界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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アストラル界での調査中に消息を絶ったタヴを救うため、ブロックスは独自の探査を試みるも失敗。故郷の鍛冶神モラディンに祈った彼は、神々が多元宇宙の危機を察知し、自分が鍵となると知る。一方、異界でゼーリエとの模擬戦を経て魔法の特性や自身の過去に触れられたタヴは、互いに一定の理解を得る。彼らの背後で次元間の侵略が本格化し、運命は動き始める。


#4:神の座に届く声

 空は厚い雲に覆われている。多元安定機構の観測施設から見上げるアストラル界の境界は灰色に霞み、次元座標を示す灯火の列も輪郭がぼやける。観測魔法が映し出す転送映像は一定周期で乱れ、画面の一部が波打つ。そこには、本来の座標系では説明できない歪みが残っている。

 

 だが、ブロックスはもうここにはいない。彼は、多元安定機構を辞した。自分の意思で。報告も、慰留も、引き継ぎも、すべて最低限で済ませた。第三次アストラル干渉班──かつて自らが主導した部署を離れた日から、彼はひとりで動いている。

 

 その後の数ヶ月、彼は独力で調査を続けた。あらゆる次元理論、失われた観測データ、封印指定の古文書、アストラル漂流者の証言を集めた。魔導炉を自作し、私設の探査端末を打ち上げ、演算炉で世界の構造式を組み直した。

 

 だが、すべての試みは一点に収束する──接続点なし。次元共鳴反応なし。振動座標の記録不能。

 

「……門も見つからねえ。境界もねえ。そもそも……辿れる座標が存在しない」

 

 唸るような声が室内に残る。応える者はいない。アストラル界層で拾った召喚痕跡も、空間歪曲の残滓も、タヴが消えた座標も、同じ場所で途切れる。理屈で埋められない隔たりがそこにある。ブロックスは理解している。誰かが扉を開き、誰かがタヴをあの世界へ送り込んだ。そして、タヴはそのまま消息を絶った。

 

(あれが……最後になるとはな)

 

 ふと、記録映像が脳裏に浮かぶ。嵐の中を進む男。雷光で焼けた背中。魔力の圧に耐えながら前を見据えた眼差し。彼はブロックスより遥かに若かったが、戦場で判断を曲げず、仲間に背を向けないところがあった。正義でも義務でもなく、自分の理由を持って動く男だった。

 

 その男が、名も知れぬ世界に落ちた。だが、そこへ届く道はない。

 

 演算は行き詰まり、記録は断絶し、次元炉は冷えた。どれだけ知識を積んでも、理論を重ねても、世界の外側には届かない。

 

「技術では……どうにもならねえのか」

 

 呻くように吐き出された言葉は、作業音の止んだ部屋に消えた。

 

 その瞬間、ブロックスは抑えが利かなくなった。

 

 意識の奥に押し込んでいた疲労、失われた命、守れなかった誓い。それらが、次元演算盤の光の下で一気に表へ出る。

 

 ブロックスは立ち上がる。

 

 冷え切った部屋に背を向け、工具をひとつ残らず箱に収める。再起動の見込みすらない魔導炉に最後の魔力を流し、停止処理を済ませてから、彼は扉を閉めた。

 

 向かう先はひとつ──アイアンマスター。北方山岳に根を張る、鍛冶と信仰の古き街。彼が生まれた場所だ。火と鉄と祈りに囲まれて、初めてハンマーを握った日からすべては始まった。ブロックスは荷を背負い、北へ向けて歩き出す。

 

 山道は雪で覆われ、足元の石が滑りやすい。踏み固められた場所を選び、体勢を崩さないように進む。雪の斜面を越えると、故郷の煙が見えた。石造りの家々と、山肌に沿って建てられた工房群が並ぶ。風に乗って、鉄を打つ音がかすかに届く。炉の匂いは変わらない。だが、街の様子が以前と違っていた。

 

 子どもたちの声は遠い。広場から笑い声は聞こえない。皆、どこか忙しげで、目が合うとすぐに逸らされた。それもそのはずだ。ブロックスはかつて、戦いの最前線で多くの命を預かっていた。帰るべき家に、長く背を向けていた。何が残ったかは、彼自身がよく分かっている。ブロックスは家の扉を叩いた。扉を打つ音は硬く響いた。

 

 返事はすぐに返った。

 

 中から現れたのは、変わらぬ顔だった。だが、髪に僅かな白が混じり、目の奥には隠しきれない疲れが出ている。かつての伴侶、リーナだ。

 

「……帰ってきたのね」

 

 それは喜びの言葉ではない。リーナの口調は淡々としていて、ブロックスは返す言葉を探した。

 

「少し……話せるか」

 

 彼女は一度だけ瞼を伏せた後、無言でうなずいた。家の中には、見慣れた食器があり、壁にかけられた古びたタペストリーがある。そして──息子の姿があった。まだ十にも満たない少年は、ブロックスを見ると不思議そうな顔をした。

 

「……この人は?」

 

 リーナが膝を折って、息子に語りかける。

 

「お父さんよ。少し……遠くにいたの」

 

 少年は、ただじっとブロックスを見つめた。言葉も表情も、なかった。それでも、ブロックスは何も言えなかった。自分が離れていた年月が、すべてを示している。

 

 やがて、家の中で時間が過ぎる。食卓には湯気の立つスープが置かれるが、誰もそれに手を伸ばさない。暖炉の火が薪を焼き、乾いた音を立てる。窓の外はいつの間にか夕方になり、山の稜線に当たる光が薄く変わっていく。斜面を渡る風が雪をさらい、家々の屋根に影を落とす。

 

 ブロックスは炎の揺れに目を落とした。炉の前で、ようやく口を開く。

 

「……思い出すんだ。昔、戦場で拾った、タヴを」

 

 リーナは何も言わなかった。ただ、炎越しに横顔を見つめている。ブロックスの声は低い。

 

「まだ子どもだった。骨のように細くて、顔は血と煤で真っ黒で……でも、剣を握っていた。震えながら、それでも誰にも背を見せなかった」

 

 リーナは目を伏せ、小さく頷く。

 

「ええ……あの子。ひと言も喋らなかったわね」

 

「そうだ。だが、俺の目を真っ直ぐに見返してきやがった。恐怖も、信頼もなかった。ただ、生きるために睨んでいた。……それでも、俺はあの目が忘れられねえ」

 

 語るにつれて、ブロックスの声は少し強くなる。

 

「タヴは、あのときの子どものままだ。今また、生きるためだけに、踏ん張っている。あれほどの魔力を持ちながら、自分の居場所を探し続けている」

 

 言葉を継ぐブロックスの拳が、膝の上で強く握られる。

 

「なら、俺が行くしかねえ。タヴが手を伸ばす前に、誰かがその手を取ってやらなきゃならねえ」

 

 リーナは問いかけるように目を細めた。

 

「……また背負いに行くのね」

 

「誰かがやらなきゃならないなら、俺がやる。あの子が、まだ待ってるような気がするんだ」

 

 しばらく言葉が途切れる。炉の火がぱちり、と小さく弾けた。

 

「私たちより、その子を優先するのね」

 

 リーナの言葉には、寂しさと納得が混じっていた。だが、責める色はない。ブロックスはすぐに否定も肯定もしなかった。ただ、目を閉じる。

 

「……どちらかを捨てたいわけじゃねえ。ただ、見捨てたら、俺は俺じゃなくなる気がする」

 

 しばらくして、リーナは細く息を吐き、かすかに微笑んだ。

 

「なら……行ってきなさい。あなたがまだ諦めていないのなら」

 

 そして、ごく柔らかく言葉を添えた。

 

「……帰ってきたら、その子の話を、ちゃんと聞かせてね」

 

 *

 

 霜鉄炉。アイアンマスターで最も古い、信仰と鍛冶の象徴。石の階段を登るたび、空気が変わっていく。静寂と熱が混ざり合い、言葉を拒むような重みが身を包む。

 

 炉は、今も燃えていた。

 

 鈍い紅が、深々と広がる鉄炉の奥で揺れている。かつてブロックスが鍛冶師として初めて槌を振るったその場所。彼は、誰にも見られぬようにして、炉の前で膝を折った。形式的な祈りではなく、信仰に火を宿す祈念が始まる。

 

 彼は両の手を炉石に添えた。ごつごつとした感触。熱が皮膚を焦がすほどに近い。だが、それが良い。火が遠ければ、願いは届かない。

 

 低く、深く、彼は言葉を編む。

 

「Baraz Moradin…… khâzum duzûl…… khur azgal thalâk(誉れあれ、モラディンよ……折れぬ意志を……揺るぎなき魂を)」

 

「Zorn ân-gund. Baruk khazâd. Zudul karnûn(炉の怒りを我に。ドワーフの斧に誉れを。我が刃に鋼の意志を)」

 

 炉に祈る言葉──古きドワーフの言語で語られる、鍛冶神への真の祈りだった。

 

「Moradin, khazâd-râm. Duzûl narn. Baruk-ûr zund(モラディンよ、ドワーフの力の源よ。折れぬ魂に火を灯せ。再び我が槌に誉れを)」

 

「父なる鍛冶神よ。俺の手は鈍り、我が槌は迷い、我が魂は折れかけている。だが、それでも再び打ちたい」

 

 熱が、指先を包み込む。それでも彼は手を離さなかった。焼ける痛みは罰であり、祈りの証でもあった。

 

「おお、モラディン。もし聞こえるなら──」

 

「俺に新たな火を。再び、誰かのために打たせてくれ」

 

 モラディン。鉄と火の父にして、全てのドワーフの創造主。万物を鍛える神にして、意志ある者の槌の導き手。彼が初めて炉に火を入れ、星々に命を与えたとき──その火花こそが、ドワーフという種族の魂になったと語り継がれている。

 

 モラディンは秩序の神であり、創造の神でもある。ただ祈る者には応えず、叩き続ける者にのみ力を与える。

 

 語りかけたのは、神ではなかった。火だった。

 

 燃え続けるものに、自らの意志を叩き込む。

 

 ただ、そこにあったのは、静かな熱。

 

 だが、それで十分だった。

 

 この世界で、火と鉄を信じて生きてきた。ならば最後もまた、火に問い、鉄に聞くべきだ。例え沈黙が返ってきたとしても。

 

 ブロックスは、ただ静かに、炉の前に座り続けた。火が、ゆらりと形を変える。それが、奇跡の始まりになるとは、この時まだ誰も知らなかった。

 

 *

 

「……分かった。受けよう」

 

 その言葉が地に落ちると同時に、周囲の空気がぴたりと静止した。

 

「そんな……本気でやるつもりですか?」

 

 フェルンの声はかすかに震えていた。わずかに揺れた眼差しが、ゼーリエとタヴの間にある目に見えぬ距離を測るように彷徨う。

 

「ゼーリエ様、それは危険すぎます。その異界の魔法が私たちにどう作用するのかも分かりません!」

 

 ゼンゼは一歩踏み出しながら声を上げた。紺衣の袖が揺れ、彼女の髪が風もないのに小さく蠢いていた。ゼーリエは、その二人の声をまるで通り雨でも眺めるような眼差しで受け流し、首を少し傾けて、淡々と答えた。

 

「腕や脚が吹き飛んでも後で治せるさ」

 

 さらりと放たれたその言葉に、全員が絶句した。ゼーリエは肩越しにタヴへと目を向け、続ける。

 

「お前もそうだろ?」

 

 沈黙。誰もすぐには返せなかった。タヴはわずかに目を細める。軽く眉を上げただけで、表情はほとんど変わらない。だが、その目に宿るのは明らかな警戒と、それに裏打ちされた戦場の経験値だった。

 

「……ずいぶん信頼されてるな」

 

 軽く皮肉を込めた一言に、ゼーリエは口元をほんのわずかに緩める。ほんの少しだけ。誰もが、言葉の意味を咀嚼するのに、わずかばかりの時間を要した。

 

「いや、四肢が吹き飛ぶ前提で話すのがまずおかしいだろ!」

 

 最初に反応したのはシュタルクだった。呆れと怒りと、わずかな恐怖を混ぜ込んだ声が場を切り裂く。

 

「ゼーリエ様、どのような模擬戦を想定しているのですか……?」

 

 ゼンゼの声には、抑えきれない戸惑いと焦りが滲んでいた。だが、当のゼーリエは微塵の緊張も見せず、まるで質問の意図すら掴みかねているように小さく首を傾げた。

 

「ゼンゼ、お前だって一級魔法使い試験で死人が出ることもあるのは知っているだろう?腕や脚が吹き飛ぶことだってあるさ」

 

 そのあまりに淡々とした言葉に、数秒の沈黙が落ちる。空気が静まり返った中、タヴが苦笑まじりに口を開いた。

 

「俺としては、吹き飛ばさないように気をつけてくれるとありがたいが……」

 

 それは皮肉でもなければ挑発でもない。ただ現実として起こりうる事象に対する、率直な懇願だった。だがゼーリエは気にも留めず、すっと顎を上げて空を見上げた。

 

「地上だと周りを巻き込んで危険だからな。場所は上空……この地点から二千メートルぐらいまで上がろう」

 

「二千……?」

 

 フリーレンがわずかに目を細め、空の高みを見上げた。彼女の声には、常人には到底辿り着けない高さを即座に計算するような冷静さがあった。

 

「《飛行魔法》の限界高度近いね……」

 

 淡々とした言葉の裏に、経験者としての警戒が滲む。

 

「その高度を維持しながら魔法戦を行うなど、正気の沙汰ではない……」

 

 ゲナウが低く呟いた。隣に立つゼンゼもまた、険しい表情を浮かべた。

 

「……それは魔力量だけでなく、気圧や風の影響も計算に入れる必要が──」

 

 論理的な反応。だが、その声には明らかな不安が滲んでいた。ゼーリエはそれを遮るように、静かにタヴへ視線を戻した。その眼差しは相変わらず揺るがず、ただ事実を確認するような鋭さを保っていた。

 

「お前なら問題ないだろう?」

 

 唐突な問いかけにも、タヴは表情を変えなかった。むしろ少しだけ肩をすくめ、短く息を吐いてから、無造作に答えを返す。

 

「何を根拠にできると判断しているんだ……まあ、俺の飛行能力は身体機能の一部みたいなもんだ。飛行の維持に魔力はいらない。気圧の変化や強風に関しても、ある程度は耐性がある」

 

 さらりとした口調だったが、その言葉に嘘はなかった。軽く話しているように見えて、その実、異界の肉体構造という隔絶した現実がそこにあった。

 

「一体どういうことだ……?」

 

 ゼンゼが困惑を隠さずに呟く。理解不能な存在を前に、言葉は自然とこぼれ出ていた。タヴはその声に答えるでもなく、軽く片手を上げて言った。

 

「簡単に言えば、俺は生まれつき嵐の力と繋がっている。肉体自体が雷や風と親和していて、飛行や悪天候への耐性もその副産物だな。……詳しい話はまた今度でいいだろう」

 

 そして、タヴは右手の指を軽く鳴らした。瞬間、足元に魔力の風が生じ、彼の身体を包むように旋風が巻き上がる。術式の詠唱もなく、《Windsoul(風の魂)》が発動される。

 

 風が渦を描き、彼の足元を照らすように魔力が奔り、浮遊するように地上から離れていく。そのまま、空へと向かって加速していくと、宙に浮かんでいたゼーリエの位置まで一気に到達した。二人の高度が並んだ瞬間、ゼーリエが口元にわずかな笑みを浮かべた。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 静かな声が風に乗って届く。その言葉と同時に、ゼーリエの手元にあった魔導書がふっと宙にほどけ、幾つかの文字の残響だけを残して虚空へと溶けるように消えていった。

 

 そして、二人は視線を交わすことなく、ただ上空を目指してさらに加速していった。二人は、視線を交わすことなく、同じ速度で空を目指す。地面を離れた足は、もう地上のことなど視野に入っていない。浮き上がった魔力の尾が、青空を裂くように垂直に伸びていく。

 

 すぐに、ゼンゼ、ゲナウ、そして補助の魔法使いたち二人が《飛行魔法》を解いた。もはや自分たちの出番ではない。ゼーリエが現場を請け負った以上、介入は不要だと理解していたのだ。

 

 彼らは無言のまま、高度を下げて静かに石畳へと降り立った。その様子を横目に、地上に残った者たちが、一斉に視線を上空へと向ける。最初は姿が見えた。だが、一分もしないうちに、彼らの姿は点となり、さらに視認できないほどに遠くなる。

 

「……あれ、二千どころじゃ……もっと行ってませんか?」

 

 フェルンの声が震えた。

 

「魔力探知も届かないな……あんな場所で魔法を撃ち合うつもりか……」

 

 ゲナウが目を細め、口を真一文字に結ぶ。

 

「高いほどいいだろうね」

 

 フリーレンがぽつりと呟いた。

 

「誰にも届かない場所なら、ゼーリエも……遠慮しない」

 

 空は晴れていた。澄んだ青を突き破るように、二筋の魔力の尾が光の軌跡を描いていた。旋風を纏った異界の魔法使いと、天をも支配する魔法の化身が、交差の頂へと向かっていく。

 

 交わされるのは剣ではない。言葉でもない。魔力と意志による、ただ一度の対話だった。

 

 そして、空の果てで──戦いが、始まろうとしていた。

 

 *

 

 空は、既に地上からはるか遠く、雲すらも足元に見えるほどの高みへと変わっていた。薄く広がる大気の層を突き抜け、音も色も希薄になった空域。そこに漂うのは、ただ静かな殺意と、研ぎ澄まされた集中だった。ゼーリエは宙に浮いたまま、視線を前方に滑らせるように向けた。

 

「さあ……私に教えてくれ。異界の魔法について」

 

 静かに、だが確かにそう言った。タヴは距離を測りながら、冗談めかして言った。

 

「なら……俺も遠慮なく大魔法使いに教えを請うとしよう」

 

「ああ、遠慮はいらんぞ。全力で来い」

 

 言葉を交わしながらも、ゼーリエは既に詠唱に入っていた。だがそれは音にはならず、息づかいのように内に収められる。右手を軽く掲げると、指先から魔力の輝きが漏れ出す。

 

 放たれたのは三つの光点。

 

 鋭く光るそれらは、《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》──対人殺傷に特化した魔法として開発され、魔族と戦うために体系化された攻撃魔法だった。速度と密度を極限まで高め、殺すためだけに構築された術式。時間差と角度を変えて構成されたその三発が、タヴを囲むように襲いかかる。

 

 タヴは魔力の軌道を一瞬で読み取り、反射的に掌を構えた。魔力の圧縮と展開が重なり、空気が軽く歪む。

 

 《Eldritch Blast(怪光線)》──三条の黒紫の光線が閃き、雷鳴のような衝撃を纏って空を裂いた。

 

 一発目の《Eldritch Blast(怪光線)》は、真正面から来た《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》と正面衝突し、激しい光を散らして互いを霧散させた。

 

 二発目は放出角がわずかに逸れていた。迎撃しようとしたがわずかに狙いが外れ、照準を誤った《Eldritch Blast(怪光線)》は空の一点を焼き裂いただけで終わる。

 

 迎撃を失敗したタヴは、次の瞬間、迫る《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》の二発目に対し、即座に身体を捻って回避に転じた。魔力の弾丸は彼の右肩をかすめ、外套の裾を裂いて虚空へと抜けていく。

 

 三発目の《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》が迫る。

 

「《Shield(盾)》」

 

 青白い魔力障壁が瞬時に展開され、殺傷魔法を正面から受け止める。鋭い衝撃音と共に、《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》は砕け、霧散した。

 

 直後、対峙するゼーリエの姿が視界に戻る。彼女はすでに次の術式に移っていた。その身体の周囲には、《防御魔法》──六角形の魔法陣が幾重にも重なった障壁が静かに展開されている。

 

 三発目の《Eldritch Blast(怪光線)》は、撃った直後から僅かに湾曲していた。弾道を調整されたその一撃が、ゼーリエの《防御魔法》に真正面から激突する。それは《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》と並行して発展した防御術式であり、魔法に同調し、威力を分散させる構造を持っている。

 

 蜂の巣状に並んだ六角の板が、衝撃を受けて一斉に波打ち、中心が鈍く歪んだ。一部の板は耐えきれずにきしみを上げ、光の粒となって崩れ落ちていく。ゼーリエは眉一つ動かさずに空間を滑るように移動しながら、すぐさま次の術式を構築し始めていた。

 

 タヴの目がその動きを捉える。読み合いが始まっていた。

 

 彼は風のように旋回しながら、再び魔力を練り上げる。今度は放つ瞬間、わずかに肩の軸をずらし、放出角度を変える。目線は真っすぐにゼーリエを捉えていたが、弾道はあえてずらされたものだった。

 

 四発の《Eldritch Blast(怪光線)》が連続して走る。それぞれが異なる接近角と速度を持ち、重力による微細なズレすら計算に含まれていた。見た目は真っすぐ飛んでいるようで、すべてが違う罠だった。

 

 ゼーリエは即座に《防御魔法》を維持・修復しながら、被弾箇所を魔力で補強する。だが、先程の直撃で構造が歪んだ箇所は、完全には回復していなかった。

 

 二発目が、ちょうどその歪みを突く。外殻が崩れ、余波が結界を抜けてゼーリエの周囲の空間を焼き払った。ゼーリエの唇がわずかに動く。詠唱の断片すら不要だった。すでに別の術式が並行して構築されている。

 

 足元の空間が、一瞬にして切り替わる。まるで鏡の表面が砕け、別の空間へと踏み込んだかのように──ゼーリエの姿は、十数メートル後方へと再出現した。

 

 《レヴァレイド(短距離の空間を跳ぶ魔法)》──短距離間の空間座標を自在に飛び越えることで、攻撃を回避したり敵との距離を一瞬で詰めたりできる瞬間移動の魔法。ゼーリエが元いた位置を《Eldritch Blast(怪光線)》の三発目と四発目が貫いた。魔力の尾が彼女の残像を引き裂き、虚空に散っていった。

 

 一方、遥か下の地上では──

 

「……遠すぎて、よく見えません」

 

 フェルンが目を凝らしていた。見えるのは、淡く尾を引く魔力と点のような閃光だけ。それでもその速さと数の多さが尋常でないことを物語っていた。

 

「空気の層が薄いのだろう。あの高さでは、光も音も地上には届きにくくなる」

 

 ゲナウが低く補足したが、自身も顔をしかめながら目を細めていた。フリーレンがふと横を見る。宙を見上げたまま、微動だにしないシュタルクの横顔がそこにあった。

 

「シュタルク、もしかして見えてるの?」

 

 信じがたいと思いながらも、そう尋ねる。

 

「ん、あぁ……なんとなく動きは分かる」

 

 シュタルクはごく当たり前のように頷いた。その様子に、フェルンとゲナウが同時に目を向ける。

 

「流石は戦士だね……すごい視力」

 

 思わずフリーレンが漏らすと、シュタルクは視線を逸らさぬまま、まるで戦況を読み取るように淡々と続けた。

 

「あそこから青いのが八つ、こっちから紫のが四つずつ、みたいな……」

 

 真顔で返されたその言葉に、誰も返すことができなかった。沈黙がしばし流れた後、フェルンが小さく呟く。

 

「シュタルク様も大概ですね……」

 

 その頃、再び上空ではゼーリエが鋭く旋回し、手を虚空にかざしていた。呪文の詠唱はない──掌に凝縮された魔力が即座に閃き、《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》が八条の殺意の光となってタヴを四方八方から取り囲んだ。術者の理性が生み出した複雑かつ精密な軌道は、回避を許さない。

 

 しかしタヴは即座に身を翻し、右足を宙に踏み出すと、小さく呪文を囁く。

 

「《Misty Step(霧渡り)》」

 

 霧が彼の身体を包み、その姿が虚空に溶ける。直後、およそ九メートル横の空中に再出現したタヴは、《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》の光が虚しく空を切り裂くのを見届けた。霧を突き抜けるように飛び出す彼の姿を見て、ゼーリエの瞳が僅かに細まった。

 

(魔力消費の痕がほとんど見えず、術式の構築もない……まるで生来備わった能力のようだ……)

 

 実際、ゼーリエの直感は的を射ていた。タヴはかつて多元安定機構の任務で《Feywild(妖精界)》──現実の位相に重なる妖精の領域──へ赴き、その過剰な生気と幻気に身をさらしたことで《Fey Touched(妖精に触れし者)》となっている。

 

 《Fey Touched(妖精に触れし者)》となった者は、魂のどこかがあちらの理に同調し、《Misty Step(霧渡り)》と、占術や心術に属する一階梯の魔法をひとつ、刻印のように身に宿す。

 

 どちらも一度だけなら《Spell Slot (魔力の器)》を消費せずに行使でき、長い休息ののちに再び同じやり方で使え、《Spell Slot (魔力の器)》を用いれば制限なく発動できる。彼にとってそれはもはや魔法ではなく、肉体に刻まれた身体機能そのものだ。

 

 タヴは霧の残滓がまだ散り切らぬうちに、反撃に転じた。高空の風圧をいなしながら体勢を制御し、指先に強い魔力を集中させる。

 

「《Eldritch Blast(怪光線)》」

 

 四条の黒い魔力光弾が空を裂き、ゼーリエへと迫る。彼は《Quickened Spell(迅速術)》──自身の生命力から抽出した魔力を注ぎ込み、呪文の詠唱速度を限界まで高める特殊な技法──を用いて、通常の倍の速度で八発の光弾を放つ。

 

 ゼーリエの目が鋭く動く。《防御魔法》は既に準備されているが、瞬時に判断を変えた。彼女は両手を広げ、周囲に半球状の魔力障壁を展開する。

 

「《セルヴァティス(魔力を受け流す魔法)》!」

 

 強力な攻撃を受け止めるのではなく、魔力を分散させて受け流す防御呪文が展開される。その瞬間、八発のうちの一発がゼーリエの肩を掠め、衣服を裂いたが、残りは障壁に触れた途端に空中で霧散した。鋭い火花が散り、空気が鋭く震えた。

 

(次はもう、牽制では済まない……!)

 

 タヴは即座に次の攻撃魔法を構築する。空が青白く軋む──それは爆発の予兆だった。一瞬、世界が静寂に包まれる。彼の右掌に収束した魔力は本来ならば炎をもたらす《Fireball(火球)》だが、瞬時に呪文の属性を書き換える。

 

 《Transmuted Spell(変質術)》──術者が魔法の性質を根源的に組み替え、属性を別のものに変更する高度な魔法制御技術──により、火球の性質が雷撃へと一瞬で変化する。青白く脈打つ稲妻の球体が虚空に浮かんだ。

 

(術の構築後に呪文の性質を変えた……?)

 

 ゼーリエは眉をわずかに寄せ、視線を固定した。直後、《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》の乱流がタヴの周囲で渦をつくり、タヴはその風を推力に変えて宙を疾駆する。

 

「《Misty Step(霧渡り)》」

 

 再び瞬時に霧と化し、ゼーリエの至近距離に姿を現す。自ら爆心地へ踏み込む動きに、彼女の表情がわずかに強張る。

 

(自分ごと巻き込むつもりか──!)

 

 タヴはゼーリエの眼前、爆心を胸前に定めて稲妻の球体をその場で爆ぜさせた。

 

 空が轟音と閃光に染まる。《Fireball(火球)》が《Transmuted Spell(変質術)》で雷撃となり爆発し、青白い稲妻が空を貫いた。同時にタヴ自身の身体からも雷撃と衝撃波が放たれる──《Heart of the Storm(嵐の中心)》、彼が一階梯以上の電撃や雷鳴の魔法を発動するたびに自身を中心として発生する嵐の余波だ。

 

 二重の雷撃が炸裂し、白青の光が視界を飽和させる。音圧が鼓膜を叩き、空気が一瞬で膨張して圧縮波が走る。帯電した風が肌を刺し、高空に焦げた金属の匂いが薄く散った。

 

 

 

「っ……!」

 

 地上にいたフェルンが咄嗟に目を背ける。その横でゼンゼも片腕で眩しさを防ぎながら、驚愕の眼差しを向ける。

 

「今のは……雷?」

 

「分からない……。だが、ゼーリエ様は一体何と戦っているんだ?」

 

 ゼンゼは半ば呆然と呟く。空に渦巻く青白い余波を目の当たりにし、信じがたい光景に言葉を失っている。

 

 一方、空の中心では、ゼーリエが即座に対応していた。雷撃の奔流が彼女に迫る直前、《リュセレイア(雷を折り曲げる魔法)》を展開する。魔力が雷の軌道を僅かに歪め、彼女を直撃するはずだった稲妻を空中に散らす。激しい雷鳴が周囲を揺らし、稲妻の残滓が彼女の頬を掠めて消え去る。

 

 そして、嵐が過ぎ去った虚空の中心──そこには、静かに息を整えるタヴが浮かんでいた。

 

 彼の姿には、一切の傷も焼け跡もなかった。雷撃に包まれたというのに、ただ静かに立ち尽くしている。《Wind Soul(風の魂)》──風と雷の化身としての恩恵。彼は、雷撃と雷鳴に対して完全な耐性を持っていた。ゼーリエは目を細め、呟くように言った。

 

「……風と雷に祝福された者。なるほど、面白い力をしている」

 

 タヴは答えず、距離を取り、すでに次の魔力を編んでいた。魔力の流れが、色を変える。今度は攻撃でも、防御でもない。タヴの掌から伸びた魔力は、影を通じてまっすぐゼーリエを捉えた。

 

 《Hexblade's Curse(影の刃の呪い)》──黒い鎖が影から這い出し、ゼーリエの影に絡みつく。影に縫いつけられるように、呪いの刻印が走る。目には見えないが確かに存在する干渉がゼーリエの精神に忍び寄る。

 

 それは、呪われた者への魂の干渉を強め、術者の攻撃を容赦なく引き寄せる異界の呪い。受けた者は傷が深まりやすくなり、まるで見えない刃で狙われ続けているかのように、回避も防御も鈍る。

 

 だがその瞬間、ゼーリエの左手が微かに上がり、無言で魔法が展開される。足元の影がさざめくように揺らぎ、縫いつけられていた呪いの鎖が引き剥がされ、逆流するように宙を駆ける。黒い鎖は反転し、今度はタヴの影へと鋭く伸びていった。

 

「……っ!」

 

 タヴの表情に一瞬だけ緊張が走る。呪いが己の影へと戻りかける──しかし、何かが干渉した。彼の背後に、ほんのわずかだが黒い瘴気のようなものが滲む。それは呪いを拒むように脈打ち、伸びてきた鎖を、まるで侵入者のように焼き払い、反転した呪いを霧散させた。

 

「……消えた?」

 

 ゼーリエがわずかに眉をひそめ、低く呟く。

 

(……《Hexblade(影の剣)》自身が呪いを拒絶した?)

 

 タヴ自身も、何が起きたのかを正確に理解しているわけではなかった。

 

 ただ、感じたのだ。あちら側──契約を結んだ存在が、自らの呪いを、外からの干渉として拒絶したことを。しかし、タヴはそれ以上に、ゼーリエが使用した魔法の特性に強く関心を惹かれたようだった。

 

「……まさか、《Hexblade's Curse(影の刃の呪い)》が反射されるとはな。どういう原理だ?」

 

 空中で対峙したまま、ゼーリエが静かに応じる。

 

「《ミスティルジーア(呪い返しの魔法)》──呪いと認識したものを自動的に跳ね返すだけの魔法だ……原始的すぎて、私はあまり好きではないがな」

 

 タヴは肩をすくめ、小さく笑みを浮かべた。その笑みに、ほんのわずかな皮肉が混ざっている。

 

「呪いへの自動防御魔法か……ブラックスタッフ塔の連中が聞いたら、喜んで仕組みを解析しに来るだろうな」

 

 言い終えたタヴを、ゼーリエは静かに見つめたまま、逆に問いを返した。その声には好奇心と、わずかな警戒心が入り混じっている。

 

「お前こそ、随分物騒な技を使うじゃないか……内に何を飼っている?」

 

 タヴは一拍置いてから目を細め、低く応じた。その声音には、明確な警告の色が含まれていた。

 

「……興味本位で覗き込むには、少し危ない連中だ」

 

 その返答に、ゼーリエの唇がわずかに吊り上がる。それは皮肉でも、挑発でもなく──純粋な好奇心に根ざした、知的な微笑だった。

 

「興味深い。そういう存在が向こう側にいるのなら、もっと引き出してみたくなるじゃないか」

 

 風が吹く。言葉を終えた二人の間に、再び殺気が走る。

 

 一瞬の静寂。その沈黙を破り、ゼーリエが低く重々しい声音で詠唱を開始する。彼女の唇から紡ぎ出される音節は、もはや耳で聞くというよりも魔力で直接認識される性質のものだった。

 

 その瞬間、タヴは即座に右手を上げ、反射的に《Counterspell(呪文妨害)》──術者が呪文を詠唱している最中に、その完成を妨害し打ち消す魔法──を発動する。魔法干渉の波動がゼーリエの詠唱に向けて放たれ、術の完成を防ごうと試みる。しかし、彼が紡いだ干渉の魔力はゼーリエの術式の前にあっけなく霧散した。詠唱を止めることも妨げることも叶わなかったのだ。

 

(《Counterspell(呪文妨害)》が失敗しただと……!?)

 

 タヴの脳裏に驚きと焦燥が駆け抜ける。ゼーリエが紡ぐ呪文はさらに強大な魔力を伴って完成に近づいている。このまま直撃すれば防ぐ術はないと直感したタヴは、小さく舌打ちをしながら次の一手を構築し始めた。

 

「おいおい、そりゃ反則だろ……」

 

 小さく呟きつつも、彼は迅速に次の魔法──《Mirror Image(鏡像)》を発動する。同時に自身の姿を複製した幻影が三体出現し、タヴの動きを完全に模倣しながら彼を取り巻くように展開された。敵の狙いを定めさせないための瞬間的な判断だった。

 

 その直後、ゼーリエの詠唱が完了する。

 

「《ラグゼオル=アイン(物体を崩解させる奔流を放つ魔法)》」

 

 彼女の正面で空間密度が跳ね上がり、純白の奔流が巨大な帯となって前方一帯を塗り潰した。広がりは大きく、タヴと幻影三体をまとめて呑み込む幅だと一目で分かる。逃げ遅れれば押し流される。

 

 タヴは《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》を発動し、渦巻く風を纏って斜め下へと一気に降下した。その動きに合わせ、三体の幻影も同じ軌道で移動し、紙一重の差で崩解の奔流の縁を掠めて範囲外へ抜ける。奔流を回避しながらも彼は既に反撃の術式を組み始めていた。

 

(ゼーリエの動きを制限する必要がある──隙を作るための攻撃を)

 

 タヴは掌を掲げ、《Magic Missile(魔法の矢)》──魔力で形成された光の矢が三本生じ、対象を魔法的に追尾して射抜く魔法──を発動する。彼は発動に通常必要な《Spell Slot (魔力の器)》より遥かに大きい器を用いており、生成される光の矢は倍以上に増幅されていた。多数の矢がゼーリエを取り囲むように飛来し、逃れる隙間なく彼女を包囲する。

 

 ゼーリエは眉一つ動かさず、静かに片手を掲げた。瞬時に彼女の周囲に蜂の巣状の六角形が幾重にも連結した防護障壁が顕現する。《防御魔法》の強固な力場が青白く輝き、タヴの放った魔力の矢を一切寄せ付けない。光の矢は障壁に当たった途端に弾かれ、細かな粒子となって儚く消え去った。その一瞬の攻防の隙に、タヴは次の攻撃魔法を迅速に構築しようとしていたが、ゼーリエの背に、突然神聖な輝きが宿る。

 

 彼女の後頭部付近から眩い金色の光輪が出現し、さらに七枚の輝く翼が神々しい輝きを放ちながら展開された。《アウレオル=リエナ(神環より顕現する七翼)》──かつて星環を織った女神が、天より落ちた眷属に与えたとされる遺産。その片鱗が、いまゼーリエの背に顕現していた。

 

 風はざわめき、空間が圧迫される。魔力の密度に周囲の気流がかすかに悲鳴を上げる。

 

 タヴは空中に浮かぶゼーリエを見上げながら、思わず眉をひそめた。鮮烈な輝きの中で悠然と宙に浮かぶ彼女の姿は、かつて彼が目にしたことのある天界の使者──デーヴァを連想させるほどだった。

 

「神々しい姿だな……女神の化身か何かか?」

 

 冗談めいた言葉を投げかけたが、その思考はゼーリエの新たな力への警戒心で満たされている。あの翼は明らかにこれまで目にしてきた魔法とは異なり、未知の複雑な構造を秘めていた。

 

「……見惚れたか?」

 

 ゼーリエが静かに返す。その声音にはわずかな皮肉と余裕が滲んでいた。タヴはその言葉を無視し、即座に反撃に移る。《Misty Step(霧渡り)》でゼーリエの背後の死角に回り込み、次なる攻撃を放とうとした瞬間──彼女の黄金の翼が自動的に反応し、羽根の一枚が鋭利な刃に変化して空間を裂いた。魔力の刃はタヴの作り出した幻影を瞬く間に切り裂き、その中の一撃が彼の頬をわずかに掠める。

 

「……!」

 

 幻影が次々と無残に弾け飛び、タヴは即座に距離を取ろうとする。だがその動きを予測するかのように、黄金の翼が鎖状の形へ変化し、彼を狙って勢いよく伸びる。

 

「《Shield(盾)》!」

 

 タヴはとっさに防御魔法──《Shield(盾)》を展開する。淡い力場が彼を覆ったが、鎖にはゼーリエの強大な魔力が宿っている。その魔力が防御力場を音もなく切り裂き、瞬く間に粉砕すると、鎖はそのまま彼の右腕と腹部へ容赦なく絡みついた。自由を奪われ動きを封じられたタヴに、ゼーリエは身体を滑らせるように密着し、冷ややかな眼差しを向けるのだった。

 

「せっかくだ。滅多にない空の舞踏に付き合ってもらおうか」

 

 彼女の翼が力強く羽ばたき、二人の身体が滑るように降下を開始する。空が高速で流れ去り、雲が眼前を裂いてゆく。遥か下方に、湖と街の灯りが微かに浮かび上がってきた。高度二千メートルの上空でタヴは拘束されながらも、瞬時に反撃を決意する。

 

「《Thunder Step(雷鳴の一跳び)》……!」

 

 魔力が体内で一気に昂り、雷撃と共に脱出を図ろうとする。だが、その詠唱に合わせるようにゼーリエの額が輝き、魔力の波紋がタヴの精神に触れる。

 

「……この距離なら、抵抗すらままならないだろう」

 

 《エラヴミレア(精神を縛り、思考を妨害する魔法)》──それは対象の精神を支配するのではなく、意識と思考の流れを一時的に滞らせることで術者の集中と詠唱を封じる魔法だった。

 

「っ……!」

 

 タヴの視界が一瞬歪み、思考に濁りが走る。雷の術式が完成寸前で霧散した。ゼーリエの視線が彼に注がれ、その瞳にほんの一瞬だけ強い光が宿る──タヴの意識の深い部分が、微かに揺さぶられた。

 

 そして次の瞬間、風が大きく揺れた。

 

 *

 

 霜鉄炉は静まり返っていた。炉の火はか細く、まるで忘れ去られた世界の記憶のように儚く揺れている。

 

 その前に膝をつき、ブロックスは静かに斧を横たえた。鋼鉄を打つ両の手を重ね、目を閉じる。鍛冶師にとって祈りとは、言葉ではない。己の意志を炎に刻み、鋼を介して神と通じ合う行為だった。

 

「父なる鍛冶神よ。我が手は鈍り、我が槌は迷い、我が魂は折れかけている。それでも、まだ打ち続けたい。……だからどうか、俺にもう一度、火を灯してくれ」

 

 低く震える声は炎に吸い込まれ、炉は沈黙を返した。

 

 兆しはなかった。予兆もなかった。ただ突然、世界が──消えた。

 

 視界が白く染まった。

 

 光と闇が混じり、時間と空間が崩れ落ちる。理そのものが砕け散り、すべての感覚が失われた世界に、ブロックスはただ独り立ち尽くしていた。

 

 やがて、霧の奥から何かが現れた。

 

 それは金床の形をしていたが、鉄ではなく氷に近かった。霜の結晶が積み重なり、神性のように淡く輝いていた。

 

 金床の上に、ひとつの人影が立っていた。

 

 女性のような姿だが、肉体ではない。それはただ、光と理で形作られた何かだった。

 

 声が──響いた。

 

 それは耳で聞く音ではなく、魂そのものを叩く鐘の音だった。

 

「理の彼方より、お前の願いは届いた」

 

 それは鍛冶神モラディンの声。生まれて初めて聞く、神の言葉だった。

 

「世界の秩序はすでに揺らぎ、理は崩壊の淵にある。だが、まだこの世界は希望を呼び込む力を持つ」

 

 声は世界のすべてを包み込み、魂に染み込んでくる。

 

「お前の火が弱く、静かであったからこそ、我らはそれを見ることができた。その火を我らの火とし、その手を我らの手として──理を打ち直す槌となれ」

 

 モラディンの声が消え去ると同時に、幻視が始まった。

 

 ──帝都アイスベルク。

 

 整然とした都市は冷たい霧に包まれ、その上空には異様な影が漂う。巨大な脳を模した戦艦──ノーチロイド。

 

 戦艦の底部から垂れ下がった触手が帝都の頂点を掴み、人々は思考を奪われ、沈黙したまま街を彷徨っている。

 

 都市は生きながら死に瀕していた。意識は侵食され、知性は奪われ、人々の希望も意志も根こそぎ奪われていた。

 

 ──聖都シュトラール。

 

 荘厳な尖塔と鐘楼が連なる街に、突如として空が裂ける。次元の裂け目から現れたのは、銀色の装甲に包まれたギスヤンキの戦艦群。

 

 炎上する回廊。倒れゆく騎士。壊される祈りの鐘。信仰は踏みにじられ、尖塔に銀色の旗が翻ったとき、祈りの声は完全に消え去った。

 

 ──魔法都市オイサースト。

 

 魔導の尖塔が建ち並ぶ都市に、黒い焔を纏った門が出現する。空間が裂けて、そこから溢れ出るデーモンたちが街を蹂躙し、無数の魔法使いが倒れていく。

 

 その最前線、ただ独り、雷を纏った男が立っていた。タヴだった。

 

 彼は叫ぶこともなく、雷を放ち続けていた。だが、次の瞬間──彼の姿は黒焔の奥に飲み込まれ、消えた。

 

 戦場には瓦礫と煙だけが残され、世界は無音となった。

 

 ──そして、黒き焔の門の奥。

 

 そこには深淵があった。すべての理を喰らい、すべての次元を引き寄せ、世界の根底を揺さぶる、名づけられざる何か。

 

 門はまだ開きかけているに過ぎない。しかし、その奥で待つものは──間違いなく世界を終わらせるに足る存在だった。

 

 再び視界は白い霧に覆われ、幻視は消え去った。霧の中で再びモラディンの声が魂に響く。

 

「これは避けがたい可能性に過ぎぬ。だが、見過ごせば理は砕け、世界は滅ぶ」

 

 そして霧の奥に、無数の影が見えた。異なる理、異なる世界に生きる者たち──だが、皆が同じ重みを背負い、同じ決意を胸に刻んでいた。

 

「お前はその柱の一つとなれ。だが、柱はお前一人ではない」

 

 光がゆっくりと薄れていく。

 

「今は炉に火を灯し、斧を研げ。時が満ちれば、その斧をもって理を打ち直せ」

 

 静寂が戻る。

 

 気がつくと、霜鉄炉の炎は僅かに強まり、赤く燃え盛っていた。ブロックスはゆっくりと目を開いた。彼は炉の前に座り直し、静かに斧を取った。砥石を握りしめ、一心に斧の刃を研ぎ始める。

 

「……必ず来る」

 

 それは祈りではなく誓いだった。彼はすでに心を決めていた。運命が何をもたらそうと、その斧で、己の手で、理を打ち直すことを──

 

 *

 

 星の海と霧の交錯する空間に、ひとつの声が浮かんだ。それは慈悲と忍耐を司る神──イルメイターのものだった。人の苦痛を引き受ける殉教の神の声は、静かに、だが深く空間を満たしていく。

 

「均衡を守るは我らの責務。だが、その扉の先にある理は、我らが築いたものではない」

 

 空も地もなく、ただ光と意志が交わるその座に、複数の神格の気配があった。力ある者たち──モラディン、ティア、ミストラ、イルメイター。

 

 彼らは姿を持たず、ただ波動と共鳴の連なりとして、世界と理を見つめていた。

 

 ティアは秩序と裁きを象徴する神格。正義の天秤と刃を携え、すべての衡きを量る。ミストラは魔法の網を編み上げ、魔力の流れそのものを司る存在。世界に遍在する魔法の源泉。イルメイターは、痛みと共に歩む者たちの支え。耐え忍ぶ者の傍に在り続ける神。

 

 次に重々しく声を発したのは、鉄と火を司る鍛冶の神──モラディンだった。その響きは、まるで炉に打ち込まれる鉄槌のように、審議の中心へと降り注ぐ。

 

「門の前に立つ者はいる。だが、扉を開くためには、まだ足りぬ者がいる」

 

 硬く揺るぎない理の語り。だが、続いたのは法と正義の神──ティアの澄んだ声だった。その声音は秤のごとく冷静で、誤差を許さぬ断を下す。

 

「焦りは禁物だ。すべての柱が揃わねば、世界は逆に脆くなる」

 

 言葉は鋭く、だが決して情を捨ててはいない。それに続いて、柔らかな光のような気配がゆっくりと満ちた。

 

 語るは魔法と繋がりの女神、ミストラ。その声は水面を撫でる風のように、穏やかで深い。

 

「そう、まだ時は満ちていない。ただ、女神の呼び声が届いたことは確かなのだから」

 

 その一言に、光が揺らぐ。審議の流れが変わった瞬間だった。彼らの意志が交錯するたびに、天と地の境なきこの座はゆるやかに波打ち、いくつかの視線が、すでに準備を整えつつある者たちへと注がれる。やがてその視線は、閉ざされた次元で起きつつある歪みに向けられ、神々の代理人たる《Chosen(選ばれし者)》三名の現在地を順に映し出す。

 

 冷たい風が、星のように光る雪片を巻き上げていた。

 

 銀の鱗を持つドラゴンボーンの女性戦士が、崩れかけた聖域の前に立っている。名はセリア・イグナリア。ティアの代理人である《Chosen(選ばれし者)》だ。

 

 霜を纏った重装の肩が鳴り、背に担ぐ戦鎚が風を裂いて鈍くうなる。柄の根元には祈りの刻印が凍りつき、胸甲には正義の天秤──ティアの象徴が高らかに刻まれている。竜の血を引く顔立ちは厳しく、銀の角の根本に雪が積もっては溶け、吐息は白い。左腕の大盾は縁に打痕が多く、ここ数日の迎撃の激しさを物語っていた。

 

 目の前では、空を裂くように現れた亀裂が淡く脈打つ。だがセリアはまず手前の任務を外さない。ここでは避難民の護送と結界の維持が続いており、聖域の残骸に取り付けた暫定封鎖を監視しながら、最後の隊列が峠を越えるのを待っているのだ。斜面の下では、子どもを抱えた男が荷車を押し、僧侶が祈りの言葉で疲れをなだめている。

 

(強まっている。あの揺らぎは門の縁だ。間もなく本格的に開くつもりだな)

 

 口の端がわずかに吊り上がる。その奥底には、火山のような熱と、戦を望む衝動が燻る。先ほど、ティアの告げが胸甲越しに響いた。閉ざされた次元で決定的な歪みが起きた、と。だが彼女は頷き、盾を少し押し上げるだけだ。

 

(今はここを離れない。民を安全圏へ送り出し次第、向かう。それが秩序であり、私の誓いだ)

 

 砦の奥で灯火が揺れる。倒れた兵士の傍らで僧侶が祈り、傷ついた者たちに温湯を飲ませている。セリアは強く盾を掲げ直した。

 

「門が本格的に開いたなら──その時は界の厄災共を叩き潰す」

 

 足元の凍てついた地面に、細かなひびが音もなく走る。セリア・イグナリアは、なお戦場に立ち続けていた。

 

 その視線は、西の空へ滑るように移る。

 

 遥か西の夜の底が歪む大地の果てに、一柱の塔がそびえている。頂上の魔法陣が淡く光を返し、丸窓からは赤紫のきらめきが脈打つ。円環の中心に立つのは、蒼銀のローブをまとったヒューマンの男だ。名はラジエル・サン=エリオス。

 

 ミストラの代理人である《Chosen(選ばれし者)》で、今は待機を命じられている。肩までの黒髪は無造作に流れ、薄い唇の端には常に笑みとも皮肉ともつかない線がある。指には過剰な指輪、耳には妙な飾り。軽さを装う胡散臭さと、底の見えない眼差しが同居していた。

 

(さて、授けの書式はこれで全部。星図のずれ、魔法位相の偏り、現地語音韻……はい合格。閉ざされた次元で外部干渉は原則お断り、と)

 

 彼は水晶球に手をかざし、ミストラが渡した要点を読み解いていく。門の構造、次元の継ぎ目、魔法の理まで、文字と記号は彼の頭の中で滑らかに整列していく。

 

「片道切符で帰還困難、次元間通信も遮断……いやあ、嫌いじゃないね。なかなかロマンチックな設計だ」

 

 小さく指を鳴らして術式の一部をわざと崩し、すぐに組み直す。鍵となる符がまだ応じないのは、他の代理人の準備が整っていないからだと分かっている。

 

「全員が揃えば、僕は行ける。待つのは退屈だけど、たまには礼儀正しくね」

 

 ラジエルは肩をすくめ、窓の外の暗い地平を一瞥した。細い顎が月光を受け、笑みはさらに軽くなる。

 

 流れる視界は、瓦礫と煙が混じる都市の路地へ降りる。

 

 その片隅に、小柄な影が静かに佇んでいた。栗色の髪を短く束ね、柔らかな灰緑の瞳をしたハーフリングの女性だ。名はイーシャ・グレイブレア。イルメイターの代理人である《Chosen(選ばれし者)》で、くたびれた皮のジャケットの胸には十字の護符が揺れている。護符には、苦痛と慈悲の印が細かく刻まれていた。腰の短剣は使い込まれ、刃はきちんと研がれている。

 

(まだ助けられる人がいる。ここを離れるのは、それを見届けてから)

 

 彼女はいま、崩落区画の救助指揮を執っている。燃え移りを防ぐための破片除去、地下に取り残された老人の引き上げ、塞がれた動線の再確保。鼻腔には埃の匂い、耳には遠い泣き声。医師団が追いつくまでの繋ぎを、身一つでやり続けているのだ。

 

 空気がわずかに揺れ、胸の奥で温かな呼び声が震える。イルメイターの告げが届く。閉ざされた次元で苦痛が膨らみつつある、と。それでもイーシャは優しく首を振った。

 

「はい、分かっています。でも……ごめんね、もう少しだけ待って。ここも終わらせるから」

 

 彼女は包帯を締め直し、影から影へ跳ぶ。路地の奥から微かな呻きが返る。イーシャは音もなく瓦礫の間へ滑り込み、声の主の手を取った。手は冷たい。彼女は穏やかな声で短い祈りを囁き、肩を貸して立たせる。救助が終わり次第、彼女もまた向かうだろう。だが今は、この街路が持ち場だ。

 

 再び、神々の座に風が通る。

 

 星のように揺らぐ霧の奥に、焔の前で静かに刃を研ぎ続ける男の姿が浮かび上がる。鍛冶場の煤と戦場の塵を纏い、揺るがぬ腕と意志を持つ。ブロックス・フレイムスミスである。逞しいドワーフの男で、編んだ髭には灰が絡み、厚い胸板は呼吸のたびにわずかに上下する。瞳は琥珀色に近く、炉の光を拾って揺れた。

 

 その在り様に、ひとつの神格が静かに語りかけた。言葉は熱き鉄槌のごとく重く、鍛えた刃を打つように、確かに座へと響き渡る。

 

「火は、炉で燃えていればよい。今は、刃を研ぐときだ」

 

 それはモラディンの声。鉄と炎を司る神は、他の神々の沈黙を貫き、その名を告げる。

 

「ブロックス・フレイムスミス。汝は我が炉より打ち出された理の楔」

 

「時が来れば、その刃をもって理を打ち直せ。それまでは、己を忘れるな」

 

 その言葉と共に、星の座は微かに波打ち、そして静かに揺らぎを止めた。まだ扉は完全には開かれていない。だが、その時は確実に近づいている。

 

 地の下で、星の上で、それぞれの柱たちが己の場所で覚悟を深めてゆく。セリア・イグナリアは避難路を守り、イーシャ・グレイブレアは瓦礫の街で命を拾い、ラジエル・サン=エリオスは与えられた情報を研ぎ澄まし続ける。ブロックス・フレイムスミスもまた、与えられた名と運命をその手に受け止め、ただ静かに刃を研いでいた──来るべき打ち直しの時のために。

 

 *

 

 オイサースト──魔法都市の上空。その空の高みで、ふたりの影が静かに降下していた。片翼を広げたまま宙を滑るのは、ゼーリエ。

 

 その翼の間、緩やかに巻き込むような姿勢で拘束されているのは、思考を封じられたタヴだった。だが、魔力の流れが、想定外の軌道を描いていた。《エラヴミレア(精神を縛り、思考を妨害する魔法)》の効果は確かに発動している──だが、術が流れ込んでいる先が、明らかに浅層ではない。

 

(これは……)

 

 術者であるゼーリエの精神が、逆流するようにタヴの深層へと引きずり込まれていく。彼の魔力核は、通常の人間が持つ魔力構造とは根本的に異なっていた。そこには異界の気配がある。まるでこの世界の理を越え、何か別の理と──接続されているかのように。

 

 刹那、ゼーリエの意識は暗転し、記憶の海へと沈み込んでいった。

 

 雷鳴。紫電の閃光が、夜のように黒い雲を裂いている。地を揺らす轟音が続き、誰かの叫びが被さる。赤子の泣き声。湿った床、崩れかけた木製の屋根。泣くたびに、空が鳴った。怒りと恐怖が入り混じったその感情に、まるで世界そのものが応答するかのように雷が走る。

 

「まただ!あの子が生まれてから、この雷は止まない!」

 

「呪われた子だ……」

 

「ここに置いてはおけない。《The Guild(ギルド)》に売ってしまえばいい!」

 

 恐怖に満ちた大人たちの声が交錯し、赤子を抱えた夫婦が怯えながら闇の中を急ぐ。

 

 ──バルダーズ・ゲートの地下取引所。

 

 薄暗く湿った地下室で、粗末な袋に詰め込まれた幼いタヴが泣いている。黒ずんだ石壁の前に立つ仲介人は、不快そうに袋を見下ろし、赤子から放たれる異質な魔力に気づくと僅かに眉を動かした。

 

「ほう……これは興味深い」

 

 仲介人は慎重に声を落とし、背後に控えた男たちに合図を送る。赤く特徴的なローブを纏った魔法使いたちが静かに前へ出る。

 

「魔力波形が尋常ではないな」

 

「この子は根源的に異界と接続している。研究に値する素材だ」

 

 《Red Wizards(赤の魔道士団)》──死霊術や禁断の術を追求し、人間さえ道具とみなす非人道的な魔法使い集団だった。

 

「……契約成立だ。この子供を譲り受ける」

 

 ──サーイの辺境、赤の魔道士団研究施設。

 

 薄暗い実験室に幼いタヴが拘束されている。手足には魔力制御を目的とした術式封印具が刺さり、その肌を焼き、神経を灼き切ろうとしている。

 

「また封印が破れかけている」

 

「あの子供は魔力の制御が困難だ。内側から溢れ出る魔力に、通常の術式では対処しきれない」

 

「外側から徐々に削り取るまでだ」

 

 感情のない術者の声が淡々と響き、タヴの身体に再び魔力制御針が穿たれる。電流に似た魔力が神経を襲い、痛みが絶え間なく幼い身体を貫く。ゼーリエの視界はタヴの視点そのものと融合し、その苦痛の記憶を追体験していた。

 

(これは、まずい……!)

 

 そう感じたときには、もう遅かった。ゼーリエの意識はタヴの記憶の深淵へと完全に引き込まれていた。気がつくとそこは、さらに小さく閉ざされた、窒息しそうな空間だった。壁一面に描かれた拘束術式が淡い光を放ち、その隅に幼いタヴが膝を抱えて座っている。

 

 その背後──深淵の闇の中で、剣のような漆黒の影が静かに浮かび上がった。現実感を欠いた剣は、静かな声で囁く。

 

「お前は壊れるだけの器ではない。力を欲するならば、我を振るえ」

 

 ゼーリエは反射的にその剣を見つめた。刹那──剣の視線が彼女を捉え返した。単なる記憶であるはずの存在が、明らかにゼーリエ自身を認識した。剣が僅かに揺らめき、ゼーリエの精神へと侵入してくる。

 

 鋭く焼け付く激痛が走る。

 

 魔力制御針による神経への侵襲、封印術式による肉体への焼灼、そして孤立と絶望の底なしの恐怖。

 

(こんな痛みに耐えていたのか……!)

 

 思わず精神が乱れ、魔力の制御が緩む。精神への干渉が途切れた瞬間、タヴの意識が現実へと引き戻された。目の前の状況を本能的に理解し、反射的に防衛行動へと移る。

 

 彼の身体を中心に爆発的な魔力が収束し、《Thunder Step(雷鳴の一跳び)》──術者の瞬間移動を伴いながら、雷鳴を爆発的に放つ魔法──が瞬時に構築される。紫電が激しくほとばしり、雷鳴と共に彼の姿は消えた。

 

 爆音と衝撃。

 

「──っ!」

 

 ゼーリエの身体は爆風に巻き込まれ、後方へ吹き飛ばされた。とっさに展開した《防御魔法》のおかげで直撃こそ免れたものの、その身体は激しく空中へと舞った。記憶への干渉が断ち切られ、彼女の視界に再び現実の空が戻る。

 

(なんて過去だ……)

 

 彼女は額の汗を拭う余裕すらなかった。彼女が垣間見たタヴの記憶──両親に見捨てられ、非人道的な取引を経て赤の魔道士団に売り渡され、実験体として苦痛の中で生きた幼少期──そのあまりの苛烈さに彼女自身の精神が揺さぶられていた。

 

 ゼーリエは数秒のうちに体勢を立て直し、《飛行魔法》で空中に身を固定する。タヴはゼーリエからやや離れた位置に浮かび、雷の余韻をまとったその姿がかすかに揺れる。

 

「……なかなか行儀の悪いことをやってくれるな。何を見た?」

 

 タヴの声には皮肉が混ざっていた。だが、その奥には明確な警戒がある。ゼーリエは応えるようにゆっくりと息を吐いた。

 

「お前の過去を見た。本来はあれは記憶に触れる魔法ではない。……すまなかった」

 

 その言葉はゼーリエにしては異例の謝罪だった。表情はいつもと変わらないが、その言葉には確かな真意があった。己の未熟ゆえか。あるいは、見てはならないものを見てしまったという負い目か。ゼーリエ自身も、明確な答えは持っていなかった。タヴは短く黙したあと、僅かに笑った。

 

「……まあ、見られたくないなら、ちゃんと蓋をしとけって話だな。俺の精神防御が甘かったせいでもある。お互い様だ」

 

 魔力の波動がゆっくりと収まっていく。互いの間にあった緊張は、完全にではないが確かに一段階ほど解けていた。眼下では、すでにフリーレンたちの姿が見え始めている。シュタルクが手を振っており、ゲナウとゼンゼが警戒しながらも空を見上げていた。

 

 ゼーリエが視線を下げ、ぼそりと呟く。

 

「このぐらいでいいだろう。馬鹿弟子共も不安がっているだろうしな」

 

 それにタヴが返す。

 

「で、異界の魔法について何か分かったか?」

 

 ゼーリエはしばらく沈黙し、それから淡々と述べる。

 

「確かにそちら側の魔法は実用的だ。発動さえできれば、誰が行使しても一定の効果を得られる。この点はとても合理的だ」

 

 そこで一拍置くと、彼女は視線をタヴに向けたまま、少しだけ肩をすくめた。

 

「ただし、同時に息苦しさもある。術者の裁量が制限されすぎている。創意の余地が少ないのは……窮屈だな」

 

 タヴは小さく笑った。

 

「お堅い評価だな」

 

「興味深いのは、お前が術式を変化させたことだ。戦いの最中、魔法の性質そのものを組み替えていた……あれはこの世界にはない魔法操作技術だ。だが──」

 

 ゼーリエの口調がわずかに低くなる。

 

「普通、魔法というのは術式の段階で完成している。術者が自由に性質を変えられるようなものじゃない。だが、お前の魔法は意思や魔力の質に大きく左右されるようだ。少なくとも、お前の魔力構造でなければ、同じ挙動は再現できない」

 

 ゼーリエの瞳には、戦闘中にタヴが放った魔法の記憶が鮮明によみがえる。本来であれば火の奔流を巻き起こす《Fireball(火球)》が、タヴの手によって雷撃へと変質していた。魔法そのものは確かに《Fireball(火球)》だったが、実際に放出されたのは火ではなく雷。しかもその変化は外的な操作ではなく、術式内部での魔力の変質によるものだった。

 

 《Transmuted Spell(変質術)》──術者の意思と魔力に応じて、魔法のダメージ属性を別の属性に入れ替える、ソーサラーが用いる《Meta Magic(呪文修正)》の一つだ。これは魔力と血脈の性質に強く依存するため、ソーサラー以外の魔法使いが真似をすることは難しい。加えて、この修正には自身の血脈に基づいた魔力の源である《Sorcery Points(術源点)》を消費するため無制限には使えない。消耗した《Sorcery Points(術源点)》は激しい運動を伴わない、睡眠を含めた八時間の休息を経て満ちる。

 

「お前が用いた技術は体系化された理論じゃない。術者個人の魔力と資質に根ざしたものだ。再現性がなければ、魔法体系としては未完成だ」

 

 ゼーリエは言葉を切り、微かなため息をついた。タヴはそれを聞き、肩を竦めるように返した。

 

「ああ、俺の流儀ってやつだよ。万人向けじゃない」

 

「だが、悪くない」

 

 ゼーリエは静かに付け加える。

 

「未完成とは、言い換えれば未踏の可能性でもあるからな」

 

 彼女はそう言ってから、ひとつ小さく息を吐き、静かに翼をたたむ。それは、この場での言葉の応酬に、ひとまずの終止符を打つ仕草だった。ゼーリエは高空から地上への緩やかな降下を始め、タヴもまた風を纏い、彼女に並ぶように降下を開始した。晴天の空の中、二人は言葉少なに地上へと向かっていく。そして、雷鳴の痕跡だけが未だ空に薄く残っていた。

 

 *

 

 風が止み、魔力の余波が大気の揺らぎとなって辺りに残る。ゼーリエとタヴはオイサーストへ繋がる橋からやや離れた、砂と岩が混じる開けた場所に静かに降り立った。高空からの降下により巻き起こった砂塵は徐々に落ち着き、静寂が戻りつつあった。その中心に二人が立つ。砂の地面に靴音が二つ。そして、遠くから響く駆け足の音が次第に近づいてきた。

 

「ゼーリエ様……!」

 

 最初に声を上げたのはゼンゼだった。まだ息が上がっている。魔力反応の揺れと、上空で起きた激しい衝突を目撃していたのだろう。その後ろから、背筋を伸ばしたゲナウも駆け寄る。

 

「ご無事で何よりです、ゼーリエ様」

 

 ゼンゼは心からの安堵を表し、肩の力が抜けていく。だがゼーリエは、その感情を迎え入れるより先に、真っ直ぐ言葉を返した。

 

「当然だ。だが──お前の言う通りだったな。異界の存在は、私の魔法と予期せぬ相互作用を引き起こした」

 

 ゼーリエは僅かに目を伏せ、唇を引き結ぶ。その目にはわずかに、だが確かに悔いの色が滲んでいる。

 

「……私の未熟さが招いた結果だ」

 

 ゼンゼが驚いたように眉を寄せる。

 

「それは一体どういう……?」

 

 問い返すゼンゼに、ゼーリエは肩をひとつすくめ、淡々と続ける。

 

「私もまだまだ、半人前だったということだ」

 

「ゼーリエ様が半人前……!?」

 

 我慢できずに声を漏らしたのはゲナウだった。目を見開き、すぐさま頭を下げる。

 

「それでは、この世界に存在する魔法使いは、全員見習い同然になってしまいます」

 

 その反応にゼーリエは言葉を返さない。ただ、その端整な口元に、皮肉とも苦笑ともつかぬ微かな動きを浮かべていた。一方、少し離れた場所では、タヴの元に仲間たちが駆け寄っていた。最初に口を開いたのはフリーレンだった。

 

「手足はちゃんとあるみたいだね」

 

 相変わらず淡々とした声音だが、その奥には、ほのかな安堵の色が見える。

 

「危うく上空から叩きつけられて、ミンチになるところだったがな」

 

 タヴは肩を竦めて答えた。額には薄く汗が滲み、疲労もあるが、軽口を叩けるだけの余裕は残っている。

 

「すごい勢いで降下してきたので……肝が冷えました……」

 

 フェルンが胸に手を当て、息を整えながら呟く。表情には、まだ緊張の余韻が残っている。

 

「本当に心配したぜ!」

 

 叫んだのはシュタルクだ。興奮冷めやらぬ様子で、両手を振りながら続ける。

 

「空の上で火の玉が急に雷になったり、タヴが四人に分裂したり! しかも急にエルフの女の人から羽が生えて、タヴと一緒に落下してきたりして!」

 

 あまりにも奔放かつ詳細な説明に、タヴは目を細めて無言で彼を見つめる。そして、ぽつりと呟いた。

 

「……二千メートル上空にいる人間の動きが、肉眼で見えるのか。……化物だな」

 

「なっ……なんでそうなるの!?心配して言ってるのにその反応!?やめてよ、けっこう傷つくから!」

 

 シュタルクが悲鳴のような声を上げる。その声を聞き流すように、フリーレンが視線をタヴに戻した。

 

「ゼーリエは、あなたの魔法に満足した?」

 

 問いは冷静だったが、言葉の裏には、僅かな探る意図がある。

 

「どうだろうな……理詰めすぎて退屈とは言っていたな。ただ、ソーサラーの内在的な力は気に入っていたようだ」

 

 タヴは苦笑しながら答える。意識の奥に、先ほどの干渉の余韻を微かに残したまま。

 

「ゼーリエらしい評価だね」

 

 フリーレンは静かに頷いた。冷たくも暖かくもない。ただ、すべてを受け入れたような落ち着きのある返答だった。

 

 足音が近づく。砂を踏む音の主は、ゼーリエだ。ゆったりとした歩調で、金の髪と短い上衣を揺らしながら、タヴに歩み寄る。その目には、今までより幾分穏やかな色があった。

 

「……約束通り、お前が元の世界に帰るために協力しよう」

 

 言葉は率直だったが、その響きは確かだった。

 

「別に私は、最初から拒むつもりはなかった。だが、これで都市の滞在も許可しよう。協会が管理する施設にも入れるようにしてやる」

 

 タヴは目を細めた。ゼーリエの声色には、どこか釈明めいた響きが混ざっている。あたかも、フリーレンやその仲間たちに向けて「私は理不尽な判断をしていたわけではない」とでも伝えたいような、そんな空気があった。

 

(……面倒な立場ってやつか)

 

 そう思いながら、タヴはちらりと隣にいたフリーレンに視線を移した。そのとき、ゼーリエが続けた。

 

「千年ぶりに来たかと思えば……とんでもないやつを連れて来てくれたな。おかげで良い退屈しのぎにはなったがな」

 

 タヴの心に、小さな違和感が芽を出す。千年──彼女はそう言った。たしかに、フリーレンも「千年旅をしてきた」と言っていた。

 

(俺のいた世界のエルフの寿命は……亜種族も含めておよそ七百五十年。千年も生きる者は稀だ。六百歳を超えてくれば、加齢の兆候も現れ始める)

 

 それに比べて、目の前のフリーレンも、ゼーリエも、どこにも老いを感じさせない。時間を閉じ込めたようなその瞳。その立ち振る舞い。そして──圧倒的な魔力の深度。

 

(この世界のエルフは、知識と記憶の継承者であり、神格に近い存在なのかもしれない)

 

 そんな考察が自然と浮かび上がる。

 

「旅の途中で、偶然出会っただけだよ」

 

 フリーレンがいつもの調子で答える。事実を述べているだけのような声音だ。

 

「偶然ね……」

 

 ゼーリエは繰り返しながら、その目をほんの僅か細めた。そこに読み取れる意図は明確ではなかったが、決して無関心ではないとだけは分かる。そのまま、両者の間に沈黙が流れる。だが、敵意も警戒もない。ただ、目と目だけで何かを語るような空気がそこに生まれていた。

 

 砂の風が吹き抜ける中、それぞれの立場と意思が、静かに、しかし確かに交差していく。それは──次なる展開の幕開けを予感させる、ひとつの安寧だった。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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