オアース次元、フラネス地方のイストレス湾岸に位置する城壁都市アイアンゲート──アズール海に面した険しい断崖の上に築かれたこの都市は、幾重もの花崗岩の城壁に守られている。市内に聳える複数の高塔は朝霧の中で輪郭をぼかし、重い稜線だけが残る。現在この都市はデーモン軍に完全包囲されているが、多元安定機構から援軍が到着して以降、防衛線は少しずつ落ち着きを取り戻し始めている。
しかし、防衛準備が進む都市内部では混乱がまだ収まりきらない。魔法技術や産業基盤の中央集権化に失敗したフラネス地方では、それぞれの諸侯が独自の権益や立場を主張し、足並みが揃うことは稀である。結果として、他次元から流入する革新的技術や最新鋭の魔導工学兵器の導入は遅れ、防衛力の底上げも各自の腕力や魔力、昔ながらの設備に頼ったまま停滞していた。
本来であれば多元宇宙からもたらされる技術革新を積極的に取り入れ、迅速かつ効率的に防衛体制を整えるべきところだ。だが、アイアンゲートを含むフラネス地方は他界との外交や交易経験が乏しく、多元宇宙に広がる技術革命の恩恵を受ける機会がほとんどなかった。その事実は、このような次元規模の危機に直面したとき、地域の脆弱性をよりはっきりと示している。
こうした中、多元安定機構から派遣されたレンジャーやウィザードたちは、都市の城壁や市街地に次元間侵入探知装置を設置し、防衛ラインの補強を進めている。彼らが扱う見慣れぬ機器や術式は地元の兵士や術者にとって新奇に映り、戸惑いを隠せない者も多かった。それでも双方は手順を擦り合わせながら設置を続け、迫りくる脅威に備えて防衛体制を整えていく。
その頃、城砦内に設けられた鍛冶工房ではドワーフの英雄ブロックス・フレイムスミスが新たな《Steel Defender(鋼の護衛)》や特製の魔導クロスボウの調整を丁寧に行い、兵士たちへ具体的な指示を出していた。ブロックスが持つ鍛冶の技術とドワーフ特有の堅実さによって、この都市の防衛線は遅いが確実に強化されつつある。
作業を終えたブロックスは作戦指揮室へ向かい、多元安定機構から派遣されたヴィダルケンのウィザード、アゼリオンと合流する。アゼリオンは短い目配せでブロックスを迎え入れ、作戦地図の前へと歩み寄った。
「あんたの故郷ラヴニカは大丈夫なのか?今や多元宇宙の交差点みたいな場所になっているみてえだが」
ブロックスは広げられた作戦地図から目を外さないまま、ふと尋ねる。その口調には差し迫る危機への警戒と、異次元で繁栄するラヴニカへの関心が同居しているようだった。
ラヴニカ次元──今や多元宇宙の最大の中継拠点として栄えている世界。次元間高速鉄道が整備され、各ギルドが公認する形で様々な国際結社が設立されている。多元宇宙中から優れた技術や人材が集まり、多元安定機構とも緊密に連携しながら、各次元の秩序維持にとって重要な役割を担っている次元だ。
アゼリオンは軽く目を閉じ、落ち着いた口調で応えた。
「心配する必要はない。ラヴニカではアゾリウス評議会やイゼット連合をはじめとしたギルドがしっかり機能している。あそこは多元宇宙の混乱にも慣れているからな」
ブロックスは小さく笑って頬を掻く。地図から視線を離し、息を吐いてから続けた。
「そうか。それならいい。だが、オアースも他次元の技術をもう少し取り込めていりゃ、被害は抑えられただろうに」
ブロックスの言葉には、この地域の技術革新が遅れ、諸侯間の対立が招いた状況への嘆きが滲む。アゼリオンは地図から目を離さず、静かに頷いた。落ち着いた眼差しで地図上のアイアンゲートを追い、言葉を継ぐ。
「技術の遅れが被害を広げたのは否定できない。だが、いま必要なのは反省よりも、危機を越えた後に何を残すかの整理だ」
アゼリオンの整った口調が、作戦指揮室の張り詰めた空気を少し和らげる。ブロックスも地図を見つめたまま頷くが、表情から苦渋が完全に消えることはない。
「確かにな……俺たちができるのは、生き残った者たちの未来を少しでも守り抜くことだけだ」
ブロックスは淡々と話すが、声には迷いを抑えた硬さが混じる。彼は地図を見直し、ゆっくりとアゼリオンへ視線を移す。
「だが、オアースが技術革新に乗り遅れたのは、内部の問題だけじゃねえ。多元安定機構の存在が次元間交流の偏りを生んだことも一因だ」
ブロックスは言葉の端を整えるように息を吐き、続けた。
「機構が掲げる次元間の中立性──その理念自体は正しい。だが、機構の運営が特定次元からの援助に強く依存してしまっている構造に問題がある」
ブロックスは地図へ視線を戻し、そのまま話を進める。
「特にラヴニカのような高度な文明を持つ次元が、資金や人材提供という形でスポンサーになっている。組織の存続には特定次元からの支援が不可欠になり、政治的な判断も入りやすい。その結果、技術力や資源に乏しい次元への対応が後回しになるケースが出ている」
アゼリオンは否定も肯定もせず、話を促すように黙って聞く。
多元安定機構はあらゆる次元の安定を守るために設立された組織だが、活動資金や人材の多くをラヴニカをはじめとする高度な文明を持つ次元から提供されている。そのため、完全な中立性を標榜しつつも、実際にはスポンサーとなる次元の意向や政治的圧力を無視できなかった。ラヴニカのような高度文明次元への対応が優先され、オアースのような発展途上の次元は結果的に置き去りにされることが多かったのだ。
ブロックスはもう一度、深く息を吐いた。
「タヴの件もまさにその象徴だった。あの子が引き起こした次元災害がスポンサー次元にまで影響を及ぼしたことで、機構内部の政治的な圧力が強まった。そして、タヴの強制排除という非情な決定がなされた」
ブロックスは一度言葉を止め、苦い記憶を手繰り寄せる。
当時、タヴが抱える魔力の潜在的な危険性は極めて高かった。タヴ自身が意図しなくとも、その特異な魔力は次元秩序を乱すほどに暴走し、世界そのものを破壊しかねないと評価された。不可抗力とはいえ、タヴが引き起こした次元災害は多元宇宙全体に深刻な脅威をもたらしたのだ。
加えて神々の意思も、機構の判断に影響を与えた。特に厳格な監視と秩序を司るヘルムや、運命を見通し秩序を維持することを至上とするサヴラスといった神々は、タヴの潜在的脅威を即刻排除することに賛同を示した。彼ら神格にとって、次元秩序への脅威となる存在を放置することは到底容認できないことだったからだ。
「俺にはどうしても受け入れられなかった。タヴを封印することで次元災害の脅威を防げたもしれねえが、あの子自身の未来を奪うことになるからな」
ブロックスは作戦指揮室の地図を見つめたまま、長く息を吐いて告げた。その声には当時の葛藤が残っている。アゼリオンもその言葉を受け止めるように目を閉じ、短く頷いた。
「多元宇宙にとって……神々にとって正しい選択だったかどうかは分からないが、お前の判断がタヴという個人を救ったのは事実だ」
作戦室に短い沈黙が落ちる。やがてブロックスは思い出したように口を開く。
「そういえば、ラジエルが多元安定機構を去った理由も未だにはっきりしねえな。あいつは機構のやり方に賛同していたはずだが……なぜミストラに仕えるようになったのか……」
アゼリオンはその問いにわずかに反応し、頷いてから口を開くまで一拍置いた。
「ラジエルの真意は私にもわからない。だが、彼が機構を去る少し前にタヴと占術魔法の訓練をしたことがあってな……。あの日の彼はいつもとは少し違っていた」
アゼリオンは当時の情景を思い起こし、落ち着いた声で語り始める。
多元安定機構の訓練施設。広々とした魔法訓練室の中央で、幼いタヴが不安げな表情で立っていた。タヴの前には、機構のウィザードやアーティフィサーたちが集まり、異界での交渉に必要な《Divination(占術)》系魔法──《Tongues(言語会話)》や《Comprehend Languages(言語理解)》を教えようとしていた。
術者たちが指導を続けていたのは、タヴの並外れた魔法の潜在能力に期待していたからでもある。加えて、タヴが魔力の暴走で次元災害を再び引き起こさないよう、制御方法を身につけさせる責任が彼らにあった。
「《Comprehend Languages(言語理解)》とは、術者自身の知覚と認知に直接作用する占術魔法であり、発話や書かれた言語情報の字義的意味のみを理解可能とするものだ。ただし、これは文字通りの意味を捉えるに留まり──」
「《Tongues(言語会話)》という魔法は、言語理解の範囲を超えた双方向的な翻訳を可能とする高度な占術魔法である。この魔法を付与された対象は、自分が耳にしたあらゆる言語を理解し、さらに自身が発した言葉は周囲に存在する言語能力を有するあらゆる存在に自動翻訳され──」
術者たちは学術的な用語を交えながら説明を重ねるが、当時まだ共通語を覚えて間もない幼いタヴにとって、その理論は理解の範囲を超えていた。タヴの表情には困惑が滲み、次第に混乱が増していく。それでもタヴは役立たずとして見捨てられることを恐れ、必死に理解しようとしていた。
そのとき、訓練室の隅から冗談めいた口調が割り込む。
「ずいぶん難しい言葉を並べているじゃないか。タヴくんは共通語すら覚えたばかりだろうに」
術者たちが振り返ると、次元管理官ラジエルの飄々とした姿があった。ラジエルはタヴの前まで歩み寄り、術者たちへ軽く肩をすくめてみせる。
「占術魔法は理屈も大事だけど、ここにいるのはソーサラーだ。実演して体験させれば、すぐに直感的に理解するさ」
ラジエルは膝を折って視線の高さを合わせ、柔らかな微笑を浮かべながら、敢えてアウラン語で語りかけた。
「Syae Tav, laeris en'thal selai “Comprehend Languages” syr thal, shael ler lithra na(タヴ君、《言語理解》とは、君が誰かの言葉を聞いた瞬間、その意味が自然と君の心に届く魔法だ)」
ラジエルの言葉が耳に届いた瞬間、タヴの瞳に驚きの色が浮かんだ。タヴが困惑していた大きな理由は、多元安定機構の術者たちが共通語で難解な理論を説明していたことにある。ラジエルは共通語より、タヴが生まれつき《Wind Speaker(風の語り手)》として習得しているアウラン語で話した方が理解できると把握していた。タヴにとって、アウラン語で直接説明される魔法理論は今までになく明確に届いた。
ラジエルは《Comprehend Languages(言語理解)》を自らにかけ、隣にいた術者へ視線で促す。
「君、何か辺境の地方語で話してみてくれないか?」
その術者は頷き、見知らぬ次元の言語で静かに話し始める。
「Elaris vel'thor narima. Syth kaer isthar en」
するとラジエルは間を置かず、その内容をアウラン語へ移してタヴに伝えた。
「Aeris sythal, i'thera velas noril──Fela isthal, syltha nim astari(我々は星を見上げ、答えを探している──これが《言語理解》の効果だよ。君にも必ずできるようになるさ)」
続いてラジエルはタヴの肩に触れ、静かに《Tongues(言語会話)》をかけた。ラジエルはその魔法について共通語で説明するが、言葉は魔法によって自動的にタヴの理解できる言語──アウラン語へ翻訳され、脳内で明確に意味を結ぶ。
「いいかい、タヴくん。《Tongues(言語会話)》という魔法は、君が話したいと思ったことを相手に通じる言葉へと自動的に変換する魔法だ。言葉を作ろうとする必要はない。伝えたい内容に集中して、口に出せばいい」
タヴは最初、恐る恐る口を開いた。だが効果を確かめると目を見張り、小さな声でラジエルに言葉を返し始める。
「僕、あなたが怖い人だと思っていました。だって、あなたは僕を封印しようとしたから……でも、本当は優しい人なんですね。ありがとうございます」
その幼く真摯な告白に、ラジエルは一瞬だけ目を見開いた。直後、ラジエルの意識に短い幻視が割り込む。それは本来夢の中でしか訪れない──《Greater Portent(大いなる予兆)》。高位の《School of Divination(占術学派)》のウィザードが得る鮮烈な未来の幻視である。ラジエル自身にも予期せぬ、突発的で異例の出来事だった。
一瞬のうちに、ラジエルの心にはタヴを巡る明瞭で避けがたい未来が垣間見えた。何らかの運命的な力が示したかのように、内容ははっきりとしている。だがラジエルはそれを即座に理解できず、動揺を隠し切れないまま小さく首を振ってタヴに応えた。
「残念だけどタヴ君、僕は優しい人じゃないよ。ただの自分勝手なウィザードさ。でも、君は自分の未来を信じて進むといい。この魔法が君の将来を拓く鍵になるかもしれないね」
ラジエルは静かな笑みを作ってそう言い、少しだけ考え込むように遠くへ視線を向けていた。その短い指導が終わって数日後、ラジエルは次元管理官の職を突如として辞め、多元安定機構を去ってしまった。
記憶の話を終えたアゼリオンは、そのまま落ち着いた口調で続ける。
「あの指導を境に、タヴは占術系魔法を徐々に習得し始め、最終的には自力で《Tongues(言語会話)》と《Comprehend Languages(言語理解)》を使いこなせるようになった」
ブロックスは驚きを隠さなかった。
「あいつがそこまでやってたとは聞いてねえ。なぜ急に……」
「理由は分からない。だが、あの指導を最後に彼は機構を去り、その後ミストラに仕えるようになった。何かを感じ取ったのかもしれない」
ブロックスは冗談めかした口調で言葉を返した。
「ミストラからの啓示を受けて、急に信仰にでも目覚めたのか?」
アゼリオンは僅かに目を細め、短く頷く。
「実際、あながち冗談でもないかもしれない。あの時のラジエルは確かに何らかの啓示や神性の介入を一瞬感じていたようだった。彼にしては珍しく戸惑っていた様子を私も覚えている」
ブロックスは思わぬ返答に一瞬きょとんとしたが、すぐに頭を振って笑い声を漏らした。
「マジかよ……ラジエルが神に祈りを捧げている姿なんざ、俺にはどうにも想像がつかねえよ」
アゼリオンは頷きながら、口元に皮肉めいた微笑を浮かべた。
「私もだ。彼はいつも『神々に祈る暇があるなら、魔法の研究でもしているほうがよほど有意義だね』などと言っていたからな。ミストラの前でも、『やれやれ、魔法の管理というのは存外面倒ですねぇ』なんて皮肉交じりの祈りを捧げているかもしれないぞ」
二人は軽く笑い合う。笑いが収まると、ブロックスはすぐに表情を引き締め、視線をアゼリオンへ戻した。
「ラジエルは既に閉ざされた次元へと向かったが、あいつは最初からこうなることを予見していたのだろうか……」
アゼリオンはその問いに眉を寄せ、わずかに考える素振りを見せて答えた。
「そうかもしれないな。タヴが閉ざされた次元に転移したのも、単なる偶然の事故ではなく、運命の導きだった可能性もある」
アゼリオンは一拍置き、声を落として続ける。
「タヴはまだ内面に不安定さを抱えている。だが、お前が示した信頼が今も彼を支えているはずだ。我々にはその結果を見届ける責任がある」
二人はその言葉を受け止め、互いの瞳に決意を宿した。しばらくすると作戦室の扉が開き、多元安定機構の隊員と地元の指揮官たちが次々と入室してくる。彼らの表情には緊迫した作戦の重圧と、これが一連の戦いの行方を決める最終段階であるという無言の覚悟が浮かんでいた。反撃作戦の最終的な作戦会議が始まる直前、ブロックスは息を吸い、地図を見据えて低く告げた。
「時間だ、始めるぞ」
全員が地図の前に立ち並び、召喚儀式を阻止するための最後の反撃作戦──その狼煙が、今まさに静かに上がろうとしていた。
*
破壊された坑道の上空を、薄墨色の雲が不穏に覆っていた。その下、地表から数十メートルの高さに、巨大な紫色の異形──ネオセリッドの躯体が不自然に浮遊している。その禍々しい巨躯から溢れる酸性の粘液が、地表の岩肌や草木を容赦なく腐食させる。
タヴとゼンゼは魔法によって宙に留まり、緊迫した表情でネオセリッドを睨みつけていた。両者とも一瞬たりとも敵から視線を逸らさず、わずかな油断さえ許されない。
「何か有効な戦術はあるのか。あれを正面から倒すのは無謀に見えるが」
ゼンゼが静かに問いかけると、タヴは息を整え、鋭い視線を敵に固定したまま即座に応じた。
「ネオセリッドは知能が低く、視覚器官を持たない。魔法による音や匂いで撹乱すれば、ある程度動きを誘導できるはずだ。奴は鋭敏な感覚を持つが、その鋭さが逆に弱点になる場合も多い」
ゼンゼが頷いた瞬間、ネオセリッドを取り巻く空間が不自然な歪みを帯び始めた。紫色の濃霧が生物の全身を包み込み、次の瞬間──その巨体は空間に飲み込まれるように消え去り、ゼンゼが息を呑む。
「消えた……?」
タヴとゼンゼは鋭敏な魔力感知により背後の異常な波動を察知し、その警告に導かれて二人は咄嗟に背後を振り向く。そこでは再び紫の靄が渦を巻き、空間が引き裂かれるように巨大な躯体が出現していた。その場の空気を揺らす轟音と共に、複数の巨大な触手が凄まじい勢いで迫り来る。
ゼンゼは鋭く舌打ちし、灰茶色の髪を槍状に硬化させると、迫りくる触手を迎え撃った。無数の触手が髪の槍に激突し、衝撃が大気を震わせる。ゼンゼは髪を巧みに操り、嵐のような連撃を捌ききった。一方、タヴの前方にも《Psionics(超能力)》を纏った巨大な触手が襲い掛かった。タヴは瞬間的に掌を突き出す。
「《Shield(盾)》!」
力場の障壁が展開され、触手が猛烈な速度でぶつかり合った。その衝撃は彼の全身に響き渡り、腕の筋肉が軋む。だが、彼は歯を食いしばり、何とか防ぎきった。
「くそっ、《Misty Step(霧渡り)》をネオセリッドに仕込んだのか!?イカれた触手頭どもめ!」
タヴは敵を睨みつけながら吐き捨てる。《Misty Step(霧渡り)》など、本来ネオセリッドには扱えない能力だ。あのマインド・フレイヤーたちが施した魔法的改造が、自身の想像を越えていることをタヴは痛感していた。
敵が次の攻撃を準備する前に、ゼンゼが掌を向け、白銀の光を放つ《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を撃ち放つ。同時にタヴも即座に手を突き出し、《Eldritch Blast(怪光線)》を四条放った。
ネオセリッドは触手を交錯させ、瞬時に防御のための精神障壁を張り巡らせようとする。だが、その魔力の流れに歪みが生じ、障壁の形成が途中で破綻した。二人の放った魔力が、不安定な障壁を貫いて敵の巨躯に炸裂する。
「ネオセリッドの障壁が崩れた……?」
タヴは即座にその現象を分析した。ネオセリッドが本来持つ《Psionics(超能力)》は強力だが、その脳髄は単純な本能によって駆動されている。だが、マインド・フレイヤーが無理に施した魔法改造が、本来の脳機能に強烈な負荷を与えているのだろう。術の構築手順に齟齬が生じ、術式の歪みが魔力の乱れを引き起こしたのだ。
「強引に術式を脳に埋め込んだことによる弊害だな。後付けされた魔力を制御できていない……」
ゼンゼは鋭い視線で敵を見据え、慎重に敵の弱点を探ろうと試みた。だが攻撃を受けたことでネオセリッドは激昂し、空間を揺らすほどの咆哮を放つ。巨躯の内側から《Psionics(超能力)》の波動が激しく爆発し、周囲の空気を歪めるほどの強烈な力場が発生する。
(……あの怪物は浮遊するために自らの重量を空間に分散させている。だがこれほどの強力な力場を急激に生じさせれば、空間が歪み、その不均衡が必ず反動となって現れるはずだ……)
ゼンゼがその異常な現象を分析している間にも、ネオセリッドは自己の周囲の力場をさらに極端に歪ませ続けた。直後、タヴが切迫した声を張り上げる。
「突進してくるぞ!」
彼の声が響くと同時に、ネオセリッドの巨体が砲弾のように二人に向かって射出される。ネオセリッドは瞬時に自身の位置を空間上で押し出すことによって、物理的な「突進」を空中で実現したのだ。それは《Levitate(空中浮揚)》による力場操作の域を超えた、極めて歪で強引な移動手段。空気が圧縮され、巨大な衝撃波が生じる。二人はそれぞれ全速で散開したが、衝撃波に飲まれ、姿勢を崩されそうになる。
タヴが空中でよろめいたその隙を見逃すことなく、ネオセリッドは四方に裂けた巨大な口腔から咆哮を放ちながら、一気にタヴへと襲い掛かる。触手は波状にうねり、獲物を逃がさぬ檻のように周囲の空間を埋め尽くした。
「狙いは俺か……!」
タヴは歯を食いしばり、《Minor Illusion(初級幻術)》を発動する。ネオセリッドを引きつけるため、自身の位置から離れた空間に人間が発する叫び声を模した囮の音を生じさせた。しかし完全に激昂し、本能的な殺意だけで襲い来るネオセリッドは、その程度の囮に注意を払うことはなかった。怒り狂った触手群は音の幻聴を完全に無視し、タヴの身体を容赦なく狙う。
猛烈な攻撃の嵐に翻弄され、タヴは防戦一方となる。何本もの触手が鋭い風切り音を立てながら迫り、回避を繰り返す彼の身体を紙一重でかすめた。顔や肩に微かな傷が刻まれ、鮮血が虚空に散る。
タヴは何とか距離を取ろうと、《Misty Step(霧渡り)》を発動し、空間を飛び越えるように空中を移動する。振り向きざまに《Eldritch Blast(怪光線)》を放ち、追いすがる敵の触手を牽制するが、その攻撃はネオセリッドの分厚い外皮と精神障壁に阻まれ、まるで効果を見せない。ネオセリッドは空中で力場を極限まで圧縮すると、砲弾のように自身を射出してタヴを執拗に追跡する。
「こっちを向け。お前の相手は私だろう」
ゼンゼはタヴを追うネオセリッドの背後から静かながらも鋭い声音を放つと同時に、《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を放つ。魔力を収束させて生まれた白銀の閃光がネオセリッドを貫こうと放たれたが、今度は敵の精神障壁が完全に機能している。その歪みのない障壁に弾かれ、閃光はむなしく四散する。ネオセリッドは背後からの攻撃を完全に無視し、ひたすらタヴに猛攻を続けている。
(駄目か……奴はタヴの脳に執着している……!)
ゼンゼは冷や汗を流し、焦燥に襲われながらも全速力で後を追う。彼女は即座に指先を振り、《クラングゲシュライ(特定地点に爆音を発生させる魔法)》を放つ。空間の一点に強烈な爆音を発生させ、ネオセリッドの注意を逸らそうと試みるが、その音響は完全に無視された。ネオセリッドの本能は、タヴの強大な魔力と高度な知性に完全に執着し、何が何でもその脳を捕食しようと突進を止める気配がない。
ネオセリッドの猛攻がさらに激しさを増し、巨体をうねらせると同時に巨大な口腔から強烈な酸性粘液を噴き出した。濃密な酸の奔流がタヴを飲み込もうと迫り来る。タヴは即座に《Absorb Elements(元素吸収)》を発動し、自身の周囲に魔力の膜を形成して酸の大部分を吸収すると同時に、ローブの袖を引き上げて顔と急所を庇うように身体を丸めて身を縮め、被害を最小限に抑えた。だが、袖に残った酸が激しい勢いで繊維を溶かし始め、咄嗟に嵐の魔力で強風を纏わせながら酸を払い落とす動作を行ったことで、敵に対して僅かな隙を晒してしまった。
その隙にネオセリッドは強烈な《Psionics(超能力)》の魔力を凝縮させ始める。発声や動作といった呪文発動の手順を一切必要としない《Innate Spellcasting(生得呪文発動)》によって、敵がどのような魔法を仕掛けてくるのか、タヴにはまるで分からない。
(何かが来る──)
それは経験から生じた直感でしかなかった。だが、この異常なまでの圧倒的な魔力を伴う攻撃が致命的なものであることだけは理解できた。発動の兆候を特定できない以上、《Counterspell(呪文妨害)》での打ち消しは不可能だ。タヴは背筋に冷たい汗が流れるのを感じつつ、咄嗟に決断する。
「俺の願いを叶えろ──!」
タヴを中心として膨大な魔力が爆発的に渦巻き、周囲の空間を激しく歪ませる。彼の身体を覆ったのは、《Wish(願い)》の万能性によって即座に再現された第八階梯の《Abjuration(防御術)》──《Mind Blank(空白の心)》だった。
ネオセリッドが有する強力な精神攻撃を完全に無効化できる可能性があるとすれば、古代ネザリル帝国の大魔法使い、クトソンが生み出したこの伝説的な精神防御魔法しかない。ネザリル帝国とは、トリル次元の北部に広がるフェイルーン大陸にかつて栄えた、伝説的な魔法文明のことだ。帝国は浮遊都市群や強大な魔導兵器を自在に操り、その内部では高位魔法使い同士による激しい諜報戦が日常的に繰り広げられていた。
《Mind Blank(空白の心)》は元々《Kutson's Mind Blank(クトソンの空白の心)》と呼ばれ、諜報戦における精神攻撃、特に敵対する魔法使いの用いる《Feeblemind(知能低下
)》などへの防御手段として編み出された魔法だ。通常、この魔法を行使するには複雑な術式の構築を要し、直感的な魔力制御に特化したソーサラーには到底習得困難である。
だがタヴは今、その理論的構築を完全に無視した。彼は術式を展開する暇も手段もなく、《Wish(願い)》という奇跡的な魔法の力だけでその効果を即座に再現したのである。
直後、タヴの身体に衝撃が走った。ネオセリッドの放った魔法は、まさにその《Feeblemind(知能低下)》だった──対象の知性や人格そのものを破壊し、思考能力を完全に奪い去る究極の精神破壊魔法。直撃を受ければ魔力も知性も全て失い、対象は意思を持たぬ抜け殻に等しくなる。
しかしネオセリッドの魔法はタヴを覆う精神防御の膜に完全に阻まれ、その表面で無力に砕け散った。《Mind Blank(空白の心)》が発揮する絶対的な防御力により、攻撃は何の効果ももたらさなかった。攻撃が無効化されると同時に、タヴは《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》を駆使し、突風とともにネオセリッドの知覚外へと一気に離脱する。
ネオセリッドには目がない。そのため、周囲の生物を認識する際には《Creature Sense(生物感知)》と呼ばれる特殊な精神感知能力と、《Blindsight(盲視)》という視覚以外の感覚──聴覚や嗅覚、空気の微細な振動を捉えることで位置を把握している。《Mind Blank(空白の心)》のような高度な精神防御魔法を用いる対象は、《Creature Sense(生物感知)》による探知が完全に遮断されてしまう。結果として、ネオセリッドは《Blindsight(盲視)》のみに頼らざるを得なくなり、その範囲外にいる対象を捉えることができない。
完全に感知を絶たれたネオセリッドは、突如として獲物を失い、巨大な身体を空中で狼狽するように震わせる。その混乱した咆哮が、むなしく虚空に響き渡った。
(何だ……?タヴの魔力が探知できない……?)
ゼンゼもまた、その異常事態に愕然とした。つい今まで感じていたタヴの強大な魔力も存在感も、まるで最初から存在しなかったかのように完全に消失している。その事実が彼女を激しく困惑させる。だがゼンゼに困惑している時間はなかった。眼前では、標的を見失ったネオセリッドが、身を震わせながら低く唸りを上げている。獲物を失ったことで生じた空白を満たすかのように、《Creature Sense(生物感知)》が再び獲物を探知しようと動き始める。
(……まずいな……こっちに来る)
ゼンゼが身構えた瞬間、ネオセリッドの巨体が数十メートルほど斜め下にいる彼女を捉えた。四本の長い触手がゼンゼを指し示すように蠢き、明らかな敵意を帯びている。そして、自身の巨体を丸ごと射出するために空間の力場を急速に圧縮し始める。
「──っ!」
ゼンゼは咄嗟に髪の盾を前方に構築しようと、《自身の髪の毛を自在に操る魔法》を組み替える。だが、ネオセリッドの上方にかすかな気配が生じた。それはタヴだった。
彼はネオセリッドの真上に密かに位置取り、完全に気配を殺して機を窺っている。ゼンゼを狙ってネオセリッドが《Levitate(空中浮揚)》の力場制御を極限まで圧縮し、砲弾のように射出される直前を待ち構えていた。
「《Dispel Magic(魔法解除)》!」
絶妙なタイミングでタヴは《Dispel Magic(魔法解除)》を放つ。魔法が術式の中核を貫き、ネオセリッドの巨躯を支える《Levitate(空中浮揚)》の力場制御が音を立てて砕け散った。《Levitate(空中浮揚)》には安全な降下を可能にするため、術式が魔法の終了を検知し、残留魔力が力場の調整に転用される効果がある。この効果は第三者に魔法を強制的に解除された場合も有効であり、ネオセリッドは緩やかに速度を落とし、安全に着地できるはずだった。
しかし、自身が既に生み出していた空間圧縮による力場がそれを許さない。局所的に異常な密度まで圧縮された空間構造は、魔法解除と共に急激に元の形状へ戻ろうと暴発し、超音速の衝撃波となって周囲の大気を外側へ弾き飛ばした。その反動で空間の中心部には、真空に近いほどの希薄な空間が瞬間的に発生し、猛烈な勢いで周囲の空気を逆流させ、暴風のような吸引現象を引き起こした。
安全な降下を試みていたネオセリッドの巨躯は、この予期せぬ激烈な吸引現象によって完全に制御を失い、為す術もなく姿勢を崩した。タヴはその状況を視界に収めながら、敢えて吸引の力に抗わず、敵の攻撃範囲内に自らの身体を投げ出すように猛然と落下した。宙を滑り落ちながら、彼は即座にウォーロックの秘術を発動する。
「《Armor of Agathys(アガシスの鎧)》」
その瞬間、異界から召喚された霊的な冷気がタヴの全身を覆い、薄い霜の層となって彼の身体と装具に絡みつく。《Armor of Agathys(アガシスの鎧)》──術者の周囲に霜の防護膜を展開する魔法。この防護膜は術者に一時的な生命力を与えると共に、敵からの近接攻撃を受けると破裂して、敵に凍てつく冷気による痛烈な報復を与える仕組みとなっている。
ネオセリッドは頭上で落下するタヴを見逃すはずもなく、触手を振り上げる。触手の一撃がタヴを襲うが、彼はその攻撃が人体の急所を外れ、致命傷になりにくい部位──上腕から肩甲骨周辺の骨と筋肉で守られた箇所へ巧みに誘導されるように身体を傾けていた。触手が霜の防護膜に触れた途端、《Armor of Agathys(アガシスの鎧)》が砕け散り、凄まじい冷気の衝撃が触手を瞬時に凍てつかせる。
さらに《Storm's Fury(嵐の怒り)》──近接攻撃を受けた際に術者の魔力が雷撃となって迸り、攻撃者に電撃を与え、強烈な衝撃で弾き飛ばす能力──が反応した。ネオセリッドの触手による衝撃が伝わった刹那、眩い雷光がタヴの身体から炸裂し、触手を伝って巨躯に激しい電撃と衝撃を浴びせる。冷気と電撃による報復を受けたネオセリッドはその場で巨体を激しくのけぞらせ、空中でバランスを崩し始める。
間髪を入れず、タヴが両腕を左右に広げるようにして力強く魔力を解き放つと、彼を中心として猛烈な雷鳴が轟いた。《Thunderwave(雷鳴波)》──術者を中心に音波を伴う強烈な雷鳴を放ち、至近距離の敵を問答無用で吹き飛ばす攻撃魔法が直撃し、それと同時にタヴの全身からは《Heart of the Storm(嵐の中心)》による猛烈な雷撃が周囲へと広がる。その雷撃がネオセリッドの表皮を焼き焦がし、追加の苦痛をもたらした。
ネオセリッドは轟音と衝撃波の渦に巻き込まれ、さらに真下へと叩き落とされながらも、口腔を無理やり捻り開け、タヴに向かって酸を吐き出そうとする。タヴが咄嗟に回避行動を取ろうとした直前、視界の隅を白銀の閃光が駆け抜けた。ゼンゼが上空から放った《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》がネオセリッドの巨躯に命中し、巨大生物は苦痛に身体をよじらせ、狙いを大きく乱した酸液を虚しく空中に散らす。タヴは虚しく散っていく酸を視界に捉えつつ、ゼンゼの判断力と《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》の速射性に感嘆を覚えていた。
(あの状況で射線を見切り、魔法を放つとは……そして相変わらずの発動速度だな……)
同時に、酸液の飛散する様子に明らかな異常を感じ取った彼は、即座にその原因を分析する。
(酸液が少し固形化して飛翔速度が落ちている。《Storm's Fury(嵐の怒り)》の電撃も影響しているが、この変化は《Armor of Agathys(アガシスの鎧)》の冷却による酸液の膠化が主な原因だろう。奴の改造された酸噴射器官は低温に弱いのかもしれない……)
タヴは思考をまとめ上げながら、《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》を発動して風を纏い、空中を真上に駆け上がるようにしてゼンゼのいる上方へと移動する。ゼンゼもまたタヴの姿を確認すると、急ぎ《飛行魔法》を操り、彼の方へと滑るように接近した。二人が上空で合流した直後、ネオセリッドは重力に囚われたまま地表へと墜落し、大地を揺るがす激突音と共に巨大なクレーターが形成される。
クレーターの中心でネオセリッドが激しく悶え苦しみ、二人はその光景を見下ろしつつも、警戒を緩めることはなかった。タヴはゼンゼの方に視線を向け、先ほどの《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》による援護に対して短く礼を告げる。
「助かった。完璧なタイミングの援護だったな」
ゼンゼはタヴの方を向いて小さく頷き、問いかける。
「怪我はないか?随分と無茶をしたものだな……。それと、急に君の魔力が探知できなくなったが、何が起こっている?」
彼女はいつもの冷静さを取り戻しながらも、タヴの負傷を心配するように静かな口調で確認した。タヴは攻撃を受けた上腕から肩甲骨周辺をちらりと確認した後、すぐに状況を端的に説明した。
「大丈夫だ、致命傷にならないように調整した。探知ができなくなったのは《Mind Blank(空白の心)》という魔法で、俺への魔法的な感知と精神侵食を完全に遮断したからだろう。だから奴が優先的に狙うのはあんたになる」
ゼンゼはタヴの言葉に一瞬目を見開いたあと、小さくため息を吐いた。
「……異界の魔法とやらは理不尽な効果ばかりだな。まあ、しかし分かった。どのみち奴の注意を引きつける必要はあるからな」
タヴは頷き、先ほど目にしたネオセリッドが放った酸の異常と、その原因についての分析を瞬時に整理すると、引き締まった表情で言葉を続けた。
「それを踏まえて作戦がある。さっきネオセリッドの吐いた酸を見た時に気づいたが、奴の酸噴射器官は低温に弱い可能性が高い。ある魔法を使えば、動きを鈍らせるだけでなく、酸の威力も抑えられるはずだ。だが……」
彼は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに真剣な口調で言い添えた。
「その魔法を使うと周辺の気候に影響が及ぶかもしれない。さらに至近距離で奴と交戦するあんたには苦痛を強いることになるだろう」
ゼンゼはわずかに眉根を寄せて考える素振りを見せたが、すぐに静かに息を吐いて答えた。
「構わない。幸いこの付近に人はいないし、あの化け物は一刻も早く討伐する必要がある。それで、どんな無茶を言い出すつもりだ?」
彼女の返答を聞いたタヴは、地上で怒り狂うネオセリッドが再び《Levitate(空中浮揚)》を発動し、その巨躯を荒々しく引き上げ始めるのを視認した。もはや時間に余裕はない。タヴは手短に作戦の説明を済ませ、ゼンゼも即座に了承の意を返すと、二人はすぐさま高度を取り直す。迫り来るネオセリッドを正面に見据えながら、タヴは指先を空高く突き上げ、迅速に呪文の詠唱を始める。
「冷たき風よ、天地を呑め──」
*
穏やかな午後の陽光に包まれていたリューデル村に──廃坑の丘の下で地が裂け、白い土煙が陽に透けて立ちのぼった直後──突如として凄まじい地響きが襲いかかった。地面が波打つように揺れ、大気は重い衝撃波で細かく震動し、村全体が巨大な力に飲み込まれたような錯覚に陥る。
廃坑の方角の空は薄く白み、細かな粉塵が陽光を鈍らせる。家の中にいた村人たちは何事かと驚き、慌てて外に飛び出して廃坑のある方角へと視線を向けた。そこで彼らが目にした光景は、到底信じがたいものだった。
村から離れた上空、肉眼でもはっきりと巨大さが分かるほどの距離に、禍々しい影が浮かび上がっている。紫がかった赤黒い色彩の巨大な蛇にも似た躯体は、家屋を丸ごと飲み込めそうな太さがあり、その全長は容易に目測できないほどだった。その生物の頭部は、遠目にも異様に星形に裂け、中心には不気味な口腔がぽっかりと開いているのが見える。
ただ、その周囲で不規則に動いているらしい細い何か──おそらく触手だろう──までは距離と大気の揺らぎに阻まれ、ぼやけて判別できない。昼間にもかかわらず鮮明な輪郭が空にくっきりと浮かび上がり、その巨大さと異様さだけが村人たちの視界に鮮烈に焼き付く。不気味な巨体は空中でゆっくりと蠢きながら、浮遊を続けている。魔物の存在はこの地方でも珍しくないが、これほど巨大で異様な存在を目撃した経験を持つ村人は一人としていなかった。
混乱した村人たちは互いに不安げな視線を交わし、小声で囁きあいながら現状を理解しようと努める。だが次の瞬間、その生物の口腔が激しく震え、大気を引き裂くような重低音の咆哮が響き渡った。音の波動は強烈で、空気そのものを震わせながら、村人の身体を押し潰すような圧迫感と共に届く。家屋の窓枠や扉が激しく震動し、ガラスが砕ける寸前でかろうじて持ちこたえた。
その凶暴な咆哮が響いた直後、家畜たちが明らかな異常を敏感に感じ取り、不安げな声を上げて柵に身体をぶつけ始める。牛や馬は荒々しく暴れ出し、柵が軋みをあげて壊れそうになる。村人たちは突然の出来事に狼狽し、家畜を鎮めることもできないまま、その場で立ち尽くすしかなかった。
「村長、あれはいったい何なんでしょうか……」
若い村人が青ざめた表情で村長へと問いかける。村長は唇を噛み締めながら慎重に言葉を選ぶ。
「分かりません……。しかし、もしかするとあの坑道に潜んでいた生物なのかもしれません。坑道へ調査に向かわれた魔法使いの方々が、あれと戦っておられる可能性が高いでしょう。いずれにせよ、このまま村に留まるのは危険です」
その言葉に、不安げにざわめく村人たちの間に、再び恐怖が滲む。
「でも……あんな化け物が地上に出てきちまったってことは、もう魔法使いさんたちは殺されちまったんじゃないかい……?」
村の中年の女性が怯えた表情で震える声を絞り出す。その問いに即答できる者は誰一人としていなかった。重い沈黙を破ったのは、再び村長だった。彼は震える手を握りしめながら、しかし声だけは可能な限り落ち着かせて広場に響かせる。
「皆さん、まずは慌てずに荷物をまとめてください。すぐに村から避難できるよう、迅速に行動をお願いします。子供や老人を優先して安全な場所に移動させるように!」
村人たちはその言葉に頷き、足早に自宅へと戻り始めた。しかし誰もが焦燥と恐怖を拭えず、思うように荷物をまとめることができない。家屋の窓が振動し、時折また巨大な咆哮が遠くから響いてくるたび、彼らの手の動きが止まってしまう。
再び空を見上げると、遠く浮遊する巨体が激しく身体をうねらせ、紫の靄のような魔力がその周囲に巻き起こり始める。その不吉な予兆に、村人たちは再び足を止め、呆然と見つめるしかない。
村長はそんな村人たちに、懸命に励ますように呼びかける。
「冷静に行動してください!今は皆さんの安全が最優先です! あの生物の攻撃がこちらまで及ぶ前に、迅速に行動してください!」
村長の必死の呼びかけが功を奏し、村人たちは再び動き出す。しかし村を覆った恐怖と焦燥は簡単には払拭されない。その間にも巨大な生物の咆哮は止まず、空には不気味な紫色の光が何度も明滅を繰り返していた。
*
同じ頃、淡い灰色の髪を無造作に後ろへ流し、毛皮をあしらった白いロングコートを身にまとった男が、鋭い眼差しで街道を進む隊商の先頭に立っていた。彼の名はヴィアベル──北方辺境において魔王軍の残党と戦い続け、北部魔法隊の隊長も務める実力派の二級魔法使いである。
一級魔法使い選抜試験を受けるため、海路経由で北側諸国の港町に到着したヴィアベルは、そこから目的地である魔法都市オイサーストを目指していた。折よくオイサースト方面へ向かう隊商が護衛を募集しており、互いに同じ目的地であることから、ヴィアベルは三人の冒険者たちと共にその護衛任務を請け負うことにしたのだ。異界からの侵略者──ギスヤンキやマインド・フレイヤーといった存在による被害が増加しており、こうした護衛任務は近頃ますます需要が高まっていた。
彼の背後には訓練された隊商付きの護衛十五名と、ヴィアベルと同じく雇われた三人の冒険者が、それぞれ注意深く周囲を警戒しながら馬を進めていた。その隊列が穏やかな街道をゆったりと進む中、唐突に遠くの方角から雷鳴のような轟音が響き渡り、大地がわずかに振動した。空気が震え、その衝撃に怯えた馬たちが一斉にいななき、馬車がぎこちなく停止する。護衛の一人が剣の柄に手をかけながら、緊迫した表情で誰にともなく問いかける。
「なんだ、今の音は?」
ヴィアベルは眉を寄せ、細めた目を音のした方向──彼方の山稜上空に向けた。遠方の空には、淡く霞がかかったような視界の中に、不気味な紫色の塊がゆらゆらと揺らいでいるのが辛うじて見て取れる。その姿は巨大であること以外ほとんど詳細を判別できないが、ただならぬ存在感を放っていた。
「あの辺りか……」
ヴィアベルの呟きを聞き、隊商を率いる商人の一人が幌付きの荷馬車から貴重な望遠鏡を取り出した。これはもともと王侯貴族が好んで所有するような高価で珍しいものであり、こうした隊商でも滅多に携行しない贅沢品だった。
「こちらを使ってみてください。手軽な道具とは言えませんが、こんなときのために持ってきて正解でしたな」
商人は緊張を隠せぬ声でそう言いながら、望遠鏡をヴィアベルに差し出した。彼は一瞬だけ躊躇したが、すぐにそれを受け取り、注意深く覗き込んだ。
「……何だ、ありゃ」
望遠鏡を通じて拡大された視界の中に浮かび上がったのは、紫色の粘液に覆われた巨大な異形の姿だった。その生物は巨大な蛆虫や蛇を思わせる躯体を持ち、星型に裂けた不気味な口腔からは長い触手が何本も蠢いている。禍々しいその姿は、空間を微かに歪ませながら宙を漂っていた。
「ちょっと貸してもらえるか?」
ヴィアベルが手にした望遠鏡を、隣にいた冒険者の若者が好奇心に駆られて声をかけた。ヴィアベルは無言でそれを手渡すと、冒険者たちは順番に望遠鏡を覗き、次第に驚きと恐怖が入り混じった表情になっていった。
「あれは一体……?まるで空中に浮かぶ巨大な蛇みたいだ」
「紅鏡竜並みにデカいぞ……しかも、あの形状は何だ……」
「とてもじゃないが、こっちに来てほしくはないな……」
口々に漏れる動揺の声を聞きながら、ヴィアベルは再び望遠鏡を手に取り、さらに注意深く対象を観察した。その瞬間、紫色の影の周囲に稲妻のような強烈な閃光が走り、ヴィアベルは即座にその光から数え始めた。
「……十五、十六……音がここに届くまで約十六か」
ヴィアベルの言葉通り、その直後に再び強烈な轟音が周囲を揺らした。ヴィアベルの顔に明らかな警戒心が宿り、険しい表情で口を開く。
「距離はざっと五、六キロってところだな……だが、問題はそれだけじゃねえ。あの大きさ、あの浮遊する異形の姿……魔王軍の残党や辺境の魔物とは全く違う。こいつは……」
ヴィアベルは望遠鏡を慎重に畳んで商人に返しながら、深く息を吐く。
「どう見ても、この世界の存在じゃねぇ。異界の化け物ってやつだ」
彼の言葉に、冒険者や護衛たちが顔を見合わせ、言葉を失ってしまった。隊商を率いる商人もまた、青ざめた顔でその現実を受け入れようとしている。魔法都市オイサーストへの道程が、突如として得体の知れない恐怖に支配されつつあった。
*
リューデル村では避難の準備が慌ただしく続いていた。家々の間を駆ける村人たちは、刻々と高まる緊張に息を切らしている。村長が懸命に呼びかけを繰り返し混乱を抑えようとしていたその時、坑道方面の空が突然異常な明るさで白く染まった。
「今度は何だ!」
次の瞬間、目も眩むほどの雷光が炸裂し、昼間の村が一瞬完全に光に呑まれる。光に遅れて衝撃波が伝わり、村全体を揺るがすほどの轟音が大地と大気を激しく震わせた。村人たちは衝撃に身をすくませ、恐怖に叫び声を上げた。
「雷……いや、それにしては異常だ!」
村長は戸惑いながらも、震える足で広場へと急ぐ。彼が広場に辿り着く頃には、急激に空気が冷え込み、湿った冷風が村を襲い始めていた。
「なんて冷たい風だ……真冬の嵐より酷いぞ……」
先ほどまで空中に浮かんでいた紫色の巨大な生き物は、坑道付近に突如として巻き起こった凍雨とみぞれの暴風雨の中に完全に姿を隠され、もはや村から確認することはできない。あたかも空そのものが怒り狂い、巨大な何かを飲み込むかのように円筒状の領域が荒れ狂っている。そこだけが別世界のように雲と冷気が渦巻き、周囲を遮断していた。
暴風雨の発生とともに、村にもその余波が襲いかかった。坑道方面から伝わる衝撃波は容赦なく村を揺るがし、家屋の壁や窓ガラスが激しく振動し、屋根瓦が軋むように音を立てて揺れ続ける。まるで拳ほどの氷塊が屋根に叩きつけられているかのような錯覚を覚える轟音が村全体を包み込んだ。
「窓を抑えろ!板を打ち付けるんだ!」
男たちが必死に窓や扉に板を当てて家屋を守ろうと駆け回る。一方、家畜たちは既に村外れにある納屋や共同の家畜囲いに避難させられており、柵を破るような最悪の事態は何とか免れていた。しかし、凍えるような風の中で、納屋からも家畜たちの不安げな鳴き声が響いている。
「落ち着いてください、皆さん!」
村長は村人たちを何とか広場に呼び集め、改めて強く声を張り上げる。
「坑道方面には絶対に近寄らないでください!荷物は最小限に抑え、速やかにここへ集合してください。家畜は安全な納屋に避難させています。今は皆さん自身の命を守ることに専念を!」
村人たちは村長の言葉を聞いてようやく冷静さを取り戻し、再び避難準備に集中し始めた。しかし、突風と冷気を伴った衝撃波は一向に収まらず、間断なく村を揺るがしている。老人や子供たちは寒さと恐怖に耐えきれず、広場に集まるのが精一杯だった。
「村長、本当に村を離れた方がいいのか?かえって危険ではないのか?」
一人の村人が不安げに問いかける。家屋を出て森の避難小屋まで辿り着けるか──それを心配しての問いだった。その直後、坑道方面を覆う暴風雨の中から再び、巨大な生き物の咆哮と、何かが激しくぶつかり合う音が風に乗って村まで届いた。人間には到底出せない恐ろしい声と、空間が軋むような異音に、村人たちは再び凍りついた。
村長はその音を聞き、つい先刻村の中央に青白い閃光と共に《瞬間移動》してきた二人の魔法使いの様子を思い出していた。彼自身、特に魔法に詳しいわけではなく、魔法使いを直接目にする機会も多くなかったが、あの時村に現れた二人の姿を見た瞬間、彼らが強力な魔法使いであることを漠然とだが直感していた。
「恐らくあの嵐は魔法によるものです!二人の魔法使いの方々が、あの巨大な生き物を足止めしているのでしょう。その間に、私たちは村を離れて避難するべきです!」
村長が力強く言い切ると、村人たちは改めて坑道方面の空を見上げた。暴風雨の領域は更に勢いを増し、激しい凍雨と轟音を伴いながら、村から視認できる範囲の空間を荒々しく掻き乱している。その光景を目の当たりにした一人の村人が、恐れと畏敬の入り混じった声で呟いた。
「あれは魔法というより……災害だ」
*
ヴィアベルが護衛する隊商の一行もまた、数キロ先で起きた異変に巻き込まれつつあった。穏やかだった街道の空気が、唐突に一変したのだ。最初は遠方からの微かな衝撃だった。それが徐々に勢いを増し、遂には大気そのものを震わせるほどの猛烈な衝撃波と轟音となって隊商を襲う。
「馬を抑えて落ち着かせろ!」
冒険者たちは暴れ狂う馬を落ち着かせるのに苦労しているが、その表情は隠しきれない不安で満ちている。訓練を受けた護衛たちもまた、合計十五名ほどで隊商を守りながら、冷静を装ってはいるものの、明らかな動揺がその目に現れていた。
ヴィアベルは淡い灰色の髪を冷たい風に靡かせながら鋭く空を見上げている。先ほどまでは見えていた山稜上空の紫色の異形の影が、突如として発生した奇妙な雲や冷気によって完全に遮断されており、視界から完全に消えてしまっていた。巨大生物の姿を確認することが全くできない。
「妙だな……。化け物の姿が完全に見えなくなった。魔法の霧か?」
ヴィアベルが呟くと、隊商を率いる商人の一人が再び荷馬車から望遠鏡を取り出した。
「こちらをもう一度使ってください。まだ様子が見えるかもしれません」
商人から望遠鏡を受け取った冒険者たちは慎重に空を覗き込んだ。しかし、彼らは次々に眉をひそめて困惑した表情を浮かべる。
「何も見えない……完全に雲と氷に包まれて、内部は真っ白だ」
冒険者の一人が呟くと、次に望遠鏡を受け取ったヴィアベルもまたそれを覗き込み、目を細めて慎重に状況を確認した。
「なるほどな……何らかの魔法で目隠しされたか。恐らく術者による維持が必要なタイプだな」
望遠鏡を商人に返したヴィアベルが腕組みをして考え込んでいると、隊商を率いる初老の商人が進み出て声を上げた。
「これ以上ここで様子を伺っても危険ですな。一旦ここから離れましょう」
その提案に他の商人たちが頷き合い、隊商全体に緊張したざわめきが広がった。商人は周囲を見渡すと、地元出身らしき若い荷馬車の御者に目を向けた。
「この辺りで安全に身を隠せる場所はないか?砦でも廃屋でも構わん」
問われた御者は即座に頷き、手早く答えた。
「街道から少し南に入ったところに、廃棄された砦跡があります。壁や建物の一部はまだしっかり残っているはずです。そこなら急な襲撃にも備えやすいかと」
商人は素早く判断を下すと、護衛の冒険者たちや他の隊員たちに向けて指示を出した。
「よし、そこへ避難しよう!手荷物は食料と飲み水を最優先に積み込め。馬車を急がせすぎて事故を起こさぬよう注意しろ!」
冒険者や護衛たちが一斉に動き出し、慌ただしく荷物をまとめ始める。その最中、一人の冒険者がヴィアベルの険しい表情に気づき、不安げに問いかけた。
「あんたはどうするんだ?」
ヴィアベルは一瞬だけ申し訳なさそうに眉をひそめたが、すぐに普段通りの冷静で皮肉めいた表情に戻って答えた。
「悪いな、護衛の任務はここまでだ。あんな化け物が暴れてるのを黙って見過ごせるほど、俺の性分は図太くねぇんだよ。少し様子を見てくる」
周囲が驚きと不安でざわめくのを感じ取り、ヴィアベルは軽く肩をすくめながら、わずかに笑みを浮かべた。
「まぁ、安心しろよ。無謀な英雄気取りはするつもりはねぇ。死にに行くほど俺も暇じゃないからな。危なけりゃすぐ逃げる。俺は勝ち馬にしか乗らない主義なんでね」
商人たちはその言葉に僅かに安堵の色を浮かべると、納得して再び避難の準備を急ぐ。ヴィアベルは隊商が砦跡へ安全に向かい始めるのを見届けると、ゆっくりとその場を離れ、《飛行魔法》を発動した。
隊商から距離を取ったヴィアベルは慎重に空中へと舞い上がり、目を細めながら東方面の異常な暴風雨の領域を見つめた。頬に感じる風には微かな冷気が混じり、空気が薄くゆらぐように伝わってくる。数キロ離れたその空間は、まるで嵐そのものが意思を持っているかのように渦巻き、不穏な気配を放っていた。強烈な衝撃波こそ距離を隔てて緩やかな振動として届く程度だったが、それでも彼は身体の芯がひんやりと冷えていくのを感じ取っていた。
「あの規模の魔法、普通の人間ができる芸当じゃねぇ。まさか大魔族か……?」
ヴィアベルは静かな声で独り呟き、凍えるような冷気を纏う不穏な空域へと慎重に接近を開始した。
*
タヴが展開し、維持している巨大な《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の内部は、猛烈な氷雨と鋭い冷気が荒れ狂っていた。通常、この魔法は術者が《Concentration(精神集中)》を保ち続けることで、限られた範囲に氷混じりの激しい嵐を呼び出し、敵の視界や動きを阻害する。
しかし彼が《Storm Sorcery(嵐の魔法)》の血脈を持つソーサラーとして無自覚のうちに習得したこの魔法は、その規模と効果が格段に向上している。さらに彼は、《Metamagic(呪文修正)》の一つである《Extended Spell(延長術)》を用い、嵐の持続時間を倍化させ、長期戦にも備えていた。
嵐の中でタヴを中心とした半径六メートルの領域だけが、不自然に静まり返っている。虹色にきらめく薄い偏光膜が外界と境界を成しており、氷雨がその膜に触れた途端、微かに煌めきながら蒸散して消える。ゼンゼはその異様な光景を横目に、感心とも呆れともつかぬ声を漏らす。
「便利な魔法の傘を持っているんだな……君は」
その言葉に、タヴは苦笑しながら控えめに答えた。
「これは《Storm Guide(嵐導き)》という能力だ。雨を止めたり、風の向きを変えられる。効果は限定的だがな」
ゼンゼは短く頷くと、自分が安定して浮遊できている理由を再確認するように周囲を見回した。彼女の身体を取り巻く淡い風紋は、外界の空気の動きを敏感に感じ取る繊細な魔力の感覚器のように機能している。彼女を激しく揺さぶろうとする猛烈な突風が吹くたびに、風紋は即座に反応し、逆方向に向けて風を噴射する。風の噴流が上下左右からの圧力を打ち消し、ゼンゼの姿勢を巧みに制御している。
これはタヴが自身の飛行速度を半減させ、その余剰となった飛行能力を周囲の対象に分け与えることで共有した《Wind Soul(風の魂)》だ。その力によって、ゼンゼは強風の中でも安定して飛行することができていた。
「飛行能力を共有できることも驚きだが……魔力消費もなく、姿勢制御まで自動で行われるとはな。《飛行魔法》とは比べ物にならないほど高性能だ」
「俺も初めてこの力が発現したときは驚いた。たが、この風が常に身体を支えてくれるからこそ、嵐の真っ只中でも安定して飛べる」
タヴはさらりと返したが、その表情には僅かな憂慮が滲んでいた。これからゼンゼはネオセリッドの注意を引きつける囮として、タヴの周囲を離れて嵐の深部へと向かわねばならない。
ネオセリッドもまた、この強烈な嵐の中では《Blindsight(盲視)》の精度が著しく低下しているだろう。必然的に、《Creature Sense(生物感知)》に頼らざるを得ないが、《Mind Blank(空白の心)》で存在を隠蔽しているタヴよりも、ゼンゼが敵の狙いを引き受けることになるのは避けられない。
「できる限り援護はするが、あんたには囮として俺から距離を取ってもらうことになる。もし身体に異常を感じたら、すぐに《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の範囲外まで離脱してくれ」
タヴが注意を促すと、ゼンゼは微塵の躊躇もなく頷いた。
「覚悟はできている。心配するな」
ゼンゼは短く言い切ったが、タヴの周囲から離れれば、猛烈な氷雨と凍えるような寒さの中に飛び込むことになる。タヴは彼女がその過酷な環境に身を置くことを案じ、小さく頷いて慎重に言葉を紡いだ。
「《Air Bubble(気泡)》をかけておく。本来は水中や有毒ガス環境下で呼吸可能な空気を確保する魔法だが、気休め程度にはなるだろう」
タヴが素早く指先を動かすと、ゼンゼの頭部が透明で魔法的な気泡に包まれた。その内部には清浄な空気が満ちており、彼女はその効果を即座に魔法科学的に分析する。
(気泡が肺への直接の冷気侵入を防ぎ、気道へのダメージを軽減するということか。確かに呼吸は楽になるが、身体全体の冷却を防ぐことはできないな……)
彼女はタヴに短く礼を述べると、自ら嵐の中心──タヴの守られた領域を離れ、激しい暴風雨の中へと飛び出した。途端に視界は急激に閉ざされ、氷雨の容赦ない直撃がゼンゼを襲った。氷粒は衣服や肌に容赦なく叩きつけられ、強烈な冷気が体温を奪っていく。
ゼンゼは髪を高速で回転させて盾のように展開し、降り注ぐ氷雨を偏向した。同時に髪に魔力を流し込み、炉のように熱を発生させる。着氷した粒が瞬時に溶け落ちるが、再び降り注ぐ氷雨は即座に新たな氷の膜を形成した。
「気をつけてくれ!ここからはあんた自身が頼りだ!」
タヴの叫ぶ声が嵐の中から微かに届いた。ゼンゼは強い眼差しで応えると、自らの覚悟を静かに呟く。
「一級魔法使いとは、理不尽な逆境を覆すことができる存在でなければならない。この程度は逆境ですらない」
ゼンゼは自らに言い聞かせるように呟き、吹き荒れる氷雨の中で瞳を閉じた。嵐の猛烈な冷気が身体の芯まで染み入り、意識を蝕もうとするが、彼女は意識を鋭く研ぎ澄ませ、その苦痛すら魔力探知の糧に変える。眼前の白く濁った視界の彼方に、巨大なネオセリッドが存在しているはずだ──ゼンゼは極限の集中力で魔力の残滓を追いかける。
長い灰茶色の髪が荒れ狂う氷雨に打たれ続ける。ゼンゼはそれを盾のように高速回転させ、襲い来る氷粒を偏向しながら防ぎ続ける。タヴの前では見栄を張って「覚悟はできている。心配するな」と堂々と言い切ったが、内心ではその判断を少し後悔し始めていた。
(さすがに……この寒さは堪えるな……防寒着くらい準備しておくべきだったか……)
だが、ゼンゼは己の不満を唇の端だけにとどめた。その代わりに、探知によって捉えたネオセリッドの気配を鮮明に追い続ける。
少し離れた場所でネオセリッドは《Levitate(空中浮揚)》を維持しようとしているようだったが、《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》が放つ氷雨の衝撃が集中力を容赦なく乱している。巨躯が不安定に揺れ、周囲の空気にいらだちを撒き散らすかのように触手を荒々しく振り回しているのを、ゼンゼは魔力探知を通じて微かに感知した。
その刹那、彼女は嵐の中を凄まじい魔力が通過するのを感じ取った。それは《Transmuted Spell(変質術)》によって冷気の奔流へと姿を変えた、タヴの《Lightning Bolt(稲妻)》だった。
凍りつくような寒気を伴う眩い青白の光の槍が、嵐を貫くように虚空を切り裂いて一直線に走る。その軌跡には瞬間的に氷結した空気が繊細な結晶を散りばめ、透き通った霜のような跡を残している。ゼンゼはその鮮烈な魔力が、タヴ自身の目視ではなく、風の微かな動きや魔力の揺らぎだけを頼りに角度と方向を定めて放たれたことを察した。
(……狙いを感覚だけで定めるとは、相変わらず恐ろしく大胆だな……)
その直感的な射撃は正確にネオセリッドの巨大な躯体を捉えていた。標的が巨大ゆえ、僅かな狙いのズレは問題にもならず、青白く輝く魔力の槍は完全に無防備なネオセリッドを貫き、その巨躯を内側から激しい冷気で蝕んだ。不意を突かれたネオセリッドは防御のための精神障壁を展開する猶予すら与えられず、強烈な衝撃に巨体を激しく揺さぶられ、集中していた精神力が完全に崩壊した。
《Levitate(空中浮揚)》の効果が途切れ、ネオセリッドの身体がゆっくりと地面へと降下を始める。その様子を探知で鮮明に捉えたゼンゼは、迷わず上空から接近を開始した。タヴから与えられた《Wind Soul(風の魂)》の効果によって、飛行速度こそ半減しているものの、荒れ狂う突風の中でも完璧な姿勢制御を保って飛行できる。足元から湧き上がる風が常時彼女の姿勢を自動的に調整し、横殴りの突風に吹き飛ばされそうになっても即座に反対方向の気流が生じて身体を安定させていた。
嵐の影響で《Blindsight(盲視)》の精度が落ちているネオセリッドもまた、《Creature Sense(生物感知)》を頼りにゼンゼの動きを追っている。鋭い感知がゼンゼの存在を捉え、ネオセリッドは再び《Levitate(空中浮揚)》を展開しようと試みる。
しかし《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》がもたらす乱気流と、猛烈な氷雨によって体表に加えられる絶え間ない衝撃がその精神集中を阻害し、魔力の制御を失ったように触手の先端が激しく痙攣する。結果として再発動の試みは虚しく崩壊し、巨体は鈍い地響きを伴って地面に完全に降り立った。
ゼンゼは勢いをつけてネオセリッドの真上に急降下すると、ついに互いの近接攻撃範囲に入り込んだ。濃密な嵐によって視界はほぼ完全に閉ざされ、灰色の氷霧が視野を覆い、すぐ目の前にいるはずの巨大な敵影すらはっきりとは捉えられない。しかし、ゼンゼは乱れ飛ぶ氷雨の中に響き渡る巨体の不気味な振動音、粘液が外殻を滑る湿った摩擦音、そして激しい魔力の波動を魔力探知で捉えながら、総動員した感覚を頼りに接近を続けていた。
灰色の嵐の奥でぼやける紫色の影が、怒りに満ちて蠢いている。触手が風を切り裂く音と共に振り上げられた直後、ゼンゼは髪を編み込み、先端を鋭利な槍状へと研ぎ澄ませて応戦した。見えぬ敵の攻撃を髪槍で受け止めるたびに衝撃波が響き、周囲に渦巻く氷雨が細かく砕けて散った。
(──なんだ……奴の様子がおかしい)
戦闘のさなか、ゼンゼは視界が悪い中でも注意深くネオセリッドの気配を探っていた。完全には見えなくとも、巨体から漏れ出す魔力と振動が明らかに変調していることがわかる。ときおり薄く氷霧が晴れた瞬間、彼女はネオセリッドの胸郭付近に急激な氷霜が生じ、紫色の外皮が細かな亀裂を生じている様子を僅かに視認した。さらにその裂け目から紫色の粘液が滴り落ち、瞬時に凍結している様子もかろうじて目に映る。
ネオセリッドは胸郭を大きく震わせ、再び口腔を大きく開けて強酸を噴射しようと試みる。しかし、口の奥から漏れ出てきた酸性粘液は、本来の勢いを完全に失ってしまっている。ゼンゼは冷静に空中で身を翻し、緩慢に垂れ落ちるだけの酸液を難なく回避した。
(坑道内では凄まじい頻度で酸を連射していたが……タヴの見立て通りだな)
ゼンゼは素早く分析を続けた。兵器としての運用を目的に、ネオセリッドは本来緩慢な攻撃間隔しか持たない酸噴射器官を強引に改造されていた。それは、極めて高密度かつ高活性化された特殊な酸生成酵素を循環させることで生成速度を爆発的に上げるとともに、高温高圧反応室を後付けし、短時間での連続噴射を可能にしている。しかしそれゆえ、急激な温度変化や粘度変化に著しく弱くなるという致命的な副作用を抱えていた。
タヴの仕掛けた《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》は、この脆弱性を突いていた。猛烈な氷雨と極度の低温によって外殻が急速に冷やされると、反応室の酵素活性が著しく低下し、圧力不足が起こる。さらに、低温環境下では粘液導管内の粘液の粘度が指数関数的に跳ね上がり、細く狭い輸送路が膠化した粘液で詰まり始める。
そこへ追い打ちをかけたのが、《Transmuted Spell(変質術)》により冷気へと変質された《Lightning Bolt(電撃)》だ。その強力な魔力の冷却作用によって、ネオセリッドの内部組織は一瞬でさらに急激な温度低下を起こし、管内の粘液は完全に固着し始めている。こうなれば、圧力の逃げ場を失った酸液は反応室内部へと逆流し、自らの器官を内側から腐蝕し始めるほかない。
(自らの内圧で逆流した酸が、今この瞬間にも奴自身の内臓を腐蝕し続けているはずだ)
事実、ゼンゼの眼下でネオセリッドは胸郭を激しく震わせ、苦痛に満ちた呻きを漏らし始めている。紫色の粘液が亀裂から大量に流れ出し、それが即座に氷結して次々と内圧に耐えきれない外殻を内側から引き裂いていた。
ゼンゼは反撃の好機を見逃さず、髪を鋭利な槍状に編み上げながら猛烈な勢いでネオセリッドに接近する。だが、ネオセリッドも激昂して巨大な触手を何本も振り乱し、ゼンゼの鋭利な髪槍を打ち払う。触手が嵐の中で唸りを上げて次々に襲い掛かり、ゼンゼは髪槍を複雑な軌道で巧みに操ってそれらを受け流しながら激しい攻防を繰り広げていた。
一方、タヴは周囲を覆う嵐の中で魔力探知を研ぎ澄まし、風の流れと僅かな音を頼りにネオセリッドの真上へと静かに移動していた。彼の周囲だけは《Storm Guide(嵐導き)》の影響で微かな偏光膜が広がり、半径六メートルほどの視界が確保されている。その偏光膜越しにうっすらと、暴れるネオセリッドの巨大な背中を視認した。タヴは髪槍と触手が激しくぶつかり合う衝突音、魔力の揺らぎ、嵐を乱す風の流れを手掛かりに、ゼンゼが敵の正面で応戦している位置関係を把握する。
(ゼンゼはネオセリッドの前方で交戦中。位置は俺から見て前方やや下方……)
タヴはゼンゼの位置をおおよそ特定すると、《Telekinetic(念動力)》によって無言かつ無動作で見えざる魔力の手──《Mage Hand(魔道士の手)》を形成し、それをゼンゼの方角へと慎重に送り出す。
ゼンゼは触手の攻撃を受け流しつつ反撃の隙を狙っていたところ、突然自身の肩を軽く二度叩かれる感触を覚え、一瞬だけ驚いて動きを止めかけた。だが即座にタヴの《Mage Hand(魔道士の手)》による合図だと理解し、態勢を立て直す。
(もう合図が来たか。ならば予定通りに……)
彼女は大きく息を吸い込み直すと、より一層派手な音と振動を伴わせるように髪槍を広げ、ネオセリッドの注意を完全に引きつけるべく再び攻撃の手を激しく加速させる。
「私はここにいるぞ」
ゼンゼの髪槍が氷雨を切り裂きながら風を轟かせ、鋭い音を響かせる。その刺激に引き寄せられるように、ネオセリッドの触手群が再び猛然と振り上げられ、ゼンゼに襲い掛かった。その隙にタヴはクォータースタッフを背に収め、右腰に吊り下げたウォーピックを引き抜く。その武器には、《Hexblade(影の剣)》──タヴが契約した魔剣からもたらされた力、《Hex Warrior(呪いの戦士)》が込められていた。
契約した《Hexblade(影の剣)》の加護を武器に宿すことで、本来筋力や技量に依存する武器の扱いを意志力で代替できるようになる能力。タヴの研ぎ澄まされた強靭な精神がそのままウォーピックに伝わり、彼の意志そのものが鋼の切っ先を導き、自身の戦闘技量を超えた破壊力を引き出している。
タヴは鋭い眼差しをネオセリッドに据えると、静かに《Hexblade's Curse(影の刃の呪い)》を発動する。この呪いは対象に魔力の刻印を施し、一時的に攻撃の威力を高め、致命的な一撃の可能性を引き上げる効果を持つ。漆黒の魔力が稲妻の如く奔り、ネオセリッドの巨体に呪印が浮かび上がる。彼は魔力を凝縮したウォーピックを力強く振り下ろす。
直後に《Transmuted Spell(変質術)》で冷気を纏った《Booming Blade(唸る剣)》が炸裂する。この魔法は近接攻撃を命中させると、対象を轟く魔力で包み込む効果を持つ。ネオセリッドがその場から意図的に動けば、内包された魔力が解放され、本来の雷鳴ではなく凄まじい冷気の衝撃が襲うように変質されていた。
青白い冷気が猛烈な勢いでネオセリッドの身体を駆け抜け、その巨体を震わせると共に轟音を伴った魔力が巨大生物の躯体に絡みつき、内部に強烈な反響を蓄積させる。予期せぬ強力な打撃を受けたネオセリッドは激痛に咆哮を上げながら、反射的に距離を取ろうと巨体を強引に動かした──それこそが致命的な過ちだった。
ネオセリッドが動いた途端、蓄積された冷気と魔力が雷鳴のような轟きを伴い一気に解放され、巨躯の内部から炸裂した。紫色の外殻が裂け、そこから凍りついた紫の粘液が飛び散り、ネオセリッドは再び激痛に激しく悶え、のたうち回る。予想を超える激しい動きに巻き込まれそうになったゼンゼは、突如として目の前に迫った触手を髪槍で辛うじて弾き飛ばす。同時に、タヴの声が嵐の中に響く。
「ゼンゼ、俺は真上にいる!まっすぐ上昇してくれ!」
突然の指示にゼンゼは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに彼の意図を理解した。彼女は荒れ狂う嵐の中、長い髪を高速で螺旋状に回転させ、巨大な触手の猛攻を捌きながら徐々に高度を上げる。暴れるネオセリッドの触手群が執拗に追撃を仕掛けるが、ゼンゼは冷静に髪槍の軌道を巧みに操り、最短距離で上昇していく。
(嵐で姿は見えないが、彼の《Storm Guide(嵐導き)》の範囲内に入れば、氷雨から解放されるはずだ)
ゼンゼが狙いを定め、急激に高度を上げると、彼女の周囲を覆っていた氷雨が唐突に消える。眼前には薄い偏光膜のような魔力の境界線が浮かび上がり、その中心でタヴがウォーピックを構えた姿勢で待ち構えている。ゼンゼはすぐさま彼の隣に滑り込むと同時に体勢を整え、二人はネオセリッドの暴れる範囲から確実に離れた安全な高度へと素早く上昇した。
追い詰められたネオセリッドはパニックに陥り、酸を足元に放ち地面を溶かして逃れようと試みたが、既に酸液は詰まり気味で粘性も高まっており、全く効果を発揮しない。逆流した酸がさらに外殻を腐食し、巨大生物の苦痛に満ちた叫びが嵐の中に響き渡った。
ゼンゼとタヴは無言で視線を交わし、互いの位置を微調整しながら勝機を確信し、最後の決定打を放つべく再び攻撃態勢を整える。戦況は確実に二人の側へと傾きつつあった──。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。