ネオセリッドの黒い塊が地面へ沈み込み、最後に泡が弾ける音ばかりを残して消えた。耳に残っていた金属音と悲鳴が遠のき、代わりに低い音が場を満たす。酸の蒸気が岩の割れ目から漏れ、しゅうという湿った音を立てる。
東の荒地の岩場は夕日の角度が低く、赤い光が岩肌の凹凸を強く浮かび上がらせる。遠くで村人を誘導する声が、風に裂かれて細く届いていた。
ゼンゼは地面に突き立てていた髪をほどく。槍の形に固めていた束が解け、濡れた紐のように重く垂れた。先端についた粘液を振り落とし、髪の根元から順に張力を戻す。髪を地面すれすれに走らせ、岩陰の狭い隙間へも滑り込ませ、動くものがいないことを一つずつ確かめる。
少し離れた岩陰で、ヴィアベルが片目を押さえていた。指の間から赤が滲み、頬へ落ちる。彼は荒い呼吸を整えながら、身体だけは岩に預けたまま視線を外へ投げる。他に伏兵がいないか、あの黒い塊のようなものが残っていないかを見張っていた。
上空ではタヴが風の中心にいた。円筒状の風の壁が彼の周囲に立ち、砂と枯れ草を巻き上げる。彼は左手のクォータースタッフを肩の後ろへ回し、背の革帯へ差し込んで固定した。風は地面の二人を叩かないように外側へ逃げているが、近づけば声は掻き消える。
白い月光の残り香をまとった女の騎士が、酸で焦げた地面の一角へ歩み寄った。そこは、さきほどまで盾役が立っていた方向だった。彼女は剣先を静かに下げ、ほんの一拍目を伏せる。
「……ラエリエル。あなたは最後まで盾だった」
名が漏れると、ゼンゼの視線が女騎士へ向いた。彼女は一拍置き、確かめるように口を開く。
「それが……あの騎士の名か」
女の騎士は頷いた。顔を上げると、夕日が鎧の縁に淡い光を走らせる。彼女はゼンゼとヴィアベルを順に見た。目線は迷いがなく、戦場での手順を最後まで崩さない。
「緊急とはいえ、名を告げずに剣を振るった。礼を欠いたまま帰るのは、私のやり方ではない」
彼女は剣を胸の前へ戻し、短く名乗った。
「私はルナリエル。イーリストレイに仕える者だ。ラエリエルの最期は、私が主へ伝える」
ヴィアベルが片目を押さえながら、乾いた息で笑う。
「……今さら名乗りかよ。まあ、黙って消えられるよりはマシだ」
ルナリエルはその言い方を咎めない。むしろ、痛みを隠す態度を見抜いたように視線を留めた。
「その傷は早く診てもらったほうがいい。あなたの自分を後回しにしすぎる癖は、いつか命取りになる」
「余計なお世話だ。これぐらい一晩寝れば治る」
ヴィアベルは言い捨て、片目を押さえる手に力を込める。ゼンゼは言い合いに付き合わず、右手の薬指へ視線を落とした。白金の指輪が薄く鈍り、血と埃が縁に残っている。
ラエリエルが《Warding Bond(守りの紐帯)》のために渡した指輪だ。ゼンゼは指輪をゆっくり抜いて掌へ移し、ルナリエルへ差し出した。
「これを。ラエリエルの指輪だろう」
ルナリエルは視線で指輪を確かめ、首を小さく振る。
「それはあなたが持っていて。彼が渡したのは、あなたを守るためだ。私が受け取るものではない」
ゼンゼは受け取るのを躊躇するように眉をわずかに寄せるが、ルナリエルの表情が揺れないのを確かめると、ローブの内ポケットへ滑り込ませる。
ルナリエルは次に上空へ視線を上げた。肉声は風の音に持っていかれる。彼女はわずかに顎を引き、風の中心に向けて《Message(伝言)》を投げた。タヴの耳元に、風とは別の静かな囁きが落ちる。彼は上空で僅かに肩を揺らし、視線を地上へ返した。
「タヴ、戦いは終わった。あなたは自分の嵐に呑まれないように気をつけて」
タヴは上空でわずかに頷いたが、返事はない。彼は風の層を押さえ込みながら、こちらへ視線を落とすだけで手一杯に見える。
ルナリエルは最後にゼンゼへ向き直って告げる。
「どうかラエリエルの名を、忘れないでほしい」
ルナリエルはそれ以上、言葉を増やさなかった。彼女の役目は終わっている。剣を地面から離し、背筋を伸ばす。光が鎧の隙間から抜け、輪郭が薄くなる。足音が砂利の上から消え、最後に剣の光が一筋、夕日の眩しさに紛れた。
彼女の姿が消えた後、場はさらに静かになった。ゼンゼは髪を掌でまとめ、息を整えた。岩陰の奥、酸の溝、その向こうの斜面。ひと通りの確認を終えると、彼女は林へ降りる道の先、村人が退いた方角へ顔を向けて言う。
「避難場所へ向かおう。村人の安全を確認し、怪我人がいれば集める。それに、私たち自身も休息が必要だ」
ヴィアベルはゼンゼの提案に同意する。
「賛成だ。俺の魔力はもうすっからかんだ。ここで粘って次の襲撃を受けたら目も当てられねえ」
ゼンゼが斜面へ向けて歩き出し、ヴィアベルも岩陰を離れて続いた。二人が進路を定めたのを見て、タヴも上空で身体を横に流し、進行方向へ位置をずらす。風の縁が岩肌を叩き、砂が舞う。
林の手前までこの風を引きずれば、枝葉が大きく騒いで目立つ。ゼンゼは一度振り返り、タヴに向けて手を上げた。耳を指してから、掌を下へ向ける。地上へ降りられるかを確かめる合図だ。彼は首を横に振り、《Message(伝言)》をゼンゼへ向ける。囁きは風の轟音をすり抜け、耳の奥へ直接落ちる。
「魔力が俺の制御から離れているのか、風を止められない。地上に降りると風が散って、周囲を巻き込む危険がある。風が落ち着くまでは飛行を保つ」
ゼンゼは足を止め、上空を見上げた。髪の動きが止まり、眼だけが細くなる。彼女は口元を押さえて短く囁き返した。囁きは風に掻き消えず、タヴの耳へ届く。
「分かった。その高度を維持してくれ。目で追える距離を外さず、何か動いたら先に知らせてほしい」
ゼンゼが囁きを終えると、ヴィアベルが横から顔を寄せた。彼に声は聞こえないが、ゼンゼの視線と仕草で、何らかの手段で連絡を取ったことは分かる。
「……おい。何こそこそと喋ってんだ。俺にも共有しろ」
ヴィアベルの要求を聞き、ゼンゼは要点を短く伝える。
「タヴの魔法による囁きだ。降りると強風で周りを巻き込むから、飛行を維持すると言っている」
ヴィアベルは頷き、視線を前へ戻す。岩場を抜ければ、林へ降りる道がある。そこで村人の列に追いつくはずだ。彼の口調は荒いが、言う内容は段取りだ。
「急いだほうがいいな。村人が散っているなら、暗くなる前に集めて、陣を作らせる。俺が先に歩く。お前は村長と話を付けろ。お互い、やれる仕事を分けたほうが早い」
ゼンゼは肯定した。ヴィアベルが岩場の縁へ先に踏み出して歩幅を上げる。ゼンゼは髪を背へ流し、少し遅れて付いていった。足元の石は滑りやすく、酸で脆くなった場所もある。ゼンゼは髪の先で地面を確かめ、危険な溝を避ける合図をヴィアベルへ送る。
歩き始めてしばらくは、《Message(伝言)》が定期的に届いた。タヴは上空から地形の先を見て、影の動きや鳥の飛び立ちを知らせる。ゼンゼは必要な返答だけを囁き返し、ヴィアベルには指先で方向を示す。三人は互いに消耗している。だからこそ、役割を単純に分ける。
林が近づくにつれてタヴの囁きは途切れがちになった。言葉の間が伸び、息の音が増える。ゼンゼが返答を返しても、戻りが遅い。上空を見れば、タヴの肩が何度も揺れている。風を制御するだけで精一杯だ。彼は空中で姿勢を崩しそうになる度に身体を小さく立て直す。
ところが、林が見える手前で囁きが途切れた。返答が来ない。ゼンゼは二歩目で足を止め、上空を見上げる。風の音が、突然、ふっと消えた。髪が静かに落ち、巻き上げられていた埃が地面へ戻る。
耳に刺さっていた轟音が抜け、代わりに自分の呼吸と、枯れ草が擦れる小さな音が戻ってきた。ヴィアベルも立ち止まり、タヴへ呼びかける。
「タヴ、どうした?返事をしろ」
返事はない。
「まさか……宙に浮いたまま気絶してんのか?」
タヴは動かない。夕日の中で同じ位置に留まっている。首がわずかに傾き、瞼が閉じている。腕はだらりと下がり、風に引かれていた裾が自重で垂れた。身体がその高さで静止したままだ。
ゼンゼは状況を見て、断定を避けながらも判断を進めた。タヴは意識を失った。だが落下しない。何かが支えている。彼女はタヴが《Wind Soul(風の魂)》と呼んでいた力を思い出す。
(意識とは別に、《Wind Soul(風の魂)》が身体を支えているのかもしれんな)
そう推測したゼンゼは髪の一束を細く伸ばす。尖らせず、布に触れる程度の柔らかさにして、タヴの腰帯の端へ絡めた。次に肩の外側へもう一本。縫い目を選び、皮膚を圧迫しない位置に置く。
ゼンゼは一定の力で引いた。ところが、手応えが変だ。重さはあるのに落ちてこない。引けば引くほど、髪が張るばかりで、タヴの身体は一定の高さに戻ろうとする。見えない浮力が働いている。
「……落ちないな。引っ張ってもすぐに戻ってしまう」
ヴィアベルは眉を寄せ、空と髪の糸を見比べた。
「こいつの魔法はどうなってんだよ……絵面が不気味すぎるぜ。村人に見られたら騒ぎになるぞ」
ゼンゼは上空から目を離さずに髪の張りをわずかに調整する。ここで無理に引き下ろせば、腰帯や肩の縫い目に力が集中し、タヴの体を傷つけかねなかった。
「村人の視界から隠したほうがいいな。係留して運ぶ。無理に下ろすのは逆に危ない」
ヴィアベルは髪の糸を避けるように、半歩引きながら言った。
「係留って、宙に浮かせたまま連れて行くつもりか?」
「彼は意識がない。運ぶなら浮いたままの方が都合がいい。下ろすのは確実に安全を確保してからだ」
ゼンゼは髪の角度を変え、タヴを自分の頭上ではなく、岩の影へ寄せる。身体を傷つけず、視界に入らない場所へ滑らせる動きは、槍で刺すより難しい。
彼女は髪の本数を増やして三点で支える。空中に浮いた担架だ。ヴィアベルは苦笑しながらも周囲へ目を配り、背後から来る気配がないことを確認した。
「宙に引っかかった荷袋みてえだな」
ヴィアベルがぼそりと呟く。
「黙って歩け。話していると、余計に目立つ」
ゼンゼは言い切って歩き出した。タヴの身体は岩陰に沿うようにゆっくり移動する。髪が引けば進み、緩めれば止まる。風がない分、移動は静かだ。異様なのは、空に浮いたまま運ばれていることだけだ。
林縁へ差しかかると、避難列の影が見えた。荷車と人の列が、細い道に固まっている。誰もが肩を寄せ合い、振り返りながら進んでいた。夕刻の光は弱く、木々の影が長い。村長が列の前方で何度も振り返り、指示を出しているのが見える。
村長はゼンゼたちを見つけると、足を止めて駆け寄った。息が上がり、髪に枯れ草が絡んでいる。それでも声は丁寧だ。
「魔法使い様……終わったのですか」
ゼンゼは結論だけを先に置いた。長い説明はこの場では逆効果だ。村長の背後には怯えた目が並んでいる。
「魔物は討伐しました。しかし村へ戻るのは控えてください。危険が残っています」
村長の表情が僅かに揺れる。安堵と、次の不安が同時に浮かぶ。彼は言葉を継ぐ前に、ゼンゼの後ろと頭上を探した。戦いの終わりを告げたはずなのに、視線が落ち着かない。
「……もう一人の、男性の魔法使い様は、ご一緒ではないのですか」
ゼンゼは一瞬林の影へ視線を走らせた。彼女は普段、必要なことを淡々と告げる。場を取り繕う言い回しは不得手で、隠す言葉を選ぼうとすると舌が止まる。
「彼は……その……今は人前に出せる状態ではなく……」
村長はその言い方の隙を拾ってしまった。彼の顔から血の気が引き、声が小さくなる。
「……そう、でしたか。お気遣い、痛み入ります。ご遺体の損壊が激しいのですね。村には常駐の僧侶がおりません。《回復魔法》で形を整えることも、鎮魂の祈りも、まともにはできません。せめて布と灯りだけでも用意します」
村長の誤解にゼンゼは慌てて首を振った。否定の言葉が喉に詰まる。今ここで「生きている」と強く言えば、次に向かう視線は林の奥だ。
「いや違う。そういう意味では──」
ゼンゼが言い終える前に、ヴィアベルが半歩前へ出た。彼は村長の方へ向けて声を落とし、しかし有無を言わせない調子で割り込む。
「死んでねえ、疲れてぶっ倒れてるだけだ。見せたら騒がれそうだったから、林の奥で休ませてる。だから近づくな」
村長は息を吐き、顔を上げた。安心と恥ずかしさが同時に滲む。
「……失礼しました。こちらからは、むやみに近づきません」
ヴィアベルは村長の視線が村人へ戻ると、ゼンゼに顔を寄せた。口元だけが動く。
「もう少しマシな言葉を選べ。村長が弔いを始めるところだったぞ」
ゼンゼは声を落として返す。
「……すまん。助かった」
彼女が向き直ると、村長は話を戻した。
「話の腰を折ってしまい申し訳ありません。先程おっしゃった危険、とは……?」
「追撃がないことを完全に確認できていません。さらに魔物が吐いた酸や、瓦礫も残っており、暗くなれば踏み抜く危険があります。今日はここに留まり、怪我人がいれば集めてください」
ゼンゼが言い終えると、列の後ろから子どもの声が小さく上がった。
「……あれ、なに……?」
指が林の影を指しそうになる。葉の隙間から浮いた影が覗きかけた。ヴィアベルは子どもの視線を追い、舌打ちを噛み殺すと、列の脇へ回り込んだ。道の端に停めてある荷車の横へ数歩で寄って軸をわざと蹴った。木が鳴り、皆の視線がそちらへ流れる。
「車輪が緩んでる。止め木を入れろ。転がしたら荷物ごと怪我するぞ」
村人が反射的に動き、注意が散る。その隙にゼンゼは髪を林の奥へ伸ばし、係留の位置をさらに陰へ滑らせた。タヴの身体は木々の間に浮いたまま、葉の影に紛れる。
ヴィアベルが村長の肩越しに続ける。声は荒いが、言葉は現実的だ。命令口調ではなく、作業の手順として並べる。
「水と布を出せ。火もいる。動けるやつは荷車の周りに立って、林の奥を見張れ。傷の手当が必要なやつは今やる。夜に回すと悪化するからな。暗くなる前に寝かせる場所を決めろ」
村長は頷き、すぐに振り返って村人へ指示を飛ばした。水袋が回され、毛布が引き出される。泣き声が一つ上がったが、すぐに誰かが口を塞いだ。今は騒ぐ時ではないと、皆が理解している。
ゼンゼは村長へ視線を戻し、必要なことのみを続けた。
「今夜は誰も一人で動かないでください。水を汲みに行くなら二人以上。森へは入らず、見張りは交代で、声を掛け合ってください」
「承知しました……。魔法使い様方は、これからどうなさるのですか?」
「私は状況をまとめて、明日協会へ報告を上げるつもりです。ただ、今はこの場の安全を優先します」
村長は深く頭を下げた。礼の言葉が喉まで出たが、飲み込む。被害を受けた村が、今すぐ差し出せるものは少ない。その現実が表情に滲む。
ゼンゼはそれに触れない。彼女は列の外れへ半歩退き、林の影へ髪を伸ばした。腰帯に絡めていた髪を一本ずつほどき、タヴの身体から外す。髪を外しても、タヴは同じ高さに留まったままだ。
ゼンゼは木の幹と葉の濃い陰へ身体を滑らせ、外から視界に入らない位置で止まっているのを確かめてから、髪を引き戻した。
ヴィアベルは作業に混ざろうとして袖をまくった。片目の血を布で拭い、近くの村人の肩へ手を伸ばす。だが、腕を上げたところで一度動きが止まる。呼吸が浅くなり、足元がわずかに揺れた。
ゼンゼはすぐに近寄り、低い声で言った。
「君は休め。今の君は手当どころか、立っているだけで危うい」
「まだ動ける。俺がやったほうが早い」
「早くても倒れたら終わりだ。指示は口で出せばいい」
ヴィアベルは舌打ちしかけて、結局、荷車の脇に腰を下ろした。村人たちは村長の指示で布を割き、水を回し、互いに傷を押さえた。ヴィアベルは座ったまま、巻き方と締め具合を短く告げる。
ゼンゼは列の端に立ち、林と荒地の境目を見張った。夕日は沈みかけ、影が濃くなる。静けさは残ったままだ。
村長が声を抑えて合図を出すと、列がもう一度動き出した。荷車の軸が鳴り、土の上を車輪がゆっくり転がる。子どもは母親の外套を掴み、大人は背負った袋を抱え直した。夕日が地平線の縁へ沈み、林の影が道へ伸びる。
ゼンゼは最後尾から外へ目を配り続けた。荒地側は地面がまだらに乾き、ところどころが黒く焼けている。酸の臭いは薄れたが、鼻の奥に残る刺激が取れない。林側の暗がりは静かだ。枝を揺らす風も弱い。だからこそ、小さな動きでも目立つ。
列の先で村長が進路を変えた。村の外れに近い畑を回り込み、低い柵の切れ目を抜ける。道の先に古い納屋が見えた。板は色が抜け、屋根には草が生えている。人が住む家ではない。だが壁は残り、雨風は凌げる。
ヴィアベルは荷車の縁に手を掛け、納屋を見上げて息を吐いた。頭の奥の熱が引かない。片目の傷が脈を打つたびに痛む。立ち上がれば吐き気が来る気配もある。それでも声が出るうちは、動かないと気が済まなかった。
「村長、そこへ入れるのか。梁が危ないなら子どもを先に入れろ。外で寝ると冷える」
村長が頷き、村人へ手振りで指示を回す。荷車が納屋の脇へ寄せられ、毛布と藁が運び込まれた。子どもと怪我人が奥へ押し込まれ、歩ける者が出入口の左右に散った。火は小さく焚かれた。煙は梁の隙間から細く抜けていく。
ゼンゼは人の流れが納屋へ吸い込まれるのを待ち、林沿いの陰へ回った。今なら、余計な視線を引かずに動ける。彼女は髪を数本伸ばし、林の影に浮いている身体へ絡めた。指先に伝わるのは布と革の感触だ。髪を引くと、宙に留まった身体が音も立てずに滑る。
タヴの身体を林の端へ寄せ、そのまま納屋の裏へ回し込む。壁際には板材が積まれていた。隙間は人ひとりが通れる程度だ。ゼンゼは髪を引き、浮いた身体を板の陰へ押し込む。背中が板へ触れたところで、髪を三点に絡めて位置を固定した。外から見れば闇の奥の影が少し増えただけに見える。
ゼンゼは短く呼吸を整え、指先でタヴの首筋に触れた。脈は安定している。胸の上下も一定だ。皮膚の上に残る魔力の余韻は薄い。周囲の空気は冷えていくばかりで、風が急に立つ気配もない。
ゼンゼが納屋の戸口へ戻ると、村長が小声で交代の段取りを回していた。見張りは二人ずつで交代し、怪我人の寝場所は荷車の内側へ寄せてある。言われた通りに動く者が増え、足元の混乱が少しずつ消えていく。
ゼンゼはそれを一度見届けると、納屋の端へ下がった。火の位置と人の動きを目で追い、異変があればすぐ出られる場所を選ぶ。村人の声は次第に小さくなり、寝息が混じり始めた。残るのは薪のはぜる音と、ときおり布が擦れる音ばかりだ。
ヴィアベルは荷車の脇に腰を下ろしたまま、布を握って片目の血を拭った。傷口の熱が布へ移る。頭の奥が重い。視界の端がぼやけるたび、気持ち悪さが喉まで上がった。
ゼンゼが近づき、ヴィアベルの前で立ち止まった。彼女は彼の目元と呼吸を確かめる。立っているだけで危ういことは、見れば分かる。
「ヴィアベル。あの場では助かった。君の拘束魔法が入らなければ、私は殺されていた」
ヴィアベルは鼻で笑いかけ、途中で咳を噛み殺した。
「礼はいい。今は喋ると頭が揺れる」
ゼンゼは頷いた。ゼンゼは礼を重ねず、確認したいことを続けて口にした。
「分かった。だから手短に聞く。君の行使したあの魔法は何だ?空間ごと座標が固定されていたように見えたが、君は何を見て、どこへ縫い付けた」
ヴィアベルは息を整えた。吐く息が白くならない程度に、納屋の中はまだ温い。それでも喉は乾く。
「全然手短な質問じゃねえぞ……。《ソルガニール(見た物を拘束する魔法)》は、視線で捉えた輪郭を空間の目印へ縫い付ける。二本の光帯の交点が留め具になる。目を外せば縫い目が緩む。だから、見続けながら魔力を流すしかねえ」
彼は視線を上げ、納屋の低い梁を見た。そこに光の帯が走ったわけではない。だが、あの光景が目の裏に残っている。
「問題はネオセリッドの抜け方だ。あいつは体を潰して姿勢を変えながら、縫い付けられた目印を一つずつ外してきた。輪郭を縛り続けても、すぐにほどける。だから狙いを変えた」
ゼンゼは言葉を挟まずに待つ。続きを急かさない。
「俺が見たのは触手そのものじゃねえ。その周りの空気だ。根元と地面の割れ目をまとめて一塊にして、帯の輪を広げて括った。交点を根元に合わせて、範囲ごと目印へ縫い付けた」
ヴィアベルは喉を鳴らし、言葉を選ぶ。
「そうすると、中にあるものは全部、同じ縫い目に引っ張られる。動き出しが遅れて追いつかねえ。外側の風や砂は先へ進むが、帯の内側は一拍ぶん遅れる。あいつの節も酸の滴も、その遅れに巻き込まれた」
ヴィアベルは自分の額を指で押さえた。頭の奥が熱い。
「細かい術式を組んだ覚えはねえ。見失えば解けるから、視線を外さずに魔力を流し込んだ。それで持つだけ持たせた」
ゼンゼが小さく頷く。
「維持できるのはどれくらいだ」
「あの形なら五秒程度だ。しかも、残存魔力の全てを持っていかれた」
ヴィアベルは吐き捨てるように言い、唇を舐めた。口の中が苦い。
ゼンゼは問い詰めない。代わりに、今わかる範囲の線を引く。
「再現できる形ではない。維持は短い。消耗は大きい。そこまで分かれば十分だ」
「質問はもう終わりか?なら俺はもう寝る。お前もだ」
ゼンゼは納屋の戸口へ視線を向けた。見張りの男が頷く。村長も合図する。交代が動いている。今なら短い休憩を差し込める。
「私は交代で外を見る。君は休んでくれ」
ヴィアベルは返事をする代わりに、背を板へ預けた。目を閉じると痛みと熱が増す。眠りは浅いまま続いた。
夜が更けるにつれ、納屋の音は減った。火は小さくなり、外の冷気が隙間から入り込む。遠くで獣の声が一度ばかり聞こえたが、近づく足音はない。
ゼンゼは戸口の外へ出て、林と荒地の境を見回した。月は薄い雲に隠れ、視界は暗い。彼女は髪を数本、納屋の裏へ伸ばし、タヴの位置を確かめる。髪の先に伝わる重みは変わらない。
そのとき、板の陰から微かな衣擦れがした。ゼンゼは髪の張りを瞬時に強める。だが次の動きはない。呼吸も乱れない。身体がわずかにずれただけだと判断し、彼女は息を戻した。夜はそのまま終わった。
朝の光が納屋の隙間から差し込む。村人が起き、火を起こし直す。鍋に水が注がれ、湯気が立ち始めた。酸で汚れた布が外の柵へ掛けられ、濡れた土の匂いに混じって酸が鼻に刺さる。荷車は並べ直され、通路が確保された。昨夜の混乱は形を変え、手順として落ち着き始めている。
ゼンゼは村長と短く言葉を交わし、怪我人の具合を確認した。村長は眠っていない目で答え、役割を回している。見張りも交代で立っていた。ここはまだ崩れていない。
問題はヴィアベルだった。
彼は荷車の上で身体を起こそうとして、途中で止まった。肩が落ち、呼吸が乱れる。口を開いても言葉が続かない。焦点が合わない目が空を滑り、手の指が力なく揺れた。
ゼンゼはすぐに近づき、彼の背を支えた。髪が背中から伸び、腰を受ける。彼女は毛布を畳んで背に当て、姿勢を楽にした。額へ濡れ布を当てる。布が熱で温まるのが早い。
「ヴィアベル。聞こえるか」
ヴィアベルは頷こうとして、首が途中で止まった。喉から掠れた音が出る。怒鳴り返す余裕がない。ゼンゼは村長へ顔を向けた。
「この村に《回復魔法》を使える者はいますか?」
村長は首を振った。
「昔は……旅の僧侶が立ち寄ったこともあります。しかし今はいません。薬草ならありますが……」
「薬草では間に合わない」
ゼンゼは言い切り、口を閉じた。髪の先が落ち着かずに揺れる。焦りを抑えようとしても、身体が先に反応していた。
彼女は現実的な選択肢を探した。ヴィアベルを運ぶ。オイサーストへ戻り、治療と報告を同時に行う。だが距離がある。荷車で揺らせば悪化する可能性も高い。護衛も要る。村の安全も整い切っていない。
ゼンゼは納屋の裏へ回り、積まれた板の隙間を覗いた。板の影に、髪で支えられた身体がある。タヴの顔色は悪くない。昨夜の蒼白さは消えている。ゼンゼは髪を伸ばし、彼の肩へ触れた。
タヴの瞼が動いた。次の瞬間、彼は息を吸い、目を開いた。
ゼンゼはすぐに声をかけた。だが返ってきたのは異国の音だった。意味が頭に入らない。ゼンゼが言い直すと、タヴは眉を寄せ、口を動かして返す。やはり音のままだ。二人の間に短い沈黙が落ちた。
ゼンゼはようやく状況を掴んだ。これまでタヴの言葉が理解できていたのは、ゼーリエがタヴに施していた《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》が働いていたからだ。今はその魔法が切れている。音が意味に変わらない。
タヴも同じ結論に至ったのだろう。彼は喉元へ指を当て、短い詠唱を始める。言葉は速く、区切りが少ない。最後に胸へ掌を当てると、空気が震えた。
タヴは深く息を吐き、改めて口を開いた。
「……悪い。翻訳魔法の効果が切れていた。今《Tongues(言語会話)》を唱えた。これで話せるはずだ」
ゼンゼは頷き、すぐに要点を並べた。
「倒れた君をここに運び、村人は納屋で休んでいる。朝になってヴィアベルの具合が急に悪くなった。この村に《回復魔法》の使い手はいない」
タヴは納屋のほうへ目をやり、村人の動きが落ち着いていることを確かめた。彼は板の影から出る前に、ゼンゼへ低い声で聞いた。
「人目は避けたい。向こうで診られるか」
「ここで大丈夫だ。納屋からは見えない」
タヴはゆっくり身体を滑らせ、壁沿いに回った。ゼンゼが先に動き、髪でヴィアベルの姿勢を崩さないよう支えた。
納屋の陰で横になったヴィアベルは、目を開けても焦点が定まらない。呼吸が浅い。タヴはしゃがみ込み、指先で額へ触れた。続けて首筋と手首を確かめる。動きは手慣れていた。
「疲労によるものじゃないな。魔法の反動か、呪いに近い症状だ。放っておくと戻らないかもしれん」
ゼンゼは唇を引き結び、村と道の方角を一度見た。
「起きて早々悪いが、《Teleport(瞬間移動)》は使えるか?オイサーストへ戻って、治療の手配をしたい」
タヴは首を振り、短く息を吐いた。
「待ってくれ。この症状なら俺の魔法で治せるかもしれない」
ゼンゼは目を細めた。
「回復の術を持っているのか?」
「正式なやり方とは違うが、そういった魔法の効果を再現できる方法がある」
タヴは周囲を確認し、納屋の壁際へ場所を移した。村人の視線が届きにくい位置だ。彼は地面の土を掌で払い、円を描く場所を作った。
「灰が少し欲しい。火のそばのを、ひとつまみ」
ゼンゼは頷き、髪を一本だけ細く伸ばした。髪は納屋の中の炉端へ滑り、灰を掬って戻る。ゼンゼはそれを指先で受け取り、タヴへ渡した。
タヴは灰で地面に小さな円を描き、円の内側に小石を三つ置いた。三角形ができる。彼は掌を合わせ、ゆっくり開いた。空気が張り、皮膚の上を細い痺れが走る。ゼンゼの髪が静かに浮き、束の先が揺れた。
「ヴィアベルを動かすな。頭を円の内に入れてくれ」
ゼンゼは髪でヴィアベルの肩と首を支え、円の中心へ寄せた。ヴィアベルは呻き声を漏らしたが、抵抗する力がない。
タヴは両手を円の上へかざして詠唱を始めた。《Tongues(言語会話)》で通じるはずの言葉が、途中から意味を結びにくくなる。《Arcane Magic(秘術魔法)》の定型句が混じり、音ばかりが残る。
「Tempestas, audi vocem meam. Fulgur et mare, coniungite(嵐よ、我が声を聞け。雷と海よ、結べ……)」
灰の円が淡く光り、小石が小さく震えた。遠くで雷が鳴ったような低い響きが腹に残る。空気の匂いが変わり、湿り気に金属のような刺激が混じる。
タヴは息を吸い直し、短く区切って言葉を落とした。
「《Wish(願い)》」
次に、長い名称が続く。《Tongues(言語会話)》の効果でも音のまま残り、意味だけが遅れて追いつく。
「《Greater Restoration(上級回復術)》」
円の光が細い糸になり、ヴィアベルの額と胸へ流れ込んだ。熱が引くのが外から見て分かる。ヴィアベルの呼吸が深くなり、指先の震えが止まった。目が一度閉じ、次に開いたときには焦点が戻っていた。
ヴィアベルは大きく息を吐き、咳き込んだ。喉の奥に溜まっていた苦味を吐き出すような咳だ。数息のあと、彼はゼンゼの髪を掴み、身体を起こした。
「……助かった。それで、さっきの魔法は何なんだ?やたらと仰々しい詠唱だったが」
タヴは灰の円を靴底で軽く擦り、光を消した。
「魔法的な症状に効く回復の術を使っただけだ。効いたのならそれでいいだろ」
ゼンゼは髪の張りを落とし、肩の力を抜いた。ヴィアベルは目元を押さえてから軽く頭を振り、タヴの方を見て告げる。
「昨夜倒れてたやつが、起きたら一番元気そうなのが腹立つな」
タヴは口の端を上げ、短く返した。
「寝たら大抵のことは何とかなる体質なんだ」
ゼンゼは二人のやり取りを脇に置き、納屋の中へ目を向けた。村人は気づいていない。
ゼンゼは髪へ意識を向けた。昨日まで残っていた微かな温かさが消えている。指先の上で、薄い膜が剥がれたような感触もない。イーリストレイから一時的に付与されていた《Blessings(神の祝福)》と《Charms(自然の贈り物)》が切れたのだろう。髪はいつもの重さに戻っている。
「ヴィアベル。立てるか」
ヴィアベルは肩を回し、呼吸を確かめた。言葉が繋がる。
「ああ、むしろ普段より調子がいいくらいだ」
ゼンゼは頷き、村長のところへ戻った。彼女は簡潔に状況を伝える。ヴィアベルが動けること。危険箇所の目印を増やすこと。坑道へは近づけないこと。村長はすぐに作業を割り振った。
午前のうちに、納屋の周りは少しずつ整った。荒地側の地面には棒と布で目印が立ち、酸の跡は迂回路が作られた。村人は荷車を並べ直し、動かせる者は畑の端へ水桶を運んだ。夜の間にできた段取りが、朝の動きに繋がっている。
ヴィアベルは村人の輪に入り、声を張り上げた。荒い言葉は混じるが、指示は具体的だ。危険箇所には縄を張れ。子どもは縄の内側へ。荷車の軸を締め直せ。怪我人の寝床を風下へ寄せろ。彼が動くと、村人の手が早くなる。
ゼンゼはその間に、必要な荷物をまとめた。オイサーストへ戻る。協会へ報告し、応援を要請する。村に残す注意事項も紙に書き、村長へ渡した。彼女の文字は短いが読みやすい。村長は何度も頭を下げた。
ゼンゼは礼を受け流し、次に自分の髪へ視線を落とした。髪は夜の間に土と血を吸い、ところどころが固まっている。移動の邪魔になる。解いて洗わなければ、絡まりが増える。戦闘に入れば致命的だ。
ゼンゼは村長に桶の借用を頼み、納屋の裏手へ運ばせた。桶だけでは足りない。樽も必要だ。村の倉から空の樽が出され、土の上へ置かれる。井戸から水を運ぶなら、何度も往復が要る。タヴが樽を見て言った。
「水なら俺が出そう」
ゼンゼは井戸の方角へ視線を走らせた。
「魔法で出す必要はないだろう?井戸がある。そこから汲めばいい」
「往復で人手を取られるし、今の状況で飲み水は貴重だ。《Create or Destroy Water(水の生成・破壊)》で樽を満たす。髪を洗う水ならそれで足りるはずだ」
タヴが口にした《Create or Destroy Water(水の生成・破壊)》は、本来はクレリックやドルイドが祈りで扱う水の魔法だ。彼が行使できるのは、《Storm Sorcery(嵐の魔法)》として嵐に連なる起源が雨と潮の理に結び付いているためだ。
ヴィアベルは納屋の前の段取りを一段落させ、裏手へ戻ってきた。樽とタヴを見て、眉を上げる。
「水を無から作り出すのは効率が悪いんじゃねえのか?」
「いや、《Create or Destroy Water(水の生成・破壊)》は一階梯の呪文だ。消費は少ない」
タヴが樽の上へ手をかざし、詠唱を始めた。言葉と動作が揃う。最後の音が落ちると、空の樽の中へ透明な水が現れた。底から湧いたように水面が盛り上がり、縁の手前で止まる。
ゼンゼは樽の水面を覗き込み、指先で少量を掬って髪の先に落とした。冷たく、匂いはない。
「この水は本当に清潔なのか?」
タヴは頷き、樽の水面を指先で軽く触れながら説明した。
「清潔だ。この術は『きれいな水を器に生むか、雨として降らせる』と定義されている。どこかの水溜まりから引っ張ってくるわけでも、川の水を移し替えるわけでもない。純粋に水のみを発生させ、泥も砂も混ざらない。汚れるとしたら樽の内側だ。底に土が残ってたら、そのぶんは普通に濁る。だから──」
ゼンゼは小さく手を上げた。
「疑って悪かった。長い話は後で聞こう」
タヴは一瞬だけ口を開けたまま止まり、次に息を吐いた。
「……了解」
ヴィアベルが笑い声を漏らす。
「いちいち丁寧だな」
ゼンゼは髪を背へ回し、樽の横に膝をついた。髪束をいくつかに分け、固まった土を指で砕き、先から順に水へ通す。水はすぐ黒く濁り、表面に薄い泡が浮いた。髪の重みが腕に掛かり、動きが遅くなる。
タヴは少し顔をしかめ、指先を上げた。
「その量を一人でやるつもりか。道具を運ばせるだけなら、《Unseen Servant(見えざる従者)》を使って手を増やせる」
ゼンゼは手を止めずに視線を向けた。
「《Unseen Servant(見えざる従者)》?」
「不可視の命令に従う召使いを出す魔法だ。布を持ってくる、桶を寄せる、そういった単純作業に使える」
タヴが短い詠唱を口にし、指先で小さな円を切った。樽の横の空気がわずかに沈み、桶の柄がひとりでに持ち上がる。姿は見えないが、そこに何かがいると分かる動きだった。
《Unseen Servant(見えざる従者)》は布を寄せ、櫛を運び、結び紐を差し出した。ゼンゼは受け取って髪を絞り、絡みをほどく。作業の手数が減り、肩の負担が少しだけ軽くなる。
だが、長い髪束をまとめ直す段に入ったところで、動きが乱れた。見えない従者が髪束の同じ場所をつまんだまま、左右へ運び続ける。一定の幅で揺らし、止まらない。
ゼンゼの頭皮が引かれ、髪が反射的に跳ねた。彼女は呼吸を乱さずに声を落とした。
「タヴ……こいつさっきから同じ工程を繰り返しているぞ」
タヴは宙を睨み、言葉を切った。
「動きを止めろ。……違う、そこじゃない……このポンコツめ……」
《Unseen Servant(見えざる従者)》は命令を受けたはずなのに、同じ軌道を繰り返した。次に櫛が宙で止まって落ちない。握ったまま固まっている。
ヴィアベルが笑いを噛み殺した。
「おいおい、自分の魔法に八つ当たりするなよ」
タヴは唇を薄く結んだ。苛立ちはあるが、原因を探す目だった。
「《Unseen Servant(見えざる従者)》は決められた範囲の単純作業しかできない。……ゼンゼの髪は量が多すぎて、『持つ』のみで終わらない。術式が定義した単純作業の枠を超えている」
ゼンゼは髪を引き戻し、痛みの残る根元を指で押さえた。
「しれっと私の髪のせいにするな。命令の出し方を見直せ」
宙に浮いた櫛が、返事の代わりにぎくりと揺れた。《Unseen Servant(見えざる従者)》は髪束を持ち上げ直そうとする。しかし櫛は同じ場所を何度も撫で、髪の重みばかりが横へ引かれた。根元が引きつれ、濡れた束がねじれていく。
ゼンゼは短く息を吐き、髪を強く引き戻した。
「もういい。自分でやる。解除してくれ」
タヴが指を鳴らすと、空気の沈みがほどけた。《Unseen Servant(見えざる従者)》の気配が消え、宙に止まっていた櫛が落ちかける。ゼンゼの髪が先に絡め取り、地面へ叩き付ける前に受け止めた。
ゼンゼは櫛を手に戻し、作業へ戻った。布と水で手順を進める。遅くなるが、絡まりは増えない。水滴が土を打つ音が一定の間隔で続く。その傍らでタヴが指先の水気を払うのを見て、ヴィアベルが口を開いた。
「さっきも見てて思ったが、お前は魔法を使うたびに格好つけた身振りと詠唱が入るな。水を出したときも、俺を治したときもそうだ」
タヴは肩をすくめた。
「格好をつけているわけじゃない。基本的に俺が使う魔法は発声と動作の型を揃えないと、狙った効果が出ないんだ」
ゼンゼは手を止めずに髪を絞りながら言った。
「こちらの魔法はそこまで手順に縛られない。重要なのはイメージと制御だ」
ヴィアベルがゼンゼの説明に補足する。
「術者の頭の中が大事なぶん、同じ魔法でも差が出る。上手い奴は速いし、下手な奴は無駄に消耗する」
三人が魔法について言葉を交わす間も、ゼンゼの作業は進む。櫛が髪を抜けるたび、土と血の薄い膜が水面へ広がった。タヴはそれを横目で見つつ、納屋の表側の物音と、柵の外の静けさを聞き分けるように視線を動かした。
「……少し外す。自然の呼び声に応える」
ヴィアベルが顔をしかめて問う。
「何だそりゃ?どういう意味だ?」
タヴは表情を変えずに告げた。
「用を足しにいく」
ゼンゼの動きが一瞬止まる。
「そっちでは、そういう言い方をするのか……」
気まずい間を残して、タヴは納屋の影を抜けた。腹を押さえるでもなく、足取りは落ち着いている。用事を急ぐ者の動き方ではなかった。林縁へ向く視線が妙に鋭い。
その言い回しは、場を崩さずに一人になれる口実として選ばれた。タヴは振り返らない。まばたきの間隔も一定で、息遣いにも切迫がない。
(今は器の安全が最優先だ……余計な面倒を増やしたくない)
胸の奥で、彼の思考とは違う結論が先に固まった。タヴは林縁まで距離を取り、村の動線から外れた浅い堀のそばで足を止める。口の中で短い言葉を転がし、《Detect Magic(魔法感知)》を起動した。
視界の縁がわずかに冷え、色の輪郭が薄くなる。魔法があれば、そこだけ空気が違うように見える。だが、堀の水面も草も一見いつも通りだ。見落としかけた瞬間、石基礎の割れ目の奥で、針穴ほどの光が一度点いた。
タヴはしゃがみ、割れ目へ指を差し入れる。指先に触れたのは爪先ほどの硝子の眼だ。割れ目の奥に粘つく樹脂で押し込まれており、硝子の表面が薄くぬめる。虹彩には脳の皺を思わせる細い溝が走り、縁を一周する髪の毛ほど細い刻みは深淵語の符号に見えた。それに触れた途端、こめかみの奥が軽く締め付けられた。
(どうやらネオセリッドの飼い主に監視されていたようだな)
タヴは硝子の眼を掌で包み、力を込めた。小さく割れる感触と同時に、針穴の光が消える。彼は欠片を泥の中へ押し込み、指先のぬめりを草で拭った。追えば余計な仕事になる。今はそれを増やさない。
魔法を解き、タヴは何事もなかったように納屋の裏へ戻った。
ヴィアベルが、戻ってきたタヴを見て口の端を上げた。
「早かったな。自然への捧げ物は終わったのか」
タヴは短く返す。
「終わった。地面が満足した」
ゼンゼが呆れたようにため息をつく。
「そんな報告いらん。品のない奴らだな」
ヴィアベルが笑いながら答える。
「だから上品に表現しただろ」
ゼンゼは返さず、樽の蓋を借りて水面を塞いだ。道具をまとめる動きへ移る。タヴはそれ以上を語らない。ゼンゼも追及しなかった。
正午に近づくころ、村の動きはようやく落ち着き始めた。納屋の中では寝かせた怪我人の呼吸が揃い、外では水汲みと薪運びが途切れずに続く。酸で荒れた地面の手前には、朝のうちに立てた目印と簡単な柵がそのまま残り、見張りの交代も滞りなく回っていた。
ゼンゼは納屋の脇で荷をまとめ、濡れた髪を太い束にして背へ回した。洗い落とした土は戻らない。だが、湿り気の重みはまだ残る。
納屋の表で荷運びの列を整えていた村長が、ひと息ついて脇へ回り、控えめに声を掛けた。
「魔法使い様……これから戻られるのですか?」
「はい。状況を報告して、応援の手配を頼みます。そちらは今の段取りを崩さないでください。目印の内側へは誰も入れないこと。見張りは必ず二人にすること」
村長が深く頭を下げると、その背後から子どもが二、三人、勢いよく飛び出してきた。大陸魔法協会の一級魔法使いは村では英雄のように扱われることが多い。小柄で温厚そうに見えるゼンゼは声も掛けやすく、自在に動く長い髪は子どもの好奇心を強く刺激する。村長の制止より早く、子どもの手がゼンゼの髪へ伸びる。
「すげえ!これ、ほんとに髪なの?」
「抜けたりしないの?」
小さな指が束をつまみ、確かめるように引いた。ゼンゼの肩がわずかに強張る。濡れた髪が重く引かれ、頭皮に鈍い痛みが走った。
「やめろ。引くな」
子どもの一人が、目を輝かせたまま別の提案を口にする。
「なあ、これで縄跳びできる?」
ゼンゼは短く息を吐き、髪束を自分の背へ引き寄せた。
「できるわけないだろう。さっき洗ったばかりだ。泥の上に落とすな」
村長が慌てて子どもたちの肩をつかみ、後ろへ下がらせた。
「こら!失礼だろう!……子どもたちがとんだご無礼を……申し訳ありません」
子どもたちは名残惜しそうにこちらを見たが、村長に押されてしぶしぶ散っていく。ゼンゼは髪を押さえ直し、痛みの残る根元を指で一度だけ確かめた。少し離れた場所で、ヴィアベルがその様子を見て口の端を上げた。朝の回復のせいか、顔色は良く、立ち姿にも余裕がある。
「子どもの相手が下手だな。ああいうのは、『あとで』って言っとけ。向こうはそれで満足する」
「あとでやる気はない」
「じゃあ『触ったら銅貨だ』でもいい」
ゼンゼが睨むと、ヴィアベルは肩をすくめて黙った。村長は子どもたちの背を押しながら、ゼンゼへもう一度頭を下げた。
「……言いつけは守ります。どうか、お気をつけて」
ゼンゼは短く頷き、視線をヴィアベルへ向けた。
「君はどうする。一緒に来るか?」
ヴィアベルは、納屋の外で動く村人を顎で示した。
「俺はしばらく残る。段取りは回ってるが、まだ敵がいるかもしれねえからな。こういうのは落ち着いた瞬間が一番危険だ。それが済んだら、俺もオイサーストへ向かう」
彼は口元を歪め、ゼンゼへ視線を寄せる。
「あと、先にオイサーストへ戻るなら、俺への報奨金の話は逃すなよ。とんでもねえ化け物の退治に協力したんだからな。協会の幹部連中に釘を刺しとけ」
ヴィアベルはわざとらしく間を置いて、付け足した。
「報奨金が出たら、酒もだ。後で奢れ」
ゼンゼは表情を変えずに頷いた。
「覚えておこう」
その返事が淡泊すぎたのか、ヴィアベルは鼻で笑った。
「お前、ほんとに可愛げがねえな」
ゼンゼは言い返さず、ヴィアベルから視線を外した。ヴィアベルはそれ以上追わず、村長へ短く顎をしゃくって納屋の前へ戻る。村長も作業の列へ戻り、見張りへ声を飛ばしながら村人を動かした。
ゼンゼは納屋の裏へ目を向けた。タヴは納屋から数メートル離れた柵際の影に立ち、村人の動線から外れた外側へ視線を流している。その視線が外へ滑るたびに、ゼンゼは昨日の戦場で聞いた《Spellscar(呪文の傷跡)》という言葉を思い出す。ゼンゼが手招きすると、タヴは無言で近づき、二人は納屋の陰へ寄った。
「タヴ。出る前に確認したい。昨日は君の様子が変だったが、今は落ち着いているのか?」
タヴは視線を戻し、短く答えた。
「今は落ち着いている。体調も問題ない」
「そうか……。あれは《Spellscar(呪文の傷跡)》という症状なのか?」
タヴの目が一度ばかり動く。驚きではなく、言葉の出所を測る反応だ。
「《Spellscar(呪文の傷跡)》……どこでその言葉を聞いた?」
「昨日助けに入った騎士が、君の状態を見てそう推測していた」
タヴは淡々と返す。
「俺の体に《Spellscar(呪文の傷跡)》特有の痕はない。魔力が勝手に漏れている感覚もない。だから違うと思うが……」
ゼンゼは頷いた。
「ならいい。変化が出たら隠さずに言ってくれ」
「分かった」
タヴはそれ以上続けず、納屋の裏手へ顎を向けた。
「人目を外して行こう。ここだと騒ぎになる」
ゼンゼは頷いて後に続いた。納屋の陰は薄暗く、土は乾き始めている。タヴは腰のポーチから小さな石片──《Associated object(関連物品)》を取り出した。角の欠けた灰色の石で、表面に白い目地の跡が残っている。
「北部支部の屋外広間の敷石だ。戻る場所はそこにする」
ゼンゼは石片を見て、短く頷いた。余計な言葉は要らない。
「始めてくれ」
タヴは石片を握って低く詠唱した。《Teleport(瞬間移動)》が走り、声が空気を押して納屋の匂いが遠ざかる。足元の感覚が抜けて耳が詰まる。視界が白く揺れ、納屋の暗がりが消えた。
次の瞬間、冷えた石の気配が靴裏へ返ってきた。土の匂いが消え、乾いた石と人の気配が鼻に入る。遠くで鐘の音が鳴り、石畳の上を行き交う足音が反響して続く。
ゼンゼが目を開けると、そこはオイサーストの大陸魔法協会北部支部の屋外広間だった。天井のない広い石敷きが開け、周囲は高い石壁と回廊で囲まれている。回廊の柱影が石畳に落ち、正面の建物の外壁には協会の紋章が浅く刻まれていた。
タヴはすぐ隣に立っている。息は乱れていない。
ゼンゼは歩き出す前に、ローブの内ポケットへ指を入れ、白金の指輪の硬さを確かめた。指先に冷たい金属が触れる。彼女はそれを戻し、前を向いた。
白金の指輪を戻した刹那、屋外広間の現実音が遅れて押し寄せた。石畳に反響する足音。回廊の下を行き来する職員の声。革帯を締め直す音と、杖の金具が擦れる乾いた鳴り。
《Teleport(瞬間移動)》の余韻はまだ消えていない。ゼンゼとタヴが立つ石畳の空気が僅かに冷え、薄い渦のような魔力の残滓が足元に滲んでいる。広間にいた数人が反射的に振り向き、視線が一度だけ集まった。
タヴが協会の協力者になってから、こうして《Teleport(瞬間移動)》で飛んでくる光景を何度か見ている。見慣れ始めた者も多く、誰も叫ばない。驚きは短く、すぐに動きへ戻ろうとする。
視線の質を変えたのは、二人の外見だった。協会支給のローブは簡易の防護術式が織り込まれていて、少し擦れただけでは裂けない。ゼンゼのローブも裾と袖口に裂け目があり、泥と煤の跡が残っている。
だが、それ以上にタヴが目立った。片袖がほとんど残っておらず、露出した腕に煤と乾いた汚れが薄くこびりついている。布には乾いた酸の跡のような斑が点々と残り、野外の激戦をそのまま連れ込んだような姿だった。
近い位置にいた若い職員が書類束を抱えたまま一歩寄りかけた。次の瞬間、その職員はゼンゼの顔を見て止まり、口を閉じる。頭を下げるだけで、動線を空けた。
広間の端、回廊寄りの一角では出撃準備が進んでいた。伝令が封蝋付きの文書を渡し、受け取った者が目を走らせる。革帯が締まる音が続き、杖の先端を布で拭う動きが揃う。短い手順が無駄なく回る、その中心に二人がいた。
髪を七三に分けたゲナウは、濃紺の外套の襟を正したまま、表情をほとんど動かさずに周囲を見ている。隣には眼鏡の奥で視線を落ち着かせたファルシュが立ち、装備と書類を手早く確認していた。二人は広間の中央に立つゼンゼとタヴに気づき、損耗したローブの有様を見て、歩みを止める。
ファルシュが先に口を開いた。声は穏やかだが、観察眼は鋭い。
「……ゼンゼさんがローブをここまで傷めるのは珍しいですね。タヴさんは……片方の袖がほとんどない。いったい、どういう戦い方をしたらそうなるんです?」
ゲナウはタヴの腕の露出を一瞥し、淡々と言った。
「野営の傭兵みたいだな。妙に似合っている」
ゼンゼは立ち止まったが、足先の向きは回廊の奥へ向くままだ。長話をする気配はない。ファルシュはそれを察して、問いを短くした。
「坑道に何がいたんですか?」
ゼンゼは返答を整えるように一拍置き、要点のみを切り出した。
「マインド・フレイヤーが連れてきた四十メートル級の怪物だ。その巨体で《飛行魔法》の倍近い速度で飛行し、連続瞬間移動で距離を詰める」
ゼンゼは指先で空中に線を引くようにしながら、次を続ける。
「強酸の息を連射する。触手の打撃は《防護魔法》を一撃で砕いた。広範囲に精神へ干渉する波を撒いて、思考を壊そうとしてくる。四メートル級の芋虫のような眷族も呼び出した」
ゼンゼの視線がファルシュの眼鏡へ向く。言葉は淡々としているが、内容だけが重い。
「こちらの術式を剥がす解除魔法も撃ってきた。加えて、《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を弾く障壁を常に張り、拘束魔法も効かない」
タヴが一言だけ補った。声は低く、感情を乗せない。
「俺はそいつの吐いた強酸を全身に浴びてな。袖がないのはそのせいだ」
ファルシュは息を呑みかけ、すぐに口元を引き締めた。冗談めいた言い回しで場を保つが、目の奥は軽くない。
「……能力を盛りすぎじゃないですかね。神話に出てくる悪魔か何かですか」
ゲナウは肩をすくめ、どこか楽しむような温度で言った。
「そっちは大分楽しそうな相手を引いたな。私がタヴについていけばよかったかもな」
ゼンゼは表情を変えず、視線のみで釘を刺して声を落とした。
「そうだな。戦闘好きのゲナウなら楽しめそうな相手だったよ」
ファルシュは眼鏡の位置を指で直し、自分たちの事情へ切り替えた。
「こちらはギスヤンキの襲撃部隊への対処に行くところです。今回はいつもより規模が大きいそうで、目撃報告が重なっています」
ゲナウは広間の外へ視線を流し、短く現状を切った。
「最近は魔物や魔族より、ギスヤンキの始末ばかりだ。マインド・フレイヤー絡みの面倒も増えている」
彼は続けて、言葉を少しばかり重くする。
「そのせいで、野良の魔族が徒党を組む目撃まで出ている。寄せ集めで連携は取れていないが、数は鬱陶しい」
ファルシュは部隊員の動きに目を配りながら、現場の感触を添えた。
「この時期は受験者を狙う追いはぎが増えるはずですが、今はほとんど見かけません。盗賊が減ったのは良いことですが……」
ゲナウが言葉の先を奪う。声は変わらず平坦だ。
「盗賊もギスヤンキに狩られているだけだ。厄介さの種類が変わっただけで、被害はむしろ増えている」
広間の空気が一瞬だけ硬くなる。ゼンゼは短く息を吐いた。ゲナウは表情を崩さず、淡い皮肉を事実のように置く。
「今年の受験者は少なくなりそうだな。試験の前にギスヤンキによって足切りされている」
ゼンゼは返事を短く切った。
「冗談でも笑えないぞ」
ゼンゼは会話を終わらせるように一歩だけ踏み出す。用件は最初から一つだ。
「ゼーリエ様はどこにいる」
ファルシュが即答した。
「今なら温室にいらっしゃいます」
ゲナウは部隊の方へ身体を向けながら、ゼンゼにだけ一言落とした。
「引き止めて悪かったな。こっちはもう行く」
ファルシュが最後に軽く会釈し、ゲナウとともに隊列へ戻る。伝令が走り、金具の音が再び広間を満たした。
ゼンゼは温室へ向けて回廊の下を歩き出す。タヴは半歩遅れずに並び、周囲の視線と人の動線を一度だけ確かめる。ゼンゼは回廊の下を抜け、北部支部の裏庭へ繋がる通路へ足を入れる。石壁に沿って走るガラスの廊下は外気に触れる時間をほとんど作らない。背後では出撃準備の金具音と伝令の声がまだ残っているが、数十歩も進むと薄い膜を隔てたように遠のいた。
前方の光が強くなる。大きなガラス面が陽を受け、鉄の骨組みが淡く青く光って見える。近づくほど湿った空気が混じり、鼻先に土と花の匂いが刺さった。ゼンゼはローブの裂け目を隠そうとはしない。歩幅を落とさず、温室の扉へ向かう。
扉の前に立つと、ガラスの内側が薄く曇っているのが分かる。温室の熱と湿りが外へ逃げず、板の表面に細かな水滴を作っている。取っ手はぬるく、掌にしっとりとした感触が残った。
ゼンゼが押すと蝶番が小さく鳴り、温室の空気が押し出されてくる。肌にまとわりつく暖かさと、甘い花の香りが一気に広がった。タヴの片袖が欠けた腕にも湿りが乗り、乾いた酸の跡が鈍く光る。二人が踏み込むたび、石畳に泥の靴跡が残った。
温室の天井は高い。ガラスの屋根を支える骨組みが幾何学模様のように並び、外の光が面で落ちてくる。中央の通路がまっすぐ伸び、左右に浅い水盤が設けられている。水面には睡蓮の葉が浮き、光の反射が天井の骨組みに揺れた。
通路脇の花壇には赤や紫の花がまとまって咲き、等間隔の台座に鉢植えが置かれている。水滴がどこかで落ちる音が、広い空間の静けさを埋めた。外の喧騒はもう届かない。ここは別の建物に入ったように切り替わる。
その花壇の近くに、ゼーリエがいた。腰を落とし、素足で土を踏んでいる。淡い外套は肩から広く落ち、短い下衣の裾から膝と脛が見える。長い金髪は背に流れ、編み込まれた束が肩の前へ垂れていた。
横顔を見せた尖った耳が温室の光を薄く透かす。胸元には緑がかった宝石が留め具のように揺れ、動くたびに光を返した。小柄な体つきだけなら、庭を眺める子どもに近い。だが近づくほど、空気の密度が変わった。ゼーリエの周囲だけ、息を吸うと胸の奥が重くなる。
ゼンゼは通路の中央で止まり、距離を取って礼をする。タヴも同じように並ぶ。欠けた袖から露出した腕が、温室の光を受けて目立った。タヴは視線を温室の隅へ一度だけ流し、出入口と水盤の位置を確かめてから、何事もない顔に戻した。
「戻ったか」
ゼーリエは花を摘む手を止めずに言う。次の瞬間、視線だけが二人の損耗へ滑り、口元が弧を描いた。
「ずいぶん派手にやったな。ゼンゼ、お前がそこまで消耗しているのは珍しい」
ゼンゼは表情を崩さない。息を整え、報告の形を守る。
「報告に参りました」
ゼーリエは頷く代わりに、タヴの欠けた袖へ顎を向けた。
「お前はもっとひどい。野性味が増したな。それは流行りの格好か?」
タヴは肩をすくめた。声はいつもの低さを保っているが、言葉の運びが妙に整っている。
「俺は好んで着ないが、ソーサラーは袖のない服を着たがる奴が多い」
彼はからかわれた点には触れずに話を別の方向へ逃がす。ゼーリエはすぐに返さない。花壇の土を指で軽く崩し、そこで初めて顔を上げた。
「なぜだ」
問いは短く、冗談の延長に聞こえるが目は笑っていない。ゼンゼには、その意図がまだ見えない。
タヴは説明を始める。言葉が並び、息継ぎが整っている。理由を答えるというより、理屈を組み立てて見せる口ぶりだ。
「ソーサラーの力は学んだ技術じゃない。血や体の内側に刻まれていて、魔法を組むときは腕と手で流れを整える。身振りが必要な術が多いし、布が引っかかると感覚が狂う。血筋の徴が皮膚に出る者もいる。隠すより──」
ゼーリエは小さく鼻で笑い、会話を切り上げた。
「もういい。くだらん」
その一言で温室の空気が戻る。ゼーリエは花から視線を外し、ゼンゼへ向き直った。
「報告しろ」
ゼンゼは一歩だけ前へ出る。背筋を崩さずに要点だけを口にした。
「現地でマインド・フレイヤーの関与を確認しました。村落周辺に大型の異形が投入され、住民を狙って攻撃していました。攻撃は腐食性の液と精神への干渉が中心で、多元宇宙側の神格の関与も確認されました」
ゼンゼは状況を短く束ねる。細部を積むより、協会が動く理由を明確にする。
「交戦の結果、村の壊滅は防ぎました。負傷者は出ていますが、住民の避難と負傷の処置は現地で手配しました。指揮を取る存在が後方にいる可能性があります。今後も同種の投入を想定し、精神防護と腐食への対処を優先して整える必要があります。詳細は後ほど記録にまとめて提出します」
ゼーリエは頷いた。花の香りの中でも、その声だけは乾いている。
「ご苦労だったな」
労いはそれだけだ。ゼーリエは土を払うように指を擦り、視線を通路の先へ投げた。
「敵の新しい兵器に、外の神格の介入か。私のところに書類が山になりそうな話ばかりだ」
ゼーリエは言い切る前に、口元の笑いを消した。視線がタヴへ固定される。
「だが、それより先に片をつけることがある」
温室の明るさが変わったわけではないのに、ゼンゼには光が一段落ちたように感じられる。呼びかけの名は口にせず、ゼーリエは男に問う。
「……お前は誰だ」
ゼンゼは反射的にゼーリエを見た。口が勝手に動く。
「ゼーリエ様……?」
タヴは即答しない。ゼーリエの言葉を受け流すように息を吐き、肩の力を残したまま返す。
「何の話だ。俺はタヴだ」
ゼーリエは短く笑った。口元だけが上がり、目は笑っていない。
「さっきの質問が気まぐれに聞こえたか?違うな。わざと聞いた。お前の口から理屈を引き出せば、言葉の癖が出る」
ゼンゼの喉が詰まる。服の話が、ここへ繋がるとは思っていない。ゼーリエが会話の最初から何かに引っかかっていたことは伝わる。だが、何を確かめようとしているのかが見えない。
ゼーリエは続ける。口調は淡々としているのに、言葉の刃ばかりが鋭い。
「以前タヴが《Tongues(言語会話)》で喋ったときは、もっと翻訳の質が低かった。どこか妙に耳障りだったが、今はそれがない。同じ術者のものとは思えん」
タヴの目がわずかに細くなる。ゼンゼはそこで初めて、ゼーリエが何を言っているのか理解した。翻訳の違和感など、考えたこともなかった。タヴが別の方法で言葉を合わせていたとしても、ゼンゼはそれを気にしない。伝われば十分だと判断していた。
ゼーリエは逃げ道を塞ぐように、視線を外さない。
「私を舐めるなよ。そのまま隠し通せると思ったか?」
温室の水面が静かに揺れ、睡蓮の葉が一枚だけ震えた。ゼンゼは自分の髪が少し浮くのを感じる。ゼーリエの魔力ではない。タヴから別の圧力が立ち上がっている。
タヴは黙る。呼吸が一段遅くなり、姿勢が変わった。目線が少し下がり、視線の鋭さだけが残る。肩の可動域がわずかに広がり、筋肉の緊張の質が変わる。ゼンゼには、その変化が戦闘前の構えに近いことだけが分かった。
次の言葉は、タヴの声に似ていながら温度が違った。
「久しぶりだな、ゼーリエ。あの時の模擬戦以来か」
温室の空気が少しだけ冷える。花壇の縁に咲く数輪の花が色を褪せ、花弁の端が乾いて丸まった。土の匂いに混じって、湿った鉄の臭いが薄く差す。水盤の水面は墨を落としたように暗く揺れ、反射が歪む。タヴの背後、ガラスの反射に黒い剣の輪郭が重なり、影が地面の線を削った。影の縁が揺れ、温室の奥が遠く見えた。
ゼンゼは反射的に半歩引く。今の一人称が何を意味するのか、頭では追いつかない。だが体が先に理解している。タヴではない何かが前に出ている。
ゼーリエはその変化を見て、薄く笑った。
「名乗れ」
返答は短い。
「我は《Hexblade(影の剣)》だ」
ゼーリエの瞳の奥に、一瞬だけ別の景色が重なる。模擬戦の最中、相手の記憶の底に引きずり込まれたとき、幼いタヴの背後に浮かんでいた剣の影があった。記憶であるはずのそれは、確かにゼーリエを見返し、痛みのみを残して消えた。
ゼーリエは息を吐くように言う。
「なるほど。お前が言葉を解さない子どもに契約を押し付けた張本人か」
タヴの顔のまま、声だけが硬い。
「押し付けてなどいない。彼が選んだ。そもそも我がいなければ、この器は既に死んでいる」
ゼーリエの目が鋭くなる。温室の光が瞳の奥で鈍く光った。
「今すぐ身体の主導権をタヴに返せ」
返答は早い。
「できるならしている。だが今は器の損傷が深く、意識を表に出せない。修復に時間が要る」
ゼーリエはしばらく黙り、嘘ではないと見て舌打ちした。
「面倒だな」
彼女は問いを変えた。
「お前の目的は何だ。この世界で何を得るつもりだ」
「それをお前に言う必要があるのか」
無感情な言い方が相手を挑発しているようにも聞こえ、ゼーリエの目がわずかに細くなる。
「いい度胸だな。なら、言いたくなるようにしてやる」
ゼーリエはゆっくり腰を上げた。素足が土を離れ、石畳を踏む。口元の笑いが消え、タヴへ向けた視線が揺れない。次の瞬間、温室の空気が押し潰された。直接目に見える揺れはなく、水盤の水面が薄く波打ってガラスの骨組みが微かに鳴った。だが、花壇の花は折れずに踏みとどまる。圧力の中に守りが混じっており、ゼーリエの魔力は鋭く無駄がない。
その圧に応えるように、タヴの喉が低く鳴った。
「嵐は我が名に従う」
タヴの胸の奥で《Innate Sorcery(生来の魔術)》が開く。生まれつき身体に刻まれた魔力が深く解け、嵐の性質が術式を待たずに器へ満ちる。肩の力が抜け、呼吸と重心が安定した。
熱を帯びた濃密なうねりが先に立ち、遅れて冷たく輪郭を削る影が縁を作る。温室の一角で温度が落ち、近くの花が一斉に萎れた。水盤の縁に並ぶ小さな鉢植えが震え、土がこぼれる。
ゼンゼの髪がふわりと持ち上がり、束の先が空中で揺れた。彼女は反射で魔力を測ろうとするが、密度が濃すぎて尺度が働かない。そこにあるのは、大魔法使いゼーリエに並ぶ、あるいは凌駕する量が一つの器から噴き上がっているという事実だけだった。
ゼンゼの足元で影が濃くなり、床の目地から黒い腕が這い出した。腕は冷たく、指の形だけがはっきりしている。その指がゼンゼの足首を掴み、影の中へ引きずり込もうとした。
「……っ、離せ!」
ゼンゼは髪束を硬く締め、先端を細く揃えて足元を払う。髪は黒い腕を断ったはずだった。だが腕はほどけず、指は食い込んで離れない。ゼンゼの踵が地面を擦り、身体が半歩だけ沈んだ。
タヴはゼンゼを見ない。ゼーリエを正面から捉えて影の圧をさらに増す。巻き込まれているゼンゼへの無関心が、今そこにいるのがタヴではないことを際立たせた。
ゼンゼの膝が落ちかけた刹那、ゼーリエが指先を軽く振った。ゼンゼの足元に淡い光が走り、円を描く。円の内側に入った黒い腕がほどけ、靄になって散った。残った冷気も、光の縁に弾かれて外へ押し戻される。
さらにゼンゼの周囲に薄い膜が張られ、圧力が一段だけ外へ逃げた。膜の内側の温度は保たれ、ゼンゼの呼吸がようやく整う。耳の奥で鳴っていた高い音が薄れた。直後、ゼーリエの声が落ちる。
「跪け」
言葉が届くと同時に、上から見えない重さが降りる──その瞬間にタヴの口も動いた。
「動くな」
冷たい楔がゼーリエの足首から這い上がり、関節の隙間へ食い込もうとする。二つの命令が温室の中央でぶつかり合い、音のない衝撃が走った。水盤の水面に生まれた波が途中で折れ、反射がひしゃげる。花壇の花粉が舞い、ガラスの骨組みが短く軋んだ。
ゼンゼは咄嗟に目を伏せ、歯を噛みしめた。膜が硬く張り、衝撃が肩から背へ抜ける。膝が揺れたが、髪を地面へ突いて踏みとどまる。二人の命令が噛み合わずに弾け、その余波だけが膜の内側へ押し込んできた。
だがゼーリエは止まらない。彼女の足元に薄い霜が走って動きを縛ろうとするが、霜は足首で溶ける。彼女は一歩も引かずに、命令を受け止めながら圧を掛け続けた。
積み重なる重さに耐えきれず、タヴの膝が地面へ触れかける。直後、胸の奥で硬いものが脈打ち、黒い影が濃くなった。沈める力が途中で弾かれ、タヴは体勢を立て直す。
そのまま拮抗が数秒続いた後、二つの圧力が同時に緩む。温室の空気が流れて花の香りが戻る。水盤の表面がようやく落ち着き、睡蓮の葉が静かに揺れを収めた。だが萎れた花は戻らない。花弁の縁が乾いた状態で固まっている。
ゼーリエは肩の力を抜く。タヴも同じように、臨戦の姿勢だけを外した。互いに一歩も詰めないまま、距離が維持される。
「話す気になったか」
ゼーリエが言う。タヴの口元がわずかに歪む。
「イカれた女だ……ここで器を壊されてはたまったものではない。話す」
彼は一拍置いて言葉を選び、必要な部分だけを出す口ぶりに変わった。
「我の目的ではない。我が主の意思だ」
レイヴン・クイーンという名が続いた。《Hexblade(影の剣)》が仕えるのは、死と魂の境を司る女王だという。
「我が主がこの世界の魂の行き先に興味を示している」
ゼーリエは「魂の行き先」という言い回しから次に出る言葉を察したが、口を挟まずに相手の続きを待った。
「その地の名は──《オレオール(魂の眠る地)》」
ゼンゼはその名を知っている。魂の眠る地と呼ばれ、北の果てにあると伝わる場所だ。異界の口から迷いなくその名が出たことに、ゼンゼは一瞬息を止める。
温室の水滴が落ちる音が、やけに大きく響いた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。