界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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タヴはゼーリエたちに坑道のアルカニストの存在を報告し、マインド・フレイヤーの異端者が送り込まれた理由を考察する。タヴとゼンゼはリューデル村の坑道調査へ向かうが、そこで二人を待ち受けていたのは制御不能となった禁忌の存在だった。一方、ソリテールとリヴァーレはヴァイゼの結界を解くべく行動を開始。次元を超えた中継基地では、失態を犯したウリサリッドが焦燥と怒りを滲ませ、計画の修正を決断する。


#11:異端者たちの秘策

 窓から差す陽光が広間の床を横切り、壁際に並ぶ古びた魔導書の背を照らしていた。擦り切れた背表紙が隙間なく並び、その重みで棚板がわずかにたわんでいる。広間中央の椅子にはゼーリエが深く腰掛け、目だけを異界の魔法使い──タヴへ向けていた。

 

 彼が《Tongues(言語会話)》による翻訳で報告を始めようとしたところ、ゼーリエが眉をひそめ、小さく手を振った。彼女はタヴの使う魔法の翻訳が耳障りだとして、いつものように《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》を無言で施す。タヴは一礼して話し始める。

 

 ゼーリエの椅子を挟み、右手側にはゼンゼとファルシュが、左手側にはゲナウとレルネンが並ぶ。四人とも手を止め、中央で報告するタヴへ顔を向けていた。タヴはフリーレンたちが遭遇した坑道での出来事を順に述べ、最後の一文で声を切った。

 

「……そこで一点だけ、俺が気になったことがある」

 

 タヴが小さく息をついて言い終えると、ゼーリエはゆっくり頬杖をつき、問い返した。

 

「気になったこと……? 一体何だ?」

 

 タヴは翻訳された響きを確かめてから続ける。舌の動きは変わらないのに、広間へ届く言葉だけが滑らかに整っていた。

 

「フリーレンたちが坑道で倒したマインド・フレイヤーの中に、《秘術魔法》を専門的に使う秘術使いと呼ばれる個体がいたことだ」

 

 ゼーリエは薄く目を開け、問い返した。

 

「それで? お前はその秘術使いとやらが気になっているのか?」

 

 タヴはゼーリエから目を逸らさず、言葉を継いだ。

 

「秘術使い自体というより、その個体が送り込まれている理由が気になっている。マインド・フレイヤーの社会において《秘術魔法》は禁忌で、秘術使いみたいな個体は異端者として忌避される存在だからな」

 

 ゼンゼがタヴへ顔を向け、問いを挟んだ。

 

「《秘術魔法》はそちら側では主要な魔法体系なのだろう。マインド・フレイヤーにとって何故禁忌なんだ?」

 

 タヴはゼンゼへ視線を向けて口を開いた。

 

「マインド・フレイヤーが通常使う術は《サイオニック》という精神を媒介にしたものだ。奴らの社会はエルダー・ブレインという巨大な脳の《サイオニック》を通じて統制されている。それぞれの個体がエルダー・ブレインの精神的な支配下で行動する」

 

 タヴはそこで一度言葉を切り、一同の顔を右から左へ見渡してから続けた。

 

「だが、《秘術魔法》の習得には多くの魔導書を読み解き、外部の魔力を制御するための技術的な修練が必要だ。その過程で異端者は、エルダー・ブレインの精神制御に抵抗するための防護魔法を使い始めることが多い。結果として、次第にエルダー・ブレインとの精神的な繋がりが薄れ、反逆のリスクが一気に高まるからだ」

 

 ゲナウが腕を組んだまま、声量を抑えて言葉を挟んだ。

 

「なるほど……。統制できない個体をこの世界に送り込んだ理由が気になるわけか」

 

 タヴは頷き、ひと呼吸置いて続ける。

 

「そうだ。特にここは閉ざされた次元で、外部からの監視も難しい。そんな状況下で反逆の可能性がある個体を送り込んだのは、何かしら特別な理由があると考えるのが自然だろう」

 

 一同が押し黙り、広間には衣擦れひとつ響かなくなる。レルネンが組んでいた指を解き、問いかける。

 

「リスクを冒してまで異端の存在を送り込む理由は……通常のマインド・フレイヤーには困難な、専門的で特殊な任務があるからということでしょうか?」

 

 レルネンの言葉を受け、タヴは息を一度整えて答えた。

 

「その可能性はある。例えば、精神的な能力では解除が難しい封印や結界を破る任務、あるいは魔法施設の解析、さらにはこの世界の魔導書を解読するといった任務だな」

 

 説明を聞き終えたゼンゼが、下まぶたをわずかに持ち上げた。

 

「他の目的である可能性はあるか?」

 

 その問いを聞いたタヴは、「ある」と答えて一度言葉を切り、説明を続けた。

 

「新技術の実験や検証目的だ。近年の技術の進歩や情勢の変化で、マインド・フレイヤーの価値観にも僅かだが変化が生じている。戦略上有効と判断すれば、限定的に《秘術魔法》を認める傾向が出てきた。実際、《サイオニック》と《秘術魔法》を融合した新たな術式や兵器の開発を進めているとの情報もある。その性能試験をこの世界で行っている可能性が考えられる」

 

 彼はそこで一息つき、小さく肩を竦めて付け加えた。

 

「あるいは、単に失っても痛くない捨て駒同然の戦力として送られているだけかもしれんがな……」

 

 しかし、説明を聞いていたゲナウが「待て」と低い声で割り込んだ。

 

「異端者共はエルダー・ブレインとの繋がりが弱いのだろう? そいつらが危険な任務を素直に引き受けるとは思えんな」

 

 ゲナウの言葉にその場が静まり返り、一同の視線がタヴへ集まった。タヴは口を開く前に一度息を吸った。

 

「確かに、忠誠心の薄い異端者が、無償でエルダー・ブレインの命令に従うことはないだろう。だから、そいつら自身にも任務を受け入れるだけの利益を提示されているはずだ」

 

「利益とは、具体的に何ですか?」

 

 ファルシュが胸元で指を組み、声を抑えて尋ねる。問いを聞いたタヴの視線が一度床へ落ち、靴先が敷石の継ぎ目で止まった。

 

「異端者たちはコロニー内ではいつ排除されてもおかしくない立場だ。だから、常に生存すら危ぶまれる状況にある。だがエルダー・ブレインが提供する任務を引き受ければ、研究の場や材料、資源などを与えられ、一時的にせよエルダー・ブレインの庇護を受けられるとかな」

 

 誰も口を挟まない。タヴはさらに言葉を続ける。

 

「仮に実験や特殊な任務が成功すれば、その成果によってコロニー内で研究の正当性を認められ、立場や地位が向上することもあり得る。秘術使い自身にとっても、生存や立場を安定させる重要なチャンスというわけだ」

 

「なるほど……エルダー・ブレイン側と異端者側の利害が一致した可能性があるわけか」

 

 ゼンゼはタヴから目を離さず呟いた。ゲナウも腕組みを解き、床へ視線を落とす。しばらくして口元を硬くし、一同へ聞こえる声で口を開いた。

 

「だが、もしお前の言う通りならば……送り込まれた異端者たちは、自らの命を人質に取られているも同然だな。目的を果たすためにどれほど強引でなりふり構わない手段を取るか分からない。かなり厄介な状況になるぞ」

 

 ゲナウの言葉に、一同の眉間へ皺が寄る。誰も口を開かない広間で、ゼーリエは列席者を見渡し、短く息を吐く。

 

「ややこしい話だな。それでお前はどうするつもりだ?」

 

 タヴはゼーリエへ視線を向け、答えた。

 

「俺自身が現地に赴き、詳しく調査したいと思っている。そこで何かを発見した場合は、排除も視野に入れている」

 

 ゼーリエは椅子にもたれ、片眉を上げる。顎でタヴを促して告げた。

 

「ふん……まあ、お前一人で調査に向かわせても問題ないだろうが……政治家連中や保守派の幹部たちが異界の人間が単独で動くのは危険だと騒いでいる。私が強引に黙らせることもできるが、今後お前が協会内で円滑に動くには、あまり得策ではないだろう」

 

 ゼーリエは一級魔法使いたちへ視線を移した。

 

「誰か現地に同行し、監視役でも補佐でもいいから務めてやれ」

 

 ゼーリエはふと片方の口角を上げ、言葉を続けた。

 

「まあ、私が自ら同行してやっても構わんがな」

 

 そのとき、ゼンゼが右列から一歩前へ出た。

 

「ゼーリエ様、それには及びません。私が同行します」

 

「ほう、お前が行くのか?」

 

 ゼーリエは顎を少し上げて問いかける。ゼンゼはすぐに答える。

 

「はい。一級魔法使いは理不尽な逆境を覆す存在でなければなりません。それに、個人的にマインド・フレイヤーの目的が気になります」

 

「それならばゼンゼに任せよう」

 

 ゼーリエが椅子の肘掛けを指先で一度叩くと、ゼンゼはタヴへ視線を移した。

 

「準備を始めるが、懸念点はあるか?」

 

「いや、助かる。一人で調査するのは面倒だと思っていたからな」

 

 タヴの返事に、ゼンゼは一度頷いた。

 

「それは良かった。現地では何が起こるか分からんからな、油断なく行こう」

 

「ああ、分かっている」

 

 二人は視線を交わし、揃って広間を後にした。扉が閉じ、廊下へ遠ざかる足音を聞きながら、ゼーリエは再び椅子にもたれかかる。片眉を上げ、しばらく扉を見つめていた。

 

「ゼンゼが自分から立候補するとは少々意外だったな……。しかし、あの二人なら相性は悪くないかもしれん」

 

 控えていたレルネンは胸元へ片手を添えて口を開いた。

 

「ゼンゼ殿は、以前に若手魔法使いたちがタヴ様に対して反感を抱き、揉め事になった際も、いち早く仲裁に入っていました。彼女が協会内で最も彼に対して中立的であり、協力的な姿勢を持っていることは間違いありません」

 

 ゼーリエが小さく「なるほどな……」と息をつきながら呟くと、ファルシュが半歩だけ前へ出て言葉を添えた。

 

「ゼンゼさんは一見冷血なように見えますが、案外繊細で情に厚い人です。タヴさんの境遇に対して、何か思うところがあったのかもしれませんね」

 

 ゼーリエが口角を上げると、横のゲナウが腕を組んだまま付け加えた。

 

「自称、平和主義者で争いを好まない、優しい魔法使いらしいからな。まさに適任だろう」

 

 ゲナウの言い方にも、誰も異を唱えなかった。ゼーリエは正面へ視線を戻し、肘掛けを叩いていた指先を止める。

 

「……今回の件も含めてだが、状況は複雑だ。単に異界の脅威が迫っているということだけでは済まない」

 

 ゼーリエが声を半音落とすと、広間の衣擦れが止まる。彼女は全員を見渡して続けた。

 

「既に協会へ各国から派遣されている兵士や魔法使いたちの中にも犠牲者が出始めている。その報告が各国の指導者や貴族たちに伝わり、対処を求める声が強まっている……。外交上の問題や政治的な軋轢まで起こりかねん状況だ」

 

 ゼーリエが言葉を切ると、一級魔法使いたちは互いの顔を見ず、手元や床へ視線を落とした。広間には次の指示を待つ間だけが伸びていく。彼女はゆっくりと顔を上げ、並ぶ三人へ順に視線を巡らせた。

 

「レルネン、お前は協会内の保守派や政治家連中の動きを探れ。彼らが無駄な騒ぎを起こさないよう、適当に宥めておけ」

 

「承知いたしました」

 

 レルネンは胸元へ手を当てて応じ、腰を折って一礼した。ゼーリエは次にゲナウへ視線を移した。

 

「ゲナウは血の気の多い現場の兵士や魔法使いたちを見張っておけ。内部で揉め事が起きないように、未然に防げ」

 

「仰せのままに」

 

 ゲナウは腕を組んだ姿勢を崩さず応えた。ゼーリエの視線が最後にファルシュへ移った。

 

「ファルシュは引き続き各地の情報をまとめ、異界との関連性がある報告を優先して精査しろ」

 

「分かりました、ゼーリエ様」

 

 ファルシュは頷き、小さく頭を下げた。ゼーリエは再び椅子の背もたれにもたれかかり、深いため息をついた。

 

「まったく……政治というのは本当に面倒だ。これだから組織の長なんてやりたくないんだ……」

 

 ゼーリエは閉じられた扉を眺めながら、ゆっくりとまぶたを下ろした。

 

 *

 

 人影のない廊下に、二人分の足音が交互に響いている。窓から差す陽光が白い大理石の床を横切り、足元を通り過ぎていく。タヴとゼンゼはゼーリエの広間を後にし、肩を並べて協会内の通路を進んでいた。

 

 窓の間を一つ通り過ぎたところで、ゼンゼが廊下の反響を越えない声で問いかけた。

 

「《Teleport(瞬間移動)》の目的地はリューデル村だったな。場所のイメージは掴めているか?」

 

 タヴは歩調を緩めて答える。

 

「ああ、フェルンから村の位置について詳しく聞いている。ただ、念のために地図で周辺の地形を再確認しておきたい」

 

「分かった。地理資料室へ案内しよう」

 

 ゼンゼは進行方向へ顔を戻し、タヴと歩幅を揃えて先へ進む。会話が途切れ、二人の足音だけが廊下に響いた。数歩進んだところで、ゼンゼが横目を向ける。

 

「ところで、《Teleport(瞬間移動)》で村のどこへ出るかまで分かっているのか?」

 

「いや、そこまでは分からない。木彫りはリューデル村との結びつきを与えてくれるが、村の中の一点まで指定するものじゃない」

 

「では、移動先に人や物があった場合はどうなる。衝突する危険はないのか?」

 

「ない。術が村とみなす範囲の中から、俺たち全員を収められる空いた場所を選ぶ」

 

「どこにも全員を置ける場所がなければ?」

 

「魔法発動そのものが成立しない。誰かや何かに重なったまま、無理に出ることはない」

 

 ゼンゼは説明を反芻するように、次の窓を通り過ぎるまで黙って歩いた。

 

「空いた場所を探し、置けなければ術を成立させない。そこまでを一つの術式で判別するのか。目に見えるのは一瞬の移動でも、その裏では複雑な仕組みと術理が幾重にも働いている。まさに魔法研究者たちの血と汗の結晶だな」

 

「俺が聞いた話じゃ、失敗も事故も山ほどあったらしい。今みたいに使えるのは、一つずつ原因を確かめて、安全な形にしてきた連中のおかげだ」

 

「そこまで安全に作られているのに、周辺の地形まで確かめるのか?」

 

「移動そのものが安全でも、出た先に何があるかまでは事前に見えない。万が一に備えて、分かることは知っておきたい。同行者まで運ぶ術だからな」

 

「君一人でも同じように確かめるのか?」

 

「もちろんだ。あんたも一緒なら、確認を省く理由はなおさらない」

 

 ゼンゼはすぐには答えず、タヴと歩幅を揃えたまま、もう一つ窓を通り過ぎた。

 

「そうか。なら、村の周りまで分かる地図を見よう」

 

「助かる。どれだけ強い魔法でも、知らない場所を知ったことにはできないからな」

 

「下調べまで含めて術の一部、というわけか」

 

「そういうことだ」

 

 話が一区切りついたところで、二人は地理資料室へ着いた。ゼンゼが重厚な扉を開く。中には協会が収集してきた精巧な地図や村落の情報が、棚ごとに並べられている。

 

 壁沿いの書架には、膨大な量の巻物や書物が収められている。大きな机の中央には詳細な大陸地図が広げられ、その上には細かな文字や記号がびっしりと記されていた。タヴはオイサーストから北東へ地名を追い、丘陵と森に挟まれたリューデル村を見つける。

 

「リューデル村はオイサーストから北東に馬車で一日半の距離……。村の東には深い森があり、西側と北側は丘陵地帯に囲まれている、と」

 

 タヴは指先で地図上の位置を辿りながら、村へ入る道と、丘陵の向こうにある坑道の方角を確かめていく。

 

「村の中心には古い石造りの井戸があって、そのすぐそばに大きなオークの樹が立っている……」

 

 タヴは井戸とオークを起点に、村へ入る道と丘陵の裾、東の森までを指先で辿った。

 

 タヴが地図上の位置を確かめる横で、ゼンゼは《自身の髪の毛を自在に操る魔法》を使い、調査用の巻物と魔導具を鞄へ収めていた。数束に分かれた灰茶色の髪が、両手だけでは追いつかない準備を同時に進めていく。タヴの目が地図からその動きへ移った。

 

「あんたは随分と野外調査に慣れていそうだな」

 

 タヴが問うあいだも、ゼンゼは作業の手を止めない。

 

「何度か古代の迷宮の攻略や遺跡の調査にも関わったことがある。私は研究室に籠って書物を眺めているよりも、実際に自分の目で確かめる方が性に合っているらしい」

 

 髪の一束が、最後の巻物を棚から抜き出す。

 

「それは少し意外だな……あんたはどちらかというと、大量の書物に囲まれているタイプに見えたからな」

 

 ゼンゼは巻物の紐を髪の先で結びながら答えた。

 

「書物や文献を調べることも嫌いではないが、外の世界には本だけでは決して理解できないものが無数に存在する。君のような異界の存在を知って、改めてそう感じたよ」

 

 タヴは巻物を揃える髪束の動きを追い、今度は術について問いかけた。

 

「その髪の毛を操る魔法も相当器用だな……。髪を媒介にする術なら、髪を長く伸ばした方が魔法の効果は高まるだろうが、その長髪は日常生活ではかなり不便じゃないのか?」

 

 最後の巻物が鞄へ収まるのを待って、ゼンゼは答えた。

 

「確かに髪が長いほど魔法の精度は高まる。ただ、日常生活においては煩わしさが地獄のように増える。正直、それについてはあまり考えたくもないほどだ」

 

「なるほど、実用性との兼ね合いか……」

 

 タヴは納得して地図へ目を落とし、村から坑道へ続く線を指先でなぞった。準備を終えたゼンゼは鞄を閉じ、タヴへ視線を向ける。

 

「そういえば、君はこちらの世界に来てからしばらく経ったが、普段の生活にはもう慣れたのか?」

 

「完全に馴染んだとは言えないが、少しずつ慣れてきている」

 

 タヴは村から坑道へ続く線を地図で確かめながら言った。

 

「食べ物や習慣、言葉の違いにも最初は戸惑ったが、この世界では、比較的理解のある者と出会うことが多くて助かっている」

 

「それなら良かった。協会にいる間は、君が問題なく過ごせるよう私も気を配るつもりだ」

 

 タヴは短く礼を返し、地図を元の位置へ戻した。ゼンゼは閉じた鞄を引き寄せ、尋ねる。

 

「それで、《Teleport(瞬間移動)》の準備は整ったか?」

 

「ああ。村から坑道までの方角も確かめた。《Teleport(瞬間移動)》の準備はできている」

 

 二人は互いに頷き、地理資料室を後にする。重厚な扉が背後で閉じ、足音だけが廊下へ移っていった。

 

 協会の廊下を抜け、ゼンゼとタヴは屋外広間へ向かった。タヴは無言で歩きながら、リューデル村の井戸とオーク、そこから坑道へ続く道を頭の中で重ねていく。ゼンゼは同じ歩幅を保ち、曲がり角ごとに進路の先へ目を配った。

 

 広間に到着すると、二人は中央の空いた場所へ足を踏み入れた。柔らかな陽光が満ち、空はどこまでも澄み渡っている。周囲では協会の魔法使いや職員たちが談笑や作業をしていたが、タヴが転移の準備を始めるのに気付くと、手を止めた者から視線が集まってきた。

 

 タヴはポーチから、シュタルクに借りた木彫りの飾り──《関連する物体》を取り出して右手に握りしめた。周囲をぐるりと見回し、しっかりした声で呼びかけた。

 

「これから《Teleport(瞬間移動)》を発動する。魔力の影響が周囲に及ぶ可能性があるから、関係のない者は離れてくれ」

 

 周囲にいた魔法使いや職員たちは即座に反応し、広間の縁まで距離を取った。談笑の声が途切れ、全員が異界の魔法使いの手元を遠巻きに見守る。

 

「これで大丈夫だな」

 

 ゼンゼが風の届かない距離を見渡して言うと、タヴは短く頷く。右手の木彫りへ視線を定め、足を肩幅に開いて集中を始めた。足元で生まれた風が渦を巻き、次第に力を増しながら立ち上がる。見守る者のローブまで裾から揺れ始め、広間の会話は完全に途切れた。

 

 タヴの瞳には青白い閃光が宿り、嵐を操る彼特有の魔力が鼓動を刻むように高まっていった。周囲の風はさらに勢いを増し、激しくなびく彼の髪やローブを舞い上げる。足元から青白い稲妻が生じ、ゆらめく魔力の渦は周囲の空間を揺らめかせ始めていた。

 

「嵐を司る魔力よ、俺の血脈を通じて扉を開け……」

 

 タヴの低い声が風の中を貫く。傍らのゼンゼはまぶたを閉じ、四拍で息を吸い、同じ長さで吐いて身体の揺れを抑える。タヴは《関連する物体》を握った右手をさらに掲げ、魔力を集中させる。発動を前に、リューデル村の井戸とオーク、その周囲の空間が頭の中で一点に重なった。

 

「俺たちを運べ、《Teleport(瞬間移動)》──!」

 

 タヴが鋭く声を上げると同時に、青白い稲妻が地面を激しく駆け抜け、風が猛然と吹き荒れた。渦巻く魔力は一気に頂点に達し、巨大な魔力の柱となって二人を覆う。周囲にいた魔法使いたちは思わず目を細め、その強烈な魔力の輝きを見つめていた。

 

 二人の身体が強い光とともに空間へ溶け、輪郭を失って消える。突風は中心へ吸い込まれるように収まり、煽られていたローブの裾が順に落ちていく。詠唱も風音も途絶えた中、見送った魔法使いたちは二人の消えた位置へ目を向けたままだ。広間にはただ穏やかな陽光だけが降り注いでいた。

 

 *

 

 薄く雲がかかった空の下、ソリテールとリヴァーレはヴァイゼ周辺の丘陵地帯をゆっくりと歩いていた。先ほど破壊したギスヤンキの位相アンカーの残骸がところどころに無残に散らばり、破壊による魔力の残滓が周囲の空気を微かに振動させている。強力な魔術が放たれた痕跡が、この地に濃密に刻まれていた。

 

 リヴァーレが以前のギスヤンキ・ナイトとの決闘で負った火傷は、すでに傷痕がほとんど残らないほど癒えていた。あれほど重度の火傷が短期間でここまで回復したのは、大魔族の身体に強力な自然治癒能力が備わっているためだ。

 

 少し離れた場所では、道中で遭遇し従わせた二体の野良魔族が、倒れたギスヤンキたちの遺体を興味深げに探っていた。もとはヴァイゼ付近の丘陵を無秩序に徘徊し、獲物を見境なく狩っていた危険な魔族たちである。

 

 そこへ通りかかったギスヤンキ偵察隊の襲撃を受け、二体は逃げ場を失った。間へ割って入ったソリテールとリヴァーレが偵察隊を退けると、野良魔族たちは二人の魔力を前に武器を置き、即座に服従した。今では命令に従う従者として働いている。

 

「ギスヤンキとかいう奴らは複雑な武器を使うんだな……」

 

 一体は声を漏らしながら、手に取った奇妙な形のクロスボウをまじまじと眺め回していた。横ではもう一体が、銀色に輝く特殊な剣──ギスヤンキの銀剣を拾い上げ、しげしげと観察していた。

 

 リヴァーレは腕を組んだままその様子を一瞥し、すぐ丘の先へ視線を逸らした。一般に、魔族は人類が生み出した魔法や技術へ興味を示さない。だが異界から来たギスヤンキの装備には、さすがに好奇心を刺激されたらしい。ソリテールはクロスボウを覗き込む野良魔族の傍へ歩み寄り、弦、装填部、銀剣の順に指を向けて解説を始めた。

 

「それは魔導工学的に強化されたクロスボウよ。弦を自動的に引き絞り、矢の装填まで補助してくれる機構が内蔵されている。この世界で一般的に使われているどのクロスボウよりも速射性が高い……まあ、頻繁に精密な整備が必要だけれどね」

 

 一体が「これは便利だ……」と感心して呟くと、もう一体は銀剣を手に取り、好奇心を隠さず問いかけた。

 

「この銀剣はどうなんだ? 特殊な魔力を感じるが」

 

「それはギスヤンキの伝統的な武器ね。アストラル界由来の特別な銀を使っている。持ち主の精神と魔力に直接共鳴して、まるで身体の一部のように自在に操れる仕組みになっているのよ。剣自体が強い魔力を宿しているから、使い手が強ければ強いほど真価を発揮するわ」

 

 ソリテールが解説すると、二体の野良魔族はその魔導的な装備品を表裏から眺め、声を重ねて意見を交わし始めた。彼女は二体の手が銀剣の柄と刃を往復するのを黙って見ていた。

 

「ただ、一つ忠告しておくと……ギスヤンキは自分たちの装備が外部に渡ることを極度に嫌うわ。特に銀剣に関しては、失ったとなれば必ず奪い返しに来る。命が惜しいならさっさと手放した方が身のためね」

 

 ソリテールが忠告を言い終えた途端、野良魔族たちの手が止まる。二体は顔を見合わせ、クロスボウと銀剣を元の位置へ戻し、揃って一歩退いた。その様子にソリテールが口角を上げる。リヴァーレは組んでいた腕を解かず、彼女へ顔を向けて口を開いた。

 

「随分とギスヤンキの文化に詳しいじゃないか。連中について研究でもしていたのか?」

 

「もちろん研究はしているわ。今やギスヤンキはそこら中にいるし、それに加えて情報提供者もいたから」

 

 リヴァーレはその言葉を聞き、尋ねた。

 

「情報提供者……もしや、界を穿った、あの変わり者のことか?」

 

 ソリテールは砕けた位相アンカーへ一度目をやって返した。

 

「ええ、あいつよ。向こう側の勢力をこちらに引き入れた張本人だけあって、異界の事情にはとりわけ精通しているのよ。ありがたいことに、そのせいでギスヤンキの研究も随分と捗ったわけだけれど」

 

 リヴァーレは軽く頷いた。

 

「なるほどな……。それならお前が詳しいのも納得だ」

 

 ソリテールは周囲のギスヤンキの残骸を一瞥し、小さく息を吐いた。

 

「さて……これでギスヤンキの増援手段は一時的に潰れた。次はマハトを封じているヴァイゼの結界を本格的に解析しましょう」

 

 二人は野良魔族を伴い、ヴァイゼへ向かって移動を始めた。ソリテールが片手を肩の高さへ掲げ、指を開いて《飛行魔法》を発動すると、四体の身体は宙へ浮かび、そのまま滑らかにヴァイゼの方角へ空を進んでいった。

 

 ほどなく黄金郷ヴァイゼの近郊へ降り立つと、眼前には金色に輝く巨大な結界が街を覆って広がっていた。ソリテールは結界の前まで歩み出て、人差し指の腹をその表面へ当てる。触れた一点から微かな波紋が結界を伝って広がり、魔力の流れが薄く浮かび上がった。

 

「なるほどね……」

 

 リヴァーレは腕を組んだまま、ソリテールの後ろでその様子を見つめていた。野良魔族たちは結界と周囲へ交互に視線を巡らせている。その時、結界の奥から一つの気配が動き、足音も立てずこちらへ近づいてきた。その人影を見つけた二体は揃って後ずさり、片方が名を漏らす。

 

「あれが……七崩賢のマハト……!」

 

 結界の向こうからゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる者がいる。肩にかけた豪奢なマントは風を受け、裾だけが一定の幅で揺れていた。柔らかな赤紫の髪は背中へ流れ、歩みに合わせて毛先が遅れて動く。頭部には精緻で美しい二本の角が伸び、端正で中性的な容姿は彫刻のような美しさを湛えていた。

 

 凍りついた湖面のように澄んだ瞳は、ソリテールへ向いたまま揺れない。まぶたも口元も動かず、何を見て何を考えているのか読み取れなかった。マハトは足を止め、結界越しにこちらを見つめていた。

 

「久しぶりだね、マハト……」

 

 ソリテールは僅かに微笑み、結界越しにマハトへ話しかけた。だがすぐに笑みを自嘲へ変え、短く息を吐いた。

 

「と言っても、この結界のせいで私の声なんて聞こえないか……」

 

 ソリテールは結界に触れた指を残し、空いた手を何もない空間へ伸ばした。その瞬間、指先から揺らめく淡い魔力が浮かび上がり、そこに一冊の精巧な魔導書が姿を現した。表紙を親指で押し開き、結界に浮かぶ魔力の流れを一行ずつ術式と照合していく。

 

「これでも私はね……君が一世紀前に話した、人類との共存という夢物語の結末を見てみたいと思っているの。いつか必ず訪れる、その悲劇的な結末をね」

 

 傍で聞いていた野良魔族たちは顔を見合わせ、互いの耳元へ口を寄せて囁き合った。その横でリヴァーレはソリテールとマハトへ交互に目を向けている。ソリテールは開いた頁へ指を置き、言葉を続けた。

 

「でもね、その結末を見る前に人類と魔族が異界の者の手によって滅亡してしまうのは、さすがにつまらないわ……だからこそ君に加勢してほしいのよ」

 

 ソリテールは魔導書からゆっくり顔を上げた。指先では結界の解析を続けながら、同じ位置から動かないマハトをまっすぐ見据えて語った。

 

「なぜ君ほどの高みにいる魔法使いが、この結界を解除できないのかよく分かったわ。これは、人類の様々な国や民族の魔法理論が複雑に組み合わされている……まさに叡智の結晶ね。人類の魔法を深く理解していなければ、構造を紐解くこともできない。魔族には破れない術式だわ」

 

 ソリテールは結界の魔力を指先で丁寧に感じ取り、小さく独り言のように呟く。

 

「ただ、生憎私は、好き好んで人類の魔法を研究している変わり者だからね……」

 

 その言葉を聞いたリヴァーレは小さく笑いながら近づき、ソリテールの肩越しから声を落として口を挟んだ。

 

「どうだ、その結界を解除できそうか?」

 

 ソリテールは解析を一時止め、リヴァーレへ軽く目を向けて小さく首を傾げ、答えた。

 

「そうね……時間さえあれば問題なく解除できると思うわ」

 

 言い終えると同時にソリテールは結界の解析を再開する。マハトは結界の向こうで足の位置も瞳の向きも変えず、その指先を見つめ続けている。やがて術式の照合を一通り終えたソリテールは、魔導書の頁を押さえたまま隣へ届く声で呟いた。

 

「少なくとも二ヶ月といったところかしらね、完全な解析には」

 

「二ヶ月か……」

 

 リヴァーレは結界の上空と周囲の地平へ視線を走らせ、続けた。

 

「前にここを調査していたギスヤンキ共が使っていた位相アンカーはさっき破壊したが……二ヶ月の間に、他の地域から増援が来る可能性はあるな。マインド・フレイヤーとかいう連中にもこの場所を発見されるかもしれぬ」

 

 リヴァーレは結界外の地平へ顔を向けた。

 

「まぁ、そうなった方が退屈はしないがな」

 

 ソリテールは解析の術式を次の頁へ移しながら答えた。

 

「敵が来た場合は都度対応しましょう。それに、今は『神技のレヴォルテ』が北部高原で派手に暴れているはずだし、私たちがここにいる間の時間稼ぎにはなってくれると思うわ」

 

 リヴァーレはソリテールへ顔を戻した。

 

「レヴォルテの動きはお前の指示か?」

 

 ソリテールは軽く肩を竦め、視線を逸らさずに応じた。

 

「まさか。あのレヴォルテが私の言うことなんて聞くはずがないでしょう? まあ、ほんの少し背中を押してあげるくらいはしたかもしれないけれど……」

 

 ソリテールはそこで言葉を切り、開いた魔導書へ視線を戻す。リヴァーレは腕を組んだまま結界を見上げ、向こう側のマハトはまぶた一つ動かさず、同じ位置から二人を見つめていた。

 

 *

 

 午後の日差しがリューデル村の屋根を照らし、暖かな風が畑を渡っていた。村の中心には古い石造りの井戸があり、その傍らで大きなオークの枝葉が地面へ影を落としている。村人たちはいつも通り、作物を手入れし、荷車に荷物を積み、井戸の周りで言葉を交わしていた。荷車は井戸の西側へ寄せられ、荷を待つ者たちはオークの木陰に集まっている。

 

 井戸前の空地で、穏やかな空気が不意にねじれた。晴れていた空の一角に雲が渦を巻き、低い風が地面の砂を円形に押し広げていく。

 

「ん……? 急に空が……」

 

 井戸端にいた村人の一人が異変に気づき、空を見上げる。直後、青白い閃光が雲から空地へ落ちた。轟音に近い魔力の震動が村の空気を揺さぶり、小さな稲妻が砂の上を走る。井戸の周囲にいた村人たちは手をかざし、オークの葉が激しく鳴った。

 

「な、何が起きたんだ……!?」

 

 村人たちが口々に声を上げる。青白い光は井戸前の空地で二つの輪郭へ縮まり、巻き上がった土埃の中にタヴとゼンゼが立っていた。二人の足が地面を捉えたあと、魔力を帯びた風が途切れ、砂だけが低く流れていく。タヴは右手を開き、木彫りに傷がないのを確かめた。シュタルクから借りた村の飾りをポーチへ大切に戻し、留め具を閉じる。

 

「魔法……?」

 

 村人の一人が小さく呟く。荷を運んでいた者は荷車の陰へ下がり、井戸端の者たちも桶を抱えてオークの根元へ寄った。誰も二人へ近づかず、井戸の周囲に半円を作るように距離を取っている。そこに立つのは、奇妙な取り合わせの二人の魔法使いだ。

 

 紺と白のローブをまとった若い男が、先に村人の目を引いた。右頬には見慣れない文様が走り、左右で色の違う瞳が、井戸の周りに集まった村人へ順に動く。背にはクオータースタッフ、右腰には刃の鋭いウォー・ピック。魔法使いの装いに不釣り合いな武器へ気づいた者から話し声を止めた。男は武器へ手を掛けず、空いた両手を見える位置へ下ろしている。それでも背の高さと未知の風貌に、村人たちは無意識に半歩ずつ道を空けた。

 

 もう一人は小柄で、少女のような顔立ちの女性だった。穏やかで整った顔つきだが、口元は一本の線を引いたように結ばれている。片方だけ見える瞳は、井戸端に集まる村人を端から端まで追っていた。華奢な身体を、紺色と白の装飾が施された魔法使いの衣装で包む。肩には旅人が好んで用いる革製の携行鞄。非常に長い灰茶色の髪は風に一度持ち上がり、遅れて背中へ落ちた。隣の青年よりずっと小柄で、身長差はゆうに頭一つ分以上ある。

 

 二人の突然の出現に、村人たちは互いの顔を見合わせる。若い魔法使いの男──タヴは空いた両手を見せ、村人たちへ僅かに頭を下げた。

 

「驚かせてすまない。俺たちは大陸魔法協会の魔法使いだ。決して怪しい者ではないから安心してほしい」

 

 彼の言葉に村人たちはわずかに肩の力を抜いたが、二人へ向けた目はまだ離れない。その時、やや遅れて村の奥から初老の男──村長が息を弾ませながら駆けてきた。

 

「あ、あなた方は大陸魔法協会から……? もしや、あの坑道で見つかった触手の怪物──マインド・フレイヤーの一件でいらしたのですかな?」

 

 村長は二人を見比べてから、タヴの顔へ視線を戻した。ゼンゼはその問いを引き取り、聞き取りやすい速さで答えた。

 

「ええ、その通りです。マインド・フレイヤーの件を調査するために参りました」

 

 村長は深く息をつき、上がっていた肩を下ろした。

 

「それは本当にありがたい……。先日、冒険者の方々がその怪物を討伐してくださった後に、協会へ連絡して人員の派遣を頼んでくださると言っておられましたが、お二人が駐留のために派遣された方々なのですか?」

 

 村長の言葉にゼンゼはわずかに首を振り、相手の目を見て答えた。

 

「いえ、私たちは村に駐留する正式な人員ではありません。今回、一時的に坑道の件を調査するためだけに来ました」

 

「なるほど、そうでしたか……」

 

 村長の肩が一瞬落ちる。それでも背筋を伸ばし、胸の前で両手を揃えて言葉を続けた。

 

「何はともあれ、協会の方々がこうして直接調査を行ってくださるならば、我々としても大変心強く思います。何か必要なことがありましたら、遠慮なくお申し付けください」

 

 タヴは掌を村長へ向けて頷き、その申し出に応じた。

 

「感謝する。俺たちはすぐに坑道へ向かい、調査を開始したいと思ってる。その過程で村の方々に協力をお願いするかもしれないが、よろしく頼む」

 

「もちろんですとも! 村を代表して、最大限ご協力させていただきます」

 

 村長が深く頭を下げると、村人たちも互いの顔を見てから頭を下げた。ゼンゼは一人ずつに目を向け、最後に村長へ視線を戻した。

 

「では、さっそく坑道へ向かいましょうか。村長殿、場所をご案内いただけますか?」

 

 ゼンゼが村長へ身体を向けて申し出ると、村長は背筋を伸ばして答えた。

 

「もちろんですとも。坑道は村の外れにございます。私がご案内いたしますので、こちらへどうぞ」

 

 村長は数人の村人を伴い、村の外れへ歩き始めた。タヴとゼンゼはそのすぐ後ろに続き、残った村人たちは井戸端から背中を見送る。木立の間を縫う道には所々草木が生い茂り、奥へ進むほど午後の空気がひんやりと湿り気を帯びていった。

 

 道中、ゼンゼは前を行く村長との距離を詰め、横顔へ声をかけた。

 

「マインド・フレイヤーが討伐されてから今日に至るまで、何か村におかしな変化や異常な現象はなかったでしょうか?」

 

 村長は顎を撫でてしばらく道へ目を落とし、首を横に振った。

 

「いえ、幸いなことにあの日以来、特に変わったことは何も起こっておりませんな。村も以前の平和を取り戻しております。村民たちも不安が残りつつも、日常に戻れているようです」

 

「なるほど……」

 

 ゼンゼは村長の話に一度頷くと前方へ視線を戻した。歩幅を変えずにタヴの側へ頭を傾け、村長へ届かない声量で話す。

 

「今のところ村に被害は出ていないみたいだな」

 

「そうみたいだな。ただ、この地域に送り込まれたのは秘術使いを含む異端者だからな。単純なコロニー拡張が目的ではない可能性が高く、村に手を出さなかったのは、目的に含まれていなかっただけかもしれない……油断は禁物だ」

 

 タヴは岩陰へ目を配ったまま返した。ゼンゼも前を向いたまま一度頷く。

 

 二人は村長や村人たちの先導に従い、坑道の入口へ歩を進める。途中の草地や岩陰に異常は見当たらず、柔らかな午後の日差しと穏やかな風が頬を撫でた。それでもタヴは岩陰ごとに足を緩め、ゼンゼも先導する村人たちの肩越しに道の左右へ視線を走らせた。

 

 やがて坑道の入口が目の前に現れる。岩肌をくり抜いた入口は縁が崩れ、奥から流れ出す冷たく湿った空気が、垂れた蔦の葉を外側へ揺らしていた。村長は坑道を前に足を止め、胸元で両手を組み合わせて二人へ向き直った。

 

「ここが例の坑道の入り口です。あの異形が現れて以来、誰も近づかなくなっていましたが……冒険者の方々が討伐してくださった後も、村人たちは不安から近づきませんで……」

 

 タヴが坑道の入口に辿り着いた途端、首筋に冷気とは別の痺れが走った。かつて人々が利用していたはずの坑道は見る影もなく荒れ果て、入口の周囲には生い茂る蔦と草木が絡まり、奥は息苦しいほどの闇が広がっている。坑道の深部から漂い出す湿気を含んだ冷たい空気は、肌へまとわりつくように流れてきた。

 

 タヴの内にある《嵐の魔法》が胸の奥でざわめき、皮膚の下を細い稲妻が走る。瞳に青白い光が揺らぎ、足元で生まれた風が蔦の先を巻き上げて消えた。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 ゼンゼは渦巻いた風の消え際を目で追い、眉をひそめて小声で問いかけた。

 

「ああ……ここはよくないな。村の人たちは戻ったほうがいいだろう。何かが坑道の奥にいるかもしれない。村へ戻る道を急いで引き返してくれ」

 

 タヴの声が低くなる。村人たちの間で視線が交わされると、村長が片手を上げて戻るよう促した。一行は坑道入口に背を向け、早足で村への道を引き返す。何人かは肩越しに坑道を振り返ったが、足は止めなかった。

 

 村人たちが曲がり角の先へ消えたのを確かめ、ゼンゼはタヴへ顔を戻した。

 

「そこまで警戒するほどとは……よほどの異常が感じられたか」

 

「まだ確証はないが、何か普通じゃない気配が漂っている。慎重に進む必要がある」

 

 二人は視線を交わし、タヴが先に坑道口を越える。ゼンゼは半歩後ろから内部へ続いた。

 

 坑道に足を踏み入れた途端、周囲を取り巻く闇が一層濃くなる。だが《Devil's Sight(悪魔の目)》を通したタヴの視界には、湿った岩肌の亀裂も、先で折れた支柱も輪郭を失わず浮かんでいた。彼は天井の高さと足元を確かめてから、ゼンゼを半歩後ろへ通す。

 

 微かな湿り気と腐朽した木材の匂いが鼻を刺激し、周囲の岩肌は不気味な苔に覆われていた。坑道の奥へ進むほど空気は冷たく、魔力の微かな痕跡が二人の肌に刺さるように伝わってきた。

 

 タヴは背のクオータースタッフ──秘術焦点具を右手に取り、ゼンゼだけへ届く低さで呪文を唱えた。

 

「《Detect Magic(魔法の感知)》」

 

 クオータースタッフの先から見えない波が坑道を進み、壁や床へ染みついた魔力の残滓が、色の違う滲みとなってタヴの感覚へ返ってくる。彼は呼吸を一定に保ったまま、その奥へ別の術式を重ねた。

 

「《See Invisibility(不可視視認)》」

 

 坑道の闇が薄い膜のように揺らぐ。空間へ身を隠したものの輪郭も、物質界へ霧のように重なるエーテル界の影も見落とさぬよう、タヴの視界は岩壁の表面から、その向こう側へ焦点を移していった。

 

 一方、ゼンゼも髪先を床から浮かせ、息を長く吐いて魔力を高め始めた。まぶたを閉じ、タヴの声へ重ならない音量で詠唱する。

 

「《グリューエン(闇を見通す魔法)》」

 

 ゼンゼの瞳が一瞬銀色に輝き、坑道の闇は彼女にとっても鮮明な視界に変わった。さらに意識を集中し、微細な魔力や不審な動きを探る範囲を広げていく。長髪の数束は左右の壁際と天井近くへ伸び、死角を順に探った。タヴはクオータースタッフの先を前へ出し、ゼンゼは半歩後ろから続く。二人は互いの探知範囲が重なる距離を崩さず、曲がり角のたびに先頭を入れ替えながら坑道の奥へ踏み込んでいった。

 

 坑道には二人の足音と抑えた呼吸だけが響いていた。奥へ進むほど歩幅が狭まり、靴底は崩れた石を避けて置かれる。壁や天井の隙間から細かな砂塵が落ち、遠くでは水滴が一定の間隔で岩盤を叩いている。水音は分岐に当たるたび左右から重なり、奥行きを測りにくくしていた。タヴがクオータースタッフの先で足元の石を退けると、その音だけが先へ走り、暗がりの向こうから遅れて返ってくる。

 

 ゼンゼの髪先が壁際の支柱をなぞると、湿気を吸った木肌が薄片になって剥がれた。彼女は髪をすぐに引き戻し、床へ落ちた木屑を踏まずに跨ぐ。二人の通過で生じた気流だけでも、頭上から砂がぱらぱらと降った。

 

「坑道というより……墓所だな」

 

 タヴは低い声で呟きながら、手にしたクオータースタッフを強く握り直した。同時に、坑道の奥から異質な何かの気配が伝わってきた。

 

「……!」

 

 曲がり角へ届く前に、タヴの鼻の奥がつんと痛んだ。坑道を抜ける微かな風へ、金属を舐めたような酸の臭いが混じっている。足を止めて息を浅くすると、身体の内で《嵐の魔法》の気流まで逆向きにざわめいた。両目の奥に小さな稲妻が灯り、暗い通路の縁が一瞬だけ白く浮く。

 

「どうした? 何か感じたのか?」

 

 ゼンゼが即座に声を潜め、前へ伸ばした髪先を止めずにタヴへ顔を向ける。

 

「間違いない……この臭いは酸だ。坑道の奥に何かが潜んでいる」

 

 ゼンゼは返事の代わりに髪先を前へ送り、天井と側壁を交互に探る。タヴが一歩進むたびに半歩遅れて続き、二人は足音を抑えて坑道の奥へ向かった。酸の臭いは進むほど濃くなり、息を吸うたび鼻の奥へ刺さる。冷えた空気には湿り気が増し、狭かった左右の壁は少しずつ遠ざかっていった。

 

 やがて狭く崩れかけた通路が開け、前方に青白い明かりが見えてくる。天井は平らに削られ、同じ間隔で埋め込まれた魔力灯が奥まで続いていた。壁には工具で均した横筋が残り、床の両端には排水溝まで切られている。その広い地下空間の中央で、散乱した残骸だけが長い影を伸ばしていた。

 

「ここか……」

 

 ゼンゼは喉から息を漏らすように呟き、入口から奥まで視線を走らせた。空間の中央や奥には、激しい戦闘の痕跡が残されていた。坑道の床や壁には魔法による焦げ跡や破壊の跡が散乱している。数日前にフリーレンたちが討伐したマインド・フレイヤーやインテレクト・ディヴァウラーの遺骸が転がっているはずだった。

 

 しかしタヴはその光景を目の当たりにして息を呑んだ。そこにあったのは、単なる死骸ではなく、何らかの生物によって激しく食い荒らされた痕跡だった。マインド・フレイヤーの遺骸は引き裂かれ、内臓が剥き出しとなり無残に散乱している。

 

 インテレクト・ディヴァウラーの死骸は、背から脚まで半ば液状に崩れていた。露出した骨も端から柔らかくなり、下の石床は今も細かな泡を噴いている。溜まった体液へ髪先が近づくと、粘液は糸を引いて追いすがった。曲がり角で嗅いだ酸臭が、ここでは喉の奥まで刺さる。

 

「これは……」

 

 ゼンゼの唇から息が漏れる。すぐに目を細め、遺骸から周囲の残骸、床の腐食跡へと順に視線を移した。タヴも地面に片膝をつき、酸に溶けた縁へ顔を近づける。

 

「マインド・フレイヤーの遺骸は脳だけを綺麗に取り除かれている……しかも身体の損傷具合からして、触手状の器官で強引に脳を摂取したようだ」

 

 タヴは腐食痕から目を離さず、その縁をクオータースタッフの先で示して分析を続けた。

 

「インテレクト・ディヴァウラーの死骸もまた、特有の強力な酸性体液でほぼ原形を失っている。このような捕食行動をとる生物は限られてくる」

 

 ゼンゼは坑道のさらに奥へ視線を向け、注意深く何かを探した。その瞬間、彼女の視線が壁の一角に注がれる。

 

「おい、あそこを見ろ」

 

 彼女の示した先には、坑道の壁に開けられた巨大な掘削跡があった。人の扱う道具で掘った跡ではなく、巨大な生物が穿ったとしか思えない。滑らかな内壁には、螺旋状の奇妙な模様が規則的に刻まれている。

 

「これはマインド・フレイヤーが掘った道ではない……」

 

 ゼンゼは掘削跡から目を離さず、唇だけを動かして呟く。タヴはクオータースタッフの先で足元を確かめながら穴へ歩み寄り、その内壁を確認した。滑らかに磨き上げられたかのような跡には微かに粘液質が付着し、強烈な酸臭が立ち昇っていた。

 

「間違いない……ネオセリッドだ。ここにあった死骸を食い荒らしたのはそいつだ」

 

「ネオセリッドとは何だ?」

 

 ゼンゼは掘削跡からタヴへ顔を向け、すぐに問い返した。タヴは穴の内壁を示したまま説明を始める。指先は、酸で硝子質に変わった箇所の手前で止まっていた。

 

「《脳変成》に用いられなかったマインド・フレイヤーの幼生がそのまま成長を続け、巨大化したものだ。ネオセリッドは本能的に知性ある生物の脳を好んで捕食する。だが知能は低く、行動を制御するのは極めて困難だ。だから奴らの文化において、ネオセリッドを生み出すことは許されない禁忌だ」

 

 タヴは一度言葉を切り、目を細めてさらに続けた。

 

「マインド・フレイヤーの幼生は本来、専用の培養水槽で厳重に管理されている。《脳変成》の儀式に用いるため、適切な餌を与えられて成長をコントロールされるのが普通だ。しかし、何らかの理由でコロニーが崩壊し管理体制が破綻すると、餌を与えられなくなった幼生たちが共食いを始める。その末に一匹だけが生き残り、水槽を脱出し、周囲の生物を捕食して成長を続け、ネオセリッドへと進化することがある」

 

 ゼンゼは説明からタヴの意図を汲み取り、即座に返した。

 

「つまり君は、この坑道周辺にマインド・フレイヤーのコロニーが見つからないことを踏まえて、ここは意図的にネオセリッドを作り出すために用意された場所だと言いたいのだな?」

 

 タヴは「そうだ」と返し、広い天井から掘削跡まで視線を走らせて答えた。

 

「この空間がやたらと広く設計されている理由も、ネオセリッドを飼育・管理するためだと考えるのが妥当だろう。最初から兵器として利用しようとしていた可能性が高い」

 

 タヴは深く息を吐き、巨大な掘削跡の縁から天井へ視線を走らせながら考えを巡らせる。

 

「だが、この大きさまで育つには最低でも十年はかかるはず……どうやって急速に成長させたのか……?」

 

 タヴの最後の語尾が上がる。ゼンゼは眉間に皺を寄せ、坑道内に残された惨状を入口側から掘削跡まで見渡したあと、タヴへ顔を向けて返した。

 

「君が推測した通り……マインド・フレイヤーはこの坑道で新技術の実験を行っていたのかもしれないな……」

 

 ゼンゼはそう告げると、掘削跡へ顎を向け、そのまま付け加えた。

 

「だがそうだとすると、フェルン三級魔法使いたちが坑道に入った時点でネオセリッドの痕跡が見つからなかったのは気になるな……その巨大生物をどこに隠していたんだ? そしてなぜ今になって急に活動を始めたのか……?」

 

 ゼンゼの問いに、タヴは少し考えるように首を振って答えた。

 

「その不可解な点については調査が必要だな。ただ、今はネオセリッドに対処することが優先だ。あの怪物は鋭敏な精神感知能力を持っていて、高い知性を持つ生物の存在を遥か遠方からでも察知できる。まだ近くにいる──」

 

 タヴが言葉を終える前に、靴底から振動が伝わった。壁際の水溜まりへ円い波紋が広がり、床の小石が一斉に跳ねる。タヴがクオータースタッフを横へ構える隣で、ゼンゼの髪束も床から浮いた。次の揺れが二人の間へ亀裂を走らせる。

 

「下に何かいるぞ!」

 

 ゼンゼの警告が坑道に響く。その直後、亀裂の縁が泥のように崩れ、土石は水へ沈むように液状化した。

 

「これは……酸で地面が溶かされている!」

 

 タヴの足元から《Wind Soul(風の魂)》の疾風が噴き、崩れる縁から身体を後方へ押し出した。

 

 踵の下から岩が消え、飛び散った泥がローブの裾を追う。タヴは風を斜め後ろへ逃がして身体を半回転させ、亀裂の縁とゼンゼを同じ視界へ収めた。

 

「《フォルティーラ(瞬間的に跳躍力を強化する魔法)》」

 

 ゼンゼも跳躍力を強化し、足場が消える寸前に後方へ飛び退く。タヴは亀裂の右側、ゼンゼは左側の岩盤へ降りた。互いの姿を確かめた直後、元いた床が陥没し、泥状の土砂が両側へ噴き上がる。飛沫が壁を打つたび腐食音が坑道の奥へ走り、その中心から紫色の巨体が這い出してきた。

 

 最初に現れた触手が崩落口の縁へ吸いつき、岩をまとめて引き剥がす。続く二本が反対側へ突き立つと、亀裂は坑道の幅いっぱいまで押し広げられた。泥の中で大きな何かが身を返し、酸の臭気を含んだ熱い飛沫が二人の間を横切る。タヴはクオータースタッフで顔を庇い、ゼンゼは髪を薄い壁にして飛沫を逸らした。

 

 現れたのは、ネオセリッドだった。

 

 胴体は坑道を塞ぐほど太く、紫色を帯びた粘液状の体液に濡れて、光を鈍く反射させていた。頭部は四方向に裂け、そこから伸びる四本の太い触手が休みなく蠢いている。口腔から滴る腐食性の酸は床の岩盤さえ容易く溶かし、坑道へ強烈な臭気を撒き散らした。

 

「……なんだこれは……」

 

 ゼンゼは絶句した。自分の知るどの魔物とも違う姿を前に、四つに裂けた頭部と床を溶かす酸へ交互に視線を向けた。

 

「これがネオセリッドだ……」

 

 タヴは奥歯を噛み、四つに裂けた頭部から視線を外さない。かつて遭遇したどの個体とも比較にならない魔力が、兵器として育てられた巨体の全身から押し寄せてくる。内に宿る嵐の魔力がそれへ呼応し、クオータースタッフを握る指先まで痺れていた。

 

「マインド・フレイヤーにとって魔法使いの脳は最高の獲物だが……奴らにとってはなおさら特別なご馳走だ。坑道に入ったときから既に感知されていたのだろう」

 

 タヴは声を抑えたまま続ける。ゼンゼはその言葉を聞き、周囲へ髪先を巡らせながら、小さく唇を噛み締めた。

 

「結果的にここまで誘い込まれていたということか……」

 

 二人が即座に構えを取り直すと同時に、ネオセリッドは再び身体を起こし、強烈な咆哮を坑道内に轟かせた。その叫びは通常の音とは異なり、聴覚だけではなく精神を直接圧迫する魔力を帯びたものだった。

 

 タヴは激しい頭痛に襲われ、左手でこめかみを押さえる。右手ではクオータースタッフを離さず、魔力を高めて精神への干渉を押し返した。その隣でゼンゼも眉を歪め、額へ指を添えたまま呼吸を整え、ネオセリッドの恐怖の衝動を振り払う。

 

「こんなものを兵器として使うなんて、正気の沙汰じゃないぞ……!」

 

 ゼンゼの声は小さく震えていた。だが足は引かず、長い髪の先端をネオセリッドへ向けて精神を集中させる。

 

「全く制御できていないな……迷惑極まりないものを残してくれたものだ!」

 

 タヴは自身の魔力を解き放った。嵐の化身たる《嵐の魔法》の力が内側から湧き上がり、髪とローブを激しく翻す。《Wind Soul(風の魂)》に押し上げられた身体は地面を離れ、広い地下空間の天井近くへ昇る。タヴはネオセリッドの頭部より上へ出ると、クオータースタッフを構えたまま巨体を見下ろした。

 

 ゼンゼも無言で《飛行魔法》を発動し、タヴから横へ距離を取りながら浮上する。同時に灰茶色の長髪が魔力を帯び、無数の槍へ形を変えた。二人は巨体の頭部より高い位置で左右に分かれ、互いの射線が交差しない間隔を取る。髪槍はゼンゼの前方と左右へ扇状に広がり、下方のネオセリッドへ穂先を揃えた。

 

 ネオセリッドは巨体をのたうたせ、空中の二人へ四本の触手を繰り出した。その間から酸性の粘液が噴き出し、坑道の壁と床へ飛び散る。浴びた岩肌は白く泡立ち、煙を上げて溶けた。崩れた石は泥に変わり、触手が岩盤を打つたび足元へ流れ込んでくる。

 

 タヴはそれを回避しつつ反撃するため、空中で左手を高く掲げた。

 

「《Call Lightning(招雷)》」

 

 タヴは詠唱を終えると同時に、意識を雷雲へつないで術を維持する。

 

 彼の呼びかけに応じ、坑道の天井近くで雷雲が渦を巻く。暗い雲の中心が白く裂け、稲妻がネオセリッドの背へ幾筋も落ちた。雷光が濡れた岩壁を青白く染め、遅れて轟音が坑道を揺さぶる。天井から細かな石片が降り、酸の水溜まりが細かく跳ねた。

 

 しかし稲妻が落ちる寸前、ネオセリッドの周囲で精神障壁が厚みを増した。雷光は背を覆う膜の上で枝分かれし、分厚い外皮を浅く焦がしただけで散る。

 

 雷光が散るより早く、ネオセリッドは口腔を広げた。強酸性の粘液がタヴへ噴き出し、射線に触れた壁と床から腐食音と白煙が立ち昇る。

 

「まずい……!」

 

 タヴは《Wind Soul(風の魂)》の気流へ身体を預け、射線と直角に滑った。酸の柱がローブの端を掠め、その先の岩壁へ斜めに突き刺さる。ゼンゼがいない方向だと確かめたときには、蒸気を噴く壁面が崩れ、大きな穴を開けていた。

 

 タヴは回避の勢いを殺さず、《Quickened Spell(呪文高速化)》で次の術式を一息に縮めた。右手のクオータースタッフを胸元へ引いて雷雲との繋がりを保ち、風へ預けた身体がまだ横へ滑るうちに、空いた左手をネオセリッドへ突き出す。

 

「《Eldritch Blast(怪光線)》──落ちろ、《Call Lightning(招雷)》!」

 

 左掌から放たれた四条の魔力光線が、頭部を囲む精神障壁へ時間差で突き刺さった。一条目で紫の膜が窪み、二条目と三条目が同じ箇所へ食い込む。最後の光線が膜を内側へ押し込んだ瞬間、タヴはクオータースタッフを振り下ろした。

 

 雷雲が白く裂ける。光線の作った窪みへ稲妻が落ち、紫と青白の光が巨体の上で弾けた。障壁は一度、ネオセリッドの外皮へ張りつくところまで潰れる。だが裂ける寸前で押し戻され、四条の光を外側へ散らした。稲妻は分厚い背を斜めに焦がしたものの、肉まで届く傷にはならない。ネオセリッドは痛みより先に怒りを返し、四つに裂けた口をタヴへ向けた。

 

 その間に、ゼンゼの髪槍が左右と背後へ広がっていた。正面の障壁へ一斉にぶつけず、上から二束、脇から三束と角度をずらし、反応の遅れる場所を探っていく。だが穂先が近づくたび、精神障壁の紫光が先回りして厚くなる。最初の数本は横へ弾かれ、追わせた槍も表面を滑って岩壁へ突き刺さった。

 

 ゼンゼは弾かれた髪を空中で返し、今度は全ての穂先を右側の一点へ集める。槍は互いの後端を押し、一本の杭のように障壁を沈ませた。彼女はその窪みが戻る前に掌を向ける。

 

「通らないか……」

 

 《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》の白光が窪みへ重なった。それでも膜は破れず、髪槍と光をまとめて押し返す。ゼンゼが声を漏らした瞬間、ネオセリッドの触手が下方から跳ね上がった。一本が外側へ回って逃げ道を塞ぎ、別の一本が彼女の胴を狙って迫る。

 

「くっ──!」

 

 ゼンゼは攻撃に回していた髪を引き戻し、身体の前で幾重にも渦巻かせる。間に合ったのは半分ほどだ。触手は髪の盾を中央から押し潰し、衝撃が腕と肩まで突き抜けた。ゼンゼの身体が後方へ弾かれ、靴先が崩れかけた天井を掠める。それでも髪は触手を胴へ届かせず、巻きつく前に外側へ滑らせた。

 

 ゼンゼは弾かれた方向へ飛行の勢いを合わせ、天井へ衝突する直前で身体を水平へ戻した。盾に使った髪を左右へ解き、途切れかけた照準をネオセリッドへ結び直す。掌から放った次の《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》は触手の付け根を狙ったが、そこにも紫の膜が回り込み、白光を空中で砕いた。

 

 白銀光が障壁の表面で散ると、ネオセリッドは四本の触手を二人の間へ差し入れた。一本がタヴを天井近くへ追い上げ、別の二本がゼンゼを酸の水溜まり側へ押し込む。二人の射線が分かれた隙に、口腔が再び膨らんだ。

 

 ネオセリッドの咆哮で坑道が震え、四本の巨大な触手が別々の壁を打った。酸を吐き切った喉が萎みきらないうちに再び膨らみ、二射目、三射目が間を置かず飛んでくる。自然な個体の器官では耐えられない間隔だ。兵器として作り替えられた肉体は損傷も構わず酸を搾り出し、坑道の壁面と天井を白く泡立たせる。岩盤の成分が分解され、壁は触れた端から泥状に崩れた。天井にも亀裂が走り、坑道全体の骨組みが軋み始める。

 

「天井が崩れるぞ!」

 

 ゼンゼの警告と同時に天井が軋み、無数の岩石が二人の高度へ落ちてくる。ゼンゼは《レヴァレイド(短距離の空間を跳ぶ魔法)》を行使し、崩落線の外側へ移った。タヴも《Wind Soul(風の魂)》の風へ身体を傾け、落石の隙間を抜けながら、強酸が飛ぶたび上下へ位置をずらす。

 

 だが、ネオセリッドが身をよじるたび、坑道の床が下から突き上げられた。古い支柱の一本が中央から折れ、天井を走る亀裂が枝分かれしていく。次の一撃で別の支柱も傾き、組み上げられた梁が互いを押し潰す音を立てた。

 

 そこへ強酸が降りかかる。岩壁は触れた端から白く泡立ち、支柱の根元が泥のように崩れた。割れ目から噴いた地下水は熱せられて蒸気を上げ、溶けた土砂と混じって濁流となる。足場だった床が波打ち、側壁の一部が音を立てて内側へ倒れ込んだ。

 

 泥流の飛沫がゼンゼの髪槍の一本へ付着し、灰茶色の表面から細い煙が立つ。彼女は侵された先端だけを切り離し、残りを頭上へ回した。タヴは右手のクオータースタッフを支柱側へ向け、左手から風を噴かせて、二人へ傾いた梁の軌道を外へ逸らす。

 

 上からは落石、下からは泥と水が吹き上がる。坑道全体が一度大きく沈み、崩れた梁と岩塊が連鎖して落ち始めた。巻き上がった砂塵が、二人とネオセリッドの輪郭を急速に奪っていく。

 

 ゼンゼは髪槍の半数を頭上へ束ね、落石を左右へ弾く。タヴは崩れる天井と出口を交互に確かめながら風を噴かせたが、抜け道は岩塊に塞がれ、残る空間も一呼吸ごとに狭まっていった。ネオセリッドの触手が砂塵の中を横切るたび、さらに大きな岩塊が剥がれ落ちる。

 

「このままじゃ生き埋めになる!」

 

 ゼンゼが叫び、即座に後退しようとしたが、背後の出口は既に崩れ始めている。後退が一瞬止まり、目が崩れる出口と落石の続く天井の間を往復した。

 

「こっちだ、掴まれ!」

 

 落石が二人の間へなだれ込む寸前、タヴが叫んだ。《Wind Soul(風の魂)》の暴風を背に受け、岩の隙間からゼンゼの目前へ滑り込む。ゼンゼは頭上へ束ねた髪槍で最後の一塊を弾き、声の方へ右腕を伸ばした。タヴは空いている左手でその手首を掴み、二人の肩を寄せる。クオータースタッフを右脇へ固定したまま、《Dimension Door(次元扉)》を発動した。

 

 二人の姿は坑道から消失し、次の瞬間には崩落の届かない上空へ出ていた。転移直後もタヴの左手はゼンゼの右手首を掴んだままだ。空気を捉えた《Wind Soul(風の魂)》と飛行魔法がそれぞれの身体を支え、落下が止まったところで手を離す。ゼンゼの髪槍から小石が零れ、タヴのローブからは白い砂塵が風へ引かれていく。

 

 眼下では、坑道の通っていた地面が端から沈み、遅れて中央が爆発するように盛り上がった。砕けた岩盤と泥が土煙の中へ噴き上がり、坑道へ続いていた道の一部まで崩れていく。村は丘の向こうに隠れて見えない。崩落の縁がそちらへ伸びていないことを確かめてから、タヴは視線を真下へ戻した。ゼンゼも一度大きく息を吸い、崩落へ向いていた顔を隣のタヴへ向ける。

 

 急な高度差に耳が詰まり、地上の轟音が一瞬だけ遠のく。ゼンゼは唾を飲み込んで呼吸を整えた。

 

「助かった、礼を言う……あのままでは崩落に──」

 

 ゼンゼが礼の続きを口にしようとしたその時、地面が再び凄まじい勢いで隆起した。大地が盛り上がり、岩盤が砕け散りながら、巨大な紫色の影が激しい衝撃と共に地上へ姿を現した。

 

「地上まで追ってきたか……」

 

 ゼンゼの声が響く中、ネオセリッドは地面を引き裂き、紫の外皮を土砂の上へ押し出す。瓦礫が土煙の外まで転がり、咆哮の振動が二人の胸骨を内側から震わせた。土埃の中で四本の触手が別々の方角へ開き、先端が上空の二人を探って揺れる。次いで腹の下へ紫光が集まり、巨体が地面から離れ始めた。

 

「あの巨体で浮けるというのか……!?」

 

 ゼンゼは浮き上がる腹側へ視線を据えた。ネオセリッドの巨体には竜や翼獣のような翼も、飛行を支える筋肉もない。それでも腹部は地面を離れ、瓦礫が粘液を引いて落ちていく。

 

 腹側に幾重もの紫光が走り、飛翔する構造を欠いた巨体を持ち上げている。光の強さが前後で入れ替わるたび、高度と傾きも変わった。

 

「ネオセリッドもマインド・フレイヤーと同じ《サイオニック》を有している……《Levitate(空中浮揚)》もその一つだ」

 

 タヴは吐き捨てるように言い、右手のクオータースタッフを胸の前へ構え直す。眼下ではネオセリッドが触手を揺らしながら、二人との高度差を詰めてくる。押し上げられた空気が、二人の衣服と髪槍を細かく揺らした。

 

「あれが地上で暴れれば、リューデル村どころか周辺地域全体が壊滅するだろう。ここで奴を討つしかない……!」

 

 ゼンゼは髪槍を前方へ扇状に広げた。タヴはその左側へ並び、二人とも上昇してくる巨体へ正面を向ける。上下の間合いを保ったまま、再び迎撃態勢を整えた。

 

 *

 

 異界の漆黒の虚空に、歪な漂流岩が浮いていた。その内部を穿って築かれた秘密拠点へ、外から常に通じる道はない。周囲には道標となる星も航路の光もなく、封印された原始世界へ戦力を送り込む時だけ、岩の内側で次元の道が開く。

 

 基地の中心には、人の背丈を幾つも重ねたほどの水晶体が浮かんでいる。淡い燐光が表面を走るたび、エルダー・ブレインから届くテレパシーが基地の隅々まで伝わり、控える個体たちの触手がわずかに応じた。

 

 薄暗い室内を満たす魔力は、低く一定の間隔で脈打っている。数体のマインド・フレイヤーは声を発さず、触手をわずかに動かしてテレパシーを交わす。その足元には異形の魚人クオトアや、脳髄を這う小型の怪物インテレクト・ディヴァウラーなどの眷属が控えていた。

 

 位相アンカーから生じた激しい魔力波が、基地を満たす沈黙を裂く。水晶体はまばゆく脈動し、その前の空間が縦に歪む。光の輪郭が肉体へ収束し、異界から転移した禁忌の秘術使い──《秘術魔法》を自在に操る異端者のマインド・フレイヤーが、中継基地へ戻る。

 

 秘術使いは周囲を《サイオニック》で探り、目的の存在へ急ぐ。その先では、マインド・フレイヤー社会の貴族階級──ウリサリッドが水晶体を背に鎮座していた。エルダー・ブレイン直轄の極秘プロジェクトを監督する存在であり、四本の触手が持ち上がって秘術使いへ向く。

 

【報告いたします……。現地でネオセリッドの管理と飼育を担当していた班が壊滅し、坑道に設置した位相アンカーも破壊されました。さらにネオセリッドの緊急停止措置が発動せず、完全に制御を失っています……実験個体および記録の回収は困難です】

 

 秘術使いのテレパシーは文節ごとに途切れ、触手も小刻みに震えていた。報告を受け取ると、ウリサリッドの触手が強くしなる。秘術使いは飼育班とは別に、物資補給や位相アンカー整備のため離れた拠点へ配置されていた。飼育班の壊滅を免れたため、連絡が途絶えた現地を確認し、基地へ報告に戻れたのである。

 

【壊滅しただと……役立たずどもめ! 緊急停止措置は位相アンカーが破壊された際に自動で実行されるはずだ。なぜ正常に機能しなかった? ネオセリッドは今どうなっている!?】

 

 その精神波が空間全体を震わせ、足元のクオトアやインテレクト・ディヴァウラーたちは圧迫に身をよじった。秘術使いは震える触手を持ち上げ、テレパシーを送り返した。

 

【申し訳ございません……! 原因はまだ不明ですが、ネオセリッドが予想を超えた速度で進化し、停止措置に耐性を獲得した可能性があります。または、ネオセリッド胸腔内に埋め込まれた信号喪失を検知するグリフに何らかの異常が生じ、停止措置が発動しなかった可能性もあります。現在、ネオセリッドは坑道内に潜伏中と思われますが、このままでは現地人に発見されるのも時間の問題──】

 

【もういい、黙れ!】

 

 ウリサリッドは即座に秘術使いのテレパシーを遮り、全力のサイオニック念動力を放って支配下に置いた。激しい精神圧迫を受けた秘術使いの触手は、ぐったりと垂れ下がった。

 

【貴様らに現場を任せるべきではなかった……! この計画のために、どれほどの時間と膨大な脳髄を費やしたと思っている? エルダー・ブレイン様の威信が地に落ちたのだ……!】

 

 ウリサリッドのテレパシーが強まるたび、周囲の燐光が細かく揺れる。秘術使いはその精神攻撃へ抵抗できず、触手を垂らしたまま頭部を下げた。

 

【正直に答えろ。貴様が余計な真似をして、ネオセリッドの制御プロトコルに手を加えたのではあるまいな……?】

 

 ウリサリッドの問いが終わるより早く、秘術使いはテレパシーで答えた。

 

【違います、決してそのようなことは……! 私は即座に報告すべきだと判断し──】

 

【貴様の処分は後だ】

 

 ウリサリッドは秘術使いを遮り、周囲に控えるマインド・フレイヤーたちへ一斉にテレパシーを放った。

 

【対処班を編成せよ。現地のネオセリッドは直ちに処分し、計画の痕跡を抹消せよ。同時に現地に残存する実験記録を完全に回収しろ。失敗は決して許されぬ!】

 

 命令を受け取ったマインド・フレイヤーたちは各区画へ散った。クオトアが武器を拾い、インテレクト・ディヴァウラーが床を這って位相アンカーの前へ集まる。ほどなく対処班の列が形を取り始めた。

 

 対処班が動くあいだ、ウリサリッドの触手の先は水晶体へ向いたまま動かなかった。だが、エルダー・ブレインへ向けて報告の念を送り込むことはなかった。

 

【異端者どもを信用した私の失策だ……。ネオセリッドという忌まわしい存在を兵器化する計画など、最初から無理があったのか……】

 

 ウリサリッドのテレパシーが途切れ、四本の触手が二度大きく振れる。直後、全ての先端が同時に止まり、周囲の個体へ一語ずつ区切ったテレパシーを送った。

 

【準備が整い次第、即刻出撃せよ。我々の威信とエルダー・ブレイン様の名誉にかけて、任務を全うしろ】

 

 テレパシーによる命令が中継基地を貫くと、対処班が位相アンカーの前へ進み出た。先頭には指揮を執る一体を含む、古参のマインド・フレイヤーが四体。互いの触手が僅かに動くたび、クオトアの列が二つに分かれ、数十体がその前と左右へ壁のように並んでいく。インテレクト・ディヴァウラー四体は隊列の足元を縫い、門が開けば真っ先に周囲へ散れる位置で身を低くした。

 

 最後尾へ、マインドウィットニスが音もなく滑り込む。巨大な一つ目の周囲で十本の眼柄が別々の方向を向き、大口には吸血魚を思わせる円状の歯が並ぶ。その外側では、マインド・フレイヤー譲りの四本の太い触手が、クオトアの頭上を探るように蠢いていた。一つ目が位相アンカーへ向くと、眼柄も順に動きを止める。

 

 水晶体が輝きを増し、対処班の前で空間が縦に裂けた。向こう側の像はまだ結ばず、紫の魔力だけが猛烈な渦となって岩の床を照らしている。先頭の四体は一斉に歩みを進め、クオトアも間隔を崩さず後へ続いた。

 

 次元そのものが呻くような轟音の中、先頭のマインド・フレイヤーが光の渦へ踏み込む。姿が向こう側へ消えるたび、先頭の個体から後続へ進めというテレパシーが渡った。クオトアの列は間を空けず門へ吸い込まれ、足元を走るインテレクト・ディヴァウラーも順に見えなくなる。最後尾のマインドウィットニスは一つ目をウリサリッドへ向けたまま後ろ向きに進み、十本の眼柄が裂け目を越えたところで巨体も闇へ沈んだ。

 

 渦は両端から狭まり、細い紫の線へ閉じる。床を照らしていた光が消えると、基地には巨大な水晶体の脈動と、クオトアが残した濡れた足跡だけが残った。ウリサリッドは念動力で拘束した秘術使いへ触手の先を揃え、鋭いテレパシーを突き刺す。

 

【貴様の処分は計画の修正が済んでからだ。それまではここで待機せよ】

 

 秘術使いの触手が床すれすれまで垂れ、頭部も追うように下がる。返したのは、服従を示す一文だけだった。

 

【承知いたしました……】

 

 ウリサリッドは眼前の水晶体から目を離さず、一本の触手を胴へきつく巻きつける。水晶体の表面を燐光が走っても、エルダー・ブレインへ報告の念を送ることはなかった。

 

(全ての痕跡を消し去り、この計画の失態を挽回する──それが今の私に許された唯一の手段だ)

 

 ウリサリッド──名をクヴォラントという──は、眼前の水晶体へ触手の先を向ける。転送の光はすでに消え、位相アンカーの前に部隊の姿はない。水晶体の淡い燐光が一定の間隔で脈動し、そのたび拘束された秘術使いの影だけが足元でゆっくり、音もなく伸び縮みした。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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