薄闇の坑道から朝日の差す外へ出ると、冷えた風がフリーレンたち三人の髪を後ろへ流した。坑内にこもっていた土と湿気の匂いが薄れ、朝日を受けた頬や手に少しずつ熱が戻っていく。
坑道の入口近くで、シュタルクは深く息を吸った。肩の力を抜き、疲れのにじむ顔でぼやく。
「結局、あれだけだったのか……? 他にも仲間がいたりするんじゃないのか?」
その問いに、フリーレンは坑道口へ振り返り、岩肌から地面まで視線を巡らせて答える。
「念のため調べたけど、特に痕跡は見当たらなかったよ。位相アンカーは置かれて間もない様子だったし、本格的な運用はまだ始まっていなかったのかもしれないね」
フリーレンの見立てを聞き、フェルンは顎を引く。ただ、坑道口からはまだ目を離さない。
「もしくは、別の目的があったのかもしれません。……ひとまず、村に戻って報告しましょう」
フリーレンが村の方角へ足を向け、三人は坑道を後にした。鳥の声が増え、朝日が山の斜面を下る中、何事もなく村へ戻る。畑では村人たちが早くから土を耕し、家々の煙突から朝食の煙が上がっていた。つい先ほどまで異界由来の危険が村のすぐ近くに迫っていた痕跡は、普段どおりの営みの中には見当たらない。
村長の家の前で三人の報告を聞いた老人は、顔から血の気を引かせ、大きく息を吐く。
「そうですか……あの坑道に、そんな得体の知れない物が。最近、妙なことが続いていたので依頼しましたが、早めにお願いして本当に良かった」
村長は三人が戻ってきた道へ一度目をやった。フリーレンは老人と目を合わせ、言葉を返す。
「多分、設置されてからあまり時間が経っていなかったんだと思う。だから、手が付けられなくなる前に壊せたはずだよ。……ただ、何を狙っていたのかまでは分からないけど」
村長は深々と頭を下げ、その姿勢のまま礼を述べる。顔を上げても、血の気はまだ戻っていなかった。
「本当に、ありがとうございました。ただ……今後も何かおかしなことが起きた時には、またご相談させていただいてもよろしいでしょうか?」
フリーレンは下げられた頭を見て、返事までに一拍置く。
「私たちはこのあとオイサーストに戻るから、次に何かあってもすぐには来られないと思う。代わりに、大陸魔法協会に今回の件を伝えて、調査する人を送ってもらえるか頼んでおくよ」
その説明に、村長は固めていた肩を落とし、何度も頭を下げる。
「それは、心強い……。どうか、よろしくお願いいたします」
そう言ってから、村長は懐から小さな袋を取り出し、袋の口を両手で支えて差し出した。
「こちらは約束していた報酬です。ささやかではありますが、お受け取りください。本当に助かりました」
フリーレンは素直に受け取り、小さく会釈する。
「ありがとう。大事に使わせてもらうよ」
やり取りが一段落すると、村長はもう一度深く頭を下げた。三人はそれを見届け、軽く手を上げて別れの挨拶を返すと、オイサースト行きの馬車を手配するため村の外れへ向かった。
やがて、街道を進む馬車の荷台で、三人は揺れに身体を預けていた。周囲には緩やかな丘が続き、空には薄い雲が流れている。荷台に腰を下ろしたシュタルクは、坑道から回収した位相アンカーの部品を膝の上で何度も裏返していた。掌ほどの、緩く弓なりに曲がった金属片で、浅い溝には脈動を失った肉質の組織が細く残っている。車輪が轍を越すたび、欠けた端が掌へ引っかかった。
「しかし、よく分からない部品だな。見れば見るほど、なんだか気味が悪い」
フリーレンはそのつぶやきに視線だけを向けて答える。
「タヴが言ってた多元宇宙側の技術だからね。私たちの世界で使われている魔道具とは考え方がかなり違うんだと思う」
馬車が深い轍を越え、部品がシュタルクの掌で跳ねる。彼は落としかけたそれを掴み直した。
「多元宇宙の技術ね……。タヴが前に色々話してくれたけど、正直、半分もついていけなかったんだよな……」
その様子に、フェルンの口元がほんの少しゆるんだ。
「シュタルク様には、少し難しい内容だったかもしれませんね」
シュタルクは荷台の外を流れていく丘へ顔を向ける。
「はいはい、どうせ俺は馬鹿ですよ……」
フェルンの返事は、次の車輪の軋みに重なるほど早かった。
「いえ、そういう意味ではなくて……。魔法の基礎知識がないと、あの説明は理解しづらいと思います。本当に」
フリーレンは二人を順に見た。
「じゃあ、今ここで、もう少し簡単に話そうか」
シュタルクは膝の上の部品を持ち上げ、フリーレンへ向けて首を傾げた。
「頼む。結局、何がどうなってるんだ?」
「うん。できるだけ簡単に言うとね──」
馬車が石の少ない平地へ出て、車輪の音が少し遠のく。フリーレンは語句を選びながら説明を続けた。
「もともと、多元宇宙側でも世界同士を行き来できるのは、ごく限られた人たちだけだったんだよ。本当に強い魔法使いや、特別な加護を持った存在とかね。ギスヤンキやマインド・フレイヤーも、その限られた側にいたけど」
「じゃあ、あいつらは前から次元を渡れたのか」
シュタルクが黙って先を待つと、フリーレンは話を続ける。
「そう。変わったのは、次元を越えられる者の数だよ。きっかけははっきりしていないけど、多くの世界の境目が緩んで、前よりもずっと次元を越えやすくなったらしいんだ。その結果、色んな世界の間で技術や知識のやり取りが急に増えた」
「なるほどな……。それが、タヴが言ってた『技術革命』の始まりってやつか」
今度はフェルンが説明を引き取った。
「はい。今向こう側では、まさに『黎明期』と呼ばれる時代になっているそうです。次元を移動する手段が広まり、世界ごとに違う技術や魔法が一気に混ざり合い始めている、と」
「じゃあ、ギスヤンキとかマインド・フレイヤーも、その変化を利用して勢力を広げたのか?」
「うん。次元を渡れるようになったのはもっと前だけど、世界の境目が緩んで技術や知識が行き来しやすくなってから、以前より強くなっているらしいよ」
フリーレンの答えを、フェルンが引き継ぐ。
「私たちの世界は今も閉ざされたままですが、彼らは取り込んだ技術を使って位相アンカーのような装置を作り、外から通り道を固定しました。そうやって侵略できる世界を増やしたのでしょう」
シュタルクは眉を寄せる。
「前から次元を渡ってた連中が、今度は入れなかった世界にまで手を伸ばせるようになったってことか。……そりゃ、勢力も広がるよな。でも、いろんな世界が一気に動き始めて、本当に大丈夫なのか?」
問いかけに、フリーレンは首を横に振る。
「全部の世界が上手くついていけているわけじゃないみたいだよ。新しい流れに乗れた世界と、置いていかれている世界の差が、どんどん広がっているそうだ」
フェルンも補うように説明を重ねる。
「高度な艦艇で空を自在に飛び回れる世界もあれば、魔法や技術が昔のままほとんど変わっていない世界もあると聞きました。世界同士の間で、進み具合の差が大きくなっている状態ですね」
シュタルクは唸るような声を漏らした。
「それは……あまり穏やかな話じゃないよな」
フリーレンはシュタルクの横顔を見たまま、説明を続ける。
「そのまま放っておけば、力を持つ世界が他を支配しようとしたり、反対に、追い詰められた世界が暴発したりするかもしれない。だから、その流れをある程度管理して、衝突を減らすために作られたのが、多元安定機構だよ」
聞き覚えのある名に、シュタルクの表情が変わる。
「多元安定機構……ええと、何だっけ、それ?」
フェルンは荷台の横木へ片手をかけ、揺れに耐えながら答える。
「もう……。シュタルク様、本当に忘れてしまっているんですね。多元宇宙の世界同士が、勝手にぶつかり合ったり暴走したりしないように、全体の秩序を守るための組織ですよ。タヴ様が所属しているところです」
「ああ、そうだ。それだ、それ。何となく聞いた気はしてたんだけどな……」
「ああ」と言うわりに、シュタルクの眉間にはまだ皺が残っている。
「正直、多元宇宙がどうこうの話はややこしすぎてよく分からねえ……」
フェルンはその顔を見て、言葉を継ぐ。
「確かに、実際に見たことのない世界の話は想像しづらいですよね。でも、今の状況を考えると、私たちも無関係ではいられません」
丘の向こうへ傾いた陽が、荷台の床を長く横切る。フリーレンはその光を眺めながら言う。
「分からないことだらけなのは確かだけどね。とはいえ、これから多元安定機構や異界と関わる機会は増えるだろうし、少しずつ慣れていけばいいよ」
そこで会話はいったん途切れ、荷台の中には車輪の軋む音と馬の蹄の音だけが響く。西の空が徐々に赤く染まり、丘陵の影が長く伸び始めた頃、馬車は丘の中腹に建つ小さな建物の前で止まった。
「さて、今日はここで一泊するよ」
フリーレンが外を見て告げると、シュタルクも身を乗り出して周囲を確認した。そこは馬の交換所を兼ねた、街道沿いの宿だった。
係員が馬車から馬具を外し、疲れた馬を厩へ引いていく。代わりの馬が出されると、外した馬具を掛け直し、革帯を順に締めていった。蹄鉄と車軸を確かめる音が、建物の壁へ短く響く。
係員への挨拶を済ませ、一行は建物へ入った。小さな食堂兼休憩所は素朴な造りで、暖炉の火が部屋全体を温め、柔らかな明かりが木の机と椅子を照らしている。フリーレンたちは軽めの夕食を頼み、席に腰を落ち着けた。
やがて夕食が運ばれ、三人はしばらく食事を進めた。暖炉の薪が二度はぜたところで、シュタルクは昼から考えていたことを口にした。
「考えてみたんだけどさ。もし、強い魔法を誰でも道具で簡単に使えるようになったら、魔法使いっていらなくなっちまうのか?」
フェルンは少し考えてから答えた。
「魔法使いがいらなくなることはないと思います。魔法の道具を作るのも維持するのも、新しい道具を開発するのも、結局は高度な魔法の知識が必要になりますから。むしろ今より多く必要になるかもしれません」
「そういうものか……?」
フリーレンがフェルンの答えを引き取った。
「ただ、魔法使いの役割は今までとは少し変わるだろうね。魔法が使えるだけじゃなくて、道具を設計したり、大勢が安全に使えるように仕組みを整えたりすることが求められるようになるはずだよ」
「つまり、これまでとは違う種類の腕前がいるってことか」
シュタルクが言い終えるのを待ち、フェルンが説明を継いだ。
「はい。多元宇宙の向こう側では、その変化がすでに始まっていて、魔法や戦闘技術を体系的に教える場や、安全に実戦訓練ができる施設を作っているそうです」
薪が一本、炉の奥へ崩れた。シュタルクは空になった皿を前に、しばらく火を見ていた。
「そういえば、そんな話もしてたな……。途中で寝ちゃってて、ほとんど覚えてないけど」
シュタルクは残していたパンへ手を伸ばす。フェルンは自分の器を片づけながら返した。
「そうですね。あの時のシュタルク様は、途中から見事に熟睡されていましたから。覚えていないのも当然です」
フリーレンも言葉を添える。
「向こうでは、戦場に出なくても実戦に近い訓練ができる施設が用意されているらしいよ。だから、命を落とす危険を減らしながら、かなりの実力まで伸ばせるようになったって」
フェルンも一息置き、さらに具体的な話を重ねる。
「それに、一部の人たちは特殊な方法で寿命を延ばしたり、時間の流れを調整したりして、長い修行期間を確保しているそうです。フリーレン様ほどではありませんが、百年単位で学び続ける人もいるとか」
シュタルクは目を丸くし、思わず声を上げた。
「百年も修行するのか……。俺だったら途中で投げ出しそうだな」
フリーレンは答えた。
「長く生きれば誰でも飽きる、ってわけでもないけどね。ただ、全員が同じように時間を使えるわけじゃないだろうし、人によっては無理だろうね」
薪の端が赤く崩れるのを眺めながら、フリーレンはもう一つ言葉を足す。
「結局のところ、どれだけ便利な技術や魔法があっても、それ自体が悪いわけじゃない。問題になるかどうかは、使う側の考え方しだいだよ」
シュタルクはゆっくりとうなずいた。
「確かに。どんな力でも、扱いを間違えたらろくなことにならないもんな」
やがて三人の会話は途切れ、食堂兼休憩所には暖炉の薪がはぜる音だけが残った。しばらくして、シュタルクは荷物を肩へ掛け、三人は明け方の出発に備えてそれぞれ割り当てられた部屋へ向かう。足音が廊下へ消え、最後の扉が閉じると、短い休息の夜が始まった。
*
アストラルの虚空に、浮遊要塞都市トゥナラスが影を落としている。外郭から伸びる尖塔は先端を同じ方角へ揃え、中央の司令室を囲んでいた。その室内ではギスヤンキの指揮官たちが戦略テーブルを囲み、投影された戦線図から目を離さない。
戦略テーブルから立ち昇る半透明の像は、多元宇宙の各次元で拡大するデーモン侵攻を次々と映す。その周囲には、剣の柄へ片手を置いたギシュたちが立っていた。武器による戦闘と高位の魔法を併用する彼らは、ギスヤンキ軍の前線指揮を任される戦士である。
ギシュの中でも特に歴戦の猛者として知られる司令官が、戦略テーブルへ両掌をつく。ホログラムの赤い光が頬を照らす中、腹に響く声で状況を告げる。
「これは明らかにレッド・ウィザーズの策略である。我々ギスヤンキ帝国の前線基地や植民地がデーモン共に侵略され、我が軍にも被害が出ている。このまま放置すれば、原始世界への我々の偉大なる侵攻作戦にも重大な影響が生じる」
司令官の言葉を受け、若いギスヤンキの騎士が胸へ拳を当てて敬礼する。周囲のギシュが動かないのを確かめ、一歩進んで問いを投げかける。
「司令官殿、情報によれば多元安定機構も既に動きを見せています。彼らはレッド・ウィザーズと敵対しているようですが、一時的にでも我々の敵同士を相打ちさせる戦略を取ることはできないでしょうか?」
司令官は騎士を見つめたまま目を細め、顎を一度引く。
「その可能性は十分に検討に値する。多元安定機構は我らが長年にわたり対峙してきた厄介な存在だが、目下の最優先事項はレッド・ウィザーズとそれが引き起こすデーモン禍だ。利用できる状況ならば利用し、限定的にでも共同戦線を張り、レッド・ウィザーズを粉砕せねばならぬ」
その時、沈黙を守っていたサイオニック使いが進み出る。司令官の返答が途切れた間を選び、意見を挟んだ。
「しかし、司令官殿、我々が原始世界に向けての侵攻作戦を遂行するためにも、防衛力の維持は必要不可欠です。早急に各植民地の役割を再定義し、防衛体制を盤石なものとすべきでしょう」
司令官は短く頷き、最終的な命令を下す。
「よかろう。全浮遊要塞群は即座に『座標固定化フィールド』を外郭に展開し、デーモンの侵入裂け目を一点に集中させ、敵勢力を効率的に殲滅する。また、地表の前哨基地については、デーモン召喚陣が確認された次元へと迅速に移設を進め、『植民地ごと防壁』として機能させよ。艦載型位相アンカーは即時に撤去し、デーモンに対する自爆トラップを設置することで後追いの侵攻を防げ」
指示を受け取った騎士やサイオニック使いたちは胸へ拳を当て、戦略テーブルの各方角へ散っていく。
トゥナラス要塞の発進デッキには、小型のアストラル・スキフが次々と滑り込む。各艇では三人の乗員が持ち場に就き、同乗する斥候たちも空いた席に着いていく。発進デッキを預かるギスヤンキの騎士は、艇上の全員まで届く声で最後の命令を伝える。
「デーモンどもの侵入口を即刻特定せよ。同時に多元安定機構の動きも緊密に監視するのだ。接触することがあれば、敵対行動は避け、一時的な共闘関係を検討せよ。最優先事項はレッド・ウィザーズの駆逐であり、原始世界への我々の侵攻計画に支障を出すことは許されぬ。よいな!」
斥候たちは直ちに胸に拳を強く当て、忠誠を示す。
「任務了解!」
一糸乱れぬ声が響く中、先頭のアストラル・スキフが発進デッキを離れ、銀の虚空へ船首を出した。斥候たちを乗せた後続も、同じ間隔で滑り出す。発進デッキの外で列を解いた各艇は、それぞれ別の次元座標へ船首を振った。
最後の一隻が要塞の外郭を離れても、司令室の戦略テーブルでは新しい座標が点灯し続ける。伝令役の騎士が一つずつ読み上げ、別の隊員が出撃済みの艦へ追補命令を送った。
一方、オリンドールの地下最深部では、天井の見えない石室にマインド・フレイヤーたちが等間隔で並ぶ。肉声を発する者はいない。中央に浮かぶエルダー・ブレインが収縮するたび、精神波が輪の外まで走り、すべての個体の意識を一つへ束ねている。
この場では、すべての意思決定と討議が《サイオニック》の波動を介して行われる。エルダー・ブレインが思考を送るたび、並ぶ個体の触手が同じ間隔で強張った。
【多元宇宙各地においてデーモンどもの侵攻が深刻化している。この無秩序はレッド・ウィザーズの陰謀によるものだ。彼らの企みは我らの統合意識を脅かすものであり、看過は許されぬ。また、多元安定機構も積極的に介入を始めている】
思念が石室の全員へ同じ像を送り込み、マインド・フレイヤーたちの瞳に赤い戦線図が映る。ウリサリッドはその像へ別の進路を重ねた。
【多元安定機構はレッド・ウィザーズと敵対している。我々は彼らを戦略的に利用し、この混乱を早期に収束させることができるだろう】
別のマインド・フレイヤーが、接触経路を黒く塗り潰す像を返した。
【しかしながら、多元安定機構との接触が我々の原始世界への侵攻作戦に影響を及ぼす恐れがある。我々の資源、コロニー、全ての行動を迅速に再評価する必要がある】
エルダー・ブレインが一度大きく収縮し、《サイオニック》の波動で二つの像を押し流して命令を返す。
【同意する。我々の秩序は絶対であり、何者もそれを侵してはならぬ。標準コロニーは即座に自己防衛のための精神障壁を展開し、汚染領域を隔離せよ。また、周辺の高知能種族がデーモンに飲み込まれる前に迅速に捕獲し、我々の集合意識へ同化させよ】
周囲のマインド・フレイヤーたちの瞳が一斉に光を強める。エルダー・ブレインは途切れず、次の命令を送り込んだ。
【移動型次元都市はデーモンが放つ混沌のエネルギーを静かに採取せよ。その無秩序を我々が新たなサイオニック兵器の開発に利用するのだ。また、捨てコロニーにおいては防衛を放棄し、あえてデーモンを惹きつけよ。彼らを誘引して消耗させることが我々の真の防衛策となる】
命令の波動が石室の端へ届く。並んでいた個体は同じ向きへ身体を返し、調査部隊の編成に移った。
オリンドール地下都市の巨大な発着場では、大型のノーチロイドより小型のイリシッド・ランスが、船首を出口へ向けて間隔を空けて並んでいる。調査に向かう個体たちは艇ごとに分かれて乗り込み、座席へ身体を収めた。指揮を執るウリサリッドは、部隊全員に強力な意識の波動を送る。
【デーモンどもの侵入経路を迅速かつ正確に特定せよ。また、多元安定機構と接触した際は敵対を避け、彼らの力を限定的にでも利用することを許可する。レッド・ウィザーズの企みを阻止し、我々の原始世界への介入作戦を速やかに進めるのだ。我々の秩序は何者にも侵されてはならない】
調査部隊員たちは、同じ応答を一つの思念に重ねる。
【指示を受諾する。我々の秩序を脅かすレッド・ウィザーズとデーモンの脅威を即刻排除し、原始世界への作戦を迅速に遂行する】
先頭のイリシッド・ランスが発着場を離れ、正面の出口へ滑り込む。後続も間隔を保ち、同じ航路へ一隻ずつ入り始めた。どの艇でも、乗員たちは座席から身じろぎせず、エルダー・ブレインが送る戦線図を共有したまま、宇宙の深部へ目を向けている。
先頭艇の尾部が出口の闇へ消えても、エルダー・ブレインの精神波は石室の壁を一定の間隔で震わせていた。次の艦へ向けた編成命令が、残った個体へ途切れず流れていく。
トゥナラスの戦略テーブルでは、侵攻座標の一つへ青い駒が進み始める。同じ頃、オリンドールの統合意識にも、同じ赤い領域へ向かう黒い航路が刻まれていた。どちらの戦線図にも、まだ相手の駒は映っていなかった。
*
冷たい風が雪片を巻き上げ、セリア・イグナリアの頬の銀鱗と重装鎧へ横殴りに叩きつける。左前腕の大盾には骨の欠片が食い込み、右手のウォーハンマーから黒い血が滴っていた。極寒の辺境次元に築かれた前哨基地は、外壁の先までアンデッドに囲まれている。背後にあるのは基地から民を逃がす一本の退避路。踏み荒らされた氷原の各所で、騎士団の盾列がそこへ押し寄せる黒い群れを食い止めていた。
胸甲に刻まれたティアの天秤は、閉ざされた次元の秩序と平和を取り戻せという召命の熱を宿したままだ。本来なら、すぐにでもその世界へ向かわねばならない。だが、骨と腐肉の波は盾の向こうにいる命を今まさに呑もうとしている。セリアが牙を噛み合わせるたび、冷気とは違う熱が喉元までせり上がった。
スケルトンの骨がきしみ、ゾンビの足が雪を黒く踏み固める。群れの間ではシアリックの司祭たちが狂気の笑いを重ね、呪詛で屍の歩調を揃えていた。その笑いを割って、さらに奥から漆黒の鎧が進み出る。
蒼白い刃を提げたデス・ナイトだった。生前の残虐な行いによって不死の呪いを受けた亡霊騎士を、レッド・ウィザーズが再び目覚めさせ、服従の下で戦場へ放っている。一歩ごとに死の瘴気が雪面を這い、前を歩くアンデッドさえ左右へ退いた。
「シアリックの司祭どもめ! 罪もなき命を弄び、穢れを撒き散らした罪、その身で贖わせてやる!」
セリアは敵軍から目を外さず、大盾の縁越しに声を張る。
「ガントレット騎士団よ、戦列を組め! 我らが退けば、この地に生きる民に明日はない! 何としても防ぎ止めるのだ!」
正義と秩序を掲げるガントレット騎士団が、多元安定機構の要請を受けて退避路の前へ戦列を作る。前列は鋼鉄の盾の縁を重ね、後列はその隙間へ剣先を差し込んだ。凍土へ踏み込んだ靴が半ばまで雪に沈む。迫るスケルトンの指が盾を掻き、骨の先端が金属を擦る音が列の端から端まで走った。
「我らガントレット騎士団は秩序の守護者だ! 一歩たりとも退くな!」
騎士団長の号令で、重なった盾が一斉に前へ出る。骨と腐肉の波が押し返し、後列の剣がその隙間を縫って突き出された。盾列の背後では、騎士団付きのクレリックが《Bless(祝福)》を唱えている。白い光が端まで走ると、雪を滑りかけた靴底が止まり、押し戻されかけた剣先がさらに深く屍へ入った。
その白光を、最前線の少し後ろからシアリックの司祭たちが嘲笑う。筆頭の司祭は両手を高く掲げ、見開いた目を盾列へ据えた。
「狂気こそが真理! 偽りの秩序を壊し、この世界を闇に飲み込め!」
黒紫色の《Guiding Bolt(導きの矢)》が、叫びを尾に引いて盾列を越えた。騎士の胸で光が弾ける。胸甲の継ぎ目から黒い霜が走り、男の片膝が凍土へ落ちた。
「怯むな! 立ち上がれ、我らの正義は揺るがない!」
叱咤が飛ぶより早く、両脇の騎士は盾を寄せて穴を塞いでいた。その陰へ別の二人が滑り込み、倒れた仲間の腕を肩へ回してクレリックのもとへ引く。空いた一角を狙って骨の腕と司祭の呪詛が殺到する。前列は《Sacred Weapon(武器聖別)》を宿す剣を盾の縁から突き出し、光る切っ先でスケルトンの胸骨を砕いた。返す横薙ぎがゾンビの膝を払い、腐肉の身体を後続へ倒れ込ませる。
列の中央では、セリアが大盾を振り抜き、束になって伸びた骨の腕をまとめて払った。ウォーハンマーがその奥の頭蓋を砕く。足元へ骨が重なっても、一歩も場所を譲らない。視線だけは、屍の隙間を進む漆黒の騎士へ据えられている。
セリアはウォーハンマーの柄頭を胸甲の天秤へ当てた。大盾の向こうでアンデッドが爪を立てる。鋼を引っ掻く音の中、神への誓いを改めて口にした。
「ティアよ、私は誓う。悪に与える慈悲はない。復讐をもって悪を裁き、この世から根絶やしにするまで私は決して止まらない」
最後の言葉が落ちると、セリアの背から《Avenging Angel(応報の天使)》の白銀の翼が開いた。《復讐の誓い》を極めた力は、重装鎧も大盾もろとも彼女を宙へ引き上げる。ひと打ちした翼から《Aura of Menace(威圧のオーラ)》が氷原を押し渡り、スケルトンとゾンビは武器を上げた姿勢で震え、前のめりに崩れていった。
「許しがたい穢れよ、この世から消え失せろ!」
開いた間隙へ、セリアが翼を畳んで落ちる。ウォーハンマーに《Divine Smite(神聖なる一撃)》の白光が集まり、振り下ろす軌道を太く焼いた。
デス・ナイトは半歩だけ退き、黒剣を頭上へ差し入れる。金属が噛み合う。だが落下の重みまでは殺せない。ウォーハンマーは剣の腹を滑り、黒鎧の右肩へ食い込んだ。命中した一点から白光が鎧の内側へ炸裂し、漆黒の巨体の片膝を凍土へ沈める。閃光の周りでは、群がっていたアンデッドが腕で眼窩を覆い、足を止めた。
へこんだ黒鎧は砕けない。デス・ナイトは沈んだ足を引き抜くと、黒剣を捻ってウォーハンマーを肩から外し、セリアの大盾へ刃を押しつけた。眼窩の青い火が、彼女ではなく、その背後の盾列へ向く。
「正義を語るドラゴンボーンのパラディンよ、その信念もろとも闇の底に沈めてくれる!」
黒剣の切っ先に呪われた火が凝り、《Hellfire Orb(地獄の業火の球)》となって射出された。漆黒の球はセリアの脇を抜け、守りの薄くなった盾列の中央へ迫る。
「守護陣を張れ! 我らの信念は地獄の炎などに焼かれはしない!」
騎士団長が号令を飛ばす。セリアも翼を打ち、デス・ナイトと盾列の間を斜めに切り戻った。低空でウォーハンマーを掲げると、《Aura of Protection(防護のオーラ)》の白光が波となり、前列から後列へ胸甲を伝う。地獄の炎を前に止まりかけた呼吸が戻り、熱で緩んだ盾の握りが締まり直した。
前列は盾を肩へ押し当て、後列はその背を支える。セリアの加護は炎を遮る壁ではない。一人ひとりの胸甲の下で脈打ち、呑み込まれた意識をつなぎ止める力だ。
漆黒の業火が盾列へ激突した。熱と死の冷気が同時に縁を越え、鎧の内側まで噛みつく。盾は赤熱し、数人が膝をついた。後列が焼けた者を引く。空いた場所へ、その隣の盾が滑り込む。爆風で舞い上がった雪が黒い蒸気へ変わっても、列の中央に退避路は開かなかった。
「その程度の呪われた炎で、私たちを阻めると思ったか?」
火勢が落ちるのを待たず、セリアは煙を翼で裂いて反転した。大盾を前へ、ウォーハンマーを後ろへ引き、黒き騎士との距離を一息で奪う。ハンマーの頭部へ《Banishing Smite(放逐の一撃)》の白い輪が幾重にも重なった。振り下ろす角度へ輪が狭まり、その奥で色のない裂け目が細く開く。
「この一撃で消し飛べ、亡者よ!」
ハンマーが落ちる寸前、デス・ナイトの黒剣が跳ね上がった。《Parry(受け流し)》が白い輪の中心を横から打ち、軌道を肩口の外へ弾く。衝突が空気を潰した。粉雪と瓦礫が円を描いて吹き飛び、近くのアンデッドまで凍土を転がる。
デス・ナイトも膝を折りかけている。眼窩の火が揺れ、黒剣の切っ先が沈んだ。それでも低い笑いを漏らし、刃を返す。
「甘いな、聖騎士よ」
黒剣へ《Dread Blade(戦慄の刃)》の瘴気が這い、触れた空気から色が抜けた。セリアは大盾を立てる。刃は盾の上縁を滑って脇腹へ潜り、重装鎧の継ぎ目をかすめた。内側の銀鱗に死の冷気が刺さり、翼の均衡がわずかに傾く。
デス・ナイトがそこへ踏み込む。セリアは傾いた勢いを殺さず旋回し、大盾で黒剣を外へ押し流した。返したウォーハンマーが鎧を打ち、黒剣がその柄を受ける。白と黒の火花が二人の足元へ降り注いだ。
その下では、アンデッドの波がなお盾列へ圧し掛かっている。騎士たちは欠けた剣を隣と差し替え、後方のクレリックは飛び込む呪詛を祈りで弾いた。頭上で黒剣がセリアを引きつければ、地上では司祭が屍を盾の一点へ集める。だが、セリアがデス・ナイトを一打ずつ押し返すにつれ、屍の踏み込みも乱れ、盾列へ集まっていた圧力がほどけていく。
黒剣とウォーハンマーが、もう一度噛み合った。デス・ナイトの踏み込みは浅い。受け流す肩も、先ほどより下がっている。セリアは大盾で刃を押さえ、翼を一度だけ強く打つと、間合いの外へ舞い上がった。ウォーハンマーに《Divine Smite(神聖なる一撃)》の白光が満ちる。
「ティアの裁きを受けよ!」
落下するセリアへ、デス・ナイトは黒剣を差し入れた。だが、幾度もウォーハンマーを受けた刃が先に折れる。白光をまとった鉄塊は折れ残った刃を押し潰し、そのまま漆黒の胸甲まで打ち抜いた。
聖なる光が黒鎧の継ぎ目という継ぎ目から噴き上がる。デス・ナイトは叫びを上げる間もなく、内側から輪郭を焼かれた。指が灰となり、肩が光へ崩れ、最後に眼窩の火が消える。雪の上には影さえ残らなかった。
セリアは消えゆく光へ、短く言葉を落とす。
「闇の中で犯した罪は消えない……その穢れを、償いながら滅ぶがいい」
主を失った屍の列が、次の一歩で互いにぶつかった。揃っていた足並みが崩れ、前へ出たガントレット騎士団の盾に押し返される。シアリックの司祭たちは怒鳴り合いながら呪文を重ねるが、騎士団付きクレリックの祈りが黒い光を端から弾き散らした。
「何故だ! 闇の力が通じないだと?」
司祭の一人が後ずさる。騎士団長は盾でゾンビを押し倒し、そのまま鋭い声を返した。
「邪悪なる者よ! お前たちの呪われた闇は、我々の聖なる秩序の前には塵と化すのだ!」
号令を待つまでもなく、騎士団員たちの剣が一斉に閃く。屍の隙間を押し広げ、崩れた陣の奥にいるシアリックの司祭たちへ迫っていった。
セリアは盾列の前へ降りる。負傷者はクレリックのもとへ運ばれ、赤熱した盾を雪へ捨てた騎士には後列から新しい盾が渡っている。退避路へ通じる中央は、まだ誰にも踏み越えられていない。
「我々の正義は揺らがぬ! 闇を退け、この地を守り抜け!」
歓声とともに盾が鳴り、整え直された隊列が残敵へ進む。
胸甲の天秤には、閉ざされた次元へ向かえという召命がなお熱を残していた。セリアはそれを抱えたまま白銀の翼を広げ、掃討へ進む騎士団の上空へ再び舞い上がった。
*
薄闇の降り積もる街角で、イーシャ・グレイブレアは三つ数えて息を吸い、倍の長さで吐いている。
朽ちた建物の隙間から冷たい霧が流れ、小柄な身体を撫でていく。胸元のイルメイターの護符には、閉ざされた次元へ向かえという召命の熱がまだ残っていた。だが路地の奥では、アンデッドに追われる住民の足音が途切れない。幼子の口元を覆う手、転びかけた老人を支える肩。その列を空けたまま、次の世界へ向かうことはできなかった。
先の通りを、骨を軋ませるスケルトンと腐肉を垂らすゾンビが埋めている。群れの後方にはヴァンパイアの瘴気が潜み、そのすべてへシャーの聖職者たちが地下から闇を送り続けていた。
「どうやら敵の補給線は、あの廃墟の地下を通っているようですね……」
隣のハーパーのエージェントが、崩れた屋根の下を指した。自由と善を掲げる秘密結社の工作員たちは、多元安定機構の要請を受けてこの都市へ入り、いまも路地の両側を手信号だけで渡っている。一人が遮蔽物へ入れば、次の一人が進む。移動の合図に声は使わない。
「補給線を遮断し、アンデッドの供給を断つ。それがこの侵略を終わらせる鍵よ」
イーシャは囁き、イルメイターの護符を一度だけ握った。苦痛に耐える者を置き去りにしない。その誓いを護符へ預け、視線を巡回のスケルトンへ戻す。
護符から手を離し、巡回するスケルトンが角を曲がる拍へ呼吸を合わせる。崩れた柱の陰から荷車の下へ移り、瓦礫に残る古い足跡へ自分の靴底を重ねた。骨の鎧が鳴る音が遠ざかる。イーシャは扉の蝶番へ布を挟み、外周に残る仲間へ二本指を立ててから、廃墟の地下へ滑り込んだ。
地下祭壇を囲む溝では、油より濃い闇が脈打っていた。二人のシャーの聖職者が低い声で儀式を唱えるたび、その脈が壁を伝って街路の方角へ走る。上で徘徊するアンデッドの歩調を揃え、都市の抵抗を押し潰す力の流れだった。
「シスター、都市の様子はどうだ?」
祭壇の前に立つ黒衣の聖職者が、小声で問う。
「問題ないわ。シャーの闇がこの地を覆った以上、抵抗する者など現れるはずもないでしょう」
言い終える前に、その背後へ小柄な影が立った。
「その確信が、あなたたちの傲慢よ」
囁きと右手のダガーが同時に走る。刃は黒衣の襟を越えて首筋を裂き、噴いた血から不可視の嘆き──《Wails from the Grave(墓より響く嘆き)》が迸った。傍らの聖職者が胸を掴む。刃を受けた者と、身体の内側で死者の声を浴びた者は、重なるように祭壇前へ崩れた。
倒れた身体が石床を打つ。その音へ応じ、地下回廊の奥からヴァンパイアが飛び出してくる。
かつて別の次元で悪名を馳せた貴族を、レッド・ウィザーズが非道な儀式で蘇らせた支配者だった。残虐性と闇の力を見込まれ、蘇生の代償に忠誠と自由を奪われている。血の匂いを吸い込むと、石床へ爪を立てて止まり、赤い瞳を壁際から天井へ走らせた。
「……我が領域を踏み荒らす不届き者よ、姿を見せよ!」
上唇が吊り上がり、犬歯が覗く。ヴァンパイアが指を鳴らすと、闇の波動が祭壇から壁へ広がり、影という影を揺さぶった。
波は床の埃を輪状に押し退け、イーシャが身を寄せた柱へ近づく。輪郭を拾われる寸前、頭上で刃が石壁を打った。イーシャはその音へ足音を沈め、隣の崩落柱へ移る。闇の波動は今までいた場所を撫で、石屑だけを浮かせて消えた。
「姿を現さぬならば、こちらから探し出すまでだ!」
ヴァンパイアが地下室の中央へ躍り出る。両腕を広げると、その影が壁から剥がれるように膨らんだ。
「《Children of the Night(夜の子供たち)》よ、我が前に集え!」
蝙蝠の群れが影から沸き立ち、天井を黒く埋める。羽音は壁際と梁の下を幾度も往復し、呼吸で動いた空気さえ拾おうとした。イーシャは息を止め、群れの薄い箇所へ身体を滑らせる。梁と柱の重なる死角から、右手のダガーの切っ先をヴァンパイアの胸へ重ねた。
群れが頭上へ寄るたび、柱際の羽音が一拍だけ薄くなる。一度、二度。三度目に踏み出しかけた踵が、石屑の中の小石を押した。
乾いた音が柱の間へ返るより早く、ヴァンパイアの顔が向く。床を蹴る音も残さず間合いを潰し、爪を振り下ろした。
「そこか!」
爪先が首へ届く、そのわずか手前で、イーシャは《Uncanny Dodge(直感回避)》に導かれるまま半身を引いた。爪はジャケットの肩口を浅く裂く。だが、その下の肉を深く抉る前に軌道が外れた。イーシャは低い姿勢のまま二歩退き、柱を挟まず相手を正面へ捉え直す。
「……良い動きだ、ハーフリングのローグよ」
ヴァンパイアも向き直り、赤い瞳で彼女の靴先から頭までをなぞる。
「だが、その程度の技ではこの私には敵わぬ。影に潜むお前の正体を暴いてやろう」
その瞳に《Charm(魅了)》の力が集まった。視線が重なった途端、イーシャのこめかみから冷たい痺れが入り、耳の奥でヴァンパイアの声だけが大きくなる。
「イルメイターよ、この誘惑に屈しない力を……!」
視界の縁が暗く狭まっていく。イーシャは左手で胸元の護符を握り、慈悲の神の名をもう一度、声にせず唱えた。冷たい痺れが腕を伝って指先から抜ける。彼女は赤い瞳から意識を引き剥がし、半歩だけ軸をずらした。
ヴァンパイアの眉がわずかに動く。
「魅了が通じぬとは……小癪な!」
犬歯を剥き、闇をまとわせた手を持ち上げる。その一瞬にも、イーシャの左手は護符から離れ、右手のダガーを支えていた。祈りの白い光が指から刃へ移る。
「今度はこちらの番よ」
イーシャは石床へ足を据えた。《Steady Aim(狙いすまし)》が呼吸と肩の揺れを一つに止める。次の瞬間、右手から消えたダガーが蝙蝠の群れを縫い、ヴァンパイアの胸へ深々と刺さった。
命中した傷から《Wails from the Grave(墓より響く嘆き)》が溢れ、天井を旋回する群れへ突き抜ける。羽音の塊が内側から崩れた。蝙蝠が石床へ雨のように落ち、イーシャとヴァンパイアの間に細い道が開く。
「ぐっ……!」
ヴァンパイアはよろめきながらも両足を踏み止めた。心臓の位置から血が溢れてなお、赤い瞳の光は消えない。
「これしきで私が倒れるとでも思ったか!」
傷口へ押し当てた掌の下で、《Regeneration(再生)》が肉を蠢かせる。流れ出た血が逆向きに這い、裂けた縁を引き寄せた。だが、胸に残るダガーから白い光が滲む。護符からイーシャの腕を伝った祈りが、刃にまだ宿っていた。戻りかけた血は黒く乾き、傷口は開いたまま動きを止める。
「馬鹿な……再生が……できないだと……!」
ヴァンパイアが胸の刃を掴もうとする。その腕が上がる前に、イーシャは蝙蝠の途切れた道へ駆け込んだ。床すれすれまで身を沈め、左手で腰の鞘から二本目のダガーを抜く。イルメイターの白光が、今度はその刃を包んだ。
「これがイルメイターの名において、お前に下される裁きよ!」
言葉を結ぶ唇は、ほとんど動かない。イーシャは伸びてきた爪の内側へ潜り、左手のダガーを心臓へ突き立てた。聖なる力がヴァンパイアの魂を内から焼く。断末魔は声になる前に途切れ、巨体が膝をついた。指先、腕、肩の順に灰へ崩れ、赤い瞳の光が消える。床を覆っていた闇も壁際へ退き、祭壇の輪郭が戻った。
イーシャは灰へ埋もれる前に、左手のダガーを引き抜く。胸に刺さっていた一本目は乾いた音を立てて石床へ落ちた。身を屈めてそれも拾い、灰を一振りで払う。
頭上では、刃と刃の噛み合う音が途切れず続いている。外周に残したハーパーたちも、まだ戦っていた。
イーシャが地下への階段を上る間にも、路地の遮蔽物は奪い合われている。ハーパーのエージェントたちは崩れた壁から柱へ移り、シャーの聖職者たちは暗黒の魔力でその背後のアンデッドを支えながら、地下への出入口を守ろうとしていた。
「我らが女神シャーの御前に、無力な潜入者どもめ。その愚かな正義ごと、闇に葬ってやろう」
シャーの聖職者の一人が低く呟く。片側だけ上がった口元から言葉が落ちると、夜より濃い闇──《Darkness(暗闇)》が街角を呑んだ。
「しまった……!」
ハーパーの若いエージェントが呻き、踏み出しかけた足を止める。自分の手すら見えない。だが、隊長の声は即座に闇を貫いた。
「動揺するな! 焦れば相手の思う壺だ。落ち着いて行動しろ!」
隊長の靴底が石畳を二度鳴らす。エージェントたちはその場で動きを止め、同じ長さで息を吐いた。三度目の音。全員が直前に確かめた歩数だけ進み、次の遮蔽物へ身体を入れる。光を奪われた場合の距離も、互いの位置を伝える靴音も、潜入前に繰り返した手順どおりだった。若いエージェントの肩から、余計な力が抜ける。
「逃げられると思うな! 我らが女神シャーの闇から逃れられる者など存在しないのだ!」
声の方角で《Inflict Wounds(傷付与)》の詠唱が重なった。指先から手首へ黒い筋を這わせた聖職者たちが、隊長の声を頼りに一気に距離を詰める。触れさえすれば傷を流し込める手が、闇の中で指を開いた。
「伏せろ!」
エージェントたちが身を沈め、最前の手が頭上を空振りする。隊長は伸びきった腕を外側へ払い、ほかの二人も石畳を転がって間合いを外した。触れる肉を捉えられなかった暗黒の魔力は、聖職者たちの指先で脈打ち、黒い筋ごと霧散する。
闇の縁では、階段を上り切ったイーシャが崩れた外壁へ背を寄せていた。二本のダガーを一本ずつ左右に持ち、聖職者たちの声と足音を拾う。敵の意識は、隊長の号令とハーパーたちの息遣いへ向いたままだ。
「……援護するわ、待っていて」
小声はすぐ隣にいる仲間へだけ届く。イーシャは崩れた外壁から倒れた石柱へ移り、声の背後を辿った。ダガーの届く距離まで入っても、《Darkness(暗闇)》を維持する聖職者は振り返らない。
「イルメイターよ、罪なき者たちを守るために──」
右手のダガーが、再び指を離れた。闇を裂いた刃は、詠唱の聞こえた位置へ過たず届き、聖職者の喉を捉える。倒れる身体とともに集中が切れ、濃い闇が布を解くようにほどけた。路地の輪郭が戻る。傷口から溢れた《Wails from the Grave(墓より響く嘆き)》は、すぐ横に現れた別の聖職者を内側から揺さぶり、その膝を折らせた。
「な……!」
残る聖職者たちがイーシャへ振り向く。その背へ、ハーパーの隊長が鋭く声を浴びせた。
「今だ! 攻めろ!」
エージェントたちが三方の遮蔽物から飛び出す。一人が聖職者の膝裏を切り、沈んだ脇へ別のエージェントのダガーが入った。もう一人は地下への出入口側へ回り、逃げ道を塞ぐ。正面と背後のどちらを向いても、別の刃が待っていた。
「小賢しい……! 我らを侮辱するか!」
聖職者たちは歯を剥き、両腕を振り上げる。闇の魔力がその手に集まるより早く、隊長は詠唱する唇と持ち上がる指を追っていた。
「敵は冷静さを欠いている。この機を逃すな!」
黒い光が正面を薙ぐ。エージェントの一人が崩れた柱の裏へ退くと、射線に引かれた聖職者の側面へ仲間の刃が入った。別の呪文を身を沈めて避けた者は、その勢いのまま術者の足を払う。ダガーと魔法が交差するたび、聖職者たちの陣形は廃墟の壁際へ押し縮められていった。
隊長たちが正面の圧力を引き受ける間に、イーシャは影の境を辿る。左手に残した二本目のダガーを逆手へ返し、孤立した術者の背後へ回った。切っ先が届く場所に立っても、相手は正面から迫るハーパーの刃を見たまま動けない。
「あなたたちの呪いはもうここで終わりよ。イルメイターの慈悲を知りなさい」
イーシャは影から半歩だけ踏み出し、術者の背へダガーを突き立てた。同じ瞬間、正面でも隊長たちの刃が残敵を捉える。最後の詠唱が途絶え、路地の隅に残っていた闇も霧へ溶けた。
刃音が止む。イーシャは闇を解いた一本を、倒れた聖職者の喉から回収し、二本を揃えて鞘へ戻した。ハーパーのエージェントたちは負傷の有無を互いに確かめ、最後にイーシャへ頷く。
「ここは完全に制圧しました。アンデッドの統率も乱れるはずです」
隊長の報告を聞き、イーシャはイルメイターの護符をそっと握った。
「補給路は断った。これで多元安定機構が地上で掃討作戦を進められる……彼らと連携して、ここから完全に敵を駆逐しましょう」
護符を胸元へ戻し、フードを深く被る。閉ざされた次元への召命は、まだ消えていない。それでもイーシャは崩れた壁と夜霧の境を選び、廃墟の暗がりへ小さな背を沈めていった。
*
フリーレンたちがオイサーストの街を進み、大陸魔法協会北部支部へ向かい始めた頃には、朝の柔らかな陽光が街並みの屋根と石畳を淡く照らしていた。
大陸魔法協会北部支部は、城壁に囲まれた島の奥で、高台の起伏に沿って淡い石造りの棟を横へ連ねている。広場から本館へ上る正面階段の両側には、杖と魔法陣の浮彫りが並ぶ。湖から吹く風が建物の間を抜け、協会の旗を揺らしている。
フリーレン、フェルン、シュタルクの三人が広場に足を踏み入れると、以前訪れた時には存在しなかった奇妙な設備が広場の隅に見える。床面には柔らかな感触を持つ特殊な素材が敷かれており、樹脂と魔力を組み合わせて衝撃を吸収する構造になっている。
だが、最も目を引くのは、その設備を四方から囲む八体の巨大な二足歩行ゴーレムだ。滑らかで無機質な肌を持つ巨躯には、目鼻口の造作がない。肩部に重厚な防具を備え、堅牢な粘土と精緻な魔法で形成された全身からは、淡い魔力が等間隔に波打っている。
シュタルクは、一体の踵から自分の背丈ほどもある肩まで見上げた。
「なあ、あのゴーレム、前はなかったよな? あんな人型の巨大ゴーレムを八体も配置するなんて、協会も随分と気合が入っているな」
フェルンは床材の継ぎ目へ靴先を置き、沈み方を確かめてから、ゴーレムの太い腕へ目を移す。
「警備用ではないようですね。床面の衝撃吸収材や、周囲に施された魔法を見る限り、何か重要なものを搬送するための設備に見えます。恐らくあのゴーレムが護衛や搬送を担当するのでしょう」
フリーレンはゴーレムの腕から床材へ視線を戻す。
「確かにそうだろうね。協会がこんな大掛かりな設備を準備するということは、よほど危険か重要な物を扱う予定があるんだろう」
三人は改めて協会の建物に向かい、入口を通って人声のまばらな受付ホールへ入った。シュタルクは受付カウンターの前で荷物から位相アンカーの部品を出し、金属の背を下にして置く。坑道での出来事を正式に報告するため、フェルンはフリーレンとシュタルクへ振り返り、一言告げた。
「それでは私は報告手続きをしてきますので、ここで待っていてください」
フリーレンとシュタルクは受付から離れた待合席に腰掛けた。ペン先が紙を擦る音だけが続く中、シュタルクは背もたれへ身体を預け、溜息と一緒に小声を漏らす。
「協会への報告って思ったより時間がかかるんだな。もうちょっと簡単に済ませられないもんかな?」
フリーレンは受付の書類から目を離さず、短く答えを返した。
「重要な情報であればあるほど確認も多くなるのは仕方ないことだよ。特に位相アンカーのような異界の技術となればね」
やがて、報告を終えたフェルンが、控えを手にして二人の元へ戻ってきた。シュタルクが軽く首を傾げて彼女の顔を見る。
「どうだった?」
フェルンは二人の前で足を止め、手にしていた控えを二つ折りにしながら答える。
「とりあえず村への人員派遣は検討してくれるそうです。協会も現在は対応が追いついていないようですが、重要案件として取り扱うとは言っていました」
フリーレンはフェルンの報告に一度頷く。フェルンが二つ折りにした控えを懐へ収めると、三人は連れ立って受付ホールを出て、協会の外に広がる広場へと再び戻った。
三人が協会の建物を一歩出た途端、ゴーレムたちの囲む設備から白い閃光が放たれた。中心を走る稲光が六角形の床材を順に照らし、雷鳴に似た轟音と共に空気が渦を巻く。ゴーレムは八体とも両腕を開き、歪み始めた空間へ掌を向けた。
「何だこれ!?」
シュタルクが声を上げ、フリーレンとフェルンも振り返った。目の前で歪む空間からタヴが踏み出し、その背後を血まみれの兵士や魔法使いたちが続く。何人かは仲間の肩を借り、足を引きずって六角形の床材へ移った。タヴ自身のローブも鮮血に染まり、肩が呼吸のたびに大きく上下している。最後の負傷者が広場へ出ると、背後の歪みは稲光を残して閉じた。
「おい、タヴ! 大丈夫なのかよ、その血は!?」
シュタルクは駆け寄り、フリーレンとフェルンもその後を追う。タヴは三人へ目を止めたが、すぐに片手を胸の前へ上げて制止した。
「オイサーストに戻っていたのか。心配ない、これは俺の血じゃない。ギスヤンキの位相アンカーを破壊する作戦に同行したんだが、奴らの抵抗が予想以上に激しくてな。特に重症を負った者を連れて《Teleport(瞬間移動)》で移動してきたんだ」
タヴの話を聞いているうちに、待機していた八体のゴーレムが一斉に動き出す。四体が負傷者の左右へ膝をつき、残る四体は治療施設までの通路を空けた。負傷兵の首と膝裏へ腕を差し入れて抱え上げると、ゴーレムの掌から温かな回復魔法が発動した。淡い光が血に濡れた包帯を透かし、荒かった呼吸が少しずつ間隔を取り戻す。
「なんと……ゴーレムが《回復魔法》を扱えるとは。一体いつからこんな改良が施されたんだ?」
声を上げたのは、広場に駆けつけてきた治癒師の一人だった。他の治癒師も足を止め、開いた掌を見つめている。ゴーレムは負傷者の首と膝裏を支え、揺らさない歩幅で治療施設へ運び去った。治癒師たちも、その後を追って施設へ向かう。
フリーレンは負傷者を抱くゴーレムの掌から、血の跡を残さない歩幅へ視線を移した。
「なるほど……ここに設けられた設備は、魔法で運ばれてくる負傷者を迅速に搬送して治療するためのものだったんだね。それにしても、あの傷だと相当な重症だけど、大丈夫なのかな」
タヴは肩を一度回し、浅い呼吸の合間に答える。
「ここで適切な治療を受けられれば、助かる見込みはあるだろう。協会も迅速に対応してくれているしな」
シュタルクは運ばれていく負傷者を見送ったあと、血に染まったタヴのローブへ目を戻して問いかけた。
「肝心の位相アンカーの破壊作戦はどうだったんだ? 無事に成功したのか?」
タヴは血の跡が残る地面を一瞥して応じる。
「ああ、位相アンカーの破壊自体は成功した。ギスヤンキは激しく抵抗したが、最後に撤退を始めたところをこちらが追撃して、かなりの数を討ち取った。後の細かい処理は、向こうの現場に残した部隊に任せてきたから大丈夫だ」
フリーレンたちがそれぞれ頷くと、タヴは片手を振って《Prestidigitation(奇術)》を小声で唱えた。淡い波が胸元から袖と裾へ広がり、血に染まっていたローブから汚れが消える。フェルンは汚れの消えた袖へ視線を落とし、声を上げた。
「本当に便利な魔法ですよね、《Prestidigitation(奇術)》というのは。私にも教えていただきたいくらいです」
タヴは汚れの消えた袖を見下ろした。
「確かに便利だ。ただ、俺はソーサラーだからな。この術をどう身につけたか、自分でも順序立てて説明できない。人に教えるのは難しい」
「そうでしたね……。少し残念です」
フェルンは袖に残っていた血の色も匂いも消えたことを確かめ、口元をわずかに緩めた。シュタルクは清潔になったローブから、タヴが現れた空間の跡へ目を移した。
「ところでさっきタヴが言ってた魔法、《Teleport(瞬間移動)》だっけ? 一体どんな魔法なんだ?」
タヴは治療施設へ続く扉が閉じたのを確かめ、三人にだけ届く声量で答える。
「《Teleport(瞬間移動)》は自分と目に見えている八人までの生物、あるいは一つの物体を瞬時に遠隔地へ移動させる魔法だ。物体の場合は大きさがせいぜい三メートル四方程度で、誰かが掴んだり持ち運んでいないものに限られる。いずれにしても、目的地の正確な情報がなければ危険が伴うから注意が必要だがな」
フリーレンが知る転移魔法は、術者の視界か、限られた距離の内側で完結するものばかりだった。見えない戦場から負傷者を選び、この広場の床へまとめて運ぶ──人類の魔法体系では、そこまでの隔たりを一息に越えられない。
「距離を問わず自由に移動できる魔法が、個人で使用可能なレベルまで体系化されているなんてね……。運べる人数や物体の大きさまで明確に決められていて、徹底的に汎用化されているのは、本当に驚かされるよ」
タヴは治療施設へ運ばれた最後の担架を目で追った。
「まあ、《Teleport(瞬間移動)》は誰にでも簡単に扱えるわけじゃないけどな。魔力の消費も大きく、精密な制御が必要だから長い訓練も要る。だから、実際に個人レベルで自由に使いこなせる魔法使いは多くない」
フェルンは「長い訓練」という言葉を聞き留めた。
「以前、ソーサラーは生まれ持った魔力から術を引き出すと仰っていましたね。《Teleport(瞬間移動)》のような魔法は、どのような方法で身につけるのですか?」
タヴは自分が出てきた空間の跡へ目をやった。白い稲光はもう残っていない。
「俺の場合、一度受けた魔法の感覚を、自分の魔力でなぞって覚えることがある。機構には、そのための訓練施設があった。《Teleport(瞬間移動)》も、経験のあるウィザードに何度も同乗し、同じ働きを自分の魔力で再現できるまで繰り返した」
初めて転移した時の、足裏から重さが抜け、遠い地点で呼吸と鼓動が噛み合う感覚は今も残っている。
フェルンは説明の終わりまで視線を外さず、整理した言葉を返す。
「他の術者の魔法を実際に受け、その感覚をご自分の魔力で再現するのですね」
広場に残った血の跡を、清掃係が水で洗い流し始める。シュタルクはその赤い水を一度見てから口を開いた。
「よくわかんねえけど、要は身体で覚えたってことか?」
タヴは短く笑った。
「その通りだ。俺は何百回と仕組みを説明されるより、一回飛ばされる方が理解できた」
笑みを収めたタヴは、視線を三人へ巡らせた。
「ところで、しばらくオイサースト郊外で修行すると言っていたはずだが、もう戻ってきたのか? 何か問題でもあったのか?」
フェルンが一歩出て踵を揃え、タヴを見たまま説明を始める。
「私たちは村からの依頼で、郊外にある古い坑道の調査に向かいました。そこでマインド・フレイヤーの位相アンカーを発見したのです。フリーレン様の適切な指揮もあり、なんとか破壊に成功しました。その結果を協会に報告するために、こうしてオイサーストへ戻ってきたんです」
タヴは最後まで聞くと、フェルンからフリーレン、シュタルクへ順に目を移した。
「マインド・フレイヤーの位相アンカーを見つけて破壊したのか? それはまた興味深い話だな……もう少し詳しく状況を教えてくれないか?」
フェルンは発見から破壊後の確認までを、タヴが聞き返した箇所だけ補いながら語っていく。坑道内の魔力の歪みを追った先に位相アンカーがあり、その周囲を秘術使いを含む三体のマインド・フレイヤーと、インテレクト・ディヴァウラーの群れが守っていた。
護衛を退けた後は、協会から示された手順で装置の防護を解き、核を破壊した。核を貫くと装置が内側から爆ぜ、坑道の空間を歪ませていた揺らぎが消えたことまで伝える。散った破片を一つ回収して周辺も調べたが、ほかに設置目的を示す物品は見つからなかったという。
タヴは話を聞き終えるまで口を挟まず、最後の説明が終わってもすぐには答えなかった。
「なるほど……つまり、この世界の魔法でも問題なく位相アンカーを破壊できるってわけか。これは大きな成果だな」
だが、そこで言葉が止まる。フェルンたちが遭遇したマインド・フレイヤーは《秘術魔法》を使い、魔法に秀でた秘術使いまで伴っていた。その組み合わせが頭に引っかかった。
(……秘術使いのような《秘術魔法》を用いる個体が位相アンカーの防衛についていたとは妙だな……。何か特別な理由でもあるのか?)
清掃の水が靴先まで流れてきた。タヴは一歩横へ避け、考えをいったん切り上げる。
「まあ、とにかくまずは位相アンカーを破壊できたことを喜ぶべきだ。あんたたちはすごいな。俺が同じ状況にぶっつけ本番で立たされたとしたら、おそらく破壊には手こずっただろうな」
フェルンはフリーレンの隣へ半歩戻って答えた。
「いえ、今回の件はフリーレン様の精神防御のおかげです。フリーレン様の防御がなければ、私やシュタルク様だけではあの状況を乗り切れなかったと思います」
タヴはそれを聞いて軽く吹き出し、目尻に皺を寄せた。笑いが喉の奥でもう一度弾む。
「ははっ、それは奴らもさぞかし面食らっただろうな。人の精神を操ることに関しては絶対の自信を持つ連中だからな。思い通りにならずに慌てふためく様子が目に浮かぶよ。まったく、ざまあみろって感じだな」
シュタルクもまた、タヴの言葉に拳で胸を軽く叩いた。
「そうだな、あいつら驚いてたぜ。俺は最初ヒヤヒヤしたけどな。あの精神攻撃ってやつ、フリーレンが全然平気な顔して受け流してるのを見て、少し気の毒になるくらいだったぞ」
フリーレンは二人の間で視線を往復させ、笑い声が途切れるのを待って口を開いた。
「私としては、特別なことをしたつもりはないんだけどね。まあ、結果的に役に立ったなら良かったよ」
タヴは笑いを収めて背筋を立て、フェルンの方へ身体を向けた。
「ともかく、詳しい状況が分かったのはありがたい。できれば俺も実際の現場を確認して、マインド・フレイヤーの目的を探りたい。手間をかけて悪いが、坑道か近くの村から持ち帰った物があるなら、後日貸してもらえないか? 《Teleport(瞬間移動)》の《関連する物体》に使いたい。場所までの道も詳しく聞かせてほしい」
聞き慣れない術語を、フリーレンが問い返す。
「《関連する物体》っていうのは?」
「六か月以内に目的地から持ち出された物品だ。それを媒介にすれば、品物に残る土地との結びつきを辿って、その村へ着ける。よく知る場所でも、媒介なしなら失敗の可能性は残る。まして今回は、俺が一度も訪れたことのない村だ。媒介なしで飛ぶつもりはない」
フェルンは「失敗の可能性」という言葉を聞き返す。
「失敗した場合には、具体的に何が起こるのですか?」
タヴは起こり得る三つの失敗を順に答えた。《目的地を外れる》なら狙った地点から座標がずれ、《似通った場所》なら目的地によく似た別の場所へ出る。最も危険な《大失敗》では転移の途中で術が崩れ、術者も同行者も傷を負う。
シュタルクは、治療施設へ運ばれていった負傷者たちの方を振り返った。先ほどのように大勢を連れて飛べば、失敗した時には術者だけでなく同行者まで巻き込まれる。何か言いかけた口を閉じ、治療施設の扉へ目を戻した。
フリーレンは三つの術語を口の中で繰り返してから問う。
「それは非常に興味深いね……《Teleport(瞬間移動)》という魔法は、一体誰がどんな経緯で開発したものなの?」
タヴは答える前に、短く唸った。
「あー……それを語るとなると、かなり長くて複雑な話になるぞ。確か、《Teleport(瞬間移動)》の元になった魔法は、はるか昔の大魔法使いオベロンが──」
しかし、彼が語り始める前にシュタルクが軽く手を振って制止する。
「おいおい、その話を始めたら終わらねえぞ。フリーレンがそんなこと聞き始めたら、日が暮れるどころじゃ済まなくなる」
フェルンも口元をわずかに上げ、シュタルクのあとへ言葉を差し込んだ。
「確かにそうですね。続きはまた次の機会にしませんか?」
フリーレンは眉尻を下げたまま長く息を吐き、二人へ一度頷いた。
「それじゃ仕方ないね。また今度、ゆっくり聞かせてもらおうかな」
タヴはフェルンへ向き直った。
「長話は今度だ。まずは媒介を探そう。坑道で回収した物は、何か手元に残っているか?」
フェルンは先ほど報告を済ませた受付の方を振り返る。
「あの坑道で回収した位相アンカーの部品は、協会への報告の際にすでに提出してしまいました。協会の人に事情を説明して、一時的に貸してもらうことも可能かもしれませんが……」
「いや、そんな面倒なことをしなくても大丈夫だ。坑道そのものではなくても、近くの村に《Teleport(瞬間移動)》できればいい。その村から持ち出した物はないか? 掌に収まる大きさなら何でも構わない」
シュタルクはそれを聞くと、思い出したようにポケットに手を差し込む。
「あの村でもらった特産の木彫りならあるぞ」
「それなら媒介に使える。村から持ち出された品なら条件に合う」
シュタルクはポケットから小さな木彫りの飾りを取り出すと、それをタヴに向けて差し出した。彫り跡は素朴で、角は指に引っかからないよう丸く削られている。
「ほらよ。村の特産品らしいぜ。別に特別なものじゃないけどな」
タヴは右の掌で木彫りの飾りを受け取る。刻み目と欠けを確かめるように一周させ、礼を言った。
「ありがとう。しばらく借りる」
彼は右手で飾りをポーチへ入れ、その口を指先で閉じると、改めてフリーレンたちに向き直った。
「あとは、村の中の目印と、そこから坑道までの道を詳しく教えてくれないか。着いてから調査地点まで迷うわけにはいかない」
フェルンは出発時の道程を辿り直し、村の目印から順に語り始めた。
「村の名前はリューデル村です。オイサーストから北東へ馬車で一日半ほど、丘陵と深い森に挟まれています。村の中央には古い石造りの井戸があり、その横に大きなオークの樹が立っています」
タヴはまぶたを閉じ、フェルンの言葉に合わせて丘陵、森、井戸、オークの樹を頭の中へ置いていく。配置を終えると目を開き、一度頷いて言葉を続ける。
「よし、それだけ詳しい情報があれば十分だろう。あとは念のため地図も後で確認しておくか」
シュタルクはタヴのポーチへ消えた木彫りを見て、なおも確かめる。
「本当にそれで大丈夫なのか? さっき、《大失敗》とか怖いことを言ってたけど……」
タヴはポーチの口へ手を置き、先ほどより声を落とした。
「だからこそ、これを借りた。地図と現地の目印も照合してから飛ぶ。同行者まで巻き込む術だ。勘だけで使うつもりはない」
フリーレンは地図まで確かめるという言葉に反応した。
「強力なだけじゃなく、使う前の準備まで含めた魔法なんだね。オベロンの話も、ますます気になってきたよ」
タヴは約束だけを返した。
「こっちの件が落ち着いたらまた話そう。相当長い話になると思うがな」
彼の言葉に、フリーレン、フェルン、シュタルクの三人はそれぞれ短く頷いた。
*
ノルム商会本館、その最上階に設けられた荘厳な会議室では、紙をめくる音さえ高い天井へ反響していた。
商会幹部が円卓を囲む。民政官や衛兵隊長らは、散乱した地図と報告書の数字へ目を落としたまま動かない。読み上げる声は低く、一頁めくるたびに指が止まる。
「本日の報告は以上となりますが、各地の被害状況は悪化の一途を辿っています」
若い民政官が最後の行を読み終えると、商会幹部の一人が被害地図を見たまま尋ねた。
「マインド・フレイヤー、ギスヤンキ、そして魔族。この三者が各地で争いを繰り広げ、北部高原の村々が巻き込まれている……ということだな?」
「その通りです。特に小規模な村落は、まともな防衛機構を持たず、戦闘に巻き込まれて壊滅状態に陥っています。現在の兵力では防衛どころか被害の調査すら満足に進んでおりません」
別の民政官が掠れた声で引き継いだ。
「現状では兵力不足が深刻です。通常の兵だけでは到底足りず、市民を強引に民兵化する形で対応していますが、これは市民の不満を招き、士気低下にも繋がっています」
衛兵隊長が死傷者の報告を補足した。
「また、死傷者があまりにも多すぎて、共同墓地の埋葬処理が完全に追いついていません。このまま放置すれば遺体の腐臭が魔物を呼び寄せ、さらなる被害拡大を招く可能性があります」
報告が途切れると、室内に沈黙が広がった。やがて商会幹部の一人が、ため息混じりに口を開く。
「都市外への遺体搬送も、安全を保障できない。下手に動かせば、移送隊ごと魔物に襲撃されかねん」
その声が途切れても、発言を継ぐ者はいなかった。窓の外を厚い雲の影が過ぎ、机上の被害地図を暗くする。幹部たちは互いの顔を見たあと、死傷者一覧へ目を戻した。
重い沈黙の後、別の商会幹部が声を強めた。
「遺体の処理についてだが、もはや従来通りの埋葬など悠長にやっている場合ではない。すべて焼却処分すべきだ。魔物を寄せつけないためにも、この決定は避けられんだろう」
だが、その言葉に即座に異を唱えたのは神殿から派遣された宗教関係者だった。
「その発言には到底同意できません。亡くなった方々への敬意と鎮魂は絶対に必要です。伝統的な埋葬方法を守らなければ、人心の荒廃はさらに進むでしょう。焼却処分など非人道的すぎます」
両者の声が重なり、引かれた椅子の脚が床を鋭く擦った。
「敬意などと言っている余裕がどこにある? 死者への敬意を示したところで、生きている者が死ねば意味がないではないか!」
商会幹部の怒声に、宗教関係者も激しく反論する。
「生者の命も大事ですが、死者を粗末に扱えば市民の精神は崩壊します! 今後の防衛にも悪影響が出るでしょう!」
怒声が相手の言葉尻へ重なり、焼却案と埋葬案の書類が円卓の両側へ押し返される。民政官の一人は両手でこめかみを押さえ、肺の空気を吐き切った。決裁用のペンは机上に置かれたまま、誰の手にも取られない。
「……墓を作れば腐臭に釣られた魔物が寄ってくる。だが遺体を焼けば市民の反感を招く……結局、どちらを選んでも地獄か」
その呟きに、幹部は眉間を二本の指で押し、吐き捨てるように応じた。
「市民感情よりも、生存が優先だ。こうした非常事態では仕方あるまい」
焼却案の決裁欄は空白のまま、埋葬を求める声と反対する声が重なった。その最中、扉が再び開き、息を切らした伝令が室内に飛び込んだ。
「た、大変申し訳ありません! 新たな情報が入りました!」
彼は報告書の端を震わせながら、最初の行を読み上げる。
「北西部にて、魔族の将軍『神技のレヴォルテ』が率いる軍勢が、ギスヤンキ及びマインド・フレイヤーの両勢力と激しく交戦している模様です。その余波で、近隣の村落が巻き添えを受け、甚大な被害が出ています!」
報告が終わる前から椅子が鳴り、幾人もの声が重なる。ざわめきはなかなか収まらなかった。
「また新たな戦線ができただと!? 我々にどうしろというのだ!」
幹部が椅子から腰を浮かせて叫ぶ。別の幹部も額を抑え、歯の間から吐き捨てた。
「もはや北部高原全体が戦場だ。これでは防衛どころではない……」
民政官の一人が声を一段上げた。
「もういっそ、互いに殺し合って勝手に滅んでくれればいい! 我々が付き合わされる筋合いなどない!」
その発言に、別の幹部が掌で机を叩き、相手の声へかぶせて叱責する。
「無責任なことを言うな! その殺し合いの余波が我々を飲み込んでいるんだぞ!?」
立ち上がる者と机を叩く者が続き、互いに責任を押し付け合う声が室内を埋める。やがて日が傾いても、机上の決裁欄はどれも空白のままだった。
その議論から二日後、ノルム商会本館の会議室に幹部や民政官、衛兵隊長たちが再び集まった。円卓の中央には、被害を受けた地区に印の付いた市街図が広げられている。今日は騎士ヨアヒム、神官長ルドルフ、神官見習いのエルゼ、魔法使い見習いのミーナも同席している。四人は部屋の奥に間隔を空けて立ち、両手を身体の前で組んでいた。
四人は、ギスヤンキとマインド・フレイヤーの双方に直接接触した経験を買われ、状況の整理と助言のために呼ばれていた。
その時、会議室の扉が軽くノックされ、重厚な扉がゆっくりと開いた。伝令は一度唾を飲んでから入室し、その手で大陸魔法協会の印が押された書簡を握っている。
「失礼いたします。魔法都市オイサーストの大陸魔法協会北部支部より、極めて重要な通達が届いております」
伝令の声が途切れると、幹部たちの視線が手元の書簡へ集まった。ノルム商会の幹部の一人が、書簡へ向けて人差し指を一度動かした。
「通達の内容を簡潔に述べよ」
伝令は封蝋を割り、書簡を両手で開く。最初の行へ指を沿え、読み上げ始める。
「北側諸国全域において、異界の勢力──ギスヤンキ、マインド・フレイヤーによる活動が確認されました。彼らは次元間通路を固定する『位相アンカー』と呼ばれる装置を設置し、各地で侵攻を開始しています。通達では、これらの位相アンカーを発見次第、即座に破壊し侵攻を阻止することを各勢力に強く推奨しています」
会議室にざわめきが広がった。伝令は書簡を一段高く持ち上げ、先ほどより語と語の間を置いて続けた。
「また、大陸魔法協会では、異界の魔法使い『タヴ』を正式な協力者として採用しており、すでにオイサースト近郊において位相アンカー破壊の実績を上げています。彼の魔法や知識についても、貴重な情報を提供しているとのことです」
その言葉に、四人の間で視線が交わされた。ミーナはタヴの名を聞くと、強く結んでいた唇をほどく。エルゼも胸元で組んでいた手を下ろした。
ヨアヒムは並ぶ幹部たちへ顔を向けた。
「俺たちはタヴと地下礼拝堂で戦いました。あいつの知識がなければ、コロニーの中枢までは辿り着けなかった。協会が協力者と認めたことに、異論はありません」
隣でルドルフが深く頷く。
「タヴ殿は、危険の中で我々と共に戦ってくれた。未知の力を持つからといって、あの働きまで疑うべきではないでしょう。協会が正式に迎えたのなら、我々も手を取り合うべきです」
エルゼは胸元で組んでいた手を下ろしたまま、幹部たちを見返した。
「使う魔法のことは分からなくても、タヴ様が私たちを助けてくださったことは覚えています。私は、あの方を信じます」
ミーナはエルゼの言葉を聞き終えると、円卓の市街図へ目を落とした。
「でも、位相アンカーを壊すなら、地下礼拝堂より大きな戦いになります。今のノルム商会領に、それだけの兵と物資が残っていますか?」
商会幹部の一人が、ミーナの問いに答えた。
「その通りだ。我々には現在、それを実行できるだけの兵力も物資も不足している。すでに市民を強引に兵役に徴用し、どうにか兵力を保っている状態だ。これ以上の戦線の拡大には、到底耐えられない」
会議室から声が消えた。商会長ノルムは伝令から大陸魔法協会の書簡を受け取り、机の中央へ置いた。
「大陸魔法協会の通達は受け入れます。位相アンカーは破壊しなければなりません。我々だけで実行する余力がないことも明らかです。ですが、それは放置する理由にはならない。オイサーストを含む北側諸国へ支援を求めます」
反論する者はいなかった。ノルムは集まった者たちを見渡し、誰も口を開かないことを確かめてから続ける。
「位相アンカーの向こうから来る脅威は、ノルム商会領の境で止まりません。これは北側諸国全域に関わる問題です。各勢力との外交を急ぎ、兵力の融通だけでなく、負傷者や避難民を支える救護の協力も取り付けましょう」
ヨアヒムは市街図を自分の側へ引き寄せた。
「今いる兵は都市防衛に残すべきです。援軍が届く前に守る場所を増やせば、どこも守れなくなります」
神官長のルドルフは、戦力とは別に集められる支援へ話を移した。
「神殿からも各地へ声をかけよう。戦える者だけが援軍ではない。治療師と薬を送り、避難民を受け入れる場所を確保することなら、神殿同士で力を合わせられる」
エルゼはその言葉を受けて、大陸魔法協会の書簡へ目を向けた。
「では、私はオイサーストの大陸魔法協会へ書簡を送ります。位相アンカーを破壊した実績があるなら、どんな魔法使いを派遣すべきかも分かるはずです」
ミーナは市街図に示された各塔と神殿を順に目で追った。
「魔法使いが来てくれるなら、この街の術者とすぐ連絡できるようにします。位相アンカーを見つけてから伝令を走らせていたら、間に合わないかもしれません」
ノルムは提案者の顔を一人ずつ見てから、両手を机上に置いて結論を告げる。
「各自の提案を支持いたします。ヨアヒム殿には都市防衛の再編を、ルドルフ殿には神殿間の救護連携を、エルゼ殿には大陸魔法協会への派遣要請を、ミーナ殿には術者間の連絡網の整備をお願いします」
最後にノルムは、卓上の書簡と市街図を見渡した。
「以上の役目に、ただちに着手してください。この席で決めた方針は、必ず実行へ移すのです」
全員が強く頷いた。ノルムは、二日前には空白のまま残された決裁欄へ署名を入れた。怒声ばかりが反響していた高い天井へ、今はペン先が紙を擦る細い音だけが返った。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。