界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

3 / 21
魔族ソリテールは異界の干渉を呼び込んだ謎の魔族と対話し、その存在が世界を進化させる可能性を語る。一方、城塞都市では異界の侵略が本格化し、騎士団や神殿が対応を迫られる。山岳地帯でフリーレン一行と合流した異界の魔法使いタヴは、魔法都市オイサーストへ向かうが、都市の結界が彼を危険存在と認識。やがて伝説の魔法使いゼーリエが現れ、タヴに模擬戦を挑む。


#3:観察者たちの境界

 歪んだ空間の狭間に、それはあった。塔とも巣ともつかぬ構造物──石と骨と記憶でできたようなその場所は、常の世界から切り離されたように静謐で、外界の音すら届かない。光は反転し、空間は捻じれ、重力の概念すら曖昧な、魔族の深奥。

 

 そこに、ゆらりとひとつの影が差す。現れたのは、翠緑の長い髪を風に揺らし、白いワンピースに茶色のカーディガンを羽織った少女の姿をした魔族──ソリテール。額には小さな角が二本突き出し、瞳は澄んだ緑色に微かな知性と愉悦を湛えている。

 

 魔族──言葉を操り、人間に擬態しながらその命を奪い、時に肉を喰らう、人知を超えた存在の総称。表面上は人間と変わらぬ姿をしていても、その本質は異なる理に根ざしている。彼女の視線の先、塔の中央に広がる水面のような反射体。その奥から、無名の魔族が姿を現した。

 

 姿、とは言っても、明確な輪郭を持つわけではない。液状の黒と青が層をなして蠢き、仮初めの四肢と仮面じみた顔を構成しているだけ。形は絶えず変化し、時に歪み、時に滲む。それは生物というより、概念の断片だった。

 

 ──人を殺して喰らうことに関心がないのなら、人の形に擬態する理由もない。そう考えれば、この異形のまま存在していることにも説明はついた。

 

【……来たか】

 

 声は発せられていないのに、意味が脳に届く。思考の震え、精神の反響──それがこの魔族の会話手段だった。

 

「ふふ、招かれざる客かもしれないけど、そう悪くは思っていないでしょ?」

 

 ソリテールは笑いながら、塔の中心に歩み寄った。床が存在するかすら曖昧なその空間を、彼女は重さを感じさせずに進む。

 

「けっこう面白いものを招いてくれたじゃない。風と雷を纏った異界の使い、空から舞い降りてきて、常識じゃ説明できない現象を引き起こして……あれはあなたの計画だったの?」

 

【あれは、予期された変数に過ぎない。座標が破れれば、接続は不安定になる。外因が流入するのは、当然の帰結だ】

 

 淡々と告げられるその言葉は、すべてを計算の一部とするかのような冷ややかさを帯びていた。

 

「それにしてもね。あの銀の鎧の戦士たち、触手を生やした精神干渉者……あれらがこの世界に居ついたら、世界の文明はひとたまりもないわ。あなたはそれでも構わないの?」

 

 ソリテールの声音に、わずかに棘が混じる。研究対象としての人間社会が、脅かされることへの危機感。その視線は、塔の中心に揺れる影をじっと見据えていた。

 

【構わない、というより──必要だとすら思っている】

 

 重い返答が空間に染み渡る。その後、無名の魔族の輪郭が微かに揺れ、次の言葉を編み出す。

 

【そして、嵐を纏った男は、この流入に対する均衡を保つ楔になる可能性を秘めている。己の意思で、外因を剪定する役割を担うかもしれない】

 

 その言葉に込められていたのは、期待というよりは観察者としての仮説にすぎなかった。だが、そこには確かな見込みがあった。

 

 そして、ぬらりと空間が揺れ、無名の魔族の影が天井までのびる。塔全体が思考の奔流に共振しているようだった。

 

【この世界は長く、閉じていた。魔族も、人も、天も、地も。外部からの刺激を拒み、循環の中に埋没している。進化を忘れたこの箱庭に、流動性を与える何かが必要だった】

 

 言葉と同時に、塔の壁面が波打つように歪む。まるでその思考が空間に直接触れ、物理法則を一時的にねじ曲げているかのようだった。

 

「ギスヤンキやマインド・フレイヤーが、その何かだと言うの?」

 

 ソリテールの声には、皮肉とも嘲笑ともつかない響きがあった。好奇心と警戒心、その両方がにじんでいる。

 

【可能性の一つとしては、そうだ。彼らは外界の遺物。異常を孕んだ概念。世界に裂け目を刻む存在……刺激としては、十分だ】

 

 ソリテールの笑みが、わずかに消える。

 

「滅びも進化の一種──そう言いたいのかしら?」

 

 言葉は柔らかくとも、そこに含まれる意思は明確だった。彼女は、この世界の崩壊を当然とは認めていない。

 

【滅びは、淘汰の一形態に過ぎない。適応できなかった文明が崩壊するのは、自然な流れだ】

 

 その語り口には、断罪も、嘆きもなかった。あくまで一つの観察結果として、淡々と述べるのみ。

 

「……ふうん」

 

 彼女は腕を組み、魔族らしからぬ思慮深げな溜息をひとつついた。視線はやや上へと向けられ、塔の天井に映る歪んだ空の反射を眺めていた。

 

「でも私はね、この世界が滅びるのは困るの。ほら、私は人間の生態が大好きで、彼らの文明があるからこそ観察にも意味がある。研究対象が全部灰になったら、退屈にもほどがあるじゃない?」

 

【君が、この世界の知的生命を好むことは知っている】

 

「好むだけじゃないわ。私、彼らが作る物語や、感情や、歴史の連なりをずっと見ていたいの。戦争も、発明も、恋愛も、裏切りも。そのためには、ある程度秩序が必要なの。ねじれた進化じゃなくて、観察に値する成長がね」

 

 塔の天井が、ゆっくりと回転するように揺れる。空間そのものが、彼らの思考を受けて変形している。足元の床さえ、波打つように形を変え、塔そのものがひとつの生命体のように呼吸しているかのようだった。

 

【私たちの立場は異なる。私は、観察者であると同時に、進化の触媒でもある。君は、秩序ある観察を望む。だが、両立はできるかもしれない】

 

「できないとは言わない。でもね、あれを引き込んだのはあなた。あの塔の裂け目がなければ、彼らは来なかった」

 

 ソリテールの声に、微かな責めが混じる。だが、それは糾弾ではなく、あくまで事実の確認にすぎない。彼女は真実を見落とさない者の眼差しで、塔の中心に揺れる異形を見つめていた。

 

【それは否定しない】

 

 無名の魔族の姿が、ゆるやかに再構築される。中心に目のような構造が浮かび上がるが、すぐに滲んで消える。魔力の奔流が静かに揺れ、塔の空間に薄い波紋を広げていく。

 

【私は門を開いた。彼らは通った。その事実に善悪はない】

 

 その言葉は、あまりにも静かで、あまりにも冷たかった。まるで万物を等価に見る存在の視点から発された、世界の機構そのもののような響きだった。

 

「でも結果がある。タヴ──あの男も含めてね」

 

 その名を口にした瞬間、空気がわずかに緊張を帯びた。

 

「もしこのまま、彼らがこの世界を汚染し尽くしたら、あなたの研究材料も観察対象も、すべて消える。後に残るのは……無秩序な死だけ」

 

 沈黙。しかし、それは対立ではなかった。

 

【では、こうしよう。私は今後、直接的な干渉は控える。ただし、観察は続ける。タヴの動向、世界の反応、そして……君の行動も含めて】

 

「見てるだけってこと?」

 

【観察者の本分だ】

 

「ま、そういう立場なら、私もやりやすいわ」

 

 ソリテールはくるりと背を向けた。塔の出口もない空間を、まるで見えているかのように歩き出す。

 

「この世界を滅ぼすのは、私の趣味じゃない。進化も悪くないけど、壊しすぎると面白くないのよね」

 

 そして、振り返りもせずに言った。彼女の声は柔らかかったが、そこに込められた意志は鋼のように冷たく強い。

 

「……あの門、あれを開いたのがあなたの導きだったとしても、その向こう側と結びついた狂信者たちには気をつけることね。あなたの観察対象が、あっけなく焼き払われる前に、よく見極めることね」

 

 わずかに風が揺れた。空間がほんの一瞬、脈打つように震える。

 

【そのときは、私もまた、変化の一環を担うだけだ】

 

 応答は静かだったが、そこには確かな覚悟があった。自分の選択の結果すら、観察の一部として受け入れるという、非情なまでの冷静さ。

 

 やがて、ソリテールの姿が音もなく溶けるように消え、無名の魔族の輪郭も再び曖昧に解けていく。塔の中には、誰にも踏み入れられぬ知性と、世界の底を揺るがす沈黙だけが、ゆっくりと広がっていた。

 

 *

 

 城塞都市の中央、旧政庁を転用したノルム商会の本館──その最上階にある応接室には、重苦しい沈黙が流れていた。

 

 元政庁とはいえ、今や都市の実質的な中枢機能はノルム商会が掌握していた。情報網、交易路の管理、護衛兵の運用、一部の宗教機関への干渉までも──すべては商会長ノルムの意向ひとつで動いている。

 

 重厚な黒木の卓を挟み、騎士ヨアヒムは背筋を伸ばし、報告を終えた。鎧の肩当てが微かに軋み、その金属音が静まり返った室内にひときわ鋭く響いた。

 

「……以上が地下礼拝堂にて確認された異変の全容です。魔族の痕跡は確認されませんでしたが、精神に干渉し、人の脳を喰らう異形、マインド・フレイヤーが潜んでいました」

 

 ヨアヒムはそこで言葉を切り、わずかに表情を曇らせて付け加えた。

 

「そして被害者についても……申し上げるのは心苦しいですが、《Ceremorphosis(脳変成)》という変質が進行しています。彼らの脳内には既に異界生物の幼生が根付いており、これ以上の進行を防ぐ方法は……殺処分以外にありません」

 

 ノルムの表情は微動だにしなかった。ただ静かにヨアヒムを見つめ、低く問い返す。

 

「治療の手段はないのですか?」

 

 その問いに、隣に控えていた壮年の神官ルドルフが重々しく答えた。

 

「我々も可能性を検討しました。しかし、幼生は宿主の脳に深く根を下ろしており、この世界の魔法や医術では治療は不可能に近いのです。タヴ殿──異界より来たというあの人物の話によれば、元に戻すには神の奇跡に匹敵する魔法が必要であり、現状の我々には対処できませんでした」

 

 その言葉に、若い女神官エルゼが胸元を押さえ、震えた声で続けた。

 

「保護した変質者の数は十五名ほど……ですが、まだ市内で発見されていない被害者がさらにいる可能性があります。初期段階とはいえ、早急に対処しなければ、新たなマインド・フレイヤーが生まれ、都市の被害がさらに拡大してしまいます。大変つらい選択ですが、犠牲者への慈悲としても、早急な処置をお願いしたいのです」

 

 ノルムは目を閉じ、小さく息を吐いた後、静かに頷いた。

 

「……認めましょう。あなた方の判断は正しい。都市の安全のためにも、これ以上の犠牲を防ぐためにも、やるしかないでしょう」

 

 そのとき、ヨアヒムが再び口を開いた。

 

「もう一つ、ご報告すべき重要な点があります。今回の件にはマインド・フレイヤーだけでなく、ギスヤンキという異世界の戦士集団が絡んでいます。彼らは旧市街区画、工房跡地下に異界への通路を開くための装置を設置していましたが、それはタヴの手によって破壊されました」

 

 ノルムが僅かに眉を寄せ、静かな声音で問い返す。

 

「なるほど……旧市街区画で発生した大きな魔力反応は、その装置の破壊が原因でしたか」

 

 ヨアヒムは頷き、慎重に言葉を続ける。

 

「私が現場に急行したときには、すでに装置は完全に破壊され、周囲にその残骸が散らばっていました。しかし、タヴの姿は既になく……おそらく彼は装置を破壊した後、上位のマインド・フレイヤ──―ウリサリッドを追って都市を離れたのだと思われます」

 

 ノルムが眉をひそめ、鋭い視線を返した。

 

「ウリサリッド……それはどのような存在なのです?」

 

 今度はルドルフが静かに応えた。

 

「マインド・フレイヤーの中でも特に強力な指揮官級の個体であり、いずれはエルダーブレイン──コロニーの中枢となる存在──へと進化する恐れのある危険な個体とのことです。もしそれが新たな拠点を築けば、再び都市は精神干渉に晒され、今回を遥かに超える被害が出る可能性があります」

 

 ノルムは深く考え込むように目を閉じ、一拍置いてからゆっくりと言った。

 

「そのウリサリッドの捜索を急がねばなりませんね。状況は緊迫していますが……現在、都市内部にその個体がいる兆候はありますか?」

 

 ヨアヒムが首を横に振り、申し訳なさそうに答えた。

 

「いえ、現時点ではありません。捜索は続けていますが、少なくとも都市内にはいないと思われます。おそらく、コロニーを再建するために、すでに別の地域へと逃れた可能性が高いかと」

 

 ノルムは目を開き、厳しい表情を見せながら頷いた。

 

「……では、都市外も視野に入れ、引き続きウリサリッドの追跡を最優先に動いてください。こちらもできる限りの協力をいたしましょう」

 

 ヨアヒム、ルドルフ、エルゼは揃って頷き、急ぎ応接室を後にした。

 

 *

 

 一方、地下礼拝堂では、九級魔法使いであるミーナが独り、慎重に調査用の魔法を展開していた。

 

 ミーナは階級こそ見習いであるが、それは大陸魔法協会が実施するより高い階級試験を、日程や状況が合わずに受験できていないだけだった。実際には既に、協会が一人前と認める五級魔法使い以上の実力を持っている。

 

 彼女が今構築しているのは《レムヴェリト(魔力の残響を視る魔法)》と呼ばれる、魔法発動の痕跡や微細な魔力の流れを詳細に捉えることができる観測魔法だ。

 

「……視よ、揺れる流れよ、形なきものの軌跡を……《レムヴェリト(魔力の残響を視る魔法)》」

 

 ミーナが静かに詠唱すると、触媒となる水晶が淡く光り始めた。その直後、彼女の視界が急激に歪む。

 

 白と黒の幾何学模様が視界を覆い尽くし、次元の裂け目が眼前に広がった。裂け目の彼方──そこに何かが蠢いている。輪郭の曖昧な触手めいた存在が揺れ、こちらを覗き込むかのように視線を送ってきた。

 

 ミーナは魔法を即座に解除した。水晶は手の中で砕け散り、乱れた呼吸を整えることもままならなかった。魔法自体はそれほど高負荷ではないはずだったが、異界との直接的な接触がもたらした想定外の負荷は彼女の想像を超えていた。

 

 彼女は震える手を押さえつけながら、薄暗い地下空間でただ呆然と立ち尽くしていた。

 

 *

 

 後刻、ヨアヒム、ルドルフ、エルゼは都市郊外でミーナと合流した。彼らはお互いに状況を確認し合った。

 

「私も独自に魔法で調査をして、幻視で見た裂け目の向こう側に、何かが潜んでいるのが見えた。あれは……恐らくタヴさんの言っていたエルダーブレインだと思う」

 

 ミーナは微かに震えながら告げた。

 

「こちらは旧市街区画の工房跡地下で魔力の大きな反応があったと連絡を受け、現場に急行したが……到着した時には、既に何も残っていなかった」

 

 ヨアヒムはその場にあった装置の残骸や、タヴが破壊した後の様子を思い返しながら話した。商会長ノルムにはタヴがウリサリッドを追って都市を離れた可能性が高いと報告していたが、実際のところ彼自身は、それを疑っていた。

 

 タヴは明確に「後で合流する」と言っていたのだ。彼が報告なしに姿を消すことは考え難い。現場の状況から直感的に、何らかの予期せぬトラブルに巻き込まれたのだとヨアヒムは理解していた。

 

 ルドルフは静かに目を閉じ、小さく息を吐く。

 

「いずれにせよ、もう時間がない。我々で対応を進めるしかない」

 

 四人は互いの顔を見回した。ミーナが魔法を越えて触れた存在、ヨアヒムが感じた違和感、そして消えたタヴ──すべてが示しているのは、この異変がすでに「始まってしまった」という事実だった。

 

 誰も口にはしない。だが、それぞれが覚悟を新たに、目の前の現実に立ち向かうため再び歩き出した。

 

 *

 

 キュール地方──北側諸国の中では比較的過ごしやすい、涼やかな気候を持つ地域。長く険しいオッフェン群峰を越え、一行はようやく緩やかな丘陵地帯へと差し掛かっていた。

 

 冷たい山風は次第に和らぎ、風に混じる匂いも変わっていた。湿った土と若い草の匂い。空気の密度が変わっていく感覚が、季節でも地理でもない、世界の相の移ろいを示していた。

 

 先頭を歩くのはフリーレンだった。背筋を伸ばし、何も語らず、それでいて確かに進み続ける。銀の髪が風にたなびき、道の先に一筋の導を描いているようだった。

 

 そのすぐ後ろを、黒い外套を纏った男が歩く。タヴ。装束は旅と戦いで傷み、ところどころが擦り切れほつれている。その左腕にはまだ新しい黒布が巻かれていた。再生したばかりの腕を守る簡易的な保護だ。右腰に吊るしたウォーピックが歩くたび、金属の鈍い音を刻む。

 

 やや後方を、フェルンとシュタルクが並んで歩いていた。彼らの距離は、警戒と信頼の中間にあった。無言ながらも意識を向け合い、状況を観察し続けている。旅の空の下で交わされる沈黙には、情報の交換以上の意味がある。

 

 そして、タヴがノルム商会領での出来事を語り終えたばかりだった。

 

 タヴは都市内の旧工房区域の地下で、ギスヤンキが次元を超える通路を開くための装置、位相アンカーを設置していたことに気づく。

 

 さらに、都市内部はすでにマインド・フレイヤーの精神干渉が広がり、深部の礼拝堂地下で住民が異形へと変質しかけているのを目撃した。タヴはマインド・フレイヤーへの対処を優先し、礼拝堂地下でマインド・フレイヤーとの交戦に至る。

 

 ギスヤンキの斥候部隊も現れ三つ巴の混戦に陥るが、マインド・フレイヤーのコロニーを制圧することに成功。続いて位相アンカーを破壊するため、旧工房区域の地下に向かう。

 

 そこでも三つ巴の混戦となるが、位相アンカーの破壊には成功する。しかし、暴走した位相アンカーにより中途半端な転移が発生し、タヴ自身もその転移の渦に巻き込まれ、空へと投げ出された、と。

 

 その一連の話を聞いた彼らは、ただ静かに受け止めていた。ようやく、フェルンが口を開く。

 

「……ノルム商会領の城塞都市に、身分証もなしにどうやって入ったのですか?」

 

 口調は静かで冷静だった。だがその眼差しは、まるで細密画を描くようにタヴの横顔を見つめている。

 

 タヴは肩をすくめ、少しだけ乾いた息を漏らした。

 

「……裏手の搬入路が甘かった。監視の切れ目があってな。そこから、こっそりと」

 

「……犯罪じゃないですか」

 

「違法なのは承知の上だった。ただ、時間がなかった」

 

 フェルンは頷いた。だがその表情に驚きはない。むしろ予想通りとでも言いたげな静けさだった。

 

 会話に割り込むように、シュタルクが口を開いた。

 

「ま、まあ……緊急事態だったんだろ?マインド・フレイヤーだっけ?そいつらがなんか悪いことしようとしてたんだろ?だったら、仕方なかった……かもな……」

 

 口調はどこか歯切れが悪い。理解はあるが、納得しきれない。その曖昧さが、かえって彼のまっすぐさを物語っていた。タヴはわずかに笑い、目を細めて言う。

 

「……そういう判断をした。結果は……悪くなかったと信じたい」

 

 そのまま、一行の足音だけが続く。風が草原を撫で、空は晴れ渡っていた。やがて、タヴがふと前を見据えたまま言う。

 

「そういえば、俺のクォータースタッフを探してくれた時に聞きそびれていたが、どんな魔法を使って見つけたんだ?」

 

 声の先は、フリーレンに向けられていた。

 

「《失くした装飾品を探す魔法》。あなたが杖に小さな宝石が嵌めてあると教えてくれたから、装飾品として位置を割り出したよ」

 

 フリーレンは振り向かず、淡々と返した。足取りはそのまま、まっすぐ前だけを見ている。タヴはわずかに笑みのような表情を浮かべた。

 

「なるほど……短時間で正確に落とした位置を特定していたから気になってたんだ。こっちにも《Locate Object(物体探知)》という探知魔法はあるが、俺は習得していなくてな。とにかく助かった」

 

 タヴは改めて感謝を伝える。《Locate Object(物体探知)》とは、術者が近くで一度は間近に見た特定の品、あるいは「装飾品」や「武器」など同種の品の最寄りを探り、物品の方角を感知する魔法だ。届く範囲はおよそ三百メートル圏で、対象が動いていれば移動の向きも分かる。ただし、術者と対象の間に鉛が一枚でも挟まれば感覚は遮断される。フリーレンが用いた魔法は装飾品に限るが、種別を絞る分、反応は速く、位置の絞り込みも正確なのだろう。

 

 タヴのクォータースタッフは《Arcane Focus(秘術焦点具)》としての役割を持つ。これは、宝石の埋め込みや精密な彫刻を施して魔力の流れを集め、術者の意識を一点に結ぶための道具だ。発動に物質要素が必要な呪文において、明確に量が定められている場合を除き、物質の代わりを務めることができる。焦点用に埋め込まれた宝石は装飾品でもあるため、今回はそれが《失くした装飾品を探す魔法》の対象となった。

 

「ただの民間魔法だよ。私たちの世界では、魔法は用途別に分類されている。掃除、洗濯、収穫、医療、捜索……生活に必要なものは、魔法使いでなくても使えるように簡易化されていることが多い」

 

 フリーレンの言葉に、フェルンも補足するように加えた。

 

「……民間魔法の中には、国が管理してるものもあります。使用には資格が必要な魔法もありますが、多くは誰でも学べるようになっています」

 

 タヴは興味深そうに頷く。

 

「一般向けに用途を絞った魔法が普及してるのか。この世界の魔法は、目的が明確で単機能化される傾向があるんだな。俺のいた世界とは、根本的に違う」

 

「どう違うのですか?」

 

 フェルンが静かな声で問いかけた。タヴは少しの間言葉を探し、空を見上げてからゆっくり口を開いた。

 

「そうだな……まず、魔法そのものの捉え方が違う。こっちでは、魔法は汎用性を重視する傾向が強い。例えば光を灯す《Light(光)》という単純な魔法ひとつでも、戦闘中の目くらまし、暗闇での探索、あるいは合図代わりにも使えるように、状況に応じて自由に使い方を変えられる」

 

 タヴは指を軽く鳴らした。微かな魔力の揺れが指先に宿る。だが、光が灯ることはなかった。ただ、話の流れを強調するための仕草だった。

 

「そのうえで、魔法一つ一つには明確な名前がついている。効果の範囲や持続時間、発動方法までが細かく定義され、詳細な規則に従って構築されているんだ。《Conjuration(召喚術)》、《Abjuration(防御術)》、《Evocation(力術)》というように性質ごとに分類されている。生活のために使える魔法ももちろんあるが、それも元々の汎用的な術を応用しただけで、本質は一貫している」

 

 タヴがそう説明すると、フェルンは理解を確かめるように小さく頷き、問い返した。

 

「つまり、目的に合わせて設計された魔法ではなく、使い方を考えて応用する魔法なんですね」

 

 タヴは肯定の声を返し、そのまま言葉を継ぐ。

 

「そういうことだ。俺のいた世界では、魔法使いと呼ばれる存在は大きく二つに分かれる。ひとつは、血筋や生まれ持った素質で魔法を行使するソーサラー。もうひとつは、学問と理論によって魔法を行使するウィザードだ」

 

 フェルンは興味深そうに問いかけた。

 

「あなたは……?」

 

「俺は前者、ソーサラーだ」

 

 タヴは短く答えると、自分の胸に軽く手を当てた。

 

「自分の内にある魔力を感覚で操るから、即興的な魔法や戦闘向けの魔法は得意だ。だが、例えばさっき言った《Locate Object(物体探知)》みたいに、細かい情報と定義が必要な魔法は苦手だ」

 

 その言葉に、すかさずフリーレンが口を挟んだ。

 

「……なるほど。勉強が苦手ってことね」

 

 揶揄するような、けれどどこか柔らかい口調だった。シュタルクが思わず吹き出す。

 

「俺はソーサラーにしては理論的な方だぞ……まあ、勉強は得意ではないが」

 

 タヴは肩をすくめ、否定しなかった。一方で、フェルンは真面目な顔つきのまま、さらに問いを投げかけた。

 

「では、逆にウィザードは複雑な魔法を扱えるのですか?」

 

 タヴは静かに頷く。

 

「そうだ。魔法使いの主流はウィザードの方で、ソーサラーの方が少数派だ。ウィザードは魔法の学者でもあって、呪文書を読み込み、魔法を細かく研究して理解する。その上で、それぞれが《Conjuration(召喚術)》、《Abjuration(防御術)》、《Evocation(力術)》といった専門の学派に属して、自分の得意な分野を追求している」

 

 会話を聞きながら、フリーレンは少し目を細め、思案するように言葉を紡いだ。

 

「魔法が、知識と規則に基づいて分化している……そういう世界なのか」

 

 その呟きに、タヴは短く応じた。

 

「そういう世界だ」

 

 タヴは静かに言った。シュタルクが眉を寄せ、どこか腑に落ちない様子で口を開いた。

 

「……学者みたいな魔法使いって、それって戦えるのか?」

 

 本を読みながら戦場に立つような姿が頭に浮かばないのか、語気には素朴な疑問と、わずかな困惑がにじんでいる。タヴは口元をわずかに引き上げ、苦笑混じりに応じた。

 

「全員が戦闘向きなわけじゃないが、《War Magic(戦争魔法)》という学派もあるからな。盾を貫き、人を木っ端微塵にするような魔法ばかり研究してる連中もいる。普通に強いぞ、そういう奴らは」

 

「……怖ッ」

 

 シュタルクは顔をしかめ、肩をすくめた。想像すればするほど自分の立場が危うくなる気がして、自然と足取りが慎重になる。

 

 だがその時、フェルンがふとタヴに向き直った。

 

「……それで、あなたが使った腕を再生させた魔法。あれは、そもそも何だったのですか?」

 

 彼女の声には、単なる好奇心ではなく、確かな検証の意図が含まれていた。あの術がいかなる分類の魔法に属するのか──それを理解したいという、魔法使いとしての本能的な欲求。

 

 タヴは一度だけ頷き、短く息を吐いた。

 

「《Regenerate(再生)》だ。……《Divine Magic(神性魔法)》と呼ばれる神や自然から授かる系統の魔法だ。高位の聖職者が神意とつながることで扱う治癒の奇跡。失った四肢すら時間をかけて再生させる」

 

「……《Divine Magic(神性魔法)》?」

 

 フェルンが小さく驚きの声を漏らす。フリーレンがその隣で視線を上げる。

 

「この世界で言うなら……僧侶が使う女神様の魔法のようなもの、かもしれないね」

 

 それを聞いたタヴは、少しだけ考えるように目を細めた。

 

「そう……だな。この世界の信仰には詳しくないが、まあ──そういう認識で差し支えないと思う。だが、俺が普段使っているのは魔力を直接操って魔法を行使する《Arcane Magic(秘術魔法)》だ。《Divine Magic(神性魔法)》は神々や自然の力を媒介にするものだから、本来俺には扱えない」

 

 その言葉を聞いたフェルンは、戸惑いを隠さず問い返した。

 

「では、タヴ様が行使した魔法は一体……?」

 

 その瞳には、静かながら強い疑問が浮かんでいた。タヴは落ち着いた口調で静かに答えた。

 

「《Wish(願い)》──定命の者が唱えうる最高位の魔法だ。言葉で望みを明確に告げるだけで、世界の理そのものに直接干渉し、望んだ現実を引き起こすことができる。《Regenerate(再生)》はそれで行使した」

 

 フェルンはさらに戸惑いを深め、動揺した声で尋ねる。

 

「現実そのものに干渉……?でも、それがどうして《Regenerate(再生)》という魔法の行使に繋がるのですか?一体どういう理屈で、それが可能になるのですか?」

 

 フェルンの問いは魔法使いとしての論理に沿ったものだった。彼女の世界観では魔法は明確な体系と理論に基づく現象であり、「願いが現実を変える」というタヴの説明は理解の範疇を超えていたのだ。

 

 タヴは言葉を慎重に選びながら説明した。

 

「《Wish(願い)》の術式は世界を構成する魔力の根源的な流れに働きかける。これによって、八階梯以下のあらゆる魔法の効果を、詠唱準備や高価な触媒を必要とせず、言葉を発するだけで完璧に模倣できる。だから俺が《Regenerate(再生)》を発動すると願いを言葉にすれば、《Wish(願い)》が魔力の流れを操ってその現象を再現してくれる」

 

 その説明を聞いて、シュタルクは口をぽかんと開け、混乱した様子で呟いた。

 

「……要するに、言えば何でも起こるってことか?それはもう、魔法っていうより、何でもありのインチキじゃないか?」

 

 フリーレンは小さく肩を落とし、半ば呆れたようにため息をついた。

 

「……そんな出鱈目な魔法、本当に存在するんだね。おとぎ話の中にしかないと思ってた」

 

 タヴが淡々と語る中、フェルンが少しだけ前のめりになり、問いかける。

 

「《Wish(願い)》よる模倣は……再現性はあるのですか?」

 

 彼女の声には、明らかに研究者としての関心が滲んでいた。タヴは静かに頷く。

 

「条件さえ整っていれば確実に魔法の効果を再現できるが、一日に一度が限界だ。あれは最上級の魔法だからな。魔力の中でも最も深層にある、大きな器を使わなければ発動できない」

 

「……器?」

 

 シュタルクが首を傾げた。タヴは少し考えてから、もっと噛み砕いて説明を試みる。

 

「俺たちの魔法は、自分の内にある《Spell Slot (魔力の器)》を使って発動する。小さな魔法なら小さな器で足りるが、強力な魔法ほど大きな器が必要だ。《Wish(願い)》のような最高位の魔法は、最も大きな器を丸ごと使わないと魔力が収まり切らない。他の小さな器を何個集めても、その代わりにはならない」

 

 シュタルクは余計に困惑した表情を浮かべていた。

 

「ごめん、まったく何を言ってるかわからねぇんだけど……」

 

 タヴは短くため息をつき、言葉を変えた。

 

「つまりだ。魔法は初級の簡単な術を除いて、それぞれ使用回数が決まっている。一日に使える回数は限られていて、強力な魔法ほどその数は少なくなるということだ」

 

 シュタルクはようやく得心がいったように、曖昧に頷いた。

 

「ああ……うん、やっとわかった気がする……」

 

 タヴの説明を後ろで聞いていたフェルンは、しばらく考え込むように俯き、やがて顔を上げた。

 

「一日に一回の《Wish(願い)》……願望を実現するという魔法の性質上、必要だったから、あんなにはっきりと言葉にしていたのですね」

 

 あの瞬間、タヴが何か強く断言するように言葉を放ったことを、たとえ意味は分からずとも、確かに耳が覚えていた。

 

 タヴは微かに笑った。

 

「本当に願うしかなかったからな」

 

 声は静かだったが、そこには確かな実感がこもっていた。フリーレンはタヴの横顔を見つめ、わずかに視線を伏せてから、ふと呟いた。

 

「……《Wish(願い)》で、元の世界に帰ることはできないの?」

 

 その声は問いというより、可能性を探るような独り言に近かった。フェルンがはっとしてタヴに目を向ける。

 

「そういえば……。あらゆる現象を言葉にするだけで現実にできるのであれば、元の世界に帰りたいと願えば、理論的には可能なはずです」

 

 タヴは少しだけ沈黙し、歩みを止めた。そして空を見上げながら、ゆっくりと答えた。

 

「まず前提として、次元と次元を移動するための魔法は存在する。だが、《Plane Shift(次元間転移)》では、この世界から出られなかった……あれは座標──空間の基点がなければ使えない。行き先がなければ、門は開かないんだ。つまり、この世界は閉じた箱の中のようなものだ」

 

 その言葉に、フリーレンは瞳を細めて空を仰ぎながら呟いた。

 

「……女神様が創った箱庭なのかもね、この世界は」

 

 タヴはその言葉を否定せず、静かに続ける。

 

「《Wish(願い)》は究極の汎用性を持つが、その分魔法の負荷は圧倒的に高い。実現しにくい現象であればあるほど、術者の精神も肉体も、強く消耗する。《Plane Shift(次元間転移)》でも出れない世界からの脱出という願いに応えるために、俺の存在ごと燃やしかねない。魔法を発動した瞬間死ぬかもしれないし、願いが曲解されることもあり得る」

 

「曲解……?」

 

 隣で聞いていたシュタルクが眉をひそめ、言葉を繰り返す。疑問というより、不安の表れだった。タヴは短く息を吐き、言葉を選ぶように続けた。

 

「《Regenerate(再生)》のような既存の魔法を再現するのとは違う。定義されていない現象は、より具体的な言葉で願わなければ、意味がねじ曲げられる。例えば、帰るという言葉が、過去に戻るや魂だけが戻ると解釈されるといった具合にな」

 

 その場に、沈黙が落ちる。風が木々の間を通り抜ける音だけが、空間を埋めていた。タヴはさらに続ける。

 

「だが、具体的に現象を指定すればするほど、魔法の負荷は高くなる。完全な形で、安全に、確実に帰還する──そんな願いを通そうとしたら、俺が死ぬどころか、魔法が世界の理そのものを捻じ曲げて、取り返しのつかない結果を招く可能性が高い」

 

 フェルンは唇を噛みしめ、まるで自分の無力を呪うように視線を伏せた。その横で、フリーレンは静かに目を細める。何も言わないまま、ただタヴの言葉を噛みしめるように、じっと前を見据えていた。

 

 ただ、シュタルクだけがぽつりと呟いた。

 

「……正直、言ってることの意味はよく分からなかったけど、無闇に使うとやばいってことは分かった」

 

 それに対し、すかさずフェルンが静かに突き放す。

 

「シュタルク様は馬鹿ですからね」

 

「ひどい!?でも、さっきの話めちゃくちゃ難しかったぞ!?むしろ理解できてるフェルンやフリーレンの方がおかしいって!」

 

 あたふたと反論するシュタルクに、タヴが肩を揺らすように笑った。

 

「ああ、実際難しいと思うぞ。俺も最初は、次元だの世界の構造だのって話はよく分からなかったからな」

 

 その言葉に、シュタルクが少し安堵したように息をつく。

 

 だが、タヴの笑みは長くは続かなかった。ふと表情が陰り、わずかに目を伏せて眉間に皺を寄せる。沈んだ思考が、再び彼の心に沈降していく。

 

(……万が一に備えて、何か手段は講じておくべきだ。だが……)

 

 再び同じことが起きたら──位相アンカーの暴走、次元の歪み。命が残る保証はない。もしこの世界で自分が死んだら、魂はどこへ行く?元の世界へ戻れる保証などあるのか?むしろ、この世界の輪廻に捕らわれてしまうのではないか?

 

(《Wish(願い)》で《Clone(複製体)》の効果を再現できれば……)

 

 《Clone(複製体)》とは高度な保険として作られた魔法だ。術者が死んだ時に魂を移すため、生きている生物の肉体を魔法によって培養し、成熟させておく。培養には対象となる者の肉片と高価な宝石、そして培養体を密封する容器が必要であり、少なくとも百二十日の歳月をかけて完全な肉体が出来上がる。完成後は器が無傷である限り、そのまま無期限に待機させられる。

 

 本体が死亡すると、自由で戻る意思がある場合にのみ魂が複製体に転移する。その際、複製体は完全に元の肉体と同一であり、記憶や人格、能力のすべてを引き継ぐ。だが、元の肉体が残っていたとしても、それは二度と蘇生できない抜け殻となる。

 

 しかし、現実的な問題はそこではない。

 

(どこで安全に肉体を保管する?この世界の地理も、魔力の理もまだ把握できていない)

 

 《Clone(複製体)》で作成された肉体は、培養容器が僅かでも損傷すれば、即座に魔法の安定性が失われる。容器が外部から干渉を受ければ培養は台無しとなり、魔力の侵食で腐敗してしまう危険がある。

 

 そして何より、魂の問題がある。

 

(この世界における魂の仕組みを、俺はまだ理解していない)

 

 隔離された次元内で、魂が正しく複製体に転移するかどうかの保証はない。過去の自分の世界でも、魂が定着せず、狂気に陥った不完全な複製体が生まれた事例もある。記憶が欠落し、元とは異なる人格として蘇生された例も少なくない。

 

(……安易に手を出すには、リスクが高すぎる)

 

 その沈黙を、後ろからの声が破った。

 

「なあ、何考えてたんだ?すっげえ顔してたぞ?」

 

 振り返ると、シュタルクが不安げに眉をひそめていた。

 

「……いや、ちょっと複雑なことを考えてただけだ」

 

 タヴは軽く首を振り、前を向いて歩を進める。空は晴れていたが、風の匂いにはわずかな違和感があった。旅路の中で感じる、言葉にならない変化の予兆。

 

 そんな空気の揺らぎに、何かを察したのか──フェルンがふと立ち止まり、空を見上げた。

 

「……鳥?」

 

 視線の先には、小さな白い使い魔の鳥が飛んでいた。羽ばたきは迷いなく、まっすぐこちらへと向かってくる。

 

「封書をくわえてる……大陸魔法協会からですね」

 

 呟くように言うと、フェルンはそっと腕を差し出す。鳥はためらいなくその腕に留まり、嘴で封書を差し出した。

 

 その様子を見ていたタヴがわずかに首を傾げた。

 

「それは?」

 

「魔法使いたちを統括する組織からの通達です。私はそこに登録しているので、こういうのが届くことがあります」

 

「なるほど……」

 

 フェルンは封を指先でなぞり、一瞬だけ迷うように視線を落とした。そして、ゆっくりと封を開ける。紙の擦れる微かな音が、静かな風の中に溶けていく。

 

 その様子を、フリーレンがちらりと横目で見た。その視線に、言葉はなかった。だが──何かを察し、受け入れるような、静かな眼差しだった。

 

 *

 

 フェルンは紙に目を落とし、静かに読み上げ始めた。声は落ち着いていたが、その内容は、確実に場の空気を引き締めていく。

 

「……北側諸国の複数地域で、異常魔力の発現が確認されています。観測にあたった一級魔法使いによると、この世界の理に属さない何かによる干渉の可能性があると」

 

 言葉を聞いた瞬間、フリーレンは足を止めた。無言のまま、風に揺れる前髪の奥から、紙の文面を見通すような視線でフェルンを見つめていた。フェルンは間を置かず、文書を読み進める。

 

「触手状の器官を持ち、精神干渉を引き起こす異形が現れたという報告もあります。それとは別に、銀色の装甲を身につけた人型の集団も、各地で確認されています。どちらも魔族と一致する記録が存在せず、明確な分類が困難なため、協会では暫定的に魔族に類する危険存在として対応を定めているようです」

 

 フリーレンは口を開かず、視線を落とすだけだった。その沈黙が、むしろ内面の思考を物語っているようだった。

 

 一方、タヴは何も言わなかった。ただ、その瞳には微かな光が宿っていた。どこかで覚悟していた表情だった。フェルンの声は淡々としたまま続く。

 

「……すでに一部地域では被害も出ています。精神異常や不可解な消失。協会は、該当の存在を確認した場合は、速やかな対応を求めると通達しています。対抗結界の展開命令も、複数の地域で発令されています」

 

 そして最後の一文に差しかかると、フェルンの声がわずかに沈んだ。

 

「また……特異な魔力構造を持つ個体が、複数の観測者によって記録されているとも。通常の魔族とは異なる反応を示し、危険性の判断がつかないため、極秘裏に監視対象として動向を追うようにと。接触した場合は、可能であれば即座に身柄を拘束し、抵抗があれば排除も許可する」

 

 しんと、静寂が落ちた。風の音さえも遠ざかったように感じるほど、場の空気が冷えた。

 

 フリーレンが、ゆっくりとタヴを振り返る。その目は静かだったが、その奥には、確かな確信があった。

 

「……あなたのことだと思う」

 

 タヴは一瞬だけ目を伏せたが、すぐに静かに息を吐き、揺るぎない声で返した。

 

「……想定の範囲内だ。むしろ、ここまで遅かったくらいだな」

 

「……それって、さすがにひどくないか」

 

 ぼそりと漏らしたのはシュタルクだった。苛立ちというより、納得しきれない不満が、その声ににじんでいた。

 

「つまり、あんたのことを殺しても構わないって判断されてるんだろ?それは……あんまりだろ」

 

 タヴは冷静なままだった。

 

「マインド・フレイヤーとギスヤンキのせいで各地に被害が出ている。向こうからすれば、俺も同じ災厄の種──あるいは元凶だと判断されても、仕方ない」

 

 フェルンは、返す言葉を探すように口を開きかけては閉じた。しかし、それでも視線をそらすことなく言った。

 

「……協会の判断は、慎重であるべきという意味だと思います。明確に敵対したわけではないからこそ、排除も許可する、という表現にとどまっているのだと」

 

 タヴは静かに目を伏せ、一拍の沈黙を置いてから口を開いた。

 

「なら、ここで別れた方がいい。これ以上一緒にいれば──」

 

 その声には迷いはなかった。だが、どこかに、孤独を受け入れるような諦めも滲んでいる。

 

 言葉を継いだのはフェルンだった。その声音には、僅かだが明確な意志があった。

 

「私は、魔法使いとして協会の通達には従います。でも、それだけじゃありません。短い間ですが一緒に旅をして、あなたの話を聞いて、信じたいと思えた。協会の通達があっても、それが全てじゃありません」

 

 タヴの瞳が一瞬だけ揺れたが、すぐに感情を押し殺すように答えた。

 

「……その気持ちは、ありがたい。だが、俺と一緒にいることで、あんたたちまで危険視されるかもしれない」

 

 その言葉に、フリーレンは静かに首を振った。

 

「……仕方ないよ。旅をしていれば、こういうこともある」

 

 その一言に、タヴは肩をすくめるようにして、わずかに笑った。

 

「ずいぶん慣れた言い方だな」

 

「慣れてるよ。何千年も、こういう旅をしてるから」

 

 そのやり取りを静かに聞いていたフェルンが、小さく息を吐いた。そして視線をタヴに戻し、強く言い切る。

 

「状況があなたの立場を難しくしているのは、事実です。ですが、タヴ様自身の言葉で、この世界に敵意がないと示せれば、協会も排除までは踏み切らないはずです」

 

 タヴは口元に一瞬、苦笑の気配を浮かべた。

 

「……難しそうだがな」

 

「でも、やるしかありません」

 

 フェルンの声は、迷いなく真っ直ぐだった。その時、フリーレンがふと道の先を見つめながら、静かに言った。

 

「……オイサーストで、会ったほうがいい人がいる。事情を話せる、数少ない相手かもしれない」

 

「オイサースト……?」

 

 タヴが聞き返す。名前だけは聞いていたが、そこがどういう場所なのかは知らなかった。

フェルンが補足するように言った。

 

「魔法都市オイサーストは、北部にある大規模な魔法使いの都市です。大陸魔法協会の北部支部があって、古い魔法の記録や、結界技術の知見も集まっています。今の状況を整理するなら、そこが最適です」

 

 タヴは短く沈黙し、思案顔で言った。

 

「……俺がそこに入れるとは思えないが」

 

「そのために、私たちが一緒にいるんです」

 

 フェルンの声は、静かだったが揺るぎなかった。

 

 それを受けて、フリーレンはゆっくりと歩みを止め、タヴに視線を向けた。その瞳には微かな思案と、確かな覚悟が宿っていた。

 

「私は……基本的にフェルンの意見に賛成だよ。あなたが敵じゃないことは分かってる」

 

 言葉を切り、少しだけ間を置く。そして、その声は静かに続けられた。

 

「でも、私はあの子とシュタルクの命を第一に考えてる。もし本当に、あなたと一緒にいることで、命の危険が迫ったら──そのときは、止めるから」

 

 それは拒絶ではなかった。むしろ、信頼の上に成り立つ覚悟の表明だった。

 

「……それはまあ、仕方ないかもな」

 

 小さく呟いたのは、シュタルクだった。状況を受け止めようとする、戸惑い混じりの声だったが、そこには責める色はなかった。タヴは短く頷いた。その顔に浮かんだ微かな笑みには、どこか安堵の色が混じっていた。

 

 そして──誰も言葉を発さぬまま、再び旅路を歩き始めた。空は澄み渡り、清らかな風が草を揺らしていた。だがその下には、確かに世界の理が軋み始める兆しがあった。

 

 彼らの旅は続く。次なる舞台──魔法都市オイサーストを目指して。

 

 *

 

 魔法都市オイサーストは、湖の上に築かれた静謐の要塞だった。

 

 厚く積まれた石壁に囲まれ、内側にはいくつかの尖塔と環状の魔法通信網。都市のあらゆる場所に魔導灯が浮かび、空中には円環を描くようにして公文書を運ぶ小型のゴーレムが巡回していた。建物の上部に取り付けられた浮遊式の魔力蓄積結晶は、日ごとに集めた魔力を収束させ、都市の維持と記録に活用されている。

 

 この街は、ただ美しいのではない。魔法文明が極限まで研ぎ澄まされ、管理と制度の中に高度に集約されていた。結界塔と観測所は都市の心臓部に等しく、そこから発せられる制御信号によって、魔力の出入りはすべて精密に監視されている。

 

 だが、今──その心臓部に、わずかに乱れが生じ始めていた。

 

「……結界濃度、中央区は安定。しかし南縁部に魔力の偏向を検出。第三結界塔、応答願います」

 

 監視官のひとりが水晶盤の前で低く声を発する。反応がわずかでもあれば報告義務があるのが、ここ、オイサーストの規則だった。

 

 塔内には重苦しい静けさが漂っていた。魔法の使用も一部制限がかかり、街の上空を流れる光の軌道もどこか鈍く揺れている。異常魔力発現──それはすでに数件目だ。都市の防衛網全体に警戒態勢が敷かれ始め、各観測所からの報せは共通回線を通じて中央観測塔へ集約されていく。

 

 中央観測塔の奥、魔力分配層。そこに立つのは一級魔法使いゲナウだ。濃紺の長衣に短いケープを重ね、縁取りは灰色で整えられている。胸元には白い襟布が正確に結ばれ、淡い茶色の髪はきっちり撫で付けられていた。表情はほとんど動かず、声色も平坦だが、所作には無駄がない。

 

「……北部境界線、第四観測所より報告。銀色の装甲を纏った人型集団が、民間集落に接触。交戦行動は確認されず。ただし、武装を露出したままの行軍、住民との接触時に言語的意思疎通はなし。視認者多数。移動経路は規律に沿わず、種族記録にも一致しない」

 

 ゲナウは淡々と報告書を魔導記録板に送り、次の文面を開く。

 

「南東地域より、精神構造に直接的な干渉を与える異形との接触例。器官は触手状。破壊と幻視、意識喪失例あり。……同時に魔族と敵対しているとの観測もあり。三者間の明確な関係性不明」

 

 彼は静かに目を細めた。

 

「秩序が見えない。敵対関係が一貫しておらず、相互に衝突が起きている……魔族とは違う。だが、人類の味方とも言い難い」

 

 記録盤を送信し終えると、思案を巡らせる。

 

「この状況は、ただの新種発見では済まされない。理の外側に位置する魔力構造……魔法体系そのものが異なる可能性すらある」

 

 それは、魔法都市にとって最も扱いが難しい未知だった。報せは直ちに塔内の各部署へ回り、結界制御塔の警告灯にも同じ印が灯る。

 

 同時刻、結界制御塔の外回廊。吹きさらしの高所に、一級魔法使いゼンゼが立っている。白いワンピースに紺の短いケープを重ね、裾と肩口には灰色の飾り縁。背丈より長い灰茶色の髪が床を引くほどに流れ、前髪は目元まで下りていた。表情は乏しいが、その瞳は冷静である。彼女は自らの髪を指先で払い、結界へ通す魔力の流れを細かく調整していた。

 

 塔の外気に晒された通路に立ち、彼女は髪を操って魔力の流れを調整している。結界の維持、それは高度な計算と集中を要する作業だが、彼女はほとんど瞬きすらせずにこなしていた。

 

「……銀の装甲を纏った戦士に、触手持ちの精神を操る異形。ねじれた冗談みたいな組み合わせだ」

 

 ゼンゼは誰にも聞こえないような声で呟く。

 

「しかもその二種は互いに敵対している……魔族とも敵。人間にも容赦しない。これでは、誰が誰と戦っていて、どこに味方がいるのか、さっぱり分からない」

 

 声は変わらず淡々としていたが、彼女の髪がわずかに蠢いていたのは、抑えきれぬ緊張を表していた。

 

「この事態をどう収拾しろというんだ……。それでも私たちにかけられる言葉は、『不可能を可能にするのが一級魔法使い』だなんて決まり文句ばかり。本当に迷惑な話だよ」

 

 だが、彼女はそう言っても任務を放り出すことはしない。不可能を可能にするのが一級魔法使い──その言葉の重さを、誰よりも理解していたからだ。

 

 そのとき、警鐘が鳴った。塔全体に鳴り響く警報音。だが、それは都市全体に響き渡る警戒音ではなく、識別結界による初期反応だった。しかし、その反応は──いつもと違っていた。

 

 探知板に浮かび上がった魔力波形は、濃淡の揺らぎを繰り返しながら、周囲の空気すらわずかに歪ませている。ゼンゼの髪がふわりと揺れた。まるで結界の気配を感じ取って反応しているかのように。

 

 彼女は回廊の手すりから手を離し、合図用の鈴に触れて制御班へ短い指示を送る。続けて踵を返し、吹きさらしの外回廊から内階段へ足を向けた。梯子状の階段を二層分下り、螺旋の踊り場を抜けて観測室へ入る。

 

 塔内を通って観測室へ降りると、ゲナウがすでに対応準備を整えていた。魔導記録盤を携え、無駄のない動作で結界出力の調整を行っている。ゼンゼは卓の向こうのゲナウを一瞥し、短く問う。

 

「出るのか」

 

 ゲナウは記録盤から目を離さず、乾いた声で答える。

 

「……現場で判断する」

 

 ゼンゼは小さく頷き、髪を一房前に払って足元の転移陣に軽く触れる。そこは都市防衛用に整備された専用の魔法陣で、塔と都市各所を繋ぐ短距離転移用の施設だった。

 

 淡く蒼い光が陣の縁を走り、二人を包む。発動と同時に、空間がわずかに歪む。

 

 そして次の瞬間──彼らの姿は、静かに塔を離れ、都市と橋を隔てる境界線へと転移した。そこにはすでに、複数の魔法使いたちが配備されていた。結界が七重に展開され、外縁部には支援術者と防衛術式が点在する。識別結界の輪郭が空に淡く光り、風もないのに空気がわずかに震えていた。

 

 その中心──結界の直前に、波だった何かが佇んでいる。ゲナウはその姿に目を向けつつ、水晶盤を操作しながら静かに呟く。

 

「……この魔力は既知の魔族とは一致しない。分類不能だ。魔力は制御されている。だが、魔力量は異常だ」

 

 横に立つゼンゼが、わずかに首を傾げる。

 

「このまま動かなければ、ただの異物で済むかもしれないが、一歩でも踏み出せば、排除するしかない」

 

 その声に揺れはなかった。ゼンゼの髪が空気を裂くようにふわりと舞い、魔力を帯びて尖り始める。ゼンゼは視線を結界に向け、低く言う。

 

「言葉が通じる相手なら楽だがな」

 

 ゼンゼが淡々と続けた。

 

「無言で立ってるだけの存在に期待しすぎるのは、さすがに無謀か」

 

 ゲナウは表情ひとつ変えず、視線を水晶盤に落としたまま答える。

 

「……まずは観測だ。判断はそれからでも遅くない」

 

「構わない」

 

 ゼンゼが短く返す。

 

「私は、何も分からない相手と対話できるほど器用じゃない。名乗る気がないなら、それだけのことだ」

 

 ゼンゼの髪が、刃のように鋭く揺れた。結界の内と外。その境界線上に立つそれに向けて、都市は静かに、確実に、牙を剥き始めていた。

 

 *

 

 風が止み、空気が変わった。遥か彼方、霧が晴れるように視界が開け、湖に浮かぶ都市──魔法都市オイサーストの姿が静かに現れた。

 

 それは、まだ都市の内部で探知結界が動き出す、少し前のことだった。

 

 湖の中央にある小島の輪郭をなぞるように、石の城壁がぐるりと巡っている。壁の内側には灰色の屋根が折り重なり、中央にそびえる一本の大きな塔を、いくつかの低い尖塔が取り巻いていた。本土からは弧を描く一本の石橋が湖面を横切り、都市の正門へとつながっている。城壁の縁や塔の先端には薄い光の筋が走り、結界が常に息づいているのがわかる。整然と組まれた街並みと静かな水面は、遠目にも規律の強さを伝えてきた。

 

 その光景を目にしたタヴは、立ち止まったまま小さく目を細めた。

 

「……まるでシルヴァリームーンだ」

 

 独りごとのように呟いたその言葉に、誰も反応はしなかったが、フリーレンが一瞬だけ視線を送った。

 

 シルヴァリームーン。それは、タヴのいた世界における学術と魔法の都の名である。高い尖塔と公の学び舎を備え、強い防御魔法に守られつつも旅人を受け入れる場所。知識が街に息づき、人が集い、秩序が調和を支える。

 

 目の前にある都市は、それに似ていた。ただし──こちらは水に囲まれ、門と橋で動線を絞るぶん、ずっと慎重で閉じている印象がある。

 

「……なんか、妙に静かじゃないか?」

 

 ぽつりと声を発したのは、シュタルクだった。警戒というよりは、沈黙に対する純粋な疑念。その目は都市の輪郭をじっと見つめている。

 

「……人の気配はあります。結界も正常に機能していて、魔導灯も動いています。ですが、街路の動きが少なすぎます」

 

 フェルンが続けた。彼女の顔には僅かな緊張が浮かんでいる。フリーレンは黙ったまま都市を見上げていたが、やがて静かに言葉を紡いだ。

 

「この都市は、昔から理に従う場所だから。不確かなものに対しては、まず警戒する…正しい対応だよ」

 

 その言葉に、誰も反論はしなかった。タヴもまた、何も言わずに都市の外郭を眺めていた。自分の魔力が、あの都市にどう認識されるか──その答えを、もう覚悟している。

 

 この世界の魔法体系とは異なる魔力。そして、記録にも分類にも該当しない存在。警戒されるのは当然であり、拒絶される可能性もまた──当然だった。

 

「……行こう。時間は限られている」

 

 タヴの一言に、一行は歩を進めた。湖を見下ろす小高い縁を下り、木立の影を抜けて湖岸の石畳に出る。そこから都市の正面へ向かって、一本の堤が水面へ伸びていた。堤の先端に立つと、弧を描く石橋が湖上を渡り、遠くの城門へと続いているのが見える。

 

 橋は長かった。湖上に伸びる石造りの通路は幅広く整えられ、橋脚の基部や欄干の台座には淡い光を帯びた魔導灯が嵌め込まれている。湖の水面は静かで、都市の結界によって外界の風さえ和らげられているようだった。

 

「……結界の層が厚い。明らかに警戒しています」

 

 フェルンの声が、いつもより低い。

 

「普段はここまで複層展開していないはずです。完全に何かを迎え撃つ準備ですね」

 

「ギスヤンキとマインド・フレイヤーはここまで勢力圏を伸ばしているということか」

 

 タヴは低く呟いた。その目には、都市の静寂を通してこちらを見据える何かを感じ取っているかのような色がある。

 

「俺たちの接近にも気づいているはずだ……だが、攻撃してくる気配はない」

 

 彼は自分に向けられた結界の探知が、空間に染み出しているのを肌で感じていた。

 

「じゃあ…やっぱり様子を見てるってことか?」

 

 シュタルクの問いに、フリーレンは頷いた。

 

「うん。でも、タヴが一歩踏み出せば、反応は変わると思うよ」

 

 そして、タヴが結界の前に立つ。他の三人はその背後に立ち、結界の動向を見守った。

 

 空気が変わった。

 

 タヴが結界に触れたわけではない。しかし、彼が半歩分、橋の魔力制御域に踏み込んだ瞬間──識別結界が静かに震えた。

 

 空間の揺らぎ。魔力の共鳴。見えない波が押し寄せて、橋の中央付近に淡い光が広がる。

 

「……来たか」

 

 タヴの声は静かだった。

 

 都市の側に設置された観測用の魔導装置が、淡く脈動を始めた。その揺らぎは都市内部へ向けてリアルタイムで送られていく。波形は歪で、だが制御されており、既知の種別に該当せずという診断結果が、瞬く間に魔法使いたちのもとに届けられるだろう。

 

 フェルンが口を開いた。

 

「……予想以上に反応が強いです。やはり、一筋縄ではいかないですね」

 

「これ、俺たちも入れないんじゃないか…?」

 

 シュタルクの言葉に、フェルンが小さく頷いた。

 

「識別結界の基準によっては、同行者全員が制限を受けるかもしれません。特にタヴ様との魔力干渉記録がある私たちは、観測対象に準ずる扱いになる可能性も…」

 

 フリーレンは結界を見つめたまま、短く告げる。

 

「排除するつもりなら、この時点でもう攻撃されてる。結界はそういう構造になってる」

 

「……判断が保留されているということだろう」

 

 タヴは静かに言い、結界から目を逸らさずに続けた。

 

「まだ都市は観察段階にある。ここまで来たからには、敵でないと証明するしかない」

 

 彼の言葉に、三人ともが無言で頷いた。

 

 この橋は、ただの橋ではない。魔法都市という理の中に足を踏み入れる者が、その理に適合するかどうかを試される門である。

 

 今、この場所に立っている者たちは皆──それを受け入れる覚悟を持っている。そして、結界の向こうでは、確かに誰かが動き始めていた。

 

 *

 

 湖上に張られた空間結界の縁に、四人の影が静止していた。都市から橋を隔てる結界の境界──警戒網の最前線。

 

 その上空、風ひとつない澄んだ空に揺れる魔力の光とともに、四つの人影が静かに降下していた。ゼンゼとゲナウ、そして補助の魔法使いが二人。全員が《飛行魔法》を維持しながら、空中での布陣を取る。

 

 ゼンゼの髪が風もないのに揺れた。浮遊しながら静かに結界の向こうを見据える彼女の視線の先には、異質な構成の集団がいた。

 

「……四名」

 

 ゼンゼが短く数を告げ、髪先を細く分かつ。分岐した一本一本が結界越しの魔力の流れを撫でるように探っていく。隣でゲナウも探知の感覚を前方へ広げ、わずかな沈黙ののちに低く言葉を継いだ。

 

「中央の男……魔力の出入りが自然体すぎる。まるで体そのものが魔法の器のようだ。衣服の劣化も激しい。焼損と物理損壊……相当数の交戦歴ありと見ていい」

 

 ゼンゼは中央から右へと視線を滑らせ、静かに指摘する。

 

「右の少女は……フェルンだな。協会登録済みで、私の記憶が正しければ、三級選抜試験を最年少でトップ合格した天才だ」

 

 続けて、ゲナウが分析を重ねる。

 

「探知結界の反応が遅れている。魔法ではなく純粋な魔力制御によるものだ。あの歳でこの潜伏技術は異常だ」

 

 ゼンゼは小さく頷き、今度は後方の影を射抜くように見据えた。

 

「後方のエルフの女は協会未登録だが、相当な手練れだな。構えも癖がない。……無駄に力を見せない、そういう沈黙の仕方をする魔法使いは厄介だ」

 

 その評価に、ゲナウが視線を同じ方向へ寄せて補足する。

 

「魔力探知の精度が高い。周囲の魔力干渉を制御しながら、緩やかに拡張させている。長期間の鍛錬を積んだ魔法使いだろう」

 

 ゼンゼの髪がふわりと浮き、左端の人物へ向く。

 

「左端の男からは魔力を感じない。体つきと装備から見てパーティーの前衛……戦士だな」

 

 ゼンゼの見立てに、ゲナウが視線だけで同意を示し、短く補った。

 

「補助系統の魔法が施されている痕跡もない。純粋に肉体特化だろう」

 

 評価を終えた二人は、結界の上空に静止したまま、眼下に立つ異分子を無言で見据え続ける。ゲナウが結界越しに警告の言葉を投げようと息を吸い、口を開きかけた、そのときだった。橋の中央に立つ男──分類不能とされたその存在が、先に口を開いた。

 

「こちらに敵意はない。交渉の意思がある」

 

 言葉は意味として正確に頭へと届く。だが、同時に強烈な違和感がゼンゼとゲナウの脳裏を走った。音と口の動きが合っていない。平坦で金属的な声が、抑揚を欠いたまま、意味だけを滑り込ませてくる。

 

 ゼンゼは眉をわずかに寄せ、不快感を隠さずに言った。

 

「なんだこれは……意味は通じるが、言い回しが不自然で気持ち悪いな」

 

 ゲナウは顔をしかめ、理路を保つように淡々と続ける。

 

「こちらが理解できる言語に変換して脳内に伝達しているのか。……魔力と意識の接合点を無理やり繋がれたような感覚……極めて不愉快だ」

 

 ゼンゼは髪をゆらりと揺らし、視線をさらに鋭くして告げる。

 

「……精神に負荷がないとは言えないな。聞けば聞くほど、こちらの思考とズレていく気がする」

 

 橋の上、結界の内側でタヴは二人の反応を読み取り、わずかに顔をしかめた。

 

「……余計に警戒させたかもしれん」

 

 フェルンが横から口を挟んだ。

 

「《Tongues(言語会話)》の魔法的に言葉の意味を理解させる効果が、精神干渉として結界の防御機構に判定されている可能性があります。……《Tongues(言語会話)》は解除した方がいいかもしれません」

 

 タヴは短く息を吐いた。

 

「解除するとまともに会話すらできないが……」

 

 その時、フリーレンが無言でタヴの肩に手を添えた。目は前方を見据えたまま、静かに言った。

 

「……黙ってた方がまだ印象いいかもね」

 

 ほんの一瞬、タヴが目を細めた。その隣で、フェルンが一歩進み出る。

 

「私が仲介役として言葉を伝えます」

 

 そう言った彼女の声は凛としていた。年若さとは裏腹に、その背には魔法使いとしての誇りが宿っていた。

 

 静寂が落ちた。

 

 都市と橋を隔てる結界の向こう側、魔法都市の空の下。両者が対峙したまま、風もない空間に時間だけが流れる。

 

 やがて──その空気を裂くように、結界が一度だけ脈動した。

 

 ふっと空間がわずかに歪む。直後、天から落ちてくるような魔力の奔流が、都市上空を淡く照らした。その気配に、ゼンゼが僅かに目を細める。ゲナウが一歩、空中で体勢を引く。補助の魔法使いが反応するより早く、風も音も超えて、ひとつの声が降りてきた。

 

「いつまで茶番をやっている」

 

 女の声だった。淡々として、どこか飽き飽きとした響き。刹那、青白い光が空に広がり、その中央に一人の女性が現れた。

 

 小柄な体躯に、膝まで届く金の長髪。両脇に流れる編み込みが左右対称に揺れ、肌は透けるように白い。ゆったりとした袖と短い上衣をまとい、足元には薄布の靴が結ばれている。足首には紐が巻かれ、まるで古い時代の儀式装束のようにも見えた。

 

 年若い少女にも見えるその姿には、しかし誰もが言葉を失う圧倒的な魔力と、凍てついた知性の光が宿っていた。

 

 ゼーリエ。魔法都市オイサーストにおいて、その名を知らぬ者はいない。

 

 この大陸魔法協会の創始者にして、魔法の知と理の蓄積を司る存在。彼女の言葉は、理そのものとすら言われている。手には魔導書を一冊。片手で軽く扇ぐように振っていた。表情は退屈そうで、しかしその眼差しは鋭く、獲物を見据える猛禽のように橋の向こうを捉えている。

 

「ゼンゼ、ゲナウ、下がれ」

 

 その一言に、空中に緊張が走った。

 

「私が直接話を聞こう。あれだけの魔力と、理を通さない言語を使う者……面白いじゃないか」

 

 ゼーリエは、軽く口角を上げた。まるで厄介ごとを愉しむかのような調子。

 

 その目は、すでに見抜いていた──知識でも魔力量でも測れない、なにか根本的な違いがそこにあることを。彼女の視線は、橋の向こうのタヴをまっすぐに捉えていた。その視線は、ただの旅人に向けられるようなものではなかった。

 

 *

 

 空の裂け目から降るように現れ、宙に静止したその存在を見た瞬間、タヴの意識は一瞬で研ぎ澄まされた。小柄な体格。膝まで届く金髪。人間離れした整った容貌に、尖った耳。

 

(……エルフか)

 

 その種の名を心の中で呼ぶと同時に、違和感が生じた。この世界のエルフは、どこか小柄な傾向があるように思える。フリーレンもそうだった。自分の世界で見知った彼らとは、骨格も魔力の揺らぎも、微妙に違う。

 

(この世界では、そういう種族なのか……)

 

 そこまで考えたところで、タヴはわずかに瞬きをして、その思考を切り捨てた。

 

(……今は、そんなことどうでもいい)

 

 彼女──ゼーリエから放たれる魔力の圧は、皮膚の下を直接這うような冷たさを持っていた。それは広がるのではなく、凝縮された一点から周囲の空間そのものを支配するような気配。制御されている。だからこそ、恐ろしい。

 

(……化物だな)

 

 平然と宙に立ち、無表情のままこちらを見下ろすその存在に、直感がそう告げていた。タヴは一歩だけ進み出て、口を開いた。

 

「……先ほどは──」

 

 言葉を紡ぎきる前に、鋭く、明瞭な声が遮った。

 

「喋らなくていい」

 

 ゼーリエの声は冷淡で、どこか飽き飽きした響きを孕んでいた。

 

「お前の魔法は不快だ。意味だけを押し込んでくるような声。……頭が痒くなる。聞くに堪えない」

 

 タヴは言葉を失い、しばし黙ったまま彼女を見返すしかなかった。ゼーリエは軽く手を振る。その動作はあまりに簡素で、魔力を使っているようには見えなかった。

 

 だが──空気が一変した。

 

 風も波もないはずの空間が、わずかに震えた。タヴの周囲に、淡く透き通った魔力の膜が浮かび上がる。それは音もなく、干渉もなく、ただ意味の媒体として展開された。

 

「私の方で会話ができるようにしてやった。お前が馴染んだ理ではなく、こちらの理でだ」

 

 フリーレンが小さく息を吐き、囁くように言った。

 

「……《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》」

 

 それは、大陸魔法協会の創始者にして理を編んだゼーリエにしか扱えない魔法だ。

 

 この世界の魔法は、本来ひとつの目的にひとつの術式をあてがうことが多い。言葉を理解する魔法もまた、既存の言語を対象に組まれたものがほとんどで、未知の構造や理には対応できない。

 

 だが、《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》は違う。それは、相手の魔力構造と精神波を多層的に解析し、意味の根源に直接接続する魔法──言葉という外殻を介さず、内包された意味そのものを、互いの思考領域に翻訳し共有する術だった。

 

 本質的には、理解するのではなく、繋げてしまう魔法。対象の思考構造を読み違えれば暴走し、術者側の精神にまで干渉が及ぶ危険を孕むため、術そのものが禁術に近い扱いを受けている。それをゼーリエは、詠唱すらなく、ごく当然のように行使してみせた。

 

 タヴがふと自分の口元に手を添えた。声を発する。その音が、自然に響いた。口の動きと声が一致している。先ほどまでの《Tongues(言語会話)》による気味の悪い反響も、感覚の押し込みもない。彼は小さく息を吐き、《Tongues(言語会話)》を解除する。自分の声がこの世界に、まるで最初から馴染んでいたかのように響いていた。

 

 ゼーリエはそれを見て、淡々と一言だけ言った。

 

「その方がまだマシだ」

 

 それだけで、言葉の内容には触れなかった。タヴは一礼し、口を開く。

 

「名はタヴ。魔法使いであり、旅人だ」

 

 ゼーリエは興味なさそうに魔導書を扇ぎながら視線を落とした。

 

「ゼーリエ。神話の時代の大魔法使いだ。知っている者だけが知っていればいい」

 

 やや後ろで様子を見守っていたフリーレンが、一歩前に出た。

 

「知り合いか?」

 

 タヴがフリーレンに視線を向けながら、静かに問いかけた。魔力の圧に満ちた空間の中で、その声は意図的に抑えられていた。さきほどから、フリーレンの表情にわずかな懐かしさと、警戒の交じる気配を感じ取っていた。

 

 その眼差しが、誰かを知っていると語っていた。フリーレンは一拍だけ間を置いてから、わずかに口元を緩めた。だが、その瞳はどこか遠くを見ているようでもあった。

 

「……私の師匠の、さらにその師匠。オイサーストに来たら、あなたを会わせたいと思ってた人だよ」

 

「……彼女は大師匠ということか」

 

 タヴは半分冗談めかして返したが、その声音には微かな驚きと、計り知れないものに触れた実感が滲んでいた。

 

 フリーレンはそれを受けて、否定も肯定もせずに、ただ小さく苦笑した。まるで、過去と今とを天秤にかけながら、それでも前を向いているかのように。

 

「タヴは、敵じゃない。けど、ゼーリエが直接ここに来たってことは……それ以上に興味があるってことだね?」

 

 ゼーリエはフリーレンを見ず、タヴから視線を外さないまま答えた。

 

「膨大で異質な魔力を持ち、理の外に存在する者。退屈な日々を壊すには、ちょうどいい素材だ」

 

 ゼーリエはしばらく沈黙したままタヴを見つめていたが、やがて軽く息を吐くようにして問いを投げかけた。

 

「お前は……どこから来た?」

 

 声音は淡々としていたが、明確に答えを求める者の声だった。その言葉に、タヴは静かに息を吸った。

 

「……なら、質問に答えよう」

 

 わずかに言葉を選ぶ間があり、彼は短く告げた。

 

「俺は、この世界とは別の現世から来た。世界はいくつも並んでいるが、俺の故郷はその一つ──トリル次元だ。……今はそこに戻る方法を探している」

 

 その言葉に、ゼーリエの瞳がほんの一瞬だけ細くなった。

 

「──お前が、聖職者連中の啓示に出ていた星の記憶か」

 

「……何の話だ?」

 

 タヴの困惑に、ゼーリエはやや愉快そうに口元を緩めた。そして、ためらいもなく次の言葉を口にした。

 

「私と模擬戦をしないか?」

 

 一瞬、空気が凍りついた。意味を理解した脳が、その言葉の突飛さに追いつくのに、誰もが一拍の間を要した。

 

 ゼンゼが「は……?」と小さく呟き、ゲナウは無言のまま視線を鋭くする。フリーレンとフェルンは同時に息を飲み、シュタルクは思わず半歩前へ出かけて踏みとどまった。

 

 タヴは目を細め、警戒を隠さず問い返す。

 

「……何でそんな話になる」

 

 その声音には、慎重な探りと、本能的な緊張が滲んでいた。ゼーリエはただ真顔で、わずかに首を傾けながら返す。

 

「知りたいだけだ。異界の魔法について。それを知るには、戦うのが一番手っ取り早い」

 

 言葉の調子は変わらない。まるで食事や天気の話をしているような平坦さだった。彼女は魔導書をゆるりと一振りしながら続けた。

 

「異界の魔法を、私に指導するつもりでぶつけてこい」

 

 落ち着いた声音とは裏腹に、その場にいた誰もが理解していた。ゼーリエの言う模擬戦が、形式的な試合ではないことを。これは──魔力と命のやり取りすら含む、本物の闘争だ。

 

 フェルンが思わず声を上げる。

 

「待ってください……!それはあまりに──」

 

 ゼンゼもすぐに続いた。

 

「ゼーリエ様、それは危険です。対象はまだ──」

 

 フリーレンですら、眉をひそめ、止めようとした。だが、ゼーリエは一切彼らに目を向けることなく、タヴをまっすぐに見つめたまま言い切った。

 

「……異界について私に教えてくれるなら、お前が元の世界に帰るための知恵を貸そう」

 

 重たい沈黙が、その場を支配した。タヴは短く目を伏せ、静かに息を吐く。その間に、幾つかの思考が脳裏を駆け抜けた──危険、不確定、だが確実な手がかり。

 

 そして、その目が再び上がったときには、すでに答えが決まっていた。

 

「……分かった。受けよう」

 

 その返答に、ゼーリエの目がわずかに細まり、口元にはごく小さな笑みが浮かんだ。その瞳には、淡く光る魔力の揺らめきが宿っていた。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。