界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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帝都の謁見で、フラーゼは位相アンカー破壊の戦果を報告するが、精神干渉を伴う別種の装置と首輪付き捕虜が新たな火種に。ラジエルは幻術で異界戦力を示し、隔離と尋問の方針を提案。皇帝は権限の線を引く。一方、遠くの世界にある塔都シャーンでは緊急招集と共に空が裂け、都市を巡る防衛戦が始まる。内部で暗躍する存在の工作と、外側から接続されたの魔物の波が世界を揺らす。


#17:封じの環の綻び

 帝都アイスベルクの帝宮にある謁見の間は、いつも通り静かだった。白い壁に囲まれた高い空間を、天井近くの窓から差し込む光が満たし、左右には装飾の施された柱が等間隔に並んでいる。入口から最奥の段へと伸びる長い赤い絨毯の突き当たりには、金と白で作られた玉座が据えられていた。

 

 玉座には、肩まで伸びた金髪を後ろへ流し、黒の礼装軍服に金の肩章と勲章を付けた若い皇帝が腰掛けている。皇帝は片肘を肘掛けに預け、膝の上には宝石をちりばめた帝冠を軽く載せていた。

 

 重い扉が内側へ静かに開き、位相アンカー破壊作戦から戻ったばかりの魔導特務隊──国境の警備や内乱の鎮圧などを主任務とする特務部隊──の隊長フラーゼが一人で入室した。

 

 丸い眼鏡をかけ、灰色の髪を肩先で切りそろえた老齢の女性であるフラーゼは、濃い色のローブの上から帝国紋章入りのマントを羽織っている。彼女は長旅の疲れを隠すように背筋だけは真っすぐに保ち、入室した瞬間、玉座へ上がる階段の右脇に張り出した一段低い踊り場へ視線を向けた。

 

 そこには黒色の宮廷服を着た宮廷魔法使いアルデリックが直立し、そのすぐ後ろで舞台衣装のような蒼銀のローブを纏った異界の魔法使いラジエルが控えている。

 

 ラジエルは礼法の形をなぞるように踵を揃え、視線の高さまで宮廷の者に合わせていたが、蒼銀の布だけが場違いに目立つため、その整い方がかえって不自然に見えた。フラーゼは眼鏡の奥の目をわずかに細め、すぐに視線を玉座へ向け直す。

 

 決められた位置まで進んだフラーゼは、玉座から数メートル離れた下段で片膝をつき、頭を垂れた。玉座へ続く赤い絨毯の両側には槍を持った近衛兵が等間隔に立ち並び、その少し後方には書記官が立っている。

 

 皇帝はしばらくフラーゼを見下ろしていたが、やがて視線をわずかに下げるだけで報告を促した。

 

「この数週間の位相アンカー破壊作戦の結果について、報告いたします」

 

 フラーゼは顔を上げずに声をまっすぐに通した。

 

「まず、ギスヤンキの前線拠点となっていた位相アンカーを、現時点で三か所破壊しました。それぞれの周辺に構築されていた防衛陣地と、敵の補給線も同時に崩壊させています」

 

 彼女は短く区切りながら、戦果と損害を淡々と並べる。

 

「そのうち一か所では、ラジエル殿の助言に基づき、当初の突撃案を変更しました。敵の前衛と奴隷兵を正面から受け止めるのではなく、帝国側の前衛を薄く広げて側面からの包囲を避けつつ、火力を敵砲台と指揮官に集中させる形で攻撃順序を組み直しました。その結果、帝国兵の重傷者は当初想定の半分以下に抑えられています」

 

 峡谷で立ちのぼった雪煙や、砲撃が岩肌を削った光景、指揮官が倒れた瞬間に銀色の列が一斉に乱れた様子が、フラーゼの頭に短くよぎる。その記憶があるせいで、今口にしている数字の重さは、彼女の中でははっきりした形を持っている。

 

「別系統として、マインド・フレイヤー由来と見られる位相アンカーを一か所発見しました。現地の調査中に強い精神干渉と寄生の兆候が確認され、調査部隊に負傷者と行方不明者が出ています」

 

 フラーゼは言いにくい部分も含めて、損害の内容をそのまま述べた。皇帝が肘掛けから頬杖を外し、上体をわずかに起こした。視線が、少しだけ鋭さを増す。

 

「今のところ、この脅威を帝国の記録にある戦争と並べるなら、どのあたりだと思う」

 

 フラーゼは一度ばかり呼吸を整え、言葉を選ぶように短く間を置いた。

 

「現時点では未知の要素が多すぎます」

 

 その前置きのあとで、彼女は淡々と続ける。

 

「ただ、北方戦役や魔王軍残党の掃討戦と比べても、被害の広がり方と深さの両方で、それらを上回る可能性があります。一度本格的な侵入を許した場合、問題になるのは領土の奪回ではなく、この世界そのものの形を繋ぎ止めることだと見ています」

 

 近衛兵たちの鎧の擦れる音が止み、謁見の間は一層静かになった。皇帝は小さく息を吐き、視線を遠くへ流す。

 

「世界そのものが戦場になるか。千年続いた帝国も、その上に載っている荷物の一つというわけだな」

 

 言葉は淡々としているが、その指先が肘掛けを一度軽く叩いた。皇帝は膝の上に置かれた報告書の端を指でとんとんと叩きながら、話題を進める。

 

「先に受けた説明では、向こうにとって今はまだ手探りに過ぎぬと言っていたな」

 

「はい。ラジエル殿の証言と、これまでの戦闘記録を照らし合わせたかぎりでは、その認識で大きな齟齬はないと判断しています」

 

 フラーゼが答えると、皇帝はわずかに口元を緩め、玉座の横に立つラジエルへと視線を移した。

 

「では、その手探りの中身を本人から聞くとしよう。顔を上げよ、フラーゼ。そのまま聞いていろ」

 

 許可の言葉を受け、フラーゼは膝をついた姿勢を維持し、静かに顔を上げて玉座とその左右を見据えた。

 

 皇帝の視線が、自分に向けられたとき、ラジエルはそれをはっきりと感じ取った。多くの目の前に引き出される独特の緊張が、背中をまっすぐにさせる。彼は外見上は落ち着いた動作で一歩前に出て、礼儀に従って軽く一礼した。

 

 隣のアルデリックは、きっちりとした宮廷服のまま、半歩後ろに位置を取っている。その距離は、必要があれば即座に術式に干渉できる間合いだった。

 

「ここは帝国の心臓部だ。結界も警備も、用意できるものは一通り揃えてある」

 

 皇帝はラジエルから目を逸らさずに言葉を続ける。

 

「そなたの目から見て、この国の備えはどう映る」

 

 ラジエルは問いの意味を測りながら、視線を謁見の間のあちこちへ移した。石造りの壁に走る細い光の筋、柱の根元に刻まれた小さな術式の継ぎ目、床に敷かれた赤い絨毯の両側に並ぶ結界用の紋。天井近くの梁には、警戒用の魔具が等間隔で吊るされている。

 

 彼は短く息を吸い、《Tongues(言語会話)》を使わずに、覚えたこの世界の言葉を頭の中で一度並べ直した。それから、わずかに目を細めて穏やかに微笑んだ。

 

「よくまとめてあると思います。結界の重ね方も、術の流れも整っていますね」

 

 ラジエルは、壁際の紋章と、その向こうで流れている魔力の筋道を指先で示す。

 

「いくつかの役目を、別々の術者が分担しているように見えます。同じ層を一人で握らず、役割を分けて支えている。そのぶん、簡単には一か所を壊されない構造です」

 

「分担、か」

 

 皇帝はその言葉を繰り返し、興味深そうに目を細めた。その反応で、ラジエルはこの問いが単なる感想ではなく、帝国の仕組みをどこまで読み取っているかを測るためのものだと理解する。

 

 皇帝は僅かに姿勢を変え、本題に踏み込んだ。

 

「そなたの話では、ギスヤンキとマインド・フレイヤーが送り込んでいる戦力はほんの小手調べとのことだったな」

 

 短い間のあと、皇帝はラジエルを正面から見据える。

 

「もし向こうが本気で攻めてくるなら、今のやり方で済むとは思っていない。どれほど変わる」

 

 ラジエルは、いつもの軽口を少しだけ引っ込めて頷いた。

 

「その通りです。奴らが本格的に侵攻する時には、もう少し派手なものを持ってきますよ」

 

 彼はそこで言葉を切り、皇帝とアルデリック、それから下段で控えるフラーゼの顔を順に見た。

 

「ひとつ、幻術の使用を許可していただけますか。言葉だけより、見ていただいた方が早いので」

 

 皇帝は眉をわずかに上げ、視線のみでアルデリックに問いかけた。アルデリックは胸元の飾り紐を一度だけ整え、短く頷いてから口を開く。

 

「結界の内側であれば、限定的な幻術に問題はありません。危険があればすぐに中止させます」

 

 抑えた声だったが、その内容ははっきりとしている。皇帝はそれを受けて、ラジエルへ視線を戻した。

 

「よかろう。術はこの謁見の間の内側のみに留めよ」

 

「承知しました」

 

 ラジエルは胸元に手を置き、静かに魔力の流れを整えた。彼は懐の小袋から羊毛の切れ端を一つ摘み、そこへ少なくとも金貨二十五枚分の翡翠の粉をひとつまみ絡める。指先で軽く捻ると、淡い緑の粉が空中にほどけ、彼の周囲の空気がわずかにひんやりとした。

 

 ラジエルはそのまま《Programmed Illusion(条件作動虚像)》──あらかじめ決めた光景と動きと音を魔力で記録し、合図に応じてその通りに幻を演じさせる魔法──を起動した。

 

 玉座の間の中央、赤い絨毯の上に、半透明の巨大な船の幻が現れる。金属と骨を組み合わせたような船体が空中に横たわり、側面には長い砲身が何本も並んでいる。甲板には、銀色の甲冑を着たギスヤンキの戦士たちが整然と並び、風もないはずなのに、マントがわずかに揺れていた。

 

 ラジエルが指先を動かすと、幻影の光が一度かすみ、別の形に変わる。殻のような外殻を持つ奇妙な船が現れ、その周囲を球状の物体がいくつも浮遊している。ゆっくりと落下するそれらの球体が幻の地表に触れると、地面がひび割れ、中から触手を持つ生物兵器が這い出してきた。細い触手が空を探るように動き、口のような裂け目が開閉する。

 

 さらに場面が切り替わり、地上を進む兵器の幻が現れた。低い車体に長い砲身を載せた魔導戦車の列で、車体の下部から淡い光が吹き出している。その光が床を滑るように流れ、戦車は赤い絨毯の上を音もなく前進していく。

 

 別の幻では、厚い装甲殻を持つ自走砲台が、地表を這うような速度で進みながら、周囲に波紋のような精神波をばらまいていた。見る者のこめかみの奥に、わずかな圧迫感が残る。

 

「こちらが、ギスヤンキの空を行く船です」

 

 ラジエルは最初の船の幻を指さした。

 

「高所からの砲撃と、部隊の投下に使われます。砲身の一つ一つが、城壁をまとめて削る程度の威力を持っています」

 

 次に、殻の船と触手の怪物を示す。

 

「これが、マインド・フレイヤーの船。地上に種をばらまくための器ですね。さきほど出てきた生物兵器は、周囲の生き物を取り込んで増えるものもいます」

 

 最後に、魔導戦車と自走砲台を示す。

 

「地上のこれは、砲台を運ぶための魔導兵器です。砲撃だけでなく、乗っている連中の精神攻撃も一緒に飛んできます。目に見える砲弾と、目に見えない一撃が同時に来る、と考えてください」

 

 フラーゼは幻影を凝視していた。表情はほとんど変わらないが、声だけがわずかに低くなる。

 

「この規模の兵器が複数投入された場合、帝国の国防結界で、どこまで持ちこたえられると見ますか」

 

 視線は幻ではなく、ラジエルの横顔に向いている。ラジエルは指を折りながら短く計算するような仕草を見せた。

 

「結界そのものはよく出来ています。それに、帝国の魔法使いは全体的に質が高い。最初の一波だけなら受け止められるでしょう」

 

 彼は謁見の間の壁と天井に流れる魔力の線をもう一度なぞるように見たうえで、続けた。

 

「ただ、問題はその先です。ギスヤンキもマインド・フレイヤーも、一つの世界だけから兵を集めているわけではありません。いくつもの場所に拠点を持っていて、そこから順番に兵と船を送り込める」

 

 ラジエルは自身の知る戦場の図を頭の中で重ねる。

 

「こちらは、帝国一か所で受け止めるしかない。敵は門を通して何度でも攻撃を仕掛けてこられますが、帝国の結界と兵力は限られています。長く続くほど、兵站の差で押し切られると思います」

 

 そこで彼は短く息をつき、付け加える。

 

「ただ、今はまだ通り道が細い。位相アンカーを見つけて壊し続ける限り、あの手の兵器をまとめて通す準備を整えるのは難しいはずです」

 

 皇帝はこれまで読み込んできた戦記の記述を思い浮かべているように、視線をわずかに落とした。

 

「つまり、まだこちらの土俵で戦えている段階ということだな」

 

 ラジエルは頷き、指先で幻影を払うように動かした。船も戦車も、砲台も、音もなく霧のように消えていく。彼は視線をフラーゼに向け、手短に補足する。

 

「位相アンカーをいくつも同時に稼働させると、門を広げられます。一つ一つの点を繋げて組み上げることで、一時的にですが、より強固で広い門が開ける仕組みです」

 

 フラーゼは既に把握している情報と照らし合わせて頷いた。以前破壊したアンカーの配置図と、ラジエルの説明が頭の中で重なる。

 

「現在の方針である位相アンカーの早期発見と破壊は、引き続き有効と見てよい、ということですね」

 

「ええ」

 

 ラジエルは短く答える。フラーゼは頷きだけで話を終わらせず、声の調子を落とした。

 

「ただし、帝国側が破壊の手を緩められない状況が続きます。敵が別の場所に新たな位相アンカーを据えれば、こちらはまた探して壊すしかありません。敵の本隊に手が届かないなら、いずれ監視と出動が追いつかなくなります」

 

 皇帝は膝の上の報告書を指先で一度叩き、視線をフラーゼからラジエルへ移した。

 

「つまり、こちらは消耗戦になる。そなたの言う通りなら、いずれ帝国はじり貧だ。違うか」

 

「違いません」

 

 ラジエルは即座に肯定した。言葉のみで済ませず、赤い絨毯の上に残る幻影の残光を見やり、状況を現実の手順に落とし込むように続ける。

 

「位相アンカーを壊し続けるのは、敵の投入速度を落とすための手段です。今の段階なら有効です。ただ、敵が複数の拠点から順番に兵と船を回せる以上、こちらが守りだけを続けると、損耗の回復が先に尽きます」

 

 フラーゼは皇帝の顔色をうかがわず、必要な言葉を重ねた。

 

「帝国が長期戦を避けるには、敵の本隊か、補給の基点に届く手段が必要です。しかし、現状では門の向こうへ踏み込む戦力が足りません」

 

 皇帝は一拍おき、問いを鋭く絞った。

 

「そなたは、足りぬ分をどう埋めるつもりだ。ラジエル」

 

 ラジエルは肩をすくめる代わりに、口元の笑みを消した。

 

「多元宇宙から、こちらに送られる予定の者が三人います。僕と同じく、神々の《Chosen(選ばれし者)》です」

 

 皇帝の目が細くなる。フラーゼは微動だにしないが、書記官のペン先が一瞬だけ止まった。

 

「ドワーフのアーティフィサー、ブロックス・フレイムスミス。ドラゴンボーンのパラディン、セリア・イグナリア。ハーフリングのローグ、イーシャ・グレイブレア。役割が違うので、揃って初めて、門の向こうに手を伸ばす準備が整います」

 

 ラジエルは言い切ったあとで、余計な断定を避けるように言葉を落とした。

 

「ただ、追加の戦力がさらに送られるかどうかは、僕も知りません。少なくとも、僕が聞かされている範囲では、本格的な対処はその三人が動ける段階になってからです」

 

 皇帝は短く息を吐き、玉座の肘掛けに置いた手を動かさずに問う。

 

「なぜ、そなた一人が先に来た」

 

 ラジエルは少しだけ視線を横に流し、言葉を選んでから答えた。

 

「多元宇宙では今、デーモンの侵攻が起きています。この世界の言葉で表すなら地獄の魔物のような存在です。空間に裂け目が開くと、そこから現れて、人の街と拠点を狙って破壊して回る。他の《Chosen(選ばれし者)》はその裂け目の封鎖と掃討に回されています」

 

 書記官の羽ペンが完全に紙の上で止まり、インクが一点に滲んだ。皇帝は玉座の肘掛けに置いた指を止め、顎を引いた。フラーゼは一度だけ皇帝へ視線を移し、次に何を問うべきかを量るように口を閉じた。

 

 神が人を選ぶという前提だけでも、この世界の常識から外れている。さらに、別の世界が裂け目から湧く魔物に襲われ、選ばれた者たちが封鎖と掃討に走り回っているという状況が想像できない。三人は互いに視線を交わしたが、問い返す順番を決められずに沈黙が続く。

 

 ラジエルはその沈黙を見て、話をこれ以上広げずに、皇帝の目を見ながら理由のもう一つを簡潔に出す。

 

「加えて僕はヒューマンです。この世界の人間社会に入りやすく、価値観や生活も合わせやすい。それに僕は次元の綻びを塞ぐ術を扱える。候補の中では一番この世界に適合しやすいと判断されたので、先遣になりました」

 

 皇帝は言葉を受け止めるように黙り、フラーゼへ視線を送ってから、静かに口を開いた。

 

「神々が人を選び、別の世界へ送り、別の世界では地獄から魔物が溢れる……まるで神話だな」

 

 皇帝は視線を戻し、話題を切り替える。

 

「次だ」

 

 皇帝は、今度はフラーゼからラジエルへ視線を移す。

 

「ギスヤンキどもが連れてきた奴隷の扱いについて、意見を聞きたい。前線で捕えた者たちの多くが、首輪の爆発で命を落としたと聞いている」

 

 フラーゼは、声の調子をわずかに落として補足した。

 

「戦闘で確保したゴブリンやコボルドなどの奴隷兵の一部は、拘束後に首輪が遠隔起動されました。爆発によって死亡した者が複数出ています」

 

 彼女は、後方に控える書記官へ一度だけ視線を送り、記録の進行を確認する。

 

「回収した首輪と魔具は現在、魔導特務隊と宮廷魔法局で解析中です。しかし、安定した解除手順は、まだ確立できていません」

 

「捕虜の処遇を巡り、軍部は『潜在的な脅威』として早期処分を主張しています。一方で、文官や教会は『情報源としての利用と保護』を主張しており、意見が割れています」

 

 ラジエルは、小さく苦い笑みを浮かべた。

 

「ギスヤンキの奴隷は、たいてい爆薬と精神命令の首輪で縛られています。首輪さえ無力化できれば、彼ら自身は普通の兵士と大差ありません」

 

 彼は右手で首のあたりを軽く指し示す。

 

「ただし、首輪に命令を送っている側が生きている限り、遠隔起動の危険は残ります。命令を断ち切るか、首輪の仕組みを完全に潰す必要があります」

 

 皇帝はそこで一度息をつき、目を細めた。

 

「マインド・フレイヤーの方はどうだ。あれに操られた者にも、同じような縛りがあるのか」

 

 問いが向けられたのを受けて、ラジエルは次に声の調子を少しだけ変えた。

 

「マインド・フレイヤーに操られた者は、頭の中に余計なものを埋め込まれていることが多い。こちらの世界の医術と魔法だけで安全に救うのは、正直難しいと思います」

 

 皇帝はしばらく黙し、肘掛けを指先で軽く叩いた。その音が、静かな謁見の間に小さく響く。

 

「帝国の民であろうと異国の民であろうと、道具として使い捨てにされたとだけ記録される結末は、あまり好きではない」

 

 皇帝は視線をラジエルとフラーゼの間に置いた。

 

「だが、帝都に災いを招きかねぬ存在に情けをかけるつもりもない」

 

 ラジエルはそこにある迷いと線引きを感じ取り、真面目な声音で口を開いた。

 

「でしたら、当面は隔離がいいでしょう」

 

 彼は一歩前に出て、はっきりと提案する。

 

「僕が《Mordenkainen's Private Sanctum(モルデンカイネンの秘密の部屋)》という結界を一つ張ります。外からの干渉を遮って、その中で首輪の解除実験と聞き取りを行う」

 

 ラジエルは、《Mordenkainen's Private Sanctum(モルデンカイネンの秘密の部屋)》の性質を簡潔に説明した。一定の広さの空間を立体的な障壁で囲み、外との音や視線を遮ること。その内外での占術や念話の類を通さず、瞬間移動や異なる世界からの侵入も妨げること。一度張れば、しばらくの間は効果が続くこと。

 

「その結界の内側では、外からの魔法的な覗き見や命令を遮断できます。出入りも制限できます。ギスヤンキに縛られた奴隷については、そこで一人ずつ判定するのが現実的です」

 

 フラーゼは警戒を表に出さずに、短く条件を重ねた。

 

「……その結界の出入りと監視、記録は、すべて帝国側で行います。司法局と魔導特務隊、それに教会の立会人を置きましょう」

 

 彼女の視線は、ラジエルから逸れない。

 

「マインド・フレイヤーに関わったと判断された者については、別枠で協議します。その点も含めて、文書に残します」

 

「わかりました。その方がぼくも気が楽です」

 

 ラジエルは素直に頷いた。自分の役目と責任の範囲をあらかじめ決めておいた方が、後で疑われずに済むと考えていたからだ。

 

 皇帝は二人のやり取りを確認し、決定をまとめる。

 

「よし。捕虜は帝都から離れた駐屯地に集めよ。今の案をもとに、それぞれの立場から処遇案を出させる」

 

 皇帝は、ラジエルへ視線を向ける。

 

「彼の役割は、その過程で必要な範囲の助言と結界の提供だけに留める」

 

「承知しました」

 

 フラーゼが答え、背後で書記官のペンが走る音がした。

 

「他国の目もある。宮廷の外で術を使う時は、必ず監視役と相談せよ」

 

 皇帝の釘を刺すような言葉に、ラジエルは肩をすくめる。

 

「勿論です。余計な誤解を招くのは、ぼくとしても避けたいので」

 

 軽い口調だったが、規則を破った時に何が起きるかを理解していることは、十分に伝わった。指示を一通り終えたあとも、皇帝は玉座にもたれたまま、指先で冠の縁を弄びながらラジエルを見下ろしている。

 

「もう一つだけ、聞いておきたい」

 

 皇帝は前置きしてから、静かに続ける。

 

「そなたは、自分の旅がしばらく戻れぬ片道だと言っていたな。世界を救う英雄を気取る性格には見えぬが、なぜその任を引き受けた」

 

 ラジエルは僅かに視線を逸らし、苦笑気味に肩をすくめた。

 

「最初の話を聞いた時、これは面倒だが面白そうな仕事だと思ったんです」

 

 彼は、自分の足元に広がる赤い絨毯を一度見下ろしてから、皇帝をまっすぐに見上げる。

 

「この世界の魔法の流れが少し特殊だということを聞かされました。見たことのない仕組みの上で、世界そのものが揺れている。魔法使いとして、それを一度は自分の目で確かめてみたくなりましてね。それに……」

 

 ラジエルはそこで一呼吸置き、声を少し抑えた。

 

「ひとつの世界に開いた穴を放っておくと、やがて他の世界にも響いてくる」

 

 彼は自分が知る別の世界の崩れた景色を思い出しながら言葉を続ける。

 

「その穴を塞ぐには、普通の勇者役では足りない、とも言われましてね。だったら、僕が行くのが一番手っ取り早いかと」

 

 冗談めかした言い方を選びながらも、視線は逸らさない。

 

「今のうちに対処しておかないと、後始末がもっと厄介になるのが目に見えていましたから。どうせ関わるなら、最初から最後まで自分で見た方が後腐れがない。だいたい、その程度の理由ですよ」

 

 フラーゼは横目でラジエルを観察し、その言葉と、これまでの作戦での行動を照らし合わせた。危険を承知で前に出て、砲撃を肩代わりするように結界を張った場面がいくつかある。未知の魔法への興味と、中途半端を嫌う性分は、その記憶と噛み合っていた。

 

 皇帝は小さく息を吐き、わずかに口元を緩める。

 

「好奇心と算盤勘定で世界を渡る使者、というわけか」

 

 皇帝は、玉座から視線を少し横にずらした。

 

「……フラーゼ、そなたはどう見る」

 

 フラーゼは正面を向いた体勢で、静かに答える。

 

「動機が何であれ、現状、この帝国にとって有益であることは確かです」

 

 彼女は言葉を区切り、わずかに声を落とした。

 

「ただ、異界の常識をこの世界にそのまま当てはめるのは、危険だとも考えています。こちらにはこちらの制約と、積み重ねてきた線引きがありますから」

 

「それは余も同感だ」

 

 皇帝は短く返して上体を起こした。視線は宙を見据えている。

 

「一つ、今のうちにはっきりさせておこう」

 

 彼は謁見の間にいる三人全員に聞かせるように言葉を続けた。

 

「この帝国では、何もかもを余の一存で決められるわけではない。軍も、評議の席も、魔導特務隊も、それぞれに役目と権限がある。誰が玉座に座ろうとも国が回るように、力は分けてあるのだ」

 

 少し間を置き、今度はラジエルを真正面から見る。

 

「ここ数日、そなたの名はあちこちの席で出ている。皇帝の私兵にするつもりかと騒ぐ者もいれば、異界の魔法使いを手元に引き寄せねば危ういと言う者もいる」

 

 皇帝の声は静かだが明瞭だった。

 

「ゆえに、そなたの立場にも枠が要る。得体の知れぬ異界の魔法使いが、内政や貴族の争いにまで口を出したとなれば、それだけで余の意図を疑う者が増えるだろう」

 

 皇帝は、はっきりとした口調で告げる。

 

「……ラジエル」

 

 玉座の上から名指しで呼ぶ。

 

「そなたにはあくまで外から来た客人として働いてもらう。ギスヤンキやマインド・フレイヤーなど、異界からの脅威について、前線での助言と必要な魔法の行使を許可する」

 

 皇帝は言葉を一つずつ置いていく。

 

「帝国内の人事や条約の細部については、意見は出さないようにしておいてくれ。そうしておけば、評議の席で余も『客人は外を見ているだけだ』と答えられる」

 

 ラジエルはその説明の意図を測るように一瞬だけ目を細め、それから素直に頷いた。

 

「肝に銘じておきます。もともとこちらの内政事情に口を出すつもりはありません」

 

 彼は軽く笑って付け加える。

 

「扉を閉める仕事には慣れています。異界からの来客対応は僕がしますよ」

 

 フラーゼが少しばかり声の調子を落として口を開いた。

 

「ラジエル殿。ひとつだけこちらからもお聞きしてよろしいでしょうか」

 

 皇帝は黙ったまま、目線の動きだけで許可を示す。フラーゼはそれを確認してから、視線をラジエルに向けた。

 

「あなたが最初にこの世界に現れた場所が、よりによって帝都の上空だったのは……本当に偶然なのですか」

 

 ラジエルは短く息を吐き、曖昧な笑みを浮かべる。

 

「僕としては、だいたいそのあたりに落ちろとだけ言われていたので……細かい場所を決めたのが誰なのかは、正直分かりません」

 

 彼は天井近くの結界具をちらりと見上げた。

 

「ただ、帝都の結界がしっかりしていたおかげで、こうしてきちんと捕まえてもらえたわけですし、結果としては悪くなかったと思いますよ」

 

 フラーゼは、その答えの中に含まれた曖昧さを噛みしめる。神々か、あるいは別の意思が働いた可能性を、頭の片隅に置きつつも、それ以上は追及しなかった。今ここで得られる情報の限界を理解していたからだ。

 

 皇帝は二人のやり取りを聞き終えると、短く笑った。

 

「外から落ちてきた者の扱いは、この国の歴史に前例がない」

 

 彼は、玉座の肘掛けから軽く身を離す。

 

「……十分だろう。今日はここまでとする」

 

 フラーゼは深く頭を垂れ、ラジエルとアルデリックもそれに倣った。近衛兵たちが一斉に姿勢を正し、扉の方から控えの者たちが皇帝の退室に備えて動く。

 

 皇帝と随員が謁見の間を後にし、近衛兵と書記官もそれぞれの持ち場へ戻っていく。やがて広い謁見の間には、フラーゼとラジエル、そして少し離れた位置に立つアルデリックのみが残った。

 

 フラーゼはゆっくりと立ち上がり、膝についた手の埃を一度払ってから、ラジエルのもとへ歩み寄った。

 

「……陛下の前では、今以上に言葉を選んでください」

 

 彼女は、周囲に人の気配がほとんどなくなったのを確認してから、低い声で告げた。

 

「陛下は話の分かる方ですが、帝国という仕組みは、冗談に寛容ではありません」

 

 ラジエルは苦笑し、肩をすくめた。

 

「気を付けるよ。この世界で首を落とされるのは、僕の趣味じゃないからね」

 

 口調はすっかりいつもの調子に戻っている。それでも、先ほど皇帝から受けた枠組みの説明は、きちんと頭に残っているようだった。

 

 フラーゼはわずかに息を吐き、声の硬さをほんの少し緩めた。

 

「それでも、あなたの力が必要なのは事実です。帝国が倒れれば、この世界の魔法も多くが失われますから」

 

 ラジエルはその言葉に小さく目を細めた。

 

「それは困るね。せっかく面白い魔法がたくさんある世界だ。まだ見たいものがたくさんある」

 

 彼の返答は軽いが、その目には好奇心とそれに見合うだけの責任感が混ざっている。

 

 そこへアルデリックが二人に向かって歩み寄ってきた。足音は規則正しく、表情はいつも通りの冷静さを保っている。

 

「捕虜収容地と結界の設計について、魔力管理塔で協議が開かれることになる」

 

 アルデリックは事務的な口調で告げた。

 

「司法局と教会の代表も来る予定だ。ラジエル殿には、そこで結界案を示してもらいたい。研究塔の施設も、その際に使えるよう手配しよう」

 

「それはありがたいね。帝国の未来のために、喜んで力を貸すよ」

 

 ラジエルは素直に頷く。結界の細部を詰める場を用意される方が、自分としても動きやすい。

 

 フラーゼは二人のやり取りを確認し、短くまとめた。

 

「では、その協議の結果を踏まえて、次の作戦を組み立てます。位相アンカーの探索範囲と、前線の布陣も、合わせて見直しましょう」

 

 彼女はラジエルとアルデリックに一礼する。

 

「お二人とも、準備をお願いします」

 

 ラジエルは軽く片手を上げて応じ、アルデリックは無駄のない動作で頷いた。

 

 三人はそれぞれの方向へ歩き出す。フラーゼは作戦幕僚のいる部屋へ、アルデリックは魔導特務隊と宮廷魔法局の連絡窓口へ、ラジエルは案内役と合流して研究塔へ向かう。

 

 帝都防衛と異界対策の準備は、静かに、しかし確実に次の段階へと進み始めていた。

 

 *

 

 夜明け前の空は暗く、塔と塔の間を渡る風が冷たい。高層の橋の上では、火の気がない街灯が一定の明るさで道を照らし、荷を載せた車輪が石畳を叩く音が途切れずに続いている。少し上空を見上げれば、元素の炎を推進に使う飛行艇が低く流れ、帆や外板が風を受けて軋む音が遅れて届く。

 

 下層からは油と蒸気と人いきれの匂いが混ざって上がり、霧に溶けて鼻の奥に残る。こうした光と機械音と匂いの混じる夜が、魔法が生活に組み込まれた世界──エベロンの塔の都シャーンでは当たり前だった。

 

 その喧騒が窓越しに薄く届くクライフトップの安宿の一室で、ダレクは浅い眠りを続けていた。ヒューマンの男としては背が高く肩幅もあるが、鎧を脱いだ姿はただの旅人に見える。髪は短く切り揃えられ、顎には数日分の無精ひげが残っている。枕元には剣と盾が置かれていて、盾の縁には擦り傷が増え、剣の柄には汗の跡が染み込んでいた。

 

 外から聞こえる音が、普段より多かった。上層を巡回するシャーン・ウォッチ──ブレランド王国の都市シャーンで橋と塔の巡回、防衛を指揮する警備隊──の靴音、夜明け前に急ぐ荷運びの掛け声、遠くで元素の炎が揺れて鳴る音が混ざっていた。ダレクは眠っていても、身体のどこかでそれを数えていた。

 

 扉が叩かれた。間を置かずにもう一度叩かれる。宿の薄い扉が震え、蝶番が小さく鳴った。

 

 ダレクはすぐに起き上がった。右手は剣の柄に触れ、左手は寝台から床へ降りる足を支えた。ダレクは扉の前に立ち、息を整えてから声を出した。

 

「誰だ」

 

「多元安定機構の者だ。ダレク・ブレランドか。緊急招集を伝えに来た」

 

 多元安定機構という名を、ダレクはこの半年ほどで何度も聞くようになった。エベロンは外の多元宇宙と同じ道筋で繋がっていない。クライフトップの学者は、エベロンは深いエーテル界の奥にあり、この世界を中心に独自の諸界が巡っていると説明していた。

 

 さらにシベリスの環──外側の神々や天使、悪魔の力がこの世界へ届きにくくなるように封じているとされる空を取り巻く竜の欠片の輪──が、境界を厚くしているとも言った。だから一般的な次元移動の術式で境界を越えようとしても、術式が噛み合わず、行き先が定まる前に崩れることがある。

 

 結果として、外部の勢力が日常的に出入りすることはなく、クライフトップでも「外から来た組織」は珍しい。多元安定機構が少数の常駐部隊のみをシャーンに置いているのも、そういった事情があるからだ。ところが最近は、その封じられたはずの境界が揺れ、原因不明の裂け目が各地で増えていた。

 

 多元安定機構は揺れを追うために観測器を持ち込み、シャーンのオリエン氏族──《Mark of Passage(移動のマーク)》を持ち、街道の運送と転移室の運用を担う家門──やシャーン・ウォッチと連絡を取り合っている。

 

 常駐が始まった当初、シャーンの各組織は外から来た機構を警戒した。だが多元安定機構が持ち込む技術と資材は異常への対処に実際に役立ち、依頼金と現地での調達が街に金を落とした。現在は疑いより実務が先に立ち、機構は各組織に自然と受け入れられている。

 

 ダレクは扉の鍵を外し、鎖を残しながら隙間を作った。

 

 廊下に立っていたのは、灰色の外套を着た若い男だった。外套の裾には濡れた埃がこびりつき、襟元の金属の留め具には小さな刻印が入っている。男の瞼は腫れていて、赤く充血した目が乾いたように光っている。瞬きをしても焦点が揺れない。眠る時間を削って、走り回っていたのだと分かった。

 

 指先には封蝋の赤が付着し、革の筒と封の付いた紙片を握ったまま、力を抜けずにいる。男は一度だけ喉を鳴らし、息を整える前に言葉を出した。

 

「境界観測器が揺れた。原因の痕跡が薄い。裂け目が出る可能性が高い。クライフトップの冒険者ギルドへ今すぐ集合してくれ」

 

 男は早口にならないように言葉を区切ったが、声の奥に焦りが混じった。ダレクはそれを聞き取り、扉の鎖を外して全開にした。

 

「分かった。全員を叩き起こす。集合は何分後だ」

 

「十五分で来い。遅れたチームは後回しになる」

 

 男はそれだけ言って踵を返した。廊下の先へ走る足音が遠ざかる。宿の階段を降りる音が続いた。

 

 ダレクは息を吐き、廊下へ出た。多元安定機構が絡む招集は、この半年で一度や二度ではない。夜明け前に叩き起こされ、装備を掴んで走り、何も起きずに終わることもあれば、血と焦げた臭いが残るときもあった。

 

 彼は同じ階の扉を順に叩いた。叩き方は強いが乱暴ではない。眠りを割る音としては十分で、危険を知らせる合図としても過不足がなかった。

 

「ミロ。起きてくれ。緊急だ」

 

 最初に扉が開いた。ミロが立っていた。ウォーフォージドの体は金属板と木材の骨格で作られ、関節は滑らかに動く。胸部の装甲には小さな傷があり、そこから内側の素材が少し覗いている。目にあたる部分には淡い光が宿り、ミロはその光をダレクへ向けた。ミロの肩には、すでに索の束が掛かっていた。

 

「命令を確認する。多元安定機構の招集か」

 

「そうだ。境界が揺れたらしい。裂け目が出る可能性がある。装備を持ってクライフトップへ行くぞ」

 

「了解する。索と固定具を携行し、落下対策を優先する」

 

 次にフィアの扉を叩いた。内側から短い呻き声が聞こえ、しばらくして扉が勢いよく開く。ノームのフィアは背が低いが、目つきは鋭い。寝間着の上に急いで上着を羽織り、腰に工具袋をぶら下げていた。髪は寝癖が残り、額には保護用の小さなゴーグルが引っ掛かっている。起き抜けでも手は迷わず、道具箱の留め具を確認していた。

 

「また緊急?こんな時間に呼ぶなら、いい知らせのはずがないね」

 

 フィアは口で文句を言いながらも、足はすでに靴を探している。ダレクは頷いた。

 

「その通りだ。《Eldritch Cannon(魔導砲)》の部材を忘れるな。荷物は最小にしろ」

 

「最小って、どの最小。帰ってこられる最小なら、こいつは必要よ」

 

 フィアは小さな金属箱を抱えた。箱の中で金属が触れ合う音がして、焦げた石の匂いがわずかに漏れる。

 

 最後にセレナの扉が開いた。ハーフエルフのセレナは髪をすでにまとめ、外套の留め具を止めている。目の下に薄い隈があるが、視線はまっすぐだった。胸元の聖印は布の下に隠し、必要なときにすぐ掴める位置へ置いている。寝起きのはずなのに、手袋と包帯の束はもう腰の鞄へ入っていた。

 

「聞こえた。招集ね」

 

 セレナは廊下の先を見てから、ダレクへ視線を戻した。声は落ち着いているが、口の端がわずかに固い。前回の襲撃時にダレクが橋の上で膝を折り、セレナが人波を押し分けて駆け寄った光景が、まだ消えていない。

 

「ダレク、先頭に出すぎないで。指示を出すなら私が見える距離で動いてほしい。遠いと間に合わない」

 

 ダレクはセレナの目を見て頷いた。納得しているからこそ、頷きは早かった。

 

「分かっている。危ない場面なら合図を出す。治療と後送は任せる」

 

 セレナは一度深く息を吸い、頷いた。その呼吸は、気持ちを切り替えるためのものだった。

 

 四人は宿を出た。クライフトップの通りはまだ暗いが、浮遊灯が道を照らし、石畳の湿り気が光を反射していた。塔の縁から見下ろすと、はるか下に別の層の明かりが見え、霧の中で点が連なっている。下層の匂いが風に乗って上がってくる。焦げた油と鉄の匂いが混ざり、喉の奥が乾いた。

 

 ミロは重い足音を立てるが、歩幅は一定で乱れない。フィアは小走りでついてきて、金属箱を抱え直しながら時々舌打ちした。セレナは周囲の気配に目を配り、角を曲がるたびに通りの奥を確認している。ダレクは先頭で歩きながら、何度も上空を見上げた。夜明け前でも空域は動き、小型の飛行艇が低く飛びながら周囲を警戒している。

 

 クライフトップのホールには、すでに複数の冒険者パーティーが集まっていた。扉を開けた瞬間、汗と革と金属の匂いが鼻に入る。鎧を着込んだ者、弓を背負った者、杖を肩に担いだ者が混ざり、視線が忙しく動いている。

 

 ヒューマンばかりではない。ドワーフ、ハーフオーク、チェンジリングらしき顔の者もいる。シャーンは多種族が混ざる都市であり、冒険者の集まりはそれが濃く出る。

 

 ホールの片隅では、ギルドの受付係が帳面を開き、呼ばれた順に名前を確認していた。受付係の横には、金属の封印が付いた小袋がいくつも積まれている。袋の口にはクンダラクの銀行が使うような硬い封蝋が押され、ほどけないように細い鎖で結ばれていた。

 

「前金は本当に出るんだな?」

 

 大柄なドワーフが受付係へ詰め寄った。報酬に関して以前揉めたことがあるのか、声が荒い。受付係は表情を変えずに帳面を指でなぞって封蝋の印を見せる。

 

「出る。追加の危険手当も付く。支払いの裏はクンダラクの保証だ。あとで揉めるなら、自分ではなく銀行と揉めてくれ」

 

「銀行と揉めたら骨まで抜かれる。なら安心だ」

 

 ドワーフは乾いた笑いを漏らし、袋を受け取って肩掛けの鞄へ押し込んだ。

 

 別の場所では、若い冒険者が仲間へ小声で囁いていた。

 

「どうして多元……なんとかの連中はこんなに金を出せるんだ?」

 

「金主がいるからだろ。境界の向こうのお偉いさんが、こっちの血で安心を買っているのさ」

 

「買うならもっと分かりやすい依頼で買ってほしいね。俺は今夜、手足が揃って帰りたい」

 

 冗談にしようとして、最後の言葉ばかりが素直に残るが、周囲の笑いは短くすぐに途切れた。

 

 ダレクたちはホールの空気に紛れながら奥へ進んだ。ミロの金属の足音は重いが、床板を不必要に軋ませない。フィアは抱えた金属箱を持ち直し、受付係の方を一度だけ見た。セレナは人の流れを避けるように立ち位置を調整し、出口側と窓側の両方を確認している。

 

 ホールの中央に、多元安定機構の連絡員が立っていた。今度は女性だった。短い髪を後ろへ流し、外套の下に軽装の鎧を着ている。腰には短い杖と巻物筒があり、左腕には金属の腕章が付いていた。腕章には細い刻印があり、光を受けるたびに線がはっきり見える。

 

 連絡員の前には小さな台があり、その上に金属製の円盤が置かれている。円盤の中央から細い針が立ち、針先がわずかに揺れていた。揺れは風では説明できない。針の根元に埋め込まれた透明な石が乱れた調子で淡く光っている。

 

 連絡員は全員が黙るのを待ってすぐに話し始めた。

 

「観測器が局所的な位相の揺らぎを検出した。揺らぎは弱いが、消えていない。原因の痕跡が薄く、現時点では手口を断定できない。だが、裂け目が開く可能性が極めて高い」

 

 ホールの空気が一段と重くなる。裂け目という言葉は、どの世界でも同じ意味を持つ。そこから出てくる存在は、こちらが選べない。

 

 連絡員は地図を広げて指先で要所をなぞる。指は迷いなく動き、目的地を外さない。

 

「任務は三つだ。第一に、オリエンの転移室を最優先で守れ。第二に、避難民を転移室まで運ぶ道筋を切るな。第三に、各区画の防衛で崩れた部分を冒険者が埋めろ。シャーン・ウォッチを含む都市防衛部隊はすでに動いている。冒険者は穴に入って塞ぐ役目になる」

 

 連絡員はそこで言葉を切って視線を一人ずつに向けて告げる。

 

「ここは外からの増援が来にくい。エベロンの境界は厚く、道が細い。援軍が来るとしても、すぐには来れない。だからこの場にいる者が最初の波を受け止める」

 

 連絡員は唇を強く結び、顎の筋に力を入れた。怒鳴ってはいないが、苛立ちが動きとして見えた。彼女は地図の一点を叩いた。

 

「タヴィックズ・ランディングから転移室までの移動経路を確保する。転移室の外周は冒険者が担当する。メンティスの橋の防衛は別のパーティーが行い、コグの封鎖は市兵と混成で行う。空域誘導は飛行艇隊と連携する」

 

 ダレクは一歩前に出て声を張る。

 

「俺はダレク・ブレランドだ。こっちはミロ、フィア、セレナだ。四人で転移室の外周と、転移室へ入る列の誘導を引き受ける。パーティーへの指示は俺が出す」

 

 連絡員は頷いて答えた。

 

「了解した。転移室の内側の運用はオリエンが行う。外周の指揮はシャーン・ウォッチの隊長が持つ。現地では指揮系統の衝突を避けろ。状況が変わったら、観測器の係へ報告しろ」

 

 ホールの別の場所で、冒険者が装備を確かめ始めた。金属が擦れ、革紐が締まる音が広がる。普段なら報酬の話で声が上がる時間だが、今日は誰も大きく笑わず、互いの顔色と出入口を確かめるように視線が行き来していた。

 

 フィアはダレクの袖を引いた。声は小さいが、息がいつもより浅い。

 

「受付係は前金と危険手当が付くって言ってたけど、機構がここまで用意するのは珍しい。今回の依頼は、正直きな臭いよ」

 

 ダレクも同じ違和感を覚えていたが、フィアの表情を見て肩をすくめ、あえて軽い口調を作って返す。

 

「機構の連中が気前よくなっただけかもしれん。俺たちの宿代が溜まっているのを知って、先に払って黙らせたかったんだろう」

 

 彼の冗談めいた言い回しの後にフィアは首を振り、口の端を強く結んだ。

 

「私は勘で言っていない」

 

 彼女は以前、観測器の部材点検の委託で、多元安定機構の現地班に出入りしたことがある。そのとき機構は外部の耳がある場所では決まった符丁で連絡を回し、手配の段階を直接の単語にしない。点検の手順書にも、通信の文句は暗号化された例文で書かれていて、フィアは送受信試験のたびにそれを読まされた。

 

 フィアは視線だけでホールの奥を示し、声をさらに落とした。

 

「全部は聞き取れなかったけど、さっきあそこの職員が二人で話している内容を聞いた。私はあの言い回しを知ってる」

 

 フィアは息を吸い、聞いた言葉をそのままなぞる。

 

「『二十等級の手配は上げた。現場にはまだ言うな』」

 

 ダレクの眉がわずかに動き、笑いの形が消えた。

 

「二十等級……最上位の戦力か」

 

 冒険者の格付けは街や組合で呼び方が違うが、「二十等級」は多元安定機構が使う危険対応の尺度として知られている。そこに入るのは、長い戦歴を生き残り、個人で戦況を変える者だ。

 

 大隊が足止めする相手を一人で押し返し、伝説的な魔法や怪物と渡り合う。自分たちのような中堅冒険者パーティが全力を出しても、同じ舞台に立てない領域になる。

 

 フィアはうなずき、言葉を急がせた。

 

「二十等級を呼ぶつもりなら、機構はもう私たちだけでは受け止めきれない脅威を想定している」

 

「分かった」

 

 ダレクは短く答え、声をさらに低くした。

 

「だが、その話をここで広げるな。噂が先に走れば逆に現場が混乱する」

 

 フィアは唇を噛んで頷き、金属箱の留め具を確かめ直した。ミロは会話を遮らずに聞き、頭部をわずかに傾けてから、出口と窓の位置を順に見て戻す。セレナは一瞬だけ動きを止め、視線を落としてから、平静を作り直すように肩で息を整えた。

 

 セレナは自分の鞄を叩いて瓶の位置を確認した。手は止めず、声だけを出す。

 

「私は入口の横で、立ち止まる人を支える。護衛が列を作っても、怖くて足が止まる人が出るから。ミロは橋の欄干に索を回して、落ちそうな人を止めて」

 

「了解する。橋の支柱と欄干に固定具を設置する。索を張る位置は、人の流れの外側に置く」

 

 ミロは即答する。言葉は一定で、急がせるための誇張がない。周囲の冒険者の荒い呼吸や装備の擦れる音の中で、その平坦な声が妙に揺れずに残った。

 

 四人はホールを出た。転移室へ向かう道は、塔の縁に沿って下り、橋を渡り、再び別の塔へ入る。移動の間にも、都市は動いている。早朝の荷運びが始まり、空中馬車が通り、シャーン・ウォッチが巡回路を増やしている。

 

 上空では、元素を縛った飛行艇が塔と塔の間を低く周回していた。船腹を取り巻く《Elemental Ring(元素の輪)》の光が霧に滲み、甲板の射手が弩弓を構えて橋と上空を交互に監視している。推進の光が揺れるたびに、霧の輪郭がわずかに歪んだ。

 

 転移室の入口に着いたとき、オリエン氏族の紋章が視界に入った。紫の盾形の地に銀白色の一角獣の頭部が描かれ、下には家名を記した帯が添えられている。

 

 石造りの建物は塔の腹に食い込むように建ち、入口の両脇には護衛が立っている。護衛の鎧は揃っているが、表情は硬い。手は槍から離れず、視線は橋と空を交互に見ている。

 

 入口の手前にはシャーン・ウォッチの小隊が待機し、青い外套の隊長が笛を指に絡めて橋と周囲へ目を走らせていた。入口の柱の前ではオリエンの護衛隊長が護衛の立ち位置を確かめ、建物の影には多元安定機構の監視員が金属の円盤を据えて針の揺れを見ている。

 

 建物内で一人のウィザード──エリン・オリエンが床を見下ろしていた。彼女の名はクライフトップの仕事をしていれば耳に入る。戦場で前に出る者ではなく、移動と運用の責任を背負う者として知られている。

 

 エリンは深緑に金の縁取りのローブを着て、袖口を肘までまくっている。腰には小さな道具袋がいくつも下がり、指には家門の印が刻まれた指輪が光っていた。髪はきつくまとめ、一本も落とさないように留めている。視線は床の円に固定され、周囲の声にいちいち振り向かない。

 

 床には円形の刻みがあった。石を削った溝に金属が埋め込まれ、規則正しい符号が並んでいる。普段はただの床に見えるが、正しい手順で起動すると、別の場所へ通じる入口になる。恒久化された《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》だ。

 

 エリンは小箱を開け、銀色の粉を指先に取り、溝へ少しずつ落としていく。粉は風に舞わず、溝の中へ吸い込まれるように収まった。彼女は息を吸って短い詠唱を始めた。詠唱は一分ほど続く。詠唱の途中で止めれば、粉も手間も無駄になる。だから護衛が必要になる。

 

 入口の内側で、ダレクは護衛隊長へ向き直って声を掛ける。

 

「多元安定機構の要請でギルドから派遣された冒険者だ。四人で外周と、入口までの誘導の補助を受け持つ。避難民はどう流せばいい?」

 

 隊長は短く頷いた。

 

「転移室の前で人を止めないようにしてくれ。ここで詰まると、後ろから押されて落ちる危険が高まる。落下事故が起きれば、パニックで列が崩れて終わりだ」

 

 ダレクは頷いた。シャーンは高さが武器であり、同時に凶器でもある。落ちる場所が多すぎる。

 

 床の円が淡く光り始めた。溝の中の銀粉が光を反射し、符号が順に点灯する。空気が薄く揺れ、室内の匂いが一瞬変わった。汗と油の匂いの間に、雨上がりの石のような冷たい匂いが混ざる。風が無いのに、髪の毛がわずかに動く。転移が開く合図だ。

 

 エリンは詠唱を終え、手を止めずに右手の指を組み替えた。声は高くないが、室内に通る。

 

「十人ずつ順番に円の中を通れ」

 

 避難民が走り込む。床の円の中へ入った者から、光の向こうへ消えていく。消える瞬間に悲鳴を上げる者はいない。説明を受けたうえで、怖さを飲み込んでいる。

 

 そのとき、室内の空気が一瞬だけ重く沈んだ。耳の奥が詰まるように圧がかかり、石の床が細かく震える。塔の外から低い音が響き、金属の留め具が触れ合って小さく鳴った。

 

 入口の外へ視線が集まる。塔と塔の間の空に、細い黒い線が走った。線は煙ではない。雲でもない。線の周囲の光が歪み、黒い部分が奥へ沈んで見える。

 

 ダレクは剣の柄に手を掛けた。声を震わせないために息を整え、仲間へ指示を出す。

 

「ミロは橋の支柱に索を回して、人が滑ったら止めろ。フィアは入口の外で射線が通る場所を取れ。セレナは入口の横に立って、立ち止まる人を前へ動かし続けろ」

 

 黒い線はゆっくりと広がり、裂け目の縁が赤く光り始めていた。線は細いまま終わらず、空間そのものが左右へ引き裂かれるように開いていく。

 

 裂け目の縁の赤い光は一定ではなく、強くなっては弱くなり、そのたびに周囲の空気が引き寄せられたり押し返されたりした。内側はただの闇ではなく、濁った赤紫の奥行きが続き、冷えた風が橋の上へ吹き出して埃と紙片を巻き上げる。

 

 避難民の列がざわつき、誰かが喉の奥で短く呻く。シャーンではこの半年、裂け目の噂が絶えなかったが、多くは下層の路地やコグ──シャーンの地底深くに広がる産業・工業地帯──寄りに出現し、そこから出てくるものも少数だった。塔と塔の間、それも転移室の目の前で空が裂けるのは、誰も慣れていない規模だった。

 

 裂け目から最初に落ちたのは、粘液をまとった塊──ヘズロウだった。巨体が橋の石畳へ激突し、湿った音が塔間に反響する。跳ねた泥が欄干を越えて霧の中へ散り、腐敗臭が遅れて広がった。臭いは生臭さと腐った水のような刺激が混ざっていて、鼻の奥と目の粘膜を刺す。

 

 着地した個体が身を起こすと、避難民の数人が反射的に立ち止まり、咳き込みながら膝を折った。ヘズロウの膨れた腹が上下し、喉の奥で泡が鳴るたびに、粘ついた唾液が石畳へ落ちて目地に染み込んでいく。

 

「止まらずに転移室へ向かって歩き続けろ。走らなくていい。前の人の背中から離れるな」

 

 ダレクは声量を上げすぎないようにしながら、言葉の順番を揃えて通した。叫び声は恐怖を増やし、列の端を欄干へ寄せる。欄干に人が押し付けられれば、落下が始まる。護衛の槍が一斉に前へ出るが、手首が震える者がいる。腐臭が半径三メートルほどに濃く溜まり、息を吸うだけで喉が痛む。

 

 ミロはすでに欄干へ索を回し、結び目を締めるために金属の指を素早く動かしていた。固定具が支柱へ打ち込まれるたびに硬い音が鳴り、索が張り直される。橋の上で人が足を滑らせても、そのまま霧の下へ落ちないように線を作る動きだった。

 

 ヘズロウが腕を伸ばし、槍の穂先へ粘液を絡めて引き寄せようとした。槍兵の一人が嫌悪で手を引いた瞬間、隙間が生まれる。ダレクは迷わず盾を差し入れて受け止め、金属の縁が軋む音と衝撃を腕で受けた。足は石畳へ食い込ませ、押し返しながら剣を振る。刃が手首を切り裂くと黒い血が飛び、臭いがさらに濃くなる。

 

 背後で索が張った。ミロが補助索を引き、ダレクの腰に回した線が弛まないようにする。ダレクは体勢を崩さず、盾を押し込んで距離を作り、槍兵が刺し返せる幅を確保した。

 

 転移室の入口の脇では、セレナが列の横へ出すぎない位置で手を伸ばしていた。避難民が止まると、後ろから押されて転倒が連鎖する。転倒は欄干側の押し合いになり、落下につながる。セレナは子どもの肩を押して前へ送り、咳き込む老人の背へ掌を当てた。

 

「息を吐いてから、鼻で吸って」

 

 セレナの声は落ち着いているが、指先は早い。水筒を口へ当て、飲み込めないと判断するとすぐに聖印を握る。

 

「《Cure Wounds(傷治癒)》」

 

 淡い光が老人の胸元へ沈み、震えが少しだけ止まった。セレナは老人の肘を支え、列へ戻した。

 

 上空で、別の音が裂けた。羽ばたきが石壁に反射し、金属を擦るような甲高い鳴き声が降ってくる。裂け目から痩せた影が滑り出て、ヴロックが翼を広げながら塔間の空へ身を投げる。ヴロックの目は空域警戒に回っていた飛行艇へ向き、爪を開いて急降下の角度を作っていた。

 

 飛行艇の甲板で射手が弩弓を連射し、合図係が角笛を鳴らして回避の合図を出す。矢は霧を裂いて飛ぶが、ヴロックは翼で弾くようにして速度を落とさず、船腹へ一直線に迫った。操縦士は《Elemental Ring(元素の輪)》の出力を絞って船体を傾け、塔の外壁へ寄りすぎないように旋回する。帆と外板が軋み、推進の光が揺れた。橋の上の槍では届かない距離だ。

 

 フィアは歯を食いしばり、石畳へ膝をついた。寝癖の残る髪のまま金属箱を開き、膝の横の空いた地面に折り畳まれた《Eldritch Cannon(魔導砲)》を置く。フィアが魔力を流すと、金属片がひとりでに跳ねて噛み合う。三本の脚が伸びて自走できる小型の砲台がその場で形を取る。砲口が上へ向き、彼女は符号をなぞって砲身の内側に光を溜める。

 

「……空を取られたら終わりだ。押し返すよ」

 

 圧縮された力場の弾が発射され、空を切る音が一拍遅れて響く。弾はヴロックの胸へ当たり、翼が不自然に捻れた。ヴロックは急降下の線を外し、飛行艇の脇をかすめて塔の外壁へぶつかる。石が欠け、粉が霧へ落ちる。飛行艇は距離を取り、飛行艇の誘導係が手旗を振って高度を上げる。甲板の射手が追い矢を放つが、霧の中には別の影が旋回している。

 

 遅れて、塔の外壁に別の影が貼り付いた。バルルグラが指を石へ食い込ませ、筋肉を盛り上げて体を引き上げる。次の瞬間、腕が補強材へ伸び、金属のボルトを掴んで捻り折った。橋の支点がわずかに沈み、石畳が揺れる。列の端から悲鳴が上がり、何人かが反射的に欄干へ手を伸ばした。

 

 ミロが外壁側へ踏み出す。ミロは索を一本切り離して鉤を投げ、バルルグラの登攀路に引っ掛けた。鉤が補強材を噛むと、ミロは体重をかけて引き、登る腕の動きを鈍らせる。バルルグラは苛立ったように拳を振り、索を裂こうとするが、金属線はすぐには断たれない。

 

「ダレク、橋の支点が削られている。揺れが増える」

 

 ミロの声は一定だったが、内容は重い。ダレクはヘズロウの腕を盾で受け止めながら視線を走らせ、入口側のシャーン・ウォッチの隊長へ声を飛ばした。

 

「隊長、列が欄干に寄っている!二列にした方がいい!」

 

 シャーン・ウォッチの隊長が歯を食いしばって頷き、笛を鋭く鳴らした。合図に合わせて兵が動き、前列の後ろへ槍が並び直される。列の端に寄っていた避難民へは、盾を持った兵が肩を押して中央へ戻した。

 

 橋の向こう側から別の冒険者パーティーが駆け込み、ヘズロウの側面へ《Magic Missile(魔法の矢)》を放った。光の矢が狙いを違えず同時に側腹へ叩き込まれ、粘液が白く弾け、分厚い肉が揺れる。ヘズロウが怒りの呻きを漏らす。礼を交わす余裕はなく、彼らはそのまま次の標的へ向かった。

 

 転移室の中では、エリンが詠唱の手順を崩さずに周囲の変化を拾っていた。《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》は、詠唱を終えた後に数秒間のみ開く。その短い時間に人を通し、すぐに閉じてから次の一分の詠唱に入るのが基本だが、今日は円陣の光が立ち上がる瞬間に揺れが混じり、符号の点灯がわずかに乱れる。

 

 エリンは転移が開く秒数を伸ばすことができないと知っているからこそ、通す人数を減らす判断をした。多くを詰め込めば誰かが躓き、円陣の縁に引っ掛かって次の詠唱が中断される。

 

「次は五人よ。走らずに円の中へ移動して」

 

 エリンの声が室内の護衛に通る。護衛は五人の肩へ順に手を置き、床の円が開いたときに短い距離を走らせた。最後の一人が光の向こうへ消えると同時に入口がしぼみ、彼女は胸の上がる音を押さえ、次の詠唱へ入る。息を整える余裕はない。

 

 入口の外では、多元安定機構の監視員が観測器の円盤へ身を寄せていた。針は小刻みに震え、透明な石の光が規則性を失って明滅する。監視員は裂け目の縁と橋の上の動きを交互に追い、シャーン・ウォッチの隊長のそばへ半歩寄った。

 

「デーモンの動きが揃いすぎています。橋を揺らす個体が先に支点へ行って、飛ぶ個体は上空の警戒を散らしてから戻ってくる。目についた相手へ突っ込むばかりではありません」

 

 隊長は唇を引き結び、槍兵の列と避難民の流れを一度に見渡した。

 

「分かっている。こっちの弱いところを先に嗅ぎ分けているみたいだ」

 

 監視員はそれ以上言葉を重ねず、観測器の針の揺れを指先で覆うようにして読み直した。隊長は笛を口へ当て、短く合図を鳴らして自分の部下を動かす。二人が言葉を交わしている間にも、裂け目から吹き出す冷たい風は強まり、橋の石畳の埃を入口へ押しつけていた。

 

 ヘズロウが槍の列へ突っ込み、前列の槍が折れて兵が後ろへ弾かれる。避難民の列が揺れ、足が止まりかけた。セレナは転移室の入口の横から飛び出し、倒れた兵の腕を掴んで引きずり込む。円陣の縁から外れた場所へ寝かせ、傷口へ布を押し当てた。血が布を濡らし、指の間から滴る。

 

「目を閉じないで。私の声を聞いて。息をして」

 

 セレナは相手の視線を繋いでから、もう片方の手で聖印を握る。

 

「《Healing Word(癒しの言葉)》」

 

 小さな声と同時に出血が弱まり、兵の焦点が戻る。セレナは立ち上がり、列へ向けて腕を広げた。

 

「止まらないで。私が道を空けるから、前へ進んで」

 

 橋の中央では、ダレクが盾でヘズロウの腕を受け止め、槍の列と別の冒険者が押し返して時間を稼いでいた。ミロは外壁側へ伸ばした索を固定具に預け、張力を残した状態で入口側へ戻って、欄干沿いの索を締め直していた。

 

 そのとき、列の端の動きが不自然にねじれた。避難民の流れに逆らって、壁際へ寄る男が二人いる。下層の作業着に見えるが、腰の袋だけが不釣り合いに膨らみ、視線が落ち着かない。壁際の男の一人がしゃがみ込み、袋から黒い欠片を取り出して、石の継ぎ目へ押し込もうとした。

 

 セレナは喉が締まるのを感じながら声を上げた。

 

「駄目……壁から離れて!その二人を止めて!」

 

 セレナの声は裂け目の風にかき消されかけたが、近くの護衛が反射的に振り向いた。壁際の男が欠片を目地へ押し当てた瞬間、欠片の表面に赤い縁の光が走り、その光が細い筋になって石の奥へ沈む。男は自分の手元を見て顔色を変え、立ち上がって紛れようとした。

 

 もう一人の男は肩をすぼめて避難民の列へ突っ込もうとした。ここで押し合いが起きれば、足元をすくわれるのは前にいる子どもや、体が追いつかない老人になる。

 

 ミロが入口側の欄干から壁際へ踏み込み、金属の手で欠片を押し込んだ男の手首を掴んだ。男は「離せ!」と叫び、肘で突こうとする。しかしミロは体勢を崩さずに手首をひねり、男の肩と頬を床へ押さえ込んだ。男の指から黒い欠片が落ち、石畳に当たって硬い音を立てる。欠片の赤い光は、落ちた拍子に一瞬だけ脈打ってから途切れた。

 

 ダレクは橋の中央でヘズロウを押し返す感触を確かめ、槍の列が視線を引きつけている隙に入口側へ数歩走った。彼は列へ突っ込もうとした男の進路へ盾を滑り込ませ、盾の縁で足を払う。男が転ぶと同時に袋が開き、同じ黒い欠片がいくつも石畳へ転がった。角が揃い、厚みも似通っている。偶然拾った石ではないと見ただけで分かった。

 

 ダレクは自分が転ばした男の胸元へ片膝を落として動きを止め、鋭く問い詰める。

 

「何をしようとした。その欠片はどこで手に入れた」

 

 男の呼吸が乱れ、唾が喉に引っ掛かった。男は否定しようとして言葉を噛み、首を振るばかりで時間を稼ごうとする。だが、次の瞬間に声が裏返った。

 

「俺は……俺は、やりたくなかった!でも、断ったら……!」

 

 その返しで、ダレクは裏に誰かがいると判断した。彼は問いを切り替え、必要な情報だけを引きずり出す。

 

「誰がやれと言った。どこで会った。顔は見たのか」

 

 男は目を泳がせ、歯を鳴らしながら首を振った。

 

「分からない!顔は布で隠してた!声だけだ!」

 

 壁際でミロに押さえ込まれている男も、床に頬を押しつけられた体勢で喉を震わせた。言葉は途切れ途切れで、必死さが先に出る。

 

「家族を取られたんだ!下層の部屋に、女房と子どもがいるって分かってるって……!言うことを聞かなかったら、戻れないって!」

 

 転んだ男も、涙と汗で顔を濡らしながら叫ぶ。

 

「俺も同じだ!逃げたら先に殺すって言われた!それに、逆らおうとすると頭の中が締め付けられて、息ができなくなるんだ……!」

 

 言い訳にしては切迫しすぎていた。脅しだけではなく、恐怖と痛みで判断を鈍らせる何かが仕込まれている可能性があるとダレクは感じ取ったが、詳しく聞く時間はない。ダレクは視線を護衛へ投げ、状況を切るように指示した。

 

「この二人を縛れ。口を塞いで柱の内側へ移動させろ。列には戻すな」

 

 オリエン護衛が駆け寄り、ミロが押さえた男の腕を背中へ回して縄を掛ける。別の護衛は、ダレクが押さえ込んでいた男の手首に縄を回し、結び目を強く締める。

 

 男たちは抵抗しながらも「頼む、家族を……!」と叫び、もう一人は喉を潰すような声で「俺は言われた通りにしただけだ!」と繰り返した。護衛が布で口を押さえると、言葉は濁った呻き声に変わり、泣き声が戦闘音の隙間に残った。

 

 護衛が二人を内側へ引きずり込んだのを見届けると、ダレクは盾を拾い直し、橋の中央へ踵を返した。ミロも床の欠片を踏まないように一歩退き、入口側の索を締めた固定具を確認してから、外壁側へ残した索の張りへ意識を戻す。

 

 そして床に残った欠片を見て、オリエンの護衛が顔を引きつらせた。

 

「これは……《Khyber Dragonshard(カイバー・ドラゴンシャード)》だ。しかも切り口が揃いすぎている。誰かが目的に合わせて削っている」

 

 《Khyber Dragonshard(カイバー・ドラゴンシャード)》──カイバーと呼ばれるエベロンの地底に広がる地下世界の深部で採れる黒い結晶だ。捕縛と封印に適した性質を持ち、魔法の力や異界の存在を閉じ込める器、あるいは束縛の術式の焦点として用いられることが多い。

 

 護衛が顔色を変えたのは、欠片が目地に噛み合う形へ薄く削られ、さらに表面の一部に細い刻みと黒い粉の擦り込みが見えたからだった。偶然の持ち込みではなく、用途を決めて加工した痕跡が残っている。

 

 多元安定機構の監視員が欠片を拾い、観測器の透明な石へ近づける。円盤の針が跳ね、透明な石の明滅が裂け目の赤い縁の脈動と重なった。監視員はすぐに手を引いたが、針の震えは収まらない。

 

「欠片そのものではなく、刻みと粉の処理が原因です。ここから裂け目の縁と同じ周期の揺れが出ています。目地に仕込まれると、裂け目が安定するかもしれません」

 

 監視員は断定を避けたが、声の速度が上がっていた。オリエン護衛隊長は舌打ちし、護衛へ怒鳴る。

 

「今の継ぎ目を押さえろ!床に落ちた欠片は全部回収して封をしろ!列の中で同じ物を持っているやつがいないか、手と荷袋を見張れ!」

 

 護衛が二人、壁際へ走った。一人が短い鉄のへらを石の継ぎ目に差し込み、押し込まれた欠片を少しずつ浮かせる。もう一人は布を広げて受け止め、欠片が転がって列の足元へ入らないように包み込んだ。

 

 欠片が抜けた瞬間、目地に赤い縁の光が細い筋として走り、観測器の針が大きく跳ねる。裂け目の脈動が止まることはないが、縁の光が一拍だけ弱まり、息をするような明滅が乱れた。機構の監視員はその変化を見逃さず、唇を噛んだ。

 

 床に散った欠片も回収される。護衛は布で包んだ欠片を鎖付きの袋へ入れ、袋の口を二重に縛って柱の陰へ運ぶ。拘束された男たちは目隠しをされ、奥へ押し込まれながら肩を震わせていた。

 

 セレナは避難民の列へ両腕を広げて道を作った。泣き声や叫び声に引かれて足が止まれば、押し合いが始まり、押し合いは落下に変わる。

 

「転移室へ入る人は進んで。荷物は見えるよう持って、道の真ん中を歩いて」

 

 セレナの声は震えていたが、言葉は途切れなかった。オリエンの護衛も列の端へ寄ろうとする者の肩を押し、中央へ戻す。護衛の一人は壁際へ立ち、継ぎ目に手が伸びるたびに槍の柄で制止する。

 

 橋の上では槍の列が二列で、前列が押されても後列が腹へ刺せる形を保つ。フィアの《Eldritch Cannon(魔導砲)》が唸り、力場の弾がヘズロウの肩を押し戻すたびに、巨体は欄干側へ寄った。ヘズロウは粘液を撒き散らして踏ん張り、石畳は油を塗ったように滑りやすくなる。ミロは索を引き、滑った避難民の腰を止め、転倒が連鎖しないように支え続けた。

 

 ヘズロウが再び突っ込もうとした瞬間、フィアが声を震わせながら叫ぶ。

 

「今だよ!押し出す!」

 

 力場の弾が肩を叩き、巨体が横へよろめいた。ダレクは盾で体勢を崩してから間合いへ踏み込み、剣を腹へ深く入れる。刃が抜けた瞬間、傷口から噴き出した黒い血が石畳で泡立ち、灰色の湯気へ変わった。

 

 湯気は風下へ散るのではなく、裂け目へ向かって細い筋になり、見えない糸に引かれるように流れていく。巨体そのものはその場で潰れ、粘液と肉の塊が押し潰された泥のように広がったが、湯気が重力を無視して橋の上を滑った。

 

 それを見たシャーン・ウォッチの隊長が、槍を握ったまま驚愕の声を漏らす。

 

「待て……煙が、石に落ちない。裂け目へ行くぞ」

 

 オリエン護衛隊長は残骸から視線を外さず、喉の奥を鳴らすように短く返した。

 

「地下で相手にしてきた連中なら、こういうときは足元に沈む。ここまで露骨に引かれるのは見たことがない」

 

 エベロンで「デーモン」と言えば、まず地下を思い浮かべる。カイバーの地下に広がる迷宮には閉じ込められた魔物の巣が点在する。シャーンでは小規模な裂け目が開くたび、そこから這い上がってくる脅威に備えてきたし、倒したあとの挙動も経験則になっていた。血や魔力の残りは石の目地へ滲むように弱まり、最後は地の奥へ引かれるように消えていく。

 

 しかし今は逆だった。灰色の筋が裂け目へ吸い寄せられ、橋の上に残るのは湿った肉と粘液だけだ。

 

 多元安定機構の監視員が観測器の円盤を抱えるように近づき、二人の耳元へ声を落とした。短い息の合間に、言葉を絞り出す。

 

「いまの消え方はこちら側の戻りではありません。波形が……カイバーの位相から外れています」

 

 シャーン・ウォッチの隊長が監視員を睨む。目の前で「外れている」と言われても、意味がすぐには繋がらない。

 

「外れるって、どこへだ」

 

 監視員は一拍ばかり迷い、視線を裂け目の赤い縁へ滑らせた。迷いは恐怖ではなく、現場を混乱させないための躊躇だ。

 

「エベロンの外側、恐らく奈落です」

 

 オリエン護衛隊長が反射的に口を噤む。次の瞬間、顎を引いて裂け目を見上げた。耳に入った単語の重さが、体の動きに先に出た。

 

「奈落……そんな場所が、ここに触るのか」

 

 奈落は外の世界の一つだ。カイバーのように地の下に続く迷宮ではなく、別の位相にある領域で、エベロンの暮らしの中では名前のみが伝わる程度だった。普通なら空にかかるシベリスの環が外側の干渉をずらして弾くと教えられている。その前提の上で世界は成り立っている。

 

 監視員は言葉を続けた。声は小さいが、焦りが隠せない。

 

「この揺れ方は、環の内側の歪みだけでは説明がつきません。外から接続されている可能性が──」

 

 彼の声が、最後の一語に届く前に断ち切られる。

 

 裂け目の奥から息継ぎのない絶叫が突き抜けた。声の端に硬いものが擦れ合う高い鳴りが混じり、人間の叫びのような呼気の音がない。音は空気そのものを押し、橋の石畳を震わせ、鎧の留め具と槍の金具を一斉に鳴らす。避難民の何人かが反射でしゃがみ込み、両手で耳を塞いだ。息を吸った者は咳き込み、喉の奥を押さえてうずくまる。

 

 監視員も言葉を続けられず、観測器へ片手を突いて体を支えた。透明な石の光が乱れ、円盤の針が一度大きく跳ねてから、小刻みに震え続ける。

 

 叫びが引いた直後、上空の霧が裂けた。飛行艇の旋回線の外側、塔と塔の間の空に、別の黒い線が走り、赤い縁がにじむように広がる。

 

 そこから飛び出したのは、フレイムスカルの群れだった。骨だけの頭が火をまとい、眼窩の奥が赤く点り、火の粉を尾のように引いて浮遊する。近づくたびに炎が小さく爆ぜ、乾いた骨が擦れる音が混じる。熱で霧が薄く揺らぐ。

 

「頭が燃えている……飛ぶぞ!」

 

 橋の上の兵が叫ぶのと同時に、飛行艇の甲板が動いた。

 

 船腹の弩砲が軋みながら上を向き、太い矢が霧を割る。甲板のワンド射手は欄干へ身を預けるようにして狙い、短い詠唱で火線を走らせた。火線がフレイムスカルの一つを叩くと、炎が乱れ、頭が回転して霧へ落ちかける。操舵手は舵を切り、船を上へ逃がそうとした。《Elemental Ring(元素の輪)》が青白く光り、船体が風を掴んで持ち上がる。

 

 しかしフレイムスカルは散らばらない。群れは一点に集まり、飛行艇の帆の縫い目、外板の継ぎ目、索具の結び目へ張り付いた。火が布へ移り、麻の索へ移り、油を含んだ木へ移る。さらに数体が船体の要所へ《Fireball(火球)》を叩き込む。外板の内側で爆ぜる鈍い音が続き、甲板の兵がよろめいた。

 

 制御環の光が一段と強くなり、輪が震えた。飛行艇が一瞬だけ姿勢を崩し、船首が下へ落ちる。

 

「避けろ!」

 

 叫びが終わる前に、飛行艇の腹が白く閃く。《Elemental Ring(元素の輪)》が甲高い音を立て、次の瞬間、船体が内側から破裂した。

 

 爆発の火が甲板を包み、帆が燃え上がる。飛行艇は炎上したまま姿勢を失い、霧の下へ墜ちていった。燃えた帆布と外板の木片が降って橋の上に火の粉が散る。橋の上の兵が伏せ、避難民が悲鳴と咳を漏らしてしゃがみ込む。列が一瞬だけ押し合いになり、槍兵が声を張り上げて立て直した。

 

 フィアは火の粉を袖で払って腰のホルスターから短銃の形をした《Arcane Firearm(秘術火器)》を抜いた。射線が混み合う場所で《Eldritch Cannon(魔導砲)》を撃てば、弾が避難民へ当たる危険がある。

 

 彼女は狙いを絞り、橋の上へ落ちてきたフレイムスカルを撃ち抜く。光の弾が眼窩へ入り、火が内側から弾ける。頭蓋骨は空中で止まり、石畳へ転がって火を撒いた。

 

 ミロは爆発の衝撃で列が揺れる前に、欄干側の補助索を引き切った。索が張って避難民の腰を受け止め、よろけた子どもが霧の下へ吸い込まれるのを防ぐ。次に落ちてきた燃えた帆布を金属の手で掴んで石畳から引き剥がす。布の端が燃え移っていたが、ミロは躊躇しない。欄干の外へ投げ捨てて火が列の足元へ回らないようにする。

 

 セレナが転移室の入口で火傷を負った男の肩を抱えて壁際へ寄せた。男は震えて立ち止まり、後ろの列が詰まりかける。セレナは男の顎を上げ、視線を繋いでから短く言った。

 

「息を吐いて。次に私の合図で一歩だけ前へ出して」

 

 セレナは聖印を握り、傷口へ掌を押し当てる。

 

「《Cure Wounds(傷治癒)》」

 

 淡い光が皮膚の赤みを抑え、男の指の震えが僅かに収まった。セレナは男の背中を押し、列の流れへ戻す。回復は十分ではないが、立って歩かせるには足りる。

 

 上空から落ちた燃える頭蓋骨の一部が、転移室の入口へ向かって滑空してきた。火の粉が入口の柱へ当たり、木の扉の縁が焦げる。槍兵が突こうとするが、刃が当たっても骨は砕けにくい。別の頭蓋骨は間合いを選び、避難民の上へ落ちようとする。

 

 セレナは一歩前へ出て、聖印を胸の前へ掲げた。声は大きくないが、発音が明確で祈りが途切れない。

 

「《Turn Undead(アンデッド退散)》」

 

 空気が一度だけ押し返される。燃える頭蓋骨の群れが、入口の手前で引き戻され、火の尾が反転した。槍兵がその隙に槍を揃え、押し返された個体を壁際へ追い込む。

 

 転移室の中では、エリンが詠唱を崩さずに指を組み替えた。煙が入口から流れ込み、銀粉の匂いに焦げが混ざる。エリンは顔をしかめ、声を落とさずに告げた。

 

「次は八人。走らないで順番に通れ」

 

 《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》が開く数秒の間に八人が消えて、すぐに閉じる。次の一分が始まった直後、転移室へ伝令が駆け込んだ。

 

 伝令の顔は灰で汚れて息が荒い。彼の足は止まらず、視線が何度も入口の外へ泳ぐ。口が先に動き、報告が途切れそうになる。

 

「別の塔の連絡路で、人が目を開けながら倒れて……起き上がりました。胸の肋骨が剥き出しの背の高いやつが、倒れた人間を引きずっていきます!」

 

 伝令は喉を鳴らして言葉を継ぐ前に、自分の目を指で押さえてから掌を外へ払った。見られた瞬間に倒れたという身振りだ。

 

「それと、黒い皮だけの痩せたやつがいます。あいつが顔を上げたら、兵が声も出さずに倒れました!」

 

 多元安定機構の監視員はそこまで聞くと、説明の続きを待たない。彼はシャーン・ウォッチの隊長とオリエン護衛隊長を同時に見て告げる。

 

「ボダックとディヴァウラーです」

 

 シャーン・ウォッチの隊長は名前で即座に繋がらず、眉を寄せる。だがオリエン護衛隊長は顎を引き、入口側へ護衛の配置を寄せた。セレナは聖印を握り直し、唇を固く結ぶ。

 

 監視員は現場の言葉へ落として説明する。

 

「黒い皮だけのやつは視線のみで人を殺し、胸の肋骨が剥き出しの背の高いやつは、倒れた者を胸の中へ取り込み、アンデッドに作り替えます。殺された数だけ敵が増える。死者を増やす大公──オルクスの常套手段です」

 

 シャーン・ウォッチの隊長は唾を飲み、笛を握る指に力を込めた。死者が出た瞬間に戦線が増える。それが連鎖すればシャーンは完全に陥落するだろう。

 

「連絡路を塞げ。倒れた者をその場に残すな。二人一組で引き上げろ。勝手に近づくな!」

 

 シャーン・ウォッチの隊長の笛が短く鳴り、兵が散る。オリエン護衛隊長も護衛へ指示を飛ばす。

 

「入口の外へ死体を置くな。通路へ引き込まれたら、次に出てくるのは人間ではない!」

 

 その間にも、橋の上では火が増える。飛行艇の破片が石畳の目地に刺さり、煙が霧と混じって流れる。咳き込みが連鎖し、避難民の歩幅が縮む。止まりかけた列をセレナが押し戻し、ミロが索で支える。フィアは《Arcane Firearm(秘術銃)》で燃える頭蓋骨を一つずつ落とす。

 

 燃える頭蓋骨が密に固まった瞬間、フィアは位置を変えた。石畳の上の火を避け、柱の影へ移動し、短い詠唱で両手を振り下ろす。

 

「《Shatter(破砕)》」

 

 空気が割れたような衝撃が走る。群れの中心で火の尾が乱れて頭蓋骨がばらける。砕けた骨片が石畳に跳ね、炎が一瞬だけ弱くなる。撃破ではなく、通路を数秒空けるための手だ。

 

 監視員は観測器を抱え込み、針の動きと遠方の赤い光を見比べた。霧の向こうの塔間でも、細い線が増えている。赤い縁が点って消えずに残る。

 

「裂け目が増えて、位置が散らされています」

 

 彼の声が硬くなると同時に、裂け目の赤い縁が、脈打つばかりではなく規則を持ち始めた。強くなり、弱くなりを繰り返す間隔が揃い、風の吸い込みも一定になる。石畳の埃が同じ方向へ流れて血と粘液の匂いが裂け目へ引かれる。

 

 橋の上のデーモンたちの動きも変わる。ヴロックは無駄に旋回せず、バルルグラは爪を振り回して暴れるのではなく、支点へ向かう道を確保する。低い唸りが重なり、間合いが整えられていく。

 

 監視員が呟いた。

 

「……来ます」

 

 裂け目の奥から号令に近い声が響いた。意味が分からなくても、命令だと分かった。槍兵の一人が息を飲み、足が半歩下がる。

 

 赤い縁がさらに開いて影が押し出されるように現れた。

 

 出てきたのは、他のデーモンより明らかに大きい個体だった。頭が二つあり、片方は狼の顔で牙をむき、もう片方は長い首の先で蛇のように動く。右手にはモーニングスターが握られ、左手の爪が開いている。足が石畳へ触れた瞬間、石が小さく砕けて鉄臭さが広がった。

 

 監視員が声を絞り出す。

 

「モリデウス……」

 

 シャーン・ウォッチの隊長はその名を知らない。オリエン護衛隊長も同じだ。それでも二人は、監視員の声が震えを抑えた硬さになっていることと、デーモンたちが一斉に動きをそろえたことで、危険の質が変わったと理解した。

 

 多元安定機構の資料では、モリデウスは固有名より先に「災厄級」として記録されている最上位個体の一つだ。デーモンロードが軍勢から最も献身的な眷属を選び、その眷属に耐え難い苦痛を与えて造り替えた存在とも言われている。

 

 モリデウスが振るう武器は仕えるデーモンロードによって異なり、その姿が主人の性質を映し出す。目の前の個体が握るモーニングスターは、オルクスの配下を示す形だった。

 

 この個体のモーニングスターは鎧ごと骨を砕く。運が悪ければ首が離れるまで振るわれる。蛇の頭の咬傷は生者の生命力の上限を削り、削り切れば魂ごと奈落へ落ち、最下級のデーモンへ落とされると記されていた。さらに、魔法を打ち消し、距離を無視して移動し、霧や幻に紛れた相手も見失わない。

 

 近くの冒険者パーティーの一人が顔色を失い、槍の二列の内側へよろめいて下がった。男は魔導長銃の銃床を胸に押しつけた体勢で固まり、引き金にかけるはずの指が空を掻く。銃口は小刻みに揺れ、狙いが定まらない。

 

 男は以前、多元安定機構の輸送に雇われ、界を渡る船の甲板で護衛をしたことがある。航路の先で、二つの頭を持つ奈落の処刑人が現れ、武装した護衛たちを短い間合いで惨殺した。男は遠目に見ただけだが、その輪郭を忘れられない。

 

「聞いてねぇ……あれが来るなんて聞いてねえ……!」

 

 男は息を吸えなくなり、反射で入口側へ逃げようとした。男の肩が避難民の列の先頭に当たり、女がよろけて欄干へ手を伸ばす。

 

「契約の話と違う!あれは二十等級案件だ!冗談じゃねえぞ!」

 

 ダレクは盾を前へ押し付けながら腰を落とし、列の端を外さない角度で横へ踏み替えた。彼は右手で男の胸当てを掴み、槍の列の内側へ強引に引き戻す。ダレクは男の背を入口の柱の陰へ押しつけ、避難民の流れから切り離した。

 

「逃げたいならまず道を空けろ。今ここで人を倒したら、落ちるのは子どもだ」

 

 男は返事をしない。呼吸が乱れ、唾が口の端から飛ぶ。膝が笑い、肩が震えたまま視線が裂け目へ戻る。

 

「俺は……前に見たんだ。俺たちじゃ相手にならない……皆、死ぬ……!」

 

 ダレクは男の襟を離さず、声を低くして言い切った。

 

「震えるなら柱を掴め。動けるなら列を押すな。ここを塞げば全員が詰む」

 

 男は歯を鳴らしながら柱へ手を伸ばし、やっとその場に留まった。落としかけた長銃を抱え直すが、指はまだ硬い。

 

 モリデウスは二つの頭を左右へ動かし、橋の上の槍の間隔と、入口側の人の密度を数えるように視線を滑らせる。

 

 多元安定機構の監視員が腰のホルスターから護身用の魔導短銃を引き抜いた。金属の筒が冷たい光を返し、銃口が橋の上をなぞる。監視員は息を一度だけ吸い、前線と入口の両方へ届く音量で言葉を通した。

 

「我々は既に増援を要請済みです。来るまで持ち堪えてください!」

 

 監視員が言い終えるより早くシャーン・ウォッチの隊長は前へ出る。青い外套の裾がはためき、隊長は槍を握り直して前列の隙間へ身体を滑り込ませる。槍の穂先が揃い、兵の肩が押し上がった。

 

「聞いたな!持ち堪えろ!列を崩すな!」

 

 オリエン護衛隊長も腰の左右の鞘から湾刀を抜き、入口と橋の間に立った。二振りの湾刀が地面の火の粉をはじき、護衛の視線が隊長へ集まる。隊長は右の刃を外へ向け、左の刃で入口側を示して短く命じる。

 

「オリエンの名にかけて、ここを死守せよ」

 

 ダレクは盾の縁を握り直し、仲間へ目配せした。フィアは《Arcane Firearm(秘術銃)》の照準を橋面へ切り替え、《Eldritch Cannon(魔導砲)》の位置を半歩ずらして射線を空ける。

 

 ミロは索を固定具へ噛ませ、留め具を締め切って張りを預けた。両手が空くと、彼は背の大槌の柄を両手で握って重い頭を引き抜いて欄干側へ回った。セレナは聖印を胸元へ押さえながら腰の戦棍を抜き、入口の横で人と敵の間に身体を入れる。

 

 監視員の短銃が一発だけ乾いた音を立て、橋面へ近づいた燃える頭蓋骨が弾かれて霧へ落ちた。兵の槍がその隙に前へ出る。

 

 モリデウスは裂け目を完全に踏み越え、橋の中央寄りへ二歩進んだ。モーニングスターの棘が石畳を削って火の粉を散らし、重い槌頭が転移室の入口を指し示す。配下のデーモンたちが、主の足音に合わせるように四肢へ力を入れた。

 

 長い首の頭が、奈落語で短く命令を叩きつける。

 

「Zhur'khor rava. Khar-khor shath(転移の輪を折れ。環の内側を押さえろ)」

 

 声に周囲のデーモンたちが呼応する。ヴロックが翼を広げて金切り声を上げ、バルルグラが胸を叩きながら地面を踏み鳴らし、ヘズロウは身を低くして突進の間合いを測った。

 

 モリデウスは標的を指し示すようにモーニングスターを前へ突き出す。蛇の頭が次の命令を吐く。

 

「Dath zhor. Ghur'vash na ila'ra-keth dhur(死体を積め。女神の刻印の土へ門を伸ばせ)」

 

 多元安定機構の監視員は「ila'ra-keth dhur」という言い回しを聞き取り、最近の報告で触れられた「封じられた女神の界」を連想して喉を強張らせた。

 

 狼の頭が大きく口を開け、裂け目から吹き出す冷気を吸い込む。次に吐き出された言葉は、突撃の合図だ。

 

「Orcus krazh. Sharn dath'gul. Gor'thak!(オルクス様の名のもとに。シャーンを屍の足場にしろ。鏖殺だ!)」

 

 ヴロックが喉を裂くような声で奈落語を叫ぶ。

 

「Gor'thak! Gor'thak!(鏖殺!鏖殺!)」

 

 バルルグラが牙をむき、拳で胸を叩いて吠えた。

 

「Dath zhor!(死体を積め!)」

 

 ヘズロウは粘液を垂らし、泡の鳴る喉の奥から言葉を押し出す。

 

「Sharn dath'gul!(シャーンを屍の足場に!)」

 

 叫びは歓声ではなく号令になり、橋の上のデーモンたちが一斉に踏み込む。絶望と破壊の群れが押し寄せた。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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