界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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ギスヤンキとマインド・フレイヤーは侵攻準備を本格化させ、次元を超えて偵察や工作を開始。辺境の街道で巡回部隊がギスヤンキと謎の魔族アウラの襲撃を受け、別地域ではマインド・フレイヤーが死霊化された魔族クヴァールと衝突する。多元宇宙を監視する神々は英雄を送り込もうとするが、デーモンの急襲により計画が遅延する中、タヴとフリーレン一行は迫る異界侵略の脅威に巻き込まれつつあった。


#5:戦端、開かれる

 風がざわめき、霧が森の中を這うように広がっている。北側諸国、グラナト伯爵領の外縁地──人影の少ない街道沿いの森だ。そこを、六名の巡回警備部隊が慎重な足取りで進んでいる。

 

 先頭に立つのは、老練な兵士ルグラン。灰のような髪と鍛え上げられた鎧が、地を踏むたびに微かに鳴る。三十年を超える実戦経験が、すべての判断に裏打ちされた静けさを彼に与えている。

 

 その背に続くのは、若き魔法使いのカノエ。細身の杖を両手で抱え、その先端に意識を集中している。周囲の魔力の流れを読み取り、揺らぎを探知するためだ。斥候のレンナは弓を構え、すでに矢をつがえて木立の隙間に狙いを据えている。

 

 続く二名の兵士はルグランの指導を受けた部下たちで、ともに円陣型陣形を守る。後衛には司祭見習いの少年、トルが控え、回復の準備に神経を集中させていた──直後にカノエが声を発する。

 

「……魔力反応。距離、およそ三十──いや、二十五」

 

 彼女の杖の先端に薄く魔力が集まり、揺れるように周囲の空間を撫でる。空気の層に滲むような歪みが視界に割り込み、カノエの眉が跳ね上がる。

 

「空間が捩れてる……裂け目が開くわ、前方樹林!」

 

「全員、迎撃陣形!レンナ、東側の高所に移れ!」

 

 ルグランの指示が、即座に陣形へ走る。次の瞬間、霧の向こうで空がねじれ、空間そのものが裂けるような気配が走る。樹々の合間に次元の縫い目がひととき開き、銀色の影が幾つも姿を現す。

 

 ギスヤンキ──異界の戦士たちだ。

 

 前衛には銀の両刃剣を振るうふたりの戦士。その背後、木立の陰には念弾を弧を描いて撃ち出す遠距離型の魔導兵。さらに別の一体が、指を鳴らしながら空間を跳躍し、撹乱位置へ転移してくる。戦術分担の整い方から、場慣れした部隊であることがすぐに分かる。

 

「交差陣で迎え撃つぞ!二列目は斜めに構えて射線を確保しろ!」

 

 ルグランが吼える。その声に応じて、兵士たちは一歩前へ出て交差するように布陣し、敵の接近角度を誘導する。レンナが矢を放つ。しかし、それは霧を抜けた途端に不自然な角度で逸れ、ギスヤンキの頭上をかすめて地に落ちる。薄く、だが確かに存在する念の障壁が張られているのだ。ギスヤンキ魔導兵が、敵の矢を見やりながら呟く。

 

「No direct trajectory. Curvature deflection holding(直進軌道なし。曲面偏向は維持されている)」

 

 その直後、ひとりのギスヤンキ戦士が剣を抜き、接近した巡回部隊の若手兵士へ斬りかかる。斬撃は盾で受け止められるが、兵士の表情が凍りつく。

 

「ッ、思考が……!」

 

 銀の刃が肩口を掠める。痛みよりも先に、頭の中を掻き回されるような違和感が走る。神経伝達そのものを阻害するような精神干渉だ。

 

「トル、回復準備!カノエ、妨害を打ち消せ!」

 

 ルグランの指示が飛ぶ。後衛の司祭が聖典を開き、魔力を籠める。

 

「《ゲイストクラーレ(精神の濁りを払う魔法)》……っ。霧が魔力を……拡散してる……!」

 

 カノエは詠唱を続けるが、霧の影響で魔力の律動が乱れ、詠唱速度が目に見えて落ちていく。霧が媒介となり、精神への干渉効果を引き上げているようだ。ギスヤンキ魔導兵がそれを観察し、仲間へ合図を送る。

 

「Counter-chanting observed. Frequency shift to 0.82(対詠唱動作を確認した。周波数を零点八二に変更)」

 

 次の瞬間、巡回隊を包む圧迫感が一段と増す。前列の若い兵士が頭を押さえて膝をつき、隙を突いたギスヤンキ戦士の刃が盾ごと叩きつける。ルグランが横から盾を差し入れて軌道を逸らすが、列ごと一歩、また一歩と押し下げられていく。トルの回復も追いつかず、円陣の結び目が目に見えて緩み始める。

 

 ギスヤンキの連携攻撃に押され、巡回隊の防御線はじりじりと後退していく──そのときだった。風が逆流するように、霧の流れが変わる。さきほどまでギスヤンキの転移に伴って薄く拡散していた霧とは異なり、密度のある霊的な靄が森の奥から這い寄ってくる。

 

「……何だ、この霧は……?」

 

 カノエの声が再び震える。魔力探知にも反応しない。だが確かに魔を含んでいる。しかも、それはギスヤンキの術式構造とも異なる。

 

「これは……あいつらのものじゃないぞ」

 

 レンナが弓を下ろす。霧の中から現れたのは、首のない騎士たちだ。静かに、音もなく、大地を踏みしめて前進してくる。

 

 そして、中央に立つひとりの少女。淡い桃紫の髪。角。片目に光が宿っていない。歪んだバランスのまま下がったスカート。左手には、あの天秤。

 

「……断頭台のアウラ……!?」

 

 魔法使いのカノエが震える声で名を呼ぶ。

 

「馬鹿な……討伐されたはずだ……!」

 

 ルグランが低く呻く。アウラの指がわずかに動く。次の瞬間、彼女の足元に黒い輪がゆっくりと広がり始める。地面に染み込むように、重々しく波打つ漆黒の魔力。輪は音もなく拡大し、半径十数メートルの範囲を覆い尽くす。

 

 空気が凍りつくような感覚が走る。霧すらもその輪に触れた瞬間、重力に引きずられるように地面へと沈んでいく。生気を奪われる冷たさ──《Circle of Death(死の輪)》だ。これは術者が指定した一点を中心に負のエネルギーが球状に広がり、範囲内にいるあらゆる生物の生命力を無差別に奪い取る死の魔法だ。

 

「下がれッ!」

 

 ルグランが叫ぶと同時に、円の淵に足を取られかけた兵士の一人が膝をつく。その肌が瞬時に蒼白へ変わり、生命が削り取られていく。ルグランは咄嗟に肩を掴み、全身の力で彼を輪の外へと引き戻す。

 

「くっ……体温が……っ、抜ける……!」

 

 引き戻された兵が呻く中、アウラは何も言わず、無感情のまま視線を前方に向けている。まるで、自分が何をしているかすら理解していないかのように。

 

 その瞳の奥には、かつての意志がない。ただ命令通りに動くだけの存在──そう、何かによって動かされている器だ。

 

 ギスヤンキ魔導兵が、霧の向こうのその魔法の動きを観察し、表情を険しくする。

 

「No core focus. No psionic resonance. It's an empty shell(核となる精神焦点がない……サイオニック共鳴も見えない。あれはただの空の器だ)」

 

 その直後、アウラが指を軽く鳴らす。すると、さきほど《Circle of Death(死の輪)》の縁に触れ、生命力を急速に奪われて膝をついていた兵士の身体が、再び不自然に浮かび上がる。

 

「な……何だ……身体が動か……」

 

 兵士は苦しげな呻きを漏らし、まるで見えない手に吊り上げられるように中空へと持ち上がる。その姿勢のまま硬直し、骨が共鳴するように小刻みに振動し始める。

 

「くそっ、離れろ! 引き戻せ!」

 

 ルグランが叫び、他の兵士が伸ばした手は、空中に広がる不可視の力によって弾かれる。

 

「これは……何かに作り変えられてる……!」

 

 カノエが青ざめながら声を絞り出す。兵士の肉体を包む霊的な力は複雑に絡み合い、人の形を保ったまま異質な何かへ変貌しつつある。生命を奪われかけた者を器として、魔力と死霊術が結びつき、新たな兵器を作り出そうとしているのだ。

 

「っ、撤退!再編は無理だ!この場は悪い!」

 

 ルグランが苦渋の表情で撤退を指示する。その目の前で兵士の肉体が徐々に歪み、非人間的な姿へと変わっていく──敵が誰かすら判然としない状況で、戦線の維持など不可能だ。

 

 ギスヤンキ戦士のひとりが、短く仲間に指示を出す。

 

「We withdraw. That entity—whatever it is—is not our ally(退くぞ。あの存在──何であれ、我らの味方ではない)」

 

 そのときだった。霧の中から、誰かが声を聞く。

 

(……みつけて……わたしを……)

 

 幼子のような、壊れたささやき。それが、敵味方を問わず、数名の兵の耳に届く。誰が発したのかは不明だ。ただ、その音だけが、確かに存在している。

 

 声と同時に、アウラの姿が霧ごと掻き消える。首のない騎士と変質した兵士もまた、主の消失と共に霧に溶けるように消えていく。やがてギスヤンキ部隊が撤退後に記録装置を確認したとき、そこにはかすかに黒衣の影が映り込んでいた。

 

 それは星界の者すら恐れる、別の何かの兆候だった。

 

 *

 

 グレーセ森林の木々は深く、昼なお暗い。葉と枝の重なりが空を覆い尽くし、わずかな光しか地表へ届かない。その闇の中を進む防衛部隊の足音は、押し殺した呼吸と鎧の擦れる微かな音だけだ。

 

 騎士隊長のレオンハルトは慎重に歩を進め、周囲へ鋭い視線を巡らせている。中央諸国の要衝であるグレーセ森林で不審な現象が相次いだという報告を受け、彼らはこの森へと派遣されたのだ。

 

 小隊は隊長であるレオンハルト自身と、歴戦の熟練騎士エルンストを除けば、大半が若手や新人の騎士や魔法使いで構成されている。騎士八名、魔法使い二名──実戦経験に乏しく、明らかな不安と緊張を抱えた彼らにとって、今回の任務は初めて直面する過酷な試練となるだろう。

 

「ヘルマン、エルンスト、側面の警戒を怠るな。奴らが近いかもしれん」

 

「了解しました」

 

 レオンハルトの命令に、若い騎士ヘルマンと熟練の騎士エルンストが静かに答える。両名は即座に隊列を調整し、隊の両翼を固めた。魔法使いの女性リディアは後方から部隊全体を視界に入れつつ、魔力を周囲に薄く展開し、探知網を張っている。

 

 しかし、森の気配は徐々に異常さを増していく。

 

「……隊長、妙です。生き物の気配が、まったくない」

 

 騎士エルンストが鋭く囁く。確かに、鳥の囀りや昆虫の羽音、動物の気配が完全に途絶えている。まるで森そのものが恐怖を感じ、息を潜めているかのようだ。

 

「魔力に妙な乱れを感じます。精神への圧迫も、徐々に強く……」

 

 リディアが眉をひそめたところで、言葉が途切れる。彼女は片膝をつき、こめかみを押さえる。

 

「大丈夫か、リディア!」

 

「平気です。ただ……何かが近い」

 

 直後、部隊の前方の空間が不自然に揺らぐ。歪んだような影がいくつも現れ、ゆっくりと実体を得ていく──それはマインド・フレイヤーの群れだった。

 

 灰紫色の肌を持ち、頭部から無数の触手を伸ばした不気味な存在。彼らはまるで音もなく宙を滑り、騎士たちの正面に立ちはだかる。その瞳には何の感情も映らず、ただ人間たちを冷ややかに見つめているだけだ。

 

「防衛線を組め!連携を崩すな!」

 

 レオンハルトが鋭く叫ぶと、隊員たちは即座に反応し、騎士は盾を構えて壁を作り、魔法使いたちは防御呪文の詠唱を開始する。しかし──それよりも早く、マインド・フレイヤーの強力な精神波が部隊を直撃した。

 

【抵抗は無意味だ。我らに道を譲れ】

 

 声ではない。直接脳内に響く念波だ。複数の隊員が呻き、膝を折る。

 

「ぐあっ、頭が……!何だ、この声は……!」

 

 若い騎士ヘルマンはこめかみを押さえ、よろめきながら叫ぶ。その隣にいたエルンストが即座にヘルマンを支え、前方へ盾を突き出した。

 

「惑わされるな、気を強く持て!」

 

 エルンストは半歩前へ出て、ヘルマンを自分の背にかばう。前列の騎士たちも同じように盾を高く上げ、剣先だけを前へ突き出して間合いを保つ。

 

 近づいてくるマインド・フレイヤーの触手が兜の隙間を狙って伸びるたび、彼らは盾の縁や剣の側面でそれを弾き、顔や頭部に触れさせまいと必死に牽制する。だが、防御に意識を割かれ、反撃の余裕はほとんどない。

 

 レオンハルトは指揮を続けるが、精神波の影響で隊の指揮系統はすでに乱れ始めている。盾の列はじわじわと押し戻され、明確な防衛線が維持できなくなりつつあった。

 

 一方のマインド・フレイヤーたちは、指揮らしい言葉を交わすことなく、役割を分担して動いている。後方の個体が広く精神圧を展開し、前衛の個体はゆっくりと間合いを詰めてくる。静かな狩りを行う捕食者のように、人間たちの精神が弱り切るのを待っているかのようだ。

 

「隊長、このままでは──」

 

「持ちこたえろ!絶対に防衛線を崩すな!」

 

 レオンハルトは激しく叱咤するが、心の底では自身も強烈な恐怖を感じていた。ここで抵抗をやめれば隊は壊滅する。だが、この状態が続けば、やがて精神が崩壊し、自滅に至るだろう。

 

 だが、その時だった。

 

 周囲に満ちていた重苦しい精神波が、唐突に乱れ始める。雑音のような不快な震動が広がり、マインド・フレイヤーたちも動きを止め、警戒するように周囲を探った。

 

「これは……何だ……」

 

 森の奥で木々の影が一斉に揺れ、その向こうから、それまでとはまったく質の違う気配が一気に押し寄せてきた。

 

 地面に這うような冷気を伴いながら闇の中から姿を見せたのは、一体の巨大な魔族だ。その体躯は人間の騎士たちを遥かに上回り、重厚な鎧をまとった屈強な騎士エルンストでさえ見上げるほどである。

 

 額から反り上がる二本の骨角、仮面めいた骨の顔面、口元にのぞく牙。腰まで垂れる銀白の長髪が背を覆い、肩には厚い白毛のマント、身には黒の長衣と骨の飾り紐をまとう。逞しい両腕には黒褐色の装飾紋が巻かれ、毛皮の腕輪が縁を飾っている。

 

 「腐敗の賢老」の異名を持ち、史上初の貫通魔法、《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》を生み出した魔族──クヴァール。彼の術は人間に解析され、のちに《ゾルトラーク(魔族を殺す魔法)》として逆用され、フリーレンたちとの戦いの末に討伐された。

 

 だが、そのクヴァールは明らかに異常だ。異形の顔にはいかなる感情も意志も感じ取れず、ただ底知れぬ虚無だけが広がっている。胸部は上下せず、呼吸すらしている様子がない。かつての残忍な魔族は、もはや魔族の形をした死霊の操り人形に成り果てていた。

 

 クヴァールは静かな歩みで防衛線へ近づき、無言のまま巨大な右手を掲げる。その掌に緑色の魔力が一点に凝縮し、次の瞬間、鋭く細い緑色の光線──《Disintegrate(分解)》が一直線に走った。ヘルマンは反射的に盾を持ち上げようとするが、その前腕に光が触れた途端、鎧と肉が音もなく灰色の粉へ変わり、ぱらぱらと崩れ落ちる。

 

 そのまま胸に光線が貫通すると、全身に細かな亀裂が走り、身体そのものが乾いたきしみを立てて崩壊していく。《Disintegrate(分解)》は、触れた対象の肉体も装備も、骨までも一息のうちに塵へ変える解体の魔法だ。若い騎士ヘルマンは悲鳴を上げる暇もなく、その輪郭ごと細かな灰となり、足元の地面にさらさらと降り積もった。

 

「ヘルマンッ……!」

 

 エルンストが悲痛な叫びを上げる。しかしクヴァールの表情は微動だにしない。その右手が再び上がったとき、マインド・フレイヤーたちは明らかな恐怖を示し、一斉に後方へ退き始めた。

 

【これは我らのものではない。強制された死霊接合の臭いがする】

 

 明らかな動揺を残し、マインド・フレイヤーたちは精神波を遮断しながら消え去る。

 

「撤退だ!生き残った者は後退せよ!」

 

 レオンハルトは即座に撤退命令を出した。部隊は散開しながら後退を始めるが、クヴァールは追撃してこない。まるで次の命令を待つ人形のように、その場で沈黙を保つだけだった。

 

 やがてクヴァールの背後の空間が歪み、濃霧が彼を包み込む。その背後に黒衣の人影が一瞬だけ現れ、そして共に消えた。

 

 レオンハルトたちは命からがら森を脱したが、この異常な戦闘が新たな脅威の始まりに過ぎないことを、誰もが予感していた。

 

 *

 

 アストラル界を漂う巨大要塞都市トゥナラスは、死した神の石化した巨体の上に築かれた城塞都市だ。ギスヤンキという種族の拠点であり、通常の重力に縛られず、無限に広がる銀色の空間の中を静かに漂っている。

 

 外周部には尖塔や城壁が幾重にも重なり、その周囲には次元を渡ることが可能な銀色の艦隊が整然と待機している。艦船はいずれもアストラル航行用に改造され、船体の側面には呪文式と戦標が刻まれている。

 

 トゥナラスの中央に位置する大広場は、今日、特別な活気を帯びている。数千のギスヤンキ戦士が整然と隊列を組み、その甲冑は銀色の光を反射してきらめいている。一人一人が特異な形状の曲刀を携え、かつて自分たちを支配した敵への強い憎しみを胸に抱いている。

 

 空中には銀色の光を帯びた艦隊が無言で浮かび、薄い靄のようなアストラルの雲間に散開している。その巨大な艦艇群が微かな魔力の揺らぎを放ちながら、広場の戦士たちを見下ろしている。

 

 広場の中央に置かれた黄金の壇上には、ギスヤンキの軍団を統べる将軍ヴァルドレスが立っている。深紅のマントを翻し、細かな金細工が施された重い甲冑をまとったその姿は、明確な威圧感を放っていた。ヴァルドレスの鋭い眼差しが一人一人の戦士を順に捉え、場に静けさが満ちていく。

 

 将軍が静かに腕を上げると、広場のざわめきが瞬時に止む。その口元がゆっくりと開かれ、広場の隅々に届く声が響き渡る。

 

「我らギスヤンキは長きに渡り、アストラル界の覇者として自由を謳歌してきた。遥か昔、我らの自由を奪い、忌まわしい支配の鎖を巻き付けた宿敵──マインド・フレイヤーを打ち破り、我らはその鎖を断ち切った。そして、アストラルの虚空は我らのものとなった!」

 

「栄光あれ!」「ギスヤンキに自由を!」

 

 兵士たちが一斉に曲刀を掲げ、鋭い歓声を上げる。広場全体の空気が一気に熱を帯びる。

 

「だが今、再び忌まわしき敵どもがその触手を伸ばし、我らが領域を脅かそうとしている。奴らは過去の支配を取り戻そうとし、我々の自由を再び奪おうと企んでいる!」

 

「許すな!」「奴らを殲滅しろ!」

 

 苛烈な表情を浮かべた兵士たちが、怒りを隠さずに応じる。ヴァルドレス将軍はその反応を受け止め、言葉を続ける。

 

「奴らは新たな次元、閉ざされた原始世界に目をつけたとの報告があった。その世界には強力な魔族という種族が存在し、奇妙な魔力が満ちているという。奴らがこの世界を支配すれば、我々にとって計り知れぬ脅威となる!」

 

 兵士たちの間にざわめきが走る。

 

「何だと……」「新たな敵か……」

 

 将軍はゆっくりと手を挙げ、再び沈黙を促す。

 

「だが焦ってはならぬ。その次元への侵攻には長期にわたる準備が必要だ。次元座標の特定、界門の安定化、兵站網の整備──我々は万全を期してからその戦いに臨む!」

 

 ヴァルドレス将軍は視線を鋭くしたまま、語気を強める。

 

「我々ギスヤンキの戦いは、短期の勝利だけを求めるものではない。我らの目標は永続する自由と勝利だ。そのために必要な準備は決して無駄にはならない。これは栄光へと至る確かな土台である!」

 

 将軍が曲刀を高く掲げると、兵士たちはその言葉に応じて再び歓声を上げる。広場は熱気と叫びで満たされる。

 

 やがて演説を終えて壇上を降りると、ヴァルドレス将軍は側近の士官に小声で囁く。

 

「直ちに強襲制圧班を編成せよ。敵地に侵入し、強行制圧と陣地確保の準備を進める。魔族の存在する次元を奪取するには、マインド・フレイヤーよりも迅速でなければならぬ」

 

 側近は短く頷き、命令を伝えるために足早に持ち場へ戻っていく。

 

 一方、トゥナラスとは対極の位置にある地下深く、闇に閉ざされた大空洞オリンドールでは、別の動きが始まっている。

 

 オリンドールは、地表から遠く離れたアンダーダーク深層部に築かれたマインド・フレイヤーの都市だ。光が届かない広大な地下空洞に、生物的な要素と石造りの構造物が融合した建築物が密集し、薄暗く湿った通路が迷路のように張り巡らされている。壁や天井には有機的な繊維のようなものが絡みつき、ところどころでゆっくりと蠢いている。

 

 その中枢には、エルダーブレインと呼ばれる巨大な脳が浮かぶ水槽状の施設がある。淡く緑がかった光を放ちながら、巨大な脳がゆっくりと脈動し、水槽内を漂っている。

 

 このエルダーブレインは、オリンドールに属するマインド・フレイヤーたちの精神を統率する存在であり、その周囲には無数のマインド・フレイヤーが整然と立ち並んでいる。彼らは触手をゆっくりと揺らしながら、上位意識からの精神波動を待っている。

 

 突如として、エルダーブレインの表面が激しく波打つ。強い精神の波動が四方に広がり、全てのマインド・フレイヤーにその意思が直接流れ込んでいく。

 

【我々の進化を妨げる異端種族、ギスヤンキが再び増長している。奴らはアストラル界を越え、新たな次元の支配を阻止しようとしているが、その試みは無意味である。我々はさらに強大な存在となる】

 

 周囲のマインド・フレイヤーたちは、その声に応じて静かな同意の波を返す。

 

【ギスヤンキは我々の進化を理解できぬ原始的な存在に過ぎない。我々が注目する新たな次元──魔族が跋扈する閉ざされた原始世界こそが、次なる我々の進化を約束する鍵となる】

 

 エルダーブレインの意識が続けて語りかけると、マインド・フレイヤーたちの間に静かな高揚が広がる。

 

【その次元には強力な魔族、人間、エルフ、その他多くの未統一の個体意識が乱立している。これらは個別の脆弱な精神しか持たず、我々の精神統合の前に容易く崩壊するだろう。個体意識の断片は、我々の集合意識に新たな力をもたらす】

 

 マインド・フレイヤーたちが一斉に共鳴し、精神の波を返す。

 

【統合せよ】【我々こそが唯一の精神】【彼らは抵抗できない】

 

 エルダーブレインの精神波動がさらに強く響く。

 

【しかし、新たな次元への侵略は急いではならない。永続する統合と真の進化を達成するためには、準備が必要だ。界門の安定化、次元間の精神波動の調整、現地生命体の詳細な分析と適応進化──これらが整ったとき、我々は次の段階へ至ることができる】

 

 マインド・フレイヤーたちは一斉に触手を動かし、明確な同意の波を送る。彼らに焦りはない。完全さを優先する彼らにとって、時間は制約ではなかった。

 

 その時、エルダーブレインの意識が一瞬だけ未知の思考を感知する。わずかに異質な精神波に対して、慎重な警戒が生じる。

 

【警戒を怠るな。未知の波動が感知された。この存在について徹底的に探求し、我々の進化を妨げる可能性があるならば、即座に排除せよ】

 

 周囲のマインド・フレイヤーたちは即座に反応し、警戒の波動を全体で共有する。

 

【未知の波動を分析せよ】【我々の進化を阻む存在は排除する】【進化に妥協はない】

 

 エルダーブレインはすぐに安定した脈動を取り戻し、静かに命じる。

 

【準備を急げ。我々の進化に遅れは許されない。全てが整った時、我々の精神はさらなる高みに到達する】

 

 マインド・フレイヤーたちは再び同意の波を送り、それぞれが担当する作業へと戻っていく。水槽内のエルダーブレインは静かに脈動を続けながら、意識を広げていく。

 

 未知の世界への本格的な侵略は、遠くない未来に必ず訪れる。双方の陣営は、その日のために静かに力を蓄え始めていた。

 

 *

 

 星々が瞬き、無数の次元が重なり合う空間に、多元安定機構の次元監視室がある。そこは宇宙全体を見下ろす観測所で、天井も壁もなく、視界の果てまで星々が散らばる空間が続いている。空中には淡い光を帯びた巨大なホログラムがいくつも浮かび、数多の世界を映し出しながら、魔力の結晶体がゆっくり回転して光を放っている。

 

 その中心では、調整者と呼ばれる者たちが低い声で情報を交換している。その輪の中に主任調整者アルヴァンの姿がある。細身の長身に白いローブをまとい、黒い長髪と年齢の読めない深い紫の瞳を持つハイ・エルフだ。落ち着いた表情には、数百年にわたり多元宇宙を監視してきた者特有の威厳がにじむ。アルヴァンは柔らかく片手を上げ、調整者たちに報告を促した。

 

「状況報告をまとめてくれ」

 

 その声に応じて、若い調整者が一歩前へ出る。名はフィンリアス。ウッド・ハーフエルフで、調整者になってまだ日が浅いが、知的好奇心が強く、鮮やかな緑の瞳と金色の短髪が印象的だ。耳はわずかに尖り、薄い褐色の肌には森林に暮らす種族の特徴が表れている。フィンリアスは白銀の制服の襟を正し、慎重な声で報告を始めた。

 

「現在、アストラル界に勢力を持つギスヤンキと、地下世界に巣を張るマインド・フレイヤーが、それぞれ過去に例のない規模の侵攻作戦を準備している模様です。いずれも時間をかけて慎重に軍勢を編成している段階ですが、その規模は極めて大きく、どちらも重大な脅威になり得ます」

 

 アルヴァンがゆったりと頷き、問いを重ねる。

 

「具体的な兵力数の推測は?」

 

 フィンリアスは静かに首を振る。

 

「詳細な数値の特定は困難です。ただ、いずれの勢力も今までにない規模であり、大規模な精神支配軍や次元艦隊を投入する可能性が高いと考えられます」

 

 アルヴァンは言葉を選びながら、落ち着いた声で続ける。

 

「我々、多元安定機構はギスヤンキやマインド・フレイヤーのような大軍勢を持たない。正面から戦力で衝突するのは不可能に近い」

 

 周囲の調整者たちが一斉にうなずく。彼らはあくまで観測と報告を任とする存在で、正面から戦うことは本分ではない。少し間を置いて、フィンリアスが言葉を継いだ。

 

「また、両勢力が侵攻対象としている次元の創造者である女神の意向は、守護の神ヘルムを介し、彼の信徒が執り行った《Commune(神託)》を通じて当機構に通達されています。女神は多元安定機構による大規模介入を控えるよう強く求めており、理由は明示されませんでしたが、自らの世界の住人たちに脅威を乗り越えさせたい、世界の自律性を重んじたいという趣旨と解されます」

 

 アルヴァンは目を細める。

 

「──あくまでも理由は推測ということか。ほかに通達は?」

 

「当機構に対する直接の要請はありません。ただし、ヘルムからは、特定の神々の《Chosen(選ばれし者)》が少数送り込まれる旨のみが通達されています。その選定と投入の裁量は各神格に委ねられており、詳細は不明です」

 

 アルヴァンは短く頷いた。

 

「つまり我々は英雄の選定や投入には関与しないということだな。女神の意向を尊重する必要がある」

 

 別の調整者が口を開き、疑問を投げかける。

 

「しかし、状況がさらに悪化した場合、我々にはどのような判断基準があるのでしょうか?」

 

 アルヴァンは声の調子を変えずに答えた。

 

「我々が強硬手段を検討するのは、対象次元が完全に崩壊し、それが次元間秩序そのものに深刻な影響を与える場合、あるいは侵略側が対象次元を足掛かりに、多元宇宙全体を脅かす恐れが明らかとなった場合のみだ。あくまでもこれは我々自身が定める基準であり、女神から提示されたものではない」

 

 調整者たちは黙ってうなずき合う。

 

「現状で我々に求められるのは、徹底した監視と情報収集だけだ。対象次元の自律性を損なわないよう、介入は最低限に控える。あくまで我々は監視者としての役割を全うすることが重要だ」

 

 アルヴァンの方針に、調整者たちはそれぞれ小さく了承の意を示す。やがてフィンリアスが、表情を引き締めて新たな報告を口にした。

 

「もうひとつ、確認しておくべき案件があります。以前、任務中に対象次元に取り残された境界特務部のエージェント、タヴについてです」

 

 アルヴァンの紫の瞳がわずかに細まり、視線で続きを促す。フィンリアスは微かな戸惑いを押し隠しながら、話を続けた。

 

「彼の救出活動はこれまで一切行われていません。取り残された次元自体が非常に強固に隔離されており、次元干渉が極めて困難であることがその大きな理由ですが──」

 

 フィンリアスはいったん言葉を区切り、慎重に続ける。

 

「彼の所属していた境界特務部は、その性質上、上下関係や規律が非常に厳格であり、タヴ自身の出自、あるいは彼が過去に魔力の制御を失い暴走した経験などが問題視され、隊内で疎まれていたことも影響しているようです」

 

 その報告に、調整者たちが視線を交わす。アルヴァンはゆっくり息を吐き、重い口調で答えた。

 

「タヴか……。彼は混沌の傾向がある。組織内の規律や秩序よりも、自分の感情や意志を優先することもあった。だがそれが、彼の特性でもあり、力の源でもあるのだろう」

 

 フィンリアスはうなずき、探るような目を向ける。

 

「その性質が、今回のような事態において、どのような影響を及ぼすかが懸念されます。ですが、封鎖次元にいる彼に対し、我々が直接干渉することは不可能です。干渉どころか、観測さえも困難で……」

 

 アルヴァンは視線をスクリーンに戻し、結論を述べた。

 

「その通りだ。彼の運命について、我々が今できることは何もない。結局のところ、タヴ自身がどう動き、何を選択するかを、我々は見守るしかないだろう」

 

 その言葉が監視室に静かに行き渡る。調整者たちは再び声を発さず、それぞれの端末やスクリーンに目を戻す。

 

 次元監視室には、緊張を含んだ静けさが広がる。遠くの星々がかすかに瞬き続ける中、アルヴァンは次元地図から目を離さず、短く息を吐いた。混沌と秩序、感情と規律が、タヴという一人の行動を通してどう噛み合い、どこへ向かうのか。彼にできるのは、その成り行きを観測者として見届けることだけだ。

 

 多元安定機構に許された役割は、あくまで監視者としてのものにとどまる。どれほど不安や懸念があっても、最終的な運命を決めるのは、その世界に生きる者自身だ。アルヴァンは胸の奥にわずかな苦みを覚えながらも、自分に言い聞かせるように、その方針を改めて受け入れた。

 

 *

 

 湖に浮かぶ魔法都市オイサーストが眼前に広がっている。フリーレン、フェルン、シュタルクの三人は、都市へと続く広い石橋をゆっくりと渡っている。オイサーストへ入る前に、タヴはゼンゼやゲナウたちと共に手続きのため一足先に別れた。検知結界の調整と身分証の発行が必要だと説明されている。

 

 石橋を渡り切り、三人が都市へ足を踏み入れた瞬間、肌に触れる空気がぐっと重く変わる。視界に映る光景は、フェルンの心に深く刻まれた幼い日の記憶を容赦なく呼び覚ますものだ。路地の曲がり角や建物の入り口には整然と隊列を組んだ兵士が立ち、表情を殺した目で往来する人々を見つめている。

 

 通りを歩く市民の足取りは重く、不安と恐怖がその背中からにじみ出ている。どこか遠くで衛兵たちが鋭い口調で言葉を交わす声が微かに響き、そのたびにフェルンの背筋がぞくりと震える。

 

 幼い頃、故郷が戦火にさらされ、両親を失った時も、まさにこんな空気だった。炎に飲まれた家々、逃げ惑う人々の絶叫、そして大人たちの瞳に浮かんでいた絶望の色──フェルンは今、再びその時の光景を幻視しているかのようだ。

 

「すごい警備です……まるで、本当に戦争が始まったかのようで……」

 

 フェルンの声はわずかに震えている。胸の奥の不安を吐き出すように、言葉を絞り出しているのだ。彼女の指は無意識のうちに震えたまま拳を握り締め、爪が痛いほど手のひらを押している。

 

 シュタルクはそんなフェルンの様子に気づき、心配そうに視線を送る。フリーレンがそれを横目に見て、そっと静かな口調で答える。

 

「北側諸国で頻発している異界からの侵入者。都市がこうなるのも当然だよ。協会は警戒を緩めないだろうね」

 

 その言葉にフェルンは黙って頷く。しかし、恐怖に震える心は容易に静まらない。幼き日に味わった無力感や絶望が、彼女の胸を再び締め付けてくる。

 

 目の前を歩く若い母親が子どもの手を強く引き、衛兵の前を足早に通り過ぎていく様子が視界の端に映る。フェルンは、かつての自分の姿をそこに重ねてしまう。

 

 シュタルクが眉を寄せながらフリーレンに尋ねる。

 

「こんな状態で、本当に一級魔法使いの試験なんてやるのか?」

 

 フリーレンは淡々と、しかし確信を込めて答える。

 

「むしろ、こんな状況だからこそ実施するんだよ。今、優秀な魔法使いが必要とされているだろうからね」

 

 フリーレンたちが一級魔法使いの試験を受けようとしているのには、はっきりした理由がある。彼女たちが目指すのは、大陸の最北端に位置する地。陸路でそこに至るためには、北部高原を抜けなければならない。

 

 しかし今では情勢の悪化に伴い、外部の人間が高原を通過するには一級魔法使いの同行が義務づけられている。三人は試験の受験登録を済ませるために、大陸魔法協会北部支部に向かっていた。

 

 フリーレンたちは通りを抜け、協会の各施設が並ぶ坂道を登っていく。やがて都市の最奥部、小高い丘の上に大陸魔法協会北部支部が堂々と姿を現す。街全体を見下ろす位置にある巨大な石造りの建物だ。湖に囲まれた堅固な城壁の内側に建ち、真っ白な塔は都市を見張るように凛とした威厳を放っている。

 

 フリーレンたちはその建物に入り、受付へと向かう。試験について尋ねると、若い女性職員が丁寧な口調で手続きを案内し始める。

 

「試験は二か月後になります。一級魔法使いの試験は三年に一度の開催ですのでご注意ください。また、受験資格として五級以上の魔法使いの資格が必要になります」

 

 その説明を聞くと、フリーレンは途端に興味を失ったように、くるりと背を向けてその場から離れようとする。もとより彼女は、大陸魔法協会の認定資格を一つも持っていない。

 

 さらに都市に入る前、フリーレンはゼーリエに訪問の目的を問われ、一級魔法使いの試験を受けるつもりだと伝えている。そのときゼーリエからは、試験への参加をはっきり禁じられた。「おまえが試験に参加すれば、試験の公平性が著しく崩れる」と告げられたのだ。

 

 だが、その背を慌てて追ったフェルンが、不安そうにフリーレンの耳元で囁く。

 

「フリーレン様、私一人じゃ無理です」

 

 フリーレンは気楽な口調で答える。

 

「いけるって。フェルン、任せたから」

 

 フェルンは不安げな顔を崩さず、さらに言う。

 

「落ちたらどうするつもりですか?一級試験は三年に一度なんですよ」

 

 フリーレンは軽く肩をすくめて淡々と答える。

 

「そしたら一級魔法使いを雇うか、海路で渡るよ」

 

 フェルンはますます困ったように眉を寄せる。

 

「それだと凄くお金がかかりますよ。また毎日おやつ抜きになってしまいます」

 

 フリーレンは少し間を置いて考えるそぶりを見せると、ぽつりと呟く。

 

「……とは言っても、ゼーリエにも止められてるし、どうせ私は無資格だからそもそも受けられないよ」

 

 フリーレンが気にした様子もなく言い放つと、フェルンはため息をつきつつも、納得したように小さく頷く。

 

 受付職員は一連のやりとりを聞いていたのか、フリーレンたちに少しためらいながらも慎重な口調で付け加える。

 

「念のためお伝えいたしますが、今回の一級魔法使いの試験は通常とは異なり、厳戒態勢の中で実施されます。試験場には複数の警備結界と、多数の魔法使いや衛兵が配備される予定です。受験者に対し、魔力検査が行われる可能性もあります。ご了承ください」

 

 シュタルクが不満げに呟く。

 

「魔法使いの試験なのに、まるで要人警護か何かみたいじゃないか」

 

 フェルンは不安そうに再びフリーレンを見つめるが、フリーレンは静かな声で答えるだけだ。

 

「状況が状況だからね。でも、フェルンならきっと大丈夫」

 

 フリーレンの静かな言葉に、フェルンはほんの少しだけ肩の力を抜いたように見える。その表情にはまだ不安が残っているが、それでも師匠であるフリーレンにそう言われると、わずかに勇気が湧いてくるのを感じる。

 

 シュタルクは二人を交互に見ながら、やれやれとでも言うようにため息をつく。

 

「何にしても俺にできることはなさそうだな。魔法なんてさっぱり分からんし……」

 

 フリーレンは彼を一瞥し、淡々とした調子で返す。

 

「そうでもないよ。こういう時だからこそ、シュタルクみたいな頼りになる戦士がいてくれると助かるんだ」

 

 シュタルクは予想外の言葉に面食らったように瞬き、すぐに照れたように視線を逸らした。

 

「何だよ急に……まあ、そう言ってもらえるのは嬉しいけど」

 

 フェルンはそのやり取りを微笑ましげに見ながらも、再び気を引き締めて考え込む。

 

「ところで、一級魔法使いの試験って、具体的に何をするのでしょうね……」

 

 フリーレンはそんなフェルンを見て、軽く首を横に振る。

 

「さあ、私に聞かれても困るよ。大陸魔法協会という組織自体、私は最近まで知らなかったくらいだからね」

 

 フェルンの顔には、再び不安の色が浮かぶ。彼女は困惑したように呟く。

 

「それじゃあ、どうやって準備をすればいいのでしょう……」

 

 フリーレンは少し考え込んだあと、何かを思いついたように指を立てて言う。

 

「せっかくだから協会の文書館に行ってみよう。協会が管理している資料なら、過去の試験の傾向や出題内容に関する情報も揃っているかもしれない」

 

 フェルンの表情がぱっと明るくなる。

 

「それはいいですね。少しでも情報があれば心強いです」

 

 シュタルクも腕組みを解き、頷く。

 

「俺も暇だから付き合うよ。どうせ、他にやることもないしな」

 

 フリーレンは二人を見回し、静かな笑みを浮かべる。

 

「じゃあ決まりだね。早速、文書館へ向かおうか」

 

 三人は足並みを揃えて大陸魔法協会北部支部を後にする。まだ緊張感が解けない都市の空気の中で、それでも彼らは前向きな気持ちを胸に秘め、これから始まる一級試験の準備へと歩み出していく。

 

 *

 

 タヴはオイサーストの城門の外で、慎重な表情のまま足を止めている。その隣には、大陸魔法協会の一級魔法使いであるゼンゼとゲナウが静かに控えている。三人が立っている地点は、この都市全体を覆う検知結界のごく手前だ。ゼンゼは細い指先を上げ、都市を取り囲むように広がる目に見えない壁の位置を示した。

 

「オイサーストには検知結界というものが張られている。異界の魔力を持つ君がそのまま入ると、警報が鳴ってしまうからな」

 

 ゼンゼは少女のような華奢な体つきだが、その長く美しい髪には不思議な威圧感が宿っている。冷たく落ち着いた視線は、タヴの内面を慎重に探るように注がれていた。ゲナウが静かに言葉を継ぐ。彼は常に冷静で表情を崩さないが、その声音にはどこか落ち着いた安心感がある。

 

「だが安心しろ。これからお前の魔力の波長を調整すれば、結界に干渉されることはなくなる」

 

 タヴは二人の説明に短く頷き、もう一度、高い城壁とその内側の街並みを見上げた。

 

「手間をかけて悪いな。協力してもらえるのは助かる」

 

 ゲナウは小さく頷き、門の脇を顎で示す。

 

「では行こう。結界調整施設はこの門のすぐ外側だ」

 

 三人は城門前から離れ、すぐ脇にひっそりと建てられた石造りの堅牢な施設へと歩を向ける。入口には二名の衛兵が配置されており、ゼンゼとゲナウの姿を認めると直立不動の姿勢で敬礼した。二人は軽く返礼し、衛兵に施設内への入場許可を告げる。衛兵が即座に重い扉を押し開け、三人は中へと通された。

 

 施設の内部には冷ややかな空気が流れ、廊下の先にある魔力解析室では、複雑な幾何学模様を刻んだ魔法陣と、淡い光を放つ結晶体が整然と並んでいる。複数の技術者がそれぞれの持ち場で準備を進めていた。

 

「ここだ」

 

 ゲナウが室内中央の魔法陣を指さし、タヴに中へ入るよう促す。タヴは素直に従い、魔法陣の中心へ歩み出て静かに立った。ゼンゼは手元の書類を一瞥し、周囲の技術者たちに指示を飛ばす。

 

「準備はいいか? 魔力を普段通りに流してくれ。君の特異な魔力特性を解析して、都市の検知システムから除外する調整をする」

 

 タヴは静かに息を整え、身体の内側から魔力を自然な形で滲み出させていく。すると足もとの魔法陣と周囲の結晶が青白い光を帯び、小刻みに振動を始めた。技術者たちは魔力の反応を見逃さないよう、真剣な表情で計測器と記録紙を見比べている。

 

 ゲナウが淡々とした口調で感想を漏らした。

 

「……本当に特異な魔力だな。波長がこちらの魔法体系と大きくずれている……」

 

 ゼンゼもわずかに目を細めて同意する。もともと表情の変化が少なく口調も厳しい彼女だが、その顔付きはいっそう険しくなっていた。

 

「これでは通常の結界では確実に検知されてしまうな。多少、複雑な調整が必要になりそうだ」

 

 ゼンゼはさらさらとペンを走らせ、細かな魔法式を書き込んだ紙を代表の技術者へ渡す。

 

「彼の魔力波長を、都市の結界システムの例外処理に登録してくれ。既存の検知体系とは干渉しないよう、別の層で魔力波長を管理するんだ」

 

 技術者たちはすぐさま術式の構成と調整に取りかかり、魔法陣の結晶が規則的な間隔で淡く点滅し始める。タヴは、自分の魔力の輪郭が外側からわずかに押しならされていくような、微かな違和感を覚えた。その表情の揺らぎを見て取ったゼンゼが、珍しく気遣うような声音で言う。

 

「少し不快かもしれないが、じきに慣れる。君の魔力そのものには手を加えていないから、心配はいらない」

 

 やがて調整が終わり、結晶の光が静かに収まる。ゲナウが魔法陣の反応と記録を確認し、結論を口にした。

 

「うまくいったようだな。これでお前の魔力は、オイサーストの検知結界に反応しなくなったはずだ」

 

 タヴは胸の奥の緊張をひとつ吐き出すように、小さく息をついた。ゲナウはそれを見届けると、次の段取りへと話を進める。

 

「次は、お前が都市内で自由に動けるように身分証を発行しよう」

 

 三人は魔力解析室を出て、隣接する事務室へ移動する。ゲナウが棚から特別な金属製のカードを一枚取り出し、机の上の小さな魔法陣の中央にそっと置いた。低く呪文を唱えると、魔法陣が淡く輝き、カードの表面に精緻な魔法文字がゆっくりと浮かび上がる。魔力の刻印が落ち着くにつれ、カードは安定した淡い光を帯びた。

 

「これがお前専用の身分証だ。都市内の衛兵に提示すれば、協会が管理する共有施設には自由に入れる。特に今は厳戒態勢だ。市民の夜間外出は制限されているから、夜に兵士に止められた時も必ずこれを見せろ。いちいち説明する手間も省ける。紛失は厳禁だぞ。慎重に扱え」

 

 タヴはカードを受け取り、刻まれた細かな紋様を確かめてから、丁寧に頭を下げる。

 

「感謝する」

 

 ゼンゼは表情を崩さぬまま、淡々と告げた。

 

「君が協力的で良かったよ。異界からの侵略者とやらのせいで、この都市もかなり敏感になっているからな」

 

 そこでゲナウがふと問いかける。

 

「この後はどうするつもりだ?」

 

 タヴは少しだけ視線を落としてから、率直に答えた。

 

「まずはこの世界について詳しく知りたい。魔法や歴史に関する資料がある場所は知っているか?」

 

 ゲナウは頷き、落ち着いた調子で説明する。

 

「それなら協会が管理している文書館を訪れるといい。支部の西棟にある巨大な建物だ。先ほどの身分証を提示すれば入館可能だ」

 

 ゼンゼが鋭い眼差しのまま、念を押すように言った。

 

「大丈夫だとは思うが、騒ぎを起こすなよ。私は他にも仕事があるから、君のために時間を取られるのは御免だからな」

 

 タヴはわずかに口元をゆるめ、二人の配慮にもう一度礼を述べる。

 

「承知した。迷惑はかけないよう注意する」

 

 二人はその返事に頷き、施設の出口までタヴを見送った。

 

 調整施設を出たタヴは、改めてオイサーストの城門を見上げる。胸の奥の緊張はまだ完全には消えないが、まずは文書館でこの世界についての情報収集を始めると心に決め、身分証を確かめてから都市へ向けて一歩を踏み出した。

 

 *

 

 大陸魔法協会北部支部に隣接する文書館は、歴史ある荘厳な石造りの建物だ。正面入り口をくぐると、静寂と重みのある空気が内部を支配している。高い書架には魔導書や古文書が整然と並び、微かな埃と古紙の匂いがひっそりと漂っている。

 

 フリーレン、フェルン、シュタルクの三人は、試験に関する情報を集めるために文書館を訪れている。フェルンは資料を求めて書架の間に歩み込み、魔法試験に関連する書物を慎重に手に取る。フリーレンは静かに周囲を見回しながら、手元の書物のページをめくっていく。

 

 フリーレンが資料に目を落としたまま、静かに呟く。

 

「大陸魔法協会の規定だと、魔法使いは一般的に五級から一人前と呼ばれているみたいだね」

 

 続けてフリーレンは何気ない様子で問いかける。

 

「フェルンはなんで三級を取ったの?」

 

 少し離れた書架で本を探していたフェルンが振り返り、淡々と答える。

 

「一番試験の日程が近かったからです」

 

 フェルンの返答はいつものように簡潔で、余計な言葉が一切ない。その短いやり取りに、フリーレンは口元をわずかに緩める。シュタルクは机に頬杖をつき、退屈そうに目を閉じたまま、その会話に特別な反応を示さない。

 

 フリーレンは次の本を抜き出し、興味深げに目を細める。

 

「五級以上の魔法使いの総数が六百人。見習いの六、九級を含めても全体で二千人か。その内一級は四十五人。一級試験は三年に一度で、オイサーストの北部支部と聖都シュトラールの本部の二か所で開催」

 

 彼女は淡々と資料の内容を読み上げながら、ゆっくりとページを送っていく。

 

「合格者が出ない年も多い。当たり前のように死傷者も出ている。それなりの難関だね」

 

 フリーレンはそう告げると書架の方へ歩き、別の資料をゆっくりと探し始める。少し間をおいて、さらに言葉を継いだ。

 

「それにしても魔法使いも大分数が減ったね」

 

 その言葉を聞き、フェルンはわずかに戸惑いを見せながら顔を上げ、フリーレンの背中に問いかける。

 

「昔はもっと多かったのですか?」

 

 フリーレンは静かに頷いてから振り返り、穏やかな声でフェルンに語りかける。

 

「魔王軍の攻勢が激化した百年前だったら、町を歩けば魔法使いとすれ違うのが当たり前だったからね。今だとこういう魔法都市でもないと見かけない」

 

 フリーレンは一拍置き、資料を見つめる視線にわずかな陰りを宿す。

 

「まあ、今は異界からの侵略者がいるから、今後は百年前より増えるかもしれないけど」

 

 その言葉に、フェルンは表情を引き締め、シュタルクもわずかに目を開ける。静かな文書館の空気の中に、かすかな緊張が混じり始める。これから訪れるかもしれない戦乱の気配が、三人の胸に小さな影を落としている。

 

 フェルンが少し迷いを帯びた声で問いかける。

 

「……私たちは、このまま旅を続けていても良いのでしょうか。状況がどんどん悪くなっているのに」

 

 フリーレンは穏やかに口元を緩め、落ち着いた声で答える。

 

「私たちにできるのは、今目の前にあることを一つ一つやっていくことだけだよ。焦っても仕方ない。私たちの旅の先にも、必ず何かできることがあるはずだから」

 

 フェルンは静かにその言葉を受け止め、小さく頷く。シュタルクは頬杖をついたまま軽くため息を吐き、視線を館内の奥へとさまよわせた。その時、書架の間で資料を探している見知った人影に気づく。

 

 シュタルクは少し驚いた顔になり、二人に小さく声をかける。

 

「おい、あそこにいるの、タヴじゃないか?」

 

 シュタルクの言葉を受け、フリーレンとフェルンもそちらへ視線を向ける。フリーレンはわずかに頷き、ゆっくりとタヴの方へ歩み寄った。

 

「タヴも何か探してるの?」

 

 その声に気づき、タヴはゆっくりと振り返る。一瞬だけ意外そうに目を見開くが、すぐにいつもの冷ややかな表情へと戻った。

 

「元の世界に戻るための糸口を探しているんだ。それにはここの魔法や歴史を知る必要があると思ってな」

 

 その答えを聞き、フェルンはふっと肩の力を抜き、安堵の息を吐く。

 

「タヴ様がここにいるということは、身分証の発行や手続きも無事終わったのですね。良かったです」

 

「ああ、協会の魔法使いが丁寧に対応してくれたからな。これでもうノルム商会領の時みたいに不法侵入しなくて済むな」

 

 タヴは軽く冗談を口にするが、その声には大きな抑揚がなく、どこか疲労の影がにじんでいる。シュタルクは呆れたように頭を掻き、フェルンもわずかに微笑む。タヴは手にした書物の表紙に指先で触れ、《Comprehend Languages(言語理解)》を小さく唱える。

 

 書物が彼の指の下で僅かに光を放つのを見て、フリーレンは感心したように目を細める。

 

「その魔法、本当に便利だね」

 

「そうだな。この世界に来て一番使った魔法かもな。ただ、書くことまではできないからな……。将来のことを考えると、本格的にこの世界の言語を学ばないといけないと思っている。結界内だと発話用の《Tongues(言語会話)》は、上手く動作しないこともあるしな」

 

 タヴは静かな口調でそう説明する。都市に続く橋の前で《Tongues(言語会話)》を用い、ゼンゼとゲナウに声をかけた直後、二人が強烈な不快感を覚えていた光景を今も鮮明に思い出す。言葉は通じていたが、頭の中に意味を直接押し込まれる感覚に顔をしかめていた。その様子を見て、タヴ自身も言語を学ぶ必要性を痛感している。

 

 ゼーリエがかけた《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》の効果は一日ほど持続すると聞いているが、一日おきに彼女を訪ねて再度かけてもらうのは現実的ではない。彼女の性格を考えると、毎回のように通えば間違いなく面倒くさがられるだろう。そのことはタヴ自身も十分理解しており、その事実が胸の奥に微かな焦燥を生んでいる。

 

 フリーレンは申し訳なさそうにまぶたを伏せる。

 

「それがいいかもね。本当はタヴの調べ物や言語習得を手伝ってあげたいけど、二ヶ月後にフェルンが一級魔法使いの試験を受けるから、その対策のために一緒に修行する必要があってね。力になれなくてごめんね」

 

 タヴはわずかに眉間に皺を寄せ、何かを思い出したように口を開く。

 

「一級魔法使いの試験……?ああ、そういえばあんたたちがオイサーストに来たのは、その試験を受けるためだったな。大陸魔法協会の認定資格とか言っていたか」

 

 フェルンは申し訳なさそうに視線を下げる。

 

「そうです……お力になれずに申し訳ありません……」

 

 シュタルクも居心地悪そうに目を逸らす。

 

「正直、俺は魔法も歴史も詳しくないし、言葉に関しても誰かに教えられるような自信はないからな……ごめん」

 

 その言葉を聞き、タヴは軽く手を振ってみせ、素っ気ない調子の中にわずかな気遣いを滲ませて返す。

 

「気にするな。こっちはこっちで何とかするさ」

 

 しばらく他愛ないやり取りが続いたあと、やがてフェルンが意を決したように口を開く。ただ、その声は途中で詰まり、明らかに不安の色を帯びている。

 

「あの……その、タヴ様は、元の世界に安全に戻る方法が分かったら、そのまますぐ帰ってしまうのですか?」

 

 突然の問いに、シュタルクは驚き、戸惑いを隠さずフェルンを振り返る。

 

「フェルン?」

 

 タヴはフェルンの切実な眼差しをじっと受け止め、静かだがわずかに揺れる声で答える。

 

「方法が分かって、即座に実行できるのならそうするつもりだ」

 

 フェルンは迷いを押し殺しながら、さらに言葉を紡ぐ。

 

「それは……異界の軍勢と本格的な戦争が始まっていても、ですか?」

 

 タヴは何かを言いかけて唇をわずかに動かすが、すぐに言葉を飲み込み、口を閉ざす。その瞳に一瞬だけ迷いが浮かぶ。シュタルクもフリーレンも、フェルンが抱く尋常でない不安を敏感に感じ取り、フリーレンが静かに割って入った。

 

「ここで話すことじゃないね。タヴ、今夜私たちが泊まる宿に来ることはできる?」

 

 タヴは小さく頷き、フリーレンから宿の場所を聞き取る。フリーレンはそのあとでタヴの服装をじろりと眺め、いつもの率直な口調で続ける。

 

「あと、タヴはその服を早く着替えたほうがいいよ。ボロボロでどこかの遺跡で放置された古いミイラみたいだよ」

 

 あまりにも率直な物言いに、タヴは疲れたように小さくため息を吐く。

 

「今は金がなくてな……まあ、懐に余裕ができたら考えておく」

 

 シュタルクは頭を抱えつつフリーレンを見やる。

 

「フリーレン……もっと言い方があるだろ……」

 

 フリーレンは気にした様子もなく、淡々と出口に向かって歩き始める。フェルンも静かに一礼し、シュタルクと共にその後を追う。

 

 三人の姿が文書館の奥へ消えたあと、タヴは再び手元の本に視線を落とす。その表情にはいつもより深い影が差し、胸の奥にはフェルンの問いが静かに刺さったまま、小さな痛みとなって残っていた。

 

 *

 

 静寂な空間に、ページをめくる紙の微かな音だけが響いている。文書館の一角で、タヴは無言のまま書物を広げている。机の上にはこの世界の歴史や魔法に関する本が何冊も積まれ、その傍らで彼の指が静かに動いている。

 

 何度か小さく呪文を唱えると、書物が淡く光を放ち、彼の意識へとその意味が浸透していく。これは《Comprehend Languages(言語理解)》という魔法だ。異界の文字を即座に理解できるようになる便利な術だ。

 

 タヴはこの世界に来てから何度か耳にした勇者ヒンメルという人物について記された書物に目を通している。文章によれば、ヒンメルは約八十年前に人類を脅かした魔王を討伐し、その後の世界に平和をもたらした英雄とされている。

 

 名だたる勇者の逸話を数多く知るタヴにとっても、興味を引く人物だ。ヒンメルの名声は依然として各地に残り、この世界の魔法使いたちにも大きな影響を与えていることが書かれている。

 

 彼は続けて別の書物を手に取り、この世界の魔法の開祖とされるフランメという魔法使いの記録にも目を走らせる。そこには、フランメが人類で初めて魔法を体系化し、多くの魔法使いを育て、現在に至る魔法の礎を築いたと記されていた。

 

 魔法というものが体系的に広まり、人々の生活や文化そのものを変えたという点は、タヴの故郷である世界にも類似例があり、彼の興味をさらに掻き立てる。

 

 タヴはこの世界の情勢を正確に把握するため、慎重に情報を集めている。だが、いつまでもここに留まるわけにはいかない。ふと視線を窓へ向けると、西の空に傾いた夕陽が建物の壁に長く影を落とし、その角度と長さから、そろそろフリーレンが指定した宿へ向かうべき頃合いだと判断する。

 

 書物を静かに閉じて席を立とうとしたその時、入口のほうから落ち着いた足音が響く。タヴが無意識に目を向けると、一人の老人がゆったりと書架の間を進み、蔵書を眺めるふりをしながらこちらへ近づいてくるのが見えた。

 

 老人は柔らかな白色の髪を肩に流し、上品な白い外套をまとっている。歳を重ねた顔立ちには穏やかな皺が刻まれ、澄んだ眼差しは深い知性と慈愛を感じさせる。やがてタヴのそばの棚の前で立ち止まり、何気ない様子で書物を一冊抜き取り、ページをめくり始めた。その動きには無駄がなく、偶然を装っていながらも、最初からこの位置を選んでいたことがうかがえる。

 

 数瞬の沈黙の後、老人がふと顔を上げ、今気づいたかのようにタヴへ視線を向けると、穏やかな笑みを浮かべて会釈する。

 

「失礼しました。集中されていたのに、邪魔をしてしまったようですね」

 

 老人は柔和な声で詫びを述べ、そのままゆっくりと自己紹介を続ける。

 

「私はレルネンと申します。大陸魔法協会で一級魔法使いを務めております。ゼーリエ様の弟子でもあります」

 

 ゼーリエ──その名前を聞き、タヴは僅かに目を細めた。

 

「ゼーリエの弟子か……俺に何か用か?」

 

 レルネンは穏やかに頷き、控えめな表情のまま言葉を重ねる。

 

「タヴ様ですね。ゼーリエ様からお話を伺っておりましたが、まさかここでお会いできるとは。不思議な巡り合わせもあるものですね」

 

 タヴは淡々と視線を返し、率直に答えた。

 

「偶然にしては、随分と自然な近づき方だったな」

 

 レルネンは微笑を深め、小さく肩をすくめて素直に認める。

 

「やはりお見通しでしたか。申し訳ありません。実は少し前からあなたのことをお見かけしていて、ぜひ一度お話をしてみたいと思っていたのです。ゼーリエ様があれほど興味を抱く人物を、この目で見ないわけにはいきませんので」

 

 その穏やかで誠実な態度に、タヴはわずかに警戒を緩め、軽くため息を吐いて頷いた。

 

「……まあ、邪魔をしない程度なら、話くらいは聞こう」

 

「ありがとうございます。……先ほどあなたが使われていた魔法は、我々のものとは随分違うようですね。翻訳系の魔法ですかな? 私も魔法使いの端くれとして、非常に興味があります」

 

 レルネンは礼儀正しく問いかける。タヴもこの世界の魔法に興味を持っているため、互いに簡単な質問を交わした。レルネンの返答は明快で的確だ。その知識量と誠実な態度に、タヴは内心で少なからず感心する。やがて話題が自然に移り、ゼーリエの話になる。タヴは率直な疑問を口にした。

 

「ゼーリエというのは一体どんな人物なんだ? 何度か話したが、どうも掴めない」

 

 レルネンは微かな苦笑を浮かべ、穏やかに答える。

 

「ゼーリエ様は偉大な方です。ただ同時にとても面倒くさい方でもあります。私も長く師事していますが、未だ完全には理解できていません。……ですが、魔法への探求心やその情熱は本物でしょう」

 

 タヴは納得するように軽く頷く。ゼーリエの言動を思い返せば、その評価は確かに腑に落ちる。レルネンの表情が、その時わずかに変化した。穏やかさが薄れ、代わりに深い不安の影が宿る。

 

「タヴ様、あなたのような存在がここに現れたこと自体、我々が直面している危機が尋常ではないことを示していると感じています。異界の軍勢による大規模な侵略が、やはり避けられないのでしょうね」

 

 レルネンの声音にこもる重さを受け取り、タヴの顔つきも険しくなる。老人の言葉には、漠然とした不安だけではない具体的な危機認識がにじんでいる。

 

 レルネンは慎重に言葉を選びながら、しかし核心から目を逸らさずに問う。

 

「率直にお尋ねします。我々は……あなたの目から見て、その侵略に勝てる見込みがあると思われますか?」

 

 タヴの脳裏に、フェルンが見せた不安げな表情がよぎる。侵攻が本格的に始まれば、大陸魔法協会に所属する彼女は間違いなく最前線に立たされる。タヴはわずかに視線を外し、慎重に言葉を選びながら話し始めた。

 

「分からない。それが正確に判断できるほど、この世界の軍事力や技術水準をまだ完全には把握していない」

 

「あなたが現状把握している範囲で構いません。正直なところを教えていただきたいのです」

 

 レルネンの目には強い意志が宿っている。タヴは短く息を吐き、続けた。彼自身、この話題に踏み込むことを歓迎してはいないが、相手の誠実さは感じ取っていた。

 

「……あんたたちが銀色の装甲を身につけた人型の集団と呼ぶ連中はギスヤンキ、触手状の器官を持つ異形の連中はマインド・フレイヤーと呼ばれている。俺の世界ではどちらも次元を超えて複数の世界を侵略し、征服した記録がある」

 

 レルネンの表情がさらに険しくなるのを感じながら、タヴは冷静に分析を続ける。

 

「ギスヤンキは高度に発達した軍事力を持っている。統率された軍団で、迅速かつ効率的に世界を支配することに長けている」

 

 わずかに間を置き、言葉を区切りながら続ける。

 

「一方、マインド・フレイヤーは、より陰湿だ。強力な精神操作能力を使って、相手を内部からじわじわと瓦解させる」

 

 タヴは一度息を整え、レルネンが次の言葉を待っていることを確かめてから、さらに付け加えた。

 

「どちらも、それだけでも十分に世界を脅かす力を持っている。……その両者が同時にこの世界を狙っているなら、全ての国々が団結したとしても、勝利は極めて難しいだろう」

 

 レルネンの瞳に広がる不安の色が濃くなる。その様子を見て、タヴは表情を変えずに、声の調子だけをわずかに落として続けた。

 

「だが、可能性がゼロというわけではない。ギスヤンキとマインド・フレイヤーは互いに強い敵意を抱いている。むしろ、明確な敵対関係と言ってもいい」

 

 最後に、わずかな希望を見いだせる余地を示すように、慎重に言葉を選ぶ。

 

「もしその敵対関係を巧みに利用し、互いに衝突するよう誘導することができれば──そこに勝機が生まれる可能性はある」

 

 しかし、タヴはすぐに現実の重さを取り戻す。

 

「だが、いずれにしても被害は甚大だ。人的損失、魔法的被害、社会的被害、あらゆる面で想像を絶する打撃を受けることになる。文明自体が大きく後退し、元の水準に回復できるかすら分からない。それほどの破壊と混乱が、この世界を襲うことになるだろう」

 

 タヴの分析は容赦なく冷徹だ。その言葉を受け止め、レルネンはしばし黙し、やがて小さく頷いた。

 

「……やはり、そうですか」

 

 老人の声は静かだが、その奥には深い悲壮感が滲んでいる。タヴはもう一度窓の外へ視線を向けた。外の光はさらに弱まり、室内の明るさもゆっくりと落ちていく。

 

「そろそろ約束がある。今日はこれで失礼する」

 

「また、お話しできる機会を楽しみにしています」

 

 レルネンが静かに頭を下げるのを横目に、タヴは文書館を後にし、夜の街へと踏み出す。肌に触れる空気の中に、微かな緊張感が混じり始めていることを感じ取りながら。

 

 *

 

 星々の輝きと霧が渦巻き交じり合う、境界なき座。その空間には、重く静かな緊張感が満ちている。実体のない霧の狭間を、幾つかの神格の意識が静かに流れ、交錯している。鋼鉄のような堅固さを帯びた意識──モラディン。法と正義の天秤を宿す意識──ティア。魔法の網を司る澄んだ意識──ミストラ。そして痛みと慈悲の象徴である穏やかな意識──イルメイターだ。

 

 やがて、その静寂を最初に破るのはイルメイターだ。慈悲深いが、どこか悲痛な響きを帯びた声が座に満ちる。

 

「新たな災厄が目覚めた。我らが守護する次元に、忌まわしき混沌の眷属──デーモンどもが再び湧き出でている」

 

 イルメイターの報せに、他の神々の意識がわずかに揺らぎ、静かに耳を傾ける。彼の声にはいつも慈悲と共感があるが、今はそこに深い憂いが混じっている。

 

「しかも、その背後には、闇に魅入られた狂信の徒らが蠢いている。彼らを陰で操るは、我らと対を成す悪しき神格である可能性が高い。何よりも……その出現の時期があまりにも出来過ぎている。我々が《Chosen(選ばれし者)》を別次元に送ろうとしたこの時に、デーモンが湧き出でるなど、偶然とは考えにくい」

 

 イルメイターの鋭い指摘を受け、ティアの意識に明確な緊張が走る。法と秩序の神である彼は、その言葉が意味するところをすぐに読み取る。

 

「悪神が絡むとなれば、事態は一層深刻になる。明らかに《Chosen(選ばれし者)》の派遣を妨害する意図があるとみて間違いない。我々が想定した以上の困難を覚悟せねばなるまい」

 

 モラディンが、鋼のように重い意識を響かせる。

 

「《Chosen(選ばれし者)》を送るべき次元への派遣準備が整った矢先に、これほど露骨な邪魔を仕掛けてくるとはな……しかし、放置すれば悪神どもの狙い通り、混沌がこの次元を飲み込むであろう。直ちに対処せねばならぬ」

 

 モラディンの判断に同意の波が静かに広がり、ミストラが澄んだ声音で口を開く。

 

「今一度、我らが《Chosen(選ばれし者)》の特性と役割を確認しよう」

 

 彼女の言葉が星の光を帯びて座を照らし出す。

 

「セリア・イグナリアは揺るぎなき守護の盾。ティアの加護を受け、あらゆる脅威を前にしても退かぬ強さを秘める。イーシャ・グレイブレアはイルメイターの慈悲そのもの。癒しをもって絶望を払い、傷ついた魂を救い上げる。ブロックス・フレイムスミスはモラディンの鋼と炎を背負い、如何なる敵をも焼き尽くす刃となる。そしてラジエル・サン=エリオスは、我が魔法の精髄を体現し、次元の狭間を越え、未知の魔法にも迅速に適応する術者だ」

 

 整理された情報を受けて、ティアが落ち着いた調子で提言する。

 

「こちらに現れたデーモン共への初動対応としては、ブロックスをまず送り込むべきだろう。現時点で即座に動ける《Chosen(選ばれし者)》は彼とラジエルのみだが、ブロックスはモラディンの加護を受けしクレリックとして、デーモンや悪しき存在への対処に最も秀でている。彼の聖なる炎の刃ならば、混沌の眷属たちの侵攻を抑えることが可能であろう」

 

 モラディンも厳かな声音で同意を示す。

 

「ティアの言う通りだ。ただしブロックスの胸中には、次元の狭間に取り残された戦友への個人的な感情がある。その私情が使命を妨げないかが懸念されるところだ」

 

 イルメイターが、その懸念を受け止めて穏やかに返す。

 

「懸念は理解できる。だが、彼もまた混沌の脅威をよく知る者。守るべき次元が無事でなければ、その戦友が戻る場所すら失われることを、彼は十分に理解しているはずだ」

 

 ティアが、静かながら力を込めて補足する。

 

「そうだな。ブロックスの責任感を信じよう。なお、セリアとイーシャは準備が整い次第、即刻ブロックスの援護に向かわせることとする」

 

 神々の意識が再び調和へと収束し、ミストラが続ける。

 

「もう一方の次元への対応も急がねばならない。全員をデーモン対処に当たらせては、異界への対応が遅れすぎる。即座に向かえるのはラジエルしかおらぬ以上、彼を先行させるべきだ。異界には主としてヒューマンが住まうゆえ、同じヒューマンとして現地の民とも調和を築きやすい。迅速に次元の裂け目を塞ぎ、使命を遂行できよう」

 

 モラディンが、ラジエルを単独で向かわせることへの不安を包み隠さず述べる。

 

「ラジエルは知的好奇心があまりにも強すぎる。本来は他の《Chosen(選ばれし者)》たちと共に派遣し、互いの資質を調和させるつもりだった。だが今回は、彼を導き制御する者が誰もいない。尽きぬ探究心が、使命の達成を妨げることにならぬか心配だ」

 

 ティアはその指摘を真摯に受け取り、落ち着いた声音で応じる。

 

「その懸念はもっともだ。しかしラジエル自身も守護者としての責務をよく心得ているはずだ。真に迫った危機に直面すれば、己の興味を差し置いて使命を優先するだろう」

 

 イルメイターが慈悲を滲ませて言葉を重ねる。

 

「ラジエルを信じよう。彼もまた、己が使命を果たすことの重さを理解している」

 

 短い沈黙の後、神々の意識は一致した結論へとまとまる。モラディンが、決定をはっきりと言い渡す。

 

「決定した。まずブロックスを送り込み、即座にデーモンの脅威に対処させる。その後、セリアとイーシャを送り込み支援させよう」

 

 ミストラが澄んだ声で続ける。

 

「ラジエルには即刻、もう一方の次元へ赴いてもらう。彼ならば混沌の綻びを塞ぐことが可能であろう」

 

 ティアが静かに宣言する。

 

「《Chosen(選ばれし者)》たちよ。汝らに混沌を退け、秩序をもたらす使命を託す」

 

 イルメイターが慈悲に満ちた祈りを込めて告げる。

 

「彼らが歩む道は困難を極めるだろう。されど、いかなる闇も我らの見守りと導きがある限り、希望を失うことはない」

 

 最後にモラディンが、揺るぎない力強さを込めて締めくくる。

 

「刃を研げ、心を鎮めよ。我らの守護する世界を侵すことは許されぬ。その力で混沌を退け、秩序を取り戻せ」

 

 神々の言葉が星々の間を流れ、《Chosen(選ばれし者)》たちのもとへ届く。その響きが遠のくと、境界なき座には再び静かな星霧だけが満ちる。使命は定まり、それぞれが動き出す刻が訪れていた。

 

 *

 

 静寂の夜、塔の最上階に描かれた円環状の巨大な魔法陣が、淡い光を放っている。塔は深い夜闇の中にまっすぐそびえ、その頂上でヒューマンの男性──ラジエル・サン=エリオスが独り立っている。

 

 舞台衣装じみた華麗で過剰な装飾の蒼銀のローブを身にまとい、布地に縫い込まれた古代文字の刺繍が光を受けてかすかに光る。無数の指輪と妙な形状の耳飾りが、その風貌にどこか胡散臭い印象を添えていた。ただ、その瞳に宿る深い光だけは、視線を向けた者の目を自然と引き寄せる。

 

 ラジエルは理と知識を司る女神ミストラに仕える、あるいはかつて仕えていた《School of Divination(占術学派)》のウィザードだ。その占術は、次元の狭間に開いた世界の裂け目すら見抜くほど鋭い。

 

 塔の最上階を包む静けさの中、不意に空気が揺れ、微かな波動が空間一帯に広がる。次の瞬間、ラジエルの意識の中に、ミストラの澄んだ神性の声が直接響いた。

 

「ラジエル・サン=エリオス。我が魔法の精髄を体現する者よ。異次元の境に新たな綻びが生じている。このまま放置すれば、混沌は二つの世界を飲み込もう。汝は直ちにその世界へ赴き、次元の亀裂を修復し、侵略の脅威を退けよ」

 

 託宣が途切れると、再び静寂が支配する。ラジエルは一瞬だけ目を閉じ、その言葉を心の奥へ刻み込む。瞳を開いたときには、口元に愉快そうな笑みが浮かんでいた。

 

(神々の託宣というものは、いつだって大袈裟で、堅苦しくて、一方的だ。だが、どういうわけか僕は、この大仰さが嫌いではない。むしろ、胸を躍らせずにはいられないね)

 

 彼は軽やかな仕草で魔法陣の中心へ進み、水晶球に指先を滑らせる。球体の内部に柔らかな光が満ち、これから行使する魔法の力を増幅していく。

 

 ラジエルは次元間の移動を行う《Plane Shift(次元間転移)》の術式を、慎重に組み上げ始める。占術の力で次元座標を一つずつ確認し、異界の女神が一時的に開いた扉へ正確に接続するよう術式を調整する。円環状の魔法陣が細かな光を帯び、空中には複雑な幾何学模様と古代文字が次々と浮かび上がる。構築した式を何度も点検しながら、彼は小さく呟いた。

 

(神々が指定した道とは言え、次元の移動は常に厄介だ。座標が狂うことなんて日常茶飯事だけど、まぁ、許容範囲内かな)

 

 最終調整を終えると、ラジエルは両腕を広げ、自身の魔力を一気に解放する。瞬間、魔法陣が眩い閃光を放ち、その光がラジエルの身体を包み込む。開いた次元の境界へと引きずり込まれる感覚が全身を襲った。

 

 だが直後、魔力の流れが想定以上に乱れ、開いた境界そのものが歪み始める。

 

(これは……まずい、術式が──!)

 

 制御の乱れが一気に広がり、ラジエルの身体は激しく揺さぶられる。次元間の通路が荒れ、本来向かうはずだった場所とは別の空間へと軌道が逸れる。強烈な光がすっと引き、彼の視界が開けたときには、ラジエルは遥か上空へ投げ出されていた。足元には、闇に沈んだ広大な大地が果ての見えない広がりを見せている。

 

(これは見事に座標が狂ったかな。どうやらこちらの女神様にはあまり好かれていないらしい……まあ、それはそれで愉快な話だけどね)

 

 落下の風圧が身体を叩く中で、ラジエルはすぐに呼吸を整え、詠唱を開始する。彼の周囲に透明な魔力が薄い膜となって展開し、落下速度が徐々に削がれていく。

 

 《Fly(飛行)》──術者の身体を目に見えない力場が包み込み、重力の拘束を弱めて空を移動できるようにする魔法だ。力場が彼を支え、安定した姿勢を保てるだけの浮力が生まれる。空中で体勢を立て直したラジエルは、眼下に広がる未知の世界をじっと見下ろした。

 

(なるほど、神々が与えてくれたのはこういう趣向か。未知が僕を待つというなら、これ以上望ましいことはない)

 

 ラジエルは口元に笑みを浮かべたまま、自分の術式の誤差を、むしろ面白い誤算として受け入れる。遥か下方には、これから踏み込む世界が暗闇の中に広がっている。そこには新しい知識や魔法、そして予測できない脅威が潜んでいるはずだ。

 

 ラジエル・サン=エリオスは高揚に近い感情を抱えたまま、夜空に静かに浮かび続け、新たな冒険の始まりを静かに受け止めていた。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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