界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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アストラル界を調査中の魔法使いタヴは、マインド・フレイヤーとギスヤンキの抗争に巻き込まれ、閉ざされた異世界に転移する。魔力が異質で通信も転移も不可な世界で、彼は慎重に魔法と情報を操り生き延びていたが、やがて都市でマインド・フレイヤー潜伏の痕跡を発見。次元を超えた脅威がこの封鎖世界に迫っていることを知り、タヴは戦う決意を固める。


#1:閉ざされた次元で

 重力が引き裂かれるような感覚と共に、視界が歪み、内臓が裏返るほどの圧迫感がタヴを襲った。銀灰色の靄の向こうで空間の継ぎ目が軋み、異なる位相がぶつかり合う閃光が時折走る。

 

 ここはアストラル界──物質界と外方位界を結ぶ銀の虚空だ。風も重力もなく、意思で姿勢と移動を制御する。時間は流れるが、ここにある身は老いも飢えも進まない。タヴは流れに漂う黒い岩塊、漂流岩のひとつに靴底を触れさせ、体の向きを固定すると、周囲を探るため感覚を広げた。

 

 彼がここへ来た目的は、アストラル界の各所に散発している次元の裂け目のひとつを調査するためだ。裂け目とは、次元の境界に走る転位の傷で、外の界へ道をつくる門でもある。目の前のそれは人ひとりが余裕で抜けられる幅を保ち、縁が薄く光っていた。だが、戻り道となる回路が見当たらない。

 

「……意図的に開けられたものだな。しかも片道切符だ」

 

 思考をまとめる間もなく、漂流岩の縁から三メートルほど離れた位置に、髪一本の幅から始まる鋭い銀の切れ目が走った。刃で空間を割ったような光の縁が瞬時に広がり、縦長の口を開く。裂け目から黄土色の肌と黒い斑を持つ戦士たちが滑り出る。

 

 銀色の甲冑、金色の眼、無重力下でも乱れない構え──ギスヤンキだ。彼らは武器を構えたまま、意思で姿勢を制御しながら半円に展開し、漂流岩の縁と裂け目を同時に監視する布陣を取った。先頭の戦士がタヴを視認し、短く吐き捨てる。

 

「Intruder. You do not belong here(侵入者め。ここはお前の居場所ではない)」

 

 声が終わるより早く、今度はその反対側の虚空に紫がかった楕円の輪郭が滲み出る。光ではなく、冷たい圧の波が先に胸を打った。縁取りは脈打つ脳波のように震え、中心部から黒い瞳と触手の影がにじむ。

 

 灰紫の皮膚、頭部から垂れる複数の触手──マインド・フレイヤーだ。彼らもまた、裂け目の調査に現れたのだ。群れの前面に出た一体が、短く念話で指示を飛ばす。

 

【まずはあの男を排除せよ。裂け目は我らが解析する】

 

 タヴにとって、ギスヤンキとマインド・フレイヤーは幾度も刃を交わしてきた相手だ。そのやり取りは、もはや日常と言っても過言ではない。

 

(また次元荒らしと触手野郎に鉢合わせか……。界の厄災どもめ)

 

 タヴが外套の内で指をわずかに曲げた瞬間、ギスヤンキの一人が両手剣を構え、漂流岩の縁から推進をかけて一直線に突っ込んでくる。タヴは掌を上げ、魔力を瞬時に組む。

 

「《Shield(盾)》」

 

 見えざる力場の壁で直接的な攻撃を防ぐ魔法だ。剣撃は透明な面で弾かれて火花にも似た光を散らす。ギスヤンキが二撃目に移る動作の中、タヴは背後から迫る圧に気づく。さきほど紫の輪郭が滲んだ虚空で、マインド・フレイヤーの触手が大きく広がり、強い念波が集束していた。

 

 巻き込まれると判断し、タヴもギスヤンキも同時に離脱を試みる。タヴは岩塊の縁を蹴って姿勢を反転し、思念で推力を足す。ギスヤンキも横へ滑るように押し出しをかけた。直後、マインド・フレイヤーが《Mind Blast(精神爆砕)》を放つ。

 

 扇状に走る強烈な精神波は、直撃すれば意識を焼き、短時間の硬直を強いる。波の展開は二人の離脱よりも早かった。漂流岩の表面をなでるように走った波が二人を呑みかけたその刹那、タヴは別の術を組み上げる。

 

「《Intellect Fortress(知性の城砦)》」

 

 意識の外側に防壁を立ち上げ、精神への損傷を鈍らせると同時に、知力・判断・意志に関わる抵抗を底上げする魔法だ。衝撃が正面からぶつかるが、壁はそれを受け止め、内側へ通す力を弱めた。離脱が間に合わなかったギスヤンキは波に直撃して硬直し、体勢を崩して甲冑の肘で岩肌を叩きながら無重力の中で漂う。タヴは短く息を吐き、反撃の雷光を掌に集めはじめた。

 

 その時だ。裂け目が急に大きく脈動した。内側から押し出されるように輪郭が震え、縁が乱反射を繰り返す。ギスヤンキもマインド・フレイヤーも、その異常な振動に動きを止めざるを得ない。

 

 反応より早く、タヴの視界は白く飽和した──引きずり込まれる。

 

 抵抗の余地はなかった。彼の意識は、震える次元の渦へと呑み込まれていった。

 

 *

 

 ……風が吹いていた。草の匂いがした。

 

 タヴは、硬い地面に顔を伏せたまま、しばらく動けなかった。空気の重さ、光の質、風の流れ、すべてが違う。

 

(……ここはどこだ)

 

 掠れた思考が浮かぶ。立ち上がり、周囲を見渡す。そこは、岩と草原が混ざり合った丘陵地帯。遠くに木々の影が揺れている。空を見上げると、見覚えのない星座が無数に煌めき、奇妙に明るい星が一際強く輝いていた。

 

 少なくとも、知っている世界ではない。

 

 タヴは慎重に周囲を見回しながら、精神を集中させて呼吸を整えた。指先に魔力を集め、高位魔法である《Plane Shift(次元間転移)》の術式を展開する。これは、特定の存在界に同調させた音叉を打ち、その響きに術式を結わえて境界を越える魔法だ。ベルトポーチから故郷に同調した音叉型のロッドを取り出し、軽く叩いて微かな単音を立てる。

 

 音叉は正しい音を返した。だが、注ぎ込んだ魔力は行き先の縁を掴まない。境界の手触りがどこにもない。切り口が生まれず、編んだ術式は空気の中でほどけて消えた。

 

(……道そのものが閉じている)

 

 眉をひそめつつ、タヴは焦燥を抑え込む。次に、滑らかな魔石──《Sending Stones(送信石)》を取り出した。これは対になった石を媒介に《Sending(送信)》を発動させ、相方の石の持ち手へ短い言葉を届ける道具だ。相方を誰も持っていなければ、その時点で術は起動せず、それと分かる。

 

 石を掌に収め、額に当てる。短い文を声には出さずに思念で結ぶ。

 

【交戦中に不明界に転移。自力での帰還は困難。状況確認と救援を求む】

 

 石の内部で言葉が灯るような感触が走った。術は発動した。だが、外へ伸びた細い糸は、見えない膜で断たれたかのようにそこで途切れる。相方が不在で拒まれたのではない──その場合は起動自体が止まるからだ。届かぬまま途絶え、石は熱を失って沈黙した。

 

(通信も封じられている……)

 

 タヴは息を整え、もう一つの手を試すことにした。《Banishment(放逐)》だ。視界内の一体を別の存在界へ送り返す魔法で、対象がここの住人なら無害な半次元へ、異界の住人なら本来の故郷へ戻す。術の成否には対象の意志が影響する。

 

 彼は自身を対象に定め、意図的に抵抗を緩める。術が身をつかむ。ふっと体が軽くなり、引き潮のように故郷へ引かれる感触──しかし、すぐに硬い皮膜に突き当たる。軽い破裂音が空気に混じり、タヴは同じ場所へ弾き返された。転移は何かに阻まれ、成立しない。

 

 風が吹いた。雷の気配も、嵐の気配もない。ただ静かな風景が広がっていた。

 

 それが一層の不気味さを醸している。ここが自然に形成された次元であれば、境界はもっと粗く、魔力の綻びがどこかにあるはずだ。しかし、この世界の魔力は異常に整っている。

 

 整然とした力。人工的に制御された魔力の流れ。

 

(……嫌な感じがするな)

 

 魔力の感覚も、反応も微妙に違う。力が通じないわけではないが、干渉に抵抗を感じる。まるでこの世界が、異物である自分を拒絶しているかのようだった。

 

 *

 

 目覚めてから二日後、タヴは歩き続けていた。丘陵地帯を抜け、獣の痕跡と人の足跡が交じり合う獣道を辿り、小川に沿って移動する。

 

 川辺で何度か水を飲み、野草を焼いてしのいだ。焚き火すらも魔法を使わず火打石で起こす。異質な魔力の使用はこの世界に悪影響を与えるかもしれないと、本能が警鐘を鳴らしていた。

 

 空に漂う魔力の粒子、土に染み込んだ力の流れ。すべてが整っている。

 

(……誰かが、意図して作った世界……か)

 

 そんな思考を巡らせながら、三日目の夕暮れ時、ようやく集落が視界に入った。

 

 灯り。煙。人影。

 

 それは確かに人間の営みだった。タヴはその小さな集落の外れに身を潜めていた。村には焚き火が灯り、獣の肉を焼く匂いが風に乗って届く。人々は何かの言語で話していたが、内容は分からなかった。

 

 この世界における文化をより深く理解するため、タヴは《Comprehend Languages(言語理解)》──あらゆる言語を読み、聞くことができる魔法──を詠唱した。魔法によって、聞こえる言葉が次第に意味を帯び始める。

 

 彼は基本的に観察に徹していた。力を見せるのは最小限、接触も控える。どれだけ力があろうとも、異邦人がこの世界で生き延びるには慎重さが不可欠だった。

 

 その日の夜、村から少し離れた森で奇妙な光景を目にした。

 

 人の姿を模した何者かが、額から短い角を二本伸ばし、紫がかった光を滲ませながら獣の死骸に手順を踏んで何かを施していた。顔立ちは整っており、口元はわずかに笑っている。瞳には理性がある。空間に染み込むような不快な魔力の残滓が残り、呪詛に近い匂いを放っていた。

 

(なんだあれは……)

 

 タヴは魔力の流れを探る。だが、構造が読めない。魔法というより、意思を帯びた儀式的な干渉に見える。しかも、その干渉はこの土地の魔力となじみ、根を張っていた。

 

 角を持つ人型生物は彼のいた世界にも存在する。ティーフリングは人間に似ているが、尻尾や異色の瞳が目立つことが多い。カンビオンは翼や尾を備える例が一般的だ。サテュロスは蹄と獣脚を持つ。今見たものは、どれにも当てはまらない。人間に近い体つきで、額の角以外に外見的な差異は少ない。

 

 タヴは不用意な接触を避け、痕跡を残さないように森の縁まで退いて村の近くへ戻る。焚き火のそばで交わされる会話に耳を傾けると、「魔族」という単語が何度も飛び交っていた。文脈からして、先ほど森で見た存在と関係があるのは明らかだった。

 

 彼は断片的な情報と観察を繋ぎ合わせて確信に至る。あれは、この世界に存在する種族の一つで、「魔族」と呼ばれる存在なのだと。まるで肉体が魔力そのもので構成されているようで、生体というより、歩く魔力器官に近い。正体の解明も急ぎたいが、今は別の懸念が優先する。

 

(……誰があの裂け目を開いた?)

 

 ここは恐らく、外界から切り離された封鎖次元だ。通常なら、干渉どころか所在の特定すら困難であるはずだ。それを見つけ、境界に穴を穿つには、生半可な魔法や技術では到底届かない。ギスヤンキやマインド・フレイヤーのように次元航行と侵入を常道とする巨大勢力が関わっているか、あるいは神格に等しい介入が働いたと考えるのが現実的だ。

 

 しかし推測だけでは何も分からない。帰還の糸口を見つけるためにも、この世界の魔法体系、言語、信仰、社会の構造を確かめるべきだ。そして、もし多元に及ぶ脅威がこの世界を足場にしようとしているなら、早期に兆候を掴み、最小の被害で断たねばならない。

 

 タヴは低く身を縮め、息を整えて外套の裾を押さえた。風が草を撫で、焚き火の光が遠くで揺れる。遠くで雷鳴が鈍く転がった気がした。

 

「……仕方ない。調べてみるか、この世界の全部を」

 

 囁きは誰にも届かないほど小さい。タヴは身を屈めたまま茂みの陰を伝い、足音を消して村を離れた。

 

 *

 

 見渡す限り、荒涼とした岩山と苔むした斜面が広がっていた。風は鋭く、寒気を伴って肌を刺す。空気は乾燥しているのに、足元は湿り気を帯びている。どこかで雪解け水が流れているのだろう。

 

 タヴは外套を深く被り、足音を殺しながら尾根を登っていた。

 

(この辺りは魔力の流れが妙に整っている。自然のままではないな)

 

 何日目の探索かは分からない。あの場所──アストラル界から転移して以来、彼は常に警戒を怠らなかった。魔法も必要最低限しか使わず、火も道具で起こす。焚き火すら、周囲に気配を探ってからだ。

 

 この世界の魔力は整いすぎている。特定の方向に流れが集中していたり、局所的に過剰だったり。何者かの意志が関与しているような異様さがあった。

 

(環境にも明確な設計思想を感じる。自然というより、作られた土地に見える……)

 

 小高い岩山の尾根に辿り着いたとき、タヴは足を止めた。西の方角、霧に包まれた谷間に、淡い輝きが見えた。初めは朝焼けの反射かと思った。しかし、光の質が違う。陽の光ではない。まるで金属に魔力が流し込まれたような、冷たい光だった。

 

(……あれは、都市か?)

 

 遠望の先に、黄金に覆われた建造物の影が浮かんでいた。塔がある。城壁のような輪郭も見える。だが、不思議なことに、見つめようとするたびに視界が滑る。

 

 タヴは目を細めて魔力感知を広げるが、感触がなかった。明らかに視界に入っているのに、そこには存在しないという印象が返ってくる。

 

(認識阻害か……しかも、相当強力な)

 

 内外からの侵入を防ぐための結界が広範囲に張られている。その中心にあるのは、黄金に覆われた都市。タヴはしばらく見つめ続けた。だが、何度視線を送っても、その形は確かな輪郭を与えてくれなかった。

 

(……妙だな。これほどの結界、誰が、何のために?)

 

 思考は巡ったが、答えは出ない。

 

(今の状態で無理に手を出すのは危険だ……後の調査対象として記録しておく)

 

 この世界の魔法体系はまだ把握しきれていない。下手に触れれば、結界に呑まれる可能性もある。そう判断して、タヴは踵を返した。

 

 *

 

 山を下り、川沿いの獣道を辿りながら、小さな集落を探す。途中で魔力の痕跡を発見した。だが、どれも断片的で不明瞭。高原に住む魔物や、魔族のものである可能性もあった。

 

 その中で、廃村となった家屋をひとつ発見した。木の骨組みが剥き出しになったそれは、放置されて何年も経っているように見えた。しかし、そこには人の痕跡が残っていた。

 

 削れた木片、踏み固められた土、斧の痕。

 

(比較的新しい。数週間前、誰かがここにいた)

 

 警戒しながらも、タヴはその痕跡を辿った。

 

 そしてようやく、小さな集落に辿り着く。石造りの簡素な家々。斜面を活かした段畑。放牧された山羊の鳴き声。暮らしは質素だが、確かな人間の営みがあった。

 

 タヴは慎重に物陰に身を潜め、遠くから集落を観察する。

 

 そこには、背丈や体格が自分と似通った生命体が、日々の仕事に勤しんでいた。彼らの姿は二足歩行で直立し、頭部や四肢の比率、腕や足の動きに至るまで、ヒューマンと酷似している。肌の色や髪の質感にも馴染みのある要素が多く、動作のひとつひとつに馴染み深い合理性が見られる。

 

 農具を振る動き、子供たちが遊び回る様子、家畜を追う仕草──そのすべてに見慣れた光景があった。数日前に別の集落でも同じような光景を目撃している。その時に確認した姿や仕草とも完全に一致していた。

 

 しばらく観察を続けているうちに、タヴはゆっくりと警戒を解く。自分の持つ知識と記憶の中のヒューマンという種族の特徴が、目の前にいる者たちと、これまで目撃した複数の集落の住民とも完全に一致していると確信したからだ。

 

(……見た目は、俺とほとんど変わらない)

 

 言語の響きや衣服の様式は異なるが、骨格や動作、生活の工夫には明らかに共通する文化的基盤があった。

 

 外見は大きく異ならず、少なくとも見た目で異物として弾かれることはなさそうだと判断する。

 

(俺がヒューマンだったのは……運が良かったかもしれない)

 

 彼が属する世界ではヒューマンと呼ばれる種族。その姿に近い生命体がこの地の主要な種族であることは、ある意味で幸運だった。

 

 *

 

 風が白い霧のように地を這い、吹きさらしの丘陵を切り裂く。タヴは、外套の裾を両手で押さえながら雪原を進んでいた。視界の果てまで続く白い地表。空は曇天、太陽の輪郭さえ曖昧で、どこからどこまでが地平なのか分からなくなる。

 

 寒さは魔法で抑えられるが、使用は最低限にとどめた。戦闘に備えて防御や感知の術を即応できる状態に整えてはいるが、今のところ近くに敵の気配はない。

 

(静かすぎる……魔力が地中に沈んでいるようだ)

 

 この雪原──シュマールと、集落で聞いた言葉からそう呼ばれている──は、鉱物資源の産地であると同時に、魔物の徘徊地でもあるらしい。村人たちの会話で何度も耳にした名詞がひとつあった。

 

 聖雪結晶。

 

 希少な鉱物で、魔法薬や装飾品、あるいは祝福の儀式などに用いられるらしい。空気中の微細な魔力粒子を吸収・凝縮して成長する性質を持ち、この地方特有の気候と魔力構造でしか生成されない。

 

 だが、それが採れる場所は決まって凶暴な魔物の縄張りに近く、まともな採掘には相応の戦力と準備が要る。そんな場所に、人は集まる。風の向こう、視界が開けた斜面の先に、焚き火の煙が見えた。丘を越えた先には、いくつもの布と木材で囲われた仮設の野営地が広がっていた。粗末なテント、荷車、焚き火の煙、そして人の声。

 

 荷を下ろす商人、武装した冒険者風の男女、地図を広げて議論している者たち──タヴは外套のフードを深く被り、風下からそっとその営みを観察する。

 

(……物資の補給拠点か。鉱山の周辺とはいえ、これほどの規模が維持できるのは、よほど採掘価値があるということだな)

 

 彼は慎重に距離を詰めていく。集団生活の痕跡を読み取り、行動パターンを把握しながら、危険な人物がいないか目を配る。幸いにも、あからさまな魔法感知の術を使っている者はいなかった。

 

(……魔法感知のリスクは低い。今のうちだ)

 

 距離を保ったまま、野営地の端にある荷車に近づく。商人らしい男が箱を数えていた。タヴは一呼吸おいて影から回り込み、《Tongues(言語会話)》──聞こえるあらゆる言語を理解し、こちらの発話も相手の言語に置き換える魔法──を《Subtle Spell(微細術)》で身振りも発声もなく起動し、男に声をかける。

 

「……手が足りないのか?」

 

 男は驚いたように振り向き、言い回しの妙に気づいたのか、わずかに眉をひそめて首を傾げた。

 

「お、おう?なんだ、あんたも冒険者か?」

 

「通りがかりの旅人だ。少し食料が必要でな。手伝えることがあるなら、少し働かせてもらいたい」

 

 男は一瞬考え、近くのテントを指差した。

 

「なら、あそこの焚き火台の薪を運ぶのを手伝ってくれ。あとで飯を分けてやる」

 

「承知した」

 

 《Tongues(言語会話)》による言語の変換は、発音や言い回しがわずかにずれていたようで相手は怪訝そうだったが、ひとまず意図は伝わったらしい。

 

(《Tongues(言語会話)》の翻訳は完璧じゃない……使いどころは慎重にしないとな)

 

 タヴは与えられた雑務を淡々とこなした。薪の束を運び、荷車の車軸を修理し、火を維持するための草木を集める。すべて、魔法は使わない。薪の束は重く、腕に食い込むたびに息が漏れた。タヴは元々、筋力にはまるで自信がない。だが、運び方を工夫し、少しずつ無理のない負荷で仕事をこなしていった。筋骨隆々とした冒険者が運ぶような大荷物とは違い、幸いにも手伝いに求められたのは体力より手数だった。この程度なら問題はない。

 

(人目につかずに価値を得るには、こういう手段が一番だ)

 

 やがて食事の時間になると、商人たちは鍋を囲んで煮込み料理を分け合った。タヴも端に座り、無言で湯気の立つ肉と豆のスープを啜った。温かさが、疲れた身体に染み渡る。誰も彼を問い詰めなかった。ただ、警戒はされていた。突然現れた旅人を、完全に信じる者などいない。だが、タヴはそれでいいと思っていた。深入りせず、ただ必要な情報を得る。

 

 食事を終えると、タヴは再び立ち上がり、地図を見ながら作戦会議をしている冒険者たちの輪に近づいた。耳を傾けると、彼らは採掘隊の護衛契約について話している。鉱脈の場所、周囲の魔物の情報、報酬の分配──話を聞くだけで、この地域の経済と雇用構造が浮かび上がってきた。

 

(魔物の出現頻度、討伐の難度、成功報酬の割合……冒険者制度が社会に根付いているようだ)

 

 戦力が経済活動に直結している。力はこの場所では通貨に等しい。タヴにとっても馴染みのある構図だった。

 

(手段を選ばなければ、この世界でも生きていける……)

 

 冒険者たちの情報を十分に得たタヴは、静かに焚き火の側へ戻り、腰を下ろした。夜の風は一層冷たくなり、焚き火の炎がかすかに揺れる。彼はその熱を背に受け、沈黙の中で耳を澄ませた。隣の木箱には商人が腰掛け、干し肉を裂きながら隣人と小声で話している。その話題は北部高原の東端にあるという、ノルム商会領のことだった。

 

「ノルム商会領ってのはな、鉱山がいくつもあるんだ。鉄に銀、聖雪結晶の精錬場まであるらしいぜ」

 

「ああ、街道も整ってるらしいな。あそこに行けりゃ、まともな宿も道具も揃う」

 

(交易の中心地か……情報と物資の集積地でもあるな)

 

 タヴは耳にした断片的な情報を繋ぎ合わせ、この世界の流通構造は地方ごとの組織──商会、ギルド、領主勢力──が支えているのだと見当をつける。ノルム商会領もその一つで、北部高原の中では比較的安定しており、城壁に囲まれた拠点都市として機能しているらしい。

 

(城塞都市……となれば、出入りには手続きが要るだろう。よそ者が素直に通してもらえるとは限らないな)

 

 彼は小さく息を吐き、心を定める。

 

(それでも行く価値はある。今の俺に必要なのは、地形と社会構造の把握だ。それにまとまった金も欲しい。問題は、どうやって門を通るか……)

 

 次の目的地への思案を巡らせながら、タヴは焚き火のそばで一晩を明かした。星が昇り、やがて夜が明ける。空は濃い青から薄明に変わり、周囲のざわめきが少しずつ増えていく。

 

 朝、物資の整理を終え、道具の手入れを済ませたタヴは、立ち上がると商人の一人に目を留めた。声をかける直前、人目につかない場所で《Tongues(言語会話)》を《Subtle Spell(微細術)》で密かに詠唱した。言葉の隔たりはすでに消えている。

 

「ノルム商会領へ向かうには、どの道を通ればいい?」

 

 焚き火のそばにいた男は目を細め、地図を広げた。

 

「ここからなら……トーア大渓谷を越えるのが早いが、あそこは難所だ。渓谷沿いに上流まで進めば浅瀬はあるが、だいぶ遠回りになるぞ」

 

「トーア大渓谷……どんな場所なんだ?」

 

「深さが三千メートルあるらしい。それに風がひどい。下手すりゃ荷馬車ごと吹き飛ぶ。昔は誰も越えられなかったが、最近は向こう側から来たって話もある。ただ、どうやって渡ったのかまでは知らんがね」

 

(何らかの手段はあるのか……だがそれが今も使えるかは分からないな)

 

 強風と峡谷、予測不能な気象と地形。タヴは何度も《Wind Soul(風の魂)》──雷鳴と雷撃に対する強力な耐性を得て、空を自在に舞う能力──を行使しようかと考えた。空を飛べば地形に縛られず進める。飛行は時として地上より遥かに速く、安全でさえある。

 

 しかし、この世界の魔力は自分のそれとは異なる。風を掴む感覚も、空気の反応も完全に馴染んでいるわけではない。

 

(強風の中でも飛べるのが本来だが、ここの魔力の流れは異質だ。制御を誤れば墜落しかねない。しかも飛行は目立つ……今は避けたほうがいい)

 

 この世界で人が空を飛ぶことが一般的かどうかは分からないが、目立つことは避けるに越したことはない。どこか渡れそうな場所があるかもしれない。そう考え、上流からの渡河ではなく、地形を確認しながら渡渉が可能な地点を探るために渓谷沿いを進むことに決めた。

 

 *

 

 数日後、タヴは切り立った岩壁の間を縫うようにして進み、風のうねりを感じながら尾根に出た。そこで彼の視界に飛び込んできたのは、断崖をつなぐ巨大な橋だった。石と金属を組み合わせ、ここ数年の間に築かれたと見える頑強な構造で、定期的に整備されていることが伺える。

 

 だが問題は橋そのものではない。上空を旋回する影──黒く、翼を広げれば十メートルはあろうかという巨大な鳥型の魔物が三体いた。

 

(あれは……渡らせる気がないな)

 

 峡谷に吹き付ける風は、彼らの存在によって乱されている。単なる自然現象とは思えない。意図的に風を操っているのかもしれない。魔物が縄張りとして橋を守っているのか、それとも誰かが配置したのか。

 

(橋を使うなら、あの鳥どもを無力化する必要があるな……)

 

 タヴは風の流れを読み、地形を慎重に確認する。峡谷の両側には足場が乏しく、まともな射線を確保できる場所は限られている。彼は手を広げ、周囲の風の流れに魔力を同調させる。髪がゆっくりと浮き上がり、足元に魔力の波紋が生じた。空を睨み、呼吸を整える。

 

(一体ずつ、速攻で落とす──やるしかない)

 

 渓谷の風が鋭くうねった。同時に、タヴは峡谷の縁から慎重かつ迅速に橋の方へと歩を進め、風を背に受けながら橋の入口に到達する。頭上では巨大な猛禽に似た魔物三体が高度を変えつつ旋回し、羽ばたきが風を乱して濃密な気流の渦を作り出していた。

 

 その風の性質は魔力に近い。魔物の羽ばたきによって制御されているなら、自然な風とは異なる何らかの力の働きを示している。タヴは足元の風を読んだ。大地を撫でる層流と、峡谷に吸い込まれる乱気流。その中で、自分の魔力を通すルートを選びながら右手を掲げた。

 

 掌には微かな震動。そこに力を収束させる。《Eldritch Blast(怪光線)》──異界の力で放つ魔力の奔流。練り上げられた四条の魔力が、風を切り裂くように次々と放たれた。一発目は最も低空を飛ぶ個体に直撃。翼を破り、体勢を崩させる。続く二発目と三発目はそのまま墜落しそうになった個体を狙って着弾し、トドメを刺した。最後の一発は、別方向に回避していた個体にかすめるように命中し、わずかに軌道が乱れる。

 

(残りも仕留める)

 

 タヴは左手を掲げ、《Quickened Spell(迅速術)》により詠唱を短縮する。追加の《Eldritch Blast》を即座に放ち、二体目と三体目を撃ち落とした。風が急速に静まり、魔物の気配が消えた。橋の上に足を踏み入れると、踏板がわずかに軋む。だが、構造は頑強だった。石と金属が巧みに組み合わされ、強風と歳月に耐えるよう設計されている。

 

(これは……建築技術だな。魔法で補強されている形跡はない)

 

 職人の手が入っている。細部に至るまで、誤差のない造り。橋を渡りきり、緩やかな斜面を下った先の林の陰から、誰かの低い声が聞こえた。

 

「He, du da(おい、そこのあんた)」

 

 声の方向に顔を向けると、小柄な人物が立っていた。ターバンを巻いた頭、整えられた口ひげ。腰に重そうな工具を提げ、分厚い革のブーツを履いている。

 

(……この体格と顔立ち。俺がいた世界で言うところのドワーフか)

 

 男は何かを話しかけているようだったが、言葉は分からない。タヴは小さく息を吐き、詠唱なしで《Tongues(言語会話)》を発動する。発動の痕跡を消す《Subtle Spell(微細術)》を併用し、外見上はただ静かに頷いただけに見えるようにした。

 

「……すまない、もう一度言ってくれ」

 

「……あんた、魔法使いか?」

 

「まあ、それに近いものだ」

 

 タヴは曖昧な返事を返し、身構えた。自分の魔法を見られていたのだ。もし異質に思われたなら、余計な疑念を生む可能性もある。

 

(必要なら、適当に誤魔化すか……)

 

 だが、男の表情にそれらしい反応はなかった。気にした様子もなく、淡々と口を開いた。

 

「そうか。とにかく助かる。あんたが魔物を倒したところを見てたんだ。見事だった」

 

 男は名乗った。「ゲーエン」と。

 

「この橋の整備を任されてる。儂が二百年かけて架けた橋だ」

 

(……やはり、ドワーフか)

 

 タヴの世界に存在するドワーフと同じく、寿命が三百年ほどの種族なら、ゲーエンにとっては人生の大半を橋の建築に費やしたことになる。

 

「最近、あの鳥の魔物がこの辺りの岸に巣を作っちまってな。倒しても、またすぐ来る。見ろよ、あれ」

 

 ゲーエンが指差す先、崖の上部にいくつかの岩が不自然に崩れていた。枯れ枝や羽根のようなものが風に揺れている。

 

「巣そのものの場所はまだ突き止めきれてないんだが、崖のどこかにあるはずだ。放っておくとまた増える」

 

「……で、俺にどうしろと?」

 

「そいつを何とかしてほしい。あんたみたいな腕のある奴じゃないと、無理だろうしな」

 

「断る。俺には俺の用事がある。慈善活動に手を貸すほど暇じゃない」

 

 ゲーエンはしばらく無言になった。それから静かに、だがしっかりと語った。

 

「この橋はな、儂の故郷が魔族に焼かれてから作り始めたんだ。あのときここに橋があったらみんな助かった。誰かが、どこかへ、安全に渡れるように……そういう場所を、どうしても残しておきたくてな」

 

 タヴは沈黙したまま彼を見た。

 

(後悔から半生をかけて築いた橋……そのために魔物退治を頼む。理屈は理解できる)

 

「報酬による」

 

 短く言い切る。ゲーエンは困ったように頭を掻いたが、やがて何かを思い出したように呟いた。

 

「……魔導書ならある」

 

「どんな魔導書だ?」

 

「パンケーキを、上手にひっくり返す魔法のやつだ」

 

「……は?」

 

「表と裏が均等に焼けて、焦げずにふっくら仕上がる。あと材料もある。小麦粉と卵もな」

 

(……この世界では、そんな魔法が存在するのか)

 

 呆れと驚きが入り混じった感情が、タヴの中に広がった。

 

 彼は生来の血脈や自然の力から魔力を直接引き出す、ソーサラーだ。その中でも、《Storm Sorcery(嵐の魔法)》の系譜に属する。

 

 ソーサラーは、魔導書に記された緻密な呪文の体系を理論として理解することはできても、それをそのまま再現することはできない。なぜなら、自身の直感的な感覚によって魔力を呼び起こし、それを本能的に操っているためだ。

 

 しかし、異界の魔導書に記された未知の魔法理論や術式を紐解き、この世界独自の魔法体系に触れることは、彼が元の世界へ帰還するための新たな可能性を見出す手掛かりとなるかもしれない。

 

(パンケーキ用の魔法が存在するなら……この世界の魔法文化の深さは、俺が思っているよりも……)

 

 タヴは短く唇を開いた。

 

「……興味はある。その魔導書、譲ってもらえるなら、協力してもいい」

 

 ゲーエンの顔がパッと明るくなる。

 

「……そうか、引き受けてくれるのか。助かる。慎重にな」

 

「巣は崖の上のどこかにあるんだな?」

 

「ああ。あの辺り……たぶん、風が渦巻いてるあたりだ」

 

 タヴは視線を崖へ向けた。風の流れが確かに、特定の位置で乱れている。あそこに何かある。

 

(……魔導書とパンケーキの材料。悪くない対価かもしれないな)

 

 足元の風を感じながら、彼は崖を見上げた。

 

 *

 

 峡谷の風が、崖の斜面に沿って唸りを上げていた。タヴは岩肌に手を当て、斜面を慎重に進む。足元は砂礫が不安定で、誤れば滑落しかねない。空にはまだ、先ほど撃ち落とした魔物の仲間と思われる影が小さく旋回しているが、こちらに気づいている様子はない。

 

(できる限り魔法は使わずに済ませたい。痕跡を残したくない……)

 

 太陽はすでに西の稜線に沈み、峡谷の斜面は闇に覆われている。あたりはすっかり暗く、視界はほとんど閉ざされているが、タヴにはそれが問題にならない。

 

 彼はかつてウォーロック──多元宇宙に秘された禁忌の知識を求め、強力な異界の存在と契約して魔力を得る者──となることを余儀なくされていた。その契約相手の一つが、《Hexblade(影の剣)》と呼ばれる意思ある魔剣であり、その呪力と剣技を授けられていた。

 

 契約により得た《Eldritch Invocations(妖術)》の一つ、《Devil's Sight(悪魔の目)》は、あらゆる闇、魔法的な暗闇でさえも完全に見通す力を彼に与える。タヴにとって闇は、むしろ味方だった。周囲の地形と風の流れを慎重に観察し、足元の岩を軽く蹴って音を立てる。周囲に反応がないことを確認し、さらに風の渦の向きを探りながら前進する。

 

(このあたり、風が集中している……魔力の流れも微かに乱れているな)

 

 風の流れと魔力の残滓を読むのは、タヴにとって感覚的な行為だった。嵐の魔力に結びついた彼の血は、大気の揺らぎや力場の歪みを風の声として捉える。術ではなく、本能で感じ取る領域だった。

 

 崖の裂け目の奥に、不自然に削れた岩の窪みが見える。古木の枝や骨片、羽根などが積み重なっている。

 

(……あれが巣か)

 

 魔物の数は正確に分からないが、少なくとも五体以上が密集している気配がある。

 

(強襲しかないな……)

 

 タヴは呼吸を整え、詠唱に入る。《Chain Lightning(連鎖雷撃)》──標的から標的へと跳ね回る高位の雷の魔法。魔力が臨界に達した瞬間、タヴの掌から閃光が放たれる。雷撃は一体目の魔物に直撃し、そこから枝分かれするように次々と別の標的へ跳ね移る。

 

 一瞬のうちに雷の網が巣全体を駆け抜け、数体の魔物は悲鳴を上げる間もなく焼き尽くされた。すぐにその肉体は淡い光を帯びて崩れ始め、魔力の粒子となって風に溶け、塵となって消える。

 

(……やはり死ねば塵になるか)

 

 この世界に来て何度か目にした現象だが、異質さは拭えない。彼のいた世界では考えられない、奇妙な終わり方だった。タヴはその場にとどまらず、即座に離脱を開始した。

 

 《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》──一階梯以上の魔法を放つたび、風がその身を掬い上げる力──が発動し、足元に突風が吹き上がる。その風が彼の身体を宙に持ち上げ、風の流れに沿って滑るように跳び、崖の外縁に着地した。

 

(あと二体……)

 

 逃げ惑う魔物の一体に狙いを定め、右手を掲げる。《Eldritch Blast(怪光線)》──異界の力で放つ魔力の奔流。タヴの掌から放たれた四条の魔力が、正確に魔物の急所を撃ち抜いた。残る一体が空へ逃げようと羽ばたくが、その直後に放たれた追加の《Eldritch Blast(怪光線)》が翼を貫き、岩の上に墜落した。風が静まり、峡谷に再び沈黙が訪れた。

 

 タヴは警戒を緩めぬまま慎重に魔物の巣に近づいた。岩場の裂け目を覆う枝葉や骨片を注意深く取り除き、中を確認する。巣の奥には魔物の卵らしき殻が散乱していたが、すべて既に孵化済みで空になっていることを確かめた。周囲にさらなる脅威がないことを入念に観察してから、痕跡を最小限にとどめ、ゆっくりと巣から離れた。

 

 峡谷を出るまでの道のりは慎重を要した。荒れた斜面の足元に注意を払い、足跡を残さぬよう硬い岩場を選んで進む。夕暮れの風が弱まり、やがて峡谷の出口が見え、目印としていた橋の影が視界に入った頃には、空はすっかり薄暗くなっていた。

 

 橋付近まで戻ると、ゲーエンが岩陰から姿を現す。

 

「終わったか?」

 

「ああ。風の流れを乱していた巣を潰した。もう奴らが舞い戻ることはないだろう」

 

 ゲーエンは小さく頷き、腰に下げていた布包みを取り出した。

 

「約束の品だ。中に魔導書と……材料もある」

 

 タヴは布包みを受け取り、静かに礼を言った。

 

 日が完全に沈み、あたりが夜の闇に包まれる頃、タヴは橋のたもとを離れて近くの岩陰へと向かった。風を防げる安全な場所を選び、手早く集めた枯れ枝で小さな焚き火を熾す。揺れる炎の明かりを頼りに布包みを広げると、中から見慣れない文字が刻まれた魔導書が現れた。魔力の気配こそ感じるが、それが本当にパンケーキの魔法書だとは信じがたい。

 

(まあ……見るだけ見てみるか)

 

 タヴは小声で《Comprehend Languages(言語理解)》を詠唱し、ページをめくった。文は確かに料理工程のような形式を取っている。温度調整の魔法式、焼き上がりを知らせる熱感知の術、攪拌を補助する空気流動の魔法……すべてが丁寧に理論立てられている。

 

(……バカにできないな、これは)

 

 魔力の応用としては非常に高度な構成をしている。ソーサラーには再現困難な部分もあるが、参考になる理論も多い。ページの端に挟まっていた紙片には、丁寧な筆跡でこう書かれていた。

 

「美味い朝食は、良い旅路の第一歩」

 

 タヴは小さく笑い、焚き火の火を見つめた。

 

(……この世界、悪くないかもしれないな)

 

 *

 

 巨大な湖は、北部高原の空を支配するかのように広がっていた。湖畔の町は風に削られた石壁と幾重にも補修された桟橋によって、辛うじて存在を保っている。灰色の雲が水面を覆い、波は絶え間なく岸を叩き続けている。対岸は白く霞む水平線の向こうに、かすかな影として存在していた。

 

(……あれが、北側諸国最大の湖か)

 

 タヴは防風のために低く設けられた石塀の陰で、風の向きを確かめるように周囲を見渡した。道中の宿で得た地図と旅人たちの話によれば、ここがコドーリア湖──北側諸国で最も大きな湖だという。何日も留まっているわけではない。それでも港に停泊する帆船が一度も出航しないことは印象的だった。船員たちは桟橋の脇で酒を飲み、賭けをし、風が止むのを待ち続けている。

 

(このままでは何日経っても状況は変わらない……)

 

 空を仰ぐと、雲の流れが複雑に交錯している。東と西からぶつかる風が、湖上で狂った渦を作り出している。

 

「嵐の季節に無理をして出るのは、船乗りでも死にに行くようなもんだ」

 

 宿屋の主はそう言った。町全体にも停滞した緊張感が漂っていた。タヴは町の外れにある小さな倉庫の壁を背に考え込む。

 

(この風……《Storm Guide(嵐導き)》を使えば風向きを調整できる。航行は可能になるだろう)

 

 《Storm Guide(嵐導き)》──術者を中心とした一定範囲内で、雨を止めたり風向きを自在に変える能力。

 

 だがそれを実行するには懸念があった。まず、この世界の魔力は彼が生まれ育った世界とは根本的に異なっている。空気中の粒子密度、力の浸透率、応答速度……全てが微妙に違い、制御には違和感がつきまとっていた。

 

(……下手をすれば、魔力の揺らぎで風を余計に荒らすかもしれない)

 

 加えて天候を操る力は、この世界では特に異質なものとして目立つ可能性がある。追跡者がいるかもしれないという懸念は、常に頭の隅にあった。それでも──

 

(何ヶ月もここで待っているほど、余裕はない)

 

 滞在が長引けば、足がつく。物資の確保も困難になる。何より、この土地に留まる時間が増えれば増えるほど、異界の存在として痕跡を残してしまう。タヴはふっと小さく息を吐いた。

 

(使うしかないな……ただし最小限に)

 

 決意を固めたタヴは、人目につかない場所で小声で《Tongues(言語会話)》を詠唱した後、管理所に入って船員たちに提案を伝えた。船員たちは彼の申し出に驚いた声を上げる。

 

「風を……変えるだと?」

 

「完全には無理だ。ただ追い風になる程度には整えられる」

 

「魔法か?本当にそんなことが……」

 

「見せる。船を出す準備をしてくれ」

 

 船員たちは顔を見合わせ、半信半疑のまま積荷の少ない小型帆船を岸辺に係留した。タヴは波打ち際に立ち、風を読むように空を見上げる。魔力を最小限に抑え、《Storm Guide(嵐導き)》を静かに放つと、風が穏やかに変化し始め、湖面の波が静まり出した。

 

「……風が変わったぞ」

 

 船員の一人が驚いた声を上げる。荒れていた風が落ち着きを見せ、空気の流れが安定すると、帆がゆっくりと膨らみ始めた。

 

「本当に風を操れるのか……」

 

「少しだけ、な」

 

 タヴは短く答えると船員たちと共に船に乗り込み、航行を開始した。タヴは引き続き魔力を巡らせて風の流れを維持する。《Storm Guide(嵐導き)》の行使は、外から見ればただ空を見上げているだけに見えるが、帆船は確かな加速を得て、滑るように湖面を進んでいった。

 

 だが順調な航行は突如として不穏な空気に包まれた。風が止み、船体が異様に揺れる。波のリズムが乱れ始める。湖面を凝視するタヴは、何かが水面下に潜んでいる気配を察知した。

 

(……何かがいる)

 

 水面に泡が立ち、渦が巻き始める。

 

「おい、舵が効かねえ!」

 

 船員の叫びと同時に、巨大な影が湖面から跳ね上がった。

 

「クラーケンだッ!」

 

 その名を聞いた瞬間、タヴの目が鋭くなった。クラーケン──伝説に名を刻む深海の怪物。彼の世界では海域を崩壊させるほどの存在だった。

 

(……まさか、この世界にもいるのか?いや、違う。規模も魔力の濃度も、あの本物とは違う。名が同じなだけの別物か)

 

 舷側に体当たりするようにぶつかってきたのは、巨大な軟体生物だった。くちばし状の口と吸盤を持つ複数の触手をうねらせ、艶のある灰白色の身体が波間から姿を現す。球状の大きな目が水面をにらみつけ、まるで意志を持つかのように船を狙っていた。船体が軋む。帆柱がきしみ、乗員たちが悲鳴を上げる。

 

(引き寄せられたか……俺の魔力に)

 

 魔力を放つたびに感じていた妙な気配が、また現れたとタヴは直感した。彼は即座に《Feather Fall(軟着陸)》を詠唱し、揺れで落ちそうになった乗員の足元に魔力を送る。その身体はふわりと浮かび、ゆっくり船へ戻った。

 

 怪物がさらに船を攫おうとすると、タヴは掌を掲げ、《Eldritch Blast(怪光線)》を放った。四条の光線が魔物を撃ち抜き、水柱が立つ。

 

 激しく揺れる甲板を跳ねるように駆け、もう一発の光線で怪物を牽制する。数分後、魔獣は湖底へ沈み、荒れた波が収まり始めた。

 

「……助かった。あんたがいなければ、今ごろ湖の底だった」

 

「礼はいらない」

 

 タヴはそう答えたが、内心ではわずかに責任を感じていた。自分の魔力がこの魔物を引き寄せたのかもしれない。その思いを振り払うように、帆の陰に身を隠し、腰を下ろした。魔力の揺らぎはまだ腕に残っている。この世界の魔力と自分の内に宿る異質な力は完全に調和していなかった。

 

(まだ、安易に使うものではないな……)

 

 だが必要であれば使う。それがタヴの生き方だった。彼は遠ざかる霧の向こう、背後の湖を静かに一瞥した。

 

 コドーリア湖の対岸が、ようやく視界に入り始めていた。

 

 *

 

 タヴが船を降り、湿った石の桟橋に足を踏み下ろしたとき、朝の港町はすでに動き出していた。コドーリア湖の対岸に位置するこの町の朝は、濡れた石畳と潮の匂いに満ちていた。雨は上がっていたが、空にはまだ厚い雲が残り、港に並ぶ帆船の帆は固く巻かれたままだ。

 

 桟橋では荷を積み下ろす声が響き、行き交う人々の中に旅人、商人、兵士の姿が混じっている。タヴはそんな喧騒の中、目立たぬように黒い外套のフードを深く被っていた。

 

(交易拠点としては十分な規模だな)

 

 通りを歩きながら、目に入る建物の構造、掲げられた旗の紋章、通貨の種類と会話の訛りまで注意深く観察する。短時間で得られる情報は限られていたが、それでも旅の方向性を定めるには十分だった。

 

「ドラッヘ地方なら、山沿いを進めばルーフェンを経由して、ノルム商会領まで行ける」

 

 路地裏の簡易な地図売りから購入した粗末な羊皮紙には、北部高原一帯の街道と峠道が記されていた。正確さには疑問が残るが、少なくとも目印にはなる。

 

 港町の滞在は、一晩だけだった。

 

 物資を整えるにあたり、皮袋に水を満たし、干し肉と黒パン、乾燥果実、火打ち石と油脂の小壺を買い足した。支払いのために、外套の留め具に使っていた細工の甘い銀の留め金と、予備の錫の指輪を質屋兼両替商に持ち込み、通貨に替えた。

 

 情報収集は《Comprehend Languages(言語理解)》を用い、酒場や荷揚げ場で交わされる噂話を静かに拾うに留めた。無闇に魔法を使えば痕跡を残す。必要な聞き取りだけを済ませると、宿で身体を休める。

 

 翌朝、雲が薄くなったのを見て出発する。湖畔の街道に出て、貨車の轍が続く北行きの道を踏みしめる。町外れの祈祷所を過ぎるころ、遠くに風に削られた尾根が連なって見え始めた。

 

 ドラッヘ地方は、標高の高い岩山と風に削られた尾根が続く土地だった。古くから竜にまつわる名を持つこの地は、現在では峠越えの中継地として、時折旅人や搬送隊が通る程度だという。

 

(人の手が入っている割に、警戒が薄いな)

 

 タヴは岩壁沿いに進みながら、谷間に小さく煙が立つのを認めた。地形の窪みに広がる小さな集落──だが、煙は薪ではなかった。

 

 黒い煙柱が、屋根の隙間から上がっている。

 

(……襲撃されている?)

 

 既に何かが襲撃を始めていた。耳の奥を揺らすような咆哮。吹き抜ける風の中に、獣のものとは思えない魔力の波が混じっている。

 

 高台に移動し、タヴは岩陰に身を潜めながら眼下を見下ろした。空を旋回する三つの影──小型の竜のような魔物。彼の世界でワイバーンと呼ばれる存在に近かったが、その動きと魔力の質は異なっていた。

 

(……飛行型か。風の流れを読んで動いてる)

 

 そのとき、すぐ近くの岩陰から、小さく震える声が漏れた。

 

「村が……!」

 

 タヴがわずかに顔を向けると、岩陰の先に、身を伏せる数人の影があった。旅人か、避難した村人か──詳細は分からない。ただ、その声には確かな恐怖があった。

 

 遠くで、木材の砕ける音と悲鳴がこだまする。吹き抜ける風の合間に、吠えるような咆哮が混じっていた。

 

(群れだな。おそらく、巣が近い)

 

 すぐに介入できる距離だった。だが、タヴは一歩も動かなかった。

 

(……介入対象ではない)

 

 現地の魔物による襲撃。魔力反応は在来種の範囲内。次元的干渉も、構造的異常も確認されていない。ならばこれは、自然因果の一部だ。この世界の秩序は、まだ崩れていない。

 

(……俺が踏み込めば、それが始まりになる)

 

 自分という異物が、ここに干渉することで生まれる誤差がある。世界は本来、自律的に均衡を取り戻すよう創られている。だからこそ、放っておくことが規範だった。

 

 組織の上層部連中なら、迷いなくこう言うだろう──因果を変えるな。善意は毒だ。

 

(そう教えられた。……それに従ってきた)

 

 ……たとえもう、その規範を監視する者が誰もいなくなっていたとしても。

 

 あの裂け目に呑まれて、通信は断たれ、追跡も途絶えた。失踪扱いにされたことくらい、とっくに分かっている。

 

(見捨てられた。それは、もう理解してる)

 

 あの組織に情など求めたことはない。任務に有用であれば拾い、不要と見れば排除する。ただそれだけの構造だ。

 

 それでも、どこかにいつか戻る前提で思考している自分がいた。「任務完了報告を出す」とか、「補給を受ける」とか──くだらない想像を、いまだにしてしまう。

 

 ……滑稽だ。

 

 タヴは空を見上げた。あの煙を見て、助けなかった後悔は一生残るだろう。だが──感情で動くのは簡単だ。その瞬間は救われる。だがそれは、責任から逃げるということでもある。

 

(誰にも監視されず、誰にも裁かれないとしても……俺自身が秩序を乱す要因になることは許されない)

 

 もしこの世界が、この次元がまだ正常に動いているのだとしたら──異物である自分こそが、手を出すべきではない。

 

 ……だから今は、ただ、見ている。それでも、気分は最悪だった。

 

 タヴは拳を握りしめた。ただ、冷えた風に外套を揺らしながら、その光景を見ていた。

 

(……これが、この世界の現実だ)

 

 嵐は、まだ沈黙していた。

 

 *

 

 ドラッヘ地方の荒れ地を越え、タヴはようやくルーフェン地方へと辿り着いていた。この地は、北部高原の中でも穏やかで、信仰と農耕の土地として知られている。丘陵と草地が交錯する風景の中、小さな礼拝堂や巡礼者の姿が所々に見えた。

 

 空は乾いた白さを帯び、風は冷たくも清らかだった。

 

(この辺りは魔力の流れも整っている……何か、意図的な制御を感じる)

 

 そんなことを考えながら歩いていたとき、不意に声をかけられた。

 

「E-entschuldigung……ähm……(す、すみません……あの……)」

 

 見るからに気弱そうな若い僧侶だった。栗色の髪は風で乱れ、法衣の裾を指先で何度も握りしめている。焦点の定まらない視線で、こちらを見つめていた。言葉は聞き取りにくく、緊張のあまり震えていた。タヴは視線を僧侶から外し、人目のない場所を確認すると、《Subtle Spell(微細術)》を併用して《Tongues(言語会話)》を静かに発動した。

 

「もう一度、言ってくれ」

 

 僧侶は小さく頷き、少し息を整えてから話し出した。

 

「……夢の中で、お会いしました。名前も知らないのに、タヴと……呼んでいました。空が裂け、そこからあなたが現れて……雷のような光が、翼みたいに背中から広がっていたんです」

 

 タヴの眉がぴくりと動いた。

 

(俺の名前や、別次元の存在であることへの示唆……何かの啓示か?)

 

 僧侶は一歩踏み出しかけて止まり、また一歩引き下がるような、ためらいがちなしぐさで誘いかけてきた。

 

「話を聞いていただけませんか?すぐ近くの礼拝堂で……」

 

 タヴは無言で頷き、僧侶に続いて礼拝堂へと足を運んだ。案内された礼拝堂は石と木で作られた簡素な建物で、内部には小さな女神像と、手入れの行き届いた長椅子が並ぶだけだった。

 

「こちらが、私たちが信仰する女神様の像です」

 

 僧侶はそう言って像の前に跪き、両手を組んだ。

 

「夢で感じたのは、あの方からの啓示です。どうしてもあなたに伝えなければならないと……」

 

 そう前置きして、彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

 

「耳で聞いた言葉ではありません。心に直接流れ込んできた感覚……それを、できる限り書き留めました」

 

 タヴは羊皮紙を受け取り、視線を落とす。

 

「aal'fen tora'sil…… en'quira mei'del…… nurhak valen'teir……」

 

 短く息を吐き、《Comprehend Languages(言語理解)》を静かに詠唱する。魔法の力が脳裏に作用し、言語の意味を即座に探り出そうとするが──脳内に浮かぶのは音と形の断片ばかりで、まるで象徴の連なりのような感覚のみが伝わってくる。

 

(文字ではあるが、意味が通じない……これは体系化された言葉ではない。解釈次第で変わる類か、あるいは……啓示そのものか)

 

 そして、ふと思い出す。

 

(……ブロックスなら、分かったかもしれない)

 

 タヴと共に任務をこなしていたヒル・ドワーフの技術者。クレリックとして神学に通じる一方、アーティフィサーとして技術と魔導工学にも精通していた。職人気質で実直だが、神秘と論理の交差点を自らの知識と信仰で乗り越えてみせた男だった。

 

(俺が見落とす部分も、あいつなら理屈で読み解けたかもしれない)

 

 僧侶がそっと問いかける。

 

「どうでしたか……?」

 

 タヴはしばし羊皮紙を見つめてから答えた。

 

「……解釈不能だ。俺には読めない」

 

 僧侶は肩を落としたが、それでも小さく微笑んだ。

 

「それでも、来てくれただけで、私は……」

 

 その言葉にタヴは返す言葉を見つけられなかった。ただ無言で羊皮紙を懐にしまい、軽く会釈をして礼拝堂を後にした。

 

(この世界の祈りは……《Divine Magic(神性魔法)》の行使に近いのか?だが、神からの明確な魔力の流出は感じない)

 

 タヴには、それが単なる宗教的儀礼には見えなかった。魔法の痕跡や周囲の空気の流れに、ごく微かな統一感がある。祈りは心の拠り所としてではなく、知らぬ間に女神と繋がっているのかもしれない。この世界の魔法体系にも、信仰を軸としたものが存在するのだろう。礼拝堂の外に出ると、風が頬をなでた。この世界で吹く風だったが、どこか、遠い雷鳴の匂いが混じっている気がした。

 

 *

 

 ブロックスは静かに息を吐き、石造りの研究室の中央に据えた術式盤の縁へ足を運んだ。厚い壁は外音を遮り、天井の梁から吊るされた魔法灯が白い光を落とす。床には銅線と銀符を埋め込んだ円環が幾重にも重なり、観測と記録の装置が周囲に並ぶ。岩盤のように安定した足取りでその場に立つと、足元に複層構造の解析陣が青白く起動した。

 

 盤上には、現地対応班が収集した《Arcane Eye(秘法の眼)》と《Detect Magic(魔法感知)》の記録像が、青白い投影となって再生されていた。《Arcane Eye(秘法の眼)》は視界内に不可視の観測眼を生み、空中を漂わせて四方を見渡す魔法で、暗所でも視認可能だ。

 

 《Detect Magic(魔法感知)》はおよそ九メートルの範囲にある魔力の有無を捉え、対象の周囲に淡い光輪を示して系統を判別する。鉛や厚い石材に遮られた領域は、感知の像が空白として記録される。

 

「……確かに転移した形跡はある。だが……何かおかしい」

 

 ブロックスの低い声が研究室に響いた。

 

 彼が手にしていたのは、タヴが持っていたものと対になっている《Sending Stones(送信石)》だった。通常なら、一方の石が《Sending(送信)》を発すれば、もう一方には短い語句の痕跡が残るはずだ。

 

 だが、この石には何の反応も記録されていない。タヴが石を使った形跡もなく、かといって石そのものが破壊されているわけでもない。ただ、何もなかったかのように静かなままだった。

 

(反応が一切ない……まるで完全に遮断されてるみてえだな)

 

 それはタヴが次元転移によってたどり着いた先が、《Sending(送信)》さえ遮断する、特殊な環境である可能性を強く示唆していた。ブロックスは厳しい表情のまま、小さな石を握りしめる。

 

(《Plane Shift(次元移動)》の痕跡は見当たらねえ。自然な転移じゃないし、転移の形が歪だ)

 

 石製の机に分厚い前腕を置き、顎を指で撫でる。現地で展開された《Arcane Eye(秘法の眼)》は別界へ移れないため、追尾がそこで途切れている。《Detect Magic(魔法感知)》の層像も、ある境界を境に一様に白く塗りつぶされたように消えていた。魔法的な通信や探知が通らない面に突き当たっている。

 

(無理やり引きずり込まれたか、それとも突発的に開いた穴から堕ちたか……どっちにしても、まともな転移じゃねえな)

 

 ブロックスは気を取り直し、記録装置に残された魔力残響のログを洗い直した。膨大な情報を処理しつつ、解析された魔力波形を何度も確かめる。やがてその眉間に深い皺が刻まれた。

 

(……転移の歪みが滑らかすぎる。多元宇宙間を行き来するときは、必ず魔力波動に不規則な乱れが生じる。それがまったくねえ。人工的に精密に作られた境界を通った痕跡だ)

 

 彼は、重厚な書架から一冊の古びた羊皮紙製の書物を取り出した。その表紙には、《Manual of the Planes(諸次元概論)》と記されている。ブロックスは素早くページを繰り、いくつかの項目を照らし合わせた。

 

 《Demiplane(半次元)》──多元宇宙の大平面体系から切り離された、有限で独立した異次元領域。成立の由来はさまざまで、呪文によって生じるものもあれば、神格や他の強大な意志によって生み出されるもの、あるいは現実のひだが自然にちぎれて生まれるものもある。各半次元は固有の物理法則や魔法の振る舞い・時間の流れを持ち、出入りは通常、門や鍵によって制御される。規模は小室からきわめて広大なものまで多様で、完結した生態圏を内包する例すら知られている。

 

 ブロックスの表情が険しくなる。彼の胸中で、ある確信が固まりつつあった。

 

(この完璧な遮断特性と魔力波動の精密さ……こいつは明らかに自然にできた次元じゃねえ。多元宇宙の枠外に作られた封鎖次元だ)

 

 彼は手元の羊皮紙に慎重に記録を刻んだ。魔力波形、空間の歪みのパターン、術式による観測結果──それらを全て次元観測の記録として残すためだ。同時に、頭の中では次の段取りが組み上がっていく。

 

(封鎖次元で通信途絶が出た時点で、単独捜索は禁止。境界の破損や汚染の拡大を防ぐため、封印・検疫・救出を同時に走らせる上級事案だ。権限申請と多分野の要員を束ねる準備が要る)

 

 ブロックスは分厚い指で別の石板を手繰り寄せ、非常手順の様式を机上に広げた。必要資材を書き出す。《Plane Shift(次元移動)》用の鍵の仮設計、位相固定用の楔、対精神干渉の護符、索敵と遮断を両立させる観測装置、帰還路確保のための門枠。役割分担も同時に記す。進入・護衛・封印の三班、加えて記録係と医務の随伴。

 

 彼は小さく息を吐くと、提案書の冒頭に一行を記した。封鎖次元における緊急救出チーム編成──そのための作戦案である。

 

 *

 

 ──多元安定機構。

 

 多元宇宙の法と因果を守る静かな監視者であり、世界間の衝突・侵蝕・逸脱に対し無慈悲な判断を下す絶対の中立組織。その機構は、あらゆる異常を検出し、記録し、必要とあらば存在そのものを切除するために構築されている。

 

 その本部に設けられた執務室は、魔導的遮音処理が施された石造りの空間だった。四方の壁には次元地図と術式投影用の水晶が埋め込まれ、空間全体に魔力制御の静音結界が張られている。外部の声も、内側の感情も、この部屋の外へは一切漏れ出さない。

 

 室内には、二人きりだった。

 

 正面の重厚な机の奥には、白銀の徽章を胸元に付けた高官が座っている。長身痩躯のハイ・エルフで、冷たい琥珀色の瞳と、白銀に近い金髪を後ろで束ねたその男は、整然とした姿勢のまま、眼前の男をじっと見据えていた。

 

 対面に立つのは、鍛え抜かれた体躯をもつヒル・ドワーフ、ブロックス。装飾のない制服の裾には泥がつき、鋼糸で補修された肩章が彼の現場主義を物語っていた。無言のまま申請書を提出し、直立したまま上官の返答を待っている。

 

「……タヴ、交戦中に未知の次元断裂に巻き込まれた模様。追跡は困難。現段階では帰還の見込みなし。救助チームの編成と時空座標の再測定を申請したい」

 

 ブロックスの声は低く、抑制されていた。だがその言葉の端々に、押し殺した焦燥と信念が滲んでいた。報告を終えると、高官は申請書に目を落とし、静かに口を開く。

 

「許可できない。第一に、封鎖次元へは通信が届かない。救難の呼びかけが成立しない環境は、境界そのものが餌である誘き寄せの可能性を排除できない。第二に、境界をこじ開ければ、汚染や因果の流入で他平面へ被害が波及する危険が高い。第三に、過去の前例では救助隊の損耗率が突出している。ひとつの例外が手順全体を壊す。我々は衝突の火種を増やすわけにはいかない」

 

 淡々とした口調が続く。

 

「また、資源は優先度の高い衝突案件に回す必要がある。規定に従えば、封鎖次元で行方不明となった隊員は原則失踪扱いだ。お前の申請は手順と不整合を起こす」

 

 ブロックスは眉を寄せた。表向きの理屈は筋が通っている。だが、どこかが噛み合っていない。

 

「……それが全部の理由か。違うなら、本当の理由を言え」

 

 高官は一度だけ瞬きをし、視線を上げた。琥珀の瞳が細くなる。

 

「……ブロックス。お前はあの男を買いかぶりすぎだ。スラムの浮浪児上がりで、内に荒れ狂う魔力を制御できず、異界の影に身を委ねた野良犬だ。不安定で常に暴走の危険を孕んでいる。助けに行く価値があると、本気で思っているのか?」

 

 その瞬間、ブロックスの拳が机を打った。ごつい拳から魔力が閃き、木製の書類台が跳ね上がる。重厚な音が、魔導封鎖の静寂を破った。

 

「……それがあんたらの本音か?秩序を守るって名目で人を数に変えて切り捨て、危険と見れば可能性ごと消す。功利だけ積み上げて、何のための秩序か見えなくなってる。それを俺は『正しさ』とは呼ばねえ」

 

 高官の声は、なおも冷たい。

 

「これは命令だ。私情で動くなら、職を退け」

 

 短い沈黙ののち、ブロックスは低く答えた。

 

「……そのつもりだ」

 

 返答はなかった。静寂だけが、執務室を包み込んでいた。

 

 ブロックスは踵を返す。扉が閉まる音の後、静かな廊下を真っ直ぐに歩き、受付で徽章と、結界通過の認証に使う通行石──施設内の各区画を通るために個人の許可情報を刻んだ小さな石片──を提出した。

 

 人事の記録官が手続きを読み上げる。一定期間は身辺整理と引継ぎのための猶予が与えられ、その間のみ最低限の記録閲覧権が残るという。署名と封印を交わし、貸与品の確認を済ませると、彼は工具の入った鞄と私物の箱を受け取り、無言で自室へ戻った。

 

 その日のうちに、彼は個人ログの整理届を提出した。手続き上は私物と記録の整理だが、許された時間の範囲でできることは決まっている。信頼できる部下を呼び、短く指示を出した。

 

「タヴの転移の前後で観測された術式反応と精神波の変動──全部、もう一度精査しろ」

 

 部下が頷いて去ると、ブロックス自身も補助観測任務の名目で次元断裂に関わる資料の請求を始めた。必要装備の控えも作る。境界固定の楔、対精神干渉の護符、帰還門の枠、位相測定の標──最低限、これだけは外せない。

 

 準備を進める彼の根は、鍛えの道にある。ブロックスは《Forge Domain(鍛冶の領域)》のクレリック──鍛冶を司る神の導きを受け、忍耐と技術によって金属や鉱石から強力な武具や魔法の道具を創造し、闇に奪われた秘宝の奪還を担う者。

 

 同時に彼は、《Battle Smith(戦技鍛造士)》のアーテフィサーでもあった──武具の製造だけでなく、仲間の守護や戦場での治癒、破壊された装備の即時修復に特化した戦技者であり、さらに自身が作り上げた鋼鉄製の護衛者を伴い、常に前線で他者を守る戦士。

 

 机上の紙束を綴じ、息を整える。私的な調査と救出のための準備は、ひとまず整いつつあった。

 

(聖句なんか忘れちまったが……お前が帰る場所くらい、ちゃんと用意しておいてやる)

 

 *

 

 北部高原の風は、乾いた鉱塵と寒気を運んでくる。タヴは岩だらけの尾根道を抜け、視界の開けた場所で足を止めた。段丘に築かれた巨大な城塞都市が、濁った灰色の空を背に威圧するようにそびえ立っていた。

 

 鋭角的な城壁は重厚な黒石で組まれ、塔と塔の間には見張りの兵士が常に巡回している。門前の広場には荷車がひしめき、行商人や旅人が列を成していた。都市の入口には堅牢な鉄門と二重の関門が備えられ、入場者の一人ひとりに対して厳格な確認が行われている。

 

 ノルム商会領──北部高原において最も強固な経済と軍事の中枢を担う城塞都市である。

 

(……やはり、簡単には入れそうにないか)

 

 高く厚い石壁には塔が並び、各門には重装の衛兵が立ち並ぶ。都市へ入るには、商会発行の身分証か、信頼ある紹介が必要だと旅人たちは言っていた。

 

 もちろん、タヴにはそんなものはない。この世界において、自分の素性を保証する手段など一つも持っていない。正面から入れば、不審者として排除されるのが関の山だった。

 

(潜入する手もあるが……今は様子を見よう)

 

 魔力の性質が異なるこの世界で無闇に力を使えば、思わぬ影響を及ぼす可能性がある。まずは周辺の集落で情報を集め、可能な限り非魔法的な手段で足場を築くのが先決だと判断し、タヴは城門の観察を切り上げて尾根を下った。

 

 都市近郊の集落──鉱山から伸びた荷路に沿って栄える小さな村に宿を取り、数日を過ごすあいだに、タヴは目立たぬように《Tongues(言語会話)》を唱え、それとなく住民や旅商人、果ては酒場に立ち寄る冒険者たちからも情報を集めていった。

 

 得られた情報は、どれも気になるものだった。

 

「最近、頭のおかしくなった連中が増えてる。突然意味不明のことを叫び出したり、記憶が飛んだり……最初は病気かと思ったが、どうも様子がおかしい」

 

「数日前も、人がいきなり姿を消した。痕跡もなしにだ。まるで、影の中に飲まれたみたいに……」

 

「都市の中じゃ、脳みそをくり抜かれた死体が見つかったらしい。しかも何人もだ」

 

 断片的な噂と証言。それらを繋げていくと、ある存在が浮かび上がってきた。

 

(……マインド・フレイヤー)

 

 思考を蝕み、脳を食らう異界の侵略者。

 

(……間違いない。奴らが来ている)

 

 タヴはマインド・フレイヤーがこの世界に入った経路を考える。彼はアストラル界の裂け目に引きずり込まれて転移した。あの時、周囲にはギスヤンキとマインド・フレイヤーがいた。他の裂け目でも同じ現象が並行して起きていたなら、マインド・フレイヤーも同様に流れ込んできた可能性が高く、ギスヤンキも紛れ込んでいる恐れもある。

 

 だが、今は現場の火消しが先だと彼は思考を切り替えた。脳を抜かれた死体という決定的な証拠は都市内部で出ている。マインド・フレイヤーは人の多い場所に巣を延ばし、地下や密閉空間に根を張る。発生源は城内にあると見るのが妥当と判断し、荷路をたどって城塞都市に再び向かった。

 

 都市の門前に着くと、貨物を積んだ馬車が列を成し、出入りの人々で賑わっていたのが見えた。彼はその脇に身を寄せ、往来を見渡しながら外套の襟を整える。

 

 門番の一人──灰鉄の鎧に蒼銀の紋をあしらった若い衛兵が、油断なく視線を巡らせていた。顔立ちは若いが、その目に浮かぶ緊張は誤魔化しがきかない。

 

 タヴはあえて人波に紛れるように近づき、少し間を置いて声をかけた。

 

「……中は、落ち着いてるのか?」

 

 衛兵は即座にこちらを見やった。警戒を隠さぬ目だった。

 

「何の用だ?関係者か?」

 

「いや、ただの通りがかりだ。次に向かう街を選んでいる。荒れてるなら、避けた方がいいと思ってな」

 

 タヴは気配を殺すように笑みを浮かべながら、視線をそらす。問いかけではなく、判断の参考にするという体で話しかけた──それだけで、衛兵の表情からわずかな緩みがこぼれる。

 

「……まあ、あまりいい話はないな」

 

 と、衛兵はぼそりと呟いた。

 

「急におかしくなる奴が増えてる。情緒不安定とかじゃない、まるで……精神をどこかに置いてきたみたいに、ぼんやりしてる。言葉も通じねぇ。治療師も手を焼いてるらしい」

 

「失踪もある。昼に見かけた人間が、夜には消えてる。荷物にも触れてねぇ。足取りが全部、途中で途切れるんだ」

 

「それと……これは内密な話だがな。城内で、脳が抜けた死体が見つかったって話がある。頭蓋が潰れてて、中が──」

 

 そこまで言って、衛兵は声を落とした。タヴは、言葉を挟まずに黙って聞いていた。

 

(……やはり、兆候は出ている)

 

 視線を交わすことなく、タヴは礼を口にしてその場を離れた。表情は変えずとも、その胸中では確信が固まりつつあった。

 

(状況からして、マインド・フレイヤーのコロニーが都市内に潜伏している可能性がある)

 

 次元干渉による外来存在の侵入。文明圏への擬態的浸透。認知阻害と精神汚染の徴候。これらは、多元安定機構の任務基準に照らしても介入条件を満たしている。既に機構の一員ではないとしても、判断の枠組みは自分の中に残っている。

 

 迷いはない。都市への潜入は、いまこの瞬間から自分が負うべき仕事だ。タヴは腰のポーチに手を伸ばし、黒曜石のような輝きを放つ小さな魔石──《Sending Stones(送信石)》を指先で転がした。応答は今もない。

 

(俺一人で、やるしかないってことか)

 

 風が吹いた。遠く、城塞の尖塔のひとつが雲間に浮かび上がる。その背後に潜むものが、この世界の均衡を脅かそうとしている。

 

 タヴは、目を細めた。

 

(さて……どうやって入る)

 

 不正規ルートでの潜入は、魔法の痕跡を残す危険がある。だが、悠長に構えていられる事態でもない。必要なのは情報と足場。内部に協力者がいればいいが……それもまた、探すしかない。

 

 風が冷たくなった。タヴは外套の裾を押さえながら、門を遠巻きに観察し始めた。

 

 *

 

 魔法都市オイサースト。天空を貫く塔と石造りの回廊が縦横無尽に連なるこの都市は、長期に渡り魔法文明の中心であり続けてきた。観測塔の上層、結界に包まれた静謐な会議室。その空間には、魔力の粒子が淡く揺れている。

 

 中央に座するのは、長く金色の髪を揺らすエルフの女性──ゼーリエ。その幼い姿からは想像もつかないが、彼女は神話の時代の大魔法使いであり、齢千年を超える大陸魔法協会の創設者である。

 

 大陸魔法協会は、各地の魔法使いたちを統括・支援し、魔法技術の発展と継承を目的として設立された組織だ。魔法使いの認定資格や、魔族・魔物への対応に関する指揮権限を有しており、その影響力は全大陸に及ぶ。ゼーリエはその頂点に立つ存在であり、彼女の一言が国家の方針すら左右することもある。

 

 ゼーリエは、裸足のまま肘掛け椅子に頬杖をつき、静かに周囲の魔法使いたちを見渡していた。瞳の奥に宿る光は、数千年を超えてなお衰えぬ知の奔流だが、その眼差しはどこか退屈げでもあった。

 

「……面白くなってきたじゃないか」

 

 長い沈黙を破ったのはゼーリエだった。その声は、年齢を感じさせぬ軽やかさと、不穏な遊戯心を含んでいた。

 

「ゼーリエ様……今回の件を面白いと?」

 

 隣に控えるレルネンが眉をひそめて問う。銀白の髪を背に流した老魔法使い。ゼーリエの直弟子にして、大陸初の一級魔法使いである彼の声音には、抑えきれない緊張が滲んでいた。

 

「ああ、不可解で原因不明の現象ばかりだ。だからこそ解明のしがいがある」

 

 ゼーリエは楽しげに笑ったが、その目は鋭く、まるで闇の奥を見通すように細められていた。ゼンゼが静かに歩み出る。足元まで届く灰茶色の長髪を揺らし、無表情のまま報告書を一冊、机に置く。

 

「北側諸国の各地に派遣していた魔法使いからの報告がある。現地では異常な装束の集団が目撃されていて、強力な魔力反応とともに、複数の村が襲撃を受けている」

 

 レルネンが眉をひそめた。

 

「装束?」

 

「異質な銀の装甲に身を包み、額に赤い宝石を埋めた者も確認されている。異様に鋭い剣と、常軌を逸した戦闘力を備え、《防御魔法》を容易く斬り裂いたとの報告もある。まるで、魔力そのものを断ち切るかのように」

 

 ゼンゼは報告書を繰りながら、淡々と続けた。

 

「……加えて、北部の山岳地帯で、魔族とその銀装の集団が交戦していたとの目撃もある。遠目の観察に過ぎないが、術を展開する前に魔族が斬られたと」

 

 その言葉に、レルネンの表情が一瞬で引き締まる。

 

「魔族と敵対する第三の勢力……?」

 

 低く絞り出すような声だった。彼はすぐに卓上の地図に手を伸ばし、報告にある地域を指先で押さえた。

 

「この一帯は本来、魔族の勢力圏から遠い。にもかかわらず交戦が発生したのは、魔族の側から仕掛けたのではなく、あくまで遭遇戦だった可能性が高い。つまり……その第三の勢力が、既に地域一帯の生態圏を撹乱し始めているということになります」

 

 レルネンの声には、歴戦の魔法使いならではの重みがあった。だが、その口調の奥に、ごく僅かな苛立ちも混じっていた。全貌を掴めない苛立ち──それが、魔法という理によって世界を把握してきた者としての限界を突きつけられているという現実の証でもあった。

 

 ゼーリエはその様子を横目で見ながら、薄く口元を歪める。

 

「怖じ気づいたかい? レルネン」

 

「……いいえ。ただ、脅威を脅威として認識しないほうがよほど愚かだと思ったまでです」

 

 レルネンは静かに言い返す。その視線は、すでに幾つもの仮説と布陣を思考の内に組み立てていた。

 

 ゼンゼは間を置かず、端的に言葉を継いだ。

 

「この交戦は、魔族側にとっても想定外だったと考えるのが妥当。周辺で確認された魔力の残滓には、魔族特有の術式構造が混在していたが、地形の傷跡から、逃げながら防いでいた痕があり、反撃に回る余裕はなかったと推測される」

 

「つまり、魔族のほうが後手に回っていた……」

 

 レルネンが低く唸った。ゼンゼは静かにうなずく。

 

「魔族との遭遇時点で、すでに攻撃が始まっていた。逃走も許さず、戦場は短時間で制圧されている」

 

「行動に無駄がない……最初から殺すために来たとしか思えません」

 

 レルネンの声が重く落ちる。一方、ゼーリエは椅子に身を預けたまま、ふっと鼻で笑った。

 

「魔族が獲物にされる日が来るとはね……」

 

 その声音には、皮肉とも、知的好奇心ともつかぬ色が混じっていた。

 

「それだけじゃない」

 

 ゼンゼは言葉を継ぐ。声音は淡々としていたが、その内容は重い。

 

「聖職者たちの間で、啓示の報告が急増している。細かい差異はあれど、夢の中に現れる存在が語る内容は、ほぼ一致していた。『異界の門が開かれる』『星の記憶が地に落ちる』『秩序の外から、古き意志が訪れる』──そう、報告されている」

 

 ゼーリエは椅子にもたれたまま目を閉じた。

 

(敵は外より訪れる存在……そしてそれを招き入れた誰かが内にいる……)

 

 そう結論付けるには材料が足りない。けれど、直感が警鐘を鳴らしている。

 

「啓示の言葉は……真意を掴むには抽象的すぎるな。解釈次第でどうにでも転ぶ」

 

「夢の解釈はともかく、魔力の動きに通常とは異なる異質な揺らぎが含まれているのは確かです」

 

 ゼンゼが淡々と補足する。ゼーリエは目を開き、天井を見上げる。

 

「余所者が組織的に動いてるな。明らかに、戦の仕込みだよ。……いいね、世界が騒がしくなってきた」

 

 沈黙が落ちた。レルネンが一歩前に出る。

 

「各地に散る魔法使いたちには通達を。警戒結界と感知術の展開を要請します。使い魔は広域巡回と伝令任務に振り分け、異常があれば即座に知らせるよう……それが今、できる最善です」

 

 レルネンの声は冷静だったが、その背には張り詰めた空気が漂っていた。長年、協会の防衛戦略を担ってきた男の判断に迷いはない。

 

「構わない。好きにやれ。ただし、一級魔法使い選抜試験は予定通り実施する」

 

 ゼーリエは椅子にもたれかかったまま、飄々とした口調で告げた。

 

「……この状況で、ですか?」

 

 思わずレルネンが顔を上げた。隣に座るゼンゼも、わずかに視線を動かす。

 

「だからこそだ。混乱の中でこそ、本当の資質が見える」

 

 ゼーリエは目を細める。かすかに口元に笑みが浮かぶのは、情勢の緊迫を楽しんでいるかのようでもあった。

 

「世界が静かで安全な時にだけ試験をやるのなら、意味がない。私は、世界の裂け目に立っても魔法を貫ける者が欲しい」

 

 言葉の軽さに反して、その眼差しには揺るがぬ確信が宿っていた。レルネンは静かに息を吐き、うなずいた。

 

「……承知しました。現場の警備に関する指揮は私が取ります」

 

「よろしく、レルネン」

 

 ゼーリエは軽く片手を上げたあと、長いまつげを伏せるように瞼を閉じた。そして、視線をゼンゼへと移す。

 

「ゼンゼ、今度こそ合格者を出してくれよ。前回もその前も、そのまた前も、誰も通らなかったじゃないか」

 

 声音は冗談めいていたが、軽口の温度はゼンゼに届いていないようだ。彼女は少しも表情を変えず、淡々と答える。

 

「申し訳ありません。ですが、試験内容はゼーリエ様が提示した合格基準に則ったものです」

 

「ほう、合格者が出ないのは私のせいだと言いたいのかい?」

 

 ゼーリエは場を和ませるつもりでさらに軽口を重ねたのだろうが、ゼンゼは唇を結んだまま視線を動かさない。返答は落ちない。

 

「……」

 

「だんまりか……別に責めてないさ。冗談だ」

 

 ゼーリエはため息混じりに肩をすくめたが、その目に浮かんだ色はどこか嬉しそうだった。彼女は小さく笑っていたが、その目の奥では、既に次の一手を思案している。

 

(異界の門。星の記憶。どれも未知の響きだ……)

 

 それは彼女が、かつて知を追い求めていた時代を思い出させた。

 

(本当に来たのなら、歓迎しよう。全て解き明かしてみせる)

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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