界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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城塞都市を襲うマインド・フレイヤーの侵略を察知した異界の魔法使いタヴは、単身潜入して侵食の現状を確認。現地の騎士や神官たちと協力して地下礼拝堂を襲う精神侵略者と交戦するも、ギスヤンキまで乱入し混戦状態となる。次元転移装置を破壊しようとした際、暴走に巻き込まれ山岳地帯に転移。そこでフリーレン一行と出会い、次元間戦争の危機がこの世界に迫っていることを伝える。


#2:精神の侵略者たち

 夜の帳が都市を覆い始める頃、タヴは物資搬入口の裏手に身を潜めていた。城塞都市の防備は堅牢だが、物流を支える裏手の搬入路や、廃棄物を外へ出すための通気口といった構造には、どうしても隙が生まれる。その一点に賭ける形で、彼は潜入経路を選定していた。

 

 《Misty Step(霧渡り)》──視界内の地点へ瞬時に移動する短距離移動魔法──を《Subtle Spell(微細術)》で発声と身振りを消して発動する。タヴの姿は、わずかな霧となって搬入用の跳ね橋を越え、物陰に現れる。

 

(……さて。あとは地図の通りなら、廃倉庫の脇に抜け道があるはずだ)

 

 建物の影を縫うように移動しながら、タヴは気配を殺す。足音すら立てない歩法と、周囲の僅かな気配を拾う耳は、望まずに身につけたものだ。孤独な放浪と過酷な環境での生存が教えた、実用だけの技術である。

 

 搬入場は外壁の内側の倉庫群へ続いていた。樽の木の匂いと油煙がこもる通路を抜け、監視台の死角に合わせて一呼吸ずつ身体を送る。廃倉庫の脇では、排水路にかかる古い格子の向こうに内郭の裏路地がのぞいていた。タヴは息を整え、再び《Misty Step(霧渡り)》を《Subtle Spell(微細術)》で静かに起動し、格子の内側へ身を移す。

 

 都市内部は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。路地に響くのは、石壁から落ちる水滴の音と、遠い場所で消えかける鐘の余韻だけだ。暖かな食事の匂いも、戸口越しの笑い声も薄い。その静けさに、タヴは異常を感じた。

 

(……空気が、張り詰めすぎている)

 

 角から主街路をのぞく。歩く人々の動きは妙にぎこちない。衛兵たちの目線は一点を凝視するように鋭く、しかも曇っている。まるで深い霧の奥に囚われたかのような虚ろな視線だった。

 

 路地裏でタヴは壁際に身を伏せ、通りを歩く衛兵の一団を観察する。彼らが身につける鎧は正規の都市兵のものだったが、その足取りは均一で、呼吸の乱れもない。不自然なまでの無音の動作。

 

(精神干渉済みか……。マインド・フレイヤーのコロニーの影響下だな)

 

 マインド・フレイヤーに支配された者たちは、自我の一部が切り取られ、命令に従うだけの器となる。意識はあるかもしれないが、それを使って自分を守ることはできない。

 

 タヴは慎重に街路から抜け、旧区域の廃墟と化した施設群の陰を縫うように進んだ。崩れた壁と錆びついた鉄柵が立ち並ぶ一角──その場所に足を踏み入れた瞬間、彼は明確な違和感を覚えた。

 

 視界が一瞬揺らいだ。わずかに空間が歪んだような感覚だった。タヴは即座に足を止め、周囲の気配に全神経を集中させる。見た目に異常はない。しかし、明らかに空間が一瞬だけ不自然な揺らぎを見せていた。

 

(位相の歪み……?マインド・フレイヤーの仕業か?)

 

 脳裏に、かつて遭遇した「狭い裂け目」の記憶がよぎる。空中に細い切れ目が生まれ、ひと呼吸のあいだだけ通り道になる──その合図とともに、少数が静かに現れる。先ほどの揺らぎは、その前触れに近い。あの連中、ギスヤンキやマインド・フレイヤーなら、こうした痕跡を残すと考えられる。

 

 だが、今はその調査を深めている場合ではない。タヴは即座に自らの思考を切り替え、心中で強く言い聞かせた。

 

(まずはマインド・フレイヤーのコロニーが先だ。これ以上放置すれば都市は内部から崩壊する)

 

 タヴは屋根に駆け上がり、都市の中心部──政庁や城館のある高台を見渡した。そこに至る街路には警備線が増強され、通行が厳しく制限されている。しかし、それは外部からの侵入を防ぐためではない。内部から都市を掌握し、住民を閉じ込め、監視するためのものだ。

 

(コロニーはもう形成されつつある。これ以上の猶予はない)

 

 彼は拳を強く握り締めた。この場で何かを誤れば、都市ごと飲み込まれる。精神の網が完成すれば、全住民がマインド・フレイヤーの意思に取り込まれ、都市の外へと侵食が広がっていくだろう。

 

 その後、数日をかけてタヴは廃屋や地下水路を拠点に潜伏しながら情報を集めた。住民の中に明らかに意識の揺らいでいる者が増え始めている。目が合ってもすぐに逸らし、言葉の意味が微妙に噛み合わない。記憶が断片的に飛び、家族や知人の名前すら曖昧になっている。

 

(精神汚染が拡がっている。奴らの声が人々の精神にまで入り込み始めているな)

 

 それはまさに感染に近いものだった。言葉や視線、さらには夢の中にすらマインド・フレイヤーの精神波は潜んでいる。タヴは地下水路に身を伏せながら、呼吸を整えた。

 

 彼の視線は一枚の粗末な紙片に落ちた。失踪者の名と、最後に目撃された場所。地図上でそれらを結びつけると、不自然なほど明確な中心が浮かび上がった。都市南端──古い地下礼拝堂。既に閉鎖されて久しい場所だった。

 

(ここが始まりか。おそらくコロニーのコアは地下にある)

 

 タヴは立ち上がった。このままでは都市は沈み、精神汚染は交易路を通じて他の地域へと急速に広がるだろう。少しでも対応が遅れれば、コロニー化は爆発的に加速し、二度と取り返しがつかなくなる。

 

(本来なら俺一人でやることじゃない……だが、援軍は望めない)

 

 言葉にこそ出さなかったが、それは確かな本音だった。だが、援軍はない。報告も届かない。止められる者は──今、この地には恐らく自分しかいない。タヴは静かに外套のフードを被り、出口に向かう。

 

(観察はもう十分だ。ここからは、介入する)

 

 雷の気配が、彼の内に宿る魔力の底で静かに目を覚ました。

 

 *

 

 地下礼拝堂へと続く旧市街の石段は、崩れた壁の隙間を縫うように伸びていた。昼間は封鎖され、廃墟と化した聖堂の影。その地下に、誰も近寄ろうとはしなかった。理由は知られていない。ただ、「行方不明になった者たちは、あの辺りにいた」という噂があるだけだった。

 

 タヴは夜闇に紛れ、軋む石扉をゆっくりと開いた。内部は土と血のような湿った空気が満ちている。光の届かない廊下を、《Devil's Sight(悪魔の目)》で見渡す。彼の瞳は暗闇をものともせず、空間の奥に続く異様な構造を捉えていた。

 

(……歪んでいる)

 

 礼拝堂の構造そのものが、何かに捻じ曲げられていた。祭壇が引き裂かれ、床には奇妙な円形の模様が刻まれている。中央には、横たわる人影がいくつもあった。

 

 近づいて確認したタヴの視線が、微かに揺れた。その人影たちは──もう人ではなかった。

 

 肌は青白く変色し、眼は濁り、筋肉は膨張して不自然なまでに硬直している。だが完全な変質には至っておらず、中途の状態にある。精神を食われ、肉体だけが異形へと変わる途中──いずれは奴らの苗床として完成する。

 

(……変質。マインド・フレイヤーのコロニー形成、初期段階の兆候)

 

 その傍には、小さな獣のような存在が蠢いている。インテレクト・ディヴァウアラー──脳の形をした四足歩行の幼体。かつて人間であったものの脳から生まれ、這いずり、再び獲物の精神を貪る。

 

(まだ……制御されている。だが数が増えれば、礼拝堂そのものが孵化場になる)

 

 その瞬間だった。空気が震えた。

 

(……来る)

 

 足音も影もない。ただ、精神の奥底を撫で回すような気配が空間に満ちる。次の瞬間、空間が歪み、現れたのは三体の異形だった。頭部から無数の触手を伸ばし、異様に細い四肢を持つ灰色の肌をした存在──マインド・フレイヤーだ。艶のない瞳が感情なくタヴを見据えている。彼らは声を発さず、精神の内側に命令を送り込もうと意識を集中し始める。

 

 しかし、その刹那──タヴはすでに魔法を密かに準備していた。《Subtle Spell(微細術)》により一切の動作や詠唱を秘匿し、《Lightning Bolt(電撃)》──一直線に強力な雷撃を放ち、対象とその周囲を焼き尽くす魔法──を構築していた。相手がわずかでも行動を起こした瞬間に放つよう、準備は完全に整えられている。

 

【跪け──】

 

 一体目のマインド・フレイヤーが《Command(命令)》──一言の命令を送り込み、対象の意思を束縛し、強制的に服従させる魔法──を放とうとわずかに頭部を掲げた瞬間、タヴの雷撃が迸った。

 

 眩い紫電が空間を貫き、マインド・フレイヤーの身体を容赦なく貫通し、その背後で這い回っていたインテレクト・ディヴァウアラーをも瞬時に巻き込んだ。雷光に飲まれた両者は即座に焼き尽くされ、その場に黒焦げの残骸を晒す。

 

 二体目のマインド・フレイヤーが怯みつつも前に出ようとするが遅い。タヴは即座に《Quickened Spell(迅速術)》で詠唱を圧縮し、《Eldritch Blast(怪光線)》を放つ──異界の魔力で構築された四条の光線が連続して放たれ、相手の胴体を貫いた。魔物は悲鳴を上げる間もなく崩れ落ち、地面に叩きつけられ動きを止める。

 

 最後の三体目が慌てて逃げの体勢を取り、後方の空間へと身を翻す。タヴは続けざまに再度《Eldritch Blast(怪光線)》を放ったが、寸前のところで空間の歪みに溶け込み、敵の姿は完全に消え失せてしまった。

 

(逃がしたか……)

 

 タヴは油断なく礼拝堂の周囲を改めて確認する。死んだ異形の残骸や焦げ跡の中に、わずかな違和感があった。礼拝堂の片隅に半ば崩れかけた祭壇があり、その隙間に、銀色に近い鈍い輝きを放つ曲刀の破片が僅かに覗いていた。明らかにこの世界とは異なる鍛造技術による、異質な武器の一部だった。

 

(ギスヤンキか……マインド・フレイヤーを追ってきたのか?)

 

 アストラル界に生きる戦闘種族──ギスヤンキ。かつてマインド・フレイヤーの奴隷として支配されていた種族だが、反乱を起こし、今もその復讐のために執拗に追い続けている。

 

 しかし、敵の敵が必ずしも味方とは限らない。ギスヤンキは独自の目的で動く。こちらを利用する可能性も、排除する可能性もある。都市内部でマインド・フレイヤーとギスヤンキが接触していた事実。それは、この侵略が単なる一方向のものではないことを示していた。

 

 タヴは立ち上がり、最後にもう一度、変質しかけた住民たちを見下ろした。彼らは既に脳内にマインド・フレイヤーの幼生を植えつけられている。ほぼ確実に手遅れだろう。この段階になれば、もはや救う方法はない。

 

(……ここで止めなければ、この都市は終わる)

 

 都市は、崩れ始めている。崩れる前に、気づかせる必要がある

 

「……さて。ここからが本番だな」

 

 異界という言葉は使わない。ただ、精神を喰らう魔物が潜んでいる──それだけ伝えれば十分だ。タヴは外套を整え、足音を殺して礼拝堂を後にした。次の行動は、情報の拡散だった。

 

 *

 

 タヴは人通りの絶えない裏通りで足を止め、注意深く通行人を観察していた。身なりは整っているが、法衣の裾は埃に汚れ、肩を落とした若い神官が目に留まる。

 

(……施療院の帰りか。思考に疲れが出てる。だが、まっすぐ歩いてる)

 

 狙いどおり。声をかけるなら、今だ。

 

 タヴは小さく息を吐き、言葉の結び目に魔力を忍ばせる。《Subtle Spell(微細術)》による《Tongues(言語会話)》──話すだけで互いの言葉が通じるようになる呪文──を発声も身振りもなく発動した。

 

 数歩前に出て、すれ違いざまに低く声をかける。

 

「時間を取ってほしい。地下礼拝堂のことで話がある」

 

 神官の顔が険しくなる。

 

「……あなたは誰です?どうしてその場所のことを──」

 

「名乗る気はない。それより、最近精神を侵されている者が出ているはずだ。記憶の混濁、発話の混線、情緒の欠損……見覚えがあるはずだろう」

 

 神官は目を見開いた。だが、警戒は崩さない。

 

「それがあなたと、どう関係するんです?」

 

「俺は見た。礼拝堂の地下で、肉体が変質しかけていた者たちを。そして『精神を鞭打つもの』──名はどうでもいいが、脳を喰らい、精神を支配する存在も」

 

 言葉に熱はなかった。ただ、異常に整理された情報が淡々と並べられる。神官は、言葉の内容よりもその話し方に圧を感じていた。

 

「信じろとは言わない。だが、数日もすれば分かる。あそこが始まりだったと。今なら、まだ間に合うかもしれない」

 

 神官は沈黙し、数秒だけタヴの視線を真正面から受け止めた。その目には、狂気も嘘もなかった。

 

「……分かりました。言葉は届けます。ですが……我々の判断で、調査します」

 

「それでいい。案内人が必要なら、俺は城塞東の廃倉庫にいる。夜明けまで待つ」

 

 タヴはそれ以上何も言わず、背を向けた。人波に紛れる姿に、神官はしばらく視線を外せなかった。

 

 *

 

 神殿の奥、光を遮る厚い石壁に囲まれた会議室。高位神官と数名の補佐役、都市警備隊の古参騎士がひそやかに集められていた。

 

 卓上には、神官の一人が持ち帰った報告が再現されていた。手紙ではない。ただの口頭伝聞──名も素性も不明な男が、礼拝堂の地下に精神を喰う魔物が潜んでいると語ったという。

 

「……礼拝堂の地下は、十年前に閉鎖されています。地震で崩れかけていると判断されて以来、立ち入りも許可されていない」

 

 若い神官の一人が、訝しげに報告者へ視線を向ける。

 

「その男、本当に礼拝堂の内部に入ったのですか?」

 

「はい。信じがたいほど具体的な描写でした。礼拝壇の奥に、刻まれた模様。複数の変質者。動き回る脳のような獣……。病でも幻視でも説明のつかない異常でした」

 

「ならば、それこそ嘘か狂人の戯言だろう」

 

 壮年の神官が静かに言う。

 

「得体の知れぬ者の言葉で神殿が動けば、それこそ魔物の思う壺だ」

 

「……ですが、ここ数日の異常と符合する点が多すぎます」

 

 別の神官が口を挟む。

 

「記憶の混濁、人格の崩壊、意識の空白。施療院でも既に数例確認されている」

 

「それは神経病か、精神の疲弊です」

 

「だとすれば──ただの旅人が、どうしてその症状を正確に言い当てたのです?」

 

 沈黙が落ちる。騎士が腕を組んだまま、低く呟いた。

 

「……調査するしかあるまい。虚偽ならそれで済む。だが万が一、本当であれば──すでに手遅れになっているかもしれん」

 

 年配の神官が、目を伏せたまま言う。

 

「信じたわけではない。ただ、信じられないと言い切れるだけの材料も……ない」

 

 誰も結論を口にしなかった。ただ、確かに何かが始まっているという感覚だけが、部屋の空気を冷たく締めつけていた。

 

 *

 

 翌朝、城塞都市の外れにある廃倉庫。風にさらされた木壁が軋む中、薄明の下で四つの影が集まっていた。前夜の密議で匿名の案内人の報告が審議され、当人が指定したこの場所に、少数での偵察が決まったのだ。

 

 集合に応じたのは四名。若い騎士は現地での護衛役、壮年と若い女性の神官は記録と祈祷による護りの担当、小柄な魔法使いの少女は魔力探知と分析のために同行している。

 

 先頭に立つのは、銀灰の髪を後ろで束ねた若い騎士だ。整った顔立ちに似合わぬ硬い視線を持ち、腰の剣にそっと手を添える。

 

 その後ろの神官たちは、互いに距離を取りつつ周囲の影に目を走らせた。片方は壮年の男で、分厚い法衣の下に簡素な鎖帷子を隠す。もう片方は若い女性で、白衣の袖口には薬草の染みが残り、手はわずかに震えていた。

 

 小柄な魔法使いの少女は最後尾に立ち、長い袖の奥で指を小刻みに動かす。誰も言葉を交わさず、警戒だけが張り詰めていた。

 

「……案内人がいるというのが事実なら、姿を見せてもらおう」

 

 若い騎士が声を張ったその瞬間、薄闇の奥から一つの影が歩み出る。黒い外套に身を包み、顔の大半をフードの陰に隠している。タヴだった。

 

 神官の男が即座に懐へ手を伸ばす。護符か、それとも小型の詠唱具か。女の神官は息をのんで一歩後ずさった。魔法使いの少女は無言のまま、術式を半分まで展開していた。

 

「俺に敵意はない。地下礼拝堂の構造と、内部の脅威は確認済みだ。案内はできる。ただし、俺の素性には触れるな」

 

 タヴが静かに告げると、若い騎士は一歩前へ出てタヴを見据えた。その眼差しは、信用ではなく査定だった。

 

「犠牲者が増えているのは事実だ。……だが、言葉だけで信じろというなら、それは無理だ」

 

 壮年の神官が低く呟き、続けて問いを投げかけた。

 

「確認したい。具体的に魔物はどんな能力を持っている?」

 

「思考を読んで、短い命令を相手の意識に直接押し込む。広い範囲へ強い精神波を放ち、複数人を同時に硬直させる。浮遊して位置を変え、接近すると口の触手で頭部に取りつき、脳を奪って殺す」

 

 タヴは抑揚なく列挙した。語られた性質の危険さを秤にかけ、若い騎士は剣への左手をわずかに強める。

 

「……その魔物はどんな姿をしているの?」

 

 魔法使いの少女が問いかける。識別の要素を整理するための問いだと、周囲はすぐに理解した。

 

「人型で皮膚は灰紫色。頭はやや長く、顔には四本の細長い触手が垂れる。目は虹彩が見えにくく、淡く光って見える」

 

 少女は短くうなずくと、説明に虚偽の気配は薄いと判断して警戒をわずかに緩め、半ばまで展開していた術式を収めて聞き取りに集中した。

 

「……魔物はどうやって増えているのですか?」

 

 若い女神官が続ける。施療院での報告体制と隔離の段取りを決めるには、由来を押さえる必要があると考えたからだ。

 

「幼い虫のようなものを人の頭部へ入れ、数週間かけて体と精神を作り替える。元の人格は消え、外見は先ほどの姿になる」

 

 タヴの答えに、女の神官は唇を結び「分かりました」とだけ返した。必要な情報は揃ったと判断したのだ。

 

「疑うならそれでもいい。だが、俺はもう一度あそこに潜るつもりだ。あんたたちが来なくても」

 

 タヴが言い置くと、誰も即答しなかった。若い騎士は数秒の沈黙のあと、剣から手を離してうなずく。

 

「……案内だけでも助かる。情報の真偽は、俺たちの目で確かめる」

 

「協力はしないとは言わん。ただし、最後の判断は我々が下す」

 

 壮年の神官が釘を刺す。タヴは短く応じた。

 

「それで問題ない。協力に感謝する」

 

 外套の裾を払って入口の方へ向き直ると、扉がきしみ、朝の光が差し込む。タヴは通りへ出て、城内路を北東──礼拝堂の方角へ歩き出す。四つの足音がその背に静かに重なった。崩壊の縁にある都市の影へ、戦いは始まろうとしていた。

 

 *

 

 地下礼拝堂へと続く通路に、足音が五つ、慎重に響いていた。先頭を行くのはタヴ。続いて、銀灰の髪を束ねた若い騎士、神殿所属の壮年神官と若い女神官、小柄な魔法使いの少女が隊列を組む。全員が武装していたが、その足取りには迷いと緊張が滲んでいた。地下に満ちる魔力の濁り──何かが、ここにあると誰もが肌で感じていた。

 

「……案内通りだな」

 

 若い騎士が低く呟く。タヴは応えず、通路の突き当たりにある朽ちた木扉の前で立ち止まると、静かに左手を掲げた。彼は過酷な実験で覚醒した《Telekinetic(念動力)》により、詠唱を介さず不可視の手を操る魔法、《Mage Hand(魔道士の手)》を使いこなす。目に見えぬ力が鍵と蝶番にそっと触れ、きしみを殺して扉を押し開けた。

 

 開いた先は礼拝堂の身廊だった。石床に長椅子が倒れ、祭壇の前には血が黒く乾いている。匂いは、鉄と腐敗。人影はない。だが、場の静けさは死んでいた。

 

 身廊の中央には、半ば人であった者たちが転がっている。変質し硬直した筋肉、濁った瞳、脈動を失った手足。理性を食いちぎられた痕跡が、皮膚の下でまだ脈打っているかのようだった。

 

「これは……」

 

 若い女神官が絶句し、口元を覆う。

 

「変質者たちだ」

 

 タヴが淡々と告げる。

 

「精神を食われ、肉体が向こうに書き換えられている。全変性の手前だ。このまま放置すれば、礼拝堂ごと孵化場になる」

 

 壮年の神官は胸の前で手を重ね、短い祈りの詞を噛みしめるように息を整えた。小柄な魔法使いの少女は、視線を逸らしながらも震えを堪えて周囲へ探知の意識を広げている。

 

 タヴは彼らの心の張りを確かめるため、《Detect Thoughts(思考探知)》を《Subtle Spell(微細術)》で痕跡なく起動した。視界に入る範囲の思考の「表層」──今まさに頭に浮かんでいる断片だけを、音のない囁きのように拾う魔法だ。深く踏み込めば相手に感づかれる危険があるため、あくまで表面に限って意識を滑らせる。

 

(……女神様よ、揺らぐな。ここで崩れるな)

 

(吐くな、見ろ。目を逸らせば判断を誤る)

 

(感情は後回し……目の前の異常を記録しなければ……)

 

(怖い……でも、逃げたら絶対に後悔する)

 

 四人の思考は、恐怖と嫌悪を含みながらも、判断を保っていた。精神錯乱の兆しはない。――今なら言える。隠したまま進めば、かえって危うい。タヴは魔法を解き、息を整えて低く告げた。

 

「……ここにいるのは、この世界の『魔物』ではない。名はマインド・フレイヤー。正確には魔物ではなく、世界の外から来た《Aberration(異形)》だ」

 

 言葉が落ちた瞬間、空気が張った。壮年の神官は組んだ手に力を込め、目を細める。

 

「冗談を言うな。世界の外など、教義にも記されていない」

 

 若い女神官は蒼ざめた頬で首を振った。

 

「どういう意味ですか……?別の大陸や辺境の地域ということですか?」

 

 タヴは視線を逸らさず、必要最小限の語で補う。

 

「この世界の理の外側にいる存在だ。ここで見ている変質の跡は、俺のいた世界で奴らが引き起こす惨劇そのものだ」

 

 小柄な魔法使いの少女が小さく息を呑み、躊躇いがちに口を開いた。

 

「……この人の魔力を最初に感じたときから、正直違和感はあった。いまの光景と話で、少し……繋がった気がする。たぶん、嘘じゃない。──あなたも、異世界からの来訪者なの?」

 

「そうだ」

 

 タヴは短く肯定した。少女は強ばっていた顎をわずかに緩めて頷く。納得と困惑が同居し、言葉を継げない。壮年の神官は眉間を押さえて目を閉じ、若い女神官は胸の前で手を重ねて祈りの詞をひそかに繰り返した。その刹那、鞘走りの音が身廊に鋭く響く。若い騎士が剣を抜き、切っ先をタヴへ向けた。

 

「──ッ!?待ってください!」

 

 若い女神官が慌てて声を上げる。しかし若い騎士は視線を逸らさない。

 

「この男は言うべきことを伏せ、俺たちの様子を見てから新しい情報を出した。打算的で信用ならない」

 

 タヴは即答する。

 

「打算的なのは認めるが必要だった。あれに対峙すると心が折れる。ここに来るまでの間、あんたたちが踏みとどまれるかを確かめた」

 

 緊張が一気に張り詰める。小柄な魔法使いの少女は杖を横に構え、刃先とタヴの間に割って入れる位置を探りながら「落ち着いて」と短く制止する。若い女神官は両掌を胸の前で開いて一歩踏み出し、「剣を下ろしてください」と静かに訴える。壮年の神官は二人の間へ滑り込み、短い鎮めの祈りを口内で結びつつ、低い声と手振りで騎士を制した。

 

 タヴは切っ先から目を逸らさず、抑えた声で言葉を継いだ。

 

「俺は敵ではないが、それを証明する術はない。だから行動で示す。俺は敵の手口と弱点を知っている。ここで俺を拒めば、あんたたちは見えない敵に素手で挑むことになる。受け入れるなら、今すぐ対処の手順を伝える」

 

 壮年の神官が低く挟む。

 

「お前の気持ちは分かる。だが、ゲオルクとアーデルハイトの件についてこの男は何の関係もない。刃を向ける相手を誤るな」

 

「この男がマインド・フレイヤーとやらの仲間でない保証はどこにある!魔物にやられたのならまだ納得できた……それが異界から突然来た奴らの仕業だと……ふざけるなよ!」

 

 若い騎士の声が震え、身廊の空気が焼けるように熱を帯びる。タヴはその眼の底に沈む色を見た。ため込まれた怒り、噛み殺した悔恨──戦友か、恋人か、家族か。マインド・フレイヤーに、肉体を、心を奪われたのだと察する。

 

 彼は手に持っていたクォータースタッフを石床へ落とし、仲裁に入ろうとする三人の肩をやわらかく押し分ける。次の刹那、タヴは騎士の剣身を素手で掴み、切っ先を自身の喉元へ引き寄せた。刃を握った掌から赤い筋が滲み、床へ一滴、二滴と落ちる。

 

「なっ、何をしているの!」

 

 若い女神官が思わず悲鳴を上げ、魔法使いの少女は目を見開いて半歩詰める。壮年の神官は低く舌打ちし、すぐさま治療の準備に身構えた。

 

「マインド・フレイヤーが憎いか。俺を殺して気が済むなら……殺せ。俺は逃げない」

 

 喉元で静かに鳴ったタヴの声に、若い騎士の瞳が揺らぐ。彼は驚愕を押し殺し、タヴを真正面から見据えたのち、ゆっくりと剣先をタヴの手から外し、刃を引いた。鞘へ戻す前に、深く頭を垂れる。

 

「……非礼を詫びる。俺は憎しみに呑まれていた。異界の者で一括りにして、お前に刃を向けた。許してくれ。どうか力を貸してほしい」

 

 魔法使いの少女は固く結んでいた指をほどき、肩の力を抜いて長い息を吐く。若い女神官は震えを抑えながら胸の前で手を組み直し、安堵の祈りを短く結ぶ。壮年の神官は「全く何を考えているんだ」とぼやきつつ、タヴの裂けた掌を取り、温かな《回復魔法》で傷を閉じた。

 

「助かる」

 

 タヴは短く礼を言い、石床からクォータースタッフを拾い上げると、何事もなかったかのように視線を前へ戻して言葉を続けた。

 

「あそこだ」

 

 タヴは身廊の先、祭壇の背後を指した。石板の継ぎ目が不自然に封蝋で覆われ、そこから下へ降りる階段の気配がある。

 

「祭壇の裏に半ば封じられた下り階段がある。コアは下層だ。ここは上へ向けて孵化させる通路にされかけている」

 

 言い終える前に、場の空気が変わった。

 

 空気が軋み、床が低く唸る。肌を刺す圧が、祭壇裏の石扉の向こう──地下から這い上がってくる。タヴは即座に身廊の中央へ一歩出て、短く叫ぶ。

 

「来るぞ!」

 

 同時に《Mage Hand(魔道士の手)》を展開し、不可視の掌で祭壇裏の石扉を内側から押し返すように押さえ込む。石板の重みが腕に乗る錯覚が、空気の中で確かに返った。

 

「全員、長椅子の陰へ。時間を稼ぐ」

 

 若い騎士が女神官を庇って右へ、壮年の神官が左の長椅子へ少女を促す。タヴは見えない掌に力を込めるが、石扉の継ぎ目が鈍い音を立て、次の瞬間、内側から叩きつけられる衝撃が力場を粉砕した。

 

 石扉が爆ぜるように吹き飛び、祭壇の段差へ人影が転がり出る。騎士団の制服。焦点の合わぬ眼。蒼白の皮膚。意志を乗っ取られた歩み。

 

「……衛兵……?」

 

 若い騎士が息を呑む。

 

「もう人間じゃない。侵食された騎士だ」

 

 タヴの声は冷静だった。石段の闇から、粘液に濡れた足音が続く。脳のごとき異形が四足で這い出し、爪を石に鳴らす。二体──インテレクト・ディヴァウアラー。

 

「攻撃するな。接近は危険だ。通路に線を引く」

 

 タヴは若い騎士の剣腕を制し、身廊の中央線へ歩み出る。雷の詠唱を最短で組み上げ、角度を祭壇側に寄せて味方を巻き込まぬ射線を確保する。

 

「《Lightning Bolt(電撃)》」

 

 雷光が一直線に走り、転がる衛兵と後続の異形を貫いた。乾いた破裂音と共に空気が焼け、三体が炭の匂いを残して床へ弾け飛ぶ。タヴはすぐに次の手を組み、目だけで仲間の配置と負傷の有無を確認した。

 

「今のうちに準備をしてくれ。俺が前で押さえる」

 

 短く、明確に。言葉は、恐れに沈みそうな心へ踏み板を渡すためのものだ。若い騎士は頷き、壮年の神官が祭壇前に守りの祈りを走らせ、若い女神官が傷の確認に回る。魔法使いの少女は杖を握り直し、視線を地下の闇へ据えた。

 

 協力関係は、言葉だけでなく、今──動きで結ばれた。

 

 だが、次の瞬間、上空で空間そのものが低く軋んだ。身廊の梁の上、天井と天井のあいだに細い裂け目が走り、幾何学めいた硬質の光が縁取る。風は起きない。制御された門だ。裂け目から一体の斥候が現れる。

 

 黄緑の肌、銀白の刃、磨かれた銀色の甲冑──ギスヤンキだ。胸の中央には、幾何学の線が脈打つ魔道具が装着され、薄い光の糸が空間に針を刺すように伸びて、周囲の座標をなぞっていた。

 

 斥候はタヴたちに視線を寄越さない。通路の奥から這い上がったマインド・フレイヤーへ一直線に踏み込み、銀白の斬撃を一閃。音より早く首が落ち、身は石段に崩れた。斬撃の余韻が空気に残るあいだに、斥候は胸の魔道具へ指先を触れる。

 

 脈拍のような光の波が一度だけ強く鼓動し、裂け目が細く閉じる。──往来を自力で開閉できる装備と手順。偶然に巻き込まれて流れ着いた者の動きではない。

 

(……侵攻装備だ。制圧するために来ている。座標を測り、位相を固定し、次元通路を通す準備をしている)

 

 胸の魔道具が放つ波形は、世界の肌理を撫でるように規則的だった。この世界では次元間の移動も通信も阻まれる。《Forbiddance(禁制領域)》──一定範囲を覆って転移や門、界渡りそのものを拒む、古い広域の封呪──に酷似した封印が、世界規模で張り巡らされていると見ていい。大部隊を通すには、その結界を破る要──脆い継ぎ目を見つけ、切り開く必要がある。

 

 今の斥候は、恐らくそのための測量だ。大規模な侵攻を視野に入れているのなら、ここだけに限らず、他所でも同種の先遣隊が同時に動いている可能性が極めて高い。ギスヤンキも、マインド・フレイヤーも、裂け目から偶然流れ着いた漂流者ではない。勢力として、この世界を戦場にする前段を踏んでいる。

 

 タヴは推測を胸の奥に沈めた。いま伝えるべきは目に見えた事実だけだ。

 

「な、何が……敵で、味方なのですか……」

 

 若い女性神官の声が震える。

 

「何だあの銀の戦士は……どこから現れたんだ……?」

 

 若い騎士が低く呟き、剣の柄を強く握る。

 

「今の戦士、私たちを見もしなかった……どういう判断基準……」

 

 魔法使いの少女は困惑を隠せない。

 

「さっきのはギスヤンキという戦闘種族だ。胸の魔道具で空間を裂いて瞬間移動で降りてきた。ギスヤンキはかつてマインド・フレイヤーの奴隷だったが、反旗を翻し、今は互いに仇敵同士だ」

 

「情報量が多すぎる……頭が混乱しそうだ……」

 

 壮年の神官が額に手を当ててぼやく。

 

「詳細はあとで説明する。今は目の前の問題が先決だ」

 

 タヴの短い言葉に、若い騎士は無言で頷き、魔法使いの少女は杖を握り直す。若い女性神官と壮年の神官も小さく同意の息を吐いた。タヴは胸の底に澱のような怒りが沈むのを感じ、足元から風を立てる。魔力が雷の気配を帯び、静かに巡った。

 

「……止めるぞ。奴らを都市から完全に排除する」

 

 返事はなかった。だが沈黙は拒絶ではない。剣を握る決意、祈りの静けさ、震える指先の強さ──それらが答えだった。

 

 タヴを先頭に石段へ足を掛ける。祭壇裏の暗い階段を、息を殺して慎重に降りていった。やがて降り立った彼らの目に映ったのは、予想していた最悪の光景──ではなかった。

 

「……まだ初期段階だな」

 

 彼の呟きは冷静な確認だった。エルダーブレインやマインド・フレイヤー幼生の培養槽といった、完全なコロニーの痕跡はまだ見当たらない。

 

 若い騎士が、一瞬だけ息を詰め、それから強い目で剣を抜いた。

 

「なら、まだ間に合う。捕らわれている人たちも、これ以上の犠牲も、防げるはずだ!」

 

 騎士の声は震えていたが、確かな意思がこもっていた。その判断は楽観的に過ぎるかもしれない。だが、否定する理由はどこにもなかった。現地の者としての責任感と希望──それが、今この場に必要だった。

 

 タヴが静かに頷いたそのとき、柱の陰から足音が──いや、肉が擦れる音がした。

 

 現れたのは、意識を失ったまま変質した衛兵が三体。焦点の合わない瞳で剣を振りかざし、うめき声を上げながら接近する。その背後では、脳の形をした異形インテレクト・ディヴァウアラーが五体、素早く這い寄ってきていた。

 

 さらに奥、広間の影から三体のマインド・フレイヤーが現れる。触手を揺らし、言葉もなく精神波が広がり始めた。

 

「構えろ!」

 

 タヴが叫んだ。即座に行動が始まる。

 

「前列を崩すな!近づくな、目を合わせるな!──神官、精神防御を可能なら頼む!」

 

 壮年の神官が震える手を抑え、聖典を開く。低く、確かな祈りの言葉が地下に響く。

 

「《神盾の領域》」

 

 結界の波が広がり、精神干渉を打ち消す力が陣の中心を包んだ。若い女神官が叫び、補助詠唱を重ねる。その背後では魔法使いの少女が杖を構え、小さな火球を練り上げていた。

 

「《フェルグナート(灼熱の球を放つ魔法)》」

 

 魔法の火球が広間の中央へ放たれ、インテレクト・ディヴァウアラーのうち二体が爆裂と共に弾き飛ばされた。

 

「右へ回れ!」

 

 タヴが外套を翻し、前へ踏み出す。《Booming Blade(唸る剣)》──近接武器に雷鳴の魔力を纏わせ、打撃と共に敵の周囲に不可視の振動を刻みつける魔法──を発動。クォータースタッフが雷鳴を帯びて一閃し、変質した衛兵の腹部を斜めに打ち抜いた。

 

 直後、その衛兵が動こうとした瞬間、刻まれた魔力が雷鳴と共に炸裂し、内部からその身体を破裂させる。刃ではなく、音波と雷の振動による破壊──だが、それで十分だった。

 

「左からも来る!」

 

 若い騎士が斬りかかる。マインド・フレイヤーが精神波で干渉を仕掛けるが、神官の結界がそれを押し返す。騎士は突きで間合いを潰し、一体のマインド・フレイヤーに剣を突き立てた。

 

 その傍ら、変質した衛兵が迫る。騎士はすかさず剣を引き抜き、返す刃でその腹を斬り裂く。呻き声を上げて膝をついた衛兵を、追撃で地に伏せさせた。さらに、魔法使い少女の放った火球がもう一体の衛兵を爆炎の中に巻き込み、激しく吹き飛ばす。

 

「っ、こいつ……!」

 

 息を詰めるように若い騎士が呻いたその瞬間、柱の陰からマインド・フレイヤーが音もなく回り込み、伸ばした触手が襲いかかる。

 

「《聖なる光葬》」

 

 だが、若い女神官の手から放たれた閃光がその軌道を断ち割った。マインド・フレイヤーが咆哮と共に後退し、反撃の構えを取ろうとした刹那──タヴの魔力が瞬時に収束し、《Quickened Spell(迅速術)》で詠唱が短縮される。

 

 《Eldritch Blast(怪光線)》──四条の黒雷が一斉に放たれ、後退しきる前にマインド・フレイヤーの胴を貫く。

 

 衝撃に吹き飛ばされたその身体は、反応すらできず崩れ落ちる。

 

 同時に、残るインテレクト・ディヴァウアラー三体が包囲を狙って横へ広がる。そのうち一体が奇襲を仕掛けるが、騎士が斬撃で迎撃し、魔法使いの少女の放った第二の火球が残る二体を一度に爆ぜさせた。

 

 仲間が瞬く間に倒され、最後のマインド・フレイヤーは判断を切り替えた。もはや勝機はないと悟り、背を向けて逃走を図る。だが、その背後から、歪んだ空間を裂いて黄緑の肌を持つ戦士──ギスヤンキの斥候が現れた。斬撃が空気を切り裂き、マインド・フレイヤーの腕を吹き飛ばすと、敵が悲鳴を上げる間もなく斬首された。

 

「さっきの銀の戦士か!?」

 

 先陣にいた若い騎士が、驚愕の声と共に剣を構える。

 

「マインド・フレイヤーを一瞬で……」

 

 魔法使いの少女が震える声で呟いた。だが、タヴは即座に反応していた。ギスヤンキの斥候が踵を返すより早く、詠唱を行い、《Eldritch Blast(怪光線)》の黒雷を撃ち込む。

 

 四条の光線が空気を裂き、鋭くギスヤンキの斥候の背へ向かう。だが、その瞬間、斥候の周囲の空間が渦を巻くように歪んだ。光線はその外縁を掠めるだけに終わり、斥候は広間の脇にある空間の裂け目へと身を滑らせ、霧散するように姿を消した。

 

 タヴは舌打ちを飲み込み、目を細める。

 

(──早い。やはり、ここら一帯の空間座標を把握している)

 

 静寂が訪れる。変質者たちは沈黙し、異形は灰となり、マインド・フレイヤーの骸だけが広間に残されていた。タヴは周囲を静かに見渡し、短く頷いた。

 

「……中心部はこれで終わりだ。だが、まだやるべきことがある」

 

 若い騎士が困惑した表情で問いかける。

 

「どういうことだ?敵の中枢を潰したのなら、もう終わりじゃないのか?」

 

 タヴはゆっくりと息を吐き、地の底の静寂の中で淡々と説明を始めた。

 

 マインド・フレイヤーの犠牲者たちは、既に《Ceremorphosis(脳変成)》と呼ばれる変質過程を始めていること。幼生が脳に根を下ろし、やがて宿主は新たなマインド・フレイヤーとして生まれ変わること。その段階まで進んだ被害者を救うのは、自分のいた世界でも神の奇跡に匹敵するほど難しく、この世界の魔法や治療技術では不可能に近いことを簡潔に伝えた。

 

 さらに、この地下礼拝堂にエルダーブレインや幼生の培養槽が見つからないのは、コロニーがまだ初期段階であり、ウリサリッド──エルダーブレインの胚となる上位の個体がまだ見つかっていないことを告げる。

 

「……つまり、あの変質した者たちを救う方法はない、ということですか?」

 

 若い女神官は震えを隠せず問いかけた。タヴは静かに頷き、視線を逸らさず返した。

 

「残念だが、助かる見込みはない。今、できることは一つだけだ。彼らを安楽死させることだ。それ以外に被害を止める方法はない」

 

 若い騎士の顔が強張る。

 

「殺せというのか?自分たちの手で?」

 

 タヴは短く答えた。

 

「他に方法がない。このまま放置すれば、新たなマインド・フレイヤーが生まれ、都市が内部から崩壊するだけだ」

 

 壮年の神官が苦しげな表情を浮かべ、深く頷いた。

 

「……認めたくはないが、彼の言う通りだろう。犠牲者たちを早く楽にしてやらねば、我々も都市も救えない」

 

 沈黙が落ちる中、若い騎士が表情を引き締め、低い声で問い返した。

 

「それで、ウリサリッドとかいうエルダーブレインの胚となる存在はどこへ消えた?ここにはいないのか?」

 

 タヴは背後の闇を見つめながら答える。

 

「俺たちが踏み込んだ時点で、この場所を放棄した可能性が高い。別の場所でコロニー再建を企てているはずだ。すぐに追跡する必要がある」

 

 魔法使いの少女が不安げな表情で、ためらいがちに問いかける。

 

「あの……さっき現れたギスヤンキも、何か仕掛けているの?」

 

 タヴは静かにうなずいた。彼は天井の上、都市の上層区画を見据えながら、低く言葉を継いだ。

 

「ギスヤンキがここに現れたということは、この次元の座標、空間の位置情報を既に特定しているはずだ」

 

 彼は指先で空中に幾何学的な線を描くように示しながら、簡潔に続けた。

 

「だが、この次元は何処にも繋がっていない。座標が分かっただけじゃ、同一次元内にしか転移できない。だから、外から出入りするため通路を作るための装置を設置しているはずだ」

 

 話を聞いていた壮年の神官が眉をひそめた。

 

「つまり、それはどういうことだ?」

 

 タヴは一拍置いて、低く言い切った。

 

「この都市が、異界への扉の一つになる。ギスヤンキとマインド・フレイヤーの戦争が、この世界で始まるということだ」

 

 その言葉に、場が静まり返る。誰もが言葉を失い、ただ息を呑んだ。そして数秒後──タヴはわずかに目を伏せ、ひとつ息を吐いて言葉を継ぐ。

 

「……いや、正確にはもう始まっているだな」

 

 その声には、確信とわずかな警鐘が滲んでいた。全員がその言葉の意味を即座に理解したわけではなかったが、胸の奥にひやりとした実感が広がっていくのを、誰も否定できなかった。

 

「……装置の場所は分かっているのか?」

 

 やっとの思いで、若い騎士が声を絞り出す。タヴは静かに頷いた。

 

「断言はできないが、都市を下見しているときに、旧区域──廃墟となった施設群の一角で空間の歪みを一瞬だが確認できた。装置は恐らくそこにある」

 

 若い騎士は息を呑み、壮年の神官が険しい表情で問いかけた。

 

「なぜそんな場所に装置を設置するのだ?目立つ場所ではないにしても、都市の内部だぞ」

 

 タヴは冷静に、しかし確信を持った声音で答えた。

 

「ギスヤンキは短時間での制圧を得意としている。即座に部隊を展開して攻撃するつもりなら、都市の内部に装置を設置したほうが効率的だろう」

 

 その明快な指摘に場が静まり返った。誰もがタヴの推測が現実味を帯びていることを理解し、迫り来る危険をはっきりと認識し始めていた。

 

 タヴは最後に、低く静かに告げる。

 

「だから、手遅れになる前に、装置の破壊する必要がある」

 

 重く、確かな口調だった。

 

 沈黙が落ちる。その重さを払うように、壮年の神官──ルドルフが一歩前へ出て、問いかけた。

 

「……あなたの名は?」

 

 それは、ただの形式ではなかった。この場に立つ者が、誰としてここにいるのかを、確かめるための問いだった。一瞬、タヴは迷うように視線を伏せたが、すぐに顔を上げる。

 

「タヴ。……異界の魔法使いだ」

 

「ヨアヒム。俺は、この都市の騎士だ」

 

「エルゼ……神殿の見習いです」

 

「ルドルフ。……神殿で長く仕えてきた者だ」

 

「ミーナ……魔法使いの見習いだけど、頑張る」

 

 皆が名を告げたあと、タヴは静かに全員の顔を見渡した。どこかに怯えは残っている。だが、それ以上に選んでここにいるという意志があった。

 

「……あんたたちは、立派だ。だから、頼みがある」

 

 タヴは声を落とす。

 

「俺は装置の破壊とウリサリッドを排除しにいく。今はそれが最優先だ。だが、これ以上の侵食を防ぐには、都市の中枢にも知らせる必要がある」

 

 タヴが静かに言った。その声には、これまでの戦闘を乗り越えた余韻と、これからに向けた強い意志が宿っていた。

 

「中枢……つまり、政庁や神殿の上層部に?」

 

 エルゼが不安を帯びた声で問い返す。

 

「そうだ。今ここで何が起きたか、何が見つかったか──正確に伝えてくれ。異界だの侵略だのと騒げとは言わない。だが、精神を食らう魔物の巣が地下にあったという事実だけでも、動かざるを得ないはずだ」

 

 タヴの言葉は冷静だったが、その瞳はまっすぐに彼女たちを見据えていた。

 

「……分かった」

 

 ヨアヒムが短く答える。顔には疲労が滲んでいたが、その目には確かな覚悟が宿っていた。

 

「他の街、他の地方とも連絡を取る必要がある。これは、ここだけの話じゃ済まないかもしれない」

 

 ルドルフが深く頷きながら言葉を継いだ。

 

「……ああ、同感だ」

 

 タヴもまた同意し、わずかに視線を落とすと、ゆっくりと踵を返した。

 

「しばらくは別行動だ。俺からまた合流する。それまで、頼む」

 

「無事に戻ってくると信じてる」

 

 そう言ったのはルドルフだった。年長者らしい穏やかな笑みを浮かべて、タヴの背に言葉を送った。

 

 タヴは振り返らず、右手を軽く上げた。それは別れの挨拶であり、再会の合図でもあった。──静かに、魔力の気配がその背に集まり始める。次の目的地へ向け、雷は再び歩き出した。

 

 *

 

 城塞都市の外縁に近い、かつて工房や倉庫として使われていた廃墟群──今では都市の管理網から外れ、立ち入りも制限されていない区域。その最奥、崩れかけた石造の建物の地下へと続く隠し階段を下り、タヴはたどり着いていた。

 

 地下には結界の残滓がかすかに漂い、すでに解除された複数の魔法障壁の痕跡が残っている。

 

(……誰かが、先にここを通った形跡)

 

 タヴは地に膝をつき、掌をかざした。《Detect Magic(魔法探知)》──魔法の存在と性質を探知する術──の発動と同時に、石壁の奥、空間のひずみに反応する形で、濃密な魔力の帯が浮かび上がる。

 

(ここか……)

 

 構造は複雑だった。床面には空間を安定させるための基礎魔法陣が精密に刻まれ、その中心では螺旋状の魔力が収束していた。

 

 装置中央には特異な金属製の杭が打ち込まれ、魔法陣の魔力を束ねて異界との接続点を一時的に固定している。次元間の通路を開くためには、一時的に次元の壁を貫き、そこを安定させる楔が必要になる──それが位相アンカーの本質だ。

 

 タヴは静かに口を引き結ぶ。

 

(……間違いない。あれが次元の通路を開く装置、位相アンカーだ)

 

 その瞬間──背後で気配が揺れた。金属の足音。空気の裂ける音。視線を向けた先、崩れた壁の向こうから現れたのは、ギスヤンキ・ナイト。

 

 異界の戦士──鋭い顔つきに金色の目、痩せた肢体を銀鉄の装甲で包み、巨大な両手剣を構える。その姿は、騎士というより侵略者に近かった。異世界から現れた軍勢の中でも、特に戦闘に特化した指揮官格と見ていいだろう。

 

 その背後に控える五体の兵──同じくギスヤンキの小隊が、一糸乱れぬ隊列で続く。同時に、反対側の回廊より、空間そのものをうねらせるような精神波が満ちる。

 

 姿を現したのは、異形の存在──ウリサリッド。膨れた頭部から無数の触手を垂らし、灰紫色の皮膚を持つ、マインド・フレイヤーと呼ばれる知的怪物の上位個体。その精神波は意識を曇らせるほど強く、背後には支配下に置かれた衛兵たち、さらに三体の通常のマインド・フレイヤーと、精神操作の影響を受けた変質者たちが従っていた。

 

 この場に現れたのは、単なる異形の集団ではない。ふたつの異世界の敵勢力──互いに対立しながらも、今はこの世界に干渉している外なる存在だった。

 

(……なるほど。ここが戦場か)

 

 両陣営の間には、位相アンカーが据え付けられている。これはギスヤンキが設置した出入口だ。マインド・フレイヤーも次元通路をこじ開ける装置を持つが、両者の技術は根本から異なり、便宜上同じ名で呼んでいるだけで互換性はない。奴らがこれをそのまま使うことはないはずだ。追撃を断つために破壊に来たのか、別の算段があるのかはまだ読めない。いずれにせよ、この次元では《Plane Shift(次元間転移)》が封じられている以上、通路を握った側が主導権を取る。

 

(結論は同じだ。先に位相アンカーを無力化する)

 

 タヴは腰を低くし、闇に溶け込むようにして移動した。発声も動作もなく、《Subtle Spell(微細術)》で《Invisibility(不可視化)》を静かに発動する。《Invisibility(不可視化)》──対象の身体や装備を透明にし、術者を視覚的に完全に隠す魔法。ただし、この効果は攻撃や別の魔法を使用すると即座に解除される。タヴは慎重に歩を進め、位相アンカーの側面に近づいた。

 

(位相アンカーの構造は複雑……だが、中心柱を破壊すれば制御不能に陥るはず)

 

 タヴは左手を挙げ、魔力を集束させた。《Shatter(破砕)》──物体に衝撃を与える魔法。振動を内部から発生させ、構造を破壊する術。その直前、ギスヤンキ・ナイトが吼えた。

 

「Pushthrough! Defend The Core!(突入しろ!中枢を死守せよ!)」

 

 同時に、マインド・フレイヤーの精神波が放たれる。戦闘が始まった。斬撃と魔力、精神干渉が交差し、位相アンカーの周囲で激しい交戦が勃発する。

 

(今しかない)

 

 タヴは《Shatter(破砕)》を放つ。その一撃が、中心部の柱へと撃ち込まれ、金属と石の合わせ構造が悲鳴のような音を立てて軋む。

 

 同時に、身体の奥に宿る嵐が応えた。《Heart of the Storm(嵐の中心)》──電撃や雷鳴に耐え、一階梯以上の電撃や雷鳴の魔法を放つたび嵐の力が周囲にほとばしる力──が魔法に反応するようにタヴの周囲に電撃が弾け、位相アンカーの外殻に走った稲光が、露出した魔力導管を伝って構造のひずみを広げていく。直後、《Invisibility(不可視化)》が解除され、タヴの姿がはっきりと現れる。

 

(……一撃では足りない)

 

 ギスヤンキの一人がタヴの存在に気付き、叫ぶ。

 

「Intruder! Spellcaster!(侵入者だ!術者がいる!)」

 

 タヴの姿を認めたマインド・フレイヤーの一体も即座に《Mind Blast(精神爆砕)》を放とうとする。その強力な精神波動が放たれる寸前、タヴは敵の挙動を鋭く察知し、《Telekinetic Shove (念動突き)》を即座に行使した。目には見えない力が空間を駆け抜け、マインド・フレイヤーの細い身体を突き飛ばす。

 

 敵は精神攻撃を放つ前に姿勢を崩され、《Mind Blast(精神爆砕)》は未発のまま散逸した。敵が体勢を整えるより早く、タヴは二撃目の《Shatter(破砕)》を位相アンカーの基礎部分に叩き込んだ。二重の轟音と共に構造が崩れ、魔力導管が激しく火花を散らした。

 

(……離脱する!)

 

 タヴは跳び退り、《TempestuousMagic(疾風を呼ぶ魔法)》によって突風を纏い、瞬時に間合いを離す。だがその瞬間──位相アンカーが振動を始めた。

 

(……まずい)

 

 破壊された位相アンカーが暴走を始めた。座標固定術式が途切れたことで、次元の接続が中途半端に開放されていく。周囲の空間が波打ち、重力の方向が崩れる。位相アンカーを中心に魔力の渦が発生し、タヴと両陣営の一部を巻き込んだ。

 

 ──視界が白く弾けた。

 

 *

 

 世界がねじれ、時間が押し潰され、次にタヴの意識が戻った時──彼は空中にいた。すぐ下に広がるのは、岩肌が露出した稜線と霧に沈む山腹。高度はそこまで高くない。落ちれば即死というほどではないが、受け身を誤れば致命傷は免れない距離だった。

 

(……空中──!?)

 

 視界が揺れる。思考が追いつく前に、重力が容赦なく身体を引きずり落とした。息が詰まる。風圧が叩きつけ、方角の感覚すら乱れていく。《Wind Soul(風の魂)》を反射的に魔力を解放する──だが、その奔流は普段と違っていた。風が暴走し、魔力が噛み合わない。制御の輪郭が曖昧にぼやける。

 

(……魔力が荒い。流れが……乱れてる)

 

 風が逆巻き、身体がぶれる。だが落ちれば終わる。タヴは必死に魔力の芯へ意識を集中し、乱流の中から風の骨格を引き出した。

 

(……抑えろ。収束させるんだ)

 

 ようやく風が軌道を描き始め、風が安定しはじめる。

 

 その周囲──タヴと同様に転移に巻き込まれたギスヤンキたちは、空中で制御を失いかけながらも《Innate Spellcasting(生得呪文発動)》──通常の呪文発動と異なり、発声や動作などの構成要素を一切必要とせず、生来の《Psionics(超能力)》のみで魔法を発動できる能力──で《Misty Step(霧渡り)》を発動する。地上へと瞬間移動し、落下の衝撃を逸らそうと試みる。

 

「Scatter! Prioritize landing!(散開しろ!着地を優先!)」

 

 ギスヤンキ・ナイトが空中で怒声を放つ。

 

 一方、マインド・フレイヤーたちも《Levitate(空中浮揚)》──術者が選んだ対象を垂直方向へ浮上させ、一定時間空中に静止させる魔法──を発動する。彼らもまた《Innate Spellcasting(生得呪文発動)》により、生来備わった《Psionics(超能力)》だけで力場を制御し、その場に浮かびとどまろうと試みる。だが空間の不安定さにより、その姿勢は激しくぶれ、不自然に揺れていた。その中心──ウリサリッドから精神波が放たれる。

 

【……適応せよ。外因を排除せよ……】

 

 言葉ではなく、頭蓋の内側を擦るような声が、マインド・フレイヤーたちの思考領域を震わせる。

 

 だが、魔力を持たぬ変質者たちは、何もできなかった。抗う術もなく、身体を回転させながら、緩やかに落ちていく。霧の中へと沈み、その姿は消えていった──着地の衝撃に耐えられるとは思えなかった。

 

(全員、まだ態勢が整っていない……)

 

 その中で、タヴだけが魔力の暴れを抑えきり、風の加護を安定化させていた。

 

(……ならば、最も厄介なウリサリッドを真っ先に仕留める)

 

 落下の勢いを逆手に取り、タヴは空中で身を翻す。嵐の魔力が背にまとわりつき、魔法を構築する。《Eldritch Blast(怪光線)》──四条の黒雷が空中で輝き、浮遊の不安定なウリサリッドへと放たれた。

 

 続いて、岩場に着地したギスヤンキ・ナイトが即座に足元を蹴る。《Psionics(超能力)》により練られた魔力が脚部に集束する。《Enhance Leap(強化跳躍)》──瞬間的に跳躍力を高める魔法──が発動し、爆発的な推進力がその身を再び空へと押し上げた。

 

 空中で体勢を制御しながら、両手剣を大きく振りかぶる。落下の勢いと跳躍の加速を重ねるようにして、ウリサリッドへと切り込む。同時に、ウリサリッドの目が強烈な紫色の光を放ち、空間そのものが軋んだ。触手を震わせながら念話の命令を発し、頭の中に言葉を押し込んでくる。

 

【まもなく強い衝撃が来る。生き延びたければ武器を下ろし、地に伏せて頭を守れ】

 

 ウリサリッドは《Mass Suggestion(集団示唆)》を放つ。この魔法は視界に入り、声を聞き意味を理解できる最大十二体に一、二文のもっともらしい行動を提案し、抵抗に失敗した者にそれを遂行させる。ただし、自傷行為を促す指示は無効で、魅了を受けない相手には効かない。術者かその仲間が対象に傷を与えれば個別に解ける。

 

 タヴは反射的に《Intellect Fortress(知性の城砦)》の発動をしかけたが、ウリサリッドの魔法が展開される速度と広がりを見て、間に合わないと即座に判断する。

 

(……間に合わない、精神力だけで耐えるしかない!)

 

 タヴは意識を切り替え、自身の精神抵抗を限界まで引き上げることに集中した。意識の奥底から抵抗力を強引に掬い上げ、精神の外殻を堅い壁のように固めていく。押し込まれた命令はそこで砕け、意志は曇らない。

 

 対してギスヤンキ・ナイトは喉の奥で短く雄叫びを上げ、鍛え抜いた意志を叩きつけるようにして命令を力ずくで弾き返した。魔力と精神力のぶつかり合いが、目に見えない衝撃となって空間を震わせる。

 

 その刹那──三者が交差した。

 

 ギスヤンキ・ナイトの斬撃がウリサリッドの肩を裂く。だが、直前に身をひねったことで急所は逸れ、深手ながら致命傷には至らなかった。

 

 タヴの《Eldritch Blast(怪光線)》の一部が、先行していた弾道を描いて到達した。ウリサリッドは精神障壁を展開して迎撃するも、一条が肩を掠め、紫色の体液が霧のように弾け飛んだ。

 

 風と雷、鋼と精神。空中に拡がるはずの何もない空間が、一瞬だけ、三つの意志と力の奔流で満たされる。

 

 三つ巴の混戦が、今まさに幕を開けた。

 

 *

 

 オッフェン群峰──北側諸国でも険しい山岳地帯だ。朝からの風は昼過ぎに突風へ変わり、尾根の針葉樹が軋む。冷えた樹脂と土の匂いが薄く漂う山道を、三つの影が進む。

 

 一人は銀髪を左右で束ねたエルフの女性。白い肌に淡い青緑の瞳、長耳が風で微かに揺れる。生成りのダブルブレストのロングコートに水色の厚手のマフラー、濃色のタイツと茶の折り返しブーツ。小ぶりのトランクを手に下げ、歩幅は小さいが乱れない──フリーレン。

 

 もう一人は腰までの紫髪を真っ直ぐ背に流す少女。切りそろえた前髪と落ち着いた紫の瞳、血色は薄く表情は揺れにくい。薄紫のマフラーを高く巻き、白い上衣に濃紺のロングスカート、黒のタイツと短靴. る。背筋を伸ばし一定の歩調を崩さない──フェルン。

 

 最後は短い赤毛の若い戦士。額にかかる毛先が風で跳ね、褐色の瞳が周囲を素直に追う。赤の冬上着を斜めのベルトで押さえ、白い折り返しの袖に黒のイヤーマフとネックウォーマー、濃色のズボンと編み上げブーツ。背の大斧が揺れ、歩幅は大きく速い──シュタルク。

 

「……風が変だな」

 

 シュタルクが立ち止まり、空を見上げた。青空にかかる霧が、ただの天候によるものとは思えなかった。空気は重く、耳の奥に届く風の音も、不自然なうねりを帯びていた。

 

「この風……自然のものとは思えません」

 

 フェルンが低く言った。フリーレンは言葉を返さず、風上を向いた。エルフの長い耳が、微かにぴくりと揺れる。次の瞬間、空の高み──稜線の彼方から、重く乾いた雷鳴が、山の斜面を伝って届いた。

 

「急ごう」

 

 その一言で、三人は同時に駆け出した。風がさらに強くなる。木々が揺れ、葉が飛び交い、土と石が渦を巻いて舞い上がる。魔力が空気の中に擦れるように拡散し、山肌に染み込むような感覚が足元を伝ってきた。

 

 そして、崖の端から見えた。

 

 稜線の向こう──空中に広がる濃霧の裂け目。その中心、雷光と突風が激しく交錯し、魔力の嵐が渦を巻いていた。

 

 そこに──ひとつの人影。

 

 男だった。黒い外套の裾が嵐に踊り、その下には軽量化された中装鎧が見え隠れする。淡い茶色の短髪、左右で色の異なる瞳──右目は澄んだ鮮やかな青色を帯び、左目は淡くくすんだ青灰色をしている。そして右の頬に刻まれた見慣れぬ文様。

 

 だが、視線を奪われたのは容姿ではなかった。彼は空を舞っていた。風に乗り、魔力を奔らせ、雷光を解き放つ。あらゆる動きが、魔法というより飛翔だった。魔力の密度が異常に濃く、構築速度はあまりに早すぎて、視認が追いつかない。

 

 男は、空中で二つの陣営と交戦していた。

 

 一方は、銀色の甲冑をまとい、巨大な両手剣を振るう戦士たち。その動きは無駄がなく、空中にもかかわらず踏み込みの勢いがある。揃った装備と機動、明らかに訓練された戦闘部隊。その先頭でひときわ鋭い気配を放つ一人が、無言で全隊を率いていた。

 

 もう一方は、空に浮遊する異形の群れ。頭部が異常に大きく、そこから複数の触手を垂らし、全身から重苦しい魔力の波動を発している。その中心にいる大型の一体、濃密な圧力を放つ存在が、空気ごと精神を圧迫するような波を広げていた。

 

「一人で全部相手してる……って、わけじゃないよな?」

 

 シュタルクが眉をしかめながら呟いた。状況を理解しきれないまま、視線は空中の混戦に釘付けになっている。銀甲冑の戦士と異形の群れが互いにぶつかり合いながらも、なぜか、あの男にだけ一瞬集中する視線──それが、異様だった。

 

「……でも……狙われてるのは、あの人です」

 

 フェルンも目を離さない。だが、その声にはいつもの冷静さはなく、わずかに硬さがあった。視線は一点を結んでいるが、脳の中ではまだ状況を整理しきれていない。

 

 男は動きながら、数体の異形に雷撃を浴びせ、続いて銀の戦士の一人に突風を飛ばす。相手を見定めるより、先に自分が狙われることを想定しているような立ち回りだった。

 

 そして、突如として、それは起きた。

 

 空がねじれた。

 

 異形の中心、濃い魔力を纏った個体が、その頭部から静かに魔力を放出する。鋭く細い緑色の閃光が疾走し、空間を切り裂きながら男に迫る。

 

 男は咄嗟に身をひねったが、完全に回避することは叶わず、左腕が閃光に巻き込まれた。その刹那、皮膚や筋肉が一瞬で灰化し、崩れ落ちていく。

 

 表情は驚愕よりも冷静な苛立ちが浮かんでいる。握られていたクォータースタッフが重力に引かれ、地面へと音を立てて落ちた。

 

「……っ」

 

 フェルンが息を詰めた。その瞬間だった。

 

 男が構築中だった魔法が、腕の消失によって制御を失う。構築された雷撃の奔流が、標的を失い、周囲の空間を裂くように逸れた。雷が裂け、爆風が逸れる。──それが、フリーレンたちの立つ崖へと向かってきた。

 

 フェルンが咄嗟に動こうとする。だが、それより早く、フリーレンが杖を掲げていた。言葉はない。防御魔法が展開され、六角形の魔法陣が幾重にも重なり、淡く青白い障壁が空間に出現する。

 

 雷光が障壁に激突し、爆ぜた。

 

 圧縮された風と熱が辺りを焼き、草木をなぎ倒していく。だが、三人の足元には砂一つかからなかった。障壁が霧のように散っていく中、フェルンは縁に残る魔力の粒子を慎重に観察した。

 

「……魔力の構造が、違う。こんなの、見たことないです」

 

 呟いたその声は、なおも唸る突風の中で消えかけたが、フリーレンの耳には届いていた。障壁が霧のように散ると同時に、空中の戦場が再び露わになる。

 

 男は痛みに叫ぶことなく、飛行を維持していた。外套の中から短く鋭い武器──ウォーピックを右手に引き抜き、左腕の断面には、熱で焼き止めたような痕が走っていた。血は流れていない。魔法で即座に止めたのだろう。

 

 突如、彼の周囲に再び風が渦巻く。魔力が彼の身体に収束し、動きがさらに加速していく。

 

 その姿はまるで嵐だ。

 

 男の放った雷撃に焼かれ、空を漂っていた異形がひとつ、静かに崩れ落ちる。さらに距離を詰めた彼は、右手に握った漆黒のウォーピックを一閃──斬撃でも刺突でもない、一撃の呪いと共に、銀の戦士の胸を貫いた。その銀の戦士の動きが一瞬で止まる。黒い瘴気のようなものが傷口から噴き出し、音もなく霧散する。

 

 何かが敵に取り憑いていた。フリーレンたちが見たのは、そんな異様な現象だった。戦況は、確実に変わりつつある。

 

 銀の甲冑の戦士たちは、既に半数が倒れていた。かつて空を漂っていた触手を持つ異形の群れは、今や雷撃に焼かれ、黒焦げの肉体となって地表に転がっている。なお動いているのは、ただ一体。中心にいた異様に濃い魔力の個体──指揮官だけが、いまだ健在だった。

 

 その個体が再び、沈んだ精神波を放とうとする。だが、それを遮るように、空を裂いて男の姿が駆け抜ける。風が渦巻き、彼の速度がさらに増していた。身体の周囲に収束する魔力が、視覚をも曖昧にする。

 

(……動きが早すぎる。《飛行魔法》で出せる速度じゃない)

 

 フリーレンがわずかに眉をひそめた。人類が空を飛べるようになったのはまだ四十年ほど前だ。人類が使用している《飛行魔法》は魔族が使っていた術式をそのまま転用したにすぎず、応用ができない。

 

 本来は魔族が自在に使いこなしていた魔法であり、魔族は《飛行魔法》を呼吸をするように行使できる。しかし、飛行しながらあの速度を維持することは、魔族でも容易ではないだろう。

 

 今の彼の動きは、まるで時間そのものが速く流れているようだった。片腕を失った身体で、なおあの動き──尋常ではない。その男は高速で飛び続けながら、戦場の重心を一手に引き受けている。

 

 銀の戦士たちは、戦況の不利を悟って撤退を開始する。一人、また一人と足場となる岩場へ《霧のように》転移し、微かな揺らぎと共に姿を消していく。彼らの狙いは、もはや戦場の掌握ではなく、損害の最小化だった。

 

 異形の群れはすでに壊滅し、残されていたのはただ一体、濃密な精神波を帯びた指揮官格のみだった。だがその異形も、もはやこの戦場に留まる意志はなかった。《浮遊》の魔法で重力を拒み、霧の向こうへと静かに姿を消していく。

 

 そして、なお残り続ける一人の男。フリーレンは視線を逸らさず、その姿を見つめていた。彼の魔力は明らかに異物だった。だが、それは歪な暴力ではない。むしろ、極限まで研ぎ澄まされた術式。

 

 知らない。記録にもない。それでも、魔法だった。

 

 理解はできる──少なくとも、魔法使いとしての直感がそう告げていた。シュタルクが低く唸ったように言う。

 

「……あれ、何なんだよ。人間か?」

 

「少なくとも、普通の魔法使いじゃないです」

 

 フェルンが小さく返す。目は未だ、空にいる男から離れていなかった。

 

 *

 

 風が抜けた。空が、ようやく静かになった。

 

 タヴは深く息を吐き、背を逸らして滑空した。視界に映る稜線を見定め、まだ残る風の加護──《WindSoul(風の魂)》の流れを使って、ゆっくりと高度を下げていく。だが、既に魔力の流れは不安定だった。

 

(そろそろ、限界か……)

 

 残滓のように身体を支えていた風が抜け落ちる。着地の瞬間、足が地面に触れた途端──その反動が全身を駆け抜けた。

 

 力が、抜けた。

 

 膝が砕けるように崩れ落ち、タヴは地面に倒れ込む。意識はある、だが身体が言うことをきかない。

 

(……《Haste(加速)》の反動だ)

 

 魔法によって、術者自身の時間の流れを相対的に早める呪文──《Haste(加速)》。思考・反応・動作の一つ一つを、周囲よりも速く終わらせていく。

 

 結果として、術者の身体は他者には捉えきれない速度で動いて見える。それが切れた反動で、数秒間、激しい倦怠感に襲われ、動くことが困難となる。疲労や傷の問題ではない。魔法の副作用だ。

 

(……まずい)

 

 荒く息を吐く。だが、動けない。片腕を失った痛みも、もはや遠い。代わりに冷静な焦りだけが残っていた。

 

 そのときだった。足音が三つ。顔を上げる。視線の先には、駆け寄ってくる三人の姿。

 

 銀髪のエルフと思われる女性、紫髪の少女、そして赤毛の少年。彼らがこちらに駆け寄ってくる。敵意はない──が、こちらの状態を見れば、用心するのは当然だ。

 

「Geht es Ihnen gut!? Wenn nur ein Priester hier wäre……!(大丈夫ですか!?僧侶がいてくれれば……!)」

 

 紫髪の少女が駆け寄り、何かを取り出そうとする。その横で赤毛の男は、すぐに背中を支えようとするが、タヴはそれを右手で制した。

 

「……問題ない。自分で……何とかできる」

 

 そう言っても、意味は通じないのは分かっていた。ただ、必死に言葉を返そうとするその様子が、かえって痛ましかったのだ。

 

 紫髪の少女と赤毛の少年は、タヴの言葉に一瞬目を見交わし、戸惑いの色を浮かべる。

 

「……Hä? Was hat er gerade gesagt……?(……え?何と言ったのですか……?)」

 

 紫髪の少女が困惑して問いかけ、赤毛の少年も

 

「Die Sprache…… ist eine andere?(言葉が……違うのか?)」

 

 とつぶやいた。目の前のエルフ──年齢の読めない魔法使いが、じっとこちらを見つめている。その瞳には、探るような静けさがあった。

 

 タヴは静かに目を閉じ、胸の奥に残る魔力を探る。左腕の断面は、即興の魔法で焼き固めていた。血は止まっている。だが、それで終わりではなかった。

 

(……このままでは、長くは持たない)

 

 患部に残った壊死組織、焼け焦げた神経束、止血による循環の遮断──時間が経つほど、傷はただの切断ではなく致命傷へと変わっていく。出血が再開すればショック死もあり得る。感染が進めば敗血症になる。仮に命が助かったとしても、片腕ない状態での活動は今後に支障をきたす。

 

(だから──俺は、治す。今、ここで)

 

 使うしかない。定命の者が唱えられる最も強力な魔法。

 

 《Wish(願い)》──あらゆる現象を言葉にするだけで現実に変える、世界そのものへ干渉する究極の魔法。だが、その力は万能にして危険。願いの形を誤れば、その代償は計り知れない。タヴは膝をついたまま、荒い息を整え、静かに目を閉じた。そして、魔力を絞り出すように叫ぶ。

 

「俺は第七階梯の《Divine Magic(神性魔法)》、《Regenerate(再生)》の効果を──この手で完全に再現する!四肢を、失われたこの腕を……今ここで取り戻す!」

 

 その言葉は、呪文ではなかった。世界そのものに向けた命令であり、代償をも辞さぬ願いだった。《Regenerate(再生)》──本来は高位の聖職者しか扱えぬ神の領域の術。失われた四肢すら再生させる、対象の治癒力を極限まで引き上げる魔法。

 

 複雑な印も道具もいらない。ただし、意志と言葉が明確でなければ成立しない。空気が揺れた。魔力が一気に爆ぜ、空間が一瞬だけ異常な熱量に包まれる。

 

 《Wish(願い)》が放たれた瞬間──三人の表情が、一斉に変わった。

 

 紫髪の少女は顔を強ばらせ、赤毛の少年は思わず後ずさる。エルフの魔法使いだけが、無言でその魔力の波を受け止め、ただ目を細めていた。理解したのだろう。これは尋常な魔法ではないと。

 

 左腕に残る断面から、光が生まれる。ゆっくりと、骨が伸び、筋が編まれ、血管が脈打ち、皮膚が再構築されていく。

 

 三人が、言葉も出ないまま、その様子を見守っていた。痛みはない。ただ、魔力が満ちるような感覚だけが残る。失われたはずの左腕が、確かに再びその場に形成されていた。

 

 赤毛の少年が小さく呟く。

 

「……Das kann nicht sein……sein Arm ist nachgewachsen……(……嘘だろ……腕が生えた……)」

 

 タヴはゆっくりと目を開き、立ち上がる。再生した左手の指を一度開き、握る。そのまま、右手を胸元に添えて、《Tongues(言語会話)》を詠唱する。その魔力が展開されると、次に発せられた言葉が、はっきりと聞き取れるように変わった。

 

「……助けようとしてくれたのか?感謝する。だが、今は落ち着いてくれ」

 

 紫髪の少女が驚いた顔をする。

 

「言葉が……通じてる?」

 

 エルフの魔法使いが一歩、前に出る。その瞳は微かに細められていた。

 

「声と口の動きが、合ってない……魔法で脳内に意味を翻訳して届けてるね」

 

 その口調に驚きはなかった。ただ、状況を一つ一つ検証するような、冷静な観察の積み重ねだった。

 

「……察しが良いな」

 

 タヴはわずかに口元を歪める。笑いとは言えない、ひどく薄い感情の欠片。

 

「じゃあ、聞かせて」

 

 エルフの魔法使いが静かに言う。

 

「あなた、誰?何者?ここで……何をしていたの?」

 

 タヴは言葉に詰まった。答えを用意していたはずだった。が、実際にそう問われると、口にするには躊躇いが生じる。

 

「……通りすがりの旅人だ。面倒事に巻き込まれたんだよ。偶然な」

 

 そう答えながらも、タヴの声はわずかに硬かった。過剰な説明を避けるための方便──だが、自分でもその言葉の薄さに気づいていた。

 

「偶然で、あんな戦い方をする人なんて、見たことないよ」

 

 エルフの魔法使いの声に棘はなかった。ただ、その目だけが、嘘を許さない強さを宿していた。

 

 タヴは、息を吐いた。そのまま、そっと視線を落とす。

 

「……話せることは限られてる。それでもいいか?」

 

「いいよ。できる範囲で、教えて」

 

 それは、圧力ではなかった。ただ──選べる余地をくれる言葉だった。タヴは頷いた。そうして、ようやく、自分がここにいる理由を語り始めることになる。

 

 *

 

 名乗りのあと、タヴと名乗った男はしばし黙ったまま、再生した左腕をゆっくりと握っていた。関節の可動や神経の感覚を一つずつ確かめるように、淡々と指を曲げ伸ばしながら、視線だけは彼らから外さなかった。

 

 その姿を、三人はそれぞれの思惑で見つめていた。

 

 フリーレンは、魔力の揺らぎを分析していた。タヴの腕を再生させた魔法の残滓がまだ周囲に漂っている。それはこの世界にある魔法の系統とは明らかに異なるもので、理論の基盤そのものが違っていた。だが、それでも魔法であることに変わりはなかった。

 

 フェルンは、記録を残すべきかどうかを迷っていた。彼女の頭の中には今の現象とその魔力構成、呪文の発動条件、それらの全てが鮮明に刻まれていた。言葉が通じるようになった今、その仕組みを問いただすべきかどうかを測っている。

 

 シュタルクは一歩だけタヴの前に出て、警戒の視線を緩めないままだった。だがその目には、戦いを終えた者への戸惑いと、別の意味での恐怖が混ざっていた。

 

「なあ、さっき、腕が吹っ飛んだよな?しかも一瞬で。よくその状態で戦い続けたよな……」

 

 率直な疑問だった。戦士としての感覚がそれを受け入れがたくさせていた。再生したばかりの肉体は、まだ薄い痕のような赤みを帯びていたが、動作には支障がないように見えた。

シュタルクの言葉に、タヴは淡々と返す。

 

「戦闘中に四肢を失ったのは、初めてじゃないからな」

 

 明らかに無理をしているわけでもなく、ただの事実として言っている。経験がある、それだけの話だとでも言うように。シュタルクは肩を震わせ、乾いた声で返した。

 

「……怖えよ、あんた……」

 

 タヴは反応を返さなかった。ただ、フェルンがその視線のやりとりを横目に、静かに口を開いた。

 

「腕を治した魔法……あれは、女神様の魔法なのですか?失った部位を完全に再構築する魔法なんて、私は聞いたことありません……あなたは、どこから来た魔法使いなのですか?」

 

 フェルンの問いに、タヴは一度目を伏せ、わずかに唇を歪めた。

 

「俺はここで生まれた存在じゃない。この次元に来たのも偶然だ」

 

 その答えに、フリーレンの眉が微かに動いた。

 

「この次元に来た?……どういう意味?」

 

「文字通りの意味だ。この世界の海の向こうにも、空の向こうにもない場所から転移してきた。ここに来たのは俺の意思じゃない。説明が難しいんだが……何者かが開いた次元の裂け目から無理やり引きずり込まれたんだ」

 

 その声に偽りはなかった。だが、信じがたい話でもあった。

 

「つまり……異世界から連れて来られたということですか?」

 

 フェルンの声に、タヴは頷く。

 

「そう言っても差し支えない。魔法の体系も、自然法則も、言語すら違う……俺はここの常識とは違う理で動いてる」

 

 言葉の端々に、既に分析と検証を重ねてきた者の重みが滲んでいた。フリーレンが黙って聞き続ける中、タヴは続ける。

 

「だが、問題はそこじゃない。俺は帰りたい。それが一番の目的だ。帰るための方法を探しているうちに、先ほど戦ってた連中と鉢合わせて、今に至る」

 

 シュタルクが腕を組み直し、眉をひそめた。

 

「あんたが戦ってた連中も、異世界から来たのか?」

 

「ああ……恐らく奴らも連れてこられた側だろう。だが、奴らは逆にそれを利用して、この世界に拠点を築こうとしている」

 

 フェルンが一歩前に出て、やや強い調子で問う。

 

「その奴らは何者なのですか?」

 

 フェルンの問いには、わずかな緊張がにじんでいた。先ほどの戦場の光景が、頭から離れないのだろう。常識では測れない力と、異質な存在。それに対する恐れと探究心が、言葉の端に混ざっていた。タヴは静かに応じる。

 

「銀の装備をしていた連中はギスヤンキという。異界からやってきて、色んな世界を襲って回る略奪者だ。そして、あの触手頭の異形はマインド・フレイヤー。人の脳を喰う、もっとタチの悪い怪物だ。……もともとギスヤンキは、マインド・フレイヤーに支配されてた側だった。長い戦いの末に反旗を翻し、今では互いに殺し合いを続けてる」

 

 言葉こそ穏やかだったが、そこには底知れない実感と警戒が込められていた。彼が語るそれらは、単なる別の世界の怪物ではなく、何度も命を削り合ってきた敵だったのだ。

 

「だが、そんな因縁、この世界とは何の関係もない。ただの私怨だ。……それなのに、奴らは次元を超えてまで、ここに争いを持ち込んだ」

 

 タヴの声が、わずかに低くなる。言葉の端に、静かな怒りがにじんでいた。

 

「……奴らは、ただの次元のゴミだ。壊して、奪って、跡形も残さない。関係ない世界まで巻き込んで、好き勝手に踏み荒らす」

 

 三人は、その言葉の奥にある感情──単なる敵意ではなく、個人としての憎しみと後悔のようなものを感じ取っていた。

 

 フリーレンが少し目を細めて、静かに問いかけた。

 

「あなたはこの世界を守るために戦ってるの?」

 

 その問いに、タヴは短く笑った。だが、そこに愉快さはなかった。

 

「……違う。自分のためだ。俺が帰る方法を見つける前に、この世界の文明を滅ぼされては敵わんからな。そうなれば、帰る方法を探すどころか、生きるのも難しくなる」

 

 タヴの瞳が、どこか遠いものを見ていた。過去の戦場、あるいは失われた何かを追いかけているように。

 

 沈黙が落ちた。

 

 その中で、フリーレンがぽつりと呟いた。

 

「……ヒンメルが魔王を倒したのに、変な連中が火種を持ってきて、世界に戦火が広がるのは、気分が悪いね」

 

 その一言は、決して冗談ではなかった。フリーレンにとって、あの旅の記憶と、ヒンメルの願いは確かに今も在り続けている。

 

「それに……あの連中は私も気に食わないし、放っておくのは危険だね」

 

 フリーレンはタヴをまっすぐ見つめたまま、ふっと表情を緩めた。

 

「……今はあなたをここに置いて行く理由もない。しばらく、私たちと一緒に来る?」

 

 その言葉に、タヴは思わず動きを止めた。目の奥に一瞬、警戒と困惑が交錯する。初対面の異邦人、それも異界から来たと自白したばかりの存在に向けられるには、あまりにも軽やかな提案──しかし、そこに打算や恐れの色はなかった。

 

「……俺を信用するのか?」

 

「まだしてないよ。でも、一緒に歩けば、分かることもある」

 

 フリーレンの声は静かだったが、揺るぎなかった。フェルンも頷く。

 

「敵意がないのは分かります。ですから……警戒はしますけど、攻撃するつもりはありません。一緒にいてくれるなら、私たちとしても助かります」

 

 シュタルクは腕を組んだまま、渋い顔でタヴを見ていたが、しばらくしてふと視線を逸らした。

 

「ま、俺らも旅の途中だしな。変なことしなきゃ、一緒に歩いてても文句は言わないよ」

 

 そのやりとりを受けて、タヴは視線を巡らせながら、わずかに唇を歪める。

 

「……つまり、俺の監視が目的か?」

 

「違います」

 

 フェルンが即座に否定する。その声には、明確な意思が込められていた。

 

「一緒にいてもらえた方が、こちらとしても動きやすいだけです。あなたの魔法や世界……まだ知りたいことがたくさんありますから」

 

「あなたも、この世界で活動するなら、身元を保証してくれる人がいたほうが、都合がいいでしょ」

 

 フリーレンも、どこか淡々とした口調で付け加えた。ただ、互いの利害を秤にかけた上での、ごく現実的な提案だった。

 

 タヴは一度、空を見上げる。そして、肩の力を抜くように小さく息を吐いた。

 

「……利害は一致している、というわけだな」

 

「そういうこと」

 

 フリーレンが答えた。空には、もう風しかなかった。

 

 タヴは一度、深く息を吐き、そっと地面に目を落とす。その後、目線は足元から周囲の地面、岩陰、そして草むらの奥へと流れていく。何かを探しているようだった。だが、目的は分からない。しばらくして、ぽつりと訊ねた。

 

「さっきの戦闘を見てたのなら……俺のクォータースタッフ、知らないか?どこかに落ちたはずなんだが」

 

 三人が同時に顔を見合わせる。さっきから探していたものが、ようやく口にされた。嵐は過ぎた──だが、その中心にいた者の歩みは、まだ続いていた。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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