界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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タヴは強引に即死魔法を行使した反動で、呪文回路に不調が生じてしまうが、持ち前の戦闘技術でセウガシを完全に制圧する。同時刻、ゼンゼらはネオセリッドに押され、神名を楯にした暗示の術で跪かされる。タヴの援護で暗示を解除し、ネオセリッドと激しい攻防を繰り広げる。神の力を宿したネオセリッドの圧倒的な力にゼンゼは折れかけるが、仲間の奮戦と激励で持ち直し、聖なる力を髪槍へ重ねて決着する。


#15:嵐の側で歌う者

 セウガシの一体が崩れ落ちた。タヴが短く発した言葉の余韻だけが空気に残る。先の戦闘で裂けた外殻から紫の粘液が流れ、杖を支えていた触手も半ば垂れていた。《Power Word: Kill(力の言葉:死)》が捉えたのは、そこまで細った命の火だ。声が届いた瞬間、抗う動きも悲鳴もなく、残っていた力だけが断ち切られた。

 

「声だけで殺しやがったのか……おっかねえ魔法だな」

 

 ヴィアベルが低く吐き、短杖を握り直す。彼の言葉に答えるように、空気の性質がはっきり変わった。タヴの周囲で渦が太り、砂粒が逆巻き、風の層が何重にも巻き付いて透明な壁のようになっていく。巻き上げられた土埃が光を乱し、耳鳴りのような低い唸りが一定の間隔で胸骨へぶつかった。近づこうとした女の騎士とヴィアベルは、顔をしかめて高度を上げる。前へ出れば、突風に叩き落とされる。

 

「おい、どうなってんだこの風は! 止められねえのか!」

 

 ヴィアベルは思わずタヴに怒鳴ったが、叫びは層になった風に細かく裂かれて散り、彼へは届かない。タヴ自身にも反響のみが骨に返る。女の騎士が首を横に振った。風は術者の意志で生じた魔法ではなく、魔力の漏出による厚い気流の壁で、タヴの意志で解除できる類のものではなかった。

 

 彼は唇を固く結び、クオータースタッフの先端で風の層を押し戻そうとする。クオータースタッフを下げれば渦も沈むが、次の呼吸で二重に膨らみ、袖と髪を上へ巻き上げた。《Flexible Casting(柔軟な呪文発動)》で九階梯の《呪文スロット》を無理に鋳直した熱が、まだ胸骨の裏へ貼り付いている。意識を向けるたび、渦の外縁が太くなった。

 

 タヴは《ヘクスブレード》へ続く黒い糸道を探り、《Eldritch Blast(怪光線)》の術式を指先へ引こうとした。返ってきたのは、擦れた金属に似た臭いと、視界の奥で継電の印が順に消える感覚だけだ。続いて普段の《呪文スロット》へ意識を伸ばす。こちらも胸の途中で硬い壁に当たり、指へ届く前にほどけた。

 

 右手の指先を合わせ、《Shocking Grasp(電撃の手)》の最小の型を作る。掌で青白い火花が短く跳ねた。息と指へ染みつくまで繰り返した《初級呪文》は、《呪文スロット》を介さず、嵐の血脈から直接立ち上がる。火花を黒い糸道へ寄せても色は変わらない。タヴは掌を閉じ、残った痺れの強さだけを覚えた。今、応じるのはこの流れだけだ。

 

 残る二体のセウガシは、最初の一瞬こそ触手の先を震わせて後ずさったが、すぐに互いを一瞥して陣形を詰め直した。先ほど遠方へ向けて行った祈りめいた所作の名残なのか、背後から圧す意志に促されるように、二体は低く身を折って斜めに滑る。逃げる素振りはなく、左右から風の縁を挟んで、味方との合流を許さない角度へ回り込んだ。

 

 女の騎士は風の外縁でタヴへ指先を向け、唇だけを小さく動かした。《Message(伝言)》の囁きが、暴風の唸りを越えて彼の耳元へ届く。

 

「相当な無茶をしたわね……もし、戦闘継続が難しい状態なら戦域から離脱して」

 

 囁きはタヴの耳の奥にそのまま届く。彼は《Message(伝言)》の効果に乗せて囁き返す。

 

「いや、問題ない。それより二人はゼンゼの援護に回ってくれ。あのままだと危険だ」

 

 返答を聞いた女の騎士は、風の縁に沿って一度だけ高度を下げた。外からでも、タヴの肩の筋が不自然に張り、瞬きの間隔が乱れているのが見える。クオータースタッフの先はかすかに揺れ、呼吸の深さも一定ではない。

 

 彼の周囲で荒れ続ける暴風は、魔法というより制御から漏れ出した魔力そのものだ。近づけば巻き込まれ、離れれば、この場には彼一人が残る。女の騎士は口を開きかけ、止めた。

 

 ヴィアベルは短杖の石突きを掌で一度返し、女の騎士からタヴの強張った顔へ視線を移した。柄を握る指に力がこもる。女の騎士はうなずく代わりに、指先で合図してヴィアベルの肩口へ身を寄せ、風の外縁で手短に要点を伝えた。

 

「彼は二体を抑えると言っている。私たちはゼンゼの援護へ向かえと」

 

「……ああ? あんな状態のやつに、一人で任せんのかよ」

 

 ヴィアベルの短杖が、風の縁を指したまま止まった。荒れた気流は飛行制御を乱す。タヴの暴風に触れれば味方も落としかねず、接近援護も難しい。向こうではゼンゼがじりじりと押し込まれている。二人は視線を交わし、女の騎士が先に頷いた。

 

「仕方ねえ……巻き込まれても洒落にならねえしな」

 

 女の騎士は再びタヴへ向けて指先をそっと伸ばし、《Message(伝言)》を送り、短く告げる。

 

「承知した。あなたはここで二体を止めて。私たちはゼンゼの援護に回る」

 

 そして去り際、女の騎士は胸に手を当て、月の印へ軽く指を触れた。彼女はイーリストレイの使徒で、旅の踊り手や斥候が運ぶ報せの網を通じて、名だけは何度か見ている。幼い頃から異質な魔力に晒され、長く一人で多元宇宙の戦場を渡り歩いた術者がいる、と。その名がタヴだった。だからこそ、言葉を選ぶ。

 

「戦いは一人でもできる。でも、勝ち残るのは仲間がいるときよ。覚えておいて」

 

 短い言葉は、彼の耳の奥に清澄な余韻を残した。同時に、その声には小さな加護が載っていた。《Bardic Inspiration(バードの声援)》──音楽や言葉を通して相手を鼓舞し、いざというときにわずかな幸運を呼び込む祝祷だ。

 

 タヴは返事をしなかった。顎だけで小さく肯き、視線を二体へ戻す。女の騎士とヴィアベルは風の縁を大きく迂回し、ゼンゼの戦場へ向かって加速した。

 

 *

 

 タヴは敵の輪郭を視界の端へ置き、訓練で叩き込まれた抑制手順どおりに呼吸を四つに割る。息を吸い、二拍止め、吐きながら左手の親指球を爪で強く押す。痛みへ意識を寄せ、視線は手前のクオータースタッフの先端に固定した。

 

 これは機構の訓練場で何度も使った手順だ。大きな魔法や長い戦闘のあと、過去の光景が現在の音や匂いへ重なると、判断より先に身体が固まる。息を数え、掌の一点へ痛みを集めれば、速すぎる鼓動は少しずつ間を取り戻す。それでも暴風は弱まらず、巻く層だけが濃さを増した。タヴはクオータースタッフを、近づく二体の間へ向け直す。

 

 タヴは地表から三メートルほどの空中に留まっている。《Wind Soul(風の魂)》の一部は、いまもゼンゼの身体を支えるため遠くへ伸びたままだ。背へ回せる気流は普段より薄く、ひと息で抜けられる距離にも二度風を噴かせなければ届かない。離脱へ移れば、その一拍を二体に狙われる。

 

 下では、セウガシ二体が互いに合図し、腹節を杖で小さく叩いた。杖頭の輪が短く光り、《Levitate(空中浮揚)》で体重を抜いた二体が、触手で地面を掻いて滑るように間合いを詰めてくる。左右へ開き、片方が近接、片方が遠隔援護の位置を取った。

 

 タヴはクオータースタッフを胸の前で横に構え、喉の奥で短い呪句を発する。《Lightning Lure(電撃の引き寄せ)》の青白い鞭が、右の個体との間を一息に走った。

 

 右指を開くと静電の輪が集まり、青白い鞭が右の個体の胸板に絡んだ。《Levitate(空中浮揚)》で軽くなったセウガシの胴が半ば宙へ引かれ、暴風の縁に触れた瞬間、彼の衣の裾が強く吸い上がり、周囲で雷光が爆ぜた。

 

 送り出したのは最小の雷だけだった。だが青白い鞭が外殻へ触れた途端、《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》の風が足元から噴き上がり、《Heart of the Storm(嵐の中心)》の雷光まで肩口を走る。反動で腕が外へ開き、クオータースタッフの先が一瞬下がった。小さく作ったはずの術へ、別の力が横から雪崩れ込んでいる。

 

 肩を這った放電は太さが揃わず、肘の内側で枝分かれしてから暴風へ散った。胸の奥に残る熱も、それに合わせて強弱を繰り返す。タヴは次の火花を起こす前に呼気を短く切り、クオータースタッフを持つ左腕を胴へ寄せた。暴発が同じ方向へ来るなら、せめて姿勢だけは奪わせない。

 

 左の個体が即応で杖を傾け、赤白の光条を三本、《Scorching Ray(灼熱の光線)》を斜めに重ねて放つ。タヴの右手が条件反射で上がり、《Shield(盾)》の印を切りかけ──術式は途中で霧散した。

 

 印は盾の輪郭まで組み上がる前に砕けた。それでも身体は訓練どおり防御の完成を待とうとする。タヴはその半拍を奥歯で噛み潰し、身をひねって射線を外した。二条は暴風に千切れて消えたが、一条が外肩を焼き、布の下で皮膚が熱く噛まれる。焦げた匂いが鼻の奥に刺さった。

 

 右の個体がレイピアで喉を狙って跳ね上がり、左の個体は《Levitate(空中浮揚)》で軽く身を滑らせて死角を取る。距離が九メートルを切った瞬間、《Aura of Mythic Madness(神話狂気のオーラ)》の波が頭蓋の内側を撫でた。

 

 地平が右へ傾き、飛びかかるレイピアの銀が一拍遅れて伸びた。頭では正面と分かっているのに、身体は斜め下から迫ってくると訴える。踏み出すはずの右足へ命令が届く頃には、視界の中の刃がもう次の位置へ移っていた。

 

 《神話位階》の個体へ注がれた権能が、視覚と平衡感覚、身体の位置を捉える感覚をわずかずつ食い違わせている。思考は失われていない。それでも、避ける方向を決めてから身体が動くまでに、致命的な半拍が生まれた。

 

 タヴは《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》で後退しようとするが、反応が遅れた。先にレイピアの軌跡が迫り、刃の銀が伸び縮みして見えて間合いの目測がわずかに狂う。咄嗟にクオータースタッフの先端を斜めに差し入れて刃筋を外へ滑らせるものの、完全にはいなせず頬を浅く裂かれる。熱い線が走り、薄い血が散った。

 

 受け流しで稼いだわずかな時間で身を沈めるが、右掌の置き所は一瞬だけ迷子になる。指先の合図が頭の号令に追いつかない。それでも訓練で獲得した条件反射で身体の方から手を導き、触手基部の節間──腹側の体節の合わせ目へ修正して置く。《Shocking Grasp(電撃の手)》を最短で流すと、薄い外殻の裏で青い火花が踊り、体幹の筋が一時的に痙攣した。

 

 左の個体が杖を構えたのを視界の端で捉える。詠唱が喉で絡み、出遅れかけた。タヴは《Quickened Spell(呪文高速化)》で術式の構築を一気に進め、乱れた呼吸の合間へ残る呪句を押し込む。《Lightning Lure(電撃の引き寄せ)》が走り、引き寄せられた胴が暴風の縁へ滑り込む。

 

 それと同時に右掌を胸前に鋭く打ち、至近距離で《Thunderclap(大雷鳴)》を叩きつける。彼の周囲およそ一・五メートルに雷鳴の衝撃が弾け、二体の体幹が同時に沈む。外殻の表では薄い精神膜が強くたわみ、触手の根がばらついて姿勢が崩れた。

 

 間を置かず、追撃の《Heart of the Storm(嵐の中心)》が放つ雷鳴の音圧が周囲へ散って体節の合わせを鈍く揺らし、二体を一拍怯ませて砂を低く跳ね上げた。だがセウガシたちは器用な脚で踏ん張ると、距離を取り直して次の攻撃へ構えを整えた。

 

 タヴの思考には先ほど頭を撫でた狂気のざわめきがまだ薄く残っていた。音が膜越しに聞こえるような鈍さが抜けない。彼は胸の奥で舌を鳴らし、セレスチャルの騎士から授かった《Bardic Inspiration(バードの声援)》の詩句を意識の底から引き上げる。短い節を心中で明確に刻むと、頭内の濁りが一枚剝がれ、視野の端のふらつきが止まり、ずれていた時間感覚が一致する。

 

「お前らごとき、《初級呪文》だけで十分だ」

 

 タヴは二体へまっすぐ視線を据え、肩の力をわずかに落として吐き捨てるよう告げた。クオータースタッフの先から揺れが消え、身体を送る風と右手の印が同じ拍に戻る。

 

 右の個体がレイピアの切っ先を跳ね上げるのと同時に、タヴは身体を二体の間へ送り込む。《Twinned Spell(二重術)》で《Shocking Grasp(電撃の手)》を編み、左手に握るクオータースタッフの先端を左の個体の腹側の合わせ目へ確実に当て、同時に右手を伸ばして右の個体の頚節の根を指先で取る──はずだった。

 

 右の個体は半身を捻って一瞬早く間合いの外へ滑り、右手の接触は紙一重で空を切る。だがクオータースタッフの先は届き、左の個体の外殻の下で青白い火花が弾ける。触手の基部がびくりと痺れ、体幹が沈んだ。

 

 回避を終えた右の個体がすぐさま反撃に転じ、レイピアの刺突が喉元を正確に狙って伸びる。タヴは体軸を傾けて線を外へ滑らせ、刃先を肩の外に通して抜けると、《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》の推力で一段下がって距離を取った。

 

 その退き際、痺れていた左の個体が胸郭を大きく膨らませ、口腔から深紅の毒ガスを扇状に吐き出す。タヴは掌を開いて風の層を急激に立て、暴風で円錐の濃い帯を左右へ裂くように払い分けた。鼻腔に生臭い悪臭が刺さるが、毒は逸れる。その隙にさらに距離を取り、呼吸を整える。

 

 右の個体は杖を胸前へ引き寄せ、妨害の構えを固める。タヴは《Subtle Spell(呪文発動秘匿)》で術を編み、無詠唱のまま右手から《Lightning Lure(電撃の引き寄せ)》の雷索を放った。セウガシは兆しのない発動に、《Counterspell(呪文妨害)》の機会を掴めない。雷索が右の個体の胸板に絡みつき、強い引きで距離が一気に縮まった。

 

 相手の胴がタヴの間合いまで滑り込んだ刹那、皮下で青白い火花が弾ける。タヴは体軸を低く沈め、風を返しながら右掌を胸前に打ち付け、《Thunderclap(大雷鳴)》を叩き込んだ。至近の雷鳴が爆ぜ、半径一・五メートルの圏内にいる二体の身体に衝撃が入った。

 

 衝撃に合わせて、二体のセウガシは反射的に《Absorb Elements(元素吸収)》を起動し、雷鳴の力の一部を吸収しながら後退する。タヴは相手のレイピアへ余波が移るより先に身を滑らせ、暴風の縁で二体の退路を狭めた。離れかけた胴が再び近距離へ寄り、同じ範囲に収まる。

 

 タヴは身を捻って二体の間へ半身ぶん滑り込み、左右一・五メートルの圏に同時に捉える。そのまま右掌を胸前に鋭く打ち付け、《Thunderclap(大雷鳴)》を再度重ねた。至近で炸裂した雷鳴は左の個体に選択の余地を与えず、《Absorb Elements(元素吸収)》が音圧の衝撃──雷鳴属性──だけを吸い上げて減衰させる。

 

 だが同時に、術の発動に連動して《Heart of the Storm(嵐の中心)》が反応する。タヴは吸収膜の揺れを一瞬で見切り、相手の吸収先が雷鳴属性であると判断して、《Heart of the Storm(嵐の中心)》から吐き出す力の位相を意図的に電撃へ切り替えた。

 

 選び直された電撃がタヴの周囲を走り、細い弧光が体節の継ぎ目へ潜り込む。雷鳴は吸われても、電撃は外殻下に回り、二体の体節を痺れさせた。縫い目の合わせから紫の粘液が糸のようににじみ、暴風がそれを細かく散らす。

 

 右の個体は頚節の根から力が抜け、胴を折って低く沈む。致命に近いが、完全には止まらない。本能に押されるように体節をくねらせ、長い胴を後方へ移動させて距離を取ろうとした。その抜け際に、タヴの訓練が先に動く。

 

 機構の訓練では、揺れる足場で肩を打たれ、片手を武器で塞がれたまま、術を保つ呼吸と重心を繰り返し叩き込まれた。敵役が背を向けた瞬間には、考える前に空いた指で術線を結ぶ。《War Caster(戦場の術者)》と呼ばれたその反復が身体に残っている。後退する右の個体より先に、タヴの指が動いた。

 

 タヴは左手のクオータースタッフを崩さず、右の指で術線をまとめて掌底を合わせる。《Shocking Grasp(電撃の手)》が反応動作で走り、口縁の合わせ目から神経束へ青白い弧光が食い込んだ。咽頭の棘列が内側から焼け、粘液が沸き、焦げた匂いが立つ。右の個体の長い胴が一度痙攣し、完全に沈黙した。

 

 残る左の個体が、味方の崩落に触手を逆立てる。距離はすでに至近だ。《Absorb Elements(元素吸収)》で取り込んだ雷鳴をレイピアへ帯びさせると、細身の刃の周囲で空気が薄く揺れ、振るたびに乾いた破裂音がにじむ。ほぼ同時に杖先から《Scorching Ray(灼熱の光線)》が三条、扇状に閃いた。

 

 タヴは半身で一条を外へ逃がすが、二条目が暴風に煽られた砂粒で線を揺らしながら左肩を浅く焼き、最後の一条が脇腹をかすめて熱が皮膚を刺す。続くレイピアの薙ぎはクオータースタッフで受け流し、衝撃で袖がはためいたが、刃にまとった雷鳴は衣の上で空気を震わせただけで、《Wind Soul(風の魂)》を持つタヴの身には一切響かない。

 

 セウガシはすぐに口縁を大きく開いた。鉤歯が外へ突き出て噛みつきに来るが、タヴは前へ送る風の拍をずらした。左手のクオータースタッフを横から差し込んで顎の内側をてこの要領で押し上げ、噛み合わせを強引に外す。柄を支点に口器の角度を固定し、右手の掌を腹側体節の合わせ目へ正確に置き、《Shocking Grasp(電撃の手)》を短く深く叩き込む。

 

 同時に《Heart of the Storm(嵐の中心)》の電弧が周囲へはじけ、焼けた砂粒が跳ね、紫の粘液が蒸気を上げて散った。体節の縫い目から白い湯気が噴き、紫の外殻に蜘蛛の巣状のひびが走る。セウガシは喉奥で歪んだ音を一度漏らし、胴の内部で鈍い破裂音が続く。長い胴は体幹から崩れ、地表へ沈み込んだ。

 

 タヴは風の推力を絞って地表へ下り、倒れたセウガシへ一歩詰める。とどめを刺そうと沈みきらぬ頭部の上へ踵を置いた瞬間、セウガシの複眼が震え、圧縮された悪意が内へ噛み込んだ。最後の足掻きとして《Phantasmal Killer(幻の殺し屋)》が放たれる。

 

 悪夢は、タヴの中にすでにある恐怖を足場にした。防護の内側で記憶が勝手に形を取り、現実の砂地を塗り潰していく。

 

 暴風の音が一層ずつ遠のき、踵の下にあった外殻の丸みが石畳の平らさへ変わった。焦げた粘液の臭いへ潮と煤が混じり、荒地の地平が濃い霧に呑まれる。タヴは現実の風を掴み直そうと指を開いたが、掌へ返るはずの圧まで、記憶の中の湿った海風にすり替わっていた。

 

 視界が切り替わる。濃い霧と煙が渦巻く湾岸都市、バルダーズ・ゲート──チオンタール川の河口に張り付く三層の街並みが、上から斜めに覗き込むように広がっている。上の街の石造の屋根が連なり、下の街の坂道には荷車と人の列が詰まり、外の街の粗い塀の外には夜営の焚き火が点々と続く。

 

 海の見張り塔と海門の上では《Continual Flame(尽きせぬ炎)》の灯が揺らぐ。たいまつと同等の明るさを放つが熱は持たず、覆えば隠せても消えない魔法灯だ。城壁の要所では灯標が光の帯を振るい、空の異常に備えよと合図していた。

 

 だが地上を固めているのはこの街の兵士ばかりではない。多元安定機構の徽章を付けた魔導装甲車が交差点を塞ぎ、鋼板にルーンを刻んだ車体の側面から固定式の対空魔導砲とクロスボウ砲台が空へ射線を伸ばす。連続投射の魔弾が幾筋も重なり、術式の光条が雨のように立ち上がる。その列の先頭には、幅広の肩に重鋼の胸甲を重ね、煤に焼かれた編み髭を束ねた小柄な戦士が立っていた。

 

 左肩の黒鉄の肩当には鍛冶神モラディンの聖印、腰には工具と小型の魔導クロスボウ。顔の造作だけではない。構えの重心も、命令の出し方も、ブロックス・フレイムスミスのものだった。彼が躊躇なく手を振り下ろすと、全火力が空の一点──タヴへ収束する。制圧ではない。暴走した自分を、ブロックスが責任を負って排除しようとしている。その意味を認めた途端、思考が白く途切れた。

 

 以後はほとんど反射だった。視界いっぱいに伸びる光条の束を、タヴの身体は凄まじい速度と短距離の瞬間移動で縫う。角度を変えて加速し、次の瞬間には別の高度へ位置がずれている。魔弾の尾は背後に滑り落ち、術式の残光だけが遅れて交差した。自分がどう回避したのかを考える前に、破壊の衝動が先行する。

 

 彼は振り向かず、破壊の魔法を一振りで返した。街路の影がひしゃげ、砲台が、魔導装甲車が、路面に描かれた魔法陣の縁までもが白い霧に溶ける。形あるものは形のない速度で千切れ、残ったのは砕けた鈍い金属臭と、耳鳴りを孕んだ空白だけ。どこか遠くで、人の叫びが一瞬混じった気がしたが、流れていく。

 

 唯一、ブロックスのみが正面に残った。彼は構えを解かず、しかし剣呑でも憎悪でもない眼でこちらを見ている。ひどく静かな、哀れみのような眼だ。タヴの足が地を蹴った。次の瞬間には至近だ。ブロックスは脇構えから低く踏み込み、肩で体当たりの勢いを作って押し返そうとする。

 

 タヴは半歩外へ逃がし、相手の足首を踵で払って重心を崩す。胸甲の縁を片手で掴んで地面へ叩き伏せ、踏みつけで胸板を固定した。足場を作り、もう一方の踵をこめかみの上に据える。次で終わる。ブロックスはなお、憎しみではなく憐れみを湛えた眼でこちらを見上げていた──「すまねえな」とでも言いたげに。ほんの一拍、胸の奥で何かが軋む。

 

「待て、やめろ!」

 

 ブロックスの頭部へ踵が落ちる軌道に入った瞬間、タヴ自身の叫びが空気を裂き、光景がひっくり返る。

 

 足裏の下で冷たい液体が輪を広げた。浅い血だまりだ。鉄の匂いが鼻を刺し、赤い水面が低く揺れる。その中央に、フリーレンが仰向けで沈んでいる。銀のロングストレートの髪は扇のように血の上へ広がり、白い衣は裾から胸元へ向かって深く染みていた。

 

 淡い青緑の瞳は半ば開き、彼女を見下ろすタヴを焦点の合わないまま映している。踵はこめかみに載ったまま離れず、わずかな沈みとともに赤い波紋が広がった。フリーレンは瞬きもせず、いつもと変わらぬ声量で口を開く。

 

「また、楽な方を選んでいるね」

 

 声はタヴの知るフリーレンと同じ高さのまま、責める響きをほとんど表に出さない。

 

「自分で決めたんだよね? この世界のために戦うって」

 

 フリーレンは瞬きもせず、踵を載せられたままタヴを見上げている。

 

「フェルンもシュタルクもゼーリエも、みんなタヴを信頼してるよ。それなのにタヴは自分を信じない」

 

 タヴは踵を退けようとした。膝へ送ったはずの命令は途中で消え、足裏の重みだけが増す。血は靴底の縁を越え、足首へ触れるほど広がっていた。フリーレンの頬が水面の下で僅かに歪む。息をしているのか確かめようとしても、胸元は赤く濁って見えない。

 

「都合が悪くなると、すぐ秩序を言い訳にする」

 

 責める声は強くならない。赤い水面だけが、靴底の縁から外へ広がっていく。

 

「見て。いま自分が踏みにじっているものを」

 

 タヴの視線が足元へ引き戻される。踏みつけているのは戦場でもセウガシでもない。泥にまみれた仲間の顔だ。

 

「タヴは償いのつもりで自分を殺すけど、結局そばにいる人を傷つけている」

 

 自分へ向けられた刃、破棄命令の文字、倒れた仲間の手。それらが血だまりの底で重なり、足をさらに重くする。

 

「機構の正しさに従っても、逆らっても、タヴは同じ所に戻ってくる。『自分は脅威だ』という場所にね」

 

 指先まで痺れが広がり、反論は喉の奥で形を失った。

 

「……でも大丈夫。タヴはまだ子どもだし、過去は気にしなくていいよ」

 

 違和感が、血の匂いより先に胸へ引っ掛かった。フリーレンは、あの夜も道中でも、誰かの過去をなかったことにはしなかった。今を生きろとは言っても、過去を捨てろとは言わない。「まだ子ども」と相手を幼く括り、その重みを軽く扱うこともない。目の前の声は彼女の調子を真似ながら、彼女の誠実さだけを欠いていた。

 

「もし暴走しそうなら、壊れる前に、私が止めてあげる」

 

 その一言で、違和感が形を持った。優しい声で「危なくなったら処置する」と約束し、変わろうとする本人の意思を初めから数えていない。判断を外から奪って安心だけを与える言い方を、フリーレンはしない。彼女は隣に立っても、選ぶ権利までは取り上げない。

 

 目の前の何かは、その在り方をねじ曲げ、フリーレンの優しさを「楽に壊す」という誘いへすり替えている。彼女の顔と声を盾に、自分から諦めさせようとしている。その悪意を見抜くと、動かなかった膝へ力が戻る。足裏に感じていた血の冷たさが遠のき、奥歯が鳴った。

 

 踵に力が入る。世界はまだ悪夢の中だ。足裏にあるのは血で滑る額、柔らかい皮膚、割れる歯の硬さ──フリーレンの顔に見える幻の下では、現実の獲物が蠢いている。タヴはそのまま体重を真下へ落とした。

 

 ぐしゃり、と湿った破砕音が響く。その刹那、悪夢が剥がれる。フリーレンの顔は霧のように消え、足元には無数の脚と深い口腔を持つ異形の頭部が、踏み抜かれた形で沈んでいた。視界は完全に晴れ、音ばかりが現実へ戻った荒い呼吸を押し出す。

 

 タヴは泥濘の死骸を見下ろし、短く吐き捨てた。

 

「……スティクスの泥に沈んでろ、下衆が」

 

 タヴは異形の頭から踵を引き、二体とも動かないことを確かめる。足元へ風を集め直すと、ゼンゼたちの戦場へ向けて地を離れた。

 

 *

 

 白い蒸気と酸の臭気がまだ肌に張り付いている。ゼンゼは右手の薬指に冷たく当たる白金の指輪を指先で確かめ、拳を固く握り直して正面の灰紫の巨体を見据えた。さきほど口腔から吸い上げられた騎士の遺骸は、もうどこにもない。酸で脆くなった骨は咽喉の棘で砕かれ、喉奥へ攫われた。指輪の角が掌へ食い込み、胸の疼きに合わせて髪槍の穂先が細く締まった。

 

 ネオセリッドの動きは、明らかに変わっていた。粗い捕食衝動ではなく、最小の動きで正面を塞ぎ、盾の角度と槍の差し込みに合わせて最も嫌らしい答えを選び続ける。波打つ精神障壁の再展開も早くなっていた。

 

 一度使った受けの角度には、次の拍で異なる重さが返り、ゼンゼの腕へ痺れが残る。呼吸の隙に紛れ、祈りに似た律が皮膚の裏をかすめた。巨体の奥へ外から力が注ぎ足され、半ば糸で操られている──そう感じさせるほど、捕食の動きから無駄が消えていた。

 

 ゼンゼは髪を三筋に編み替え、盾・槍・鞭を同時に構成する。盾は浅角で面を作り、槍は縫合痕の継ぎ目を狙って尖らせ、鞭は石礫を叩いて一定の打音を刻む。ネオセリッドは《Blindsight(擬似視覚)》で振動を捉えるため、規則的な打音で感覚を攪乱し、触手の振りのタイミングをずらす狙いだ。

 

 打音に触手の根がわずかにそちらへ傾き、初撃の角度が読めた。最短距離からの横薙ぎは盾で滑らせ、続く突きは槍の腹で角度を狂わせ、三手目の叩き付けは腰で受けて地面へ逃がす。刃が継ぎ目に触れた瞬間に膜が波立ち、わずかな遅れの拍を見てさらに一点を穿つ。硬い手応えとともに、粘液の飛沫が頬へかかった。だが、傷は浅い。

 

 返しの薙ぎがすぐ厚みを増し、盾の髪が数筋裂けた。痺れが肩へ残り、息が一段と早まる。足元の砂利が後ろへ流れ、間合いを半歩押し下げられた。

 

 その直後、背後で風を裂く微かな唸りが近づくのを感じた。東の荒地の上空を二つの影が低く滑り込み、右斜め後方へ入って速度を落とす。

 

「遅くなったな。援護に入るぜ」

 

 告げたのはヴィアベルだ。彼は杖を胸前で返し、女の騎士は光の翼をひと打ちして高度を合わせる。二人はそのまま弧を描いて回り込み、ゼンゼの左肩後ろ、横距離十数メートルの位置に並んだ。ゼンゼが二人に問う。

 

「そっちは片付いたのか? タヴはどうした」

 

「彼は異形の一体を仕留めて、残りも相手にすると言い切った。私たちはあなたの援護に回れ、と」

 

 女の騎士の返答を聞いたゼンゼは一瞬だけ視線を右後方へ流す。荒地の向こう、地表近くの空域で砂塵が逆流し、青白い雷が薄い膜の裏を走る。細長い異形が二体、互いに距離を保ちながら低く滑り、タヴはその外側の帯で風の層を立てて釘付けにしている。

 

 崩れ落ちた異形の影が地に残り、残りの二体も間合いを詰め切れていない。その配置からタヴが優勢を保っていると判断し、ゼンゼは彼に任せると決めた。

 

「分かった。彼の判断を信じる。──ヴィアベル、左の縫合痕を焼いてくれ。騎士は触手の根を斬って軌道を乱せ。私は正面を抑える」

 

「了解だ」

 

「任せて」

 

 返答に重なるように、遠くで空気が裂けるような雷鳴が一度、遅れて腹に沈む。タヴ側でも本格的に火が入った。ゼンゼは息を一つだけ浅くし、槍の穂先を半寸引く。その瞬間、ネオセリッドから三人の頭へ、湿った親愛を押し込むような不快な感覚が差し込まれる。

 

 敵を前にしていたはずの意識へ、唐突に親しみが滲んだ。牙を覗かせる口器も、酸を滴らせる触手も、ほんの一瞬だけ刃を向ける相手ではないように見える。錯覚はゼンゼの内側だけに留まらない。左では女の騎士の剣先が僅かに沈み、右ではヴィアベルが短杖を構えたまま瞬きを止めていた。ゼンゼ自身も、槍を押し込むはずの腕が一拍動かなかった。

 

【……オレ、オマエラのナカマ……たたカウナ】

 

 同時に、湿ったネオセリッドのテレパシーが頭に擦れて入ってきた。ゼンゼは奥歯を噛んで呼吸を短く断ち、異物感を押し戻す。女の騎士は顎を引き、柄頭を軽く叩いて焦点を戻す。ヴィアベルは短杖を逆手に構え直し、手の中の重さに意識を固定して感覚を振り払った。親和の薄膜は剝がれ、視界は硬さを取り戻す。

 

「仲間だと? ならその口で酸を吐くのをやめやがれ」

 

 ヴィアベルが吐き捨て、ゼンゼはそれに被せて前へ押し込む。ゼンゼの槍の穂先が再生痕の小さな歪みに触れ、精神障壁が波打つ前に二手、三手と圧を重ねる。女の騎士はゼンゼの左肩口から半身で滑り込み、剣の腹で近い触手の軌道を撓ませて角度を殺す。

 

 ヴィアベルが白銀の《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を同じ弱点へ連射する。透明な精神障壁の表面に白く濁った輪をいくつも刻んだ。輪が消えるのとほぼ同時に、ネオセリッドは対処を変え、こちらの攻め筋を学習したかのように反応を切り替えていた。

 

 盾で触手を滑らせれば、次の拍にはさらに重い一本が同じ角度へ差し込まれ、面ごと押し潰しにくる。髪槍が継ぎ目を狙う前には、精神障壁が穂先を逸らした。ゼンゼの反転にも頭部前端を振って射線を切る。応酬を重ねるほど、ネオセリッドの返しは短くなった。ゼンゼは肩で息を継ぎ、足を半歩ずつ置き直す。盾、槍、鞭を出す順と角度を変え、その速さへ食らいついた。

 

「右から来る」

 

 女の騎士が低い声で警告する。ゼンゼは髪で編んだ盾の表面に硬化の魔力を通して剛性を上げ、右からの薙ぎ払いを浅い角度で滑らせる。反動で生じた口環のわずかな開きに、ゼンゼは槍を差し込もうとする。直後、ネオセリッドは二度、三度と《Misty Step(霧渡り)》のような瞬間移動を連続し、巨体の位置を小刻みにずらす。空気は白く軋み、転移の余波が輪郭に散った。

 

 ゼンゼはネオセリッドを追わず、来る位置を迎え撃つ。足裏の《Wind Soul(風の魂)》の風圧を一段落とし、口器の棘列と口角の中間に槍の穂先を据えて、てこの力で口環の角度を奪う。勢いを失った近距離の触手に、女の騎士が踏み込んで払う一撃を重ね、一歩分ネオセリッドを押し返す。ヴィアベルの《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》は頭部前端の露出した柔組織へ通り、黒い焦げ線を一点に刻む。

 

 ネオセリッドの胴の前部が大きく膨らみ、咽頭の弁が開きかける。ゼンゼは一歩踏み込んで口環の角度を強引に捻り、噴流の向きを逆方向へ撚らせる。酸の筋は外れて荒地を白く抉り、蒸気が薄い幕となって揺れた。金属を噛んだような苦味が、三人の鼻腔に刺さる。

 

「押し続けろ。奴に回復する時間を与えるな」

 

 ゼンゼは短く告げ、鞭の髪で石を連打して振動を刻む。触手二本の軌道がわずかに打音へ引かれ、正面に一つ空白が開いた。そこへ槍を入れる直前、輪郭がまた滑る。膜の内側で姿勢が置き換わり、そこから最短距離の反撃へ移る。まるで、誰かがこちらの攻めに合わせて手綱を引いている。

 

「……操り糸が見えるようだな」

 

 低く吐き、ゼンゼは盾の厚みをさらに増す。女の騎士は半歩前へ出て剣先で触手の重心を崩し、ヴィアベルは焦点を一点に固定して撃ち続ける。三人が間合いを詰めた一拍に、ネオセリッドは短距離の瞬間移動を重ねて別の角度へ出て、次の攻撃へ移ろうとする。だが三人の攻めは鈍らない。

 

 ゼンゼは前へ出る。槍先は縫合痕の奥のわずかな歪みを正確に捉え、女の騎士の斬りが角度を奪い、ヴィアベルの《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》が時間差で重なる。灰紫の外殻に走る白い裂け目が細く深くなり、粘液の筋が短く跳ねた。巨体が低く唸り、胸郭の奥でまた何かが膨らむ。

 

 東外れの荒地に、打撃音と雷鳴が重なる。背後の遠い雷はタヴが二体の異形を押し留めている証、眼前の硬い手応えは、こちらが確実に巨体を削っている証だ。ゼンゼは呼吸を揃え、次の一手の角度を定めた。

 

 その時、灰紫の巨体の周囲で空気の質が変わる。風は止んでいないのに、周囲が水底のように重く沈む。ネオセリッドの外殻の縫い目から、薄い黒が滲み出るように広がった。ゼンゼは手を止め、即座に後ろへ二歩分滑って距離を取る。ヴィアベルも女の騎士も、合図を待たずに同じ動作で退く。三人の間合いが一気に広がり、直後にネオセリッドのテレパシーが頭に響く。

 

【我が名は──】

 

 それは名乗りだった。言葉からは先ほどまでの拙さが消え、流暢で湿り気を帯びている。音節ははっきり耳に残るのに、その名を口にしようとすると頭の中から零れ落ちる。宣言と同時に、巨体の背後の空がぬめる紫黒で膨らむ。半透明の膜が幾重にも重なり、その奥に巨大な単眼の輪郭がゆっくりと開く。

 

 続いて形を変え、今度は赤い複眼が三つ、深い闇の中で順に灯る。触手の影が簾のように垂れ、揺れに合わせて油膜めいた光が薄く滲んだ。幻影でしかないはずなのに、そこに「在る」としか言いようのない気配が押し寄せる。目に映る形より先に、脳と内臓の奥が悲鳴を上げかけた。

 

 ゼンゼは視線を本能的に外してしまう。膝にわずかな震えを感じた。自身に祝福を授けた女神の手さえ遠のいたように感じるほど、目の前の気配は重かった。

 

「影の鎖を断て。心は踊れ、恐れ退け!」

 

 女の騎士が詩句を紡ぎ、ゼンゼとヴィアベルの間に澄んだ声を通す。喉の奥で調子を取り、響きの強い短句を重ねる。《Countercharm(心を守る歌)》──言葉の力で恐慌や魅了に抗うための詠唱だ。音は空気を震わせ、耳の奥で硬い支えを作る。しかし、影は笑ったように揺れただけだった。三人の意識の内側に、今度は流暢な命令が滑り込む。

 

【攻撃を止め、額を地につけて跪いたまま、我が口にする言葉を復唱しろ。日が変わるまでそれを繰り返せば、命は助けてやろう】

 

 視界に捉えた者へ、もっともらしい行動指針を植え付ける力が三人を包む。だが今のそれは説得ではない。命令そのものが一時の真として宣言され、この場の理がそちらへ上書きされる。抵抗の手順を踏むより先に、跪いて復唱するという結果が先に定まる。

 

 ゼンゼは精神防御の術式を組み上げようとした。この世界の魔法は、術式を構築し、その結果を確かにイメージできて初めて現実になる。だが抗う自分を思い描くより先に、「復唱すれば助かる」という結論が形を持ち、跪くことを当然の結果として押し付けてくる。組み上げかけた術式がそこで止まった。理屈もイメージも追い付かない。

 

 ヴィアベルは即座に防御術を組み替え、外から差し込まれた命令の優先度を落とす遮断構造を作ろうとする。だが術が閉じる前に、命令が行動の理由そのものを差し替え、意志の核へ先に入り込んだ。身体から力が抜け、空中で姿勢制御がぶれる。《Countercharm(心を守る歌)》の歌は続いているのに、音は薄い膜の向こうへ遠ざかっていく。

 

 やがて歌は消えた。ヴィアベルの《飛行魔法》は自ら意志で解いてしまったかのように制御を失い、ゼンゼの足裏を支えていた《Wind Soul(風の魂)》の層も薄れ、女の騎士の実体のない光の翼は音もなく畳まれる。三人は見えない手に肩を押されるように地面へ降ろされ、膝が荒地に触れ、額が砂利に近づく。ゼンゼは首を戻そうとするが、顎は勝手に下がった。

 

 口が動く。己の意志より先に、声帯が他者の息を真似る。テレパシーの節が一行ずつ示され、そのまま同じ抑揚で復唱が零れた。

 

「……在らざる間に在り……滲み……這い寄る御名を讃えん」

 

 次の節が与えられ、また復唱が続く。

 

「……溶けるものに救いを……崩れるものに……形を与え給え」

 

 ヴィアベルの喉も同じ節をなぞり、女の騎士の唇も聖句を形作る。三人の声は湿った幻影の前でひとつに揃い、まるで長年の信徒のように滑らかに響いた。

 

 膝は地を選び、舌は他者の言葉を拾う。ネオセリッド──いや、その背後の「それ」は笑いを堪えるように震え、粘つく油膜の表で無数の掌の影がぱちぱちと拍手を打つ。やがて掌の影を閉じながら、幻影は薄れて空に溶けた。だが命令はすでに刻まれている。三人の身体は自由を取り戻せず、首はなお下がったまま、復唱だけが同じ抑揚で続いた。

 

 ヴィアベルは聖句の切れ目に舌打ちを飲み込み、唇の端から息で搾り出す。

 

「これが……合理的な提案、だとよ……反吐が出るな」

 

 女の騎士は歯を噛み合わせながら、掠れ声で言葉を漏らす。

 

「『潜むもの』を讃えさせられるなど……許せない……」

 

 ゼンゼは地に額を付けた体勢で、必死に一点へ意識を集めた。わかっている。眼前の怪物は、その気になればいつでも自分を殺せる。先刻、盾を持った騎士に放たれた理解不能の一撃。魔法かどうかも断定できないあれを用いられれば、自分も同じく即死するだろう。それでも、こいつはわざわざ手順を増やし、苦痛ばかりを丹念に積み上げている。

 

 それを認めた瞬間、勝てる形が思い描けなくなる。魔法はイメージで立ち上がる。負けの形しか想像できない者に、勝利の魔法は組めない。だから彼女は現実の手触りにしがみつく。指輪の冷たさ、土の粒の粗さ、血の味。命令の「もっともらしさ」から身を引き剥がすために。

 

 ネオセリッドの喉の奥で濁った泡が満ち始める。白い蒸気が先に滲み、口縁の内側に細かな泡の層が張り付いた。甘腐れと金属を混ぜた匂いが風に乗り、舌の根がしびれる。吸い込むだけで頭の中を焼く気化成分が立ち、薄緑の液が扇へ変わる寸前まで膨らんだ。

 

 ゼンゼの指は地面を掴んだまま動かない。女の騎士の歌は止み、ヴィアベルの喉は勝手に次の句を繰り返す。酸の甘腐れた臭気だけが一息ごとに濃くなる。ゼンゼは土へ食い込ませた指にさらに力を込めたが、首も喉も自分の意思では動かせない。頭の中で術式を組み替えるたび、完成像はネオセリッドへ届く前に崩れた。

 

 魔法はイメージの世界だ。それを身に染みて知るからこそ、心の底で自分に噛みつくように問いを投げた。

 

(どうすれば……どうすれば『神を殺す』ことをイメージできる……?)

 

 祈りに似た律が背骨を撫で、喉は勝手に聖句を組み立てる。前で口縁の泡が震え、薄緑の縁がはじけかけた。

 

 *

 

 東の空高くを移動していたタヴの頭の奥に、湿った低音が割り込んだ。

 

【我が名はゴーナドウア】

 

 名を告げる響きが骨に触れた瞬間、身体を支えていた風の層がたわみ、身体が半拍沈んだ。上昇流が抜け、視界が一度だけぐらりと傾く。タヴは咄嗟に胸を締め、風の層を重ね直して失速を止める。

 

 下を見下ろすと、灰紫の巨体──ネオセリッドの背後に紫黒の膜が大きく張り出し、膜の内側で幾つもの眼に似た泡が生まれては溶け、鈍い光を返していた。

 

(あれは……神意の顕現か……!? それに、ゴーナドウアだと……?)

 

 タヴの記憶に、地底で耳にした呼び名が重なった。ゴーナドウア、「潜むもの」。泥と無数の眼を印とし、粘体や異形へ気まぐれに力を垂らす神。信徒へ過ぎた恩寵を与え、飽きればその恩寵ごと呑み込んだという逸話も、一つや二つではなかった。

 

 目の前では、紫黒の膜に浮かぶ眼が、ネオセリッドの呼吸へ合わせて開閉している。神授の術を次々に引き出した巨体と、今の名乗り。ゴーナドウアがこの怪物を《選ばれし者》として弄んでいるのなら、ここまでの異様さが一本につながる。タヴは膜から目を離さず、乱れた息を一つ整えた。

 

 古い地底の地図も脳裏をかすめた。ゴーナドウアの泥が湧く「穴」を封じるため、その直上へイーリストレイの信徒たちが聖所を築いた記録だ。闇に取り込まれた者へ手を伸ばす女神と、はみ出した者を泥の底へ抱え込む神。その衝突が今も続いているなら、女の騎士へ月の加護が届いた理由は分かる。

 

 分からないのは、ゴーナドウアがなぜ境界を越え、この世界の荒地へ眼を開いたかだ。答えを探る間にも膜の泡は増え、跪いた三人の声が揃っていく。タヴは疑問を切り離し、ネオセリッドの口腔へ視線を戻した。

 

 ネオセリッドの背後に出現した幻影は、満足そうに膜を震わせると、重さを空気に残して薄く消えた。タヴが高度を落として角度を変えると、地表近くで三つの影──ゼンゼ、ヴィアベル、セレスチャルの騎士──がネオセリッドの正面で跪き、頭を垂れたまま動かないのが見えた。強い暗示に囚われている。神名を楯にした《Mass Suggestion(集団示唆)》だと見ていい。

 

 巨体の喉奥で泡が太り、白い蒸気が口縁に層を作る。薄緑の液が扇に近い形まで膨らんだ。噴けば終わる。

 

 タヴは風の層を一段落とし、地表の起伏と風向を数え直す。距離はおよそ百メートルで、遮るものはない。三人に何かをさせることはできないが、外から当たり方は変えられる。《Mass Suggestion(集団示唆)》は、縛った側が与えた損傷で効果が途切れる。ならば、酸の噴流を薄く裂き、術者の攻撃をかすめさせて拘束のみを断つ。

 

 タヴはネオセリッドへ向けて斜めに急降下し、電撃の鞭が届く距離まで一気に詰めながら、高度を六メートルまで落とした。左手はクオータースタッフを握ったまま、右手を振り下ろして《Lightning Lure(電撃の引き寄せ)》を投じる。稲妻の縄がネオセリッドの顎の棘列に絡み、頭部を三メートルぶん自分側へ引く。

 

 同時に、左手は離さず意志だけで《Telekinetic Shove(念動突き)》を横から押し込む。無形の力が頭部の向きをわずかに右へ押し流し、噴出直前の角度が変わった。

 

 噴流が走る。タヴは上から横風を重ね、扇の縁を細かく分解する。荒地に微細な飛沫が広がり、列の外側をかすめて流れた。三人の外套の裾や装備の縁が一瞬だけ白く泡立ち、ゼンゼの上衣の前裾は薄く焦げ、女の騎士の籠手の端では煙が上がり、ヴィアベルの外套には小さな穴が開く。次の瞬間、三人の体を押さえ付けていた見えない拘束が切れ、喉の復唱も止まった。

 

「っ……正気に戻った! ゼンゼ、立てるか?」

 

 女の騎士が短く確認し、ゼンゼは頷いて立ち上がる。ヴィアベルは咳を一つして、短杖を握り直した。

 

「助かったぜ……お前が来たってことは、イモムシ野郎どもは片付いたみてえだな」

 

 ヴィアベルが状況を見て呟き、視線をネオセリッドへ戻す。タヴは巨体の側面へ移動し、暴風をまとって前線へ入り込んでいた。周囲の砂塵が巻き上がり、風の音が低く続く。いつものように距離を取らず、正面の圧に合わせて間を詰める。その動きに、三人の視線が揃ってタヴへ向いた。ゼンゼが眉を寄せる。

 

「彼は普段、遠距離から崩す。あんなに積極的に前へ出ないはずだ。それに、何だあの暴風は?」

 

 ゼンゼが疑問を口にすると、女の騎士は僅かに目を伏せ、かつての災厄を思い出すように答えた。

 

「……多元宇宙ではかつて《呪文荒廃》という災厄が起き、その影響を受けて《呪文の傷跡》と呼ばれる魔法的な傷を負った者たちがいた。傷を負った者は魔力が著しく不安定になり、魔法が意図しない結果を引き起こすこともあった。今の彼はそれに近い状態かもしれない」

 

 女の騎士が見た古い記録では、青い魔炎が走った同じ街で、片側の術だけが消え、道を隔てた反対側では小さな灯火が家屋を吹き飛ばすほど膨れ上がっていた。いまタヴの周囲でも、術を放っていない拍に風が太り、次の瞬間には薄れる。肩口を走る雷光も一定ではない。その不規則さが、彼女の説明を過去の災厄の話だけでは終わらせなかった。

 

「何だそりゃ……問題大ありじゃねえかあの野郎……」

 

 ヴィアベルが低く吐くと同時に、ゼンゼの視線が暴風をまとったタヴの横顔へ一拍だけ止まった。次いで髪槍をネオセリッドへ向け直し、短く告げる。

 

「なるほど……聞きたいことは山程あるが、今はネオセリッドの討伐が優先だ」

 

 ゼンゼの言葉を合図に、三人は即座に配置へ移動した。ゼンゼは足裏へ戻った《Wind Soul(風の魂)》で低空へ上がり、女の騎士も光の翼を広げて正面に張り付く。ヴィアベルは地上の岩陰、水平距離十五から二十メートルの位置へ回り込み、射撃と妨害に徹する。

 

 既にタヴは側面へ滑り込んで一撃離脱の軌道に乗っており、頭上には常に風の層が重なっている。突入と離脱のたびに砂が放射状に散った。

 

 正面でネオセリッドの触手根が強く収縮し、頭部正面から《Mind Blast(精神爆砕)》が放たれる。精神の衝撃波は意識へ直に届き、ゼンゼの思考の表面を削ろうとする。ゼンゼは足裏の風を傾けて扇の中心線から身を外し、舌先で歯の縁を押して感覚の焦点を一点に固定する。外界の位置関係を数え直し、侵入してくる圧に思考を束ねて対抗する。波は浅くかすり、視界のノイズはすぐに薄れた。

 

 同じ衝撃波の中で、女の騎士はゼンゼの右肩後方へ寄り、光の翼で姿勢を切り替えて扇の芯から退く。顎を引いて呼吸を整え、意識の輪郭を締めて波の縁を受ける。直後に翼を返して間合いへ戻り、触手の根元へ剣の腹を当てて振りの角度を殺し、正面の圧力と退路遮断を維持する。

 

 側面のタヴは暴風を踏み台に斜めへ急降下し、圧縮した風で減速して体軸を固定したまま触手根の間合いへ入る。胸前で印を切り、《Thunderclap(大雷鳴)》を放つ。厚い空気の壁と一拍の雷鳴が触手根をまとめてはじき、動きが刹那だけ止まる。

 

 同時に《Heart of the Storm(嵐の中心)》の余波が肩口から走り、至近の突起を焦がした。タヴは発動直後に《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》で足元に旋風を噴かせ、反撃の間合いから上方へ抜けた。

 

 ネオセリッドは近接の圧力を剥がすため、間を置かずに《Mind Blast(精神爆砕)》を重ねる。扇状の思考圧が正面へ広がる直前、ゼンゼは顎の傾きと触手根の収縮から射線を読み、左斜め前へ五メートル強く滑って扇の外へ抜けた。圧の縁が意識に触れて耳鳴りが残るが、中心線は外れている。

 

 女の騎士はゼンゼと逆方向へ翼を傾け、ひと打ちで扇の外へ滑る。視線を足下に落として集中を一点にまとめた。思考の表面が少し痺れるが、直撃は避けた。

 

 直後、灰紫の頭部がわずかに傾き、口角がヴィアベルのいる岩陰へ向いた。吐出口が開き、薄緑の扇が短く噴き出す。酸は遮蔽物の角で受け止められ、白い蒸気が立ちのぼった。ヴィアベルは身を沈めたまま岩の裏を二歩左へずらし、遮蔽物の縁から新しい射角を取る。

 

「お返しだデカブツ」

 

 ヴィアベルは短杖を掲げ、《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を数発、扇の根へ連ねる。白銀の軌跡が障壁表面に薄い輪を刻み、その輪が消える前に次弾を重ねて射線をずらした。

 

「《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》」

 

 さらに彼は《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》の術式を組み変え、ネオセリッドの輪郭から、その背後の岩と何もない空中へ視線を広げる。光の帯は巨体だけでなく周囲まで括ろうとしたが、輪を閉じる前にねじれ、霧散した。

 

「ちっ……これじゃ駄目か」

 

 ヴィアベルが舌打ち混じりに呟く。直後、ネオセリッドの動きが急に切り替わり、灰紫の巨体が《Misty Step(霧渡り)》に似た短距離の移動で空間を飛ぶ。

 

「岩ごと押し潰す気よ! 避けて!」

 

 女の騎士が警告を飛ばした瞬間、ネオセリッドはヴィアベルがいる遮蔽物の真上に現れた。選んだ位置が頭上で、落下の起点が左右の逃げ道を狭める角度になっている。

 

 ネオセリッドはヴィアベルの左右を岩と酸の窪みで塞ぐ位置を取り、そのまま質量で押し潰そうと、岩を軋ませながら真下へ落ちかかる。

 

「そんなに拘束魔法が嫌いかよ!」

 

 彼は悪態をつき、岩陰から左へ全力で横跳びし、仰向けに倒れて肩と背中で地面を滑る。同時に掌を振って《防御魔法》による障壁を展開する。直後、先ほどまで彼がいた位置へネオセリッドの巨体が落下し、割れた岩の破片が障壁にぶつかって鈍い音を立てて弾かれた。

 

 だが、直後に上から振り下ろされた最初の触手が障壁を一撃で粉砕し、次の叩き付けで止めを刺そうと扇状に角度を変える。左は破砕した岩の壁、右は酸で抉れた窪み、背後は崩落した瓦礫でふさがれている。退路はない。

 

 ネオセリッドの巨体が地面にめり込み、粉塵が立ち上ったのと同時に、側面の空気が裂けた。タヴが《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》で身体の周囲に暴風を爆発させ、半円の軌道で割り込む。右手を振り抜き、《Lightning Lure(電撃の引き寄せ)》を触手根へ引っ掛けて横へ引く。触手は電撃の綱にあおられて軌道を外れ、仰向けのヴィアベルからそれた。

 

 しかしタヴは突入で移動の余力を使い切っており、離脱に転じることができず、巻き直った触手に胸郭と右腕を締め上げられる。左手のクオータースタッフは触手に払われて体の外側へ弾かれ、体の前でてこを掛けて締め付けを外す角度が取れない。

 

 ネオセリッドは圧倒的な筋力で暴風の推力をものともせず、彼の身体を宙へ引き上げた。ゼンゼと女の騎士はこちらへ急行するが、到達には一拍が必要だ。

 

 ネオセリッドは口腔をわずかに開き、喉奥に酸をためる。つり上げたタヴの右肩越し、その直下にヴィアベルがいる。この至近距離で噴けば、タヴごと彼は酸で焼き抜かれる。

 

 タヴは肺に残った息を吐き切り、体をわずかに捻った。締め上げる触手の巻き目がずれ、喉の前に一瞬だけ隙間ができる。その空気を逃さず、声だけで発動できる魔法──《Command(命令)》を押し出した。

 

「……《Command(命令)》──《逃げろ》……っ」

 

 言葉を持たない獣なら、《逃げろ》は音のまま霧散する。だがネオセリッドは、ゴーナドウアの呼びかけへ応じ、神の意志に沿って獲物を選んできた。タヴは触手に肺を潰されながら、その意識がこちらの一語も受け取る方へ賭ける。

 

 ゼーリエの《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》が咆哮を意味へ変えた時と逆に、タヴの命令を異形の内側へ押し込む。灰紫の喉が一度震え、直後に生得の《Magic Resistance(魔法抵抗)》が硬い反発となって返った。そこへ《Heightened Spell(呪文セーヴ妨害)》を噛ませる。抵抗の最初の足場だけが崩れ、意味が一段深く沈んだ。

 

 普段の魔力回路は胸の途中で途切れたままだ。それでも、その外側に焼き付いた《Fey Touched(フェイに触れし者)》の細い道が、絞り出した声へ熱を返す。一度開けば、しばらく二度目は応じない道だ。タヴは喉に残った息も、そこへ灯った一度きりの熱も、すべて《Command(命令)》の一語へ注ぎ込んだ。

 

 灰紫の喉奥が短く痙攣し、触手の巻き目が緩む。命令の意味は届いた。だが次の瞬間には強い抵抗が立ち上がり、縛りが押し返されかける。生得の耐性に神の加護が重なっているのだろう。

 

「《Silvery Barbs(銀の棘)》!」

 

 女の騎士がその気配を感じ取って反応だけで詠じ、銀の棘のような干渉を差し込む。巨体の抵抗が一瞬たわみ、命令が貫通した。弾かれた銀の光は、そのままゼンゼの周囲へ薄く絡んだ。

 

 次の拍で、ネオセリッドはタヴを締めた触手を解き、反射的に巨体を引いた。その隙に、タヴは右腕を捻り込み、《Shocking Grasp(電撃の手)》を棘列の根へ叩き込む。同時に《Heart of the Storm(嵐の中心)》が噴き、肩口から細い放電が弾けて外殻を焦がした。痺れが走り、触手根がわずかに硬直する。

 

 しかしネオセリッドは反撃することもなく、タヴから離れる直線を選び、砕けた瓦礫と抉れた土を体節で押し分けながら南東へ身を伸ばす。《Command(命令)》の《逃げろ》が意識の向きを塗り潰し、触手は二人の刃へ向かわず、逃げる先の地面だけを探していた。

 

 うねる胴が地表を削り、黒い粘液と土砂を帯状に撒き散らす。その進路は、援護へ回り込んだゼンゼと女の騎士の正面をかすめる線で、頭部と先頭の体節がふたりの間合いへ入り、抜けようとする。

 

 女の騎士は翼で空気を一度打って間合いへ入り、通過の瞬間に横から斬り込む。グレートソードの刃が顎縁の棘の基部を斜めに断ち、内側の軟骨の支柱と腱束を切り落とす。口縁を吊り上げていた張力が失われ、頭部前面の支えが抜ける。前方へ体重をかけていた巨体は一拍だけ前下へ沈み、地表に押し付けられた節が軋んだ。

 

 沈んだ勢いのまま抜けようとする首節に、ゼンゼが《Silvery Barbs(銀の棘)》の加護を受けた髪槍を合わせる。再生による縫合痕の継ぎ目へ穂先を深く差し込み、足裏の《Wind Soul(風の魂)》で加速して刃を沈める。裂け目が走って口縁の結び目が緩み、黒い血と粘液が線を引いて地面に散った。

 

 それでもネオセリッドは地表をうねり、タヴとの距離を広げていく。断たれた顎縁が地を擦り、裂けた縫合痕から黒い血と粘液が長い帯になった。

 

「君は怪物相手に有効な精神操作系の魔法が使えるのか……?」

 

 ゼンゼはタヴを一瞥する。人が作る精神操作の魔法は、人間の心の構造を前提に組まれており、人類かそれに近い生き物にしか通らない、というのが常識だった。にもかかわらず、いまタヴの魔法による一語は異形にも作用している。

 

 ゼンゼの視線は、触手の跡が残るタヴの胸元と、逃げていく巨体の間を一度往復した。命令を通した代償を問い詰めるのは後だ。短く息を吐き、すぐ前へ顔を戻す。

 

「敵は弱っている。このまま止めを──」

 

 灰紫の喉奥から爆ぜる咆哮が上がり、言葉が千切れた。空気が震え、耳の奥が軋む。ゼンゼは思わず片耳を手で塞ぎ、女の騎士はグレートソードを落としかけ、タヴも一瞬クオータースタッフの握りが緩む。

 

 《Command(命令)》の縛りが解けたネオセリッドは、《Levitate(空中浮揚)》で巨体の荷重を抜き、前部を地表すれすれまで持ち上げた。後ろの体節を岩混じりの地面へ打ちつけ、口縁の触手を亀裂へ掛けて一気に引く。長い胴が砂を跳ね上げ、地を滑るように急接近した。口腔からは不規則に酸の霧がばら撒かれ、頭部正面からは《Mind Blast(精神爆砕)》が荒い間隔で連打される。

 

 タヴは風の層を斜めに倒して右斜め後方へ滑り、酸の扇の縁を外へ逃がす。女の騎士は翼の角度を切り替えて身を低く回し込み、衝撃線の外側へ出る。ゼンゼは足裏の風を斜めに噴かせて後方へ滑り、そこから左へ大きく回る。髪盾で感覚の芯を守りながら《Mind Blast(精神爆砕)》の範囲外へ抜けた。酸が地面を白く抉り、蒸気が低く揺れる。

 

 巨体はさらに追いすがるが、動きの端に鈍さが混じり始める。触手の戻りは遅く、酸の噴き出しは泡が多い。地を打つ後部の節は二度に一度滑り、亀裂を掴んだ口縁の触手もすぐに外れた。追撃の間隔が少しずつ開いていく。

 

 だが、その直後、灰紫の頭部が右へ傾き、触手の節が、見えない一本の糸で同時に引かれたように硬直した。乱暴な突進がぴたりと消え、すべての口縁と触手が一点へ向く──標的はゼンゼだ。

 

 タヴはその不自然な静止を発動の合図と読み、術の収束を断ち切るために風を踏み抜いて低空で一気に距離を詰める。だが間に合わない。灰紫の頭部の収束はすでに最終段階に入っており、彼が射程へ乗り込むより早く、標的固定の手順が完了した。

 

 ゼンゼの胸骨の裏に硬い圧が乗り、横隔膜の上下が浅くなる。拍動の間隔が外から固定されていく感覚が生じ、喉の通りが細くなる。命の根元を直接つかまれているような感覚だった。

 

「……焦らないで。一手に集中して」

 

 女の騎士は二度、翼で空気を切ってゼンゼの左側へ並び、肩が触れる距離に入って声を落とし、《Bardic Inspiration(バードの声援)》を授ける。翼の付け根が強張り、押し殺した声は語尾で震えた。

 

 ゼンゼは思考を極限まで加速させ、実戦では一度も使ったことのない魔法まで探り始める。まず《ゲダンケンシュティレ(雑念を一時的に消す魔法)》を使い、散りかけた意識を一点へ束ねた。視界の中央から黒が退く。だが胸骨を締める力は緩まず、揃えた思考ごと押し潰しにくる。

 

 続けて《タクトマース(脈と呼吸を一定にする魔法)》で、浅くなった呼吸と乱れかけた脈を整える。身体の内側に一定の拍が戻ったのも一瞬だった。それより強い拍が外から心臓を掴み、息を吐き切る前に律動を崩す。《シュメルツフェアズーク(痛みが一瞬遅れて届く魔法)》で痛覚の到来を遅らせても、圧は痛みを経ずに脈へ届いた。

 

 《フルヒトバン(恐怖反応の増幅を打ち消す魔法)》で恐怖反応を抑える。何も変わらない。間を置かず《ヴォルトシュヴァイゲン(言葉をただの音にする魔法)》を使い、耳へ届く言葉を意味から切り離す。それでも圧は残った。恐怖も、命令の声も入口ではない。最後に《ヘルツシュトース(鼓動をひと拍だけ強くする魔法)》で、抜けかけた鼓動を内側から押し返す。胸が短く跳ねる。だが次の拍は続かず、両脚から力が抜け、足裏の風に支えられた身体がわずかに沈んだ。

 

 ひとつの魔法が効かないと見切るたび、次へ移るまでの間は縮まる。その短い間にも肺へ入る空気は半分ずつ減り、耳の奥では自分の血が流れる音さえ遠のいていく。髪槍を形作っていた束が一本、また一本とほどけ、穂先が風に流される。女の騎士の肩にかかる重みも増す。

 

 それでもゼンゼは、途切れかけた呼吸の合間に次の魔法を探す。候補はまだ幾つも浮かぶ。だが、痛みでも恐怖でも言葉でもなく、拍動そのものを掴まれている。どれを選んでも、今つかまれている場所へは届かない。正面ではネオセリッドの口縁がゆっくり開き、酸の泡が糸を引いていた。

 

(どうやら私は、魔法の高みにたどり着ける器ではなかったようだ……)

 

 視界の周縁が黒く欠け、鼓動が一拍、空白になる。その瞬間、遠くで空気の密度が変わった気配が走った。

 

 耳の奥で、短い声がかすめた気がした。次いで、はっきりとした呼気が届く。

 

「《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》!」

 

 地表の割れた岩陰からの声──ヴィアベルだ。先ほど仰向けに倒れ込んだ位置から身をずらし、崩れた岩の影に半身を入れて片膝を突き、左肘で上体を支えながら短杖を水平に構えている。

 

 太い光の帯が二本、ヴィアベルの視線の先へ現れ、空間を斜めに横切った。円環のまま伸びた帯がネオセリッドを含む一帯を括り、交差部が触手の根を包む。それらが重なった瞬間、その内側だけで巨体の運動が一斉に遅くなった。

 

 帯の内側で、巻き上がっていた砂塵の落下が目に見えて引き延ばされた。喉奥で膨らんだ酸は細かな滴のまま舌面へ並び、噴き出す寸前の形を崩さない。ネオセリッドの筋は盛り上がり続けているのに、触手の先は半呼吸かけても指一本ぶんしか進まなかった。

 

 二本の光帯は巨体の輪郭だけをなぞってはいない。一本は背後の割れた岩を横切り、もう一本は何もない空中へ食い込み、交差した内側の砂と酸と触手をまとめて遅らせている。ネオセリッドが身を捩るたび、帯は弓なりにたわみ、低い軋みを返して元の線へ戻った。ヴィアベルは短杖を水平に保ち、まばたきもせず、その交点だけを追う。

 

 形のない範囲を見失わずに支え続けるたび、彼の左肘が岩の上を少しずつ滑った。視界の端から色が抜け、こめかみの脈が速くなる。注ぎ込んだ魔力は帯の軋みへ削られ、鼻の奥には鉄の味が上がってきた。保てるのは、あと数秒だった。

 

「一人で勝手に諦めてんじゃねえ! お前のために祈ることになんのはごめんだ!」

 

 ヴィアベルの神経が焼けるように熱を帯び、こめかみに太い血管が浮く。目と耳と口の粘膜から赤い血がにじむ。それでも彼は歯を食いしばって叫び、視線をネオセリッドからそらさない。

 

 前線上空を突入軌道で走っていたタヴは、光の帯が視界に立ち上がるのを同時に捉えた。その内側へ入れば自分も固定されると即断し、空中で体軸をひねって《Wind Soul(風の魂)》の推力を反転させ、軌道を斜め上へ逃がす。旋回の最中にゼンゼへ《Message(伝言)》を飛ばす。

 

「魔法が解除された瞬間に攻めろ! 何かされる前に奴を叩くぞ!」

 

「神を殺すなんて考えなくていい! 月に一つだけ願って!」

 

 女の騎士の短い声が重なり、言葉がゼンゼの足場を作る。

 

 《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》の帯はすでに軋み、固定も剝がれかけている。だがその数秒のうちにネオセリッドの命令は寸前でちぎれ、ゼンゼの喉へ空気が戻った。視界の黒が薄れ、鼓動が自分のものとして打ち始める。

 

 ゼンゼは大きく一度だけ息を吸う。ヴィアベルの怒声、タヴの指示、女の騎士の願いを順に聞き直し、垂れた髪槍へ力を戻した。今度は、自分が返す番だ。

 

 彼女は小さく口を開き、月へ短い願いを置く。救いを求める者に道を示し、歌と剣で闇を払うという教えに従い、誰かを守るために力を使うと定める。その意図に応じて《月の恵み》が応答する。

 

 この恵みは、ひとつの小さな願いを通じて五階梯までの魔法効果を、詠唱も媒介もなく形にする性質を持つ。ゼンゼはそこで打撃の術を選び、胸骨の奥で魔力の配線を組み替え、指先から髪へ新しい回路を流し込む。

 

 弱き者に差し出された手と、舞うように正確な剣。女の騎士が見せてきた二つの姿を、ゼンゼは自分の髪槍へ重ねる。仲間を守るための剣だと形が定まり、その効果として《Holy Weapon(聖なる武器)》が髪槍へ宿った。

 

 髪槍は昼のような白を放ち、周囲を大きく照らして外縁まで淡い明かりを押し広げる。脈動する光が刃文のような印を槍身に刻み、編み上げた髪の一本一本へ、刃と同じ鋭さが宿る。

 

 打突が入るたび、刃の侵入を追って聖なる輝きが傷口の奥へ滲み、相手の肉と邪なる力を内側から焼く。編んだ髪は衝撃を受けてもほどけず、穂先に集まる白だけが一段ずつ強くなった。

 

 ヴィアベルの《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》は限界へ達した。二本の光帯が低く軋み、貼り付いていた輪郭の線が細かく裂ける。片膝で耐えていた彼は両膝をつき、視線がわずかに泳いだその瞬間、光の帯は硝子片のような微光を散らして割れ、固定されていた空間の歪みが弾けて消えた。

 

 空間が解放された刹那、ゼンゼは予備動作のない瞬間移動で間合いの内側へ跳ぶ。白の残光が遅れて線を引き、彼女の身体はネオセリッドの触手根の死角へ滑り込む。

 

「終わらせる」

 

 突如至近に現れた気配に、ネオセリッドの口囊が痙攣する。喉奥で泡だった酸が零れ、根元の触手が反射で絞り込まれて盾を作ろうとした。だが根本まで潜られたため、厚みを作る前に穂先が届く。

 

 髪槍が三叉に分かれ、さらに枝を増やして十数の穂先へ展開した。各穂が微細な螺距で逆回転を始め、髪の束が締まり、刃縁に沿って白金の火花が細かくこぼれる。風圧で襟元の布が震え、長い髪が円弧を描いて背へ流れる。

 

 突きの軌道は一点に収束し、先端の渦だけが鋭く明滅する。最初の突きで透明な膜が硬質の音を返し、二の突きで膜全体に波紋が走る。三撃目、渦が食い込み、精神障壁の層がひび割れて砕けた。白い輝きが裂け目から内部へ浸入し、厚い肉と神経の束を焼き切って進む。

 

 ゼンゼの突入に続き、タヴが右側面から急降下する。《Lightning Lure(電撃の引き寄せ)》が閃いて触手の束に絡み、巻き付こうとした動きを横へ引き倒す。《Heart of the Storm(嵐の中心)》の放電が断続して根元の筋を焦がし、反応を鈍らせた。

 

「今よ、刃を通して!」

 

 女の騎士がゼンゼに向けて叫び、翼で姿勢を切り替えて低く潜る踏み込みからグレートソードを振り抜く。刃は別の触手の関節を正確に断ち、返した一撃で棘列の付け根へ浅い傷を刻む。攻撃線が分断され、ゼンゼへ集中する角度が奪われる。

 

 ゼンゼは螺旋回転する穂先をさらに押し込み、開いた道に別の穂を順々に通す。聖なる光が内側で連鎖し、内部の圧力がわずかに上がる。彼女は騎士から授かった《Bardic Inspiration(バードの声援)》の短い節を胸の底でほどき、呼気を一拍で合わせて、付与した光を一気に解き放った。

 

 《Holy Weapon(聖なる武器)》の光が爆ぜる。髪槍の各穂先を核に白い衝撃が内から外へ輪のように広がり、頭部前面を流れていた精神の回路が一息でちぎれる。接続を失った障壁が崩れ、神経節に過負荷が走った。

 

 白の余熱がまだ残るうちに、ゼンゼは術式を連ねる。刺し込まれたすべての穂先の前に小さな魔法陣が展開し、同時に閃光が点火される。

 

「《ゾルトラーク(神を殺す魔法)》」

 

 十数条の黄金の軌跡が、内部から外殻へ向けて同時に突き抜けた。螺旋が削った道筋を閃光が駆け、肉と骨と神経を正確に焼き切る。ネオセリッドの巨体が大きく痙攣し、喉奥から圧搾された悲鳴が絞り出される。支えを失った灰紫の頭部が沈み、体節が次々と崩れて地表へ倒れ込んだ。

 

 ゼンゼが髪槍を引き抜くと、瀕死の巨体は空を向いて触手を伸ばす。二度、三度。救いを請うように伸びた触手がやがて止まり、肩に当たる節だけが震え続ける。

 

 湿った声が、空気のどこかで笑う気配のみを残した。

 

「玩具は、壊れる瞬間が一番面白い」

 

 黒い粘りの塊が、傷口から逆流するように滲み出る。塊は自ら張力を生み、縁を噛んで裂け目へ潜る。噛まれた肉が内側から引き抜かれ、繊維が一本ずつ舌のような突起に巻き取られて消える。触手が必死に叩きつけられるが、黒は叩かれた面で割れては合わさり、次の口を増やす。

 

 ネオセリッドは這うように体節を丸め、押し潰された腹部を覆う。黒は増殖し、節の隙間へ指のような枝を差し込んで神経を食む。悲鳴が潰れかけると、喉元の塊だけが薄くほどけ、呼吸を一度戻した。次の悲鳴が上がったところへまた噛みつく。上へ伸びた触手は黒に捕まり、自分の肉を自分に食わせられる形へゆっくりねじられた。湿った笑いは、その動きが止まりそうになるたび近くで揺れた。

 

 女の騎士は歯を強く噛み、視線を逸らさずに吐き捨てる。

 

「……最低だ。あれで恩寵を名乗るのか」

 

 ゼンゼは解いた髪を肩へ落とし、なお動きを止めない黒を見据える。タヴは上空で位置を取り、いつでも雷を落とせる角度を保つ。三人の呼吸が揃いかけた、そのときだ。

 

 戦場の照度が一段落ち、冷たい白い光が地表へ降りた。雲からではない。瓦礫の粉塵や湿った蒸気の粒が一つずつ微かに発光し、白い薄層になって場を覆う。白は黒い塊には絡まず、ネオセリッドの皮膚と体内へ沈み込む。

 

 沈んだ光が神経の興奮を静め、痙攣はゆっくりと収束する。痛覚の回路がほどけ、最後の呼気が細く長く抜けた。黒い塊に噛まれていた肉から力が抜け、引きつっていた触手が地へ伏す。女の騎士が祈りで奏でてきた旋律と同質のもの──月の女神イーリストレイが、終わりにだけ与える静けさだ。

 

 女の騎士は剣を胸に立て、古い言葉で一節を静かに紡ぐ。祈りというより、帰路を示す合図だ。ゼンゼは視線を落とし、黙ってそれを受け取る。タヴは肩の力を抜き、乱れていた風の層を沈めた。ヴィアベルは岩陰にもたれ、目元の血を拭ってから小さく舌打ちを置くにとどめる。

 

 黒い塊は最後の一噛みで残滓を飲み込み、表面に小さな波紋を広げ、それから地面へ沈むように消えた。気配は残らない。残ったのは、焼けた臭いと、白い粒の名残が点々と照らす瓦礫だけだ。

 

 白い粒は、戦いが残した傷を順に浮かび上がらせた。ヴィアベルの頬から顎へ乾きかけた血が続き、女の騎士の籠手には酸で曇った跡がある。ゼンゼの髪は泥と粘液を吸って重く垂れ、タヴの肩と脇腹では焼けた布が風に細く震えていた。誰も勝利を口にしない。荒い呼吸と、冷え始めた瓦礫が鳴る音だけが、静けさの中へ少しずつ戻ってくる。少し離れた窪みでは、酸に焼かれた土がまだ白い蒸気を吐き、風がそれを地表へ低く引き延ばしていた。

 

 風が一度だけ向きを変えると、月の白は薄れ始めた。四人は声を出さず、それぞれの場所から瓦礫に残る熱が冷めていくのを見守った。細かな白も風に揺らされ、一つ、また一つと光を失った。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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