゲーエンの顔がパッと明るくなる。
「……そうか、引き受けてくれるのか。助かる。慎重にな」
「巣は崖の上のどこかにあるんだな?」
「ああ。あの辺り……たぶん、風が渦巻いてるあたりだ」
タヴは視線を崖へ向けた。風の流れが確かに、特定の位置で乱れている。あそこに何かある。
タヴは受け取る品を指で数え、ひとつうなずいた。
足元の風を感じながら、彼は崖を見上げた。
*
峡谷の風が、崖の斜面に沿って唸りを上げていた。タヴは岩肌に手を当て、靴底が噛む場所を選んで斜面を進む。足元の砂礫は不安定で、誤れば滑落しかねない。空にはまだ、先ほど撃ち落とした魔物の仲間と思われる影が小さく旋回しているが、こちらに気づいている様子はない。
痕跡を残さないため、可能な限り魔法は使わずに済ませたかった。
太陽は西の稜線へ傾き、峡谷の斜面には深い影が落ちている。岩の窪みはすでに暗く、奥まで見通すのは難しいが、タヴにはそれが問題にならない。
かつてタヴは、異界の存在と契約して力を得るウォーロックとなることを余儀なくされた。その契約相手の一つが、意思ある魔剣《ヘクスブレード》だ。望んで結んだ縁ではない。それでも、授けられた呪力と剣技は今も身体から切り離せなかった。
契約で得た《Eldritch Invocations(妖術)》の一つ、《Devil's Sight(悪魔の目)》へ意識を寄せる。月明かりの届かない斜面で、岩の割れ目も、その縁に積もった砂も、昼と変わらぬ輪郭を取り戻した。魔法で生じた闇さえ見通す目には、夜そのものが遮蔽物にならない。タヴは崖の凹凸を拾い、靴先で小石を一つ転がす。落下音に反応する羽音がないことを確かめてから、風の渦へ近づいた。
この辺りでは風が集中し、魔力の流れもわずかに乱れていた。
風の流れと魔力の残滓を読むのは、タヴにとって感覚的な行為だった。嵐の魔力に結びついた彼の血は、大気の揺らぎや力場の歪みを風の声として捉える。術ではなく、本能で感じ取る領域だった。
崖の裂け目の奥に、不自然に削れた岩の窪みが見える。古木の枝や骨片、羽根などが積み重なっている。
魔物の数は正確に分からないが、少なくとも五体以上が密集している気配がある。
密集しているなら、先に巣ごと叩くほかない。タヴは呼吸を整え、標的から標的へ跳ぶ高位の雷の魔法、《Chain Lightning(連鎖電撃)》を唱えた。掌から走った閃光が一体を貫き、枝分かれして巣の奥へ散る。
雷の網が枝葉と骨片の隙間を駆け抜けた。数体の魔物は悲鳴を上げる間もなく焼かれ、淡い光を帯びて崩れていく。魔力の粒子が風へ溶け始めるより先に、タヴは巣口から身を離した。
この世界に来て何度か目にした現象だが、異質さは拭えない。タヴはその場にとどまらず、即座に離脱を開始した。
一階梯以上の魔法に呼応し、《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》の風が足元から吹き上がる。タヴはその流れに乗って崖の外縁へ跳んだ。靴底が岩を捉えた背後で、焼け残った二体が巣から飛び出す。
一体は岩壁沿いへ逃れ、もう一体は上昇気流へ翼を広げた。タヴは右手を低い影へ向け、四条の《Eldritch Blast(怪光線)》で胴を射抜く。続けて上空へ返した光線が残る一体の翼を貫き、岩場へ落とした。羽音が絶えるにつれ、峡谷の風も元の流れへ戻っていった。
タヴは巣の手前で足を止め、残る羽音がないと確かめてから近づいた。岩場の裂け目を覆う枝葉や骨片を一本ずつ脇へ寄せ、中を覗く。奥には魔物の卵らしい殻が散乱していたが、どれも孵化したあとの空殻だった。周囲の岩陰まで見渡したのち、枝葉を戻して巣を離れた。
峡谷を出るまでの道のりは慎重を要した。荒れた斜面の足元に注意を払い、足跡を残さぬよう硬い岩場を選んで進む。夕暮れの風が弱まり、やがて峡谷の出口が見え、目印としていた橋の影が視界に入った頃には、空はすっかり薄暗くなっていた。
橋付近まで戻ると、ゲーエンが岩陰から姿を現す。
「終わったか?」
「ああ。風の流れを乱していた巣を潰した。もう奴らが舞い戻ることはないだろう」
ゲーエンは小さく頷き、腰に下げていた布包みを取り出した。
「約束の品だ。中に魔導書と……材料もある」
タヴは布包みを受け取り、頭を下げて礼を言った。
日が完全に沈み、あたりが夜の闇に包まれる頃、タヴは橋のたもとを離れて近くの岩陰へと向かった。風を防げる安全な場所を選び、手早く集めた枯れ枝で小さな焚き火を熾す。揺れる炎の明かりを頼りに布包みを広げると、中から見慣れない文字が刻まれた魔導書が現れた。魔力の気配こそ感じるが、それが本当にパンケーキの魔法書だとは信じがたい。
タヴは、ひとまず見るだけ見ることにした。
タヴは小声で《Comprehend Languages(言語理解)》を詠唱し、ページをめくった。文は料理工程に沿って組まれ、温度調整の魔法式、焼き上がりを知らせる熱感知の術、攪拌を補助する空気流動の魔法まで、どれも丁寧に理論立てられていた。
魔力の応用としては非常に高度な構成をしている。ソーサラーには再現困難な部分もあるが、参考になる理論も多い。ページの端に挟まっていた紙片には、丁寧な筆跡でこう書かれていた。
「美味い朝食は、良い旅路の第一歩」
タヴは小さく笑い、紙片を本の間へ戻した。
(……この世界、悪くないかもしれないな)
*
北部高原の先で、巨大な湖が視界の端から端まで広がっていた。湖畔の町は風に削られた石壁と幾重にも補修された桟橋にしがみついている。灰色の雲が水面を覆い、波は絶え間なく岸を叩く。対岸は、白く霞む水平線の向こうにかすかな影を残すだけだ。
タヴは防風のために低く設けられた石塀の陰で、風の向きを確かめるように周囲を見渡した。道中の宿で得た地図と旅人たちの話によれば、ここがコドーリア湖──北側諸国で最も大きな湖だという。何日も留まっているわけではない。それでも港に停泊する帆船が一度も出航しないことは印象的だった。船員たちは桟橋の脇で酒を飲み、賭けをし、風が止むのを待ち続けている。
待つだけでは、何日経っても状況は変わらない。
空を仰ぐと、雲の流れが複雑に交錯している。東と西からぶつかる風が、湖上で狂った渦を作り出している。
「嵐の季節に無理をして出るのは、船乗りでも死にに行くようなもんだ」
宿屋の主はそう言った。正午になっても桟橋の係留索は外されず、荷役の掛け声も聞こえない。タヴは町の外れにある小さな倉庫の壁を背に考え込む。
《Storm Guide(嵐導き)》なら、術の届く範囲の風向きを変え、船を対岸まで進められる。
湖全体の嵐を鎮める必要はない。術の届く範囲で横風を船尾へ回し、帆へ入る向きを保てば、少なくとも対岸へ進む道は作れる。タヴは倉庫の角から吹き込む風へ、ごく細く魔力を流した。壁に吊られた縄の房が一度逆向きに靡き、狙った角度を越えてから戻る。
《Storm Guide(嵐導き)》の力は応じている。ただ、この世界では風へ命じてから動くまでが故郷より半拍遅い。力を足せば行き過ぎ、引けば流れが途切れる。湖上で調整を誤れば、荒れた風をかえって強めかねなかった。
加えて天候を操る力は、この世界では特に異質なものとして目立つ可能性がある。追跡者がいるかもしれないという懸念は、常に頭の隅にあった。それでも、何か月もここで待てるほどの余裕はなかった。
滞在が長引けば、足がつく。物資の確保も困難になる。何より、この世界に留まる時間が増えれば増えるほど、異界の存在として痕跡を残してしまう。タヴはふっと小さく息を吐いた。
ほかに道はない。ただし、動かす風は必要最小限に留める。
タヴは倉庫の陰へ回り、小声で《Tongues(言語会話)》を詠唱した。そのまま管理所に入り、船員たちへ提案を伝えると、何人もの声が重なった。
「風を……変えるだと?」
「完全には無理だ。ただ追い風になる程度には整えられる」
「魔法か? 本当にそんなことが……」
「見せる。船を出す準備をしてくれ」
船員たちは顔を見合わせ、半信半疑のまま積荷の少ない小型帆船を岸辺に係留した。タヴは波打ち際に立ち、風を読むように空を見上げる。《Storm Guide(嵐導き)》を必要な分だけ巡らせると、向かい風の角度が少しずつ変わり、湖面を叩く波も低くなっていった。
「……風が変わったぞ」
船員の一人が舷側を掴んだまま声を上げる。帆のばたつきが収まり、張った布がゆっくりと追い風を孕み始めた。
「本当に風を操れるのか……」
「少しだけ、な」
タヴは短く答えると船員たちと共に船に乗り込み、航行を開始した。タヴは引き続き魔力を巡らせて風の流れを維持する。《Storm Guide(嵐導き)》の行使は、外から見ればただ空を見上げているだけに見えるが、帆船は確かな加速を得て、滑るように湖面を進んでいった。
湖の中ほどまで来たところで、帆から急に力が抜けた。直後、船体が横から突き上げられ、一定だった波の間隔が崩れる。タヴは舷側から湖面を凝視し、水面下を移る気配を捉えた。
水面に泡が立ち、渦が巻き始める。
「おい、舵が効かねえ!」
船員の叫びと同時に、巨大な影が湖面から跳ね上がった。
「クラーケンだッ!」
その名を聞いた瞬間、タヴの目が鋭くなった。クラーケン。伝説に名を刻む深海の怪物であり、彼の世界では海域を崩壊させるほどの存在だった。
(……まさか、この世界にもいるのか? いや、違う。規模も魔力の濃度も、あの本物とは違う。名が同じなだけの別物か)
舷側に体当たりするようにぶつかってきたのは、巨大な軟体生物だった。くちばし状の口と吸盤を持つ複数の触手をうねらせ、艶のある灰白色の身体が波間から姿を現す。球状の大きな目が水面をにらみつけ、まるで意志を持つかのように船を狙っていた。船体が軋む。帆柱がきしみ、乗員たちが悲鳴を上げる。
風向きを変えてから魔力を放つたび、同じ妙な気配が腕に触れていた。その感触が灰白色の巨体へ重なる。タヴの魔力に引き寄せられたらしい。船体が大きく跳ね、一人の船員を帆桁の高さまで放り上げた。背から甲板へ落ち始めたところへ《Feather Fall(軟着陸)》をかける。落下の勢いを失った船員は外套を帆のように膨らませ、揺れる甲板へ降りた。
怪物がもう一度船を引き寄せる。タヴの掌から四条の《Eldritch Blast(怪光線)》が走り、灰白色の胴を穿って水柱を立てた。船員の怒声と軋む索の音が、その向こうで重なる。
タヴは傾く甲板を駆けた。右舷に巻き付いた触手の根元へ四条を集め、船体から引き剥がす。別の一本が甲板を薙いだため、帆柱の陰へ身を沈めた。頭上を触手が通り過ぎると同時に、球状の目へ次の光線を叩き込む。魔獣はのけ反り、船縁を掴んでいた吸盤を一つずつ外した。灰白色の背が波間へ沈むにつれ、船の揺れも小さくなる。
「……助かった。あんたがいなければ、今ごろ湖の底だった」
「礼はいらない」
タヴはそう答えたが、帆柱に並ぶ吸盤の跡から目を離さない。風向きを変えて魔力を放った後に、魔獣は現れた。その順序を胸の内でなぞりながら、帆の陰に腰を下ろす。魔力の揺らぎはまだ腕に残り、指を開くたび刺すような感触が走った。
タヴは一度、指を曲げ伸ばして腕の感覚を確かめた。この先は必要になるまで魔力を抑える。それでも、必要になれば使うつもりだった。船尾越しに、航跡の上へ閉じていく霧を見た。
コドーリア湖の対岸が、ようやく視界に入り始めていた。
*
タヴが船を降り、湿った石の桟橋に足を踏み下ろしたとき、朝の港町はすでに動き出していた。コドーリア湖の対岸に位置するこの町の朝は、濡れた石畳と潮の匂いに満ちていた。雨は上がっていたが、空にはまだ厚い雲が残り、港に並ぶ帆船の帆は固く巻かれたままだ。
桟橋では荷を積み下ろす声が響き、行き交う人々の中に旅人、商人、兵士の姿が混じっている。タヴはそんな喧騒の中、目立たぬように黒い外套のフードを深く被っていた。
交易拠点として必要な規模は備わっていた。
通りを歩きながら、目に入る建物の構造、掲げられた旗の紋章、通貨の種類と会話の訛りまで注意深く観察する。短時間で得られる情報は限られていたが、それでも旅の方向性を定めるには十分だった。
「ドラッヘ地方なら、山沿いを進めばルーフェンを経由して、ノルム商会領まで行ける」
路地裏の簡易な地図売りから購入した粗末な羊皮紙には、北部高原一帯の街道と峠道が記されていた。正確さには疑問が残るが、少なくとも目印にはなる。
港町の滞在は、一晩だけだった。
物資を整えるにあたり、皮袋に水を満たし、干し肉と黒パン、乾燥果実、火打ち石と油脂の小壺を買い足した。支払いのために、外套の留め具に使っていた細工の甘い銀の留め金と、予備の錫の指輪を質屋兼両替商に持ち込み、通貨に替えた。
情報収集には《Comprehend Languages(言語理解)》を用い、酒場や荷揚げ場で交わされる噂話へ耳を澄ますに留めた。無闇に魔法を使えば痕跡を残す。必要な聞き取りだけを済ませると、宿で身体を休める。
翌朝、雲が薄くなったのを見て出発する。湖畔の街道に出て、貨車の轍が続く北行きの道を踏みしめる。町外れの祈祷所を過ぎるころ、遠くに風に削られた尾根が連なって見え始めた。
ドラッヘ地方は、標高の高い岩山と風に削られた尾根が続く土地だった。古くから竜にまつわる名を持つこの地は、現在では峠越えの中継地として、時折旅人や搬送隊が通る程度だという。
人の手が入っている割に、この辺りの警戒は薄かった。
タヴは岩壁沿いに進みながら、谷間に小さく煙が立つのを認めた。地形の窪みには小さな集落がある。だが、煙は薪のものではなかった。
黒い煙柱が、屋根の隙間から上がっている。
次の風が、耳の奥を揺らす咆哮を運んできた。獣のものとは思えない魔力の波が混じっている。
高台に移動し、タヴは岩陰に身を潜めながら眼下を見下ろした。空を旋回する三つの影は、小型の竜に似た魔物だ。彼の世界でワイバーンと呼ばれる存在に近かったが、その動きと魔力の質は異なっていた。
三体は飛行型らしく、風の流れを読んで動いていた。
そのとき、すぐ近くの岩陰から、小さく震える声が漏れた。
「村が……!」
タヴが顔を向けると、岩陰の先に、身を伏せる数人の影があった。旅人か、避難した村人かは分からない。声を漏らした人物は口を掌で塞ぎ、岩を掴む指の節を白くしていた。
遠くで、木材の砕ける音と悲鳴がこだまする。吹き抜ける風の合間に、吠えるような咆哮が混じっていた。
三体は群れで動いている。近くに巣がある可能性が高い。
すぐに介入できる距離だった。だが、タヴは一歩も動かなかった。
(……介入対象ではない)
眼下の三体の魔力反応は在来種の範囲に収まり、次元干渉も構造的な異常もない。タヴが所属する組織の規範では、現地の生態と争いから生じた被害へ、他世界の者が介入してはならなかった。救った一人の先で何が変わるか、その世界を知らない者には引き受けきれないからだ。
ここで踏み込めば、現地の因果へ手を入れる最初の一歩になる。因果を変えるな。善意は毒になり得る。上層部の声なら、今も一語ずつ思い出せる。タヴはこれまで、その教えに従ってきた。
だが、その規範を破ったかどうか確かめる者はもういない。裂け目に呑まれてから通信は一度も戻らず、追跡の気配も途絶えた。
(見捨てられた。それは、もう理解してる)
任務に有用なら拾い、不要なら切り離す組織だ。失踪者一人へ割くものがないことくらい、分かっていた。
それでも思考の端では、帰還後の報告文を組み立てている。消耗品の補給数まで数えてから、今はそれを届ける道がないことに気づく。その癖だけが身体から抜けない。
眼下で一体が翼を返し、民家の屋根へ爪を掛けた。梁が裂け、岩陰に伏せた者の指が石を掻く。タヴの右足が半歩前へ出て、そこで止まる。
降りれば、目の前の命には手が届く。その先に生じる変化まで、自分一人の正しさで決めることになる。そう教えた者たちがいなくても、選んだ結果だけは消えない。
(誰にも監視されず、誰にも裁かれないとしても……俺自身が秩序を乱す要因になることは許されない)
タヴは奥歯を噛み、出かけた足を岩陰へ戻した。喉の奥に鉄を噛んだような苦さが残り、握った拳へ爪が食い込む。冷えた風に外套を叩かれながら、屋根を砕く三つの影を見続けた。
嵐は、まだ沈黙していた。
*
ドラッヘ地方の荒れ地を越え、タヴはようやくルーフェン地方へと辿り着いていた。この地は、北部高原の中でも穏やかで、信仰と農耕の土地として知られている。丘陵と草地が交錯する風景の中、小さな礼拝堂や巡礼者の姿が所々に見えた。
空は乾いた白さを帯び、風は冷たくも清らかだった。
この辺りも魔力の流れが整い、何かに意図的に制御されているように感じられた。
そんなことを考えながら歩いていたとき、不意に声をかけられた。
「E-entschuldigung...ähm...(す、すみません……あの……)」
栗色の髪を風に乱した若い僧侶が、法衣の裾を指先で何度も握りしめていた。視線はタヴの顔と足元を行き来し、声が震えて言葉も聞き取りにくい。タヴは周囲へ一度視線を走らせ、《Tongues(言語会話)》へ《Subtle Spell(呪文発動秘匿)》を重ねる。
「もう一度、言ってくれ」
僧侶は握っていた法衣の裾を離し、ひとつ息を継いでから話し出した。
「……夢の中で、お会いしました。名前も知らないのに、タヴと……呼んでいました。空が裂け、そこからあなたが現れて……雷のような光が、翼みたいに背中から広がっていたんです」
タヴの眉がぴくりと動いた。
(俺の名前や、別次元の存在であることへの示唆……何かの啓示か?)
僧侶は一歩踏み出しかけて止まり、握った法衣の裾をまた引く。その場から動けないまま、礼拝堂へ掌を向けた。
「話を聞いていただけませんか? すぐ近くの礼拝堂で……」
タヴは無言で頷き、僧侶に続いて礼拝堂へと足を運んだ。案内された礼拝堂は石と木で作られた簡素な建物で、内部には小さな女神像と、手入れの行き届いた長椅子が並ぶだけだった。
「こちらが、私たちが信仰する女神様の像です」
僧侶はそう言って像の前に跪き、両手を組んだ。
「夢で感じたのは、あの方からの啓示です。どうしてもあなたに伝えなければならないと……」
そう前置きして、彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「耳で聞いた言葉ではありません。心に直接流れ込んできた感覚……それを、できる限り書き留めました」
タヴは羊皮紙を受け取り、視線を落とす。
「aal'fen tora'sil... en'quira mei'del... nurhak valen'teir...」
短く息を吐き、声を抑えて《Comprehend Languages(言語理解)》を詠唱する。魔法の力が脳裏に作用し、言語の意味を即座に探り出そうとするが──脳内に浮かぶのは音と形の断片ばかりで、まるで象徴の連なりのような感覚のみが伝わってくる。文字の形を取りながら、体系化された言葉としては意味が通らない。読む者の解釈で姿を変えるか、あるいは啓示そのものに近いものだった。
そして、ふと思い出す。
(……ブロックスなら、分かったかもしれない)
タヴと共に任務をこなしていたヒル・ドワーフの技術者。クレリックとして神学に通じる一方、アーティフィサーとして技術と魔導工学にも精通していた。職人気質で実直だが、神秘と論理の交差点を自らの知識と信仰で乗り越えてみせた男だった。
僧侶がそっと問いかける。
「どうでしたか……?」
タヴはしばし羊皮紙を見つめてから答えた。
「……解釈不能だ。俺には読めない」
僧侶は肩を落としたが、それでも小さく微笑んだ。
「それでも、来てくれただけで、私は……」
その言葉にタヴは返す言葉を見つけられなかった。ただ無言で羊皮紙を懐にしまい、軽く会釈をして礼拝堂を後にした。
タヴには、あの祈りが単なる宗教的儀礼には見えなかった。《神の魔法》の行使に似ているが、神から流れ込む明確な魔力は感じない。それでも魔法の痕跡や周囲の空気の流れには、ごく微かな統一感がある。祈る者の知らぬ間に女神へ繋がる行為なのかもしれない。この世界の魔法体系にも、信仰を軸としたものが存在するのだろう。礼拝堂の外に出ると、風が頬をなでた。この世界で吹く風だったが、どこか、遠い雷鳴の匂いが混じっている気がした。
*
ブロックスは鼻から長く息を吐き、石造りの研究室の中央に据えた術式盤の縁へ足を運んだ。厚い壁は外音を遮り、天井の梁から吊るされた魔法灯が白い光を落とす。床には銅線と銀符を埋め込んだ円環が幾重にも重なり、観測と記録の装置が周囲に並ぶ。岩盤のように安定した足取りでその場に立つと、足元に複層構造の解析陣が青白く起動した。
盤上では、現地対応班が《Arcane Eye(秘術の眼)》で拾った記録像が青白く再生されていた。漂流岩の周囲を巡る映像へ《Detect Magic(魔法の感知)》の層が重なり、銀剣、精神波、裂け目の縁にそれぞれ異なる色の光がまとわりつく。タヴが消えた一点だけは、色も像もまとめて削り取られたように白く抜けていた。
ブロックスは白抜きになる直前まで像を戻し、再生の速度を落とした。
「……確かに転移した形跡はある。だが……何かおかしい」
ブロックスの低い声が研究室に響いた。
ブロックスは石製の机から、タヴが持っていたものと対になっている《送信石》を取り上げた。厚い掌で包み、タヴの現在地と容態を問う短い言葉を送る。
石は掌の中で冷えたまま、返答を伝えてこない。しばらく待っても、沈黙は変わらなかった。
タヴがたどり着いた先では、《Sending(送信)》さえ境界を越えられない可能性が高い。ブロックスは石を包んだまま、指の節が白くなるまで握りしめる。やがて息を吐き、送信石を机の端へ置いた。記録像には《Plane Shift(次元間転移)》に残るはずの形跡がなく、転移の歪みも自然に生じたものとは異なる。
石製の机に分厚い前腕を置き、顎を指で撫でる。現地で展開された《Arcane Eye(秘術の眼)》は別界へ移れないため、追尾がそこで途切れている。《Detect Magic(魔法の感知)》の層像も、ある境界を境に一様に白く塗りつぶされたように消えていた。魔法的な通信や探知が通らない面に突き当たっている。何かに引きずり込まれたのか、突発的に開いた穴へ落ちたのか、記録だけでは切り分けられない。
ブロックスは顎から手を下ろし、記録装置に残された魔力残響のログを洗い直した。膨大な情報を処理しつつ、解析された魔力波形を何度も確かめる。やがて、同じ波形の一点を三度拡大しても、表示は変わらなかった。
解析された転移の歪みは、滑らかすぎた。多元宇宙間を移動するときには必ず魔力波動に不規則な乱れが生じるが、今回の転移痕にはそれがまったくない。人工的に整えた境界を通ったときの波形に近い。
彼は、重厚な書架から一冊の古びた羊皮紙製の書物を取り出した。その表紙には、《諸次元概論》と記されている。ブロックスは素早くページを繰り、いくつかの項目を照らし合わせた。
ページを繰るうち、《擬似次元界》の項で指が止まった。大平面体系から切り離され、門や鍵によって出入りを制御される独立領域。呪文や神格、強大な意志が作った例もあれば、現実のひだが自然にちぎれて生じた例もある。小室ほどの空間から完結した生態圏を抱える世界まで規模は定まらず、有限であっても内側から境界を見通せるとは限らない。時間や魔法の法則さえ外側と同じとは限らなかった。
開いた書物の縁で、ブロックスの太い指が止まった。通信を遮る均一な境界、自然な転移には残らない精密な波形、《擬似次元界》の記述。三つを重ねると、多元宇宙の枠外に築かれた封鎖次元が候補として残る。眉間の皺がさらに深くなった。
彼は魔力波形、空間の歪みのパターン、術式による観測結果を、項目ごとに羊皮紙へ刻んだ。次元観測の記録を埋めた後、分厚い指で別の石板を手繰り寄せ、封鎖次元で通信が途絶した場合の非常手順を机上に広げる。単独捜索は禁止。境界の破損や汚染の拡大を防ぐため、封印・検疫・救出を同時に走らせる上級事案として、権限と多分野の要員を揃える必要がある。
ブロックスは必要資材を書き出す。《Plane Shift(次元間転移)》用の鍵の仮設計、位相固定用の楔、対精神干渉の護符、索敵と遮断を両立させる観測装置、帰還路確保のための門枠。役割分担も同時に記す。進入・護衛・封印の三班、加えて記録係と医務の随伴。
彼は小さく息を吐き、提案書の冒頭へ「封鎖次元における緊急救出チーム編成」と書き込んだ。
*
多元安定機構は、世界同士の衝突や侵蝕を検出し、記録し、封じ込める組織だ。ひとつの異常が別の次元へ被害を広げると判断すれば、発生源を切り離すことも任務に含まれている。
その本部の執務室は、魔導的な遮音処理を施した石造りの空間だった。四方の壁には次元地図と術式投影用の水晶が埋め込まれ、空間全体には魔力制御の静音結界が張られている。外部の声も、内側の感情も、この部屋の外へは一切漏れない。
室内には二人しかいなかった。
正面の重厚な机の奥には、白銀の徽章を胸元に付けた高官が座っている。長身痩躯のハイ・エルフで、冷たい琥珀色の瞳と、白銀に近い金髪を後ろで束ねたその男は、整然とした姿勢のまま、眼前の男をじっと見据えていた。
対面に立つのは、鍛え抜かれた体躯をもつヒル・ドワーフ、ブロックス。装飾のない制服の裾には泥がこびりつき、肩章のほつれは色の違う鋼糸で幾度も縫い留められている。無言のまま申請書を提出し、直立したまま上官の返答を待っている。
「……タヴ、交戦中に未知の次元断裂に巻き込まれた模様。追跡は困難。現段階では帰還の見込みなし。救助チームの編成と時空座標の再測定を申請したい」
ブロックスは声量を変えずに報告した。ただ、「申請したい」の前で、脇に下ろした右手が一度だけ固く握られる。報告を終えると、高官は申請書に目を落としたまま口を開く。
「許可できない。第一に、封鎖次元へは通信が届かない。救難の呼びかけが成立しない環境は、境界そのものが餌である誘き寄せの可能性を排除できない。第二に、境界をこじ開ければ、汚染や因果の流入で他平面へ被害が波及する危険が高い。第三に、過去の前例では救助隊の損耗率が突出している。ひとつの例外が手順全体を壊す。我々は衝突の火種を増やすわけにはいかない」
最後の文言まで読み上げても、高官は申請書から目を上げなかった。
「また、資源は優先度の高い衝突案件に回す必要がある。規定に従えば、封鎖次元で行方不明となった隊員は原則失踪扱いだ。お前の申請は手順と不整合を起こす」
ブロックスは眉を寄せた。表向きの理屈は筋が通っている。だが、どこかが噛み合っていない。
「……それが全部の理由か。違うなら、本当の理由を言え」
高官は一度だけ瞬きをし、視線を上げた。琥珀の瞳が細くなる。
「……ブロックス。お前はあの男を買いかぶりすぎだ。スラムの浮浪児上がりで、内に荒れ狂う魔力を制御できず、異界の影に身を委ねた野良犬だ。不安定で常に暴走の危険を孕んでいる。助けに行く価値があると、本気で思っているのか?」
その瞬間、ブロックスの拳が机を打った。ごつい拳から魔力が閃き、木製の書類台が跳ね上がる。重厚な音が、魔導封鎖の静寂を破った。
「……それがあんたらの本音か? 秩序を守るって名目で人を数に変えて切り捨て、危険と見れば可能性ごと消す。功利だけ積み上げて、何のための秩序か見えなくなってる。それを俺は『正しさ』とは呼ばねえ」
高官の声は、なおも冷たい。
「これは命令だ。私情で動くなら、職を退け」
短い沈黙ののち、ブロックスは低く答えた。
「……そのつもりだ」
返答はなかった。静寂だけが、執務室を包み込んでいた。
ブロックスは踵を返す。扉が閉まる音の後、静かな廊下を真っ直ぐに歩き、受付で徽章と通行石を提出した。施設内の各区画へ入るため、個人の許可情報を刻んだ石だ。手の中から二つが離れても、彼は振り返らなかった。
人事の記録官が手続きを読み上げる。一定期間は身辺整理と引継ぎのための猶予が与えられ、その間のみ最低限の記録閲覧権が残るという。署名と封印を交わし、貸与品の確認を済ませると、彼は工具の入った鞄と私物の箱を受け取り、無言で自室へ戻った。
その日のうちに、彼は個人ログの整理届を提出した。手続き上は私物と記録の整理だが、許された時間の範囲でできることは決まっている。信頼できる部下を呼び、短く指示を出した。
「タヴの転移の前後で観測された術式反応と精神波の変動──全部、もう一度精査しろ」
部下が頷いて去ると、ブロックス自身も補助観測任務の名目で次元断裂に関わる資料を請求した。必要装備の控えも作る。境界固定の楔、対精神干渉の護符、帰還門の枠、位相測定の標。そのどれを欠いても、向こうへ届くだけで終わってしまう。
ブロックスは控えに並べた装備のうち、まず位相固定の楔へ印を付けた。楔の金属へ鍛冶神の力を通す工程は、《鍛冶の領域》のクレリックとして自分が担える。門枠と位相測定の標には、《戦場の鍛冶屋》として培った魔導工学を使う。紙の余白へ接合部を描き足し、鋼鉄製の護衛者が運べる重量と、現地で修理できる部品の数を横へ記した。
そこで筆が止まる。護衛者を運搬へ回せば、前線で彼を守る役が減る。自分が負傷者の治療へ付けば、門枠の修復は誰かに任せなければならない。奪われた者を取り戻すために技と信仰を使うのは、鍛冶神へ仕える者の務めだ。
設計して鍛えるだけでも足りない。それを境界の向こうへ運び、タヴを連れて帰るまで守る手が要る。ブロックスは役割分担の空欄を無理に埋めず、必要な技術と人数を残したまま紙束を綴じた。まず自分に作れるものから始める。すぐに最初の頁を開き直し、楔の設計欄へ筆先を戻した。
(聖句なんか忘れちまったが……お前が帰る場所くらい、ちゃんと用意しておいてやる)
*
北部高原の風は、乾いた鉱塵と寒気を運んでくる。タヴは岩だらけの尾根道を抜け、視界の開けた場所で足を止めた。段丘に築かれた巨大な城塞都市が、濁った灰色の空を背に威圧するようにそびえ立っていた。
鋭角的な城壁は重厚な黒石で組まれ、塔と塔の間には見張りの兵士が常に巡回している。門前の広場には荷車がひしめき、行商人や旅人が列を成していた。都市の入口には堅牢な鉄門と二重の関門が備えられ、入場者の一人ひとりに対して厳格な確認が行われている。
ノルム商会領は、北部高原でも有数の経済力と軍事力を持つ城塞都市だ。
やはり、簡単には入れそうになかった。
旅人たちの話では、あの二重の関門を通るには、商会発行の身分証か、信頼ある紹介が必要になる。
もちろん、タヴにはそんなものはない。この世界において、自分の素性を保証する手段など一つも持っていない。正面から入れば、不審者として排除されるのが関の山だ。
潜入する手もあるが、今は様子を見るべきだった。
魔力の性質が異なるこの世界で無闇に力を使えば、思わぬ影響を及ぼしかねない。まずは周辺の集落で情報を集め、非魔法的な手段で足場を築く。そう方針を定めると、タヴは城門の観察を切り上げ、尾根を下った。
鉱山から伸びた荷路沿いに、小さな村が栄えていた。タヴはそこに宿を取り、数日を過ごすあいだに、目立たぬよう《Tongues(言語会話)》を唱えた。住民や旅商人、酒場に立ち寄る冒険者の話から、少しずつ情報を拾っていく。
話者は違っても、繰り返される異変の輪郭は似通っていた。
「最近、頭のおかしくなった連中が増えてる。突然意味不明のことを叫び出したり、記憶が飛んだり……最初は病気かと思ったが、どうも様子がおかしい」
「数日前も、人がいきなり姿を消した。痕跡もなしにだ。まるで、影の中に飲まれたみたいに……」
「都市の中じゃ、脳みそをくり抜かれた死体が見つかったらしい。しかも何人もだ」
断片的な噂と証言。それらを繋げていくと、ある存在が浮かび上がってきた。
(……マインド・フレイヤー)
思考を蝕み、脳を食らう異界の侵略者。
タヴはマインド・フレイヤーがこの世界に入った経路を考える。彼はアストラル界の裂け目に引きずり込まれて転移した。あの時、周囲にはギスヤンキとマインド・フレイヤーがいた。他の裂け目でも同じ現象が並行して起きていたなら、マインド・フレイヤーも同様に流れ込んできた可能性が高く、ギスヤンキも紛れ込んでいる恐れがある。
だが、今は現場の火消しが先だと彼は思考を切り替えた。脳を抜かれた死体という決定的な証拠は都市内部で出ている。マインド・フレイヤーは人の多い場所に巣を延ばし、地下や密閉空間に根を張る。発生源は城内にあると見るのが妥当だと判断し、荷路をたどって城塞都市に再び向かった。
都市の門前に着くと、貨物を積んだ馬車が列を成し、出入りの人々で賑わっていたのが見えた。彼はその脇に身を寄せ、往来を見渡しながら外套の襟を整える。
門番の一人は、灰鉄の鎧に蒼銀の紋をあしらった若い衛兵だった。荷車から旅人の手元へと絶えず視線を巡らせ、若い顔に似合わず瞬きも少ない。
タヴはあえて人波に紛れるように近づき、少し間を置いて声をかけた。
「……中は、落ち着いてるのか?」
衛兵は即座にこちらを見やり、顎を引いて目を細めた。
「何の用だ? 関係者か?」
「いや、ただの通りがかりだ。次に向かう街を選んでいる。荒れてるなら、避けた方がいいと思ってな」
タヴは口元だけに薄い笑みを作り、視線を城門の列へそらした。問いかけではなく、判断の参考にするという体で話しかける。それだけで、衛兵の肩からわずかに力が抜けた。
「……まあ、あまりいい話はないな」
と、衛兵はぼそりと呟いた。
「急におかしくなる奴が増えてる。情緒不安定とかじゃない、まるで……精神をどこかに置いてきたみたいに、ぼんやりしてる。言葉も通じねぇ。治療師も手を焼いてるらしい」
衛兵は列の先頭で証文を広げる旅人へ一度目をやり、手甲の縁を指でこすった。
「失踪もある。昼に見かけた人間が、夜には消えてる。荷物にも触れてねぇ。足取りが全部、途中で途切れるんだ」
そこで口を閉じ、同僚がこちらを見ていないことを確かめる。次の言葉は、タヴだけに届く声量だった。
「それと……これは内密な話だがな。城内で、脳が抜けた死体が見つかったって話がある。頭蓋が潰れてて、中が──」
そこまで言って、衛兵は声を落とした。タヴは、言葉を挟まずに黙って聞いていた。
酒場で拾った噂だけではない。門を守る衛兵の耳にも、同じ兆候が届いている。
視線を交わすことなく、タヴは礼を口にしてその場を離れた。人波へ戻っても歩幅は変えなかった。
都市の内側へ入り込んだ外来種が、住民の記憶と精神を削り、脳だけを奪っている。兆候は、城内にマインド・フレイヤーのコロニーが潜む可能性を示していた。訓練で何度も見た介入基準が、衛兵の話と一つずつ重なる。救援も命令も届かない。タヴは腰のポーチから黒曜石のような《送信石》を出し、指先で転がした。応答は今もない。石を戻し、留め具を閉じる。
(俺一人で、やるしかないってことか)
風が吹き、遠くの城塞で尖塔のひとつが雲間に浮かび上がる。タヴは城門から城壁の角、さらに尖塔の根元へ視線を走らせた。
正面から門を抜ければ身元を問われ、魔法で壁を越えれば痕跡が残る。
風が冷たくなる。タヴは外套の裾を押さえ、門を出入りする人影を一人ずつ追った。まずは中へ入る口実か、こちらから声をかけられる相手を見つける必要がある。
*
魔法都市オイサーストでは、天空を貫く塔と石造りの回廊が幾重にも連なっている。長く魔法文明の中心であり続けた都市、その観測塔の上層にある会議室は結界に包まれ、内側では魔力の粒子が淡く揺れていた。
中央の肘掛け椅子では、長い金髪を揺らすエルフ、ゼーリエが裸足のまま頬杖をついている。見た目は幼い。だが卓を囲む魔法使いたちは、彼女がどの報告へ先に手を伸ばすかを黙って待っている。神話の時代から生きる大魔法使いであり、齢千年を超える大陸魔法協会の創設者だ。その知は数千年を経ても衰えていない。
卓上には各地の認定印を押した報告書が積まれ、大陸地図には魔族や魔物への対応を示す駒が並ぶ。魔法使いの認定と支援、魔法技術の継承を担う協会の影響は、大陸全土に及ぶ。頂点に立つゼーリエの判断は、ときに国家の方針まで動かす。
そのゼーリエは頬杖の指先だけを動かし、周囲の魔法使いたちを見渡していた。
「……面白くなってきたじゃないか」
長い沈黙を破った声は年齢を感じさせないほど高く、語尾だけが軽く跳ねた。
「ゼーリエ様……今回の件を面白いと?」
隣に控えるレルネンが眉をひそめて問う。銀白の髪を背に流した老魔法使い。ゼーリエの直弟子にして、大陸初の一級魔法使いである彼の声は普段より一段低く、問いの最後が掠れた。
「ああ、不可解で原因不明の現象ばかりだ。だからこそ解明のしがいがある」
ゼーリエは歯を見せて笑ったが、目は細いままだ。ゼンゼが足音を立てずに歩み出る。足元まで届く灰茶色の長髪を揺らし、眉も口元も動かさずに一冊の報告書を机へ置く。
「北側諸国の各地に派遣していた魔法使いからの報告がある。現地では異常な装束の集団が目撃されていて、強力な魔力反応とともに、複数の村が襲撃を受けている」
レルネンが報告書へ身を寄せた。
「装束?」
「異質な銀の装甲に身を包み、額に赤い宝石を埋めた者も確認されている。異様に鋭い剣と、常軌を逸した戦闘力を備え、《防御魔法》を容易く斬り裂いたとの報告もある。まるで、魔力そのものを断ち切るかのように」
ゼンゼは同じ速さで報告書を繰り、続けた。
「……加えて、北部の山岳地帯で、魔族とその銀装の集団が交戦していたとの目撃もある。遠目の観察に過ぎないが、術を展開する前に魔族が斬られたと」
その言葉に、レルネンの指が卓上で止まる。
「魔族と敵対する第三の勢力……?」
低く絞り出すような声だった。彼はすぐに卓上の地図に手を伸ばし、報告にある地域を指先で押さえた。
「この一帯は本来、魔族の勢力圏から遠い。にもかかわらず交戦が発生したのは、魔族の側から仕掛けたのではなく、あくまで遭遇戦だった可能性が高い。つまり……その第三の勢力が、既に地域一帯の生態圏を撹乱し始めているということになります」
レルネンは地図の一点を押さえたまま、指先に力を込めて紙をわずかに窪ませた。
ゼーリエはその様子を横目で見ながら、薄く口元を歪める。
「怖じ気づいたかい? レルネン」
「……いいえ。ただ、脅威を脅威として認識しないほうがよほど愚かだと思ったまでです」
レルネンは地図から視線を上げずに言い返す。指先は報告地点から周辺の街道へ走り、防衛線をなぞり始めていた。
ゼンゼは間を置かず、端的に言葉を継いだ。
「この交戦は、魔族側にとっても想定外だったと考えるのが妥当。周辺で確認された魔力の残滓には、魔族特有の術式構造が混在していたが、地形の傷跡から、逃げながら防いでいた痕があり、反撃に回る余裕はなかったと推測される」
「つまり、魔族のほうが後手に回っていた……」
レルネンが低く唸ると、ゼンゼは顎を一度引いた。
「魔族との遭遇時点で、すでに攻撃が始まっていた。逃走も許さず、戦場は短時間で制圧されている」
「行動に無駄がない……最初から殺すために来たとしか思えません」
レルネンの声が重く落ちる。一方、ゼーリエは椅子に身を預けたまま、ふっと鼻で笑った。
「魔族が獲物にされる日が来るとはね……」
ゼーリエの片方の口角が上がり、細めた目は地図から離れなかった。
「それだけじゃない」
ゼンゼは報告書を繰る手を止めず、言葉を継ぐ。
「聖職者たちの間で、啓示の報告が急増している。細かい差異はあれど、夢の中に現れる存在が語る内容は、ほぼ一致していた。『異界の門が開かれる』『星の記憶が地に落ちる』『秩序の外から、古き意志が訪れる』──そう、報告されている」
ゼーリエは椅子にもたれたまま目を閉じた。
(敵は外より訪れる存在……そしてそれを招き入れた誰かが内にいる……)
そう結ぶには、まだ報告が足りない。ゼーリエは目を開き、共通する三つの文言をもう一度指で追った。
「啓示の言葉は……真意を掴むには抽象的すぎるな。解釈次第でどうにでも転ぶ」
「夢の解釈はともかく、魔力の動きに通常とは異なる異質な揺らぎが含まれているのは確かです」
ゼンゼは揺らぎを記録した一行へ指を置いて補足する。ゼーリエは天井へ視線を上げる。
「余所者が組織的に動いてるな。明らかに、戦の仕込みだよ。……いいね、世界が騒がしくなってきた」
誰もすぐには返さなかった。レルネンが一歩前に出る。
「各地に散る魔法使いたちには通達を。警戒結界と感知術の展開を要請します。使い魔は広域巡回と伝令任務に振り分け、異常があれば即座に知らせるよう……それが今、できる最善です」
レルネンは背筋を伸ばしたまま、ゼーリエの返答を待つ。
「構わない。好きにやれ。ただし、一級魔法使い選抜試験は予定通り実施する」
ゼーリエは頬杖を崩さずに告げた。
「……この状況で、ですか?」
思わずレルネンが顔を上げた。傍らのゼンゼも、わずかに視線を動かす。
「だからこそだ。混乱の中でこそ、本当の資質が見える」
ゼーリエは、地図を押さえたままのレルネンを見上げた。
「世界が静かで安全な時にだけ試験をやるのなら、意味がない。私は、世界の裂け目に立っても魔法を貫ける者が欲しい」
レルネンは地図を押さえていた指を解き、ひと息吐いて顎を引く。
「……承知しました。現場の警備に関する指揮は私が取ります」
「よろしく、レルネン」
レルネンが一歩下がると、ゼーリエはゼンゼへ顔を向けた。
「ゼンゼ、今度こそ合格者を出してくれよ。前回もその前も、そのまた前も、誰も通らなかったじゃないか」
ゼンゼは報告書を抱えたまま答える。
「申し訳ありません。ですが、試験内容はゼーリエ様が提示した合格基準に則ったものです」
「ほう、合格者が出ないのは私のせいだと言いたいのかい?」
ゼーリエはさらに軽口を重ねたが、ゼンゼは唇を結んだまま報告書を抱え直す。
「……」
「だんまりか……別に責めてないさ。冗談だ」
ゼーリエはそれ以上問い詰めず、先ほどの報告書へ目を戻した。異界の門、星の記憶。どちらも彼女にとって未知の響きであり、かつて知を追い求めていた時代を思い出させた。
(本当に来たのなら、歓迎しよう。全て解き明かしてみせる)
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。