夜明け前の南門では、厚い門扉の片側だけが開かれていた。
城壁の上には夜警の灯が残り、門外の街道はまだ青黒い。荷車の轍に張った薄氷を兵士が靴で砕き、出立用の馬へ最後の荷を括りつけている。夜半に届いた封書で呼び出された護衛たちは、当初とは違う門の下に並び、互いの顔と装備を確かめていた。
ラジエルが門楼の影へ入ると、フラーゼは書類入れを抱えて待っていた。出立前に作り直した《Simulacrum(似姿)》は、背丈も顔立ちも、蒼銀のローブと過剰な装飾までラジエルと同じだ。丸い眼鏡の奥の視線が、青黒い影に並んだ二人を一度だけ往復した。
ただ、二人が見ている先は重ならない。ラジエルがフラーゼと書類へ目を向ける間、似姿は護衛の靴底、荷の結び目、門外の斜面を順に見ていた。
門柱の側には、黒に近い長衣を着た年嵩の魔法使いが立っている。肩には幅広い白襟が重なり、茶褐色の髪は後ろへ撫でつけられていた。胸元まで伸びた厚い髭と、左眼の片眼鏡が薄暗い門下でも目立つ。
フラーゼはラジエルがそばまで来るのを待ち、その男を示した。
「ラジエル殿。こちらがデンケン殿です。今回の同行監視を担当していただきます」
ラジエルはデンケンに一礼した。
「デンケン殿、お目にかかれて光栄です。ラジエル・サン=エリオスと申します。この国ではまだ、知らずに礼を欠くこともありましてね。地理や軍の流儀で気づいたことがあれば、遠慮なく教えてください」
「デンケンだ。では儂も、異界の仕組みで分からぬことは遠慮なく聞かせてもらおう」
「ええ。互いの疑問を幾つか減らせそうですね」
デンケンはラジエルの隣へ視線を移す。
「こちらが、報告にあった複製体か?」
似姿は短く会釈した。
「はい。今回の行程にも同行します」
「分かった」
フラーゼは挨拶が途切れたところで、変更後の行路図と名簿を開いた。昨夜まで使われていた紙とは別に、門外の分岐だけを書き換えた新しい図が重ねてある。
「出立を二刻早め、集合場所を南門へ移しました。門を出た後は予定の街道を使わず、旧街道へ入ります。護衛十名のうち、随行魔法使い一名と兵士一名も差し替えました」
旧街道の図は、その場で初めて護衛隊長へ渡された。帝都から離れた後の宿営候補と、北部高原へ入る手前の合流地点までしか記されていない。隊長は図を開いたまま、先頭と後衛の間隔、荷馬の位置、異常が起きた時に戻る門を確認する。
護衛隊長が名簿を読み上げ、呼ばれた者が順に返事をした。差し替えで加わった随行魔法使いは濃灰の外套を着ており、その隣では、まだ革の硬さが残る軍靴を履いた若い兵士が背筋を伸ばしている。
護衛隊長はロングソードと盾を携え、兵士七名のうち四名はスピアと盾、三名はヘヴィ・クロスボウを持っていた。二人の随行魔法使いがその内側に立つ。隊長を含め、名簿どおり十名が揃った。
デンケンは変更後の名簿を正文へ重ねた。二枚の紙の端を揃え、差し替えられた名と、旧街道へ入る位置を確かめる。
「陛下は、この行路と差し替えまでご承知か?」
「派遣、任務範囲、護衛、デンケン殿の同行まではご裁可を得ています。今朝の運用変更は、私の責任です」
「そうか」
フラーゼは旧名簿を二つに折った。脇に控える書記官が手を出したが、そこへは返さず、自分の書類入れへ収める。
「途中で追加命令が届いても、正文の範囲を越える内容なら従わないでください。私の署名があっても、まず帝都へ照会を」
「自分の署名まで疑わせるのか?」
「現地で正文を変える権限は、私にもありません」
デンケンは新しい名簿を閉じ、正文と一緒に内ポケットへ入れた。
「……いいだろう。戻ったら、この変更の理由は聞かせてもらう」
「はい。経緯は私からご説明します」
ラジエルは問答へ加わらなかった。似姿は門外へ顔を向け、先に開いた道の左右を見ていた。
隊列は護衛隊長の合図で南門を出た。先頭に兵士二名、その後ろへラジエルとデンケンが入り、荷馬と残る護衛が続く。似姿はしばらくラジエルの隣を歩いた後、隊列の後方へ下がった。
城壁が街道の曲がりへ隠れる頃になっても、東の空はまだ白み始めたばかりだった。凍った土を踏む音が揃い、吐く息が隊列の上へ流れていく。
「先ほどの変更について、デンケン殿は事前に何かお聞きになっていましたか?」
ラジエルが歩調を変えずに尋ねると、デンケンは前方の斥候から目を離さなかった。
「いや。集合時刻と門を変える封書が来たのも夜半だ。旧街道と二人の差し替えは、今朝初めて知った。それと、ラジエル殿。儂にまで、そこまで畏まらずともよい。監視役ではあるが、上官ではないからな」
「それはありがたい。では、デンケン。僕のこともラジエルと呼んでくれ」
「分かった、ラジエル。儂のこともデンケンでいい」
ラジエルは南門のあった方角を振り返った。城壁はもう尾根の陰に隠れ、監視塔の上部だけが薄明の中へ突き出している。
「では改めて。フラーゼが何を警戒しているのか、君にも分からないんだね?」
「分からん。分からぬ以上、最初から誰か一人を敵とも味方とも決めるつもりはない」
「僕もそうするよ」
前方の兵士が右手を上げ、旧街道へ分かれる細い坂を示す。一行は整備された道を外れ、霜に埋もれかけた轍へ入った。
旧街道は、最初の半日だけでも足場の変化が多かった。崩れた石畳の間から根が張り出し、低い場所には凍った水が残っている。隊列は歩幅を狭め、先頭と最後尾が互いを見失わない速度まで落とした。
隊列の歩みが落ちたのを機に、ラジエルと似姿はそれぞれ蓋付きの小さな香炉を荷へ固定した。炭の上へ香と香草を置き、歩きながら《Find Familiar(使い魔獲得)》の儀式を始める。
同じ顔が隊列の前後へ分かれ、よく似た声で長い呪句を重ねていく。ラジエルが一節を伸ばす間に、後方の似姿は短く切り、次の節へ進んだ。香炉から立つ細い煙も、前は右へ、後ろは左へ流れる。護衛たちは魔法そのものより、二人が異なる調子で儀式を進めていく様子を何度も振り返った。
一時間近く続いた声が止むと、前方の煙から褐色の梟が羽を広げた。後方では黒い鴉が似姿の腕へ降り、首を傾けて隊列を見回す。
差し替えで加わった若い兵士が、前後の同じ顔を見比べた。
「声だけでは、どちらがどちらか分かりませんでした」
ラジエルは梟を左腕へ止まらせる。
「今は梟と鴉だ。少しは見分けやすくなっただろう?」
前方でラジエルが腕を上げると、梟はほとんど羽音を立てずに飛び立ち、薄暗い樹間へ入った。
「梟は暗い場所でも先まで見える。羽音も小さいから、前方を探らせるのに向いている。僕は前を見るよ」
似姿が後方の街道を指すと、鴉は高く上がり、そのまま来た道へ旋回した。似姿も隊列の最後尾からさらに数歩下がる。前後へ広がった距離を見て、護衛隊長が似姿を呼び止めた。
「後ろで何か見つけた時、こちらまで知らせられるか?」
「短い音なら、鴉に真似させられる。合図を決めれば、後ろからでも返せるよ」
護衛隊長はそこで腰の警笛を外し、似姿へ見せた。
「これでもいいか?」
「試してみよう」
警笛の鋭い一音が樹間を走る。遠ざかっていた鴉が首を伸ばし、短い間を置いて同じ音を返した。
「使えるな。三度を警戒の合図にする」
護衛隊長の親指が警笛の吹き口を塞いだ。デンケンは前方の梟と、後方へ旋回した鴉を見比べ、最後尾の似姿へ声を掛けた。
「使い魔の役割分担は、ラジエルと事前に決めていたのか?」
似姿は樹間へ消えた梟の方を指した。
「いや、自分で決めた。前はあちらの梟が見ている。僕まで重ねるより、空いている後ろを見た方がいい」
デンケンは先頭寄りを歩くラジエルへ、今度は声を張った。
「そこまで任せているのか?」
「任せているよ。あれこれ命じすぎると、想定外の時まで僕の返事を待つようになる。咄嗟に動いてほしい場面で、それでは困るからね」
午後になると、旧街道は岩の間を縫う上りへ変わった。先頭の歩みは崩れなかったが、若い兵士の右足だけが、着地のたびにわずかに外へ流れ始める。本人は列を乱さず、遅れも作らない。
次の岩陰へ入ったところで、デンケンが護衛隊長を呼び止めた。
「ここで一度休ませろ。先の水場までは距離がある」
「まだ予定より早いですが」
「だから止められる。日が落ちてから足を潰すよりいい」
休止の声とともに、荷が次々と岩際へ下ろされた。水筒が列の後ろまで回っていく傍らで、若い兵士は岩へ腰を預け、右の軍靴を脱いだ。硬い革と擦れた踵の間から、赤く剥けた皮が覗く。周囲の視線が集まると、彼は顔を伏せ、布を巻いて靴紐を締め直した。
デンケンは何も言わず、広げた地図で次の水場と日没までの距離を測る。若い兵士の足には触れず、再出発の時刻だけを護衛隊長へ伝えた。
ラジエルは梟へ水を含ませながら、そのやり取りを横から見ていた。似姿は戻ってきた鴉を肩へ止め、後方に人影はないと告げる。休止は予定より少し長くなったが、若い兵士は再び列へ入ると、先ほどまでよりまっすぐ足を運んだ。
初日の夜、一行は涸れた小川の脇へ野営した。ラジエルが梟を進行方向の木立へ回す一方、似姿は鴉を越えてきた尾根へ返す。二羽が前後へ離れていく間に、護衛隊長は焚き火の位置を決め、見張りの順を組んだ。
ラジエルは焚き火のそばに立ち、似姿も数歩離れた位置で同じ方向を向いた。ラジエルが主術者として《Leomund's Tiny Hut(レオムンドの小さな小屋)》の術句を唱え始めると、似姿は次の節から声を重ね、自分の魔力を一つの術へ送り込んでいく。二人の詠唱が一分ほど続く間に、護衛隊長は残る九人を焚き火の周りへ集め、休む者の武器が一方へ偏らないよう並びを整えた。デンケンもラジエルの側へ腰を下ろす。
似姿から流れ込む魔力を受け、まだ見えない境界は本来の位置より外へ押し広げられていった。最後の術句が結ばれると、半径六メートルほどの半球状の力場が一行をまとめて包む。焚き火を渡っていた夜風が途絶え、護衛たちは内縁へ毛布を敷いた。似姿は透明な曲面を抜けて尾根寄りの外周へ出ると、小屋の外から鴉の視界を追う。内側では、ラジエルが梟の捉えた前方の景色を交代の者へ伝えていた。
その夜は、梟にも鴉にも街道へ近づく影は映らなかった。東の空が白む頃、一行は毛布を畳み、涸れた小川から旧街道へ戻った。朝の冷気が薄れるまで歩き続け、正午前には尾根道と涸れ谷の分岐へ着く。帝国側の地図では、どちらも半刻ほど先で同じ街道へ戻る。尾根は見通しが利く代わりに北風を受け、涸れ谷は風を避けられるが、両側の斜面が高い。
ラジエルは路肩へ布を広げ、銀の線を刻んだ骨片を並べた。尾根へ進んだ直後の三十分に何が待つかを問い、《Augury(吉凶占断)》の儀式を行う。骨片は風に動かず、二つの印を上へ向けて止まった。
「吉凶だ」
似姿は骨片を受け取り、今度は涸れ谷を選んだ場合の三十分を問う。似た指が同じ骨片を落としたが、止まった形は一つだけだった。
「凶」
ラジエルは梟の視界で尾根の先を確かめ、似姿は鴉を谷の上へ回す。二つの道を示す地図は、雪の上に開かれたままだった。
梟と鴉から届く景色では、尾根側に古い轍が一本残り、途中で崩れた路肩を避けるように曲がっている。谷側は地面が乾いていたが、斜面の上には新しく落ちた石が幾つか見えた。風は尾根から谷へ流れ、匂いも音も谷底へ集まる。
デンケンの指が地図の谷筋で止まった。
「尾根は吉凶、谷は凶。谷を選ぶ理由は薄そうだ」
「谷は両側から射線を通せる。尾根なら、僕の梟も先まで見渡せる」
デンケンの指先が、谷筋から尾根の線へ戻る。
「吉凶なら、尾根にも凶事はあるのだろう?」
「ある。何が利益で、何が害かまでは教えてくれない。崩落を避けた先で敵を見つけるのかもしれないし、危険な場所を通る代わりに時間を稼げるのかもしれない」
「魔法が示したのは、尾根が安全だということではないわけだな」
「そういうことだよ。だから鳥と地図が要る」
デンケンは尾根道の途中にある細い屈曲部へ指を滑らせた。
「では尾根へ行こう。同じ魔法で二つの道を比べても、答えは同じ形にはならんのだな」
「未来を地図のように見せる魔法ではないからね。問いの切り方で、返ってくる輪郭も変わる」
「尾根へ入った後は、また別の問いを立てるのか?」
「必要ならね。進むか止まるか、条件を一つずつ削っていく」
デンケンは地図を開いたまま、尾根と谷へ順に指を置いた。
「答えを受け取る魔法というより、問いを研ぐ魔法か」
「面倒だろう?」
「すぐに答えが出ないからこそ、追う価値がある。魔法は、追い求めている時が一番楽しい」
ラジエルは骨片を袋へ戻した。
「それなら、君とは話が合いそうだ」
隊列は尾根へ入った。梟が前方の屈曲を越え、鴉は谷側の斜面を並行して飛ぶ。先頭の兵士は崩れた路肩ごとに足場を確かめ、後続も一人ずつ同じ箇所を越えていった。
屈曲の先には、道幅いっぱいに薄い石板が伏せられていた。土をかぶせた表面にも轍が続く。先頭の兵士がスピアの石突きで端を押すと、板が傾き、その下に人の腰ほどの空洞が口を開けた。古い崩落を塞いだだけにも見えるが、荷馬が踏めば脚を取られる深さがある。
護衛隊長は板を外させ、岩片を詰めて通路を狭く作り直した。涸れ谷の斜面では、鴉が飛び立たせた小鳥の群れが一方向へ逃げる。上から落ちた小石は乾いた谷底を打ち、その音が長く反響していた。どちらの光景も、骨片が何を吉とし、何を凶としたかまでは教えなかった。
尾根を越えた後の休憩で、デンケンは次の行程を地図へ書き込んだ。任務の道筋は北部高原で終わる。そこから別に引いた細い線は南東へ戻り、オイサーストで止まった。
「任務の後は、オイサーストへ向かうのかい?」
「ああ。一級魔法使い選抜試験を受ける」
「この行程の後で、間に合うのかい?」
「間に合わせる。儂が望んで受ける試験だからな」
デンケンは任務線の脇へ、試験までの残り日数を書き添える。
二日目の午後、尾根から下ると、道は土の固い平坦地へ出た。護衛隊長は先頭を止め、板を外すのに使った縄を点検させる。兵士たちが荷を下ろす横で、似姿は道の端へ膝をついた。
休止の間、似姿は土の上へ指先を巡らせ、低い術句と手順を十分かけて重ねた。最後の術句に応じて《Tenser's Floating Disk(テンサーの浮遊盤)》が形を取り、薄い力場の円盤が空中へ浮かぶ。直径も、地面からの高さも一メートルに少し届かない。
再出発の声で、兵士たちの肩へ荷が戻る。ラジエルは浮遊盤へ腰を下ろし、片脚を組んだ。似姿が隊列の前寄りへ歩き出しても、円盤だけは道端に留まっている。間隔が六メートルほどに開いたところで滑り出し、似姿との距離を保ったまま隊列の中へ入っていった。
濃灰の外套を着た魔法使いが、歩きながら似姿と円盤の間隔を見比べていた。似姿が道の曲がりに沿うたび、その視線も力場を追い続ける。
「気になるかい? 君も乗ってみる?」
「ありがたいお申し出ですが、私は護衛中ですので」
魔法使いは首を振ったものの、浮遊盤からは目を離さない。その様子を横で見ていたデンケンが、ラジエルへ声を掛けた。
「では、儂が乗ってもよいか?」
ラジエルの口元に笑みが広がった。
「もちろん。せっかくだから君の分は僕が出そう」
ラジエルは円盤に腰掛けたまま列の脇へ右手を向け、短い術句を結んだ。二枚目の力場が一息に形を取る。護衛隊長が後続へ歩調を落とすよう手で示す横で、デンケンは長衣の裾を払い、道端の円盤へ片足を乗せた。沈まないことを確かめて腰を下ろすと、六メートルほど先を行くラジエルを追い、二枚目も滑り出した。
その魔法使いは、歩きながら二枚の円盤を見比べている。
「先ほどは時間をかけていましたが、今度は一瞬でした。同じ魔法なのですか?」
「同じ魔法だよ。似姿は時間をかけ、儀式として術式を組み上げた。急がない時なら、その分、普段の発動に使う力を消耗せずに済む。僕はその手順を省いて、すぐに出したんだ」
「儀式にできる魔法なら、時間と引き換えに消耗を抑えられる、と」
「そういうことだよ」
魔法使いはもう一度、先を行く一枚目とデンケンを運ぶ二枚目へ視線を往復させた。
隊列が元の歩調へ戻った。先を行く同じ顔の一人は黙々と歩き、もう一人は一枚目の円盤で片脚を組んだまま、その後ろを滑っていく。さらに二枚目には、腕を組んだ片眼鏡の老魔法使いが腰掛けていた。先頭の兵士は三度、振り返った。四度目は護衛隊長に背を小突かれ、正面へ向き直る。
デンケンは腕を解き、浮遊盤の縁へ片手をついた。身体の重みを片側へ寄せても、力場は傾きも沈みもせず、同じ高さを保って進んでいく。
「この円盤は、どれほどの重さまで支えられる?」
「二百二十キロほど。装備を着けた兵士なら、二人分くらいだね」
「傾斜でも水平を保つのか?」
「この程度ならね。凹凸のある道や階段も進める。ただし、三メートル以上の高低差は越えられない。先に崖があるなら、降りてもらうよ」
「一枚目は複製体を、儂が乗っておる方はお前を追うのか」
デンケンは腰掛けている円盤と、六メートルほど先のラジエルを交互に見た。
「《Tenser's Floating Disk(テンサーの浮遊盤)》は発動した術者が六メートルほど離れると動き出し、それ以上は間が開かないように追う。術者の足跡をなぞっているわけじゃない」
差し替えで加わった若い兵士の荷袋が、右肩から度々滑り落ちた。ラジエルは自分が座る円盤の端を指で叩く。
「その荷も乗せるかい?」
「大丈夫です」
若い兵士は荷紐を肩へ掛け直した。だが、後ろからデンケンが右足を見やると、若い兵士は短く息を吐いて紐を解いた。差し出された荷袋をラジエルが受け取り、自分の隣へ置く。若い兵士が肩を回して列へ戻ると、デンケンはラジエルの隣に収まった荷袋へ目をやった。
「この魔法を作ったのは、ラジエルか?」
「いや。テンサーというウィザードが作った術だ。魔法の名前に、今でも作り手の名が残っている」
「魔法の名とともに、作った者の名も残るか」
デンケンは浮遊盤の縁からラジエルへ目を上げた。
「そのテンサーというのは、どんな魔法使いなのだ?」
「オアースという世界の《大魔道士》だ。自分でも危地へ踏み込み、悪と戦うことを選ぶ人だよ。前線へ立つための魔法も、この浮遊盤のように旅を助ける魔法も残している」
「強い魔法ばかりを追う者なら、荷運びに工夫を凝らそうとはせん。戦いそのものだけでなく、そこへ至るまでの手間を知る人物だったのだろうな。……ところで、オアースはどのような世界だ?」
ラジエルの話は、オアースでよく知られた地域の一つ、フラネスの景色から始まった。農夫が畑を耕し、領主が城壁を築く。諸国は領土や交易路を巡って争い、グレイホークのような都市には魔法と知識が集まるが、魔法は民の暮らしにまで広く行き渡っていない。古い遺跡や地下迷宮には国の行方を変える魔法や怪物が眠り、一握りの《大魔道士》が戦の行方を左右することもある。
「多元宇宙には、ほかにもトリル、クリン、エベロンがあるよ。ただ、同じ仕組みの世界が並んでいるわけじゃない。エベロンのように独自の次元配置を持つ世界もあり、神々や魔法の在り方は世界ごとに違う」
「同じ魔法が使えるからといって、同じ世界の理屈で考えれば見誤るわけだな」
「そうだね。似た魔法があっても、誰が何のために残したかを辿れば、その世界の違いが見えてくる」
デンケンはそこで問いを止めず、ラジエルも円盤の上で身を乗り出した。別の世界の名が出るたびに次の問いが生まれ、二人の声は浮遊盤の荷重を論じていた時よりも弾んでいく。
列の外側を歩く濃灰の外套の魔法使いは、しばらくその応酬に耳を傾けていた。話がひと息つくと、二枚の円盤からラジエルへ視線を移し、冗談めかして口元を緩める。
「いつか私も、多元宇宙を巡って、いろいろな世界を見てみたいものです」
ラジエルにも、それが行軍の軽口だとは分かっていた。口元の笑みは変わらない。それでも返事までの一拍だけが、冗談に応じるにはわずかに長かった。
「帰ったら、まずミストラ様に頼んで、この世界の女神様へ話を通してもらおう。門を開く条件が折り合えば、今度は僕が君をエスコートするよ」
魔法使いの歩調がわずかに乱れた。
「……神様同士の話が、ずいぶん気軽な旅の相談になるのですね」
「相談する相手が少し多いだけだよ。必要な許可が取れたら、その時に行くかどうかは君が決めればいい」
魔法使いの口元に浮かびかけた笑みは、ラジエルの顔を見ているうちにわずかに形を変えた。穏やかな表情は崩れず、「冗談だよ」と続ける気配もなかった。
「では、約束ですよ」
「喜んで。約束しよう」
円盤を連ねた行進は四十分ほど、道が再び急になる手前まで続いた。ラジエルとデンケンが地面へ降り、若い兵士も前の円盤から荷袋を回収した。空になっても二枚の円盤はしばらく術者の後を滑り、一枚目から順に輪郭を薄くして消えていく。若い兵士は右足を確かめるように一度踏み込んでから、列へ戻った。
二日目の日が岩稜へ触れる頃、一行は街道から離れた低い樹林へ野営地を定めた。焚き火の脇では、若い兵士が右の軍靴を脱いでいる。巻き直した布に血は滲んでいたが、踵の皮が剥けた範囲は初日より広がっていない。
「荷を乗せた分は、ましになったようです」
「下りの方が足に来る。明日までに痛みが増したら、隊長に言ってくれ」
ラジエルが新しい布を差し出す。若い兵士は今度は「大丈夫です」と返さず、受け取った。
「次が平らな道とは限らん」
地図を見ていたデンケンが言うと、護衛隊長も頷く。
「隊列を守るなら、痛みも報告のうちだ」
「はい、隊長」
濃灰の外套の魔法使いは護衛隊長と担当範囲を確かめ、杖を手に交代の見張りへ立った。鴉は前夜より広く林の外を巡り、梟も別の高さへ上がる。配置が定まった後も、デンケンは暗がりに潜む反応を警戒し、魔力探知を樹林の外縁まで巡らせていた。
その探知を横切るように、ラジエルが焚き火の外へ出た。右手を胸元へ当てると、《Mind Blank(空白の心)》の青白い術式が蒼銀のローブの内側へ沈んでいく。光が最後の一筋まで布地の下へ消えた時、デンケンの探知からもラジエルの魔力が抜け落ちた。
目の前にはラジエルがいる。風に髪が動き、蒼銀のローブは焚き火の赤を返していた。デンケンは目を細め、探知をその姿へ絞る。だが、胸元にも両手にも魔力の輪郭は結ばれず、術の余韻さえ捉えられない。
ラジエルは梟の目を通して前方の夜道を確かめ、異常がないと見ると焚き火へ戻った。鴉を林の外へ巡らせたまま、似姿も反対側に立つ。ラジエルが前夜と同じ術を主導し、似姿が一節ずつ魔力を貸すにつれ、十人の護衛は武器を枕元へ置き、焚き火の周りへ毛布を広げていった。デンケンもラジエルのそばへ毛布を広げる。
広げられた一つの半球から夜風が消えると、似姿は透明な曲面を抜け、小屋の外周に沿って林寄りへ移った。そこから周囲を見張り、鴉の目でも暗がりを探る。見張りが一巡し、焚き火が熾火へ沈んでも、デンケンの探知はラジエルの立つ場所だけを拾わなかった。
翌朝、一行は小屋を畳み、梟と鴉を前後へ放って旧街道へ戻った。朝の冷気が薄れ、日が西へ傾き始めても、隊列は間を詰めたまま進んだ。
三日目の夕刻、隊列は三方を岩棚に囲まれた浅い窪地へ入った。東側には街道へ戻る緩斜面があり、北には高い岩棚、南には低い尾根が伸びている。西の端には、人が一人ずつ通れる細い割れ目があった。
デンケンが東の緩斜面へ探知を伸ばしたところで、前夜から拾えなかったラジエルの魔力反応が、ふいに探知の中へ戻った。二日目の野営地で術光が消えたのも、日が岩稜へ触れる今とほぼ同じ頃だ。デンケンはラジエルを見たが、ラジエルは窪地の地形を追ったまま歩みを止めない。
小川や樹林で休んだ前二夜は、どの方角から近づかれても、そのまま別の方角へ退けた。だが、この窪地は東西二か所を塞がれれば、三方の岩棚が逃げ道を奪う。その代わり、東を隠し、西の急落を道に見せれば、中央を探る者の進路を誘導できる。
護衛隊長が中央へ荷を集め、荷馬を北の岩棚の下へ繋ぐ間に、ラジエルは歩調を急がず窪地の外周を巡り、長い術句を編んだ。《Hallucinatory Terrain(幻の地形)》が窪地へ広がる。
中央の窪地は、崩れた岩屑が積もる急斜面へ変わった。実際の入口には切り立った岩壁が重なり、西の危険な割れ目だけが歩きやすい通路に見える。風が岩肌を擦る音まで幻の斜面へ馴染む一方、人と荷の姿は消えず、偽られた岩場の中央に取り残されたように見えた。
護衛の一人が幻の岩壁へ手を伸ばした。指先は何の抵抗もなく向こう側へ抜けたが、目には固い岩の面が残っている。
「夜中に寝ぼけて西へ歩かないでくれ。あちらは本当に落ちるからね」
似姿が注意すると、護衛隊長は割れ目の手前へ実物の荷箱を二つ置き、手探りでも分かる障害にした。
似姿は北側の岩棚へ上がった。梟は南の尾根、鴉は東の街道へ回る。三つの方向から中央を見通せる位置が整うと、ラジエルは日没前の空の下で《Foresight(予知)》を自分へ施した。最後の術句とともに、現実より一瞬先を捉える感覚が静かに馴染んだ。
荷を解き終えるより早く、街道側から警笛が一度鳴った。
護衛たちが一斉に振り返る。音は護衛隊長が吹いたものと同じだった。二度目は鳴らない。
北側の岩棚にいた似姿が片手を上げる。
「鴉の視界が白く乱れた」
東の街道を見ていた鴉は、翼を保ったまま一度だけ大きく高度を落とした。接続はすぐに戻ったが、街道脇の鳥が一斉に飛び立ち、低い灌木が広い範囲で同じ方向へ揺れている。風は北から吹いているのに、枝の動きは東から西へ流れていた。
ラジエルは護衛隊長へ向き直った。
「今夜は防具を外さず、武器も手元へ置いてくれ。見張りも一度に二人出した方がいい」
「承知しました。交代の間隔も短くします」
返事を終えた護衛隊長は、すぐに見張りの組を呼び寄せた。交代順を告げる声に、防具の留め具や引き寄せられた武器が鳴る。その最中、中央のラジエルと北の岩棚にいる似姿が、ほぼ同時に胸元へ掌を当てた。わずかにずれて重なる同じ術句とともに、冷たい影が二人の襟元を青白く縁取り、衣服へ沈んでいく。
護衛隊長の指示が続くなか、ラジエルは右手を開いた。《呪文書》が虚空から滑り出し、目の前でひとりでに頁を繰る。やがて指先が一つの術式を押さえると、その文字列は薄れ、代わりの術式が次の頁から淡く浮かび上がった。光を瞳へ映したまま表紙を閉じれば、本はふっと輪郭を失い、虚空へ溶ける。
《呪文書》が虚空へ消えても、デンケンの目は二人の襟元へ沈んだ冷たい影に留まっていた。
「先ほどまでは使っていなかった魔法だな」
ラジエルは問いを聞きながら、西側の割れ目へ目を移した。
「《False Life(偽りの生命)》だよ。本物の傷を負う前に、少し余力を足してくれる」
「今夜は必要になると見ているのか?」
「その可能性が上がった」
ラジエルの視線の先で、西の割れ目は《Hallucinatory Terrain(幻の地形)》によって安全な通路に見えている。実際には左右から岩が迫り、その先で地面が急に落ちている。
「あちらをもう一度見ておきたい。付き合ってくれるかい?」
「ああ」
二人は護衛隊長へ行き先を告げ、似姿から見える範囲を外さず西へ進んだ。幻の岩壁を抜けると、中央の灯りが岩の面へ隠れ、風の音だけが近くなる。
ラジエルは割れ目の手前で足を止め、デンケンが隣へ並ぶと、腰の革製書物入れから魔導書を取り出した。革の背には斜めに古い傷が走り、片方の留め具は欠けている。残る留め具を外して表紙を開き、デンケンが本へ目を留めるのを待った。
「ゼーリエとは面識があるかい?」
デンケンは欠けた留め具を見直す。
「ない。大陸魔法協会を興した大魔法使いとして名を知っているだけだ。……お前は会ったことがあるのか?」
「僕も直接は会っていない。ただ、この世界へ来てから何度か話している。ゼーリエは各地へ情報網を張っているらしくてね。最初に連絡してきたのは彼女だ。その後は、こちらの魔法を介してやり取りしている」
「会ったこともない異界人へ、協会の長が自分から接触したのか。帝国はそのことを知っているのか?」
ラジエルは右手の指を額へ当てた。《Encode Thoughts(思考符号化)》の青白い光が皮膚の内側から細く滲み、指先へ糸の形で引き出されていく。
「知らない。だから、今夜の頼みを話す前に経緯を見てほしい」
「アルデリックの報告にあった魔法だな」
「同じ魔法だよ。ここから先は、僕の記憶を見た方が早い」
「分かった。見せてもらおう」
デンケンが糸へ触れると、西の岩間から冷気が遠のいた。
最初に流れ込んだのは、北部高原への派遣がまだ帝宮の案文に上がる前夜の記憶だ。
ラジエルはその夜、《Dream(夢のたより)》を使い、眠るゼーリエの夢へ使者として入った。北部高原への派遣について話すため、輪郭のない夢の中に自分の姿と声を結ぶ。
呼びかけようとした瞬間、ラジエルが形作った夢へ別の夢が噛み合った。足元は赤い縁取りの敷物へ変わる。
目に映るのは、大窓の前に置かれた椅子から見下ろす広間だ。見ている位置はゼーリエのものなのに、敷物の中央へついた左膝の冷たさがラジエル自身へ返ってくる。裂けた左袖から血が落ち、右手には血に濡れた細身のダガーがある。左腕に抱えているのは、表紙に斜めの傷が走り、留め具を片方失った古い魔導書だ。
右には、片眼鏡を掛けた髭の長い男が杖で身体を支えている。左後ろには同じ顔の似姿が立ち、左肩から先が失われている。ゼーリエの目を通して三人を見下ろしながら、ラジエルは敷物にいる自分の重みと痛みを、身体の内側から受け取っていた。
「来たか」
大窓の前から、ゼーリエの声が届く。
「外れてほしい未来だったよ」
返事をしたのは、敷物にいる自分だった。ラジエルは口を動かしていない。それでも声を出した喉の震えも、魔導書を敷物へ置く左手の感触も、自分の動きとして身体を通り抜けた。
そこで広間が暗転する。
輪郭のない夢の床が戻ると、ゼーリエはラジエルの正面に立っている。
「今のは、君が見ていた未来かい?」
「そうだ。ごく稀に、あり得る未来の一つを夢の中で体験する。いつ始まり、どこで途切れるかは選べん。あの広間を見たのも一度ではない」
《Dream(夢のたより)》と予知夢がかち合ったわずかな間、使者として夢へ入ったラジエルは、そこにいた未来の自分を追体験していた。
「他の夢では、僕たちはどうなっている?」
「夢によって違う。お前しかいないことも、お前が床に倒れていることもある。だが、私が見たどの夢でも、お前はあの広間にいた」
ラジエルは、敷物へ触れた膝と、転移術が着地とともにほどけた感覚を辿った。
「帝国が僕を北部高原へ出す話を進めている。さっきの僕たちは、《Teleport(瞬間移動)》で君の広間へ来ていた。左手にあった本は、君のものだね?」
「私の棚にある魔導書だ」
「なら、あの本を送ってくれないか。広間から持ち出された物なら、《関連する物体》として、ここを確実に目指せる。逃げ込む必要が生じた時、行き先まで偶然に任せたくないからね」
ゼーリエはしばらくラジエルを見た。
「帝国の中へ入れる手はある。表紙の傷と、欠けた留め具を目印にしろ」
「助かるよ。見つけたら、次に話す時に知らせる」
夢の場面が薄れ、次に浮かんだのは後日の帝宮だ。
帝国からラジエルへ回された魔法研究資料を、書記官は出所に触れないまま机の上へ幾つも積み、受領印だけを求める。その中に、一冊だけ背の作りが違う本が混じっていた。
表紙には斜めの傷が走り、片方の留め具が欠けている。頁を開くと、異なる時代の魔法使いが組んだ占術と、その脇に短い書き込みが並んでいる。一語だけで途切れたものもある。
次に開いたのは、その夜に再び繋がった夢の中だ。
「届いたよ。魔導書には未来予知が外れた時のことまで書き残してあったよ」
「当たった例だけでは、魔法の限界は分からんからな」
ラジエルは一頁戻した。本文の脇には、未来を見通せた範囲と結果が変わった条件が、異なる筆跡で書き継がれている。
「僕の占術で確かめたことも、ここへ足しておこうか?」
「書けるならな。その本を返せたなら、読んでやる」
ラジエルは本文を読み進め、自分の占術と照らした結果を余白へ書き加えていく。古い書き込みの列に、新しい筆跡が加わった。
さらに場面が進み、正文と追補へ署名した夜、ラジエルは再び夢を介してゼーリエと向き合っていた。
「明朝、帝都を出る予定だ」
「なら、その後の数夜は広間にいる」
「床の中央だけ空けておいてくれるかい?」
「来るなら勝手に来い。来ないなら、その方がいい」
夢の輪郭が返事より先に薄れ始めた。
「僕もそう思うよ」
最後の言葉とともに接続が切れ、ラジエルは寝台の脇で目を開けた。窓の外はまだ暗い。ほどなく扉が叩かれ、書記官がフラーゼの封書を差し出す。集合は二刻早まり、場所は南門へ変更されていた。
封書を受け取ったところで記憶は途切れ、青白い糸がデンケンの指から離れた。岩の割れ目を抜ける風と、中央の野営地で荷を置く音が戻る。ラジエルは糸を額へ収めた。
現実へ戻っても、デンケンの視線は欠けた留め具と、頁の間から覗く書き込みに残った。
「協会の本が、帝国から渡された資料の中へ入っていたわけか。……誰が帝国へ持ち込んだ?」
「僕が受け取った時には、もう同じ束に入っていた。誰の手を経たかは分からない」
デンケンは魔導書からラジエルへ視線を戻した。
「この本が帝国の資料に混じっていた事実は、陛下への報告に含める」
「構わないよ」
デンケンは頷いた。ラジエルが魔導書の留め具へ指を掛ける。デンケンは口を開きかけて止めたが、本が閉じられる前に問いを切り出した。
「一つ聞いておきたい。南門で儂を見た時、夢にいた片眼鏡の男だと思ったのか?」
「可能性は高いと思った」
「夢に出ていたから、万一の時は儂も連れていくつもりだったのか?」
ラジエルが魔導書の留め具を閉じる。金具の噛み合う小さな音が、二人の間に落ちた。
「いや。君に話すと決めたのは、この三日だ。夢に出たというだけで人を選ぶのは、占術士としても趣味が悪い。君が何を見て、どう判断するかを確かめて、今夜の一手を預けられると思った。それに、帝国側から同じ現場を見た者がいれば、僕一人の証言で終わらずに済む」
「では、儂はどう動けばいい?」
「戦いになったら、僕から六メートル以上離れないでくれ。魔導書を取り出したら、右側の三メートル以内へ来てほしい」
ラジエルが魔導書を腰の書物入れへ戻す傍ら、中央では護衛たちが見張りの持ち場と交代順を確かめている。デンケンは西の割れ目から、その十人を追った。
「夢の広間にいたのは、儂ら三人だけだった。あの十人はどうする?」
「僕たちだけで退くつもりはない。まずは全員で東へ抜ける。転移のために集まっている最中をまとめて狙われるかもしれないし、術を妨害されれば逃げ道まで失う。隊列を保って退けるなら、その方が確実だ」
デンケンは東の街道へ目を向けた。
「東への退路を塞がれたら?」
「その時は、僕と似姿を中心に二組へ分かれる。それぞれ三メートル以内に集まれれば、僕たちが一度ずつ《Teleport(瞬間移動)》を使える。僕の組はこの本でゼーリエの広間へ出る。似姿の組もオイサーストを目指す」
デンケンの視線が、ラジエルの書物入れへ落ちた。
「本は一冊だ。似姿の組まで、同じ広間へ確実に出ることはできるのか?」
「確実には無理だね。似姿の方は、到着点がずれるか、転移に失敗する可能性がある。だから東へ抜けられるうちは、この手は使わない」
デンケンはすぐには返さなかった。中央から、荷を下ろす音と見張りの持ち場を確かめる声が届く。
「……了解した。だが、二組へ分かれる前に包囲が閉じるか、途中で隊列を分断されれば、全員は集められん」
「その時点で僕か似姿の近くにいる者だけを、オイサーストへ連れて出る。全員を集めるために留まり続け、誰も逃がせなくなる結末は選ばない」
デンケンは、全員を連れ帰れない可能性を呑み込んだ。
「帝都へは戻らんのだな?」
「今夜襲撃が来るなら、情報が内部から敵に漏れていたことになる。誰の手を通ったか分からない命令系統へ、この十人ごと戻る方が危険だ」
「護衛にはどこまで話す?」
「東へ退くことと、東を塞がれた時は僕か似姿の近くへ集まることまでだ。行き先と、魔導書を出す合図は伏せる」
若い兵士が、最初の見張りに出る前に荷箱の脇でスピアを抱え直す。
「……分かった。魔導書を出したら、儂はお前の右へ入る」
二人は西の割れ目を引き返した。中央の見張りから姿が見える手前で、ラジエルが右手を胸元へ当てる。青白い術式が蒼銀のローブへ沈み、先ほど探知へ戻ったばかりの魔力の輪郭が、デンケンの感覚から再び消えた。
「待て。昨夜、お前の魔力反応だけが探知から消えていた。先ほど戻った反応が、今また消えたのは、同じ魔法を掛け直したからか?」
「そうだよ。今夜の備えをすべて知る僕から情報が漏れるのが、一番危険だからね。《Mind Blank(空白の心)》は、魔法による位置の特定だけでなく、思考の読み取りや精神操作も防いでくれる」
ラジエルの姿には何の変化もない。デンケンは探知の焦点を胸元から両手へ移したが、前夜と同じ空白しか返ってこなかった。
「魔力の隠蔽を一つの術式で再現しているのか。しかも、揺らぎすら拾えん。索敵だけではない。魔力を標にした照準まで外れる……とんでもない魔法だな」
ラジエルが胸元から手を下ろして窪地へ歩き出すと、デンケンも探知の中の空白を追い、その隣へ続いた。
中央では、護衛が防具を着けたまま夜営の配置を進めていた。似姿は北の岩棚に残り、梟と鴉も外周から戻らない。ラジエルは荷の周囲へ集まった十人を見渡した。
「鴉が警笛を三度返したら、すぐに武器を取ってくれ。敵が《Hallucinatory Terrain(幻の地形)》を抜けたら《Leomund's Tiny Hut(レオムンドの小さな小屋)》を出て、隊長の合図で東へ退く。僕たちと分断されても、振り返らずそのまま進んでほしい。ただし、東そのものを塞がれた時は、僕か似姿の近くへ集まってくれ」
護衛隊長は十人を見回した。
「聞いたな。最初の二人は東と南へ。異常があれば警笛で知らせ、交戦せず中央へ戻れ」
短い返事が返る中、最初の二人は東と南の外周へ分かれていった。荷箱の蓋が開き、鍋が火へ掛けられる。ラジエルが窪地の中央で《Leomund's Tiny Hut(レオムンドの小さな小屋)》の術句へ入ると、似姿も岩棚から下り、六メートル以内の北側へ立った。ラジエルが導く節へ声を合わせ、自分の魔力を同じ術の境界へ重ねていく。
発動が最後の段へ差しかかった頃、護衛隊長の短い呼び声が外周へ届いた。戻った二人を加え、十人の護衛とデンケンが焚き火の周りへ収まる。似姿の魔力を受けて半径を広げた力場は、最後の一節とともに一つの半球となって窪地へ立ち上がり、十三人全員を内側へ包んだ。外から見える輪郭は、幻の岩屑に紛れる。
半球に包まれた途端、岩間を抜けていた風が途絶えた。風にさらわれていた防具の金具や鍋の音が、内側へ近く響く。似姿は透明な曲面を抜け、小屋の外周から北の岩棚の張り出しへ上がった。鴉の視界とその向こうの夜を重ねて警戒する一方、ラジエルは冷えた煮込みを温め直し、固くなったパンを布の上へ並べた。
護衛の武器は手の届く位置にある。護衛隊長は東の街道へ抜ける側に座り、二人の随行魔法使いは半球の東西へ分かれた。兵士たちは力場の内縁へ背を寄せたが、誰も兜を脱がない。
若い兵士が温まったパンを割り、湯気の立つ断面を見た。
「風が入らないだけで、同じパンとは思えませんね」
ラジエルは若い兵士へ笑みを向けた。
「それなら、この魔法を覚えた甲斐があったよ」
若い兵士はパンを煮込みへ浸しかけたところで、向かいのデンケンが匙を止め、煮込みの表面をしばらく見ているのに気づいた。
「お口に合いませんでしたか?」
「いや。昔、オイサーストで似たような煮込みを食べたのを思い出しただけだ」
「いつ頃のことですか?」
「五十年ほど前だ。妻と一度、食事をした店がある」
若い兵士は、手の中のパンへ目を落とした。椀から立つ湯気が二人の間で細くほどけていく。
「その店は、まだ残っているでしょうか?」
「分からん。残っていれば、試験の後に寄るつもりだ」
ラジエルは椀を膝の上へ置いた。
「同じ場所で食べられるといいね」
「ああ」
デンケンはそれ以上、店の場所も妻のことも語らなかった。ラジエルも尋ねず、冷めかけた自分の煮込みへ匙を戻した。
護衛隊長は食事を早く終え、見張りの交代順を指で示した。濃灰の外套を着た魔法使いは、自分の番を一つ早める。もう一人の魔法使いは食事の輪から外れて座り、力場の外を見たまま煮込みへほとんど手を付けていなかった。
東から短い警笛が三度鳴った。三度目は二度目の余韻へ重なり、食事の輪を断ち切った。若い兵士が顔を上げる。
「鴉です」
半球の外にある北の岩棚で、似姿は東寄りの張り出しに身を低くし、東と南の斜面へ視線を走らせていた。
「東も南も斜面が埋まってる。首輪を付けたオークが前、ギスヤンキの戦士と術者が後ろにいるね」
似姿は言い終わるより早く、張り出しを北へ駆けた。岩段を一つ上がり、中央との間に低い岩壁が入る高所で膝をつく。
デンケンは椀を置き、空いた右手を上へ向けた。掌に灯った白い光が上下へ細く伸び、その中で濃色の長い軸が輪郭を結ぶ。角張った金色の杖頭と、中央に嵌まる円形の赤い石が最後に姿を現し、柄はそのまま右手へ収まった。杖を握るのと同時に、魔力探知が岩棚の外へ広がる。東と南で幾つもの魔力が重なり、その後ろにも新しい反応が続く。北側へ回り込む別の群れまで密集し、個体を分けて数えることもできない。
「東と南だけではない。北にもいる。窪地を囲まれておるぞ」
護衛隊長はラジエルと、北の高所にいる似姿を見比べた。右手でロングソードを抜き、切っ先でラジエルの側と北側を示す。
「半数はラジエル殿の周りへ! 残りは北側へ──」
号令が終わるより早く、東端の灌木が斜面の幅ごと沈み始めた。
枝を押し分けて現れたのは、粗末なレザーを着たオークだった。ヒューマンよりひと回り大きく、灰色の肌をした身体は肩幅が広い。耳は鋭く尖り、下顎から短い牙が覗いている。前列がグレートアックスを構えて左右へ開いても、背後から肩と頭が途切れず現れ、灌木の奥に残る影の厚みは減らない。その上では、ロングボウへ矢を番えた後列が斜面を埋めていた。
東だけではない。透明な力場越しの南尾根にも月明かりを返す兜が並び、岩間では紫の術光が点々と立ち上がる。
若い兵士が椀を置き損ねた。縁からこぼれた煮込みも拭わず、スピアへ手を伸ばした。
「あの数を、我々だけで……? 止められるはずがありません!」
護衛隊長は東側へ移り、左腕の盾を正面へ上げる。
「北へは出るな。敵も一度に全員は入れん。前列だけを見ろ」
兵士たちが立ち上がる。若い兵士はスピアを一度取り落としかけ、石突きで隣の盾を打った。
東斜面のオークは全員、首に銀色の輪を嵌めている。一体が幻の岩壁を前に足を緩めると、輪から紫の光が走った。オークは背を反らし、喉を押さえて叫ぶ。
「I'm moving! Stop it! Turn off the collar!(進んでいる! やめろ! 首輪を止めろ!)」
斜面上のギスヤンキは訴えを無視し、銀の輪へもう一度紫光を走らせた。オークの肩が跳ねる。その背後では、月明かりを返す甲冑の一人が片手を横へ振った。
「Spread out. Touch every stone. Leave no hollow unchecked(広がれ。石を一つ残らず踏め。窪みを見逃すな)」
命令を受けた列が東斜面で左右へ広がる。ラジエルが椀を岩床へ置き、腰の魔導書へ手を伸ばす間にも、オークたちは互いの肩が離れるまで間隔を取り、岩壁に見える空間へグレートアックスの柄と掌を打ちつけていく。
西の安全な通路に見せた割れ目へ踏み込んだ一体は、身体ごと闇へ落ちた。叫びが岩の下へ消えるより早く、後列の首輪に紫光が連なる。足を止めかけた二人が背を反らし、空いた間へ押し出された。
「The passage is false. Push through the wall(通路は偽物だ。壁を抜けろ)」
別の声が飛ぶ。群れは落ちた者の両側へ割れ、今度は幻の岩壁へ肩からぶつかった。先頭が抵抗もなく岩の中へ入ると、その背へ後続が殺到する。
足音が窪地へ近づくさなか、似姿のいた岩棚の下で荷馬が嘶いた。つなぎ綱が切れ、蹄の音が闇の向こうへ遠ざかっていく。似姿は荷馬を追わず、まず東斜面を見下ろした。弓列の背後には、低い砲架から長い砲身を伏せたサイオニック砲が一基ある。張り出した支持脚は岩へ食い込んでいた。
視線を北へ返すと、似姿の足場よりさらに高い岩稜にも同じ砲が据えられている。どちらの砲尾にも複数の魔導兵が詰め、結晶を囲んでいた。さらに南尾根では、中央に立つ一人の詠唱へ左右二人の魔力が重なり始める。
鴉の警笛が途中で潰れ、黒い影は東の灌木へ落ちた。同時に、梟からラジエルへ届いていた南尾根の景色をロングボウが塞ぐ。弦が返ると視界は横へ回り、そのまま途絶えた。
護衛隊長は東へ盾を上げ、声を抑える。
「まだ撃つな。姿を見せるまで待て」
四人の槍兵がその左右を固め、三人の弩兵は背後で片膝をついた。幻の岩壁を抜けた先頭のオークが東寄りの半球へ掌を突き出す。指は何もない空中で止まり、見えない曲面に沿って横へ滑った。
その指先へ東斜面の矢尻が揃う。ギスヤンキの一人が弓列の上で腕を上げた。
「Contact. Silence on my mark. Dispel the shelter(接触した。合図で音を封じろ。避難所を解呪しろ)」
ラジエルの指が書物入れの留め具へ掛かったところで、煮込みへほとんど手を付けなかった随行魔法使いも衣服の内側へ手を入れた。引き出された巻物が開き、角張った文字列を走る光が、ラジエルの視界に現実より一瞬早く重なる。
隣の槍兵がスピアを伸ばした。
「何の魔法だ! 巻物を閉じろ!」
光が最後の文字へ届く寸前、ラジエルの《Counterspell(呪文妨害)》が巻物へ食い込んだ。詠唱も指の動きも途中で断たれ、起こりかけた《Silence(静寂)》は紙面から消える。
巻物の光が潰れた一拍に、似姿は北の高所から五人の手元を捉えた。東斜面の二人は同じ半球へ解呪を重ねる。南尾根では、中央の詠唱へ左右二人が魔力を注ぎ続け、一つの術を結ぼうとしていた。似姿は妨害へ向けかけた指を足元へ下ろした。
似姿の靴元へ青白い霧が集まる。二条の《Dispel Magic(魔法解呪)》がほとんど同時に半球へ突き刺さり、透明な曲面を東端から波打たせた。光が焚き火の上で重なった瞬間、力場は一気に剥がれる。その境界が足元を離れるのに合わせ、蒼銀の輪郭も霧へ沈んだ。
八メートルほど北の細い足場で青白い霧が弾け、似姿が片膝をついた。同時に、力場を失った窪地へ夜風がなだれ込み、薪の煙を南へ伏せる。南尾根の主術者が最後の術句を結ぶと、左右から注がれた魔力が《Silence(静寂)》を押し広げた。無音の境界は焚き火から盾列を越え、似姿がいた岩段まで呑み込んで止まる。
新しい足場では、岩を擦る風がまだ鳴っている。似姿は立ち上がるより早く中央へ右手を向け、静寂を解く術を組み始めた。
窪地では、転がった椀が岩床を跳ねても響かない。護衛隊長の口だけが号令を形作る。若い兵士が聞き取ろうと左隣の盾へ身体を寄せた、その右脇を随行魔法使いが滑り抜けた。巻物が足元へ落ちるより早く、袖のダガーが槍兵の顎下へ入り、喉を横へ走る。
喉を裂かれた槍兵が盾の裏へ崩れ、手を離れたスピアは溢れた血とともに岩床を跳ねた。若い兵士の視線が随行魔法使いの顔から、血に濡れたダガーへ落ちる。三日間同じ隊列を歩いてきた相手とその手の刃が、すぐには一つに結びつかない。何かを叫ぼうとした口だけが動き、盾は半ばまで下がった。護衛隊長の盾が横から割り込み、若い兵士を列の内側へ押し戻す。別の槍兵も空いた場所へ入り、返した盾で随行魔法使いを押し返した。
随行魔法使いは盾の縁へ肩をねじ込み、血に濡れたダガーをデンケンへ突き出した。切っ先が届く寸前、ラジエルが右手を横へ払う。《Telekinetic Shove(念動突き)》に胸をさらわれた身体は盾列の外へ弾き出され、背中から岩床を滑った。その頭上を東斜面からの矢群が越え、護衛隊長の盾へ殺到する。
金属の面が激しく揺れ、弾かれた鏃が岩床を跳ね回る。その逆を縫って、ラジエルの指先から《Ice Knife(氷のナイフ)》が走った。
起き上がりかけた随行魔法使いの上衣へ氷の刃が沈む。胸元で砕けた氷片は布を内側から裂き、開いた指からダガーを弾いた。身体は一度反って岩床へ落ち、そのまま動かない。
散った氷片の向こうでは、東斜面の弓列がすでに二射目を引き絞っていた。弦が返り、倒れた随行魔法使いを越えた矢群が盾の隙間へ殺到する。開いた場所へ入った槍兵は盾を肩で押し返し、隣の縁へ噛み合わせた。その上縁を一本が越え、鎖骨の下へ深く入る。矢羽が胸当てへ触れるまで押し込まれても盾を外さず、若い兵士の前へ重なった縁を残して、その裏へ沈んだ。
護衛隊長は崩れた槍兵の脇でロングソードの柄頭を盾へ二度当て、そのまま剣先を東へ振った。三人の弩兵は無音の合図を追い、盾の後ろからヘヴィ・クロスボウを持ち上げる。
だが、照準が東の弓列へ重なる前に、東と北の砲尾で結晶が紫に脈打った。光が二本の砲身を走り、砲口の前で夜気を球状に歪ませていく。
ラジエルの両手が開く。《Hypnotic Pattern(催眠文様)》の色帯は東側砲を呑み、斜面へ折り重なった。オークの前列とギスヤンキの数人が武器を下げ、走りかけた姿勢のまま脚を止める。東側砲の結晶を握っていた一人も腕を垂らし、砲口まで膨らんだ紫光は輪郭を失ってほどけた。
止まった中央を、催眠から外れた両脇の列が押し分ける。北側砲は前へなだれ込む味方に射線を塞がれ、紫光を抱えた砲身だけが窪地の縁を追った。
その動きを見下ろす北の足場で、似姿が右手を握り込んだ。指の間から《Dispel Magic(魔法解呪)》が走り、静寂の境界を捉える。無音の領域が焚き火の跡へ引き絞られ、薪の爆ぜる音、喉を切られた兵士の息、盾へ降る矢が一度に戻った。
護衛隊長の号令がその騒音を裂く。
「盾を上げろ! 弩兵、東の弓列を止めろ!」
三挺のヘヴィ・クロスボウが盾の縁から一斉に鳴った。重い弦音と同時に、ロングボウを引くオークが肩を射抜かれてのけぞり、隣のギスヤンキ戦士の胸甲では別の弩矢が火花を散らす。三本目はさらに横のオークが構えたロングボウへ命中し、弓身を二つに折った。跳ねた弦が、番えていた矢を指の間から弾き飛ばす。
胸甲で弩矢を弾いた戦士は、そのまま斜面を駆け下りてくる。そこへデンケンの《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》が白く走り、兜と胸甲の隙間を貫いた。戦士はグレートソードを握ったまま仰向けに倒れ、背中から斜面を滑り落ちていく。
肩を射抜かれたオークが弓を落とす。隣の一体はその腕を掴み、斜面の窪みへ引こうとした。二人の首輪が同時に光る。救助者の手が開き、負傷者は窪みへ膝から崩れた。残された一体は首を強張らせたまま弓を取り直す。その頭上を後列から次の矢が走った。濃灰の外套の魔法使いは杖を振り、盾列へ迫る矢とすれ違うように白い光線を返す。ロングボウを引いていたオークの額が穿たれ、身体は後列へ倒れ込んだ。
ラジエルは催眠を免れて斜面を下るオークへ向き直り、戻った声に《Mass Suggestion(集団示唆)》を乗せた。
「You've paid enough for their battle. Drop your weapons and take cover behind the rocks. If your masters still want to fight, let them risk their own lives this time(あいつらの戦いの代価なら、君たちはもう十分に払った。武器を捨てて岩陰へ入るんだ。あいつらがまだ戦いたいのなら、今度は自分たちの命を賭けてもらえばいい)」
グレートアックスとロングボウが岩へ落ちる。前列の一角がギスヤンキへ背を向け、我先に斜面の窪みへ身を沈めた。
最初の一体が岩陰へ手をついた瞬間、首の銀輪が紫白く炸裂した。頭部を失った身体が、捨てた武器の上へ倒れる。南尾根では、ギスヤンキの指揮官が腰の《サイオン・トリガー》から手を離したところだった。
若い兵士のスピアが沈み、石突きが岩を擦った。護衛隊長は半歩前へ出てその視界を遮り、ロングソードでまだ弓を構える後列を示した。若い兵士の穂先が、遅れて同じ線へ戻った。
二人のギスヤンキ戦士は岩陰の両側へ降り、伏せたオークの背へ銀のグレートソードを向けた。一人が片手を刃から離し、首のない身体を指す。
「Look at him. Advance, unless you want your collars to take your heads next. Anyone still hiding dies by our blades!(あれを見ろ。次に首輪で頭を飛ばされたくなければ、進め。岩陰に残る者は俺たちが斬る!)」
残る銀輪にも紫光が走る。伏せかけたオークは悲鳴を噛み殺し、捨てた武器を掴み直した。背後のグレートソードに追われて斜面を下り、頭部を失った仲間を跨いでいく。狭い岩陰から押し戻された列は護衛の右へ偏った。若い兵士が盾を寄せ、そのすぐ後ろで弩兵が身を低くする。
南尾根の指揮官は、その密集へ腕を振り下ろす。
「Fire the right flank! Burn through them!(右側へ撃て! まとめて焼き払え!)」
二人の術者の手元で《Fireball(火球)》が膨らんだ。ラジエルが片方へ《Counterspell(呪文妨害)》を差し込み、炎を指の間で押し潰す。だが、もう一つはすでに尾根を離れていた。
「もう一つ、右側へ来るよ!」
濃灰の外套の魔法使いが杖を振る。淡青い六角板が火の球と護衛の間へ次々に滑り込み、正面から縁を噛み合わせていく。だが、列の右端まで閉じるより先に、《Fireball(火球)》が《防御魔法》へ激突した。
爆炎は岩壁に沿って膨れ、半透明の面を赤く染めた。板の継ぎ目から亀裂が走り、魔法使いの両足が岩床を滑る。それでも杖は下がらず、正面の熱と岩片を《防御魔法》で受け止め続けた。
炎は守りの縁を回り、右端を盾で支える若い兵士と、その背後の弩兵の足元へ走った。二人の身体が爆風にさらわれ、折り重なって倒れる。ずれた軍靴の口から、踵へ巻いた白い布が一瞬だけ覗いた。それもすぐ炎に隠れ、火が引いても二人は起き上がらない。
薄くなった炎の向こうで、残る二挺のヘヴィ・クロスボウが東斜面へ持ち上がる。倒れたオークの射撃位置には次の弓兵が滑り込んだ。その上では、色帯の外にいた魔導兵が動かなくなった砲手を結晶から引き剥がし、代わりに掌を押し当てる。消えた紫光が、同じ東側砲の奥を再び走り始めた。
残る弩兵の一人の声が震えた。
「減っていません……! こちらはもう四人倒れたのに、まだ後ろが途切れない……!」
護衛隊長は盾を東へ向け、兵士の視界を前列へ戻した。
「数えるな。今は東を止めろ」
南尾根の指揮官が銀のグレートソードを片手へ寄せ、空いた手を窪地の中央へ突き出した。
「Seal the center! Silence, now!(中央を封じろ! 音を消せ、今だ!)」
その隣にいた術者が両腕を広げる。号令が途切れるより早く、二度目の《Silence(静寂)》が、小屋の中心だった焚き火の跡から広がった。
護衛隊長は声を出そうとせず、東を盾で塞いだままロングソードの切っ先で中央を示す。残る四人が合図を見て動くのと同時に、ラジエルも《Hypnotic Pattern(催眠文様)》を維持したまま、催眠を免れた第二波へ両手を向けた。
《Rime's Binding Ice(束縛の氷霜)》が扇状に走り、前列の脚と腰、握られたグレートアックスを白い氷でまとめて固める。止まりきれない後列が凍った背へ衝突し、中央が詰まった。左右へ溢れた一体を《Telekinetic Shove(念動突き)》が押し戻す。その身体に巻き込まれた別の一体は、岩床の割れ目へ半身を落とした。
その頭上を越えて、新たな《Fireball(火球)》が飛び込んだ。
火の球は《Hypnotic Pattern(催眠文様)》の中で止まっていたオークまで巻き込み、焼かれた身体を一斉に跳ねさせる。爆風と岩片がラジエルの肩と背を打ち、《False Life(偽りの生命)》の冷たい余力を削った。炎に起こされたオークは、皮膚とレザーに火を残したまま凍結列へぶつかり、倒れた身体の上から窪地へ入り込んでくる。
斜面から射線を変えた矢が、護衛隊長の盾へ続けて突き立つ。その脇を低く抜けた一本は、濃灰の魔法使いが張った《防御魔法》に弾かれた。淡青い面の陰で二人の弩兵が片膝をつき、片方が東斜面へ撃ち返す。弩矢はオーク弓兵の手の甲を貫いた。首輪が光っても、裂けた手では次の矢を番えられない。後ろのオークが負傷者を押し退け、その場所で弦を引く。
隣の弩兵が新しい標的へクロスボウを振る。引き金へ指が掛かるより早く、斜面の外側から来た矢が《防御魔法》の端を回り込み、兵士の脇腹へ深く突き立った。衝撃で落ちた引き金から弩矢が飛び、狙いを外れて夜空へ消える。兵士も隣の肩を巻き込みながら、岩床へ崩れ落ちた。
凍結列にぶつかったオークが左右へ割れ、北側砲の前から味方の影が消えた。砲身が中央へ振れ、抱えていた紫光を硬い球へ絞る。東側砲でも二度目の充填が終わり、二基はほとんど同時に念弾を吐き出した。紫の力場が窪地を裂く。デンケンは右手の杖を立て、左手をその軌道へ振った。《防御魔法》が分断されかけた護衛四人の前へ一気に伸びる。
東側の念弾が《防御魔法》を打つ。連なる淡青い板が大きく撓み、紫光を斜め上へ弾き返した。デンケンは左手で板の連なりを支え、杖頭をラジエルへ傾けて守備範囲の端を示す。その間にも北側の一発は外縁の岩棚を削り、白い粉を噴き上げた。
ラジエルは《防御魔法》の外側へ氷を重ね、救援路の幅だけを凍らせた。淡青い六角板と氷結列が、離れた四人へ一本の細い道を延ばしていく。その頭上では、北の岩棚から似姿の《Wall of Force(力場の壁)》が南へ伸び、オークの第二陣を二つに割った。
片側の列が東斜面へせき止められる。最初の念弾を放つや結晶へ魔力を注ぎ直していた東側砲では、壁が伸びきるのと同時に次の紫光が砲口へ集まった。吐き出された念弾は透明な面へ潰れ、壁上へ円状に散る。その光の下でギスヤンキ戦士は左右へ走って端を目指し、遮られなかったオークはグレートアックスを構えて救援路へ押し寄せた。
似姿が二度目の《Silence(静寂)》へ向き直り、《Dispel Magic(魔法解呪)》を組み始める。
発動寸前、正面と左右斜め前で青白い霧が弾ける。《Misty Step(霧渡り)》から踏み出した三人のギスヤンキ戦士が、足場を確かめる間もなく、似姿の首と胴へ銀の刃を走らせた。
似姿は組みかけた解呪を捨てる。最初の刃が布に見える蒼銀の袖へ触れる前に右手を横薙ぎに返し、《Pulse Wave(脈波)》の圧力で三人をまとめて捉えた。胸甲が軋む。一人は岩棚の縁を越え、残る二人も五メートルほど先へ背から叩きつけられる。
押し返された身体の向こうから、《Magic Missile(魔法の矢)》の赤い三条が岩粉を突き抜けた。胸と脇腹で立て続けに弾け、《False Life(偽りの生命)》の冷たい影へ亀裂を走らせる。似姿の靴底が岩棚の縁まで滑った。
そこへ北側砲の紫光が一点に絞られ、念弾が似姿の左肩を捉えた。ひび割れた影が白い霧へ砕け、肩から先は氷雪の破片となって岩棚の外へ飛ぶ。細かな雪を散らしながら、似姿は右膝を岩へ打ちつけた。
砲尾で控えていた別の魔導兵が結晶へ両手を重ねる。紫光が砲身へ戻り始める間に、似姿は残る右手を南へ伸ばし、中央に残る護衛四人をラジエルの側へ招いた。自分とデンケンも同じ場所へ寄るよう手で示した。
似姿の指先が最後にデンケンへ向いた時、北側の砲身も窪地へ振れた。絞り直された念弾が中央の岩床を穿ち、噴き上がった岩塊が、残る護衛四人とラジエルたちの間へ崩れ落ちる。
崩落の向こうで、護衛隊長はロングソードを胸前へ引き、切っ先で中央の救援路を示した。濃灰の外套の魔法使いが《防御魔法》を四人の頭上から南側へ広げる。槍兵は盾を外側へ構え、その内側でヘヴィ・クロスボウの兵士が岩の切れ目を探した。
デンケンの《防御魔法》も崩落の上を渡り、四人の前まで届く。ラジエルは救援路へ流れ込むオークを《Rime's Binding Ice(束縛の氷霜)》で一列ずつ止めた。淡青い六角板と氷結列の間に、一人ずつ中央へ戻れる隙間が開く。
槍兵がその隙間へ足を掛ける。南尾根から降った矢を頭上の《防御魔法》が弾き、弩兵は岩の切れ目から一射を返してオーク弓兵の胸を貫いた。倒れた身体を次のオークが踏み越えた時、その肩越しには《Fireball(火球)》が迫り、北側砲の紫光もすでに弩兵へ絞られていた。
火の球が四人を覆う《防御魔法》の外面で炸裂する。爆炎が半透明の面を覆い、縁から回った炎が中央へ踏み出しかけていた槍兵を崩れた岩の上へ倒した。
炎が薄れるより早く、北側砲の念弾が弩兵へ突き刺さる。身体ごと持ち上げられ、背が岩壁へめり込んだ。手から離れたヘヴィ・クロスボウが岩床へ落ちる。
二人がほぼ同時に空けた場所へ、濃灰の外套の魔法使いが踏み込み、護衛隊長の前へ《防御魔法》を張り直す。
そこへギスヤンキ戦士の銀のグレートソードが食い込む。一撃目の亀裂が隣の板まで走り、返す刃がひび割れた六角板を光片へ砕く。戦士は散る光を突っ切り、魔法使いの肩口へ銀の刃を走らせる。濃灰の外套が裂けても、杖先は胸甲から逸れない。
《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》が杖先で白く爆ぜる。光が胸甲の継ぎ目へ潜り込んだのと、戦士の返した切っ先が魔法使いの胸へ深く入ったのは同時だった。
戦士の膝が先に落ち、胸甲の隙間から煙が噴く。剣を引く腕から力が抜けると、魔法使いも杖を取り落とし、護衛隊長の盾の裏へ折れるように崩れた。
護衛隊長は倒れた魔法使いを越えるように前へ出た。崩れた岩の切れ目から振り下ろされたグレートアックスを盾で外し、空いた首筋へロングソードを入れる。返した柄で二体目の顔を打つ間にも、その向こうでは北側砲口の紫光が固まり始める。
念弾は間合いへ入っていた二体目のオークもろとも護衛隊長を岩壁へ叩きつけた。紫の力場が弾け、ロングソードが手を離れる。刃は半ばまで岩床へ突き刺さり、隊長とオークは崩れた岩の下へ倒れた。
ラジエルは崩落の向こうへ伸ばしていた手を止めた。
襲撃が始まってから、まだ一分も経っていない。喉を裂かれた兵士の血は岩の窪みへ流れ切らず、若い兵士の焼けた装具にも火が残っている。
南門で名を呼ばれた十人は、一人も動かない。
デンケンは《防御魔法》を保ったまま、銀のグレートソードを受けた魔法使いから火の中に倒れた若い兵士へ目を移した。南門で新しく加わった二人は、どちらも帝国側を守って倒れていた。
東では炎をまとったオークが凍結列を崩し始め、南の術者は《Silence(静寂)》を保っている。ラジエルは救援路から身体の向きを変え、その外縁へ進んだ。デンケンも《防御魔法》を畳み、ラジエルの右側へ付く。
ギスヤンキの一人が西の岩間を指し、続けてラジエルへ腕を振った。北側砲の砲身とロングボウの列が互いに反対側へ開き、前を塞いでいたオークも両側へ退く。
西の急落から褐色の袖が覗き、手が岩の縁を掴んだ。男は片腕で身体を引き上げるや、割れ目を塞いでいた荷箱を蹴って窪地へ躍り込む。奴隷用の拘束具はない。逆手に握った細身のダガーは、刃の溝まで黒紫の薬液に濡れていた。
男はデンケンの魔力探知に何ひとつ触れないまま、凍結したオークの陰へ消えた。杖頭はまだ東斜面を向いている。
北の岩棚から、似姿が右手で西を示した。ラジエルが振り向く。目に入ったのは凍結したオークの背と岩だけだ──次の瞬間、その死角を走り抜けた男が左後方へ滑り込み、逆手の刃を喉の高さへ跳ね上げた。
《Foresight(予知)》が、刃より先に三つの像を開く。大きく退けば、外へ振られた北側砲の正面へ押し戻される。横へ逃れれば、オークの巨体がデンケンとの間を塞ぐ。
ラジエルはただ一つ血の少ない像へ身体を重ね、男の懐へ半歩滑り込みながら、左肩を刃の軌道から外した。逆手の刃は喉を逸れ、蒼銀の左袖を裂いて上腕を走る。
刃を受けた《False Life(偽りの生命)》の冷たい余力が砕ける。それでも切っ先の勢いは死にきらず、溝を濡らす黒紫の薬液が傷へ入り込んだ。焼ける痺れが胸まで駆け上がり、脈が飛ぶ。膝から力が抜けた。
男は崩れるラジエルを追い、とどめへ刃を返した。肉を裂き、毒も入れた。膝から崩れる重みまで刃に掛かった。間違いなく仕留めた。そう告げる右手の先で、ラジエルがまだ立っている。目と手が互いを否定し、刃が止まる。
この日に残していた最上の《Portent(予見)》は、傷を負ってなお立つラジエルを、刃より先に未来の事実として成立させていた。
暗殺者の刃が宙で止まった隙を突き、ラジエルは《Telekinetic Shove(念動突き)》を男の胸へ叩き込んだ。衝撃が身体を横からさらい、右肩を岩壁へ打ちつける。緩んだ指からダガーが零れた。黒い雫を散らす刃が岩へ届くより早く、ラジエルは柄を掴み取った。《True Strike(百発百中)》の占術光が崩れた構えへ一本の軌道を引く。拾った勢いのまま返した刃は右肩口へ深く沈み、溝に残る薬液まで傷へ押し込んだ。
デンケンが西へ振り向いた時には、男の右腕はすでに垂れ、膝が岩床へ落ちていた。ラジエルの右手には、血と黒い薬液に濡れたダガーがある。杖頭に白光が灯ったものの、男の目はもうラジエルにも武器にも向いていない。デンケンは胸へ向けた杖を下げ、光を消した。
男は左手で喉を掻くが、爪を立てる力さえ残っておらず、毒に背を引かれるたび踵だけが岩を打つ。戦いはすでに終わり、毒だけが苦痛を引き延ばしていた。デンケンはその一打を見届け、下げた杖頭を額へ据え直した。次の痙攣が男の背を折る前に、《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》が額を貫く。頭部が西の岩間へ飛び、跳ねていた踵も二度とは上がらなかった。
南尾根で銀のグレートソードが上がった。ギスヤンキの指揮官は切っ先をラジエルへ据え、そのまま窪地へ振り下ろす。
左右へ退いていた弓列が一斉に返り、引き絞られた矢尻でラジエルを囲む。北側の砲身も紫光を曳いて旋回し、銀のグレートソードを持つ前衛は男を通した岩間を両側から狭めてきた。開いていた射線が、今度はラジエル一人を中心に閉じていく。
あの空白は、現地の旅装をした暗殺者を自分の懐へ通すために作られていた。
南門で突然ずらされた出立時刻、旧街道、護衛の列から刃を向けた随行魔法使い、そして目の前の毒刃と砲口までが、ラジエルの中で一本の道に繋がった。世界を守るための派遣は、北部高原へ自分を運ぶ道ごと、殺害の段取りに使われていた。
ラジエルは血の滲む左腕を曲げ、腰の書物入れから古い魔導書を引き出す。古びた表紙を見たデンケンは眉をわずかに動かし、杖を構えたままラジエルの右側へ入る。三メートルもない距離で並んだ二人へ、紫光を曳く北側砲口が向き直った。
南側の《Silence(静寂)》の外縁までは遠くない。だが、焚き火のあった窪地中央から外縁までをオークとギスヤンキの前衛が塞ぎ、東斜面には《Hypnotic Pattern(催眠文様)》に囚われた敵が立ち尽くしている。
二人は動かない敵の列に沿って南へ進んだ。窪地の中央から外縁まで斜めに続く氷結列を遮蔽物にし、砲口から身を隠す。その氷の上を、ロングボウの斉射が越えた。
《Foresight(予知)》が重ねた像では、一本がラジエルの喉を貫いている。ラジエルは《Portent(予見)》に残っていた別の結果を、その一射の先へ割り込ませた。射手の姿勢も風向きも変わらない。それでも現実の矢は、ラジエルの右脇を抜ける。
残る二本へデンケンが杖を振った。《防御魔法》が二人の前へ滑り込み、矢尻を横へ弾く。逸れた一本は、行く手へ踏み出したオークのレザーを裂き、上腕へ浅い傷を残した。オークは肩越しに弓列へ牙を剥いたが、首輪に紫光が走ると、血を垂らしたまま前へ向き直る。
その傷を負ったオークの背後から、氷結を免れた一団が回り込んでいた。ギスヤンキの戦士も列の間へ入り、銀のグレートソードを並べて二人の行く手を塞ぐ。デンケンがその先へ杖頭を振ると、数メートル前の岩床から《ヴァルドゴーゼ(竜巻を起こす魔法)》が立ち上がった。
砂と火を巻き込んだ渦は二人の前を横切り、先頭のオークを左右へ放り出す。銀のグレートソードを構えた戦士たちも踏み込みを崩されたが、倒れた者の間へ後列が雪崩れ込んだ。風の縁を抜けて《Wall of Force(力場の壁)》の南端へ走る一人を、ラジエルの《Telekinetic Shove(念動突き)》が横から捉える。戦士は肩から氷の列へぶつかり、手を離れた銀のグレートソードが地面を滑った。
空いた場所へ、もう二体のオークが肩を入れる。ラジエルが血の付いたダガーを返すと、その切っ先から《Ice Knife(氷のナイフ)》が走った。氷の刃は先頭の胸へ食い込み、背後から味方がぶつかったところで炸裂する。白い破片が密集した腕と脚を打ち、前列が膝を折った。その背へ後続がつかえ、南へ続く隙間がわずかに開く。
二人はその隙間を押し広げるように、北から伸びる《Wall of Force(力場の壁)》の西側へ寄った。東側砲の念弾がすぐ左の透明な面へ潰れ、紫の力場を円状に広げる。ラジエルが壁面に沿って南へ踏み込み、デンケンも右斜め後ろに続いた。
北の岩棚で、似姿は残る右手を壁際へ殺到する一団へ向けた。ラジエルを外して術を放てば、そのすぐ脇へ食いついた前衛が残る。似姿は《Mind Blank(空白の心)》と《Foresight(予知)》の掛かったラジエルごと一団を捉え、短い術句を結んだ。
《Synaptic Static(脳神経抑圧)》が一団の頭蓋の内側で炸裂した。先頭のオークは走る勢いのまま顔から岩へ落ち、後ろのギスヤンキも銀の刃を振り上げた姿勢で崩れる。どちらも二度とは動かなかった。衝撃の後端はラジエルまで呑み込んだが、足取りは乱れない。
生き残った戦士の銀刃は狙いを失って味方の肩当てを叩き、頭を抱えたオークも脚をもつれさせて横へ倒れた。乱れた列をラジエルが南へ抜ける間に、似姿は足元へ《Dimension Door(次元扉)》の暗い縁を開く。そこへ踏み込み、ラジエルのすぐ左後方へ現れた。
デンケンも遅れず壁際を抜け、三人は《Silence(静寂)》の外へ出た。砂利を踏む音に、竜巻の轟きとオークの怒声が一度に戻る。
ギスヤンキの指揮官が片手を柄から離し、南へ振った。
「Circle south! Archers, seal the escape route!(南へ回れ! 弓兵、逃げ道を塞げ!)」
斜面の上で号令が重なり、オーク弓兵のロングボウが三人へ向き直る。似姿が右手で壁際を示すと、ラジエルとデンケンは透明な面の陰へ身を入れた。飛来した矢はそこで弾かれ、折れた軸が足元へ散る。
壁の南端では、銀のグレートソードを持つ戦士とグレートアックスを構えたオークが、透明な面の切れる場所へ幾重にも詰め寄った。
壁の陰で、デンケンは火の残る窪地へ一度だけ振り返る。
「……このままにはせん。全員、必ず帝国へ連れ帰る」
デンケンが窪地から視線を戻すと、ラジエルの左袖は上腕から流れた血で濡れていた。
「同じ刃を受けた男は、瞬く間に立てなくなった。あれほどの毒を受けて、本当に大丈夫なのか?」
「占いの言葉を信じるなら、今日は毒で死ぬ日じゃない。問題なく《Teleport(瞬間移動)》も使えるよ」
デンケンの眉間に皺が寄る。だが、東側の砲口では紫光がすでに膨らんでいた。
デンケンは杖頭を壁の南端から半ば出し、その先に見える砲尾の結晶へ《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》の白光を集めた。放たれる寸前、血の付いたダガーが横から杖先を遮った。デンケンは白光を消す。
ラジエルは刃を返し、砲座から壁の南端まで折り重なる敵をひと息に示した。握りの上で指が動き、術式が刃を巡る。
透明な面の向こうで、岩床の砂利が震え、数粒が指一本ほど浮いた。割れ目に溜まった土も薄い渦となって一瞬だけ巻き上がる。浮いては落ちる土と小石が、密集した敵の足元へ帯状に連なった。
デンケンの目が砲尾を離れ、敵の足元に連なる土と小石を追った。
「……何をする気だ?」
「敵が狭いところへ集まりすぎたからね。少し立つ場所を変えてもらうよ」
刃を巡る術式がもう一層増え、ラジエルは低い声で詠唱を始めた。
「結末はもう見えている。君たちの落ちる先は――空だ」
最後の一節で、ラジエルは《Hypnotic Pattern(催眠文様)》を支えていた《精神集中》を切った。東斜面で立ち尽くしていたオークとギスヤンキが顔を上げる。その足が動き出すより早く、《Reverse Gravity(重力反転)》の術式が岩床へ走り、透明な壁を西縁として、壁の南端から東斜面までの重力が反転する。
岩床の割れ目から土が薄い幕となって剥がれ、砂利を巻き込みながら一瞬で夜空へ噴き上がった。折れた矢と落ちていた武器も後を追い、そのまま空へ向かって落ち始める。壁の南端へ詰めていた前衛も、催眠から解けたばかりの列も、互いの身体に腕を阻まれたまま岩床を離れた。
「What is this!? Why are we falling up!?(何だ!? なぜ上へ落ちる!?)」
オークの叫びが武器とともに上へ遠ざかる。
「The ground—why is it moving away!?(地面が――なぜ遠ざかる!?)」
叫びながら、ギスヤンキ戦士は岩へ手を伸ばしたが届かない。隣のオークを蹴って身を寄せても、指は岩肌を掠める。二人は鎧ごと回りながら夜空へ流されていく。岩を掴んだ数体だけは縁に残ったが、オークとギスヤンキの大半は上空へ落ちていった。透明な壁の西側にいた三人と、崩落の向こうに倒れた護衛たちの身体だけは岩床を離れていない。
東側の砲架は、支持脚を岩へ食い込ませたまま残る。砲尾の魔導兵だけが上空へ引き剥がされ、結晶から手が離れた。膨らんでいた紫光も砲口の前で崩れる。
南尾根の縁にいた指揮官だけは、重力の反転した範囲の外に残った。境界の内側で、術者の足が岩床を離れかける。青白い霧がその身体を包んだ。生来の《サイオニック》による《Misty Step(霧渡り)》で姿を消し、次の瞬間には指揮官の脇へ転がり出た。
ラジエルは左手の魔導書を握り直す。擦れた表紙と欠けた留め具から、ゼーリエの広間を意識に定めた。右手のダガーから血が一滴落ち、岩の上で弾ける。
ギスヤンキの指揮官が、魔導書を持つラジエルへ腕を突き出した。
「Stop the teleport! Disrupt him!(転移を止めろ! 発動を潰せ!)」
ラジエルは《Teleport(瞬間移動)》の詠唱に入った。その声を追って、霧から逃れた術者が指先へ《Counterspell(呪文妨害)》を組み上げる。だが、干渉が放たれたところへ似姿の《Counterspell(呪文妨害)》が横から割り込み、青白い光を術者の手元で散らした。ラジエルの声は、途切れず次の一節へ進む。
その応酬の陰で、指揮官は《Misty Step(霧渡り)》の霧へ消えていた。《Wall of Force(力場の壁)》を越えた西側の岩棚へ現れるや、脚甲に《Enhance Leap(強化跳躍)》の光を走らせて岩を蹴る。銀のグレートソードを振りかぶった身体が、斜め上からラジエルへ落ちてきた。
デンケンが杖を振り上げると、銀の刃とラジエルの間へ《防御魔法》が立ち上がった。淡青い六角板が次々と縁を噛み合わせ、振り下ろされたグレートソードを正面の一枚で受け止める。跳躍の勢いを殺しきれない指揮官も、その六角板へ胸甲から激突した。連なった板は深く撓んだが、刃も身体もラジエルまでは届かない。
《防御魔法》を形作る六角板の継ぎ目へ青白い光が走るさなか、北側のサイオニック砲が紫光を吐き出した。念弾は岩床を抉り、砕けた石を巻き上げながら三人へ迫る。
ラジエルの詠唱が最後の一節を結び、足元から《Teleport(瞬間移動)》の光が立ち上がった。その光に輪郭を呑まれる刹那、ラジエルは《Reverse Gravity(重力反転)》へ繋いでいた意識をほどく。空へ落ちていた兵と武器が一斉に向きを変え、今度は岩場へ降り始めた。
転移の光が三人の輪郭をさらった直後、念弾は無人の岩床を砕いた。その轟音は彼方に残り、ラジエルの片膝を受け止めたのは、赤い縁取りの敷物と、その下の冷えた石床だった。火と血、砕けた岩の匂いも断ち切られ、乾いた紙と古い木の匂いへ入れ替わる。
顔を上げた先には、天井の高い大広間が広がっていた。入口から窓前の椅子まで淡色の敷物がまっすぐ伸び、その両側には古びた魔導書の棚と、高さの違う本の山が続く。奥の大窓は、斜材に区切られた淡い壁の間で夜を映していた。
転移の余波が敷物の房を持ち上げ、戦場から運ばれた灰と細かな氷を、片膝をつくラジエルの周囲へ半円状に散らした。左手には古い魔導書、右手には血の付いたダガーが残り、裂けた左袖から新しい血が落ちる。右側では、白襟と長衣を煤で汚したデンケンが、杖を石床へ突いて転移の揺らぎに耐える。左後ろには、左肩から先を失った似姿が立ち、断面からこぼれる氷雪が敷物の上で溶け始める。
大窓の前では、ゼーリエが彫刻の施された椅子へ深く腰掛けていた。手元の本から目を上げ、敷物の中央にいる三人を見る。
「来たか」
「外れてほしい未来だったよ」
ラジエルは左手の魔導書を敷物へ置いてから立ち上がった。
ゼーリエの視線が血の滲む左袖から、その後ろに立つ同じ顔へ移る。最後にデンケンの顔で止まった。
「夢にいた片眼鏡の男だな。名は?」
「デンケンだ。帝国の宮廷魔法使いで、今回の派遣では同行監視を任された」
その名を聞き、ゼーリエはデンケンの顔を改めて見た。
「お前がデンケンか。帝国での働きはよく聞いている」
「それは光栄だ。大陸魔法協会の創始者と、こんな形で顔を合わせるとは思わなかった」
「私も現実になるかは半信半疑だった。だが、この有様でも見た中では一番ましだ」
ゼーリエの視線が、ラジエルの裂けた左袖へ戻る。
「治療は要るか?」
「このくらいなら自分で何とかできるよ」
ラジエルはダガーを敷物の脇の石床へ置き、右手を裂けた左袖へ添えた。声と指の動きに応じ、《Arcane Vigor(秘術の活力)》が胸の奥から生命力を引き上げ、青白い光となって傷へ走った。ラジエルが一度深く息を吸うと、指の下で流れていた血も止まる。
光が消える頃には裂けた皮膚が寄り、左袖に乾ききらない血だけが残る。ラジエルは敷物の魔導書を拾い上げ、ゼーリエへ差し出した。
「返すよ。おかげで、ここへ確実に来られた。ありがとう」
ゼーリエは読みかけの本を椅子の脇へ退け、魔導書を受け取った。
「礼はいい。余白は書いたのか?」
「書けるところは書いたよ」
留め具を外し、頁をめくる。余白に増えた書き込みを二、三行追ったところで、ゼーリエは顔を顰めた。
「お前……字が汚すぎて読めんぞ」
ラジエルは開かれた頁を覗き込み、すぐには顔を上げなかった。
「……この世界の文字を書くのは、まだ練習中なんだ」
ゼーリエは小さく鼻を鳴らし、魔導書を閉じずに最初の書き込みへ指を戻した。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。