界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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夜明け前の橋上で繰り広げられた死闘は、セリアたちの踏ん張りによってようやく収まった。だが本当の不穏は別の場所で膨らんでいく。ゼーリエはラジエルとタヴを都合よく動かそうとする人間たちの思惑を警戒し、同時に地下では封印破りに繋がる危うい魔法の実験が進められていた。守ったはずの一夜の先で、世界はさらにきな臭さを増していく。勝利の朝は、次の災いへ向けた静かな助走でもあった。


#20:見えぬ新たな火種

 白銀の盾と黒鉄のモーニングスターが噛み合った瞬間、シャーンの大橋は芯から唸った。セリアは橋面より人ひとり分ほど高く身を置き、最初の一撃を受け止める。

 

 踏み込みに合わせて四メートルの巨躯が石畳を軋ませ、黒鉄の棘球が振り下ろされるたび、欄干の継ぎ目から白い粉が吹いた。真正面の重さだけなら押し返せる。厄介なのは、重さの置き場が一拍ごとに変わることだった。

 

 組み合いを外した次の瞬間、モリデウスが橋の外縁へ駆け抜ける。沈み込んだ膝が石を砕き、外壁の補強材へ飛びついた。赤い巨体が橋と塔壁のあいだを横へ走り、次の拍には姿を掻き消す。現れたのは、さっきモリデウス自身が打ち割った笠石の上だった。

 

 最初は偶然に見えた。だが、二度、三度と見るうちに、セリアの目は差を拾う。モリデウスが戻るのは、ただの傷ではない。爪を掛けた金具、砕いた石、触れて捻り切った鎖留め。さっき橋を揺らした衝撃で新しく走ったひびには出ないのに、モリデウスの手が入った場所にのみ戻る。

 

 そこでセリアは昔、仕事で組んだ嫌味な占い師が、薄く笑いながら《Teleport(瞬間移動)》の講釈を垂れていたことを思い出す──《Associated object(関連物品)》だ。

 

 セリアはモリデウスが橋から剥いだ部材か、そこに残した接触の痕を魔法的な目印にしていると踏んだ。同時に「勇ましいのは美徳だけど、着地精度には一切寄与しない。実に残念だね」という占い師の言葉も脳裏に浮かんだが、無視する。

 

 彼女はあえて動かない。盾を半身に構え、翼を狭く保ち、正面と外縁と頭上の線を意識へ残す。背後には転移室へ流れる人の列がある。中央を明け渡すわけにはいかなかった。

 

 狼頭は上を見る。蛇頭は橋面を舐める。死体が重なった段差、砕けた荷箱、折れた槍、鎖の束。蛇頭の視線の先で、見えない腕がそれらを持ち上げた。《Telekinesis(念動術)》だ。狙いは身体そのものではない。羽ばたきと着地の拍を崩すための、細かく悪質な妨害だ。

 

 セリアは戦鎚で払い、盾で受け、翼の風で流す。だが一つ二つは残る。その残りにモリデウスの本命が噛みついてきた。橋板の隙間からモーニングスターが跳ね上がる。盾で受けた反動で身を浮かせたものの、浮いた肩へ短い梁が掠めた。

 

 着地へ移ろうとした足元へ今度は鎖が走る。戦鎚の柄で鎖を弾き、セリアは橋の芯へ一歩寄った。ここで下がれば、次の一撃は自分ではなく橋を割る。

 

 背後で槍が石を打つ音が一度詰まった。振り返る余裕はない。それでも槍列が崩れていないことは、足裏へ返る振動で分かる。中央へ寄るなという命令が守られている。なら、この場所はまだ生きている。

 

 モリデウスは外壁を蹴って橋の裏へ沈み、別の印へ現れる。砕けた笠石、抉れた欄干、鎖留めの金具。姿が飛ぶたび位置が一拍ずれる。それでも完全な自由ではない。戻る先には偏りがある。

 

 癖が偏りへ変わったのは、鎖留めの一つが千切れた時だった。モリデウスは砕けた金具をただ散らしたのではない。蛇頭が視線を落とし、ちぎれた鉄輪のひとつを爪先で弾いた。

 

 次の拍、赤い巨体は橋外へ身を投げ、その鉄輪が跳ねた先へ《Teleport(瞬間移動)》で現れる。橋に触れた場所と、橋から剥がした物。その二種類が、同じように移り先の目印になっている。セリアの中で仮説が輪郭を持ったのは、その時だった。

 

 彼女は相手そのものだけでなく、相手がいま何に触れたかを見始める。黒鉄の棘球が欄干を掠めたのか、爪が金具を引き裂いたのか、蛇頭が視線で拾ったのは橋の上の瓦礫なのか、それとも自分で剥いだ部材なのか。セリアの目は赤い巨体だけでなく、橋面と外壁の傷まで舐めるように追った。

 

 真横から跳躍が来た。巨体が空中で急に減速し、その前後へ石片と鉄片が雨のように重なる。盾の縁へモーニングスターが叩き込まれ、翼の半回転が潰された。セリアの身体が橋面へ深く叩きつけられる。白いひびが走り、欄干の粉が吹き上がる。モリデウスが短い距離で着地する。次の一撃が届く距離だ。

 

 背後では、転移室へ通じる円陣の光が絶えず明滅している。搬送も退避もまだ続いている。ここで受け損ねれば、壊れるのは石だけでは済まない。橋面すれすれで片翼を強く打ち、セリアは沈んだ姿勢を立て直した。盾を胸前に立てる。退くわけにはいかない。

 

 赤い巨体が橋の裏へ完全に沈む。見失ったのは一拍だけだったが、そのあいだに橋板の下で石が鳴り、外壁のどこかで金具が軋んだ。視線を戻した時には、もう次の角度が残っている。

 

(空へ誘う。奴を橋の芯から剥がす)

 

 次に現れたのは橋板の下ではなく、外壁寄りの欄干のさらに外側、落下の途中だった。自由落下へ入った速度を丸ごと残した再出現である。狼頭の唸りが近い。モーニングスターの軌道は読める。だが、その半拍遅れで蛇頭が《Telekinesis(念動術)》を重ね、鎖の束を翼へ絡めてきた。

 

 セリアは翼を閉じ切らず、半ばだけ残した。羽縁が鎖を弾き、横へ流れる。その流れへ戦鎚を下から差し込む。落ちてくる胴へ重さを返すための一撃だった。黒鉄の塊と戦鎚が橋外の空間でぶつかり、火花が夜明け前の薄闇へ散る。

 

 セリアは一度、高度を取った。橋面から十数メートル。塔窓よりわずかに低いあたりまで上がり、白銀の翼で冷えた空気を切る。下を見れば、裂け目から吹く赤い気配と煙が橋の背を舐め、その中でモリデウスの足取りが黒く残っていた。橋面から離れれば、棘球の重さは少し読みやすい。だが、赤い巨体は外壁の帯も補強材も平地のように踏んでくる。

 

 赤い巨体が橋外へ跳び、外壁の装飾帯を掴み、そのまま垂直に駆け上がる。途中で掻き消え、セリアの斜め上、補強材が交差する高みへ現れた。横薙ぎのモーニングスターを半身で外した直後、今度は橋面から引き抜かれた鉄片が立ち上がる。蛇頭は地上を見ながら、上空へ弾を送っていた。

 

 セリアは翼の風で鉄片を散らす。街灯の淡い光が破片を掠める。その向こうで、モリデウスはまた消えた。次は橋の下、次は外壁の中腹、次の拍には砕けた笠石の上。視線を上へ戻した時には、橋外からまた別の影が食い込んでくる。

 

(奴の《Teleport(瞬間移動)》に付き合うな。空中戦なら私に分がある)

 

 セリアは飛び方を変えた。高く上がるのは一撃ぶんのみ。角度を切ったらすぐ中央へ戻る。白銀の翼が大きく空気を裂くたび、煤と血が払われ、橋面のひびが露わになる。その短い見通しで、モリデウスが次に欲しがる目印を先に潰す。

 

 外壁を掠めた黒鉄のモーニングスターが石を砕いた。蛇頭はその欠片さえ《Telekinesis(念動術)》で拾って刃に変える。指先ほどの石片が群れになって逆流し、顔と翼の縁を狙って散った。セリアは戦鎚の柄で目の前だけを払う。翼で吹き散らせば、中央へ戻る線がずれる。

 

 そのわずかな乱れへ、モリデウスが噛みついた。橋の外へ身を投げ、落下の途中で《Teleport(瞬間移動)》を挟み、セリアの背後上方へ出る。狼頭の影が薄明を横切った瞬間、セリアは振り返らずに翼を畳み、橋面すれすれへ沈んだ。真上からの一撃なら、下を潜る方が速い。肩先を黒鉄の棘が掠め、鎧の縁から火花が走る。

 

 セリアはそのまま橋の中央へ滑り込み、片膝を浅く折って着地した。石畳が短く鳴る。白銀の翼をすぐに戻し、盾を半身に構え直す。視線が測るのはモリデウスではなく、橋中央に残った白いひびと、まだ砕けていない鎖留めだ。

 

 モリデウスは橋外の印へ何度も出入りし、そのたびに欄干や笠石へ新しい目印を増やしていく。セリアはその返しとして、戦鎚を横へ払って欄干石ごと砕いた。相手に使われるくらいなら、自分で壊してしまう。橋を守るために、橋の一部を切り捨てる判断だった。

 

 蛇頭は橋面の死体へ視線を走らせ、浮いた肉塊と鎖の束をまとめてセリアの進路へ押し出した。石より重く、形も揃わない。盾で受けた衝撃が腕へ沈み、二体目を戦鎚で払い、三体目が落ち切る前に前へ詰める。

 

 その押し合いの最中、モリデウスの左手がわずかに持ち上がった。爪のあいだで青白い火花が束ねられ、焦げた鉄の匂いが風へ混じる。橋の中央を貫く一撃だと、セリアにはすぐ分かった。正面から受ければ、自分だけでは済まない。背後の兵まで焼き抜かれる。

 

 セリアは退かず、短い詠唱で《Misty Step(霧渡り)》を切った。白銀の輪郭が霧にほどけ、次の瞬間にはモリデウスの懐へ滑り込んでいる。盾の縁が左手首を下から跳ね上げ、戦鎚の柄が前腕へ叩き込まれた。

 

 掌から迸った《Lightning Bolt(電撃)》は軌道を逸らし、橋の中央ではなく砕けた欄干と外壁の装飾帯をえぐって薄明へ走る。石が爆ぜ、火花が橋外へ散った。

 

 背後では兵たちが反射的に身を沈める。槍兵を冒険者が肩ごと引き倒し、焼けた破片が頭上を越えた直後に二人とも立て直した。伏せていた兵たちもすぐに膝を伸ばし、槍先が一斉に元の高さへ戻る。

 

 左手を弾いた反動はセリア自身の身体も外へ流した。白銀の翼がそこで大きく開く。吹き返した風と爆ぜた熱をまとめて掴みながら、橋面から十数メートル上へ跳ね上がる。塔窓よりわずかに低いあたりまで一息で高度を取り返した時、視界が開けた。

 

 下に見えるのは、砕けた笠石、鎖留め、外壁の補強材。モリデウスが《Teleport(瞬間移動)》で戻る先は、無秩序に散ってはいない。モリデウス自身が剥がした部材か、爪と武器で印をつけた場所のみが、橋の外へ細い鎖のように連なっていた。

 

(移り先に法則がある。戻る場所を減らせば、中央へ落とせる)

 

 セリアは盾を胸前へ立てる。盾面の聖印が白く灯り、埋め込まれた聖遺物箱が熱を持つ。右手には戦鎚を前に構えながら、《Summon Celestial(セレスチャル召喚)》を落とす。

 

「私の誓いに応え、裁きの矢をここに」

 

 祈りに応じて白い円が立ち上がった。円の中心から、白銀の弓を携えた天の射手が現れる。頭上に淡い光輪を戴き、紺青の甲冑には白金の線が天秤のように走り、兜の奥で青い光が静かに灯る。燃えるような金の翼が大きく開き、守護霊は橋へ降りず、セリアより少し高い位置に留まった。

 

 視線はモリデウスの肉ではなく、橋外の印と戻り先へ向いていた。最初の矢はモリデウスではなく外壁の補強材を穿ち、二の矢は砕けた笠石の列を抉り、三の矢は鎖留めの金具を砕く。怪物へ傷を増やすより先に、怪物が使う場所を潰し始める。

 

 白い矢が肩をかすめた瞬間、モリデウスは即座に進路を変えた。無視して詰めるのではない。守護霊の射線から一度ばかり身を外し、別の高所を経由して戻ろうとする。狼頭は上の矢を見て、蛇頭は橋面の印を見た。首の向きが、空と橋のあいだでせわしなく切り替わる。

 

 赤い巨体は橋外の運び方もすぐに変えた。外壁へ爪を掛ける時間を短くし、橋から剥いだ部材を一度手元へ集めてから放る。千切れた鎖の節、割れた笠石、捻り切った金具。その一つ一つへ自分の痕を載せ、投げた先へ《Teleport(瞬間移動)》を繋ぐ。橋の外へ即席の足場を撒きながら動くやり方だった。

 

 守護霊の矢は、まずその足場から穿っていく。白い矢と黒い部材が空中でぶつかるたび、砕けた鉄が橋の外へ散る。モリデウスはすぐ別の印を作り直し、次の跳躍へ繋ぐ。千切れた鎖の節が飛び、白い矢がそれを砕く。割れた笠石が跳ね、その先へ赤い巨体が掻き消える。

 

 守護霊が補強材を一つ穿った直後、セリアは橋面の鎖留めへ戦鎚を叩き込んだ。上で砕けた補強材が崩れ、下では鎖留めの金具が石ごと弾ける。踏み出しかけたモリデウスの足先が宙を切り、赤い巨体の肩が半拍ぶれた。

 

 それでも怪物は止まらない。外壁の装飾帯を蹴り、砕き切れていない鉄の輪へ《Teleport(瞬間移動)》を繋ぎ、そこから斜め下へ最短で切り込んでくる。セリアは読み違えた。落ちると見た赤い巨体が、逆に高みの手前で噛みついてくる。黒鉄の一撃が肩を深く打ち、白銀の羽が大きく散った。

 

 左肩から肘まで走った痺れを、セリアはそのまま受け止める。痛みの中で見えたのは、守護霊の矢が肩を裂いてもモリデウスが進路を変えず、外壁の印や投げた部材を潰された時だけ明確に軌道を変えるという事実だ。肩の痛みを噛み殺しながら、セリアは橋外の印を追い、高度を取り直す。

 

 薄明の空気を白銀の翼で切り裂き、橋外と橋面のあいだへ視線を落とす。砕けた笠石、鎖留め、補強材、その連なりの先に、別塔連絡路の口が見えた。ゾンビが幅を押し、死体の肩を踏み台にしたグールが前へ出る。

 

 顔を通そうとする細い影があり、その後ろには死体を抱えた巨体があった。ボダックとディヴァウラーだ。入口側へ届けば、橋の幅も搬送線も一気に死ぬ。セリアは即座に外周へ声を飛ばした。

 

「イーシャ!連絡路だ!ボダックとディヴァウラーが来ている!」

 

 欄干際を走る影が低く沈んだ。返事は聞こえなかったが、次の拍には進む向きが変わる。

 

 イーシャはセリアの警告が飛んだ時には、もう別塔連絡路の並びを見切っていた。ゾンビが幅を押し、グールが死体の肩から跳ぶ角度を拾い、ボダックが入口へ顔を通そうとしている。その後ろでディヴァウラーが死体を抱え、橋裏へ回る機を窺っていた。入口に顔を通されるのも、死体を橋裏へ落とされるのも駄目だ。順番を間違えれば終わる。

 

 イーシャはまず入口の流れを手で直した。膝をついた搬送役の背に、別の避難民がぶつかりかける。抱き起こすより先に、荷箱の向きを変え、倒れた槍を踏み石にして、人が一人通れる幅を捻り出す。倒れた者を囲んで手が止まる前に列を先へ通す。

 

 グールの爪が兵の脇腹を浅く裂いた時も、イーシャは立たせようとしなかった。裂かれた腕が痙攣し、足が止まる。そこを列から外せば十分だ。肩帯へ綱を回し、欄干の死角へ半歩ずらし、次の者がつまずかないようにする。兵の口から漏れたうめきは短い。だが、その短さのぶんは後ろの列は止まらずに済む。

 

 その時、中央から返る衝撃が一度薄くなった。イーシャは視線を上げる。橋の真ん中で、セリアが守るだけの姿勢を崩し始めていた。

 

 イーシャは欄干の割れ目へ足を掛け、影と石の境目へ体重を半歩ずらした。《Ghost Walk(幽体歩き)》が走る。輪郭が少し薄くなり、肩と腰が半拍だけ別の位相へずれる。橋板の裏と欄干の割れ目が、そのずれひとつで通れる幅に変わった。

 

 外周で先に壊れ始めるのは、いつも幅だった。欄干の裂け目。死体が作った段差。補助索にぶら下がった兵。そこへ別塔連絡路から流れ込んできたアンデッドが、狭い橋をさらに狭くする。

 

 前に出てくるのはゾンビだ。遅い。だが幅がある。倒れた者の盾や槍まで抱え込み、欄干際へ押しつける。その隙間からグールが抜ける。死体の肩や崩れた箱を踏み、短く跳んで届く角度を拾ってくる。

 

 グールの爪に裂かれた者は、傷より先に筋肉が固まって止まる。入口へ先に通したくないのはボダックだ。顔を上げられるだけで列が死ぬ。その後ろでディヴァウラーに死体を橋裏へ運ばせれば、戻ってくる死者が増える。

 

 イーシャはまず落ちた盾を欄干へ立て、裂けた旗布を引っかけた。焦げた布を重ね、燃え残りの煙を巻かせる。粗い目隠しだが、ボダックに入口の顔を通させないには足りる。

 

 グールが三体、低い姿勢で入ってくる。避難列へ届く角度は二本。イーシャは最前の一体へ短剣を向けた。狙いは喉ではない。肩口だ。爪の軌道が半歩ずれたところへ体を沈め、残り二体のあいだへ滑り込む。

 

 片方の膝裏を蹴り、もう片方の顎を肘で打ち上げる。止め切る必要はない。届く角度を消せば十分だった。

 

 刃が入った個体から冷たい余波が漏れ、《Wails from the Grave(墓より響く嘆き)》が隣の個体まで脚を鈍らせる。その一拍でイーシャは欄干へ跳び、フックを投げた。狙うのはボダックの顔ではない。肩口だ。金具が骨へ噛み、綱を横へ引く。上体の向きが変わり、顔の線が入口から外れる。

 

 ボダックが戻ろうとした時には、イーシャはもうその背後にいた。橋板の裏から半身を出し、喉へ短剣を浅く差し込む。狙いは致命ではない。戻ろうとする首の筋だ。さらに綱を引き、顎を空へ向ける。正面が消えたところへ、低い方のグールが綱に足を引っかけて転んだ。後ろのゾンビがその背に乗りかかり、列が一度だけ詰まる。

 

 イーシャはその詰まりを逃がさない。倒れたグールの肩へ踵を落とし、欄干へ叩きつける。もう一本の短剣を顎下から通す。ボダックがなおも顔を戻そうとしたので、今度は肩口へ深く刃を入れ、背後へ抜けながら上体ごと半回転させた。黒い皮の下で骨が軋み、最後に首が折れる。

 

 ボダックが落ちた直後、橋の外周でいちばん嫌な音が大きくなった。死体を引きずる音だ。ディヴァウラーが列の乱れたところから死体を拾い、橋裏へ運び込もうとしている。あれを通せば、戻ってくる死者が増える。

 

 イーシャはボダックを落とした足で、そのままディヴァウラーへ走った。間にいるゾンビやグールを全部倒す必要はない。死体の流れのみを切ればいい。

 

 欄干の外へ身を投げ、補助索の金具にフックを噛ませる。下ではゾンビが二体、死体ごと幅を塞いでいた。グールがその肩を踏み、低い軌道で搬送線へ届こうとしている。イーシャは《Ghost Walk(幽体歩き)》を維持しながら橋板の裏へ入り、死体の肩の高さへ戻った。そこからゾンビの膝裏へ刃を入れる。倒れた重さで死体の山がずれ、グールが使っていた踏み場が一つ消える。

 

 次の個体は欄干の支柱へ手を掛けて無理に跳び込んでくる。イーシャはその手首へ綱を巻きつけ、支柱ごとひねって肩を外す。返す刃で耳の後ろを裂き、その死に《Wails from the Grave(墓より響く嘆き)》を重ねる。背後のゾンビまで脚が鈍り、幅の詰まりがさらに深くなる。

 

 先ではディヴァウラーが死体を抱えながら欄干へ沈んでいる。遅く見えて、やっていることは速い。死体を一つ奪われれば後が変わる。だから正面から胸を刺しに行かず、まず橋板の下へ潜る。橋裏の支点、死体の帯、自分の綱。その三点が一直線になったところで初めて力を入れた。

 

 読みは当たる。ディヴァウラーは死体を離さなかったぶん、上体を立て直せない。イーシャはその隙間へ短剣をもう一本差し込み、胸郭の奥で噛み合っていたものをずらした。死体を抱える力と、自分の身体を支える力が同じ場所でぶつかった瞬間、巨体が初めて傾く。

 

 胸郭の奥で赤黒い光が脈打っていた。取り込んだ死を噛み合わせる核だ。そこへ刃を深く差し込み、横へ裂く。抱えていた死体が腕から滑り落ちる。イーシャはその肩を蹴って欄干の内側へ転がした。持っていかせない。それが最優先だった。

 

 ディヴァウラーが怒声とも呻きともつかない声を上げ、今度はイーシャ自身を掴みにくる。右腕が伸びた瞬間、肘へフックを打ち込む。綱を短く巻き取り、支点を一度通して引いた。関節の向きが外れ、巨体が半歩よろめく。

 

 そこへグールが死体の肩を踏んで跳ぶ。イーシャはディヴァウラーへ半身を預けた体勢で腰を落とし、爪の下を抜けた。逆手の短剣を脇腹へ入れ、《Wails from the Grave(墓より響く嘆き)》を散らす。余波が隣のゾンビへ走り、鈍い列がまた止まる。

 

 その一拍で足りる。橋裏へ潜り、骨組みとディヴァウラーの脇の空隙を繋ぐ細い線を通る。普通なら肩が引っかかる狭さだが、今のイーシャはそこを抜けられる。綱を一気に引くと、巨体の上体が死体を抱く向きから外へ倒れる向きへ変わった。開いた胸郭が空を向く。イーシャは橋の裏から半身を抜き直し、短剣を深く差し込んだ。

 

 今度は止まった。腕が空を掴み、脚が橋裏の石を引っ掻く。それでも起き直れない。胸の奥で脈打っていた赤黒い光が一度だけ不規則に跳ねて鈍る。

 

 落ちた死体の指がぎくりと動く。完全に起き上がる前の、いちばん厄介な段階だ。まだ人の形を残しているぶん、列に紛れやすい。イーシャは迷わず短剣を投げ、手首の腱を橋板へ縫い止める。次いで欄干の支柱へ結んでいた綱を引き、上体そのものを内側へ転がした。橋裏へ落とさせず、立たせない。

 

 ディヴァウラーを沈めても、イーシャは敵を数えなかった。橋に何人通れるかを見る。ゾンビを一体殺すより、二体を横向きに絡めて道を一つ戻す方が価値がある。

 

 ゾンビが三体まとめて押し寄せる。遅いが、幅がある。イーシャは真ん中の一体へ飛びつき、肩を踏み台にして跳んだ。空いた空間へ低いグールが滑り込む。その爪が腿を掠め、痺れに似た冷えが一瞬だけ走る。深くは入っていない。なら動ける。着地の反動で体を反転させ、踵を頬へ叩き込み、耳の後ろから短剣を差し込んだ。

 

 ゾンビの壁を崩す時、イーシャは数を減らすより向きをずらす。肩へ綱を掛け、足首へ刃を入れ、欄干の裂け目へ向けて半身を押す。倒れた一体が二体目の膝へ食い込み、二体目が三体目の進路を塞ぐ。橋の上では、倒した数より詰まらせた幅の方が価値を持つ。

 

 中央から届く音が変わった。短く、重く、芯を叩く音。イーシャは欄干越しにそちらを見た。白い矢と戦鎚の音が、さっきより橋の真ん中へ寄っている。

 

(アンデッドを止めれば、セリアは必ず勝つ)

 

 最後に残ったグールが死体の肩を踏んで高く跳んだ。イーシャは欄干の厚みへ半身を逃がし、爪の下を抜けたところで首筋へ刃を入れる。そのまま引き落とし、短く捻って止めた。

 

 最後のグールが動かなくなる。入口へ届く低い影は、ひとまず消えた。

 

 ディヴァウラーの巨体へ一本の綱を渡し、欄干の裂け目へ結ぶ。動かなければ、それは新しい支点になる。そこへゾンビの列を横向きに絡めて詰まらせ、橋の幅を戻す。後ろで踏みとどまっていた兵たちが、ようやく前へ槍を揃え直した。

 

 外周を塞ぎ切ったところで、イーシャは中央から届く音の先へ目を向けた。白い矢が高所の印を一つ穿ち、次の拍にはセリアの戦鎚が橋面の鎖留めを砕く。

 

 高所の印が砕け、橋面の鎖留めが弾けるたび、モリデウスの往復は橋の真ん中へ寄っていく。それでも赤い巨体は傷を無視し、短い角度を抉るように通してきた。

 

 肩を抉られても、脇腹を裂かれても、次の踏み込みは鈍らない。白い矢が半拍遅れ、あるいは戦鎚が少しでも外れれば、次の衝撃が橋の芯へ落ちる。

 

 セリアは一度だけ、追うふりをした。外壁へ抜けたモリデウスを見上げ、白銀の翼で高みに乗る。赤い巨体も応じて上へ出る。だが、空で打ち合うつもりはない。セリアは半拍遅れて失速し、落ちる勢いを橋中央へ返した。

 

 頭上を抜けようとしたモリデウスへ、盾の縁を跳ね上げる。浮いた腹へ戦鎚の柄を横から差し込み、赤い巨体を橋の芯へ叩き戻す。高所の読み合いを、橋の中央へ引きずり下ろすための一手だった。

 

 その落下の最中、狼頭が奈落語を鋭く弾いた。着地まで何も差し込めないはずの一拍に、《Dispel Magic(魔法解除)》が守護霊を穿つ。片翼が消え、金の羽が散った。

 

 守護霊はその場に踏みとどまるが、動きは目に見えて鈍る。矢の数が減り、狙う場所はさらに絞られた。

 

 モリデウスはそこで初めて、真正面から踏み込んだ。白い矢が肩甲へ深く入り、光が肉を焼く。それでも赤い巨体は構わず距離を詰め、セリアの盾へ黒鉄の棘球を叩き込む。守護霊の矢を肩で受けながら、そのまま押し込んでくる。

 

 セリアは最後の形を決める。守護霊が残すのは数本の矢でいい。モリデウスが高みへ伸びるたび、矢が印を穿つ。戻ってきたところへ、セリアの戦鎚が橋面を砕く。自分は橋中央の一歩を絶対に外さない。

 

 モリデウスは白銀の守護霊そのものを叩き落としにいった。外壁の補強材を斜めに駆け上がり、橋の上を飛び越え、明るみ始めた空へ正面から跳ぶ。白い矢が胸へ刺さる。肩から白煙が噴く。だが止まらない。モーニングスターが唸りを上げて振り抜かれ、守護霊の腹を掠めた。

 

 さらに、モリデウスの開いた左手へ青白い火花が束ねられる。掌から迸った《Lightning Bolt(電撃)》が白銀の身体を斜めに貫き、守護霊の輪郭を大きく揺らした。光の羽が散り、矢の線が一瞬乱れる。

 

 その一瞬を、セリアは待っていた。相手が高みへ意識を寄せれば、橋面は空く。セリアは追わず、橋中央の笠石と鎖留めを連続して砕いた。重い戦鎚が石を割り、白いひびが一本、また一本と増える。高所へ跳んだモリデウスが帰ってくる先を先に潰すためだ。

 

 赤い巨体は守護霊を叩き切れず、白い矢を肩に刺したまま橋へ戻る。踏み込んだ場所は、さっきより橋の中央へ寄っていた。

 

 モリデウスはすぐ狙いを橋へ切り替えた。セリアでも守護霊でもない。《Telekinesis(念動術)》で引き寄せられた鉄片と石屑が中央のひびへ食い込み、同じ場所へ何度も重さが落ちる。

 

 それに対して、セリアは初めて待ちの姿勢を崩した。橋面を蹴り、白銀の翼を大きく開いて真正面から踏み込む。守るためではない。橋へ叩きつけようとしていたモリデウスの向きを、自分へ突っ込んでくる向きへ戻すためだ。

 

 盾が胸へ入る。モリデウスの上体が半歩だけ起き、その一瞬で、橋を砕くために落ちていた力が全部セリアへ向き直る。

 

 赤い巨体は、それを望んでいたかのように笑った。狼頭が牙を剥き、蛇頭の喉奥で火花が弾ける。ここで押し切ると決めた顔だった。ならば、受ける場所も決まり切っている。セリアは橋中央の白いひび、その真上へ自分の足を置き直した。ここを外せば全部が無駄になる。

 

 頭上の守護霊が白銀の弓を引き絞る。次の矢が落ちる寸前──モリデウスは奈落語をほとんど音にもならない速さで滑り込ませる。直後、《Dispel Magic(魔法解除)》が守護霊の胸を正面から打ち抜いた。白銀の天の射手は弓を引いた姿のまま光へほどけ、金の翼が散り、輪郭が薄闇へと溶けて消える。

 

 だが、セリアには踏み込むだけの隙が生まれる。守護霊へ意識を割いた分、モリデウスの正面の圧がわずかに薄れた。セリアは盾を胸へ、正面から叩きつける。モリデウスの巨体がわずかに仰け反る。その一拍へ、戦鎚を橋面へ落とした。最後まで残っていた鎖留めの金具ごと石を砕く。再出現点がまた一つ消える。

 

 橋の外へ出ても、高所へ伸びても、戻る先はもう狭い。狼頭が空を、蛇頭が橋面を一度ばかり見比べる。次の瞬間、赤い巨体は距離を切り直すように橋外へ身を消した。

 

(十分だ。ここで仕留める)

 

 狼頭が吠え、蛇頭が奈落語の短い断音を吐く。次の瞬間、《Telekinesis(念動術)》に引かれた鉄片と石屑が二人の間へ殺到した。盾へ重なった鉄と石の衝撃が足元まで食い込み、セリアの身体が橋の芯を二歩ぶん滑らされる。

 

 セリアは膝を落とし、踏み止まるのでなく後ろへ受け流した。押し開かれた間合いの向こうで、モリデウスは橋の外へ身を投げる。セリアは追わずに翼を半ば開き、橋面すれすれの低さで構えた。

 

 橋外の闇で魔力が弾ける。戻りの兆しだ。直後、風圧が兜の飾り紐と旗布を引き千切りそうに鳴り、橋の上にいた何人かが反射で身を伏せる。

 

 《Teleport(瞬間移動)》の戻り先はもう読める。だからセリアは振り返らない。正面へ一歩だけ出て、盾を少し低く構える。直後、赤い巨体が読みどおり正面へ現れた。帰り道を削られた上で、なお最短距離を押し通してきたのだ。モーニングスターが横薙ぎに走り、蛇頭の牙が同時に喉を狙う。

 

 セリアは半歩沈んだ。盾を低く差し込み、横薙ぎの棘球を受けるのでなく滑らせる。蛇頭の牙は兜の縁と左翼の付け根で外へ擦らせた。衝撃が肩から腰まで貫き、橋面の白いひびが一気に広がる。だが軸は折れない。セリアはその場で踏み止まり、モリデウスの胸を橋中央に受け止めた。

 

 そこで怪物は止まらない。盾へぶつかった反動を殺さず、着地の勢いを殺さずに巨体を半回転させる。外壁へ爪を掛け、橋の外へ抜けて次の《Teleport(瞬間移動)》へ繋ぐつもりだ。棘球を滑らせられた直後なのに、もう外壁へ手が伸びていた。

 

 だがセリアは、その離脱の半拍を待っていた。敵が離脱に移った瞬間に返しを入れ、その脚をその場で止める。《Sentinel(守護戦士)》の極意だ。盾の縁で棘球を跳ね上げ、返しの戦鎚を脇腹へ叩き込む。橋の外へ抜けるために切った脚がそこで止まり、赤い巨体の重心が橋中央に残る。

 

 セリアは止めたまま終わらせない。左膝を深く折り、白銀の翼を打ち下ろす。橋の芯へ押し戻されたモリデウスの上体が大きく沈む。赤い巨体の両前脚が石へ沈み、重心が橋の芯へ縫いつけられる。その刹那、もうモリデウスは跳べなかった。

 

 戦鎚が落ちた。振り下ろされたというより、裁きそのものが橋の芯へ降りたような一撃だった。白銀の翼が爆ぜるように開く。橋中央の白いひびが眩く光り、その光の筋をなぞって戦鎚の重さが一直線に沈む。

 

「ティアの裁きを受けよ!」

 

 セリアが《Divine Smite(神聖なる一撃)》を重ねた瞬間、神聖な光はただ爆ぜるのでなく、巨体の内側へ食い込みながら縦に走った。胸板、肩甲、喉元、二つの首の根元。白い線が内側から裂いていき、橋全体が一拍遅れて震える。

 

 モーニングスターが地面へ落ちた。

 

 モリデウスはそれでも脚を踏み張ろうとする。だが、セリアは二撃目を待たない。戦鎚の石突きをその胸の傷へ押し込み、体重ごと前へ預ける。白い光が奥でさらに爆ぜ、赤い巨体からようやく力が抜けた。

 

 モリデウスの二つの頭が別々の方向へ沈む。橋面に広がった白いひびが、その巨体の下でさらに放射状に走る。外壁に残っていた最後の赤煙まで、白銀の風が吹き飛ばした。

 

 蛇頭のみが最後に動いた。裂けた喉から黒い血を泡立たせ、奈落語の濁った音を絞る。

 

「Vrashaq ul-naar……thar zhûl. Keth ar-Abyss vor」

 

 意味は分からない。しかし呪詛でも敗北の呻きでもない響きだ。裂け目の向こうにまだ何かがあると、聞いた者の背骨へ直接押しつけるような声だった。狼頭が潰れた胸を鳴らすみたいに笑い、その声もすぐ途切れる。

 

 橋の中央に残ったのは、白いひびと、崩れた赤い肉と、まだ熱を持つ戦鎚だけになる。

 

 セリアはすぐに盾を下ろさない。起き上がる気配があるか。血が別の呪いへ変わる兆候があるのかを見届ける。白銀の翼の風が血と煤を払い、赤い巨体のまわりを隔てる。

 

 次に起きたのは、崩れる音ではなく溶ける音だった。

 

 モリデウスの裂けた胸から赤黒い体液が噴き、肉と骨がその中へ崩れ始める。奈落の外で斃されたデーモンが、この世に形を留められず体液へ戻る溶け方だ。石畳へ広がった粘つく黒が、裂け目の方へ細く引かれていく。その先で、いずれまた別の肉を得るのだと、見ているだけで分かる嫌らしい退き方だ。

 

 モリデウスが崩れた直後、橋口へ食い込んでいたヘズロウが粘液を引きずった体勢で後退する。外壁の補強材に取りついていたバルルグラも、セリアの白銀の翼が一度広がっただけで手を放し、塔壁へ身を逃がした。

 

 頭上を掻き回していたヴロックは翼を引き、裂け目の側へ高度を取り直す。押し込むための陣形はもうどこにも残っていなかった。統制を失ったデーモンたちは、セリアから逃げるように橋を離れ、裂け目の奥へ引いていく。

 

 燃える頭蓋も、そこでようやく動きを変えた。橋の中央上空を回っていたフレイムスカルが火の尾を翻し、先に退いたデーモンたちを追うように裂け目の方へ引き返す。入口前へ沈もうとしていた別の個体も、途中で向きを切り替えた。

 

 外周では、ディヴァウラーの巨体を支点に搬送班が死体を内側へ寄せ始めている。イーシャは黙って最後の綱を引き、欄干の外へ落ちかけていた瓦礫を足先で戻した。勝ち名乗りより先に、人の橋の手順が戻ってくる。冒険者が動ける者を立たせて、兵たちは歓声もなく槍を揃えた。

 

 その時、イーシャは橋の真ん中を見た。白銀の翼が朝焼けの手前の空気を切り、中央のひびへ残った光がまだ消えていない。橋を保たせたのは、あの中心が最後まで折れなかったからだ。

 

(本当に、無茶を通したわね)

 

 セリアが外周へ目を向ける。イーシャは軽く顎を引いた。赤黒い体液の最後の筋が裂け目へ引かれ、石畳には折れた欄干と抉れた跡が残る。セリアはそこでようやく盾の角度を下げ、イーシャも綱を外し終える。

 

 橋の芯を踏む足音が、今度は途切れず続いた。

 

 *

 

「ラジエル・サン=エリオスという、魔法使いについてだ」

 

 ゼーリエがそう切り出した時、温室の湿った空気はさっきまでとは別の重さで張りつめた。

 

 ガラス越しの午後の光が、白い花弁の端に薄く乗っている。だが足元の石床には、つい先ほどまで《Hexblade(影の剣)》が零した魔力の名残がまだ沈みきっていなかった。水盤の底で小さな震えが続き、花壇の一角では萎れた花が首を折りかけている。

 

 タヴの顔をした《Hexblade(影の剣)》は、すぐには返さなかった。ゼーリエではなく、花壇の縁に落ちた乾いた花弁へ一度ばかり視線を落とす。その顔つきだけで、答える範囲を選んでいるのだと分かる。

 

「知っているな」

 

 ゼーリエが先に言った。《Hexblade(影の剣)》は思案する。ゼーリエがラジエルの名を口にした以上、彼はもうこの世界に来ていると読めるが、どこから情報を掴んだのかまでは見えない。問いは返さず、話を進める方を選んだ。

 

「記憶にある。だが、我が辿れるのは器が見聞きした分までだ」

 

「それでいい。まず、二人が出会った時の話を聞く」

 

 ゼーリエは、花壇の白い花へ目をやりながら問いを置いた。

 

「組織の中にいる間──タヴを封印しようとした時は、規範に従っているように見えたか?」

 

「見えた。少なくとも器が見た範囲では、命令から外れて動く様子はなかった」

 

「最初から命令を蹴って暴れるタイプではない、と」

 

「そうだ。従うふりでもなかった」

 

 ゼーリエはそこでひとつ頷き、間を置かずに次を問う。

 

「その上で、タヴはラジエルをどう見ていた?」

 

「好んではいないが、自分への扱いが雑だとは思っていない」

 

 答えは早かった。好き嫌いと評価を切り分ける言い方が、かえって記憶の輪郭をはっきりさせる。

 

「封じようとした相手にしては、妙な見方だな」

 

「実際、器を丁寧に扱っていた。訓練場で術を教える時、分からなければ言い換えた。詰まる場所も見ていた。必要だから教えたにせよ、手は抜かなかった」

 

「どんな術を教えた?」

 

 ゼーリエがさらに絞ると、《Hexblade(影の剣)》は顔を上げたまま答える。

 

「言葉の術だ。《Tongues(言語会話)》と《Comprehend Languages(言語理解)》は、ラジエルがタヴへ教えた」

 

 ゼーリエはそこで一度黙った。花壇の縁に置いた指先が、白い石を軽く打つ。

 

「それで終わりか?」

 

「少なくとも、我が断言できる記憶はそこまでだ」

 

 ゼーリエは問いを区切る。情で人を引く男かどうかを知りたいわけではない。しかし、教える時に手を抜かないなら、使う価値を見た相手へは責任も持つ──ゼーリエはそう判断した。

 

「お前の見解を聞きたい」

 

 ここから先は記憶の外へ踏み込んだ見立てが混じる。ゼーリエはそれを承知の上で聞く。

 

「綻びだけを塞いで引く男か。綻びの向こうに原因が見えたら、そっちまで掘る男か。未知の術や仕組みを前にしても、与えられた役割へ収まっていられる男か」

 

 彼女が聞きたいのはどんな魔法を使えるかではない。何を優先する魔法使いであるかだ。《Hexblade(影の剣)》は迷わず告げる。

 

「秩序を管理したがる性質ではない」

 

 低い声が、そのまま続く。

 

「だが、綻びの理由が道具ではなく、人の使い方にあると見れば、そちらへも手を入れる。計算が崩れれば、引かれた線ごと引き直す」

 

 淡々とした評価だった。褒めてもいないし、悪辣に塗りつぶしてもいない。ただ、厄介さの向きだけを切り分けている。

 

 ゼーリエは鼻で息を抜いた。

 

「やはり、そうか」

 

 ゼーリエは評価を頭の中で転がした。面白い、と感じる部分は確かにある。だが、そういう手合いほど書類の上では扱いづらい。

 

「帝国では、ラジエルを客分として扱っている。監視付きで、前線では助言と結界整備に回す。命令に正面から逆らう気配は薄い。そういう評判だ」

 

 《Hexblade(影の剣)》は眉をひそめる。帝国経由の評判だけをなぞるにしては、ゼーリエの言い方には、別のところから輪郭を拾ってきたような含みがあった。だが、彼女はその経路を明かさない。

 

「お前から聞いた話とも大きくは食い違わない。役割の中で動く。だが、役割が足りないと見れば、後からでも線を引き直す」

 

 ゼーリエはそこで言葉を切った。花壇の白い花へ視線をやり、間を置いて別の角度から問う。

 

「……ラジエルは、優しい魔法使いか?」

 

 《Hexblade(影の剣)》はわずかに目を細めた。問いの真意までは測りかねたらしく、答えは短い。

 

「優しくはないと思うが」

 

 ゼーリエはすぐに返さなかった。花壇の縁に置いていた指先が、そこで一度だけ止まる。白い花へ落ちた目は、しばらく動かなかった。水盤の揺れが小さく耳に残る。

 

「厄介だな」

 

 吐いた声は低く、冷ややかだった。

 

「そういう魔法使いは、放っておけば深く入ることになる。本人が望んでいなくてもな。役に立つと分かった瞬間、周りが放っておかない」

 

 白い花弁が一枚、石床へ落ちる。水盤の震えが、その薄い影を揺らした。外ではまだ人が動いている。

 

 ゼーリエはそこで、わざと一拍置いた。人物評のみで終える気はない。いまここで曖昧にした状態で札を切る方が、あとでよほど高くつくと分かっているからだ。

 

「北側諸国では、余裕のある手を寄越せという声が止まらない。難民の振り分けも、補給線の護衛も、綻びの調査も、どこも人手が足りない。そういう時に、異界の術まで扱える魔法使いの名が出れば、欲しがられないはずがない」

 

 《Hexblade(影の剣)》はその説明を遮らず、ゼーリエが独り言のように盤面を並べていくのを黙って聞いていた。

 

「そこでタヴの名も浮く」

 

 ゼーリエは自分で言って、口元を険しくした。

 

「位相アンカーを壊した実績があるからな。外の仕組みにも詳しい。現場の連中から見れば、欲しいに決まってる」

 

「だが、出せば燃える」

 

 《Hexblade(影の剣)》が低く返すと、ゼーリエは花壇の縁から指先を離して言葉を継いだ。

 

「そうだ。タヴを前へ出す話は、それだけで会議が荒れる。協会が抱えている異界人を北へ回すのか、誰の監督下に置くのか、失敗した時どこが火をかぶるのか。そこから決め直しになる。責任を押し付け合いながら、領主は自分の街道へ寄越せと言う」

 

 温室の外では、人と報告と催促が動き続けている。ここだけ切り離して静かにしても、盤面そのものが静まることはない。

 

「その点、ラジエルは動かしやすい」

 

 ゼーリエの口調は乾いていた。

 

「帝国の客分で、監視付き。しかも《Chosen(選ばれし者)》として、多元宇宙側から正式に寄越された異界対応の札だ。綻びや痕跡調査に結びつければ、『本来任務の延長だ』で話を通しやすい」

 

 彼女は少し間を置き、状況を整理しながら続ける。

 

「問題は、その延長をいくらでも膨らませられることだ。綻びを調べるなら周辺の安全も確保しろ、痕跡を追うなら街道も村も守れ。そうやって理屈を足していけば、異界対応がいつの間にかこの世界の内輪の始末にすり替わる」

 

 《Hexblade(影の剣)》は口を挟まなかったが、表情がわずかに硬くなる。

 

「別口では、『神技のレヴォルテ』をラジエルに討たせろという話まで出ている」

 

 神技のレヴォルテという名が出ると、《Hexblade(影の剣)》は眉を少し寄せた。

 

「その名は知らん」

 

「北部高原で暴れている魔族の将軍だ。いま向こうで派手に燃えている火種の一つだよ」

 

 ゼーリエは足元の石床へ目を落とし、そのまま言った。

 

「そこへラジエルを入れたら終わりだ。異界からの脅威に対処するための《Chosen(選ばれし者)》に、この世界の魔族討伐までやらせたと露呈すれば、『なら他の件にも多元宇宙側を使っていい』という前例になる。関係ない神々や組織まで『こちらも助力できる』と入ってくる口実を、自ら配るようなものだ」

 

 《Hexblade(影の剣)》は一度口を開きかけて、閉じる。ゼーリエの言い回しは、多元宇宙側の事情まで織り込んでいる。何を知っているか、直接聞いても答えないだろう。そう判断し、別のことを口にした。

 

「ラジエルを内部の戦や政治に利用したと見られれば、彼を寄越した『ミストラ』もいい顔はしないだろうな」

 

 ミストラの名をわざと置く。《Hexblade(影の剣)》は、ゼーリエがそこに引っかかるかを見た。

 

「それもある」

 

 ゼーリエは頷いた。返事に迷いはなく、聞き慣れない神名を受けた硬さもない。

 

 《Hexblade(影の剣)》は推測を一つ増やす。彼女は外から来た札の表面だけを見ているわけではない。魔法で覗いているのか、多元宇宙側に別の目を置いているのか。具体的な観測手段は分からないが、ラジエルの背後にある名まで把握している。

 

 思考を重ねる《Hexblade(影の剣)》をよそに、ゼーリエは次の話へ踏み込んだ。

 

「レヴォルテを斬るだけで終わるなら話は早い。だが終わらない。北部高原で《Chosen(選ばれし者)》を使った時点で、派遣理由の線が死ぬ。あとは『今回は特例だ』が積み上がっていく」

 

 名目が死ねば、次に揉めるのは現場ではない。諸国領主、商会長、教会司祭長、帝国貴族。誰が呼んだ、誰が許した、どこまでやらせるつもりだった──そういう押しつけ合いだ。

 

「しかも北ばかりに上の札を寄せれば、中央も黙っていない」

 

 ゼーリエの声が少し低くなる。

 

「リーゲル峡谷の方でも、異界絡みの痕跡は切れていない。表立って燃えていないだけで、薄くした瞬間に崩れる場所はいくらでもある。北へ上の札を寄せれば、今度は中央諸国が『こちらは捨てるのか』と騒ぐ。北だけ特別扱いしたと思われたら、それだけで別の火種が増える」

 

 《Hexblade(影の剣)》はその説明を黙って聞いたあと、別の芯だけを拾った。

 

「人間は、使えるものを欲しがる」

 

 《Hexblade(影の剣)》がそう言うと、ゼーリエはすぐに返した。

 

「欲しがるだけならまだいい。面倒なのは、その理屈を外の言葉で飾り立てることだ」

 

 言葉を重ねるうちに、彼女の口調はさらに硬くなる。

 

「領主と協会と帝国の調整だけでも面倒なのに、外の理屈が説明もなく食い込んでくる。無責任な判断を『神がそう言った』、『外の敵がそうさせる』で正当化されるのが、一番腹立たしい」

 

 戦場で死ぬなら誰の責任か。派遣を決めたのは誰か。何をさせるつもりで出したのか。そこを曖昧にしたまま札だけ欲しがる連中ほど、あとで揉めるとゼーリエは知っていた。

 

 温室の扉の向こうで、控えていた足音が一度だけ近づき、止まった。報告か確認か、その類いだろう。ゼーリエは顔も向けない。今は入るな、という沈黙だけで十分に通じる。

 

 しばらくして、《Hexblade(影の剣)》はゼーリエの言葉に答えた。

 

「外の悪意に対処するために、外から正しさを見境なく持ち込まれれば、収拾がつかなくなる。我が主もそれを望んでいない。むしろ善意で盤に手を入れられる方が、厄介な場合もある」

 

 ゼーリエはそこで短く笑う。好意ではなく皮肉の笑いだ。

 

「救いの顔で来られると追い返しづらい。さらに受け入れた後の片づけはこっち持ちだ」

 

 《Hexblade(影の剣)》はその言葉を否定しない。

 

「断りづらい介入ほど、跡が残る」

 

 ゼーリエは笑みを消して告げる。

 

「だから線だけ引く」

 

 彼女は声音をすぐに戻した。

 

「位相の綻びと結びついている。あるいは、外の勢力と明確に手を結んで動いている。そういう証拠が出るなら、外から来た札を切る理由になる」

 

 抽象で済ませず、ゼーリエは一つずつ置いていく。

 

「だが、ただ兵が足りない、街道が荒れている、領主同士が押しつけ合っている──そんな話にまで、お前やラジエルを混ぜる気はない」

 

 兵が足りないだけなら、内側の手当てで回すべきだ。そこへ外から来た札を混ぜれば、話が大きくなるばかりでなく、あとで責任まで散る。ゼーリエはその順番を崩す気はなかった。

 

 《Hexblade(影の剣)》は、その線引きには素直に肯いた。

 

「人間の都合だけで壊れかけた盤面にまで、器やラジエルを混ぜたくないのは、我も同じだ」

 

 ゼーリエは短く鼻で笑う。

 

「そこだけは一致したな。全く嬉しくないが」

 

 笑いは一瞬で消えた。ゼーリエは一度扉の方へ目をやり、すぐに《Hexblade(影の剣)》へ向き直る。

 

「お前が動くときは、協会が何を抱えているのかまで含めて探られる。実績も不安も反発も、全部まとめて付いてくる」

 

 花壇の縁へ落ちた花弁を一瞥し、ゼーリエは続けた。

 

「覚えておけ。私の弟子は、お前の道具でも神々の道具でもない」

 

 声の調子は冷えていたが、北の支援だの責任の所在だのと切り分けていた時とは違い、その一言だけは妙に短い。理屈の棚へ上げず、弟子のことだけを先に口にした。

 

 《Hexblade(影の剣)》は短く顎を引いた。大陸魔法協会という看板を掲げていても、監視も、人選も、線引きも、ゼーリエが自分の責任で決める気でいる。

 

 全員が絶対服従しているわけではないのだろうが、最後の判断が一人へ集まるなら、諸国と揉めるのも無理はない。

 

「理解している」

 

「なら余計なことはするな」

 

 言い切ってから、ゼーリエは視線を温室の出口へ向けた。誰も通さずに待たせている足音の主、その向こう側で積み上がっている催促や探りや噂までを、まとめて見ている目だ。

 

「見る相手を増やす」

 

 今度は独り言ではない。方針の確認だ。

 

「お前だけじゃない。ラジエルだけでもない。北部高原へ入れろと都合よく言い始める手の方も見る。帝国経由で探りを入れている連中も、北方支援の名目で上の札を欲しがっている領主もだ」

 

 本人が前へ出る気がなくても、役に立つと分かった瞬間に、周りが勝手に盤へ乗せる。噂が走り、口約束が増え、気づけば既定路線になる。そういう動きは、駒より先に卓を囲む指に出る。ゼーリエはそれを何度も見てきた。

 

「そっちを見誤ると、神や怪物が来る前に人間だけで世界が壊れる」

 

 《Hexblade(影の剣)》は同意したように頷く。温室の空気は、判断が固まったぶんだけ少し軽くなった。仕事が減ったわけではない。花の傷みも戻らない。それでも、どこへ刃を入れるかが決まれば、次にやることは明瞭になる。

 

 ゼーリエは「……まったく」と小さく呟き、最後に吐き捨てるように言った。

 

「面白い魔法使いというのは、どうして揃いも揃って、余計な書類を増やすんだ」

 

 《Hexblade(影の剣)》は、その愚痴には口を挟まなかった。

 

 *

 

 リーゲル峡谷の地下拠点は、夜になるといっそう静かだった。地上の風音は岩盤と封鎖扉に削られ、最奥まで届く頃には遠い地鳴りのような震えに変わっている。湿った石と薬液、洗い流したばかりの鉄の匂いが混じる実験室の中央で、一体の魔族が拘束具に繋がれて立っていた。

 

 額から短い角を伸ばし、顔立ちだけ見れば人間とほとんど変わらない。角をフードや帽子で隠されれば、人間とほとんど見分けがつかないだろう。

 

 床には銀線と黒い墨で二重の円が刻まれ、その外側には、小ぶりの鳥籠めいた銀檻が三つ置かれていた。三つの檻の前にはそれぞれ赤の魔道士がひとりずつ立ち、記録卓の脇にふたり、拘束具の鍵を預かる者がひとり控えていた。六人の魔道士に囲まれた円陣の外で、セヴェルスが魔族の正面に立っていた。

 

 魔族の目は、すでに鈍い焦点の状態で固定されていた。まばたきも乏しく、正面に立つセヴェルスから視線が外れない。地上からこの拠点まで歩かせてきたあいだ、セヴェルス自身が《Dominate Monster(怪物支配)》を切らさず繋いでいたからだ。

 

 実験台の脇には儀礼短剣が一本のみ置かれている。セヴェルスは支配の糸をさらに締めるように、念話で短く命じた。

 

【自ら喉を裂け】

 

 魔族は一瞬もためらわず、短剣を拾い上げた。刃が喉へ押し当てられ、皮膚が裂ける音が小さく鳴る。血が噴き上がるより先に、黒ずんだ粒になってほどけた。同時に、檻の前にいた三人が《Soul Cage(魂の檻)》を起動する。銀檻の格子が白く光り、内側へ向かって扉が閉じかけ──そのまま止まった。

 

 何も満たされず、檻だけが震えている。

 

 魔族の身体は膝から崩れた。倒れ込んだ時には、もう肉の重さが失われている。骨も皮も衣も、魔力の粒となって空気へほどけて消えた。後に残ったのは、空の状態で微かに唸る三つの銀檻だけとなる。

 

 誰も言葉を挟まなかった。記録卓にいたひとりが消失を見届け、もうひとりが記録板へ書きつける。残る一人は拘束具の鍵を回収し、三人はなお銀檻の反応を見ている。

 

「保持せず。閉鎖不成立」

 

「魂の応答なし」

 

「残留時間、零に近い」

 

 最年長の魔道士が、オルクスの名を口の中で唱えてから、すぐに消失までの秒数を量り始めた。祈りも驚愕も、その手を鈍らせはしない。興味が向けられているのは死そのものではなく、保持秒数と閉鎖率だった。

 

 その声を聞きながら、セヴェルスは最初に開いた状態の檻の扉を指先で押した。かちり、と乾いた音が鳴る。

 

「術が失敗したのではない。術が想定している対象ではないことが原因だ」

 

 セヴェルスがそう言うと、記録役の魔道士が即座に文言を書き改める。全員が、いま失われた一体を標本以上として見ていない。

 

 セヴェルスは何も残っていない床面と三つの空檻を見回した。

 

「記録と檻を持て。隣で照合する」

 

 六人はすぐに動いた。空の銀檻と記録板がそれぞれ運ばれ、セヴェルスは先に立って隣室へ入る。壁一面の棚に銀檻が並び、その下には水薬の満ちた硝子槽が幾つも据えられていた。

 

 いくつかの槽には、《Clone(複製体)》で作られた未完成の仮身が眠っている。鼻も口もまだ浅く、皮膚の色も定まらない。別の卓には《Magic Jar(魔法の壺)》用の宝飾を施した小箱、《Planar Binding(他次元クリーチャー使役)》のための上質な宝石といった呪文で用いる素材が整然と並べられている。

 

 壁際の棚には、捕獲に失敗した過去の銀檻が札付きで残されている。何も入っていないはずなのに、耳を近づけると、まれに乾いた風のような音が鳴るものがあった。誰かが捨てようと提案し、セヴェルスが却下した品だ。空であることにも観測価値がある。

 

「結果をまとめよ」

 

 セヴェルスが言うと、若い魔道士が羊皮紙の束を広げた。彼の声には興奮が滲んでいたが、セヴェルスの前では抑え込まれている。

 

「前回の実験において、《Magic Jar(魔法の壺)》は憑依段階へ移る前に接続が断ち切られました。《Planar Binding(他次元クリーチャー使役)》は結びの第一環のみ反応しました。最後まで閉じはしませんでしたが」

 

 彼は二枚目の記録をめくった。

 

「《Dominate Person(人物支配)》は対象不一致で術が成立しませんでした。対して《Dominate Monster(怪物支配)》は成立しました。《Soul Cage(魂の檻)》はご覧の通りです」

 

「ゆえに?」

 

 問い返され、若い魔道士は背筋を伸ばした。

 

「少なくとも、魔族は人型生物ではありません」

 

 セヴェルスは記録板の余白を指でなぞった。採取欄は今回も空欄のままだ。

 

「こちらの分類で見れば、下方次元のフィーンドに近い可能性はある。だが完全一致とはまだ言えん。対象条件の噛み方から導けるのは、人型生物として扱えない、そこまでだ」

 

 別の魔道士が口を開く。

 

「魂の保存が難しいのであれば、生け捕りにして身体の一部を切り取り、仮身の材料にするのは?」

 

「無理だ」

 

 セヴェルスの答えは即座だった。

 

「本体から切り離した部位は、長く持たん。肉も骨も、しばらくすれば魔力の粒になって消える。仮身へ載せる前に失われる。であれば、材料として狙うべきは死後の残留だけだ」

 

 その言葉を受けて、卓の端にいた魔道士が首を傾けた。

 

「数を集めて殺せば、いずれ濃い残留が拾えるのでは?」

 

 セヴェルスは視線だけでその案を切った。

 

「今しがた見ただろう。弱い魔族は消えるだけだ。死後に魔力の粒へ崩れて消える点は強い魔族も同じだが、通常の個体は世界へ焼き付くほどの密度を残さん。後から拾えるのは、戦場の構造そのものを変え、術式の痕が何十年も消えぬ強力な個体だけだ」

 

 彼は壁際の棚から、灰色の石板を一枚取り上げる。そこには幾重もの観測記号と、人型の輪郭が刻まれている。グレーセ森林で記録された、クヴァールの写し身の発現記録だった。

 

「こちらは進んでいる」

 

 石板を卓に寝かせると、複数の視線が一斉にそこへ集まった。刻線の中央には、太い腕を持つ魔族の輪郭と、その右手から伸びる一本の射線が残されている。端には、着弾した対象が灰へ崩れ、その後すぐに写し身自体も保てなくなった時刻が細かく刻まれていた。

 

「理由は封印期間の長さではありませんか」

 

 魔道士のひとりが言う。

 

「封印されていた年月が長いぶん、痕跡も──」

 

「違う」

 

 セヴェルスは言下に否定した。

 

「年月は研究時間だ。解析可能性の直接原因ではない。クヴァールが読みやすいのは、《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》が外へ開いた術式だからだ。人間にまで理解され、変形され、一般攻撃魔法の体系に落ちた。その分、こちらが逆算に使える資料が多い」

 

 彼は石板の横に三枚の記録紙を並べる。ひとつはグレーセ森林で採取した封印跡の拓本。ひとつは人間側に普及した攻撃魔法の解析図。もうひとつは、現地で実施した野外試験の記録だ。

 

「封印期間。人類側の解析史。強力な本体性能。この三つが重なるから、写し身の骨格が閉じる。世界そのものが、あの魔族の輪郭を保存していると言い換えてもいい」

 

 記録板の端には、別の文字で追記があった。写し身が最後に放った緑光が目標を灰に変え、その直後に崩壊したという記述だ。

 

「ただし完成ではない」

 

 セヴェルスは付け加える。

 

「あれは本来の《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》を完全に再現したものではない。最終層がどうしても閉じん。ゆえに欠けた部分を《Disintegrate(分解)》で埋めている。威力はあるが、無理に繋いだせいで保ちが短い」

 

「ならば次は、人格片を──」

 

「不要だ」

 

 セヴェルスの声が被さった。

 

「兵器として使うなら、貫通術式の核だけで足りる。人格の再演に資源を回すな」

 

 納得と不満が入り混じった沈黙が落ちた。セヴェルスは次の記録板へ手を伸ばす。今度は黒い円環と、天秤めいた図像が大きく描かれている。断頭台のアウラだ。

 

「こちらは逆だ。外見と周辺現象は集まる。肝心な核がない」

 

 石板の周囲には、戦場で聞かれた壊れた囁き、生命力を奪う場の広がり、従属死兵の変質、そして《服従の天秤》の図像がびっしり記されていた。ひとりの魔道士が、慎重に言葉を選んで問う。

 

「《服従させる魔法(アゼリューゼ)》の結果だけが見えて、過程が欠けている、と?」

 

「その通りだ」

 

 セヴェルスは指で石板の中央を叩いた。

 

「我々は天秤を見た。従属した死者を見た。生命を削る場も見た。しかし、相手の魔力を量る段階が見えない。比較し、優劣を確定し、命令を通す、その最奥だけが記録に残らん」

 

 別の魔道士が不快そうに顔をしかめる。

 

「見えないのではなく、人間の理屈に落ちてこないのでは?」

 

「その可能性は高い」

 

 セヴェルスは即答した。

 

「《服従させる魔法(アゼリューゼ)》が人の理の外にあるなら、穴を我々の理屈で埋めようとしても届かん。だからアウラの写し身は、姿と周辺効果は持てても、本体性能だけが載らない」

 

 彼は石板の余白に書き込まれた戦場証言を指でなぞった。幼子のような壊れた囁き。吊り上がる兵士の身体。従属死兵では説明しきれない変質。

 

「見えているものが多いほど、欠けているものの輪郭も濃くなる。アウラはまさにそれだ」

 

 彼は視線を上げて静かに語る。

 

「失敗ではない。届かない場所が、どこにあるかが分かった。それだけで次の計算に入れる」

 

 セヴェルスの言葉に先ほどの魔道士は何も言わない。セヴェルス自身は気にも留めない。理の探究において最初から答えがあることの方が少ない。重要なのは問い続けることだ。

 

 その時、背後の机で記録を整理していた魔道士が、封筒を一つ取り出して差し出した。

 

「追加資料です。夢界で接触した魔族から拾った概念断片と、同志から届いた現地伝承の照合結果がまとめてあります」

 

 中には荒い筆致の走り書きと、地方ごとの伝承を抜き出した紙片が入っていた。鏡。墓。古い賢者。死を拒む知識。本人ではないのに本人同然に振る舞う複製。セヴェルスは一枚ずつ読み進め、途中で手を止める。

 

「《零落の王墓》か」

 

「はい。そこに《水鏡の悪魔》がいるという伝承です」

 

 名を口にした魔道士の声には、抑え切れない高揚があった。

 

「夢界で拾った断片には、鏡、墓、古い賢者、死を拒む知識、本人ではないものが本人同然に動く複製が、何度も同じ束で現れています。そこへ北方伝承を重ねると、《水鏡の悪魔》、《支配の石環》、不死と蘇生の噂を残した『エーヴィヒ』が一本に繋がる。魔族の精神へ届く道具と、魂なしで配列を写す複製原理が、同じ古代の名の周りへ集まりすぎています。神話時代から多元宇宙と接触していた証左では──」

 

「そこで止まれ」

 

 セヴェルスの声が落ちた。大きくはない。しかし、室温が一段下がったように感じさせる硬さがあった。

 

「証左と呼ぶには軽い。繋がる可能性があるだけだ。神話時代に外の理へ触れた者がいたのか、それとも同じ真理へ別の道から辿り着いたのか、現時点ではどちらとも言えん」

 

 彼は紙片を伏せ、話を続ける。

 

「《支配の石環》が事実なら、それは魔族の精神へ届く経路がこの世界に既に存在したことを示す。だが精神へ届くことと、本質を再現できることは別だ」

 

 興奮していた魔道士が唇を引き結び、黙って頭を下げた。セヴェルスはそれ以上責めない。

 

「ただし、有用だ。魂を捕らえ、器へ縫い止める方へ偏りすぎた我々の研究に、この世界は別の先例を差し出している。心を伴わずとも、配列だけで精密な模倣が成立するなら、写し身の完成度は一段上がる」

 

 沈黙の後、誰かが低く言った。

 

「では、我々がいま扱っているのは蘇生ではなく……」

 

「残り火の接続だ」

 

 セヴェルスは言い切った。

 

「討伐済みの強い魔族が死後なお世界へ残した魂と情報の残り火を拾い、仮身へ繋ぐ。死体ではない。完全な蘇生でもない。そこを見誤るな」

 

 彼は卓の端に置かれた地図を開く。中央諸国から北へ向かう山脈と街道、そのさらに先の墓所群と魔族の出没地域が赤い線で結ばれている。

 

「タヴはなお最短手だ」

 

 彼は地図の一点に指を置いた。

 

「封印を壊すなら、あれ以上に速い手はない。だが、唯一ではない。魔族研究は別の仕事を持つ」

 

 セヴェルスは地図から目を上げ、並ぶ魔道士たちを見た。

 

「魔族はこの閉じた世界の根に深く食い込んでいる。死後残留と再構成の条件を解ければ、封印が何を内側と認識しているか、その文法に触れられるかもしれん」

 

 そこで初めて、セヴェルスの口角がわずかに上がった。笑みと呼ぶには冷たすぎるものだった。

 

「タヴは扉を壊す手段。魔族研究は扉を読む手段だ」

 

 その言葉が落ちると、室内の空気が変わった。何人かは興奮を隠しきれずに呼吸を浅くし、何人かは逆に顔色を失った。対象を理解するためではない。世界の境界を読むために、魔族の存在様式を解体しようとしている。机の縁を握る指先が、目に見えて白くなった。

 

 ひとりがなおも食い下がる。

 

「それでも、結局はタヴを押さえるのが先では?封印破壊に最も近い手段を差し置いて、遠回りをする理由がありません」

 

「遠回りではない」

 

 セヴェルスは地図へ目を落とし、現在の拠点から北の山地へと指を移した。

 

「タヴに依存した状態では、我々の侵入も破壊も偶然に縛られる。暴走という一回限りの破砕へ賭けるだけでは、術として残らん。だが、封印が何を内側と見なし、何を外側として弾いているかを読めれば話は変わる。《次元穿孔》は再現可能な文法になる」

 

 その言葉に、若い魔道士の目の色が変わる。セヴェルスは顔を上げずに続けた。

 

「タヴが壊すのは結果だ。魔族研究が読むのは条件だ。条件を得れば、結果は何度でも設計できる」

 

 誰も口を挟まない。何人かは目を伏せ、何人かは地図を見たまま動かなかった。

 

「北へ移る。標本となる魔族が多く、強い個体の残り火も中央諸国より拾いやすい。《零落の王墓》もある」

 

 指先が北の山地から墓所群へ移る。

 

「生きた個体で分類を詰める。濃い残り火で写し身を進める。《水鏡の悪魔》の理屈も拾う。記録と器材をまとめろ。今夜のうちにここを畳む」

 

 セヴェルスが言い終えると、全員が動き始めた。棚から空の銀檻が外され、仮身を眠らせた硝子槽には封印具と緩衝布が掛けられ、石板と記録箱が封印布で包まれていく。壁際では黒い布が石床へ広げられ、その上に《Portable Hole(携帯用の穴)》が開いた。

 

 包み終えた石板と記録箱、外した銀檻、封を掛けた硝子槽はその暗がりへ順に沈められ、誰かが床に残った術式痕を最後まで拭い、別の誰かが実験円の銀線を剥がした。室内の明かりが一つ、また一つと消される。

 

 壁際では方位札と道具箱が整えられ、北行きに不要な器具へ火を入れる準備まで始まっていた。ここは捨てる前提の拠点だ。研究の場であると同時に、痕跡を残さず移るための殻でもある。

 

 残ったセヴェルスは、閉じられた銀檻を手に取った。さきほどと同じ、何も入っていない小さな檻だ。彼は扉を開き、中の空白を一息のあいだ見つめて告げた。

 

「北で問いを立て直す」

 

 地下拠点の最奥にその声だけが残り、やがて荷運びの足音が闇へと続いていく。リーゲル峡谷に残されたのは、空になった実験室と、銀の小檻の冷たい手触りが残る。

 

 何が魔族を魔族たらしめ、何がこの世界を内側として閉ざしているのか。その問いそのものが、形を変えていた。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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