界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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魔族ソリテールは異界の干渉を呼び込んだ謎の魔族と対話し、その存在が世界を進化させる可能性を語る。一方、城塞都市では異界の侵略が本格化し、騎士団や神殿が対応を迫られる。山岳地帯でフリーレン一行と合流した異界の魔法使いタヴは、魔法都市オイサーストへ向かうが、都市の結界が彼を危険存在と認識。やがて伝説の魔法使いゼーリエが現れ、タヴに模擬戦を挑む。


#3:観察者たちの境界

 歪んだ空間の狭間に、塔とも巣ともつかぬ構造物がある。骨の節に似た白い梁が石壁へ食い込み、欠けた破片は床へ落ちない。上下も定まらないまま漂っていた。外界の音は届かず、浮いた石片の影は光の来る側へ伸びている。常の世界から切り離された魔族の深奥だった。

 

 壁と床の境目は三歩先で垂直に立ち上がり、そのまま柱の側面へ続いている。どの面を下として見ても、別の石片がそこから外れ、どこにも落ち着かない。

 

 壁面を這う光が途切れ、ひとつの影を形作る。白いワンピースに茶色のカーディガンを重ね、翠緑の長い髪と二本の小さな角を持つ少女が現れた。魔族のソリテールだ。澄んだ緑色の瞳が塔の中央で揺れる光を追い、その形が変わるたび口角も少しずつ上がった。

 

 言葉を操り、人間の姿で人間へ近づき、命を奪って肉を喰らう。ソリテールの姿も、そのために魔族が得た擬態の一つだった。だが、塔の中央に広がる水面めいた反射体から現れたもう一体は、人の形を選んでいない。まだ名を持たない魔族だった。

 

 液状の黒と青が幾層にも重なり、腕らしきものを伸ばす。その先は指に分かれる前に崩れ、仮面めいた顔に開いた窪みも、次の瞬間には頬の位置まで滑っていた。どこまでが胴で、どこからが反射体なのかも定まらない。

 

 肩から剥がれた黒い滴は天井へ落ち、弧を描いて背へ戻る。滴が離れても、戻っても、影の大きさだけは変わらなかった。

 

 人を殺して喰らうことに関心がないのなら、人の形に擬態する理由もない。無名の魔族は異形のまま、そこにいた。

 

【……来たか】

 

 口はどこにもない。それでも「来たか」という意味が、声を伴わずソリテールの意識へ届く。

 

「ふふ、招かれざる客かもしれないけど、そう悪くは思っていないでしょ?」

 

 ソリテールは笑いながら、塔の中心に歩み寄った。床が存在するかすら曖昧なその空間を、彼女は重さを感じさせずに進む。

 

「けっこう面白いものを招いてくれたじゃない。風と雷を纏った異界の使い、空から舞い降りてきて、常識じゃ説明できない現象を引き起こして……あれは君の計画だったの?」

 

【あれは、予期された変数に過ぎない。座標が破れれば、接続は不安定になる。外因が流入するのは、当然の帰結だ】

 

 三つに区切られた念が、間を置いて一つずつ塔内へ伝わった。最後の意味が消えても、無名の魔族の輪郭は少しも乱れない。

 

「それにしてもね。あの銀の鎧の戦士たち、触手を生やした精神干渉者……あれらがこの世界に居ついたら、世界の文明はひとたまりもないわ。君はそれでも構わないの?」

 

 ソリテールは笑みを保ったまま、問いの最後だけを短く切った。銀の鎧の戦士と精神干渉者に触れるあいだも、視線は塔の中心に揺れる影から動かなかった。

 

【構わない、というより──必要だとすら思っている】

 

 無名の魔族の輪郭が水面へ広がり、壁の反射光が一つずつ消えた。その暗がりの中から、続く意味が届く。

 

【そして、嵐を纏った男は、この流入に対する均衡を保つ楔になる可能性を秘めている。己の意思で、外因を剪定する役割を担うかもしれない】

 

 嵐を纏った男を「楔」と呼んだ意味だけが反射面へ黒い輪となって残り、ほかの言葉より遅れて消えた。

 

 無名の魔族の影が天井まで伸び、壁面の光を黒く塗りつぶす。そこへ次の念が重なった。

 

【この世界は長く、閉じていた。魔族も、人も、天も、地も。外部からの刺激を拒み、循環の中に埋没している。進化を忘れたこの箱庭に、流動性を与える何かが必要だった】

 

 塔の壁面の継ぎ目がずれ、浮いていた石片の半数が上へ、残りが横へ落ちていく。

 

「ギスヤンキやマインド・フレイヤーが、その何かだと言うの?」

 

 ソリテールは最後の一語を引き延ばし、無名の魔族の揺らぐ輪郭を追い続ける。

 

【可能性の一つとしては、そうだ。彼らは外界の遺物。異常を孕んだ概念。世界に裂け目を刻む存在……刺激としては、十分だ】

 

 ソリテールの笑みが消え、唇がまっすぐに戻った。

 

「滅びも進化の一種──そう言いたいのかしら?」

 

 ソリテールは腕を組み、柔らかな言葉のまま、無名の魔族から視線を外さなかった。

 

【滅びは、淘汰の一形態に過ぎない。適応できなかった文明が崩壊するのは、自然な流れだ】

 

 文明の滅びを告げても、念の強さも間隔も変わらなかった。塔の壁には、同じ幅の波紋が等間隔で広がっていく。

 

「……ふうん」

 

 彼女は腕を組んだまま溜息をひとつつき、塔の天井に映る歪んだ空を見上げた。

 

「でも私はね、この世界が滅びるのは困るの。ほら、私は人間の生態が大好きで、彼らの文明があるからこそ観察にも意味がある。研究対象が全部灰になったら、退屈にもほどがあるじゃない?」

 

【君が、この世界の知的生命を好むことは知っている】

 

「好むだけじゃないわ。私、彼らが作る物語や、感情や、歴史の連なりをずっと見ていたいの。戦争も、発明も、恋愛も、裏切りも。そのためには、ある程度秩序が必要なの。ねじれた進化じゃなくて、観察に値する成長がね」

 

 天井の反射面がゆっくり回り、足元の石目も左右へずれた。ソリテールは生じかけた段差をまたぎ、無名の魔族との距離を変えない。

 

【私たちの立場は異なる。私は、観察者であると同時に、進化の触媒でもある。君は、秩序ある観察を望む。だが、両立はできるかもしれない】

 

「できないとは言わない。でもね、あれを引き込んだのは君の方。あの塔の裂け目がなければ、彼らは来なかった」

 

 ソリテールは塔の中心に揺れる異形から視線を外さない。返答を待つあいだも、組んだ腕はほどかなかった。

 

【それは否定しない】

 

 無名の魔族の姿が、ゆるやかに再構築される。中心に目のような構造が浮かび上がるが、すぐに滲んで消える。魔力の奔流が静かに揺れ、塔の空間に薄い波紋を広げていく。

 

【私は門を開いた。彼らは通った。その事実に善悪はない】

 

 返答の二文は、同じ間隔、同じ強さで届いた。門を開いたことも、彼らが通ったことも、無名の魔族は順序を変えずに並べる。

 

「でも結果がある。タヴ、あの男も含めてね」

 

 その名を口にした瞬間、塔の壁面を走る波紋が一度だけ途切れた。

 

「もしこのまま、彼らがこの世界を汚染し尽くしたら、君の研究材料も観察対象も、すべて消える。後に残るのは……無秩序な死だけ」

 

【では、こうしよう。私は今後、直接的な干渉は控える。ただし、観察は続ける。タヴの動向、世界の反応、そして……君の行動も含めて】

 

「見てるだけってこと?」

 

【観察者の本分だ】

 

「ま、そういう立場なら、私もやりやすいわ」

 

 ソリテールは身を翻し、塔の中心から離れ始めた。足元の石面が横へせり上がっても、歩幅は変わらない。

 

「この世界を滅ぼすのは、私の趣味じゃない。進化も悪くないけど、壊しすぎると面白くないのよね」

 

 ソリテールは振り返らず、歩みも止めない。

 

「……あの門、あれを開いたのが君の導きだったとしても、その向こう側と結びついた狂信者たちには気をつけることね。君の観察対象が、あっけなく焼き払われる前に、よく見極めることね」

 

 風が揺れ、空間が一度だけ脈打つように震える。

 

【そのときは、私もまた、変化の一環を担うだけだ】

 

 応答のあとも、無名の魔族の輪郭は崩れなかった。ソリテールが背を向けても追わず、塔の中心に留まり続けた。

 

 やがて、ソリテールの姿が音もなく溶けるように消え、無名の魔族の輪郭も再び曖昧に解けていく。塔の中には、二者の言葉が途切れたあとの静寂だけが残った。

 

 *

 

 城塞都市の中央、旧政庁を転用したノルム商会の本館。その最上階の応接室では、振り子時計の音が報告の切れ目ごとに響いていた。

 

 元政庁とはいえ、今や都市の実質的な中枢機能はノルム商会が掌握していた。情報網と交易路の管理、護衛兵の運用に加え、一部の宗教機関への干渉までも商会長ノルムの意向ひとつで動いている。

 

 重厚な黒木の卓を挟み、騎士ヨアヒムは背筋を伸ばして立っていた。鎧の肩当てが微かに軋み、その金属音が静まり返った室内にひときわ鋭く響く。

 

「……以上が地下礼拝堂にて確認された異変の全容です。魔族の痕跡は確認されませんでしたが、精神に干渉し、人の脳を喰らう異形、マインド・フレイヤーが潜んでいました」

 

 ヨアヒムはそこで言葉を切った。

 

「そして被害者についても……申し上げるのは心苦しいですが、《脳変成》という変質が進行しています。彼らの脳内には既に異界生物の幼生が根付いており、これ以上の進行を防ぐ方法は……殺処分以外にありません」

 

 ノルムは肘掛けに置いた手を動かさず、ヨアヒムを見つめたまま低く問い返す。

 

「治療の手段はないのですか?」

 

 隣に控えていた壮年の神官ルドルフが答えた。

 

「我々も可能性を検討しました。しかし、幼生は宿主の脳に深く根を下ろしており、この世界の魔法や医術では治療は不可能に近いのです。異界より来たというタヴ殿の話によれば、元に戻すには神の奇跡に匹敵する魔法が必要であり、現状の我々には対処できませんでした」

 

 若い女神官エルゼは卓上の報告書へ目を落としたまま、震える声で話し始める。

 

「保護した変質者の数は十五名ほど……ですが、まだ市内で発見されていない被害者がさらにいる可能性があります。初期段階とはいえ、早急に対処しなければ、新たなマインド・フレイヤーが生まれ、都市の被害がさらに拡大してしまいます。大変つらい選択ですが、犠牲者への慈悲としても、早急な処置をお願いしたいのです」

 

 ノルムは肘掛けの木目に指を沿わせ、その端で止めた。やがてヨアヒムたちを順に見る。

 

「……認めましょう。あなた方の判断は正しい。都市の安全のためにも、これ以上の犠牲を防ぐためにも、やるしかないでしょう」

 

 エルゼは口を閉じても、卓上の報告書から目を上げなかった。ヨアヒムもすぐには次の報告へ移らず、振り子時計が二度鳴るあいだ、同じ頁を見ていた。許可が下りても、十五人という数は紙の上から消えなかった。

 

 ヨアヒムが報告書から顔を上げた。

 

「もう一つ、ご報告すべき重要な点があります。今回の件にはマインド・フレイヤーだけでなく、ギスヤンキという異世界の戦士集団が絡んでいます。彼らは旧市街区画、工房跡地下に異界への通路を開くための装置を設置していましたが、それはタヴの手によって破壊されました」

 

 ノルムの視線が、卓上の報告書からヨアヒムへ戻る。

 

「なるほど……旧市街区画で発生した大きな魔力反応は、その装置の破壊が原因でしたか」

 

 ヨアヒムは一度息を継いだ。

 

「私が現場に急行したときには、すでに装置は完全に破壊され、周囲にその残骸が散らばっていました。しかし、タヴの姿は既になく……おそらく彼は装置を破壊した後、上位のマインド・フレイヤーであるウリサリッドを追って都市を離れたのだと思われます」

 

 ノルムの視線が、報告書の上で止まる。

 

「ウリサリッド……それはどのような存在なのです?」

 

 ルドルフが再び口を開いた。

 

「マインド・フレイヤーの中でも特に強力な指揮官級の個体です。いずれはコロニーの中枢となるエルダー・ブレインへ進化する恐れもあるとのことです。もしそれが新たな拠点を築けば、再び都市は精神干渉に晒され、今回を遥かに超える被害が出る可能性があります」

 

 説明が終わっても、ノルムはしばらく返事をしなかった。

 

「そのウリサリッドの捜索を急がねばなりませんね。状況は緊迫していますが……現在、都市内部にその個体がいる兆候はありますか?」

 

 ヨアヒムは首を横へ振った。

 

「いいえ。捜索を続けていますが、都市内では兆候を掴めていません。コロニーを立て直すなら、都市外へ逃れた可能性があります」

 

 ノルムはヨアヒムとルドルフへ順に視線を向けた。

 

「……では、都市外も視野に入れ、引き続きウリサリッドの追跡を最優先に動いてください。こちらもできる限りの協力をいたしましょう」

 

 ヨアヒム、ルドルフ、エルゼは揃って一礼し、応接室を出た。

 

 *

 

 一方、地下礼拝堂では、九級魔法使いであるミーナが独り、水晶へ魔力を細く流し込み、調査用の術式を一層ずつ重ねていた。

 

 大陸魔法協会での登録は九級で、まだ見習いとして扱われていた。だが、それは上位の階級試験を日程や状況が合わず受けていないためで、実際の力量はすでに五級以上に達していた。

 

 ミーナが組み上げている《レムヴェリト(魔力の残響を視る魔法)》は、魔法が発動した痕跡と、肉眼では見えないほど細い魔力の流れを視界へ浮かべる観測術だった。

 

「……視よ、揺れる流れよ、形なきものの軌跡を……《レムヴェリト(魔力の残響を視る魔法)》」

 

 ミーナが水晶を目の高さへ掲げて詠唱すると、触媒の奥に淡い光が灯った。その直後、彼女の視界が急激に歪んだ。

 

 白と黒の幾何学模様が視界を覆い尽くし、次元の裂け目が眼前に広がった。その彼方で何かが蠢いている。輪郭の曖昧な触手めいた存在が揺れ、こちらを覗き込むかのように視線を送ってきた。

 

 ミーナは魔法を即座に解除した。水晶が手の中で砕け散り、息を吸おうとするたび喉がつかえる。術そのものは、それほど高負荷ではないはずだった。それでも裂け目越しに異界へ触れた負荷は、彼女の想像をはるかに超えている。

 

 彼女は震える手を反対の手で押さえつけた。足元には、砕けた水晶が薄暗い地下の光を返していた。

 

 *

 

 後刻、ヨアヒム、ルドルフ、エルゼは都市郊外でミーナと合流し、別々に調べた結果を突き合わせた。

 

 ミーナは微かに震えながら告げた。

 

「私も独自に魔法で調査をして、幻視で見た裂け目の向こう側に、何かが潜んでいるのが見えた。あれは……恐らくタヴさんの言っていたエルダー・ブレインだと思う」

 

 ヨアヒムも現場の調査結果を話した。

 

「こちらは旧市街区画の工房跡地下で魔力の大きな反応があったと連絡を受け、現場に急行したが……到着した時には、すでに人影はなかった」

 

 工房跡には装置の残骸と、タヴが破壊した跡が残っていた。商会長ノルムには、タヴがウリサリッドを追って都市を離れた可能性が高いと報告した。だが、ヨアヒム自身は装置の事故へ巻き込まれたのではないかと疑っていた。

 

 タヴは明確に「後で合流する」と言っていたのだ。彼が報告なしに姿を消すことは考え難い。現場の状況から、何らかの予期せぬトラブルに巻き込まれたのだろうとヨアヒムは考えていた。

 

 ルドルフは三人の報告が終わるのを待ち、ひとつ息を吐いた。

 

「いずれにせよ、もう時間がない。我々で対応を進めるしかない」

 

 ミーナが魔法越しに見た存在、工房跡に残された装置の残骸、戻らないタヴ。三つは同じ異変へつながっている。それでも、裂け目の先に何があり、タヴがどこへ消えたのかは、四人の誰にも答えられなかった。

 

 ヨアヒムが先に歩き出し、ルドルフ、エルゼ、ミーナの足音が順に重なった。

 

 *

 

 長く険しいオッフェン群峰を越えると、一行はキュール地方の緩やかな丘陵へ差しかかった。北側諸国の中では比較的過ごしやすく、涼やかな気候を持つ土地だった。

 

 尾根を離れるにつれて冷たい山風は和らぎ、湿った土と若い草の匂いが混じり始める。踏みしめる土も、石の多い硬い道から、足裏へ沈む草地へ変わっていた。

 

 先頭を歩くのはフリーレンだった。草に隠れた轍を拾いながら、丘の起伏に合わせて進路を選ぶ。風になびく銀の髪は、道の先へ細い線を引いていた。

 

 そのすぐ後ろを、黒い外套を纏ったタヴが歩く。装束は旅と戦いで傷み、ところどころが擦り切れほつれている。その左腕にはまだ新しい黒布が巻かれていた。再生したばかりの腕を守る簡易的な保護だ。クオータースタッフは外套の背へ斜めに留め、右腰に吊るしたウォー・ピックだけが歩くたび金属の鈍い音を刻む。

 

 フェルンとシュタルクが歩く位置は、山を下り始めた頃とは変わっていた。タヴの背から三歩を測るような距離はもうない。今は四人の足音が、草に埋もれた轍の上で自然に重なっている。

 

 山を下る間、一行は麓の村で幾つかの依頼を引き受けた。崩れた用水路から石を退け、夜ごと家畜小屋へ近づく魔物を追った。

 

 魔物を追い払った夜、子供が礼に差し出した欠けた木椀の水を、タヴは断らず飲んだ。シュタルクが「随分安い報酬だな」と笑うと、「だから次も引き受けられる」と返した。子供は意味も分からず笑い、母親はタヴが木椀を返すまで頭を下げていた。翌朝、子供は村外れまで四人を見送りに来た。

 

 用水路では、崩れた堰を捨てて別の流れを掘る方が早かった。だが、畑の水が何日もつか、冬まで使う石組みのどこを残したいかを老人から聞くと、タヴは元の流れを戻す方を選んだ。

 

「日が落ちる前に、危険な場所だけ教えてくれ。朝までに水は通す」

 

 作業へ入る前に退く合図と手順を全員へ伝え、できないことは先に告げる。言葉を飾らない低い声で順序を示すと、戸口から出なかった者まで道具を持って加わった。

 

 最初は黒い外套を警戒していた村人も、出立の朝には道中の食料を持たせた。フェルンは、タヴが問いを急がず、答えを遮らず、最後の判断を相手へ返す姿を何度も見た。その積み重ねが、魔法より先に人を動かしていた。

 

 その後の野営でも、タヴは見張りの交代を守り、食料が足りなければ自分の分から減らした。シュタルクが火へ薪を足しすぎた夜には、灰を被った鍋を風で払い、何事もなかったように話を続けた。そうした小さなやり取りを重ねるうちに、フェルンの質問からは、正体を暴こうとする硬さが少しずつ消えていった。

 

 丘を上る途中、フェルンがタヴの隣へ出た。

 

「……ノルム商会領の城塞都市に、身分証もなしにどうやって入ったのですか?」

 

「正門では身分証を求められる。だから、正門を使わなかった」

 

「答えになっているようで、なっていません」

 

「裏手の搬入路に、監視が途切れる刻があった。そこから入った」

 

「……犯罪じゃないですか」

 

「俺の故郷でも、そう呼ぶ」

 

 シュタルクが堪えきれずに口を挟んだ。

 

「分かっててやったのかよ」

 

「時間がなかったからな」

 

 先頭のフリーレンが、振り向かないまま言った。

 

「でも、衛兵には見つからなかったんだね」

 

「フリーレン様まで感心しないでください」

 

 タヴの喉から短い笑いが漏れた。フェルンもそれ以上は追及せず、四人の足音は崩れないまま丘を上っていく。タヴは背からクオータースタッフを抜いた。

 

「そういえば、俺のクオータースタッフを探してくれた時に聞きそびれていたが、どんな魔法を使って見つけたんだ?」

 

 フリーレンは振り向かずに答えた。

 

「《失くした装飾品を探す魔法》。あなたが杖に小さな宝石が嵌め込まれていると教えてくれたから、装飾品として位置を割り出したよ」

 

 タヴは歩きながら柄を返し、細かな彫りに嵌まった宝石へ日の光を当てた。

 

「なるほど……短時間で正確に落とした位置を特定していたから気になってたんだ。似た術なら《Locate Object(物体探知)》がある。俺は習得していないが、見覚えのある品か、指定した種類の品がある方角を辿れる魔法だ。あんたの術は、装飾品だけを探すのか?」

 

「うん。失くした装飾品だけだよ」

 

 タヴにとって、その宝石は術を組むたび魔力を集める秘術焦点具だった。だが、彫りの中で光を返す姿は確かに装飾品でもある。落としたクオータースタッフではなく、そこに嵌まった装飾品から辿る発想はなかった。

 

「この世界には、そういう使い道の決まった魔法が多いのか?」

 

「珍しくはないよ。掃除をする魔法や、服の汚れを落とす魔法もある。必要になった人が覚えて使うだけ」

 

 フェルンも隣から付け加える。

 

「そういった生活の中で使用する魔法は《民間魔法》と呼ばれています」

 

 タヴは柄を握る親指で、宝石の縁をなぞった。

 

「用途は違うが、生活の中で繰り返し使う術なら、《初級呪文》に近いところもあるな」

 

「《初級呪文》ですか?」

 

 フェルンの視線がタヴの手元へ向いた。タヴは歩みを緩め、右手でクオータースタッフを立てる。親指が柄の宝石へ触れると、白い光が内側から灯った。

 

「初歩的な呪文の総称だ。一度身につければ、何度でも使える。例えば《Light(光)》は物を光らせる。明かりのない洞窟で足元を照らすだけでなく、離れた仲間へ自分の居場所を知らせる目印にもなる」

 

 白光は日差しの中では薄い輪郭だけを見せる。タヴがクオータースタッフの先を道脇の木陰へ向けると、幹と根元が白く浮かぶ。次に頭上へ掲げ、木々の間からも見える高さに保った。フェルンは木陰の明かりから、遠くの目印になる白い灯へ目を移す。

 

 先端が木陰を外れると、白光はまた日差しの中へ薄まり、宝石の輪郭だけが残る。

 

「同じ魔法でも、使う場面と使い方で役割を変えられるのですね」

 

 フェルンは宝石の光が消える前に、もう一つ確かめた。

 

「《初級呪文》は、学べば誰でも使えるのですか?」

 

 タヴは首を横に振る。

 

「いや。《初級呪文》でも素質か訓練は要る。ひと通り教われば、誰でも同じように使えるわけじゃない」

 

 フェルンは白く光る宝石を見たまま、問いを重ねる。

 

「タヴ様は、《Light(光)》をどのように身につけたのですか?」

 

「俺は誰かに教わったわけじゃない。生まれ持った魔力から引き出した。そういう術者をソーサラーと呼ぶ」

 

 宝石の光を消すと、タヴはクオータースタッフを肩越しに背へ戻し、遅れていた歩調を戻した。

 

「俺は魔力を感覚で操る。戦いの中で術を扱い、必要に応じてその性質を組み替える方が得意だ。反対に、ウィザードのように呪文書から術を一つずつ学び、状況ごとに準備を変えるやり方はあまり得意じゃない。もちろん、魔法を得る道はほかにもあるけどな」

 

 その言葉に、すかさずフリーレンが口を挟んだ。

 

「……なるほど。勉強が苦手ってことね」

 

 フリーレンは何食わぬ顔で歩き続け、シュタルクが思わず吹き出す。

 

「俺はソーサラーにしては理論的な方だぞ……まあ、勉強は得意ではないが」

 

 タヴは一度口を開きかけたが、否定はしなかった。フェルンはシュタルクの笑いに加わらず、さらに問いを重ねる。

 

「では、ウィザードは学んだ魔法を、状況に応じて選ぶのですか?」

 

「そうだ。呪文書に収めた術から、必要なものを事前に選んで準備する。ウィザードは魔法の学者でもあるから、術の仕組みを一つずつ研究し、召喚術、防御術、力術といった系統の一つを専門にする者もいる」

 

 フリーレンはしばらく前を向いて歩き、二人の説明が途切れたところで呟いた。

 

「魔法が、知識と規則に基づいて分化している……そういう世界なのか」

 

 その呟きに、タヴは短く応じた。

 

「そういう世界だ」

 

 タヴが説明を終えると、シュタルクは眉を寄せ、両手で本を開く真似をした。

 

「……学者みたいな魔法使いって、それって戦えるのか?」

 

 今度は片手を剣の柄に見立てて振ってみる。タヴはそれを横目で見ながら答える。

 

「全員が戦闘向きなわけじゃないが、戦いを専門にするウィザードもいる。《戦闘魔術》という流派まであるくらいだ。盾を貫き、人を木っ端微塵にするような魔法を研究している連中は、普通に強いぞ」

 

「……怖ッ」

 

 シュタルクは首を縮め、それまでより半歩狭い歩幅でタヴの後を追った。

 

 そこでフェルンが、タヴの背へ声を掛けた。

 

「……それで、あなたが使った腕を再生させた魔法。あれは、そもそも何だったのですか?」

 

 フェルンの視線は、黒布を巻いたタヴの左腕へ向いた。タヴもそこへ右手を添える。

 

「《Regenerate(再生)》だ。……《神の魔法》と呼ばれる神や自然から授かる系統の魔法だ。高位の聖職者が神意とつながることで扱う治癒の奇跡。失った四肢すら時間をかけて再生させる」

 

「……《神の魔法》?」

 

 フリーレンが答えを探すように言う。

 

「この世界で言うなら……僧侶が使う女神様の魔法のようなもの、かもしれないね」

 

 タヴはすぐには頷かなかった。

 

「そう……だな。この世界の信仰には詳しくないが、そういう認識で差し支えないと思う。だが、俺が普段使っているのは魔力を直接操って魔法を行使する《秘術魔法》だ。《神の魔法》は神々や自然の力を媒介にするものだから、本来俺には扱えない」

 

 フェルンは間を置かずに問い返した。

 

「では、タヴ様が行使した魔法は一体……?」

 

 タヴは足取りを変えずに答えた。

 

「《Wish(願い)》だ。言葉で望みを明確に告げるだけで、世界の理そのものに直接干渉し、望んだ現実を引き起こすことができる。《Regenerate(再生)》はそれで行使した」

 

 フェルンは問いを重ねた。

 

「現実そのものに干渉……? でも、それがどうして《Regenerate(再生)》という魔法の行使に繋がるのですか? 一体どういう理屈で、それが可能になるのですか?」

 

 タヴは術式の働きから説明した。

 

「《Wish(願い)》の術式は世界を構成する魔力の根源的な流れに働きかける。これによって、八階梯以下のあらゆる魔法の効果を、詠唱準備や高価な触媒を必要とせず、言葉を発するだけで完璧に模倣できる。だから俺が《Regenerate(再生)》を発動すると願いを言葉にすれば、《Wish(願い)》が魔力の流れを操ってその現象を再現してくれる」

 

 シュタルクは口を半ば開けたまま説明を聞いていた。話が複雑になるほど眉間の皺が深まり、最後に口を挟んだ。

 

「……要するに、言えば何でも起こるってことか? それはもう、魔法っていうより、何でもありのインチキじゃないか?」

 

 フリーレンの歩調がわずかに遅れた。

 

「……そんな出鱈目な魔法、本当に存在するんだね。おとぎ話の中にしかないと思ってた」

 

 フェルンが次の問いを挟んだ。

 

「《Wish(願い)》による模倣は……再現性はあるのですか?」

 

 タヴはすぐに答えた。

 

「発動できる条件が整っていれば、魔法の効果は確実に再現できる。だが、俺が内に備えられる九階梯の《呪文スロット》は一つだけだ。《Wish(願い)》に使えば空になり、再び満たせるまで一日はかかる」

 

「《呪文スロット》?」

 

 シュタルクが首を傾げた。タヴは少し考えてから、もっと噛み砕いて説明を試みる。

 

「《初級呪文》以外の魔法は、術者が内に形作った器へ魔力を注ぎ、満ちた器を介して術式を発動する。その器を《呪文スロット》と呼ぶ。器にも階梯があり、《Wish(願い)》を通せるのは九階梯だけだ。低い階梯の器をいくつ重ねても、代わりにはならない」

 

 シュタルクは説明が切れるのを待ってから口を開いた。

 

「ごめん、まったく何を言ってるかわからねぇんだけど……」

 

 タヴは言葉を変えた。

 

「要するに、強い魔法ほど使える回数が少ない。《Wish(願い)》は一日に一度だ」

 

 シュタルクはまだ首を傾げたまま、ひとまず声を返した。

 

「ああ……うん、やっとわかった気がする……」

 

 タヴの説明を後ろで聞いていたフェルンは、しばらく考え込むように俯き、やがて顔を上げた。

 

「口にした願望を実現するという魔法の性質上、必要だったから、あんなにはっきりと言葉にしていたのですね」

 

 あの瞬間、タヴが何か強く断言するように言葉を放ったことを、たとえ意味は分からずとも、確かに耳が覚えていた。

 

 タヴは左手を胸の高さまで上げ、指を一度握って開いた。

 

「本当に願うしかなかったからな」

 

 フリーレンはその横顔を見つめたまま、ふと訊いた。

 

「……《Wish(願い)》で、元の世界に帰ることはできないの?」

 

 問いを置いてから、フリーレンは前方へ目を戻した。フェルンがはっとしてタヴに目を向ける。

 

「そういえば……。あらゆる現象を言葉にするだけで現実にできるのであれば、元の世界に帰りたいと願えば、理論的には可能なはずです」

 

 タヴの足が止まる。二歩進んだフリーレンも立ち止まり、空を仰いだ彼の答えを待った。

 

「まず前提として、次元と次元を移動するための魔法は存在する。だが、この世界は他界と繋がる通路が閉じられていて、《Plane Shift(次元間転移)》では次元を繋ぐ境界まで辿り着けなかった」

 

 フリーレンも同じ空を仰いだ。

 

「……女神様が創った箱庭なのかもね、この世界は」

 

 タヴはその言葉を否定せず、歩みを止めたまま続ける。

 

「《Wish(願い)》は万能に近いが、既存の魔法を模倣しない願いほど、術者へ返る負荷が大きい。《Plane Shift(次元間転移)》さえ拒む境界を越えようとすれば、俺の肉体や魂を代価にしても足りないかもしれない。それに、定まった術式のない願いは、願いの言葉を曲解され、別の形で叶えられることもある」

 

「曲解……?」

 

 隣で聞いていたシュタルクの声が一段低くなる。タヴは左腕を押さえたまま、声を落とした。

 

「《Regenerate(再生)》のように既存の術式を再現する時と違って、帰還という現象には定まった形がない。言葉が曖昧なら、過去へ戻す、魂だけを送り返すといった別の形で成立する恐れがある」

 

 誰もすぐには答えなかった。草地を渡る風が四人の間を抜ける。

 

「かといって、肉体も魂も損なわず、正しい時と場所へ確実に戻すと条件を重ねれば、その分だけ世界へ強いる変更が大きくなる。今のまま試せば、俺か、この世界のどちらかを壊す可能性が高い」

 

 フェルンは唇を結び、俯いた。その横で、フリーレンは何も言わず、タヴの声が途切れるまで前を見据えていた。

 

 タヴが左腕から手を離して歩き出すと、フリーレンも隣へ並んだ。フェルンとシュタルクがその後ろへ続き、止まっていた四人分の足音が草地へ戻る。

 

 ただ、シュタルクだけがぽつりと呟いた。

 

「……正直、言ってることの意味はよく分からなかったけど、無闇に使うとやばいってことは分かった」

 

 フェルンがシュタルクへ顔を向け、間を置かず返す。

 

「シュタルク様は馬鹿ですからね」

 

「ひどい!? でも、さっきの話めちゃくちゃ難しかったぞ!? むしろ理解できてるフェルンやフリーレンの方がおかしいって!」

 

 あたふたと反論するシュタルクに、タヴの喉から笑いが漏れた。

 

「ああ、実際難しいと思うぞ。俺も最初は、次元だの世界の構造だのって話はよく分からなかったからな」

 

 その言葉に、シュタルクは大きく息を吐いた。

 

 笑いが途切れると、タヴの目は再生した左手へ戻る。

 

(……万が一に備えて、何か手段は講じておくべきだ。だが……)

 

 位相アンカーの暴走や次元の歪みに再び巻き込まれたとき、命が残る保証はない。もしこの世界で死んだら、魂はどこへ行くのか。元の世界へ戻れるのか、それともこの世界の輪廻に捕らわれるのか。

 

(《Wish(願い)》で《Clone(クローン)》の効果を再現できれば……)

 

 《Clone(クローン)》は、死後の戻り先となる肉体を先に育てておく魔法だ。本人の肉片と高価な宝石を用い、密封した容器の中で少なくとも百二十日をかける。複製体が完成すれば、術者の死まで眠ったまま待つ。魂が自由で、そこへ戻る意思があるなら、記憶も力も失わず新しい肉体で目覚められる。

 

(どこで安全に肉体を保管する? この世界の地理も、魔力の理もまだ把握できていない)

 

 理屈の上では、位相アンカーの暴走にまた巻き込まれても命まで失わずに済む。だが考えを先へ進めるほど、術を成り立たせる条件が重くなる。百二十日のあいだ誰にも荒らされず、その後も自分が死ぬ時まで容器を守れる場所が要る。旅へ持ち歩ける代物ではない。

 

 タヴの視線は道脇の林から丘の陰へ移った。雨を避ける岩陰も、季節が変われば雪に埋もれるかもしれない。昨日まで道の行き先さえ知らなかった自分に、何年先まで残る隠し場所は選べない。フリーレンたちを信頼し始めていても、自分の死後の肉体まで背負わせる話は別だった。

 

 そして何より、魂の問題がある。

 

(この世界における魂の仕組みを、俺はまだ理解していない)

 

 その仕組みは、タヴが多元宇宙を渡る中で知った死と蘇生の理を前提にしている。だが隔離されたこの世界で、死後の魂がどこへ向かうのか、外から持ち込んだ術式の呼びかけが届くのかは分からない。容器だけを完璧に守っても、最後の一歩で魂が来なければ意味がなかった。

 

 《Plane Shift(次元間転移)》を拒んだ境界が、生者の肉体だけを閉じ込めているとは限らない。魂まで遮るのか、この世界の死者を別の場所へ導くのか、確かめる術もまだない。戻り先を作ることと、そこへ戻れることは別だった。

 

(……安易に手を出すには、リスクが高すぎる)

 

 案を捨てる必要はない。保管場所と魂の理を確かめるまで、タヴは答えの出ない計画を頭の奥へ退けた。

 

 その沈黙を、後ろからの声が破った。

 

「なあ、何考えてたんだ? すっげえ顔してたぞ?」

 

 振り返ると、シュタルクが眉をひそめていた。

 

「……いや、ちょっと複雑なことを考えてただけだ」

 

 タヴは軽く首を振り、前を向いて歩を進める。晴れた空の下、風に乗って規則正しい羽音が近づいてきた。

 

 フェルンが立ち止まり、空を見上げた。

 

「……鳥?」

 

 小さな白い使い魔が、封書をくわえてまっすぐこちらへ飛んでくる。

 

「大陸魔法協会からですね」

 

 フェルンが差し出した腕へ鳥は迷わず留まり、嘴の封書を渡すと再び空へ舞い戻った。

 

 タヴは飛び去る使い魔を見送り、フェルンの手元へ視線を戻した。

 

「それは?」

 

「魔法使いたちを統括する組織からの通達です。私はそこに登録しているので、こういうのが届くことがあります」

 

「なるほど……」

 

 フリーレンが先に歩調を戻し、タヴとシュタルクも続く。フェルンは歩きながら封蝋を外し、折り畳まれた紙を開いた。その音が、再び揃った四人の足音に混じる。

 

 フリーレンは横目で封が開くのを見ていたが、何も言わなかった。

 

 *

 

 フェルンは左手に杖を保ち、右手に持った紙を最初の行から読み上げ始めた。行を追うにつれ、四人の歩幅が揃って狭くなる。

 

「……北側諸国の複数地域で、異常魔力の発現が確認されています。観測にあたった一級魔法使いによると、この世界の理に属さない何かによる干渉の可能性があると」

 

 その報せを聞いた瞬間、フリーレンは足を止めた。無言のまま、風に揺れる前髪の奥から、紙の文面を見通すようにフェルンへ視線を向ける。フェルンは間を置かず、文書を読み進めた。

 

「触手状の器官を持ち、精神干渉を引き起こす異形が現れたという報告もあります。それとは別に、銀色の装甲を身につけた人型の集団も、各地で確認されています。どちらも魔族と一致する記録が存在せず、明確な分類が困難なため、協会では暫定的に魔族に類する危険存在として対応を定めているようです」

 

 フリーレンは通達の末尾まで目を通し、そこで視線を止めた。

 

 タヴも何も言わなかった。通達の紙へ目を据え、外套の内で右手を握る。フェルンの声だけが、その先を読み進めた。

 

「……すでに一部地域では被害も出ています。精神異常や不可解な消失。協会は、該当の存在を確認した場合は、速やかな対応を求めると通達しています。対抗結界の展開命令も、複数の地域で発令されています」

 

 紙の末尾で、フェルンは一度息を継いだ。

 

「また……特異な魔力構造を持つ個体が、複数の観測者によって記録されているとも。通常の魔族とは異なる反応を示し、危険性の判断がつかないため、極秘裏に監視対象として動向を追うようにと。接触した場合は、可能であれば即座に身柄を拘束し、抵抗があれば排除も許可する」

 

 読み終えても、誰もすぐには口を開かなかった。四人の足は止まったままで、フェルンの手元では紙の端だけが風に鳴る。シュタルクも通達を覗き込んだまま動かなかった。

 

 フリーレンの視線が、文面の「特異な魔力構造」からタヴへ移る。

 

「……あなたのことだと思う」

 

 外套の内で握られていたタヴの右手が、ゆっくりほどけた。

 

「……想定の範囲内だ。むしろ、ここまで遅かったくらいだな」

 

「……それって、さすがにひどくないか」

 

 シュタルクは通達から顔を上げ、タヴを見た。

 

「つまり、あんたのことを殺しても構わないって判断されてるんだろ? それは……あんまりだろ」

 

 タヴは通達の「排除」へ目を戻して答えた。

 

「マインド・フレイヤーとギスヤンキのせいで各地に被害が出ている。向こうからすれば、俺も同じ災厄の種、下手をすれば元凶だ。そう判断されても仕方ない」

 

 フェルンは「排除」の行を押さえていた指を離し、紙を持ち直した。

 

「……協会の判断は、慎重であるべきという意味だと思います。明確に敵対したわけではないからこそ、排除も許可する、という表現にとどまっているのだと」

 

 タヴは三人の立ち位置を一度確かめた。

 

「なら、ここで別れた方がいい。これ以上一緒にいれば──」

 

 タヴは語尾を切り、三人から半歩だけ距離を取った。

 

 シュタルクの爪先が、離れるタヴと同じ向きへ動く。そのまま追うより先に、フェルンがタヴの背へ声を掛けた。

 

「私は、魔法使いとして協会の通達には従います。でも、それだけじゃありません。村での振る舞いも、戦う時の判断も見てきました。だから、私はあなたを信じます。協会の通達があっても、それが全てじゃありません」

 

 タヴはそれ以上離れなかった。振り返らないまま、道の先へ向けて答える。

 

「……その気持ちは、ありがたい。だが、俺と一緒にいることで、あんたたちまで危険視されるかもしれない」

 

 その言葉に、フリーレンは一度だけ首を横へ振った。

 

「……仕方ないよ。旅をしていれば、こういうこともある」

 

 タヴは鼻から短く笑った。

 

「ずいぶん慣れた言い方だな」

 

「慣れてるよ。千年以上、こういう旅をしてるから」

 

 フェルンは通達を杖の軸へ添えて一度折り、右手に持ったままタヴへ向き直った。

 

「状況があなたの立場を難しくしているのは、事実です。ですが、タヴ様自身の言葉で、この世界に敵意がないと示せれば、協会も排除までは踏み切らないはずです」

 

「……難しそうだがな」

 

「でも、やるしかありません」

 

 フェルンは折り目のついた通達を持ち直した。フリーレンは道の先へ目をやり、次の行き先を告げる。

 

「……オイサーストで、会ったほうがいい人がいる。事情を話せる、数少ない相手かもしれない」

 

「オイサースト……?」

 

 タヴが聞き返す。名前だけは聞いていたが、そこがどういう場所なのかは知らなかった。

 

 フェルンが補足する。

 

「オイサーストは、北側諸国にある大きな魔法都市です。大陸魔法協会の北部支部が置かれ、古い魔法の記録や結界技術の知見が集まる都市だと聞いています。今の状況を整理するなら、そこが最適だと思います」

 

 タヴは先ほど取った半歩を戻したが、すぐには口を開かなかった。

 

「……俺がそこに入れるとは思えないが」

 

「そのために、私たちが一緒にいるんです」

 

 フェルンは通達を右手で胸元へ引き寄せた。

 

 フリーレンがタヴの斜め前へ回ると、タヴもそちらへ顔を向けた。

 

「私は……基本的にフェルンの意見に賛成だよ。あなたが敵じゃないことは分かってる」

 

 フリーレンは一拍置き、少し後ろにいるフェルンとシュタルクを順に見た。

 

「でも、私はあの子とシュタルクの命を第一に考えてる。もし本当に、あなたと一緒にいることで、命の危険が迫ったら──そのときは、止めるから」

 

 シュタルクは眉を寄せたまま、タヴとの間に空いていた一人分を詰めた。

 

「……それはまあ、仕方ないかもな」

 

 タヴは三人を順に見て、外套の内に寄せていた右手を外へ出した。

 

 フリーレンが先に道へ向き直る。フェルンは通達をさらに折って荷へ収め、杖を右手へ戻してからタヴの横を通り、その隣へ並んだ。シュタルクも二人の後ろにつく。

 

 誰も言葉を発さぬまま、四人は再び歩き始めた。草を踏む足音はほどなく同じ速さへ揃う。フェルンの荷の口から折った通達の白い角が一度のぞき、空いた左手で押し込むと見えなくなった。

 

 *

 

 魔法都市オイサーストは、湖上の岩島を囲う幾重もの城壁に守られていた。

 

 厚く積まれた石壁の内側では、結界塔と観測所が環状の魔法通信網で結ばれている。都市の各所に浮かぶ魔導灯も、それぞれの施設から送られる術式に応じて明滅していた。

 

 都市へ出入りする魔力は、通信網を通じて一つずつ監視される。高度な魔法文明を制度の中へ組み込んだ街だった。

 

 今、その監視記録に、南縁部の小さな乱れが刻まれた。

 

「……結界濃度、中央区は安定。しかし南縁部に魔力の偏向を検出。第三結界塔、応答願います」

 

 水晶盤の前の監視官が第三結界塔へ呼びかけた。反応がどれほど小さくても、記録と報告を省かない。それがオイサーストの規則だった。

 

 塔内では私語が途切れ、報告を読み上げる声だけが続いていた。魔法の使用は一部制限され、街の上空を走る光の軌道も鈍く揺れている。異常魔力の発現は、これが初めてではない。防衛網全体が警戒へ移り、各観測所からの報告は共通回線を通じて中央観測塔へ集約されていった。

 

 中央観測塔の奥には、一級魔法使いゲナウが立っていた。濃紺の長衣に灰色の縁取りを施した短いケープを重ね、胸元の白い襟布はずれなく結ばれている。淡い茶色の髪も、きっちりと撫で付けられていた。報告が積み上がっても、次の文面を開く指の速さは変わらない。

 

「……北部境界線、第四観測所より報告。銀色の装甲を纏った人型集団が、民間集落に接触。交戦行動は確認されず。ただし、武装を露出したままの行軍、住民との接触時に言語的意思疎通はなし。視認者多数。移動経路は規律に沿わず、種族記録にも一致しない」

 

 ゲナウは卓上の水晶盤に報告書を保存し、間を置かず次の文面を開く。

 

「南東地域より、精神構造に直接的な干渉を与える異形との接触例。器官は触手状。破壊と幻視、意識喪失例あり。……同時に魔族と敵対しているとの観測もあり。三者間の明確な関係性不明」

 

 壁面の水晶盤で乱れ続ける波形に、ゲナウの視線が止まる。

 

「秩序が見えない。敵対関係が一貫しておらず、相互に衝突が起きている……魔族とは違う。だが、人類の味方とも言い難い」

 

 ゲナウは卓上の水晶盤に、二つの発生地点を並べて記録した。

 

「この状況は、ただの新種発見では済まされない。理の外側に位置する魔力構造……魔法体系そのものが異なる可能性すらある」

 

 水晶盤に記された「分類不能」の印は、塔内の各部署へ同時に複写された。ほどなく結界制御塔の警告灯にも、同じ印が灯る。

 

 同時刻、結界制御塔の吹きさらしの外回廊では、一級魔法使いゼンゼが作業を続けている。白いワンピースに紺の短いケープを重ね、裾と肩口には灰色の飾り縁が走る。灰茶色の髪は床を引きずるほど長く、前髪も目元を覆う。その奥の瞳が結界の光を追い、指先で払われた髪が魔力の流れを細かく調整する。

 

 髪の一本が流れを外れるたび、別の一本がその位置を埋める。ゼンゼは結界へ注ぐ魔力を途切れさせず、ほとんど瞬きもしない。

 

「……銀の装甲を纏った戦士に、触手持ちの精神を操る異形。ねじれた冗談みたいな組み合わせだ」

 

 ゼンゼは誰にも聞こえない声で呟く。結界へ触れていた髪の先が一度だけ細く縮れた。

 

「しかもその二種は互いに敵対している……魔族とも敵。人間にも容赦しない。これでは、誰が誰と戦っていて、どこに味方がいるのか、さっぱり分からない」

 

 ゼンゼの髪がわずかに蠢いた。

 

「この事態をどう収拾しろというんだ……。それでも私たちにかけられる言葉は、『不可能を可能にするのが一級魔法使い』だなんて決まり文句ばかり。本当に迷惑な話だよ」

 

 呟きが途切れても、結界を調整する髪の動きは止まらない。

 

 そのとき、識別結界の初期警鐘が塔内に鳴った。都市全体に響く警戒音ではない。それでも、水晶盤に現れた反応はいつもと違っていた。

 

 水晶盤に浮かび上がった魔力波形は濃淡の揺らぎを繰り返し、周囲の空気まで歪ませている。ゼンゼの髪も、ふわりと揺れた。

 

 彼女は回廊の手すりから身を離し、合図用の鈴に触れて制御班へ短い指示を送る。

 

 続けて踵を返し、吹きさらしの外回廊から内階段へ足を向けた。梯子状の階段を二層分下り、螺旋の踊り場を抜けて観測室へ入る。

 

 観測室では、ゲナウがすでに対応準備を整えていた。卓上の水晶盤へ最後の指示を送り、結界出力の調整を終える。ゼンゼは卓の向こうのゲナウを一瞥し、短く問う。

 

「出るのか」

 

 ゲナウは盤面から目を離さず、乾いた声で答える。

 

「……現場で判断する」

 

 ゲナウは開いていた報告書を卓へ戻し、水晶盤の光が消えるのを見届けると、転移陣へ入り、ゼンゼと並んだ。

 

 ゼンゼは髪を一房前に払い、足元の転移陣へ先端を軽く触れさせる。そこは都市防衛用に整備された専用の魔法陣で、塔と都市各所を繋ぐ短距離転移用の施設だった。

 

 淡く蒼い光が陣の縁を走り、二人を包む。発動と同時に、背後の卓と壁の輪郭が折れ曲がる。

 

 次の瞬間、二人は塔から消え、都市と橋を隔てる境界線へ転移した。すでに複数の魔法使いが配置につき、七重の結界を展開している。外縁では支援術者が観測術式を維持し、そのさらに外側を防衛術式が固めていた。識別結界の輪郭が空に淡く光り、風もないのに空気が震えている。

 

 転移光が消えると、結界の直前に立つ四人の姿が視界に入る。識別結界を走る波形のうち、最も濃いものが先頭の黒い外套の男へ集中した。ゲナウが右手の指を一本折ると、背後の支援術者が観測術式を切り替える。新たな波形を見比べ、ゲナウは読み取った結果を告げた。

 

「……この魔力は既知の魔族とは一致しない。分類不能だ。魔力は制御されている。だが、魔力量は異常だ」

 

 横に立つゼンゼは、識別結界を走る波形から目を離さない。

 

「このまま動かなければ、ただの異物で済むかもしれないが、一歩でも踏み出せば、排除するしかない」

 

 ゼンゼの髪が空気を裂くように舞い、魔力を帯びて尖り始める。

 

「言葉が通じる相手なら楽だがな。無言で立ってるだけの存在に期待しすぎるのは、さすがに無謀か」

 

 ゲナウは最初の探知波と、切り替え後の波形を見比べたまま答える。

 

「……まずは観測だ。判断はそれからでも遅くない」

 

「構わない」

 

 ゼンゼが短く返す。

 

「私は、何も分からない相手と対話できるほど器用じゃない。名乗る気がないなら、それだけのことだ」

 

 ゼンゼの髪が、刃のように鋭く揺れた。分類不能の魔力波形が識別結界を走り、七重の結界は淡い光を保っていた。

 

 *

 

 風が止み、霧が晴れるように視界が開けた。湖に浮かぶ魔法都市オイサーストが姿を現す。

 

 それは、まだ都市の内部で探知結界が動き出す、少し前のことだった。

 

 湖の中央にある岩島を縁取るように、石の城壁が巡っている。壁の内側には灰色の屋根が低く折り重なり、島の奥では一段高い区画に大陸魔法協会の建物が広がっていた。南岸から延びる一本の石橋が湖面を横切り、都市の正門へつながっている。城壁の縁や協会施設の周囲には薄い光の筋が走っていた。静かな水面に囲まれた街並みからも、都市を守る結界の厚さが見て取れる。

 

 城壁から島奥へ続く街並みを目で追ううち、タヴの足が止まった。

 

「……まるでシルヴァリームーンだ」

 

 独りごとのような呟きに、誰も問い返さなかった。フリーレンだけが一瞬、タヴへ視線を送る。

 

 タヴの記憶にあるシルヴァリームーンは、ローヴィン川の両岸へ塔と学舎を広げ、生きた木々を街並みに残していた。銀の力場で形作られた月橋が川を渡り、《ミサル》の守りは都全体へ及ぶ。それでも門の内側には、学びや交易を求める旅人と、さまざまな種族の姿があった。

 

 目の前のオイサーストは、湖上の岩島を石壁で囲い、外からの道を一本の橋へ絞っている。魔法と学問を都市の守りへ組み込んだ遠目の輪郭は似ていても、今そこに重ねられた備えは、訪れる者を迎える前に一人ずつ測るためのものに見えた。

 

「……なんか、妙に静かじゃないか?」

 

 シュタルクは湖岸から城門まで見渡した。遠目には、行き交う人影が一つも見えない。

 

「……人の気配はあります。結界も正常に機能していて、魔導灯も動いています。ですが、街路の動きが少なすぎます」

 

 フェルンが続けた。指先は杖の軸から離れない。フリーレンは黙ったまま都市を見上げていたが、やがて口を開いた。

 

「この都市は、昔から理に従う場所だから。不確かなものに対しては、まず警戒する……正しい対応だよ」

 

 その言葉に、誰も反論はしなかった。タヴもまた何も言わず、都市の外郭を眺めていた。

 

 城壁を巡る光は、同じ間隔で橋の方角へ差し込んでいる。通達にあった「分類不能」の文字が、門の向こうでも自分へ向けられているのだとタヴには分かった。

 

「……行こう。時間は限られている」

 

 タヴの一言に、一行は歩を進めた。湖を見下ろす小高い縁を下り、木立の影を抜けて南岸の橋詰へ出る。そこから一本の石橋が湖面を渡り、遠くの城門へと続いていた。

 

 橋は長かった。湖上に伸びる石造りの通路は幅広く整えられ、橋脚の基部や欄干の台座には淡い光を帯びた魔導灯が嵌め込まれている。湖の水面は静かで、都市の結界によって外界の風さえ和らげられているようだった。

 

 石橋へ足を移してからも、タヴはウォー・ピックを右腰に、クオータースタッフを背に留め、両手を外套の外へ出して歩く。フェルンとフリーレンは杖先を石畳へ向け、シュタルクもグレートアックスを背負ったままだ。城門側から見ても、武器を抜く意思がないことだけは読み取れる並びを保っていた。

 

「……結界の層が厚い。明らかに警戒しています」

 

 フェルンの声が、いつもより低い。

 

「普段はここまで複層展開していないはずです。完全に何かを迎え撃つ準備ですね」

 

 タヴは城門の配置と結界の明滅を見比べた。警戒の中心は、都市の外側へ向いている。

 

「ギスヤンキとマインド・フレイヤーはここまで勢力圏を伸ばしているということか」

 

 結界が明滅するたび、探知の細い圧がタヴの胸へ集まる。彼は橋の向こうから目を離さなかった。

 

「俺たちの接近にも気づいているはずだ……だが、攻撃してくる気配はない」

 

「じゃあ……やっぱり様子を見てるってことか?」

 

 シュタルクの問いに、フリーレンは頷いた。

 

「うん。でも、タヴが一歩踏み出せば、反応は変わると思うよ」

 

 そして、タヴが結界の前に立つ。他の三人は一歩後ろで横へ開き、結界の動向を見守った。タヴは両手を体の脇へ下げ、掌をわずかに前へ向けている。

 

 タヴが半歩分、橋の結界が及ぶ範囲へ踏み込んだ瞬間、手の届くより先で識別結界の光が胸の高さを横へはじけ、細かな波を橋の端まで走らせた。

 

 背後でフェルンの杖先が指一本分だけ浮き、すぐ石畳へ戻る。シュタルクも肩越しのグレートアックスへ向かいかけた右手を、途中で止めて下ろした。フリーレンは杖の位置を変えず、走っていく光だけを目で追った。

 

 走った波が空間を歪ませ、橋の中央付近に淡い光が広がる。

 

「……来たか」

 

 タヴは城門側へ顔を上げた。

 

 都市側の観測装置が淡く脈動し、読み取った波形を都市内部へ送り始めた。橋からは読めない細かな光が、城門の上で忙しく明滅する。

 

 フェルンが口を開いた。

 

「……予想以上に反応が強いです。やはり、一筋縄ではいかないですね」

 

「これ、俺たちも入れないんじゃないか……?」

 

 シュタルクの言葉に、フェルンが小さく頷いた。

 

「識別結界の基準によっては、同行者全員が制限を受けるかもしれません。特にタヴ様との魔力干渉記録がある私たちは、観測対象に準ずる扱いになる可能性も……」

 

 フリーレンは結界を見つめたまま、短く告げる。

 

「排除するつもりなら、この時点でもう攻撃されてる。結界はそういう構造になってる」

 

 タヴは薄光が自分の外套へ留まるのを見下ろした。攻撃へ転じないまま、探知だけが幾重にも重なっている。

 

「……判断が保留されているということだろう。まだ都市は観察段階にある。ここまで来たからには、敵でないと証明するしかない」

 

 その見立てに、三人とも無言で頷いた。

 

 石橋はその先へ続いていたが、識別結界の薄光は退かなかった。都市へ入る者を選別する門として、四人の前で脈打っていた。

 

 四人はその光の前に並んだ。結界の向こうでも人影が動き始めていた。

 

 城門側の人影は橋へ出ず、薄光の向こうで横に広がる。四人も前へ進まず、湖面を渡る風の音だけが結界を抜けてきた。

 

 *

 

 湖上に張られた空間結界の縁に、四人の影が静止していた。都市から橋を隔てる結界の境界は、そのまま警戒網の最前線でもある。

 

 その上空、風ひとつない澄んだ空に揺れる魔力の光とともに、四つの人影が速度を揃えて降下していた。ゼンゼとゲナウ、そして補助の魔法使いが二人。全員が《飛行魔法》を維持しながら、空中での布陣を取る。

 

 ゼンゼの髪が風もないのに揺れた。浮遊したまま結界の向こうを見据えると、黒い外套の男を先頭に、二人の魔法使いと一人の戦士が並んでいた。

 

「……四名」

 

 ゼンゼが数を告げる間にも、分かれた髪先は結界越しの魔力を探っていた。隣ではゲナウが先頭の男を見定め、低く言葉を継ぐ。

 

「中央の男……魔力の出入りが自然体すぎる。まるで体そのものが魔法の器のようだ。衣服の劣化も激しい。焼損と物理損壊……相当数の交戦歴ありと見ていい」

 

 その探知を引き継ぐように、ゼンゼは髪先の一本をフェルンへ向ける。

 

「右の少女は……フェルンだな。協会登録済みで、私の記憶が正しければ、三級選抜試験を最年少でトップ合格した天才だ」

 

 ゲナウの探知もすでにフェルンを捉えていた。

 

「探知結界の反応が遅れている。魔法ではなく純粋な魔力制御によるものだ。あの歳でこの潜伏技術は異常だ」

 

 ゼンゼは小さく頷き、後方のエルフへ視線を移した。そのあいだにも、別の髪先は左端の戦士を測っている。

 

「後方のエルフの女は協会未登録だが、相当な手練れだな。構えも癖がない。……無駄に力を見せない、そういう沈黙の仕方をする魔法使いは厄介だ」

 

 その評価に、ゲナウが視線を同じ方向へ寄せて補足する。

 

「魔力探知の精度が高い。周囲の魔力干渉を制御しながら、緩やかに拡張させている。長期間の鍛錬を積んだ魔法使いだろう」

 

 先に探っていた髪がふわりと浮き、左端の人物へ向く。

 

「左端の男からは魔力を感じない。体つきと装備から見てパーティーの前衛……戦士だな」

 

 ゼンゼの見立てに、ゲナウが視線だけで同意を示し、短く補った。

 

「補助系統の魔法が施されている痕跡もない。純粋に肉体特化だろう」

 

 評価を終えた二人は結界の上空に静止したまま、眼下の四人を見据えた。ゲナウが警告を投げようと息を吸う。だが口を開くより先に、結界の正面に立つ分類不能の男が声を上げた。

 

「こちらに敵意はない。交渉の意思がある」

 

 言葉は意味として正確に頭へ届く。それでも、耳に届く音と黒い外套の男の口の動きは合わない。平坦な声の上へ、意味だけが半拍早く重なり、ゼンゼとゲナウのこめかみの奥を押した。

 

 ゼンゼの髪が一束だけ持ち上がり、こめかみの脇で止まった。意味が押し込まれる場所を探るように、先端が小さく動く。

 

「なんだこれは……意味は通じるが、言い回しが不自然で気持ち悪いな」

 

 ゲナウは一度だけ唾を飲み込んだ。喉が動いても、結界越しの男から目は離れない。

 

「こちらが理解できる言語に変換して脳内に伝達しているのか。……魔力と意識の接合点を無理やり繋がれたような感覚……極めて不愉快だ」

 

 ゼンゼの髪先が結界の手前まで伸び、薄光へ触れる寸前で止まった。

 

「……精神に負荷がないとは言えないな。聞けば聞くほど、こちらの思考とズレていく気がする」

 

 橋の上で、黒い外套の男は二人のこめかみと、結界の手前で止まった髪先を見た。次の言葉までに一拍空く。

 

「……余計に警戒させたかもしれん」

 

 フェルンが横から口を挟んだ。

 

「《Tongues(言語会話)》が持つ、魔法によって言葉の意味を理解させる効果が、精神干渉として結界の防御機構に判定されている可能性があります。……《Tongues(言語会話)》は解除した方がいいかもしれません」

 

 男の返答が、半拍遅れた。

 

「解除するとまともに会話すらできないが……」

 

 その時、後方のエルフが無言で男の肩に手を添えた。前方を見据え、肩に置いた指を動かさず言った。

 

「……黙ってた方がまだ印象いいかもね」

 

 男は言い返さず、口を閉じた。その隣で、フェルンが一歩進み出る。

 

「私が仲介役として言葉を伝えます」

 

 フェルンは結界の正面へ進み、胸元で杖をまっすぐ保った。

 

 空中の魔法使いたちが応じるより先に、頭上の空間がふっと撓んだ。結界が一度だけ大きく脈打ち、天から落ちるような魔力の奔流が都市上空を淡く照らす。ゼンゼは目を細め、ゲナウは滞空したままわずかに身を引いた。補助の魔法使いが構えるより早く、声が降ってくる。

 

「いつまで茶番をやっている」

 

 待ちくたびれたような女の声だった。青白い光の中心に、一人の女性が現れる。

 

 小柄な体躯に、膝まで届く金の長髪。両脇に流れる編み込みが左右対称に揺れ、肌は透けるように白い。ゆったりとした袖と短い上衣をまとい、足元には薄布の靴が結ばれている。足首には紐が巻かれ、まるで古い時代の儀式装束のようにも見えた。

 

 年若い少女にも見えるが、周囲を満たす魔力の中で、彼女のものだけが桁外れに大きい。結界が脈打っても、その視線は黒い外套の男から一度も逸れなかった。

 

 ゼーリエ。大陸魔法協会を築いた、神話の時代から生きる魔法使いだ。彼女の姿を認めた補助の魔法使いたちは高度を下げ、ゼンゼとゲナウの後ろへ退いた。

 

 彼女は一冊の魔導書を片手で扇ぐように振っていた。欠伸を堪えるように瞼を半ば伏せながら、視線だけは橋の向こうを捉えている。

 

「ゼンゼ、ゲナウ、下がれ」

 

 ゼンゼの髪先が下がり、ゲナウも高度を一歩分退いた。

 

「私が直接話を聞こう。あれだけの魔力と、理を通さない言語を使う者……面白いじゃないか」

 

 ゼーリエの片方の口角が上がった。彼女は識別結界の歪み、左腕の黒布、タヴの目の順に見る。ゼーリエの目を正面から受けた瞬間、タヴの意識は研ぎ澄まされた。小柄な体格で膝まで届く金髪。人間離れした整った容貌と、尖った耳。

 

 尖った耳はフリーレンと同じエルフのものだ。二人とも、タヴが見知ったエルフより小柄で、魔力の揺らぎも違う。

 

(この世界では、そういう種族なのか……)

 

 種族差についての考えはそこで切り、タヴは金髪のエルフが一切漏らさず留めている魔力へ意識を戻した。

 

 その足元では、結界の薄光が彼女の輪郭を避けて流れていた。魔力はどこへも広がっていないのに、タヴの腕には冷たい粒が皮膚の下を走る。これほどの力を、一寸も漏らさず留めている。

 

(……化物だな)

 

 タヴは両手を見せたまま一歩だけ進み出る。ウォー・ピックを右腰に、クオータースタッフを背に残し、結界面の手前で止まった。彼女を見上げて口を開く。

 

「……先ほどは──」

 

 言い終える前に、ゼーリエが遮った。

 

「喋らなくていい」

 

 ゼーリエの声は冷淡で、どこか飽き飽きした響きを孕んでいた。

 

「お前の魔法は不快だ。意味だけを押し込んでくるような声。……頭が痒くなる。聞くに堪えない」

 

 タヴが口を閉じると、彼女は魔導書を持たない方の手を一度払った。指先に光も術式も現れない。

 

 その手が止まると、結界面を走っていた波が同時に平らになった。

 

 風も波もない空間が震え、タヴの周囲に淡く透き通った魔力の膜が浮かび上がる。薄膜の縁は結界の波へ重なり、声が届くたびかすかに明滅した。

 

「私の方で会話ができるようにしてやった。お前が馴染んだ理ではなく、こちらの理でだ」

 

 その語尾は、タヴが馴染んだ言語として聞こえた。ゼーリエの口の動きと声は重なり、耳に入った音と理解の間に遅れもない。冷たい語気まで、そのまま橋上へ届いている。

 

 フリーレンが術名を確かめるように囁いた。

 

「……《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》」

 

 フリーレンが知る限り、それを扱えるのはゼーリエだけだ。《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》は、発された音を別の言葉へ置き換えるのではない。言葉になる前の意味を拾い、それぞれが馴染んだ言語へ幾層にも重ね直す。

 

 薄い膜は橋上の四人を包み、さらに結界を越えて、宙にいる魔法使いたちの足元まで広がった。誰か一人の意識へ繋ぐのではなく、この場の会話そのものを覆っている。

 

 タヴは短く息を吐いて《Tongues(言語会話)》を解除した。彼は一礼し、改めて口を開く。

 

「先ほどは申し訳ない。俺はタヴだ」

 

 金髪のエルフは、タヴの声と口の動きを一度だけ見比べ、魔導書を扇ぐ手を止めた。

 

「その方がまだマシだ」

 

 それだけ告げると、謝罪そのものには答えず、魔導書を二度扇いだ。

 

「ゼーリエ。神話の時代の大魔法使いだ。知っている者だけが知っていればいい」

 

 一歩後ろにいたフリーレンが、タヴの横へ出た。タヴは彼女へ視線を向けて声を抑える。

 

「知り合いか?」

 

 フリーレンはゼーリエから目を離さず、杖先だけを石畳へ寄せている。初対面の相手へ向ける構えには見えなかった。

 

「……私の師匠の、さらにその師匠。オイサーストに来たら、あなたを会わせたいと思ってた人だよ」

 

「……彼女は大師匠ということか」

 

 タヴは半分冗談めかして返したが、「大師匠」の語だけが遅れる。フリーレンは否定も肯定もせず、ただ小さく苦笑した。

 

「タヴは、敵じゃない。けど、ゼーリエが直接ここに来たってことは……それ以上に興味があるってことだね?」

 

 ゼーリエはフリーレンを見ず、タヴから視線を外さないまま答える。

 

「膨大で異質な魔力を持ち、理の外に存在する者。退屈な日々を壊すには、ちょうどいい素材だ」

 

 ゼーリエは魔導書を胸元まで下げた。

 

「お前は……どこから来た?」

 

 返事を待つあいだも、ゼーリエはタヴから目を逸らさない。タヴは一度息を吸った。

 

「……なら、質問に答えよう」

 

 わずかに言葉を選ぶ間があり、タヴは短く告げた。

 

「俺は、この世界とは別の現世から来た。世界はいくつも並んでいるが、俺の故郷はその一つであるトリル次元だ。……今はそこに戻る方法を探している」

 

 半ば伏せていたゼーリエの瞼が、そこで初めて上がった。

 

「お前が、聖職者連中の啓示に出ていた星の記憶か」

 

「……何の話だ?」

 

 ゼーリエの口元がわずかに緩む。

 

「私と模擬戦をしないか?」

 

 橋の下で水が石脚に当たり、一定の間を置いて戻ってくる。その音が二度響いても、ゼーリエだけは視線も姿勢も変えなかった。

 

 ゼンゼが「は……?」と小さく呟き、ゲナウは無言のまま視線を鋭くする。フリーレンとフェルンは同時に息を飲み、シュタルクは思わず半歩前へ出かけて踏みとどまった。

 

 タヴはゼーリエの手元から目を離さずに問い返す。

 

「……何でそんな話になる」

 

「知りたいだけだ。異界の魔法について。それを知るには、戦うのが一番手っ取り早い」

 

 ゼーリエは理由を告げ終えると、今度は命令の形で言った。

 

「異界の魔法を、私に指導するつもりでぶつけてこい」

 

 ゼンゼの髪先が細く尖り、フェルンが思わず声を上げる。

 

「待ってください……! それはあまりに──」

 

 ゼンゼもすぐに続いた。

 

「ゼーリエ様、それは危険です。対象はまだ──」

 

 フリーレンですら一歩出かけた。だが、ゼーリエは一切彼らに目を向けることなく、タヴをまっすぐに見つめたまま言い切った。

 

「……異界について私に教えてくれるなら、お前が元の世界に帰るための知恵を貸そう」

 

 タヴは、故郷の音を返したまま術式だけがほどけた音叉を思い出した。外から知る術を重ねても、閉じた道は開かなかった。足りないのは、この世界の内側から法則を探る目だ。フリーレンが師のさらに師と呼び、会わせたいと考えた大魔法使いが、その知恵を貸すと言っている。

 

 模擬戦の危険と引き換えでも、見送れる機会ではなかった。タヴはゼーリエから目を逸らさず、両手を下げる。

 

「……分かった。受けよう」

 

 ゼーリエは笑った。先ほどまでの値踏みする薄い笑みではない。異界の魔法を自分へぶつけさせ、その理を暴ける期待が、金色の瞳に隠しようもなく浮かんでいた。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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