私設作業室の投影板が、同じ記録を繰り返している。厚い雲と、灰色に霞むアストラル界の境界。次元座標を示す灯火は輪郭が崩れ、映像の一部が一定の周期で波打つ。機構在籍時に作成された、タヴ消失直後の観測記録だ。
記録には機構の観測施設も映るが、そこで働く権限も、第三次アストラル干渉班を率いる肩書も、今はない。報告も慰留への返事も引き継ぎも最低限で済ませて部署を出て以来、誰の指揮も借りずタヴを追っている。
机には次元理論の本、失われた観測データ、封印指定の古文書の写し、漂流者の証言が積み上がる。壁際の自作魔導炉には組み替えた継ぎ目が残り、探査端末の残骸は番号順に並ぶ。演算炉には、世界の構造式を組み直した跡が幾層にも焼きついていた。数ヶ月分の試みが部屋を埋めている。
ブロックスが演算盤を叩く。最後の走査結果が、三行に分かれて浮かび上がった。接続点なし。次元共鳴反応なし。振動座標の記録不能。
「……門も見つからねえ。境界もねえ。そもそも……辿れる座標が存在しない」
声が作業音の止んだ室内に返る。ブロックスは召喚痕跡と空間歪曲の残滓、タヴが消えた座標を投影板へ重ねた。三つの光は同じ一点で途切れ、その先には何も映らない。何者かが扉を開き、タヴを向こう側へ送り込んだ。その推測を裏づける痕跡だけが残り、行き先を示す道は消えていた。
(あれが……最後になるとはな)
投影板の光を見つめるうち、別の記録映像が脳裏に浮かぶ。嵐の中を進む男。雷光で焼けた背中。魔力の圧に耐えながら、それでも前を見据えた目。ブロックスより遥かに若いくせに、戦場では判断を曲げず、仲間に背を向けない。正義や義務を口にせず、自分の理由で足を前へ出す男だった。
その男が、名も知れぬ世界に落ちた。だが、そこへ届く道はない。
ブロックスは演算式を一段戻し、別の理論を当てはめる。赤い不成立の印が、また同じ箇所に灯った。隣では次元炉の火が細り、投影板から消失点より先の像が抜け落ちる。知識を積み上げるほど、世界の外側へ届く道がないことだけが鮮明になる。
「技術では……どうにもならねえのか」
呻くように吐き出された言葉は、作業音の止んだ部屋に消えた。
その瞬間、ブロックスの拳が次元演算盤の縁へ落ちた。鈍い音に、並べた記録板が震える。
眠らずに演算を続けた夜の痛みが、目の奥で脈打つ。握り込んだ指の節を次元演算盤の光が白く照らし、その向こうでタヴの最後の座標が明滅していた。
ブロックスは立ち上がる。
冷え切った部屋に背を向け、工具をひとつ残らず箱に収める。再起動の見込みすらない魔導炉に最後の魔力を流し、停止処理を済ませてから、彼は扉を閉めた。
向かう先は、北方山岳に根を張る鍛冶と信仰の古き街、アイアンマスター。彼が生まれた場所だ。火と鉄と祈りに囲まれて、初めてハンマーを握った日からすべては始まった。ブロックスは荷を背負い、北へ向けて歩き出す。
山道は雪で覆われ、足元の石が滑りやすい。踏み固められた場所を選び、体勢を崩さないように進む。雪の斜面を越えると、故郷の煙が見えた。石造りの家々と、山肌に沿って建てられた工房群が並ぶ。風に乗って、鉄を打つ音がかすかに届く。炉の匂いは変わらない。だが、街の様子が以前と違っていた。
子どもたちの声は遠く、広場から笑い声は聞こえない。荷車を押す者も薪を運ぶ者も、ブロックスと目が合えば手元へ視線を戻す。戦いの最前線で多くの命を預かる一方、帰るべき家には長く背を向けてきた。その年月を数えるように家々の戸口を追い、やがて自分の家の前で足を止める。扉を叩く音は硬く響いた。
返事はすぐに返った。
中から現れたのは、見慣れた顔だった。だが、髪には白いものが混じり、目の下に薄い影が残っている。かつての伴侶、リーナだ。
「……帰ってきたのね」
リーナは戸口を塞いだまま、語尾まで抑揚を変えなかった。ブロックスは返す言葉を探した。
「少し……話せるか」
彼女は一度だけ瞼を伏せ、戸口から脇へ退いた。家の中には、見慣れた食器があり、壁にかけられた古びたタペストリーがある。そして──息子の姿があった。まだ十にも満たない少年は、ブロックスを見ると眉をわずかに寄せた。
「……この人は?」
リーナが膝を折って、息子に語りかける。
「お父さんよ。少し……遠くにいたの」
少年は、ただじっとブロックスを見つめた。唇は動かず、眉も戻らない。ブロックスの喉まで出かかった言葉も、そこで止まる。少年の背丈も、父親を知らない目も、留守にした年月を数えるには十分だった。
リーナが食卓を示すと、少年は何度も振り返りながら暖炉脇の椅子へ座った。ブロックスも背負ってきた荷を壁際へ置き、向かいの椅子へ腰を下ろす。リーナは戸棚から三つの器を出した。食卓に湯気の立つスープが並んでも、誰も匙へ手を伸ばさない。暖炉の火が薪の樹皮を割り、乾いた音を立てる。窓の外では、山の稜線に当たる光が薄くなっていく。斜面を渡る風が雪をさらい、家々の屋根に影を落とす。
ブロックスは炎の揺れに目を落とした。炉の前で、ようやく口を開く。
「……思い出すんだ。昔、戦場で拾ったタヴのことを」
リーナは何も言わなかった。ただ、炎越しに横顔を見つめている。ブロックスの声は低い。
「まだ子どもだった。骨のように細くて、顔は血と煤で真っ黒で……でも、剣を握っていた。震えながら、それでも誰にも背を見せなかった」
リーナは目を伏せ、小さく頷く。
「ええ……あの子。ひと言も喋らなかったわね」
「そうだ。だが、俺の目を真っ直ぐに見返してきやがった。恐怖も、信頼もなかった。ただ、生きるために睨んでいた。……それでも、俺はあの目が忘れられねえ」
話すうちに声は少しずつ大きくなり、炉の爆ぜる音にも途切れなくなった。
「タヴは、あのときの子どものままだ。今また、生きるためだけに、踏ん張っている。あれほどの魔力を持ちながら、自分の居場所を探し続けている」
言葉を継ぐブロックスの拳が、膝の上で強く握られる。
「なら、俺が行くしかねえ。タヴが手を伸ばす前に、誰かがその手を取ってやらなきゃならねえ」
リーナは組んでいた指をほどき、ブロックスへ顔を向けた。
「……また背負いに行くのね」
「誰かがやらなきゃならないなら、俺がやる。あの子が、まだ待ってるような気がするんだ」
しばらく言葉が途切れる。炉の火がぱちり、と小さく弾けた。
「私たちより、その子を優先するのね」
リーナは膝の上で指を組み直した。声は途切れず、ブロックスを責めるようにも尖らない。ブロックスはすぐに否定も肯定もしなかった。ただ、目を閉じる。
「……どちらかを捨てたいわけじゃねえ。ただ、見捨てたら、俺は俺じゃなくなる気がする」
しばらくして、リーナは細く息を吐く。張っていた口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「なら……行ってきなさい。あなたがまだ諦めていないのなら」
リーナは息子の肩に片手を置いてから、もう一度ブロックスを見る。
「……帰ってきたら、その子の話を、ちゃんと聞かせてね」
*
霜鉄炉。アイアンマスターで最も古い、信仰と鍛冶の象徴。石の階段を登るごとに街の音が遠ざかり、炉から流れる熱が衣服の内側へ入り込む。最上段に着く頃には、聞こえるのは靴底と燃える石炭の音だけだった。
炉は、今も燃えていた。
鈍い紅が、深々と広がる鉄炉の奥で揺れている。かつてブロックスが鍛冶師として初めて槌を振るったその場所。彼は背からバトルアックスを下ろして炉前へ横たえ、誰もいない石床で膝を折った。額を下げるだけの礼では終えず、炉石へ手が届くところまで身体を進める。
彼は両の手を炉石に添えた。ごつごつとした感触。皮膚が焦げるほど炉に近い。だが、それが良い。火が遠ければ、願いは届かない。
低く、深く、彼は言葉を編む。
「Baraz Moradin... khâzum duzûl... khur azgal thalâk(誉れあれ、モラディンよ……折れぬ意志を……揺るぎなき魂を)」
息を吐くと、炉石の震えが掌へ返った。
「Zorn ân-gund. Baruk khazâd. Zudul karnûn(炉の怒りを我に。ドワーフの斧に誉れを。我が刃に鋼の意志を)」
炉に祈る古きドワーフの言葉。それは鍛冶神へ捧げる真の祈りだった。
「Moradin, khazâd-râm. Duzûl narn. Baruk-ûr zund(モラディンよ、ドワーフの力の源よ。折れぬ魂に火を灯せ。再び我が槌に誉れを)」
古語の余韻を残し、今度は自分の言葉で続ける。
「父なる鍛冶神よ。俺の手は鈍り、我が槌は迷い、我が魂は折れかけている。だが、それでも再び打ちたい」
熱は指先から掌へ食い込み、握りだこの縁が赤くなる。手を離せば痛みは止まる。それでもブロックスは炉石を押し返した。
「おお、モラディン。もし聞こえるなら──」
言葉を切り、焼ける掌へ体重を預ける。炎が髭の先を赤く照らした。
「俺に新たな火を。再び、誰かのために打たせてくれ」
鉄と火の父であり、全てのドワーフを鍛えた創造主。モラディンの名は、ブロックスが槌を持つより前から炉辺で教え込まれてきた。だが今、思い出すのは星々を鍛えたという遠い神話ではない。冷えた鉄を炉へ戻し、形になるまで何度でも叩けと繰り返された短い教えを、今も覚えていた。
祈るだけでは鉄は変わらない。火へ入れ、槌を振るう者の手にこそ、鍛冶神は応える。タヴを失ってから止まっていたのは神の槌ではなく、自分の手にほかならない。
語りかけたのは、神ではなかった。炉の奥で揺れ続ける火だった。
返事はない。炉の奥で石炭が爆ぜ、火の色だけが絶えず変わる。ブロックスは、その沈黙ごと受け止めた。
この世界で火と鉄を信じて生きてきた。ならば最後もまた、火に問い、鉄に聞くべきだ。たとえ答えが得られなくても、迷いを抱えたまま立ち上がるために祈るのだ。
ブロックスは炉の前から動かなかった。火がゆらりと形を変え、掌の影が炉石の上でひとつ揺れる。その変化にまだ意味を見いだせないまま、彼は炉を見つめ続けた。
*
「……分かった。受けよう」
言葉が途切れると、橋を渡っていた風まで止まり、結界の薄光だけが二人の足元を走った。
「そんな……本気でやるつもりですか?」
フェルンの語尾がかすかに揺れた。視線がゼーリエとタヴの間を往復し、どちらにも留まらない。
「ゼーリエ様、それは危険すぎます。その異界の魔法が私たちにどう作用するのかも分かりません!」
ゼンゼは一歩踏み出しながら声を上げた。紺衣の袖が揺れ、彼女の髪が風もないのに小さく蠢く。ゼーリエは二人へ一度ずつ視線を滑らせたが、制止に応じる様子はない。
「腕や脚が吹き飛んでも後で治せるさ」
フェルンの唇が開いたまま止まり、シュタルクは上げかけた手を下ろせない。ゼーリエは肩越しにタヴへ目を向け、続ける。
「お前もそうだろ?」
沈黙。誰もすぐには返せなかった。タヴは目を細め、片眉だけを上げる。視線はゼーリエの肩と指先を順に辿っていた。
「……ずいぶん信頼されてるな」
ゼーリエの口元が片側だけ上がる。返事をしないまま見つめ返すと、タヴもそれ以上は続けなかった。
「いや、四肢が吹き飛ぶ前提で話すのがまずおかしいだろ!」
シュタルクが半歩前へ出た。声が裏返りかけ、最後の一音だけが鋭く場を切る。
「ゼーリエ様、どのような模擬戦を想定しているのですか……?」
ゼンゼの指が紺衣の袖を掴む。対するゼーリエの両手は下がったままで、呼吸の間隔も変わらない。
「ゼンゼ、お前だって一級魔法使い試験で死人が出ることもあるのは知っているだろう? 腕や脚が吹き飛ぶことだってあるさ」
数秒の沈黙が落ちた。タヴは片頬を引きつらせ、口を開く。
「俺としては、吹き飛ばさないように気をつけてくれるとありがたいが……」
タヴが言い終えると、ゼーリエは顎を上げて空を見た。
「地上だと周りを巻き込んで危険だからな。場所は上空……この地点から二千メートルぐらいまで上がろう」
「二千……?」
フリーレンは目を細め、二人がこれから向かう空の高みを見上げた。
「《飛行魔法》の限界高度近いね……」
そのまま首の角度を上げ、さらに高い空へ目を凝らす。
「その高度を維持しながら魔法戦を行うなど、正気の沙汰ではない……」
ゲナウは空から目を離さずに呟いた。隣に立つゼンゼの眉間にも、深い皺が寄る。
「……それは魔力量だけでなく、気圧や風の影響も計算に入れる必要が──」
ゼンゼは気圧と言ったところで一度息を継ぎ、紺衣の袖を握る指に力を込めた。ゼーリエは続きを待たずタヴへ顔を戻し、答えだけを待っている。
「お前なら問題ないだろう?」
タヴは片肩を上げ、短く息を吐いた。それからゼーリエへ視線を返す。
「何を根拠にできると判断しているんだ……まあ、俺の飛行能力は身体機能の一部みたいなもんだ。飛行の維持に魔力はいらない。気圧の変化や強風に関しても、ある程度は耐性がある」
タヴは自分の胸を指し、天候への耐性までを一息に並べた。ゼンゼは袖を掴んだまま、その指先へ目を落とす。
「一体どういうことだ……?」
ゼンゼの眉間に皺が増える。問いが続く前に、タヴは片手を上げた。
「簡単に言えば、俺は生まれつき嵐の力と繋がっている。肉体自体が雷や風と親和していて、飛行や悪天候への耐性もその副産物だな。……詳しい話はまた今度でいいだろう」
タヴが石畳を蹴るより先に、足元から魔力の風が巻き上がった。詠唱も術式の構築もなく、《Wind Soul(風の魂)》が身体を宙へ押し上げる。
風が渦を描き、魔力が靴の周囲を奔る。踵が石畳から離れた次の瞬間には、タヴの身体は空へ向かって加速していた。宙に浮かぶゼーリエの高さまで一気に到達し、二人の高度が揃う。ゼーリエの口角が上がった。
「じゃあ、行こうか」
静かな声が風に乗って届く。その言葉と同時に、ゼーリエの手元にあった魔導書がふっと宙にほどけ、幾つかの文字の残響だけを残して虚空へと溶けるように消えていった。
そして、二人は視線を交わすことなく、同じ速度でさらに上空へ加速していった。浮き上がった魔力の尾が、青空を裂くように垂直に伸びていく。
すぐに、ゼンゼ、ゲナウ、そして補助の魔法使いたち二人が《飛行魔法》を解いた。
四人は無言のまま高度を下げ、靴底を石畳へ戻した。地上に残った者たちの顔が、一斉に上空へ向く。最初は二人の姿が見えた。だが、一分もしないうちに点となり、やがて視認できないほど遠ざかった。
「……あれ、二千どころじゃ……もっと行ってませんか?」
フェルンの声が震えた。
「魔力探知も届かないな……あんな場所で魔法を撃ち合うつもりか……」
ゲナウが目を細め、口を真一文字に結ぶ。
「高いほどいいだろうね」
フリーレンがぽつりと呟いた。
「誰にも届かない場所なら、ゼーリエも……遠慮しない」
空は晴れていた。澄んだ青を突き破るように、二筋の魔力の尾が光の軌跡を描いていた。旋風を纏った異界の魔法使いと、天をも支配する魔法の化身が、交差の頂へと向かっていく。
地上から見えるのは、互いの距離を保ったまま上昇する二筋の光だけだった。やがて、その光も雲の上へ消えた。
*
二人はすでに、雲をはるか下に置く高みへ達していた。空気は薄く、音も色も地上より希薄だ。二人の間を抜ける高空の風だけが衣と髪を鳴らしている。ゼーリエは宙に浮いたまま、正面のタヴへ視線を滑らせた。
「さあ……私に教えてくれ。異界の魔法について」
ゼーリエの声は高空の風にも散らず、正面のタヴまで届く。タヴは距離を測りながら、冗談めかして言った。
「なら……俺も遠慮なく大魔法使いに教えを請うとしよう」
「ああ、遠慮はいらんぞ。全力で来い」
言葉を交わす間にも、ゼーリエは術を組み上げていた。詠唱は音にならず、掲げた右手の先に三つの光点が生まれる。
《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》。対人殺傷のために速度と密度を研ぎ澄ませた術だ。先頭の一条は最短距離を走り、左右の二条はわずかに遅れて退路へ回る。互いの間隔は広がっているのに、タヴへ届く時刻だけが揃っていく。
正面の一条に目を奪われれば、遅れて来る二条が左右から挟む。先に横へ逃げれば、今度は中央の光が進路へ追いつく。三条は別々の弾道を取りながら、一つの攻撃として組まれていた。
タヴは三つの軌道を読み、掌へ魔力を圧縮する。すべてを迎撃すれば、次の攻撃までゼーリエを自由にしてしまう。黒紫の《Eldritch Blast(怪光線)》も三条に分かれ、雷鳴を引いて飛び出した。二条は迫る殺傷光へ向け、残る一条だけはゼーリエから照準を外さない。
正面の二条はぶつかった瞬間に激しい光を散らし、互いに消えた。視界の中央が白く灼けても、左右から迫る光は止まらない。二条目の怪光線は横から来る殺傷光を捉え損ね、空の一点を焼く。タヴは身を捻ったが避けきれず、右肩を掠めた光が外套を裂いて抜けていった。
左右の光は一拍違いに迫っていた。肩を抜けた一条を追うように、残る三条目がタヴの回避先へ角度を変える。半身になったまま横へ逃げても、今度は背を取られる軌道だった。
「《Shield(盾)》」
青白い障壁が目の前へ立ち、《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》を正面から砕いた。衝撃が力場越しに腕を押し戻し、光の破片が外套の脇を流れていく。タヴはその反動で半身を回し、術者へ返した一条の行方を追った。
砕けた殺傷光が視界を白く塞ぐ間も、返した怪光線は速度を落とさずゼーリエへ向かい続けていた。
怪光線は撃った直後から浅く弧を描き、ゼーリエの正面へ迫っていた。
ゼーリエの周囲で《防御魔法》の六角板が噛み合う。怪光線を受けた中心部が波打ち、受け止めた力を隣り合う板へ逃がした。それでも数枚は軋みながら光の粒へ崩れる。ゼーリエは空間を横へ滑りつつ、欠けた箇所へ魔力を流し込んだ。外周から新しい板がせり出し、崩れた穴を塞ごうとする。防御を直す指先では、すでに別の術が形を取り始めていた。
タヴは修復の遅れを見逃さない。旋回しながら肩の軸だけを一度照準の外へ流し、四条の《Eldritch Blast(怪光線)》を走らせた。いずれも初めは真っすぐに見える。しかし接近するにつれて速度と曲がり方がずれ、同じ障壁へ別々の角度から食い込んでいく。
一条目が無傷の六角板を叩いた直後、二条目が先ほど歪んだ継ぎ目へ食い込む。補修へ回っていた板まで外へ押し出され、抜けた余波がゼーリエの周囲を焼いた。彼女は崩れた板へ目も向けず、先ほどから組んでいた術を閉じる。残る二条は上下から時間をずらして迫っていた。先に来た一条が障壁の残りへ触れる寸前、彼女の輪郭を囲む空間が鏡のように割れた。
《レヴァレイド(短距離の空間を跳ぶ魔法)》は短い距離の空間を跳び、攻撃の外へ抜ける術だ。ゼーリエは十数メートル後方へ姿を移す。三条目と四条目は元いた場所の残像だけを貫き、二筋の尾となって虚空へ散っていった。
遥か下では、フェルンが空へ目を凝らしていた。
「……遠すぎて、よく見えません」
見えるのは、淡く尾を引く魔力と点のような閃光だけだ。ひとつを追った瞬間には別の場所で防御陣が弾け、視線を移す頃には次の光がさらに先へ走っている。
「空気の層が薄いのだろう。あの高さでは音は届かない。魔力の光も、遠すぎて輪郭が潰れている」
ゲナウが低く補足したが、自身も顔をしかめながら目を細めていた。フリーレンがふと横を見る。宙を見上げたまま、微動だにしないシュタルクの横顔がそこにあった。
「シュタルク、もしかして見えてるの?」
信じがたいと感じながらも、フリーレンがそう尋ねる。
「ん、あぁ……なんとなく動きは分かる」
シュタルクはごく当たり前のように頷いた。その様子に、フェルンとゲナウが同時に目を向ける。
「流石は戦士だね……すごい視力」
フリーレンが漏らすと、シュタルクは視線を逸らさぬまま、閃光を指で追って続けた。
「あそこから青いのが八つ、こっちから紫のが四つずつ、みたいな……」
真顔で返されたその言葉に、誰も返すことができなかった。沈黙がしばし流れた後、フェルンが小さく呟く。
「シュタルク様も大概ですね……」
地上で短いやり取りが続く間にも、上空の攻防は止まらない。ゼーリエが鋭く旋回し、虚空へ手をかざした。詠唱はない。掌から八条の《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》が閃き、上下左右へ散る。光はタヴを越えた先でも弧を描き、逃げ道を閉じながら一斉に折り返した。彼の周囲に残る隙間は、光が曲がるたびに狭まっていく。もはや上下へ抜ける余地もない。
タヴは身を翻し、右足を宙に踏み出すと、小さく呪文を囁く。
「《Misty Step(霧渡り)》」
霧が彼の身体を包み、その姿が虚空に溶ける。直後、およそ九メートル横の空中に再出現したタヴは、《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》の光が虚しく空を切り裂くのを見届けた。霧を突き抜けるように飛び出す彼の姿を見て、ゼーリエの瞳が僅かに細まった。
(術式は確かに発動した。だが、あの消耗では釣り合わない……生来の力に近いのか……)
ゼーリエが捉えたのは、霧を生んだ力が、タヴ自身の魔力とは異なる層から流れ込んだことだった。その由来までは読み取れない。
霧の残滓は、タヴがかつて多元安定機構の任務で《Feywild(フェイワイルド)》へ踏み込み、その理に触れた際、魂へ残った《Fey Touched(フェイに触れし者)》の刻印から流れていた。そこには《Misty Step(霧渡り)》と、占術か心術に属する一階梯の魔法が一つ結びついている。
刻印の力で自らの魔力を使わず術を呼べるのは、十分な休息を挟むごとに一度だけだ。その一度を使い切ったことを、タヴは再出現した瞬間に把握していた。次に同じ霧を呼ぶなら、《呪文スロット》を使って発動するしかない。
タヴは霧の残滓がまだ散り切らぬうちに、反撃に転じた。高空の風圧をいなしながら体勢を制御し、指先に強い魔力を集中させる。
「《Eldritch Blast(怪光線)》」
四条の黒い魔力光弾が空を裂き、ゼーリエへ迫る。タヴは途切れるはずの術式へ生命力から絞った魔力を注ぎ、《Quickened Spell(呪文高速化)》で次の詠唱を押し込んだ。先の四条が届く前に、さらに四条が異なる角度から走る。
ゼーリエの目が鋭く動く。《防御魔法》は既に準備されているが、瞬時に判断を変えた。彼女は両手を広げ、周囲に半球状の魔力障壁を展開する。
「《セルヴァティス(魔力を受け流す魔法)》!」
半球の障壁は攻撃を正面から止めず、触れた魔力を面に沿って流した。八条のうち一条が閉じきる前の縁を抜け、ゼーリエの肩口を裂く。残る光は障壁の上を滑るうちに薄れ、火花となって散った。
タヴが右掌を返すと、空が青白く軋み、一瞬、世界が静寂に包まれた。掌に収束したのは、本来ならば炎をもたらす《Fireball(火球)》だ。だが、術式が完成した瞬間、赤い熱が消える。
ソーサラーの《Metamagic(呪文修正)》である《Transmuted Spell(呪文変質)》が、完成した術式の性質を雷へ入れ替えた。青白く脈打つ稲妻の球体が虚空に浮かぶ。
(術の構築後に呪文の性質を変えた……?)
ゼーリエは眉をわずかに寄せ、視線を固定した。タヴの周囲では《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》の乱流がすでに渦を巻いている。彼はその風を推力へ変え、稲妻の球体とともに宙を疾駆した。
「《Misty Step(霧渡り)》」
再び瞬時に霧と化し、ゼーリエの至近距離に姿を現す。自ら爆心地へ踏み込む動きに、彼女の肩が反射的に引かれた。
(自分ごと巻き込むつもりか──!)
タヴはゼーリエの眼前、爆心を胸前に定めて稲妻の球体をその場で爆ぜさせた。
稲妻の球体が炸裂し、青白い光が空を貫いた。同時にタヴの身体からも雷撃と衝撃波が噴き出す。《Heart of the Storm(嵐の中心)》は、一階梯以上の電撃や雷鳴の魔法へ呼応し、彼自身を中心に嵐の余波を生じさせる。
二重の雷撃が炸裂し、白青の光が視界を飽和させる。音圧が鼓膜を叩き、空気が一瞬で膨張して圧縮波が走る。帯電した風が肌を刺し、高空に焦げた金属の匂いが薄く散った。
「っ……!」
地上にいたフェルンが咄嗟に目を背ける。その横でゼンゼは片腕を上げて眩しさを遮り、閃光が収まるまで空から視線を外さなかった。光が弱まると、フェルンも上空へ視線を戻した。
「今のは……雷?」
「分からない……。だが、ゼーリエ様は一体何と戦っているんだ?」
ゼンゼは上空へ顔を向けたまま答えた。青白い余波が空で渦を巻き、次の言葉は続かなかった。
地上へ閃光が届くより早く、爆心ではゼーリエが《リュセレイア(雷を折り曲げる魔法)》を展開していた。直撃するはずの稲妻が彼女の手前で二つに割れ、身体の両脇を走り抜ける。雷鳴が高空を揺らし、曲げきれなかった残光だけが頬を掠めた。
嵐が過ぎ去った虚空の中心で、タヴは短く二度息を継ぎ、風に流された身体の軸を戻した。
彼の姿には、傷も焼け跡もなかった。雷撃に包まれたというのに、風の中へ身を預けたまま浮かび続けている。《Wind Soul(風の魂)》によって、雷撃も雷鳴も彼の身体を傷つけることはできない。ゼーリエは目を細め、呟くように言った。
「……風と雷に祝福された者。なるほど、面白い力をしている」
タヴは答えない。距離を取りながら、すでに次の魔力を編んでいた。流れが黒へ変わる。今度は攻撃でも防御でもない。掌から伸びた魔力が影を伝い、まっすぐゼーリエを捉えた。
《Hexblade's Curse(ヘクスブレードの呪い)》が発動する。黒い鎖が影から這い出し、ゼーリエの影に絡みついた。縫い目に似た刻印が走り、その輪郭を締め上げる。
呪いの刻印が黒く脈打つたび、タヴの一撃は同じ強さでも深く入り、急所を捉えた傷口は大きく裂ける。
だがその瞬間、ゼーリエの左手が上がり、無言で魔法が展開される。足元の影がさざめくように揺らぎ、縫いつけられていた呪いの鎖が引き剥がされ、逆流するように宙を駆ける。黒い鎖は反転し、今度はタヴの影へと鋭く伸びていった。
「……っ!」
タヴは顎を引いた。呪いが己の影へ戻りかけたところで、鎖へ何かが干渉する。彼の背後に、黒い瘴気のようなものが薄く滲む。それは呪いを拒むように脈打ち、伸びてきた鎖を侵入者のように焼き払い、反転した呪いを霧散させた。
「……消えた?」
ゼーリエが眉をひそめ、低く呟く。
(……《ヘクスブレード》自身が呪いを拒絶した?)
タヴ自身も、何が起きたのかを正確に理解しているわけではなかった。
ただ、あちら側にいる契約相手が、自らの呪いを外からの干渉として拒絶した感触は残っている。それ以上に、タヴの意識はゼーリエが用いた魔法の特性へ向いていた。
「……まさか、《Hexblade's Curse(ヘクスブレードの呪い)》が反射されるとはな。どういう原理だ?」
空中で対峙したまま、ゼーリエは呪いを返した左手を下ろさず応じる。
「《ミスティルジーア(呪い返しの魔法)》だ。呪いと認識したものを自動的に跳ね返すだけの魔法だ……原始的すぎて、私はあまり好きではないがな」
タヴは肩をすくめ、唇の端を歪めた。
「呪いへの自動《防御魔法》か……ブラックスタッフ塔の連中が聞いたら、喜んで仕組みを解析しに来るだろうな」
言い終えたタヴを、ゼーリエは見つめたまま、逆に問いを返した。
「お前こそ、随分物騒な技を使うじゃないか……内に何を飼っている?」
タヴは一拍置いて目を細め、語尾を硬く切った。
「……興味本位で覗き込むには、少し危ない連中だ」
その返答に、ゼーリエの唇が吊り上がる。目はタヴから離れなかった。
「興味深い。そういう存在が向こう側にいるのなら、もっと引き出してみたくなるじゃないか」
風が二人の間を抜けた直後、周囲の魔力が互いを押し返すように軋んだ。
一瞬の静寂。ゼーリエが深く息を吸い、最初の音節を紡ぐ。詠唱は、もはや耳で聞くというよりも魔力で直接認識される性質のものだった。
その瞬間、タヴは右手を上げ、《Counterspell(呪文妨害)》を反射的に放つ。ゼーリエが次の音節を紡ぐ前に干渉の波を術式へ差し込み、組み上がりかけた魔力を内側から解こうとした。だがタヴの魔力は術式へ食い込むことすらできず、表面で細かな光となって散る。ゼーリエの詠唱は一音も乱れなかった。
弾き返された干渉の反動だけが手首を打ち、上げた指先を外へ逸らした。
(《Counterspell(呪文妨害)》が失敗しただと……!?)
タヴの上げた右手が一瞬、宙で止まる。ゼーリエの呪文はさらに強大な魔力を伴って完成に近づいていた。このまま直撃すれば防ぐ術はない。タヴは小さく舌打ちし、指を返して次の術式を構築し始めた。
「おいおい、そりゃ反則だろ……」
小さく呟きつつも、彼は迅速に《Mirror Image(鏡像)》を発動する。自身の姿を複製した幻影が三体出現し、タヴの動きを完全に模倣しながら彼を取り巻いた。三つの像は互いの軌道を入れ替え、本体の輪郭をその中へ紛れ込ませる。
その直後、ゼーリエの詠唱が完了する。
「《ラグゼオル=アイン(物体を崩解させる奔流を放つ魔法)》」
彼女の正面で空間密度が跳ね上がり、純白の奔流が巨大な帯となって前方一帯を塗り潰した。広がりは大きく、タヴと幻影三体をまとめて呑み込む幅だと一目で分かる。逃げ遅れれば押し流される。
タヴは《Tempestuous Magic(疾風を呼ぶ魔法)》の突風を纏い、斜め下へ降下した。三体の幻影も同じ軌道を辿りながら、互いの上下を入れ替える。純白の奔流がすぐ上を通り抜け、四つの外套の端をかすかに削った。崩解の光がまだ頭上を流れているうちに、タヴは落下の勢いを反撃へ繋ぐ。
ゼーリエへ向けた掌に、《Magic Missile(魔法の矢)》の光が三本生まれた。より高い階梯の《呪文スロット》で組んだため、そこへさらに本数が加わる。先に放った三本は彼女の正面を追い、遅れて生じた矢は左右へ分かれた。どちらへ避けても軌道を変えて追いつけるよう、光の網が上下からも間隔を詰めていく。
ゼーリエが飛来する矢へ片手を掲げる。青白い六角板が周囲へ連なり、《防御魔法》の障壁を閉じた。正面から来た光が続けて板を叩く。衝撃を受けるたび別の板へ波紋が逃げ、左右から回った矢も閉じかけた隙間で弾けた。最後の一矢が頭上から落ちても、ゼーリエは位置を変えない。傾けた六角板で下方へ流し、砕けた光を背後へ散らした。光の粒がまだ障壁を流れる中、タヴは次の攻撃を組み始める。その指先より先に、ゼーリエの背で金色の輝きが膨らんだ。
彼女の後頭部に眩い金色の光輪が浮かび、背から七枚の翼が扇状に開いた。翼の縁は白金に燃え、重なった羽根の間から長い光条が伸びる。《アウレオル=リエナ(神環より顕現する七翼)》は、かつて星環を織った女神が天より落ちた眷属へ与えたとされる遺産だ。その片鱗が、いまゼーリエの背に顕現していた。
風はざわめき、空間が圧迫される。魔力の密度に周囲の気流がかすかに悲鳴を上げる。
タヴは空中に浮かぶゼーリエを見上げながら、思わず眉をひそめた。鮮烈な輝きの中で悠然と宙に浮かぶ彼女の姿は、かつて目にした天界の使者であるデーヴァを連想させるほどだった。
「神々しい姿だな……女神の化身か何かか?」
冗談めいた言葉を投げかけながらも、タヴはゼーリエの新たな力を警戒していた。あの翼は、これまで目にしてきた魔法とは異なる複雑な構造を見せている。
「……見惚れたか?」
ゼーリエは片方の口角を上げる。タヴは答えず、《Misty Step(霧渡り)》で彼女の背後へ回った。三体の幻影も軌道を入れ替え、本体と同時に攻撃の構えを取る。ゼーリエが振り向くより早く、七翼の一枚が刃へ変じた。横薙ぎの光がまず一体を切り、返す軌道で残る像も薙ぎ払う。本体だけが刃の下へ身を沈めたが、切っ先は頬を浅く掠めていった。
「……!」
三つの幻影が光の破片となって散る。タヴは最後の像が消える前に後方へ抜けようとした。だが、別の翼はすでに細い鎖へほどけている。鎖は逃げる背を追わず、退路へ先回りして弧を閉じた。
「《Shield(盾)》!」
淡い力場が鎖を受け止める。先端は表面を滑り、盾の縁へ回ろうとした。タヴが角度を変えて押し返すと、鎖の一節ごとに宿った魔力が一点へ集まり、接触部から細い亀裂が走る。力場が砕けた瞬間、ほどけた鎖が内側へ雪崩れ込み、右腕と腹部へ巻きついた。タヴが空いた左手を上げるより先に、ゼーリエは鎖を手繰って正面まで距離を詰める。
「せっかくだ。滅多にない空の舞踏に付き合ってもらおうか」
残る六枚の翼が力強く羽ばたき、二人の身体が滑るように降下を始めた。空が高速で流れ去り、雲が眼前で裂けてゆく。遥か下方に、湖と街の灯りが微かに浮かび上がった。高度二千メートルで鎖に締め上げられた右腕は動かず、腹部も強く圧迫されている。それでもタヴは落下風を吸い込み、詠唱へ移った。
「《Thunder Step(雷鳴の一跳び)》……!」
魔力が体内で一気に昂り、雷撃と共に脱出を図ろうとする。だが、その詠唱に合わせるようにゼーリエの額が輝き、魔力の波紋がタヴの精神に触れる。
「……この距離なら、抵抗すらままならないだろう」
《エラヴミレア(精神を縛り、思考を妨害する魔法)》が意識と思考の流れを滞らせ、術式へ向けた集中と詠唱を封じる。
「っ……!」
タヴの視界が歪み、思考に濁りが走る。雷の術式が完成寸前で霧散した。ゼーリエの視線が注がれ、その瞳にほんの一瞬だけ強い光が宿る。タヴの意識の深い部分が、微かに揺さぶられた。
そのとき、タヴへ触れた波紋の縁が逆向きに撓み、ゼーリエの額の光がひときわ強く瞬いた。
*
霜鉄炉では、横たえたバトルアックスの刃がか細い炉火を返していた。ブロックスは炉石へ両手を押し当て、目を閉じる。
「父なる鍛冶神よ。我が手は鈍り、我が槌は迷い、我が魂は折れかけている。それでも、まだ打ち続けたい。……だからどうか、俺にもう一度、火を灯してくれ」
低く震える声は炎に吸い込まれた。ブロックスはその姿勢のまま、返事のない炎を見つめ続ける。掌の焼ける痛みだけが、祈りを口にしてから過ぎた時間を伝えていた。
炉火の色にも、掌へ返る熱にも変化はない。次の瞬間、炉石の硬さも、炎の爆ぜる音も、足元の重みも一度に消えた。
視界が白く染まる。
白の中で黒い筋がほどけ、上下も距離も見分けられなくなる。声を出そうとしても、自分の息さえ聞こえない。ブロックスには、意識だけが取り残されていた。
やがて、霧の奥から何かが現れた。
それは金床の形をしていた。黒い鉄の表面を赤い光が走り、縁から落ちた火花が霧の中へ消えていく。
金床の向こうに、ひとつの人影が立っていた。
肉体の輪郭はない。炉火と鍛鉄の光が、ひとりの鍛冶師を思わせる形を結んでいた。
声が──響いた。
それは耳で聞く音ではなく、魂そのものを叩く鐘の音だった。
「理の彼方より、お前の願いは届いた」
それは鍛冶神モラディンの声。生まれて初めて聞く、神の言葉だった。
「世界の秩序はすでに揺らぎ、理は崩壊の淵にある。だが、まだこの世界は希望を呼び込む力を持つ」
声は世界のすべてを包み込み、魂に染み込んでくる。
「お前の火が弱く、静かであったからこそ、我らはそれを見ることができた。その火を我らの火とし、その手を我らの手として──理を打ち直す槌となれ」
モラディンの声が消え去ると同時に、幻視が始まった。
──帝都アイスベルク。
整然とした都市は冷たい霧に包まれ、その上空には異様な影が漂う。巨大な脳を模した戦艦、ノーチロイド。
戦艦の底部から垂れ下がった触手が帝都の尖塔へ巻きつき、紫の波が通りを走る。城門を守っていた兵が槍を下ろした。隣の兵も同じ拍で武器を落とし、呼びかけにも応じず広場へ歩き出す。
市場では幼い子どもが母親の袖を引いていた。母親は一度も振り返らない。空になった籠を抱えたまま、同じように歩く人々の列へ加わった。店先の呼び声は消え、石畳を擦る靴音だけが帝都の奥へ続いていく。
──聖都シュトラール。
荘厳な尖塔と鐘楼が連なる街に、突如として空が裂ける。次元の裂け目から現れたのは、銀色の装甲に包まれたギスヤンキの戦艦群。
銀装の兵が燃える回廊へ降り立ち、盾を上げた騎士の脇を一息で抜ける。騎士の剣が床へ落ち、開いた祈祷書の上を血が伝った。鐘守が警鐘の綱へ飛びつくより早く、銀剣が吊り金具を断つ。祈りの鐘は一度も鳴らずに鐘楼を突き破り、落ちた跡へ銀色の旗が立てられた。
──魔法都市オイサースト。
魔導の尖塔が建ち並ぶ都市に、黒い焔を纏った門が出現する。空間が裂けて、そこから溢れ出るデーモンたちが街を蹂躙し、無数の魔法使いが倒れていく。
その最前線、ただ独り、雷を纏った男が立っていた。タヴだった。
彼は叫ぶこともなく、雷を放ち続けていた。撃ち抜かれたデーモンが門前で崩れ、後ろの一体へ次の雷光が届く。その足元へ黒焔が細く這い、次の瞬間には幾筋もの炎となって脚とクオータースタッフへ巻きついた。タヴの姿は青白い閃光ごと門の奥へ引かれ、消えた。
タヴが立っていた石畳には、放電で溶けた白い溝だけが残った。生き残った魔法使いがそこへ踏み出しかける。門から黒焔が伸び、前へ出した杖の防御障壁を外側から染めたため、その足は止まった。
幻視は黒き焔の門の奥へ移った。
そこには深淵があった。モラディンの金床から零れた光が門の奥へ触れた途端、糸を焼かれた布のように端からほどけていく。遠くにあった三つの都市の像まで、見えない流れに引かれて門へわずかずつ近づいた。
門はまだ人ひとりを通す幅にも開いていない。それでも、亀裂が脈打つたび幻視全体が軋み、炉石へ押し当てたブロックスの両手にも同じ間隔の震えが返った。
幻視を白い霧が覆い、像を消していく。やがてモラディンの声だけが魂に響いた。
「これは避けがたい可能性に過ぎぬ。だが、見過ごせば理は砕け、世界は滅ぶ」
そして霧の奥に、無数の影が見えた。異なる理、異なる世界に生きる者たちだ。それでも皆が同じ重みを背負い、同じ決意を胸に刻んでいた。
「お前はその柱の一つとなれ。だが、柱はお前一人ではない」
光がゆっくりと薄れていく。
「今は炉に火を灯し、斧を研げ。時が満ちれば、その斧をもって理を打ち直せ」
静寂が戻る。
気がつくと、霜鉄炉の炎は僅かに強まり、赤く燃え盛っていた。ブロックスはゆっくりと目を開く。炉石から両手を離し、痺れの残る指を一度握り直してから、傍らに横たえたバトルアックスを引き寄せた。片手で柄を支え、もう片方に砥石を握ると、一心に刃を研ぎ始めた。
「……必ず来る」
*
星の海と霧が交わる座で、傷ついた者たちの祈りを宿す光が一斉に震えた。そこから、慈悲と忍耐を司る神イルメイターの声が響く。
「均衡を守るは我らの責務。だが、その扉の先にある理は、我らが築いたものではない」
空も地もないその座に、神々は姿ではなく、それぞれの権能を示す光を置いていた。モラディンを囲む火花は鍛鉄の色に燃え、ティアの前では二条の白光が天秤のように釣り合う。ミストラから伸びる銀青の糸は星々の間を網に編み、イルメイターのもとへ集う祈りを包んでいる。
モラディンの火花がひときわ強く弾けた。鉄と火を司る神の声が、鍛鉄を打つ一撃となって座の中心へ落ちる。
「門の前に立つ者はいる。だが、扉を開くためには、まだ足りぬ者がいる」
ティアの前で、二条の白光が水平に揃う。法と正義の神は、その釣り合いを崩さずに答えた。
「焦りは禁物だ。すべての柱が揃わねば、世界は逆に脆くなる」
ミストラの銀青の糸が、モラディンの火花とティアの白光へ一本ずつ結ばれる。魔法と繋がりの女神の声が、その網を伝った。
「そう、まだ時は満ちていない。ただ、女神の呼び声が届いたことは確かなのだから」
「呼び声」という語に応じ、銀青の網が四方へ開いた。閉ざされた次元の歪みを囲むように、神々の代理人たる《選ばれし者》四名の現在地が映し出される。
冷たい風が、星のように光る雪片を巻き上げていた。
銀の鱗を持つドラゴンボーンの女性戦士が、崩れかけた聖域の前に立っている。名はセリア・イグナリア。ティアの代理人である《選ばれし者》だ。
霜を纏った重装の肩が鳴り、背に担ぐウォーハンマーが風を裂いて鈍くうなる。柄の根元には祈りの刻印が凍りつき、胸甲には正義の天秤が高らかに刻まれている。ティアの象徴だ。竜の血を引く顔立ちは厳しく、銀の角の根元に雪が積もっては溶け、吐息は白い。左腕の大盾は縁が幾つも潰れ、古い傷の上に地金の明るい打痕が重なっていた。
目の前では、空を裂くように現れた亀裂が淡く脈打つ。だがセリアはまず手前の任務を外さない。ここでは避難民の護送と結界の維持が続いており、聖域の残骸に取り付けた暫定封鎖を監視しながら、最後の隊列が峠を越えるのを待っているのだ。斜面の下では、子どもを抱えた男が荷車を押し、僧侶が祈りの言葉で疲れをなだめている。
(強まっている。あの揺らぎは門の縁だ。間もなく本格的に開くつもりだな)
口の端がわずかに吊り上がる。その奥底には、火山のような熱と、戦を望む衝動が燻る。先ほど、ティアの告げが胸甲越しに響いた。閉ざされた次元で決定的な歪みが起きた、と。だが彼女は頷き、盾を少し押し上げるだけだ。
(今はここを離れない。民を安全圏へ送り出し次第、向かう。それが秩序であり、私の誓いだ)
砦の奥で灯火が揺れる。倒れた兵士の傍らで僧侶が祈り、傷ついた者たちに温湯を飲ませている。セリアは強く盾を掲げ直した。
「門が本格的に開いたなら──その時は界の厄災共を叩き潰す」
足元の凍てついた地面に、細かなひびが音もなく走る。セリア・イグナリアは、なお戦場に立ち続けていた。
その視線は、西の空へ滑るように移る。
遥か西の夜の底が歪む大地の果てに、一柱の塔がそびえている。頂上の魔法陣が淡く光を返し、丸窓からは赤紫のきらめきが脈打つ。円環の中心に立つのは、蒼銀のローブをまとったヒューマンの男だ。名はラジエル・サン=エリオス。
ミストラの代理人である《選ばれし者》で、今は待機を命じられている。肩までの黒髪は無造作に流れ、薄い唇の端には常に笑みとも皮肉ともつかない線がある。指には過剰な指輪、耳には妙な飾り。指輪同士が触れて小さく鳴るたび、口元の線は楽しげに深まる。だが、水晶球へ向いた瞳は、浮かぶ符の列を端から端まで追っていた。
(さて、授けの書式はこれで全部。星図のずれ、魔法位相の偏り、現地語音韻……はい合格。閉ざされた次元で外部干渉は原則お断り、と)
彼は水晶球に手をかざし、ミストラが渡した要点を読み解いていく。門の構造、次元の継ぎ目、魔法の理まで、文字と記号は彼の頭の中で滑らかに整列していく。
「片道切符で帰還困難、次元間通信も遮断……いやあ、嫌いじゃないね。なかなかロマンチックな設計だ」
小さく指を鳴らして術式の一部をわざと崩し、すぐに組み直す。鍵となる符がまだ応じないのは、他の代理人の準備が整っていないからだと分かっている。
「全員が揃えば、僕は行ける。待つのは退屈だけど、たまには礼儀正しくね」
ラジエルは肩をすくめ、窓の外の暗い地平を一瞥した。細い顎が月光を受け、笑みはさらに軽くなる。
流れる視界は、瓦礫と煙が混じる都市の路地へ降りる。
その片隅、瓦礫の壁際に小柄な影が立っていた。栗色の髪を短く束ね、柔らかな灰緑の瞳をしたハーフリングの女性だ。名はイーシャ・グレイブレア。イルメイターの代理人である《選ばれし者》で、くたびれた皮のジャケットの胸には十字の護符が揺れている。護符には、苦痛と慈悲の印が細かく刻まれていた。腰のダガーは使い込まれ、刃はきちんと研がれている。
(まだ助けられる人がいる。ここを離れるのは、それを見届けてから)
彼女はいま、崩落区画の救助指揮を執っている。燃え移りを防ぐための破片除去、地下に取り残された老人の引き上げ、塞がれた動線の再確保。鼻腔には埃の匂い、耳には遠い泣き声。医師団が追いつくまでの繋ぎを、身一つでやり続けているのだ。
空気が揺れ、胸の奥で温かな呼び声が震える。イルメイターの告げが届く。閉ざされた次元で苦痛が膨らみつつある、と。それでもイーシャは優しく首を振った。
「はい、分かっています。でも……ごめんね、もう少しだけ待って。ここも終わらせるから」
彼女は、いま手当てした負傷者の腕へ巻いた包帯を締め直し、壁際へ座らせてから影から影へ跳ぶ。路地の奥からか細い呻きが返る。イーシャは音もなく瓦礫の間へ滑り込み、声の主の手を取った。手は冷たい。彼女は穏やかな声で短い祈りを囁き、肩を貸して立たせる。救助が終わり次第、彼女もまた向かうだろう。だが今は、この街路が持ち場だ。
再び、神々の座に風が通る。
星のように揺らぐ霧の奥に、焔の前で一定のリズムを刻みながら刃を研ぐ男の姿が浮かび上がる。鍛冶場の煤と戦場の塵を纏い、揺るがぬ腕と意志を持つ。ブロックス・フレイムスミスである。逞しいドワーフの男で、編んだ髭には灰が絡み、厚い胸板は呼吸に合わせて上下する。瞳は琥珀色に近く、炉の光を拾って揺れた。
その在り様に、ひとつの神格が語りかけた。言葉は熱き鉄槌のごとく重く、鍛えた刃を打つように、確かに座へと響き渡る。
「火は、炉で燃えていればよい。今は、刃を研ぐときだ」
それはモラディンの声。鉄と炎を司る神は、他の神々の沈黙を貫き、その名を告げる。
「ブロックス・フレイムスミス。汝は我が炉より打ち出された理の楔」
星霧に火花が落ち、映し出されたブロックスの砥石が止まる。次の声が座を震わせた。
「時が来れば、その刃をもって理を打ち直せ。それまでは、己を忘れるな」
星の座は一度波打ち、やがて揺らぎを止める。四つの像はいずれも霧へ戻らず、その中央に残った扉の輪郭だけが、先ほどより濃くなっていた。静まった座へ、ブロックスが砥石を引く音が一定の間隔で届き続ける。
*
魔法都市オイサーストの上空。雲の下へ出た二つの影が、街へ向けて降下していた。残る六枚の翼を広げ、落下風を受け流すのはゼーリエ。
鎖状に変じた一翼へ右腕と腹部を巻き取られ、残る翼の内側に抱え込まれているのは、思考を封じられたタヴだった。だが、魔力の流れが、想定外の軌道を描いていた。《エラヴミレア(精神を縛り、思考を妨害する魔法)》の効果は確かに発動している。ところが、術が流れ込んでいる先は明らかに浅層ではない。
タヴへ沈めたはずの術が、ゼーリエ自身を引く。術者である彼女の精神が、逆流するようにタヴの深層へと引きずり込まれていく。彼の魔力核は、少なくともゼーリエが知る人間のものとは根本的に異なっていた。そこには異界の気配がある。まるでこの世界の理を越え、何か別の理へ繋がっているかのように。
刹那、ゼーリエの意識は暗転し、記憶の海へと沈み込んでいった。
最初に押し寄せたのは、雨音と濡れた木の匂いだった。
雷鳴。紫電の閃光が、夜のように黒い雲を裂いている。地を揺らす轟音が続き、誰かの叫びが被さる。赤子の泣き声。湿った床、崩れかけた木製の屋根。泣くたびに、空が鳴った。怒りと恐怖が入り混じったその感情に、まるで世界そのものが応答するかのように雷が走る。
「まただ! あの子が生まれてから、この雷は止まない!」
「呪われた子だ……」
「ここに置いてはおけない。《ギルド》に売ってしまえばいい!」
大人たちの声が交錯する。赤子を抱えた夫婦は、追ってくる声から逃げるように闇の中を急いだ。
──バルダーズ・ゲートの地下取引所。
薄暗く湿った地下室で、粗末な袋に詰め込まれた幼いタヴが泣いている。黒ずんだ石壁の前に立つ仲介人は、不快そうに袋を見下ろし、赤子から放たれる異質な魔力に気づくと僅かに眉を動かした。
「ほう……これは興味深い」
仲介人は背後に控えた男たちへ片手で合図を送った。赤く特徴的なローブを纏った魔法使いたちが、袋を囲む位置まで前へ出た。
「魔力波形が尋常ではないな」
一人が探知具を傾け、別の術者が赤子の肌を走る光を覗き込んだ。
「この子は根源的に異界と接続している。研究に値する素材だ」
レッド・ウィザーズは死霊術や禁断の術を追求し、人さえ売買と実験の対象に含める魔法使い集団だった。
「……契約成立だ。この子供を譲り受ける」
──サーイの辺境、レッド・ウィザーズ研究施設。
薄暗い実験室に幼いタヴが拘束されている。手足には魔力制御を目的とした術式封印具が刺さり、その肌を焼き、神経を灼き切ろうとしている。
「また封印が破れかけている」
寝台の足元で目盛りを読む術者が顔を上げた。反対側では、別の術者が壁の術式へ魔力を流している。
「あの子供は魔力の制御が困難だ。内側から溢れ出る魔力に、通常の術式では対処しきれない」
記録板へ数値を書き込んでいた主任術者が、タヴを見ないまま返す。
「外側から徐々に削り取るまでだ」
三人は幼いタヴへ目も向けず、手元の術式と目盛りだけを読み上げた。身体に再び魔力制御針が穿たれる。景色の視点は途切れ途切れに移ろうのに、電流に似た痛みだけは一つの身体から逃げ場なく伝わってくる。ゼーリエの意識は、その苦痛の記憶へ深く巻き込まれていた。
(これは、まずい……!)
そう感じたときには、もう遅かった。ゼーリエの意識はタヴの記憶の深淵へと完全に引き込まれていた。気がつくとそこは、さらに小さく閉ざされた、窒息しそうな空間だった。壁一面に描かれた拘束術式が淡い光を放ち、その隅に幼いタヴが膝を抱えて座っている。
その背後、深淵の闇の中で、剣のような漆黒の影が輪郭を結んだ。現実感を欠いた剣から、空間の内側を擦るような囁きが届いた。
「お前は壊れるだけの器ではない。力を欲するならば、我を振るえ」
ゼーリエは反射的にその剣を見つめた。漆黒の切っ先が、わずかに彼女の正面へ向き直る。単なる記憶であるはずの存在が、明らかにゼーリエ自身を認識した。剣が僅かに揺らめき、ゼーリエの精神へと侵入してくる。
鋭く焼け付く激痛が走る。
針が刺さるたび、痛みは手首から顎の奥まで駆け上がった。封印術式は背中を内側から焼き、助けを呼んでも、返るのは記録板へ数値を書き込む音だけだった。
(こんな痛みに耐えていたのか……!)
思わず精神が乱れ、魔力の制御が緩む。精神への干渉が途切れた瞬間、タヴの意識が現実へ引き戻された。右腕と腹部を締める鎖、眼前のゼーリエ、顔を叩く落下風が一度に戻る。タヴは息を吸い込み、喉まで上がっていた詠唱を押し出した。
彼の身体を中心に爆発的な魔力が収束し、《Thunder Step(雷鳴の一跳び)》が瞬時に構築される。術者を瞬間移動させると同時に、雷鳴を爆発的に放つ魔法だ。紫電が激しくほとばしり、雷鳴と共に彼の姿は消えた。
爆音と衝撃。
「──っ!」
ゼーリエの身体は爆風に巻き込まれ、後方へ吹き飛ばされた。とっさに展開した《防御魔法》のおかげで直撃こそ免れたものの、その身体は激しく空中へと舞った。記憶への干渉が断ち切られ、彼女の視界に再び現実の空が戻る。
(なんて過去だ……)
彼女は額の汗を拭う余裕すらなかった。雷鳴に泣く赤子、渡される硬貨の袋、皮膚へ沈む魔力制御針、暗がりから正面を向いた黒い剣。現実へ戻っても一つとして薄れず、痛みだけがゼーリエの神経に残っている。
鎖状の一翼は金色の粒へほどけ、元の翼へ戻った。ゼーリエは数秒のうちに体勢を立て直し、《飛行魔法》で空中に身を固定する。タヴはゼーリエからやや離れた位置に浮かび、雷の余韻をまとったその姿がかすかに揺れる。
「……なかなか行儀の悪いことをやってくれるな。何を見た?」
タヴは口角を上げたまま、ゼーリエの手元から目を離さない。ゼーリエは応える前に一度、深く息を吐いた。
「お前の過去を見た。本来、あれは記憶に触れる魔法ではない。……すまなかった」
言い終えてもゼーリエはタヴから目を逸らさず、いつもの皮肉も挟まない。金色の翼の先だけが、高空の風に一度揺れた。タヴは短く黙したあと、わずかに口元を緩める。
「……まあ、見られたくないなら、ちゃんと蓋をしとけって話だな。俺の精神防御が甘かったせいでもある。お互い様だ」
魔力の波動がゆっくりと収まり、二人の間を流れる風の音が戻った。眼下では、すでにフリーレンたちの姿が見え始めている。シュタルクが手を振り、ゲナウとゼンゼが空を見上げていた。
ゼーリエが視線を下げ、ぼそりと呟く。
「このぐらいでいいだろう。馬鹿弟子共も不安がっているだろうしな」
それにタヴが返す。
「で、異界の魔法について何か分かったか?」
ゼーリエはしばらく沈黙し、タヴの周囲に残る雷の粒を目で追ってから述べる。
「確かにそちら側の魔法は実用的だ。発動さえできれば、誰が行使しても一定の効果を得られる。この点はとても合理的だ」
そこで一拍置くと、彼女は視線をタヴに向けたまま、少しだけ肩をすくめた。
「ただし、同時に息苦しさもある。術者の裁量が制限されすぎている。創意の余地が少ないのは……窮屈だな」
タヴは小さく笑った。
「お堅い評価だな」
「だが、一つ訂正が要る。戦いの最中、お前は炎になるはずだった術を、放つ寸前に雷へ変えたな。組み上がった形は崩れていなかった。こちらの魔法なら、完成した術式の根へあんな触れ方をすれば、その場で霧散する」
最後の雷の粒が風に押され、二人の間を横切る。
「《Metamagic(呪文修正)》だ。あのとき使ったのは《Transmuted Spell(呪文変質)》。元は《Fireball(火球)》だったが、炎の代わりに雷を通した」
「別の術へ組み直したわけではないのか?」
「同じ術へ、発動の途中で手を入れた。呪文を一つ覚えるのとは違う。ソーサラーが、自分の魔力をどう扱うかという技法だ」
タヴが答える間、ゼーリエは術を放った右手と、薄れていく雷光を見比べていた。
「お前だけの癖か?」
「いや。身につけたソーサラーなら同じ操作はできる。ただ、誰もが同じ修正を選ぶわけじゃないし、好きなだけ使えるものでもない」
残っていた雷光が消えても、ゼーリエは数秒黙っていた。
「なるほど。なら、出来上がった雷の術式だけを写しても意味はないな。見るべきは結果じゃない。完成した型へ、どの瞬間に、どこから手を入れたかだ」
タヴは口元を緩める。
「さっきよりは気に入ったらしいな」
「半分だけだ。お前たちの魔法は窮屈な型を並べるだけではない。型を壊さず、行使する側の裁量を差し込む技法まで別に育てている。悪くない」
「万人向けじゃないがな」
「構わん。未踏のものが、初めから万人向けである必要はない」
高空の風が、二人の間に残った雷の粒をさらっていく。
彼女はそう言ってから、ひとつ小さく息を吐いた。七枚の翼が光の粒へほどけ、すでに身を支えていた飛行の魔力だけが残る。ゼーリエは高空から地上への緩やかな降下を始め、タヴも風を纏って隣へ並んだ。晴天の中、二人は言葉少なに地上へ向かう。雷鳴の痕跡だけが、なお空に薄く残っていた。
*
風が止み、魔力の余波だけが大気を揺らしていた。ゼーリエとタヴは、オイサーストへ繋がる橋から少し離れた砂地へ降り立つ。巻き上がった砂塵が二人の周囲へ低く広がり、遅れて靴音が二つ響いた。砂が静まるより先に、遠くから駆け足が近づいてくる。
「ゼーリエ様……!」
最初に声を上げたのはゼンゼだった。魔力反応の揺れと上空の激しい衝突を目撃していたのだろう。まだ息が上がっている。その後ろから、背筋を伸ばしたゲナウも駆け寄る。
「ご無事で何よりです、ゼーリエ様」
ゼンゼは一度息を整え、張っていた肩を下ろした。だがゼーリエは、その反応を迎え入れるより先に、真っ直ぐ言葉を返した。
「当然だ。だが、お前の言う通りだったな。異界の存在は、私の魔法と予期せぬ相互作用を引き起こした」
ゼーリエは僅かに目を伏せ、唇を引き結んだ。
「……私の未熟さが招いた結果だ」
ゼンゼは一拍、言葉を返さずにゼーリエを見つめた。
「それは一体どういう……?」
問い返すゼンゼに、ゼーリエは肩をひとつすくめ、そのまま続ける。
「私もまだまだ、半人前だったということだ」
「ゼーリエ様が半人前……!?」
我慢できずに声を漏らしたのはゲナウだった。目を見開き、すぐさま頭を下げる。
「それでは、この世界に存在する魔法使いは、全員見習い同然になってしまいます」
その反応にゼーリエは言葉を返さない。端整な口元だけが、皮肉とも苦笑ともつかぬ形にわずかに動く。少し離れた場所では、仲間たちがタヴの元へ駆け寄り、フリーレンが先に口を開く。
「手足はちゃんとあるみたいだね」
フリーレンはタヴの両手足へ一度ずつ視線を走らせた。
「危うく上空から叩きつけられて、ミンチになるところだったがな」
タヴは肩を竦めて答えた。額には薄く汗が滲み、疲労もあるが、軽口を叩けるだけの余裕は残っている。
「すごい勢いで降下してきたので……肝が冷えました……」
フェルンは胸に手を当て、二度深く息を吸ってから呟く。
「本当に心配したぜ!」
叫んだのはシュタルクだ。興奮冷めやらぬ様子で、両手を振りながら続ける。
「空の上で火の玉が急に雷になったり、タヴが四人に分裂したり! しかも急にエルフの女の人から羽が生えて、タヴと一緒に落下してきたりして!」
シュタルクが両手で空のあちこちを指し終えるまで、タヴは黙って彼を見ていた。最後の一語が途切れたところで、目を細めて呟く。
「……二千メートル上空にいる人間の動きが、肉眼で見えるのか。……化物だな」
「なっ……なんでそうなるの!? 心配して言ってるのにその反応!? やめてよ、けっこう傷つくから!」
シュタルクが悲鳴のような声を上げる。その声を聞き流すように、フリーレンが視線をタヴに戻した。
「ゼーリエは、あなたの魔法に満足した?」
フリーレンはタヴの目を見たまま、返事を待つ。
「どうだろうな……理詰めすぎて退屈とは言っていたな。ただ、ソーサラーの内在的な力は気に入っていたようだ」
タヴは苦笑しながら答える。先ほどの干渉の余韻は、意識の奥に微かに残っていた。
「ゼーリエらしい評価だね」
フリーレンは一度だけ顎を引いた。
足音が近づく。砂を踏む音の主は、ゼーリエだ。ゆったりとした歩調で、金の髪と短い上衣を揺らしながら、タヴに歩み寄る。その目には、今までより幾分穏やかな色があった。
「……約束通り、お前が元の世界に帰るために協力しよう」
言葉は率直だったが、その響きは確かだった。
「別に私は、最初から拒むつもりはなかった。だが、これで都市の滞在も許可しよう。協会が管理する施設にも入れるようにしてやる」
タヴは目を細めた。ゼーリエの声には、どこか釈明めいた響きが混じっている。タヴには、「私は理不尽な判断をしていたわけではない」と伝えようとしているようにも聞こえた。
(……面倒な立場ってやつか)
そう思いながら、タヴはちらりと隣にいたフリーレンに視線を移した。そのとき、ゼーリエが続けた。
「千年ぶりに来たかと思えば……とんでもないやつを連れて来てくれたな。おかげで良い退屈しのぎにはなったがな」
「千年」という一語が、タヴの耳に残った。たしかに、フリーレンも「千年旅をしてきた」と言っていた。
タヴの知るエルフの寿命は、亜種族も含めておよそ七百五十年。千年も生きる者は稀で、六百歳を超えれば加齢の兆候も現れ始める。
それに比べて、目の前のフリーレンもゼーリエも、どこにも老いを感じさせない。時間を閉じ込めたような瞳と立ち振る舞いに加え、圧倒的な魔力の深度がある。
(この世界のエルフは、知識と記憶の継承者であり、神格に近い存在なのかもしれない)
タヴはその考えを確かめるように、二人の尖った耳と、年月を刻まない横顔を見比べた。
「旅の途中で、偶然出会っただけだよ」
フリーレンはゼーリエを見たまま答える。
「偶然ね……」
ゼーリエは繰り返しながら、その目をほんの僅か細めた。フリーレンもまた見返し、どちらも先に視線を外さない。敵意も警戒も向けられないまま、異なる立場と意思を測る沈黙が二人の間に延びていった。
砂の風が吹き抜け、ゼーリエとフリーレンの長い髪を同じ方向へなびかせた。二人の視線はなお交わったまま、あいだに立つタヴも黙っていた。やがて風にさらわれた砂が、三人の足元を低く流れていった。
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更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。