界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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対処班による上空の監視と地上の潜伏が捉えたのは、村を脅かすネオセリッドと三人の術者の攻防だった。避難の誘導、見えない力と精神の衝突、石の壁、見た相手を縛る術の成否が連なり、長髪の女が巨体を投げて戦場は村外へ移る。再戦直後にネオセリッドの腹から三体の異形が現れ、激しい魔法の応酬が始まる。やがて暗月の女神の加護を帯びし天界騎士が参戦し、重い代償ののち反撃の糸口が開く。


#14:監視の眼と怒りの声

 リューデル村近郊の坑道跡。崩れた坑口と尾鉱の土盛りが褐色の段丘を作り、折れた梁材が低い影を落としている。浅い用水と小川は縁に薄氷を張り、風が枯れ草をこすって細く吹く。その静けさの下で、見えない編成が地形に溶け込むように身じろぎを止めた。

 

 地上の本隊は樹陰と地形影に分散し、上空二十五から四十メートルの帯には《Invisibility(不可視化)》を施したマインドウィットニスを一体だけ上げている。露見を避けるため、空の目はそれ一つに限る。部隊員は全員、装備化された《Nondetection(占術妨害)》の護符を身に着けており、占術魔法の対象にならず、魔法的に感知されない防護が働いている。

 

 地上側にはクオトアが十数体、周辺の小川筋や灌漑用の浅い堀に身を沈め、編み網と短い銛を抱えて潜む。鱗に泥と湿り気の匂いをまとい、目だけを水面に残して動きを止める。生垣の根の間にはインテレクト・ディヴァウラーが散開して伏せ、思念は張らず、足裏で土の震えと温度差だけを拾い、見張りの役に徹している。

 

 樹の影のさらに奥には四体の古参のマインド・フレイヤーが位置を取り、そのうちの一体──指揮官──が全体の動きを抑える。小さく機動に寄せたこの編成こそ、事後対応のために前線へ差し向けられたネオセリッド対処班だ。

 

 坑道外れの空域にはまだ白い幕が立っている。《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の領域だ。氷の粒が風に揉まれて斜めに流れ、内部は白い壁のように見えない。上空のマインドウィットニスは外側から輪郭だけを追う。その縁で、巨大な影がふっと薄くなったかと思うと、次の瞬間には縁の少し外側に重なった。《Misty Step(霧渡り)》の光点が短く、連続して点る。ひと跳び、またひと跳び。短い間隔の連続瞬間移動が繋がっていく。ネオセリッドは嵐の境界線をまたいで外へ出る。

 

 それを視認した指揮官は上空のマインドウィットニスへ念話を送信した。マインドウィットニスは《Telepathic Hub(念話中継)》の性質を持ち、受信した念話を視界内の半径約百八十三メートル内にいる最大七体の念話可能な生物と同時に共有できる。この中継で、散開中のマインド・フレイヤーたちに命令が行き渡った。

 

【能動探査は禁止だ。標的と術者に気づかれる可能性が高い。外から見える事実だけを拾い、記録に徹しろ】

 

 ネオセリッドが領域の外へ抜け切った直後、《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の集中が断たれる。氷の雨が弱まり、空域は薄い灰色を取り戻した。上空のマインドウィットニスが全周の視界を開き、地上では思念圧縮記録子の記録灯が小さく点る。記録子はマインドウィットニスから届く視界情報を映像としてそのまま収め、同時刻の刻印を打って保存する。以後の報告はこの映像記録に基づく。

 

【連続瞬間移動を繋いでいる。こちらの改造にはない動きだ。外因給餌の疑いとして記録】

 

 ネオセリッドは地表からおよそ五メートルを保ち、砂利と霜を巻き上げながら北東へ滑る。推進は《Levitate(空中浮揚)》の単純維持というより、前方へ押す力の層を傾けて水平に転用しているように見える。進行方向に対して砂利の流れが一定角で後方へ流れているからだ。上空のマインドウィットニスは先行して挙動と速度を報告し、地上のマインド・フレイヤーがそれを記録する。

 

【標的が《Levitate(空中浮揚)》を応用した推進層を形成。滑空として記録】

 

 視界の端で、二つの人影が前方へ伸びた。ひとりは長い髪の術者で、もうひとりは風の層をまとった術者だ。後者は詠唱を最小限に抑え、手と視線だけで効果を切り替え、背から抜いたクォータースタッフを《Arcane Focus(秘術焦点具)》として扱う。構えと術の立ち上がりから見て《Arcane Magic(秘術魔法)》の系統で間違いない。現地の魔法使いではなく、多元宇宙側の術者と推測できる根拠だ。二人は空を速く滑り、足りない距離は風の層の術者が《Dimension Door(次元扉)》を発動して一気に詰める。

 

【風の層の術者が《Arcane Magic(秘術魔法)》を明確に行使したのを確認。出自はこの世界ではない。系統はソーサラーと推測する】

 

 地上の対処班はネオセリッドを追って移動し、露見を避けて速度を落としながら丘と樹の影を継ぎ継ぎ進む。先行していた上空のマインドウィットニスが監視を継続する中、地上は一歩遅れてリューデル村の外縁に到達した。クオトアは小川に連なる浅い堀へ滑り込み、網の端を杭にかけて水面下に沈める。インテレクト・ディヴァウラーは藪の根の影から家屋の石基礎の割れ目へ移り、足裏で微震を拾い続ける。

 

 村の屋根が帯状に現れ、鍋を叩く乾いた音が風に乗って届く。村人の列が道に溢れ、荷馬車が向きを変え、扉が閉まる音が重なる。対処班が外縁に着いた時点で、二人の術者は既に行動を開始していた。長髪の術者は巨体の前面に張り付き、髪の盾で触手の薙ぎを滑らせつつ、髪の槍で表層の継ぎ目を狙って突く。ときおり髪の束で石畳を強く打って振動を刻み、空気を叩いて圧をかけ、自身の位置を焼き付けるように示す。囮として注意を引き寄せる意図が明瞭で、避難列の側へ伸びかけた触手がその振動に引かれて彼女の方向へ軌道を変える様子が確認できた。

 

【囮行動に標的が反応。触手の軌道が避難列から長髪の術者へ転換】

 

 風の層の術者は同時に避難誘導へ回っていた。彼は《Minor Illusion(初級幻術)》で通り角に矢印の標を出し、続けて《Light(光)》を付与した木の棒を一人の男に渡して先導役にする。さらに《Message(伝言)》で先頭と角の要員を短く結び、避難状況を連携させる。散らばった小箱や工具は《Mage Hand(魔道士の手)》で脇へ払い、重い障害物は《Telekinesis(念動術)》で退かし、荷馬車の位置を人の歩速に合わせて組み替える。列はばらけた群れから、秩序ある流れへ変わり始めた。

 

【避難誘導は風の層の術者が実施。標と光と伝声で人の流れを制御】

 

 その矢先、ネオセリッドの輪郭がわずかに撓み、短距離の連続瞬間移動で三度、四度と抜けて、避難列の正面に躍り出る。風の層の術者は《Thunder Step(雷鳴の一跳び)》で先頭へ瞬間移動し、長髪の術者も屋根際を滑空して髪を街灯に一度巻き付け、振り子の勢いで先頭へ向かう。

 

 直後、ネオセリッド側から力場の手が差し込まれ、衣が一斉に引かれ、石畳に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。列の肩が揃ってのけぞり、列の先頭で光の棒を持つ男の腰が一瞬浮く。対処班はこれを《Telekinesis(念動術)》と判断する。風の層の術者は対抗して逆向きの力場を組み、門柱と空車の車台を支点に押し返す。見えない手同士が噛み合い、板片が真っ直ぐ裂け、看板の鎖がきしんだ。やがて押し合いは上下に切り替わり、風の層の術者は胸から下を押し伏せられて膝を落とし、列の前縁でも何人かがよろめいた。

 

【《Telekinesis(念動術)》の異常出力と上下圧への切替を確認。避難列は一時停止】

 

 さらに上方で長髪の術者が角度をつけて強襲に入ろうとした瞬間、ネオセリッドの口奥で低いうなりが膨らむ。前方上に白い歪みが走り、屋並みのさらに先まで薄く響く。《Mind Blast(精神爆砕)》だ。直上の長髪の術者が直撃を受け、髪が外へ散るように広がる。目は開いているのに焦点を失い、体は硬直して動かない。落下だけは何かの魔法的効果で防がれているらしく、空中に貼り付くように静止した。

 

【上方の長髪の術者が《Mind Blast(精神爆砕)》により硬直。落下はしていない】

 

 風の層の術者は短い号令で列に低姿勢を指示し、一拍置いて反転の波を前へ送る。上空監視が、ネオセリッドの周囲で歪みが裏返るような揺れを捉え、直後に圧が一気に剝がれたのを確認した。《Dispel Magic(魔法解除)》の行使が疑われる挙動だ。

 

【押し合いは風の層の術者側が優勢へ。《Dispel Magic(魔法解除)》と思われる挙動を確認。前面の圧が剝落】

 

 圧力が抜けた直後、前方から《Mind Blast(精神爆砕)》の重い揺れがふたたび立ち上がる気配がある。先の発動からの間隔が短い。

 

【《Mind Blast(精神爆砕)》再発動の兆候。間隔は短い】

 

 風の層の術者は、列の正面を縫って《Wall of Stone(石の壁)》を発動する。十枚構成で中央八枚を縦連結、両翼二枚を三十から四十五度で外へ開く。射線を切り、圧を側面へ逃がす意図が読み取れる。粉塵が板の縁に沿って滑り、続いて正面から乾いた衝撃が叩きつけられた。白い塵が霧のように舞い、広がるはずだった扇状の圧力は壁で潰えた。

 

【《Wall of Stone(石の壁)》の構成は十枚。中央八、両翼二で外開き。正面の衝撃は遮断される】

 

 壁面に、正面からネオセリッドの触手がぶつかる。叩きつけては引き、間を置かずにまた叩く。打撃は中央八枚の縦継ぎ目に集中し、節の硬い先端が継ぎ目をこするたび細いひびが放射状に広がる。乾いた震えが石全体を走り、白い塵が一斉に舞った。側面や上へ回り込まず正面を連打しているため、石壁を破壊して突破を狙っていると推測する。列は姿勢を低く取り、壁の陰で待機する。

 

【標的は《Wall of Stone(石の壁)》の破壊を試みている。列は低姿勢で待機】

 

 その数呼吸後、白い外套の男が上空から合流する。男が持つ短い杖の先から直進性の高い光束が伸び、それが交差してネオセリッドの周囲を取り巻く。ネオセリッドの胴や触手の基を交差して縫い留め、触手が宙で止まり、頭部もその角度のまま静止した。

 

 だが静止中も、周囲の粉塵が同じ向きに細く走り、衣や看板の鎖がわずかに引かれ、壁面の塵が薄く脈打つ。空気の歪みは途切れない。対処班は、身体への物理的な拘束は成立しているが、術による魔力操作の抑え込みは機能していない可能性が高いと推測し、現象として記録する。

 

【視認拘束魔法は通じたが、周囲に精神圧の兆候が残る。魔力操作の抑制は不成立と推測】

 

 白い外套の男の到着に合わせ、風の層の術者は標の向きを変える。矢印の幻影が右へ折れ、光の棒を掲げた村長が進路を回す。列は区切りを保ったまま、壁の陰から右へ迂回して再び進み始める。

 

【標の向きが変化。列は右へ迂回して移動を再開】

 

 列の動きが整った直後、二人は拘束中の標的へ攻撃を重ねる。白い外套の男は短い杖を胸前で返し、先端から白銀色の魔弾を射出する。直進性の高い貫通魔法だ。命中の直前、ネオセリッドの全身に透明な膜が盛り上がり、火花のような散りが走って弾かれる。続いて風の層の術者が側面へ回り、同一点へ黒い光線を連続で撃ち込む。

 

 挙動は既知の《Eldritch Blast(怪光線)》に近い。波紋が幾度も走り、焦げ色が点で固定される。白い外套の男は二撃目の貫通魔弾を同じ焦点へ重ね、黒い射線との時間差で圧を積み増す。精神の膜の再展開が一瞬遅れ、外皮に浅い抉れが生じたのを上空監視から捉えた。

 

【攻撃は交互。白銀の魔弾と黒い光線で一点集中。精神障壁は再展開に遅れが出る】

 

 その最中、異常が出る。ネオセリッドの口奥で短い破裂音が刻まれ、同時に全身表面を薄い液膜が滑るように走る。視認による拘束魔法の光線が交差する結び目で、交点が金属音めいて微かに鳴り、位置がわずかにずれる。

 

【視認拘束魔法の交点が滑走し、体節が微角で置き換わる。《Freedom of Movement(移動の自由)》と酷似した挙動】

 

 ネオセリッドの拘束は、わずかな間ののちに解けた。固定が次々と外れ、体節が紙一枚ぶんずつ角度を変え、全体が滑って抜ける。

 

【視認拘束魔法は機能停止。標的は短距離瞬間移動を連続し、白い外套の男へ接近】

 

 脱出と同時に灰紫の胴が二度、三度と短距離の瞬間移動を継ぎ、階段状に高度を上げながら折れた軌道で白い外套の男の正面へ出る。男は即応で杖先から細い魔弾を撃つが、照準の瞬間に位置をずらされ、命中せず。続けて触手が振り下ろされる。白い外套の男は左手前に弧を描く防御面を展開し、初撃を受け止めた。面は明滅し、縁に細いひびが走る。

 

【白い外套の男が魔法で初撃は阻止。標的は再打へ移行】

 

 ネオセリッドが二撃目の姿勢へ移る直後、空中に貼り付いていた長髪の術者の肩が動き、首がわずかに巡った。硬直は呼吸、視線、指先、体幹の順にほぐれていく。

 

【直後に長髪の術者が硬直から復帰。予備動作なしの瞬間移動で背後へ】

 

 長髪の術者は復帰と同時に消え、次の一拍でネオセリッドの背後に現れる。詠唱も手振りもなく、光や音の兆しもない。目を離す間のない置き換えだと観測できる。彼女は髪の束を二本に分け、一方を頚の根元、もう一方を触手の根元に掛けて締め上げる。

 

 輪は短時間で投石紐のような張力を得て、足元の空気が踏み台のように沈んでから弾む。彼女は腰をひとつひねり、巨体を引き回して放つ。ネオセリッドは大きな弧を描いて村の外れ側へ投げ出された。

 

【長髪の術者がネオセリッドの頚部と触手根を髪で拘束後、投擲で標的を村外縁側へ排除】

 

 落下に入る直前、ネオセリッドは自ら《Levitate(空中浮揚)》で減速し、衝突は回避する。次いで喉が大きく膨らみ、押し出すような音のない震えが外へ広がった。咆哮だ。耳だけでなく頭蓋の内側と胸骨がかすかに痺れるが、意味は取れない。

 

【咆哮を記録した。意味は未確定。頭部と胸郭に軽い振動】

 

 ネオセリッドが村内から引き離され、避難列から距離が取れたのを確認した時点で、対処班は村内への観測を打ち切った。以後は村外縁での監視に移行しており、これまでの観測に基づいて確定した事実は以下の通りだった。

 

 一つ、ネオセリッドは《Sleet Storm(みぞれ混じりの嵐)》の外縁で短距離の連続瞬間移動を繋いで領域から抜け、解除がその後に行われた。二つ、村内では長髪の術者がネオセリッドの足止めを行い、風の層の術者が複数の魔法を行使して村人の避難誘導を実施。三つ、ネオセリッドは連続瞬間移動で避難列の先頭へ出て、風の層の術者との《Telekinesis(念動術)》で押し合いが生じ、その直後に《Mind Blast(精神爆砕)》で上方の長髪の術者が硬直した。

 

 四つ、風の層の術者は《Wall of Stone(石の壁)》を発動し、続けて放たれた《Mind Blast(精神爆砕)》の射線を切った。五つ、白い外套の男が合流し、視認で固定する魔法をネオセリッドに行使したが、物理的な拘束に留まり、魔力の流れは健在。六つ、避難列を右へ迂回させた後、二人の術者がネオセリッドに攻撃を交互に繰り返した。七つ、ネオセリッドは視認拘束魔法から抜け、直後に長髪の術者が復帰して髪で拘束し、投擲でネオセリッドを村外へ出した。八つ、投擲の直後に咆哮があり、意味は不明だが振動として記録できた──以上。

 

 現在、対処班は村外縁で監視を継続しており、地上の本隊は露出を最小に抑えて動く。クオトアは小川の淀みから堰の石の陰へ、インテレクト・ディヴァウラーは石垣の基礎から茂みの根へと、視線の通りにくい経路だけを選んで位置をずらす。指揮官は上空のマインドウィットニスへ念話を送り、それが《Telepathic Hub(念話中継)》で散開中の各マインド・フレイヤーに中継される。

 

【標的は外から力を供給されている線が濃厚だ。連続瞬間移動、拘束からの脱出、念動の異常出力といった状況証拠が揃っている】

 

 東側を押さえるマインド・フレイヤーが、同じ経路で冷静な念話を返す。

 

【討伐は今の戦力では割に合わない。標的の目撃者は多く、我々が出ればさらに増える】

 

 西側のマインド・フレイヤーが、マインドウィットニス経由で補足を入れる。

 

【完全な抹消は成立せず、三名の高位術者との交戦リスクも懸念される】

 

 指揮官が最終判断を固定する。

 

【判断を確定する。討伐はリスクが高く、痕跡抹消は困難。外因給餌の疑いは濃厚として記録】

 

 続けて指揮官が命令を発した。

 

【三名の術者に標的を押し付け、互いの消耗を狙う。我々は監視に徹し、結果に応じて次の行動を再決定する】

 

 地上のマインド・フレイヤーはそれぞれの影に身を据え直し、露出の少ない見通しだけを確保する位置へわずかに詰める。クオトアは水面下で姿勢を維持し、インテレクト・ディヴァウラーは足裏に伝わる微震だけを拾い続けた。上空のマインドウィットニスは高度を保ったまま三百六十度の視野でネオセリッドと三名の術者を追い、その視界情報は地上の思念圧縮記録子へ途切れなく書き込まれていく。

 

【作戦は第二段階へ移行。露見回避を最優先、記録を継続せよ】

 

【了解】

 

 *

 

 ネオセリッドの巨体が、土色の起伏を押しつぶしながら正面三十メートルで身をもたげる。ここはリューデル村の東外れ──畑地の切れ目から続く低い荒地だ。風は南東から弱く、草むらの穂を一定方向へなでていく。ゼンゼは地表から二メートルに浮かび、長い髪を前へ垂らして防御と攻撃の形へ同時に編む。背後右にはタヴとヴィアベル。二人はゼンゼの斜め右後方、高度三メートル、横距離十五メートルを保ち、右手側から支援できる角度に位置した。

 

 灰紫の外殻に走る細い縫い目が、呼吸に合わせてわずかに脈打つ。口器の内側で、骨のような白い鈎が三本、舌めいて短く開閉した。ゼンゼはその動きに視線を据え、呼吸を一度だけ深く取る。目の前の敵意は濃い。だが矛先は自分個人ではない。

 

 髪に宿した祝詞が微かに光る拍にだけ唸りが強まり、彼女の身のこなしそのものには関心が薄い──いまこの怪物が憎んでいるのは祝福の由来である遠い存在だと、彼女は直感する。確かな証拠ではないが、反応の偏りがそう告げていた。

 

「私自身のことは眼中にないということか……舐められたものだ」

 

 彼女は呟きながら髪の束を三筋、盾・槍・鞭に分ける。槍は骨の継ぎ目を狙うよう尖り、盾は表面を滑らせる角度で丸く張る。鞭は振動で意識を引く道具だ。ゼンゼが石礫まじりの地面を髪で叩くと、乾いた打音が連続して響き、触手のうち二本がそちらへ向きを変えた。ネオセリッドの動きに一瞬の間が生まれる。

 

 その刹那、ゼンゼの頬を薄い冷えがかすめ、胸の内側で祝福がわずかにざわめく。予兆と呼べるほどの手掛かりではないが、次が来ると直感できる程度の気配だ。直後、巨体は霧の切れ端を千切るように残しながら唐突に位置を変え、前へ十メートル、さらに十メートルと連続して移動した。

 

 挑発に応じて正面に出たというより、より強い気配へ滑るように引かれている。彼女は先に進んだ触手の根の角度に合わせ、盾の傾きを素早く微修正する。ネオセリッドの巨体が目前で移動を止め、蛇腹状の外殻が息を吐くように膨らみ、触手が扇形に開いた。最短距離からの一撃が来る。

 

 初撃は横薙ぎ。ゼンゼは盾を浅角で迎え、髪の表面に走らせた魔力の膜で打ち抜き線を滑らせる。衝突の衝撃は肘ではなく肩から腰へ逃がす。二撃目は縦。槍に変えた束を下から差し上げ、触手の腹側を撫でて角度を狂わせる。

 

 三撃目は正面からの突き刺し。盾を重ねて厚くし、表面にわずかな凹みを作って突端を吸い込むように受ける。受けの三手の間に、槍の髪束が連続で継ぎ目を穿つ。最初の二突きは透明な膜に滑らされた。精神の障壁が表層で波打つのが、刃ごしに伝わる。三突き目、波の戻りに一拍遅れが出た隙へほんの指先ぶんだけ刃が食い、粘液が点で飛ぶ。

 

 ゼンゼは呼吸を揃え、半歩だけ右へ滑って位置を調整して二指で短く合図を切る。合図に応じ、待機していたタヴが《Eldritch Blast(怪光線)》を、ヴィアベルが《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を一斉に連射する。

 

 黒と白銀の射撃が交互に刺さるが、ネオセリッドの全身に透明な精神障壁が盛り上がって火花めいて散り、通った数発も分厚い皮膚に阻まれて浅い焦げを刻むに留まる。ゼンゼはさらに一歩前へ押し、鞭にした髪で地面を三度叩く。一定間隔の乾いた打音に、触手の根元が音へ引かれるようにわずかに傾いた。誘導は効いている。

 

 だが、巨体の全体から立ち上がる圧は、さきほどまでより明らかに強い。空の明るさは変わらないのに、輪郭だけが濃くなったような手触りだ。ゼンゼは皮膚の裏で、その圧に独特の律が混ざっているのを感じ取る。祈りの拍に似ている。先ほどの咆哮──《Chosen(選ばれし者)》の宣言の余韻が、今なおこの生物の筋に力を送り続けているのだと、身体が理解した。

 

「神の力でこの地を害するなら、それ相応の覚悟をしてもらうぞ」

 

 ゼンゼは髪の槍を短く引き、盾の厚みを一段増して正面を塞ぐ。舌のような細い触腕が盾の縁から覗き、硬い鈎がからからと擦れる。外殻の亀裂に薄い光の縫い目が見える。そこに刃を通せるかどうかは、次の瞬間にかかっている。彼女は顎を引き、集中をさらに絞った。

 

 タヴは右後方の空に留まりながら、微かな変化に目を凝らしていた。ゼンゼの槍が継ぎ目へ差さるたび、ネオセリッドの皮膚下の線が一瞬だけ歪む。亀裂の内側で、光の糸が走り、次の瞬間には欠けが埋まっている。自然な治癒ではなく、縫合するように傷を塞いでいく。その治癒は《Charm of the Maimed(傷ついた者の贈り物)》──一度だけ失った手足や眼などの器官を生え直させ、用いれば消える祝福──に似た動作を思わせるものだった。

 

(酸器官はどうだ……)

 

 タヴは視線を口縁に落とす。先ほどまで乾いた線だけだった口の内側に、白い煙がわずかに漂った。鼻腔の奥を刺す酸の匂い。続いて口縁の内側で、薄い膜が泡立つのが見えた。喉奥から伸びる導管が膨らみ、弁が一つひとつ開いていく。酸器官が再起動している──タヴはそこまでで判断を確定し、鋭く声を投げる。

 

「ゼンゼ、酸が来る!」

 

「分かった」

 

 次の瞬間、ネオセリッドの口が扇形に開いた。白い蒸気を先行させ、薄緑の液体が扇状に広がって地表を掃く。砂利が泡立ち、低い溝が一瞬で白く霞む。酸臭が風に乗って頬へ張り付く。ゼンゼは盾の髪で角度を作って横へ滑り、薙ぎ払う線の外へ出る。酸が通ったあとの地面はぬめりを含み、薄い蒸気がゆらいで光を鈍く返す。彼女が距離を詰め直そうとしたところで──腹部が不自然に膨らむ。

 

「……待て。腹の嚢が……」

 

 タヴの声は、自分でも驚くほど低かった。ネオセリッドの腹面に沿って卵嚢のような膨らみが走り、皮が内側から押されている。数呼吸のうちに、そこは明らかに別の生き物の輪郭を持っていた。皮膜がひとりでに裂け、暗紫の外皮がのぞき、分節を連ねた胴がずるりと滑り出る。裂け目の縁からは鉤のように曲がった黒い脚が列をなし、地面をつかんで体を押し出す。続いてもう一つ、さらにもう一つ──三体。

 

 いずれも身長は四メートルほどで細身で紫黒の外皮に覆われ、頭部に翡翠色の小さな複眼が点々と並ぶ。上半身に相当する部位の末端からは、長い二本の触手が腕のように延び、その先に一本は細身のレイピア、もう一本は長尺の杖を持っていた。腹の分節は毛虫めいて地面をかくが、全体は芋虫というより大蛇のように強く撓む。出てきた瞬間から、三体は互いに位置を取り合う。

 

「……気持ちの悪い生まれ方だ。自然な出産ではない」

 

 ゼンゼが低く言う。声は平板だが、視線はわずかに細くなっていた。出産の速度、器官の動き方、すべてが生物の常道を外れている。そう判断する根拠は、目の前に露出した筋と膜の動きそのものだ。

 

「生まれた瞬間からもう連携が取れている……異常だ」

 

 タヴは三体の異形が即座に三角形の陣形をつくるのを確認し、短く言葉にした。二体が前衛で、レイピアを肩の高さで水平に構え、間合いに入るものを刺し止める意図を明確にし、最後の一体は後衛として杖を斜めに構え、前衛が進むのを援護する。こちらの隊形を物理的に裂いて、ネオセリッドに近づけさせないための配置だ。

 

「胸糞わりぃ気配だ……視界に入れたくもねえ」

 

 ヴィアベルが唾を吐くように言い、短杖を胸の前で返す。三体から滲み出る狂気のオーラに、胸骨の内側がざわつく。名の分からない悪寒だが、理屈抜きで正気を削ってくる類の気配だと直感する。タヴは彼の横顔を一瞥し、短く指示を出す。

 

「右を俺が撃つ。左はあんたで押さえてくれ」

 

「いいぜ。奴の杖をへし折ってやるよ」

 

 合図に合わせ、ゼンゼは髪の盾を前へ押し出してネオセリッドの顎下へ斜めに入り直し、槍に変えた束で叩いて巨体の向きをこちらへ釘付けにする。彼女が正面を抑え直した瞬間に、タヴは側面へ移動し、《Eldritch Blast(怪光線)》を前衛の右個体へまず一射。胸板の寸前で空気が硬くはじけ、火花のような散りで弾かれた。見えない膜で受けている。

 

 今の反応から、攻撃の直後に薄い障壁を張る仕組みだと判断できる。ならば間をずらして押す。発射の瞬間に短く印を切り、次弾の軌道と間隔をわずかに変えて連射する。黒い光線が三発、四発。膜が波打ち、焦げ目が一点に残る。並行して、左前衛へヴィアベルの白銀の魔弾──《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》──が正面から走り、凛と張った音とともに白い閃きが外殻に浅い筋を刻んだ。

 

 右前衛はレイピアを振り払う動きと同時に、空いている触手が握る杖の先から赤白い光条を六本──《Scorching Ray(灼熱の光線)》を矢のように撃ち返してきた。タヴは《Shield(盾)》を展開し、五条は透明な面で砕け、残る一条は肩の外を焼いて通過する。それと同時に、左前衛は身振りも発声も見せずに念話だけでヴィアベルの意識に言葉──《Suggestion(示唆)》を突き刺した。

 

【今は前線に残るより、村人の避難を指揮した方が多くを救える。列の先頭に立って誘導してほしい】

 

 この魔法は聞き取り理解できる相手に一、二文で行動方針を植え付ける。対象は判断力の抵抗に失敗すると、それをもっともらしい指示だと受け取り、従ってしまう。ただし、明らかに自傷を強いる命令は成立しない。術者かその仲間が対象に傷を与えれば効果は切れ、魅了を受けない相手には通らない。

 

 言葉の棘が脳に絡みつく。だがヴィアベルは奥歯を強く噛み、左手の爪で自分の右手の甲を鋭く弾く。針のような痛みで思考を掴み直し、頭の中へ差し込まれた「もっともらしさ」を罵倒で粉砕するように吐き捨てる。

 

「その提案、耳障りだ。てめえが飲み込んで黙ってろ」

 

 彼は視線を正面から外さず、半歩だけ後ろへ引いて間合いを整えて短杖を構え直した。ヴィアベルは左前衛の全身を視界に収め、即座に《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》を発動する。光帯が空中で交差し、左前衛の肩と腰、触手の根元に目印を縫い付ける。動きの起点が突如として重くなり、レイピアの切っ先が宙で止まった。

 

 その直後、異形の後衛が杖で地面を叩く。杖先の環形刻印が淡く点り、叩いた地点を中心に灰白の霧──《Fog Cloud(濃霧)》が即座に膨らんだ。指定点を中心とした濃い霧が球状に広がり、角を回り込むように路地の曲がりへも流れ込む。今回は半径十八メートルほどまで拡張されており、内部は重い白で満たされるため視界はほぼ失われる。時速十六キロ以上の風が吹かない限り、その場にしばらく残る。三体の異形は霧に呑まれて見えなくなり、ヴィアベルは《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》の再指定ができない。

 

(霧は自分たちの視界も塞ぐはずだ。だが連携は崩れない……触手で地面の震えを拾っているのか、短距離の思念連絡で位置を共有しているのか)

 

 タヴは霧の縁で砂粒の流れと影の揺れを見て、この異形が視覚以外──振動や気圧の変化、あるいは思念──で互いの位置を把握していると推測する。

 

「面倒を増やしやがって」

 

 ヴィアベルは舌打ちしながら右手の短杖を胸前で返し、空気を一拍だけ掴む。《シュトルムラフ(瞬間的な突風を発生させる魔法)》を起こすと、地面すれすれの突風が霧を一方向へ押し流した。白い幕は縁から千切れるように薄れ、数呼吸で崩れる。タヴは霧の裂け目から左前にいた異形の口腔がすでに開いているのを捉え、驚愕を押し殺して鋭く警告する。

 

「左の奴が口を開いている、退け!」

 

 刹那、異形の口から前方へ九メートルの円錐状に深紅のガスが吐き出される。気体は軽く、地を這わず扇の形で一気に広がる。タヴは《Wind Soul(風の魂)》で右斜め後方へ大きく下がって外縁の外へ抜け、ヴィアベルは《飛行魔法》で上方へ素早く退いて円錐の外へ出る。縁をかすめた空気だけでも喉に鉄の味が残り、鼻腔が焼けるように痛む。深紅の毒息は古い記録にある《神話位階》を帯びた異形の吐息と一致しており、タヴは視た現象と記録の描写が重なるのを確認しながら思考を巡らせる。

 

(古い地下遠征の記録で読んだことがある……こいつらは恐らく《神話位階》を得たセウガシだ)

 

 セウガシ──地底の巨獣ネオセリッドのうち、長い時を生き抜いて高い知性と《神話位階》を得た個体だけが、自らの肉と思念を孕ませる儀礼で産み落とす従属の異形だと伝わる。誕生の時点で命令と役割を刷り込まれ、主の意図を仲間同士で共有して動く性質がある。

 

 古い記録では、ネオセリッドが《神話位階》へ至る方法はひどく断片的だが──外なる主に目を留められて力を刻まれるか、破滅的な儀礼と果てしない精神捕食で自我と力をふくらませるか、その両方だと記されていた。位階に到達した個体は、自身の権能を分け与えて従属体を数のうえでも質のうえでも増やすことができ、注ぐ力が濃ければ、生まれた従属体もまた《神話位階》を帯びるという。

 

 二人が円錐の外へ抜けた直後、ネオセリッドはゼンゼに正対したまま頭部だけを持ち上げ、胸郭を大きく広げて喉袋に圧をためる。狙いは上空のタヴとヴィアベルの高度線だ。体幹の向きはゼンゼに釘付けだが、顎の角度だけで噴線を持ち上げようとしているのが分かる。ゼンゼはその兆しを読み、髪の束を槍に変えて一気に踏み込み、顎の棘列と口角の間へ差し入れて、てこの力で頭部を南側へ強引に振らせた。

 

 次の瞬間、酸が筋になって空を裂き、通りの南側の石垣を斜めに抉る。石は泡立って崩れ、白い蒸気が瞬きの間に立つ。喉が二発目の吐出へ震えた気配に合わせ、ゼンゼは同じ角度でさらに押し込み、噴線はまた明後日の方向へ走った。上空の二人を巻き込む射線は、ゼンゼの一撃で完全に逸らされた。

 

「二体、前へ来るぞ!」

 

 ヴィアベルの警告と同時に、前衛のセウガシ二体が距離を詰めてくる。彼は左前衛に視線を向け、再度《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》を掛けにいく。だが前衛の二体の背後を一定距離で追従していた後衛のセウガシが、前方の隙間越しに杖先をわずかに傾けた。杖頭の環が短く光り、《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》の発動直前に《Counterspell(呪文妨害)》が差し込まれる。魔法の織り目そのものを引き抜かれ、ヴィアベルの術式は立ち上がる直前で霧散した。

 

「やってくれるじゃねえか……!」

 

 ヴィアベルは悪態をつき、タヴは一瞬だけ目を細める。セウガシが《Counterspell(呪文妨害)》まで用いるのは想定外だ。さらに《神話位階》を帯びた個体で、他にどんな能力を持っているのかも未知数。いずれにせよ、維持に《Concentration(精神集中)》を要する拘束系魔法は今この局面では分が悪い──そう判断し、拘束による足止め案は切り捨て、撃ち合いで削ることを決めた。タヴは即座に《Subtle Spell(微細術)》で発動の痕跡を消し、《Eldritch Blast(怪光線)》を準備して右前のセウガシに照準を合わせる。

 

 その時だった。空の色がほんの一段明るくなった気がして、タヴは視線を上に上げる。耳の裏で、澄んだ鈴の音がかすかに転がる。ゼンゼの髪先から、粉のような白光がほどけて散った。祝福の余韻だ。祈りの言葉は聞こえないが、身体の内側に、ほんの一拍ぶんの冴えが灯るのをはっきり感じる。

 

(……見ているな。彼方の女神が)

 

 タヴはそれ以上は考えない。今はただ、敵の動きだけを追えばいい。右前のセウガシが前足に体重を移して踵をわずかに浮かせ、胴体が同時に沈む。突入の前兆だ。タヴはその瞬間、準備していた《Eldritch Blast(怪光線)》を右前衛へ連ねて叩き込む。黒い光線は見えない精神膜に阻まれて弾けたが、反動で身体が半歩ぶんよろめく。タヴは間を置かず、左手で《Telekinetic Shove(念動突き)》を同時に走らせ、左前にいるセウガシの身体を外側へ押し出し、前進を僅かに鈍らせる。

 

 ゼンゼは、正面のネオセリッドから視線を外さないまま、周囲の空気の筋を感じ取っていた。酸の扇が一度止み、巨体が低く息を整える。彼女は槍の角度をわずかに変え、体重を前へ送り、次の跳び出しを迎え撃つ準備を固める。

 

 その刹那、空気が張る。真上ではない。少し離れた空の一点が、銀白の輪郭で薄く光った。輪は二重で、縁に細かな刻みがある。水面の渦の中心に立つような静かな引きが一瞬だけ生まれ、そこから二つの影が降りた。二人の背には、風を起こさない実体のない光の翼がふわりと展開し、羽ばたきの軌跡だけが薄く空気を撓ませる。

 

「全員、距離を保ったまま私の後ろに集合してくれ!」

 

 ゼンゼが即座に指示する。彼女は高度を取り、通りの真上で右へ半身を切って一時集合の位置を作った。タヴは《Wind Soul(風の魂)》で斜め上へ抜け、ヴィアベルは《飛行魔法》で加速して並ぶ。光の翼を持つ二人の騎士も同高度まで上がり、五人は空中に小さな楔形を組む。地上では、ネオセリッドが口を閉じて触手を沈め、前衛のセウガシ二体も半歩だけ引いてレイピアの切っ先を下げる。後衛は杖を胸の前で横に構え、三体とも瞬きほどの間、こちらと距離を測るように動きを止めた。

 

 ひとりは男。片手剣と円盾を持ち、甲冑の継ぎ目に月光色の飾り金が走る。円盾の表には細い弓のような紋が浮かび、彼が構えた瞬間、盾の周囲に薄い幕が派生して二人ぶんが入るほどの楯幕を形づくった。もうひとりは女。細身の大剣を軽く下げ、滑らかな鎧の背で光の翼がゆっくり翻る。

 

 二人はそれぞれ肩に白木に銀の装飾を施した長弓を横掛けに負い、腰には黒革の矢筒を下げていた。二人とも肌は浅く褐色、髪は月を溶かしたような銀色。目の色は鋭く、しかし冷たくはない。二人は天上界に属する善性の来訪者──セレスチャルの「騎士」だ。

 

 デーヴァやプラネターといった《Angel(天使)》階級ではなく、神々の軍勢において前線で剣と盾を執る階位にある者たちである。霊でも幻でもない。甲冑の縁が光を返し、革の匂いと金具の重みが動くたび確かに残る実体だ。ここでは月の女神に連なる従騎士として呼ばれたのだと、装束と立ち居振る舞いが告げていた。

 

「遅れてすまぬ。彼女の呼びかけに応じて馳せ参じた」

 

 男が短く告げた声は、この世界の言葉になってヴィアベルとゼンゼの耳に入る。《Tongues(異言)》が自然に働いている。ゼンゼは頷き、視線だけで承認を示す。彼女は銀の月の加護として《Charm of the Knight(騎士の贈り物)》──十分間だけ中立にして善良なるセレスチャルの騎士を二名、己の近くの空いた空間に呼び寄せ、味方として行動させる祝福──を賜っており、その効果を把握していた。

 

「……イーリストレイに仕える執行官か?」

 

 タヴが少し戸惑いながら問う。確信はないが、ゼンゼの髪に宿る祝福の気配と、目の前の騎士の装束に共通の月の印がある。彼の声は警戒と確認の両方の色を帯びていた。

 

「誰だお前ら。味方ってことでいいんだよな?」

 

 ヴィアベルは正面の敵から意識を外さずに杖先を下げないまま、荒っぽい声だけを騎士二人へ投げる。

 

「味方よ。この界の主の許しを得て、イーリストレイ様から遣わされた。私は刃を、彼は盾を貸す」

 

 女の騎士が簡潔に続けた。言外に、ここが原則として外からの干渉を拒む界であること、そしてその制約に触れない範囲でのみ支援が可能だという含みがある。ゼンゼは頷き、手短に分担を決める。

 

「盾持ちは私と来てくれ。正面のネオセリッドを止める。大剣持ちはタヴとヴィアベルを援護してくれ。そちらは三体の異形を頼む」

 

 二人の騎士は顎を引いて無言で応じ、タヴとヴィアベルが「了解」と短く答える。女の騎士は光翼をひと打ちして先行し、タヴはクォータースタッフを構え、ヴィアベルは短杖を握り直してその背を追い、三体のセウガシへ向かった。男の騎士は円盾を半身に構え、ゼンゼの左斜め前へ出た。丸い幕が薄く広がり、荒地の砂粒が風のように縁を回る。

 

「一つ、加護を結ぶ。手を」

 

 男の騎士は空中で静止してゼンゼに向き直ると、剣の峰を円盾の縁に一瞬あずけて右手を自由にし、腰の小袋から薄い白金の指輪をひとつ摘み出した。ゼンゼが「これは?」と首を傾げる。

 

「《Warding Bond(守りの紐帯)》だ。互いに指輪をはめ、私が触れて祈ることで、汝のあらゆる抵抗力を高め、あらゆる損傷の半分をこの身が引き受けることができる。対の片方は既にこの篭手の下に着けてある。私が倒れるか、離れすぎれば切れる。必要なら私が解く。よいか」

 

 ゼンゼは短く息をのみ、視線を一度だけ落とした。自分の傷が彼へ流れる。その事実が胸の内で小さな抵抗となって残る。だが彼女は、無用の死を何より嫌う自称平和主義の実務家だ。自分が崩れれば前線が崩壊し、被害は広がる──そう計算して、受け入れる決断は一拍で固まった。

 

「……分かった。だが、私の代わりに死ぬのはやめてくれ」

 

 男の騎士は一瞬だけ目を細め、頷きとも首を振るともつかぬ仕草で応えると、右手で指輪をゼンゼの掌へそっと載せる。ゼンゼはそれを受け取り、右手の薬指に通した。男の騎士は円盾を前腕の革帯で固定したまま、空いた右手の篭手でゼンゼの肩に軽く触れ、同時に左の前腕ごと円盾の縁で小さく印を結ぶ。二人の指先の間に銀糸が一度だけほどけ、胸の奥に静かな涼しさが落ちた。ゼンゼは脈の拍が騎士のそれと一瞬だけ重なるのを感じる。楯幕の縁がわずかに濃くなった。

 

「行くぞ」

 

 男の騎士は円盾を構え直して前へ押し出し、ゼンゼは髪を締め直して騎士と同時に前へ突撃する。二人は空中で斜めの楔を作るように加速し、正面のネオセリッドへ距離を一気に詰めた。騎士の楯幕が一瞬だけ固くなり、正面から叩きつけられた触手の横薙ぎをわずかに外へ逸らす。ゼンゼはその隙に槍を差し入れ、縫い目の奥へ浅く刃を通す。粘液が細く飛び、外殻の縫合がまたうなりながら閉じる。騎士の腕がきしむ音がわずかに伝わってきたが、彼の足は崩れない。加えて、ゼンゼの肩へ走った衝撃は半分に薄められ、その残りが騎士の胸甲に鈍く跳ね返った。

 

「……助かる。引き続き援護を頼む。私が敵を刺す」

 

「任せておけ」

 

 言葉はそれだけで十分だ。ゼンゼは盾と槍を交互に繰り出し、騎士は楯幕の厚みを状況に合わせて細かく調整する。楯幕は広げすぎれば薄くなり、狭めすぎれば隙が増える。彼はそのどちらにも寄らない適度を保ち続け、ゼンゼの槍筋とぴたりと噛み合う角度を出した。剣ではなく盾で踊る騎士。イーリストレイの眷属らしく、戦いの所作は静かで美しい。

 

 一方、女の騎士は側面に展開するセウガシたちへ一気に距離を詰め、最初から後衛を狙って接近戦で圧をかけに行く。騎士の突進を通すため、タヴは後方上空の空域から《Mold Earth(大地変化)》で右前衛の足元の砂礫を一辺約一・五メートルの区画ごとに盛り上げたり浅く落としたりして凹凸の帯を作り、地面を難地形に変えて踏み込みを鈍らせる。ヴィアベルはタヴの左後ろの高所に位置を取り、並行して左前衛の手首と鍔元へ《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を正確に重ね、レイピアの軌道を弾いて前衛の足並みを乱す。

 

 後衛は触手の一本で杖を、もう一本でレイピアをすでに構えていた。杖に力を集めようとした瞬間、女の騎士の刃が一拍早く杖頭の線を押さえ、術の立ち上がりを潰す。後衛は即座にレイピアによる刺突へ切り替え、口腔の咬器も突き出して噛みつきも混ぜるが、女の騎士は角度を変え、剣の腹でレイピアを絡め取っては外へ払い、敵を間合いに入らせない。

 

 彼女の剣は軽く見えるが、振り下ろされる速度は速い。その間、前衛の二体はタヴとヴィアベルへ正面から《Scorching Ray(灼熱の光線)》を交互に放って応戦するが、後衛の援護に回る余裕はない。

 

 タヴは視界の端で、ゼンゼの髪がまたわずかに光るのを捉える。祝福は続いている。こちらはセウガシを崩すだけだ。彼は呼吸を一度だけ整え、女の騎士が後衛を押さえ込んでいる前面から視線を切らない。東側の荒地上空、地表から数メートルの帯。

 

 騎士は前面で大剣を斜めに構え、前衛二体の間へ角度を差し込んで進行を止め続ける。タヴは彼女の右後方の上空に留まり、ヴィアベルは左後方で角度を合わせる。三体はすでに二体前衛、一体後衛の三角陣を取り、前衛はレイピアを肩の高さに据え、後衛は杖を胸前で斜めに構えて援護の体勢を崩さない。

 

 そのとき、三体の皮膜の下で緑色の脈動が同時に走った。外殻の縁を細い光が一巡し、消えた直後、動きが粘りを失って滑らかに復帰する。前衛がタヴの作った凹凸帯に踏み込んでも歩調は乱れず、女の騎士が刃の腹で押し返しても身体の進みは鈍らない。地形や押し止めで移動が落ちない挙動は、移動阻害に耐える類いの加護を示す。タヴは《Freedom of Movement(移動の自由)》相当の効果を疑い、即座に解除を試みる。

 

 タヴは《Dispel Magic(魔法解除)》に《Subtle Spell(微細術)》を重ねて発動痕跡を消し、後衛のセウガシへ静かに術を投げ込む。皮膚の内側で脈動が一度だけ止まり、滑らかさが一拍だけ鈍る。直後、同じ緑の光が再び皮の下を走り、動きは何事もなかったように元へ戻った。解除は通るが、効果はほぼ即時で再起動する──彼はそう結論づけ、数メートル離れた位置にいるヴィアベルへ短く告げる。

 

「拘束耐性を付与する加護が常在化している。直接攻撃で削るぞ」

 

「神様の景品配りは太っ腹だな。礼拝一回でその機能が付くなら、今から祭壇に走ってもいいぜ」

 

 二人は言い終えるより先に火力を重ねる。ヴィアベルが《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を左前衛の眉間へ通し、タヴは《Eldritch Blast(怪光線)》を右前衛の胸板に連射した。前衛二体は薄い精神障壁を身の周りに立て、表層の空気が水面のようにたわんで弾ける。だが防ぎ切れなかった一条が膜の隙を抜けて迫り、受けた個体は胴を素早くくの字に折って体節を平らにし、腹の多数の脚で地面を掻いて横に滑るように退き、入射角を外して回避した。

 

 後衛は女の騎士と至近で鍔迫り合いを続け、片方の触手で杖頭を守りつつ、もう片方の触手でレイピアの刺突を差し込み、口縁の鉤歯を開いて噛みつきも混ぜ、近接の圧を切らさない。女の騎士は大剣の腹でレイピアを絡め取って外へ払い、噛みつきは刃の棟と肩の捻りで頬をかすめさせるに留める。背の光翼で短く浮き下がって間合いを調整し、高さを保って刺突線をずらす。

 

 前衛二体もすぐさま《Magic Missile(魔法の矢)》で反撃し、光の矢がタヴとヴィアベルを正確に追う。タヴは《Shield(盾)》で応じ、ヴィアベルも《防御魔法》を素早く立てて受け流す。光弾の雨が一瞬途切れ、場が硬直する。

 

 だが接近戦を行う女の騎士の動きが僅かに鈍り始める。足運びが一瞬だけ遅れ、刃先が少し二重にぶれた。三体の周囲に漂う精神のざわめきが、一定距離に入るごとに理性を乱す波となって押し寄せている。タヴは古い記録で読んだ内容を思い出す。《神話位階》に達したセウガシが纏い続ける狂気の圏──《Aura of Mythic Madness(神話狂気のオーラ)》だ。

 

 意識が保てる者でも拍ごとに心を揺さぶられ、ときに抵抗を外し続ければ長く正気を損なう。守りに自信がある者でも、相手が力を注げば一時的にその守りを失わされることがある。効果は精神に作用し、視界や踏み切りの感覚を細かく狂わせると記されていた。いま彼女が受けているのは、その軽い段階だと見て取れる。

 

 タヴの視界の先で彼女は大剣を握り直し、息を吐いて吸い、標的の喉元だけを見る動作で意識を刃へ戻す。タヴは左手のクォータースタッフを軽く掲げ、先端を騎士へ向けて《Message(伝言)》の囁きを送る。

 

「無理をするな。援護するから距離を取ってくれ」

 

 彼女は持ち場を離れることに一瞬ためらう気配を含ませながらも、自身の足取りと視界の乱れを冷静に測り、離脱を選ぶ。《Message(伝言)》の効果で、囁きをタヴへと返した。

 

「……承知よ。上へ抜けて、弓に替える」

 

 女の騎士が返答した直後、タヴは向けたクォータースタッフの先端から四条の《Eldritch Blast(怪光線)》を同時に解き放つ。二条は後衛に叩き込み、残る二条は左右の前衛へ撃ち分ける。黒い光に押された三体の軌道がわずかに乱れ、反射的に間合いを一歩引く。

 

 その一瞬を逃さず、女の騎士は実体のない光翼をひるがえして高度を上げ、《Aura of Mythic Madness(神話狂気のオーラ)》の外側へ一旦離脱した。離脱と同時に大剣を背に収め、肩に掛けていた長弓を抜き取る。

 

 範囲外に出ると、彼女の足取りの遅れと視界の二重化が薄れる。女の騎士は外縁で姿勢を整えて矢を番え、遠距離攻撃に切り替える。ヴィアベルは位置を変えず、短杖の先を左前衛の目と喉のラインに置いて狙いを固定する。

 

 次の刹那、ヴィアベルが動く。セウガシの重心線ごと持ち上げる要領で《物を浮かす魔法》を掛け、接地反力を奪って前進の勢いを殺しにかかった。腹節の土がぱらぱらと落ち、レイピアの水平がわずかに崩れる。しかし対象は即座に自身の《Levitate(空中浮揚)》を起動する。

 

 体重をほぼ無視できる程度に軽くし、二本の触手の先端だけを地面へ軽く突き、砂利と瓦片を引っかきながら、体幹の向きは前を向けたまま「横へ滑る」力を得る。浮遊で摩擦を限りなく落とし、触手のスナップだけで側方へ身体を送る動きだ。ヴィアベルは忌々しげに舌打ちし、高度を一段上げて射線を維持する。

 

 直後、二体の前衛が同時にこちらへ圧をかけ、タヴとヴィアベルをそれぞれ対象に取って《Dispel Magic(魔法解除)》を放つ。セウガシの《Dispel Magic(魔法解除)》は《Innate Spellcasting(生得呪文発動)》によるもので、発動の兆候がほとんどなかった。魔法が解除される仕組みは単純だ。対象に掛かっている三階梯以下の魔法効果は自動で消え、四階梯以上は術者の練度が成否を分ける。高位の《Spell Slot (魔力の器)》で放てば、その器以下の効果は自動で落ちる。

 

 タヴが坑道調査の直前に自身に施した《See Invisibility(不可視視認)》は二階梯のため即座に効果が消える。ネオセリッドとの戦闘中に《Wish(願い)》で再現した《Mind Blank(空白の心)》は八階梯の魔法で、今回の解除枠では届かず残った。さらに、ゼーリエから施された《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》は、術式の構造が複雑すぎるのか、あるいはアーティファクトや神格に連なる等級で組まれているせいか、解除の照準にすら掛からない。流石はゼーリエと言ったところだろう。

 

 そして、《Wind Soul(風の魂)》はそもそもタヴ自身の身体機能に編み込まれた恒常効果であり、外部からの解除の対象にならない。対照的に、ヴィアベルが外付けしていた術式である《飛行魔法》はいきなり切れた。

 

「クソっ、術式が──!」

 

 自由落下の初速が一気に乗り、ヴィアベルの外套がばさりと膨らむ。タヴは即座にヴィアベルへ《Feather Fall(軟着陸)》を掛ける。落下速度そのものを大きく落として、彼の身体が地面に激突するのを未然に防ぐ。

 

「落下速度は抑えた。姿勢だけ保ってくれ」

 

「恩に着る。すぐに《飛行魔法》で上がる」

 

 ヴィアベルの外套がふわりといなして空気をつかみ、高度は下がるが身体は安定する。だが地表へ近づいたその直前を、前衛の二体は逃さなかった。左右から扇状に走路を切り取り、斜め前へ一気に詰めてくる。角度はヴィアベルの胴を十字に挟む構えだ。

 

 後衛のセウガシは杖頭の光を広げ、ヴィアベルへ術を向けようとする。女の騎士は数十メートル上空で弓を素早く引き、一本目の矢を杖を握る触腕の根元の内側、曲がる側の柔らかい部分へ正確に打ち込む。握りがわずかに緩んだ瞬間、続けて二本目を杖頭の脇へ叩きつけ、光の向きを上へ弾かせた。狙いの線がヴィアベルから外れ、後衛は反射で標的を失う。セウガシは即座に彼女の方へ頭を巡らせ、大口を開いて深紅のガスを扇状に吐き出し反撃する。

 

 金属を溶かしかねない酸味の匂いと生臭さを帯びた霧が広がり、吸い込めば強い毒が身体を蝕む。彼女はセレスチャルとしての生得の毒耐性で初動の毒に耐えつつ、翼の角度を変えて空域を移し、ガスの外へ抜け出した。だが前衛はなおヴィアベルへ迫っており、間合いの圧は緩まない。

 

 タヴは即断する。敵の《Counterspell(呪文妨害)》を警戒し、《Subtle Spell(微細術)》で魔力を練る。合図も声もなく彼の頭上に炎の塊が出現し、凄まじい速度で下方へ送り出された──《Fireball(火球)》だ。迫るセウガシ二体の上半身を確実に包み込み、同時に地表の延焼と周囲への熱の巻き込みを最小化するため、爆心の中心をやや高めに取る。半径六メートルの球体の下端だけが地面をなめる位置で爆発した。

 

 熱の膜が瞬く間に膨張し、圧が破れて乾いた突風が草むらの穂を寝かせた。二体は身をくの字に折り、外周を抜けて直撃を避けるように散開して後退する。同時に《Absorb Elements(元素吸収)》で熱を吸収して魔力として保持し、その熱をレイピアに纏わせる。次の近接攻撃に熱の追撃を乗せるつもりだ。

 

 女の騎士は上空で弓を収め、大剣を抜いて構え直すと、後衛のセウガシへ向けて高度を落とし始める。ヴィアベルはその間に与えられた時間を使い、《飛行魔法》を再起動して高度を取り直した。そのとき、三体のセウガシがぴたりと動きを止めた。触手を胸前でゆるく組み、杖を掲げ、体幹を低く折る。祈りにも似た奇妙な所作だが、矛先は自分たちではない。三体の顔のない視線は、遠く別の戦域へと向いていた。

 

 そちらからは、言葉にしがたい不快な気配が波のように押し寄せていた。タヴも見ていた。ヴィアベルも同じ瞬間を目にした。遠目の閃きと影の揺れだけで、どの種の所行かは十分に伝わる。言葉はいらない。女の騎士も同じものに気づいていたのだろう。彼女の指が柄を強く握り直し、低い声が落ちる。

 

「許しがたい冒涜だ……!」

 

 ヴィアベルは南西へ一度だけ鋭く視線を走らせ、短杖を上げて息を吐きかける。

 

「クソが……!このイモムシ野郎共をさっさと片づけて──」

 

 言い切る前に、景色のほうが先に反応した。タヴの周囲で風が逆巻き、彼の下の地表で土埃が吸い上げられていくつもの渦が立つ。ローブの裾が上へ引かれ、クォータースタッフの先端に青白い静電の輪が灯る。

 

 空気は乾き、鼻腔に微かな雷雨後の空気のような匂いが刺さる。《Mind Blank(空白の心)》に覆われた彼の魔力は探知でも占術魔法でも掴めない。だが、目と肌で分かる嵐だけが、ここに実在した。女の騎士は思わず目を見張り、ヴィアベルの喉が小さく鳴る。三体のセウガシも祈りを止めて同時にタヴを仰ぎ見ると、触手の先が恐怖に震え始めた。

 

 ソーサラーには《Flexible Casting(柔軟な呪文詠唱)》という能力がある。自身の内なる魔力の源を《Sorcery Points(術源点)》として溜め、必要に応じて《Spell Slot (魔力の器)》に変換できる機能だ。逆向きの変換──余らせた《Spell Slot (魔力の器)》を《Sorcery Points(術源点)》へ崩して戻すこともでき、六から九階梯の《Spell Slot (魔力の器)》であっても「崩す」こと自体は可能だ。

 

 ただし「鋳造」できる新しい《Spell Slot (魔力の器)》は五階梯までに限られ、それ以上は世界の理が許さない。タヴは遠征や長期戦で、余剰を崩して不足を補うこのやり繰りを常の手段として使ってきた。

 

 彼はすでに《Wish(願い)》で九階梯の《Spell Slot (魔力の器)》を消費していたが、喉の奥で息を一つ裂き、溜めた《Sorcery Points(術源点)》を逆流させて九階梯への変換を強行する。余らせた《Spell Slot (魔力の器)》や《Sorcery Points(術源点)》を砕いては溶かし、幾筋も束ねて圧縮し、禁じ手の比重で無理やり鋳なおす。支払いきれない差額は自分の身で払う。

 

 耳の後ろで血管がはじけ、鼻腔に鉄の匂いが滲む。こめかみの内側が焼けるように脈打ち、視界の縁に白いひびが走る。指先の皮膚に細かな裂けが生まれ、皮下で稲妻の細線が瞬いた。周囲の空気には乾いた焦げの匂いが混じった。タヴは無言、無表情のままクォータースタッフを持ち上げ、右前のセウガシへゆっくりと向けた。死刑宣告に等しい動きだ。乾いた声が、静かに紡がれる。

 

「ここで終われ。名を捨てろ」

 

 三体のセウガシが同時に反応する。杖先から妨害の魔法が三条、空間の縫い目を逆撫でするように《Counterspell(呪文妨害)》が走った。だが、相手の魔法は九階梯。これを即座に断ち切るには同格の《Spell Slot (魔力の器)》で押さえ込むか、あるいは術者としての練度で高い閾を越えねばならない。彼らに同格の《Spell Slot (魔力の器)》はない。足りない階梯のまま伸ばされた三本の断ち糸は、重さを掴み切れずに弾かれ、空のほうへほどけて消えた。

 

 標的となっている右前のセウガシは、その失敗で全てを悟った。防ぐ手はない。ならば術者の声と視線が届く間合い──魔法の射程──の外へ出るしかない。そう決めるや、複数の脚をばらばらに揉み合わせ、砂を噛んで横へ跳ぶ。石片がはぜ、体幹をくねらせて必死に距離を取ろうとする。タヴは視線すら動かさない。前に向けたクォータースタッフはそのままに、声だけを短く落とした。

 

「死ね」

 

 セウガシは振り返ることもできず、即死した。杖がこつりと石を打ち、複眼が一つずつ光を失う。命は、もうどこにもない。

 

 *

 

 数分前──ネオセリッド戦域。ゼンゼはタヴから分け与えられた《Wind Soul(風の魂)》の加護で地表すれすれの帯を滑り、男の騎士と肩を並べて巨体の正面に立つ。彼の背では実体のない光の翼が静かに打ち、円盾の縁が月光色にかすかに明滅する。ゼンゼの右手の薬指には白金指輪が光り、騎士との間に目に見えぬ糸、《Warding Bond(守りの紐帯)》の繋がりが一度だけきらめいては消える。

 

 巨体──ネオセリッドはうねる胴を低く伏せ、太い触手を面で押す薙ぎと、半歩だけ角度を外した突きを交互に繰り出す。予備動作は薄く、空気だけが見えない刃物で撫でられたようにざわめく。口奥の襞が開くたび、石と砂に酸の匂いが混じり、舌の根に金属の苦みが残る。

 

「月の巫女よ、道を明らかに──迷いを祓い、刃と心に灯を」

 

 男の騎士が短く祈り、胸前で剣と盾を交差させる。微かな鐘のような音とともに、彼とゼンゼの周囲に粒のような光が降る。《Bless(祝福)》だ。以後、二人が斬り突き、あるいは抗うたび、銀の火花が軌道や踏ん張りをわずかに修正してくれる。楯幕の前縁が厚みを増し、ゼンゼの髪は槍・盾・鞭の三形へ素早く編み替わる。槍は継ぎ目を探り、盾は面で受けて角で流し、鞭は打ち払って距離を刻む。

 

 優勢なのは巨体だ。触手は一本ごとに重さが違い、軽い打撃で盾を撫でて軸をずらし、次の重い一撃で押し潰しにくる。ゼンゼの防ぎは間に合うが、風圧だけで腕の骨が鳴る。そこへ、頭の奥に白い衝撃が走った。目に映るものは揺れないのに、思考の地面だけが一瞬沈む。続けざまに、同種の衝撃が間を置かず押し寄せる。

 

 《Mind Blast(精神爆砕)》の波だ。ゼンゼは呼吸を浅く刻み、《Bless(祝福)》のかすかな導きに意識を合わせて鈍さを押し返す。衝撃のたび、右手の指輪がちり、と冷たく鳴り、その半分が男の騎士の身へ流れていく。《Warding Bond(守りの紐帯)》が確かに働いている。

 

 ネオセリッドが尾側の節で地を押さえ、前半身を渦のようにたわませて顎を引き絞る。触手で空を掻いて体を引き寄せた次の瞬間、ばねを解くように頸部を伸ばし、狭い角度で喉元へ噛みつきに来る。ゼンゼは槍で顎の棘列と口角の間を叩き、てこの力で頭をひねって軌道を逸らす。男の騎士は円盾の縁で触手の横薙ぎを刈り、返しの縁打ちで根元を打って一歩押し戻す。二人の連携は噛み合うが、巨体の圧は衰えない。さらに白い衝撃が畳みかけられ、耳鳴りの中で視界の輪郭が薄くなる。

 

 刹那、空気の色がわずかに変わった。祈りの粒が消え、右手の指輪の冷えがふっと途切れた。ネオセリッドの口器が音もなく鳴り、目に見えない一刀が走ったのだ。《Dispel Magic(魔法解除)》がゼンゼを断ち、同時にゼンゼにかかっていた《Bless(祝福)》も、《Warding Bond(守りの紐帯)》も霧のように解けた。《自身の髪の毛を自在に操る魔法》で編んでいた髪の結び目もほどけ、盾と槍の形が崩れる。

 

「くっ──!」

 

 ゼンゼが髪を再編しようとしたその隙を、触手が容赦なく埋めた。一本が面で押し、もう一本が角度を変えて叩きつけ、さらに別の一本が遅れて追い打ちをかける。ゼンゼは咄嗟に《防御魔法》を起こし、六角板が蜂の巣状に連結したような障壁で受け止める。しかしそれは魔法攻撃には強くても、物理的な質量攻撃の連打には脆い。

 

 二撃、三撃と続くうちに板がひび割れ、四撃目で砕けた。圧し折るような衝撃が胴を貫き、肺から息が勝手に抜ける。だが彼女は崩れない。イーリストレイから賜った《Blessing of Health(生命の祝福)》が、臓腑の奥で静かに力を張っている。骨は鳴るが折れない。視界の黒い縁取りを噛み殺し、髪を再び束ね始める。

 

 男の騎士が割り込む。円盾でゼンゼの前を横切りざまに叩き、最も重い触手の角度を跳ね上げると、空いた手でゼンゼの肩へ触れた。淡い温もり──《Cure Wounds(傷治癒)》が指先から流れ込む。裂けた皮膚の縁が寄り、打撲の芯がほぐれて呼吸が戻る。触れたまま彼は低く告げる。

 

「下がって組み直せ」

 

 ゼンゼは頷き、風に身を預けて数間退きながら髪を再編する。束はたちまち盾と槍に戻り、先端は継ぎ目を探す細い針のように尖る。騎士は一歩も退かず、円盾を斜めに構え、剣先で巨体の注意を正面に留める。そのとき、ゼンゼは脳幹の奥に、氷の針のような圧が細く集まるのを感じる。ネオセリッドの見えない刃の照準が彼女へ向けられていた。

 

「我と汝、今は一対──こちらを見よ」

 

 何かの予兆を察知した男の騎士が呪文を唱え、《Compelled Duel(強制決闘)》──神の命で敵意を自分へ引き寄せ、術が続くあいだ相手は術者以外を攻めにくくなる魔法──が走る。遠ざかろうとするたびに判断力を試され、味方がその敵へ傷を与えたり、術者が離れすぎれば魔法は解ける。巨体の気配が収束し、触手の角度が彼へ寄った。さきほどまでゼンゼの心臓へ滑り込もうとしていた冷たい圧が、進路を変えて男の騎士へ向いた。彼は少しだけ肩を寄せ、視線だけでゼンゼを見て、言葉を二つだけ置く。

 

「汝に託す」

 

 ゼンゼは咄嗟に左手を胸前に上げ、召喚の糸を断つ印を結ぶ。《Charm of the Knight(騎士の贈り物)》の結び目を解いて騎士を元の世界へと還そうとしたが、一拍間に合わず、直後に彼は即死した。音も光も起きない。ただ世界の膜が乾いたようにきしみ、見えない杭が魂を打ち抜いたかのように、剣が指から滑り、円盾が静かに傾き、身体から力が抜け落ちる。

 

 ゼンゼから騎士に標的が切り替わったのは、《Compelled Duel(強制決闘)》で敵意を引き受けた彼の存在をネオセリッドが厭わしく思ったからか、それとも仕留めやすい方を先に選んだからか──理由は分からない。ただ冷酷な結果だけが残った。

 

 ネオセリッドの上空に、ぬめる色が咲いた。紫黒の油膜が虹を孕み、粘り気のある滴が花弁めいて開いては潰れ、眼球のような泡が無数に膨らんでは溶ける。匂いは甘腐れに鉄を混ぜたもの。名を呼ぶ必要のない遠いものが、犠牲を悦ぶ粘体の幻肢を伸ばして撫でるように震えた。祝福ではなく、供物を差し出した者へ与える濡れた称賛だ。

 

 ゼンゼは奥歯を噛み、髪の槍を構え直す。ネオセリッドが口腔をすぼめ、酸の扇を成す溜めに入った。狙いは──倒れた騎士の遺骸と、自分を同時に巻き込める角度。ゼンゼは風を足裏に噛ませ、《Wind Soul(風の魂)》の推力で遺骸へ切り込み、髪を瞬時に帯へ束ねる。剣帯と円盾の取っ手という硬い把持点だけを一拍で引っ掛け、遺骸を円錐の外へ跳ね出す。同時に彼女自身は逆方向へ身を切り、扇の縁から抜けた。酸線は遺骸があった空間を焼き、白い蒸気が甲冑の縁で弾ける。飛沫が頬へ届く寸前、髪の盾が火花のようにそれを弾いた。

 

 だがネオセリッドの喉の震えは止まらない。次の噴出は、今度こそ遺骸へ。ここで遺骸を再び範囲外へ運ぶために自分が前へ出れば、回避が間に合わず自分は確実に酸に覆われる。彼はゼンゼを生かすために死んだ。その意志を無にする捨て身は許されない。空気が一度だけ擦れ、皮膚の裏にひび割れた思念が押し入ってくる。ネオセリッドは本来言葉を理解せず、喋れない。だが今、誰かの手が動物の喉に人の声を掴ませたように、意思の形だけが無理に編まれた。

 

【い……ガイ/カ……オマエ。エラベ】

 

 ゼンゼは返事を待たない。右の掌から白銀の魔弾──《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を撃つ。閃きは喉奥を正確に貫くはずだったが、巨体の輪郭がぬるりと撓み、空間が裏返る。予備動作のない短距離移動。魔弾は空を切り、次の瞬間、ネオセリッドは遺骸の傍へ現れた。

 

 薄緑の短い噴流が先に走り、遺骸の肩口から胸郭を斜めに洗う。布と皮膚が泡立って崩れ、金具が白く曇り、骨の縫い目が露出する。続いて、喉がひとつ鳴る。口縁の歯列が外へめくれ、咽喉の内側に並ぶ棘が螺旋に立つ。吸い込みが始まると、酸で脆くなった頭蓋の接合がばきりと割れ、脳漿と骨片が渦に攫われた。

 

 上半身は咽喉へ半ばまで飲み込まれ、咽頭の棘が肉を削り、酸の唾液が白い煙を上げる。これはネオセリッドが持つ本能による捕食行動だ。だが、そこへ至る手順──最初に自分へ向けられた見えない一撃を騎士へ逸らし、初撃の酸の位置を回避しやすいように放ち、今の酸噴射と吸い込みで確実に、残酷に捕食する様子を見せつける──すべてが、誰かの悪意による演出だとゼンゼはそこで理解する。罪悪感と無力感を、わざと植え付けるための順番だ。

 

 粘る幻肢がまた空に芽吹き、紫黒の油膜がぬらりと笑ったように揺れる。ぬめる掌の幻影がはっきりと拍手を打ち鳴らし、良い見世物だったと言わんばかりの湿った称賛が空気を汚す。あからさまな侮辱だ。喉の奥で何かが軋み、ゼンゼの視界の縁が冷たく細く光る。

 

【……クモツ。きょう──】

 

「喋るな」

 

 自分の声とは思えない低さで言葉が落ちた。胸の奥で別の熱が灯り、月光の細い糸が舌の裏に触れる。怒りは静かで、刃の背のようにまっすぐだ。ゼンゼの口を借り、もう一つの声が短く吐き捨てる。

 

「お前のそれは祈りではない。喉を閉じろ」

 

 こいつは私が殺す。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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