夜の帳が都市を覆い始める頃、タヴは物資搬入口の裏手に身を潜めていた。城塞都市の防備は堅牢だが、物流を支える裏手の搬入路や、廃棄物を外へ出すための通気口といった構造には、どうしても隙が生まれる。その一点に賭ける形で、彼は潜入経路を選定していた。
タヴは《Misty Step(霧渡り)》へ《Subtle Spell(呪文発動秘匿)》を重ね、声を出さずに輪郭を淡い霧へほどく。次の瞬間には搬入用の跳ね橋を越えた物陰へ移っていた。靴底が石へ触れても足音は立てず、霧が外套から落ち切るまで壁際を動かない。地図では、廃倉庫の脇に内郭へ抜ける道がある。
建物の影を縫うように移動しながら、タヴは気配を殺す。足音すら立てない歩法と、周囲の僅かな気配を拾う耳は、望まずに身につけたものだ。孤独な放浪と過酷な環境での生存が教えた、実用的な技術である。
搬入場は外壁の内側の倉庫群へ続いていた。樽の木の匂いと油煙がこもる通路を抜け、監視台の死角に合わせて一呼吸ずつ身体を送る。廃倉庫の脇では、排水路にかかる古い格子の向こうに内郭の裏路地がのぞいていた。タヴは息を整え、再び《Misty Step(霧渡り)》を《Subtle Spell(呪文発動秘匿)》で起動する。輪郭を霧に崩し、格子の内側へ身を移した。
都市内部は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。路地に響くのは、石壁から落ちる水滴の音と、遠い場所で消えかける鐘の余韻だけだ。暖かな食事の匂いも、戸口越しの笑い声も薄い。その静けさに、タヴは異常を感じた。
角から主街路をのぞく。歩く人々の動きは妙にぎこちない。衛兵たちの目線は一点を凝視するように鋭く、しかも曇っている。まるで深い霧の奥に囚われたかのような虚ろな視線だった。
路地裏でタヴは壁際に身を伏せ、通りを歩く衛兵の一団を観察する。彼らが身につける鎧は正規の都市兵のものだったが、その足取りは均一で、呼吸の乱れもない。不自然なまでの無音の動作は、自我を押さえ込む精神干渉を受けた者のそれだった。コロニーの影響は、すでに正規兵へ届いている。
マインド・フレイヤーに支配された者たちは、自我の一部が切り取られ、命令に従うだけの器となる。意識はあるかもしれないが、それを使って自分を守ることはできない。
タヴは巡回の足音が角を曲がるのを待って街路を抜け、旧区域の廃墟と化した施設群の陰を縫うように進んだ。崩れた壁と錆びついた鉄柵が立ち並ぶ一角へ踏み込んだ瞬間、視界の端で鉄柵の輪郭がずれた。
石壁と鉄柵が二重にぶれ、すぐに重なった。タヴは即座に足を止め、呼吸を抑えて周囲を見渡す。見た目は元に戻っている。しかし、空間の継ぎ目を指で弾いたような震えが、まだ皮膚に残っていた。位相の歪みだ。マインド・フレイヤーが残したものかは、まだ分からない。
脳裏に、かつて遭遇した「狭い裂け目」の記憶がよぎる。空中に細い切れ目が生まれ、ひと呼吸のあいだだけ通り道になる。そこから少数が、縁を押し広げることなく滑り出る。先ほどの揺らぎは、その前触れに近い。あの連中、ギスヤンキやマインド・フレイヤーなら、こうした痕跡を残すと考えられる。
だが、今はその調査を深めている場合ではない。揺らぎの位置を記憶に留め、タヴは顔を高台へ向けた。
位相の歪みは後回しだ。今は、都市を内側から崩そうとしているコロニーを先に止めなければならない。
タヴは屋根に駆け上がり、政庁や城館のある都市中心部の高台を見渡した。そこに至る街路には警備線が増強され、通行が厳しく制限されている。しかし、それは外部からの侵入を防ぐためではない。内部から都市を掌握し、住民を閉じ込め、監視するためのものだ。
コロニーの形成はすでに始まっている。これ以上の猶予はない。
彼は拳を強く握り締めた。この場で何かを誤れば、都市ごと飲み込まれる。精神の網が完成すれば、全住民がマインド・フレイヤーの意思に取り込まれ、都市の外へと侵食が広がっていくだろう。
その後、数日をかけてタヴは廃屋や地下水路を拠点に潜伏しながら情報を集めた。住民の中には、目が合ってもすぐに逸らす者が増えている。問いと返事が微妙に噛み合わず、会ったばかりの家族や知人の名さえ口から出てこない。
精神汚染は拡がり、奴らの声が住民の内側まで入り込み始めていた。
それはまさに感染に近いものだった。言葉や視線、さらには夢の中にすらマインド・フレイヤーの精神波は潜んでいる。タヴは地下水路に身を伏せながら、呼吸を整えた。
彼の視線は一枚の粗末な紙片に落ちた。失踪者の名と、最後に目撃された場所。地図上でそれらを結びつけると、不自然なほど明確な中心が浮かび上がった。都市南端にある、既に閉鎖されて久しい古い地下礼拝堂だ。
ここが始まりなら、コロニーの中枢は地下にある。
タヴは立ち上がった。このままでは都市は沈み、精神汚染は交易路を通じて他の地域へと急速に広がるだろう。少しでも対応が遅れれば、コロニー化は爆発的に加速し、二度と取り返しがつかなくなる。
本来なら一人で踏み込む場所ではない。だが援軍はなく、報告も届かない。止められる者は──今、この地には恐らく自分しかいない。タヴは粗末な紙片を畳み、外套の内へ収めた。フードを目深に引き、地下礼拝堂へ向かう。
握った指の間で微かな紫電が弾け、すぐに外套の陰へ消えた。
*
地下礼拝堂へと続く旧市街の石段は、崩れた壁の隙間を縫うように伸びていた。昼間は封鎖され、廃墟と化した聖堂の影。その地下に、誰も近寄ろうとはしなかった。理由は知られていない。ただ、「行方不明になった者たちは、あの辺りにいた」という噂があるだけだった。
タヴは夜闇に紛れ、軋む石扉をゆっくりと開いた。内部には土と血のような湿った空気が満ちている。光の届かない廊下を、《Devil's Sight(悪魔の目)》で見渡す。彼の瞳は暗闇をものともせず、空間の奥に続く異様な構造を捉えていた。
礼拝堂の構造そのものが、何かに捻じ曲げられていた。祭壇が引き裂かれ、床には奇妙な円形の模様が刻まれている。中央には、横たわる人影がいくつもあった。
近づいて確認したタヴの視線が、微かに揺れた。その人影には、もう人だった頃の面影しか残っていない。
肌は青白く変色し、眼は濁り、筋肉は膨張して不自然なまでに硬直している。だが完全な変質には至っていない。精神を食われ、肉体だけが異形へ変わりつつある。コロニー形成はまだ初期だが、いずれは奴らの苗床として完成する。
その傍には、小さな獣のような存在が蠢いている。脳の形で四足を持つ幼体、インテレクト・ディヴァウアラーだ。かつて人型生物だった者の脳から生まれ、這いずり、再び獲物の精神を貪る。数はまだ少ないが、増えれば礼拝堂そのものが孵化場になる。
湿った空気が耳の奥で震え、祭壇の両脇で闇が歪んだ。そこから三体の異形が滑り出る。灰色の頭部から無数の触手を垂らしたマインド・フレイヤー。一体は正面からタヴの瞳を捉え、もう一体が壁沿いへ分かれる。残る一体の背後では、空間の歪みが閉じきらずに揺れていた。
しかし、タヴはすでに《Subtle Spell(呪文発動秘匿)》を重ねた《Lightning Bolt(電撃)》を組み上げていた。外套の内側だけが青白く明滅し、焦げた空気の匂いが布地の下にこもる。三体のうち一体と、その背後を這うインテレクト・ディヴァウアラーが一直線に重なった。あとは、最初に動く一体へ雷撃の端を合わせるだけだった。
【跪け──】
正面の一体が頭部を掲げ、《Command(命令)》の一語をタヴの意識へ押し込もうとする。待ち構えていた雷撃は、命令が意味を結ぶ前に迸った。
紫電が異形の胸を貫き、その背後を這っていたインテレクト・ディヴァウアラーまで焼き抜く。二つの身体が焦げた石床へ倒れ、光に削られた闇が祭壇の上へ戻った。
雷光が消えきらないうちに、壁沿いへ分かれた二体目の触手が伸びる。タヴは《Quickened Spell(呪文高速化)》で《Eldritch Blast(怪光線)》を放った。四条の光線を胴に受けた異形は壁へ叩きつけられ、触手を石床へ投げ出す。
残る一体は、仲間を助けようとしなかった。閉じかけていた背後の歪みへ身を滑らせる。追った《Eldritch Blast(怪光線)》は縁を灼いたが、空間は異形を飲み込んで閉じた。
タヴは死んだ異形から離れ、焦げ跡の外側まで礼拝堂を見回した。片隅の半ば崩れかけた祭壇、その隙間に、銀色に近い鈍い輝きを放つ破片が僅かに覗いている。表面の研磨も刃の薄さも、この世界で見てきた武器のものとは異なり、ギスヤンキの装備に近い。マインド・フレイヤーを追って、ここまで来たのかもしれない。
アストラル界に生きる戦闘種族、ギスヤンキ。かつてマインド・フレイヤーの奴隷として支配されていたが、反乱を起こし、今も復讐のために仇敵を執拗に追い続けている。
しかし、敵の敵が必ずしも味方とは限らない。ギスヤンキは独自の目的で動く。こちらを利用する可能性も、排除する可能性もある。都市内部でマインド・フレイヤーとギスヤンキが接触していた。タヴは水路の先だけでなく、頭上を行き交う足音にも意識を割いた。警戒すべきものは、地下の巣だけではなくなった。
タヴは立ち上がり、最後にもう一度、変質しかけた住民たちを見下ろした。彼らは既に脳内にマインド・フレイヤーの幼生を植えつけられている。ほぼ確実に手遅れだろう。この段階になれば、もはや救う方法はない。
「……さて。ここからが本番だな」
異界という言葉は使わない。ただ、精神を喰らう魔物が潜んでいる──それだけ伝えれば十分だ。タヴは外套を整え、足音を殺して礼拝堂を後にし、人通りのある裏通りへ向かった。
*
タヴは人通りの絶えない裏通りで足を止め、注意深く通行人を観察していた。身なりは整っているが、法衣の裾は埃に汚れ、肩を落とした若い神官が目に留まる。疲労は隠せていない。それでも足取りはまっすぐで、口内の祈りも途切れなかった。タヴは連れがいないことを確かめ、その進路へ数歩近づく。
タヴは小さく息を吐き、《Tongues(言語会話)》へ《Subtle Spell(呪文発動秘匿)》を重ねる。行き交う話し声の意味が耳の奥でほどけていく。すれ違う商人の値段交渉も、若い神官が口内で繰り返す祈りも、同じように意味を結んだ。
数歩前に出て、すれ違いざまに低く声をかける。
「時間を取ってほしい。地下礼拝堂のことで話がある」
神官の眉間に皺が寄り、踏み出しかけた足が止まる。
「……あなたは誰です? どうしてその場所のことを──」
「名乗る気はない。それより、最近精神を侵されている者が出ているはずだ。記憶の混濁、発話の混線、情緒の欠損……見覚えがあるはずだろう」
神官は一拍だけ黙った。半歩の距離は保ったまま、問い返す。
「それがあなたと、どう関係するんです?」
「俺は見た。礼拝堂の地下で、肉体が変質しかけていた者たちを。そして『精神を鞭打つもの』──名はどうでもいいが、脳を喰らい、精神を支配する存在も」
タヴは症状を一つずつ、一度も言いよどまずに告げた。神官の背が徐々に伸び、指が法衣の端を掴む。
「信じろとは言わない。だが、数日もすれば分かる。あそこが始まりだったと。今なら、まだ間に合うかもしれない」
神官は沈黙し、数秒だけタヴの視線を真正面から受け止めた。やがて、わずかに顎を引いた。
「……分かりました。言葉は届けます。ですが……我々の判断で、調査します」
「それでいい。案内人が必要なら、俺は城塞東の廃倉庫にいる。夜明けまで待つ」
タヴはそれ以上何も言わず、背を向けた。神官はその姿が人波に隠れるまで動かず、やがて胸元の聖印を握り直した。
*
神殿の奥、光を遮る厚い石壁に囲まれた会議室。高位神官と数名の補佐役、都市警備隊の古参騎士がひそやかに集められていた。
卓上には、神官の一人が持ち帰った報告が再現されていた。手紙ではない。ただの口頭伝聞──名も素性も不明な男が、礼拝堂の地下に精神を喰う魔物が潜んでいると語ったという。
「……礼拝堂の地下は、十年前に閉鎖されています。地震で崩れかけていると判断されて以来、立ち入りも許可されていない」
若い神官の一人が、訝しげに報告者へ視線を向ける。
「その男、本当に礼拝堂の内部に入ったのですか?」
「はい。信じがたいほど具体的な描写でした。礼拝壇の奥に、刻まれた模様。複数の変質者。動き回る脳のような獣……。病でも幻視でも説明のつかない異常でした」
「ならば、それこそ嘘か狂人の戯言だろう」
壮年の神官は両手を袖に収めたまま返す。
「得体の知れぬ者の言葉で神殿が動けば、それこそ魔物の思う壺だ」
「……ですが、ここ数日の異常と符合する点が多すぎます」
別の神官が口を挟む。
「記憶の混濁、人格の崩壊、意識の空白。施療院でも既に数例確認されている」
「それは神経病か、精神の疲弊です」
「だとすれば──ただの旅人が、どうしてその症状を正確に言い当てたのです?」
沈黙が落ちる。騎士が腕を組んだまま、低く呟いた。
「……調査するしかあるまい。虚偽ならそれで済む。だが万が一、本当であれば──すでに手遅れになっているかもしれん」
年配の神官が、目を伏せたまま言う。
「信じたわけではない。ただ、信じられないと言い切れるだけの材料も……ない」
誰も結論を口にしなかった。視線だけが、報告を持ち帰った神官と互いの顔のあいだを往復した。
*
翌朝、城塞都市の外れにある廃倉庫。風にさらされた木壁が軋む中、薄明の下で四つの影が集まっていた。前夜の密議で匿名の案内人の報告が審議され、当人が指定したこの場所に、少数での偵察が決まったのだ。
集合に応じたのは四名。若い騎士は現地での護衛役、壮年と若い女性の神官は記録と祈祷による護りの担当、小柄な魔法使いの少女は魔力探知と分析のために同行している。
先頭に立つのは、銀灰の髪を後ろで束ねた若い騎士だ。整った顔立ちに似合わぬ硬い視線を持ち、腰のロングソードにそっと手を添える。
その後ろの神官たちは、互いに距離を取りつつ周囲の影に目を走らせた。片方は壮年の男で、分厚い法衣の下に簡素な鎖帷子を隠す。もう片方は若い女性で、白衣の袖口には薬草の染みが残り、手はわずかに震えていた。
小柄な魔法使いの少女は最後尾に立ち、長い袖の奥で指を小刻みに動かす。誰も言葉を交わさず、騎士の手は剣の柄から離れない。
「……案内人がいるというのが事実なら、姿を見せてもらおう」
若い騎士が声を張ったその瞬間、薄闇の奥から一つの影が歩み出る。黒い外套に身を包み、顔の大半をフードの陰に隠している。タヴだった。
神官の男が即座に懐へ手を伸ばす。護符か、それとも小型の詠唱具か。女の神官は息をのんで一歩後ずさった。魔法使いの少女は無言のまま、術式を半分まで展開していた。
「俺に敵意はない。地下礼拝堂の構造と、内部の脅威は確認済みだ。案内はできる。ただし、俺の素性には触れるな」
タヴが告げると、若い騎士は一歩前へ出た。フードに隠れた顔から外套の膨らみまで視線を往復させ、剣に添えた手は動かさない。
「犠牲者が増えているのは事実だ。……だが、言葉だけで信じろというなら、それは無理だ」
壮年の神官が低く呟き、続けて問いを投げかけた。
「確認したい。具体的に魔物はどんな能力を持っている?」
「思考を読んで、短い命令を相手の意識に直接押し込む。広い範囲へ強い精神波を放ち、複数人を同時に硬直させる。浮遊して位置を変え、接近すると口の触手で頭部に取りつき、脳を奪って殺す」
タヴは抑揚なく列挙した。若い騎士は剣に添えた左手にわずかに力を込めた。
「……その魔物はどんな姿をしているの?」
魔法使いの少女が問いかけ、未完成の術式を指先に残したまま返答を待つ。
「人型で皮膚は灰紫色。頭はやや長く、顔には四本の細長い触手が垂れる。目は虹彩が見えにくく、淡く光って見える」
少女は説明を聞き終えると、半ばまで展開していた術式から指を離し、聞き取りを続けた。
「……魔物はどうやって増えているのですか?」
若い女神官が続ける。施療院で報告と隔離の段取りを決めるには、その由来も必要だった。
「幼い虫のようなものを人の頭部へ入れ、数週間かけて体と精神を作り替える。元の人格は消え、外見は先ほどの姿になる」
タヴの答えに、若い女神官は唇を結び「分かりました」とだけ返した。必要な情報は揃ったようだった。
「疑うならそれでもいい。だが、俺はもう一度あそこに潜るつもりだ。あんたたちが来なくても」
タヴが言い置くと、誰も即答しなかった。若い騎士は数秒の沈黙のあと、剣から手を離してうなずく。
「……案内だけでも助かる。情報の真偽は、俺たちの目で確かめる」
「協力はしないとは言わん。ただし、最後の判断は我々が下す」
壮年の神官が釘を刺す。タヴは短く応じた。
「それで問題ない。協力に感謝する」
外套の裾を払って入口の方へ向き直ると、扉がきしみ、朝の光が差し込む。タヴは通りへ出て、城内路を北東──礼拝堂の方角へ歩き出す。少し遅れて、四つの足音がその背を追った。
*
地下礼拝堂へと続く通路に、間隔を揃えた五つの足音が響いていた。先頭を行くのは、右手にクオータースタッフを携えたタヴ。続いて、銀灰の髪を束ねた若い騎士、神殿所属の壮年神官と若い女神官、小柄な魔法使いの少女が隊列を組む。全員が武装し、曲がり角ごとに足を止めて前後を確かめる。地下には魔力の濁りが満ちていた。
「……案内通りだな」
若い騎士が低く呟く。タヴは応えず、通路の突き当たりにある朽ちた木扉の前で立ち止まると、左手を胸の高さまで上げた。詠唱も指の動きもないまま、《Telekinetic(念動力)》で強めた《Mage Hand(魔道士の手)》が鍵と蝶番へ触れる。目に見えない指が歪んだ扉の重みを受け、浮きかけた金具を支えながら、きしみを殺して扉を押し開けた。
開いた先は礼拝堂の身廊だった。石床に長椅子が倒れ、祭壇の前には血が黒く乾いている。鉄と腐敗の匂いが漂い、人影も物音もなかった。
身廊の中央には、半ば人であった者たちが転がっている。変質し硬直した筋肉、濁った瞳、脈動を失った手足。理性を食いちぎられた痕跡が残っていた。
「これは……」
若い女神官が絶句し、口元を覆う。
「変質者たちだ」
タヴは身廊の中央から視線を外さずに告げる。
「精神を食われ、肉体が向こうに書き換えられている。全変性の手前だ。このまま放置すれば、礼拝堂ごと孵化場になる」
壮年の神官は胸の前で手を重ね、短い祈りの詞を噛みしめるように息を整えた。小柄な魔法使いの少女は、視線を逸らしながらも震えを堪えて周囲へ探知の意識を広げている。
タヴは《Detect Thoughts(思考感知)》へ《Subtle Spell(呪文発動秘匿)》を重ねた。彼らの内側へ深く踏み込まず、いま表層に浮かんだ断片だけへ意識を滑らせる。
意識を広げると、四人の思考が途切れ途切れに触れてきた。壮年神官は、女神へ縋るのではなく自分へ言い聞かせている。
(……女神様よ、揺らぐな。ここで崩れるな)
その祈りへ、若い騎士の切迫した声が重なる。
(吐くな、見ろ。目を逸らせば判断を誤る)
魔法使いの少女は目の前の異常を記憶へ刻もうとし、若い女神官は恐怖を押し返していた。
(感情は後回し……記録しなければ……)
(怖い……でも、逃げたら絶対に後悔する)
言葉は違っても、誰も逃走や無謀な攻撃には傾いていない。タヴは魔法を解き、息を整えた。これ以上隠したまま進める方が危うい。
「……ここにいるのは、この世界の『魔物』ではない。名はマインド・フレイヤー。正確には魔物ではなく、世界の外から来た《異形》だ」
言葉が落ちた瞬間、空気が張った。壮年の神官は組んだ手に力を込め、目を細める。
「冗談を言うな。世界の外など、教義にも記されていない」
若い女神官は蒼ざめた頬で首を振った。
「どういう意味ですか……? 別の大陸や辺境の地域ということですか?」
タヴは視線を逸らさず、必要最小限の語で補う。
「この世界の理の外側にいる存在だ。ここで見ている変質の跡は、俺のいた世界で奴らが引き起こす惨劇そのものだ」
小柄な魔法使いの少女は、杖を持つ指を一本ずつ緩めてから口を開いた。
「……この人の魔力を最初に感じたときから、正直違和感はあった。いまの光景と話で、少し……繋がった気がする。たぶん、嘘じゃない。……あなたも、異世界からの来訪者なの?」
「そうだ」
タヴは短く肯定した。少女は強ばっていた顎をわずかに緩めたものの、すぐには言葉を継げない。壮年の神官は眉間を押さえて目を閉じ、若い女神官は胸の前で手を重ねて祈りの詞をひそかに繰り返した。不意に鞘走りの音が身廊へ響く。若い騎士がロングソードを抜き、切っ先をタヴへ向けた。
「──ッ!? 待ってください!」
若い女神官が慌てて声を上げる。しかし若い騎士は視線を逸らさない。
「この男は言うべきことを伏せ、俺たちの様子を見てから新しい情報を出した。打算的で信用ならない」
タヴは即答する。
「打算的なのは認めるが必要だった。あれに対峙すると心が折れる。ここに来るまでの間、あんたたちが踏みとどまれるかを確かめた」
切っ先がタヴの喉へ向くと、残る三人が同時に踏み出した。小柄な魔法使いの少女は杖を横に構え、刃とタヴの間へ割って入れる位置を探りながら、「落ち着いて」と短く制止する。
若い女神官も両掌を胸の前で開き、「剣を下ろしてください」と訴えた。その声に重ねて、壮年の神官が二人の間へ滑り込む。鎮めの祈りを口内で結び、低い声と手振りで騎士を制した。
タヴは切っ先から目を逸らさず、抑えた声で言葉を継いだ。
「俺は敵ではないが、それを証明する術はない。だから行動で示す。俺は敵の手口と弱点を知っている。ここで俺を拒めば、あんたたちは見えない敵に素手で挑むことになる。受け入れるなら、今すぐ対処の手順を伝える」
壮年の神官が低く挟む。
「お前の気持ちは分かる。だが、ゲオルクとアーデルハイトの件についてこの男は何の関係もない。刃を向ける相手を誤るな」
「この男がマインド・フレイヤーとやらの仲間でない保証はどこにある! 魔物にやられたのならまだ納得できた……それが異界から突然来た奴らの仕業だと……ふざけるなよ!」
若い騎士の声が震え、タヴへ向けた剣の切っ先も小さく左右へ揺れた。「ゲオルクとアーデルハイト」と口にした時だけ、奥歯が噛み合う。タヴは、マインド・フレイヤーに奪われた者の名だと見当をつけた。
彼は手に持っていたクオータースタッフを石床へ落とし、仲裁に入ろうとする三人の肩をやわらかく押し分ける。次の刹那、タヴは騎士の剣身を素手で掴み、切っ先を自身の喉元へ引き寄せた。刃を握った掌から赤い筋が滲み、床へ一滴、二滴と落ちる。
「なっ、何をしているの!」
若い女神官が思わず悲鳴を上げ、魔法使いの少女は目を見開いて半歩詰める。壮年の神官は低く舌打ちし、すぐさま治療の準備に身構えた。
「マインド・フレイヤーが憎いか。俺を殺して気が済むなら……殺せ。俺は逃げない」
切っ先を喉元に当てたまま響いたタヴの声を聞き、若い騎士の瞳が揺らぐ。彼はタヴを真正面から見据えたのち、ゆっくりと柄を手前へ引き、タヴの握った掌から剣身を抜いた。切っ先が喉を離れる。鞘へ戻す前に、深く頭を垂れる。
「……非礼を詫びる。俺は憎しみに呑まれていた。異界の者で一括りにして、お前に刃を向けた。許してくれ。どうか力を貸してほしい」
魔法使いの少女は固く結んでいた指をほどき、長い息を吐く。若い女神官はまだ震える手を胸の前で組み直し、短い祈りの詞を結んだ。壮年の神官は「全く何を考えているんだ」とぼやきつつ、タヴの裂けた掌を取り、温かな《回復魔法》で傷を閉じた。
「助かる」
タヴは短く礼を言い、石床からクオータースタッフを拾い上げると、何事もなかったかのように視線を前へ戻して言葉を続けた。
「あそこだ」
タヴは身廊の先、祭壇の背後を指した。石板の継ぎ目が不自然に封蝋で覆われ、そこから下へ降りる階段の気配がある。
「祭壇の裏に半ば封じられた下り階段がある。コアは下層だ。ここは上へ向けて孵化させる通路にされかけている」
言い終える前に、祭壇上の燭台がかたかたと鳴った。
空気が軋み、床が低く唸る。肌を刺す圧が、祭壇裏の石扉の向こう──地下から這い上がってくる。タヴは身廊の中央へ一歩出て、短く叫ぶ。
「来るぞ!」
同時に《Mage Hand(魔道士の手)》を展開し、不可視の掌で祭壇裏の石扉を外側から押し返すように押さえ込む。石板の重みが腕に乗る錯覚が、空気の中で確かに返った。
「全員、長椅子の陰へ。時間を稼ぐ」
若い騎士が女神官を庇って右へ、壮年の神官が左の長椅子へ少女を促す。タヴは見えない掌に力を込めるが、石扉の継ぎ目が鈍い音を立てる。内側から衝撃が叩きつけられ、力場を粉砕した。
石扉が爆ぜるように吹き飛び、祭壇の段差へ人影が転がり出る。騎士団の制服。焦点の合わぬ眼。蒼白の皮膚。意志を乗っ取られた歩み。
「……衛兵……?」
若い騎士の声が掠れる。
「もう人間じゃない。侵食された騎士だ」
タヴは声量を変えなかった。石段の闇から、粘液に濡れた足音が続く。脳のごとき異形が四足で這い出し、爪を石に鳴らす。二体──インテレクト・ディヴァウアラー。
「攻撃するな。接近は危険だ」
タヴは若い騎士の剣腕を制し、身廊の中央線へ歩み出る。雷の詠唱を最短で組み上げ、角度を祭壇側に寄せて味方を巻き込まぬ射線を確保する。
「《Lightning Bolt(電撃)》」
雷光が一直線に走り、転がる衛兵と後続の異形を貫いた。乾いた破裂音と共に空気が焼け、三体が炭の匂いを残して床へ弾け飛ぶ。タヴはすぐに次の手を組み、目だけで仲間の配置と負傷の有無を確認した。
「今のうちに準備をしてくれ。俺が前で押さえる」
短い指示を受け、若い騎士は身廊の中央を空けた。壮年の神官が祭壇前に守りの祈りを走らせ、若い女神官が傷の確認に回る。魔法使いの少女は杖を握り直し、視線を地下の闇へ据えた。
騎士の剣先と少女の杖先が地下へ揃い、二人の神官がその背後を挟む。タヴは四人の前に立った。
配置が固まったところで、頭上の空間が低く軋んだ。身廊の梁の上、天井近くに細い裂け目が走り、幾何学めいた硬質の光が縁取る。風は起きない。制御された門だ。裂け目から一体の斥候が現れる。
黄緑の肌に、銀白の刃、磨かれた銀色の甲冑。現れたのはギスヤンキだ。胸の中央では幾何学の線を刻んだ魔道具が脈打ち、薄い光の糸を空間へ針のように伸ばして、周囲の座標をなぞっていた。
斥候はタヴたちに視線を寄越さない。通路の奥から這い上がったマインド・フレイヤーへ一直線に踏み込み、銀白の斬撃を一閃。音より早く首が落ち、身は石段に崩れた。斬撃の余韻が空気に残るあいだに、斥候は胸の魔道具へ指先を触れる。
脈拍のような光の波が一度だけ強く鼓動し、裂け目が細く閉じる。往来を自力で開閉できる装備と手順。偶然に巻き込まれて流れ着いた者の動きではない。
胸の魔道具が放つ波形は、世界の肌理を撫でるように規則的だった。この世界では次元間の移動も通信も阻まれる。転移や門、界渡りを拒む古い広域封呪、《Forbiddance(禁制領域)》に似た力が世界を覆っているのかもしれない。大部隊を通すなら、封鎖の脆い継ぎ目を探し、そこから切り開く必要がある。
今の斥候は、恐らくそのための測量だ。大規模な侵攻を視野に入れているのなら、ここだけに限らず、他所でも同種の先遣隊が同時に動いている可能性が極めて高い。ギスヤンキも、マインド・フレイヤーも、裂け目から偶然流れ着いた漂流者ではない。勢力として、この世界を戦場にする前段を踏んでいる。
タヴは推測を胸の奥に沈めた。いま伝えるべきは目に見えた事実だけだ。
「な、何が……敵で、味方なのですか……」
若い女性神官の声が震える。
「何だあの銀の戦士は……どこから現れたんだ……?」
若い騎士が低く呟き、ロングソードの柄を強く握る。
「今の戦士、私たちを見もしなかった……どういう判断基準……」
魔法使いの少女は眉を寄せ、半ば開いた口を閉じられない。
「さっきのはギスヤンキという戦闘種族だ。胸の魔道具で空間を裂いて瞬間移動で降りてきた。ギスヤンキはかつてマインド・フレイヤーの奴隷だったが、反旗を翻し、今は互いに仇敵同士だ」
「情報量が多すぎる……頭が混乱しそうだ……」
壮年の神官が額に手を当ててぼやく。
「詳細はあとで説明する。今は目の前の問題が先決だ」
タヴの短い言葉に、若い騎士は剣を構え直し、魔法使いの少女も杖を握り直す。若い女性神官と壮年の神官は互いを見てから祭壇裏へ向き直った。タヴはクオータースタッフを握った指に力を込め、足元から風を立てる。魔力が雷の気配を帯びて全身を巡った。
「……止めるぞ。奴らを都市から完全に排除する」
返事はなかった。若い騎士は切っ先を石段へ向け、神官たちは祈りを止めず、少女の震える指も杖から離れなかった。
タヴを先頭に石段へ足を掛ける。祭壇裏の暗い階段を、一段ずつ踵まで下ろして降りていった。やがて最下層へ着く。そこにあったのは、予想していた最悪の光景ではなかった。
「……まだ初期段階だな」
タヴは壁面と床を順に見渡した。エルダー・ブレインも、マインド・フレイヤー幼生の培養槽もない。完全なコロニーの痕跡はまだ見当たらなかった。
若い騎士が一瞬だけ息を詰め、ロングソードを握り直して切っ先を上げる。
「なら、まだ間に合う。捕らわれている人たちも、これ以上の犠牲も、防げるはずだ!」
騎士の声は震えていたが、最後まで言葉を切らなかった。これ以上の犠牲は防げる。だが、救えるのはまだ幼生を埋め込まれていない者だけだ。《脳変成》の始まった者は、神の奇跡でもなければ元には戻らない。タヴはそう告げようと騎士へ目を向ける。
そのとき、柱の陰から濡れたものを引きずる音がした。足音ではない。靴の形を失いかけた肉が石床を擦っている。
現れたのは、自我を失ったまま変質した衛兵が三体。焦点の合わない瞳でショートソードを振りかざし、左右の柱間から近づいてくる。その足元を縫って、脳の形をしたインテレクト・ディヴァウアラーが五体、四足で広がった。
さらに奥の暗がりには、三体のマインド・フレイヤーがいる。両脇の二体が触手を開いて前へ出る一方、中央の一体だけは後方に残り、若い騎士へ濁った目を据えていた。
「構えろ! 前列を保て! 触手の間合いへ入るな! 神官たちは精神へ入り込む術を警戒してくれ!」
タヴの声に若い騎士が半歩前へ出る。二人の神官はその背後を挟み、魔法使いの少女の杖先には赤い光が集まった。
「《フェルグナート(灼熱の球を放つ魔法)》」
火球は床を這う二体の間で炸裂した。爆風に変質した衛兵たちの腕が上がり、焼けた二体のインテレクト・ディヴァウアラーが柱際へ転がる。その煙を割って一体目の衛兵が踏み込んできた。
タヴは左へ出て、雷鳴をまとわせたクオータースタッフを衛兵の腹へ叩き込む。《Booming Blade(唸る剣)》の振動が肉の内側へ残り、相手がなお一歩を踏み出したところで弾けた。膝から崩れた身体を越え、低い影が三方へ散っていく。
同時に、後方のマインド・フレイヤーが長い指を若い騎士へ向けた。騎士の額へ歪んだ鉄の冠が浮かび、瞳の奥に赤い光が灯る。《Crown of Madness(狂気の冠)》だ。
騎士の肩が引き攣り、ロングソードの切っ先が背後の魔法使いへ向いた。両手で柄を押し戻そうとしても、刃は少しずつ味方との間を詰めていく。
「動くな。今、解く!」
壮年の神官は開いた聖典を片手で支え、解呪の祈りを一息に唱えた。頁から立った白い光が冠の根元へ食い込み、捩れた鉄を一本ずつ砕く。最後の欠片が消えると、騎士の切っ先は魔法使いの肩口を外れて床へ逸れた。
息を戻す間もなく、騎士は刃を返して術者へ駆ける。伸びてきた触手の下へ潜り、ロングソードを灰紫の脇腹へ深く突き立てた。剣を引き抜くと、術者は壁沿いに崩れる。そこへ別の衛兵が斬りかかった。騎士はショートソードを払い、返す刃を腹へ走らせた。
右の柱列では、もう一体のマインド・フレイヤーが若い騎士の死角へ回ろうとしていた。四本の触手が伸び切る前に、若い女神官が両手を向ける。
「《聖なる光葬》」
閃光が触手の束を正面から打ち、異形の上体を仰け反らせた。タヴはその一拍へ《Quickened Spell(呪文高速化)》で術を差し込む。四条の《Eldritch Blast(怪光線)》が脇腹から胸を貫き、後退しかけた身体を柱へ叩きつけた。
残った三体のインテレクト・ディヴァウアラーは、炎を避けてさらに間を詰めた。一体が壮年の神官へ跳ねたところを若い騎士の斬撃が横から捉える。残る二体と最後の衛兵は魔法使いの少女へ向かい、まだ数歩を残した柱の間で次の火球を受けた。炎が床を舐めて消えると、動くものは奥に残った一体だけになっていた。
最後のマインド・フレイヤーは柱の裏から出口へ身を翻す。その背後で空間が縦に裂け、黄緑の肌と銀色の甲冑が滑り出た。先ほどのギスヤンキ斥候だ。銀白の刃が逃げる異形の腕を落とし、返す一撃で首を断つ。
「さっきの銀の戦士か!?」
若い騎士のロングソードが、倒れたマインド・フレイヤーから斥候へ跳ね上がる。
「マインド・フレイヤーを一瞬で……」
魔法使いの少女が呟く間に、タヴの指先には四条の光が揃っていた。斥候が振り向くより早く《Eldritch Blast(怪光線)》を放つ。
光線が背へ迫ると、斥候の周囲で空間が渦を巻いた。二条は裂け目の縁を掠め、残りも閉じかけた暗がりへ吸い込まれる。斥候の姿は、銀色の甲冑から順に見えなくなった。
タヴは舌打ちを飲み込み、消えた場所を見据える。斥候は移動先を探る間もなく裂け目を開いた。ここら一帯の空間座標は、すでに把握されている。
裂け目が閉じると、変質者たちの呻きも途絶えた。広間には焼け焦げた肉とインテレクト・ディヴァウアラーの残骸が散り、三体のマインド・フレイヤーが柱際と出口脇に倒れている。タヴは柱の陰と石段の奥まで見渡した。
「……中心部はこれで終わりだ。だが、まだやるべきことがある」
若い騎士がマインド・フレイヤーの骸とタヴを見比べて問いかける。
「どういうことだ? 敵の中枢を潰したのなら、もう終わりじゃないのか?」
タヴは変質した犠牲者たちへ視線を戻し、《脳変成》について口を開く。植えつけられた幼生が脳に根を下ろし、宿主の肉体を新たなマインド・フレイヤーへ作り替えていく過程だと、同行者たちへ説明する。
「ここまで進んだ者を救うのは、俺のいた世界でも神の奇跡に匹敵する。この世界に例外があるかは分からないが、少なくとも今ここで元へ戻す手段はない」
四人の視線が、灰の残る床へ集まった。タヴは広間の奥をもう一度確かめてから続ける。
「ただ、ここにはエルダー・ブレインも、幼生の培養槽もない」
「待って。エルダー・ブレインって何? 培養槽というのも、あの虫を増やすためのものなの?」
魔法使いの少女の問いに、タヴは、エルダー・ブレインはコロニーの中心で全体を束ねる巨大な脳であり、培養槽は幼生を育てるものだと説明した。
「どちらもない以上、ここは完成した巣じゃない。コロニーはまだ初期段階だ。それに、いずれ新しいエルダー・ブレインになり得る上位個体──ウリサリッドも見つかっていない」
「……あの変質した人たちは、本当にもう助からないのですか?」
若い女神官は組んだ手を震わせながら問いかけた。タヴは視線を逸らさず返した。
「残念だが、助かる見込みはない。今、できることは一つだけだ。彼らを安楽死させることだ。それ以外に被害を止める方法はない」
若い騎士の顔が強張る。
「殺せというのか? 自分たちの手で?」
タヴは短く答えた。
「他に方法がない。このまま放置すれば、新たなマインド・フレイヤーが生まれ、都市が内部から崩壊するだけだ」
壮年の神官は目を閉じ、組んだ手を額まで持ち上げてから口を開いた。
「……認めたくはないが、彼の言う通りだろう。犠牲者たちを早く楽にしてやらねば、我々も都市も救えない」
沈黙の中、若い騎士は奥歯を噛み、低い声で問い返した。
「それで、ウリサリッドとかいうエルダー・ブレインの胚となる存在はどこへ消えた? ここにはいないのか?」
タヴは背後の闇を見つめながら答える。
「俺たちが踏み込んだ時点で、この場所を放棄した可能性が高い。別の場所でコロニー再建を企てているはずだ。すぐに追跡する必要がある」
魔法使いの少女は杖を胸元へ引き寄せ、間を置いて問いかける。
「あの……さっき現れたギスヤンキも、何か仕掛けているの?」
タヴは声を落として言葉を継いだ。
「ギスヤンキがここに現れたということは、この次元の座標、空間の位置情報を既に特定しているはずだ」
彼は指先で空中に幾何学的な線を描くように示しながら、簡潔に続けた。
「だが、この次元は何処にも繋がっていない。座標が分かっただけじゃ、同一次元内にしか転移できない。だから、外から出入りする通路を作るための装置を設置しているはずだ」
話を聞いていた壮年の神官が眉をひそめた。
「つまり、それはどういうことだ?」
タヴは一拍置いて、低く言い切った。
「この都市が、異界への扉の一つになる。ギスヤンキとマインド・フレイヤーの戦争が、この世界で始まるということだ」
若い騎士のロングソードが、石床すれすれまで下がった。魔法使いの少女は胸元の杖を握ったまま、何かを言いかけて口を閉じる。数秒後、タヴは目を伏せ、ひとつ息を吐いて言葉を継ぐ。
「……いや、正確にはもう始まっている、だな」
若い騎士は三人を見回したが、誰も口を挟まない。やがて下げた剣をそのままに、タヴへ向き直った。
「……装置の場所は分かっているのか?」
若い騎士が喉に引っ掛かった声を絞り出す。タヴは顎を引いた。
「断言はできない。下見の際、旧区域の廃墟で空間の歪みを感じた。恐らくそこだ」
若い騎士は頭上を塞ぐ石天井を見上げた。壮年の神官は眉間へ皺を寄せる。
「なぜそんな場所に装置を設置するのだ? 目立つ場所ではないにしても、都市の内部だぞ」
タヴは答えた。
「ギスヤンキは短時間での制圧を得意とする。都市の内側へ直接、部隊を送り込める場所を選んだんだろう」
魔法使いの少女が杖を抱え直す。
「……それ、効率の問題で片づけていいの? 街の中へ軍隊を送り込むための装置なんでしょ」
若い騎士はタヴへ目を戻した。
「ギスヤンキは正気なのか? そもそも、どうやって見つからずに運び込んだ?」
タヴは、下見で見た崩れた外壁を思い返した。
「旧区域の外れには、城壁の下を抜ける古い搬入坑がある。塞いだ石は内側へ動かされていた。部材を分けて運び、地下で組んだのかもしれない。基礎の術式なら床へ刻める」
若い騎士はロングソードを鞘へ戻さない。魔法使いの少女も杖を胸元に残し、タヴの次の言葉を待った。
タヴは声量をさらに落として告げる。
「だから、手遅れになる前に、装置を破壊する必要がある」
壮年の神官が一歩前へ出て、まだ名も知らないタヴを見た。
「……あなたの名は?」
壮年の神官は問いを重ねず、胸元の聖印に手を添えて待った。タヴは一瞬、石床へ目を落としたが、すぐに顔を上げる。
「タヴ。……異界の魔法使いだ」
「ヨアヒム。俺は、この都市の騎士だ」
「エルゼ……神殿の見習いです」
「ルドルフ。……神殿で長く仕えてきた者だ」
「ミーナ……魔法使いの見習いだけど、頑張る」
皆が名を告げたあと、タヴは一人ずつ顔を見渡す。肩にも指にも、まだ強張りが残っていた。それでも、四人はここに残っている。
「……あんたたちは、立派だ。だから、頼みがある」
タヴは声を落とす。
「俺は装置の破壊とウリサリッドを排除しにいく。今はそれが最優先だ。だが、これ以上の侵食を防ぐには、都市の中枢にも知らせる必要がある」
タヴが次の言葉を継ぐ前に、エルゼの声が割って入った。
「中枢……つまり、政庁や神殿の上層部に?」
「そうだ。今ここで何が起きたか、何が見つかったか──正確に伝えてくれ。異界だの侵略だのと騒げとは言わない。だが、精神を食らう魔物の巣が地下にあったという事実だけでも、動かざるを得ないはずだ」
タヴは四人から目を逸らさず、最後まで言い切った。
「……分かった」
ヨアヒムが短く答える。顔には疲労が滲んでいたが、その目はタヴから逸れなかった。
「他の街、他の地方とも連絡を取る必要がある。これは、ここだけの話じゃ済まないかもしれない」
ルドルフが深く頷きながら言葉を継いだ。
「……ああ、同感だ」
タヴも同意し、踵を返した。
「しばらくは別行動だ。俺からまた合流する。それまで、頼む」
「無事に戻ってくると信じてる」
そう言ったのはルドルフだった。年長者らしい穏やかな笑みを浮かべて、タヴの背に言葉を送った。
タヴは振り返らず、左手だけを肩の高さまで上げた。黒い外套は祭壇裏へ戻る石段を上り、やがて足音も聞こえなくなった。
*
城塞都市の外縁にある廃墟群は、かつて工房や倉庫として使われていた。今は都市の管理から外れている。最奥の石造建築の床下には、城壁の外へ通じていた搬入坑が残る。入口の石は内側へ崩され、階段の埃には重い物を引きずった二本の跡と、銀色の削り屑が残っていた。タヴは跡を追って地下へ下りた。
石段の先から、銀剣が石を削る音とクロスボウの弦音が続けて響く。その合間を縫って、耳ではなく頭蓋の内側へ圧が押し寄せてきた。すでに戦いが始まっている。
タヴは壁際へ身を寄せ、《Detect Magic(魔法の感知)》を発動した。階段の先には幾つもの魔力が重なり、その中心で、ほかより濃い反応が脈を打っている。術を切ると、右手のクオータースタッフを握り直して最後の数段を下りた。
地下は広い一室だった。中央より奥の床に、幾重もの円と直線が刻まれ、その中心へ螺旋状の中心杭が打ち込まれている。装置を背にしたギスヤンキ・ナイトと五人の兵が半円に広がり、銀剣とクロスボウで前面を塞いでいた。
その反対側では、灰紫色の頭部から長い触手を垂らすウリサリッドが、三体のマインド・フレイヤーを従えている。精神を支配された衛兵と、変質の進んだ者たちが前へ押し出され、ギスヤンキの戦列へ掴みかかっていた。床には双方の倒れた兵が横たわり、装置までの石面を血がまだらに濡らしている。
前列のギスヤンキが銀剣で衛兵を押し返すたび、後列の射手が肩越しに矢を通す。マインド・フレイヤーたちは支配した者を盾にして距離を詰め、その後ろから触手を伸ばしていた。攻防のたびに半円は縮まり、背後の装置までもう十歩も残っていない。装置を守る側も奪おうとする側も、まだ石段際のタヴには気づいていない。
ウリサリッドの触手が大きく開いた。《Mind Blast(精神爆砕)》が扇状に放たれ、正面のギスヤンキ二人が頭を抱える。片方は踏みとどまったが、もう片方は銀剣を取り落として片膝をついた。後列の兵がその肩越しにクロスボウを撃ち返し、矢がマインド・フレイヤーの長衣を石壁へ縫い止める。隣の一体が矢柄を折る間に、ギスヤンキ・ナイトは変質者をグレートソードで押し退けた。
床の刻線は中心杭へ魔力を集め、周囲の空間を一点へ引き寄せていた。次元の壁に開いた接続点を固定し、外との通路を維持するその構造には見覚えがある。位相アンカーだ。
中心杭の外殻には、狭い坑道を運んだような擦り傷が片側へ集まっている。床の削り屑は搬入坑で見たものと同じ銀色で、刻線には新しい石粉が残る。部材を運び込み、ここで組み上げたらしい。
マインド・フレイヤーの装置とは構造が異なり、ギスヤンキの戦列はこれを背にして守っている。《Plane Shift(次元間転移)》が封じられたこの次元で、あれを渡すわけにはいかない。
タヴは《Invisibility(不可視化)》へ《Subtle Spell(呪文発動秘匿)》を重ねた。身体も外套も闇へ溶け、クオータースタッフの輪郭まで消える。足元の瓦礫へ触れれば、姿が見えなくても位置を知られる。両陣営の視線がぶつかる中央を避け、壁沿いに残る石床を選んで位相アンカーの側面へ回った。銀剣と触手がぶつかる音に合わせ、一歩ずつ間を詰めていく。
ギスヤンキ・ナイトが精神波から立ち直り、装置の傍らにいる兵へ吼えた。
「Hold the line! Open the way for reinforcements!(戦列を保て! 増援のために通路を開け!)」
命令を受けた兵がクロスボウを足元へ捨て、位相アンカーへ掌を押し当てる。床の刻線が外側から順に灯り、中心杭の上で空間が縦に裂け始めた。薄い裂け目の向こうに、銀装の人影が幾つも重なる。輪郭は明滅するたび鮮明になり、先頭の兵がこちらへ踏み出そうとしていた。
タヴは中心杭まで二歩の位置へ踏み込み、右手のクオータースタッフを身体へ寄せて左手を向けた。起動音が一段高くなる。《Shatter(破砕)》を放つなら、今しかない。
圧縮した雷鳴が、至近距離から中心杭を打ち抜いた。
中心杭に亀裂が走る。同時に、雷鳴へ応じた《Heart of the Storm(嵐の中心)》がタヴの周囲で弾け、青白い稲妻が中心杭から床の刻線へ一息に駆け抜けた。杭が内側から砕け、装置の傍らにいた兵も石床へ投げ出される。ギスヤンキ・ナイトが振り向きざまにグレートソードを上げた時には、《Invisibility(不可視化)》が解けたタヴの姿が雷光の中へ現れていた。
「Intruder! Spellcaster!(侵入者だ! 術者がいる!)」
ギスヤンキの叫びより早く、開きかけた裂け目が大きく撓む。閉じるはずの両端は外側へ反り、向こうにいた兵の姿が銀色の筋へ引き延ばされた。起動寸前まで満ちていた魔力は行き先を失い、消えるはずの刻線を逆向きに走る。砕けた中心杭から白光が噴き上がり、床も壁も水面のように歪んでいった。
ギスヤンキ・ナイトはグレートソードを床へ突き立て、ウリサリッドは触手を広げて配下を留めようとする。だが両者の足元で石板が剥がれ、支えごと光の中心へ滑っていった。
タヴはクオータースタッフを石床へ突いて踏みとどまろうとした。だが、足元の石ごと位相アンカーへ引かれる。ギスヤンキの戦列も、ウリサリッドと配下たちも、足元をすくわれて光の渦へ呑まれた。
白光が視界を埋め、次の瞬間には足場の感触が消えていた。
タヴの身体が冷たい空気へ放り出される。眼下には、岩肌の露出した稜線と霧に沈む山腹が広がっていた。受け身では凌げない高さから、重力に引かれて落ちていく。
風圧で外套が背へ張りつき、視界が上下に回る。タヴは《Wind Soul(風の魂)》を呼び起こした。最初の一息では風が片肩を押し、落下の軌道を傾けただけだった。クオータースタッフを持つ右腕を開いて回転を抑え、もう一度、足元へ流れを集める。逆巻く風が靴底から身体を押し上げ、岩肌が迫る前に落下が止まった。
前へ倒れていた上体を起こし、頭と足の向きを戻す。クオータースタッフを右手から左手へ渡すと、タヴは空中で静止したまま周囲を見た。
同じ転移に巻き込まれたギスヤンキ兵たちは、空中でもがいていた。声を発さないまま、生来の《サイオニック》で《Misty Step(霧渡り)》を起こす。一人、また一人と霧へ消え、眼下の岩場へ移って落下を免れた。最初の兵は片膝をつき、次の兵は肩から転がる。それでも銀剣は手放さず、着地した者から立ち上がった。
「Scatter! Prioritize landing!(散開しろ! 着地を優先!)」
ギスヤンキ・ナイトが空中で怒声を放つ。配下が岩場へ移りきるのを見届けると、自らも霧の中へ消えた。次の瞬間には一段高い岩棚へ片足をつき、沈んだ膝で着地の衝撃を受け止める。
一方、マインド・フレイヤーたちの足元には《Levitate(空中浮揚)》の念動力場が生じ、落下が止まる。長衣の裾と触手だけが風に煽られ、身体は空中へ吊られたままだ。だが歪んだ空間に引かれ、浮かぶ姿勢は左右へ激しくぶれていた。その中心でウリサリッドの触手が開き、精神波が放たれる。
【……適応せよ。外因を排除せよ……】
言葉ではなく、頭蓋の内側を擦るような声が、マインド・フレイヤーたちの思考領域を震わせる。
だが、魔力を持たぬ変質者たちは、何もできなかった。抗う術もなく、身体を回転させながら、緩やかに落ちていく。霧の中へと沈み、その姿は消えていった。着地の衝撃に耐えられるとは思えなかった。
転移に巻き込まれた者は、誰もまだ態勢を整えられていない。空中で姿勢を戻したタヴがウリサリッドへ顔を向けると、その目にはすでに強い紫光が集まっていた。触手が一斉に震え、周囲の空間が軋む。
タヴは空いている右手へ《Eldritch Blast(怪光線)》を組み始めた。四条の黒い光が指の間で形を取る。眼下では、ギスヤンキ・ナイトが《サイオニック》による《Enhance Leap(強化跳躍)》で岩場を蹴り、振りかぶったグレートソードごとウリサリッドへ迫っていた。
そこで、テレパシーの命令が二人の頭蓋へ打ち込まれた。
【まもなく強い衝撃が来る。生き延びたければ武器を下ろし、地に伏せて頭を守れ】
《Mass Suggestion(集団示唆)》が二人へ作用し始め、タヴの判断へ入り込む。指先では《Eldritch Blast(怪光線)》が放つ寸前まで形を得ていた。今から術式をほどき、精神防御へ組み直していては間に合わない。
武器を捨てれば助かる。身を伏せろ。命令はタヴ自身の判断を装い、クオータースタッフを握る左指から力を奪い始めた。浮かんでいるだけの身体まで地面を探し、靴先が無意識に下を向く。
訓練場の床へ木剣を置き、両手を見せたまま何も命じずに待っていたブロックスの姿が浮かぶ。急かす声も、背後から伸びる手もない。タヴが自分で柄へ手を伸ばすまで、何度でも待ってくれた。選ぶために与えられた時間を、頭蓋へ入ってきた声に渡す理由はない。
左手の指がクオータースタッフを握り直す。タヴは組み上げた《Eldritch Blast(怪光線)》を放った。四条の光線が黒い尾を引き、ウリサリッドへ走る。
ギスヤンキ・ナイトも空中で喉を鳴らし、緩みかけた柄を握り直した。跳躍の勢いは殺さない。命令を振り切ったグレートソードが、狙いどおり振り下ろされる。
直後、三者の攻撃が交差した。
ギスヤンキ・ナイトの斬撃がウリサリッドの肩を裂く。だが、直前に身をひねったことで急所は逸れ、深手ながら致命傷には至らなかった。
続いて、四条の《Eldritch Blast(怪光線)》のうち先頭を走った二条が届く。ウリサリッドは精神障壁を展開して迎撃したが、一条がそれを抜けて肩を掠め、紫色の体液が霧のように弾け飛んだ。
ギスヤンキ・ナイトは踏み込んだ勢いのまま、銀剣の刃を返す。肩を裂かれたウリサリッドの周囲で精神障壁が再び波打ち、外側からは残る二条の光線が近づいていた。
*
北側諸国でも険しい山岳地帯、オッフェン群峰。朝からの風は昼過ぎに突風へ変わり、尾根の針葉樹が軋む。冷えた樹脂と土の匂いが薄く漂う山道を、三つの影が進んでいた。
先頭を歩くフリーレンは、小ぶりのトランクを下げたまま、乱れない歩幅で坂を上っていた。左右で束ねた銀髪と生成りのロングコートが風に揺れる。その中で、淡い青緑の瞳と長耳だけが絶えず風向きを追っていた。
数歩後ろでは、フェルンが薄紫のマフラーを高く巻き、白い上衣の裾を押さえて進む。腰まで流した紫髪が煽られても、切りそろえた前髪の下の目は前方から逸れない。杖を持つ手を外套の内側へ寄せ、先頭との間隔を保っている。
最後尾のシュタルクは、短い赤毛を風に跳ねさせながら大股で二人を追っていた。赤い冬上着の背ではグレートアックスが上下に揺れる。斜面で石が鳴るたび、褐色の瞳は音のした場所へ動いた。
「……風が変だな」
シュタルクが立ち止まり、空を見上げる。青空にかかる霧は風上へ細く引かれたかと思うと、次には稜線へ沈んでいく。耳の奥に届く風の音も、高さを変えるたび不揃いに途切れた。
「この風……自然のものとは思えません」
フェルンが低く言った。フリーレンは言葉を返さず、風上を向いた。エルフの長い耳が音を拾うように動く。次の瞬間、稜線の彼方から重く乾いた雷鳴が届き、山の斜面を伝った。
「急ごう」
その一言で、三人は同時に駆け出した。風がさらに強くなる。木々が揺れ、葉が飛び交い、土と石が渦を巻いて舞い上がる。魔力が空気の中に擦れるように拡散し、山肌に染み込むような感覚が足元を伝ってきた。
そして、崖の端から見えた。
稜線の向こう、空中に広がる濃霧の裂け目。その中心で雷光と突風が激しく交錯し、魔力の嵐が渦を巻いていた。
嵐の中に、ひとつの人影がある。
男だった。黒い外套の裾が嵐に踊り、その下には軽量化された中装鎧が見え隠れする。髪は淡い茶色で短く、左右の瞳は色が違う。右目は澄んだ鮮やかな青色を帯び、左目は淡くくすんだ青灰色だった。右の頬には、見慣れぬ文様が刻まれている。
だが、三人の目は容姿よりもその足元を追った。踏み台のない空中で身を翻し、上下から迫る刃をすり抜けて、反転しながら雷光を放っている。一つの術式が消える前に次が完成し、魔力の光はとぎれない。
男は、空中で二つの陣営と交戦していた。
一方は、銀色の甲冑をまとい、巨大なグレートソードを振るう戦士たち。その動きは無駄がなく、空中にもかかわらず踏み込みの勢いがある。揃った装備と機動、明らかに訓練された戦闘部隊。その先頭でひときわ鋭い気配を放つ一人が、無言で全隊を率いていた。
もう一方は、空に浮遊する異形の群れ。頭部が異常に大きく、そこから複数の触手を垂らし、全身から重苦しい魔力の波動を発している。その中心にいる大型の一体、濃密な圧力を放つ存在が、空気ごと精神を圧迫するような波を広げていた。
「一人で全部相手してる……って、わけじゃないよな?」
シュタルクが眉をしかめながら呟いた。状況を理解しきれないまま、視線は空中の混戦に釘付けになっている。銀甲冑の戦士と異形の群れは互いにぶつかり合っていた。それでも、双方の視線は一瞬だけあの男へ集まった。
「……でも……狙われてるのは、あの人です」
フェルンも目を離さない。発した声は語尾でわずかに強張り、続く言葉は出てこなかった。
銀甲冑の後列が、クロスボウを男へ揃える。弦が続けて鳴り、三本の矢が左右と下から射線を重ねた。男は身体を横倒しにして一本をかわし、左手のクオータースタッフで次を弾く。残る一本が外套の肩をかすめたところで、中心の大型個体が触手を扇状に開いた。
光も音もない。それでも正面にいた者たちの動きが同時に乱れ、銀の戦士が兜を押さえて膝を折る。男も空中で一度、上体を沈ませた。少し遅れて、頭の奥を押すような余波が崖まで届く。フェルンが息を詰める傍らで、フリーレンは触手の向きと、よろめいた者たちの並びを見比べた。攻撃は大型の異形を頂点に、前方へ扇状に広がっている。
男はクオータースタッフを握り直し、足元に巻いた風で射線の下へ抜けた。反転と同時に右手から黒い光を放ち、異形の肩を抉る。続く雷撃は別の二体を焼き、銀の戦士の一人も横から吹きつけた突風に流された。
男が風の中で向きを変えたとき、異形の中心にいた個体の頭部へ緑色の光が収束した。鋭く細い閃光となって走り、空間を切り裂きながら男に迫る。
男は咄嗟に身をひねったが、完全にはかわしきれない。左腕が閃光に呑まれ、皮膚も筋肉も一瞬で灰となって崩れ落ちた。
男は消えた左腕を一瞥し、眉間に浅い皺を刻む。左手で握っていたクオータースタッフが落ち、地面を打った。
「……っ」
フェルンが息を詰めた。その瞬間だった。
男が組み上げていた雷撃は、腕の消失とともに制御を失う。標的を外れた奔流が空間を裂き、雷光と爆風の先にフリーレンたちの立つ崖が入った。
フェルンが咄嗟に動こうとする。だが、それより早く、フリーレンが杖を掲げていた。言葉はない。《防御魔法》が展開され、六角形の魔法陣が幾重にも重なり、淡く青白い障壁が空間に出現する。
雷光が障壁に激突し、爆ぜた。
圧縮された風と熱が辺りを焼き、草木をなぎ倒していく。だが、三人の足元には砂一つかからなかった。障壁が霧のように散る中、フェルンは杖先を縁へ向け、残った魔力粒子の配列を目で追う。
「……魔力の構造が、違う。こんなの、見たことないです」
呟いたその声は、なおも唸る突風の中で消えかけたが、フリーレンの耳には届いていた。淡い霧の向こうに、空中の戦場が再び露わになる。
男は痛みに叫ぶことなく、飛行を維持していた。外套の中から、短い柄に嘴状の穂を備えたウォー・ピックを右手で引き抜く。左腕の断面には、熱で焼き止めたような痕が走っていた。血は流れていない。魔法で即座に止めたのだろう。
彼の周囲で風が空中の露を円く散らし、止まりかけた身体を前へ押す。
男の放った雷撃に焼かれ、空を漂っていた異形がひとつ、力を失って地上へ落ちていく。男は風を背に銀の戦士へ迫り、身体ごと踏み込んでウォー・ピックの嘴状の穂を胸甲の継ぎ目へ突き込んだ。刺突と同時に穂先から黒いものが傷口へ走り、瘴気となって噴き出す。銀の戦士の動きが止まった。
男が柄を引くと、銀の戦士は胸甲の継ぎ目から黒い霧を引き、手から離れた刃と共に地上へ落ちていく。その背後では、半数まで減った銀甲冑の列が後ろへ広がった。異形の群れも雷撃を受けた個体から山腹へ沈み、空に残るのは中心の大型個体だけになる。
大型の異形がもう一度、触手を扇状に開く。だが、それを遮るように、男が空を裂いて正面へ回り込んだ。身体の周囲へ収束した風が露を巻き込み、その輪郭を白く霞ませる。
フリーレンがわずかに眉をひそめた。男の速度は、彼女の知る《飛行魔法》で出せる範囲を越えている。人類が空を飛べるようになったのは、まだ四十年ほど前だ。魔族の術式を転用しただけで、自在に応用できる者はいない。
そのあいだにも、半数まで減った銀甲冑の列は男を挟むように左右へ開き、大型の異形は再び触手を広げていた。フェルンが杖を構え直し、シュタルクは眼下の山腹へ落ちていく影を目で追う。戦場は一瞬も止まらない。
片腕を失っても男の速度は落ちなかった。通過した跡で雷が弾け、銀甲冑の隊列を二つへ裂く。呼吸のように飛ぶ魔族でさえ、あの速度を保ったまま攻防を重ねるのは容易ではない。フリーレンは男の軌道と、向き直る敵の列を同時に追った。
銀の戦士たちは撤退を開始する。一人、また一人と足場となる岩場へ霧のように転移し、微かな揺らぎと共に姿を消していく。
異形の群れはすでに壊滅し、残されていたのは先ほど触手を広げた大型の一体だけだった。その異形も、浮遊の魔法で重力を拒み、霧の向こうへと静かに姿を消していく。
そして、なお空に残る一人の男。フリーレンは視線を逸らさず、その姿を見つめていた。異質な魔力は傷口の止血、飛行、加速、雷撃へ途切れず形を変え、そのたび余分な流出だけが素早く閉じていく。
術式は知らない。それでも、何を起こしたかは追える。シュタルクが低く唸ったように言う。
「……あれ、何なんだよ。人間か?」
「少なくとも、普通の魔法使いじゃないです」
フェルンが小さく返す。目は未だ、空にいる男から離れていなかった。
*
渦を巻いていた風が抜け、空はようやく静けさを取り戻した。
タヴは右手のウォー・ピックを外套内の留め具へ戻し、深く息を吐いた。背を逸らして滑空し、視界に映る稜線を見定める。まだ残る《Wind Soul(風の魂)》の流れを使って、ゆっくりと高度を下げていく。だが、既に魔力は不安定だった。
残滓のように身体を支えていた風が抜け落ちる。足が地面に触れた途端、反動が全身を駆け抜け、膝から力が消えた。
タヴは砕けるように地面へ崩れ落ちる。意識はあるのに、身体が言うことをきかない。
(……《Haste(加速)》の反動だ)
《Haste(加速)》で引き延ばしていた自分の時間が、元の速さへ一気に戻る。つい先ほどまで思考に追いついていた手足が、重い泥へ沈んだように応じない。右膝を立てようとしても、筋肉は遅れて震えるばかりだ。
崖からこぼれる砂粒も、遠くで揺れる三人の外套も、今度はひどく速く見える。目では追えているのに、その動きへ身体を合わせられない。タヴは右掌を岩肌へ押しつけ、倒れないよう体重を支えるので精一杯だった。
荒く息を吐く。だが、動けない。片腕を失った痛みも、もはや遠い。代わりに、近づく三人との距離だけが頭を占めていた。
砂を蹴る足音が三つ、急速に近づいてきた。タヴが顔を上げると、銀髪のエルフらしい女性、紫髪の少女、赤毛の少年が崖から駆け下りてくる。
敵意は見えない。だが、こちらの状態を見て用心するのは当然だ。タヴは動かない身体へ力を戻そうとしながら、三人の手元を見た。
「Geht es Ihnen gut!? Wenn nur ein Priester hier wäre...!(大丈夫ですか!? 僧侶がいてくれれば……!)」
紫髪の少女が駆け寄り、何かを取り出そうとする。その横で赤毛の少年も背中を支えようとする。反動が薄れ始めた右腕を、タヴは重そうに持ち上げて制した。
「……問題ない。自分で……何とかできる」
そう言っても意味が通じないことは分かっていた。それでもタヴは、途切れがちな声を絞り出した。
紫髪の少女と赤毛の少年は、タヴの言葉に一瞬目を見交わした。少女は荷へ伸ばした手を止め、少年は差し出した腕を下ろせない。
「...Hä? Was hat er gerade gesagt...?(……え? 何と言ったのですか……?)」
紫髪の少女はタヴの口元を見たまま、返事を待つ。
「Die Sprache... ist eine andere?(言葉が……違うのか?)」
赤毛の少年も、下ろせない腕を見てからタヴへ顔を戻した。目の前のエルフ──年齢の読めない魔法使いは口を開かず、タヴの唇とかばった右手を交互に見ている。
タヴは目を伏せ、胸の奥に残る魔力を探る。左腕の断面は即興の魔法で焼き固め、出血だけは止めていた。それでも、脈を打つたび焦げた縁の奥が引き攣る。いつ止血が崩れるか分からず、右手も《Haste(加速)》の反動で満足に持ち上がらない。
未知の世界で、片腕を失ったまま意識を手放す気はなかった。
胸の奥に残る最大の器へ手を伸ばす。《Wish(願い)》なら、既に存在する魔法を選び、その効果をここへ呼び出せる。新しい奇跡を曖昧な言葉で望むのではない。失った四肢を取り戻す《Regenerate(再生)》を、名まで違えず指定する。
タヴは膝をついたまま荒い呼吸を三度重ね、目を閉じた。底に残る魔力を一つに束ね、世界へ届かせるように叫ぶ。
「俺は第七階梯の《神の魔法》、《Regenerate(再生)》の効果を──この手で完全に再現する! 四肢を、失われたこの腕を……今ここで取り戻す!」
叫びに応じて、胸の奥の魔力が一息に抜けた。本来は扱えない《Regenerate(再生)》の術式が、《Wish(願い)》を通じて左腕の断面へ重なる。空気が揺れ、魔力が爆ぜた。熱が岩肌を舐め、三人の髪と外套を後ろへ煽る。
《Wish(願い)》が放たれると、紫髪の少女の肩が跳ねた。
赤毛の少年は思わず後ずさる。エルフの魔法使いだけが、無言でその魔力の波を受け止め、再生していく左腕から目を離さなかった。
左腕に残る断面から、光が生まれる。ゆっくりと、骨が伸び、筋が編まれ、血管が脈打ち、皮膚が再構築されていく。
三人が、言葉も出ないまま、その様子を見守っていた。痛みはない。ただ、魔力が満ちるような感覚だけが残る。失われたはずの左腕が、確かに再びその場に形成されていた。
赤毛の少年が小さく呟く。
「...Das kann nicht sein...sein Arm ist nachgewachsen...(……嘘だろ……腕が生えた……)」
タヴはゆっくりと目を開き、立ち上がる。再生した左手の指を一度開き、握る。そのまま、右手を胸元に添えて、《Tongues(言語会話)》を詠唱する。その魔力が展開されると、次に発せられた言葉が、はっきりと聞き取れるように変わった。
「……助けようとしてくれたのか? 感謝する。だが、今は落ち着いてくれ」
紫髪の少女が驚いた顔をする。
「言葉が……通じてる?」
エルフの魔法使いが一歩、前に出る。その瞳は微かに細められていた。
「声と口の動きが、合ってない……魔法で脳内に意味を翻訳して届けてるね」
フリーレンはタヴの口元から目を逸らさず、声と唇のずれを一つずつ追っていた。
「……察しが良いな」
タヴの口角がわずかに上がり、笑みの形になる前に戻った。
「じゃあ、聞かせて」
エルフの魔法使いは瞬きもせずに言う。
「あなた、誰? 何者? ここで……何をしていたの?」
答えは用意していたはずだった。だが実際に問われると、タヴの口からは最初の音が出ず、息だけが漏れる。
「……通りすがりの旅人だ。面倒事に巻き込まれたんだよ。偶然な」
最後の「偶然」だけが短く切れた。タヴは次の言葉を足さず、閉じた唇の裏へ舌を押し付ける。
「偶然で、あんな戦い方をする人なんて、見たことないよ」
エルフの魔法使いは声を荒らげない。ただ、その目は瞬きもせず、タヴから外れなかった。
タヴは、息を吐いた。そのまま、そっと視線を落とす。
「……話せることは限られてる。それでもいいか?」
「いいよ。できる範囲で、教えて」
フリーレンは追及せず、返事を待った。選ぶ余地を残す言葉だった。タヴは頷き、まず自分の名だけを告げる。続きに移る前に、呼吸をひとつ整えた。
*
名乗りのあと、タヴと名乗った男はしばし黙ったまま、再生した左腕をゆっくりと握っていた。親指から順に曲げては開き、手首を返す。その間も、視線だけは彼らから外さなかった。
その姿を、三人は黙って見つめていた。
フリーレンは左腕の周囲に漂う魔法の残滓を追い、わずかに目を細めた。この世界の術式とは異なる揺らぎが、まだ周囲に残っていた。
フェルンはタヴの左腕と魔力の残滓を交互に見比べ、再生した指先まで順に目で追った。
シュタルクは一歩だけタヴの前に出て、警戒の視線を緩めないままだった。
「なあ、さっき、腕が吹っ飛んだよな? しかも一瞬で。よくその状態で戦い続けたよな……」
シュタルクは再生した左腕から目を離さなかった。肉体はまだ薄い痕のような赤みを帯びていたが、動作には支障がないように見えた。
シュタルクの言葉に、タヴは再生した左手を開いたまま返す。
「戦闘中に四肢を失ったのは、初めてじゃないからな」
タヴは強がるでも無理をするでもなく、経験を事実として告げた。シュタルクは肩を震わせ、乾いた声で返した。
「……怖えよ、あんた……」
タヴは反応を返さなかった。フェルンはその視線のやりとりを横目に、顎を上げて口を開いた。
「腕を治した魔法……あれは、女神様の魔法なのですか? 失った部位を完全に再構築する魔法なんて、私は聞いたことありません……あなたは、どこから来た魔法使いなのですか?」
フェルンの問いに、タヴは一度目を伏せ、片方の口角を歪めた。
「俺はここで生まれた存在じゃない。この次元に来たのも偶然だ」
その答えに、フリーレンの眉が微かに動いた。
「この次元に来た? ……どういう意味?」
「文字通りの意味だ。この世界の海の向こうにも、空の向こうにもない場所から転移してきた。ここに来たのは俺の意思じゃない。説明が難しいんだが……何者かが開いた次元の裂け目から無理やり引きずり込まれたんだ」
タヴは言い淀まず答えた。三人は一度、顔を見合わせた。
「つまり……異世界から連れて来られたということですか?」
フェルンの声に、タヴは頷く。
「そう言っても差し支えない。魔法の体系も、自然法則も、言語すら違う……俺はここの常識とは違う理で動いてる」
タヴは「魔法」「自然法則」「言語」と順に指を折った。フリーレンが黙って聞き続ける中、三本目の指を戻して続ける。
「だが、問題はそこじゃない。俺は帰りたい。それが一番の目的だ。帰るための方法を探しているうちに、先ほど戦ってた連中と鉢合わせて、今に至る」
シュタルクが腕を組み直し、眉をひそめた。
「あんたが戦ってた連中も、異世界から来たのか?」
「ああ……恐らく奴らも連れてこられた側だろう。だが、奴らは逆にそれを利用して、この世界に拠点を築こうとしている」
フェルンが一歩前に出て、やや強い調子で問う。
「その奴らは何者なのですか?」
フェルンはタヴから目を離さなかった。声の硬さも残っている。タヴは頷きもせず応じる。
「銀の装備をしていた連中はギスヤンキという。異界からやってきて、色んな世界を襲って回る略奪者だ。そして、あの触手頭の異形はマインド・フレイヤー。人の脳を喰う、もっとタチの悪い怪物だ。……もともとギスヤンキは、マインド・フレイヤーに支配されてた側だった。長い戦いの末に反旗を翻し、今では互いに殺し合いを続けてる」
タヴは同じ声量で語り始めた。だが、敵の名を口にするたび音節のあいだが狭くなる。何度も命を削り合ってきた者の声にも聞こえた。
「だが、そんな因縁、この世界とは何の関係もない。ただの私怨だ。……それなのに、奴らは次元を超えてまで、ここに争いを持ち込んだ」
次の言葉は、さらに低く、ひとつずつ区切るように落ちた。
「……奴らは、ただの次元のゴミだ。壊して、奪って、跡形も残さない。関係ない世界まで巻き込んで、好き勝手に踏み荒らす」
三人は黙った。タヴの奥歯は噛み合ったままで、遠くへ向けた目も戻らない。
フリーレンが少し目を細め、問いかけた。
「あなたはこの世界を守るために戦ってるの?」
その問いに、タヴは鼻から短い息を漏らし、片方の口角を上げた。
「……違う。自分のためだ。俺が帰る方法を見つける前に、この世界の文明を滅ぼされては敵わんからな。そうなれば、帰る方法を探すどころか、生きるのも難しくなる」
タヴの視線は三人から外れ、遠くへ向いた。
沈黙が落ちた。
その中で、フリーレンがぽつりと呟いた。
「……ヒンメルが魔王を倒したのに、変な連中が火種を持ってきて、世界に戦火が広がるのは、気分が悪いね」
言い終えても、フリーレンの口元は緩まなかった。あの旅の記憶とヒンメルの願いは、今も彼女の中に在り続けていた。
「それに……あの連中は私も気に食わないし、放っておくのは危険だね」
フリーレンはタヴをまっすぐ見つめたまま、口元の線をわずかに解いた。
「……今はあなたをここに置いて行く理由もない。しばらく、私たちと一緒に来る?」
その言葉に、タヴは動きを止めた。フリーレン、フェルン、シュタルクの順に顔を見て、もう一度フリーレンへ戻る。三人の誰も後ろへ退かず、武器へ手を掛けてもいなかった。
「……俺を信用するのか?」
「まだしてないよ。でも、一緒に歩けば、分かることもある」
フリーレンの声は静かだったが、揺るぎなかった。フェルンも頷く。
「敵意がないのは分かります。ですから……警戒はしますけど、攻撃するつもりはありません。一緒にいてくれるなら、私たちとしても助かります」
シュタルクは腕を組んだまま、渋い顔でタヴを見ていたが、しばらくしてふと視線を逸らした。
「ま、俺らも旅の途中だしな。変なことしなきゃ、一緒に歩いてても文句は言わないよ」
そのやりとりを受けて、タヴは視線を巡らせながら、わずかに唇を歪める。
「……つまり、俺の監視が目的か?」
「違います」
フェルンが即座に否定する。返答は一拍も遅れなかった。
「一緒にいてもらえた方が、こちらとしても動きやすいだけです。あなたの魔法や世界……まだ知りたいことがたくさんありますから」
「あなたも、この世界で活動するなら、身元を保証してくれる人がいたほうが、都合がいいでしょ」
フリーレンも声を変えずに付け加えた。
タヴは一度、空を見上げる。そして、肩の力を抜くように小さく息を吐いた。
「……利害は一致している、というわけだな」
「そういうこと」
フリーレンが答えた。空には、もう風しかなかった。
タヴは足元へ目を落とし、靴先で草をそっと押し分ける。その後、目線は周囲の地面、岩陰、そして草むらの奥へと流れていく。何かを探しているようだった。だが、目的は分からない。しばらくして、ぽつりと訊ねた。
「さっきの戦闘を見てたのなら……俺のクオータースタッフ、知らないか? どこかに落ちたはずなんだが」
三人が同時に顔を見合わせた。フリーレンは足元へ視線を落とし、フェルンとシュタルクも岩陰と草むらを見回し始めた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。