界を穿つ魔法使い   作:黄金の20面ダイス

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ギスヤンキとマインド・フレイヤーは侵攻準備を本格化させ、次元を超えて偵察や工作を開始。辺境の街道で巡回部隊がギスヤンキと謎の魔族アウラの襲撃を受け、別地域ではマインド・フレイヤーが死霊化された魔族クヴァールと衝突する。多元宇宙を監視する神々は英雄を送り込もうとするが、デーモンの急襲により計画が遅延する中、タヴとフリーレン一行は迫る異界侵略の脅威に巻き込まれつつあった。


#5:戦端、開かれる

 枝葉が風に擦れ、霧が街道の窪みから木々の間へ流れ込んでいる。北側諸国、グラナト伯爵領の外縁にある人影の少ない街道沿いの森だ。六名の巡回警備部隊が、露出した根を避けながら進んでいる。

 

 先頭に立つのは、老練な兵士ルグラン。灰のような髪を揺らし、地を踏むたびに鍛え上げられた鎧を微かに鳴らす。歩幅は崩さず、木立の切れ目に差しかかるたび、後続が追いつくまで足を止める。

 

 その背に続くのは、若き魔法使いのカノエ。細身の杖を両手で抱え、その先端に意識を集中している。周囲の魔力の流れを読み取り、揺らぎを探知するためだ。斥候のレンナは弓を構え、すでに矢をつがえて木立の隙間に狙いを据えている。

 

 続く二名の兵士はルグランの指導を受けた部下たちで、ともに円陣の一角を守る。後衛には司祭見習いの少年、トルが控え、負傷者が出ればすぐ動けるよう前列へ目を配っている。

 

「……魔力反応。距離、およそ三十──いや、二十五」

 

 彼女の杖の先端に薄く魔力が集まり、揺れるように周囲の空間を撫でる。空気の層に滲むような歪みが視界に割り込み、カノエの眉が跳ね上がる。

 

「空間が捩れてる……裂け目が開くわ、前方樹林!」

 

「全員、迎撃陣形! レンナ、東側の高所に移れ!」

 

 ルグランの指示が飛ぶと、兵士たちは即座に陣形を組む。次の瞬間、霧の向こうで幹の輪郭が折れ曲がり、何もない宙に銀色の亀裂が走る。樹々の合間に次元の縫い目がひととき開き、銀色の影が幾つも姿を現す。

 

 ギスヤンキと呼ばれる異界の戦士たちだ。

 

 前衛には銀のグレートソードを振るうふたりの戦士。その背後、木立の陰には念弾を弧状に撃ち出す遠距離型の魔導兵。さらに別の一体が、指を鳴らしながら空間を跳躍し、撹乱位置へ転移してくる。戦術分担の整い方から、場慣れした部隊であることがすぐに分かる。

 

「交差陣で迎え撃つぞ! 二列目は斜めに構えて射線を確保しろ!」

 

 ルグランが吼える。その声に応じて、兵士たちは一歩前へ出て交差するように布陣し、敵の接近角度を誘導する。レンナが矢を放つ。しかし、それは霧を抜けた途端に不自然な角度で逸れ、ギスヤンキの頭上をかすめて地に落ちる。薄く、だが確かに存在する念の障壁が張られているのだ。ギスヤンキ魔導兵が、敵の矢を見やりながら呟く。

 

「No direct trajectory. Curvature deflection holding(直進軌道なし。曲面偏向は維持されている)」

 

 その直後、ひとりのギスヤンキ戦士がグレートソードを構え、接近した巡回部隊の若手兵士へ斬りかかる。斬撃は盾で受け止められるが、兵士の息が止まり、盾を支える肘が硬直する。

 

「ッ、思考が……!」

 

 銀の刃が肩口を掠める。痛みよりも先に、頭の中を掻き回されるような違和感が走る。神経伝達そのものを阻害するような精神干渉だ。

 

「トル、回復準備! カノエ、妨害を打ち消せ!」

 

 ルグランの指示が飛ぶ。後衛の司祭見習いが聖典を開き、魔力を籠める。

 

「《ゲイストクラーレ(精神の濁りを払う魔法)》……っ。霧が魔力を……拡散してる……!」

 

 カノエは詠唱を続けるが、一節を結ぶたびに次の音が遅れる。霧を通った魔力の律動が乱され、精神への干渉だけが強まっているようだ。ギスヤンキ魔導兵がそれを観察し、仲間へ合図を送る。

 

「Counter-chanting observed. Frequency shift to 0.82(対詠唱動作を確認した。周波数を零点八二に変更)」

 

 次の瞬間、巡回隊を包む圧迫感が一段と増す。前列の若い兵士が頭を押さえて膝をつき、隙を突いたギスヤンキ戦士の刃が盾ごと叩きつける。ルグランが横から盾を差し入れて軌道を逸らすが、列ごと一歩、また一歩と押し下げられていく。トルの回復も追いつかず、円陣の結び目が目に見えて緩み始める。

 

 ギスヤンキの連携攻撃に押され、巡回隊の防御線はじりじりと後退していった。そのとき、風が逆流するように霧の流れが変わる。さきほどまでギスヤンキの転移に伴って薄く拡散していた霧とは異なり、密度のある霊的な靄が森の奥から這い寄ってくる。

 

「……何だ、この霧は……?」

 

 カノエは杖先を霧へ向けた。探知光には何も映らないのに、霧が通る箇所だけ、周囲へ張った感知膜が内側へたわむ。その動きはギスヤンキの術式とも違っていた。

 

「これは……あいつらのものじゃないぞ」

 

 レンナがロングボウを下ろす。霧の中から現れたのは、首のない騎士たちだ。甲冑を鳴らすこともなく、霧を押し分けて一歩ずつ前進してくる。

 

 そして、中央に立つひとりの少女。淡い桃紫の髪。角。片目に光が宿っていない。歪んだバランスのまま下がったスカート。左手には、あの天秤。

 

「……断頭台のアウラ……!?」

 

 魔法使いのカノエが震える声で名を呼ぶ。

 

「馬鹿な……討伐されたはずだ……!」

 

 ルグランが低く呻く。アウラの指がわずかに動く。次の瞬間、彼女の足元に黒い輪がゆっくりと広がり始める。地面に染み込むように、重々しく波打つ漆黒の魔力。輪は音もなく拡大し、半径十数メートルの範囲を覆い尽くす。

 

 空気が凍りつく。霧は黒い輪へ触れた端から地面へ沈み、濡れた下草が色を失った。《Circle of Death(死の円環)》が巡回隊とギスヤンキの足元を分け隔てなく呑み込む。輪の内側に残った兵士たちの頬から血の気が引き、持ち上げていた盾が一斉に下がった。

 

「下がれッ!」

 

 ルグランが叫ぶと同時に、円の縁に足を取られかけた兵士の一人が膝をつく。その肌が瞬時に蒼白へ変わり、生命が削り取られていく。ルグランは咄嗟に肩を掴み、全身の力で彼を輪の外へと引き戻す。

 

「くっ……体温が……っ、抜ける……!」

 

 引き戻された兵が肩を押さえて輪から離れる間も、アウラは瞬きをしなかった。黒い輪が広がっても、兵が呻いても、顔の角度ひとつ変わらない。

 

 その瞳はどこにも焦点を結ばず、次に指を動かすまで身体は不自然なほど静止していた。何かに動かされている器のようだった。

 

 ギスヤンキ魔導兵の視線が、霧の向こうで広がる黒い輪と、アウラの指先との間を往復する。

 

「No core focus. No psionic resonance. It's an empty shell(核となる精神焦点がない……サイオニック共鳴も見えない。あれはただの空の器だ)」

 

 その直後、アウラが指を軽く鳴らす。すると、さきほど《Circle of Death(死の円環)》に生命力を奪われ、輪の外へ引き戻された兵士の身体が、不自然に浮かび上がる。

 

「な……何だ……身体が動か……」

 

 兵士は苦しげな呻きを漏らし、まるで見えない手に吊り上げられるように中空へと持ち上がる。その姿勢のまま硬直し、骨が共鳴するように小刻みに振動し始める。

 

「くそっ、離れろ! 引き戻せ!」

 

 ルグランが叫び、他の兵士が伸ばした手は、空中に広がる不可視の力によって弾かれる。

 

「これは……何かに作り変えられてる……!」

 

 カノエの声が掠れる。兵士の鎧の隙間を黒い脈が走り、吊られた両肩が耳の高さまで引き上げられた。指は節ごとに伸び、爪の先から黒く硬化していく。胸は呼吸とは違う間隔で膨らみ、そのたび肋骨の位置がずれ、人の輪郭を内側から崩していた。

 

「っ、撤退! 再編は無理だ! この場は悪い!」

 

 ルグランは奥歯を噛み、片腕で背後の街道を指して撤退を命じる。その目の前で兵士の肉体はなお歪み、前列の盾はもう互いの縁を重ねられない。ルグランは最も近い兵の背を押し、街道へ走らせた。

 

 ギスヤンキ戦士のひとりが、短く仲間に指示を出す。

 

「We withdraw. That entity—whatever it is—is not our ally(退くぞ。あの存在──何であれ、我らの味方ではない)」

 

 そのときだった。霧の中から、声が響く。

 

(……みつけて……わたしを……)

 

 幼子のような、途切れたささやきが敵味方を問わず数名の耳へ届く。声の主を探して振り向いても、そこには霧しかない。

 

 声と同時に、アウラの姿が霧ごと掻き消える。首のない騎士と変質した兵士もまた、主の消失と共に霧へ溶けていく。撤退したギスヤンキ部隊が魔導兵の胸甲に組み込まれた記録装置を確認すると、消失寸前の画面に、かすかな黒衣の影が残っていた。

 

 記録装置に残ったのは、識別表示の付かない黒い輪郭だけだった。再生速度を落としても、輪郭の内側は潰れたままだ。装置を囲んだギスヤンキ兵たちは互いに顔を見合わせ、誰も口を開かなかった。

 

 *

 

 グレーセ森林の木々は深く、昼なお暗い。葉と枝の重なりが空を覆い尽くし、わずかな光しか地表へ届かない。その闇の中から聞こえるのは、防衛部隊の押し殺した呼吸と鎧の擦れる微かな音だけだ。

 

 騎士隊長のレオンハルトは、湿った落ち葉を踏むたびに足場を確かめ、幹の陰と枝上へ交互に視線を送っている。中央諸国の要衝であるグレーセ森林で不審な現象が相次いだという報告を受け、彼らはこの森へと派遣されたのだ。

 

 小隊は隊長のレオンハルトと歴戦の騎士エルンストを除けば、大半が若手や新人で構成されている。騎士八名、魔法使い二名。鎧が枝に触れるたびに肩を跳ねさせる者がいて、杖を握る手を何度も直す者もいる。これほど音のない森へ足を踏み入れた経験は、彼らにはなかった。

 

「ヘルマン、エルンスト、側面の警戒を怠るな。奴らが近いかもしれん」

 

「了解しました」

 

 レオンハルトの命令に答えるのと同時に、若い騎士ヘルマンと熟練の騎士エルンストは左右へ開く。両名は即座に隊列を調整し、隊の両翼を固めた。魔法使いの女性リディアは後方から部隊全体を視界に入れつつ、魔力を周囲に薄く展開し、探知網を張っている。

 

 進むほど、森の気配は異常さを増していく。

 

「……隊長、妙です。生き物の気配が、まったくない」

 

 騎士エルンストは声量を落とし、盾の縁を木立へ向けた。鳥の囀りも昆虫の羽音もなく、落ち葉を踏む小動物の音さえ途絶えている。

 

「魔力に妙な乱れを感じます。精神への圧迫も、徐々に強く……」

 

 リディアが眉をひそめたところで、言葉が途切れる。彼女は片膝をつき、こめかみを押さえる。

 

「大丈夫か、リディア!」

 

「平気です。ただ……何かが近い」

 

 直後、部隊の前方の空間が不自然に揺らぐ。歪んだ影がいくつも現れ、ゆっくりと実体を得ていく。マインド・フレイヤーの群れだった。

 

 灰紫色の肌を持ち、頭部から無数の触手を伸ばした不気味な存在。彼らは音もなく宙を滑り、騎士たちの正面に立ちはだかる。その瞳には何の感情も映らず、ただ人間たちを冷ややかに見つめているだけだ。

 

「防衛線を組め! 連携を崩すな!」

 

 レオンハルトが盾列の後方まで届く声で叫ぶ。騎士は盾を構えて壁を作り、魔法使いたちは防御呪文の詠唱を始めた。だが、それより早く、マインド・フレイヤーの強力な精神波が部隊を直撃する。

 

【抵抗は無意味だ。我らに道を譲れ】

 

 声ではない。直接脳内に響く念波だ。複数の隊員が呻き、膝を折る。

 

「ぐあっ、頭が……! 何だ、この声は……!」

 

 若い騎士ヘルマンはこめかみを押さえ、よろめきながら叫ぶ。その隣にいたエルンストが即座にヘルマンを支え、前方へ盾を突き出した。

 

「惑わされるな、気を強く持て!」

 

 エルンストは半歩前へ出て、ヘルマンを自分の背にかばう。前列の騎士たちも同じように盾を高く上げ、剣先だけを前へ突き出して間合いを保つ。

 

 近づいてくるマインド・フレイヤーの触手が兜の隙間を狙って伸びるたび、彼らは盾の縁や剣の側面でそれを弾き、顔や頭部に触れさせまいと必死に牽制する。だが、防御に意識を割かれ、反撃の余裕はほとんどない。

 

 レオンハルトは指揮を続けるが、精神波に打たれるたび隊員の返答が遅れる。盾の列はじわじわと押し戻され、隣り合う盾の縁に指一本ぶんの隙間が開き始めていた。

 

 一方のマインド・フレイヤーたちは、指揮らしい言葉を交わさない。後方の個体が広く精神圧を展開する間に、前衛の個体は盾の届くぎりぎりまで間合いを詰める。誰も先走らず、人間たちの腕が下がるたび、同じ幅だけ前へ出てきた。

 

「隊長、このままでは──」

 

「持ちこたえろ! 絶対に防衛線を崩すな!」

 

 レオンハルトは号令を繰り返しながら、盾の隙間を数えた。一つ、二つ。抵抗をやめれば、触手がその隙間から一気に入り込む。だが精神波を受け続ければ、剣を向ける相手すら見分けられなくなる。喉の奥にせり上がる息を呑み込み、もう一度声を張った。

 

 頭蓋を内側から圧していた精神波が、唐突に乱れ始める。雑音のような不快な震動が広がり、マインド・フレイヤーたちも動きを止め、警戒するように周囲を探った。

 

「これは……何だ……」

 

 森の奥で枝先が一斉に沈み、幹の根元から白い霜が広がった。脳を圧する震動の中へ、地を這う冷気が割り込んでくる。

 

 地面に這うような冷気を伴いながら闇の中から姿を見せたのは、一体の巨大な魔族だ。その体躯は人間の騎士たちを遥かに上回り、重厚な鎧をまとった屈強な騎士エルンストでさえ見上げるほどである。

 

 額から反り上がる二本の骨角、仮面めいた骨の顔面、口元にのぞく牙。腰まで垂れる銀白の長髪が背を覆い、肩には厚い白毛のマント、身には黒の長衣と骨の飾り紐をまとう。逞しい両腕には黒褐色の装飾紋が巻かれ、毛皮の腕輪が縁を飾っている。

 

 「腐敗の賢老」クヴァール。人を殺す《ゾルトラーク》を生み、その術を人間に解析された末、フリーレンたちに討たれたはずの魔族である。

 

 だが、目の前のクヴァールは異様だった。異形の顔は微動だにせず、胸部も上下しない。腕も脚も、見えない糸で一つずつ引かれるように動いていた。

 

 クヴァールは踵を一定の間隔で落としながら防衛線へ近づき、無言のまま巨大な右手を掲げる。その掌に緑色の魔力が一点に凝縮し、次の瞬間、針のように細い光線が一直線に走った。ヘルマンは反射的に盾を持ち上げようとするが、その前腕に光が触れた途端、鎧と肉が音もなく灰色の粉へ変わり、ぱらぱらと崩れ落ちる。

 

 そのまま光線が胸を貫通すると、全身に細かな亀裂が走り、身体そのものが乾いたきしみを立てて崩壊していく。鎧も肉も骨も区別なく、触れた箇所から一息のうちに塵へ変わる。若い騎士ヘルマンは悲鳴を上げる暇もなく、その輪郭ごと細かな灰となり、足元の地面にさらさらと降り積もった。

 

「ヘルマンッ……!」

 

 エルンストが悲痛な叫びを上げる。しかしクヴァールの骨の顔面も、焦点の合わない目も動かない。その右手が再び上がったとき、マインド・フレイヤーたちは触手を縮め、一斉に後方へ退き始めた。

 

【これは我らのものではない。強制された死霊接合の臭いがする】

 

 先頭の個体が触手を縮めると、後続も間合いを揃えられないまま左右へ散った。精神波が途切れ、マインド・フレイヤーたちは木々の暗がりへ消えていく。

 

「撤退だ! 生き残った者は後退せよ!」

 

 レオンハルトは即座に撤退命令を出した。部隊は散開しながら後退を始めるが、クヴァールは追撃せず、掲げていた右手を下ろした位置で止まった。

 

 やがてクヴァールの背後の空間が歪み、濃霧が彼を包み込む。その背後に黒衣の人影が一瞬だけ現れ、そして共に消えた。

 

 レオンハルトたちは、ヘルマンの灰を森に残したまま木立の外へ走り出た。背後の霧が道を閉ざしても、誰一人足を止めなかった。

 

 *

 

 アストラル界を漂う巨大要塞都市トゥナラスは、死した神の石化した巨体の上に築かれた城塞都市だ。ギスヤンキという種族の拠点であり、通常の重力に縛られず、無限に広がる銀色の空間の中を静かに漂っている。

 

 外周部には尖塔や城壁が幾重にも重なり、その周囲には次元を渡ることが可能な銀色の艦隊が整然と待機している。艦船はいずれもアストラル航行用に改造され、船体の側面には呪文式と戦標が刻まれている。

 

 トゥナラス中央の大広場は、この日、特別な活気を帯びていた。数千のギスヤンキ戦士が列を揃え、甲冑が銀色の光を返している。一人一人が特異な形状の銀剣を携え、全員の視線が壇上へ集まっていた。

 

 空中には銀色の光を帯びた艦隊が無言で浮かび、薄い靄のようなアストラルの雲間に散開している。その巨大な艦艇群が微かな魔力の揺らぎを放ちながら、広場の戦士たちを見下ろしている。

 

 広場の中央に置かれた黄金の壇上には、ギスヤンキの軍団を統べる将軍ヴァルドレスが立っている。深紅のマントを翻し、細かな金細工が施された重い甲冑をまとい、壇の縁から一歩も退かずに戦士たちを見渡している。その視線が前列から後列へ移るにつれ、場の声が消えていく。

 

 将軍が腕を上げると、広場のざわめきが前列から順に止む。最後の甲冑の擦れる音まで消えるのを待ち、広場の隅々に届く声を放った。

 

「我らギスヤンキは長きに渡り、アストラル界の覇者として自由を謳歌してきた。遥か昔、我らの自由を奪い、忌まわしい支配の鎖を巻き付けた宿敵、マインド・フレイヤーを打ち破り、我らはその鎖を断ち切った。そして、アストラルの虚空は我らのものとなった!」

 

「栄光あれ!」「ギスヤンキに自由を!」

 

 兵士たちが一斉に銀剣を掲げ、鋭い歓声を上げる。広場全体の空気が一気に熱を帯びる。

 

「だが今、再び忌まわしき敵どもがその触手を伸ばし、我らが領域を脅かそうとしている。奴らは過去の支配を取り戻そうとし、我々の自由を再び奪おうと企んでいる!」

 

「許すな!」「奴らを殲滅しろ!」

 

 兵士たちは歯を剥き、銀剣の柄を胸元へ引き寄せて応じる。ヴァルドレス将軍は列の端まで声が届くのを待ち、言葉を続けた。

 

「奴らは新たな次元、閉ざされた原始世界に目をつけたとの報告があった。その世界には強力な魔族という種族が存在し、奇妙な魔力が満ちているという。奴らがこの世界を支配すれば、我々にとって計り知れぬ脅威となる!」

 

 兵士たちの間にざわめきが走る。

 

「何だと……」「新たな敵か……」

 

 将軍はゆっくりと手を挙げ、再び沈黙を促す。

 

「だが焦ってはならぬ。その次元への侵攻には長期にわたる準備が必要だ。次元座標の特定、界門の安定化、兵站網の整備。すべてを終え、万全を期してからその戦いに臨む!」

 

 ヴァルドレス将軍は前列を睨み、さらに語気を強める。

 

「我々ギスヤンキの戦いは、短期の勝利だけを求めるものではない。我らの目標は永続する自由と勝利だ。そのために必要な準備は決して無駄にはならない。これは栄光へと至る確かな土台である!」

 

 将軍が銀剣を高く掲げると、兵士たちはその言葉に応じて再び歓声を上げた。広場は熱気と叫びで満たされる。

 

 やがて演説を終えて壇上を降りると、ヴァルドレス将軍は側近の士官に小声で囁く。

 

「直ちに強襲制圧班を編成せよ。敵地に侵入し、強行制圧と陣地確保の準備を進める。魔族の存在する次元を奪取するには、マインド・フレイヤーよりも迅速でなければならぬ」

 

 側近は命令を復唱せず、踵を返して持ち場へ急いだ。

 

 一方、トゥナラスとは対極の位置にある地下深く、闇に閉ざされた大空洞オリンドールでは、別の動きが始まっている。

 

 オリンドールは、地表から遠く離れたアンダーダーク深層部に築かれたマインド・フレイヤーの都市だ。光の届かない大空洞には、生物の組織と石材を継ぎ合わせた建物が密集している。湿った通路は迷路のように枝分かれし、壁や天井を覆う繊維が、呼吸するように膨らんではしぼんでいた。

 

 その中枢には、エルダー・ブレインと呼ばれる巨大な脳が浮かぶ水槽状の施設がある。淡い緑光を放つ脳は一定の拍で収縮し、水槽内を漂っている。

 

 水槽を囲んで、オリンドールに属する無数のマインド・フレイヤーが整然と立ち並ぶ。彼らは触手の先をエルダー・ブレインへ向け、上位意識から流れ込む精神波動を待っていた。

 

 突如として、エルダー・ブレインの表面が激しく波打つ。強い精神の波動が四方に広がり、全てのマインド・フレイヤーにその意思が直接流れ込んでいく。

 

【我々の進化を妨げる異端種族、ギスヤンキが再び増長している。奴らはアストラル界を越え、新たな次元の支配を阻止しようとしているが、その試みは無意味である。我々はさらに強大な存在となる】

 

 周囲のマインド・フレイヤーたちは触手を一斉に持ち上げ、重なり合う同意の波を返す。

 

【ギスヤンキは我々の進化を理解できぬ原始的な存在に過ぎない。我々が注目するのは、魔族が跋扈する閉ざされた原始世界だ。新たな次元こそが、次なる我々の進化を約束する鍵となる】

 

 エルダー・ブレインの意識が続けて語りかけると、水槽を囲む触手の動きが速まり、精神波の間隔が短くなる。

 

【その次元には強力な魔族、ヒューマン、エルフ、その他多くの未統一の個体意識が乱立している。これらは個別の脆弱な精神しか持たず、我々の精神統合の前に容易く崩壊するだろう。個体意識の断片は、我々の集合意識に新たな力をもたらす】

 

 マインド・フレイヤーたちが一斉に共鳴し、精神の波を返す。

 

【統合せよ】【我々こそが唯一の精神】【彼らは抵抗できない】

 

 エルダー・ブレインの精神波動がさらに強く響く。

 

【しかし、新たな次元への侵略は急いではならない。永続する統合と真の進化を達成するためには、準備が必要だ。界門の安定化、次元間の精神波動の調整、現地生命体の詳細な分析と適応進化。それらが整ったとき、我々は次の段階へ至ることができる】

 

 マインド・フレイヤーたちは一斉に触手を動かし、明確な同意の波を送る。彼らの動作に焦りはなく、各作業は一定の速度で進められていた。

 

 その時、エルダー・ブレインの脈動が一拍だけ乱れる。広げた意識の縁に、周囲のどの個体とも異なる精神波が触れていた。

 

【警戒を怠るな。未知の波動が感知された。この存在について徹底的に探求し、我々の進化を妨げる可能性があるならば、即座に排除せよ】

 

 命令を受け、警戒の波動が周囲の個体から群れ全体へ広がる。

 

【未知の波動を分析せよ】【我々の進化を阻む存在は排除する】【進化に妥協はない】

 

 エルダー・ブレインの表面を走った波が収まり、一定の脈動に戻ると、命令が全個体へ届く。

 

【準備を急げ。我々の進化に遅れは許されない。全てが整った時、我々の精神はさらなる高みに到達する】

 

 マインド・フレイヤーたちは再び同意の波を送り、水槽を囲む輪から離れて担当区画へ戻っていく。エルダー・ブレインは一定の脈動を刻みながら、意識を大空洞の外へ押し広げた。

 

 *

 

 多元安定機構の次元監視室には、天井も壁もない。視界の果てまで散る星々の手前で、淡い光を帯びた巨大なホログラムが幾つも異なる世界を映し、その間を魔力の結晶体がゆっくりと巡っている。

 

 その中心では、調整者たちが低い声で情報を交換している。白いローブをまとった主任調整者アルヴァンは、長い黒髪を背へ流したハイ・エルフだ。報告者が入れ替わっても背筋を崩さず、深い紫の瞳を一人ずつへ向けて聞いている。やがて片手を上げ、次の報告を促した。

 

「状況報告をまとめてくれ」

 

 若い調整者フィンリアスが一歩前へ出る。金色の短髪と鮮やかな緑の瞳、薄い褐色の肌を持つウッド・ハーフエルフで、白銀の制服にはまだ着慣れない固さが残る。襟を正し、待機中も追っていた二つのホログラムを交互に示した。

 

「現在、アストラル界に勢力を持つギスヤンキと、地下世界に巣を張るマインド・フレイヤーが、それぞれ過去に例のない規模の侵攻作戦を準備している模様です。いずれも時間をかけて慎重に軍勢を編成している段階ですが、その規模は極めて大きく、どちらも重大な脅威になり得ます」

 

 アルヴァンは一つ目のホログラムから次へ目を移し、問いを重ねる。

 

「具体的な兵力数の推測は?」

 

 フィンリアスは唇を結び、首を横に振る。

 

「詳細な数値の特定は困難です。ただ、いずれの勢力も今までにない規模であり、大規模な精神支配軍や次元艦隊を投入する可能性が高いと考えられます」

 

 アルヴァンは二つのホログラムを並べたまま続ける。

 

「我々、多元安定機構はギスヤンキやマインド・フレイヤーのような大軍勢を持たない。正面から戦力で衝突するのは不可能に近い」

 

 調整者たちのうち数人が端末へ手を戻し、推定兵力の計算を続ける。彼らの任は観測と報告であり、正面から戦うことではない。少し間を置いて、フィンリアスが言葉を継いだ。

 

「また、両勢力が侵攻対象としている次元の創造者である女神の意向は、守護の神ヘルムを介し、彼の信徒が執り行った《Commune(交神)》を通じて当機構に通達されています。女神は多元安定機構による大規模介入を控えるよう強く求めており、理由は明示されませんでしたが、自らの世界の住人たちに脅威を乗り越えさせたい、世界の自律性を重んじたいという趣旨と解されます」

 

 フィンリアスが指を動かすと、対象次元を映すホログラムの脇に神託の記録が開いた。女神の求めを示す一節だけが白く浮かぶ。

 

 アルヴァンは目を細める。

 

「あくまでも理由は推測ということか。ほかに通達は?」

 

「当機構に対する直接の要請はありません。ただし、ヘルムからは、特定の神々の《選ばれし者》が少数送り込まれる旨のみが通達されています。その選定と投入の裁量は各神格に委ねられており、詳細は不明です」

 

 アルヴァンは短く頷いた。

 

「つまり我々は英雄の選定や投入には関与しないということだな。女神の意向を尊重する必要がある」

 

 別の調整者が口を開き、疑問を投げかける。

 

「しかし、状況がさらに悪化した場合、我々にはどのような判断基準があるのでしょうか?」

 

 アルヴァンは声の調子を変えずに答えた。

 

「我々が強硬手段を検討するのは、対象次元が完全に崩壊し、それが次元間秩序そのものに深刻な影響を与える場合、あるいは侵略側が対象次元を足掛かりに、多元宇宙全体を脅かす恐れが明らかとなった場合のみだ。あくまでもこれは我々自身が定める基準であり、女神から提示されたものではない」

 

 質問した調整者は封鎖領域の表示へ目を戻した。

 

「現状で我々に求められるのは、徹底した監視と情報収集だけだ。対象次元の自律性を損なわないよう、介入は最低限に控える。あくまで我々は監視者としての役割を全うすることが重要だ」

 

 各端末で監視項目が更新される。フィンリアスは報告一覧に残った最後の一件を開いた。

 

「もうひとつ、確認しておくべき案件があります。以前、任務中に対象次元に取り残された境界特務部のエージェント、タヴについてです」

 

 アルヴァンの視線が、報告一覧の名前で止まる。フィンリアスは一度言葉を詰まらせ、それでも話を続けた。

 

「彼の救出活動はこれまで一切行われていません。取り残された次元自体が非常に強固に隔離されており、次元干渉が極めて困難であることがその大きな理由ですが──」

 

 フィンリアスはいったん口を閉じ、アルヴァンが顔を背けないのを確かめてから続ける。

 

「彼が所属する境界特務部は、任務の性質上、上下関係と規律が非常に厳格です。タヴ自身の出自や、過去に魔力の制御を失って暴走した経験が問題視され、隊内で疎まれていたことも影響しているようです」

 

 その報告に、調整者たちは互いの顔を見る。アルヴァンは次元地図から目を離さず、いつもより長く息を吐いてから声を落とした。

 

「タヴか……。彼は混沌の傾向がある。組織内の規律や秩序よりも、自分の感情や意志を優先することもあった。だがそれが、彼の特性でもあり、力の源でもあるのだろう」

 

 フィンリアスはうなずき、探るような目を向ける。

 

「その性質が、今回のような事態において、どのような影響を及ぼすかが懸念されます。ですが、封鎖次元にいる彼に対し、我々が直接干渉することは不可能です。干渉どころか、観測さえも困難で……」

 

 アルヴァンはスクリーンの封鎖領域を指先で拡大し、像が何も返さないことを確かめてから言った。

 

「その通りだ。彼の運命について、我々が今できることは何もない。結局のところ、タヴ自身がどう動き、何を選択するかを、我々は見守るしかないだろう」

 

 その言葉が監視室に行き渡ると、調整者たちは声を発さず、それぞれの端末やスクリーンへ目を戻した。遠くの星々が瞬く中、アルヴァンは次元地図の封鎖領域から目を離さず、両手を背で組んだ。

 

 *

 

 湖に浮かぶ魔法都市オイサーストが眼前に広がっている。フリーレン、フェルン、シュタルクの三人は、都市へと続く広い石橋をゆっくりと渡っている。オイサーストへ入る前に、タヴはゼンゼやゲナウたちと共に手続きのため一足先に別れた。検知結界の調整と身分証の発行が必要だと説明されている。

 

 石橋を渡り切り、三人が都市へ足を踏み入れた瞬間、フェルンの足が半歩遅れる。路地の曲がり角や建物の入り口には隊列を組んだ兵士が立ち、顎を引き、口元を固く結んだまま往来する人々を見つめている。その並びが、幼い日の記憶を容赦なく呼び覚ました。

 

 通りを歩く市民は衛兵と目が合う前に俯き、道の端へ寄って足早に通り過ぎた。どこか遠くで、衛兵たちが短く切った命令を交わしている。その声が微かに響くたび、フェルンの背筋がぞくりと震える。

 

 衛兵の短い号令へ、燃える家々の向こうで飛び交った声が重なる。煙の中を走る人影。何度呼んでも返らなかった両親の名。フェルンは目の前の街路を見ているはずなのに、足裏にはあの日の熱が蘇っていた。

 

「すごい警備です……まるで、本当に戦争が始まったかのようで……」

 

 絞り出した声は末尾で震えた。フェルンの手は外套の脇で固く握られている。

 

 シュタルクはそれに気づいて半歩だけ距離を詰めた。フリーレンも二人の遅れを横目で確かめ、自分の歩幅を合わせる。

 

「北側諸国で頻発している異界からの侵入者。都市がこうなるのも当然だよ。協会は警戒を緩めないだろうね」

 

 フェルンは返事をせず、意識して指の力を抜いた。それでも呼吸は浅いままだった。

 

 目の前を歩く若い母親が子どもの手を強く引き、衛兵の前を足早に通り過ぎていく様子が視界の端に映る。フェルンは、かつての自分の姿をそこに重ねてしまう。

 

 シュタルクが眉を寄せながらフリーレンに尋ねる。

 

「こんな状態で、本当に一級魔法使いの試験なんてやるのか?」

 

 フリーレンは街路の先から目を戻さず、間を置かずに答える。

 

「むしろ、こんな状況だからこそ実施するんだよ。今、優秀な魔法使いが必要とされているだろうからね」

 

 フリーレンたちが一級魔法使いの試験を受けようとしているのには、はっきりした理由がある。彼らが目指すのは、大陸の最北端に位置する地。陸路でそこに至るためには、北部高原を抜けなければならない。

 

 しかし今では情勢の悪化に伴い、外部の人間が高原を通過するには一級魔法使いの同行が義務づけられている。三人は試験の受験登録を済ませるために、大陸魔法協会北部支部に向かっていた。

 

 フリーレンたちは通りを抜け、協会の各施設が並ぶ坂道を登っていく。やがて都市の最奥部、小高い丘の上に大陸魔法協会北部支部が堂々と姿を現す。街全体を見下ろす位置にある巨大な石造りの建物だ。湖に囲まれた堅固な城壁の内側に建ち、真っ白な塔は都市を見張るように凛とした威厳を放っている。

 

 フリーレンたちはその建物に入り、受付へと向かう。試験について尋ねると、若い女性職員は申請用紙を三人の前へ広げ、記入欄を指先で順に示した。

 

「試験は二か月後になります。一級魔法使いの試験は三年に一度の開催ですのでご注意ください。また、受験資格として五級以上の魔法使いの資格が必要になります」

 

 説明が終わるやいなや、フリーレンはくるりと背を向け、その場から離れようとする。もとより彼女は、大陸魔法協会の認定資格を一つも持っていない。

 

 さらに都市に入る前、フリーレンはゼーリエに訪問の目的を問われ、一級魔法使いの試験を受けるつもりだと伝えている。そのときゼーリエからは、試験への参加をはっきり禁じられた。「おまえが試験に参加すれば、試験の公平性が著しく崩れる」と告げられたのだ。

 

 だが、フェルンは遠ざかる背へ足早に追いつき、フリーレンの耳元へ口を寄せる。

 

「フリーレン様、私一人じゃ無理です」

 

 フリーレンは肩に掛かった髪を払い、すぐに答える。

 

「いけるって。フェルン、任せたから」

 

 フェルンは寄せた眉を戻さず、さらに言う。

 

「落ちたらどうするつもりですか? 一級試験は三年に一度なんですよ」

 

 フリーレンは軽く肩をすくめ、曲げた指で二つの選択肢を数える。

 

「そしたら一級魔法使いを雇うか、海路で渡るよ」

 

 フェルンは眉をさらに寄せ、組んだ指に力を込める。

 

「それだと凄くお金がかかりますよ。また毎日おやつ抜きになってしまいます」

 

 フリーレンは受付の説明書きへ目を落とし、ひと呼吸置いて呟く。

 

「……とは言っても、ゼーリエにも止められてるし、どうせ私は無資格だからそもそも受けられないよ」

 

 フリーレンが出口へ顔を戻して言い切ると、フェルンはため息をつき、ひとまず小さく頷く。

 

 受付職員は一連のやりとりを聞いていたらしく、説明書きを胸元で持ち直す。一度唇を閉じてから、フリーレンたちへ付け加える。

 

「念のためお伝えいたしますが、今回の一級魔法使いの試験は通常とは異なり、厳戒態勢の中で実施されます。試験場には複数の警備結界と、多数の魔法使いや衛兵が配備される予定です。受験者に対し、魔力検査が行われる可能性もあります。ご了承ください」

 

 シュタルクが受付職員と扉の衛兵を見比べて呟く。

 

「魔法使いの試験なのに、まるで要人警護か何かみたいじゃないか」

 

 受付職員の口から警備結界や魔力検査の説明が重なるたび、フェルンはフリーレンを振り返る。フリーレンはその目を見返し、軽く顎を引く。

 

「状況が状況だからね。でも、フェルンならきっと大丈夫」

 

 フリーレンの言葉を聞くと、フェルンの肩からほんの少し力が抜けた。強く握っていた指も一本ずつ開き、フェルンは小さく頷いた。

 

 シュタルクは二人を交互に見て、後頭部を掻きながらため息をつく。

 

「何にしても俺にできることはなさそうだな。魔法なんてさっぱり分からんし……」

 

 フリーレンは彼を一瞥し、足を止めずに返す。

 

「そうでもないよ。こういう時だからこそ、シュタルクみたいな頼りになる戦士がいてくれると助かるんだ」

 

 シュタルクは二度瞬き、耳を赤くしてすぐに顔を逸らした。

 

「何だよ急に……まあ、そう言ってもらえるのは嬉しいけど」

 

 フェルンはそのやり取りに口元を緩めたが、試験案内へ目を戻すと指先で紙の端を押さえた。

 

「ところで、一級魔法使いの試験って、具体的に何をするのでしょうね……」

 

 フリーレンはそんなフェルンを見て、軽く首を横に振る。

 

「さあ、私に聞かれても困るよ。大陸魔法協会という組織自体、私は最近まで知らなかったくらいだからね」

 

 フェルンは胸元で指を組み直して呟く。

 

「それじゃあ、どうやって準備をすればいいのでしょう……」

 

 フリーレンは壁の館内案内と、廊下の先に並ぶ扉を見回した。

 

「せっかくだから協会の文書館に行ってみよう。協会が管理している資料なら、過去の試験の傾向や出題内容に関する情報も揃っているかもしれない」

 

「それはいいですね。少しでも情報があれば心強いです」

 

 フェルンは試験案内の端を押さえていた指を離し、館内案内へ顔を上げる。

 

「俺も暇だから付き合うよ。どうせ、他にやることもないしな」

 

 シュタルクも組んでいた腕を解き、館内案内へ目をやった。

 

「じゃあ決まりだね。早速、文書館へ向かおうか」

 

 フリーレンは受付で文書館への道を聞き、先に支部の扉を押し開けた。外では警備の兵が二列で通り過ぎている。三人はその列を待ってから通りへ出て、教えられた角を文書館の方へ曲がった。

 

 *

 

 タヴはオイサーストの城門の外で、結界の境を示す標石の一歩手前で足を止めている。その隣には、大陸魔法協会の一級魔法使いであるゼンゼとゲナウが並ぶ。ゼンゼは細い指先を上げ、都市を取り囲むように広がる目に見えない壁の位置を示した。

 

「オイサーストには検知結界というものが張られている。異界の魔力を持つ君がそのまま入ると、警報が鳴ってしまうからな」

 

 ゼンゼは長い髪を背に揃え、タヴの顔から背負ったクオータースタッフへ視線を移していく。ゲナウはタヴとの距離を変えず、結界の標石へ目をやって言葉を継いだ。

 

「だが安心しろ。これからお前の魔力の波長に合わせて結界側を調整すれば、干渉は避けられる」

 

 タヴは二人の説明に短く頷き、もう一度、高い城壁とその内側の街並みを見上げた。

 

「手間をかけて悪いな。協力してもらえるのは助かる」

 

 ゲナウは小さく頷き、門の脇にある石造りの施設へ先に足を向ける。

 

「では行こう。結界調整施設はこの門のすぐ外側だ」

 

 三人が城門脇の石造りの施設へ向かうと、入口を守る衛兵がゼンゼとゲナウを認めて敬礼した。二人の返礼と入場許可を受け、衛兵が重い扉を押し開ける。

 

 施設の内部には冷ややかな空気が流れ、廊下の先にある魔力解析室では、複雑な幾何学模様を刻んだ魔法陣と、淡い光を放つ結晶体が整然と並んでいる。複数の技術者がそれぞれの持ち場で準備を進めていた。

 

「ここだ」

 

 ゲナウに促され、タヴは室内中央の魔法陣へ入った。円が足元で閉じると、ゼンゼが技術者たちに指示を飛ばす。

 

「準備はいいか? 魔力を普段通りに流してくれ。君の特異な魔力特性を解析して、都市の検知システムから除外する調整をする」

 

 タヴが普段どおりに魔力を滲ませると、足元の魔法陣と周囲の結晶が青白く光り、小刻みに震えた。計測器の針が跳ね、技術者たちが記録を取り始める。

 

 ゲナウは技術者から受け取った記録板の数値を指で追い、最後の欄で止めた。

 

「……本当に特異な魔力だな。波長がこちらの魔法体系と大きくずれている……」

 

 ゼンゼも記録板を覗き込み、同意する。最後の欄から視線を動かさず、口元を固く結んだ。

 

「これでは通常の結界では確実に検知されてしまうな。多少、複雑な調整が必要になりそうだ」

 

 ゼンゼが読み取った波形へ識別術式を重ねる。技術者はその指示に従い、魔法陣を囲む結晶の光をタヴへ揃えた。

 

「彼の魔力波長を、都市の結界システムの例外処理に登録してくれ。既存の検知体系とは干渉しないよう、別の層で魔力波長を管理するんだ」

 

 技術者たちが術式を結ぶと、結晶の明滅が同じ間隔へ揃った。細い光の輪が足元から肩まで上がり、自分の魔力の輪郭を外側からなぞっていく。不意の不快感にタヴの指が強張ると、ゼンゼは声を一段落とした。

 

「少し不快かもしれないが、じきに慣れる。君の魔力そのものには手を加えていないから、心配はいらない」

 

 やがて光の輪がタヴを一周しても警告音を返さなくなった。ゲナウは結晶の反応と記録を照合し、一度頷いた。

 

「うまくいったようだな。これでお前の魔力は、オイサーストの検知結界に反応しなくなったはずだ」

 

 タヴは魔力を押しならす感覚が消えたのを確かめ、小さく息をついた。ゲナウはそれを見届けると、次の段取りへ話を進める。

 

「次は、お前が都市内で自由に動けるように身分証を発行しよう」

 

 隣接する事務室へ移ると、ゲナウは金属製のカードを机上の魔法陣へ置いた。低い詠唱に応じて魔法陣が輝き、カードの表面に精緻な魔法文字が浮かび上がる。刻印が落ち着くと、淡い光だけが残った。追跡や観察の印ではなく、この都市での滞在を認める印が自分に与えられようとしている。タヴは浮かび上がった文字を黙って見つめた。

 

「これがお前専用の身分証だ。都市内の衛兵に提示すれば、協会が管理する共有施設には自由に入れる。特に今は厳戒態勢だ。市民の夜間外出は制限されているから、夜に兵士に止められた時も必ずこれを見せろ。いちいち説明する手間も省ける。紛失は厳禁だぞ。慎重に扱え」

 

 タヴは机上のカードへ身を寄せ、刻まれた細かな紋様を確かめてから、丁寧に頭を下げる。

 

「感謝する」

 

 ゼンゼは身分証をタヴの掌へ置き、指を離して告げた。

 

「君が協力的で良かったよ。異界からの侵略者とやらのせいで、この都市もかなり敏感になっているからな」

 

 そこでゲナウがふと問いかける。

 

「この後はどうするつもりだ?」

 

 タヴは一度、手にした身分証へ目を落としてから答えた。

 

「まずはこの世界について詳しく知りたい。魔法や歴史に関する資料がある場所は知っているか?」

 

 ゲナウは頷き、親指で西棟の方角を示す。

 

「それなら協会が管理している文書館を訪れるといい。支部の西棟にある巨大な建物だ。先ほどの身分証を提示すれば入館可能だ」

 

 ゼンゼはタヴの顔を見据え、最後に一言加える。

 

「大丈夫だとは思うが、騒ぎを起こすなよ。私は他にも仕事があるから、君のために時間を取られるのは御免だからな」

 

 タヴは口元をゆるめ、二人の配慮にもう一度礼を述べる。

 

「承知した。迷惑はかけないよう注意する」

 

 二人はその返事に頷き、施設の出口までタヴを見送った。

 

 調整施設を出たタヴは、改めてオイサーストの城門を見上げる。金属製の身分証を掌で裏返し、刻印の光を確かめて内ポケットへ収めると、文書館を目指して結界の標石を越えた。

 

 *

 

 大陸魔法協会北部支部に隣接する文書館は、歴史ある荘厳な石造りの建物だ。正面入り口をくぐると、静寂と重みのある空気が内部を支配している。高い書架には魔導書や古文書が整然と並び、微かな埃と古紙の匂いがひっそりと漂っている。

 

 フェルンは書架の背表紙を指で追い、魔法試験に関連する本を探している。フリーレンは棚の端まで視線を走らせながら、手元の書物のページをめくっていく。シュタルクは二人が机へ積み上げた資料を前に、早くも手持ち無沙汰になっていた。

 

 フリーレンが資料の同じ行へ指を置いたまま呟く。

 

「大陸魔法協会の規定だと、魔法使いは一般的に五級から一人前と呼ばれているみたいだね」

 

 続けてフリーレンは資料から目を離さずに問いかける。

 

「フェルンはなんで三級を取ったの?」

 

 少し離れた書架で本を探していたフェルンが、抜きかけた本を棚へ戻して答える。

 

「一番試験の日程が近かったからです」

 

 フェルンの返答はそこで終わり、すぐに書架へ向き直る。フリーレンは一度フェルンへ目をやり、シュタルクは机に頬杖をついたまま目を閉じていた。

 

 フリーレンは手元の本のページを繰り、目当ての記述を見つけると目を細める。

 

「五級以上の魔法使いの総数が六百人。見習いの六級から九級を含めても全体で二千人か。その内一級は四十五人。一級試験は三年に一度で、オイサーストの北部支部と聖都シュトラールの本部の二か所で開催」

 

 フリーレンは資料の内容を一定の速さで読み上げ、段落ごとにページを送っていく。

 

「合格者が出ない年も多い。当たり前のように死傷者も出ている。それなりの難関だね」

 

 フリーレンはそう告げると書架の方へ歩き、別の資料をゆっくりと探し始める。少し間をおいて、さらに言葉を継いだ。

 

「それにしても魔法使いも大分数が減ったね」

 

 その言葉を聞き、フェルンの指が背表紙の途中で止まる。顔を上げ、フリーレンの背中に問いかけた。

 

「昔はもっと多かったのですか?」

 

 フリーレンは本を閉じて振り返り、フェルンと目を合わせて語りかける。

 

「魔王軍の攻勢が激化した百年前だったら、町を歩けば魔法使いとすれ違うのが当たり前だったからね。今だとこういう魔法都市でもないと見かけない」

 

 フリーレンは一拍置き、資料の角を親指で撫でる。

 

「まあ、今は異界からの侵略者がいるから、今後は百年前より増えるかもしれないけど」

 

 フェルンの指が本の背で止まり、シュタルクも閉じていた目を開けた。三人の間で、ページをめくる音が一度途切れる。

 

 フェルンはフリーレンへ顔を向け、少し間を置いて問いかける。

 

「……私たちは、このまま旅を続けていても良いのでしょうか。状況がどんどん悪くなっているのに」

 

 フリーレンはフェルンから目を逸らさず、言葉を急がずに答える。

 

「私たちにできるのは、今目の前にあることを一つ一つやっていくことだけだよ。焦っても仕方ない。私たちの旅の先にも、必ず何かできることがあるはずだから」

 

 フェルンは唇を引き結び、小さく頷く。シュタルクは頬杖をついたまま軽くため息を吐き、館内の奥へ目をやった。その時、書架の間で資料を探している見知った人影に気づく。

 

 シュタルクの頬杖が外れ、二人へ小さく声をかける。

 

「おい、あそこにいるの、タヴじゃないか?」

 

 シュタルクの言葉を受け、フリーレンとフェルンもそちらを向く。フリーレンは一度顎を引き、タヴの方へ歩み寄った。

 

「タヴも何か探してるの?」

 

 その声に気づき、タヴは頁へ指を挟んで振り返る。

 

「元の世界に戻るための糸口を探しているんだ。それにはここの魔法や歴史を知る必要があると思ってな」

 

 その答えを聞き、フェルンはふっと肩を下げ、溜めていた息を吐く。

 

「タヴ様がここにいるということは、身分証の発行や手続きも無事終わったのですね。良かったです」

 

「ああ、協会の魔法使いが丁寧に対応してくれたからな。これでもうノルム商会領の時みたいに不法侵入しなくて済むな」

 

 タヴは言い終えて眉を上げるが、すぐ手元の本へ目を落とす。シュタルクは頭を掻き、フェルンは息だけで笑った。タヴは書物の表紙へ指先で触れ、《Comprehend Languages(言語理解)》を小さく唱える。

 

 書物が彼の指の下で淡い光を放つのを見て、フリーレンは目を細め、指先から広がる光を追う。

 

「その魔法、本当に便利だね」

 

「そうだな。この世界に来て一番使った魔法かもな。ただ、書くことまではできないからな……。将来のことを考えると、本格的にこの世界の言語を学ばないといけないと思っている。結界内だと発話用の《Tongues(言語会話)》は、上手く動作しないこともあるしな」

 

 説明しながら、タヴは都市へ続く橋の前で《Tongues(言語会話)》を使った時の光景を、今も鮮明に思い返す。言葉は通じた。だが、意味が直接頭へ押し込まれるたび、ゼンゼとゲナウは揃って顔をしかめていた。あの反応を繰り返させずに話すには、この世界の言語を覚える必要があると痛感していた。

 

 ゼーリエの《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》も、効果は一日ほどだと聞いている。一日おきに訪ねてかけ直してもらうのは現実的ではない。彼女の性格を考えれば、毎回のように頼むのを間違いなく面倒くさがるだろう。タヴは題字の一文字目へ指を戻し、まだ音にできない形をもう一度なぞった。

 

 フリーレンはタヴが開いていた本へ一度目を落とした。

 

「それがいいかもね。本当はタヴの調べ物や言語習得を手伝ってあげたいけど、二ヶ月後にフェルンが一級魔法使いの試験を受けるから、その対策のために一緒に修行する必要があってね。力になれなくてごめんね」

 

 タヴは本を半ばまで閉じて口を開く。

 

「一級魔法使いの試験……? ああ、そういえばあんたたちがオイサーストに来たのは、その試験を受けるためだったな。大陸魔法協会の認定資格とか言っていたか」

 

 フェルンは胸元で指を握り、床へ目を落とす。

 

「そうです……お力になれずに申し訳ありません……」

 

 シュタルクも机の端へ片手をつき、タヴから目を逸らす。

 

「正直、俺は魔法も歴史も詳しくないし、言葉に関しても誰かに教えられるような自信はないからな……ごめん」

 

 タヴは軽く手を振り、三人の顔を順に見て返した。

 

「気にするな。こっちはこっちで何とかするさ」

 

 しばらく他愛ないやり取りが続いたあと、フェルンは胸元で指を組み直した。二度ほど口を開いては閉じ、三度目に出た声も途中で詰まる。

 

「あの……その、タヴ様は、元の世界に安全に戻る方法が分かったら、そのまますぐ帰ってしまうのですか?」

 

 シュタルクはフェルンへ向き直る。

 

「フェルン?」

 

 タヴはフェルンの眼差しをじっと受け止める。返事の前に短く息を吸い、最初の音を僅かに掠らせた。

 

「方法が分かって、即座に実行できるのならそうするつもりだ」

 

 フェルンは組んだ指を解けないまま、さらに尋ねる。

 

「それは……異界の軍勢と本格的な戦争が始まっていても、ですか?」

 

 タヴは何かを言いかけて唇を動かすが、息だけを漏らして口を閉ざす。目がフェルンから手元の本へ落ちた。シュタルクがフェルンを振り返り、フリーレンは開いていた本を閉じてから三人の間へ割って入った。

 

「ここで話すことじゃないね。タヴ、今夜私たちが泊まる宿に来ることはできる?」

 

 タヴは小さく頷き、フリーレンから宿の場所を聞き取る。フリーレンはそのあとでタヴの襟元から靴先までじろりと眺め、間を置かずに続ける。

 

「あと、タヴはその服を早く着替えたほうがいいよ。ボロボロでどこかの遺跡で放置された古いミイラみたいだよ」

 

 あまりにも率直な物言いに、タヴは目頭を揉み、小さくため息を吐く。

 

「今は金がなくてな……まあ、懐に余裕ができたら考えておく」

 

 シュタルクはフリーレンの方へ身を乗り出す。

 

「フリーレン……もっと言い方があるだろ……」

 

 フリーレンは振り返らず、出口に向かって歩き始める。フェルンも胸元で両手を揃えて一礼し、シュタルクと共にその後を追う。

 

 三人の姿が出口の向こうへ消えたあと、タヴは再び手元の本に目を落とす。同じ行に指を置いたまま、次のページへ進めない。フェルンの問いだけが、文字より鮮明に残っていた。

 

 *

 

 ページをめくる紙の音が、書架の間でかすかに響いていた。文書館の一角で、タヴは無言のまま書物を広げている。机にはこの世界の歴史や魔法に関する本が何冊も積まれ、その傍らで彼の指が文章を一行ずつ追う。

 

 何度か小さく《Comprehend Languages(言語理解)》を唱えると、書物が淡く光り、読めなかった字形が意味を伴って意識へ入ってくる。異界の文字を理解できるようになる術だ。タヴはそのまま読み進めた。

 

 最初に開いた年代記には、約八十年前に魔王を討った勇者ヒンメルの名が何度も現れた。戦いが終わった後まで、彼の選択が各地の人々や魔法使いへ影響を残している。タヴは逸話の頁だけでなく、同じ名が後世の記録へどのように書き継がれているかを辿った。

 

 次に手に取った魔法史では、フランメが人類の魔法を初めて体系立て、多くの弟子へ伝えたとされている。術者ごとに閉じていた知識が教えられる形へ変わり、生活や文化へ広がっていく過程には、タヴが知る諸世界との共通点もあった。頁の余白へ目印を挟み、年代の異なる二冊を机上で開き直す。

 

 タヴは複数の資料を並べ、年代や土地の名が食い違う箇所を見比べながら、この世界の情勢を掴もうとした。やがて西の窓から差す夕陽が頁を赤く染め、書架の影も机まで伸びてくる。フリーレンに指定された宿へ向かう時刻だった。

 

 書物を閉じて表紙へ掌を置き、席を立とうとしたその時、入口のほうから一定の間隔で足音が響く。タヴが無意識に目を向けると、一人の老人が書架の間を進み、蔵書を眺めるふりをしながらこちらへ近づいてくるのが見えた。

 

 老人は柔らかな白髪を肩に流し、上品な白い外套をまとっている。歳を重ねた顔には細かな皺が刻まれ、その目は棚からタヴの手元へ一度だけ動いた。やがてタヴのそばの棚で立ち止まり、書物を一冊抜いてページをめくり始める。その動きには無駄がなく、偶然を装っていながらも、最初からこの位置を選んでいたことがうかがえた。

 

 数瞬の沈黙の後、老人は今気づいたかのように顔を上げ、タヴへ浅く会釈した。

 

「失礼しました。集中されていたのに、邪魔をしてしまったようですね」

 

 老人は声を抑えたまま名乗る。

 

「私はレルネンと申します。大陸魔法協会で一級魔法使いを務めております。ゼーリエ様の弟子でもあります」

 

 ゼーリエの名を聞き、タヴの目が細くなる。

 

「ゼーリエの弟子か……俺に何か用か?」

 

 レルネンは開いた書物を胸元へ寄せ、背筋を正して言葉を重ねる。

 

「タヴ様ですね。ゼーリエ様からお話を伺っておりましたが、まさかここでお会いできるとは。不思議な巡り合わせもあるものですね」

 

 タヴは目を逸らさず、間を置かずに答えた。

 

「偶然にしては、随分と自然な近づき方だったな」

 

 レルネンは棚から抜いた書物を静かに閉じ、素直に認める。

 

「やはりお見通しでしたか。申し訳ありません。実は少し前からあなたのことをお見かけしていて、ぜひ一度お話をしてみたいと思っていたのです。ゼーリエ様があれほど興味を抱く人物を、この目で見ないわけにはいきませんので」

 

 タヴはしばらくレルネンを見返したのち、引きかけていた椅子へ座り直した。

 

「……まあ、邪魔をしない程度なら、話くらいは聞こう」

 

「ありがとうございます。……先ほどあなたが使われていた魔法は、我々のものとは随分違うようですね。翻訳系の魔法ですかな? 私も魔法使いの端くれとして、非常に興味があります」

 

 レルネンは書物に残る淡い光を指し、術式の働きを一つずつ問いかける。タヴもこの世界の翻訳魔法の制約について尋ね返した。レルネンは考え込む間もなく要点を返し、やがて話題がゼーリエへ移ると、タヴは率直な疑問を口にした。

 

「ゼーリエというのは一体どんな人物なんだ? 何度か話したが、どうも掴めない」

 

 レルネンは手の中の書物を見下ろして答える。

 

「ゼーリエ様は偉大な方です。ただ同時にとても面倒くさい方でもあります。私も長く師事していますが、未だ完全には理解できていません。……ですが、魔法への探求心やその情熱は本物でしょう」

 

 タヴは軽く頷く。ゼーリエの言動を思い返せば、その評価は確かに腑に落ちる。レルネンは一度口を閉じ、胸元の書物へ目を落とした。次に顔を上げた時、口元の笑みは消えていた。

 

「タヴ様、あなたのような存在がここに現れたこと自体、我々が直面している危機が尋常ではないことを示していると感じています。異界の軍勢による大規模な侵略が、やはり避けられないのでしょうね」

 

 「大規模な侵略」という言葉に、タヴの指が机上の頁を押さえた。レルネンは閉じた書物を胸元へ抱え直して問う。

 

「率直にお尋ねします。我々は……あなたの目から見て、その侵略に勝てる見込みがあると思われますか?」

 

 タヴの脳裏に、フェルンが胸元で指を強く組んでいた姿がよぎる。一級試験を控える彼女も、侵攻が本格化すれば戦いから無関係ではいられない。タヴは机の端を見て、答えを口にする前に息をひとつ整える。

 

「分からない。それが正確に判断できるほど、この世界の軍事力や技術水準をまだ完全には把握していない」

 

「あなたが現状把握している範囲で構いません。正直なところを教えていただきたいのです」

 

 レルネンは瞬きもせず、タヴの返答を待っている。タヴは短く息を吐き、続けた。彼自身、この話題に踏み込むことを歓迎してはいないが、レルネンにも言葉を濁す気配はなかった。

 

「……あんたたちが銀色の装甲を身につけた人型の集団と呼ぶ連中はギスヤンキ、触手状の器官を持つ異形の連中はマインド・フレイヤーと呼ばれている。俺の世界ではどちらも次元を超えて複数の世界を侵略し、征服した記録がある」

 

 レルネンの指が、書物の縁へ食い込む。

 

「ギスヤンキは高度に発達した軍事力を持っている。統率された軍団で、迅速かつ効率的に世界を支配することに長けている」

 

 タヴはそこで言葉を区切った。

 

「一方、マインド・フレイヤーは、より陰湿だ。強力な精神操作能力を使って、相手を内部からじわじわと瓦解させる」

 

 レルネンが次の言葉を待っているのを確かめ、タヴはさらに付け加えた。

 

「どちらも、それだけでも十分に世界を脅かす力を持っている。……その両者が同時にこの世界を狙っているなら、全ての国々が団結したとしても、勝利は極めて難しいだろう」

 

 レルネンは書物を抱え直した。背表紙が衣服に擦れ、小さな音を立てる。

 

「だが、可能性がゼロというわけではない。ギスヤンキとマインド・フレイヤーは互いに強い敵意を抱いている。むしろ、明確な敵対関係と言ってもいい」

 

 タヴはレルネンの顔を見たまま、言葉を選んで続ける。

 

「もしその敵対関係を巧みに利用し、互いに衝突するよう誘導することができれば──そこに勝機が生まれる可能性はある」

 

 タヴは机の端へ視線を戻した。

 

「だが、いずれにしても被害は甚大だ。人的損失、魔法的被害、社会的被害、あらゆる面で想像を絶する打撃を受けることになる。文明自体が大きく後退し、元の水準に回復できるかすら分からない。それほどの破壊と混乱が、この世界を襲うことになるだろう」

 

 タヴが口を閉じても、レルネンはすぐには返さなかった。しばらく黙したのち、小さく頷いた。

 

「……やはり、そうですか」

 

 レルネンの声は掠れ、最後の音が消えた後にも唇は固く結ばれている。タヴはもう一度、窓の外を見やる。外の光はさらに弱まり、室内の明るさもゆっくりと落ちていった。

 

「そろそろ約束がある。今日はこれで失礼する」

 

「また、お話しできる機会を楽しみにしています」

 

 レルネンが胸元の書物を抱え直して頭を下げるのを横目に、タヴは文書館を後にし、夜の街へ踏み出す。衛兵の号令が遠く響き、冷えた夜気が頬に触れた。

 

 *

 

 星々の光と霧が渦巻く、境界なき座。実体を持たない四柱の意識が、互いの輪郭を侵さぬ距離で向き合っている。モラディンの気配には鋼を鍛つ火花が散り、ティアの前では天秤を思わせる二条の光が釣り合う。ミストラを巡って魔法の網が走り、イルメイターのもとへは傷ついた者たちの祈りが集まっていた。

 

 やがて、イルメイターのもとに集う光が一斉に震える。痛みを押し包むような低い声が、星霧の間へ広がった。

 

「新たな災厄が目覚めた。我らが守護する次元に、忌まわしき混沌の眷属たるデーモンどもが再び湧き出でている」

 

 イルメイターの報せを受け、モラディンを巡る火花が止まり、ティアの二条の光も揺れを収める。続く言葉を待つあいだ、細い祈りだけがイルメイターの周囲で明滅していた。

 

「しかも、その背後には、闇に魅入られた狂信の徒らが蠢いている。彼らを陰で操るは、我らと対を成す悪しき神格である可能性が高い。何よりも……その出現の時期があまりにも出来過ぎている。我々が《選ばれし者》を別次元に送ろうとしたこの時に、デーモンが湧き出でるなど、偶然とは考えにくい」

 

 法と秩序の神ティアの前で、釣り合っていた二条の光が大きく傾き、すぐに均衡を取り戻す。イルメイターの言葉が示す狙いを、ティアは即座に読み取った。

 

「悪神が絡むとなれば、事態は一層深刻になる。明らかに《選ばれし者》の派遣を妨害する意図があるとみて間違いない。我々が想定した以上の困難を覚悟せねばなるまい」

 

 モラディンの火花が弾け、鍛鉄を打つような声が響く。

 

「《選ばれし者》を送るべき次元への派遣準備が整った矢先に、これほど露骨な邪魔を仕掛けてくるとはな……しかし、放置すれば悪神どもの狙い通り、混沌がこの次元を飲み込むであろう。直ちに対処せねばならぬ」

 

 モラディンの言葉が消えると、残る三柱の光が同じ拍で明滅する。次いで、ミストラの声が魔法の網を伝った。

 

「今一度、我らが《選ばれし者》の特性と役割を確認しよう」

 

 言葉が通るたび、網の結び目が星のように点り、四つの像を結んだ。セリアは崩れた聖域の門で大盾を押し返し、背後の避難民が峠を越えるまで足を退かない。イーシャは瓦礫の路地に膝をつき、見知らぬ負傷者の胸へ両手を当てている。

 

 別の像では、ブロックスが霜鉄炉の前でバトルアックスを研ぎ、刃へ走る火を一筋ずつ確かめていた。その隣でラジエルは次元の裂け目を写した星図へ指を走らせ、既存の記号にない揺らぎへ目を細めている。

 

「セリア・イグナリアは揺るぎなき守護の盾。ティアの加護を受け、あらゆる脅威を前にしても退かぬ強さを秘める。イーシャ・グレイブレアはイルメイターの慈悲そのもの。癒しをもって絶望を払い、傷ついた魂を救い上げる。ブロックス・フレイムスミスはモラディンの鋼と炎を背負い、如何なる敵をも焼き尽くす刃となる。そしてラジエル・サン=エリオスは、我が魔法の精髄を体現し、次元の狭間を越え、未知の魔法にも迅速に適応する術者だ」

 

 四人の名が告げられると、ティアの二条の光が一段前へ進み、提言する。

 

「こちらに現れたデーモン共への初動対応としては、ブロックスをまず送り込むべきだろう。現時点で即座に動ける《選ばれし者》は彼とラジエルのみだが、ブロックスはモラディンの加護を受けしクレリックとして、デーモンや悪しき存在への対処に最も秀でている。彼の聖なる炎の刃ならば、混沌の眷属たちの侵攻を抑えることが可能であろう」

 

 ティアの二条の光が、モラディンを巡る火花の側へ傾く。

 

 モラディンの周囲で、火花が一度強く弾ける。

 

「ティアの言う通りだ。ただしブロックスの胸中には、次元の狭間に取り残された戦友への個人的な感情がある。その私情が使命を妨げないかが懸念されるところだ」

 

 イルメイターから伸びた細い光が、モラディンとの間を繋ぐ。

 

「懸念は理解できる。だが、彼もまた混沌の脅威をよく知る者。守るべき次元が無事でなければ、その戦友が戻る場所すら失われることを、彼は十分に理解しているはずだ」

 

 ティアを示す二条の光が交差し、ひとつの線に揃う。

 

「そうだな。ブロックスの責任感を信じよう。なお、セリアとイーシャは準備が整い次第、即刻ブロックスの援護に向かわせることとする」

 

 四柱の光が中心へ寄り、ひとつの輪を形作る。その輪を保ったまま、ミストラが続ける。

 

「もう一方の次元への対応も急がねばならない。全員をデーモン対処に当たらせては、異界への対応が遅れすぎる。即座に向かえるのはラジエルしかおらぬ以上、彼を先行させるべきだ。異界には主としてヒューマンが住まうゆえ、同じヒューマンとして現地の民とも調和を築きやすい。迅速に次元の裂け目を塞ぎ、使命を遂行できよう」

 

 モラディンの火花が不規則に散る。声は先ほどより低く、言葉の間が長い。

 

「ラジエルは知的好奇心があまりにも強すぎる。本来は他の《選ばれし者》たちと共に派遣し、互いの資質を調和させるつもりだった。だが今回は、彼を導き制御する者が誰もいない。尽きぬ探究心が、使命の達成を妨げることにならぬか心配だ」

 

 ティアの二条の光は揺れず、モラディンへ向いたまま応じる。

 

「その懸念はもっともだ。しかしラジエル自身も守護者としての責務をよく心得ているはずだ。真に迫った危機に直面すれば、己の興味を差し置いて使命を優先するだろう」

 

 イルメイターの声が、両者の間へ重なる。

 

「ラジエルを信じよう。彼もまた、己が使命を果たすことの重さを理解している」

 

 言葉が途切れ、星霧の輪が一度だけ収縮する。四柱の光が同時に明滅し、モラディンが決定を言い渡す。

 

「決定した。まずブロックスを送り込み、即座にデーモンの脅威に対処させる。その後、セリアとイーシャを送り込み支援させよう」

 

 ミストラを巡る網が広がり、その結び目から声が続く。

 

「ラジエルには即刻、もう一方の次元へ赴いてもらう。彼ならば混沌の綻びを塞ぐことが可能であろう」

 

 ティアが静かに宣言する。

 

「《選ばれし者》たちよ。汝らに混沌を退け、秩序をもたらす使命を託す」

 

 イルメイターが祈りを込めて告げる。

 

「彼らが歩む道は困難を極めるだろう。されど、いかなる闇も我らの見守りと導きがある限り、希望を失うことはない」

 

 最後にモラディンが締めくくる。

 

「刃を研げ、心を鎮めよ。我らの守護する世界を侵すことは許されぬ。その力で混沌を退け、秩序を取り戻せ」

 

 決定と同時に、中心の輪から四条の光が離れた。鍛打の火花はブロックスのバトルアックスへ落ち、研いでいた手を止めさせる。天秤の白光はセリアの胸甲を走り、負傷者に添えたイーシャの指先では、十字の護符が熱を帯びた。最後の一条は魔法の網を伝い、夜の塔で星図を覗くラジエルの指輪を淡く照らす。

 

 ブロックスは刃を走る火が消えるのを待って砥石を置き、武器の留め具を確かめる。セリアは避難民の最後尾を門の内へ通し、イーシャは負傷者の呼吸が戻るまで掌を動かさない。ラジエルだけが星図から顔を上げ、指輪の光へ笑みを向けた。

 

 *

 

 静寂の夜、塔の最上階に描かれた円環状の巨大な魔法陣が、淡い光を放っている。塔は深い夜闇の中にまっすぐそびえ、その頂上でヒューマンの男性、ラジエル・サン=エリオスが独り立っている。

 

 舞台衣装じみた華麗で過剰な装飾の蒼銀のローブを身にまとい、布地に縫い込まれた古代文字の刺繍が光を受けてかすかにきらめく。無数の指輪は水晶球の光を細かく返し、妙な形状の耳飾りが顔を動かすたびに小さく鳴った。その奥で、深い光を宿した瞳だけが星図の一点を見据えている。

 

 ラジエルは、魔法を司る女神ミストラに仕える《占術系統》のウィザードだ。その占術は、次元の狭間に開いた世界の裂け目すら見抜くほど鋭い。

 

 塔の最上階を包む静けさの中、不意に空気が揺れ、微かな波動が空間一帯に広がる。次の瞬間、ラジエルの意識の中に、ミストラの澄んだ神性の声が直接響いた。

 

「ラジエル・サン=エリオス。我が魔法の精髄を体現する者よ。異次元の境に新たな綻びが生じている。このまま放置すれば、混沌は二つの世界を飲み込もう。汝は直ちにその世界へ赴き、次元の亀裂を修復し、侵略の脅威を退けよ」

 

 託宣が途切れると、再び静寂が支配する。ラジエルは一瞬だけ目を閉じ、その言葉を心の奥へ刻み込む。瞳を開いたとき、口元がゆっくりと緩んだ。

 

(神々の託宣というものは、いつだって大袈裟で、堅苦しくて、一方的だ。だが、どういうわけか僕は、この大仰さが嫌いではない。むしろ、胸を躍らせずにはいられないね)

 

 彼は魔法陣の中心へ進み、水晶球へ右手を置く。球体の内部に柔らかな光が満ち、これから行使する魔法の力を増幅していく。

 

 ラジエルは次元間を渡る《Plane Shift(次元間転移)》の術式を組み上げ始めた。占術の力で座標を一つずつ確かめ、異界の女神が一時的に開いた扉へ正確に接続するよう式を調整する。円環状の魔法陣が細かな光を帯び、空中には複雑な幾何学模様と古代文字が次々と浮かび上がった。ラジエルは構築した式を何度も点検し、わずかなずれを一つずつ潰していく。

 

 最終調整を終えると、ラジエルは両腕を広げ、自身の魔力を一気に解放する。瞬間、魔法陣が眩い閃光を放ち、その光がラジエルの身体を包み込む。開いた次元の境界へと引きずり込まれる感覚が全身を襲った。

 

 だが直後、魔力の流れが想定以上に乱れ、開いた境界そのものが歪み始める。

 

 制御の乱れが一気に広がり、ラジエルの身体は激しく揺さぶられる。次元間の通路が荒れ、狙った着地点から軌道が逸れた。強烈な光がすっと引き、視界が開けたとき、ラジエルは見知らぬ都市からおよそ二百メートル上空へ投げ出されていた。眼下には尖塔と屋根が密集し、中央の大きな宮殿から幾筋もの街路が延びている。

 

(これは見事に座標が狂ったかな。どうやらこちらの女神様にはあまり好かれていないらしい……まあ、それはそれで愉快な話だけどね)

 

 落下の風圧が身体を叩く中で、ラジエルはすぐに呼吸を整え、詠唱を開始する。彼の周囲に透明な魔力が薄い膜となって展開し、落下速度が徐々に削がれていく。

 

 《Fly(飛行)》の力場がラジエルの身体を包み、重力の拘束を弱める。自力で空を移動し、安定した姿勢を保てるだけの浮力を得て体勢を立て直すと、ラジエルは眼下の見知らぬ都市を見下ろした。

 

 ラジエルが先ほどの座標式を頭の中で辿り直していると、眼下の城壁に細い光が走った。街路の尖塔も次々に点り、結界の線が彼の真下へ集まってくる。計算を止めたラジエルは、空中に浮いたまま、その術式が組み上がる様子を見下ろした。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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