枝葉が風に擦れ、湿った土の匂いが街道へ流れていた。北側諸国、グラナト伯爵領の外縁にある人影の少ない森だ。盾を手にした老兵ルグランを先頭に、六名の巡回警備部隊が露出した根を避けながら進んでいる。
その背後で、若い魔法使いのカノエは杖を握り、木々の間へ魔力探知を広げていた。斥候のレンナは矢をつがえ、盾を持つ二人の兵士が左右を守る。最後尾では、聖典を抱えた司祭見習いトルが、前を行く五人の足取りと呼吸を見比べていた。
カノエの魔力探知が、木にも岩にも重ならない場所で反応を捉えた。何もない空中へ、魔力が縒り集まっている。
「前方です。木立の間に、何か開きます!」
「全員、構えろ! レンナは右へ!」
ルグランの号令と同時に、二本の幹の間へ銀色の亀裂が走った。裂け目からグレートソードの切っ先が現れ、二人のギスヤンキ戦士が街道へ踏み込む。
その後ろで、後列の術者が胸甲の脇に吊った掌ほどの円い石板へ指を当て、生来の《サイオニック》を流し込んだ。円を連ねるギスヤンキのティルス文字と絵文字の刻線へ青白い光が走ると、石板は術者が見ている光景を留め始めた。その横で、グレートソードを持つ四人目の戦士は、《Misty Step(霧渡り)》の青白い霧に包まれて街道から姿を消した。
レンナの弦が鳴る。矢はカノエの肩越しを抜けたが、後列まで届かない。《Shield(盾)》に阻まれて宙で向きを変え、脇の幹へ深く刺さった。その音とほとんど同時に、正面の銀の刃が若い兵士の盾へ落ちる。
刃は止まった。だが、盾を支える腕を抜けた冷たい痛みが、頭蓋の奥へ突き刺さる。兵士が頭を押さえて盾を下げたところへ、銀の切っ先が肩口を裂いた。
「カノエ、左!」
消えた戦士が、もう杖の間合いまで来ていた。カノエが身を引くより先に、レンナの二射目が肩の鎧を打つ。矢は弾かれたが、振り下ろされた剣先が彼女の袖をかすめた。
「トル、負傷者を! カノエは術者を止めろ!」
聖典を開いたトルが前へ滑り込み、その背後でカノエは後列の術者へ杖を向ける。
「《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》!」
白い光が杖先を離れる寸前、術者の《Counterspell(呪文妨害)》が重なった。光だけが細い糸にほどけ、森の中へ散る。正面では二本目の銀剣がルグランの盾へ叩きつけられ、左から戻った戦士も間を与えない。ルグランが盾ごと押し戻され、背後にいたカノエの踵が街道へ張り出した根に触れた。
次の刃が来なかった。
森へ広げた魔力探知が、ギスヤンキ四人の反応を覆うほど大きな魔力を捉えた。カノエが顔を上げると、銀の刃も一度だけ同じ方角へ傾いた。
「まだ、何か来ます」
枝の下から、首のない騎士が現れた。二体、三体。同じ歩幅で街道に並ぶ列の中央を、角のある少女が歩いてくる。桃紫の髪を左右で編み、重ねた赤紫の衣装をまとい、左手には天秤を下げていた。
「……断頭台の、アウラ?」
名を絞り出すうちに、カノエの声が掠れた。ルグランは目の前の銀剣から視線を外し、盾を少女へ向け直す。後ろでは、傷口を押さえていた兵士まで一歩退いた。
「あり得ん……! アウラは討たれたはずだ!」
アウラはカノエにもルグランにも目を向けなかった。天秤を持つ腕を上げ、巡回隊とギスヤンキが斬り結ぶ街道へ向ける。首のない騎士たちだけが同じ拍で静止した。
アウラの手から放たれた黒い魔力が、銀剣と盾の間で球状に膨れ、両陣営を呑み込んだ。
カノエは杖を上げる暇もなく呑まれた。胸の内側から熱を奪われ、落ちかけた杖を地面へ突く。ルグランも片膝をつき、盾の縁を地へ食い込ませた。すぐ近くで二枚の盾が続けて落ち、右手ではレンナの弓が弦を下にして転がった。後ろでは、トルの聖典が開いたまま落ち葉の上へ落ちる。街道の向こうでは銀剣の戦士一人が倒れ、残る二人も片膝をついた。二人は銀剣を地面へ突いても肩を起こせず、息を吸うたびに腕を震わせている。レンナの矢を退けた術者は、幹の根元へ崩れ落ちた。
黒い魔力は木々を抜け、跡を残さず消えた。肩を裂かれていた兵士の胸は動いていない。レンナもトルも、倒れたきり息をしていなかった。街道の向こうでも、銀剣の戦士一人と後列の術者の胸は動いていなかった。
倒れた者の中で、もう一人の兵士だけは、まだかすかに息をしていた。ルグランは盾の縁を地面へ食い込ませたまま、空いた手で兵士の鎧をつかみ、自分の側へ引き寄せる。身体が半ばまで動いたところで、アウラの右手が上がった。
つかんでいた鎧がルグランの手から抜け、兵士の身体が宙へ跳ね上がった。兵士は閉じかけていた目を見開き、掠れた声を漏らした。
「な……何だ、これ……」
ルグランが兵士の腕をつかもうと踏み込む。カノエは杖に縋ったまま顔を上げ、兵士の首筋から鎧の隙間へ黒い筋が走るのを見た。
「触らないで!」
カノエの声とほぼ同時に、ルグランは兵士へ触れる寸前で見えない力に押し戻された。黒い筋は鎧の内側へ広がり、兵士の指が節ごとに伸びた。胸が呼吸とは違う間隔で膨らむたび、肋骨の位置がずれ、人の輪郭が内側から崩れていく。
ルグランは押し戻された足で踏み止まり、倒れた三人へ一度だけ目をやった。盾をアウラへ向け直し、声を張る。
「退くぞ! カノエ、先に行け!」
カノエは杖に体重を預けて立ち上がり、街道を下がった。ルグランは彼女が距離を取るまで盾を下ろさず、最後に一歩ずつ後退する。
生き残った戦士二人も、銀剣を支えにして身を起こした。一人は幹へ手をついてようやく膝を伸ばし、震える切っ先をアウラへ向ける。もう一人は片膝をついたまま、倒れた術者の胸甲の脇から石板を外した。剣を向けた戦士が、息を継ぎながら短く叫んだ。
「Break off! It strikes both sides!(離脱しろ! あれは敵味方を選ばない!)」
石板を外した戦士はそれを腰帯へ押し込み、二人は銀剣を支えに木立へ退く。揃わない足音に、幼子のような声が重なった。
(……みつけて……わたしを……)
敵味方の区別なく、囁きが耳の奥へ触れる。ルグランが振り返ると、アウラは天秤を下ろし、首のない騎士と変わり果てた兵士がその周囲へ並んでいた。
木立の景色が一度だけ揺れる。次の瞬間、そこには誰もいなかった。
戦場を離れると、石板を回収した戦士は幹へ背を預け、片膝をついたまま中央へ指を当てた。生来の《サイオニック》が刻線へ通ると、円を連ねるティルス文字が青白く灯り、術者が留めた光景が意識の内側へ戻ってくる。
アウラが消える直前、その背後には、戦いの最中には気づかなかった黒い輪郭が立っていた。
「Who is that?(誰だ)」
戦士は石板を通して見返す光景の中で、その輪郭へ意識を集中した。だが、内側だけは潰れたままだった。顔も装備も、最後まで判別できなかった。
*
グレーセ森林は昼でも暗い。重なった枝葉の下を、騎士八名と魔法使い二名からなる防衛部隊が進んでいた。鳥も鳴かず、鎧が枝へ触れる音だけが隊列の前後を行き来する。
騎士隊長レオンハルトが先頭を歩き、歴戦の騎士エルンストと若い騎士ヘルマンが左右を守る。八人の騎士は全員がロングソードを抜き、盾の間隔を保つ。その中央で、二人の魔法使いが杖を握っていた。
魔法使いのリディアが正面の木立へ魔力探知を広げると、複数の反応が重なって返った。杖先を左右へ振れば、どちら側にも別の反応がある。
「隊長、囲まれています!」
「盾を寄せろ。ヘルマン、エルンスト、側面を見ろ」
二人が左右へ開く。正面の木立から三体、左右から一体ずつ、灰紫色の頭部が現れた。五体が触手を広げ、別々の方向から防衛部隊へ向ける。
【武器を捨て、跪け】
声ではない命令が頭の内側へ入り込む。レオンハルトが部下へ号令を飛ばそうと息を吸った時には、正面中央の一体が四本の触手を扇状に開いていた。
《Mind Blast(精神爆砕)》が盾列を貫き、レオンハルトの視界から森が消えた。
最初に戻ったのは、自分の盾が根を擦る音だった。号令の続きを吐き出そうとしても、舌が痺れて動かない。滲む視界の中でヘルマンが膝を落とし、その背後にいた二人の若い騎士が盾を上げたまま固まっている。その脇で別の若い騎士がロングソードを取り落とした。リディアの杖に集まっていた光も消えていた。
それでも触手は止まらない。動けない騎士の兜へ、一本が滑り込んでくる。
「ヘルマンを下げろ!」
レオンハルトは兜へ迫った触手をロングソードで払い、痺れの残る身体を盾列の隙間へねじ込んだ。その右では、エルンストが自分のロングソードを地へ落とす。空いた手でヘルマンの肩当てをつかみ、後ろへ引いた。
二人の頭上を白い光が抜けた。動けるもう一人の魔法使いが、回り込もうとした別の個体を幹際まで押し返す。その一拍でリディアも杖を持ち上げた。杖先から開いた淡青い六角板が横へ広がり、動けない二人の騎士を迫る触手から遮る。隣り合う縁が噛み合って《防御魔法》を形作る間に、ロングソードを取り落とした若い騎士も盾だけを抱えて内側へ退いた。
「左にも──」
警告の最後を、木立の左から放たれた二発目の《Mind Blast(精神爆砕)》が断ち切った。
横から盾列を抜けた衝撃が、防壁の側面へ食い込む。継ぎ目を起点に広がった亀裂が数枚をまとめて砕き、通り抜けた衝撃にリディアの身体が動けない二人の騎士へ折り重なった。盾だけを抱えた若い騎士も、その脇へ崩れ落ちる。
「リディア!」
名を呼んでも、リディアは動かなかった。折り重なった三人も同じだった。鼻と耳から細い血が落ち葉へ伝い、四人の胸はもう動いていない。
マインド・フレイヤーたちは、盾列に開いた穴へすぐさま詰めてきた。レオンハルトが残る騎士を寄せ直すより早く、正面奥の一体が、中央と左で触手を広げた二体の間を抜けて前へ出る。
四本の触手が開く。二度見た構えだった。
「散れ! もう一発来る!」
ヘルマンは痺れた足をもつれさせた。近くにいた二人の騎士も、盾から身体を起こせない。残る魔法使いは倒れたリディアへ手を伸ばし、退くのが一拍遅れた。
発動より先に、木立の奥で重い足音が一つ鳴った。
大柄な魔族が、攻撃の構えを取った個体と防衛部隊の間へ歩み出る。額から二本の角が反り上がり、骨を被せたような顔の周りを長い銀白の髪が覆う。肩の白い毛皮は、黒い長衣へ垂れていた。
「あれは……まさか、クヴァールか……?」
レオンハルトは次の号令を失った。二本の角と銀白の髪が、八十年前の記録に残る腐敗の賢老と重なる。《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》を生んだ魔族は、長い封印から解かれた直後に討たれたはずだった。
触手を開いていたマインド・フレイヤーが、その先をクヴァールへ向け直す。群れの問いが、人間たちの頭にも流れ込んだ。
【止まれ。何者だ】
低い枝が角に当たり、乾いた音を立てて折れた。クヴァールは歩みを緩めず、問いを送った個体へ右手を向ける。四本の触手の間を緑の一線が貫き、灰紫色の頭部から外套の裾までを一息に塵へ変えた。
塵が地に落ちきるより先に、クヴァールは倒れた騎士の脇を通り過ぎていた。ヘルマンは痺れの残る足でその前へ踏み出し、仲間を背にかばって盾を上げた。
「下がれ、ヘルマン!」
レオンハルトが名を呼び終えるより早く、クヴァールの右手から再び緑の一線が走った。盾もロングソードも鎧も、ヘルマンの身体とともに灰色の塵へ崩れた。
「ヘルマン!」
エルンストの叫びが木立へ響いた。
【離脱する】
残るマインド・フレイヤー四体は触手を縮め、木々の間へ散った。その隙に、レオンハルトは仲間へ振り返る。
「撤退だ! 動ける者は互いに支えろ!」
エルンストが、盾から身体を起こせない騎士の腕を取り、残る魔法使いはもう一人の背を押した。脚の痺れが抜けないレオンハルトも、盾を支えに退く。彼らが退いても、クヴァールは追わず、右手を下ろしてその場に留まった。
その背後で空間が折れ、黒衣の人影が一瞬だけ立った。空間が閉じたときには、クヴァールの姿も消えていた。
木立を抜けたとき、レオンハルトの後ろにいたのは四人だけだった。リディアたちの亡骸も、ヘルマンの灰も取り戻せなかった。
*
アストラル界の銀の虚空には、死した神の石化した巨体が横たわる。その背を城壁と尖塔が覆い、ギスヤンキの本拠トゥナラスを形作っていた。
外郭の軍港では、大小のアストラル船が絶えず入れ替わっている。岸壁の外で広場まで船影を落とすのは、ひときわ大きなプレイナー・レイダーだった。広い甲板にはバリスタとサイオニック砲が据えられ、その周囲を焦げ跡の残る帰投艦と兵を満載した出撃艦が行き交う。
帰投艦から渡し板が下り、担架を運ぶ兵と交代兵がすれ違った。焼け焦げた戦標と折れた銀剣が岸壁の後方へ渡される間に、兵を乗せ終えた隣の艦は係留を解く。傷を持ち帰る列が途切れるより先に、次の船首が銀の虚空へ向いた。
軍港に面した中央広場では、数千のギスヤンキ戦士が列を組んでいた。揃えた甲冑の間から銀剣が伸び、その切っ先は足元へ向けて伏せられている。頭上には出撃艦が影を重ね、その先頭でプレイナー・レイダーが広場を見下ろしていた。
壇に近い列には、甲冑の裂け目を塞ぎきれないまま戻った戦士もいる。脇腹を押さえる腕が震えても、もう一方の手は銀剣から離れない。その背後から、次の乗艦を待つ戦士たちが空いた列へ肩を入れていく。
広場中央の壇に立つ将軍ヴァルドレスは、深紅のマントを背へ払う。金細工を施した甲冑の片腕が上がるにつれ、甲冑の擦れる音が前列から消え、最後に数千の視線が壇へ揃った。
「我らは鎖を断った。宿敵の触手がどの世界へ伸びようと、二度と頭は垂れぬ! アストラルの空も、その先の世界も、自由なギスヤンキの進路を塞げはしない!」
銀剣の柄が胸甲を打つ。一度、二度、三度。数千の音が一つに重なり、足元の石化した骸を震わせた。頭上の甲板へも同じ拍が移り、出撃を待つ兵が拳を胸甲へ叩きつける。
「ギスヤンキに自由を! 奴隷主に死を!」
ヴァルドレスは怒号を鎮めず、銀剣の柄へ手を掛ける。
「先遣軍はすでに、閉ざされた空の下で血を流している。アンカーを砕かれ、同胞を失ってなお、敵の喉元へ刃を向けている。それを置き去りにして退くか!」
「否!」
伏せられていた銀剣が返答と同時に立ち上がる。頭上では出撃艦の舷門が順に閉じ、甲板の兵が持ち場へ散っていった。
前列から後列へ刃の角度が揃い、数千の足音と咆哮が広場から上空の艦列へ押し寄せる。
「地を這う軍勢に、我らの艦を追えるか。石壁の王に、アストラルの空を守れるか。孤立した魔法使いと魔族に、我らの軍団を止められるか!」
「否! 踏み潰せ!」
前列の「踏み潰せ」が後列へ渡り、やがて「巣を焼け」となって返ってきた。幾重もの声がぶつかり、出撃艦の甲板からも同じ叫びが降ってくる。
ヴァルドレスも銀剣を抜き、艦列へ向けて高く掲げる。
「ならば奪え! マインド・フレイヤーの巣を焼き、空を押さえ、門を開け。失ったアンカー一本につき、十本の銀剣を送り込め。あの世界に我らの戦標を立てよ!」
数千の銀剣が一斉に振り下ろされる。鬨の声を受け、艦列の先頭でプレイナー・レイダーの船首がゆっくり巡った。その後ろから大小の艦が次々に船首を揃え、銀の虚空へ進み始める。
壇を降りたヴァルドレスは、近づいた側近へ声を落とした。
「強襲制圧班を第二陣へ組み込め。先行班から届いた座標へ送り、残存するアンカーの周囲を押さえろ。現地の術者と記録は、マインド・フレイヤーより先に手に入れよ」
側近は命令を復唱せず、出撃路へ駆け出した。
同じ頃、アンダーダーク深層部の大空洞に築かれた都市オリンドールでも、別の軍勢が動き始めていた。
光の届かない空洞には、生物の組織と石材を継ぎ合わせた建物が密集する。湿った通路は迷路のように枝分かれし、壁や天井を覆う繊維が、呼吸するように膨らんではしぼんでいる。
通路の両側に、目から意志の色が消えた隷属者が武器を抱えて立つ。誰一人として身じろぎせず、壁の脈動が速まるたび、胸だけが浅く上下していた。
中枢の水槽には、巨大なエルダー・ブレインが淡い緑光を放って浮かぶ。水槽を囲む無数のマインド・フレイヤーは触手の先を脳へ向け、上位意識から流れ込む思考を待っている。
エルダー・ブレインの表面が大きく収縮する。精神の波が空洞を貫き、壁を覆う繊維も、並んだ個体の触手も、脳の収縮へ揃って震えた。放たれた意思は通路の培養槽を越え、出撃を待つノーチロイドまで届く。
大空洞の奥に並ぶノーチロイドは、巻き貝を思わせる船体から長い触手を垂らしていた。波が届くと、石床に沿っていた触手が持ち上がり、閉じた舷門が開く。培養槽の影は一斉に身を折り、通路の隷属者と艦内の影が同時に出撃路へ顔を向けた。
【先遣個体の記憶は還った。敵の術も恐怖も、すでに我々のものだ】
精神波の中に、閉ざされた世界の像が一斉に開く。城壁の上で旗を振る兵、街道を駆ける伝令、離れた塔から別々の術を放つ魔法使い。その胸奥で生じた恐怖は互いに触れず、幾千もの小さなざわめきに分かれている。
【強い個体はいる。だが彼らは、ひとつではない】
水槽の液面が外へ膨らむ。触手が一斉に持ち上がり、各個体の思考は境を失ってひとつの衝動へ変わっていく。
口を開く個体はいない。代わりに触手の先が水槽の縁へ寄り、同意の圧が液面をさらに押し上げる。最前列の一体が抱いていた憎悪は隣へ流れ、その隣の飢えと混ざり、どの個体から始まった感情か分からなくなった。
【統合せよ。我々こそが唯一の精神。抵抗する個体も、やがて我々の記憶となる】
重なった意思が大空洞を満たす。壁の繊維まで脈を速めていく。
隷属者は同じ角度で頭を垂れる。培養槽の影も、艦内で待つ個体も、ひとつの言葉を繰り返す波に呑まれ、水槽の周囲では触手がさらに高く掲げられた。
【ギスヤンキが空を奪う前に、地下を満たせ。隷属者を送れ。船を起こせ。巣を広げ、抵抗する精神を取り込み、都市ごと一つへ還せ】
水槽を囲む列が一斉に向きを変える。一群は地下通路へ、別の一群はノーチロイドへ歩き出し、重なった足音が二手に分かれていった。
列が水槽を離れかけたとき、エルダー・ブレインの脈動が一拍だけ乱れた。広げた意識の縁に、周囲のどの個体とも異なる精神波が触れていた。
【待て。群れの外から、未知の精神が触れた】
膨れ上がっていた思考が一度に静まる。列の先頭が足を止め、すべての触手が水槽へ向いた。
【探れ。取り込め。妨げるなら消せ】
エルダー・ブレインが一定の脈動へ戻る。未知の精神を追う個体が各区画へ散る一方、止まっていた列はノーチロイドの舷門へ吸い込まれていく。最後の影を呑み込んだ舷門が閉じる。長い触手を船体の前へ揃えた一隻目が闇へ滑り出し、後続も音なく続いた。
*
多元安定機構の次元監視室には、天井も壁もない。視界の果てまで散る星々の手前で、淡い光を帯びた巨大なホログラムが幾つも異なる世界を映し、その間を魔力の結晶体がゆっくりと巡っている。
その中心では、調整者たちが低い声で情報を交換している。白いローブをまとった主任調整者アルヴァンは、長い黒髪を背へ流したハイ・エルフだ。報告者が入れ替わっても背筋を崩さず、深い紫の瞳を一人ずつへ向けて聞いている。やがて片手を上げ、次の報告を促した。
「状況報告をまとめてくれ」
若い調整者フィンリアスが一歩前へ出る。金色の短髪と鮮やかな緑の瞳、薄い褐色の肌を持つウッド・ハーフエルフで、白銀の制服にはまだ着慣れない固さが残る。襟を正し、待機中も追っていた二つのホログラムを交互に示した。
「ギスヤンキとマインド・フレイヤーは、対象次元に築いた位相アンカーで境界をこじ開け、兵と物資を送り込んでいます。現地では、その周囲から占領域を広げている模様です」
アルヴァンは一つ目のホログラムから次へ目を移し、問いを重ねる。
「具体的な兵力数の推測は?」
フィンリアスは唇を結び、首を横に振る。
「詳細な数値は特定できません。位相アンカーが開くたびに増援が加わり、マインド・フレイヤー側には隷属者も確認されています」
アルヴァンは二つのホログラムを並べたまま続ける。
「我々、多元安定機構はギスヤンキやマインド・フレイヤーのような大軍勢を持たない。正面から戦力で衝突するのは不可能に近い」
調整者たちのうち数人が端末へ手を戻し、推定兵力の計算を続ける。彼らの任は観測と報告であり、正面から戦うことではない。少し間を置いて、フィンリアスが言葉を継いだ。
「また、両勢力が侵攻対象としている次元の創造者である女神の意向は、守護の神ヘルムを介し、彼の信徒が執り行った《Commune(交神)》を通じて当機構に通達されています。女神は多元安定機構による大規模介入を控えるよう強く求めており、理由は明示されませんでしたが、自らの世界の住人たちに脅威を乗り越えさせたい、世界の自律性を重んじたいという趣旨と解されます」
フィンリアスが指を動かすと、対象次元を映すホログラムの脇に神託の記録が開いた。女神の求めを示す一節だけが白く浮かぶ。
アルヴァンは神託の一節から目を離さず尋ねた。
「あくまでも理由は推測ということか。ほかに通達は?」
「当機構に対する直接の要請はありません。ただし、ヘルムからは、特定の神々の《選ばれし者》が少数送り込まれる旨のみが通達されています。その選定と投入の裁量は各神格に委ねられており、詳細は不明です」
アルヴァンは短く頷いた。
「つまり我々は《選ばれし者》の選定や投入には関与しないということだな。女神の意向を尊重する必要がある」
別の調整者が口を開き、疑問を投げかける。
「しかし、状況がさらに悪化した場合、我々にはどのような判断基準があるのでしょうか?」
アルヴァンは声の調子を変えずに答えた。
「我々が強硬手段を検討するのは、対象次元が完全に崩壊し、それが次元間秩序そのものに深刻な影響を与える場合、あるいは侵略側が対象次元を足掛かりに、多元宇宙全体を脅かす恐れが明らかとなった場合のみだ」
質問した調整者は封鎖領域の表示へ目を戻した。アルヴァンは全員へ視線を巡らせ、方針を告げる。
「女神の通達に従い、現時点で大規模介入は行わない。監視と情報収集に徹し、両勢力の増援と対象次元の変化を追う」
各端末で監視項目が更新される。フィンリアスは報告一覧に残った最後の一件を開いた。
「もうひとつ、確認しておくべき案件があります。以前、任務中に対象次元に取り残された境界特務部のエージェント、タヴについてです」
アルヴァンの視線が、報告一覧の名前で止まる。フィンリアスは一度言葉を詰まらせ、それでも話を続けた。
「彼の救出活動はこれまで一切行われていません。取り残された次元自体が非常に強固に隔離されており、次元干渉が極めて困難であることがその大きな理由ですが──」
フィンリアスはいったん口を閉じ、アルヴァンが顔を背けないのを確かめてから続ける。
「彼が所属する境界特務部は、任務の性質上、上下関係と規律が非常に厳格です。タヴ自身の出自や、過去に魔力の制御を失って暴走した経験が問題視され、隊内で疎まれていたことも影響しているようです」
その報告に、調整者たちは互いの顔を見る。アルヴァンは次元地図から目を離さず、いつもより長く息を吐いてから声を落とした。
「タヴか……。彼は混沌の傾向がある。組織内の規律や秩序よりも、自分の感情や意志を優先することもあった。だがそれが、彼の特性でもあり、力の源でもあるのだろう」
フィンリアスはうなずき、探るような目を向ける。
「その性質が、今回のような事態において、どのような影響を及ぼすかが懸念されます。ですが、封鎖次元にいる彼に対し、我々が直接干渉することは不可能です。干渉どころか、観測さえも困難で……」
アルヴァンはスクリーンの封鎖領域を指先で拡大し、像が何も返さないことを確かめてから言った。
「その通りだ。彼の運命について、我々が今できることは何もない。結局のところ、タヴ自身がどう動き、何を選択するかを、我々は見守るしかないだろう」
その言葉が監視室に行き渡ると、調整者たちは声を発さず、それぞれの端末やスクリーンへ目を戻した。遠くの星々が瞬く中、アルヴァンは次元地図の封鎖領域から目を離さず、両手を背で組んだ。
*
湖に浮かぶ魔法都市オイサーストが眼前に広がっている。フリーレン、フェルン、シュタルクの三人は、都市へと続く広い石橋をゆっくりと渡っている。オイサーストへ入る前に、タヴはゼンゼやゲナウたちと共に手続きのため一足先に別れた。検知結界の調整と身分証の発行が必要だと説明されている。
石橋を渡り切り、三人が都市へ足を踏み入れた瞬間、フェルンの足が半歩遅れる。路地の曲がり角や建物の入り口には隊列を組んだ兵士が立ち、顎を引き、口元を固く結んだまま往来する人々を見つめている。その並びが、幼い日の記憶を容赦なく呼び覚ました。
通りを歩く市民は衛兵と目が合う前に俯き、道の端へ寄って足早に通り過ぎた。どこか遠くで、衛兵たちが短く切った命令を交わしている。その声が微かに響くたび、フェルンの背筋がぞくりと震える。
衛兵の短い号令へ、燃える家々の向こうで飛び交った声が重なる。煙の中を走る人影。何度呼んでも返らなかった両親の名。フェルンは目の前の街路を見ているはずなのに、足裏にはあの日の熱が蘇っていた。
「すごい警備です……まるで、本当に戦争が始まったかのようで……」
絞り出した声は末尾で震えた。フェルンの手は外套の脇で固く握られている。
シュタルクはそれに気づいて半歩だけ距離を詰めた。フリーレンも二人の遅れを横目で確かめ、自分の歩幅を合わせる。
「北側諸国で頻発している異界からの侵入者。都市がこうなるのも当然だよ。協会は警戒を緩めないだろうね」
フェルンは返事をせず、意識して指の力を抜いた。それでも呼吸は浅いままだった。
目の前を歩く若い母親が子どもの手を強く引き、衛兵の前を足早に通り過ぎていく様子が視界の端に映る。フェルンは、かつての自分の姿をそこに重ねてしまう。
シュタルクが眉を寄せながらフリーレンに尋ねる。
「こんな状態で、本当に一級魔法使いの試験なんてやるのか?」
フリーレンは街路の先から目を戻さず、間を置かずに答える。
「むしろ、こんな状況だからこそ実施するんだよ。今、優秀な魔法使いが必要とされているだろうからね」
フリーレンたちが一級魔法使いの試験を受けようとしているのには、はっきりした理由がある。彼らが目指すのは、大陸の最北端に位置する地。陸路でそこに至るためには、北部高原を抜けなければならない。
しかし今では情勢の悪化に伴い、外部の人間が高原を通過するには一級魔法使いの同行が義務づけられている。三人は試験の受験登録を済ませるために、大陸魔法協会北部支部に向かっていた。
フリーレンたちは通りを抜け、協会の各施設が並ぶ坂道を登っていく。眼下には灰色の屋根が重なり、その先で城壁が湖面と市街を隔てていた。行く手の高台には、大陸魔法協会北部支部の白い建物が横へ広がっている。
フリーレンたちは建物へ入り、受付に向かった。試験について尋ねると、若い女性職員は申請用紙を三人の前へ広げ、記入欄を指先で順に示した。
「試験は二か月後になります。一級魔法使いの試験は三年に一度の開催ですのでご注意ください。また、受験資格として五級以上の魔法使いの資格が必要になります」
説明が終わるやいなや、フリーレンはくるりと背を向け、その場から離れようとする。もとより彼女は、大陸魔法協会の認定資格を持っていない。
だが、フェルンは遠ざかる背へ足早に追いつき、フリーレンの腕をつかんで引き止める。
「フリーレン様、私一人じゃ無理です」
フリーレンは即答する。
「いけるって。フェルン、任せたから」
フェルンは腕を放さず、食い下がる。
「落ちたらどうするつもりですか? 一級試験は三年に一度なんですよ」
フリーレンは腕をつかまれたまま、気軽に答える。
「そしたら一級魔法使いを雇うか、海路で渡るよ」
「それだと凄くお金がかかりますよ。また毎日おやつ抜きになってしまいます」
フリーレンはひと呼吸置いて呟く。
「……とは言っても、ゼーリエにも止められてるし、どうせ私は無資格だからそもそも受けられないよ」
フェルンはフリーレンの腕をつかんだまま、しばらく黙っていた。やがて、返す言葉の代わりに深いため息をつき、ようやく手を離した。
都市へ入る前、フリーレンはゼーリエに訪問の目的を問われ、一級魔法使いの試験を受けるつもりだと伝えていた。そのときゼーリエからは、「おまえが試験に参加すれば、試験の公平性が著しく崩れる」と、受験を控えるよう言われていた。
受付職員が会話の切れ目へ説明を加える。
「念のためお伝えいたしますが、今回の一級魔法使いの試験は通常とは異なり、厳戒態勢の中で実施されます。試験場には複数の警備結界と、多数の魔法使いや衛兵が配備される予定です。受験者に対し、魔力検査が行われる可能性もあります。ご了承ください」
フェルンは受付台へ目を落とした。フリーレンはゼーリエから受験を控えるよう言われ、資格も持っていない。三人の旅を予定どおり進めるなら、自分が受験することになる。そのうえ今年は普段より警戒が厳しい。手続きを始める前から、受験の重さだけが増していた。
シュタルクが扉の衛兵を見て呟く。
「魔法使いの試験なのに、まるで要人警護か何かみたいじゃないか」
フェルンが不安げに振り返ると、フリーレンは言う。
「状況が状況だからね。でも、フェルンならきっと大丈夫」
フリーレンがフェルンなら大丈夫だと言い切ったことで、一人で試験へ向かうような心細さは薄れた。フェルンの緊張がようやく緩む。入れ替わるように、シュタルクがため息をついた。
「何にしても俺にできることはなさそうだな。魔法なんてさっぱり分からんし……」
フリーレンはすぐに返す。
「そうでもないよ。こういう時だからこそ、シュタルクみたいな頼りになる戦士がいてくれると助かるんだ」
シュタルクは耳を赤くし、顔を逸らした。
「何だよ急に……まあ、そう言ってもらえるのは嬉しいけど」
フェルンはそのやり取りに口元を緩めると、試験案内へ話を戻した。
「ところで、一級魔法使いの試験って、具体的に何をするのでしょうね……」
受付で分かったのは日程と資格、それに警備の厳しさまでだ。何を試されるか分からないことだけは、登録前と変わっていなかった。
フリーレンはそんなフェルンを見て、軽く首を横に振る。
「さあ、私に聞かれても困るよ。大陸魔法協会という組織自体、私は最近まで知らなかったくらいだからね」
フェルンは続けて尋ねる。
「それじゃあ、どうやって準備をすればいいのでしょう……」
フリーレンは少し考えてから答えた。
「せっかくだから協会の文書館に行ってみよう。協会が管理している資料なら、過去の試験の傾向や出題内容に関する情報も揃っているかもしれない」
「それはいいですね。少しでも情報があれば心強いです」
シュタルクも話に加わった。
「俺も暇だから付き合うよ。どうせ、他にやることもないしな」
フリーレンが話をまとめる。
「じゃあ決まりだね。早速、文書館へ向かおうか」
フリーレンは受付で文書館への道を聞き、先に支部の扉を押し開けた。外では警備の兵が二列で通り過ぎている。三人はその列を待ってから通りへ出て、教えられた角を文書館の方へ曲がった。
*
タヴはオイサーストの城門の外で、結界の境を示す標石の一歩手前で足を止めている。その隣には、大陸魔法協会の一級魔法使いであるゼンゼとゲナウが並ぶ。ゼンゼは細い指先を上げ、都市を取り囲むように広がる目に見えない壁の位置を示した。
「オイサーストには検知結界というものが張られている。異界の魔力を持つ君がそのまま入ると、警報が鳴ってしまうからな」
ゼンゼは長い髪を背に揃え、タヴの顔から背負ったクオータースタッフへ視線を移していく。ゲナウはタヴとの距離を変えず、結界の標石へ目をやって言葉を継いだ。
「だが安心しろ。これからお前の魔力の波長に合わせて結界側を調整すれば、干渉は避けられる」
タヴは二人の説明に短く頷き、もう一度、高い城壁とその内側の街並みを見上げた。
「手間をかけて悪いな。協力してもらえるのは助かる」
ゲナウは小さく頷き、門の脇にある石造りの施設へ先に足を向ける。
「では行こう。結界調整施設はこの門のすぐ外側だ」
三人が城門脇の石造りの施設へ向かうと、入口を守る衛兵がゼンゼとゲナウを認めて敬礼した。二人の返礼と入場許可を受け、衛兵が重い扉を押し開ける。
施設の内部には冷ややかな空気が流れ、廊下の先にある魔力解析室では、複雑な幾何学模様を刻んだ魔法陣と、淡い光を放つ結晶体が整然と並んでいる。複数の技術者がそれぞれの持ち場で準備を進めていた。
「ここだ」
ゲナウに促され、タヴは室内中央の魔法陣へ入った。円が足元で閉じると、ゼンゼが技術者たちに指示を飛ばす。
「準備はいいか? 普段どおりに魔力を流してくれ。その波長を解析し、君だけが検知結界の警報を鳴らさないよう調整する」
タヴが普段どおりに魔力を滲ませると、足元の魔法陣と周囲の結晶が青白く光り、小刻みに震えた。計測器の針が跳ね、技術者たちが記録を取り始める。
ゲナウは技術者から受け取った記録板の数値を指で追い、最後の欄で止めた。
「……本当に特異な魔力だな。波長がこちらの魔法体系と大きくずれている……」
ゼンゼも記録板を覗き込み、同意する。最後の欄から視線を動かさず、口元を固く結んだ。
「これでは通常の結界では確実に検知されてしまうな。多少、複雑な調整が必要になりそうだ」
ゼンゼが読み取った波形へ識別術式を重ねる。技術者はその指示に従い、魔法陣を囲む結晶の光をタヴへ揃えた。
「既存の検知層に触れないよう、彼の波長だけを別に識別させてくれ」
技術者たちが術式を結ぶと、結晶の明滅が同じ間隔へ揃った。細い光の輪が足元から肩まで上がり、自分の魔力の輪郭を外側からなぞっていく。不意の不快感にタヴの指が強張ると、ゼンゼは声を一段落とした。
「少し不快かもしれないが、じきに慣れる。君の魔力そのものには手を加えていないから、心配はいらない」
やがて光の輪がタヴを一周しても警告音を返さなくなった。ゲナウは結晶の反応と記録を照合し、一度頷いた。
「うまくいったようだな。これでお前の魔力は、オイサーストの検知結界に反応しなくなったはずだ」
タヴは魔力を押しならす感覚が消えたのを確かめ、小さく息をついた。ゲナウはそれを見届けると、次の段取りへ話を進める。
「次は、お前が都市内で自由に動けるように身分証を発行しよう」
隣接する事務室へ移ると、ゲナウは金属製のカードを机上の魔法陣へ置いた。低い詠唱に応じて魔法陣が輝き、カードの表面に精緻な魔法文字が浮かび上がる。刻印が落ち着くと、淡い光だけが残った。
追跡や観察の印ではなく、この都市での滞在を認める印が自分に与えられようとしている。タヴは浮かび上がった文字を黙って見つめた。
「これがお前専用の身分証だ。都市内の衛兵に提示すれば、協会が管理する共有施設には自由に入れる。特に今は厳戒態勢だ。市民の夜間外出は制限されているから、夜に兵士に止められた時も必ずこれを見せろ。いちいち説明する手間も省ける。紛失は厳禁だぞ。慎重に扱え」
タヴは机上のカードへ身を寄せ、刻まれた細かな紋様を確かめてから、丁寧に頭を下げる。
「感謝する」
ゼンゼは身分証をタヴの掌へ置き、指を離して告げた。
「君が協力的で良かったよ。異界からの侵略者とやらのせいで、この都市もかなり敏感になっているからな」
そこでゲナウがふと問いかける。
「この後はどうするつもりだ?」
タヴは一度、手にした身分証へ目を落としてから答えた。
「まずはこの世界について詳しく知りたい。魔法や歴史に関する資料がある場所は知っているか?」
ゲナウは頷き、親指で西棟の方角を示す。
「それなら協会が管理している文書館を訪れるといい。支部の西棟にある巨大な建物だ。先ほどの身分証を提示すれば入館可能だ」
ゼンゼはタヴの顔を見据え、最後に一言加える。
「大丈夫だとは思うが、騒ぎを起こすなよ。私は他にも仕事があるから、君のために時間を取られるのは御免だからな」
タヴは口元をゆるめ、二人の配慮にもう一度礼を述べる。
「承知した。迷惑はかけないよう注意する」
二人はその返事に頷き、施設の出口までタヴを見送った。
調整施設を出たタヴは、改めてオイサーストの城門を見上げる。金属製の身分証を掌で裏返し、刻印の光を確かめて内ポケットへ収めると、文書館を目指して結界の標石を越えた。
*
大陸魔法協会北部支部に隣接する文書館は、歴史ある荘厳な石造りの建物だ。正面入り口をくぐると、静寂と重みのある空気が内部を支配している。高い書架には魔導書や古文書が整然と並び、微かな埃と古紙の匂いがひっそりと漂っている。
フェルンは書架の背表紙を指で追い、魔法試験に関連する本を探している。フリーレンは棚の端まで視線を走らせながら、手元の書物のページをめくっていく。シュタルクは二人が机へ積み上げた資料を前に、早くも手持ち無沙汰になっていた。
フリーレンが資料を読みながら呟く。
「大陸魔法協会の規定だと、魔法使いは一般的に五級から一人前と呼ばれているみたいだね」
続けてフリーレンは資料から目を離さずに問いかける。
「フェルンはなんで三級を取ったの?」
書架にいたフェルンが答える。
「一番試験の日程が近かったからです」
当時のフェルンにとっては、等級より旅を止めないことの方が大切だった。フリーレンはその簡潔な答えを聞き、次の項目へ進んだ。
「五級以上の魔法使いの総数が六百人。見習いの六級から九級を含めても全体で二千人か。その内一級は四十五人。一級試験は三年に一度で、オイサーストの北部支部と聖都シュトラールの本部の二か所で開催。合格者が出ない年も多い。当たり前のように死傷者も出ている。それなりの難関だね」
登録窓口で聞いた三年に一度という間隔へ、合格者が出ない年と死傷者の記録が重なる。フェルンは探していた本を棚から抜いたまま、しばらく頁を開かなかった。今年の厳戒態勢とは別に、試験そのものが以前から命を落としかねない難関だった。
フリーレンは別の資料を探しながら続けた。
「それにしても魔法使いも大分数が減ったね」
フェルンが書架から顔を上げる。
「昔はもっと多かったのですか?」
フリーレンは本を閉じて答える。
「魔王軍の攻勢が激化した百年前だったら、町を歩けば魔法使いとすれ違うのが当たり前だったからね。今だとこういう魔法都市でもないと見かけない。まあ、今は異界からの侵略者がいるから、今後は百年前より増えるかもしれないけど」
異界の侵略に触れた途端、三人の間からページをめくる音が消えた。
フェルンが少し間を置いて問いかける。
「……私たちは、このまま旅を続けていても良いのでしょうか。状況がどんどん悪くなっているのに」
フリーレンはフェルンから目を逸らさず、言葉を急がずに答える。
「私たちにできるのは、今目の前にあることを一つ一つやっていくことだけだよ。焦っても仕方ない。私たちの旅の先にも、必ず何かできることがあるはずだから」
フェルンは唇を引き結び、小さく頷いた。
試験の数字や魔法使いの将来についての話に加われず、シュタルクは二人の話が終わるのを待っていた。やがて館内を眺めるうち、書架の間に見知った人影を見つけた。
「おい、あそこにいるの、タヴじゃないか?」
フリーレンとフェルンもタヴに気づき、そのまま書架の間へ歩み寄った。
「タヴも何か探してるの?」
その声に気づき、タヴは頁へ指を挟んで振り返る。
「元の世界に戻るための糸口を探しているんだ。それにはここの魔法や歴史を知る必要があると思ってな」
タヴが一人で手続きを進められたか、フェルンは別れてからも気にしていた。文書館へ入れているなら、協会との間で問題は起きなかったのだろう。声には安堵が滲んだ。
「タヴ様がここにいるということは、身分証の発行や手続きも無事終わったのですね。良かったです」
「ああ、協会の魔法使いが丁寧に対応してくれたからな。これでもうノルム商会領の時みたいに不法侵入しなくて済むな」
タヴの冗談に、シュタルクは頭を掻き、フェルンは小さく笑った。タヴは書物の表紙へ指先で触れ、《Comprehend Languages(言語理解)》を小さく唱える。
書物が彼の指の下で淡い光を放つ。フリーレンは指先から広がる光を追う。
「その魔法、本当に便利だね」
「そうだな。この世界に来て一番使った魔法かもな。ただ、これで読めるようになっても、自分で書けるわけじゃない。《Tongues(言語会話)》にしても、できるのは会話までだ。それに、結界の内側では上手く働かないこともある。だから、今後もここで動くなら、この世界の言葉そのものを覚えた方がいいと思っている」
都市へ続く橋で《Tongues(言語会話)》を使った時も、言葉そのものは通じていた。だが、意味は音や口の動きより先に押し込まれ、結界には精神干渉として拾われた。ゼンゼとゲナウが揃って顔をしかめたことも覚えている。
ゼーリエの《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》なら、声と意味にずれは生じない。それでも効果は一日ほどで、文字を書けるようになるわけでもない。一日おきに訪ねてかけ直してもらうのは現実的ではなかった。毎回頼めば、ゼーリエは恐らく面倒そうな顔をするだろう。タヴは題字の一文字目へ指を戻し、まだ音にできない形をもう一度なぞった。
フリーレンは、題字をなぞるタヴの手元をしばらく見ていた。
「それがいいかもね。本当はタヴの調べ物や言語習得を手伝ってあげたいけど、二ヶ月後にフェルンが一級魔法使いの試験を受けるから、その対策のために一緒に修行する必要があってね。力になれなくてごめんね」
タヴは本を半ばまで閉じて口を開く。
「一級魔法使いの試験……? ああ、そういえばあんたたちがオイサーストに来たのは、その試験を受けるためだったな。大陸魔法協会の認定資格とか言っていたか」
フェルンが先に答える。
「そうです……お力になれずに申し訳ありません……」
シュタルクも少し間を置いて続けた。
「正直、俺は魔法も歴史も詳しくないし、言葉に関しても誰かに教えられるような自信はないからな……ごめん」
タヴは軽く手を振り、三人の顔を順に見て返した。
「気にするな。こっちはこっちで何とかするさ」
しばらく他愛ないやり取りが続いたあと、フェルンは二度ほど口を開いては閉じた。三度目に出た声も途中で詰まる。
「あの……その、タヴ様は、元の世界に安全に戻る方法が分かったら、そのまますぐ帰ってしまうのですか?」
シュタルクはフェルンへ向き直る。
「フェルン?」
タヴはフェルンの眼差しをじっと受け止める。返事の前に短く息を吸い、最初の音を僅かに掠らせた。
「方法が分かって、即座に実行できるのならそうするつもりだ」
フェルンはさらに尋ねる。
「それは……異界の軍勢と本格的な戦争が始まっていても、ですか?」
タヴは何かを言いかけて唇を動かすが、息だけを漏らして口を閉ざす。目がフェルンから手元の本へ落ちた。シュタルクがフェルンを振り返り、フリーレンは開いていた本を閉じてから三人の間へ割って入った。
「ここで話すことじゃないね。タヴ、今夜私たちが泊まる宿に来ることはできる?」
タヴは小さく頷き、フリーレンから宿の場所を聞き取る。フリーレンはそのあとでタヴの襟元から靴先までじろりと眺め、間を置かずに続ける。
「あと、タヴはその服を早く着替えたほうがいいよ。ボロボロでどこかの遺跡で放置された古いミイラみたいだよ」
あまりにも率直な物言いに、タヴは目頭を揉み、小さくため息を吐く。
「今は金がなくてな……まあ、懐に余裕ができたら考えておく」
シュタルクはフリーレンの方へ身を乗り出す。
「フリーレン……もっと言い方があるだろ……」
フリーレンは振り返らず、出口に向かって歩き始める。フェルンも胸元で両手を揃えて一礼し、シュタルクと共にその後を追う。
三人の姿が出口の向こうへ消えたあと、タヴは再び手元の本に目を落とす。同じ行に指を置いたまま、次のページへ進めない。フェルンの問いだけが、文字より鮮明に残っていた。
*
それから数刻、ページをめくる紙の音が書架の間でかすかに響いていた。文書館の一角で、タヴは無言のまま書物を広げている。机にはこの世界の歴史や魔法に関する本が何冊も積まれ、その傍らで彼の指が文章を一行ずつ追う。
小さく《Comprehend Languages(言語理解)》を唱えると、書物が淡く光り、読めなかった字形が意味を伴って意識へ入ってくる。タヴはそのまま読み進めた。
最初に開いた年代記には、約八十年前に魔王を討った勇者ヒンメルの名が何度も現れた。戦いが終わった後まで、彼の選択が各地の人々や魔法使いへ影響を残している。タヴは逸話の頁だけでなく、同じ名が後世の記録へどのように書き継がれているかを辿った。
次に手に取った魔法史では、フランメが人類の魔法を初めて体系立て、多くの弟子へ伝えたとされている。術者ごとに閉じていた知識が教えられる形へ変わり、生活や文化へ広がっていく過程には、タヴが知る諸世界との共通点もあった。頁の余白へ目印を挟み、年代の異なる二冊を机上で開き直す。
タヴは複数の資料を並べ、年代や土地の名が食い違う箇所を見比べながら、この世界の情勢を掴もうとした。やがて西の窓から差す夕陽が頁を赤く染め、書架の影も机まで伸びてくる。フリーレンに指定された宿へ向かう時刻だった。
書物を閉じて表紙へ掌を置き、席を立とうとしたその時、入口のほうから一定の間隔で足音が響く。タヴが無意識に目を向けると、一人の老人が書架の間を進み、蔵書を眺めるふりをしながらこちらへ近づいてくるのが見えた。
老人は柔らかな白髪を肩に流し、上品な白い外套をまとっている。歳を重ねた顔には細かな皺が刻まれ、その目は棚からタヴの手元へ一度だけ動いた。やがてタヴのそばの棚で立ち止まり、書物を一冊抜いてページをめくり始める。その動きには無駄がなく、偶然を装っていながらも、最初からこの位置を選んでいたことがうかがえた。
数瞬の沈黙の後、老人は今気づいたかのように顔を上げ、タヴへ浅く会釈した。
「失礼しました。集中されていたのに、邪魔をしてしまったようですね」
老人は声を抑えたまま名乗る。
「私はレルネンと申します。大陸魔法協会で一級魔法使いを務めております。ゼーリエ様の弟子でもあります」
ゼーリエの名を聞き、タヴの目が細くなる。
「ゼーリエの弟子か……俺に何か用か?」
レルネンは開いた書物を胸元へ寄せ、背筋を正して言葉を重ねる。
「タヴ様ですね。ゼーリエ様からお話を伺っておりましたが、まさかここでお会いできるとは。不思議な巡り合わせもあるものですね」
タヴは目を逸らさず、間を置かずに答えた。
「偶然にしては、随分と自然な近づき方だったな」
レルネンは棚から抜いた書物を静かに閉じ、素直に認める。
「やはりお見通しでしたか。申し訳ありません。実は少し前からあなたのことをお見かけしていて、ぜひ一度お話をしてみたいと思っていたのです。ゼーリエ様があれほど興味を抱く人物を、この目で見ないわけにはいきませんので」
タヴはしばらくレルネンを見返したのち、引きかけていた椅子へ座り直した。
「……まあ、邪魔をしない程度なら、話くらいは聞こう」
「ありがとうございます。……先ほどあなたが使われていた魔法は、我々のものとは随分違うようですね。翻訳系の魔法ですかな? 私も魔法使いの端くれとして、非常に興味があります」
二人は書物に残る淡い光を挟み、互いの翻訳魔法が届く範囲と制約を確かめていった。話題がゼーリエへ移ると、タヴは率直な疑問を口にした。
「ゼーリエというのは一体どんな人物なんだ? 何度か話したが、どうも掴めない」
レルネンは手の中の書物を見下ろして答える。
「ゼーリエ様は偉大な方です。ただ同時にとても面倒くさい方でもあります。私も長く師事していますが、未だ完全には理解できていません。……ですが、魔法への探求心やその情熱は本物でしょう」
タヴは軽く頷く。ゼーリエの言動を思い返せば、その評価は確かに腑に落ちる。レルネンは一度口を閉じ、胸元の書物へ目を落とした。次に顔を上げた時、口元の笑みは消えていた。
「タヴ様、あなたのような存在がここに現れたこと自体、我々が直面している危機が尋常ではないことを示していると感じています。異界の軍勢による大規模な侵略が、やはり避けられないのでしょうね」
「大規模な侵略」という言葉に、タヴの指が机上の頁を押さえた。レルネンは閉じた書物を胸元へ抱え直して問う。
「率直にお尋ねします。我々は……あなたの目から見て、その侵略に勝てる見込みがあると思われますか?」
タヴの脳裏に、帰還を問いかけたフェルンの声がよぎる。一級試験を控える彼女も、侵攻が本格化すれば戦いから無関係ではいられない。タヴはすぐには答えず、一呼吸置いた。
「分からない。それが正確に判断できるほど、この世界の軍事力や技術水準をまだ完全には把握していない」
「あなたが現状把握している範囲で構いません。正直なところを教えていただきたいのです」
レルネンは瞬きもせず、タヴの返答を待っている。タヴは短く息を吐き、続けた。彼自身、この話題に踏み込むことを歓迎してはいないが、レルネンにも言葉を濁す気配はなかった。
「……あんたたちが銀色の装甲を身につけた人型の集団と呼ぶ連中はギスヤンキ、触手状の器官を持つ異形の連中はマインド・フレイヤーと呼ばれている。どちらも次元を超えて複数の世界を侵略し、征服した記録がある」
レルネンの指が、書物の縁へ食い込む。
「ギスヤンキは高度に発達した軍事力を持っている。統率された軍団で、迅速かつ効率的に世界を支配することに長けている。一方、マインド・フレイヤーは、より陰湿だ。強力な精神操作能力を使って、相手を内部からじわじわと瓦解させる」
レルネンが次の言葉を待っているのを確かめ、タヴはさらに付け加えた。
「どちらも、それだけでも十分に世界を脅かす力を持っている。……その両者が同時にこの世界を狙っているなら、全ての国々が団結したとしても、勝利は極めて難しいだろう」
レルネンは書物を抱え直した。背表紙が衣服に擦れ、小さな音を立てる。
「だが、可能性がゼロというわけではない。ギスヤンキとマインド・フレイヤーは互いに強い敵意を抱いている。むしろ、明確な敵対関係と言ってもいい」
タヴはレルネンの顔を見たまま、言葉を選んで続ける。
「もしその敵対関係を巧みに利用し、互いに衝突するよう誘導することができれば──そこに勝機が生まれる可能性はある」
タヴは机の端へ視線を戻した。
「だが、いずれにしても被害は甚大だ。人的損失、魔法的被害、社会的被害、あらゆる面で想像を絶する打撃を受けることになる。文明自体が大きく後退し、元の水準に回復できるかすら分からない。それほどの破壊と混乱が、この世界を襲うことになるだろう」
タヴが口を閉じても、レルネンはすぐには返さなかった。しばらく黙したのち、小さく頷いた。
「……やはり、そうですか」
レルネンの声は掠れ、最後の音が消えた後にも唇は固く結ばれている。タヴはもう一度、窓の外を見やる。外の光はさらに弱まり、室内の明るさもゆっくりと落ちていった。
「そろそろ約束がある。今日はこれで失礼する」
「また、お話しできる機会を楽しみにしています」
レルネンが胸元の書物を抱え直して頭を下げるのを横目に、タヴは文書館を後にし、夜の街へ踏み出す。衛兵の号令が遠く響き、冷えた夜気が頬に触れた。
*
星々の光と霧が渦巻く、境界なき座。実体を持たない四柱の意識が、互いの輪郭を侵さぬ距離で向き合っている。モラディンの気配には鋼を鍛つ火花が散り、ティアの前では天秤を思わせる二条の光が釣り合う。ミストラを巡って魔法の網が走り、イルメイターのもとへは傷ついた者たちの祈りが集まっていた。
やがて、イルメイターのもとに集う光が一斉に震える。痛みを押し包むような低い声が、星霧の間へ広がった。
「新たな災厄が目覚めた。我らが守護する次元に、忌まわしき混沌の眷属たるデーモンどもが再び湧き出でている」
イルメイターの報せを受け、モラディンを巡る火花が止まり、ティアの二条の光も揺れを収める。続く言葉を待つあいだ、細い祈りだけがイルメイターの周囲で明滅していた。
「しかも、その背後には、闇に魅入られた狂信の徒らが蠢いている。彼らを陰で操るは、我らと対を成す悪しき神格である可能性が高い。何よりも……その出現の時期があまりにも出来過ぎている。我々が《選ばれし者》を別次元に送ろうとしたこの時に、デーモンが湧き出でるなど、偶然とは考えにくい」
法と秩序の神ティアの前で、釣り合っていた二条の光が大きく傾き、すぐに均衡を取り戻す。イルメイターの言葉が示す狙いを、ティアは即座に読み取った。
「悪神が絡むとなれば、事態は一層深刻になる。明らかに《選ばれし者》の派遣を妨害する意図があるとみて間違いない。我々が想定した以上の困難を覚悟せねばなるまい」
モラディンの火花が弾け、鍛鉄を打つような声が響く。
「《選ばれし者》を送るべき次元への派遣準備が整った矢先に、これほど露骨な邪魔を仕掛けてくるとはな……しかし、放置すれば悪神どもの狙い通り、混沌がこの次元を飲み込むであろう。直ちに対処せねばならぬ」
モラディンの言葉が消えると、残る三柱の光が同じ拍で明滅する。次いで、ミストラの声が魔法の網を伝った。
「今一度、我らが《選ばれし者》の特性と役割を確認しよう」
言葉が通るたび、網の結び目が星のように点り、四つの像を結んだ。セリアは崩れた聖域の門で大盾を押し返し、背後の避難民が峠を越えるまで足を退かない。イーシャは瓦礫の路地に膝をつき、見知らぬ負傷者の胸へ両手を当てている。
別の像では、ブロックスが霜鉄炉の前でバトルアックスを研ぎ、刃へ走る火を一筋ずつ確かめていた。その隣でラジエルは次元の裂け目を写した星図へ指を走らせ、既存の記号にない揺らぎへ目を細めている。
「セリア・イグナリアは揺るぎなき守護の盾。ティアの加護を受け、あらゆる脅威を前にしても退かぬ強さを秘める。イーシャ・グレイブレアはイルメイターの慈悲そのもの。癒しをもって絶望を払い、傷ついた魂を救い上げる。ブロックス・フレイムスミスはモラディンの鋼と炎を背負い、如何なる敵をも焼き尽くす刃となる。そしてラジエル・サン=エリオスは、我が魔法の精髄を体現し、次元の狭間を越え、未知の魔法にも迅速に適応する術者だ」
四人の名が告げられると、ティアの二条の光が一段前へ進み、提言する。
「こちらに現れたデーモン共への初動対応としては、ブロックスをまず送り込むべきだろう。現時点で即座に動ける《選ばれし者》は彼とラジエルのみだが、ブロックスはモラディンの加護を受けしクレリックとして、デーモンや悪しき存在への対処に最も秀でている。彼の聖なる炎の刃ならば、混沌の眷属たちの侵攻を抑えることが可能であろう」
ティアの二条の光が、モラディンを巡る火花の側へ傾く。
モラディンの周囲で、火花が一度強く弾ける。
「ティアの言う通りだ。ただしブロックスの胸中には、次元の狭間に取り残された戦友への個人的な感情がある。その私情が使命を妨げないかが懸念されるところだ」
イルメイターから伸びた細い光が、モラディンとの間を繋ぐ。
「懸念は理解できる。だが、彼もまた混沌の脅威をよく知る者。守るべき次元が無事でなければ、その戦友が戻る場所すら失われることを、彼は十分に理解しているはずだ」
ティアを示す二条の光が交差し、ひとつの線に揃う。
「そうだな。ブロックスの責任感を信じよう。なお、セリアとイーシャは準備が整い次第、即刻ブロックスの援護に向かわせることとする」
四柱の光が中心へ寄り、ひとつの輪を形作る。その輪を保ったまま、ミストラが続ける。
「もう一方の次元への対応も急がねばならない。全員をデーモン対処に当たらせては、異界への対応が遅れすぎる。即座に向かえるのはラジエルしかおらぬ以上、彼を先行させるべきだ。異界には主としてヒューマンが住まうゆえ、同じヒューマンとして現地の民とも調和を築きやすい。迅速に次元の裂け目を塞ぎ、使命を遂行できよう」
モラディンの火花が不規則に散る。声は先ほどより低く、言葉の間が長い。
「ラジエルは知的好奇心があまりにも強すぎる。本来は他の《選ばれし者》たちと共に派遣し、互いの資質を調和させるつもりだった。だが今回は、彼を導き制御する者が誰もいない。尽きぬ探究心が、使命の達成を妨げることにならぬか心配だ」
ティアの二条の光は揺れず、モラディンへ向いたまま応じる。
「その懸念はもっともだ。しかしラジエル自身も守護者としての責務をよく心得ているはずだ。真に迫った危機に直面すれば、己の興味を差し置いて使命を優先するだろう」
イルメイターの声が、両者の間へ重なる。
「ラジエルを信じよう。彼もまた、己が使命を果たすことの重さを理解している」
言葉が途切れ、星霧の輪が一度だけ収縮する。四柱の光が同時に明滅し、モラディンが決定を言い渡す。
「決定した。まずブロックスを送り込み、即座にデーモンの脅威に対処させる。その後、セリアとイーシャを送り込み支援させよう」
ミストラを巡る網が広がり、その結び目から声が続く。
「ラジエルには即刻、もう一方の次元へ赴いてもらう。彼ならば混沌の綻びを塞ぐことが可能であろう」
ティアが静かに宣言する。
「《選ばれし者》たちよ。汝らに混沌を退け、秩序をもたらす使命を託す」
イルメイターが祈りを込めて告げる。
「彼らが歩む道は困難を極めるだろう。されど、いかなる闇も我らの見守りと導きがある限り、希望を失うことはない」
最後にモラディンが締めくくる。
「刃を研げ、心を鎮めよ。我らの守護する世界を侵すことは許されぬ。その力で混沌を退け、秩序を取り戻せ」
決定と同時に、中心の輪から四条の光が離れた。鍛打の火花はブロックスのバトルアックスへ落ち、研いでいた手を止めさせる。天秤の白光はセリアの胸甲を走り、負傷者に添えたイーシャの指先では、十字の護符が熱を帯びた。最後の一条は魔法の網を伝い、夜の塔で星図を覗くラジエルの指輪を淡く照らす。
ブロックスは刃を走る火が消えるのを待って砥石を置き、武器の留め具を確かめる。セリアは避難民の最後尾を門の内へ通し、イーシャは負傷者の呼吸が戻るまで掌を動かさない。ラジエルだけが星図から顔を上げ、指輪の光へ笑みを向けた。
*
静寂の夜、塔の最上階に描かれた円環状の巨大な魔法陣が、淡い光を放っている。塔は深い夜闇の中にまっすぐそびえ、その頂上でヒューマンの男性、ラジエル・サン=エリオスが独り立っている。
舞台衣装じみた華麗で過剰な装飾の蒼銀のローブを身にまとい、布地に縫い込まれた古代文字の刺繍が光を受けてかすかにきらめく。無数の指輪は水晶球の光を細かく返し、妙な形状の耳飾りが顔を動かすたびに小さく鳴った。その奥で、深い光を宿した瞳だけが星図の一点を見据えている。
ラジエルは、魔法を司る女神ミストラに仕える《占術系統》のウィザードだ。その占術は、次元の狭間に開いた世界の裂け目すら見抜くほど鋭い。
塔の最上階を包む静けさの中、不意に空気が揺れ、微かな波動が空間一帯に広がる。次の瞬間、ラジエルの意識の中に、ミストラの澄んだ神性の声が直接響いた。
「ラジエル・サン=エリオス。我が魔法の精髄を体現する者よ。異次元の境に新たな綻びが生じている。このまま放置すれば、混沌は二つの世界を飲み込もう。汝は直ちにその世界へ赴き、次元の亀裂を修復し、侵略の脅威を退けよ」
託宣が途切れると、再び静寂が支配する。ラジエルは一瞬だけ目を閉じ、その言葉を心の奥へ刻み込む。瞳を開いたとき、口元がゆっくりと緩んだ。
(神々の託宣というものは、いつだって大袈裟で、堅苦しくて、一方的だ。だが、どういうわけか僕は、この大仰さが嫌いではない。むしろ、胸を躍らせずにはいられないね)
彼は魔法陣の中心へ進み、水晶球へ右手を置く。球体の内部に柔らかな光が満ち、これから行使する魔法の力を増幅していく。
ラジエルは次元間を渡る《Plane Shift(次元間転移)》の術式を組み上げ始めた。占術の力で座標を一つずつ確かめ、異界の女神が一時的に開いた扉へ正確に接続するよう式を調整する。円環状の魔法陣が細かな光を帯び、空中には複雑な幾何学模様と古代文字が次々と浮かび上がった。ラジエルは構築した式を何度も点検し、わずかなずれを一つずつ潰していく。
最終調整を終えると、ラジエルは両腕を広げ、自身の魔力を一気に解放する。瞬間、魔法陣が眩い閃光を放ち、その光がラジエルの身体を包み込む。開いた次元の境界へと引きずり込まれる感覚が全身を襲った。
だが直後、魔力の流れが想定以上に乱れ、開いた境界そのものが歪み始める。
制御の乱れが一気に広がり、ラジエルの身体は激しく揺さぶられる。次元間の通路が荒れ、狙った着地点から軌道が逸れた。強烈な光がすっと引き、視界が開けたとき、ラジエルは見知らぬ都市からおよそ二百メートル上空へ投げ出されていた。眼下には尖塔と屋根が密集し、中央の大きな宮殿から幾筋もの街路が延びている。
(これは見事に座標が狂ったかな。どうやらこちらの女神様にはあまり好かれていないらしい……まあ、それはそれで愉快な話だけどね)
落下の風圧が身体を叩く中で、ラジエルはすぐに呼吸を整え、詠唱を開始する。彼の周囲に透明な魔力が薄い膜となって展開し、落下速度が徐々に削がれていく。
《Fly(飛行)》の力場がラジエルの身体を包み、重力の拘束を弱める。自力で空を移動し、安定した姿勢を保てるだけの浮力を得て体勢を立て直すと、ラジエルは眼下の見知らぬ都市を見下ろした。
ラジエルが先ほどの座標式を頭の中で辿り直していると、眼下の城壁に細い光が走った。街路の尖塔も次々に点り、結界の線が彼の真下へ集まってくる。計算を止めたラジエルは、空中に浮いたまま、その術式が組み上がる様子を見下ろした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。