嵐の中、ネオセリッドの巨体は痙攣し、外殻の継ぎ目から腐食音を立てて酸を滲ませていた。足元の土を溶かそうと放った液は、すでに詰まりかけた器官から細く粘った筋を引くだけで、氷雨に叩かれて地表に達する前に途切れる。逆流した酸が外殻の裂け目へ入り、冷えた空気の中へ白い蒸気を短く立ちのぼらせた。鼻腔を刺す酸臭に、濡れた角質と肉がただれる生臭さが混じり、風下へ広がっていく。ネオセリッドは低い唸りと甲高い悲鳴を交互に発し、嵐のざわめきへ不快な共鳴音を重ねた。
タヴとゼンゼは、《Storm Guide(嵐導き)》が氷雨を左右へ押し分ける空域で高度を合わせ、決定打に備えて構えを整えていた。肩越しに風切りが薄く裂け、魔力で硬化したゼンゼの髪が擦れる短い音が重なる。
その時、ネオセリッドの姿が淡く霞み、輪郭が細かく揺らめいた。瞬間移動の兆候だ。《Misty Step(霧渡り)》のような跳躍を間髪を入れず繰り返し、そのたび十数メートル前方へ抜ける。タヴの視線が最初の跳躍先を追う横で、ゼンゼは巨体の現れた位置へ顔を振る。次の瞬間にはそこからも消え、霧の破片だけが後方へ散った。
一拍遅れて、二人は反撃へ移る。タヴは《Eldritch Blast(怪光線)》を、ゼンゼは《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を放って逃走を断とうとするが、《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の視界不良で標的を目視できず、さらに瞬間移動の発動が早すぎて狙いが定まらない。みぞれの幕を穿った霧状の残滓だけが後方に尾を引き、濡れた地面の水膜がさざ波のように揺れる。五回目の瞬間移動で巨体は《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の外縁を抜け、その灰紫色の影が範囲の外へすべり出た。
「くそっ、《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の範囲外に逃げられた!」
タヴは言い終えるのとほぼ同時に判断を下し、《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の集中を断つ。気象の結界がほどけ、村外れの坑道跡に冷えきった空気が戻る。崩れ落ちた坑口の梁材や、むき出しの砕石の斜面が薄氷をまとい、尾鉱の水たまりには脆い氷膜が走る。折れた支柱の残骸に透明な氷鞘が張り、風が吹きさらしの荒地を低く鳴らした。その先で、ネオセリッドが地表近くを低く滑るように移動を始めていた。
生来の《Levitate(空中浮揚)》を増幅した力が巨体を支えている。腹側の紫の光輪は重さを受け持ったまま、背面側へ圧縮した場を推進へ回していた。空気が軽く弾けるたび、巨体は地表近くを水平に跳ぶ。進路は一直線に、北東──リューデル村だ。
「村を狙っている……」
ゼンゼが低く呟き、髪の束を背後に流す。タヴは短く頷き、右手のウォー・ピックを腰の環へ戻すと、背中のクオータースタッフを抜き取って握り直す。二人の背に《Wind Soul(風の魂)》の風が巻きつき、同時に追走へ入った。
風を押し返す巨体から紫の光が断続的に弾け、そのたびネオセリッドは地表すれすれを大きく滑った。二人が加速しても距離はじわじわ開き、百メートル近くに達する。タヴはゼンゼとの横距離を二メートル以内まで詰め、風音を割るように声を張った。
「《Dimension Door(次元扉)》であんたも対象に含めて前方へ移動する。準備はいいか」
「いつでもいいぞ」
ゼンゼが顎を引いて応え、タヴは間を置かず詠唱に移る。彼女を対象に含めて《Dimension Door(次元扉)》を発動。空間の裂け目が開き、二人は瞬きの間に前方──ネオセリッドの進路右側の空域へと空間移動した。移動の反動で僅かに揺れる身体を立て直し、ネオセリッドを視界に入れたまま再び追尾に入る。追走は数分間続き、湿った風が頬を叩く。前方に村の屋根群が小さく見えてくる。ネオセリッドは速度を緩めず、そのまま村の中央へと高度を下げていった。
リューデル村。
小川沿いに木造の家が並び、石畳の道が中央広場へと伸びる。軒先には木箱や樽が積まれ、玄関先から運び出された毛布束が道を狭めていた。広場では五台の荷馬車が慌ただしく向きを変えている。一本轅に繋がれた栗毛や黒鹿毛の馬は、汗に濡れた首を振って鼻を鳴らした。御者たちが手綱を高く掲げて合図を送り、その後ろを若者が走り回る。荷台の縄を切り、積み荷を少しでも軽くしようとしていた。鍋を叩く甲高い音が警鐘代わりに響く。車輪が石に乗り上げるたび、荷馬車の軸も悲鳴を上げた。荒い息と泣き声に何本もの足音が重なり、指示と悲鳴が広場を満たしている。
「広場に集まれ! 道を開けろ!」
「まだ子どもが中に……誰か、手を貸してくれ!」
「見ろ、あれが来る……でかい、でかすぎる……!」
「女神さま……どうか、どうか……!」
ネオセリッドは《Levitate(空中浮揚)》を低空で維持したまま家並みに真正面から突っ込み、最後に重量を預けて石畳へ着地する。腹面が石を擦って火花が散り、圧縮した力場を前縁に張り出して梁をへし折り、板葺きの屋根を内側から押し上げるように破砕した。乾いた破断音とともに梁が飛び、壁土が粉塵になって舞い、戸口の上の看板が千切れて石畳に叩きつけられる。壊れた家屋の内側から食器の砕ける音が連鎖し、村の骨格そのものが悲鳴を上げているかのようだ。折れた梁や桁の一部は通りへ崩れ落ち、荷馬車の輪の脇に斜めに横たわる。
降下からの着地の勢いを保ったまま、巨体は周囲へ触手を巡らせ、その一本を荷馬車の陰にいた幼い子へ伸ばす。触手は逃げ遅れた大人を越え、身体の小さな子どもを真っ先に絡め取った。
「嫌っ……たすけ──!」
骨の軋む嫌な音と短い悲鳴が空気を裂き、子は胴体へ引き寄せられる。咄嗟に駆け寄った大人が二人、片方は父親らしき男で腕を伸ばすが、横合いから別の触手に叩きつけられて石畳を滑り、頭を打って動かない。もう一人の若い男も触手から子を引き剥がそうとして両腕を差し入れた瞬間、別の触手に胸を打たれて壁へ弾かれ、息が詰まって膝から崩れ落ちた。その直後、母親らしい女性が顔色を失って二人へ手を伸ばし、崩れ落ちそうな足取りで踏み出すが、周囲の者に肩と腰を掴まれて引き止められる。
「放して……行かせて……お願い……」
「だめだ、下がれ! 離れろ!」
母親は子の名を掠れ声で呼び続け、もがく腕は震えるばかりで届かない。涙と土埃が頬に筋を作り、周囲の足が次々に止まる中、子どもの身体は巨大な口器に呑み込まれた。柔らかな肉が圧縮され、喉奥へ消えるまで一呼吸とかからない。上空で接近中のタヴとゼンゼは進路を切り替え、距離を詰めながら、その一部始終を見届けるしかなかった。戦域の真上へ到達したとき、口腔はすでに閉じている。タヴは息を一度整え、ゼンゼは握った手の角度を変えた。二人の目はすぐに戦域へ戻る。
口腔が閉じてから、もがく音ひとつ返らない。あの小さな身体では、吐き出させる前に息が絶え、消化も始まる。タヴはゼンゼへ声を飛ばした。
「ゼンゼ、呑み込まれた者の救出は不可能だ。《Mind Blank(空白の心)》の影響で狙われにくい俺が避難を誘導する。あれを人の列から引き離してくれ」
「わかった。正面で奴の意識を引きつける」
ゼンゼは即座に地表近くまで降下し、瓦礫と荷馬車の間を斜めに移動してネオセリッドの正面へ回り込む。長い髪が盾と槍へ同時に形を変え、巨口と触手の間に割り込んだ。タヴは屋根より少し高い空域に留まり、村の中央から北西へ抜ける導線を見定める。
「北西へ走れ! この標に沿って進め!」
タヴは《Minor Illusion(初級幻術)》で、通りに倒れ込んだ折れ梁の面や門柱の側面に、矢印の板そっくりの静止した標識を出現させる。角の陰で身を縮めていた若い男が、半信半疑の声で叫んだ。
「印が出た、こっちだ!」
列の進みに合わせて標識を随時置き換え、迷いやすい角だけに出す。続いて斜めに滑空して高度を落とし、空いている左手で瓦礫の中から折れた細い木の棒を拾った。《Light(光)》を付与してから村長へ手渡し、タヴは短く告げる。
「村長、これを持ってくれ。周囲を照らせる。胸の高さで掲げて先頭を頼む」
「あなたは大陸魔法協会の……一体何が──いえ、助かります。私が先頭に立ちます」
村長は一瞬だけ事情を尋ねかけたが、すぐに首を振り直した。棒を受け取って応じると、後方に声を張る。
「皆さん、私の後ろに続いてください! 離れないでください!」
光の棒がぱっと白く広がり、最前列の足元から先の交差までをはっきり照らす。女は眩しさに目を細め、胸元で握っていた手を緩めた。
「道が見える……!」
明るい光の輪が足元を満たし、その外縁の薄明が次の角までの輪郭を浮かび上がらせる。タヴは再び高度を取り直し、上から全体の流れを監督した。列を外れかけた老人へ指を向け、《Message(伝言)》で「右の光へ」と囁く。耳元にだけ届いた声に老人は周囲を見回したが、タヴを見つけると小さく「分かった」と返し、杖を突いて列へ戻った。
広場の奥では、ゼンゼの髪盾を触手が打つたび、石畳へ重い音が返っていた。タヴはその間隔が途切れていないことを確かめ、次の村人へ指を向ける。
「空から声が……耳元で聞こえる……」
タヴは通りに散った人影を指し示しながら、次々と声を投げる。
「あんたは右へ。荷馬車の影を抜けたら、矢印どおりに直進して走れ」
指先をずらし、次の親子へ意識を移す。
「子どもは抱えたまま行け。前だけ見ろ」
加えて倒れた小箱や散らばった工具は《Mage Hand(魔道士の手)》で脇へ跳ね、足元のつまずきを除く。閉ざされた扉のかんぬきや掛け金も遠隔で外し、渋滞の芽を摘んだ。広場の東側には、荷を降ろした空車二台と、ネオセリッドが屋根を破砕した際に落ちた折れ梁が道を塞いでいる。それらは《Telekinesis(念動力)》で道端へ寄せ、退避の通路を確保した。続いて避難列に付く荷馬車の運用を組み替える。先頭は徒歩とし、動かす荷馬車は列の中ほどへ置く。タヴは各御者へ《Message(伝言)》で指示を飛ばす。
「空車は進路の外側で固定して、動かす車は列の中ほどに配置。馬は列外の路肩を別走させてくれ。先頭は徒歩で取る」
耳元で急に声がしたように響き、御者たちは一瞬だけ肩を跳ねさせて周囲を見回す。上空のタヴに気づくと、互いに短く頷き合い、口の中で囁くように「了解」と返す。手綱を引いて馬を人の列から外へ導き、若者たちが声を合わせて車体を押し、搬送用の二台を中程に差し込む。残る一台は後方支援に回し、要支援者の回収に備える。空車は外側の路肩に据えて固定の壁とし、通行幅を狭めない角度で車輪を止めた。馬は鼻を鳴らし、鉄の蹄で石を叩きながら路肩を別走する。合図に合わせ、荷馬車は歩速に合わせて発進と停止を繰り返す。
さらに《Prestidigitation(奇術)》で小さな鐘の音を要所に一瞬響かせ、列の注意を次の曲がり角へ誘導し、壁面には小さな印を一時的に残して迷いを減らす。タヴは一度に一つ、短い指示だけを送る。その先の道筋は、かならず光と音で分かる形にした。怯えきった老人が幻の標へ足を向け、泣きじゃくる母親が子を抱き直しながら光の棒の輪を追う。男たちは荷台の側面に肩を入れて押し、御者は列外の馬の鼻面を撫でて落ち着かせ、狭い地点では互いの肩を支え合いながら隊形を保った。
その間、ゼンゼは巨体の正面に張り付き、髪の盾を傾けて触手の薙ぎを滑らせる。返す髪を槍へ変え、縫合跡の継ぎ目へ突き込むが、ネオセリッドの周囲で薄い精神障壁が波打ち、刃先を弾いた。ゼンゼは二撃目で角度を変え、三撃目を同じ継ぎ目へ通す。鈍い裂音とともに粘液が飛ぶ。続く突きは再び透明な膜に滑らされ、その脇から触手が反撃にうねった。
「こっちだ」
ゼンゼは低く言い、髪の束で石畳を強く打って振動を刻み、空気を叩いて圧をかける。視覚に頼らぬ《Blindsight(擬似視覚)》相手には、動きと衝撃で存在を焼き付けるのが有効だ。右手の避難列へ伸びかけていた触手が、その振動に引かれて彼女の方向へ軌道を変えた。
しかし、そのままでは触手の振り抜きが列の前縁を斜めに横切るため、タヴは上空から《Telekinesis(念動力)》で屋根の折れ梁を斜め前方へ引き下ろし、触手の進路の直前に落とす。先端が梁を叩き割って粉塵が上がり、衝突の反動で触手の角度は外側へ跳ねた。刃のような打ち込み線は壁面側へそれ、ゼンゼの正面で受けられる態勢に収まる。
「広場の外周へ抜けろ! 家の陰に留まるな、走れ!」
タヴは《Message(伝言)》で先頭の村長と要所をつなぎ、「次の角で左。列は二列を維持」と具体的に伝える。同時に、列の最後尾に付いた屈強な粉挽き屋の男へも声を飛ばした。彼は最後尾の見守り役として、遅れる者を拾い上げ、転倒者を肩に担ぎ、開け放たれた扉を閉じ、人数を数えて列の間延びを防ぐ役目だ。
「最後尾を頼む。十歩ごとに前の人数を数えて、横道と背後を一瞥して取り残しがいないか確認してくれ。落伍者は肩に担いで後方の荷車へ送れ」
「任せろ! おい、間を詰めろ! 離れるな!」
転倒しかけた子どもの背を《Mage Hand(魔道士の手)》で支え、脱げた靴は進路の外へ転がる前に拾って持ち主の手へ戻す。子どもは靴を胸へ抱え、親の手を取り直して走り続けた。前方の《Light(光)》が角を曲がるたび、その後ろの列も同じ順に向きを変える。ばらばらだった足音が同じ速さへ揃い、荷車の車輪がその拍へ重なった。
避難誘導を続けながら、タヴは上空からネオセリッドの外殻を追う。先ほど裂けた節間は一部が塞がり、歪んだ縫い目のような再生痕が走っていた。粉塵に濡れた甲殻にも新しい艶が戻りつつある。一方、腹部から胸腔へ続く酸の器官は動かない。口縁で粘度の高い残滓が小さく泡立つだけで、射出の兆候もなかった。冷えで増した粘りが奥を塞ぎ、ネオセリッドが息を吐くたび、胸郭だけが空しく膨らむ。
本来のネオセリッドに、傷をその場で塞ぐ力はない。外から付与されたのか、追い詰められて適応したのか、まだ断定できなかった。
塞がっていくのは外殻だけで、酸は戻っていない。再生の働く部位には偏りがある。広く酸を浴びせる攻撃はまだ使えないが、触手による拘束と呑み込みは健在で、《サイオニック》由来の術も引き続き脅威だ。
タヴは再生が進む前に、退避導線の外側へ荷馬車や折れ梁を《Telekinesis(念動力)》で組み替え、物理の壁を連ねる。触手が人の列へ伸びるたび、梁が横から引かれて軌道を逸らされ、荷馬車が押し戻され、狭い角度しか取れなくなっていく。ネオセリッドは地に腹を据えたまま力場で身を前へ押し出し、瓦礫を押し潰しながらゼンゼへ圧をかける。至近で受けるゼンゼも、髪の盾に伝う粘りの変化と殻の新しい艶で再生の兆しを捉え、突きの入りを一段浅く修正した。
「お前の相手は私だ」
ゼンゼは髪の盾で正面の薙ぎを受け、わずかに空いた側面へ踏み込む。槍に変えた髪が継ぎ目へ突き入る。精神障壁がまた波打ち、刃先は深度を失う。それでも彼女は間を置かない。二撃、三撃と角度を変え、障壁の波形が遅れた瞬間に刃が肉へ滑り込む。巨体が身を捩り、地面の石が軋んだ。広場の端から警告が飛ぶ。
「でかいのが来るぞ! 伏せろ──」
避難列の脇では、別の男が子どもへ両腕を差し出した。
「子どもを渡せ! 俺が抱える、走れ!」
子どもがその腕へ移る。列の前方で振り返った村人が、後続へ向けて声を張った。
「見ないでいい! 前だけ見て進め!」
タヴは振り向かず、《Minor Illusion(初級幻術)》で回廊の角に新たな矢印の板を置き替え、《Message(伝言)》で最後尾の男へ短く告げる。
「そのまま道なりに進んでくれ。角の標識を過ぎたら左だ」
「ああ、あんたも気をつけてくれ!」
男がこくりと頷き、列は北西の外れへ吸い込まれていく。ネオセリッドの触手が回廊の外面を打つたび、積み上げた材が悲鳴を上げるが、《Telekinesis(念動力)》が荷重を受け、押し返して持たせる。ゼンゼはその横で、なおも巨体をこちら側に釘付けにしていた。
だが、その動きが唐突に変わる。ネオセリッドの輪郭がわずかに撓み、短い距離で位置が切り替わる。路地の柱と荷車で作った壁を、四度連続で抜けてきた。次の瞬間、避難列の正面──北西の門へ伸びる通りの真ん前に、灰紫の胴が出現する。
(《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》から抜け出した時と同じだ。短距離の瞬間移動を繋いでいる。あれは自力によるものじゃない……外から力が流れ込んでいる)
空気の手触りが変わる。通りを抜ける風とは逆に、タヴの衣の裾だけがネオセリッド側へ吸われ、耳の奥で低い唸りが揺れた。流れの先は巨体へ集まっているが、供給元は見えない。衣を引く力と耳奥の唸りは、外から何かが注がれている証だ。術者も経路も特定できない。ただ、加護や祈祷に似た嫌な追加の気配だと、タヴは直感した。
先ほどまで敵の正面を抑えていたゼンゼが、タヴへ向けて短く警告を飛ばす。
「ネオセリッドが先頭に向かったぞ!」
避難列の中で村人のざわめきが跳ね上がる。
「前を塞がれた!」
「何なんだあの怪物は!」
タヴは避難列から離れた上空で《Thunder Step(雷鳴の一跳び)》を詠唱し、雷鳴と衝撃風だけを残して前線へ瞬間移動する。出現と同時に《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》が身体を横へ押し、右手の角から滑り込んで、避難列の先頭とネオセリッドの間の空域に身を据えた。低空のゼンゼも屋根の縁すれすれを滑空し、長い髪を街灯の腕木へ一度巻き付ける。引き寄せる力で身体を前へ送り、頂点で髪を解いて、振り子の勢いのまま間合いを詰めた。
その刹那、ネオセリッドの胸郭脇で空気がきしみ、砕けた瓦片や砂がふっと浮く。周囲の布が同じ方向へ引かれ、通りに見えない力線が走った。タヴはそれを視界の端で捉え、《Telekinesis(念動力)》だと判断する。大きな力場の手が先頭全体をまとめて掴みに来る。衣が一斉に引かれ、列の肩が揃ってのけぞる。村長の腰も浮き、光の棒がぶれた。
「踏ん張れ! 互いの腰帯を握って壁際へ寄れ!」
タヴは指示を飛ばしながら、自身の《Telekinesis(念動力)》で逆向きの手を組む。門柱と空車の車台を指の支点にして押し返すと、見えない手同士が噛み合い、板片が真っ直ぐ裂け、看板の鎖がきしむ。地面の砂塵が帯状に走り、石畳には蜘蛛の巣状の亀裂が広がった。
ネオセリッドの胴がわずかに沈み、力の向きが下へ切り替わる。圧が脈を打って増し、空気そのものが沈む。タヴの周囲の風が潰され、《Wind Soul(風の魂)》が持ち上げる浮力と《Telekinesis(念動力)》の重圧が正面から衝突した。風が渦を巻いて逆流し、ローブが背へ貼り付く。空中にいたタヴは胸から下を押し伏せられ、石畳へ膝を落とした。通りの村人も下向きの余波に足を取られ、数人がよろめいて列が揺らぐ。
ゼンゼは圧の流れを見切り、高度を取って真上からの強襲に切り替える。触手の範囲外へ出たのち、再生による縫合痕の継ぎ目へ突入角を取って攻撃するつもりだ。だがその直前、ネオセリッドの頭部の襞が開き、口腔の奥で低いうなりが膨らむ。狙いは上空──前上方に扇状の歪みが走り、周囲の空気が白く撓んだ。砕けた瓦塵が薄い膜のように持ち上がり、屋根の金具がかすかに鳴く。次いで白い圧が放たれた。《Mind Blast(精神爆砕)》が直上へ撃ち上がる。縁の波が屋並みのさらに先まで薄く響き、地上の何人かが思わず耳を押さえるほどの重さがあった。
直撃。ゼンゼの額の前で光景がぱきんと割れたように歪み、長い髪が外へ散るように広がる。喉からかすれた息が一つ漏れ、瞳が焦点を失い、指先が痙攣する。こめかみの血管が脈打ち、鼻筋に赤い筋が細くのびた。頭蓋の内側を擦られるような痛みが彼女の意識を焼き、動けない硬直が全身を縫い留める。ただ《Wind Soul(風の魂)》が姿勢を支えて落下だけを防いだ。地面へ片膝をついたまま力場に押し伏せられているタヴは、その異様を見上げて考えを巡らせる。
頭蓋の内側へ先に届く圧力は、タヴがマインド・フレイヤーとの戦いで何度も受けた《Mind Blast(精神爆砕)》に違いなかった。ただし、放った相手が違う。ネオセリッドの粗い念動とは異なり、今の波は上空の一点へ絞られ、ゼンゼの身体だけを正確に縫い止めている。獣性へ膨張したはずの脳が新たに形を覚えたのか、施された改造が働いたのか。タヴにはまだ判別できない。
波の縁には僅かな乱れがあるのに、中心だけは崩れず残っていた。借りた術式を力任せに保持しているようにも見える。そこまで捉えた矢先、列の中で年配の男が震え声を上げた。
「長髪の魔法使いが動かねえ……化け物に呪い殺されちまった!」
ゼンゼが落下もせず、空中に貼り付いたまま微動だにしない姿は、彼の目には縫い止められた呪いの像のように映ったのだ。空を指す声が重なり、荷車を押していた手が止まる。次に上がったのは悲鳴だった。
「大丈夫だ、死んでない!」
タヴは押し潰されかけた体勢のまま咄嗟に叫ぶ。恐慌を止めるための言葉だったが、声に余裕はなく、自分でも状況が悪いことを骨の軋みと足元のひび割れで理解していた。
「何が大丈夫なんだ! あんたも潰されそうじゃないか!」
別の男の叫びが被さる。それを合図に子どもの泣き声が上ずり、「こわい!」という悲鳴が列のあちこちから返った。路肩を別走していた馬が耳を伏せて横に跳ね、御者が手綱を強く締めて押さえ込む。鉄の蹄が石を打ち、荒い鼻息が列の背に伝わる。同時に、掴みの圧力がもう一段上がった。ネオセリッドの周囲で空気が鈍く唸り、下向きの力場が強まる。タヴの肩が沈み、背がきしむ。見えない手が地面ごと押し下げるように働き、村長の腰と肩を地面へ叩きつけにかかる。
前列が一斉に膝を打ってうずくまり、石畳の目地から粉塵が吹き上がった。力の向きが下へ切り替わった余波で、列の中ほどでも足がすくみ、数人が尻もちをつく。路肩の馬も前膝を折りかけるが、御者が体を入れて持ち直した。
「足を肩幅まで広げて互いの肩を掴め! 列は崩すな!」
タヴは《Telekinesis(念動力)》の壁越しに、最低限の動きを具体的に叩きつける。石畳の表面に亀裂が走り、彼の靴底が軋む。村人の誰かが「終わりだ……もうダメだ……」と呟き、別の者が「ああ、女神様!」と叫ぶ。恐慌が喉元までせり上がるのを、彼は自分の声で断ち切った。
「俺は二十等級に至った最上段の魔術師だ! 地底の蛆ごときが道をふさぐな!」
普段なら言わない大仰な言葉だ。だが声に乗せた虚勢が村人の叫びを押し返し、自分の胸の奥でも萎みかけた魔力が熱を取り戻す。タヴはその反応を狙っていた。
タヴは内側の流れを力でねじ戻す。押し返しが一瞬たわみ、握っていた手応えが抜けかけた。そこへ《Magical Guidance(魔法の導き)》の一滴を流し込み、千切れた力の筋を繋ぎ直す。見えない手が再び噛み合い、押し潰されていた肩が僅かに戻った。それでも分は悪い。靴底が石を削り、膝が滑る。
「《Silvery Barbs(銀の棘)》!」
タヴは喉で噛むように吐き、銀の棘をネオセリッドの力場へ突き立てる。滑らかだった圧力に逆向きの震えが混じり、村長を押さえていた見えない手が一度だけ痙攣した。その反動から生まれた澄んだ魔力は、細い光となって上空のゼンゼへ流れる。彼女の額へ触れた光は消えず、硬直の奥へゆっくり沈んでいった。
そして崩れた一拍を逃さずタヴは喉奥で短く符を切り、指先で逆位相の印を弧に描く。《Dispel Magic(魔法解呪)》の波が反転のうねりとなってネオセリッドの周囲へ叩きつけられた。空気が低く唸り、ゆがんだ力場の表面に輪紋がいくつも走る。刹那、鈍い破裂音とともに見えない大きな手の輪郭が砕け散り、圧が一気に剝がれ落ちる。村長の身体から力場が抜け、タヴの《Telekinesis(念動力)》が即座に受け手へ回り、前列の足裏に重さを返した。石畳の亀裂からこぼれた砂がぱらぱらと落ち、押し潰されかけた膝が持ち上がる。
「姿勢を低くして壁際に寄るんだ。合図まで動くな!」
タヴが短く号令すると、村長が光の棒をしっかり握り直し、低い声で続けた。
「皆さん、私の後ろで低くしてください。離れず、その場を保ってください」
右手の角では、恐怖で足が固まった者が数人、腰を落とせずに立ち尽くす。泣き叫ぶ子を抱えた母親の肩が震え、誰かの荒い息とすすり泣きが重なる。最後尾の粉挽き屋の男が「しゃがめ! 肩を合わせろ!」と伝声し、背に手を置いて一人ずつ壁際へ押し下げる。村長は光の棒を低く振って範を示し、タヴは《Message(伝言)》で要所へ短い合図を飛ばす。数呼吸のあいだ、ばらついていた姿勢が少しずつ揃い、光の周りから順に膝が落ちた。嗚咽や囁きはまだ残るが、足の向きだけは北西の門へ揃う。
しかしタヴが膝を起こした矢先、前方の空気が押し広がるのを感じた。耳の奥が圧で詰まり、歯に鈍い響きが乗る。
(まさか、もう《Mind Blast(精神爆砕)》を撃てるのか……!?)
さきほど上空へ放った圧力と同じ歪みが、もうネオセリッドの口腔へ集まっている。奥歯へ触れるような振動は正面から近づき、その先には避難列が重なっていた。狙いを確かめてからでは遅い。タヴは村人の前へ残る道幅を見た。
額の内側で、《Mind Blank(空白の心)》の冷たい膜が張る。迫る圧は、脳と神経をまとめて打ち据える衝撃だ。タヴ一人が耐えられても、無防備な村人へ届けば、前列は立ったまま硬直し、その後ろの列まで道連れに倒れる。
(通せば、後ろの恐慌まで止められない)
《Hold Monster(怪物金縛り)》か、《Dominate Monster(怪物支配)》で止める手もある。だが今は、効くかどうかを試す一瞬さえ村人の命で賭けることになる。タヴはその二つを捨て、通りの幅と両側の石壁を一目で測った。
維持していた《Telekinesis(念動力)》を切り、避難列とネオセリッドの間へ左手を向ける。
「《Wall of Stone(石の壁)》」
石畳の目地が白く光り、避難列の前で岩板が次々とせり上がる。中央の板はネオセリッドの口腔と列を真っ直ぐ遮り、両端の板は通りの石壁へ斜めに伸びて隙間を塞いだ。家屋の基礎と門柱へ接した箇所から石の筋が食い込み、ばらばらに生まれた板を一枚の《Wall of Stone(石の壁)》へ繋いでいく。
最後の継ぎ目が閉じたところで、タヴは左手を握り込んだ。壁は通りを埋める高さまで立ち上がり、口先へ触れずに射線だけを断っている。向こう側の姿は見えなくなったが、口腔へ溜まる圧は石越しにも歯へ響いた。
石が地の骨に噛み合うやいなや、目に見えぬ波が正面から叩きつけられた。乾いた雷のような衝撃が壁全体を震わせ、砂が霧のように舞い上がる。白い塵に光の棒の輪が滲み、村人の頬や髪が風圧で震えた。広がるはずだった扇の圧力はそこで潰え、避難列は一撃をやり過ごす。
衝撃は中央の岩板から左右の翼へ走り、家屋の基礎へ抜けた。通りに面した戸が一斉に鳴り、壁際の雨樋から古い水がこぼれる。タヴの左掌には、石の継ぎ目が軋む感触がそのまま返ってきた。中央は保っている。右端も浮いていない。彼は指を一本ずつ開き、力を両端へ分けた。白い粉塵の向こうで村人たちは身を縮めたままだが、倒れた者はいない。
すぐに灰紫の胴が咆哮を漏らし、正面の壁へ触手を叩きつける。一撃目で中央の継ぎ目へ細いひびが走り、二撃目で粉塵が糸を引いた。三撃目は同じ箇所へ重なり、壁のこちら側まで鈍い衝撃が抜ける。タヴは左手を開いたまま継ぎ目へ魔力を送り、剥がれかけた石を押し戻した。壁の向こうから肉が石を打つ音が途切れず響き、欠けた破片が避難列の足元まで転がってくる。
四撃目で拳ほどの石が抜け、向こう側の紫光が一瞬だけ穴を満たす。タヴが掌を返すと、周囲の石がせり出して穴を塞いだ。次の打撃は少し左へずれ、壁全体が避難列側へ撓む。村長はその間にも光の棒を北西へ振り、先頭を少しずつ動かしていた。壁際で低くなった者から十歩ずつ進み、空いた場所へ次の一組が入る。石を打つ音が、列を動かす合図のように一定の間隔で続いた。
「何だ!? 急に壁ができたぞ!」
誰かが驚いて息を吐き、別の誰かは肩を震わせて泣きながら路肩の空車の側板に手をつく。転がってきた石片に手を伸ばしかけた子の手首を、母が慌てて掴んで止めた。
「下がってください。そこは危ないので触れないように」
村長が光の棒を低く掲げ、声を落として列をなだめる。鼻息荒い馬が路肩で前脚を踏み替え、鉄の蹄が石を叩いた。
タヴは呼吸を整え、石の向こうで続く打撃音と、翼の端に立つ粉塵の尾、こちらへ転がってくる微細な破片の感触から壁の保ちを測る。壁際の列は進んでいるが、背後にはまだ何列もの人影が残る。それでも避難完了まで《Wall of Stone(石の壁)》などで押さえ込み続けるのは現実的ではない。瞬間移動系の魔法で人々を往復搬送する策もあるが、この場には二百人ほどがいる。どちらにしても全員を安全圏へ送り切る前に魔力を使い果たすだろう。
もう一段階の止め手で完全に縫い留めるか、それとも別の場所へ一時退避させるか。タヴは視線だけで列を撫でる。背後の最後尾では粉挽き屋の男が「まだ立つな、低く」と繰り返し、右手の角では村長が光の棒を低く振って足並みを抑える合図を送る。足音が幾重にも重なり、正面では石の表皮が欠ける甲高い音が間断なく続く。中央の岩板から、また一片が落ちた。
頭上で薄い光が輪のようにほどけ、冷たい視線の気配が街路を撫でた。壁の上縁を越えて灰紫の頭部へ何かが落ち、ネオセリッドの触手が一拍遅れて強張る。空気が一瞬だけ固まった。
*
数十秒前、ゼンゼはネオセリッドの上へ抜ける角度を取っていた。再生の継ぎ目を見て、そこへ攻撃を落とすつもりだった。頭部の襞が開くのを視界の端で捉えたが、避ける猶予はなかった。口腔の奥に重いうなりが溜まり、前上方に扇形の白い歪みが走って空気が一気に硬くなり、屋根の留め金が鳴って粉じんが浮いた次の瞬間、額の内側で光が弾けて四肢への命令が切れ、息だけが浅く続いていた。
《Wind Soul(風の魂)》が抱えてくれて落下は防げたが、身体は命令を受け付けない。目は開いているのに視界は照明のない室内のように暗く、上下の感覚が外れて胸の内の焦りだけが増していく。出口はどこだ、右か左か。このまま動けなければ次の攻撃で殺される──そう考えた瞬間、頭の奥が焼けるように熱くなり、歯が触れて小さく鳴った。
焦燥に襲われる中、指先の前に一本、糸のように細い光が現れた。微かな温度を帯びたその糸が手首をそっと引き、誰かが先に立って振り返らずに導いている気配だけがある。声はしない。それでも手首を引く向きは一度も揺らがず、ゼンゼはそちらへ重心をわずかに預ける。体は動かないのに、視界だけが細い糸に引かれて滑った。
景色が反転する。上から見下ろしている。自分の知っている台地だ──北端の丘の折れ、畑の区切り線、川の緩い曲がりまで位置は合う。だが畑帯は黒く焦げ、土手は南北に裂けて抉れ、川面には薄い灰が広がっていた。西の尾根の方角から乾いた炸裂音が間を置いて届き、低い震えが地面を伝って胸骨に触れる。谷を渡る風は煤と焼け草の匂いに油と薬剤の刺す匂いを混ぜ、舌の奥がざらつく。ここまで壊れた景色を、彼女はこの場所で一度も見たことがない。
(この幻視は……ネオセリッドの仕業ではないな。頭の内側を押さえつけるような強制感がない)
川の浅瀬の右岸には、布と木の柱を継いだ粗末な天幕が密に立つ。焚き火の跡や転がる水桶の間を、濡れた衣を絞る女、子どもを抱えた母親、足を引きずる老人、荷車を押す男が行き交っていた。すぐ近くで重い衝撃が連続し、地面と川面を揺らす。尾根の方角では白い閃光が断続した。遅れて届く乾いた砲音と圧縮空気の唸りに、ゼンゼの理解が追いつく。弾着と爆風だ。天幕の布がはためいた瞬間、人々は一斉に川沿いの道へ殺到する。荷を掴み損ねて戻ろうとした者が別の列とぶつかり、道は人と荷で詰まった。叫び声と泣き声が風に混じる。
地表に低い唸りが走り、砂と草がふわりと持ち上がっては落ちる。川岸の天幕の端が風でめくれ、掛けてあった鍋の火が揺れ、子どもがそれに驚いて母の衣を掴む。川向こうの斜面を金属の車体が進む。わずかに浮き、下腹に並んだ噴口が空気を押し出して地面との間に薄い層を作るのが見える。はじめて見る仕組みだ。響きも重さの伝わり方も、自分の世界の道具とは違う。
尾根とくぼ地の間では、遠距離攻撃の応酬が始まっている。尾根上の銀の装甲部隊は、低い砲座に念動式の投射器を据えていた。そこから力場を圧縮した衝撃杭が短い間隔で送り出される。放たれた瞬間に空気が歪み、柱のような透明の筋が走った。数呼吸遅れて、くぼ地の土塊が跳ね上がる。
対する小隊は晶質の増幅冠と共鳴盤を担ぎ、くぼ地で列を組んでいた。前面へ延ばされた精神波が見えない壁となって迫り、尾根の斜面に沿って砂を流す。衝撃杭が着弾するたび地面が震え、精神波が通るたびゼンゼの胸郭の内側まで縮んだ。金属の焦げた匂いに乾いた刺激臭が混ざる。押し合う力は目に見えない面となって台地を往復し、砲と呪の拍が遠い雷鳴の連打になって丘を打った。
右の尾根線では、銀の装甲服を着た部隊が壕から壕へ交互に飛び出す。片膝を着いて射撃し、すぐに次の壕へ移っていた。兜の庇から伸びる細い導線と側頭部の薄板が光を反射する。視界と指示を共有していることは、その揃った動きから分かった。隊列の間に立つ指揮役は、背に長い銀剣を負っている。接近戦の直前まで抜かず、手の合図だけで列を撫でるように動かした。頭上では細身の飛行艇が旋回し、船首の槍状突起で通り道を示す。腹に据えた連装の対空クロスボウが、その空域を扇状に掃射した。斜面下の敵が遮蔽物の陰ごと崩れ、乱れた者にだけ銀剣が一度閃く。見えない《Telekinesis(念動力)》の面で押し、必要な場面だけ刃を入れる。ギスヤンキだ。
左のくぼ地では、奇妙な装備に身を固めた灰色の小隊が静かに前進する。頭頂には晶質の増幅冠が載り、胸と肩は神経伝導の紋を走らせた装甲衣に覆われていた。手には共鳴盤と投影器を携えている。腹に紋様を刻んだ殻の小舟が低く漂い、艦腹の模様が脈動するたび地上の列も揃って一歩進んだ。彼らが横一列に展開して前方の空気をゆがませると、対する兵が一斉に膝をつく。こめかみに手を当てる者がいれば、武器を落とす者もいた。
その列には、目の焦点を失った歩兵が混ざっている。同じ間隔で発砲し、同じ角度で身を伏せていた。長い指を持つ影がその間を滑るように移動する。肩や後頭部に触れられた兵の瞳へ、短い光が沈んだ。広がる圧は《Mind Blast(精神爆砕)》の波で、個々の兵には《Dominate Person(人物支配)》も掛けられている。指揮は上から流し込まれ、士気ではなく接続で保たれていた。マインド・フレイヤーだ。
川の浅瀬の天幕列では、さらに混乱が広がる。女が鍋を蹴って立ち上がり、子どもを抱え直して列の外へ出ようとするが、別の家族と肩がぶつかって倒れかけ、荷車を押す男は川上へ抜けようとして流れの速さにすぐ足を止め、老人は子どもを背に回して布で縛ろうとするが手が震えて結び目が決まらない。天幕の支柱が一つ倒れ、布が道に垂れて通り道を塞ぐ。人の列が動線を塞ぎ、逃げ道が細っていくのが上からはっきり見える。
そのとき、風の向きが一段変わり、上から圧が降りた。川面が細かく逆立ち、天幕の縄が一斉に鳴る。影が広がるのを見て人々が顔を上げると、雲の層が内側から押し広げられて割れ、円と角が交差する薄い幾何の輪が幾重にも展開する。輪の縁は白くかすかに火花を散らし、空気が乾いた臭いを帯びる。やがて輪の中心が水面のように揺らぎ、そこから均一な藍色の艦影が次々と出現した。
艦は雲を払い、規則正しい間隔で横隊を作り、舷側の標識灯が同じリズムで点滅する。船体の側面には白い文字で「MSA」と記され、腹の舷門が同時に開く。雷鳴ではないのに腹に響く低い振動が広がり、ゼンゼは無意識に息を詰める。次の瞬間、落ち着いた声が広帯域で降り、言葉の響きはこの世界のものではないのに、不思議と意味だけが頭に入ってくる。
「This is the Multiversal Stability Authority to the Githyanki Host and the Illithid Conclave. Pursuant to the Accords on the Preservation of Independent Planes and the Interplanar Non-Aggression Compact—specifically Article VII, Section 3, and Article XII, Section 1—you are hereby notified that your armed presence constitutes unlawful intrusion and hostile action within a sovereign demiplane. Cease operations, disengage, and prepare for supervised withdrawal along designated corridors. Failure to comply will—(こちらは多元安定機構、ギスヤンキ軍およびイリシッド評議会に通告する。独立次元保全協約および平面間不侵攻協定──第七条第三項ならびに第十二条第一項に基づき、貴公らの武装展開は主権半次元界に対する不法侵入かつ敵対行為と認定する。直ちに行動を中止し、指定回廊での監督下撤収に備えよ。不履行の場合は──)」
返答は砲火だった。言い終える前に艦の右舷へ白熱した塊が叩きつけられ、乾いた閃光が花開く。船腹が硬く鳴り、外皮に六角の光格子が一気に走って投影盾が重なり、破片と熱が横へ散った。右の尾根からギスヤンキの斜角射撃が空域を切断し、左のくぼ地では殻の小舟が腹の紋を強く光らせて精神波を広げる。機構の放送が一瞬だけ揺れ、即応の短い指示に切り替わる。
「Hostile fire detected. ROE Protocol Twelve enacted(敵対射撃を確認。交戦規定プロトコル・十二を発動)」
同時に艦腹の懸吊点から切り離された降下艇が、側面に並ぶ姿勢制御の制動噴口を逆向きに吹かせて青白い噴炎を吐き、機体を押し上げながら高度を落とす。後部ランプが開き、車輪を備えた装甲車が連続で滑り出る。先頭列は低車高の対空車両で、砲塔には連装砲と魔導安定器。後列には角度のついた迫撃器を抱えた支援車両が続く。別の降下艇からは歩兵が降り、路面に描かれた転移標の輪に順番に触れて消える。ほどなく離れた路地や橋頭に同じ輪が開き、分隊が姿を現して異常な速度で展開する。
地上隊は布のような透明盾を前に張り、縁を走る光で面を補強しながら角を一つ曲がるごとに短時間だけ面射撃を行い、また前進する。頭上では偵察用の小型機械と使い魔が同じ高度で併走し、地上へ短い印を落として着弾修正を続ける。機構の護衛艇は上空に留まり、対空砲の掃射で扇形の拒止面を張って空域の進入軌道を次々と切り落とし、耳を叩く衝撃と硝煙の匂いがゼンゼの舌に苦さを残す。
ゼンゼは気づいた。これは確定した結末ではなく、誰かが見せている、起こり得る未来の一つだ。だが現実になったとき、誰が止められるのか。一級魔法使いである自分も、所詮は一人の人間にすぎない。この規模の戦場で、自分に何ができるのか。怖いのではない。判断の軸が足りない。見たことのない力がいくつも押し合っているからだ。
右の尾根では銀剣がついに抜かれた。刃が一度光ると、壕の縁に掛かった手が落ちる。指揮役はすぐ銀剣を背へ戻し、手信号だけで隊を滑らせた。頭上では飛行艇の腹から増槽のような箱が落ちる。空中で開いた網が、殻の小舟の通り道をひとつ塞いだ。
その網の向こうでも、左のくぼ地の攻勢は止まらない。黒い殻車が短い停止と加速を繰り返して圧を送り、殻の小舟も腹の紋を強く光らせて思念の波を広げる。その縁を隷属兵が歩幅を揃えて進み、均等な間隔で射撃した。列の間を滑る灰色の影が兵の肩に触れる。瞳へ短い光が沈むたび、動きの揃い方が一段階固くなった。
機構の艦隊は同じ通告を一度だけ繰り返した。それきり言葉を切り、外皮へ薄い盾層を重ねる。外縁の砲はゆっくりと角度を変え、区画射撃へ移った。その射線の下では地上隊が膜の陰を交互に前進し、角を曲がるたび短い面制圧を掛ける。迫撃弾は丘の肩を越えて尾根裏を掘り、低く回る小型機が次の座標を送った。
川沿いの低地では、機構の隊が橋の手前へ光の杭を射込む。流れへ向けて盾壁を広げ、渡河を拒んでいた。対岸の畑道には、砲口を伏せた低い車体が横一列に並ぶ。その後部から射出された細い箱は空で開き、小さな羽根のある筒となって落下した。爆ぜる音より、地面が丸く沈む感触の方が強い。前へ出る足を止めるための打ち方だと分かる。
高い空を赤い影が横切る。巨大な翼、根元の赤い鱗、真鍮色に光る角、吐息は熱の筋になって伸び、背には騎手。彼は銀の剣ではなく棘だらけの投槍を束ね、ひとつを投げてすぐ翼を傾け高度を変える。投槍は途中で裂けて細い矢の束に変わり、空の盾面に当たった殻の小舟が傾いて腹の紋が消える。
レッド・ドラゴンの竜騎──ギスヤンキが重さと速さで空の主導権を奪いにきている。だが機構の護衛艇は退かず、艦腹から伸びた細い柱が空中に小さな枠を並べ、枠の面に淡い光を張って竜の通り道だけを狭める。竜は翼を畳むか道を変えるしかなく、追尾の発射架が枠の縁をなぞって騎手の肩口をかすめる。竜は怒って口を開き、灼熱のブレスを吐く。光の枠はその熱線で波打つが、直ちに新しい層が重なり、空の支配は一度では決まらない。
上空から、先ほどより強い調子で異界の言葉がひとつ降りてくる。艦の外殻に反響して澄んだまま広がり、ゼンゼの耳へは意味だけがはっきり届く。
「You are now designated for forcible removal. We will neutralize and expel you(貴公らは強制排除の対象だ。我々は貴公らを無力化し、この次元から排除する)」
声に抑揚はない。決められた結末を読み上げるだけで、機構の艦ははじめから返答を求めていなかった。文言が告げ終えられるのとほぼ同時に、三方向から火が交差する。右の尾根ではギスヤンキの斜角射撃が空域の通り道を断ち切った。左のくぼ地では殻の小舟と殻車が精神圧を重ね、地表を撓ませる。上空の艦列からは対地の間接射撃がまとめて落ちた。衝撃と光が台地の面で一度に弾け、白い閃きが泥と砂塵を巻き上げる。ゼンゼは息を止めた。耳の奥が詰まり、胸郭が自分のものではないかのように固くなる。
視界はさらに高く引かれ、盤上の駒のように三つの勢力が動いていくのが一目で分かる。尾根線に沿ってギスヤンキの兵たちが壕と地形の陰を継いで抜け道を刻み、くぼ地ではマインド・フレイヤー小隊が思念の波で穴を広げて歩兵の列を押し出し、機構の部隊は観測光を頼りに間接の打ち込みを重ねて空白を増やす。上空では細身の飛行艇と殻の小舟の編隊が高度をずらしながら追い越し、対空砲が切り取った通り道に弾幕を張る。重ね合わされた砲声が谷にこだまし、乾いた土と硝煙の匂いが風に乗って鼻の奥へ刺さる。遠くで牛が驚いて鳴き、林に潜んでいた鳥の群れが一斉に散る。
ゼンゼは自分の知る地形が線引きされ、切り分けられていくのを見下ろした。奥歯を噛み、掌へ爪を食い込ませる。敵への怒りより、守れない自分への悔しさが勝っていた。見たこともないやり方で地形が確実に壊されていく。その光景だけは、目を逸らしても消えなかった。
機構の装甲車列が横一線に広がり、銃口と盾の板面の向きが外周に揃う。歩兵は手信号で間隔を取り、路上に携行標識を立てて即席の検問所を構築する。上空ではギスヤンキの砲火が白く閃き、遠くでマインド・フレイヤーが撒いた精神波が路地を舐める。巻き込まれまいと、少しでも安全な場所を求めて女が泣く子を抱えたまま検問線へ走り、荷車を押す男が車輪を軋ませて後に続く。先頭の兵が掌を突き出して制止し、別の兵が拡声器を掲げ、異界の言葉で定型の布告を放つ。幻視の中では、その意味だけがゼンゼの頭へ流れ込んだ。
「独立次元保全協約、運用上の中立法第十四条、並びに平面間不干渉憲章第五条に基づき、活動中の排除区域における非同盟民間人への直接支援は禁じられている。各自で速やかに退避行動を実施せよ。機構は非同盟民間人の誘導、輸送を行わない」
「退避って、どこへ!」
女は子の体を肩に抱え直し、面具の黒い遮光板に自分の顔が映る距離まで一歩踏み込み、内側にあるはずの人の目を必死で探す。指先が盾の縁に触れそうになったところで、兵の腕がわずかに押し出され、盾の板面が進路を塞いだ。
「もう大陸全体があいつらの縄張りだよ! 私たちはどこに逃げればいいの!」
兵は視線を正面に固定したまま微動だにしない。拡声器を持った兵が同じ一節を繰り返し、盾列の脇では医療班が自隊の負傷者へ一直線に駆け寄る。路上に座り込んだ老人と荷車の男は、無言の盾の板面でじりじりと押し戻されていた。医療班が駆け寄るのは自隊の負傷者だけで、車両の通行帯は人を押し退けてでも空けられる。子を抱く女にも、路上の老人にも、どこへ逃げればよいのかを答える者はいない。「進入禁止」の板が増えるあいだも、装甲車だけは空けられた道を止まらずに通り過ぎる。人を通す道は閉じられ、部隊を通す道だけが残った。
視界の輪郭が粒子になって解け、砲声と硝煙の匂いが急に遠くなる。空の色が一段階薄れ、一本の細い銀の糸だけが前に残る。その糸に指先が触れた瞬間、現実の屋根の線と瓦の光が位置を取り戻し、幻視は音もなく閉じる。
ゼンゼは浅い呼吸を一つずつ整えようとする。暗い部屋に閉じ込められたような感覚はまだ残り、出口はどこだと自分に問い直した。細い光の糸は指の前にあり、急かさず、ただ在り続ける。先に結論へ飛ぶな。見ろ。順番に見ろ。台地の端、川の向き、風の向き、煙の流れ。幻視の武器も戦い方も知らない。それでも土は同じだ。自分にできるのは、戦い続けることだけ。それはいつもしてきた仕事と変わらない。
そのとき、声が聞こえた。
「この世界は理不尽に蝕まれ、利を貪る手がその傷を広げている。だが、夜の道はまだ断たれていない。ここに生きる者らが守るべき地であるが、汝らを独りにはしない。私は銀の月光で歪みし道を照らし、歌と剣の舞とともに力を授けよう。試練は苛烈となろうとも、恐れるな──共に踊り、共に立て。汝を、そして汝の仲間を、銀の月の祝福と宵の歌が導かんことを」
闇の奥で薄い光がほどけ、凪いだ湖面にひとりの女の影が立った。裸足は水面を乱さず、長い髪が背後へ流れている。光に融けた顔立ちは見えないが、こちらを見下ろす目の向きだけは分かった。片手には細身の刃。もう一方の手が舞うように空をなぞると、周囲の魔力の乱れが音もなく揃っていく。名は告げられない。それでも、世界の深みに届く力が触れた指先の感覚となって伝わり、ゼンゼは向こう側の神格だと悟った。
細い光が指の節にふっと触れた。そこが出口だ。ゼンゼが小さくうなずくと、動かなかった胸へ深く息が入り、乱れていた鼓動が一拍ずつ揃う。痺れが皮膚の外へ引き、指先へ血の熱が戻った。足の甲には風が再び集まり、傾いていた身体を水平へ支え直す。重心を前へ送れば戻れる。ゼンゼはそう判断して、光の示す方へ身を預けた。
現実の空が返り、屋根の線と瓦のきらめきが正しい位置へ収まる。白い圧が薄れ、耳の唸りも遠のいた。視界の端で極細の銀線が一度だけ点る。それがタヴの魔法であり、次の一手を成功へ傾ける働きだと、戻りかけた感覚が伝えてくる。ゼンゼは歯を結び、焦点をネオセリッドへ合わせ直した。こわばっていた指を開き、握る。胸の奥には先ほどの声がまだ残っていたが、もう身体を塞ぐものはない。四肢へ命令がまっすぐ落ち、足元の風がその命令どおりに彼女を支えた。
*
「ったく……次から次へと何が起きてやがる」
それを呟いたのは、上空で風の層を踏むように停止したヴィアベルだ。右手の短い杖の先で円を切り、視線を一点に絞る。眼下には灰紫に光る巨躯がうねっている。太い触手が幾重にも絡み合って山のように積み重なり、表面には小さな棘と節目が走る。中央の頭部は四枚の花弁のように開閉し、内側から鉤の付いた細い触腕が三本、蛇の舌のように伸び縮みする。腹側には黒緑の房が広がって路面を舐め、全体が生き物の結び目のように地を占有している。彼は頭頂から絡みの末端まで、その化け物の全身を視界に収めた。
数十分前、ヴィアベルは別の街道の上空で黒い影を捉えた。長い触手を後方へ流し、山稜をかすめる速度で横切っていく。建物をひと跨ぎにし、地形を無視して進む巨体だった。あの速度は、追わなければ誰も止められない。ヴィアベルは《飛行魔法》の出力を最大まで引き上げ、黒影へ針路を合わせて追尾に入った。
追尾の途中、腹に鈍く響く低音が何度も風を伝い、遅れて地面を撫でる震動が届いた。そのたび進行方向の屋根瓦がばらばらと鳴って砕け、粉塵が街道の先へ立ち上がる。ヴィアベルは雲幕へ潜って向かい風を避け、また高度を落として影の位置を確かめた。風向と高度を小刻みに変えながら、ようやくこの村まで追いついたのだ。
村の上空へ出たヴィアベルは、黒影の進路を追うまま大路へ視線を落とした。触手の化け物は中央を貫く道の中ほどで胴をくねらせ、腹を路面へ擦りつけながら前進と停止を繰り返している。巨体は道を横切って、北西へ伸びる避難列の正面を塞いでいた。巨体と列の間には、石塊を積み上げたばかりの壁が立っている。その背後では荷馬車と人の列が細く伸び、列の脇にいる年配の男が大きく腕を振って先へ進ませていた。
壁面には幾筋もの亀裂が走り、つい今しがた強い衝撃を受け止めたことが分かる。そこから化け物の前方斜め上へ目を移すと、女の魔法使いが硬直したまま浮いていた。目は開いていても、焦点が合っていない。路上の左側では、別の男が瓦屋根の庇から一歩出て、右手を石壁へ向けた姿勢のまま息を整えている。壁を起こし、避難列へ向かった一撃を遮ったのはあの男だ。女は動けず、避難列はいまだ化け物の射線上にある。化け物の全身は視界に収まっている。今すぐ固定するしかない。
「《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》」
ヴィアベルは化け物の全身を目に収めたまま、光の帯を円環と斜交の軌道へ走らせる。幾重にも交差した帯が、巨体の周囲に置かれた目印同士を結んだ。振り上げかけた触手が宙で止まり、ねじれた頭部もその角度で固まる。地面を擦っていた勢いまで唐突に断たれ、路地に高い音が一度だけ走った。遠くの洗濯縄がかすかに鳴った直後、ヴィアベルの耳の内側へ低い囁きが湧く。
「助かるが……あんたは誰だ」
ヴィアベルが化け物の全身を視界から外さないように目線を少し上げると、通りの地上で男がこちらへ指をまっすぐ差し向け、口の中だけで短く言葉を作っているのが見えた。周囲の喧噪に紛れた声が、なぜか自分にだけ届く。不思議なのは、男本人からはほとんど魔力の気配を拾えないことだ。
伝声の術自体は単純な類いに見えるが、言葉の運びと術式の組み立てがこちらの世界の体系と違う──そう判断するに十分な違和感がある。大陸魔法協会の通達にあった異界の魔法使いの協力者。名前はタヴ。目の前の男がそれだとヴィアベルは結論づける。彼は唇をほとんど動かさず、喉の奥で囁きを返す。同じ細い糸に声を乗せれば、タヴにだけ届くはずだ。
「自己紹介は後だ、俺は敵じゃねえ。デカブツの身動きと魔力は封じた。お前はやるべきことをやれ」
右手の短い杖をわずかに傾け、ヴィアベルは化け物の背後と避難列を順に示した。
「……了解した」
通りの地上でタヴが短く頷き、村長の肩へ駆け寄る。周囲の騒音を越える声で要点だけを連ねた。
「列を右へ迂回させて、中央通りは使わずに橋まで移動しろ。間を詰めず十歩ずつ切って動け」
「承知しました」
村長は即座に頷き先頭へ回り込み、腕を大きく振って列を引っ張った。集落の若者たちが両側に散って人波をさばき、荷車の軸がきしむ。子どもを抱いた母親が肩越しに振り返るのを、タヴは前へ押しやりながら、一歩石壁の裏へ回り込んだ。路面の砂塵はまだ舞い、さっきの圧力で粉になった瓦が靴裏で潰れて鳴る。
「拘束は完全に機能しているか?」
上空のヴィアベルが問う。右手の短杖は標的の中心に据えたまま、視線を外さない。光帯の縁にわずかな揺らぎがあり、魔力の流れだけがまだ動いている気配を拾ったからだ。
「物理的な動きは止まっているが、魔力の動きはまだあるな」
地上のタヴが答える。彼は壁際から標的の正面を一瞥し、術者の感覚で内部の圧の向きだけが変化し続けていることを伝えた。
「やっぱりな。理由は分からねえが、魔力の操作までは縫い止められてねぇ」
帯の交点は胴へ食い込んだまま、そこから漏れた波動だけが周囲の粉塵を細く引く。
「物理的に動けないなら反撃の手段は限られる。何かされる前に仕留める」
タヴは判断を切り替え、足元の空気を踏むように高度を取り直して側面へ回り込む。路地の角を越え、標的の斜め脇に浮いて射角を確保した。ヴィアベルは短く息を吐き、短杖を胸前で返す。杖先に光が収束し、冷たく研がれた魔力が伸びる。
「《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》」
白銀の魔弾が空を裂き、化け物の眉間へ一直線に走る。命中の直前、全身の空気が重く歪み、透明な膜が内側から膨らんだ。魔弾は見えない壁に火花を散らされ、力を削がれる。精神の障壁だ。見た目はただの空気なのに、手応えは石よりも硬い。
「ちっ、弾かれたか」
舌打ちの音が消える前に、タヴが告げた。
「奴の防御機構は攻撃されるたびに反応して発動するタイプだ。攻撃を途切れさせずに集中させれば、対応できなくなるはずだ」
タヴは短い詠唱を噛み砕きながら黒い光線を連射する。波紋が幾度も走り、焦点の一点に焼け色が固定されていく。
最初の二条は障壁の正面へ弾かれた。タヴは三条目を少し上へずらし、紫の膜がそちらへ厚みを移すのを待つ。直後、四条目を元の焦点へ戻した。薄くなった箇所が大きく窪み、黒い光が外皮へ届く。ヴィアベルはその変化を見逃さず、短杖の先を同じ焼け跡へ合わせた。
「女の方はまだ意識が戻らねえみたいだな……」
ヴィアベルは視界の隅で、頭上に硬直したまま浮くゼンゼの呼吸を確かめ、短杖を握り直す。指先も髪もまだ動かない。一方、ネオセリッドの周囲では紫の膜が脈打ち、口奥の圧も消えていなかった。ここで待てば、先に立て直すのは敵の方だ。ゼンゼが戻るまでの間も、二人で攻撃を重ねるしかない。
「やることは変わらない。二人で押し込むぞ」
タヴは射角をわずかにずらし、左右から交互に黒い光線を重ねた。ヴィアベルも高度を半歩だけ上げ、タヴの射線へ入らぬ角度から短杖を胸の前で返す。二撃目の《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》は、障壁が黒い光線へ寄った瞬間を狙って焼け跡へ突き刺さった。
白銀光が外皮を内側へ抉り、黒い焼け跡と一本に繋がる。ネオセリッドの触手が震え、障壁が慌てて傷の上へ戻った。タヴはそこで攻撃を止めず、黒い光線を膜の左右へ散らす。紫光が追うたび焦点の守りが薄くなり、ヴィアベルの三撃目が同じ場所へ入った。今度は粘液が細く噴き、表層の割れが体節に沿って伸びる。
ヴィアベルは次弾を整えながら、タヴの射撃の間隔へ自分の呼吸を合わせた。タヴが膜を引き寄せ、ヴィアベルが傷を撃つ。言葉を交わす余裕はなくても、二巡目には二人の攻撃が同じ拍で動き始めていた。
しかし、直後に化け物の口腔の奥で意味を結ばない破裂音が短く刻まれる。耳ではなく頭蓋の内側に先に刺さる角張った音列だ。音が生まれた瞬間、周囲の空気の輪郭がわずかにずれ、拒む意志だけが直接押し込まれてくる。同時に、化け物の全身を薄い液体の膜が一枚すべるように走り、光帯の交点に触れるたび固定点から微かな音が鳴って位置を滑らせた。帯はそのまま保たれているのに、結び目だけが水中を漂うようにほどけていく。
(マジかよ、《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》の固定をこじ開けにきてやがる)
化け物の輪郭が二重三重にぶれ、光帯の交点が金属を弾くように鳴って僅かに滑る。《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》は空間の目印に結び付けて動き出す力を削ぐが、巨体は体節をつぶして別の姿勢に置き換えながら固定点への参照を一つずつ外していく。止まっていた触手の基部が紙一枚ぶんだけ回り、次の拍で胴のねじれが半歩分ずれた。タヴはその異常な挙動を見て即座に判断し、ヴィアベルに警告を飛ばす。
「これは……《Freedom of Movement(移動の自由)》だ! 次の瞬間には拘束を脱するぞ!」
薄い膜は、光帯が締まる場所へ先回りして滑り込んでいた。固定点そのものを壊すのではなく、縛られたはずの外皮を、その内側から僅かずつずらしていく。《Freedom of Movement(移動の自由)》が全身へ行き渡るにつれ、止まっていた体節が一つずつ別の位置へ収まり、光帯だけが元の輪郭へ取り残された。
最初の交点が滑ってから最後の一本が外れるまで、幾呼吸も持たなかった。緩んだ交点が連鎖して解け、遂に化け物は拘束から完全に抜け出す。ヴィアベルは既に攻撃の準備を終えており、即座に《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を下方に放つ。だが化け物はその射線に合わせるように短距離の瞬間移動で位置を一段ずらし、魔弾は外れて地面を抉る。
続けて二度、三度──連続する短距離の瞬間移動を段差のように継ぎ足し、高度を階段状に引き上げながらヴィアベルの正面へ迫った。直線ではなく、狙いをつけさせないためか角度を切り替え、折れた軌跡で接近してくる。灰紫の頭部が急速に拡大し、裂けた口腔と触手群がヴィアベルの視界の中心を占める。タヴは咄嗟に黒い光線を放つが、化け物が中空でさらに角度を変えて位置をずらし、光線は空を裂いただけで外れた。
「くそ、迎撃は無理だ! 高度を──」
彼の言葉が言い終わる前に化け物は短距離の瞬間移動でさらに距離を詰め、ヴィアベルの目前へ躍り出た。裂けた口腔と触手群が一点へ収束する軌道で振り下ろされる。
「──ッ」
ヴィアベルは反射で《防御魔法》の術式を呼び出し、左手で盾紋を素早く描いて右手の短杖をその中心に据える。掌の前に淡い青の六角板が蜂の巣状に連結し、前方へ弧を描く盾面を作った。迫る触手が中央へ叩き付けられ、三枚が同時に深く沈む。周囲の板が噛み合って衝撃を外へ逃がすが、縁には細い亀裂が走り、ヴィアベルの肘が胸元まで押し戻された。
風を踏んでいた足も後ろへ滑り、盾面全体が巨体の重みに押されて傾く。ヴィアベルは歯を食いしばり、短杖を両手で支えて初撃だけは受け切った。六角板の半数は明滅を繰り返し、魔力の流れも中央で乱れている。次を同じ場所へ受ければ面が崩れる──そう判断した瞬間、化け物は二撃目を振り上げた。
だが触手が落ちてくる前に、何かが化け物の首の付け根と触手の根元に絡みついた。幾筋もの束が一気に締まり、振り下ろしかけた二撃目が空中で止まる。
最初の髪束が触手の根元を一周し、次の束がその輪の下をくぐって反対側の体節へ回る。三本目と四本目は互いに交差し、一本へ集中するはずだった重みを巨体の左右へ分けた。触手が振り抜こうとするたび編み目が逆向きに締まり、盾面まで指一本ほどの位置で先端が震える。ヴィアベルは壊れかけた六角板を保ったまま、ようやく身体を後ろへ引いた。
化け物の胴のすぐ後ろ、誰もいなかった空間に、女の魔法使いが滑り込んでいる。さきほどまで空中で硬直していたはずのその女が、いつの間にか意識を取り戻していた。眼差しは化け物の首元から外れない。彼女の長い髪は風を受けて広がり、化け物へ食い込んだ束だけが強く張っていた。
ゼンゼの鼻筋には乾ききらない血が残り、呼吸もまだ浅い。それでも指先は迷わず、髪の一束ごとに締める順番を送り続けていた。足元の《Wind Soul(風の魂)》が巨体へ引かれる身体を支え、肩の高さを一定に保つ。意識を取り戻した直後とは思えない精度で、彼女は触手の力が逃げる方向を一つずつ塞いでいく。
「ようやくお目覚めか……」
女の髪は一本一本が別の生き物の腕のように自在に曲がり、鎖のように編まれてさらに締め込む。単に巻き付いているのではない。一本ごとに魔力の筋が通され、締めるほど硬さと張力が上がっていく。ヴィアベルの視線が、その編み目を根元から先端まで追う。
「髪を自在に操る魔法……お前まさか、一級のゼンゼか……!」
「君はヴィアベル二級魔法使いだな。協力に感謝する」
ゼンゼはヴィアベルへ一度だけ顎を引く。タヴは高度を上げ、二人と同じ高さまで浮上して距離を詰める。その途中、ゼンゼの髪先から冷ややかな白光が粉のようにほぐれて散り、空気が鈴を遠くで鳴らしたような微かな振動で一定の拍を刻む。光と拍は独りを置かずに寄り添う性質を帯び、触れた者の鼓動と一拍だけ重なってから静かに離れていく。神の加護が残した光だと、タヴは直感する。
タヴはそれを言葉にはせず、一度うなずいて避難列を確かめる。ゼンゼに絡め取られた化け物は全身の筋を膨らませ、束をちぎろうと暴れた。髪の一束が緩めば別の束が逆側から巻きつき、力の逃げ道を塞ぐ。ゼンゼは短い呼吸を一定に保ち、手足をほとんど動かさないまま、髪だけを絶えず締め直していた。
巨体が右へ捻れれば、ゼンゼは左側の束を緩め、反対の束を短くする。力を正面から受けず、動こうとした方向そのものを次の締め付けへ変えていた。ネオセリッドの外皮へ髪が食い込むたび紫の粘液が滲むが、魔力を通した表面は滑らず、編み目の位置を保つ。タヴとヴィアベルはその外側で射線を開け、どちらへ振られても巻き込まれない角度へ分かれた。
「こんなデカブツを髪で締め上げられんのかよ……どんな筋力……いや張力だな。魔力で底上げしてやがる」
ヴィアベルが苦笑を混ぜて吐く。だがその直後、化け物の内部で魔力の圧力が急に盛り上がった。触手の根元が波打ち、空気が重たく張った。拘束は長く持たない。三人は距離と射角を調整し、次の動きに備えた。
「ゼンゼ、そいつが何かする前に村の外れへ投げ飛ばしてやれ」
タヴは言い切る。彼はゼンゼの背に、外部から供給される力の糸を感じ取っていた。
「本当にそんな芸当ができるのかよ?」
ヴィアベルは巨体の長さと、その根元へ食い込む髪束を見比べる。その問いにゼンゼは答えない。代わりに足元へ風が集まる。《Wind Soul(風の魂)》の帯が足の甲から脛へ上がり、体の重さを水平に支えた。髪の緊縛が一段階強くなり、触手の根元が悲鳴のような軋みを上げる。
「一級魔法使いってのはイカれてるな。なら、巻き込まれないようにしねえとな」
ヴィアベルは高度を持ち上げ、タヴも同時に反対側へ退き、巻き込まれない距離と角度を確保する。ゼンゼは二人の退避が完了したのを横目で確認した後、髪の束をいく筋も撚り合わせ、背後へ引く螺旋の綱に組み替えた。
《Wind Soul(風の魂)》で足元に気流を集め、そこを軸にゼンゼは腰を鋭く切る。最初は巨体の方が動かず、張りつめた髪だけが低く鳴った。彼女は一度で引き切ろうとせず、回転に合わせて束を少しずつ短くする。灰紫の胴が路面を離れ、遅れて腹側が外へ振られた。
そこから回転が一気に速まる。髪の綱へ乗った重みがゼンゼの身体を外へ引くたび、足元の風が反対側から押し返した。二巡目には巨体が大きな弧を描き、触手が遠心に遅れてしなる。ゼンゼは避難列と屋根のない方向をもう一度確かめ、編みを解いた束を同じ向きへ一斉に伸ばした。風と髪の投石紐が放たれ、ネオセリッドの巨体は村はずれの空へ投げ出される。
地上では、避難する人々がいっせいに足を止めた。頭上で灰紫の巨大な影が弧を描いて飛んでいくのを見上げ、押されていた荷馬車の音も止む。先頭に立つ村長が振り返り、広場の後方まで届くよう、低くよく通る声で促す。
「立ち止まらないでください。大丈夫です、今のうちに進みましょう」
声に弾かれたように数人が我に返り、荷馬車に掛けた手に再び力がこもる。肩を合わせた列が少しずつ前へ進む。母親は子を抱き直し、老人は壁づたいに歩幅を整え、道端の馬は鼻を鳴らして路肩の別走を続ける。硬くなっていた足が、ゆっくり動き出した。
一方、投げ出された触手の化け物は、空中でもがきながら地表へ落下する直前に《Levitate(空中浮揚)》の力場を腹面へ広げる。落下の勢いが急速に削がれ、胴の下面は地面をかすめただけで、衝撃は最小限にとどまった。
「見かけによらず器用な野郎だな」
その光景を見ていたヴィアベルが悪態をついた直後、化け物が咆哮した。だが、その咆哮はいつものものではない。四枚に割れた口腔が不自然に開き、舌に相当する触腕が震え、濁った音の波が空気を擦って広がる。地上の避難列では数人が耳を押さえ、子どもが短く悲鳴を上げた。ヴィアベルは奇妙な不快感に眉を寄せ、短杖を握り直す。
その音は、彼らの耳には歪んだ咆哮以上の意味にはならなかったが、タヴは違った。出発前にゼーリエから《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》を施されている彼の意識に、咆哮の濁音が唐突に拍へ割れ、音ではなく概念の塊として滑り込む。それは脳裏で言葉の列へと自動的に組み上がり、冷たい宣告になる。
「Za kha'osen; ysra saar'keth'ra──vras na thagg'ai. Az, mor'esh!(我は《選ばれし者》であり、髪で縛る女の存在は我が神への冒涜だ。ゆえに死ね)」
《選ばれし者》とは、神に選定された代理人の総称だ。使命だけを負う者もいれば、明確な加護や権能を授かり、《デミゴッド》に迫る力を持つ例さえある。タヴは息を吸い損ねたような乾いた声を喉から絞り出す。
「ネオセリッドが《選ばれし者》……だと……そんなことがあり得るのか……」
タヴの中で、これまでの異常が一列に繋がる。《Freedom of Movement(移動の自由)》と同質の加護で拘束を滑り抜け、《Misty Step(霧渡り)》に似た短距離瞬間移動を連続させて間合いを詰めた。力の立ち上がりは祈りの律動に似ており、必要な術式が状況に応じて命令句のように組み上がる。神授の魔法に見られる特徴だ。《選ばれし者》と考えれば一連の挙動には筋が通る。だが、本来は言語も信仰も持たないはずの異形へ、どの神が力を与えたのかを断定する材料はない。数多の異界を渡ったタヴにも、その組み合わせだけは受け入れがたかった。
タヴは考えをまとめる。神々の在り方は世界ごとに違う。信徒や選定者を介して影響を及ぼし、直接介入を避ける世界が多い一方、神の顕現そのものが許された世界もある。逆に、特定領域の次元や創造者の定めた法によって、神格の介入を厳しく制限する封鎖世界もあった。
この世界は次元間の移動や通信を遮断している。外の多元宇宙と同じ道筋では繋がらず、独自の諸界に囲まれたエベロンに似ていた。しかし目の前の《選ばれし者》が、この世界の創造者に許された存在かどうかまでは見分けられない。もし許可のない神が代理人を送り込んだのなら、創造者の定めた法に対する重大な掟破りとなる。
その仮定に立つと、ゼンゼが選定された理由にも一つの筋が見えてくる。ギスヤンキやマインド・フレイヤーのような定命の者が封鎖世界へ侵入し、害を及ぼすのは悪行だ。位相アンカーで次元通路をこじ開けることも同じだが、どちらもその世界の理で実現できる魔法や技術を使っており、理そのものは書き換えていない。
神が無許可の《選ばれし者》を介して外なる力を注げば、世界の理そのものを書き換えかねない。それを抑える別の神が応じた可能性はある。創造者の法をできるだけ歪めずに均衡を戻すなら、この世界の民を選び、加護と使命を託すことにも理はあった。現地の信仰と文化を知る者なら、余計な混乱も広げずに済む。ゼンゼが選ばれたのは、そのためかもしれない。
「責任重大だな……ゼンゼ」
ゼンゼは正面を見据えたまま応じる。
「他人事じゃないぞ。私に神託を与えた異界の神様は『試練は苛烈となろうとも、恐れるな──共に踊り、共に立て。汝を、そして汝の仲間を、銀の月の祝福と宵の歌が導かんことを』と告げたからな。君たちも一緒だ」
タヴは短く頷き、神託の言葉を象徴、儀礼、勧告の三つに分けて照合する。銀の月だけなら、月光と巡礼を司るセルーネイか、エルフ圏のセイハニーンが先に浮かぶ。だが、どちらも典礼の主軸は祈りと静謐であり、舞踏を欠かせないものとはしない。対して「踊り」と「歌」を夜の儀礼そのものへ結び付け、「恐れるな」「共に立て」と共同の実践を促す語の選び方は、救済と和解を旨とする暗き乙女、踊りの貴婦人イーリストレイの説教語に極めて近い。
イーリストレイは月光下の歌舞で民を導き、剣舞で希望を繋ぐことを善とする。「共に」という複数への呼びかけも、地上の民と堕ちた同族を隔てず手を取り合う教義の中核に合う。銀月の比喩だけなら夜の女王も連想できるが、恐怖を退けて共に立てという勧めは、その教えとは相容れない。総合すれば、神託をイーリストレイの系統に帰すのが妥当だった。
「なるほど……イーリストレイの選定者ということか」
やり取りを聞いていたヴィアベルが、眉をひそめて二人を見比べる。
「おいおい、さっきから何の話をしてんだ?」
タヴは視線を外の空へ戻しながら短く答える。
「この戦いは神同士の決闘でもあり、俺たちはその代理人になったという話だ」
「は? マジで何言ってんだ。冗談だろ」
ヴィアベルの短杖が一度下がる。だが否定の続きを口にする前に、遠方で浮遊を保っていたネオセリッドが体勢を立て直し、こちらへ向き直る気配が肌に刺さった。眼下では避難列の先頭がまだ橋へ差しかかったばかりで、ゼンゼは髪をたわませたまま次の角度を測り、タヴは詠唱へ向けて息を整えている。
ヴィアベルの視線がゼンゼの髪からタヴへ走る。ネオセリッドの影が一段膨らむ。ゼンゼの髪槍が村と巨体の間へ広がり、タヴのクオータースタッフとヴィアベルの短杖が左右から灰紫の頭部へ向いた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。