界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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城壁都市アイアンゲートで続いてきた防衛戦は、赤の魔道士団が打ち立てた黒石の柱と召喚の構造物を巡る決戦へと移る。ブロックスは多元安定機構の戦士や魔法使いたちと共に、デーモンの大群を押し返しながら勝利への道を切り開く。その頃、別世界の塔から戦況を見守っていた賢者は、この戦いが多元世界全体の均衡に及ぼす影響と、タヴやラジエルが将来担う可能性について静かに思考を巡らせていた。


#16:鉄の守り手と盤上の一手

 城壁都市アイアンゲートの東、約二キロに広がる石灰岩の採石場跡は乾き切り、昼下がりの陽を受けて段丘状の掘り下げが風で白く霞んでいた。北と西は切り取られた崖、南は浅い枯れ川、東は灌木地だ。底部の盆地状の広場は直径六十メートル。そこに黒石の柱が四隅に立ち、中心には直径十二メートルの召喚陣が刻まれていた。

 

 段丘の縁でアゼリオンは盆地を俯瞰し、風向と見通しを確認した。青い肌に無毛の頭、細い耳介を持つヴィダルケンのウィザードは、重ね着の濃紺のローブを肩に掛け、胸元の円形ブローチに淡い青の魔晶を留めている。左手首の金属装具には指先で回せる結晶が固定され、視線と連動するように微弱な光を返した。

 

 右後方では、赤く編んだ髭を胸に垂らしたドワーフ、ブロックスが幾何文様を刻んだ板金鎧に身を固め、斧と角張った盾を握り直して合図を待つ。彼の足もとには《Steel Defender(鋼の護衛)》が控え、四脚の低い胴体に符刻板を連ね、節の多い脚関節で姿勢を調整している。

 

 背の装甲窓の奥で炉心が緑色に脈打ち、岩地用の丸い足パッドが砂礫を噛んだ。二人はここから地形と敵位置を測り、部隊の配置を決める。彼らの背後には、アイアンゲート軍の重歩兵と弩兵、多元安定機構のレンジャー、ファイター、ウィザードが段丘の縁に沿って膝をつき、旗手と角笛役が合図待ちの体勢で控えていた。

 

 設置されている柱は《Planar Keystone(次元楔)》で、柱芯に収めた符刻立方体が指定平面の座標と結び付き、周囲の結界や転位を安定化させる仕組みだ。刻線を読み解けば結び先の平面と座標が推測できるため、破壊と無力化の優先目標になる。

 

 アゼリオンは柱列を一つずつ測り、刻線の幅や盤石の据え付け角を指で示した。測った印を並べて見せ、静かに指摘する。

 

「オルクス狂信者の祭壇にしては、刻みが全部同じで整い過ぎだ。道具の幅も筆致も揃っている。まるで提供された図面通りに作ったようだ」

 

 オルクスの祭壇であれば、本来は骸骨や角付きのレリーフ、歪んだ偶像や血溜まりを優先し、恐怖と侮蔑の演出に力が割かれる。だが、目の前の儀式陣は祈祷の意匠よりも、位相の安定と転位の効率を重視した造りに見えた。教義より運用を優先した手付きだと彼は判断する。ブロックスはその指摘に頷きながら、柱脚の基礎を目で追って告げた。

 

「資材の運びも手慣れすぎだな。赤の魔道士団オルクス派が動いているという話だったが、サーイ本国や《Thayan Enclave(サーイの商館)》も裏で支援しているのかもな。……儀式祭壇というより前進基地に見えるが、旗印はオルクス。どう思う?」

 

 サーイとはトリル次元のフェイルーン大陸東方に位置する魔法国家で、死霊術を極めた《Archmage(大魔法使い )》たちが支配する。行政と軍の上層は不死のウィザード──リッチが占め、命令と裁定は長命の彼らを中心に回る。

 

 《Thayan enclave(サーイの商館)》は、サーイが国外に置く交易の拠点を指し、それを各地の都市に構えて交易を口実に物資や人員の流れを握る。この独立した飛び地は売買の場にとどまらず、資材搬入や工作の拠点としても機能する。それを念頭に置き、アゼリオンは低い声で応えた。

 

「サーイ本国がオルクスへの全面帰依を掲げるのは考えにくい。ザス・タムの権威とぶつかるからだ。だが、使える悪は使う連中でもある。表では否定しつつ、オルクス派が働きのある間は黙って任せる。そんな約束で動いている可能性はある」

 

 彼の知る限り、ザス・タムはサーイを率いる大リッチで、最高権力者として魔法と官僚機構の頂点に立つ存在だ。国の方針や信仰の線を決めるのも彼であり、外の魔王に主権を明け渡すような帰依は、自国の支配構造そのものと矛盾する。そうした事情を踏まえ、ブロックスが言葉を継いだ。

 

「オルクス派はザス・タム非公認の外注業者ってわけだな」

 

 アゼリオンは「あるいは」と呟き、さらに考えを敷いた。

 

「オルクス派はサーイ本国の外郭組織で、実体は各地の邪教信者を束ねた寄り合いという線もある。ザス・タムが魔王の権能と求心力を利用するために、契約上の担保として、オルクス派を儀礼媒体にしているといったところか……」

 

 ブロックスが低く付け加えた。

 

「多元交通が常態化したことで、邪教の越境伝播はしやすくなったからな。機構の援助から漏れた地域の鬱屈、管理に反発する在地権力の不満は、反秩序や悪魔崇拝の運動に流れることもある。オルクスの信仰が周縁で膨らむのは不思議じゃねえ」

 

 地上と地底、遠隔の都市と異なる次元を結ぶ門や路は今では夢物語ではない。かつて混沌の主らが地表に顔を出して各地を荒らした騒乱からは既に幾世代が過ぎ、当時ばらまかれた祈祷や禁書の写しが交易と密輸の流れに紛れて残っている。

 

 サーイのように不死の労役を行政に組み込んだ国制や、死霊を増産する環状陣の残骸が長く人目に晒され続ければ、「不死を資材として用いる」という発想は土に染みる。オルクスの掲げる全不死化の理想は極端でも、崩れた辺境や避難民の地では救いの語り口に変わり得る。

 

 ブロックスは実務に引き戻すように柱列へ目を戻し、短く言う。

 

「いずれにせよ、柱と陣が規格品なら、壊し方も同じで通るはずだ」

 

 アゼリオンは最後に判断を固める。

 

「証拠は戦場で集める。今は仮説として置いておく」

 

 彼は地図筒から防水加工の羊皮紙に描かれた地図を広げ、指先で等高線をなぞって魔力を流し込む。《Silent Image(音なき幻像)》──視覚のみの虚像を一辺約四・五メートルの範囲で空間に描き、術者の意志で像の形や位置を自然に動かせる魔法──で、その地図を写した半透明の地形模型を腰の高さに立てた。

 

 指先で斜面と段丘の等高線を起こし、三本の通路だけを白線で抜き出す。赤の扇形で弩兵の射界、青の帯でウィザードの術線を重ね、砂土嚢と崩落片は灰のブロックで表示する。模型は静かで手応えはないが、彼の手つきに合わせて無音で拡大と平行移動を繰り返した。

 

 中央の通路に塔盾の記号を二列、直後に槍列の記号を一列、その背に交代の予備一列を置く。左右の狭路は灰のブロックでさらに絞り、入口に各部隊の記号を貼り付ける。弩兵は盾壁の右後方と左後方、段差をまたいだ二か所に配置し、赤い扇形が盾列の肩越しに交差するよう角度を修正した。ウィザードは段丘縁の二点に青帯を引き、火線が弩兵の装填と噛み合うよう扇の開きを一段狭める。離脱路と交代線は点線で示した。

 

 《Eldritch Knight(秘術の騎士)》のファイター三名は、中央に二名、右側通路の付け根に一名を配置した。模型上で三つの剣記号を半歩前後にスライドさせ、盾列が押し広げられた瞬間に差し込む動きを示す。

 

 合図で踏み込み、《Booming Blade(唸る剣)》で前に出た敵を止め、空いた間隙は即座に戻って埋める前提だ。アゼリオンは像の赤と青の帯が重なり過ぎないよう角度を一度だけ微調整し、顔を上げて命じた。

 

「各斥候班、北縁と南縁へ。転移痕の残滓を拾い、柱の反応位相を確定しろ」

 

 レンジャー五人にウィザード二人が随伴し、二手に分かれて崖の縁へ走る。《Horizon Walker(地平線歩き)》のレンジャーたちは感覚を研ぎ澄ませ、《Detect Portal(ポータル感知)》で最寄りの次元門の方向と距離を測る。これは一時的に空間応力の偏りと位相音の弱い共鳴を拾い、半径約一・六キロ以内の次元門の位置を割り出す能力だ。

 

 随伴のウィザードは《Cartographer's Tools(地図作成道具)》と《Calligrapher's Supplies(書道用品)》を取り出し、検知角と反応の強度を方位線に符号化して逐次書き付けていく。

 

「北東柱、応答角三十二。南西柱、反応に遅延。揺れがある、外からの次元干渉だ」

 

 アゼリオンは頷き、《Silent Image(音なき幻像)》の像を指先で払って掻き消すと、広げていた地図を巻き取って地図筒に収め、アイアンゲート軍の指揮官に最終配置を手短に伝えた。出撃兵力はアイアンゲート正規兵三百四十六名。

 

 内訳は塔盾の重歩兵百三十五、槍兵百八、弩兵八十三、工兵十、衛生八、伝令六、指揮班六。城壁と港区の防衛にはおよそ常備兵千七百と民兵千を残置する。市街の損壊と火点の閉鎖、避難誘導に割いた分を差し引いての動員だ。

 

「全隊聞け。第一から第四小隊は塔盾で前縁、槍は二列目で突き出せ。弩兵は左右高所、交互装填で絶え間を作るな。工兵は後列中央で待機、号令『鎚一』で前送だ」

 

 指揮官が場を覆う大声で言い切る。

 

「復唱。前縁は塔盾噛み合わせ、槍は肩越し突き出し。弩兵は交互装填、工兵は『鎚一』で前送り。衛生は第二列内側で負傷者回収」

 

 副官が短く区切って伝え、角笛と信号旗で各中隊へ合図を送る。伝令が段丘の縁を走り、列の間隙が一斉に詰まる。弩兵が頬付けを試し、槍列が身じろぎを止める。

 

 重歩兵は高さ胸までの塔盾を右膝に落とし、縁を噛み合わせて板を一枚の壁にする。二列目が槍を盾の上から突き出し、三列目が交代要員として後ろで待機した。ファイターの三名はそれぞれ前衛の死角を補う位置に膝を落とし、合図一つで前へ半歩押し出す姿勢を固めた。

 

「レンジャーは北縁と南縁に二分して張り付け。射角は交差で維持。ウィザードは段丘縁の二点、砂土嚢の陰で待機しろ。合図で遮蔽と妨害を重ねる」

 

 アゼリオンの指示を受け、レンジャー五人は右の段差と左の崖肩へ小走りで散開し、岩と土嚢の影に伏せて弓弦を確かめ、つがえを合わせて射角を揃える。

 

 ウィザード二人は段丘縁の所定の二点へ移動し、砂土嚢と崩落片の陰に膝をついて身を沈め、手首に装着した結晶の《Arcane Focus(秘術焦点具)》を前方へかざし、術線を弩兵の装填と噛み合わせるように視線と角度を微調整した。伝令が両側を走って合図を伝え、前後の列間が詰まる。塔盾と槍がわずかに押し出され、全体の陣形が迎撃の姿勢へと整えられていく。

 

 直後、盆地中央の召喚陣で刻線の赤い光が脈を打つように明滅し、空気の層が揺らぎ始めた。紋の輪郭がねじれて奥行きを持った瞬間、赤衣の一団──赤の魔道士団の小隊が輪郭の歪みとともに陣内へ出現する。同時に、紋の内側から腐臭を帯びた黒い靄が噴き上がり、デーモンの群れが滲み出る。

 

 灰緑のドレッチは膨れた腹と疣だらけの皮膚を揺らし、鼻を刺す腐臭を撒く。クアジットは痩せた四肢と鉤爪、小さな角と尾を持つ小鬼で、影に紛れて散る。柱影では、蛙に似た巨体と分厚い皮膚を持つヘズロウがぬめり、橙褐色の長い毛と腕を備えた猿めいたバルルグラが肩を鳴らして定着する。上空には、禿鷹の頭部と黒ずんだ翼を持つヴロックの影がにじみ、召喚陣の溝は赤い脈動をいっそう強めた。

 

 小隊は計十五名の編成で、そのうち五人がウィザード──赤の魔道士だ。彼らは頭髪を剃り上げ、印章と結印図の刺青を頭皮とこめかみに刻み、深紅のローブに学派章の縁取りを付けている。

 

 残りの十名はサーイの騎士──支配階級の個人的な護衛や、軍団の指揮官を担う名ばかりの騎士──十人は黒漆の板金に赤の肩章と帯、グレイブや長剣を携え、死角を塞ぐように赤の魔道士たちを囲んで立つ。号令一声、内輪は半身に盾、外輪は刃先を外へ向けて間隔を詰めた。

 

 サーイの騎士は赤の魔道士の親衛であり、接近してくる対術者を物理的に遮断する役目だ。赤の魔道士の一人が、多元安定機構とアイアンゲート軍の混成隊を指差し、サーイ語で嘲笑う。

 

「Khar zhen mekhanim vermin! Tharchion vel Zulkir ash-lor ven, rashet var tardesh!(機構の鼠どもめ!いつも事が起きてから慌てて動く、遅鈍な連中だ!)」

 

 アゼリオンは盆地の縁から視線だけを返し、わざと平板に言う。

 

「共通語で話せ。何を言っているのか全く分からん」

 

 嘲りとほぼ同時に詠唱が一段高まり、陣の外縁が濃く脈動した。灰緑のドレッチが百体規模で押し出され、クアジット約五十体が低く鳴いて四方へ散る。数十体のバルルグラとヘズロウは柱影から前へ出て間合いを測り、上空ではヴロック一体が旋回半径を狭めて降下の合図を待った。

 

 サーイの騎士の隊長格が盾を掲げ、濁った声で命を飛ばした。

 

「Zhak ven, Lor ashe thar!(進め、陣を崩すな!)」

 

 角笛と号令が重なり、砂塵が低く舞い上がる。声に合わせ、サーイの騎士たちが前へ半歩ずつ押し出る。長剣の平と盾の縁で灰緑のデーモン──ドレッチを群れごと前へ追い立て、盆地斜面の段を使って楔形に固める。押し上げられたドレッチの群れが斜面をよじ登り、段丘上のアイアンゲート重歩兵にぶつかった。

 

 塔盾の壁が軋み、衝撃で前列の一部が膝をついたが、後列が肩を押し上げて列を戻す。副官の旗が二度振られ、弩兵が左右二段の台へ上がって交互装填で射ち継ぐ。鋼の弦音がずれなく重なり、矢がドレッチの肩や膝を抜き、崩れた個体を槍先が確実に押し返した。前縁は姿勢と間合いを維持しつつ、押し返す余地を確保する。

 

 ヴロックが叫喚を上げて降下角を作る。アゼリオンは手元で術式を折り畳み、透明の力板──《Wall of Force(力場の壁)》を空に差し込む。高さ五メートルほどの平板をヴロックの降下線に重ね、見えない壁で翼を弾いた。鳥形のデーモンは空中で体勢を崩し、降下経路を失う。

 

 直後、機構のウィザード二人が段丘縁の右端と左端でそれぞれ射線を取る。右は《Magic Missile(魔法の矢)》を《Wall of Force(力場の壁)》の縁をかわす直線で通し、ヴロックの眼窩と翼関節に命中させる。左は掌で虚空をつまむようにひねり、柱から十二メートル以上離れた盆地中央に空間圧縮の点──《Gravity Sinkhole(重力井戸)》を固定した。

 

 《Magic Missile(魔法の矢)》の衝撃でヴロックは片目を押さえて高度を崩し、翼の可動が鈍る。《Gravity Sinkhole(重力井戸)》の渦が盆地中央で収縮し、外周のドレッチとクアジットを中心へ引きずり込みながら地に叩きつけた。バルルグラとヘズロウは四肢で踏ん張って引力に抗い、力場の打撃で動きが一拍止まる。圧縮された空気が弾け、土と石粉の匂いにヘズロウの腐臭が混じって一気に立ち上がる。

 

 前線の端で、アイアンゲート重歩兵の右前隅に跳びかかったバルルグラが、塔盾の上へ両腕を振り下ろそうと身を沈めた。ブロックスは段丘右縁の崩落帯に位置しており、そこから盾列までおよそ十五メートル、間に一段の斜面を挟んでいた。

 

 彼は《Steel Defender(鋼の護衛)》を戦列へ送り出し、斜面を二段駆け下ろして盾壁の右前隅へ横合いに滑り込ませ、振り下ろしに入った腕の間へ頭胴を差し入れて支点を作り、正面から受けさせる。

 

 《Steel Defender(鋼の護衛)》は短い脚で踏ん張り、迫る拳を前脚のガードで受け、力を外へ滑らせた。塔盾の縁をかすめた拳が石面を叩き、砂利が跳ねた。背後の兵士に届くはずだった一撃は死角で潰れた。

 

「中央に引き付けろ。槍は膝と足首を狙って動きを止めろ」

 

 ブロックスが低く指示した直後、左の崩落縁から別のバルルグラが彼に向けて斜めに突進してくる。ブロックスは自分と《Steel Defender(鋼の護衛)》の間隔を五メートル保ったまま盾を半歩だけ内へ切り込み、迫る右拳の甲を籠手で上からはたいて軌道を落とし、拳を石面にぶつけさせて勢いを殺す。続けて噛みつきに開いた顎へ盾縁を差し上げ、上顎をこじって顔を外へ向けさせ、前進線を逸らした。

 

 彼は攻撃を受け止めた体勢のまま、胸から腰へ斜めに回した器具帯に目を落とし、携行装備を確認した。帯の右脇に小型の《Smokepowder(煙火薬)》装薬筒が吊るされている。各筒の先端には石面へ押し付けて亀裂を導く鋼製の共鳴くさびが固定され、背側のループには締め具と丸環ねじの束が収まっている。

 

 起爆は時計仕掛けの遅延信管で、点火後に短い猶予が生じる仕組みだ。ブロックスは《Steel Defender(鋼の護衛)》に盾壁前の押し込みと遮断を続けさせ、その間に接近経路を確保し、柱基部の符刻に沿って装薬筒を締め具と丸環ねじで貼り付け、合図に合わせて遅延起爆で同時に破砕衝撃を集中させるつもりだ。

 

 狙いは《Planar Keystone(次元楔)》の土台に刻まれた結び目の線を力学的に切断し、柱の安定化機能ごと崩すことである。

 

 目前のバルルグラが再び右腕を振り下ろした。ブロックスは半身で踏み込み、盾の縁を内へ切って拳の軌道を胸の外へ流す。空振りで体勢が伸びた腕に合わせ、斧の柄を手首へ絡めて関節を極めた。

 

 続く左の振り抜きは肩で近間に潜らせてやり過ごし、足の甲で膝裏を蹴って重心線を崩す。倒れ際に顎へ石突を叩きつけ、露出した喉へ刃を差し込むと同時に《Arcane Jolt(秘術衝撃)》を流し込む。力場の振動が頸椎基部を砕き、バルルグラは痙攣して沈黙した。

 

 戦列に跳びかかっていた別のバルルグラは、《Steel Defender(鋼の護衛)》が右側から肩口へ力場の打撃を入れて顔を振らせ、重歩兵が塔盾で上体の勢いを逸らし、縁越しに手斧を差し込んで顎下と鎖骨を打ち、動きを止める。二列目の槍が膝と足首を順に突き、足を土に縫い付けた。

 

 バルルグラがのけ反った瞬間、右側通路の付け根にいた《Eldritch Knight(秘術の騎士)》が盾越しに長剣を突き出し、《Chill Touch(骨凍え)》──死霊の骨手を呼び出して触れた部位から生命力を削り、短時間は自然治癒や治療を受け付けなくする《Cantrip(初級呪文)》──を放つ。灰白の骨手が喉元を締め上げ、黒い痕を刻んで息を奪う。巨体が前へ崩れ、動きが止まった。

 

「右通路は確保した!一つ目の破壊目標へ向かう!」

 

 ブロックスは腹から声を張り、《Steel Defender(鋼の護衛)》を自身の右斜め後方に移動させ、飛び込みに対する遮断と後衛への挟撃防止を担わせる。彼はそのまま北東柱の基部へ斜行を開始した。

 

 一方で岩塊と砂土嚢の影にレンジャー二人が伏せ、長弓を引き絞って盆地の赤の魔道士を狙う。放たれた矢は肩口と手首を的に飛ぶが、護衛の騎士が前へ半歩出て幅広の盾を斜に立て、矢羽を鉄面で弾き落とす。

 

 もう一人の騎士が射線へ身を差し入れて間隙を塞ぐ。さらに側面の陰から別の騎士二人が複合短弓を構え、岩陰の射点へ速射で牽制を返す。レンジャーは唸りを上げる矢を聞き分けて頬を砂土嚢に押し付け、片方が放ち片方が弦を掛け直す形で肩越しに交互射を続ける。盾の縁と短弓の矢が行き交い、赤の魔道士は騎士の背へ身を寄せて詠唱の姿勢を崩さない。

 

 上空では、アゼリオンが維持している《Wall of Force(力場の壁)》がヴロックの降下線を平板で塞いでいた。南側の段差から赤の魔道士が半身をのぞかせ、短い詠唱とともに杖先をわずかに傾ける。

 

 刹那、緑の光線──《Disintegrate(分解)》が走り、透明な板面に触れた瞬間、壁は圧痕も残さず消失した。空気の張りが抜け、ヴロックが翼を畳んで角度を深くし、段丘縁のアゼリオンへ急降下する。

 

 その勢いのままヴロックが喉を開き、《Stunning Screech(朦朧化の絶叫)》──半径約六メートルに及ぶ衝撃音が鼓膜を叩き、抵抗に失敗した者は雷鳴の痛みで短時間気絶する絶叫──を放ち、奈落語で叫ぶ。

 

「Skraakh! Zhar'khal! Velk!(裂けろ!苦しめ!倒れろ!)」

 

 アゼリオンは片耳を手の甲で塞ぎ、顔を歪めて言い返す。

 

「うるさい!共通語を話せ!」

 

 絶叫が頭蓋を貫き、視界が白く跳ねる。膝が折れかけた瞬間、彼は反射で《War Magic(戦争魔法)》のウィザードとして習得した自衛術──《Arcane Deflection(跳ね返しの秘術)》を立ち上げ、意識の縁で魔力回路を締め上げて耐性を引き上げ、落ちかけた意識を引き戻す。

 

 同時に偏向の反動が《Deflecting Shroud(跳ね返す衣)》として外側へ弧を描き、不可視の衝撃がヴロックの胸板と翼腕を叩いて翼打ちを乱す。《Arcane Deflection(跳ね返しの秘術)》は魔力を消費しないが、魔力回路を一時的に硬直させるため、数秒間は《Cantrip(初級呪文)》しか行使できない。

 

 アゼリオンは岩棚を横へ二歩滑り、ヴロックが体勢を直そうと翼を強く張った瞬間、《Cantrip(初級呪文)》の中から《Ray of Frost(冷気光線)》──冷気の光線を放ち、損傷を与えると共に相手の動きを少し鈍らせる魔法──を選び、翼根へ撃ち込む。青白い光線が命中し、冷気が羽軸の基部を凍らせて降下速度を鈍らせたが、それでもアゼリオンを執拗に狙う。

 

 段上中央の胸壁裏でアイアンゲート軍の指揮官と副官が狭間に身を寄せ、伝令が装填済みの重弩二挺を胸壁の縁に掛け渡す。二人は受け取って即座に狭間から突き出し、指揮官が翼根を指で示すや、頬付けで照準を合わせて同時に引き金を絞った。矢は一直線に飛び、デーモンは身をひねって一射を外し、もう一射が右の翼根をかすめて羽軸に浅い傷を刻む。

 

 分が悪いと判断したのか、ヴロックは顔を逸らして追撃を断ち、進路をアイアンゲート兵戦列の上へ切り替える。高度を落として戦列の上空に出ると、灰緑の《Spores(胞子)》──吸い込んだ者は一定時間、呼吸のたびに胸の内側が焼けるような痛みが走る毒──を散布した。

 

「中央戦列は遮蔽姿勢を取り、《Spores(胞子)》圏から離脱しろ」

 

 アゼリオンの指示に合わせ、弩兵が身を落として横移動し、重歩兵が角度を取り直す。だが赤の詠唱がそれを追い越した。盆地中央に印章の光が走り、赤の魔道士がサーイ語で吠える。

 

「Zharkh ul‑mera, keth siir(思考を砕き、神経を焼け)」

 

 《Synaptic Static(脳神経抑圧)》が炸裂し、半径六メートルの精神衝撃が叩き込まれる。知性ある者の脳に鈍痛と雑音が流れ込み、抵抗に失敗した者は一分ほど思考がもつれ、攻撃や手順、集中の維持に大きな悪影響が生じる。衝撃で鼻口から血を噴いて崩れた弩兵が五名即死する。別の七名は膝から落ち、兜を手探りしながら意味を成さない声を漏らす。

 

「……ま……まぶ……手が……どっち……」

 

 装填の手順が遅れ、掛け声がばらける。続けて斜面上を指さし、別の赤の魔道士が低く詠唱する。

 

「Kar ven thur, nalkh hrim(氷よ降れ、骨を砕け)」

 

 《Ice Storm(氷の嵐)》が直径十二メートル、高さ十二メートルの円柱で降り、硬い雹が板金を叩き潰す。命中圏の者は転倒の危険にさらされ、打撃と冷気の複合で倒れる。前列の重歩兵が頭頸を砕かれて六名が即死、八名は前腕や膝を骨折して戦闘不能となる。

 

「痛ぇ……脚が……!助けてくれ!」

 

 悲鳴が重なり、足場は泥と砕けた氷でぬかるみ、盾の縁が沈み、足が吸い付いて抜けにくくなる。上空のヴロックが羽ばたきながら灰緑の《Spores(胞子)》を散らし、湿った鎧と顔当てに粉が貼り付き、隙間から吸い込んだ兵が咳き込みながら胸を押さえる。呼吸のたびに胸腔の内側が焼け、声が詰まって掛け声が途切れる。

 

 右手前では踏み込んだヘズロウの《Stench(悪臭)》が重なり、半径三メートルに入った兵が兜の中で嘔吐し、顎紐を引きちぎって兜を外す。その瞬間、盾手が空き、列の前後で足がもつれて尻もちをつく者が続出する。

 

 毒や臭気から逃れようと数名が後ろへ空気を求めて下がり、ぬかるみで足を滑らせて隊形から外れた。右翼の列は一時に薄くなり、二、三名は背中を向けかけ、逃げ腰で段を下りようとした。

 

「戻れ!持ち場を維持しろ!」

 

 アイアンゲート軍の指揮官が角笛を鳴らし、副官が信号旗で呼び戻す。だが《Synaptic Static(脳神経抑圧)》にかかった列は号令の理解が遅れ、《Ice Storm(氷の嵐)》による氷泥に足を取られた者は前へ寄せられず、《Spores(胞子)》で咳き込む者や《Stench(悪臭)》にえずく者は盾を胸から離してしまう。無事な兵も空いた枠に入り切れず、右翼はじわじわと下がった。崩れ目に、二名の《Eldritch Knight(秘術の騎士)》が前へ踏み出す。

 

「頭を下げて盾を重ねろ!」

 

 右のファイターは短く指示を飛ばし、長剣と幅広の盾で盾列の前に躍り出て、踏み込んだドレッチの膝へ《Booming Blade(唸る剣)》を乗せて斬り込み、振動の幕で足を縛る。縛られた個体を盾で押し返し、空いた一歩に後列の重歩兵を引きずり込む。

 

 左のファイターは逆側で大斧を両手に構え、ヘズロウの前肢を柄で弾いて軌道を外し、返しの《Booming Blade(唸る剣)》を斧頭に重ねて顎下へ叩き込み距離を作る。空から掠めるヴロックには斬り上げで牽制を入れ、前縁の空間をこじ開けた。

 

「サーイの剥げ頭連中に怯むな!ウィザード班、援護してくれ!」

 

 左のファイターの怒声が響いた瞬間、盆地中央寄りの場所で赤の魔道士が杖を掲げ、段丘上のアイアンゲート軍の戦列へ《Fireball(火球)》を放つための詠唱を始めた。段丘縁の右にいた機構のウィザードが援護に動こうとした刹那、別の赤の魔道士に《Counterspell(呪文妨害)》を差し込まれて組み上げかけた術式を崩される。

 

 直後、サーイの騎士が複合短弓を引き切って二矢を連射し、矢が岩棚の縁をかすめて右のウィザードの胸元へ飛ぶ。彼は顎を伏せて左腕を払う所作で《Shield(盾)》を展開し、見えない平板で矢を斜め上へ弾いた。

 

 三本目が間髪入れずに届き、足元の岩に跳ねる。右のウィザードは頭を下げたまま遮蔽から出られず、援護に回れない。赤の魔道士が詠唱を終え、燃える球体が戦列へ向けて飛び出す──同時に段丘縁の左で身を屈めていたもう一人のウィザードは、身を起こして自分の左手を大きく開いて前へ突き出す。

 

「遮蔽を作る。その間に立て直せ」

 

 彼が前線に短く告げた直後、戦列前の空間に半透明の巨大な掌──《Bigby's Hand(ビグビーの手)》が出現し、術者の動きをそのままなぞって開いたまま滑り込む。この魔法は術者の手の動きを模倣して動く力場の大手で、遮蔽の形成、押し出し、掴みによって進路と間合いを制御できる。

 

 巨大な掌が《Fireball(火球)》の飛路に割り込み、爆炎は掌の向こう側で膨らんで縁から漏れ、炎の裾が盾列の外縁をかすめたが、直撃は免れる。彼が指を握り込むと、巨大な手も拳に変わり、前方のデーモンを押し返して突進の先端を一拍止めた。

 

 前縁の動きが鈍ったのを、盆地の奥で指揮官格の赤の魔道士が冷静に見て取る。彼は周囲の配置と射線を素早く見回し、顎で合図して護衛のサーイの騎士に始末を命じた。騎士は兜の奥で一度うなずき、赤の魔道士は杖先で空間を捻じ開けるように円を切る。

 

「Vorth‑kel, aruun(空間を捻じり、飛ばせ)」

 

 杖先が描いた円の内側で空気が凹み、赤い幾何紋が高速で回転する。同じ紋が騎士の足元にも走り、輪郭が水に沈むように薄れた。次の瞬間、左側のウィザードの正面二メートルの空間が膨らんで裂け、そこから騎士の躯が押し出される──《Vortex Warp(渦動転移)》だ。

 

 この魔法は術者が空間の二点を捻じ曲げて繋ぎ、対象をそこへ瞬間移動させる。騎士は着地の反動で間合いを潰し、到着と同時にグレイブを低く構えた。ウィザードは驚愕より先に、《War Caster(戦場の術者)》として叩き込まれた反射で左腕を突き出す。

 

「──ッ!《Shocking Grasp(電撃の手)》!」

 

 《Shocking Grasp(電撃の手)》の電撃が走るが、騎士は半身を切って踏み外す。ウィザードの腕が騎士を掠め、火花だけがプレートの肩で散る。次の瞬間、グレイブの穂先が先に届き、刃がローブの胸板を斜めに裂いた。血が噴き、同時に《Concentration(精神集中)》が切れて、《Bigby's Hand(ビグビーの手)》がほどけて消える。ウィザードは片膝をつき、騎士が吐き捨てる。

 

「Narkh keth‑machin‑vyr!(死ね、機構の歯車!)」

 

 追撃に踏み込む騎士の手首を、左崖から駆け下りたレンジャーが長弓を引き絞って放った矢が弾いた。レンジャーはそのまま距離を詰め、短剣で柄の根元を噛ませて刃筋をずらす。

 

 騎士は半歩退いて体勢を立て直すが、レンジャーは身体を崖端へ寄せて真正面に立ち、騎士の利き手側へ半身を切らせるよう足運びで誘導し、視線とグレイブの向きを自分に固定した。崖面側の内側に細い通路が空く。

 

 段上後方で待機していたアイアンゲート衛生班二名が指揮官の合図を受けて左の石段を駆け下り、岩壁沿いの死角を使って倒れたウィザードへ到達する。二人は脇下と膝裏に腕を差し入れて持ち上げる形で確保し、崖側の通路を通って段丘裏へ後退させた。

 

 騎士とレンジャーが正面で衝突する。騎士はグレイブの刃を払って横薙ぎ、レンジャーは外足で岩縁を蹴って外へ逃がし、逆手の短剣で喉下を狙う。騎士はグレイブの柄でそれを外へ弾き、踏み込み返しの突きがレンジャーの胴の継ぎ目を抉る。レンジャーは呻きながらも前に滑り込み、もう一方の短剣を鞘走りで引き抜き、兜の顎当ての隙へ押し上げた。

 

 二人は崖端で絡み、肘と膝で間隔を潰して刃を探る攻防が二合。最後は同時に急所を通し、騎士は頸動脈を裂かれて崩れ、レンジャーも胴を貫かれて膝から落ちた。

 

 その間にも、思考の淀んだ弩兵が装填を落とし、斜面に残った氷粒が滑りを生んで転倒者が出る。そこへバルルグラが瓦礫の段差を二段飛びで越えて盾列へ叩きつけ、無造作な連打で前列の隙を拡げた。ヘズロウは前肢で盾を押し潰しながら噛みつき、至近の兵をまとめて地に伏せさせる。戦列の内側から悲鳴が上がった。

 

「盾が割れた……!もう駄目だ……!」

 

「後ろから押すな!踏み潰される……!」

 

 クアジットは《Invisibility(不可視化)》で背面に回り、泥と氷の上に小さな踏み跡と飛沫だけを残して膝裏と腱を狙う。同時に、前面のドレッチが《Fetid Cloud(悪臭の雲)》──半径数メートルほどに腐敗臭と毒気の濃い雲を噴き出し、吸い込んだ者に吐き気と眩暈を与えて動きを鈍らせる瘴気──を吐き、前列の呼吸を乱す。

 

 頭上ではヴロックが低空で掠め、鉤爪と嘴で盾の縁を叩きながら隙を探る。倒れた兵の後ろから毒の痛みで声が途切れ、瘴気で目が潤み、列は瞬く間に崩れ始めた。盾が下がり、足並みが乱れ、後列が後退の体勢に傾く。弩が地面に散り、掛け声が途切れる。

 

 その時、遠距離からサーイの騎士と赤の魔道士を牽制していたレンジャーの二名が自ら前へ出る。二人はぬかるみの飛沫と足跡の向きを読み、矢を二手に分けて見えない標的の進路へ先置きで撃ち込む。

 

 短い悲鳴が泥に沈み、クアジットの動きが一拍鈍る。別の一人は瘴気の際を回り込んでドレッチの鼻面へ矢を通し、さらにもう一人が上方を狙って斉射の合図を出す。弩と長弓の矢が一段上の空域へ連続で伸び、ヴロックの翼端に当たって姿勢を崩し、上昇旋回へ追いやった。

 

 別の一人は盾列の背に回って倒れた兵の肩綱とベルトを掴み、片膝で起こして盾を押し上げる。空いた腕で予備盾を渡し、「右へ半身、縁を合わせろ」と短く命じる。後列の一人は折れた槍を抜き取り、無傷の槍を前列に差し渡して「穂先は胸の高さ、水平で押せ」と角度を合わせる。

 

 先頭のファイター二名が同時に一歩踏み出し、指で地面を示す。

 

「右角を岩に当てて、そこを支点に前に出ろ!」

 

 右端の重歩兵が岩角に塔盾の角を当て、縁を噛み合わせる。左端はそれに揃えて半歩ずつ詰め、二列目の槍が盾越しに交互で突き出す。レンジャーの一人が空いた間を走り抜け、膝をついた兵の前に矢を一本突き立てて目印を作り、「この線から下がるな」と声を落とす。列が線に揃い、踏み直しで靴底が泥から抜けるたび、前縁の空白が消えていく。

 

「まだ戦いは終わっていない!逃げるな!」

 

 ファイターの一人が怒鳴り、足を踏み鳴らして士気を繋ぎ止める。氷と泥で荒れた地面は難地形になっており、踏み直しに時間がかかる。だが戦列の穴は塞がった。弩兵の一人が歯を食いしばり、古い口伝で自分を叩き上げる。

 

「石は耐える……人も耐える……俺は折れない……!」

 

 彼は震える指で弦を引き、視界の縁へ走るクアジットを射倒した。段丘中央の縁でアゼリオンが前線を一瞥し、右前の味方との射線を確認して短く指示を伝える。

 

「《Lightning Bolt(電撃)》を通す。射線を空けてくれ」

 

 右前のファイターが即座に声を張り上げる。

 

「聞いたな、《Lightning Bolt(電撃)》だ!右前、半身に下がって射線を空けろ!」

 

 彼自身と隣の重歩兵が素早く半身にずれて盾角を落とし、稲妻の通り道が開く。アゼリオンは手首の装具に固定した結晶──《Arcane Focus(秘術焦点具)》をひらめかせた。

 

 空に線を引く所作で焦点を合わせ、味方の退きが完了したのを見て呼吸一拍で《Lightning Bolt(電撃)》を斜めの射線で放つ。前面のドレッチ列ごと、右手の段丘下からウィザードを牽制していた赤の魔道士とその側のサーイの騎士をまとめて薙ぐ狙いだ。稲妻はドレッチの列を貫き、脆い肉体を焦がして数体を黒焦げにして倒し、運よく耐えた個体にも焼けただれた傷を刻みつける。

 

 騎士は半身を切って雷の線の外へ滑り、盾と鎧の面で電撃を外へ流す姿勢に落とし込み、直撃を避ける。赤の魔道士は《Absorb Elements(元素吸収)》で電撃を受け流して耐えるが、衝撃で膝を落とし、わずかな隙が生じた。

 

 段丘縁の右にいるウィザードは、その隙に前線の手前に《Web(クモの巣)》──およそ六メートル立方の粘着糸を瞬時に張り巡らせ、踏み入った敵を拘束する魔法──を展開し、押し込みの足を絡め取る。

 

 だが、即座に別の赤の魔道士が《Fire Bolt(炎の矢)》──火の粉を撃ち出し、命中した可燃物に着火させる《Cantrip(初級呪文)》──で《Web(クモの巣)》に着火させ、焼き払って通路を開ける。

 

「Khalith ven! Mor zha vel!(潰せ!間を詰めろ!)」

 

 サーイの騎士隊長は盾を前に押し立てて一歩踏み出し、長剣の柄でドレッチの背を追い立てながら金属声で号令をかける。

 

「Vashk rae zha‑mor vel‑thar. Thol‑nar vel akh‑ket(《灼熱の光線》を集中射で撃て。《対人金縛り》で固めろ)」

 

 指揮官格の赤の魔道士は杖先で射線を示しつつサーイ語で指示を飛ばし、前列へ撃ち込みの合図を送る。

 

「前列は盾を斜めに重ねろ。崩れ石を寄せて胸壁を作れ。弩兵は間隙待ちだ、焦るな」

 

 段上後方のアイアンゲート軍指揮官は踵で石片を蹴り寄せて腰の高さの土手を作りながら短く命じ、手振りで盾列の角度を合わせる。

 

「《Hold Person(対人金縛り)》に備えろ。側面から発動に入った瞬間を潰せ。抜けた分は私が解除に回る」

 

 アゼリオンは手首を水平に向けて前縁を見張り、残存しているウィザードに合図して冷静に続けた。

 

 赤の魔道士たちは《Scorching Ray(灼熱の光線)》を盾の隙へ連ね、《Hold Person(対人金縛り)》を前に出た機構のレンジャーとファイターへ重ねてくる。光線が塔盾の縁を焦がし、拘束の術がファイターの四肢を硬直させる直前、段丘縁の右にいた機構のウィザードが、《Counterspell(呪文妨害)》を差し込んで術を打ち消す。

 

 別方向で拘束されたレンジャーには、アゼリオンが《Dispel Magic(魔法解除)》で縛りをこじ開け、隣の重歩兵が襟を掴んで盾の陰へ引き戻す。ドレッチが《Fetid Cloud(悪臭の雲)》を撒き散らして盾の斜面をよじ登って爪と噛み付きで縁をこじ開けようとするが、先頭のファイターが長剣の峰で手首を叩き落とし、重歩兵が塔盾の角を押し上げて押し返す。

 

 二列目の槍は胸の高さで水平突きに切り替え、合図の掛け声に合わせて交互に穂先を通す。弩兵は指揮官が示した胸壁の内側で呼吸を整え、間隙が開いた瞬間に矢を差し込み、赤の魔道士とサーイの騎士を制圧して動きを制限する。

 

 激しい攻防が続く中、ブロックスは北東柱の基部に至るまで、自作の《Spell‑Storing Item(呪文保存の品)》に仕込んだ《Invisibility(不可視化)》で身を隠して移動していた。込めたのは、工匠の焦点として使う鍛冶槌の柄に埋め込んだ導刻環だ。

 

 握って一動作で効果を引き出せる加工で、移動中は《Steel Defender(鋼の護衛)》を一歩後ろに付け、壕影と崩れ石を踏んで柱脚の死角へ入る。死角で不可視を解き、膝を落とす。

 

 符刻の結び目──円と斜線が交わる交差点──に装薬筒を当て、締め具三つで噴射面の向きを固定する。剪断方向を揃えるための丸環ねじを斜め下に一本だけ打ち、時計仕掛けの遅延信管に火を入れて、秒読みを頭で回す。

 

(五、四、三)

 

 ブロックスは爆風に備えて塔盾の角度だけを変え、《Steel Defender(鋼の護衛)》を柱と自分の間に斜めに立てた。数が「二」に達する前、彼に気づいた上空のヴロックが斜め降下で彼を叩き潰そうと突っ込む。ブロックスは盾の縁を上げて衝撃を受け、《Steel Defender(鋼の護衛)》に爪と蹴撃を食わせて減速させる。

 

 ヴロックが翼を広げて離脱に転じた瞬間、彼は腰の魔導クロスボウを素早く二連射した。工匠導刻の《Repeating Shot(連続射撃)》で装填動作を要さず、引き金を二度切るだけで魔力が弦と矢を再装填する。初弾が傷んだ翼根を貫き、二弾目が胸腔を打ち抜く。ヴロックは斜面に傾き、岩場へ墜落した。

 

 起爆はその直後に来た。乾いた炸裂が柱芯を震わせ、符刻の溝が割れて結び目の線が切断される。爆炎と粉塵が短く噴き上がり、柱芯の位相拘束が外れて黒石が縦に裂け、内部の粉が漏れた。衝撃に重ねて、段丘下のサーイの騎士が兜越しに柱列を仰ぎ、自身の主へ向けて丁重にサーイ語で報告する。

 

「Mal'chir, zhan akh vel‑ra!(御大、支配が弱まっています!)」

 

 報告の声に被せるように、赤の魔道士の一人が即座に掌を切って血を滴らせ、残存柱へ朱の線を継ぎ足す。奈落語の命令句でデーモンに従属の節を掛け直し、残る《Planar Keystone(次元楔)》同士を仮の位相紐で結び、応急で束を補強する。束が一拍だけ持ち直し、デーモンの支配が再度強化される。

 

 アイアンゲート弩兵の散兵部隊が間を押し上げ、柱周囲のクアジットを弩で掃く。先に斜面へ墜ちたヴロックの周囲へ歩兵が輪を作り、槍の穂先と斧を突き入れる間合いを詰める。追い詰められたデーモンは喉を裂いて《Stunning Screech(強烈な金切り声)》を上げようと吸気するが、合図を待たずに一斉の刺突と斬撃が喉笛と翼根を同時に砕く。声は途中で途切れ、ヴロックは痙攣して沈黙した。

 

「一本目破壊。次へ移る」

 

 ブロックスは手首の砂を払って南西柱へ走る。《Steel Defender(鋼の護衛)》が半歩前で押し、崩落片を足で払い除けた──直後、上空で朱の呼び口が開き、空気が腐肉の臭いで撚れた。揺らぐ円環から新手のヴロックが身を捻って抜け出し、そのまま滑空してブロックスの頭上へ嘴から落ち込む。ブロックスは走りながら短く祈りの言葉を吐き出す。

 

「炉の主よ、俺に向く刃をそらせ」

 

 ブロックスはその祈りに合わせて《Sanctuary(聖域)》を自分に施す。これは害意を向けられた瞬間に攻撃の意思を弾き、相手がその抵抗に失敗すれば術者を標的から外させる護りだ。ただし術者が自ら攻撃や有害な術を用いれば、この護りは直ちに解ける。

 

 ヴロックの眼が一度濁り、狙いが外れる。標的を取り直した鳥形は舌打ちのような鳴きで翼を切り、段丘縁中央寄りのアゼリオンへ向きを変えて突撃する。

 

「ブロックスめ。騒音ハゲ鳥を私に押し付けたな……!」

 

 ブロックスから不自然に標的を切り替えた挙動を視認しての悪態だが、アゼリオンは冷静に対処する。彼は手首の装具に固定した結晶をひねって《Shield(盾)》を立て、滑り込む嘴と爪を力場でいなし、続けて短い発声で《Thunderwave(雷鳴波)》を叩きつける。

 

 衝撃波に押し返されたヴロックは岩棚上を数メートル滑って爪で岩を削り、体勢を崩す。アゼリオンはその隙に段丘縁に沿って後方へ下がって距離を確保した。同じ頃、段上中央でアイアンゲート軍の指揮官が、柱一本の破壊で前縁の圧がわずかに緩んだ瞬間を捉え、手旗と声で短く畳みかける。

 

「第一盾列は半歩前進。二列目の槍隊、右翼一人分あけて通路を作れ。右手の石段から南西柱へ連絡路を確保する。工兵班、段上中央三列目から右石段へ前送。ブロックス殿の後尾に護衛二人が付け」

 

 盾列が膝を落として壁を押し出し、槍列右翼が槍先を上げて一人通れる間を開ける。段上中央の工兵班の先頭二人が工具袋を抱えて右側の石段を下り、側道入口に差しかかったところで、背に付いた重歩兵二人が前へ出て盾を上げ、工兵を壁の凹みに押し込んで通路を確保する。

 

 だが、その側道の奥で空間が水面のように引きつれ、朱の幾何紋が回転しながら収束した。赤の魔道士の《Vortex Warp(渦動転移)》が走り、渦の中心からヘズロウの巨体が空気を押し分けて吐き出される。腐臭が一気に膨らみ、着地の衝撃で石粉が跳ねた。側道入口で盾を上げていた先頭の重歩兵が喉を張って叫ぶ。

 

「──ッ!?正面に大型デーモン出現!下がれ!」

 

 重歩兵は工兵の肩口を掴んで踊り場へ押し戻し、二人で盾を重ねて受け止めに出る。だがその直後、獣の咆哮とともに噛みつきが一人の盾ごと胸甲を抉り、続く二本の爪をもう一人が剣で払おうとしたが間に合わず、脇腹と腿を裂かれた。工兵は荷を撒き散らしながら石段へ転がって退き、重歩兵二人は柱脚手前で崩れ落ちて動かなくなる。

 

 さらに援護に駆け上ろうとしたアイアンゲート兵三人の前へ、サーイの騎士が横から岩角を蹴って滑り込み、列を断つ。先頭の兵が槍で突き上げて止めようとしたが、騎士は踏み替え一歩で鍔元を掛けて穂先を外し、そのまま長剣を直線で押し込み、喉を正確に貫いた。

 

 兵が仰向けに崩れる。騎士は返す刃で長剣の横腹を残る二人の槍柄にかけて押し下げ、刃先を交互に喉元へ据えて間合いを固定する。二人は喉に触れた冷たい鋼を外せず、足を止められた。

 

 直後、段丘側の通路から《Eldritch Knight(秘術の騎士)》のファイターが駆け上がり、騎士の切っ先を叩いて進路をずらしながら割って入る。彼女は生き残った二人を自分の背に収め、ヘズロウと騎士の間に身を差し入れて受け太刀で線を作る。

 

 同時に自身へ《Protection from Evil and Good(善悪からの保護)》──異形、精霊、妖精、セレスチャル、悪魔、アンデッドといった存在からの干渉を弱め、直接攻撃や魅了といった精神操作から守る魔法──をかけ、デーモンの影響を断つ。彼女は兜の奥で騎士を正面に捉え、短く言い放つ。

 

「お前の相手は私だ」

 

 騎士は即座に刃を返しての横薙ぎで牽制し、受け太刀からの捻りで叩き付けるが、ファイターは腰を切って受け流し、踏み込みで間合いを詰める。サーイの騎士は奈落語で短い言葉を連ね、使役するデーモンを前へ追い立てる。

 

「Graz'kul nakh‑vor(全員殺せ)」

 

 殺しの命に合わせて《Leadership(指揮)》が乗り、騎士の視界にある手勢の攻撃と踏ん張りが一段と冴える。南西柱まわりの側道で押し込みが強まり、足場の縁石が砕けて砂利が流れ、先頭の数名が足を取られて膝をつく。押し崩れかけた列を捉え、左手の岩棚の《Horizon Walker(地平線歩き)》のレンジャーが即座に身を乗り出し、下の味方に届くよう声を飛ばす。

 

「デーモンは任せろ」

 

 彼は《Planar Warrior(次元の戦士)》──標的を一点に定め、その一撃を位相の力に変えて力場で貫く技──を起動し、矢を二本続けて放つ。一本目が側道の奥でさらに前へ身を起こしていたヘズロウの膝を力場の衝撃で打ち抜き、二本目が肩を穿ち、突進角をねじ曲げた。

 

 援護で一拍できた隙に、ファイターは盾で騎士の面を弾き返し、刃先で手首を払って反撃の間を刻む。騎士は半身で殺到し、鍔元で受けてからの押し返しで距離を取り直した。

 

 ブロックスは前面の圧力を味方に預け、南西柱の基部に滑り込んだ。柱脚の結び目を一つ選び、装薬筒を当てて締め具三つで固定、丸環ねじを斜め下に一本だけ打って剪断の向きを決める。遅延信管に火を入れ、数を頭で刻む。

 

(五、四)

 

 南西柱から右手の段差にいた赤の魔道士が装薬筒に気づき、サーイ語で怒鳴る。

 

「Zharkh ul‑mekh! Akh vel!(爆弾だ!今すぐ外せ!)」

 

 彼は即座に《Catapult(物体射出)》──射程内の携行、装着されていない小物を直線に射出する魔法──を行使しようとする。筒を剥がして飛ばす狙いだ。ブロックスは左籠手の巻き革を素早く引き出し、装薬筒のハンドルに巻き掛けて自分の腕に固定し、対象を「携行中」にして術の成立自体を潰す。

 

 さらに南側の段差上から、別の赤の魔道士が《Ray of Frost(冷気光線)》で信管を凍らせにかかる。ブロックスは金具へ《Heat Metal(金属加熱)》──視界に入る武器や鎧などの金属製の物体を赤熱させ、その物体を保持または装備している対象に灼熱の負荷を与える魔法──をかけ、熱で氷結を弾いて火道を保つ。

 

 柱脚の影では《Invisibility(不可視化)》で近づいたクアジットが金具へ爪を伸ばしていたが、赤熱した金具の周囲で空気が揺らぎ、歪んだ輪郭が浮いたのを《Steel Defender(鋼の護衛)》が拾う。鋼の護衛が半身で踏み込み、肩で空間ごと押し上げるようにぶつけて壁へ叩き付け、甲高い鳴きとともにクアジットの姿が滲み、爪を金具に届かせない。

 

 その間にもサーイの騎士はファイターに攻撃を続け、刃の角度で《Parry(受け流し)》を重ねていく。ファイターの斬撃が入るたび、騎士は刀身の腹で軌道を外し、肩と腰の捻りで刃圧を殺して被弾を寸前で止める。

 

 しかし、ファイターは《Action Surge(怒涛のアクション)》で呼吸を一段速め、歩幅を詰めて手数を跳ね上げた。上段の打ち下ろしから即座に水平の返しを当て、続く踏み替えで騎士の前足の甲を自分の踵で踏み潰して体重を乗せる。膝当てを胸鎧に叩き込み、のけぞった上体に盾の面打ちを重ねて通路の狭い中央へ押し出し、盾の縁と体で進路を横に塞いだ。

 

 そして信管の刻みが尽きる。ブロックスは盾をわずかに寝かせ、《Steel Defender(鋼の護衛)》を柱と自分の間に斜めに立てて身を縮め、顎を引いて耳を塞いだ。

 

 次の瞬間、柱脚の金具に仕掛けた炸薬が閃光と衝撃で破裂した。圧縮された空気が通路を逆流し、黒い石粉と火花が盾面を叩く。爆圧が柱の根を抉り、割れ目が放射状に走る。重い軋みとともに足元が裂け、黒石の柱が中折れした。

 

 二本目の柱が破壊されると、空気が急に軽くなった。盆地中央の溝光が脈動の間隔を乱し、柱列の符がちらつく。位相拘束の張りが落ちて命令の節が滑り、デーモンが一拍遅れてしか反応しない。

 

 バルルグラが隣のドレッチを邪魔だと片腕で弾き飛ばし、ヘズロウが鼻を鳴らして号令を無視しかける。赤の魔道士は奈落語の命令句を畳みかけて縛り直しを試みるが、応答は鈍い。デーモンは混沌に根差す存在で、束の張力が緩めば最も近い血と破壊へ流れ込む。支配の糸がほつれ、儀式の効力が目に見えて弱まりつつあった。

 

 南西柱脚の通路では、爆圧が抜けて粉塵が薄れ、砕けた黒石と血の匂いが立ち込める。ブロックスは短く咳をし、盾越しに前方を確かめた。《Steel Defender(鋼の護衛)》は前脚を突いて低く身を伏せ、装甲板に爆風由来のひびをいくつも刻みながらも自立している。

 

 通路の手前側では、アイアンゲート重歩兵二人が肩で息をしながら膝をついていた。《Eldritch Knight(秘術の騎士)》のファイターは二人の消耗を一目で見て取り、盾の縁を軽く叩いて後方を指し示した。

 

「下がれ。お前たちは後ろで息を整えろ。ここは私が受ける」

 

 重歩兵たちが短くうなずいて位置を空けると、彼女は二、三歩前へ出て剣と盾を構え直した。通路の奥には、膝と肩をレンジャーの矢で撃ち抜かれたヘズロウが、岩に爪を食い込ませてじりじりと這い寄ってくる。その手前にサーイの騎士が立ち、グレイブの穂を斜めに構えて通路を塞いでいた。騎士は振り返りざまに奈落語で短く命じる。

 

「Grash‑hur dorvakh(あのドワーフを止めろ)」

 

 ブロックスの進路を押さえるよう命じられたヘズロウは、濁った目を通路手前に向けるが、反応は鈍い。数秒をおいて、片膝を引きずりながらゆっくりと全身をそちらへねじった。

 

 戦場全体でデーモンの統率は明らかに乱れ始めている。ドレッチとクアジットが互いにぶつかって転び、バルルグラとヘズロウの突進も角度が安定しない。段丘上でそれを見て取ったアイアンゲート軍の指揮官は、ためらわず角笛を鳴らし、副官に旗を振らせた。胸壁沿いに並ぶ各隊の下士官が同じ号令を繰り返し、列の端から端へ声が走る。

 

「全列、前へ!盾を重ねて鉄の門を成せ、デーモン共を奈落に送り返してやれ!」

 

 重装歩兵たちが一斉に盾を胸元へ引き寄せてから前へ突き出し、第一盾列と第二盾列が足並みをそろえて半歩、さらに半歩と斜面を降りる。鉄張りの塔盾が重なり合い、盾の面が一つの壁のように前へせり出す。

 

 その背後で槍兵が互いの肩が触れ合う距離まで詰めて列を組み替え、穂先を盾の縁越しに突き出せる間隔を作った。鉄靴が岩肌を踏み鳴らし、塔盾の縁が打ち合う音が途切れず続く。

 

 多元安定機構も動く。アゼリオンは段丘縁中央から右寄りへ三歩移動し、盆地中央と南西通路の両方を視界に収める位置に立つ。右のウィザードは胸壁裏の遮蔽から一段下の岩棚へ降り、南西通路と盆地中央を斜めに見下ろせる射線を確保した。《Horizon Walker(地平線歩き)》のレンジャーたちは左右の岩棚の上で数メートルずつ前へ出て、弓の有効射程を詰める。

 

 盆地奥では、指揮官格の赤の魔道士が柱列と召喚陣を見回し、短い奈落語とサーイ語を織り交ぜて指示を飛ばしていた。一人の赤の魔道士が自らの掌を割って血を柱脚の刻線へ押し付け、残る二本の《Planar Keystone(次元楔)》の符を繋ぎ直す。別の一人はサーイの騎士たちに向き直り、低い声で命じた。

 

「Varun‑keth thar. oskul en kelem(柱から離れすぎるな。陣と柱の間を守れ)」

 

 騎士たちは武器を横一線に構え、召喚陣と柱の間に新たな壁を作る。デーモンには奈落語で命令句が重ねられ、アイアンゲート兵の足を止めるよう繰り返し叩き込まれた。支配はもはや完全ではないが、前進方向だけは辛うじて縛れている。

 

 盾列はじりじりと前に出る。正面では、蛙めいた巨体のヘズロウが膨れた腹から胸までを塔盾にぶつけて突進し、列ごと押し潰そうとしていた。塔盾の縁がきしみ、押された兵の腕と膝が震える。その横でバルルグラがドレッチを踏み台にして跳び上がり、拳と爪で塔盾の上端を叩き潰そうとする。

 

 塔盾の上半分に亀裂が走り、前列の兵が歯を食いしばって支えた。後列は肩で前の仲間を押し上げるように力を送り、崩れかけた場所へすぐに自分の盾を差し込んで穴を埋める。ここまでに戦死したアイアンゲート兵は三十名を超えていたが、縦の列そのものはまだ一本の壁として形を保っている。

 

 ヘズロウとバルルグラの押し込みを受け止めている盾列の側面へ、柱前を守っていたサーイの騎士たちが歩を進める。長剣を低く構え、黒漆の盾で塔盾の縁を押し返しながら、少しでも列を押し戻そうとする。塔盾の縁が何度も騎士の長剣とぶつかり、火花と金属音が続く。

 

 その頭上を、段丘上の弩兵が放った弩矢がうなりを上げて通過し、騎士の盾や肩、脚甲に突き刺さった。矢をいなそうとした騎士が半歩ずつ召喚陣側へ身をずらし、盾と盾のかみ合いがねじれて、列の一部が召喚陣側へ押し曲げられる。

 

 やがて前縁が中央の柱と召喚陣の中間あたりまで食い込み、このままでは防壁が押し下げられると見た攻撃担当の赤の魔道士が、召喚陣の奥側にある一段高い石段の上から決断し、杖を高く掲げた。

 

「Keth‑vra, salun!(凍てつく息よ、全てを凍らせろ!)」

 

 サーイ語の詠唱に応じて、柱脚の上に立つ彼の杖先から白い霧と氷片を伴った冷気──《Cone of Cold(冷気噴射)》が円錐状に噴き出す。周囲の空気そのものを急激に冷やし、扇の中にいる者の体温と水分を一気に奪う魔法だ。バルルグラとヘズロウの肩越しに、盾列の胸元あたりを狙った冷気の扇が広がり、斜面を降りてきた前列と二列目の兵をまとめて包んだ。

 

 デーモンは冷気への耐性で耐え、ヘズロウやバルルグラは一瞬動きが鈍るだけで持ちこたえる。しかしアイアンゲート兵は、鎧の継ぎ目から冷気が入り込み、露出した顔や指が一気に凍り付いた。

 

 前列の重装歩兵五人と、その直後の列にいた二人を含む計七人が氷像のように硬直し、次の瞬間、盾の重みと後列の圧力で前へ倒れ込んで砕ける。さらに扇の外縁にかかった四人が凍傷と肺を焼かれたような損傷でその場に崩れた。

 

 それでもアイアンゲート軍の指揮官は迷わない。

 

「倒れた位置へ詰めろ!一歩も退くな!」

 

 号令に従い、後列の兵が氷塊と血溜まりを踏み割りながら前へ一歩詰める。「鉄門の誓いにかけて!」と列の内側で声が飛び交い、凍えて震える指が塔盾の把手を握り直した。膝をつきかけた兵も隣の肩に体を預けて立ち上がり、互いの盾を拳で叩いて気合を入れ直す。塔盾の列は白い息を吐きながら、それでも前へとじりじり進み続けた。

 

 冷気の霧越しに《Eldritch Knight(秘術の騎士)》のファイター二人が動く。一人は盾列に並走しながら《Shield(盾)》の魔法で前面に薄い力場の板を張り、ヘズロウの掴みや爪を弾く。もう一人は大斧を肩に担ぎ、空いた隙間から突っ込んでくるバルルグラの腕に刃を叩き込んで勢いを殺した。

 

 岩棚のレンジャーたちは、凍死した兵の間を縫って走ろうとするドレッチとクアジットの頭や膝を矢で撃ち抜き、盾列にできた穴を距離から塞ぐ。矢に撃ち抜かれた小型デーモンの死骸が段丘の斜面を転がり落ち、南西通路の手前にごろりと溜まっていく。

 

 その向こう側では、サーイの騎士からブロックスを止めろと命を受けたヘズロウが、爆風に削られた石段を掴み、死骸を押しのけるようにしてブロックスたちへ這い寄ろうとしていた。機構のウィザードは岩棚からその通路全体を見下ろし、ヘズロウと味方の位置関係を確かめてから、呼吸を整えて印を結ぶ。

 

「《Banishment(放逐)》」

 

 低い詠唱とともに透明な力場の枠──《Banishment(放逐)》がヘズロウの周囲に四角く立ち上がる。四辺が粘るように縮み、内部の空間を押し潰す。ヘズロウは短く荒い咆哮を上げて踏ん張ったが、レンジャーの攻撃で負傷していたこともあり、抵抗が乱れて足場をうまくつかめない。

 

 体表を走る印の光が一瞬ちかりと明滅し、そのまま巨体は枠の内側へ吸い込まれるように消えた。ウィザードは片手を前に差し出して額に汗をにじませ、《Concentration(精神集中)》を維持しながらもう片方の手で自分の胸を軽く叩く。さらにその手を通路の奥へ向けて押し出し、ここから援護するという無言の合図をブロックスへ送る。

 

「助かる」

 

 ブロックスは短く礼を告げ、盾を持ち直して目的地へ走り出す。

 

 その時、盆地中央ではヴロックが高度を上げていた。支配が弱まり、命令よりも自分の狩りを優先しようとしている。鳥型のデーモンは盾列の上空へ回り込み、翼を畳んで急降下した。喉を膨らませ、《Stunning Screech(強烈な金切り声)》をアイアンゲート中央戦列の真上で放つ。

 

 前列の兵が数人、片耳を押さえて膝をつき、塔盾を落としかけた。その隙にヴロックはくちばしで一人の兵の喉を噛み砕き、爪で別の兵の塔盾をもぎ取って投げ捨てる。矢と槍が突き上げられるより早く、ヴロックは大きく翼を広げて再び高度を取りに向かった。

 

 アゼリオンは二度目の突入を許せば列が割れると判断し、段丘から二歩踏み出してヴロックの進路に視線を合わせ、詠唱に入る。

 

「《Bigby's Hand(ビグビーの手)》」

 

 彼は握り拳の形を思い描いて半透明の巨大な拳、《Bigby's Hand(ビグビーの手)》を盾列の頭上に展開させた。落下してくるヴロックの側面に拳がぶつかり、翼根を横から殴り付ける。骨が軋む鈍い音が空気を伝い、ヴロックの軌道が大きくねじ曲がった。

 

 鳥型のデーモンは盆地の側壁に叩き付けられ、そのまま斜面を転がり落ちる。機構のウィザードがそれを見逃さず、《Magic Missile(魔法の矢)》を連打した。青白い力場の矢が次々とヴロックの首筋と胸板に突き刺さり、羽毛と黒い血が飛び散る。

 

 落下地点にはすでにアイアンゲート兵が数名走り寄っていた。塔盾で翼を押さえ込み、槍と剣を喉や目に突き立てる。ヴロックはしばらく痙攣したのち、動かなくなった。上空の脅威がひとつ消え、段丘下の中央戦列では、兵たちがすぐに視線を前方のデーモン群へ戻す。

 

 召喚陣の紋の隙間からは、なおも小型の影がにじみ出ていた。新たに呼び出されたドレッチとクアジットがよろよろと地面に這い出し、すでにいた個体と混じり合って盾列の前に散る。

 

 ドレッチは《Fetid Cloud(悪臭の雲)》で周囲の空気を濁らせながら、塔盾の隙間から腕を伸ばして兵の脚を掴もうとし、その頭上ではクアジットが《Shapechanger(変身)》──自分の体を小型の獣の姿に変えて移動手段を変える能力──でコウモリに似た姿になり、低い高度で飛び回って露出した顔や首筋に爪を伸ばす。

 

 盾列の兵たちは、下から伸びてくる腕を塔盾の縁で押し潰し、槍の石突きでクアジットを叩き落としながらじりじりと前へ進む。列全体が数メートル押し出され、押し込んでいる手応えが前線の兵たちの腕と肩に重く伝わる。

 

 南西通路では、ヘズロウが消えた空間を埋めるようにドレッチ二体とクアジットが前に出た。通路付け根では、《Protection from Evil and Good(善悪からの保護)》を維持した《Eldritch Knight(秘術の騎士)》のファイターがサーイの騎士と対峙している。

 

 ドレッチが柱側から横合いにファイターに突っ込んできたが、一体の胴に《Booming Blade(唸る剣)》を乗せた斬撃を叩き込み、もう一体を盾で押し返す。その頭上ではクアジットが姿を現して飛びかかり、盾腕の隙を狙って爪を振り下ろした。ファイターは肘でそれを払い落としたが、その一瞬、サーイの騎士から目が外れた。

 

「Graz'kul!(押し込め!)」

 

 騎士は奈落語で短く命じ、《Leadership(指揮)》の気迫でドレッチとクアジットの動きを一段押し上げる。同時に自らも半歩滑り込み、ファイターの死角にグレイブの切っ先を差し入れた。

 

 ファイターはドレッチの爪と騎士の刃を同時に受け、胸鎧の継ぎ目が裂けて鉄と肉の音が重なる。彼女は呻き声をこらえて前足のドレッチを押し返そうと腰を落とし、足を開いて踏ん張ったが、そのわずかな前傾で喉元が露出する。

 

 そこへサーイの騎士の突きが正確に滑り込み、鎖帷子と皮膚をまとめて貫いた。《Protection from Evil and Good(善悪からの保護)》の光が一瞬強く明滅し、そのまま途切れる。ファイターは血を吐きながら両膝を地面につき、盾を握ったまま前のめりに崩れかけた。

 

 騎士はのしかかろうとする体重を避けるように一歩引き、足でファイターの肩口を強く蹴り付けて穂先を引き抜く。突き放された身体が通路の石に横倒しになり、その場に動かなくなった。

 

 彼は血の付いた穂先を軽く払うと、まだ温かい死体の脇を踏み越えて前へ出ようとする。その背後で、倒れたファイターの背を踏み石にしようとドレッチがよじ登ろうとした。だが次の瞬間、通路へ駆け上がってきたアイアンゲート兵数名が塔盾でドレッチを押し戻し、槍で胸と腹を連続して貫く。

 

 後ろから飛び乗ろうとしたクアジットも、低く跳び掛かったところを塔盾の縁で叩き落とされ、石畳に叩き付けられた頭を槍の石突きで砕かれた。ファイターの遺体と倒れたデーモンが通路を狭めるあいだに、前へ出過ぎていたサーイの騎士は左右から回り込んできた兵に囲まれる。

 

 サーイの騎士は即座に身を翻し、片側の兵に身体をぶつけて押し退けながら、グレイブを大きく振って前面の槍を払い落とした。刃が一人の兵の塔盾をえぐり、もう一人の膝元をかすめる。しかし押し込まれた隙間へ別の兵がすぐに入り込み、側面と背後から塔盾が重ねて押し寄せる。

 

 塔盾の面打ちが横から兜と肩を叩きつけ、逆側から伸びた槍と斧がほぼ同時に鎧の継ぎ目へねじ込まれる。騎士はそれでもグレイブを振り上げて最後の一撃を試みたが、体勢を崩して片膝をついたところをさらに押し倒され、何度も刃を浴びてようやく動かなくなった。

 

 通路にはブロックス、重歩兵数名、アイアンゲート兵が楔のように食い込み、南西柱の跡から盆地奥側へ抜ける細い通路を確保する形になる。ブロックスは《Steel Defender(鋼の護衛)》を伴って柱脚から一度通路側へ下がり、そこから盆地奥側への回り込み経路を目で追った。

 

「次は奥の柱だ。ここを通路代わりに使う」

 

 彼は短く告げ、通路の後列で重歩兵二名とその陰に控えていた工兵一名を指で示す。

 

「ついて来い。《Steel Defender(鋼の護衛)》は先頭だ」

 

 四脚の機械は頷くように頭部を傾けて通路の先へ歩みを速め、指名された重歩兵二名と工兵は短く返事をして盾と道具を握り直し、ブロックスの背に続いた。彼らは南西通路を抜け、盆地外周の狭い足場を使って奥側の柱へ回り込む。上方の岩棚ではレンジャーが矢を番え、盆地内のデーモンと赤の魔道士の位置を確認しながら声を張った。

 

「そっちにサーイの魔道士と騎士が向かった!バルルグラもいるぞ!」

 

 レンジャーの警告どおり、盆地奥の赤の魔道士一人と残っていた別のサーイの騎士が、ブロックスたちの回り込みに気付いて走り出していた。柱脚付近に待機していたバルルグラも、吠えながらブロックスたちの方へ向きを変える。

 

 ブロックスは重歩兵たちに合図し、小さな半円陣を作る。前面に塔盾を並べ、その背後に彼と工兵、《Steel Defender(鋼の護衛)》が入る。バルルグラの通り道を塞ぐように一歩前に出て、肩と胴体でぶつかる準備を整えた。

 

 バルルグラが低く身をかがめ、四肢で地面を蹴って突進してくる。塔盾に当たる寸前、《Steel Defender(鋼の護衛)》が横から体当たりをかけて肩を押し上げ、バルルグラの拳は塔盾の縁をかすめた。

 

 そこへサーイの騎士二人が追いつき、一人がグレイブの切っ先でブロックス隊の先頭兵を牽制し、もう一人が長剣と盾を前に突き出して列の隙を探る。塔盾と塔盾のあいだで金属音が続き、騎士たちの足が半歩ずつ押し込まれる。

 

 赤の魔道士はその背後で隙間越しにブロックスの位置を測り、彼を標的に据えてサーイ語の詠唱を始めた。ブロックスを保護している《Sanctuary(聖域)》の淡い光輪が、その敵意を押し返そうと揺らぐが、魔道士はそれを力ずくで押し退けるように声を強める。

 

「Verun‑sas──(身を縛れ──)」

 

 しかし呪文──《Hold Person(対人金縛り)》が結び切られる直前、機構のウィザードが短く印を結び、《Counterspell(呪文妨害)》で術式に割り込んだ。赤の魔道士の詠唱が途中で断ち切られ、組み上げかけた力が手の中で霧散する。

 

 舌打ちした彼女はすぐに戦況を見直し、次の呪文へ移ろうとする。その瞬間、岩棚上のレンジャーが弓弦を放ち、《Lightning Arrow(稲妻の矢)》──放たれた矢を雷そのものへ変え、命中しても外れても着弾点の周囲へ電撃を散らす魔法──の光が柱脚の陰をかすめて飛び込んだ。

 

 赤の魔道士は反射的に《Shield(盾)》を展開し、力場の膜が胸元の前に浮かび上がる。雷光と化した矢は膜に当たった瞬間に眩い火花となって弾け、胸板へは届かなかったが、衝撃と電撃が彼女の身体を後ろへと一歩よろめかせた。

 

 前に出ていた騎士たちは、グレイブと長剣で塔盾の縁を叩き、先頭の重歩兵二人を集中的に追い詰める。刃が鎧の隙間をかすめて血がにじむが、ブロックスの足元から淡い光輪──《Aura of Vitality(活力のオーラ)》が広がり、二人の傷をすぐにふさぐ。これは周囲の味方へ小刻みに活力を流し込む魔法だ。

 

 ブロックス自身にはまだ《Sanctuary(聖域)》の淡い光が残っており、騎士たちの視線は本能的に彼を避けて、標的を前列の二人に固定している。それでもこのままでは押し切られると判断したブロックスは一歩踏み出し、塔盾の脇から斧を振り抜いて騎士の盾の縁と脛を柄ごと叩きつけた。

 

 《Sanctuary(聖域)》の光輪が音もなく砕けて消え、彼への加護は失われたが、騎士の動きも鈍る。騎士たちは正面の塔盾と槍を受け止めるだけで手一杯になり、背後へ下がって赤の魔道士を庇う余裕がなくなった。

 

 そして、赤の魔道士がよろめいたその隙を、段丘上の弩兵たちが逃さなかった。指揮の合図で放たれた複数の弩矢が扇状に降りかかり、《Shield(盾)》の守りから外れた脇腹や脚を次々と撃ち抜いた。赤の魔道士は柱脚の近くに崩れ落ち、血を広げながら動かなくなった。

 

 さらに通路側から追いついた槍兵と弩兵が後方に並び、サーイの騎士が射線に入った瞬間を狙って矢と槍を送り込んだ。矢と穂先は鎧や盾に弾かれつつも継ぎ目や露出した肩をかすめ、小さな傷とへこみを刻んでいく。

 

 攻め込む勢いを削がれた騎士たちは、これ以上ここで押し合えば包囲されると悟ったのか、短く合図を交わして盾を前に向けたままじりじりと後ろへ下がり、盆地中央側へ身を翻して後退を始める。

 

 その間にブロックスは装薬筒を抜き取り、柱脚の結び目の一つを指で示して工兵に押し渡した。工兵が低く身をかがめて柱脚へ走り込み、締め具と丸環ねじを使って装薬筒を固定する。ブロックスが遅延信管に火を移し、手首の角度で刻み具合を確かめると、工兵はすぐに塔盾の陰へ転がり戻った。

 

「戻れ。《Steel Defender(鋼の護衛)》、こっちだ」

 

 命令を受けた《Steel Defender(鋼の護衛)》は、なおも塔盾に拳を叩き込もうとしていたバルルグラの脛に横から頭突きを浴びせて一瞬よろめかせ、その隙に前線から身を引き抜いてブロックスの足もとまで後退する。信管が刻み始めたのを確認すると、ブロックスは盾をわずかに寝かせ、《Steel Defender(鋼の護衛)》を柱と自分の間に斜めに立てて身を縮める。重歩兵は塔盾を重ねて前に突き出し、工兵はその背後に伏せて衝撃に備えた。

 

 短い刻みののち、柱脚で火線が光り、爆音が黒石を震わせた。爆圧が柱脚をえぐり、三本目の《Planar Keystone(次元楔)》が中折れする。盆地全体の空気振動がさらに乱れ、柱列を走っていた符の光が一斉にちらついて消えた。デーモンへの命令はほとんど届かなくなり、目の前の生きた敵だけを追い求め、支配の命令より怒りと殺意を優先し始める。

 

 さきほどまで《Steel Defender(鋼の護衛)》に体当たりを繰り返していたバルルグラが怒声を上げ、最も近くにいたサーイの騎士へ突進して拳を振り上げる。騎士は咄嗟に盾を頭上へ上げ、身を固く縮める。巨腕が振り下ろされる寸前、赤の魔道士が慌てて奈落語の命令句を連呼し、バルルグラの意識を無理やりアイアンゲート側へ引き戻した。支配はすでに綱渡りで、ほんの一拍でも遅れれば自分たちにも牙が向く状態だ。

 

 指揮官格の赤の魔道士はそれを見て判断を下す。このままではデーモンを制御しきれず、防衛線を維持できないと見て取ったのだろう。彼は短いサーイ語で指示をまとめた。

 

「Zul‑magi, tharn ul. Aruun‑vel, kel zar(同胞よ、ここまでだ。隊をまとめて撤退するぞ)」

 

 号令に応じて、二人の赤の魔道士が腰の袋から金で鍍金された小さな頭蓋骨を取り出し、地面に叩き付けて砕く。砕けた骨粉の上に黒い霧が渦を巻き、半透明の人影が二体、地面からゆっくりと立ち上がる。《Summon Undead(アンデッド召喚)》だ。これは金で覆った頭蓋骨を代価にアンデッド精霊を呼び出し、一時的に従者としてこの場に縫い留める魔法だ。二人の赤の魔道士は短く命令を告げる。

 

「Kruul‑eth, varun en balgrath(霊ども、バルルグラと並んで押し潰せ)」

 

 赤の魔道士たちは召喚陣の外側へ後退を始める。サーイの騎士たちはアイアンゲート兵と暴走気味のデーモンの間に割って入り、グレイブと長剣で前面を払いながら退路を開いた。命令を受けたバルルグラと二体のアンデッド精霊は、肩を並べるようにして前へ押し出され、ブロックスたちの戦線へ全力で飛び込んでくる。

 

「来るぞ!」

 

 ブロックスが叫ぶより早く、バルルグラの横殴りの拳が彼の位置を狙って振り抜かれる。それを、《Steel Defender(鋼の護衛)》が身をねじ込んで受け止めた。

 

 既に損傷していた装甲板が一度でへこみ、脚部関節が悲鳴を上げる。続く打撃と踏み付けで、脚の一本が折れ、背の炉心外装にも大きな亀裂が走った。《Steel Defender(鋼の護衛)》はなおも前足を突いて主を庇おうとしたが、最後にバルルグラの両拳が炉心部を叩き潰す。緑色の光が弾け、火花と白い蒸気が噴き出しながら、四脚の機械はその場に崩れ落ちた。

 

 同時に、赤の魔道士が呼び出した二体の霊が半円陣の脇から滑り込み、ブロックスの周囲にいた重歩兵二人と、通路側から駆け付けた数人の兵に死の手を伸ばす。半透明の腕が塔盾の縁をすり抜けて鎧の内側へ入り込み、触れられた兵は一瞬顔をしかめて膝をつきかけるが、ブロックスの足元から広がる《Aura of Vitality(活力のオーラ)》の光が冷えた血を押し戻し、力を持ち直させた。

 

 重歩兵と後続の兵たちは盾で霊の進路を遮り、槍と斧で一体を集中して何度も切り払っていく。やがてその霊の輪郭だけがほつれ、無音の悲鳴とともに霧散したが、残る一体はなお塔盾の縁から腕を伸ばし続ける。ブロックスは盾の縁で側にいた工兵の背を軽く押し、「ここはいい、後ろに下がれ」と短く告げて後方へ下がらせ、周囲の重歩兵と槍兵に告げる。

 

「アンデッド精霊はそっちに任せたぞ。バルルグラは俺がやる」

 

 彼は霧散した霊の影に身を隠すようにして横へ抜ける。崩れた《Steel Defender(鋼の護衛)》の残骸を盾代わりに挟み込むようにして前へ出て、バルルグラの脇腹へ潜り込んだ。バルルグラが振り返りざまに拳を振り下ろすが、それを盾で受け流し、反動を乗せて斧の刃を膝裏へ叩き込む。デーモンは片膝を落とし、ブロックスはその首元へ止めの一撃を振り下ろそうと、斧を引き上げて体重を乗せる。

 

 だが次の瞬間、ブロックスの数歩先の空間がねじれて口を開き、同じ姿のバルルグラが一体、肉塊が押し出されるように現れる。《Summon Demon(デーモン召喚)》──デーモンが本能で同族をこの場へ呼び寄せる能力だが、いつも成功するわけではない不安定な召喚だ。彼は反射的に後ろへ跳んで間合いを取り、振り下ろしかけた斧を途中で止めるが、新手のバルルグラは着地と同時に跳びかかり、牙と拳を続けざまに繰り出した。

 

 最初の噛み付きは盾の縁でこじ上げ、一本目の拳は斧の柄でそらす。だが二発目の拳が側面から鎧ごと脇腹を打ち抜き、ブロックスの体勢が揺らぐ。そこへ膝をついていたバルルグラが、体勢を立て直して追撃に跳び上がろうとした。直後、半透明の巨大な拳──《Bigby's Hand(ビグビーの手)》がバルルグラを上空から叩き下ろす。

 

 バルルグラは力場の拳に頭頂から背骨ごと地面へ押し潰され、鈍い破砕音とともに骨が砕け、血を吐いてその場で息絶えた。ブロックスの目前にいた新手のバルルグラも、召喚主を失ったことにより、腕を振り上げた姿勢のまま輪郭が崩れ、黒い煙に解けて消える。

 

 ブロックスが荒い息を整えながら背後を振り向くと、ブロックスから数十メートルほど離れた盆地縁の段丘斜面の中腹に、先ほどまで段丘上にいたはずのアゼリオンと機構のウィザードが並んで立っていた。《Dimension Door(次元扉)》で空間を抜けてそこまで飛んできたのだと察する。ブロックスが礼を言いかけると、アゼリオンは片手を振って遮った。

 

「礼はいい。それよりサーイの入れ墨頭共はどこだ?」

 

 彼はそう問いながら、盆地中央の方へ視線を走らせる。ブロックスもその視線を追って正面に向き直る。

 

 盆地中央側では、前に出ている機構のファイターとレンジャーが、まだ踏みとどまっていた別のヘズロウとバルルグラを追い詰めていた。ファイターが爪や拳を盾と剣で受け流しながら脚腱を斬り、レンジャーも横合いから間合いに踏み込んで片手剣で関節を狙い、空いた手の短剣で眼窩や口腔へ正確に刃を突き立てる。

 

 膝を落としたヘズロウの胸板へファイターの剣が最後の一突きを沈め、もう一体のバルルグラもレンジャーの刃と周囲から飛び込む矢とで土に縫い止められる。残るドレッチとクアジットはあちこちで散発的に抵抗を試みるだけになり、盾列に押し潰され、アイアンゲート兵の槍と剣に一体ずつ刺し貫かれて地面へ沈んでいく。逃れようと跳び退るものの、背中を弩矢に射抜かれてうつ伏せに倒れた。

 

 だが、その戦況と混乱に目を奪われている間に赤の魔道士団の小隊は、気配を薄める術と遮蔽を使って視線から外れた位置へ下がっていた。盆地奥では、脱出用にあらかじめ設置されていた《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》がすでに起動過程に入っている。

 

 召喚陣の外縁のさらに奥、床石には宝石粉と墨で描かれた別の円環が刻まれていた。その上に立った指揮官格の赤の魔道士が途切れないサーイ語の詠唱で魔力を流し込むたび、刻線が脈打つように淡く光を強めていく。

 

 そのすぐ周囲では、赤の魔道士の一人が《Globe of Invulnerability(耐魔法球)》──術者を中心とした半径数メートルの球形結界で、外側からの中位以下の呪文を内部へ届かなくする魔法──を維持し、その内側で、先ほど自分の霊を失って《Summon Undead(アンデッド召喚)》の維持から解放された別の赤の魔道士が、《Wall of Force(力場の壁)》を地面に沿って半球状に展開していた。

 

 光の球体と透明な力場の殻の中には、赤の魔道士四人とサーイの騎士八人、合わせて十二名が押し込まれている。ブロックスはその様子を見て、アゼリオンへ声を飛ばす。

 

「《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》で逃げるつもりだ!しかもガチガチに守りを固めてやがる!」

 

 アゼリオンが舌打ちし、残っていた高位の《Spell Slot(魔力の器)》を絞り出すように《Dispel Magic(魔法解除)》を詠唱した。六階梯分の力を込めた解除の術が弧を描いて飛び、《Globe of Invulnerability(耐魔法球)》に触れた瞬間、半透明の球殻がひび割れて音もなく砕ける。

 

 即座に機構のウィザードが続いて《Disintegrate(分解)》を放ち、緑色の光線を《Wall of Force(力場の壁)》へ浴びせた。光線が透明な壁面に触れると、力場の殻は外側から内側へ向かって削り取られるように消え去り、赤の魔道士たちの姿が露出する。防護が剥がれたのを見たアゼリオンは間髪を入れず叫ぶ。

 

「今だ、撃てるやつは全員撃て!」

 

 ブロックスが魔導クロスボウを構えて引き金を絞り、アイアンゲートの弩兵と岩棚のレンジャーたちも一斉に弩矢と長弓の矢を放つ。矢筋が幾筋も伸び、転移陣の上に立つ赤の魔道士団の小隊を正確に狙った。

 

 しかし、矢が届く刹那、転移陣の紋が一段と強く光り、赤の魔道士と騎士たちの姿が一斉にかき消える。矢じりは空を切るか、さきほどまで彼らが立っていた床石に突き刺さり、乾いた音を立てた。

 

 赤の魔道士団の小隊が完全に姿を消すと、召喚陣に残っていた光も遅れてしぼみ、奈落へ続いていた歪みが静かに閉じていく。《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》の刻線も、過負荷を受けたように所々石ごとひび割れ、描かれていた紋様が途切れて追撃には使えない状態になった。

 

 同時に、塔盾の縁から腕を伸ばしていたアンデッド精霊も、術者の気配が途絶えた途端に輪郭を失い、霧となって空気へ溶けた。アイアンゲート軍の指揮官は光が消えた方角と砕けた紋様を確認し、追う手段は断たれたと見て即座に判断を切り替える。

 

「赤衣には逃げられたか……残りのデーモンを全て始末しろ!」

 

 号令を受け、散発的に暴れていたデーモンの残りも、多元安定機構の隊員とアイアンゲート兵の包囲でほどなく地に倒れた。新たなデーモンが現れる気配はなく、やがて盆地には人の兵と、動かないデーモンの死骸だけが転がる状態になった。角笛が低く吹かれ、指揮官が盆地全体を見回した。

 

「全列停止。周囲を警戒して、負傷者を集めろ」

 

 命令が伝わるにつれ、金属音と叫びは次第に小さくなっていく。その静まりかけた空気の中で、倒れたデーモンたちに変化が起きた。

 

 ヴロックの羽毛がばらばらにほどけ、羽軸の一本一本が黒い粘液へ変わって石畳の上に流れ出す。ヘズロウの腹を満たしていた肉塊も内側から崩れ、脂の混じった血が割れ目に入り込んでいく。筋肉質だったバルルグラの巨体も皮膚の下から溶け出し、しばらく骨の線だけを残したのち、それさえも腐臭を放つ汚泥の中へ沈んだ。

 

 やがてその汚泥が泡立ちながらしぼみ、焦げた鉄と腐肉を混ぜたような臭いだけを残して、薄い煙のような霧に変わって空気の中へ散っていく。ここには汚れと臭気以外のものは残らない。デーモンは奈落の外で打ち倒されれば肉も骨も長く留まらず、元いた奈落で再び身を作り直す──そう伝えられてきた通りの光景だった。

 

 アイアンゲート軍の被害状況の整理が始まる。指揮官と副官、衛生班が盆地を回り、倒れた兵の息と瞳孔を一人ずつ確認していく。焼かれた者、凍り付いた者、毒に侵された者、引き裂かれた者などを合わせて、六十名前後がその場で戦死していると見積もられた。

 

 四肢を失った者や内臓を傷付けられて自力では動けない重傷者も合わせれば百名近くに上り、担架と応急処置班が足りず、順番を待つうめき声が盆地のあちこちに残った。血で濡れた鎧を外されている者の傍らでは、衛生兵が止血と包帯を急ぎ、《Cure Wounds(傷治癒)》などの回復魔法で致命傷だけでも塞ごうとしていた。

 

 段丘裏では重傷を負った機構のウィザード一名が衛生兵から手当てを受けている。崖上で《Horizon Walker(地平線歩き)》のレンジャー一名と、南西通路で《Eldritch Knight(秘術の騎士)》のファイター一名が、まだ回収されないまま横たわっていた。

 

 《Steel Defender(鋼の護衛)》は完全に大破し、四肢も外装もひしゃげて原形をとどめていない。ブロックスは砕けた装甲と沈黙した炉心のそばにしゃがみ込み、小さく「よく戦った」とだけ告げてから立ち上がった。

 

 盆地内でアイアンゲート兵たちが動き回る中、少し離れた岩場ではアゼリオンが静かに手を上げ、指先で印を結んだ。《Sending(送信)》だとブロックスはすぐに理解する。アゼリオンは目を閉じ、短い文を頭の中の相手へ送り出すように意識を集中させた。

 

 現地の離れた指揮所か、多元安定機構の拠点にいる上官と連絡を取っているのだろう。彼の周囲では、機構の隊員たちも散開し、戦死した仲間の遺体に布をかけ、黒石の柱脚や召喚陣の痕跡から必要な証拠を手際よく集め始めた。

 

 ブロックスもそれを一瞥すると、アイアンゲートの衛生班が集めた負傷者の列へ歩み寄り、クレリックとして次々に膝をついては、祈りと応急処置で生き残った者たちの手当てに加わった。

 

 *

 

 城壁都市アイアンゲートの東に位置する盆地で満ちていた戦の喧噪が遠ざかる。その光景を、別の世界のどこかで静かに見下ろしている者がいた。

 

 黒曜石で組まれた八角形の部屋だ。壁も床も黒く、磨かれた石面が淡い魔法の光を鈍く返している。四方の壁際には背の高い書架が並び、革装丁の書物と結晶化した呪文記録が整然と収められていた。床には幾何学模様の魔法陣がいくつも刻まれているが、今輝いているのは中央の一つだけだ。

 

 部屋の中央には、腰の高さほどの黒い石盆が据えられている。盆の内側には薄い水膜のようなものが張り付いており、その表面にアイアンゲート盆地の光景が歪みながら映し出されていた。折れた黒石の柱脚、崩れた段丘、黒く汚れた石畳、そして散開して動き回る兵たちの列が、小さな模型のように見える。

 

 観測者は盆の前に立ち、両手を背に組んで像を見下ろしていた。ローブの袖口からは、節の浮き出た指先がわずかに覗いている。

 

 像の中で、デーモンの残骸が完全に形を失いつつある。ヴロックの羽毛はすでにばらばらの粘液となり、ヘズロウの脂を含んだ血も石の割れ目に沈んでいく。バルルグラの筋肉の塊は骨ごと崩れ、汚泥が泡立ちながら薄い霧へ変わり、気流に混ざって散っていった。

 

 観測者は一度だけ短く息をつき、盆の縁にわずかに視線を移す。そこには、四本あった黒石の柱脚のうち三本が完全に崩壊し、盆地中央の溝を走っていた光がほとんど消えかけている像が映っていた。

 

「《Planar Keystone(次元楔)》三本の破壊。門の位相は不安定域まで後退、か」

 

 誰に向けるでもない低い声が、石の部屋の中で吸い込まれるように消える。

 

 像の中で、アイアンゲート軍が被害状況の整理を行っていた。倒れた兵に布がかけられ、重傷者が担架に乗せられていく。戦死者は六十余名、重傷者を含めれば百名近く。観測者は数を心の中で並べ、そこに多元安定機構のチームの損耗──レンジャー一名とファイター一名の戦死、ウィザード一名の重傷──を加えて、ごく短く結論を出す。

 

「損耗は許容範囲。戦略目標は達成」

 

 石盆の横には、淡く光る薄板が数枚、宙に浮かんでいた。多元安定機構から送られた報告と、観測者自身の占術結果をまとめたものだ。その一枚の端には、小さく「アイアンゲート戦線・優先度高」と記されている。

 

 観測者は指先でそこを軽く叩いた。

 

「ここの危険度評価を引き上げろと送ったのは、三週間前だったか。秩序至上主義の官僚どもにしては、動きが早かった方だな」

 

 声には感情がほとんど乗っていない。ただ事実を確認している調子だ。盆地の像の中にある召喚陣は完全に光を失っている。オルクスに連なる儀式場としての価値はほとんど残っておらず、奈落への門は閉じられた。しかし、多元宇宙全体の戦線から見れば、この地点は一つの「片付いた盤面」に過ぎない。

 

「駒を正しく配置し、《均衡》を着実に取り戻す。それが私の役目だ」

 

 観測者は、石盆の像の一角へ意識を寄せる。砕けた《Steel Defender(鋼の護衛)》の残骸が映っていた。すでに炉心は沈黙し、装甲はひしゃげている。そのそばで、一人のドワーフが短い言葉をかけてから立ち上がり、負傷者の列へ向かっていく。

 

 ブロックスだ。

 

 戦闘の記録は、占術と機構側の観測を合わせて整理済みだ。《Planar Keystone(次元楔)》の破壊、《Aura of Vitality(活力のオーラ)》による支援、大型デーモンへの対処、そして最後にはクレリックとして負傷者の救護へ移行する動き。

 

「モラディンの《Chosen(選ばれし者)》にしては、ずいぶん地味な働き方だが……」

 

 観測者の口元がわずかに動いた。

 

「鍛冶司祭が戦の《均衡》点を支える駒になるのは、そう悪い選択ではない」

 

 ブロックスはまだ、自分が多元全体のどの位置に置かれているかを完全には理解していないだろう。だが、今はそれでよかった。自分の目の前の傷と血だけを見て動いている方が、その力は素直に発揮される。観測者は、わずかに指の形を変えた。石盆の像が揺らぎ、別の場所を映そうとして乱れた。

 

 色と形の境界が崩れ、ざらついた光と影だけが画面を覆う。幾重にも占術を重ねても輪郭が定まらない層で、《Sending(送信)》も《Plane Shift(次元間転移)》もまともに通らない、隔絶された境界の気配がそこにはあった。

 

「相変わらず、あの次元の封鎖はひどいものだ」

 

 わずかに絞り込まれた視界の端に、占術の残滓が引っかかる。霧の向こう側で、幾本もの線が交差して絡まり合っている。そこにいるのは、未来を見通す魔法使いラジエルと、嵐をまとった魔法使いタヴだ。

 

 ラジエルについて、観測者は多くを知っている。アストラル界で幾度も戦線を支え、ギスヤンキやマインド・フレイヤーの侵攻を押し返してきたこと。占術の精度は《Archmage(大魔法使い)》として遇される中でも最高水準であること。

 

「よく《均衡》が見えている。だが、まだ盤全体の時間を扱う癖が足りない」

 

 ラジエルの視座は、主に「現場」と「近い未来」に向く傾向がある。長い時間と多元全体の均衡を同時に扱うには、観測者の物差しではまだ幾度かの戦線と年月が必要だと判断していた。

 

 タヴについても、観測者は自分なりに整理していた。力は既に多元宇宙規模で見ても一線級だが、自分を過小評価する癖が強く、精神的にトラウマを抱えたままであること。そのため、周囲の判断や期待に引きずられやすい気質であること。

 

「あれは自分の罪と義務の重さに押し潰されかけている。力だけならデーモンロードに匹敵しうる才を秘めているが、《均衡》を預けるには早すぎる」

 

 ラジエルとタヴ。どちらも次の世代の切り札候補ではあるが、今は直接手綱を取るべき存在ではない。

 

「いずれ、自分で自分の位置を見つけるだろう。その時までは、盤の端に置いておく」

 

 観測者は短くそうまとめると、指先を再び動かした。乱れていた像がほどけて再びアイアンゲート東に位置する盆地の光景へ戻る。

 

 折れた黒石の柱脚、光を失った召喚陣、布をかけられた死者、担架に乗せられる重傷者、その傍らで黙々と祈りと治療を続けるブロックスたち。血と焦げと腐臭が、立体映像の中に薄く層を成している。

 

「少なくとも当面、オアースの境界は持ちこたえる。別の盤が崩れれば、その時はまた別の駒を動かせばいい」

 

 観測者はそう言ってから、石盆の中に指で小さな円を描いた。多元安定機構の記録と自身の占術とを束ねていた立体像が静かにほどけ、黒曜石の盆には室内の光だけが戻る。

 

 磨かれた石面には、ヒューマンの男の顔がぼんやりと映っていた。頭頂まで剃り上げた頭に、鋭く弧を描いた眉と灰色がかった瞳、顎には細く長い山羊髭がのびている。黒と深い青を基調としたローブの襟元には金属の留め具が光り、年齢を感じさせる皺はあるが、視線には疲れよりも計算の色が濃い。

 

(まだ盤は傾いていない。現状は観測で十分だ)

 

 黒曜石の塔の静寂の中で、善と悪、秩序と混沌のどちらにも与せず、多元宇宙の均衡だけを陰から整えてきた伝説の《Archmage(大魔法使い)》──モルデンカイネンは、再び視線を別の世界へと滑らせた。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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