オアース次元、フラネス地方のイストレス湾岸に位置する城壁都市アイアンゲート。アズール海へ落ち込む険しい断崖の上で、幾重もの花崗岩の城壁が朝霧を押し分ける。高塔から見下ろせば、城外を埋めるデーモン軍の火が陸側を半円状に塞いでいた。多元安定機構の援軍が到着して以降、崩れかけていた防衛線は城壁の外へ押し戻されつつある。
たが、都市内部の混乱まで収まったわけではない。他次元から届いた機器には、城壁の寸法に合わない取付具や、現地の術者には読めない制御盤も多い。どの諸侯が人員と物資を負担するかも定まらず、荷ほどきされた装備の横で、地元兵は今なお昔ながらの弩砲と結界を使い続けていた。
フラネス地方が重ねてこなかった他界との外交も交易も、包囲下の城壁で一度に始めるほかなかった。
こうした中、多元安定機構から派遣されたレンジャーやウィザードたちは、都市の城壁や市街地に次元間侵入探知装置を設置し、防衛線の補強を進めている。城壁では地元兵が重い部材を支え、機構の術者が取付位置を白墨で示す。言葉が通じにくい場面では手振りで順番を確かめ、締め具を一つずつ固定した。見慣れぬ機器や術式に手を止める者もいたが、双方は手順を擦り合わせ、稼働を示す光が点くたび次の設置場所へ移っていく。
その頃、城砦内の鍛冶工房では、ドワーフの英雄ブロックス・フレイムスミスが《Steel Defender(鋼の護衛)》の関節を点検していた。前脚を動かしたときの金属音から噛み合わせを直し、その横では特製の魔導クロスボウを試射する。装備ごとの癖を兵士へ伝え、実戦に耐えるものから防衛線へ送り出していった。
作業を終えたブロックスは作戦指揮室へ向かった。多元安定機構から派遣されたヴィダルケンのウィザード、アゼリオンが、地図上の駒を動かす手を止める。
「あんたの故郷ラヴニカは大丈夫なのか? 今や多元宇宙の交差点みたいな場所になっているみてえだが」
窓外では、先ほど送り出した魔導クロスボウの試射音が城壁から響いていた。
ラヴニカ次元は、今や多元宇宙最大の中継拠点となっている。次元間高速鉄道が行き交い、各ギルドの公認を受けた国際結社も本部を置く。各世界から技術と人材が集まり、多元安定機構による秩序維持にも深く関わってきた。
アゼリオンはラヴニカを示す小さな青い駒を、地図の脇へ退けた。
「心配する必要はない。ラヴニカではアゾリウス評議会やイゼット連合をはじめとしたギルドがしっかり機能している。あそこは多元宇宙の混乱にも慣れているからな」
ブロックスの耳に、城壁で古い弩砲を巻き上げる重い滑車音が届く。
「そうか。それならいい。だが、オアースも他次元の技術をもう少し取り込めていりゃ、被害は抑えられただろうに」
アゼリオンは崩れた外壁を示す赤い駒の隣へ、予備兵力の青い駒を置く。
「技術の遅れが被害を広げたのは否定できない。だが、いま必要なのは反省よりも、危機を越えた後に何を残すかの整理だ」
地図の上で、二つの駒が欠けた城壁を挟んで並ぶ。
「確かにな……俺たちができるのは、生き残った者たちの未来を少しでも守り抜くことだけだ」
ブロックスは、城外の陣を示す黒い印へ太い指を置く。
「だが、オアースが技術革新に乗り遅れたのは、内部の問題だけじゃねえ。多元安定機構の存在が次元間交流の偏りを生んだことも一因だ」
その指を離し、今度は太い拳を卓上へ置いて続けた。
「機構が掲げる次元間の中立性──その理念自体は正しい。だが、運営を一部の次元からの援助へ頼り切れば、その中立も歪む」
ブロックスは地図へ視線を戻し、そのまま話を進めた。
「特にラヴニカのような高度な文明を持つ次元が、資金も人材も多く出して機構を支えている。組織の存続を一部の次元に頼れば、そこの意向も判断へ入り込む。その結果、技術も資源も乏しい次元への対応が後回しになる」
アゼリオンは口を挟まない。ブロックスの拳の下で、地図の端がゆっくり皺を作った。
「タヴの件では、その依存があの子の処遇を決めるところまで食い込んだ。次元災害の被害が後ろ盾となる次元にまで及ぶと、中枢への政治的な圧力は一気に強まった」
神々の見解も一つではなかった。守護と警戒を司るヘルムは、タヴを無監視のまま置く危険を指摘した。占術と運命を司るサヴラスは、次元災害が再び起こり得ると警告した。一方で異論を示す神も、判断を留保する神もいた。
機構中枢は、ヘルムとサヴラスの警告を、同じ次元へ再び被害が及ぶとの予測と結びつけ、強制排除の根拠に採った。異論も保留も、命令書には残らなかった。
ブロックスは一度言葉を切る。命令に従って現場で封印が始まり、彼がそれを止めた後も、機構内部の意見は割れたままだった。
アゼリオンは卓上の黒い駒へ目を落とした。城外から重い爆発音が届き、駒が縁を浮かせる。彼は倒れる前に指先で押さえ、音が遠のいてから口を開いた。
「あの事故を前に、私はタヴの排除を指示した。臆病だったと言われても否定はしない」
ブロックスは皺になった地図の端を押し戻した。
「あんたを臆病だと言うつもりはねえ。職務を全うしようとしたのも分かってる。ただ、俺にはどうしても受け入れられなかった。タヴを封印すれば次元災害は防げたかもしれねえ。だが、それはあの子の未来まで奪うことになる」
ブロックスは地図を見つめたまま、長く息を吐いた。最後の言葉だけが掠れる。アゼリオンは目を閉じ、ゆっくり頷いた。
「機構にとって……多元宇宙の秩序にとって正しい選択だったかどうかは分からないが、お前の判断がタヴという個人を救ったのは事実だ」
作戦室に短い沈黙が落ちた。ブロックスは地図の皺を伸ばす手を止める。
「……あの場にはラジエルもいたな。あいつは職務を全うし、機構の理念に賛同していたはずだ。それなのに、ほどなく機構を去ってミストラに仕えた。何があいつを変えたのか、未だに分からねえ」
アゼリオンの視線が地図の上で止まり、やがて顔が上がった。
「ラジエルの真意は私にもわからない。だが、彼が機構を去る少し前にタヴと占術魔法の訓練をしたことがあってな……。あの日の彼はいつもとは少し違っていた」
ブロックスは問いを重ねず、椅子へ背を預けた。アゼリオンへ顔を向けたまま、先を促すように顎を引く。
アゼリオンは地図から目を離し、当時の情景を語り始める。
多元安定機構の訓練施設。広い魔法訓練室の中央で、幼いタヴが両手を胸元へ寄せて立っていた。前には機構のウィザードやアーティフィサーたちが集まり、異界での交渉に必要な《占術》系魔法──《Tongues(言語会話)》や《Comprehend Languages(言語理解)》を教えようとしていた。
教本を開いた者の隣では、アーティフィサーが魔力計の針から目を離さず、壁際には暴走を遮る術式が三重に灯っていた。針が危険域へ寄れば、すぐに訓練を止め、タヴを抑えられるよう全員が備えていた。
「《Comprehend Languages(言語理解)》とは、術者自身の知覚と認知に直接作用する占術魔法であり、発話や書かれた言語情報の字義的意味のみを理解可能とするものだ。ただし、これは文字通りの意味を捉えるに留まり──」
一人が説明を終えきらないうちに、隣の術者が別の理論を継ぎ足した。
「《Tongues(言語会話)》という魔法は、言語理解の範囲を超えた双方向的な翻訳を可能とする高度な占術魔法である。この魔法を付与された対象は、自分が耳にしたあらゆる言語を理解し、さらに自身が発した言葉は周囲に存在する言語能力を有するあらゆる存在に自動翻訳され──」
術者たちは学術用語を交えて説明を重ねたが、共通語を覚えて間もない幼いタヴには、理論の意味がほとんど届かなかった。話が進むたびに視線が術者の間をさまよい、胸元で組んだ指に力がこもっていく。それでも、役立たずとして見捨てられまいと、一語も逃すまいとしていた。
そのとき、訓練室の隅から冗談めいた声が割り込んだ。
「ずいぶん難しい言葉を並べているじゃないか。タヴくんは共通語すら覚えたばかりだろうに」
術者たちが振り返る。訓練室の隅にいた次元管理官ラジエルは、タヴの前まで歩み寄ると、彼らへ軽く肩をすくめてみせた。
「占術魔法は理屈も大事だけど、ここにいるのはソーサラーだ。実演して体験させれば、すぐに直感的に理解するさ」
ラジエルはタヴの前で膝を折り、視線の高さを合わせた。片方の口角を上げ、共通語ではなく風界語で語りかけた。
「Syae Tav, laeris en'thal selai "Comprehend Languages" syr thal, shael ler lithra na(タヴ君、《言語理解》とは、君が誰かの言葉を聞いた瞬間、その意味が自然と君の心に届く魔法だ)」
ラジエルの言葉が耳に届いた瞬間、タヴは目を見開いた。それまで術者たちが共通語で並べていた理論は、意味のない音の列として頭上を過ぎていた。いまは一語ごとに輪郭があり、魔法の働きが初めてタヴの中で形を結ぶ。《Wind Speaker(風に語る者)》として生来知る風界語なら届くと、ラジエルは把握していたのだ。
ラジエルは《Comprehend Languages(言語理解)》を自らにかけ、隣にいた術者へ視線で促す。
「君、何か辺境の地方語で話してみてくれないか?」
その術者はラジエルと目を合わせ、見知らぬ次元の言語で話し始めた。
「Elaris vel'thor narima. Syth kaer isthar en」
ラジエルは耳を傾けると、間を置かず内容を風界語へ移してタヴに伝えた。
「Aeris sythal, i'thera velas noril──Fela isthal, syltha nim astari(我々は星を見上げ、答えを探している──これが《言語理解》の効果だよ。君にも必ずできるようになるさ)」
続いてラジエルはタヴの肩に触れ、《Tongues(言語会話)》をかけた。今度の説明は共通語だったが、一語ごとにタヴの理解できる風界語へ自動的に翻訳され、頭の中で明確な意味を結んだ。
「いいかい、タヴくん。《Tongues(言語会話)》という魔法は、君が話したいと思ったことを相手に通じる言葉へと自動的に変換する魔法だ。言葉を作ろうとする必要はない。伝えたい内容に集中して、口に出せばいい」
タヴは最初、恐る恐る口を開いた。だが効果を確かめると、小さな声で短い言葉を一つずつラジエルへ返し始める。
「僕、あなたが怖い人だと思っていました。だって、あなたは僕を封印しようとしたから……でも、本当は優しい人なんですね。ありがとうございます」
幼いタヴが最後まで言い切ると、ラジエルの瞳の焦点がタヴの向こうへ外れ、肩に置いた手まで止まった。
《占術系統》のウィザードに夢の中で訪れる《Portent(予見)》が、不意に割り込んだかのような反応だった。だが、彼が何を見たのかは周囲には分からない。ラジエルは焦点をタヴへ戻し、肩に置いた手を離してから応えた。
「残念だけどタヴ君、僕は優しい人じゃないよ。ただの自分勝手なウィザードさ。でも、君は自分の未来を信じて進むといい。この魔法が君の将来を拓く鍵になるかもしれないね」
ラジエルは口元を緩めたが、言葉を返した後、視線は再びタヴの向こうへ外れた。その短い指導から数日後、彼は次元管理官の職を辞し、機構を去った。
記憶の話を終えたアゼリオンは、地図へ視線を戻して続ける。
「あの指導を境に、タヴは占術系魔法を徐々に習得し始め、最終的には自力で《Tongues(言語会話)》と《Comprehend Languages(言語理解)》を使いこなせるようになった」
ブロックスは地図から顔を上げた。
「あいつがそこまでやってたとは聞いてねえ。なぜ急に……」
「理由は分からない。だが、あの指導を最後に彼は機構を去り、その後ミストラに仕えるようになった。何かを感じ取ったのかもしれない」
ブロックスの喉から、半信半疑の声が漏れる。
「ミストラからの啓示を受けて、急に信仰にでも目覚めたのか?」
アゼリオンは否定しなかった。
「実際、あながち冗談でもないかもしれない。あの時のラジエルは確かに何らかの啓示や神性の介入を一瞬感じていたようだった。彼にしては珍しく戸惑っていた様子を私も覚えている」
ブロックスの笑い声が、石壁の作戦室へ響いた。
「マジかよ……ラジエルが神に祈りを捧げている姿なんざ、俺にはどうにも想像がつかねえよ」
アゼリオンも、その場面を思い浮かべたらしい。
「私もだ。彼はいつも『神々に祈る暇があるなら、魔法の研究でもしているほうがよほど有意義だね』などと言っていたからな。ミストラの前でも、『やれやれ、魔法の管理というのは存外面倒ですねぇ』なんて皮肉交じりの祈りを捧げているかもしれないぞ」
二人の笑いは、城外から届いた砲声に途切れた。作戦卓の駒が小さく震え、ブロックスは黒い印を指で押さえる。
「ラジエルは既に閉ざされた次元へと向かったが、あいつは最初からこうなることを予見していたのだろうか……」
アゼリオンは振動でずれた青い駒を元へ戻す。
「そうかもしれないな。タヴが閉ざされた次元に転移したのも、単なる偶然の事故ではなく、運命の導きだった可能性もある」
廊下の向こうから、会議へ集まる隊員たちの足音が近づく。アゼリオンは扉まで届かない声に落とした。
「タヴはまだ内面に不安定さを抱えている。だが、お前が示した信頼が今も彼を支えているはずだ。我々にはその結果を見届ける責任がある」
ブロックスは黒い印を押さえたまま、アゼリオンへ一度だけ頷いた。
作戦室の扉が開き、多元安定機構の隊員と地元の指揮官たちが次々と入室してくる。地図の周囲が隙間なく埋まり、最後の一人が扉を閉める。ブロックスは黒い印から指を離し、低く告げた。
「時間だ、始めるぞ」
全員が地図を囲む。ブロックスが召喚儀式の地点を指で押さえると、地元の指揮官は防衛線をなぞり、多元安定機構の隊員が侵入経路をその隣へ示した。最後の反撃作戦の配置を読み上げる声が、作戦室に重なり始めた。
*
破壊された坑道の上空には、薄墨色の雲が低く垂れ込めていた。その下で、紫色の巨体──ネオセリッドが地面から離れたまま身をうねらせる。外皮を伝った酸性の粘液が岩へ落ちるたび、白い泡と煙が上がった。草は葉先から黒く縮れ、露出した岩肌には筋状の溝が刻まれていく。
タヴとゼンゼは巨体より上方で横に距離を取り、互いの魔法が交差しない間隔を保って宙に留まっていた。タヴはクオータースタッフを胸元へ構え、ゼンゼは髪槍の穂先を下方へ揃えている。ネオセリッドが上昇すれば左右へ散開し、地表へ降りれば上から追える配置だった。巨体の動きに合わせ、二人の身体を支える風も絶えず向きを変えている。
「何か有効な戦術はあるのか。あれを正面から倒すのは無謀に見えるが」
ゼンゼは眼下の巨体を見たまま問いかける。タヴは一度息を整え、同じ方向へ顔を向けたまま応じた。
「ネオセリッドは知能が低く、視覚器官を持たない。魔法による音や匂いで撹乱すれば、ある程度動きを誘導できるはずだ。奴は鋭敏な感覚を持つが、その鋭さが逆に弱点になる場合も多い」
ゼンゼが頷いた瞬間、ネオセリッドを取り巻く空間が不自然に歪み始めた。紫色の濃霧が全身を包み、巨体はその高度から消え去る。ゼンゼの息が止まった。
「消えた……?」
背後で魔力の波が膨らみ、タヴとゼンゼは同時に身体を反転させる。紫の靄が渦を巻き、二人と同じ高度に巨大な躯体が出現した。先ほどまで眼下にあった頭部が、今度は二人の正面を塞いでいる。間隔は触手一本が伸びきる長さにも満たない。タヴは右へ、ゼンゼは左へ身を開いたが、空気を揺らす轟音と共に複数の触手がそれぞれへ迫った。
ゼンゼは舌打ちし、灰茶色の髪を槍状に硬化させる。髪槍が二本の触手を左右へ外す間にも、別の一本がタヴの正面へ迫っていた。タヴはクオータースタッフを胸元へ引き、空いた左掌を突き出す。
「《Shield(盾)》!」
左掌の前に力場が立ち上がり、触手を正面から受け止めた。透明な面は深く撓み、衝撃が腕から肩を抜けて全身へ響く。クオータースタッフを背へ引いても身体は数メートル押し戻されたが、タヴは後方へ風を噴かせ、障壁を割らせずに受け切った。
触手が離れると、撓んだ障壁が弦のように戻って空気を鳴らす。タヴの左手は痺れ、開いた指がすぐには閉じない。タヴは右手の柄で身体の向きを保った。反対側では、ゼンゼの髪槍が最後の触手を外へ滑らせる。弾いた髪をすぐ引き戻し、次の一撃へ穂先を揃えた。攻撃をしのいだ二人は、そのまま巨体を挟む位置へ離れる。
「くそっ、《Misty Step(霧渡り)》をネオセリッドに仕込んだのか!? イカれた触手頭どもめ!」
タヴは敵を睨みつけながら吐き捨てる。《Misty Step(霧渡り)》など、本来ネオセリッドには扱えない能力だ。あのマインド・フレイヤーたちが施した魔法的改造が、自身の想像を越えていることをタヴは痛感していた。
敵が次の攻撃を準備する前に、ゼンゼが右掌を向け、《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》の白銀光を撃ち放つ。同時にタヴも左手を障壁から外し、《Eldritch Blast(怪光線)》を四条放った。
ネオセリッドは触手を交錯させ、瞬時に防御のための精神障壁を張り巡らせようとする。だが、頭部の右側から形成された膜が左側へ届く前に、魔力の流れがねじれて破綻した。白銀光と四条の光線は、同じ裂け目へ別々の角度から飛び込む。不安定な障壁は内側から弾け、二人の魔力が露出した巨躯へ連続して炸裂した。
《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》が裂け目を横へ押し広げ、続く二条の怪光線が頭部の外皮を抉る。残る二条は一拍遅れて同じ傷へ重なった。紫色の粘液が光の中で飛び散り、ネオセリッドの頭部が大きく傾く。ゼンゼは髪槍を正面へ残したまま、破れた障壁がどちら側から戻るかを追った。タヴも左手を下げず、次の四条をすぐ放てる角度に保つ。
「ネオセリッドの障壁が崩れた……?」
障壁は、右側から伸びた紫光と左側へ後付けされた術式の継ぎ目で裂けていた。ネオセリッドが頭を振ると再形成が始まるが、同じ箇所でまた流れがねじれる。
「強引に術式を脳に埋め込んだことによる弊害だな。後付けされた魔力を制御できていない……」
ゼンゼは髪槍を前へ残し、障壁が破綻した箇所を目で追う。だがネオセリッドは四つに裂けた口腔を開き、空間を揺らす咆哮を放った。巨躯の内側から《サイオニック》の波動が爆発し、周囲の空気を歪める力場が発生する。
ゼンゼが力場の偏りを追う間にも、ネオセリッドは周囲の空間をさらに歪ませる。巨体が二人へ正面を向けた瞬間、タヴが声を張り上げた。
「突進してくるぞ!」
ネオセリッドの巨体が二人の高度へ砲弾のように射出される。《Levitate(空中浮揚)》は巨体の高さを支え、マインド・フレイヤーが追加した推進術式が、それを水平方向へ押し出していた。圧縮された空気が衝撃波となって先に届き、タヴのローブとゼンゼの長髪を後方へ叩きつける。二人は互いに反対方向へ散開し、巨体の中心線だけは外した。だが横から全身を打たれ、タヴは上方へ、ゼンゼは下方へ飛行姿勢を崩される。
巨体は二人の間を通り抜け、遅れて引きずられた空気が背中へ打ちつけた。ゼンゼは髪槍を広げて風を受け、落ちる高度を抑える。タヴは上へ押し出された勢いを《Wind Soul(風の魂)》へ預けたが、ネオセリッドは通り過ぎた先で既に頭部を返していた。推進力場が片側だけ濃くなり、巨体が空中で強引に弧を描く。
(《Levitate(空中浮揚)》で巨体を支え、後付けの術式で推進力を圧縮している。二つの均衡を崩せば、溜めた力が反動となって返るはずだ……)
タヴの上体が傾いた隙を狙い、ネオセリッドが進路を曲げる。四方に裂けた口腔から咆哮を放ち、触手を上下左右へ広げてタヴの退路を塞いだ。
「狙いは俺か……!」
タヴは歯を食いしばり、《Minor Illusion(初級幻術)》を発動する。自身から離れた空間に人間の叫び声を響かせたが、ネオセリッドの頭部はそちらへ動かない。触手群はタヴの上昇路と左右の逃げ道へ一本ずつ広がり、囲いを狭めてくる。
タヴは右手のクオータースタッフで一本を外へ払い、次の触手を身体ごと沈めて避ける。柄に伝わった重さで右肩が引かれ、空中の軌道がわずかに外側へ膨らんだ。そこへ上下から別の触手が迫り、上昇路と左右の退路を順に塞いでいく。タヴはクオータースタッフの先を下へ向けて身体を捻るが、頬と左肩を触手の先がかすめた。開いた傷から血が飛び、飛行の風に乗ってすぐ後方へ流される。
タヴは《Misty Step(霧渡り)》を発動し、触手の包囲から上方へ抜ける。再出現と同時に身を返し、左手から《Eldritch Blast(怪光線)》を放つが、光線は外皮と精神障壁に阻まれた。ネオセリッドはすぐに追加の推進力場を圧縮し、上昇したタヴへ巨体を射出する。
「こっちを向け。お前の相手は私だろう」
ゼンゼは追跡するネオセリッドの背後へ射線を合わせ、呼びかけと同時に《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を放つ。白銀の閃光は精神障壁に弾かれ、巨体の左右へ四散した。ネオセリッドは振り向かず、上方のタヴへ猛攻を続けている。
ゼンゼは額の汗を袖で拭う間もなく後を追い、ネオセリッドの側面へ指先を振って《クラングゲシュライ(特定地点に爆音を発生させる魔法)》を放つ。すぐ傍の空気が爆ぜても、頭部も触手も音へ向かない。タヴの魔力と脳へ執着した本能は、異なる魔法の音を切り捨て、突進を続けている。
ネオセリッドが巨体をうねらせ、口腔から酸性粘液を噴き出した。タヴは《Absorb Elements(元素吸収)》の膜で大半を受け、クオータースタッフを離さないまま左前腕で顔を庇う。粘液は袖から肩へ斜めに流れ、膜の表面で激しく泡立った。立ち上る熱と刺激臭の中、繊維を溶かし始めた酸を強風で身体の外へ吹き飛ばす。その間だけ、タヴの視線がネオセリッドから外れた。
その隙に、ネオセリッドの頭部の奥で《サイオニック》が一点へ凝縮し始める。詠唱も手振りもなく、口腔の動きさえ変わらない。見えるのは、外皮の下で紫光が脈打つことだけだ。タヴはこの種が精神を壊す術と念動を操ることを知っていたが、この個体には未知の改造まで施されている。どの力が放たれるのか、集まる魔力だけでは絞れなかった。
術の輪郭が現れてから選び直す猶予はない。声も身振りもないため、《Counterspell(呪文妨害)》で断つべき糸すら見えなかった。タヴは左肩を焼く酸の痛みを噛み殺し、精神へ届く道を先に閉ざす。
「俺の願いを叶えろ!」
膨大な魔力がタヴを中心に渦巻き、周囲の空間を大きく歪ませる。《Wish(願い)》に応じて《Mind Blank(空白の心)》が立ち上がり、外へ開いていた思考の輪郭を内側から閉じた。額の奥で絡み合っていた雑音が遠のき、自分の呼吸と、左肩を焼く痛みだけが鮮明に残る。
直後、頭蓋の内側へ鈍い衝撃が走る。ネオセリッドの《Feeblemind(知能低下)》が、言葉も記憶も術の組み方も剥ぎ取り、人格を思考以前の空白へ沈めようと押し寄せてきた。
だが、圧力は防壁で止まった。入口を見つけられないまま、その表面を滑ってほどけていく。
タヴはクオータースタッフを握り直す。指は意図どおりに動き、次の呪文も崩れていない。すぐに《Wind Soul(風の魂)》の風を噴かせ、巨体から横へ離れた。
追撃の触手が風の尾へ振り下ろされるより早く、タヴは上昇に転じた。巨体の頭上へ回り込み、さらに高度を取る。
ネオセリッドには目がない。先ほどまではタヴの精神を捉え、空気の圧力や振動を拾って、そこへ触手を重ねていた。だが今は風の尾だけを追って触手を振り下ろし、一度空を切る。タヴはその間にさらに上昇し、巨体から離れた。
タヴを捉えられなくなったネオセリッドの巨体が空中で震える。四本の触手は別々の方角を探り、咆哮だけが虚空へ響き渡った。
(何だ……? タヴの魔力が探知できない……?)
つい先ほどまで捉えていたタヴの輪郭だけが、ゼンゼの探知から抜け落ちていた。探知範囲を上空へ広げ直しても、感覚には何も触れない。理由を考える間もなく、四方を探っていたネオセリッドの触手が止まり、次の獲物を求めてゼンゼへ向いた。
(……まずいな……こっちに来る)
ゼンゼが身構えた瞬間、ネオセリッドの巨体が数十メートルほど斜め下にいる彼女を捉えた。四本の長い触手が一斉にゼンゼへ向き、二本が左右の逃げ道を測るように広がる。残る二本は正面へ揃い、突進後の間合いを塞ごうとしていた。そして、巨体を丸ごと射出するため、周囲の力場を一点へ急速に圧縮し始める。
「──っ!」
ゼンゼは咄嗟に髪の盾を前方に構築しようと、《自身の髪の毛を自在に操る魔法》を組み替える。だが、ネオセリッドの上方で漂っていた土埃が細く割れた。タヴが風を絞って位置を取っている。
ネオセリッドはタヴを見失ったまま、ゼンゼへ巨体を向ける。《Levitate(空中浮揚)》を保ち、追加の推進術式を極限まで圧縮する、その瞬間をタヴは真上から待っていた。
「《Dispel Magic(魔法解呪)》!」
追加の推進術式が力を蓄え切り、ネオセリッドが飛び出す寸前、タヴは《Dispel Magic(魔法解呪)》を放つ。魔法が術式の中核を貫き、巨躯を支える《Levitate(空中浮揚)》が音を立てて砕け散った。巨体の下で紫色の光が輪状にほどける。
しかし、その外側では追加の推進術式に溜まった力が、行き場を失った。土台の浮遊力場だけを失い、局所的に押し固められた空間が本来の形へ戻ろうとして暴発する。衝撃波が大気を一斉に外側へ弾き、タヴとゼンゼの衣服を身体へ叩きつけた。中心には真空に近い空白が残り、次の瞬間には弾かれた空気が逆流する。土煙も砕けた岩も持ち上がり、暴風となって四方からネオセリッドへ吸い込まれた。
ゼンゼの髪槍が一斉に外へ流され、次の瞬間には逆向きに引かれる。彼女は束を半分ずつ左右へ分け、互いに巻きつかないよう先端を閉じた。タヴのローブも胸元へ貼りつき、傷の開いた左肩を強く締めつける。息を吐こうとしても空気がなく、肺が一拍遅れて止まった。逆流が始まると同時に、彼は口を閉じたまま風へ身体を預ける。
高度を失い始めたネオセリッドは吸引に巻かれ、頭部を傾けて姿勢を崩す。タヴは真上からその動きを見定め、吸引に逆らわず巨体へ向けて落下した。右手のクオータースタッフを身体に沿わせ、先端が触手へ引っかからない角度まで寝かせる。空いている左手を胸元へ寄せ、ネオセリッドとの距離が詰まる間に術式を組み上げる。宙を滑り落ちながら、ウォーロックの秘術を発動した。
「《Armor of Agathys(アガシスの鎧)》」
異界から呼び出された霊的な冷気が、落下するタヴの全身を覆う。ローブと装具の表面へ張った霜は、薄い鎧のように肩から胸、腕へ重なっていった。タヴはその中でも左肩の層を厚くし、触手へわざと向ける。受けた一撃を冷気へ変えて返す《Armor of Agathys(アガシスの鎧)》に、最初の衝突を引き受けさせるためだ。
ネオセリッドは頭上から落ちるタヴへ触手を振り上げる。タヴは左肩を外側へ向け、頭部と胸を軌道から外した。右手のクオータースタッフは脇へ固定し、衝撃で手放さないよう握りを深くする。触手が左の上腕から肩甲骨周辺を打ち、身体が半回転した。霜の防護膜へ触れた途端、《Armor of Agathys(アガシスの鎧)》が接触点から砕け散る。冷気の衝撃が触手を遡り、その表皮を瞬時に凍てつかせた。
触手から伝わった衝撃が肩を打ち抜いた刹那、タヴの血脈も《Storm's Fury(嵐の怒り)》で応じた。砕けた霜の隙間から眩い雷光が炸裂し、触手を逆走して巨躯の奥まで白く走る。冷気に凍った表皮が電流で収縮し、触手はタヴを押し切れずに跳ね返った。ネオセリッドも上体を仰け反らせ、空中で姿勢を崩す。
間髪を入れず、タヴはクオータースタッフを右脇へ引き寄せ、空いた左掌を真下へ向けて魔力を解き放つ。《Thunderwave(雷鳴波)》の圧力が下方へ走り、至近距離のネオセリッドを押し返した。上向きに返った反動を《Wind Soul(風の魂)》の気流が拾い、タヴの身体も一段高く跳ねる。《Heart of the Storm(嵐の中心)》の雷撃が全身から広がり、触手の根元と外皮を焼き焦がした。
下向きの圧力と上向きの反動が、触手を挟んで逆方向へ走る。タヴの左肩から霜の欠片が剥がれ、ネオセリッドの表皮からは焦げた粘液が飛び散った。巨体が落ち始めても、一本の触手だけはタヴの足首へ巻きつこうと伸びる。彼は膝を胸元へ引いて先端をかわし、風を足裏へ集めて、もう一段だけ上へ抜けた。
ネオセリッドは真下へ叩き落とされながらも口腔を開き、頭上のタヴへ酸を吐こうとする。その直前、斜め上方にいたゼンゼが射線と重ならない側面へ回った。《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》の白銀光が口腔の脇を打ち、頭部を横へ弾く。噴射口を逸らされた酸はタヴの右側を通り過ぎ、空中へ散った。
(あの状況で射線を見切り、魔法を放つとは……そして相変わらずの発動速度だな……)
落ちていく酸は、先ほどよりも遅い。冷気に晒された粘液は途中で糸を引き、幾つかは塊のまま地表へ落ちた。《Storm's Fury(嵐の怒り)》の電撃だけでは説明できない。直前まで外皮を覆っていた《Armor of Agathys(アガシスの鎧)》の冷気が、噴射器官の奥まで届いたのだろう。
タヴは《Wind Soul(風の魂)》の気流を逆向きに噴かせ、ゼンゼのいる高度まで駆け上がった。ゼンゼも横へ滑って左側へ並ぶ。互いの負傷と地表を見られる距離で、タヴはクオータースタッフを右手に残したまま左腕を身体へ寄せ、ゼンゼは髪槍の半数を眼下へ向け直す。その直後、ネオセリッドが地表へ墜落した。激突音とともに土砂が円く噴き上がり、中心に巨大なクレーターが開く。
衝撃は遅れて二人の高度まで届き、砕けた石と土が頬を打った。タヴは傷めた左肩を内側へ庇い、ゼンゼは長髪を一枚の壁に編んで飛来物を受ける。土煙が薄れたとき、クレーターの縁では酸を浴びた草が黒く縮れていた。
クレーターの中心で、ネオセリッドが外皮を土へ擦りつける。四本の触手は地面を叩きながらも、まだ上空を探っていた。二人は高度を崩さず、タヴはクオータースタッフの先を、ゼンゼは髪槍の半数を巨体へ向けたままにする。タヴはその姿勢のまま、ゼンゼへ声を投げた。
「助かった。完璧なタイミングの援護だったな」
ゼンゼはタヴの裂けた左袖と、その奥の傷へ視線を止める。
「肩は動くのか? 随分と無茶をしたものだな……。それと、急に君を探知できなくなった。何をした?」
タヴは左腕を肩の高さまで上げ、痛みの走る位置を確かめてから答えた。
「まだ戦える。《Mind Blank(空白の心)》で精神感知と占術による探知を遮断した。奴は俺を見失った。その分、次はあんたを狙う」
ゼンゼは小さくため息を吐き、髪槍の穂先を眼下のネオセリッドへ揃え直した。
「……異界の魔法とやらは理不尽な効果ばかりだな。まあ、しかし分かった。どのみち奴の注意を引きつける必要はあるからな」
タヴは短く頷き、先ほど目にした酸の飛翔速度と粘りを頭の中で結び直して、言葉を続けた。
「それを踏まえて作戦がある。さっきネオセリッドの吐いた酸を見た時に気づいたが、奴の酸噴射器官は低温に弱い可能性が高い。ある魔法を使えば、動きを鈍らせるだけでなく、酸の威力も抑えられるはずだ。だが……」
タヴはクレーターから村の方角へ目を走らせ、言い添えた。
「その魔法を使うと周辺の気候に影響が及ぶかもしれない。さらに至近距離で奴と交戦するあんたには苦痛を強いることになるだろう」
ゼンゼはクレーターと村の方角を順に見て、短く息を吐く。すぐにタヴへ向き直って答えた。
「構わない。幸いこの付近に人はいないし、あの化け物は一刻も早く討伐する必要がある。それで、どんな無茶を言い出すつもりだ?」
タヴは地上のクレーターへクオータースタッフの先を向け、手短に作戦を伝えた。ゼンゼは一度だけ頷き、髪槍をクレーターの中心へ揃える。
地上では、ネオセリッドが再び紫光をまとい、《Levitate(空中浮揚)》で巨躯を引き上げ始めていた。二人は同時に高度を取り直す。迫る巨体を正面に見据えながら、タヴは空いている左手の指先を空高く突き上げ、間を置かず呪文を唱える。
「冷たき風よ、天地を呑め──」
*
少し前、穏やかな午後の陽が差すリューデル村の外れで、廃坑の丘の下から地面が裂けた。白い土煙が陽に透けて高く立ちのぼり、直後に地響きが追いつく。地面を走った揺れは畑の畝を崩し、家々の戸や窓を内側から激しく鳴らした。
廃坑の方角の空は薄く白み、細かな粉塵が陽光を鈍らせる。家から飛び出した村人たちは、戸口や畑の中で同じ方角へ顔を上げた。そこで足が止まる。
村から離れた上空に、家屋を丸ごと呑み込めそうな太さの影が浮いていた。紫がかった赤黒い躯体は、空へ投げ出された巨大な蛇にも見える。頭部は星形に裂け、その中心だけが、村からも黒い穴となって見えた。
口の周囲では、細い何かが何本も動いている。しかし距離と粉塵に輪郭を削られ、触手なのか別の器官なのかまでは分からない。村人が知る魔物の姿には、どれも当てはまらなかった。
村人たちは互いの袖を掴み、小声で囁き合う。だが次の瞬間、その生物の口腔が激しく震え、大気を引き裂くような重低音の咆哮が響き渡った。音の波が空気を震わせ、村人たちは胸を押されるように一歩よろめく。家屋の窓枠や扉も激しく鳴り、ガラスが砕ける寸前でかろうじて持ちこたえた。
咆哮の直後、家畜が甲高い声を上げ、牛と馬が一斉に柵へ身体をぶつけた。板が大きく軋み、今にも壊れそうになる。村人たちは近づいて鎮めることもできず、その場に立ち尽くした。
「村長、あれはいったい何なんでしょうか……」
若い村人は頬から血の気を失い、村長へと問いかける。村長は唇を噛み締め、一拍置いて口を開く。
「分かりません……。しかし、もしかするとあの坑道に潜んでいた生物なのかもしれません。坑道へ調査に向かわれた魔法使いの方々が、あれと戦っておられる可能性が高いでしょう。いずれにせよ、このまま村に留まるのは危険です」
家々の前で、村人たちのざわめきが一段と大きくなった。
「でも……あんな化け物が地上に出てきちまったってことは、もう魔法使いさんたちは殺されちまったんじゃないかい……?」
村の中年の女性が両腕を胸へ抱き、震える声を絞り出す。その問いに即答できる者は誰一人としていなかった。重い沈黙を破ったのは、再び村長だった。彼は震える手を握りしめ、一度息を吸ってから広場の端まで届くように声を張る。
「皆さん、まずは慌てずに荷物をまとめてください。すぐに村から避難できるよう、迅速に行動をお願いします。子供や老人を優先して安全な場所に移動させるように!」
村人たちは何度も頷き、足早に自宅へ戻り始めた。親は毛布と水袋を子供へ持たせ、足の悪い老人を荷車の荷台へ乗せる。別の家では袋へ詰めかけた食器を戻し、食料だけを背負い籠へ移していた。だが窓が震え、巨大な咆哮が遠くから響くたび、戸口の内側では手が止まり、互いの名を呼ぶ声が家々から上がった。
遠く浮遊する巨体が身体をうねらせると、紫の靄がその周囲へ巻き上がった。屋根を撫でるように紫光が走り、家畜囲いの横木へ馬の身体がぶつかる。荷造りの手がまた止まりかけたところで、村長は家々を指し分けて叫んだ。
「冷静に行動してください! 今は皆さんの安全が最優先です! あの生物の攻撃がこちらまで及ぶ前に、迅速に行動してください!」
鍛冶屋の男が槌を持って柵へ走り、若者たちは荷車の向きを森側へ変える。親たちは子供の肩へ毛布を掛け、背負い籠を締め直した。紫の光が明滅する下で、避難の列がようやく形を取り始める。
*
同じ頃、毛皮をあしらった白いロングコートの男が、街道を進む隊商の先頭に立っていた。淡い灰色の髪を後ろへ流し、丘の切れ目や街道脇へ絶えず目を配っている。彼の名はヴィアベル。北方辺境で魔王軍の残党と戦い、北部魔法隊の隊長を務める二級魔法使いだった。
ヴィアベルは一級魔法使い選抜試験を受けるため、北側諸国の港町から魔法都市オイサーストを目指していた。同じ方角へ向かう隊商が護衛を募っており、三人の冒険者と共に仕事を引き受けたのだ。近頃はギスヤンキやマインド・フレイヤーによる被害が増え、街道を渡る商人たちも護衛なしでは進めなくなりつつある。
その後ろでは、隊商付きの護衛十五名と雇われた三人の冒険者が、街道の前後へ目を配りながら馬を進めていた。穏やかな行程を破ったのは、遠方から届いた雷鳴のような轟音だった。大地が震える。怯えた馬たちは一斉にいななき、馬車もぎこちなく止まった。護衛の一人は剣の柄を握り、乾いた喉を鳴らした。
「なんだ、今の音は?」
ヴィアベルは眉を寄せ、音のした方角──彼方の山稜上空へ目を細めた。淡く霞んだ空に、不気味な紫色の塊がゆらゆらと揺れている。距離のせいで巨大だということ以外は分からず、細部も輪郭もぼやけていた。それでも山稜と重ねれば、ただならぬ存在感を放つ常識外れの大きさだった。
「あの辺りか……」
呟きを聞いた商人の一人が、幌付きの荷馬車から望遠鏡を取り出した。街道の先や天候を遠くから確かめるため、隊商で共用しているものだった。
「こちらを使ってみてください。手軽な道具とは言えませんが、こんなときのために持ってきて正解でしたな」
商人は掠れた声でそう言いながら、望遠鏡をヴィアベルに差し出した。彼は差し出された筒と空を一度見比べ、すぐに受け取って覗き込んだ。
「……何だ、ありゃ」
焦点を合わせた円い視界の中に、紫の粘液で濡れた巨体が浮かび上がった。蛆虫か蛇を思わせる太い胴が山稜へ重なり、星形に裂けた口腔からは長い触手が何本も伸びている。輪郭のすぐ外では景色の線が僅かに曲がり、向こうの雲が水越しのように揺れていた。
「ちょっと貸してもらえるか?」
隣にいた若い冒険者が望遠鏡へ手を差し出した。ヴィアベルが無言で渡すと、三人の冒険者は順番に覗く。異形を確かめるたび、望遠鏡を支える手が止まり、掠れた声が漏れた。次へ渡すまでの間も、誰も空から目を離せない。
「あれは一体……? まるで空中に浮かぶ巨大な蛇みたいだ」
「紅鏡竜並みにデカいぞ……しかも、あの形状は何だ……」
「とてもじゃないが、こっちに来てほしくはないな……」
三人目の指は筒からなかなか離れなかった。ヴィアベルは望遠鏡を受け取ると、再び対象へ焦点を合わせる。その瞬間、紫色の影の周囲に稲妻のような強烈な閃光が走り、ヴィアベルはその光から数え始めた。
「……十五、十六……音がここに届くまで約十六か」
ヴィアベルの言葉通り、その直後に再び強烈な轟音が周囲を揺らした。彼は望遠鏡から目を離さず、口を開く。
「距離はざっと五、六キロってところだな……だが、問題はそれだけじゃねえ。あの大きさ、あの浮遊する異形の姿……魔王軍の残党や辺境の魔物とは全く違う。こいつは……」
ヴィアベルは望遠鏡を畳み、商人へ返しながら息を吐いた。
「どう見ても、こっちの魔物じゃねぇ。噂の異界の化け物ってやつだ」
彼の言葉に、冒険者や護衛たちの視線が互いへ走る。望遠鏡を受け取った商人は、筒を胸元へ引き寄せたまま、出発の指示を出せずにいる。風に鳴る幌の下で、御者たちは手綱を握り直し、ヴィアベルの次の言葉を待った。
*
リューデル村では避難の準備が慌ただしく続き、村人たちは息を切らして家と広場の間を何度も走っていた。村長が懸命に呼びかけて混乱を抑える中、坑道方面の空が突然、異常な明るさで白く染まった。
「今度は何だ!」
次の瞬間、白い閃光が昼間の村から色を奪う。一拍遅れて轟音が追いつき、積みかけた荷が荷車から転げ落ちた。今度の衝撃が運んできたのは土埃ではなく、肌を刺す冷気だった。
「雷……いや、それにしては異常だ!」
村長は転がった水袋を拾い上げ、広場へ急ぐ。着くまでの僅かな間にも空気は冷え込み、湿った風が襟や袖から衣服の隙間へ入り込んできた。
「なんて冷たい風だ……真冬の嵐より酷いぞ……」
先ほどまで空に浮いていた紫色の巨大な生き物は、坑道付近に突如生じた凍雨とみぞれの暴風雨の奥へ隠れていた。もはや村から姿を確かめることはできない。円筒状の領域だけで雲と冷気が荒れ狂い、空そのものが巨大な何かを呑み込んで周囲から切り離しているようだった。
暴風雨の発生と共に、その余波が村まで達した。坑道方面から来る衝撃波のたび、家屋の壁と窓ガラスが激しく鳴り、屋根瓦が軋みながら擦れ合う。拳ほどの氷塊を絶えず屋根へ投げつけられているかのような錯覚を覚える轟音が、村全体を包み込んだ。
「窓を押さえろ! 板を打ち付けるんだ!」
男たちは家屋を守ろうと窓や扉へ板を当て、必死に固定した。家畜は既に村外れの納屋と共同の家畜囲いへ避難させられ、柵を破って逃げ出す最悪の事態は何とか免れている。それでも凍える風と轟音の中、納屋からは牛と馬の落ち着かない鳴き声が絶えなかった。
「落ち着いてください、皆さん!」
村長は板を打ち付ける男たちまで届くように声を張る。
「坑道方面には絶対に近寄らないでください! 荷物は最小限に抑え、速やかにここへ集合してください。家畜は安全な納屋に避難させています。今は皆さん自身の命を守ることに専念を!」
村人たちは村長の言葉に従い、再び避難準備へ動き始めた。老人や子供たちは身体を震わせながら、広場へ集まってくる。
「村長、本当に村を離れた方がいいのか? かえって危険ではないのか?」
問いを発した男は、広場から森へ続く道を振り返る。家屋を出て避難小屋へ向かうこと自体が危険ではないのかと、その視線が訴えていた。その直後、坑道方面を覆う暴風雨の中から、巨大な生き物の咆哮と何かが激しくぶつかり合う音が風に乗って村まで届く。人間には到底出せない声と空間が軋むような異音に、村人たちの動きが再び止まった。
村長の脳裏に、青白い閃光とともに村へ現れた二人の姿が蘇った。魔法に詳しくない彼にも、あれが尋常な術でないことは分かった。坑道の入口でタヴは村人を先に戻し、最後の一人が曲がり角の先へ消えるのを待ってから、ゼンゼと二人で闇へ入った。あの二人が今も坑道の方角で踏みとどまっているなら、村を離れる時間はまだ残されている。
「恐らくあの嵐は魔法によるものです! 二人の魔法使いの方々が、あの巨大な生き物を足止めしているのでしょう。その間に、私たちは村を離れて避難するべきです!」
村長が言い切った直後、白い雲壁の内側で紫の閃光が潰れ、遅れて地鳴りが届いた。一人の村人が、荷車を押す手を止めないまま呟く。
「あれは魔法というより……災害だ」
*
数キロ先の異変は、ヴィアベルが護衛する隊商にも届き始めていた。穏やかだった街道で、最初は車輪が小石を踏んだ程度の微かな振動だった。それが一度ごとに強まり、ついには大気そのものを震わせる猛烈な衝撃波と轟音となって隊列の横腹を打つ。
「馬を抑えて落ち着かせろ!」
冒険者たちは暴れ狂う馬の手綱へ体重を掛けるが、革が汗で掌を滑る。訓練を受けた護衛たちもまた、合計十五名ほどで隊商を囲みながら、剣や盾を持ち替えては山稜上空へ目を戻していた。
ヴィアベルは淡い灰色の髪を冷たい風に靡かせ、鋭く山稜上空を見た。先ほどまで見えていた紫色の巨大な影は、突如生じた奇妙な雲と冷気に遮られ、白い円柱の内側へ消えている。生物の輪郭はどこにも確認できなかった。
「妙だな……。化け物の姿が完全に見えなくなった。魔法の霧か?」
ヴィアベルが呟くと、隊商を率いる商人の一人が再び荷馬車から望遠鏡を取り出した。
「こちらをもう一度使ってください。まだ様子が見えるかもしれません」
若い冒険者が先に望遠鏡を受け取り、白い円柱へ焦点を合わせる。何度調整しても、その奥の紫色は戻ってこない。
「何も見えない……完全に雲と氷に包まれて、内部は真っ白だ」
冒険者から受け取ったヴィアベルは、白い円柱の縁から中心へレンズを動かす。細かな氷粒が風に乗り、こちら側へ流れ始めていた。
「なるほどな……何らかの魔法で目隠しされたか。恐らく術者による維持が必要なタイプだな」
ヴィアベルが望遠鏡を商人へ返すと、隊商を率いる初老の商人は白い円柱と街道の先を見比べた。
「これ以上ここで様子を伺っても危険ですな。一旦ここから離れましょう」
他の商人たちも頷き、荷台の上では積み荷を押さえる手が動き始める。初老の商人は街道の前後を見回し、地元出身らしい若い荷馬車の御者へ向き直った。
「この辺りで安全に身を隠せる場所はないか? 砦でも廃屋でも構わん」
御者は街道から南へ入る細道を指した。
「街道から少し南に入ったところに、廃棄された砦跡があります。壁や建物の一部はまだしっかり残っているはずです。そこなら急な襲撃にも備えやすいかと」
商人は御者の指した細道を確かめ、指示を待つ冒険者と護衛たちへ身体を向けた。
「よし、そこへ避難しよう! 手荷物は食料と飲み水を最優先に積み込め。馬車を急がせすぎて事故を起こさぬよう注意しろ!」
冒険者は荷台の綱を締め、護衛たちは街道の前後へ散る。その最中、一人の冒険者が山稜から目を離さないヴィアベルへ問いかけた。
「あんたはどうするんだ?」
ヴィアベルは隊商の列を一度振り返り、眉間に皺を寄せたまま答えた。
「悪いな、護衛の任務はここまでだ。あんな化け物が暴れてるのを黙って見過ごせるほど、俺の性分は図太くねぇんだよ。少し様子を見てくる」
引き止める声が一斉に重なる。ヴィアベルは先頭の馬の鼻先を南へ向けてから、手綱を御者へ返した。
「まぁ、安心しろよ。無謀な英雄気取りはするつもりはねぇ。死にに行くほど俺も暇じゃないからな。危なけりゃすぐ逃げる。俺は勝ち馬にしか乗らない主義なんでね」
初老の商人が先頭の御者へ出発を叫び、車輪が一台ずつ南へ向きを変える。ヴィアベルは最後尾まで動き出したのを見届けると、隊商から離れて《飛行魔法》を発動した。
隊商から距離を取ったヴィアベルは高度を上げ、東の暴風雨へ目を細めた。数キロ離れてなお、頬を打つ風には冷気が混じっている。白い雲の壁は内側へ巻き込みながら渦を描き、衝撃波が来るたび外縁を大きく膨らませた。ヴィアベルは速度を落とし、次の振動を身体で測る。
「あの規模の魔法、普通の人間ができる芸当じゃねぇ。まさか大魔族か……?」
ヴィアベルは独りごちると速度を抑え、凍える冷気を纏う白い空域へ接近を始めた。
*
詠唱が終わっても、《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》へ繋いだ意識はタヴの内側へ張りつめていた。白い雲壁の向こうでネオセリッドが身を打ちつけるたび、胸の奥へ鈍い揺れが返ってくる。タヴは衝撃に呼吸を合わせ、クオータースタッフを握る右手の角度を僅かに直した。雲が外へ膨らみかければ風を内側へ返し、氷雨が薄くなった場所へ冷気を送り込む。
生来の《嵐の魔法》が、借り物ではない嵐のように術へ馴染んでいく。詠唱時に《Extend Spell(呪文持続時間延長)》で織り足した魔力も、まだ雲の深部で脈打っていた。だが、維持するタヴ自身の身体は別だ。左肩の傷が脈に合わせて痛み、嵐から返る振動のたび、クオータースタッフの先が僅かに下がる。彼は奥歯を噛み、下がった分だけ手首を戻した。
その周囲だけは、氷雨も横殴りの風も届かず、不自然な静けさに包まれている。外界との境には虹色の偏光膜が揺れ、ぶつかった氷粒が薄い光を残して水へ変わった。タヴが左手を横へ払うと、《Storm Guide(嵐導き)》に従って雨脚が左右へ割れ、膜の外へ流れていく。ゼンゼは髪先から滴る水と、そのすぐ外で渦を巻く氷雨を見比べた。
「便利な魔法の傘を持っているんだな……君は」
その言葉に、タヴは左肩を動かさぬまま口元だけで笑った。
「これは《Storm Guide(嵐導き)》という能力だ。雨を止めたり、風の向きを変えられる。効果は限定的だがな」
ゼンゼが身体を傾けると、その周囲を巡る淡い風紋がすぐに濃くなった。外から偏光膜を叩く突風と反対側へ細い気流が噴き、肩を元の高さへ押し戻す。タヴから分けられた《Wind Soul(風の魂)》の風は、彼女の飛行魔法へ重なり、乱れた空気の中でも足場のように身体を支えていた。
「飛行能力を共有できることも驚きだが……魔力消費もなく、姿勢制御まで自動で行われるとはな。《飛行魔法》とは比べ物にならないほど高性能だ」
「俺も初めてこの力が発現したときは驚いた。だが、この風が常に身体を支えてくれるからこそ、嵐の真っ只中でも安定して飛べる」
タヴは答えながら、ゼンゼと嵐の深部へ交互に視線を走らせた。氷雨と乱気流は、ネオセリッドが周囲の圧力や振動から組み上げる像を絶えず乱している。巨体が氷霧の中で身を巡らせるたび、触手の先はタヴではなくゼンゼへ揃った。
「できる限り援護はするが、あんたには囮として俺から距離を取ってもらうことになる。もし身体に異常を感じたら、すぐに《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の範囲外まで離脱してくれ」
タヴが注意を促すと、ゼンゼは間を置かず頷いた。
「覚悟はできている。心配するな」
ゼンゼが短く言い切る。だがタヴの周囲から離れれば、猛烈な氷雨と凍える寒さへ全身を晒すことになる。タヴは返事を聞いて小さく頷くと、少しでも負担を減らそうと、空いている左手の指先をゼンゼの頭部へ向けた。
「《Air Bubble(気泡)》をかけておく。本来は水中や有毒ガス環境下で呼吸可能な空気を確保する魔法だが、気休め程度にはなるだろう」
タヴが左手の指先を素早く動かすと、透明な気泡がゼンゼの頭部を包んだ。表面は呼吸に合わせて僅かに膨らみ、膜の内側には濁りのない空気が満ちる。ゼンゼは一度深く吸い、喉を刺す冷気が入ってこないことを確かめた。手の甲を膜の外へ出せば、そこには既に氷粒が当たっている。守られるのは呼吸だけだと理解し、髪の盾を前へ寄せた。
ゼンゼはタヴへ短く礼を述べ、彼の守る静かな領域から飛び出した。偏光膜を越えた途端、横殴りの氷雨が睫毛と頬へ叩きつけられ、衣の隙間へ潜り込む。頭部を包む気泡の内側では息を吸えるが、膜の外へ出た指はすぐに強張った。濡れた袖が腕へ貼りつき、熱を奪われた皮膚の感覚が薄くなっていく。
最初の氷粒が手の甲へ当たっただけで、皮膚が針に刺されたように痛む。続く一群は袖口と外套の合わせ目へ入り込み、溶けた水がすぐに薄い氷の膜へ変わった。ゼンゼは顎を引き、指先の感覚が残っているうちに髪の配置を組み替える。
ゼンゼは長い髪を高速で回転させ、頭上から前方へ厚い盾のように展開して、降り注ぐ氷雨を両側へ逸らした。同時に髪の隅々へ魔力を流し、内部から炉のような熱を発生させる。表面へ付着した氷は瞬時に水となって溶け落ちるが、その跡へ次の氷粒が当たり、休みなく新しい膜を作った。
「気をつけてくれ! ここからはあんた自身が頼りだ!」
背後から届くタヴの叫びは、荒れ狂う嵐に削られて途切れ、微かにしか聞こえなかった。ゼンゼは髪の盾を傾けて氷雨を逸らし、途切れる息の合間に言葉を押し出した。
「一級魔法使いとは、理不尽な逆境を覆すことができる存在でなければならない。この程度は逆境ですらない」
ゼンゼは吹き荒れる氷雨の中で敢えて瞳を閉じた。猛烈な冷気は全身を包んで身体の芯へ染み込み、意識まで鈍らせようとする。彼女は皮膚を打つ氷粒の向きと、途切れながら残る魔力の揺らぎへ意識を分ける。まぶたの裏で残滓を一つずつ辿り、白く閉ざされた視界の先にいるネオセリッドの位置を絞った。
それでも長い灰茶色の髪には氷が重くまとわりつき、魔力で溶かしてもすぐに凍りつく。氷は毛根を引き、冷たさが頭皮の奥まで刺した。ゼンゼの唇がきつく結ばれる。
(さすがに……この寒さは堪えるな……防寒着くらい準備しておくべきだったか……)
ゼンゼは髪の盾の角度を下げ、探知した振動へ身体の正面を合わせる。
少し離れた場所で、ネオセリッドは《Levitate(空中浮揚)》を維持しようとしていた。だが《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の氷雨が絶えず外皮を打ち、集中を乱している。巨躯は上下に揺れ、四本の触手が氷霧を掻き回す。その振動を、ゼンゼは魔力探知で捉えた。
その刹那、ゼンゼの右側を青白い光が貫いた。髪の盾から数メートル外を、彼女の進行方向と平行に駆け抜ける。《Transmuted Spell(呪文変質)》によって冷気へ変えられた、タヴの《Lightning Bolt(電撃)》だった。
光が氷霧を一本に裂き、凍った空気が霜の粒となって軌跡から遅れて散る。タヴには標的もゼンゼも見えていない。風の動きと魔力の揺らぎだけで、二つの位置を割り出したのだ。
(……狙いを感覚だけで定めるとは、相変わらず恐ろしく大胆だな……)
その射撃はネオセリッドの巨大な躯体を捉えた。青白い魔力の槍は精神障壁が閉じる前に胸郭を貫き、巨体を内側から冷気で蝕む。ネオセリッドは防御を組み直す猶予もなく身を反らし、浮遊へ向けていた集中が途切れた。
光が入った胸郭の正面から、白い霜が放射状に広がる。背側では一拍遅れて外皮が盛り上がり、青白い光が亀裂から漏れた。巨体の内側で粘液の流れる音が止まり、次いで何かが割れる鈍い音が氷霧を震わせる。触手は四本とも一度硬直し、それまで身体を支えていた紫光だけが、輪郭を保てず明滅した。
浮遊力場が途切れ、ネオセリッドの身体が地面へ降下を始める。その動きを探知で捉えたゼンゼは、上空から身体を傾けた。《Wind Soul(風の魂)》の風が腰と足元を支え、横殴りの突風を受けるたび反対側から押し返す。加速には重さが残るが、進路は乱れない。ゼンゼは落ちていく巨体の背へ向け、髪槍を身体に沿わせて間合いを詰めた。
嵐に輪郭を乱されても、至近まで入ればネオセリッドはゼンゼの精神と、彼女が押し退ける空気を捉える。四本の触手が降下する軌道へ揃って追随し、巨体の下では《Levitate(空中浮揚)》の紫光が再び輪を結ぼうとした。
しかし《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の乱気流と氷雨が外皮を叩き続け、《精神集中》を阻害する。魔力が立ち上がるたび触手の先端が痙攣し、術式は形を結ぶ前に崩れた。巨体は鈍い地響きを伴って地面へ降り立つ。
腹部が地面へ触れた瞬間、凍った土が円形に陥没した。ネオセリッドは二本の触手を突いて巨体を支え、残る二本を上空へ振り回す。浮遊を取り戻せないままでも、近づくものを叩き落とす力は残っている。ゼンゼは落下の勢いを横へ逃がし、最初の触手が届く直前に、巨体の正面から側面へ回った。
ゼンゼは勢いをつけてネオセリッドの真上へ急降下し、触手の先が届く直前で軌道を前方へ折る。髪槍の半数を前へ、残りを左右へ広げ、正面攻撃と退路の確保へ振り分けた。氷霧に視界を奪われたまま、触手が風を裂く音と、粘液が外殻を滑る摩擦、胸郭から伝わる魔力の脈動を距離へ置き換えていく。
右上で風が裂けた瞬間、ゼンゼは髪を編み込み、槍状の先端をその軌道へ差し入れる。触手と髪槍が噛み合うたび、衝撃が氷雨を円く弾き飛ばした。
正面の一撃を二束で受けて後ろへ流し、下から続く触手には髪槍の腹を斜めに当てる。衝撃で幾つかの穂先が割れ、凍った髪が細い破片となって散った。ゼンゼは傷んだ束を下げるのと同時に、無傷の髪を前へ送る。入れ替わった束が次の触手を押し退け、その先端は気泡の表面を揺らして頬の横を抜けていった。
触手を受け流しながら、ゼンゼはネオセリッドの振動へ意識を向けた。振り抜かれる間隔は伸び、胸郭の奥では魔力が不規則に途切れている。氷霧が一瞬薄くなったとき、紫色の外皮には白い霜と細かな亀裂が走っていた。その裂け目から粘液が滴る。液体は腹部を伝いきる前に凍り、次の身震いで細かな欠片となって落ちた。
ネオセリッドは胸郭を大きく震わせ、再び口腔を開く。しかし、酸性粘液は噴き出さず、糸を引いて下顎から垂れた。ゼンゼはその落下線から身体を横へ滑らせる。粘液が地面へ届く頃には流れが途切れ、凍った塊だけが鈍い音を立てた。
坑道では間を置かず吐き出されていた酸が、今は口腔の奥で滞っている。胸郭の震えも、霜が広がるほど鈍った。押し出す力を失った粘液は冷えるほど太い糸を引き、改造された噴射器官は低温に追いついていない。
先ほど《Transmuted Spell(呪文変質)》で冷気へ変えた《Lightning Bolt(電撃)》に胸郭を貫かれ、内部組織と残った粘液はなお冷えたままだ。ネオセリッドが身をよじるたび、外から攻撃を受けていない箇所にも新たな亀裂が走る。
凍って行き場を失った酸が、胸郭の内側から器官を腐蝕しているのだろう。ゼンゼの眼下でネオセリッドは胸郭を激しく震わせ、低い呻きを漏らす。紫色の粘液が亀裂から流れ出して氷結する一方、内圧に耐えきれない外殻は内側から次々と裂けていた。酸が触れた裂け目の縁は泡立ち、凍雨に叩かれてもなお白煙を上げている。
ゼンゼは髪を槍状に編み上げ、ネオセリッドへ接近した。右から来る触手を二束で挟んで外へ弾き、正面の一本には別の髪槍を斜めに当てる。穂先を滑る触手が軌道を外れる間にも、攻撃へ回した束は巨体との間合いを削っていった。ネオセリッドが身体を振って正面を塞ぐたび、ゼンゼも弧を描いて側面へ回り込む。
一方、タヴは《Storm Guide(嵐導き)》で周囲へ静かな空域を保ち、風の流れと僅かな音を頼りにネオセリッドの真上へ移動していた。偏光膜の向こうでは氷雨が渦を巻き、巨体の背は紫の影となって途切れ途切れに浮かぶ。右下で髪槍と触手がぶつかり、次の衝突音は正面寄りから返ってきた。タヴは二つの音の間へ流れ込む風から、ゼンゼの位置を前方やや下へ絞る。
視線をその一点へ固定し、《Telekinetic(念動力)》で見えざる《Mage Hand(魔道士の手)》を送り出した。手は氷雨の中を前方へ下り、先ほど確かめた位置へ回り込む。
ゼンゼの肩へ、見えない指が二度触れた。髪槍の一束が止まりかける。だが約束した合図だと気づくと、気泡の内側で大きく息を吸い、無傷の束を前へ送って隙を塞いだ。
続けて髪槍を三方向へ広げる。正面の束はネオセリッドの口腔へ連打を浴びせ、左の束は地面を叩いて振動を起こす。右へ回した髪は触手と擦れ合う角度を選び、氷雨を切り裂く鋭い音を連ねた。見えなくても、自分がどこにいるかを巨体の感覚へ叩き込む攻め方だった。
「私はここにいるぞ」
髪槍が氷雨を切り裂きながら風を轟かせ、鋭い音を連ねる。その刺激を拾った触手群は再び猛然と振り上げられ、ゼンゼへ襲い掛かった。その隙にタヴはクオータースタッフを背へ収め、右腰のウォー・ピックを抜く。武器には、契約した《ヘクスブレード》から授かった《Hex Warrior(魔剣の戦士)》の力が込められていた。
柄を握った瞬間、腕力ではなくタヴの意志に刃が応えた。鋼の尖端を包む黒い光が、嵐の中でも狙った一点からぶれない。
タヴは右手のウォー・ピックを引き、空いた左手を体側へ添えて降下姿勢を作る。《Hexblade's Curse(ヘクスブレードの呪い)》を発動すると、漆黒の魔力が真下の巨体へ奔り、背に呪印が浮かび上がった。タヴはゼンゼの髪槍が集まる正面を避け、ネオセリッドの背後へ向けて偏光膜の下端から一気に降下する。足元の風で尖端の軌道を固定し、呪いで威力を増した一撃を背へ振り下ろした。
直後、ウォー・ピックの尖端が、霜で脆くなった外殻を打ち抜く。《Booming Blade(唸る剣)》の魔力が打点から走り、《Transmuted Spell(呪文変質)》によって雷鳴を冷気へ変えられた青白い亀裂が、胸郭を囲むように左右へ分かれた。亀裂は既に酸で傷んだ裂け目へ次々と繋がり、その奥でネオセリッドが動く瞬間を待つ。
ネオセリッドは激痛に咆哮し、反射的にタヴから離れようと巨体を捻った。その動きで外皮の亀裂が開き、溜め込まれた冷気が一斉に解放される。轟音は肉の内側から響き、凍りついた粘液と外殻の破片を周囲へ吹き飛ばした。
タヴは打撃の反動を使い、ネオセリッドの背から真上へ離れる。のたうつ触手の一本がゼンゼへ迫るが、髪槍が辛うじて弾き飛ばす。その頭上からタヴの声が届く。
「ゼンゼ、俺は真上にいる! まっすぐ上昇してくれ!」
指示を聞いた瞬間、ゼンゼの髪槍が一拍だけ止まり、すぐに真上へ揃った。彼女は荒れ狂う嵐の中、長い髪を高速で螺旋状に回転させ、巨大な触手の猛攻を捌きながら高度を上げる。追いすがる触手の間へ髪槍を最短の軌道で差し込み、進路をこじ開けながら上昇していく。
白く塞がれた頭上から、タヴの声とともに氷粒の少ない風が降りてくる。《Storm Guide(嵐導き)》が作る静かな空域は、その先だ。ゼンゼは声の真下へ髪槍を揃えた。
白い雲壁を上へ抜けた瞬間、ゼンゼの身体を叩いていた氷雨が消えた。薄い偏光膜の先では、タヴがウォー・ピックを下へ向けて待っている。ゼンゼはその左側へ滑り込み、二人は追ってくる触手を見ながら、届かない間合いまでさらに上昇した。
静かな空域へ戻ったゼンゼの髪から、砕けた氷が一斉に剥がれ落ちる。彼女は凍えた指を一度だけ握り込み、ほどけかけた髪槍を編み直した。
指は最後まで閉じきらず、白くなった爪先が僅かに震えている。タヴはそれへ目を留めたが、ゼンゼは髪を左右へ開き、まだ動かせることを先に示した。二人の下では、触手が偏光膜へ届く前に力を失い、氷雨の中へ沈んでいく。
追い詰められたネオセリッドは足元へ強酸を吐き、岩盤を崩して逃れようとする。だが粘度を増した酸に本来の勢いはなく、岩肌の表面を泡立たせただけで止まった。逃げ道を探して巨体を捩った途端、内側から腐蝕していた胸郭が重みに耐えきれず、外殻がまた一枚裂ける。咆哮が嵐の中を震わせた。
タヴは高度を保った。静かな空域は彼を中心に広がり、ゼンゼはその内側に位置を保ったまま、髪槍だけを偏光膜の外縁へ広げる。タヴはウォー・ピックの穂先を真下へ向けた。二人の下で、ネオセリッドは四本の触手を地面へ突き、裂けた胸郭を引きずり始めた。
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