モリデウスは、橋の上の人間──玩具にもならぬ虫けらどもを見た。
橋の中央で足を止めた巨体は体長四メートル。踏み出すたびに石畳が軋み、右手のモーニングスターは投石機の弾頭を柄へ無理やり括りつけたような重さで、左手の爪は曲がった短剣を束ねたように長い。
二つの頭は別々に戦場を読む。狼頭は上を追い、砲座、空路、回廊の角度、煙の流れを見る。蛇頭は下を舐めるように見て、槍の間隔、入口前の人の密度、術者の位置、死体を増やせる場所を拾う。
その視線の先で、青い外套の隊長は前列へ身体を差し入れ、紫の紋章を背負う護衛隊長は入口の前で湾刀を抜く。盾持ちの男は槍列の欠け目へ肩をねじ込み、女の聖職者は人の流れを止めぬように喉を枯らしている。金属の女は空を撃ち、鉄の従僕は橋の縁を支え続ける。
虫けらどもは、まだ生き延びられると思っている。シャーンの守りはどこもかしこも継ぎ目だらけだ。橋は細い。入口は狭い。空は低い。どれか一つでも裂ければ、その形のまま全体が崩れる。
蛇頭が低く鳴り、奈落語が湿った空気を裂いた。
「Reth ul. Skar uth. Vel na. Khol bar(左を押せ。上を散らせ。火を入口へ落とせ。支えへ回れ)」
ヘズロウが槍列の左端へ体重を寄せ、ヴロックが翼を返して橋の頭上を掻き回す。フレイムスカルは高度を落として入口前へ滑り込み、バルルグラは補強材の影へ潜る。モリデウスは指示のみを飛ばして前へ出ない。まずは橋の上の流れを壊しにくる。
その結果が、前線を支えるダレクの視界へ真っ先に飛び込んできた。
ヘズロウが粘液を引きずって突っ込み、前列の槍がまとめて撓む。一本が折れ、もう一本が兵ごと後ろへ弾かれた。ほぼ同時に、頭上をかすめたヴロックの翼が風を叩きつけ、燃える頭蓋骨が入口前へ低く落ちる。さらに橋の外壁側では、バルルグラが補強材へぶら下がって拳を振り上げた。
橋上と入口前と上空が、一息で全部悪くなる。
ダレクは変化を見て守り切る戦い方を捨てた。いま必要なのは持ち堪えることではなく、崩れる速さを少しでも鈍らせることだった。彼は左へ歪み始めた槍列へ盾ごと身体をねじ込む。
「中央へ寄れ!列を切るな!」
怒鳴り声は短く、励ます言葉はない。言葉を増やすより、通路を塞ぐ体と恐慌をどける方が早かった。
ヘズロウの腕が伸びる。《Stench(悪臭)》で兵の一人が柄を引いた。そこにできた隙へ、ダレクは右の長剣を斜めに走らせる。刃が粘つく前腕を裂き、返ってきた衝撃で腕の骨まで痺れる。それでも足を滑らせない。石畳へ踏み込んだ靴の底で、粘液がぐしゃりと鳴る。
後ろでは、恐慌が列の形を変え始めていた。悲鳴が上がるたびに肩がすくみ、誰かが足を止め、それに追いついた後ろの列が押し、押された者が前へのめる。倒れた者を起こそうとした手の上へ、別の誰かの膝が乗る。恐怖が人の流れを潰し始めている。
「近い奴が起こせ!道だけ空けろ!」
ダレクの声は背中越しに飛び、入口前で護衛が転びかけた避難民を中央へ押し戻す。そのすぐ横で別の兵がフレイムスカルの火を槍で払っていた。列のどこかでは「誰か起こしてくれ!」という市民の声が重なり、誰の言葉も最後まで通らない。
入口寄りの外側では、フィアが頭上の塔を見上げた。外壁の装甲板が左右へ割れ、隠されていた都市防衛の対空砲がせり出してくる。青白い導光が砲身の内側を走り、準備が整ったと見て取れた。
「やっと来たね。標的をマークするよ!砲座手は光を撃て!」
フィアは《Arcane Firearm(秘術銃)》を持ち替え、橋のすぐ上の空へ照準を上げた。短い詠唱が終わると、低く飛び込んできたフレイムスカルと、旋回を下げたヴロックの輪郭へ紫の光が貼りつく。《Faerie Fire(妖精の火)》の鈍い光が敵の縁を浮かせ、煙の向こうでも見失いにくくする。頭蓋骨の歯列と翼の骨組みだけが不自然に浮いた。
塔腹の対空砲は、その光を追ってゆっくり砲口を合わせる。橋へ面した周囲の塔窓や外廊下でも、冒険者や兵たちが弾丸や魔法をばら撒き、フレイムスカルとヴロックへ牽制を飛ばす。落とし切るためではない。数秒でも空の動きを鈍らせるためだ。
ミロはその横で、声も上げずに欄干側へ滑る。すでに打ち込んだ固定具と補助線は残っている。新しく何かを作る時間はない。彼は背の大槌を両手で握り、欄干の破断しそうな箇所へ足を掛け、半身を外へ出した。
バルルグラの黒い手が補強材へ掛かった瞬間、大槌の横薙ぎが手首を叩く。骨と毛と石がぶつかる鈍い音が鳴った。続けてミロは柄頭を石の継ぎ目へ叩き込み、自分の足場をひとつ増やす。自分が落ちれば、後ろの列まで沈むと分かっている動きだった。
入口横では、セレナが案内役から半歩前へ出る。胸元の聖印を握り、抜いた戦棍で低く落ちたフレイムスカルの側頭を横から打ち払う。燃える骨が入口の柱に当たり、火花が散った。
「アラワイの恵みは尽きない。生きて立って、前へ!」
短い祈りと一緒に《Bless(祝福)》の温かな光が落ちる。ダレクの肩、ミロの背、シャーン・ウォッチの隊長の槍を握る手へ、同じ色の加護が一拍だけ宿った。三人の踏み込みが、目に見えて深くなる。
橋の中央で人波を量っていたモリデウスの蛇頭が、その光へほんの一瞬角度を変えた。アラワイの名を含む祈りと《Bless(祝福)》の光が、蛇頭の視線を短く引き留める。
転移室の内側では、エリンが詠唱の手順を崩さない。指先で銀粉の流れを整え、煙で乱れる符号を抑え込み、開いた円へ次の組を通す準備だけに集中している。彼女は外を見ない。見る余裕はない。ただ、橋の揺れが一段と深くなったことは、足裏へはっきり伝わった。
塔腹の対空砲が、そこでようやく吼えた。砲身の根元で魔力が集まり、青白い光が管の内側を走る。砲手は照準環を追い、観測手が観測窓へ身を寄せる。脇で整備に入っていた若い装填手は、次弾の装填符を抱えながら砲架へついた。観測手が下を指さして叫ぶ。
「見えた!下のやつだ、撃て!」
最初の一射がヴロックの進路をわずかに曲げる。すぐに装填符が差し込まれ、砲身の内側に青白い光がもう一度走った。二射目で橋すれすれを飛んでいたフレイムスカルの高度が上がる。橋上から見ると、空が一瞬味方したように見えた。
モリデウスは、その一拍を待っていた。
怪物はまだ前へ出ない。橋の中央で足を止めた状態で、狼の頭は上空を、蛇の頭は橋面を見ている。四メートルの巨躯はじっとしているだけで橋幅を圧迫するのに、視線が音もなく滑っていく。長い首の蛇頭が、奈落語で指示を飛ばした。
「Reth vel'rak. Akh na. Sar ukh(死角へ潜れ。目を焼け。測り手を乱せ)」
返事は声ではなく、動きで返る。ヴロックが砲座の死角へ滑り込み、フレイムスカルが橋の高さまで一気に沈む。燃える頭蓋が観測窓へ張りつき、眼窩の火を収束させて《Fire Ray(火炎光線)》を走らせた。観測手の顔が焼け、苦悶の声を漏らして倒れる。
そのまま頭蓋は窓の内側へ押し込み、今度は砲手へ向けて燃える顎を開くが、火が吹かれるより早く、砲手が金具を振り上げた。頭蓋を叩き落とし、踏みつけで骨を割る。だがそちらへ気を取られた刹那、ヴロックが横から掠め、《Stunning Screech(朦朧化の絶叫)》を叩きつけて離脱する。砲手の視界が白く飛び、手が測距環を外れる。
砲手は朦朧とした状態で測距環へ手を伸ばすが、指先は空を掻く。若い装填手が咄嗟に操作卓へ飛びつく。しかし、彼は橋の欄干際に照準を合わせ、明らかに敵がいない場所に砲身の角度を調整する。彼のみがそこに敵がいると、本気で信じているように。
「ま、待て……!」
砲手の制止は言葉になりきらない。若い装填手は引き金を押し切る。
砲弾は光るヴロックを掠めもせず、その下を抜けて橋の欄干と接続部へ食い込む。石と鉄が爆ぜた。欄干の一角が消し飛び、金具と石片が人の列へ降る。
橋端で槍を構えていたシャーン・ウォッチの兵が、首から上を石片で持っていかれた。胴体が二歩よろけ、そのまま欄干の外へ吸い込まれる。避難列の中でも一人が足を取られて半身を投げ出し、後ろからぶつかった別の避難民と一緒に消えた。
若い装填手は口を開く。見えていた敵の姿が歪む。彼は何を撃ったのか確かめようと、観測窓の向こうに目を凝らす。塔腹の壁へ張りついたバルルグラが、牙を剥いて笑っているのが見えた。そして視界に食い込んでいた敵影──《Phantasmal Force(幻の強制力)》が音もなく崩れる。
「……違う、ちがう、いま……そこに……」
言葉は最後まで続かない。さっきまで確かにそこにいたはずの敵は、自分にしか見えない幻だと知ってしまったからだ。
砲手がふらつく腕で襟を掴み、呆然とする若い装填手を強引に引き戻す。
「落ち着け!今は次弾を込めることに集中しろ!」
誤射の余波で人波が詰まる。前が止まり、後ろが押し、中ほどが潰れる。誰かの肘が誰かの喉へ入り、膝を折った者の背に次の人間が乗る。悲鳴は長く続かない。息が詰まれば、それ以上は声にならないからだ。
「入口を塞ぐな!」
ダレクは振り向かずに怒鳴り、列へ割り込もうとした冒険者の一人を盾で壁へ押しつけた。男は武器を落としても拾おうとしない。目の焦点が合わず、口だけが同じ言葉を繰り返す。
「やだ、やだ、無理だ、無理だ、通してくれ、通してくれって……」
男の目は戻らず、足も前へ出ない。ダレクはもう戦列へ戻せないと判断した。
「もういい!そこから動くな!」
盾を外すと壁伝いに男が崩れ落ちた。ダレクはその姿を一瞥し、戦列へ戻る。
ミロは欄干の破断部へ体を差し込み、大槌の柄を石の継ぎ目へ噛ませる。さらに既設の補助線へ腰の金具を掛けて、自分の体を橋の部材にする。そこへ、外壁からよじ登ったバルルグラが拳を叩きつけた。石が鳴り、橋全体がひとつ沈む。ミロは半歩も引かない。片腕の関節が嫌な音を立てても、大槌の角度をずらして支点を殺さない。
砲座側には「橋の付近へ撃つな!」という命令が飛んだ。誤射を防ぐために上空支援の手が一瞬止まる。その空白を埋めるため、シャーン・ウォッチの信号員が塔窓を開き、隣接空域へ灯火と旗を打つ。霧の向こうの別塔で、短い応答灯が返る。遠くの回廊に小さな光が生まれた。
少し遅れて、二本マストの巡回飛行艇が霧の向こうから現れる。船腹の《Elemental Ring(元素の輪)》が緑白に光り、甲板の射手が橋へ向けて身を乗り出していた。
「あれは……東回廊の船だ!」
橋上の誰かが叫ぶ。フィアが一瞬だけ顔を上げる。ダレクもつられて顔を上げた。あれが上を払えば、橋の圧はまだ散らせる。
モリデウスは砲座と飛行艇の動きを見ていた。狼の頭は砲口の向きを追い、蛇の頭は回廊へ入ろうと下がってくる船腹の高さを測る。砲座は誤射を恐れて橋筋へ撃てず、飛行艇は橋上を援護するために高度が低い。
「Vel akh. Thar'mul(頭上ではなく脇へ。輪を焼け)」
奈落語の二語三語で、空が動く。ヴロックは艇の真上ではなく進路脇へ散り、逃げ道を狭める。フレイムスカルは帆や甲板ではなく、船腹の光輪が見える側へ落ちていく。
フィアは舌打ちし、足元の砲弾片を拾い上げた。
「くそ、離れろ!」
《Catapult(物体射出)》が走る。金属片が一直線に跳ね、《Elemental Ring(元素の輪)》へ取りついた頭蓋骨の一体を砕く。だが、その直後にヴロックの一体が翼を畳んで急降下し、フィアの喉笛へ嘴を突き込もうとした。
オリエン護衛隊長が一歩割り込む。右の湾刀で嘴の軌道を外へ弾き、返す左の湾刀で首を払う。飛び込んできた勢いを殺さずに、ヴロックの頭が橋の外へ飛んだ。血と羽が散る中、隊長は上を睨んだまま低く吐き捨てる。
「これでは切りが無い」
飛行艇は橋へ当てまいとして船体を寝かせる。その瞬間、《Elemental Ring(元素の輪)》の片側がむき出しになる。モリデウスが左手を上げた。狼頭も蛇頭も黙る。次の瞬間に吐かれたのは、一音の奈落語だった。
「Kreth(裂けろ)」
掲げた左手から青白い《Lightning Bolt(電撃)》が迸り、一直線に飛行艇へ走る。稲妻が輪を貫き、光輪が一拍ばかり暴れ、船体がぐらりと傾ぐ。その剥き出しになった側面へ、左右から浮いた複数のフレイムスカルが一斉に《Magic Missile(魔法の矢)》を放つ。
赤く光る矢が操舵席と機関士の胸、舵輪へしがみついた観測手の肩を続けざまに穿つ。飛行艇は操舵が死に、制御を失い、塔腹を擦って外板と帆を剥がし、斜めに沈み、最後に元素機関が腹の中で弾けた。
爆風が橋へ叩きつけられる。燃えた外板がオリエンの護衛一人を潰し、別の冒険者は肩から先を吹き飛ばされたまま地面へ転がる。避難民も数人が火を浴びる。短い悲鳴があちこちで切れて、その後に咳と嗚咽のみが残る。
「うわああっ!燃えてる、燃えてる!誰か、消してくれ!」
火のついた服を脱げずにのたうつ市民を、セレナへ届く前にオリエン護衛の一人が蹴り倒し、床へ擦りつけて火を消す。その横では、顔を焼かれた男が何も見えないまま列の逆へ歩き出し、ぶつかった避難民ごと転んだ。
助からない者が、目に見えて増え始める。
砲座でも、その光景を見た若い装填手が一歩下がり、口元を押さえた。自分の誤射と、目の前で燃えながら落ちる艇が頭の中でつながってしまったのだ。砲手が襟首を掴んで持ち直させる。
「吐くな。今吐くなら外へ吐け。手は離すなよ」
震える返事は声にならず、若い砲手は涙と煤でぐしゃぐしゃの顔のまま、再装填の符を押し込む。
爆散した飛行艇の破片で、入口前の運用がさらに悪化する。エリンは詠唱を止められない。止めたら終わる。だから人数をさらに一段絞る。
「次は右から五人。走らずに入れ」
外の地獄と切り離したように、声が事務的に通る。光の円が開いて避難民が消え、また閉じる。そこにあるのは救いではなく、処理だ。だからこそ、まだ回っていた。
そこへ連絡路の見張りから、アンデッドの群れがこちらへ向かっているという途切れがちな報告が飛び込む。死体を残せば増える。シャーン・ウォッチの隊長が命令を出す。
「二人一組で引け!死体を橋に残すな!」
合図で前へ出た二人組の兵が、倒れた仲間へ手を伸ばす。次の瞬間、何もないはずの横合いが歪み、《Invisibility(不可視化)》を解いたバルルグラが姿を現した。一人の側頭が拳で砕け、もう一人へ牙が開く。
喉を嚙み千切られる寸前、シャーン・ウォッチの隊長が割って入る。間合いへ踏み込んできたその顔面を、槍の柄で下から打ち上げて噛みつきを逸らす。
返す穂先を喉へ突き込み、続けざまに石突きで膝裏を打つ。体勢の崩れたところへ、もう一度、今度は耳の下から深く突き上げた。バルルグラが橋際へよろめいて崩れ落ちる。
隊長は槍を引き抜きざまに怒鳴る。
「周囲を見ろ!まだ来るぞ!」
直後、頭上でヴロックが翼を震わせ、《Spores(胞子)》が橋口へばら撒かれた。咳き込みと悲鳴が一斉に広がり、人波が前ではなく横へ逃げようとしてぶつかり合う。壁際へ押し込まれた女が掠れ声で叫ぶ。
「やめてよ!押さないでって言ってるでしょ!」
その足元で男が喉を押さえてしゃがみ込む。
「息が……息ができない……!」
橋の上に死体と負傷者が増え、その一拍で後列の空気が切れた。冒険者の一人が避難民を突き飛ばして開いた《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》へ突っ込もうとする。
オリエンの護衛が剣帯を掴んで引き倒し、円の外へ叩き返した。だが、逃げようとした背を見たシャーン・ウォッチの兵が反射的に半歩下がり、別の冒険者もつられるように前線から顔を背ける。
シャーン・ウォッチの隊長は自分の兵の前へ出て、槍の石突きで胸当てを突き、肩を掴んで戦列へ押し戻した。
「下がるな!持ち場を維持しろ!」
ダレクは逃げようとした冒険者の前へ長剣を突きつけ、横を抜けようとしたところで肩口を引っかけて無理やり前へ押し返す。
「戻れ!ここで抜けたら全員死ぬぞ!」
善人の顔をしている余裕はない。ここで敗走が一つ出れば、立て直せない──刹那、入口の敷居をかすめてフレイムスカルが一体滑り込む。燃える顎の奥で赤い《Fireball(火球)》が膨らみ、転移室の内側へ向いた。
エリンの指が止まる。次の瞬間、《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》の流れを切らぬ状態で左手が払われた。《Counterspell(呪文妨害)》が火種を握り潰し、熱だけが頬を撫でる。
ほぼ同時に、入口脇で監視員の短銃が二度鳴った。一発目が燃える顎を砕き、二発目が眼窩を撃ち抜く。フレイムスカルは火を散らしながら床へ落ち、転移室の手前で転がって止まる。
エリンの顔が、わずかに強張った。呼吸が一拍だけ乱れる。彼女の綻びを見たセレナは、入口横から内側へ一歩踏み込み、その肩越しに聖印を向ける。
「崩れないで。今あなたが止まったら終わる」
《Sanctuary(聖域)》の薄い気配がエリンの周囲に落ちる。セレナはすぐに入口横へ戻り、今度は列を押す役ではなく、入口へ届く敵を戦棍で叩き落とす役に変わる。燃える頭蓋骨がひとつ低く滑り込んできた。彼女は横殴りに打ち払い、砕けた歯と火の粉を床へ散らした。
フィアも状況を見て、今の《Eldritch Cannon(魔導砲)》の役割が違うと決める。彼女は起動中の砲へ指先を走らせ、刻まれた符線と中核の組み方を一息で組み替えた。砲口の向きが閉じるように沈み、三脚の中心核が膨らむ。次の起動で放たれたのは力場の弾ではなく、鈍い守りの波だった。
「とにかく時間を稼ぐよ!」
《Protector(防護機)》の鈍い波が戦列へ広がる。冒険者や兵の身体に薄い膜のような光が乗り、敵の攻撃を少しだけ防ぐ。
シャーン・ウォッチの隊長は笛で隊形を細くし、死体搬送の二人組を再度送り出す。オリエン護衛隊長は戦列より数メートル前方で入口側の間合いを受け持ち、二刀の湾刀で侵入線を切る。多元安定機構の監視員は片腕で負傷者を引きずり、もう片手の短銃で頭上へ牽制を放つ。デーモンたちの押し込みで、戦列はじりじりと入口側へ後退する。
だが、砕けた欄干の切れ目と沈んだ支点だけは誰かが押さえねばならず、ミロが戦列の前方に取り残される。前へ出たのではない。後ろの線が押し返された結果だ。彼がそこを外せば、崩れた切れ目から次の人間が落ちる。
モリデウスの視線が、そこへ止まる。その瞬間、ダレクの背に冷たいものが走った。押し返される戦列に気を取られ、ミロへの援護が一拍遅れた。
「ミロ、逃げろ!」
声が届き切るより先にモリデウスが動く。橋の中央で死体を踏み越え、大股で距離を潰す。三歩、四歩。石畳を砕く音だけが遅れて追い、巨体に似合わぬ速さでミロへ迫る。
別塔側の橋口にいた射手がかろうじて反応し、一発だけ銃弾を飛ばす。弾は狼頭へ吸い込まれる軌道だった。だがモリデウスは走りの勢いを殺さずに、モーニングスターを横へ払って火花ごと弾き飛ばす。
フィアは《Web(クモの巣)》を前方の橋面と欄干に叩きつける。白い粘糸が一気に張り、その付近にいたヘズロウも巻き込みながら、モリデウスの進路へ網を落とす──直後に蛇頭が低く奈落語を吐いた。
「Vhar'nek(消えろ)」
次の瞬間、橋面と欄干に絡んだ粘糸が根元から千切られるように消えた。監視員が反射で叫ぶ。
「あれは《Dispel Magic(魔法解除)》です!」
フィアの顔が引きつる。
「最悪……そういうのまで持ってんのかよ!」
オリエン護衛隊長が斜めへ踏み込んでミロの前へ飛び出す。右の湾刀でモリデウスの手首を刈り、左の湾刀で腹を裂くつもりだった。
モリデウスはそれを真正面から受けない。右の湾刀へモーニングスターの柄を叩きつけ、左の湾刀は爪で外へ払う。二本の刃が左右へ弾かれた瞬間、モリデウスは踏み込みの勢いのまま脚を振り上げ、護衛隊長の胸へ蹴りを叩き込む。
護衛隊長はとっさに身をひねり、致命打だけは外す。それでも勢いは殺しきれない。体ごと弾き飛ばされ、橋面を跳ねてダレクへ突っ込んだ。
「っぐ……!」
ダレクは盾を構えながら半身で受け止める。鈍い衝撃が腕から背へ抜け、膝が地面を削る。そこへオリエンの護衛が二人、「隊長!」と叫びながら息を切らして駆け込み、倒れかけた隊長の身体を左右から抱えて入口側へ引きずっていった。
ダレクは振り返らず、右手の剣の代わりに足元へ転がった折れ槍を掴み、半歩踏み込んで投げる。槍は真っすぐモリデウスの胸へ飛ぶ。だがモリデウスは突進の勢いを殺さず、踏み込みの軸をわずかに斜めへ切って上体を半身に開き、穂先を脇の外へ滑らせた。ダレクはすぐに剣を拾い直すが、巨体はもうミロに肉薄していた。
ミロは腰の金具で支えを残しながら、片腕を大槌を引き戻し、下から脛を砕く軌道で振り上げる。並のデーモンなら膝を折る一撃だった。だがモリデウスは左の爪で柄の途中を打ち、重い軌道そのものを欄干へ逸らす。大槌は石へめり込み、火花を散らした。
直後、モリデウスのモーニングスターが振り下ろされる。狙うのは腕でも脚でもない。橋を持たせている胸郭と中枢だ。
重い一撃が、金属板と内材と固定具をまとめて潰す。潰れた胸へさらに棘が食い込み、橋を支えていた力そのものを石畳へ叩き込む。大槌の柄が石へ食い込み、そこで折れた。ミロの内側の光が消え、最期の一言が掠れて出る。
「……みん……な……すま……ない」
モリデウスは砕いたミロの胴を、そのまま橋の支えから引き剥がす。千切れた索が弾けた瞬間、ミロが持たせていた欄干側の線が一気に沈んだ。橋端にいた二人が、霧の中へ消える。シャーン・ウォッチの兵が片腕で誰かを掴もうとして、自分も半身を持っていかれる。近くの冒険者が咄嗟に腕だけ掴み、骨がきしむ音が橋の悲鳴に混ざった。
フィアとセレナの息が止まる。
「ミロ……嘘だよね……?」
フィアの声は割れた吐息だ。セレナは戦棍を握った体勢で言葉を失う。長いあいだ、前に立ってくれるのが当たり前だった鉄の背が、ただの残骸に変わっている。
モリデウスはその二人の顔を見た。ミロの死が心へ入ったのを確かめるように。わざと砕いたミロの胴を片腕で持ち上げ、ひしゃげた胸板から火花と細い煙をこぼれさせながら、橋上の視線が嫌でもそこへ集まる高さで一拍止める。千切れた索が石畳を擦り、折れた腕が力なく揺れた。
狼頭が、乾いた処刑人の声で奈落語を吐く。
「Khar ul, rakh'tor. Dath vesh(このガラクタはくれてやる。好きに壊せ)」
そう言うと、モリデウスはミロの残骸を後方のデーモン群へ放り投げた。鈍い金属音を立てて地面を滑った死体へ、ヘズロウが粘液まみれの足を乗せ、バルルグラが笑うように拳を振り下ろす。装甲がもう一度潰れ、固定具がばらばらに弾けた。
そこへ上空から一体のヴロックがわざわざ降りてくる。翼で瓦礫と血を撒き散らし、鉤爪でミロの肩装甲をひっかき回し、嘴で頭部の縁を打って転がす。
ダレクの視界が赤く狭まる。
ヘズロウの粘液がミロの肩へ垂れ、ヴロックの嘴が装甲の継ぎ目をつつくたび、地面の上で乾いた音が鳴る。仲間の遺体が壊されているというより、玩具で遊ぶような手付きで弄ばれている。その光景が、橋の軋みや悲鳴より先にダレクの頭へ入った。
「この、クソ共が……!」
足が前へ出かけるが、ダレクはそこで止まる。自分が飛び出したところで死体が一つ増えるだけだ。ミロを取り返したい衝動を飲み込む。盾の縁へ指が食い込み、革が軋んだ。
セレナはデーモンたちの冒涜的行為を真正面から見てしまう。傷ついた者を救い、死者を悼むことを拠り所にしてきた彼女には、その手付きが仲間の死そのもの以上に悪辣だった。怒りと嫌悪で呼吸が浅くなり、入口横へ留まるはずの足が、無意識に一歩外へ出てしまう。
モリデウスはその綻びを拾う。
見えない力──《Telekinesis(念動術)》がセレナの身体を掴んだ。肩と腰が同時に持ち上がり、足が床から離れる。
「きゃっ──!」
戦棍を振った腕が空を切る。聖印の鎖が胸元で跳ね、身体はそのまま横へ持っていかれる。次の瞬間、セレナは砕石と死体の上を宙に引かれ、モリデウスの側まで一気に運ばれていた。
ダレクが今度こそ踏み出す──しかし彼が踏み出すより先に、フィアが剣帯を掴んで引いた。彼女の顔は今にも泣きそうだった。
「行くな!ダレクも殺される!」
ダレクは振りほどこうとして吠える。
「行かなければセレナが殺される!」
横からシャーン・ウォッチの隊長が槍の石突きを地面へ打ち込み、ダレクの前へ半歩だけ身体を差し入れた。
「冷静になれ!」
セレナは身動きの取れない状態で宙に吊られ、モリデウスの斜め前で止められる。蛇頭の射程に入る位置だ。
それを見た多元安定機構の監視員には、モリデウスの狙いが読めた。《Snakebite(蛇の噛みつき)》は、ただ殺すための牙ではない。噛まれて死んだ者を最下級のデーモン、マネスへ落とし、その魂ごとオルクスへ差し出すための処刑だ。
相手はアラワイを信仰する《Life Domain(生命の領域)》のクレリック。命を祈る者を最底へ堕として捧げれば、主への忠誠と見せしめの両方が一度に済む。
だが、理解したところでどうにもならない。頭上ではフレイムスカルが火を撒き、ヴロックが橋口を掻き回し、バルルグラが橋を揺らしてヘズロウが戦列を押し潰す。誰もが目の前の脅威に対処するので手一杯だ。モリデウスに手を回す余裕がない。
《Telekinesis(念動術)》に吊られたまま、セレナは息を乱す。悲しみも怒りも絶望も、全部が一度に胸の奥で噛み合わない渦を巻く。頬を伝う涙を拭うこともできず、それでも視線だけは逸らさない。戦棍を握った手を震わせながら、真正面からモリデウスを睨み返す。
その目を見て、狼頭の口元が初めて吊り上がった。声はない。言葉が冷たい釘のようにセレナの頭の内側へ打ち込まれる。
【お前の魂はもう神の帳簿から外れた。お前を数える神はいない。これから先に記されるのは、オルクス様の名だけだ】
橋の上では戦いが止まらない。槍が打ち鳴らされ、誰かの銃声が短く弾け、別の誰かの悲鳴がそれを呑む。そのただ中で、蛇頭がゆっくりとセレナの喉元へ狙いを定めた。
セレナは歯を食いしばる。喉へ落ちてくる牙は止まらない──直後、視界が真っ白に弾け、轟音が橋を打った。
*
ゼンゼは息を詰めたまま、正面のタヴの顔を見ていた。顔だけは彼のものだった。声も身体もそこにあるのに、前に立っているものは違う。さっき名乗った《Hexblade(影の剣)》という異物が、タヴという器の表にいる。その事実のみで、温室の湿った空気は一段冷えていた。
花壇寄りの石敷きでは、ゼーリエがさっきと同じ位置からタヴを見ている。先ほどの魔力に晒された花は、まだ立ってはいるが、花弁の端が乾いて丸まり、色を一枚薄くしていた。白いガラスから落ちる光が、タヴの頬の片側を照らし、もう半分を影の側へ沈めている。水盤の水面は静かなはずなのに、底の方でまだ小さく震えていた。
最初に口を開いたのは、ゼーリエだった。
「お前の主は《オレオール(魂の眠る地)》そのものを欲しているのか?」
問いは短い。だが、その一言で場の違和感の所在が定まる。《オレオール》という地名自体は、古い伝承の中にある。問題は、《Hexblade(影の剣)》がそれを口にした時の響きだ。遠い地名を知っているというだけではない。あの地が持つ意味まで踏まえ、その先へ視線を届かせている者の物言いである。
タヴの顔をした《Hexblade(影の剣)》は、すぐには答えなかった。視線が一度ばかりゼーリエではなく、その横の萎れた花へ落ちる。与える情報と言葉を選んでいる。
「土地そのものではない。問うべきは《オレオール(魂の眠る地)》の役割だ」
低い声が、湿った温室の中をまっすぐ通る。ゼーリエは表情を変えなかった。
「論点をずらすな。質問に答えろ」
冷えた声が、間を切り裂く。短い沈黙のあと、《Hexblade(影の剣)》が答える。
「我が主が見ているのは、死の秩序──死んだものから魂が離れ、行くべき場所へ落ちる流れだ。この世界では、その流れが濁り始めている」
その答えで、場の意味が一段と変わった。これは《オレオール(魂の眠る地)》を奪う話ではない。北の果ての伝承の地そのものに外から手が伸びているのではなく、もっと手前の、もっと厄介なものが見られている。
温室のどこかで、また水滴が落ちた。
ゼーリエの追及がひとまず途切れると、ゼンゼは無意識に結んでいた髪の先をほどく。神話や伝承の向こう側よりも、自分が見た現場のことを確かめる方が先だった。
「村外れの納屋でヴィアベルを診たのは、タヴか?お前か?」
水盤の水面が、薄く揺れる。ゼーリエは何も言わず、花壇寄りの石床に立ちながら、二人のやり取りを黙って見ていた。《Hexblade(影の剣)》はゼンゼを見る。だが視線は真正面から噛み合わない。どこか半歩外しながら答えた。
「前にいたのは我だ」
ゼンゼの喉が、わずかに硬くなる。彼女は問いを一つのみに絞った。
「……なぜヴィアベルを治療した?」
《Hexblade(影の剣)》の答えは早かった。
「器の手つきと判断をなぞって動けば、違和感を隠せる。それに、あの男を助けておく方が、以後の動きが楽になると判断した」
冷たい答えだった。言い訳の色も、恩着せがましさもない。だが、その冷たさがかえって嘘に聞こえにくい。善意だと言われるより、よほど受け止めやすかった。
ゼンゼは納屋裏の光景を思い出す。ヴィアベルの額と首筋を確かめ、魔法の反動か呪いに近い症状だと見立てた手つき。あれが全部、《Hexblade(影の剣)》の演技だとしても、助けた事実そのものは消えない。
髪の束がほどけかけ、すぐにまた締まる。
「偽装のためで、恩を売るためだった。そう言いたいのか?」
「お前が聞いたから、事実を言った。不満か?」
挑発でも弁明でもない。聞かれたから答えたと、平坦に言い切る。
ゼンゼは息を吸ったが、次の言葉がすぐには出なかった。自分でも分かる程度には、あの答えに揺れている。全部が偽りだったと切り捨てるには、彼女はタヴの実際の行動を見すぎていた。自分の命を救ったことも、ネオセリッドから村人を守ったことも。
見たものをなかったことにはできない。その沈黙へ、今度はゼーリエが切り込んだ。
「タヴはお前が身体の主導権を握る状態を自覚しているのか?そもそも、入れ替わりを認識できるのか?」
《Hexblade(影の剣)》は少しだけ目を伏せて答える。
「自覚していない。彼が目を覚ませば、自分が連続した意識の中で動き続けたと認識する。記憶は継ぎ目が見えない形で整えられる。今の会話も、そのまま残ることはない」
ゼンゼはその答えを噛みしめた。全部を知らずに、別人が行ったことを自分でやったことのように受け取る。違和感が底に溜まる。そういう壊れ方があるのだと、ようやく輪郭が見える。
だからこそ、次の問いが自然に出た。
「……なぜタヴはそんな状態になっている?お前が表に出てくる条件は何だ」
《Hexblade(影の剣)》は、その問いにすぐには返さなかった。白い光の下で、視線がゼンゼを外れ、花壇寄りのゼーリエへ向く。
「お前なら理由が分かるだろう、ゼーリエ」
ゼーリエの目がわずかに細まる。否定も肯定もしない。ただ、その沈黙だけで、ゼンゼには今の言葉が空撃ちではないと伝わった。
「鉄の檻。手首の枷。薬を含ませた布。拘束具に縛られる子供の姿。あの程度の断片でも、器が何に使われてきたかは見えたはずだ」
温室の空気が、もう一段だけ冷えた気がした。《Hexblade(影の剣)》はゼンゼへ向き直る。
「この器はずっと搾取され、心は壊れかけている。彼が耐えきれぬ時に我が前へ出る」
《Hexblade(影の剣)》は言葉を切り、幼い頃からのことを順に口にした。
タヴは親の手で売られ、地下の取引を経て、魔法使いたちの施設へ流された。檻や寝台に繋がれた状態で、魔力の量や術の再現を確かめる試験に何度も回され、倒れれば薬で意識を繋がれ、逃げぬよう拘束具を付けられた時期があったと告げる。
そこを逃げ延びても、扱いはすぐには変わらなかった。荒野を流れた末に辿り着いた小さな傭兵団では、敵襲を嗅ぎつけるための役目を与えられ、半ば奴隷同然に戦場へ連れ回された。嵐が暴れた瞬間には化物扱いで剣を向けられたとも続けた。
その後、彼を救い上げ、衣食住と訓練を与えた者もいた。だが、その庇護の中でも、上にいる者たちが先に量ったのは、封じるべき危険物か、使える戦力かという線引きだったと重ねる。
ゼンゼは、肩先でほどきかけていた髪の束の動きを止めた。
「我が介入しなければ、この器はとっくに死んでいるか、使い潰されて廃人になっている」
乾いた花弁が一枚、花壇の縁へ落ちた。
「……お前たちは、彼から更に奪うのか?」
《Hexblade(影の剣)》は静かに続ける。
「便利だから使う、危険になったら排除する。その続きをこの世界でもやるのか?」
答えを求めるための問いではない。タヴがどれだけ使い潰されてきたかを見せつけた上で、ゼンゼとゼーリエもその延長線に並べる。同情と後ろめたさを一緒に押し込み、判断を鈍らせようとしている。声が静かなぶん、その揺さぶりはかえって露骨だ。
ゼンゼの呼吸がほんのわずかに浅くなる。ゼーリエは一度、考えるように短く間を置いた。そして、その間を切るように言う。
「どの口で言っている」
温度のない声だった。
「お前も、タヴに食い込んで立っている。利用していないふりをするな」
《Hexblade(影の剣)》はしばらく黙る。
「……否定はせん」
ようやく静かな言葉が落ちた。
「我もまた、彼を使う側だ。だからこそ守る。壊れては困るからだ」
助けることと利用することが、同じ場所に並んでいる。ゼンゼはその気味の悪さを、はっきりと飲み込んだ。味方ではないが、敵だとも言い切れない。割り切れない感情が、喉の奥に残る。
ゼンゼは一度ばかり深く息を整えた。胸の奥のざわつきは、まだ引かない。ほどいた髪の先を締め直し、乱れそうになる言葉を無理にまとめる。
「……全部を話せとは言わない」
声を抑えたぶん、かえって少し硬くなった。
「二人の事情全てを、今ここで聞かされても、私は受け止めきれん。知らない名も、知らない理屈も多すぎる」
白い光が、タヴの顔の半分を照らしている。ゼーリエは口を挟まない。ただ、花壇の縁に落ちた花弁へ向いていた指先が一度止まり、視線がゼンゼの横顔をかすめて、すぐにタヴへ戻った。
「それでも、何も分からないままでは、最悪を想定してタヴを扱うことになる。……だから頼む」
ゼンゼはそこで視線を落とし、すぐに戻す。
「正直に答えてくれ。タヴを使ってこの世界で動くなら、力を何に使うつもりなのか、それだけでも教えてほしい」
温室の中に沈黙が落ちる。《Hexblade(影の剣)》は、はっきりと考える間を見せた。長くはない。だが、その時間があるだけで、今から落ちる言葉が安い妥協ではないことが分かる。
「……正直、か」
口の中で転がすように言ってから、彼はゼンゼではなく、ゼーリエへ視線を送り、また戻した。
「我と主はこの世界を裂きたいのではない。可能なら触れずに済ませたい」
ゼンゼは黙って聞く。
「だが、既に別の手が入っている。奴に《オレオール(魂の眠る地)》を掌握されれば、この世界に生ける者全てが不死の傀儡となる。そうなれば、他の世界まで墓所に変わるだろう。我らはそれを阻止したいだけだ」
「生ける者全てが……不死になる……?」
ゼンゼは思わず言葉を返してしまった。世界ひとつ丸ごとの話だと分かった途端、想像が追いつかなくなる。
「言葉通りの意味だ。この世界そのものが、死兵の供給源にされる」
その言い方で、ようやくゼンゼは被害の形が掴めた。世界の生き物が全て不死の兵に作り替えられ、動員されると言われれば、どれほどの災厄かは分かる。ゼーリエが「迷惑な話だな」と呟き、短く問う。
「その災厄をもたらす者の名は?」
理屈を追わず、危険の芯だけを抜き出す問いだ。《Hexblade(影の剣)》は答える。
「不死を喰って肥える者、オルクスだ」
その名は、ゼンゼにもゼーリエにも意味を結ばない。ゼンゼは眉を寄せた。
「……それは、人の名か?」
《Hexblade(影の剣)》は、少し声を沈めた。
「デーモンロードの名だ。だが、この世界のデーモン……魔族と同じものではない」
続けて説明を淡々と告げる。
「多元宇宙では、秩序より欲望と破壊に従う怪物どもをデーモンと呼ぶ。オルクスはその中でも死とアンデッドに偏った存在だ。生者が終わることを嫌い、死者を休ませない」
ゼーリエがそこで認識を整理する。
「死者を弄び、アンデッドを増やし、死を終わりにさせない外の怪物、ということだな」
「そうだ。我が主はそれと敵対している」
《Hexblade(影の剣)》はさらに説明を足した。
「死体を立たせるだけではない。肉から離れた魂にまで手を伸ばし、本来落ちる先へ行かせず、別の器や屍へ縫い止めて従者に変える」
温室の空気が、わずかに重くなる。ゼンゼは前に共有された報告を思い出す。討伐済みの魔族が再び現れたという話で、現在も大陸魔法協会で調査中の案件だ。
「……前に聞いた話と少し重なるな。断頭台のアウラとクヴァールが、討伐されたはずなのに、意思の薄い操り人形みたいな有様で現れたと。魔族を復活させたのは、そのオルクスの手勢だった可能性はあるのか?」
ゼーリエもまた、同じ考えに辿り着いていたのだろう。表情はほとんど動かないまま、目がわずかに細くなる。それを《Hexblade(影の剣)》が肯定した。
「可能性は高い。死を終わりにせず、別の命令で立たせるやり口は奴らの色だ。死体を残さぬ魔族にまで手を伸ばしているなら、なおさらだ」
花壇寄りの石床で、ゼーリエがわずかに重心を移した。会話の温度がひとつ落ちる。
「話は分かった」
あっさりとした声だった。
「この場では公表しない。拘束もしない」
ゼーリエはそのまま続ける。
「話を広げれば、現場を見ていない連中まで騒ぐ。タヴを先に処分しろと言い出す馬鹿も出るだろう。有用な戦力と情報源を自分で潰す気はない」
短い沈黙のあと、声の温度がさらに下がった。
「ただし監視は付ける。敵は同じだが、いざとなれば使命のために他人の都合を踏み越えることも厭わない。こいつはそういう手合いだ」
《Hexblade(影の剣)》は何も言い返さない。否定しないこと自体が、十分な答えだった。向いている敵が同じでも、足並みまで同じとは限らない。ゼーリエの判断はそこで定まる。
「……誰を監視に付けるのですか?」
ゼンゼが問うと、ゼーリエは《Hexblade(影の剣)》から視線を外さないまま答えた。
「とりあえず今日は私が見ておく」
安い遠隔監視では意味がない。タヴ──正確には、その表にいる《Hexblade(影の剣)》の実力なら、追跡や観測の痕跡を断つくらいはやりかねない。強硬手段に出られた場合、その場で最低限の抑止を掛けられるだけの力も要る。
だが、そういう札は多くない。ゼーリエ自身も協会全体を見なければならず、一級魔法使いたちも各々の任務に加え、ギスヤンキやマインド・フレイヤー絡みの案件で手が塞がっている。監視ばかりに人を張り付け続ける余裕は薄かった。
そこで、ゼーリエの脳裏を一人のエルフがよぎる。協会の外にいて動きやすく、タヴの事情もある程度知っている。必要になれば、タヴという個人を止められるだけの実力もある。だが、あのくだらない魔法に時間を費やす怠け者が、こんな厄介事を素直に引き受けるとは思えない。
ゼーリエが考え込んで黙ると、ゼンゼは少し心配そうにその顔を見た。やがてゼーリエは、《Hexblade(影の剣)》へ問いを向ける。
「器の修復に時間が要ると言ったな。タヴが表に出られるようになるまで、どれくらいかかる?」
《Hexblade(影の剣)》は一拍置いてから答えた。
「状況による。正確な日数は言えん。だが、今回はかなり無茶をした。月単位でかかるかもしれん」
ゼーリエは露骨に顔をしかめ、面倒そうにため息をつく。
「……そうか。なら、候補が見つかるまでは私が見る」
「そこまで嫌なら、監視などしなければいいだろう」
火に油を注ぐような一言だった。ゼーリエの眉がぴくりと動く。
「誰のせいだと思っている。喧嘩を売っているのか?」
《Hexblade(影の剣)》は眉ひとつ動かさない。ゼンゼが先に口を挟んだ。ゼーリエの機嫌を損ねた時の後始末がどれだけ大変か、彼女はよく知っている。
「……いちいち煽るな。これ以上面倒を増やさないでくれ」
ゼーリエはもう一度だけため息をつき、今度はゼンゼへ軽く手を振った。
「後処理は私がやっておく。今日はもう休め」
予想外の言葉に、ゼンゼはわずかに目を見開いた。
「ですが……」
「休め」
ゼーリエはそれ以上言わせず、指先で扉の方を示す。短い沈黙のあと、ゼンゼは二人を見比べた。《Hexblade(影の剣)》とゼーリエを残して出ることには躊躇いがあったが、ここで逆らうつもりもない。
「……失礼します」
礼をして身を引き、温室の扉を開ける。外の空気は少し乾いていた。背後で扉が閉まり、水滴の落ちる音ばかりが残る。
しばらくして、《Hexblade(影の剣)》が口を開いた。
「側近を下げてよかったのか?」
ゼーリエは花壇の縁に落ちた乾いた花弁を指先で弾き、淡々と返す。
「余計な耳を外しただけだ。実際、ゼンゼは疲れている。休ませた方がいい。……それに、あの子は繊細だ。お前のクソみたいな揺さぶりで、さらに疲れただろうしな」
花壇の縁に触れていたゼーリエの指先が、そこで止まる。弾かれた花弁の端が、その爪に押し潰されて細く裂けた。《Hexblade(影の剣)》は抑揚のない声で言う。
「それは悪かった」
謝意の色は薄い。
「謝罪ならゼンゼに言え」
ゼーリエは小さく舌打ちし、視線を《Hexblade(影の剣)》へ戻す。
「……話を戻す。今回の件とは関係ないが、聞きたいことがある」
《Hexblade(影の剣)》はわずかに首を傾けた。真意を測るような短い間を置いてから、低く返す。
「何だ」
《Hexblade(影の剣)》はタヴの記憶を詳細に辿れる。なら、《Hexblade(影の剣)》自身の知識も含め、本人より深いところまで掴んでいてもおかしくない──ゼーリエはそう踏み、敢えて聞いた。
「ラジエル・サン=エリオスという、魔法使いについてだ」
*
セレナは、自分の喉へ落ちてくる牙を見ていた。
逃げられない。肩も腰も見えない力に掴まれた状態で、足が空を掻く。モリデウスの蛇頭は、獲物を噛み切る寸前の獣みたいに、ゆっくりと顎を開いていた。
橋の上ではまだ誰かが叫び、どこかで銃が鳴り、欄干の向こうで石の砕ける音が続いている。だが、その全部が遠い。目の前の牙だけが、異様にはっきりしていた。
戦棍を握った手は震えている。もうどうにもならない。それでも、セレナは目を逸らさなかった。ミロが砕かれた。橋が沈んだ。人が落ちた。助けを呼ぶ声も、焼ける匂いも、もう十分すぎるほど見た。なら最後まで睨み返すしかない。
蛇頭が、わずかに引かれる。その瞬間、空気が裂けた。
白い。眩しい。けれど、ただの光ではない。冷たい風が正面から叩きつけられ、頬が引きつる。裂け目の向こうに見えたのは──。
「スマァァァァイトッ!!」
怒号と同時に、轟音が橋を打った。
モリデウスの赤い巨体が、大きく弾かれる。何がぶつかったのか見極めるより先に、セレナを吊っていた《Telekinesis(念動術)》が切れた。
胃が浮き、背中から石畳へ叩きつけられる。肺の空気が一気に抜け、視界が白く滲む。鉄の味が口へ広がり、喉がまだ裂かれていないことだけが鈍い痛みで分かった。
それでも、駆け寄る足音は聞こえた。
「セレナ!」
ダレクの声だった。モリデウスが吹き飛ばされたことで、中央にいたデーモンたちの動きが止まる。その隙へダレクとシャーン・ウォッチの隊長、近くのシャーン・ウォッチの兵が死体と砕石を踏み越えて割り込み、足を止めたデーモンの間をこじ開けるようにセレナへ走った。
横から薙いだヘズロウの爪を隊長の槍が払う。外壁側から跳び戻ったバルルグラには、兵が足元へ槍を差し込み、着地を半歩乱した。横をダレクが滑り込み、セレナの腕を掴む。
「下がるぞ!」
左右から腕を取って、石畳の上を引きずるように入口側へ下げていく。痛い。息が苦しい。だが、喉はある。牙は落ちていない。
引きずられながら、セレナは見た。
自分とモリデウスの間に、白銀の翼が大きく広がっている。血と煤と瓦礫の中で、その輝きが異様に浮く。翼の縁を滑った風が、焼けた匂いと血の臭いをまとめて払い、代わりに冷たい金属の匂いを残していった。
安堵が追いつくより先に、背筋へ冷たいものが走る。救いの姿をしているのに、橋の上の誰よりも大きく、重く、圧倒的だった。人間の戦場に、人間ではないものが降りた。そんな感覚が、セレナの胸を強く打つ。
ダレクの手が離れた瞬間、兵がセレナを抱えて入口側へ駆ける。シャーン・ウォッチの隊長は自分の槍を横に倒して通路をこじ開け、ダレクは転びかけた避難民の肩を片手で掴んで壁へ押しつけた。誰も礼を言わない。ただ、処刑が止まった数秒を、掴める者から掴んでいた。
兵に引かれて足が石畳へ戻る頃、セレナの視界も僅かに戻っていた。白い翼の向こうで、モリデウスが橋面を削って止まる。蛇頭がこちらを見たままなのが分かる。助かったのではない。まだ殺される順番が後ろへずれただけだ。
そう思った瞬間、兵の一人が無理やり彼女の肩を引き、入口側の壁へ預けた。そこでようやく、セレナは自分がまだ呼吸していることを思い出した。
視界が揺れの向こうでようやく像を結ぶ。橋の真ん中には、白銀の翼を広げたドラゴンボーンのパラディンが立っていた。
左腕の盾は半身に構えられ、右の戦鎚はまだ打撃の余韻で低く唸っている。橋へ落ちた衝撃で石畳はひび割れ、その中心が白く見えた。モリデウスは数メートル後ろへ滑らされ、爪と脚で橋面を削って止まっている。あの化け物を、真正面から吹き飛ばしたのだと、遅れて理解が追いついた。
橋の空気そのものが、あの白銀の騎士を中心に張り詰めていた。上から押しつけられるような威圧が中央から広がり、戦場の向きまで変えてしまう。
「来てくれましたか……!」
片腕で負傷者を引きずっていた多元安定機構の監視員が、安堵を噛み殺した声を漏らす。彼はすぐに顔を上げ、橋中央へ叫ぶ。
「セリア殿!中央をお願いします!入口はこちらで持たせます!」
名前が分かるのは多元安定機構の監視員だけだ。橋の上の兵や冒険者にとっては、まず見えたものの方が大きかった。
「て、天使……?」
誰かが掠れた声を落とす。
「味方……だよな?」
別の誰かが喉を鳴らす。
「……あれが、二十等級ってやつかよ」
橋の後ろ寄りにいた冒険者の一人が、信じきれない顔でそう漏らした。知っているのは二十等級という言葉だけだ。だが、いま橋の中央に立っているものが、自分たちの尺度の外にいることは分かる。
頭上を回っていたヴロックが、翼を大きく引いた。突撃しようとしていたヘズロウも一瞬足を止め、外壁にしがみついていたバルルグラが補強材から身を剥がしかける。別塔側から踏み込んでいたデーモンたちまで、露骨に橋の奥へ引こうとした。怯えている。中央に現れたドラゴンボーンのパラディンに。
その一方で、フレイムスカルだけは変わらない。まるで怯みもしない。燃える頭蓋は入口前を低く回り、赤い火の尾を引きながら次の焼き場を探している。
白銀の翼の奥で、モリデウスの二つの頭がゆっくり持ち上がる。狼頭はセリアを見上げた。蛇頭は、その周囲で逃げ腰になった配下へ視線を流す。
次の瞬間、モリデウスが動いた。
外壁側へ逃げようとしたデーモン一体が、何か言う暇もなく潰れた。振り向きざまに叩き込まれたモーニングスターが胸から上を砕き、デーモンだったものが橋の端へ転がる。声もない。
残りのデーモンたちの足が止まる。逃げれば殺される。残れば、あの白いのがいる。行き場を失った殺気が、全部まとめて中央へ向いた。先頭のヘズロウが悲鳴混じりに突撃し、バルルグラが外壁から跳び、ヴロックが高度を落とす。橋の中央へ、質量と悪意が一気に雪崩れ込んだ。
セリアは盾を前へ、戦鎚を肩の上へ引く。翼がわずかにたわみ、踏み込んだ足が石畳を強く打ってひびを走らせる。
「穢れよ、砕けろ!」
打ち据えた一点から銀色の波紋が橋面を走る。足元を起点に神聖な奔流が円を描いて広がり、《Destructive Wave(破壊の大波)》が噴き上がった。橋全体が下から殴り上げられたみたいに跳ねる。
最前の数体はその場で消し飛んだ。肉も骨も、悲鳴ごと銀の波に呑まれて砕ける。ヘズロウの巨体は腹から浮き、地面を何度も転がった。ヴロックは翼膜を裂かれながら空へ吹き上がり、バルルグラは補強材から引き剥がされて外壁へ叩きつけられる。
橋面に散っていた死体や折れ槍までまとめて跳ね上がり、次の瞬間にはまた石へ叩きつけられた。
衝撃波は入口側まで届いた。盾を立てていなければ、ダレクも膝をついていた。だが、敵だけが深く弾かれている。こちら側の列は崩れない。そこにいるだけで、セリアは戦場の押し引きを書き換えている。
だが、モリデウスは崩れなかった。赤い巨体が爪と脚で橋面を削り、正面からその波を受け止めている。肩甲と胸板が軋み、蛇頭の牙の間から火花みたいな唾液が飛ぶ。それでも膝をつかない。
銀色の衝撃の余波を受けたデーモンたちの間に、露骨な空白が生まれる。橋の中央から数歩ぶん、誰も踏み込みたがらない帯ができた。
白銀の翼を広げたまま、セリアが盾と戦鎚を向ける。前へ出ようとしたデーモンほど、そこで動きが鈍った。飛びかかろうと前へ傾けた身体が止まり、ヴロックは翼を打ち切れず、ヘズロウは半身を起こした体勢で呻き、バルルグラも飛び出す寸前の姿勢で固まる。
一歩先へ出れば、裁きに踏み抜かれると、本能の方が先に悟っていた。
それをモリデウスが、ただ視線のみで押し返す。下がりかけた一体へ蛇頭が向いた瞬間、そのデーモンは悲鳴も上げずに踏みとどまった。逃げれば殺される。残っても死ぬかもしれない。それでも前へ出るしかない。その理不尽まで含めて、赤い巨体はまだ戦場の主だった。
白銀の騎士と赤い巨体の間に、そこでようやく一本の線が見えた。あの二つの間に、誰も割り込めない。そう思わせるだけの重さがあった。
その数秒を、別の影が拾う。
塔壁のどこかにフックが噛む、硬い金具音が鳴った。音へ目を向けた時には、小柄な影が橋の外縁から振り込んできている。速い、では足りない。いたと思った次の瞬間には、もう別の場所にいる。
低く落ちていたヴロックの背を一歩踏み台にし、壁を蹴る。補助索へ引っかけたフックがしなる。影はそのまま欄干の割れ目を越え、落ちかけた兵の胴帯を掴んで入口側へ投げ返した。
「う、わっ!」
兵が転がるより先に、影はもういない。次には補助索を滑って別の場所へ移り、欄干へ腕を掛けたバルルグラの喉元へ短剣を沈める。その少し向こうで、身を起こしかけていたヘズロウが胸を押さえて崩れた。喉の奥を冷やすような、嫌な音だけが遅れて残る。
「イーシャ殿!入口側の援護をお願いします!」
監視員が今度は迷いなく呼ぶ。連携のための確認だ。
小柄なハーフリングは、足場を一つも無駄にしない。外壁の出っ張り、折れた欄干、張り直しかけの補助索、低く沈んだヴロックの翼、全部を一筆書きみたいにつないで走る。橋の上へ乗ったと思った次の瞬間には塔壁へ消え、その次には入口前の死角から現れた。
イーシャは入口前を掠めたフレイムスカルの下を滑り込み、燃える頭蓋が吐こうとしていた火の前へ短剣を一本投げた。刃そのものは骨を砕かない。だが、わずかに軌道のずれた火は柱へ噛みつき、避難民の列から外れる。彼女はもう別の場所へ移っていた。
壁を蹴り、フックを引き、外壁を半歩だけ走る。低空へ沈んだヴロックの翼へまた着地し、その反発で欄干の上へ戻る。何を踏み、どこを蹴り、何に引っかけたのか。目で追っているはずなのに一つ遅れる。
イーシャの動きが最も異様に見えたのは、中央と外周の境目だった。
中央でセリアとモリデウスが睨み合うほど、外周の継ぎ目は細かく、悪質になる。人ひとり通れるだけの欄干の裂け目。死体が重なって生まれた段差。補助索にぶら下がった状態で身動きの取れない兵。低く滑ってくるフレイムスカルの火の尾。判断の遅れが、そのまま死に変わる場所ばかりだ。
イーシャは橋の外へ半身を投げ出し、外壁に打ち込んだフックでぶら下がる。そこから大きく体を振り、沈みかけた補強材へ爪先を乗せた。
普通なら足場にならない。だが、彼女はそこで一瞬体重を預け、次の反動で橋の裏側へ潜り込む。下から這い上がろうとしていたバルルグラの手首へ短剣を通し、肘を蹴って逆方向へ折り、何事もなかったみたいに欄干の上へ戻ってくる。
さらに戻り際、彼女は落ちた槍を一本拾い上げた。それを投げたのではない。欄干へ斜めに差し込み、即席の足場に変えたのだ。そこを踏んで角度を変え、壁を蹴り、塔壁へ再びフックを噛ませる。動きの一つ一つは小さい。だが、つながると異様に長い。
入口へ下がったセレナの横へも、一瞬だけ現れた。
「立てる?立てるなら、入口をお願いね」
柔らかい声なのに、手加減はない。その一言で、セレナの足が入口の方へ向き直る。イーシャは肩を支えて一拍呼吸を整えさせると、入口脇で詰まりかけていた避難民を片手で壁際へ寄せ、セレナが立ち直る半歩ぶんの場所を作った。
助けるばかりではなく、役目へ戻す動きだ。次の瞬間にはもう消えている。壁を蹴り、フックを回し、外壁沿いを走って、今度は別の綻びへ飛んだ。
そこでは、落ちかけた冒険者が片腕で補助索にぶら下がっていた。イーシャは索の上を滑るみたいに走り、その男の肩帯へ自分の綱を巻きつける。半回転して足場を変え、その勢いを殺さずに入口側へ投げ返した。人ひとりぶんの重さを振り回したはずなのに、着地は猫より軽い。
さらに橋面へよじ登りきろうとしていたバルルグラへ短剣を二本。一本は喉、もう一本は肩。だが倒れたのは、その少し奥で身を起こしかけていたヘズロウだ。見えない何かに魂を引き剥がされたみたいにのけぞり、そのまま動かなくなる。
その直後には、イーシャはもう別の場所にいる。橋の裏へ半身を落とし、外壁へ足裏を当てた姿勢を保ち、落ちた荷箱の取っ手へフックを噛ませる。引き戻された荷箱が即席の足場になり、そこを踏んだ彼女は次には入口前の死角へ着地していた。速さのみではない。橋の壊れ方そのものを利用している。
セリアが中央を一人で押さえる存在なら、イーシャは橋の綻びへ次々に現れる存在だった。目で追っても追い切れない。
ダレクはそこでようやく、次に何をすべきかを掴み直す。
「搬送班は右へ寄せろ!欄干際の死体を先に引け!《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》の前を詰まらせるな!入口前は三列に分けろ!」
号令が通る。さっきまで互いの背を押し潰していた列が、少しずつ向きを揃え始めた。護衛は護衛の位置へ、搬送は搬送の流れへ、避難民は細い列へ分かれていく。誰かが誰かの役目を奪わない形が、ようやく戻り始めた。
セレナも、まだ震えの残る手で聖印を握り直す。背中を石畳へ打ちつけた痛みが残り、呼吸もまだ浅く乱れている。それでも彼女は身体をかばわない。自分に手を回した瞬間、入口前の列から目が外れると分かっているからだ。
横を通り過ぎた避難民の子どもが、泣きながら彼女の袖を掴みかける。セレナはその手を握り返し、父親の方へ押し戻すだけで、すぐに次の負傷者へ視線を移した。
「大丈夫。前の人の背中だけ見て。転んだら、近い人が起こして」
声は細い。だが切れていない。祝福の光が短く落ち、火傷を負った市民の呼吸がほんの少し戻る。膝をつきかけた兵が、もう一度足を踏み直した。
フィアも入口前の圧力へ意識を戻した。フレイムスカルが高度を下げるたび、《Arcane Firearm(秘術銃)》で魔法を差し込み、火の起点をずらす。起動中の《Protector(防護機)》で鈍い守りの波を絶やさない。彼女は撃ちながら頭上の塔を見上げ、砲座へ通るように腹から声を張った。
「砲座手!上へ逃げたやつだけ狙え!低い頭蓋は私が押さえる!」
フィアが下を滑るフレイムスカルの軌道をずらしたぶん、砲座は橋へ誤射せずに済む。返事の代わりに頭上で鈍い発射音が返り、塔腹の対空砲は空へ上がった敵を追って撃ち始めていた。
エリンは外を見ずに、《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》の回転を維持し続ける。
「左から六人。走らずに間を空けて入れ」
外の地獄と切り離したように、声が事務的に通る。シャーン・ウォッチの隊長も槍を押し直し、兵の胸当てを石突きで叩く。
「槍を寝かせるな!入口の線を下げるな!」
オリエン護衛隊長は負傷しながらも入口寄りの壁へ背を預け、胸を押さえた体勢でオリエンの護衛へ指示を飛ばしている。声は掠れているが、命令は短く鋭い。
紫紋の護衛たちはその命令を受け、湾刀と盾で入口の間合いを切り受けた。戦える者と、いまは命令だけを出す者。その分担が、ようやく噛み合い始める。
監視員も片腕で負傷者を引きずり、もう片手の短銃で頭上へ牽制を放ち続けていた。彼の役目も消えない。救援が来たからこそ、持ち場を落とさないための仕事が増えている。彼は橋の中央から目を切らない。
セリアとイーシャが来たことで終わる戦いではなく、ここから先はその二人が暴れるための空間を、こちらが何秒稼げるかの戦いだと、そう割り切った表情だ。
監視員がそこで短く息を吸い、入口側へも通る声で言う。
「中央へ寄らないでください!あのお二人に戦場を渡します。我々は入口と外縁を維持します!」
その言葉のあと、中央へ寄りかけていた足が止まり、入口前の列が少しずつ役目ごとの形へ戻る。助かったからではない。中央はあの二人に任せ、自分たちは入口と外縁を守る。その分担が、ようやく橋の上で揃った。
ダレクは一度ばかり中央を見た。
セリアはもう、乱戦の真ん中に立っていない。橋の中央にまっすぐ残った道を、モリデウスへ向かって歩いている。
《Destructive Wave(破壊の大波)》でヘズロウは地を転がり、ヴロックは空で羽ばたきを乱し、バルルグラは外壁の補強材へ取りつき直していた。その間に開いた道を、セリアは一直線に進む。
頭上では、低空飛行していたフレイムスカルが、砲火と弾丸を避けるように高度を上げていた。燃える頭蓋は橋の中央を真上からなぞる位置で止まる。眼窩の火は、モリデウスへ歩いていくセリアを捉えて赤く膨らんだ。
「上だ!《Fireball(火球)》が来るぞ!」
橋際にいた術者が警告を飛ばすが、セリアは見上げもしない。そのままフレイムスカルは《Fireball(火球)》を真下へ撃ち下ろす。爆炎が橋の中央をセリアごと呑み込んだ。
直後、炎の内から戦鎚が唸りを上げて突き抜ける。真上へ跳ね上がった一撃がフレイムスカルを正面から粉砕し、燃える骨片を空にまき散らす。
爆炎が引くと、鎧に煤を散らしたのみで、何事もなかったように歩を進めるセリアがいた。上空で頭蓋を砕いた戦鎚が落ちてきて右手へ収まり、白銀の翼が前へ風を押し出した。
その光景は、橋の上にいた誰の目にも異様だった。周囲は戦闘の響きが続いているのに、あの一線は時間の流れが違って見える。
急いでいるのではない。遅いわけでもない。ただ、そこを通ると決めた者の歩幅だ。橋の中央に転がる死体も、折れた槍も、砕けた石も、その進路から勝手に意味を失っていく。
「……まさにパラディンだ」
誰かがそう呟いたが、その一語に説明は続かない。説明など不要だった。
セリアは盾を前に、戦鎚をわずかに持ち上げて止まる。切っ先のないその重い武器が、まっすぐモリデウスを指す。そして告げた。
「お前は、ここで終わりだ」
橋のざわめきを裂いて、次の一言のみがはっきり天に届く。
「ティアよ、見届けてくれ」
白い天秤の幻が、橋上に一瞬開く。片皿が沈み、細い白線が真っ直ぐ落ちる。紙も印章もない。ただ、判決のみが先に下りたと分かる──《Vow of Enmity(滅殺の誓言)》だ。
《Vow of Enmity(滅殺の誓言)》が落ちると、橋の中央の空気が一段と細く絞られた。セリアの踏み込みも戦鎚の先も、もうモリデウスから外れない。デーモンたちがさらに下がり、入口側で槍を構える兵の背まで強張る。味方まで呑み込む圧ではないが、これ以上は近づくなと分からせるだけの線が白く引かれていた。
そして、人間を虫けらとして見ていたモリデウスの視線が初めて変わる。二つの頭が、同時にセリアのみに向く。
蛇頭が開き、狼頭が牙を剥く。橋が震えるほどの奈落語が叩きつけられる。語の意味は分からない。それでも、あれが見せつけでも嘲りでもなく、セリアただ一人へ向けた殺意だということだけは、ダレクにも伝わった。
お前を殺す、と。
モリデウスが、わずかに低く沈む。人間を踏み潰すための前傾ではない。正面からぶつかる相手へ向けた、明らかな構えだ。四メートルの赤い巨体が、いま初めて戦うために姿勢を取る。
セリアの翼が大きく開いた。
風圧で、橋の上の血と煤が一斉に払われる。白銀の翼端が夜気を裂き、盾の縁が低く鳴る。右手の戦鎚が肩越しに引かれ、翼の内側から漏れる白い光が橋面のひびへ細く落ちた。
その直前、ダレクの横をイーシャがもう一度通り過ぎた。風みたいに速いのに、声はよく通る。
「そっちは任せたわよ!」
「分かってる!外周は頼む!」
「ええ!」
言葉はそれだけだった。フックの金具音が外壁側へ遠ざかる。入口前では祈りと号令が途切れず、《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》は光を切らさない。頭上では火と砲声がなおぶつかり合っている。なのに橋の中央だけが、異様な静けさで張りつめていた。
誰もそこへ踏み込まない。セリアとモリデウスが向かい合う。
次の瞬間、セリアが《Avenging Angel(応報の天使)》の翼で前へ弾け、モリデウスも真正面から踏み込んだ。
白銀の騎士と赤い巨体が激突する。衝撃が石畳を割り、橋全体が一度沈んだ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。