嵐の中、ネオセリッドの巨体が痙攣し、外殻の継ぎ目から腐食音を立てて酸が滲み出る。足元の土を溶かそうと放った液は、すでに詰まりかけた器官から細く粘った筋を引くだけで、氷雨に叩かれて地表に達する前に途切れた。逆流した酸が外殻の裂け目に流れ込み、冷えた空気の中で白い蒸気が短く立ちのぼる。鼻腔を刺す強い酸臭と、濡れた角質や肉がただれる生臭さが風に乗って広がる。ネオセリッドは低い唸りと甲高い悲鳴を交互に発し、嵐のざわめきと混じって不快な共鳴音を響かせた。
タヴとゼンゼは氷雨が届かない、タヴを中心とした半径六メートルの《Storm Guide(嵐導き)》の領域内で高度と横距離を合わせている。肩越しに風切りが薄く裂け、魔力で硬化したゼンゼの髪が擦れる短い音が重なる中、二人は今がネオセリッドの仕留めどきだと確信し、決定打を放とうとしていた。
しかし──。
突如、ネオセリッドの姿が淡く霞み、輪郭が微細に揺らめいた。瞬間移動の兆候だ。《Misty Step(霧渡り)》のような瞬間移動を間髪を入れず連続で繰り返し、そのたびに十数メートル前方へ跳ぶ。タヴは息を呑み、ゼンゼの瞳がわずかに見開かれる。予備動作のない跳躍が連鎖し、巨体は霧の破片だけを残して前へ前へと抜けていく。
驚愕の一拍を挟み、二人は即座に反撃へ移る。タヴは《Eldritch Blast(怪光線)》を、ゼンゼは《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を放って逃走を断とうとするが、《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の視界不良で標的を目視できず、さらに瞬間移動の発動が早すぎて狙いが定まらない。みぞれの幕を穿った霧状の残滓だけが後方に尾を引き、濡れた地面の水膜がさざ波のように揺れる。五回目の瞬間移動で巨体は《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の外縁を抜け、その灰紫色の影が範囲の外へすべり出た。
「くそっ、《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の範囲外に逃げられた!」
タヴは言い終えるのとほぼ同時に判断を下し、《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の集中を断つ。気象の結界がほどけ、村外れの坑道跡に冷えきった空気が戻る。崩れ落ちた坑口の梁材や、むき出しの砕石の斜面が薄氷をまとい、尾鉱の水たまりには脆い氷膜が走る。折れた支柱の残骸に透明な氷鞘が張り、風が吹きさらしの荒地を低く鳴らした。その先で、ネオセリッドが地表近くを低く滑るように移動を始めていた。
浮遊は続いているが、それは通常の《Levitate(空中浮揚)》ではない。あの生物は自身の質量を力場に均等分散し、その場に留まる制御を維持したまま、力場圧縮を推進力に転用している。圧縮場が瞬間的に解放されるたび、空気が軽く弾ける音が響き、その巨体が地表五メートルほどを水平に疾走する。進路は一直線に、北東──リューデル村だ。
「村を狙っている……」
ゼンゼが低く呟き、髪の束を背後に流す。タヴは短く頷き、右手のウォーピックを腰の環へ戻すと、背中のクォータースタッフを抜き取って握り直す。そのまま二人は《Wind Soul(風の魂)》の力を解放した。タヴが《Wind Soul(風の魂)》による飛行能力をゼンゼに共有している状態のため、速度は一時的に半減しているが、ゼンゼも魔力消費なしで飛行することが可能となっている。嵐を制御する加護が二人の背に風を纏わせ、滑空と急加速が同時に始まった。
だが、推進効率の差は歴然だった。ネオセリッドは地表すれすれを走り、地面近くの境界層に身を滑り込ませて圧力抵抗を抑え、力場で外殻の輪郭を流線形に整えて後方渦を減らす。さらに圧縮場の連続解放を推進に転用し、矢のように進む。距離はじわじわと開き、やがて差が百メートル近くまで広がると、タヴはある魔法の行使を決断する。空中でゼンゼとの横距離を二メートル以内に詰め、明確に伝える。
「《Dimension Door(次元扉)》であんたも対象に含めて前方へ移動する。準備はいいか」
「いつでもいいぞ」
ゼンゼが顎を引いて応え、タヴは間を置かず詠唱に移る。彼女を対象に含めて《Dimension Door(次元扉)》を発動。空間の裂け目が開き、二人は瞬きの間に前方──ネオセリッドの進路右側の空域へと空間移動した。移動の反動で僅かに揺れる身体を立て直し、ネオセリッドを視界に入れたまま再び追尾に入る。追走は数分間続き、湿った風が頬を叩く。前方に村の屋根群が小さく見えてくる。ネオセリッドは速度を緩めず、そのまま村の中央へと高度を下げていった。
リューデル村──。
小川沿いに木造の家が並び、石畳の道が中央広場へと伸びる。軒先に積まれた木箱や樽、玄関先から運び出された毛布束、広場には荷馬車が五台、慌ただしく向きを変えている。いずれも栗毛や黒鹿毛の馬が一本轅に繋がれ、汗に濡れた首を振って鼻を鳴らした。御者たちが手綱を高く掲げて合図を送り、後ろでは若者が荷台の縄を切って積み荷を軽くしようと走り回る。鍋を叩く甲高い音が警鐘代わりに響き、荷馬車の車輪が石に乗り上げて軸が悲鳴を上げる。誰かの荒い息、誰かの泣き声、何本もの足音が重なり合い、指示と悲鳴が渾然一体になって広場を満たした。
「広場に集まれ!道を開けろ!」
「まだ子どもが中に……誰か、手を貸してくれ!」
「見ろ、あれが来る……でかい、でかすぎる……!」
「女神さま……どうか、どうか……!」
ネオセリッドは《Levitate(空中浮揚)》を低空で維持したまま家並みに真正面から突っ込み、最後に重量を預けて石畳へ着地した。腹面が石を擦って火花が散り、圧縮した力場を前縁に張り出して梁をへし折り、板葺きの屋根を内側から押し上げるように破砕する。乾いた破断音とともに梁が飛び、壁土が粉塵になって舞い、戸口の上の看板が千切れて石畳に叩きつけられた。壊れた家屋の内側から食器の砕ける音が連鎖し、村の骨格そのものが悲鳴を上げているかのようだ。折れた梁や桁の一部は通りへ崩れ落ち、荷馬車の輪の脇に斜めに横たわった。
降下からの着地の勢いを保ったまま、巨体は周囲を観察し、体格の小さい対象を選び取る。群れが混乱している局面で抵抗の弱い個体を先に捕らえるのは、嚥下までの時間と反撃のリスクを最小化する捕食の定石だ。一本の触手が伸び、荷馬車の陰にいた幼い子を絡め取った。
「嫌っ……たすけ──!」
骨の軋む嫌な音と短い悲鳴が空気を裂き、子は胴体へ引き寄せられる。咄嗟に駆け寄った大人が二人、片方は父親らしき男で腕を伸ばすが、横合いから別の触手に叩きつけられて石畳を滑り、頭を打って動かない。もう一人の若い男も触手から子を引き剥がそうとして両腕を差し入れた瞬間、別の触手に胸を打たれて壁へ弾かれ、息が詰まって膝から崩れ落ちた。その直後、母親らしい女性が顔色を失って二人へ手を伸ばし、崩れ落ちそうな足取りで踏み出すが、周囲の者に肩と腰を掴まれて引き止められる。
「放して……行かせて……お願い……」
「だめだ、下がれ!離れろ!」
母親は子の名を掠れ声で呼び続け、もがく腕は震えるばかりで届かない。涙と土埃が頬に筋を作り、混乱と絶望が列へ伝播していく中、子どもの身体は巨大な口器に呑み込まれた。柔らかな肉が圧縮され、喉奥へ消えるまで一呼吸とかからない。上空で接近中のタヴとゼンゼは進路を切り替え、距離を詰めながらその一部始終を見届けるしかなく、子が喉へ消えてから二十秒ほどで戦域の真上へ到達した。二人は表情を動かさない。タヴはわずかに息を整え、ゼンゼは握った手の角度を変えるだけだ。視線はすぐに戦域へ戻る。
(呑み込まれてから既に十八秒が経過……子どもは体格が小さく抵抗が弱い。吐き出させる前に消化されるか、窒息で死亡するだろう)
胸の底へ沈む重さを押し込み、タヴは即決した。
「ゼンゼ、呑み込まれた者の救出は不可能だ。《Mind Blank(空白の心)》の影響で狙われにくい俺が避難を誘導する。あれを人の列から引き離してくれ」
「わかった。正面で奴の意識を引きつける」
ゼンゼは即座に地表近くまで降下し、瓦礫と荷馬車の間を斜めに移動してネオセリッドの正面へ回り込む。長い髪が盾と槍へ同時に形を変え、巨口と触手の間に割り込んだ。タヴは一時的に高度十メートルの空域に留まり、村の中央から北西へ抜ける導線を見定める。
「北西へ走れ!この標に沿って進め!」
タヴは《Minor Illusion(初級幻術)》で、通りに倒れ込んだ折れ梁の面や門柱の側面に、矢印の板そっくりの静止した標識を出現させる。角の陰で身を縮めていた若い男が、半信半疑の声で叫んだ。
「印が出た、こっちだ!」
列の進みに合わせて標識を随時置き換え、迷いやすい角だけに出す。続いて斜めに滑空して高度を落とし、地表近くで《Light(光)》を一本の木の棒に触れて付与する。それを村長に手渡し、タヴは短く告げる。
「村長、これを持ってくれ。周囲を照らせる。胸の高さで掲げて先頭を頼む」
「あなたは大陸魔法協会の……一体何が──いえ、助かります。私が先頭に立ちます」
村長は一瞬だけ事情を尋ねかけたが、すぐに首を振り直した。棒を受け取って応じると、後方に声を張る。
「皆さん、私の後ろに続いてください!離れないでください!」
光の棒がぱっと白く広がり、最前列の足元から先の交差までをはっきり照らす。眩しさに目を細めた女が、戸惑いと安堵の混じった声を漏らした。
「道が見える……!」
明るい光の輪が足元を満たし、その外縁の薄明が次の角までの輪郭を浮かび上がらせる。タヴは再び高度を取り直し、上から全体の流れを監督した。個別に迷う者には《Message(伝言)》──指をさした相手にだけ囁きが届き、相手も小声で返せる魔法──を送る。耳元に響いた彼の声に驚いた老人が、思わず周囲を見回した。
「空から声が……耳元で聞こえる……」
タヴは通りに散った人影を指し示しながら、次々と声を投げる。
「あんたは右へ。荷馬車の影を抜けたら、矢印どおりに直進して走れ」
「子どもは抱えたまま行け。前だけ見ろ」
加えて倒れた小箱や散らばった工具は《Mage Hand(魔道士の手)》で脇へ跳ねて足元のつまずきを除く。閉ざされた扉のかんぬきや外れた掛け金は遠隔で外し、閉鎖箇所による渋滞の芽を摘む。重いもの──広場の東側では、倉庫前に馬具を外され積み荷を降ろした空車の荷馬車が二台寄せてあり、さらに先ほどネオセリッドが屋根を破砕した際に通りへ落ちた折れ梁──は《Telekinesis(念動術)》で道端へ移動させ、退避の通路を確保した。続いて避難列に付く荷馬車の運用を組み替える。先頭は人が担い、荷馬車は決して出さない。タヴは各御者へ《Message(伝言)》で指示を飛ばす。
「空車は進路の外側で固定して、動かす車は列の中ほどに配置。馬は列外の路肩を別走させてくれ。先頭は徒歩で取る」
耳元で急に声がしたように響き、御者たちは一瞬だけ肩を跳ねさせて周囲を見回す。上空のタヴに気づくと、互いに短く頷き合い、口の中で囁くように「了解」と返す。手綱を引いて馬を人の列から外へ導き、若者たちが声を合わせて車体を押し、搬送用の二台を中程に差し込む。残る一台は後方支援に回し、要支援者の回収に備える。空車は外側の路肩に据えて固定の壁とし、通行幅を狭めない角度で車輪を止めた。馬は鼻を鳴らし、鉄の蹄で石を叩きながら路肩を別走する。合図に合わせ、荷馬車は歩速に合わせて発進と停止を繰り返す。
さらに《Prestidigitation(奇術)》で小さな鐘の音を要所に一瞬響かせ、列の注意を次の曲がり角へ誘導し、壁面には小さな印を一時的に残して迷いを減らす。タヴの指示は短く冷静だが、その先の道筋はかならず視覚と合図で裏打ちされる。怯えきった老人が幻の標へ足を向け、泣きじゃくる母親が子を抱き直しながら光の棒の輪を追う。男たちは荷馬車の舷に肩を入れて押し、御者は列外の馬の鼻面を撫でて落ち着かせ、狭い地点では互いの肩を支え合いながら隊形を保った。
その間、ゼンゼは巨体の前面に張り付き、髪の盾で触手の薙ぎを滑らせる。髪の槍が縫合跡の継ぎ目を狙って突き込まれた瞬間、ネオセリッドの周囲に薄い精神障壁が波打ち、刃先が弾かれる。透明な膜が表層に起伏を作り、攻撃の角度をずらす。ゼンゼは軌道を変え、連撃の三手目で同じ継ぎ目を貫く。鈍い裂音、粘液の飛沫。だが次の突きは再び障壁に滑らされ、触手が反撃にうねる。
「こっちだ」
ゼンゼは低く言い、髪の束で石畳を強く打って振動を刻み、空気を叩いて圧をかける。視覚に頼らぬ《Blindsight(盲視)》相手には、動きと衝撃で存在を焼き付けるのが有効だ。右手の避難列へ伸びかけていた触手が、その振動に引かれて彼女の方向へ軌道を変えた。
しかし、そのままでは触手の振り抜きが列の前縁を斜めに横切るため、タヴは上空から《Telekinesis(念動術)》で屋根の折れ梁を斜め前方へ引き下ろし、触手の進路の直前に落とす。先端が梁を叩き割って粉塵が上がり、衝突の反動で触手の角度は外側へ跳ねた。刃のような打ち込み線は壁面側へそれ、ゼンゼの正面で受けられる態勢に収まる。
「広場の外周へ抜けろ!家の陰に留まるな、走れ!」
タヴは《Message(伝言)》で先頭の村長と要所をつなぎ、「次の角で左。列は二列を維持」と具体的に伝える。同時に、列の最後尾に付いた屈強な粉挽き屋の男へも声を飛ばした。彼は最後尾の見守り役として、遅れる者を拾い上げ、転倒者を肩に担ぎ、開け放たれた扉を閉じ、人数を数えて列の間延びを防ぐ役目だ。
「最後尾を頼む。十歩ごとに前の人数を数えて、横道と背後を一瞥して取り残しがいないか確認してくれ。落伍者は肩に担いで後方の荷車へ送れ」
「任せろ!おい、間を詰めろ!離れるな!」
転倒しそうな子どもには《Mage Hand(魔道士の手)》で背を支え、落ちた靴は同じく《Mage Hand(魔道士の手)》で素早く拾い上げて持ち主の手元へ押し付けるように渡し、進路上の障害を即座に取り除く。恐慌の波は、指示と標識、そして《Light(光)》の輪に沿って次第に流れへと変わっていく。
タヴは避難誘導をする間もネオセリッドを観察し、微細な変化を拾う。外殻には先程の損傷がいくらか塞がり、縫い目のような歪んだ再生痕が節間に走っている。粉塵に濡れた甲殻はところどころ新しい艶を帯びているが、腹部から胸腔へつながる酸噴射系──導管と噴出口、弁様の可動部──は依然として不活性だ。口縁には粘度の高い残滓が小さく泡立つだけで、射出の兆候はない。冷えで増した粘りと詰まりが残り、作動圧が立ち上がっていないのが上からでも視認できる。
(再生している……本来の生態には即時の回復はないはずだ。驚くべき変化だが、付与か適応かはまだ断定できない)
外殻表層が縫合めいた修復を示す一方で、酸噴射系だけが一貫して不活性であるという部位差があり、再生が働く領域に偏りがあると推測する。自己再生は不完全で、酸による面制圧は現時点で復帰していない。いずれにせよ、触手による拘束と呑み込みは健在で、《Psionics(超能力)》由来の術も引き続き脅威だ。
(まずは行動の拘束と、進路の固定だ)
タヴは退避導線の外側に、荷馬車や折れ梁を《Telekinesis(念動術)》で組み替えて物理の壁を連ねる。触手が人の列へ伸びるたび、梁が横から引かれて軌道を逸らされ、荷馬車が押し戻され、狭い角度しか取れなくなっていく。ネオセリッドは地に腹を据えたまま力場で身を前へ押し出し、瓦礫を押し潰しながらゼンゼへ圧をかける。至近で受けるゼンゼも、髪の盾に伝う粘りの変化と殻の新しい艶で再生の兆しを捉え、突きの入りを一段浅く修正した。
「お前の相手は私だ」
ゼンゼは髪の盾で正面の薙ぎを受け、わずかに空いた側面へ踏み込む。槍に変えた髪が継ぎ目へ突き入る。精神障壁がまた波打ち、刃先は深度を失う。それでも彼女は間を置かない。二撃、三撃と角度を変え、障壁の波形が遅れた瞬間に刃が肉へ滑り込む。巨体が身を捩り、地面の石が軋んだ。広場の端で、村人の叫びがさらに上擦る。
「でかいのが来るぞ!伏せろ──」
「子どもを渡せ!俺が抱える、走れ!」
「見ないでいい!前だけ見て進め!」
タヴは振り向かず、《Minor Illusion(初級幻術)》で回廊の角に新たな矢印の板を置き替え、《Message(伝言)》で最後尾の男へ短く告げる。
「そのまま道なりに進んでくれ。角の標識を過ぎたら左だ」
「ああ、あんたも気をつけてくれ!」
男がこくりと頷き、列は北西の外れへ吸い込まれていく。ネオセリッドの触手が回廊の外面を打つたび、積み上げた材が悲鳴を上げるが、《Telekinesis(念動術)》が荷重を受け、押し返して持たせる。ゼンゼはその横で、なおも巨体をこちら側に釘付けにしていた。
だが、その動きが唐突に変わる。ネオセリッドの輪郭がわずかに撓み、短い距離で位置が切り替わる。路地の柱と荷車で作った壁を、四度連続で抜けてきた。次の瞬間、避難列の正面──北西の門へ伸びる通りの真ん前に、灰紫の胴が出現する。
(《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》から抜け出した時と同じだ。短距離の瞬間移動を繋いでいる。あれは自力によるものじゃない……外から力が流れ込んでいる)
空気の手触りが変わった。風はないのに衣が内側へ吸い寄せられ、耳の奥で低い唸りが揺れる。遠いどこかから見えない誰かが杯に注ぎ足すように、あの生物へ何かを与えている──根拠はない。ただ、加護にも祈祷にも似た嫌な追加の気配だ、とタヴは直感した。
先ほどまで敵の正面を抑えていたゼンゼが、タヴへ向けて短く警告を飛ばす。
「ネオセリッドが先頭に向かったぞ!」
避難列の中で村人のざわめきが跳ね上がる。
「前を塞がれた!」
「何なんだあの怪物は!」
タヴは迷わなかった。《Thunder Step(雷鳴の一跳び)》を詠唱し、その場に雷鳴と衝撃風だけを置き残して前線へ瞬間移動する。出現と同時に《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》が身体を横へ押し、右手の角から滑り込んで、避難列の先頭とネオセリッドの間の空域に身を据える。低空のゼンゼも屋根の縁すれすれを滑空し、長い髪を伸ばして街灯の腕木に一度巻き付けると、引き寄せる力を使って前方へ自身を送り出す。頂点で髪を解き、振り子の推進をそのまま速度に変えて、一気に間合いを詰めた。
その刹那、ネオセリッドの胸郭脇で空気がきしみ、砕けた瓦片や砂がふっと浮く。周囲の布が同じ方向へ引かれ、通りに見えない力線が走った。タヴはそれを視界の端で捉え、《Telekinesis(念動術)》だと判断する。大きな力場の手が先頭全体をまとめて掴みに来る。衣が一斉に引かれ、列の肩が揃ってのけぞる。村長の腰も浮き、光の棒がぶれた。
「踏ん張れ!互いの腰帯を握って壁際へ寄れ!」
タヴは即座に短く指示を飛ばしつつ、自身の《Telekinesis(念動術)》で逆向きの手を組む。門柱と空車の車台を指の支点にして押し返すと、見えない手同士が噛み合い、板片が真っ直ぐ裂け、看板の鎖がきしむ。地面の砂塵が帯状に走り、石畳には蜘蛛の巣状の亀裂が広がった。
ネオセリッドの胴がわずかに沈み、力の向きが下へ切り替わった。圧が脈を打って増し、空気そのものが沈む。タヴの周囲の風が潰され、《Wind Soul(風の魂)》が持ち上げる浮力と《Telekinesis(念動術)》の重圧が正面から衝突した。風が渦を巻いて逆流し、ローブが背へ貼り付く。空中にいたタヴは胸から下を押し伏せられ、石畳へ膝を落とした。通りの村人も下向きの余波に足を取られ、数人がよろめいて列が揺らぐ。
ゼンゼは圧の流れを見切り、高度を取って真上からの強襲に切り替える。触手の範囲外へ出たのち、再生による縫合痕の継ぎ目へ突入角を取って攻撃するつもりだ。だがその直前、ネオセリッドの頭部の襞が開き、口腔の奥で低いうなりが膨らむ。狙いは上空──前方上に扇状の歪みが走り、周囲の空気が白く撓んだ。砕けた瓦塵が薄い膜のように持ち上がり、屋根の金具がかすかに鳴く。次いで白い圧が放たれた。《Mind Blast(精神爆砕)》が直上へ撃ち上がる。縁の波が屋並みのさらに先まで薄く響き、地上の何人かが思わず耳を押さえるほどの重さがあった。
直撃。ゼンゼの額の前で光景がぱきんと割れたように歪み、長い髪が外へ散るように広がる。喉からかすれた息が一つ漏れるだけとなり、瞳が焦点を失い、指先が痙攣する。こめかみの血管が脈打ち、鼻筋に赤い筋が細くのびた。頭蓋の内側を擦られるような痛みが彼女の意識を焼き、動けない硬直が全身を縫い留める。ただ《Wind Soul(風の魂)》が姿勢を支えて落下だけを防いだ。地面へ片膝をついたまま力場に押し伏せられているタヴは、その異様を見上げて考えを巡らせる。
(《Mind Blast(精神爆砕)》だと……!本来奴が扱える能力じゃない。それに通常より波の収束が異常に強い。適応による進化か、改造によるものか……)
《Mind Blast(精神爆砕)》は魔法ではない。マインド・フレイヤー種が思念そのものを震源にして放つ、広錐状の生の《Psionics(超能力)》だ。受けた者は、知力でその思念を受け流せなければ精神を灼かれ、しばし身動きが止まる。ネオセリッドは確かにマインド・フレイヤーの幼生が変異した末の存在だが、群体の脳たるエルダーブレインから切り離され、獣性へ膨張する過程で精緻な思念技は失われる。残るのは酸息と粗い力場などの大味な働きで、《Mind Blast(精神爆砕)》のような波形は通常は持たない。
ゆえに今の発現は、自己進化か構造改変を疑うほかない──タヴがそう結論づけた矢先、列の中で年配の男が震え声を上げた。
「長髪の魔法使いが動かねえ……化け物に呪い殺されちまった!」
ゼンゼの落下もせず、空中に貼り付いたまま微動だにしないその姿は、彼の目には縫い止められた呪いの像のように映ったのだ。周囲の視線が一斉に空へ向かい、張り詰めたざわめきがきしんで崩れ、悲鳴混じりの喚声へと変わる。
「大丈夫だ、死んでない!」
タヴは押し潰されかけた体勢のまま咄嗟に叫ぶ。恐慌を止めるための言葉だったが、声に余裕はなく、自分でも状況が悪いことを骨の軋みと足元のひび割れで理解していた。
「何が大丈夫なんだ!あんたも潰されそうじゃないか!」
別の男の叫びが被さり、不安が波のように広がった。子どもの泣き声が上ずり、「こわい!」と悲鳴が混ざる。路肩を別走していた馬が耳を伏せて横に跳ね、御者が手綱を強く締めて押さえ込む。鉄の蹄が石を打ち、荒い鼻息が列の背に伝わった。同時に、掴みの圧力がもう一段上がる。ネオセリッドの周囲で空気が鈍く唸り、下向きの力場が強まった。タヴの肩が沈み、背がきしむ。見えない手が地面ごと押し下げるように働き、村長の腰と肩を地面へ叩きつけにかかる。
前列が一斉に膝を打ってうずくまり、石畳の目地から粉塵が吹き上がった。力の向きが下へ切り替わった余波で、列の中ほどでも足がすくみ、数人が尻もちをつく。路肩の馬も前膝を折りかけるが、御者が体を入れて持ち直した。
「足を肩幅まで広げて互いの肩を掴め!列は崩すな!」
タヴは《Telekinesis(念動術)》の壁越しに、最低限の動きを具体的に叩きつける。石畳の表面に亀裂が走り、彼の靴底が軋む。村人の誰かが「終わりだ……もうダメだ……」と呟き、別の者が「ああ、女神様!」と叫ぶ。恐慌が喉元までせり上がるのを、彼は自分の声で断ち切った。
「俺は二十等級に至った最上段の魔術師だ!地底の蛆ごときが道をふさぐな!」
普段なら言わない大仰な言葉だ。だがタヴは承知している──この身の魔法は感情に呼応して伸びる。士気を叩き上げ、同時に自分の魔力の立ち上がりを一段押し上げるため、あえて吐き捨てた。
タヴは内側の流れを力でねじ戻す。押し返しが一瞬たわみ、握っていた手応えが抜けかける。その崩れを自分の魔力で繕い直し、同じ押しを即座にやり直す。《Magical Guidance(魔法の導き)》──失敗の流れを一滴の魔力で振り直し、今この場で成功に引き寄せるための矯正だ。だが、なお分が悪い。靴底が石を削り、膝が滑る。
「《Silvery Barbs(銀の棘)》!」
タヴは喉で噛むように吐き、棘の呪を突き立てる。見えない相手のうまくいっている手にわずかな逆流を差し込み、同じ動きをもう一度やらせるように仕向ける。同時に、その反動で生じた冴えをゼンゼへ送る。次に彼女が抗うときに自力で意識を取り戻す助けになるはずだ。
そして崩れた一拍を逃さずタヴは喉奥で短く符を切り、指先で逆位相の印を弧に描く。《Dispel Magic(魔法解除)》の波が反転のうねりとなってネオセリッドの周囲へ叩きつけられた。空気が低く唸り、ゆがんだ力場の表面に輪紋がいくつも走る。刹那、鈍い破裂音とともに見えない大きな手の輪郭が砕け散り、圧が一気に剝がれ落ちる。村長の身体から力場が抜け、タヴの《Telekinesis(念動術)》が即座に受け手へ回り、前列の足裏に重さを返した。石畳の亀裂からこぼれた砂がぱらぱらと落ち、押し潰されかけた膝が持ち上がる。
「姿勢を低くして壁際に寄るんだ。合図まで動くな!」
タヴが短く号令すると、村長が光の棒をしっかり握り直し、低い声で続けた。
「皆さん、私の後ろで低くしてください。離れず、その場を保ってください」
右手の角では、恐怖で足が固まった者が数人、腰を落とせずに立ち尽くす。泣き叫ぶ子を抱えた母親の肩が震え、誰かの荒い息とすすり泣きが重なる。最後尾の粉挽き屋の男が「しゃがめ!肩を合わせろ!」と伝声し、背に手を置いて一人ずつ壁際へ押し下げる。村長は光の棒を低く振って範を示し、タヴは《Message(伝言)》で要所へ短い合図を飛ばす。数呼吸のあいだ、ばらついていた姿勢が少しずつ揃い、光の周りから順に膝が落ちた。嗚咽や囁きはまだ残るが、足の向きだけは北西の門へ揃う。
しかしタヴが膝を起こした矢先、前方の空気が押し広がるのを感じた。耳の奥が圧で詰まり、歯に鈍い響きが乗る。
(まさか《Mind Blast(精神爆砕)》か……!?再充填が早すぎる……)
さきほどゼンゼに放ったばかりで、通常なら再発動にはまだ時間が必要なはずだ。だが奥歯に触れるような圧が再び近づいていた。確証はないが、次は避難列に向けて放たれると彼の勘が告げている。迷っている暇はない。
タヴは短く自分の守りを洗い直す。《Mind Blank(空白の心)》の影響下であるため精神への損傷と読心は遮れるが、精神波が強制する思考の麻痺による硬直は防げない。それに抗うのは知力で、理屈の守りになる。ソーサラーである彼は意志と感情で魔法を行使する分、その耐え方は得意ではなく、抵抗に失敗することもあり得る。ましてや抵抗訓練を受けていない村人は脳を破壊されて、多くの者が即死するだろう。
(攻撃を通してしまえば前列は死体の山になり、後列も恐怖で崩れて踏み荒らしになる……ここで止め切るしかない)
攻撃を完全に遮る手段として、動きを止める魔法が脳裏をかすめる。《Hold Monster(怪物金縛り)》や《Dominate Monster(怪物支配)》──いずれも相手の判断の芯に楔を打つ魔法で、対象の自由を奪えるが、精神力で跳ね返される場合がある。ネオセリッドは本能的な判断力は鈍くないうえに、高い精神抵抗力を元から備えている。生得の《Magic Resistance(魔法抵抗)》で魔法そのものも弾きやすい。
さらに群れを統べるマインド・フレイヤーはこの手の支配系の脅威を承知しており、制御不能を何より嫌う。ネオセリッドが敵に操られれば自分たちに甚大な被害が出るからだ。ゆえにこの個体も兵器として運用する段階で対策を施されていると見るのが妥当で、生来の抵抗に仕込みの防護まで重なるなら、タヴの練度をもってしても術が通らない可能性は高い。賭けは避けるべきだ
タヴは即決した。維持していた《Telekinesis(念動術)》の集中を切り、その場で詠唱に入る。
「《Wall of Stone(石の壁)》」
《Wall of Stone(石の壁)》は範囲内の指定地点に実体の石壁を瞬時に生成する魔法だ。生き物や物体の占有空間とは重ねられないため、石畳や門柱、家屋の石基礎へ縫い合わせるように固着して支えを取るのが定石で、形や連結も術者がその場で組む。発動後は術者の《Concentration(精神集中)》で形を保つ必要があり、この集中が途切れれば壁は消える。だが、十分間集中を持続させれば壁は術から離れて定着し、以後は通常の石造物として残る。
タヴは精神圧の発生源──ネオセリッドの口のすぐ手前に高い一枚板を立て、左右に翼を出す設計を一息で描く。縦三メートル、横六・一メートル、厚み七・六センチの石板を十枚。中央のカーテンに八枚を縦向きで連結して長さ二十四メートル・高さ六・一メートルの壁を作り、残り二枚を両端に三十から四十五度で外開きに取り付け、回り込みの角度を潰す。口先には触れず、射線だけを切断する位置だ。
石が地の骨に噛み合うやいなや、目に見えぬ波が正面から叩きつけられた。乾いた雷のような衝撃が壁全体を震わせ、砂が霧のように舞い上がる。白い塵に光の棒の輪が滲み、村人の頬や髪が風圧で震えた。広がるはずだった扇の圧力はそこで潰え、避難列は一撃をやり過ごす。
すぐに灰紫の胴が咆哮を漏らし、触手が正面を連打する。継ぎ目へ細いひびが走り、粉塵が糸を引く。本来なら側面からの回り込みや低高度の浮上で越えられるはずだが、ネオセリッドは知能が低く、直前に生じた刺激へ強く引かれる捕食特性を持つ。突如出現した新たな障害物を「経路を塞ぐ獲物由来の敵対要素」として即座に破砕対象に固定する。壁の向こうからは肉が石を叩く鈍音が途切れず響き、地面の細かい破片が列の足元へと転がってくる。
「何だ!?急に壁ができたぞ!」
誰かが驚いて息を吐き、別の誰かは肩を震わせて泣きながら路肩の空車の側板に手をつく。転がってきた石片に手を伸ばしかけた子の手首を、母が慌てて掴んで止めた。
「下がってください。そこは危ないので触れないように」
村長が光の棒を低く掲げ、声を落として列をなだめる。鼻息荒い馬が路肩で前脚を踏み替え、鉄の蹄が石を叩いた。
(避難を完了させるには、奴の動きを完全に止めるか、一時的に遠くへ退ける必要がある)
タヴは呼吸を整え、石の向こうで続く打撃音と、翼の端に立つ粉塵の尾、こちらへ転がってくる微細な破片の感触から壁の保ちを測る。これは一時しのぎに過ぎず、短時間で削られる前提だが、その短い間に列が少しでも移動できるなら命綱としては機能する。とはいえ、避難完了まで《Wall of Stone(石の壁)》などで押さえ込み続けるのは現実的ではない。瞬間移動系の魔法で人々を往復搬送する策もあるが、この場には二百人ほどがいる。どちらにしても全員を安全圏へ送り切る前に魔力を使い果たすだろう。
もう一段階の止め手で完全に縫い留めるか、それとも別手段で一時退避させるか。頭の中で選択肢を並べ替えながら、タヴは視線だけで列を撫でる。背後の最後尾では粉挽き屋の男が「まだ立つな、低く」と繰り返し、右手の角では村長が光の棒を低く振って足並みを抑える合図を送る。足音が幾重にも重なって靴が石を擦る連続音が波のように寄せては返り、正面では石の表皮が欠ける甲高い音が間断なく続く。状況は依然として悪く、次の手を決めねば持たない──そう腹を固めかけた、その刹那。
頭上で薄い光が輪のようにほどけ、冷たい視線の気配が街路を撫でた。壁の上縁を越えて灰紫の頭部へ何かが落ち、ネオセリッドの触手が一拍遅れて強張る。空気が一瞬だけ固まった。
*
数十秒前、ゼンゼはネオセリッドの上へ抜ける角度を取っていた。再生の継ぎ目を見て、そこへ攻撃を落とすつもりだった。頭部の襞が開くのを視界の端で捉えたが、避ける猶予はなかった。口腔の奥に重いうなりが溜まり、前方上に扇形の白い歪みが走って空気が一気に硬くなり、屋根の留め金が鳴って粉じんが浮いた次の瞬間、額の内側で光が弾けて四肢への命令が切れ、息だけが浅く続いていた。
《Wind Soul(風の魂)》が抱えてくれて落下は防げたが、身体は命令を受け付けない。目は開いているのに視界は照明のない室内のように暗く、上下の感覚が外れて胸の内の焦りだけが増していく。出口はどこだ、右か左か。このまま動けなければ次の攻撃で殺される──そう考えた瞬間、頭の奥が焼けるように熱くなり、歯が触れて小さく鳴った。
焦燥に襲われる中、指先の前に一本、糸のように細い光が現れた。微かな温度を帯びたその糸が手首をそっと引き、誰かが先に立って振り返らずに導いている気配だけがある。声はしないが「こちらだ」と告げる意思だけは明確で、ゼンゼはその方向へ重心をわずかに預ける。体は動かないのに、視界だけが細い糸に引かれて滑った。
景色が反転する。上から見下ろしている。自分の知っている台地だ──北端の丘の折れ、畑の区切り線、川の緩い曲がりまで位置は合う。だが畑帯は黒く焦げ、土手は南北に裂けて抉れ、川面には薄い灰が広がっていた。西の尾根の方角から乾いた炸裂音が間を置いて届き、低い震えが地面を伝って胸骨に触れる。谷を渡る風は煤と焼け草の匂いに油と薬剤の刺す匂いを混ぜ、舌の奥がざらつく。ここまで壊れた景色を、彼女はこの場所で一度も見たことがない。
(この幻視は……ネオセリッドの仕業ではないな。頭の内側を押さえつけるような強制感がない)
川の浅瀬の右岸には布と木の柱を継いだ粗末な天幕が密に立ち、焚き火の跡や転がる水桶、濡れた衣を絞る女の手、子どもを抱えた母親、足を引きずる老人、荷車を押す男の背が並ぶ。すぐ近くで重い衝撃が連続して地面を揺らし、川面が細かく震える。尾根の方角で白い閃光が断続し、遅れて乾いた報音と圧縮空気の唸りが届く。最初は何が起きたのか判じかねるが、光音の時差と過圧の重さから弾着と爆風だと理解が追いつく。天幕の布がはためいた瞬間、人々は一斉に川沿いの道へ殺到し、荷を掴み損ねた者が振り返って戻ろうとして別の列とぶつかる。道は人と荷で詰まり、叫び声と泣き声が風に混じる。
地表に低い唸りが走り、砂と草がふわりと持ち上がっては落ちる。川岸の天幕の端が風でめくれ、掛けてあった鍋の火が揺れ、子どもがそれに驚いて母の衣を掴む。川向こうの斜面を金属の車体が進む。わずかに浮き、下腹に並んだ噴口が空気を押し出して地面との間に薄い層を作るのが見える。はじめて見る仕組みだ。響きも重さの伝わり方も、自分の世界の道具とは違う。
尾根とくぼ地の間で、遠距離攻撃の応酬が始まっている。尾根上では銀の装甲戦列が低い砲座に念動式の投射器を据え、力場を圧縮した衝撃杭を短い間隔で送り出す。放たれた瞬間に空気がわずかに歪み、柱のような透明の筋が走り、数呼吸遅れてくぼ地の土塊が跳ね上がる。対するくぼ地側では、晶質の増幅冠と共鳴盤を担いだ小隊が列を組み、前面へ向けて指向性の精神波を延伸させる。見えない壁が押し返すように迫り、尾根の斜面に沿って砂が薄く流れる。衝撃杭が着弾するたび地面が震え、精神波が通るたび胸郭の内側が縮む。金属の焦げた匂いに乾いた刺激臭が混ざり、押し合う力が目に見えない面になって台地を往復する。砲と呪の拍が交互に重なり、遠い雷鳴の連打になって丘を打った。
右の尾根線では、銀の装甲服を着た部隊が壕から壕へ短い距離で交互に飛び出し、片膝を着いて射撃、次の壕へ移動を繰り返す。兜の庇から伸びる細い導線と側頭部の薄い板が光を反射し、視界と指示を共有しているのが動きで分かる。隊列の間に立つ指揮役は背に長い銀の剣を負い、接近戦になる直前まで決して抜かず、合図だけで列を撫でるように動かす。頭上には細身の飛行艇が旋回し、船首の槍状突起で通り道をマーキングしてから、腹に据えた連装の対空弩で空域を扇状に掃射する。斜面下の敵が遮蔽物の影ごと崩れ、乱れた者には近距離で銀の剣が一度だけ閃く。見えない圧、すなわち《Telekinesis(念動術)》の面で押して必要な場面だけ刃を入れる──ギスヤンキだ。
左のくぼ地では、奇妙な装備に身を固めた灰色の小隊が静かに前進する。頭頂には晶質の増幅冠、胸と肩には神経伝導の紋を走らせた装甲衣をまとい、手には共鳴盤と投影器を携える。腹に紋様を刻んだ殻の小舟が低く漂い、艦腹の模様が脈動するたび地上の列が揃って一歩進む。彼らは横一列に展開し、前方の空気をゆがませるだけで前面の兵が一斉に膝をつく。顔を歪めてこめかみに手を当てる者、手から武器を落とす者。列の脇では目の焦点を失った歩兵が混ざり、同じ間隔で発砲し、同じ角度で身を伏せる。長い指を持つ影が滑るように移動し、肩や後頭部に触れられた兵の瞳に短い光が沈む。広がる圧は《Mind Blast(精神爆砕)》の波で、ところどころで個々の兵に《Dominate Person(人物支配)》が掛けられている。指揮は上から流し込まれ、志気ではなく接続で保たれている──マインド・フレイヤーだ。
川の浅瀬の天幕列では、さらに混乱が広がる。女が鍋を蹴って立ち上がり、子どもを抱え直して列の外へ出ようとするが、別の家族と肩がぶつかって倒れかけ、荷車を押す男は川上へ抜けようとして流れの速さにすぐ足を止め、老人は子どもを背に回して布で縛ろうとするが手が震えて結び目が決まらない。天幕の支柱が一つ倒れ、布が道に垂れて通り道を塞ぐ。人の列が動線を塞ぎ、逃げ道が細っていくのが上からはっきり見える。
そのとき、風の向きが一段変わり、上から圧が降りた。川面が細かく逆立ち、天幕の縄が一斉に鳴る。影が広がるのを見て人々が顔を上げると、雲の層が内側から押し広げられて割れ、円と角が交差する薄い幾何の輪が幾重にも展開する。輪の縁は白くかすかに火花を散らし、空気が乾いた臭いを帯びる。やがて輪の中心が水面のように揺らぎ、そこから均一な藍色の艦影が次々と出現した。
艦は雲を払い、規則正しい間隔で横隊を作り、舷側の標識灯が同じリズムで点滅する。船体の側面には白い文字で「MSA」と記され、腹の舷門が同時に開く。雷鳴ではないのに腹に響く低い振動が広がり、ゼンゼは無意識に息を詰める。次の瞬間、落ち着いた声が広帯域で降り、言葉の響きはこの世界のものではないのに、不思議と意味だけが頭に入ってくる。
「This is the Multiversal Stability Authority to the Githyanki Host and the Illithid Conclave. Pursuant to the Accords on the Preservation of Independent Planes and the Interplanar Non-Aggression Compact—specifically Article VII, Section 3, and Article XII, Section 1—you are hereby notified that your armed presence constitutes unlawful intrusion and hostile action within a sovereign demiplane. Cease operations, disengage, and prepare for supervised withdrawal along designated corridors. Failure to comply will—(こちらは多元安定機構、ギスヤンキ軍およびイリシッド評議会に通告する。独立次元保全協約および平面間不侵攻協定──第七条第三項ならびに第十二条第一項に基づき、貴公らの武装展開は主権半次元界に対する不法侵入かつ敵対行為と認定する。直ちに行動を中止し、指定回廊での監督下撤収に備えよ。不履行の場合は──)」
返答は砲火だった。言い終える前に艦の右舷へ白熱した塊が叩きつけられ、乾いた閃光が花開く。船腹が硬く鳴り、外皮に六角の光格子が一気に走って投影盾が重なり、破片と熱が横へ散った。右の尾根からギスヤンキの斜角射撃が空域を切断し、左のくぼ地では殻の小舟が腹の紋を強く光らせて精神波を広げる。機構の放送が一瞬だけ揺れ、即応の短い指示に切り替わる。
「Hostile fire detected. ROE Protocol Twelve enacted(敵対射撃を確認。交戦規定プロトコル・十二を発動)」
同時に艦腹の懸吊点から切り離された降下艇が、側面に並ぶ姿勢制御の制動噴口を逆向きに吹かせて青白い噴炎を吐き、機体を押し上げながら高度を落とす。後部ランプが開き、車輪を備えた装甲車が連続で滑り出る。先頭列は低車高の対空車両で、砲塔には連装砲と魔導安定器。後列には角度のついた迫撃器を抱えた支援車両が続く。別の降下艇からは歩兵が降り、路面に描かれた転移標の輪に順番に触れて消える。ほどなく離れた路地や橋頭に同じ輪が開き、分隊が姿を現して異常な速度で展開する。
地上隊は布のような透明盾を前に張り、縁を走る光で面を補強しながら角を一つ曲がるごとに短時間だけ面射撃を行い、また前進する。頭上では偵察用の小型機械と使い魔が同じ高度で併走し、地上へ短い印を落として着弾修正を続ける。機構の護衛艇は上空に留まり、対空砲の掃射で扇形の拒止面を張って空域の進入軌道を次々と切り落とし、耳を叩く衝撃と硝煙の匂いがゼンゼの舌に苦さを残す。
ゼンゼは気づいた。これは起こり得る未来の一つを誰かから見せられているのだと。もしこの未来が現実になったら、誰が止められるのか。自分は一級魔法使いだが、所詮は一人の人間にすぎない。この規模の戦場で自分にできることなどあるのかと自問した。怖いのではない。判断の軸が足りない。見たことのない力がいくつも押し合っているからだ。
右の尾根では銀の剣がついに抜かれ、刃が一度だけ光ると壕の縁に掛かった手が落ち、指揮役はすぐ剣を背へ戻して手信号だけで隊を滑らせる。飛行艇の腹からは増槽のような箱が投下され、空中で展開した網が殻の小舟の通り道をひとつ塞ぐ。左のくぼ地の黒い殻車は短い停止と加速を繰り返しながら圧を送り、殻の小舟は腹の紋を強く光らせて思念の波を広げ、隷属兵はその縁をそろえた歩幅で前進し、均等な間隔で射撃する。列の間を滑る灰色の影が肩に触れた兵の瞳へ短い光を沈めるたび、動きの揃い方が一段階固くなる。
機構の艦隊は同じ通告を一度だけ繰り返し、以後は無駄な言葉を切って外皮に薄い盾層を重ね、外縁の砲をゆっくり角度変更して区画射撃に移る。地上隊は膜の陰で交互に前進し、角を曲がるたび短い面制圧を掛け、迫撃の弾は丘の肩を越えて尾根裏を掘り、上空の小型機は低く回って次の座標を即座に送る。川沿いの低地では機構の隊が橋の手前に光の杭を射込み、流れに向けて盾壁を広げて渡河を拒み、対岸の畑道には車輪の低車が砲口を伏せて横列に並び、車体後部から射出された細い箱が空で開いて小さな羽根のある筒となり、音もなく落下して地面を丸く沈ませる。爆ぜる音より地面が沈む感触の方が強く、前へ出る足を止めるための打ち方だと分かる。
高い空を赤い影が横切る。巨大な翼、根元の赤い鱗、真鍮色に光る角、吐息は熱の筋になって伸び、背には騎手。彼は銀の剣ではなく棘だらけの投槍を束ね、ひとつを投げてすぐ翼を傾け高度を変える。投槍は途中で裂けて細い矢の束に変わり、空の盾面に当たった殻の小舟が傾いて腹の紋が消える。
レッドドラゴンの竜騎──ギスヤンキが重さと速さで空の主導権を奪いにきている。だが機構の護衛艇は退かず、艦腹から伸びた細い柱が空中に小さな枠を並べ、枠の面に淡い光を張って竜の通り道だけを狭める。竜は翼を畳むか道を変えるしかなく、追尾の発射架が枠の縁をなぞって騎手の肩口をかすめる。竜は怒って口を開き、灼熱のブレスを吐く。光の枠はその熱線で波打つが、直ちに新しい層が重なり、空の支配は一度では決まらない。
上空から、先ほどより強い調子で異界の言葉がひとつ降りてくる。艦の外殻に反響して澄んだまま広がり、ゼンゼの耳へは意味だけがはっきり届く。
「You are now designated for forcible removal. We will neutralize and expel you(貴公らは強制排除の対象だ。我々は貴公らを無力化し、この次元から排除する)」
冷たい声だが怒りはない。決められた結末を読み上げるだけの調子で、機構の艦ははじめから返答を求めていないのが分かる。その文言が言い終わるのとほぼ同時に三方向から火が交差し、右の尾根ではギスヤンキの斜角射撃が空域の通り道を断ち切り、左のくぼ地では殻の小舟と殻車が精神圧の投射を重ねて地表を撓ませ、上空の艦列からは対地の間接射撃がまとめて落ちる。衝撃と光が台地の面で一度に弾け、白い閃きが泥と砂塵を巻き上げ、耳の奥が詰まるように痛む。ゼンゼは息を止め、胸郭が自分のものではないかのように固くなるのを感じる。
視界はさらに高く引かれ、盤上の駒のように三つの勢力が動いていくのが一目で分かる。尾根線に沿ってギスヤンキの兵たちが壕と地形の陰を継いで抜け道を刻み、くぼ地ではマインド・フレイヤー小隊が思念の波で穴を広げて歩兵の列を押し出し、機構の部隊は観測光を頼りに間接の打ち込みを重ねて空白を増やす。上空では細身の飛行艇と殻の小舟の編隊が高度をずらしながら追い越し、対空砲が切り取った通り道に弾幕を張る。重ね合わされた砲声が谷にこだまし、乾いた土と硝煙の匂いが風に乗って鼻の奥へ刺さる。遠くで牛が驚いて鳴き、林に潜んでいた鳥の群れが一斉に散る。
ゼンゼは自分の知る地形が線引きされて切り分けられていくのを見下ろし、歯を強く噛み締める。怒りというより、胸の底から込み上げる悔しさに近い。守りきれると思っていた場所が、別のやり方で確実に壊されていく──その現実だけが、はっきりと残る。
機構の装甲車列が横一線に広がり、銃口と盾の板面の向きが外周に揃う。歩兵は手信号で間隔を取り、路上に携行標識を立てて即席の検問所を構築する。上空ではギスヤンキの砲火が白く閃き、遠くでマインド・フレイヤーが撒いた精神波が路地を舐める。巻き込まれまいと、少しでも安全な場所を求めて女が泣く子を抱えたまま検問線へ走り、荷車を押す男が車輪を軋ませて後に続く。先頭の兵が掌を突き出して制止し、別の兵が拡声器を掲げて《Tongues(言語会話)》を通した定型の布告を放つ。
「独立次元保全協約、運用上の中立法第十四条、並びに平面間不干渉憲章第五条に基づき、活動中の排除区域における非同盟民間人への直接支援は禁じられている。各自で速やかに退避行動を実施せよ。機構は非同盟民間人の誘導、輸送を行わない」
「退避って、どこへ!」
女は子の体を肩に抱え直し、面具の黒い遮光板に自分の顔が映る距離まで一歩踏み込み、内側にあるはずの人の目を必死で探す。指先が盾の縁に触れそうになったところで、兵の腕がわずかに押し出され、進路は静かに塞がれた。
「もう大陸全体があいつらの縄張りだよ!私たちはどこに逃げればいいの!」
兵は視線を正面に固定したまま微動だにしない。拡声器を持った兵が同じ一節を繰り返し、盾列の脇では医療班が自隊の負傷者へ一直線に駆け寄る。路上に座り込んだ老人と荷車の男は無言の盾の板面でじりじりと押し戻され、立て札は避難の矢印ではなく「進入禁止」の板ばかりが増えていく。ゼンゼはそこで理解する。彼らは救助に来たのではない。交戦域の外周を固定して火線と退避路を整理し、部隊と物資の通行帯を確保しつつ、非同盟の民間人を戦域に入れないよう立入制限を維持する──多元安定機構の役目は、次元間の干渉を最小化するための封鎖と交通管理だ。
視界の輪郭が粒子になって解け、砲声と硝煙の匂いが急に遠くなる。空の色が一段階薄れ、一本の細い銀の糸だけが前に残る。その糸に指先が触れた瞬間、現実の屋根の線と瓦の光が位置を取り戻し、幻視は静かに閉じる。
彼女は浅い呼吸を意識して整えようとする。暗い部屋のような感覚はまだ残り、出口はどこだと自分に問い直す。細い光の糸はまだ指の前にあり、急かさず、ただ在り続ける。見ろ、順番に見ろ、先に結論へ飛ぶな──台地の端、川の向き、風の向き、煙の流れ。幻視で行われていた戦い方は見たことがなくても、土は同じだ。自分にできるのは、戦い続けることだけだ。それはいつもの仕事と変わらない。
そのとき、声が聞こえた。
「この世界は理不尽に蝕まれ、利を貪る手がその傷を広げている。だが、夜の道はまだ断たれていない。ここに生きる者らが守るべき地であるが、汝らを独りにはしない。私は銀の月光で歪みし道を照らし、歌と剣の舞とともに力を授けよう。試練は苛烈となろうとも、恐れるな──共に踊り、共に立て。汝に、そして汝の仲間に、銀の月の祝福と宵の歌が導かんことを」
闇の奥で薄い光がほどけ、湖の面のように平らな光の上に、ひとりの女の影が一瞬だけ立った。背はすらりと高く、裸足は水を乱さず、長い髪が夜気の川のように流れる。顔立ちは光に融けて見えないのに、こちらを静かに見下ろす視線だけが確かだ。片手には細身の刃、もう一方の手は舞いの所作で空をなぞり、その動きに合わせて周囲の空気の織り目が音もなく揃う。遠いのに近い、軽やかなのに重く揺るがない。ゼンゼは直感する。向こう側の神格だ。名は告げられないのに、世界の深みに届く力だけが、触れた指先の確かさで伝わってくる。
細い光が指の節にふっと触れ、そこに出口があると分かる。ゼンゼは小さくうなずき、身体はまだ動かないのに呼吸は深く入り直り、胸の打ち方が揃い、痺れが皮膚の外へ退いて指に血が戻り、足の甲に風が集まって身体が水平に戻った。重心を前へ送れば戻れる──そう判断して身を預ける。
現実の空が返り、屋根の線と瓦のきらめきが視界に再配置される。白い圧は薄れ、耳の唸りは遠のき、視界の端で極細の銀の線が一度だけ点り、それがタヴの魔法によるものだと理解する。銀の閃きにより、次の一手が成功へ傾く感覚が身体に宿る。ゼンゼは歯を結び、焦点を結び直し、固くこわばっていた指をいったん開いてからわずかに握り直す。胸の奥では、さきほどの声がまだ微かに残っている。胸郭がひとつ大きく鳴り、止まっていた息が深く入る。沈んでいた重さが体の外へ抜け、四肢へ命令がまっすぐ落ちる。視界の縁が静かに合わさり、世界が輪郭を取り戻した。
*
「ったく……次から次へと何が起きてやがる」
それを呟いたのは、上空で風の層を踏むように停止したヴィアベルだ。右手の短い杖の先で円を切り、視線を一点に絞る。眼下には灰紫に光る巨躯がうねっている。太い触手が幾重にも絡み合って山のように積み重なり、表面には小さな棘と節目が走る。中央の頭部は四枚の花弁のように開閉し、内側から鉤の付いた細い触腕が三本、蛇の舌のように伸び縮みする。腹側には黒緑の房が広がって路面を舐め、全体が生き物の結び目のように地を占有している。彼は頭頂から絡みの末端まで、その化け物の全身を視界に収めた。
数十分前にヴィアベルは別の街道の上空で、長い触手を後方に流しながら山稜をかすめる速さで横切る黒影を遠目に捉えた。建物をひと跨ぎで越え、地形を無視する移動。あの速度は、追わなければ誰も止められない。そう判断して彼は《飛行魔法》の出力を最大まで引き上げ、針路を合わせて追尾に入った。途中、腹に鈍く響く連続の低音と地面を撫でるような震動が風に乗って届き、遅れて屋根瓦がばらばらと鳴いて砕け、粉塵が舞い上がるのを何度も目にしたため、雲幕を潜っては風向と高度を小刻みに変え続けた。
到着した今、地上の状況はひと目で把握できる。村の中央を貫く大路の中ほどで、触手の化け物が胴をくねらせながら地面に腹を擦るように前進と停止を繰り返し、避難列の正面に身体を横たえて通路を塞いでいる。その正面には石塊が積み上がってできた新しい壁が立ち、壁の向こうでは荷馬車と人の列が北西へ向けて細く伸び、列の脇で年配の男が腕を振って誘導していた。
壁の表面には筋が幾本も刻まれ、直近で強い衝撃を受け止めた痕跡が生々しい。化け物から見て前方斜め上の空中には、女の魔法使いが硬直したまま浮き、目は開いているのに焦点を結ばない。さらに路上の左側、瓦屋根の庇の陰からは、男の魔法使いが一歩飛び出して右手を石壁へ向けた姿勢のまま呼吸を整えている。石壁は彼が起こしたのだと即座に分かった。避難列へ向かった次の衝撃を、ぎりぎりで遮ったのだ。ヴィアベルは判断を待たない。女は動けない。避難列はいまだ化け物の射線にかかっている。今すぐ固定するしかない。
「《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》」
《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》──全身を視界に入れた対象を拘束する魔法。魔法の光帯が空中に走り、円環と斜交の軌道で幾重にも交差して化け物の周囲を取り巻く。帯は肌に触れず、空間に描いた目印に固定するように絡み合い、動き出す力だけを奪う。振り上げかけた触手が宙で止まり、ねじれた頭部もその角度のまま静止した。地面にいる巨体の慣性が切れ、路地に高い擦過音が一瞬だけ走り、遠くの洗濯縄がかすかに鳴る。その直後、耳の内側で低い囁きがふっと湧いた。
「助かるが……あんたは誰だ」
ヴィアベルが化け物の全身を視界から外さないように目線を少し上げると、通りの地上で男がこちらへ指をまっすぐ差し向け、口の中だけで短く言葉を作っているのが見えた。周囲の喧噪に紛れた声が、なぜか自分にだけ届く。不思議なのは、男本人からはほとんど魔力の気配を拾えないことだ。
伝声の術自体は単純な類いに見えるが、言葉の運びと術式の組み立てがこちらの世界の体系と違う──そう判断するに十分な違和感がある。大陸魔法協会の通達にあった異界の魔法使いの協力者。名前はタヴ。目の前の男がそれだとヴィアベルは結論づける。彼は唇をほとんど動かさず、喉の奥で囁きを返す。同じ細い糸に声を乗せれば、タヴにだけ届くはずだ。
「自己紹介は後だ、俺は敵じゃねえ。デカブツの身動きと魔力は封じた。お前はやるべきことをやれ」
右手の短い杖をわずかに傾け、ヴィアベルは目線で化け物の背後と避難列の位置関係を示す。迷っている余裕はないという合図だ。
「……了解した」
通りの地上でタヴが短く頷き、即座に村長の肩へ駆け寄る。落ち着いた声で要点だけを連ねた。
「列を右へ迂回させて、中央通りは使わずに橋まで移動しろ。間を詰めず十歩ずつ切って動け」
「承知しました」
村長は即座に頷き先頭へ回り込み、腕を大きく振って列を引っ張った。集落の若者たちが両側に散って人波をさばき、荷車の軸がきしむ。子どもを抱いた母親が肩越しに振り返るのを、タヴは前へ押しやりながら、一歩石壁の裏へ回り込んだ。路面の砂塵はまだ舞い、さっきの圧力で粉になった瓦が靴裏で潰れて鳴る。
「拘束は完全に機能しているか?」
上空のヴィアベルが問う。右手の短杖は標的の中心に据えたまま、視線を外さない。光帯の縁にわずかな揺らぎがあり、魔力の流れだけがまだ動いている気配を拾ったからだ。
「物理的な動きは止まっているが、魔力の動きはまだあるな」
地上のタヴが答える。彼は壁際から標的の正面を一瞥し、術者の感覚で内部の圧の向きだけが変化し続けていることを伝えた。
「やっぱりな。理由は分からねえが、魔力の操作までは縫い止められてねぇ」
ヴィアベルは短く結論づける。《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》は、視線で結んだ基準点に相手の動作を縫い付け、身体の運動だけでなく魔力操作も同時に封じる効果がある。だが目の前の化け物には、その後者が機能していない。
「物理的に動けないなら反撃の手段は限られる。何かされる前に仕留める」
タヴは判断を切り替え、足元の空気を踏むように高度を取り直して側面へ回り込む。路地の角を越え、標的の斜め脇に浮いて射角を確保した。ヴィアベルは短く息を吐き、短杖を胸前で返す。杖先に光が収束し、冷たく研がれた魔力が伸びる。
「《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》」
白銀の魔弾が空を裂き、化け物の眉間へ一直線に走る。命中の直前、全身の空気が重く歪み、透明な膜が内側から膨らむ。刃は見えない壁に火花を散らされ、力を削がれた。精神の障壁だ。見た目はただの空気なのに、手応えは石よりも硬い。
「ちっ、弾かれたか」
ヴィアベルが低く舌打ちすると、タヴは淡々と告げた。
「奴の防御機構は攻撃されるたびに反応して発動するタイプだ。攻撃を途切れさせずに集中させれば、対応できなくなるはずだ」
彼は短い詠唱を噛み砕きながら黒い光線を連射する。波紋が幾度も走り、焦点の一点に焼け色が固定されていく。
「女の方はまだ意識が戻らねえみたいだな……」
ヴィアベルは視界の隅で、頭上数メートルの空中に硬直したまま浮く女の呼吸が浅く続いているのを確かめ、短杖を握り直す。動きは縫い止めているが、魔力の操作は封じ切れていない。どんな反撃が来るか読めない以上、本来は頭数をそろえて一気に仕留めるのが最善だ。だが彼女の意識はまだ戻らず、当面は戦力に数えられない。
「やることは変わらない。二人で押し込むぞ」
タヴは射角をわずかにずらし、同じ焦点へ圧を重ね続けた。ヴィアベルは高度と位置を最小限だけ調整して狙点をそろえると、右手の短杖を胸の前で返し、再び魔弾を成形する。《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》の二撃目が先ほどの焦点へ重なり、タヴの黒い光線と時間差で叩き込まれた。
精神障壁の再展開が一瞬だけ遅れ、その隙に黒い光線が数発分厚い外皮へ直撃する。焼け跡が点々と刻まれ、表層に細かな割れが走った。さらにタヴが黒い光線を放ち、ヴィアベルも三撃目を同一点へ撃ち込む。黒い光線は精神障壁に弾かれたが、続けて着弾した三撃目の《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》には展開が追いつかず、化け物の外皮を抉る。二人の攻撃は着実にダメージを与え始めていた
しかし、直後に化け物の口腔の奥で意味を結ばない破裂音が短く刻まれる。耳ではなく頭蓋の内側に先に刺さる角張った音列だ。音が生まれた瞬間、周囲の空気の輪郭がわずかにずれ、拒む意志だけが直接押し込まれてくる。同時に、化け物の全身を薄い液体の膜が一枚すべるように走り、光帯の交点に触れるたび固定点から微かな音が鳴って位置を滑らせた。帯はそのまま保たれているのに、結び目だけが水中を漂うようにほどけていく。
(マジかよ、《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》の固定をこじ開けにきてやがる)
化け物の輪郭が二重三重にぶれ、光帯の交点が金属を弾くように鳴って僅かに滑る。《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》は空間の目印に結び付けて動き出す力を削ぐが、巨体は体節をつぶして別の姿勢に置き換えながら固定点への参照を一つずつ外していく。止まっていた触手の基部が紙一枚ぶんだけ回り、次の拍で胴のねじれが半歩分ずれた。タヴはその異常な挙動を見て即座に判断し、ヴィアベルに警告を飛ばす。
「これは……《Freedom of Movement(移動の自由)》だ!次で拘束から脱出されるぞ!」
《Freedom of Movement(移動の自由)》──地形や魔法の影響で移動が鈍らなくなる魔法。さらに魔法的な麻痺や拘束にも耐性を付与し、物理的な拘束においてもわずかな動きで脱出することが可能となる。ヴィアベルの知る由もない異界の術だが、眼前で起きている現象がそれを示している。
化け物が最初に脱出の動きを見せてから数秒の出来事だった。緩んだ交点が連鎖して解け、遂に拘束から完全に抜け出す。ヴィアベルは既に攻撃の準備を終えており、即座に《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を下方に放つ。だが化け物はその射線に合わせるように短距離の瞬間移動で位置を一段ずらし、魔弾は外れて地面を抉る。
続けて二度、三度──連続する短距離の瞬間移動を段差のように継ぎ足し、高度を階段状に引き上げながらヴィアベルの正面へ迫った。直線ではなく、狙いをつけさせないためか角度を切り替え、折れた軌跡で接近してくる。灰紫の頭部が急速に拡大し、裂けた口腔と触手群がヴィアベルの視界の中心を占める。タヴは咄嗟に黒い光線を放つが、化け物が中空でさらに角度を変えて位置をずらし、光線は空を裂いただけで外れた。
「くそ、迎撃は無理だ!高度を──」
彼の言葉が言い終わる前に化け物は短距離の瞬間移動でさらに距離を詰め、ヴィアベルの目前へ躍り出た。裂けた口腔と触手群が一点へ収束する軌道で振り下ろされる。
「──ッ」
ヴィアベルは反射で《防御魔法》の術式を呼び出し、左手で盾紋を素早く描いて右手の短杖をその中心に据える。掌の前に淡い青の六角板が蜂の巣状に連結して展開し、前方へ弧を描く盾面が形成される。迫る触手が叩き付けられ、盾面が強く明滅して縁の数枚に細い亀裂が走るが、連結板が噛み合って衝撃を受け流し、初撃は食い止めた。だが相手は全長四十メートル近く、推定三百トンを超える塊だ。一撃の慣性だけで盾面全体が沈み、魔力の流れも乱れる。次を受ければ面が崩れる──そう判断した瞬間、化け物は二撃目を振り上げた。
だが触手が落ちてくる前に、何かが化け物の首の付け根と触手の根元に絡みついた。幾筋もの束が一気に締まり、振り下ろしかけた二撃目が空中で止まる。
化け物の胴のすぐ後ろ、誰もいなかった空間に、女の魔法使いが滑り込んでいる。さきほどまで空中で硬直していたはずのその女が、いつの間にか意識を取り戻していた。眼差しは冷静で、焦点はぶれない。彼女の長い髪は風を受けて広がり、化け物へ食い込んだ束だけが強く張っていた。
「ようやくお目覚めか……」
女の髪は一本一本が別の生き物の腕のように自在に曲がり、鎖のように編まれてさらに締め込む。単に巻き付いているのではない。一本ごとに魔力の筋が通され、締めるほど硬さと張力が上がっていく。その動きを見てヴィアベルは目を細める。
「髪を自在に操る魔法……お前まさか、一級のゼンゼか……!」
「君はヴィアベル二級魔法使いだな。協力に感謝する」
ゼンゼの返しは短く無駄がない。タヴは高度を上げ、二人と同じ高さまで浮上して距離を詰める。その途中、彼は一瞬だけまぶたを細めた。ゼンゼの髪先から冷ややかな白光が粉のようにほぐれて散り、空気が鈴を遠くで鳴らしたような微かな振動で一定の拍を刻む。光と拍は独りを置かずに寄り添う性質を帯び、触れた者の鼓動と一拍だけ重なってから静かに離れていく。祝福の余韻──《Blessings(神の祝福)》や《Charms(自然の贈り物)》の類だと、彼は直感する。
タヴはそれを敢えて言葉にはせずに、確認するように一度うなずき、視線を避難列に流す。ゼンゼに絡め取られた化け物は全身の筋を膨らませ、束をちぎろうと暴れる。だがゼンゼの髪はのたうちながら別の巻きを足し、締め付けを緩めない。質量も慣性も、拘束の方向と逆に引き剥がせば崩せるが、ゼンゼの髪は常に一手先の角度を取り、力の逃げ道を埋めていく。ゼンゼは呼吸すら乱さない。動きは少ないのに、実際には常に締め直しが続いていた。
「こんなデカブツを髪で締め上げられんのかよ……どんな筋力……いや張力だな。魔力で底上げしてやがる」
ヴィアベルが苦笑を混ぜて吐く。たがその直後、化け物の内部で魔力の圧力が急に盛り上がった。触手の根元が波打ち、空気が重たく張った。拘束は長く持たない──三人とも同じ結論に至る。
「ゼンゼ、そいつが何かする前に村の外れへ投げ飛ばしてやれ」
タヴが短く命じる声音には確信があった。彼はゼンゼの背に、外部から供給される力の糸を感じ取っている。
「本当にそんな芸当ができるのかよ?」
ヴィアベルが目を細める。その問いにゼンゼは答えない。代わりに足元へ風が集まる。《Wind Soul(風の魂)》の帯が足の甲から脛へ上がり、体の重さを水平に支えた。髪の緊縛が一段階強くなり、触手の根元が悲鳴のような軋みを上げる。
「一級魔法使いってのはイカれてるな。なら、巻き込まれないようにしねえとな」
ヴィアベルは高度を持ち上げ、タヴも同時に反対側へ退き、巻き込まれない距離と角度を確保する。ゼンゼは二人の退避が完了したのを横目で確認した後、髪の束をいく筋も撚り合わせ、背後へ引く螺旋の綱に組み替えた。
《Wind Soul(風の魂)》で足元に気流を発生させ、そこを軸に腰を鋭く切る。半径を詰めたぶん回転が一気に跳ね上がり、綱の先に巨体の重みが乗る。次の刹那、編みを解いた束が同じ向きで一斉に伸び、風と髪の投石紐がいっぺんに放たれる。四十メートル級、推定三百トン超の巨体が張り詰めた弧を描いて村はずれの空へ放り出され、触手は遠心に遅れてしなった。
地上では、避難する人々がいっせいに足を止めた。頭上で灰紫の巨大な影が弧を描いて飛んでいくのを見上げ、押されていた荷馬車の音も止む。先頭に立つ村長が振り返り、落ち着いた声で丁寧に促す。
「立ち止まらないでください。大丈夫です、今のうちに進みましょう」
声に弾かれたように数人が我に返り、荷馬車に掛けた手がまた押しに力を戻す。肩を合わせた列が少しずつ前へ進む。母親は子を抱き直し、老人は壁づたいに歩幅を整え、道端の馬は鼻を鳴らして路肩の別走を続ける。硬くなっていた足が、ゆっくり動き出した。
一方、投げ出された触手の化け物は、空中でもがきながら地表へ落下する直前に《Levitate(空中浮揚)》を発動する。落下の加速が不自然に失われ、胴の下面は地面をかすめただけで、衝撃は最小限にとどまった。
「見かけによらず器用な野郎だな」
その光景を見ていたヴィアベルが悪態をついた直後、化け物が咆哮した。だが、その咆哮はいつものものではない。四枚に割れた口腔が不自然に開き、舌に相当する触腕が震え、濁った音の波が空気を擦って広がる。地上の避難列では数人が耳を押さえ、子どもが短く悲鳴を上げた。ヴィアベルは奇妙な不快感に眉を寄せ、短杖を握り直す。
その音は、彼らの耳には歪んだ咆哮以上の意味にはならなかったが、タヴは違った。出発前にゼーリエから《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》を施されている彼の意識に、咆哮の濁音が唐突に拍へ割れ、音ではなく概念の塊として滑り込む。それは脳裏で言葉の列へと自動的に組み上がり、冷たい宣告になる。
「Za kha'osen; ysra saar'keth'ra──vras na thagg'ai. Az, mor'esh!(我は《Chosen(選ばれし者)》であり、髪で縛る女の存在は我が神への冒涜だ。ゆえに死ね)」
《Chosen(選ばれし者)》とは、神が選定した代理人の総称だ。明確な加護や権能を授けられる場合も多いが、使命だけを負う者もいる。授かる力の幅は広く、時に《Demigod(半神)》に迫る例もあった。タヴは息を吸い損ねたように乾いた声を喉から絞り出す。
「ネオセリッドが《Chosen(選ばれし者)》……だと……そんなことがあり得るのか……」
ネオセリッドが見せた能力──拘束を《Freedom of Movement(移動の自由)》と同質の加護で身を滑らせ脱出し、《Misty Step(霧渡り)》のような短距離瞬間移動を連続で繰り返し距離を詰める──は《Chosen(選ばれし者)》であるならば説明できる。力の立ち上がり方が祈りの律動に似ており、状況に応じた術式が命令句のように自動で構築されるのは神授の魔法における特徴だ。だが言葉すら理解できず、信仰を持たない異形に、いったいどの神が力を与えているのか。その異常さが、数多の異界を渡ってきた彼にとって受け入れがたいものだった。
タヴは考えをまとめる。神々は多元宇宙において世界ごとに在り方が異なる。多くの世界では神々は直接介入を避け、信徒や選定者を通じて影響を及ぼすのが常だが、直接顕現が許されている世界も存在する。一方で特定の領域に存在する次元や創造者が定めた法により、神格の介入が強く制限される封鎖世界もある。
彼が今身を置いているこの世界も、次元間の移動や通信などを遮断していることからまさにその一つだろう。しかし、あの《Chosen(選ばれし者)》はこの世界の創造者の許可を得て存在しているようには到底見えない──すなわち、創造者が定めた法に対する重大な掟破りであることを示している。
同時にタヴはゼンゼが選定された理由を推測する。定命の者、ギスヤンキやマインド・フレイヤーが封鎖世界に侵入して害を及ぼす行為は悪行だが、世界の理を書き換えてはいない。位相アンカーで次元通路をこじ開けることも、理の範囲内で実現できる魔法や技術による現象だ。
しかし神が無許可で《Chosen(選ばれし者)》を通じ、外なる力で影響を与えるのは、世界の理を書き換える可能性のある行為であり、均衡を保つために別の神が自発的に対応するのは自然だ。可能な限り創造者の法を歪めずに均衡を戻す手は、この世界の民を選び、加護と使命を授けて動かすことだ。現地の信仰や文化を知る者なら、余計な混乱を広げずに済む。ゆえにゼンゼが選定を受けたのだろう。
「責任重大だな……ゼンゼ」
ゼンゼは正面を見据えたまま応じる。
「他人事じゃないぞ。私に神託を与えた異界の神様は『試練は苛烈となろうとも、恐れるな──共に踊り、共に立て。汝に、そして汝の仲間に、銀の月の祝福と宵の歌が導かんことを』と、告げたからな。君たちも一緒だ」
タヴは短く頷き、神託句を宗教学の作法で分解する。語の核を取り出し、象徴、儀礼、勧告の三項で照合する。銀の月はまず月の女神系統──月光と巡礼を司るセルーネイ、あるいはエルフ圏のセイハニーン──を想起させるが、いずれも典礼の主軸は祈りと静謐で、舞踏を必置とはしない。対して「踊り」と「歌」を夜の儀礼そのものと結び付け、「恐れるな」「共に立て」と共同の実践を命じる口調は、救済と和解を旨とする暗き乙女、踊りの貴婦人イーリストレイの説教語に極めて近い。
彼女は月光下の歌舞で民を導き、剣舞をもって希望を繋ぐことを善とする。加えて「共に」という複数呼格は、地上の民と堕ちた同族を隔てず手を取り合えという教義の中核と一致する。銀月の比喩が夜の女王を連想させる余地はあっても、恐怖を退けて共に立てという勧めはその教えと相容れない。総合すれば、この神託はイーリストレイの系統に帰すのが妥当だ。
「なるほど……イーリストレイの選定者ということか」
やり取りを聞いていたヴィアベルが、眉をひそめて二人を見比べる。
「おいおい、さっきから何の話をしてんだ?」
タヴは視線を外の空へ戻しながら短く答える。
「この戦いは神同士の決闘でもあり、俺達はその代理人になったという話だ」
「は?マジで何言ってんだ。冗談だろ」
ヴィアベルは思わず吐き捨てる。だが否定の言葉より先に、遠方で浮遊を保っていたネオセリッドが体勢を立て直し、こちらへ向き直る気配が肌に刺さる。眼下では避難列の先頭がまだ橋へ差しかかったばかりで、ゼンゼは髪をたわませたまま次の角度を測り、タヴは静かに詠唱の息を整えている。その並び方と気配が、いま聞いた言葉が絵空事ではないことを否応なく告げていた。ネオセリッドの影がわずかに膨らみ、三人は同時に位置を取り直す。それぞれの役割を再確認しながら、次の局面へ踏み込む準備を整えた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。