星の光さえ凍りつくような寒気に包まれ、夜の帳が帝都アイスベルクを静かに覆っていた。北部高原よりもさらに北、帝国領の中央に位置するこの巨大な帝都は、夜闇の中で煌々と輝きを放っている。
帝都を囲む重厚な城壁は魔力を帯びた石材で作られ、城壁の表面には精緻な魔法陣が浮き彫りに刻まれていた。市街地には高く鋭い尖塔が立ち並び、その頂上には常に小さな魔力の灯が瞬き、夜空の星々と競うようにして輝いている。都市の中心には巨大で威圧的な皇宮が鎮座し、都市のあらゆる場所から見上げられる存在だった。
だが、この夜、帝都の美しさとは裏腹に街の空気は鋭く張り詰めていた。数か月前から、銀色の装甲を纏った戦士たち──ギスヤンキと呼ばれる存在、そして触手のような奇怪な頭部を持つ異形──マインド・フレイヤーが、北方地域を中心に不穏な活動を繰り返していたためである。帝国はすでに数度、彼らとの衝突を経験しており、都市全域には戒厳令が敷かれ、すべての防衛態勢が厳重に整えられている。
帝都の中央部、皇宮から少し離れた場所に魔力管理塔がそびえていた。塔の内部は無数の魔法陣が複雑に絡み合い、壁面や床には微かな魔力が通って淡い光を放っている。監視室では、複数の魔法使いたちが水晶球を囲んで鋭く視線を動かしていた。水晶球は都市内とその周囲に展開された膨大な結界網の情報を絶え間なく伝えている。
責任者の宮廷魔法使い・アルデリックは腕を組みながら、張り詰めた空気の中で静かに目を閉じていた。老練な彼は、この状況下で自身の感覚を研ぎ澄ましていた。
だがその静かな警戒は、一瞬にして破られる。突如、監視室の水晶球が激しく赤く輝きだしたのだ。同時に、警告音が鋭く塔の内部を満たす。
「帝都上空に強力な魔力反応!高度約二百メートル!」
若い監視員が動揺しつつ叫んだ。その報告を受け、アルデリックは瞬時に目を見開き、険しい表情で水晶球に駆け寄る。
「魔族か?銀の戦士、あるいは触手頭の異形との関連性は?」
監視員は水晶球を凝視し、微かに震える声で応じる。
「いえ、違います!全く未知の魔力反応です!魔族とも違う……こんな魔力反応は見たことがありません。非常に精妙で膨大、未知の術式が確認されています!」
アルデリックの眉間に深い皺が寄った。
(未知の侵入者か……厄介なことだ)
彼はわずかに逡巡したのち、即座に命令を発する。
「即応部隊を緊急召集せよ!都市上空の結界強度を直ちに最大まで引き上げ、防衛体制を厳重に敷け!」
即応部隊──それは帝国がこのような緊急事態に備え、特別に編成した精鋭の対応部隊であった。アルデリックの指令を受け、迅速に動き出した即応部隊員たちは特殊な魔法が施された灰色のローブを纏い、次々と夜の空に舞い上がる。
その頃、帝都の上空には一人の人物が静かに滞空していた。蒼銀の舞台衣装めいたローブをまとい、派手な装飾品で飾られた男──ラジエル・サン=エリオスだった。彼は周囲を興味深げに眺めており、深い星辰を閉じ込めたような瞳には好奇心が輝いていた。
帝都の魔力探知結界は、ラジエルの魔力を鋭敏に感知しており、激しく反応していた。その激しい反応を見ながら、彼は愉快そうに唇を歪める。
(ほう……これはなかなか凝った術式だね。こういう反応を見るのは実に楽しい)
その時、帝都の上空に展開した即応部隊の隊列から、威圧的な声が響き渡る。
「Eindringling! Du befindest dich unbefugt im Luftraum über der Kaiserstadt Eisberg. Steig sofort herab, gib deine Identität preis und folge unseren Anweisungen!(侵入者よ、貴様は帝都アイスベルクの上空に不法侵入している。直ちに降下し、身元を明かし我々の指示に従え!)」
宮廷魔法使いアルデリックの鋭い声が、街全体に響き渡る。彼が使用したのは、《メガディスフォニア(遠距離まで声を拡散する魔法)》という単純に声を拡声するための魔法だ。しかし、空に浮かぶラジエルはその声の意味を理解できなかったのか、楽しげに首を傾げ、小さく手を挙げてみせるだけだった。
(さて、これは何と言っているのかな……?)
興味深げな表情のまま額に指を当て、ラジエルは静かに《Tongues(言語会話)》を詠唱し、ゆっくりと口を開いた。
「やあ、こんばんは諸君。攻撃の意志はないんだ。穏やかに会話を試みようと思っているが──」
だが、ラジエルの言葉が帝都を覆う結界に触れた瞬間、予期せぬ異変が起きた。その言葉が結界と干渉し、即応部隊の魔法使いたちの頭に鋭い異質な響きを与えたのだ。
「ぐっ……!これは……頭の中に直接響く……!」
部隊員たちは激しい不快感に顔を歪め、動きを止めざるを得なかった。アルデリック自身も眉を寄せ、強烈な精神干渉を感じながら呻いた。
「これは精神干渉……いや、結界の干渉か?侵入者め、何を企んでいる……!」
帝国側の警戒は一気に最大限まで高まった。周囲に浮かぶ即応部隊の隊員たちは素早く態勢を立て直し、魔法陣を空中に次々と展開し始める。攻撃態勢は整った。
アルデリックは鋭く叫んだ。
「もう一度問う、侵入者よ。身元を明かし我々の指示に従え!抵抗するならば撃ち落とす!」
だが、その脅迫に対してもラジエルは動揺を見せることなく、むしろ好奇心を満たす新たな玩具を見つけたような表情で、ゆったりと笑みを深くした。
「へえ……これは実に興味深いね。こんな反応を示す結界は初めてだ。君たちの術式には非常に関心があるよ」
即応部隊の緊迫感とは対照的に、ラジエルの声には純粋な知的探究心と、異次元での予想外の遭遇を楽しむような無邪気さが入り混じっていた。彼の笑みは深まり、即応部隊の隊員たちは空中で円陣を組み、中央に浮遊するラジエル・サン=エリオスを鋭く警戒している。
ラジエルは気取った蒼銀のローブを揺らし、楽しげに口元を緩めている。続けて彼が言葉を発した瞬間、帝国の魔法使いたちはまたもや顔を歪めた。
「痛みを与えるつもりはないんだがね……申し訳ない。これしか会話の方法を準備していなくてね」
《Tongues(言語会話)》による影響で、言葉は隊員たちの耳ではなく頭蓋の中に直接響き、頭痛にも似た強烈な不快感を与える。隊員たちは額に汗を浮かべ、必死に耐える。
宮廷魔法使いのアルデリックは眉を顰め、厳しい眼差しをラジエルへ向けた。
「……最終通告だ。即刻名乗り、目的を告げろ」
ラジエルは胡散臭げな笑みを浮かべたまま、楽しげに提案を切り出す。
「まあ、まずは落ち着いて話そうじゃないか。僕の名はラジエル、ラジエル・サン=エリオスという。君たちが最近遭遇している、銀色の戦士や触手頭の異形、ギスヤンキやマインド・フレイヤーについてのことだ。彼らが何者で、どのような脅威をもたらすのか詳しく知りたいとは思わないか?」
アルデリックの表情がさらに険しくなった。その疑念と警戒を隠そうともせず、声を低くして問いただす。
「……なぜ貴様が我々の状況を知っているのか?」
ラジエルはその問いに軽く肩をすくめ、どこか芝居じみた仕草で両手を広げてみせた。
「僕自身が異界からの来訪者だからだよ。あのギスヤンキとかいう銀色の戦士団や精神を弄ぶ触手頭、マインド・フレイヤーと同じくね」
ラジエルが言葉を発する度に隊員たちは再び不快感に襲われる。誰かが呻き声を漏らし、耐えかねたように耳を塞いだ。
アルデリックは歯を食いしばり、かろうじて冷静さを保ちながら再び問う。
「つまり貴様も、あの異形の者どもと同じ侵略者か?」
ラジエルはそれに大げさに首を横に振り、芝居めいた表情で言った。
「まさか。彼らは世界を破壊し混沌を呼び込むために来た存在だ。だが、僕はその反対。この世界に秩序を取り戻すために神々に派遣された、いわば秩序の使者というわけさ」
アルデリックは疑念を隠そうともせず、不快感をこらえつつも声を絞り出す。
「神々から派遣された秩序の使者……?その言葉を一体どうやって信じろと言うのだ」
ラジエルは胡散臭い笑みを浮かべたまま、胸元の飾りを弄びつつ軽妙に答えた。
「信じ難い話だとは理解しているよ。だけどね、僕には記憶や知識を直接共有する魔法がある。それを使えば、僕が見てきた真実を君たち自身が確かめることも可能だ」
アルデリックは慎重に問いかける。
「その魔法というのは、どのような性質を持つ?攻撃性や侵略性はないと断言できるのか?」
ラジエルは自信満々にうなずき、わざとらしく肩をすくめて見せた。
「断言しよう。《Encode Thoughts(思考符号化)》という魔法でね。僕の記憶を文字通り見える形にして手渡すだけの魔法だよ。攻撃性なんて一切ない。それに、僕は神々に仕える者。信じてもらえないのは少し悲しいけどね?」
アルデリックは一瞬沈黙を保ち、やがて部下の魔法使いに目配せした。魔法使いは小さな使い魔を放ち、帝宮への連絡を迅速に済ませる。間もなく許可の合図が届くと、アルデリックは険しい表情を崩さぬまま命じる。
「地上へ降りろ。術の安全性を確認し、そこで許可を与える。だが、怪しい動きを見せれば即座に攻撃する。いいな?」
ラジエルは優雅な動作で了承の意を示し、《Fly(飛行)》でゆっくりと地上へ降りていった。即応部隊員たちは警戒を緩めることなく、その後に続く。地上に降り立った後、アルデリックは鋭く視線を向け、明確に告げた。
「魔法の使用を許可する。ただし攻撃性が感じられた場合、即座に制圧する」
ラジエルはわざとらしく胸に手を当て、深く頭を垂れる仕草を見せる。
「心得ているよ。秩序の使者がそんな野蛮な真似をするはずないだろう?」
ラジエルは額に指を当てて静かに呪文を唱えると、指先から細い青白い糸のような魔力が滲み出した。彼はそれをアルデリックに手渡す。
アルデリックが糸に触れた瞬間、即座に鮮烈な映像が意識に流れ込んできた。目の前に広がるのは銀色の霧が渦巻く広大な虚空──アストラル界で繰り広げられた戦いの記憶だった。銀色の装甲に身を包んだギスヤンキの軍団が、鋭利な曲刀を振りかざしながら、次元間を自在に渡る艦艇に乗って襲いかかってくる。その猛攻をラジエルが防壁の術や鋭い稲妻で退けている様子が克明に再現されていた。
続いて現れたのは、同じくアストラル界に潜む不気味な闇──マインド・フレイヤーとの交戦だった。触手を蠢かせ、精神を操ろうと侵入を試みる異形たちとの、熾烈な精神力のぶつかり合いが生々しく映し出される。
そして最後に、神秘的な光に満ちた領域が広がり、ラジエルが女神ミストラに謁見し、使命を託される場面までもが鮮明に再現された。
映像が終わると、アルデリックは即座にそばに控える隊員に糸を渡した。
「お前たちも確認しろ」
隊員たちは慎重に糸に触れ、そのたびに衝撃を受けたように目を見開いたり、息を呑んだりした。彼らの反応を見る限り、全員が同じ鮮烈な記憶を共有しているのは明らかだった。
アルデリックは改めてラジエルを見据え、緊張した口調で問いかけた。
「……確かに鮮明な記憶だが、これが真実かどうか、どうやって確認すれば良い?」
隊員たちもその疑念に同調するように頷いたが、ラジエルはまるでその言葉を待っていたかのように、楽しげな笑みを浮かべる。
「当然の疑問だね。では君の思考を僕が直接《Detect Thoughts(思考探知)》で読み取り、その記憶を再び《Encode Thoughts(思考符号化)》で取り出し君に見せよう。それを見れば、この記憶が本物であると理解してもらえるはずだ」
アルデリックは少し間を置き、重い息を吐きつつ頷く。
「……良いだろう。ただし、少しでも不穏な兆候があれば即座に制圧する」
ラジエルは楽しげに肩をすくめ、その反応を心底面白がっているかのようだった。
「いいとも。僕には何の問題もないさ。それでは、次の魔法をお見せしようか」
帝国の魔法使いたちは息を飲み、鋭い視線でラジエルの動きを注視し続けた。星空の下、緊迫した静寂が再び辺りを包んだ。
*
冷たく暗い夜の闇が、炎と咆哮によって切り裂かれていた。かつて栄えていた都市は今や炎に包まれ、その中央部では崩壊した建物の瓦礫が転がり、破壊された防衛拠点からは煙が立ち上っている。市街地は戦場そのもので、市民の悲痛な叫びが交錯し、逃げ惑う人々を追い立てるようにデーモンたちの荒々しい咆哮が響き渡っていた。
都市の防衛網は完全に崩壊していた。炎に呑まれた魔法防壁は砕け散り、残された衛兵とウィザードたちは必死に抵抗していた。衛兵隊長は瓦礫の山を盾にしながら、低く力強い声で的確な指示を放つ。
「シールドウォールを組め!絶対に崩すな!隙間から敵を牽制しろ!後衛、呪文は集中的に火力を叩き込め!突破されれば全員が終わるぞ!」
隊長の言葉に即座に反応した兵士たちは素早く隊列を組み直し、分厚い盾を一斉に並べて堅固な壁を形成した。前列の隙間から槍の穂先が鋭く突き出され、突進してきた下級デーモン──ドレッチの突撃を鋭利に牽制する。
その背後から一人の若いウィザードが前へ踏み出し、素早く呪文を紡ぐ。
「《Magic Missile(魔法の矢)》!」
指先から放たれた《Magic Missile(魔法の矢)》──必中の魔力の矢を複数生み出す魔法──が正確に敵を捉え、ドレッチの胴体を次々と貫く。ドレッチは悲鳴を上げて倒れるが、その背後からはさらに多くのデーモンが押し寄せてきていた。
同時に、衛兵たちは槍と盾を構え、迫り来るクアジットの群れに立ち向かっていた。槍がデーモンの胸を貫き、盾が鋭い爪を跳ね返すが、敵の数は圧倒的である。
都市が絶望の淵に立たされる中、突如市街地中央の広場に巨大な円環状の魔法陣が浮かび上がった。眩い光が立ち上り、その中心から鋼鉄のように堅牢な影が現れた。重厚なフルプレートを纏い、背には魔導クロスボウ、手にはモラディンの聖印が刻まれた鋼鉄の戦斧を携えたドワーフ──ブロックス・フレイムスミスである。
衛兵たちが息を呑む中、ブロックスは重々しい声で叫ぶ。
「おめえら、ぼさっとしてる暇があったら市民を後ろに下げろ!デーモンどもは俺に任せろ!」
言うが早いか、ブロックスは術を唱える。
「鋼よ、我が盾となれ!」
魔力が収束すると、彼の傍らで金属製の機械兵──《Steel Defender(鋼の護衛)》が唸りを上げて起動した。機械兵は一直線に前線へ飛び出し、デーモンの群れの攻撃を鋼の腕で防ぎ、市民への進行を阻止した。
ブロックスはすかさず魔導クロスボウを構え、後方のデーモンを射抜いた。魔導術式が刻まれた矢が飛翔し、コウモリめいた姿に変じて空中を飛び回っていたクアジットを正確に射落とす。さらに接近してきたドレッチには、自ら戦斧を振りかざして立ち向かう。
「こいつはモラディンの炉で鍛えた刃だ!てめえらデーモンどもの穢れなんざ、一瞬で浄化してやる!」
ブロックスの一撃は鋼鉄のごとく重く、炎の如く鋭かった。刃がドレッチの肩口から胴を深く裂くと、濁った悲鳴を上げて地面に崩れ落ちた。その時、ブロックスの鋭敏な目は遠くの瓦礫の間に立つ黒衣の男たちを捉えた。彼らはオルクスの名を叫び、禍々しい儀式を展開してデーモンを強化している。
オルクス──死者とアンデッドを支配し、混沌と破壊をもたらすデーモンの王子の一柱。無数の眷属を従え、世界を腐敗させて無秩序に陥れることを目的とする恐るべき存在だ。
ブロックスは低く呻く。
「ちっ、やっぱり黒幕はオルクスの狂信者か……。こりゃ面倒だな」
彼は一瞬、胸に痛みを感じた。別次元に取り残された戦友、タヴの姿が脳裏を過ぎったのだ。だがすぐにその感情を振り払うように呟く。
「いや、今はそれどころじゃねえ。タヴが戻れる世界を守るのも、俺の使命だ」
再び戦意を高めたブロックスは狂信者へ向けて突撃を開始。《Steel Defender(鋼の護衛)》を囮に使いながら素早く敵陣に斬り込み、呪文で強化されたデーモンを正確に倒していく。狂信者たちは慌てて新たな詠唱を始めるが、ブロックスは距離を詰め、一人の杖を戦斧の柄で叩き落とし、そのまま柄頭で顎を打ち上げて沈黙させる。
別の一人が印を結びかけたところへ《Steel Defender(鋼の護衛)》が横合いから体当たりし、よろめいたところを周囲の兵士たちの槍が突き貫いた。最後の一人は後退しながら地面に呪印を描こうとするが、ブロックスの放った魔導クロスボウの矢がその腕を縫い止め、そのまま突進したブロックスの蹴りで地面に叩き伏せられる。
激しい戦闘の末に狂信者とデーモンは打ち倒され、都市に一時的な静寂が訪れた。その直後、衛兵隊長とウィザードが駆け寄り、状況を報告する。
「英雄殿、あなたのお陰で何とか持ちこたえましたが……この攻撃で終わりとは思えません」
ブロックスは頷いた。
「その通りだ。オルクスの連中が手を引くとは思えねえ。奴らの真の狙いは都市の完全な崩壊だ。直ぐに次の攻撃が来ると覚悟しておけ」
衛兵とウィザードたちは緊張に顔を引き締める。ブロックスは周囲の瓦礫を調べ、即座に防衛策を練り始める。
「ウィザードは《Alarm(警報)》と《Glyph of Warding(守りの秘紋)》を設置して、衛兵は障害物を配置して敵の進路を限定しろ!時間がねえぞ!」
号令と同時にウィザードたちが路地の出入り口へ散っていき、地面や扉の前に魔法陣──《Alarm(警報)》を描き始める。これは特定の範囲に魔法の感知区域を張り、敵や侵入者が踏み入れば術者へ即座に警報が届く魔法だ。
衛兵たちは近くの樽や崩れた石材、倒れた荷車を運び寄せ、路地の入口に積み上げて進路を狭めていく。即席の盾列を組み、障害物の陰から槍先を突き出せるように立ち位置を整える。
さらにウィザードたちは床石や壁面に紋様を刻み込み、《Glyph of Warding(守りの秘紋)》というあらかじめ定めた条件で起動し、呪文や爆発を自動で発動させる刻印魔法を埋め込んでいく。
迅速な指示が都市全体を動かし、防衛線が徐々に再構築されていく。そして彼は静かにモラディンの聖印を握り締め、神に祈りを捧げた。
「父なるモラディンよ、俺たちに力を貸してくれ。この世界を──守り抜くために」
祈りを終えたブロックスの目には、揺るぎない決意が宿っていた。都市を包む炎はまだ完全に収まってはいなかったが、確かに希望の光が広がり始めている。
「さあ、次の戦いに備えろ!こっからが本番だ!」
重厚な声が響き、都市は再び動き出した。その中心には、鍛冶神モラディンの加護を受けし鋼の戦士が、静かに立ち続けていた──来るべき戦いに備えながら。
*
夜の帳が下りた魔法都市オイサーストは、静謐さと不穏さが混ざり合い、異様な緊張感を醸し出していた。
タヴはゆっくりと石畳の道を歩きながら、周囲の様子を静かに観察した。淡い街灯が放つ薄暗い光の下で、兵士や魔法使いたちが厳しい目つきで通行人を監視している。街角には検問所が設けられ、鋭利な槍を手にした衛兵が緊迫した表情で行き交う人々を見張っていた。
(まるで戦時下そのものだな……)
彼は自然と眉をひそめた。その光景は、先ほど文書館でフェルンが感じていた不安を鮮明に思い出させた。タヴ自身、このような光景を数多く目にしてきた。異界を渡り歩いた彼にとって、混乱や戦争は決して珍しいものではない。だが、なぜか今、この都市の姿を見ると、奇妙な胸のざわめきを感じた。
それは間違いなく、フェルンの言葉が原因だった。
「それは……異界の軍勢と本格的な戦争が始まっていても、ですか?」
彼女の問いかけが、何度も何度も心の中で繰り返される。問いかけの意味を正確に理解できず、彼は苛立ちにも似た戸惑いを感じていた。
(彼女は一体、俺に何を求めているんだ?)
タヴは自問自答を始める。
彼女の不安げな表情を思い出すと、その理由はひとつではないように思えた。フェルンの問いかけは複雑に絡み合った感情の集合体であるように感じられた。
それは単純な戦略的懸念──つまり、自分という異界からの戦力がこの世界から消えることへの心配なのか?
それとも、自分がこの世界を見捨てて去り、彼らを混乱と戦火の中に残してしまうのではないかという、見捨てられることへの恐怖から生じるものか?
あるいは、短期間の旅で築かれ始めた信頼と絆を失うことを恐れているのか?
(その全てかもしれないな……)
結局のところ、タヴ自身、その問いに対する明確な答えを持っていなかった。だからこそ、心の中がこうして揺れ動いているのだろう。
(自分の世界に帰るか……)
彼は自嘲気味に口元を歪め、小さなため息を漏らした。帰還──その言葉自体が、既に彼にとって曖昧で虚ろな意味を持っていた。多元安定機構は彼を切り捨てた可能性が極めて高い。タヴ自身も理性的にはそれを理解しているつもりだった。
(だが俺は……本当は、まだそこに居場所があるという希望に無自覚に縋っている。帰還という目的にこだわるのも、機構が再び俺を受け入れてくれるという甘い幻想を捨て切れていないからだ……)
その思考を辿ると、必ず一人のドワーフが脳裏に浮かぶ──ブロックス・フレイムスミス。タヴを多元安定機構に推薦し、指導役としてその傍らにいた人物だ。
当時、彼は荒野を彷徨うただの子供に過ぎなかった。追い詰められた状況の中で、無自覚のうちに魔力が暴走し、次元への亀裂を引き起こした。それが多元安定機構の観測網に引っかかり、彼は災害の原因として封印処置の対象となっていた。
その封印処置の決定を下すために現地へ派遣された事故対応部隊の中に、ブロックスがいた。そして彼は、タヴを封印するという決定に真っ向から反対したのだった。
ブロックスはタヴの能力と制御可能性を認め、災害原因としての排除ではなく、機構の戦力として迎え入れるべきだと強く推薦した。そのおかげでタヴは多元安定機構に所属することができた。
ブロックスへの感謝は確かにある。彼の存在がなければ、自分はあの時点で封印され、そこで全てが終わっていただろう。だが──結局、自分はブロックスのことを何も分かっていない。なぜ彼が自分を助け、機構に推薦したのか、その本当の理由を一度たりとも尋ねることはなかった。
(もし本当に帰還できたとしても、俺を待っている場所などない。機構が再び俺を受け入れる可能性は低い……)
タヴは、自らが帰るべき世界とは、もはや幻のように儚いものでしかないことに気付いていた。その一方で、彼の中に芽生えつつあるこの世界の人々との絆を意識すると、さらに深い戸惑いを感じた。
(俺はこの世界にとって、単なる戦力か?それとも……)
その答えはまだ彼自身にも分からなかった。ただ、少なくともフェルンやシュタルク、フリーレンとの交流の中で、これまで経験したことのない形で彼の心が動かされ始めていることだけは確かだった。
その時、街路の前方で小さな騒ぎが起こっているのが目に入った。数歩離れた街路の脇で、一人の若い兵士が少年の腕を強引に掴み、厳しい表情で問い詰めている。その声は抑えられているが、夜の静けさの中では明瞭に響いた。
「夜間の外出は制限されているはずだぞ。親は一緒ではないのか?」
少年は怯え切った表情で、小刻みに震えながら小さな声で答える。
「ぼ、僕はただ、家が近いからすぐ戻れると思って……」
兵士は苛立ったようにため息を吐いた。
「そんな言い訳で済むと思っているのか?事情が分かるまでここで待ってもらうぞ」
タヴはその様子を一瞥すると、しばらく立ち止まって静かに考えた。目を逸らして通り過ぎることも可能だろう。しかし、なぜか心の奥に引っかかるものを感じていた。
(見過ごすか?……いや、面倒だが、少しぐらい話を聞くべきか)
小さく息を吐くと、タヴは落ち着いた足取りで騒ぎに近づいた。
兵士はタヴの存在にすぐ気付き、ボロボロに擦り切れた彼の衣装を鋭い目で一瞥し、明らかに不審な人物だと判断したようだった。警戒心をあらわにして問いただす。
「そこのお前、こんな時間に外を出歩いて何をしている?身分証はあるのか?」
タヴはゆっくりと懐に手を入れ、大陸魔法協会から発行された金属製の身分証を取り出し、兵士に提示した。金属製のカードには魔法的な刻印が施されており、淡く魔力の光を帯びている。
兵士はそれを受け取ってじっくりと確認し、すぐに表情を和らげた。
「これは……協会発行の身分証か。失礼した、魔法使い殿」
「気にするな。そちらの少年は何か問題でも起こしたのか?」
兵士は眉を顰めて少年を横目で見ながら説明した。
「いや、夜間は市民の外出が制限されているのだが、この子は身分証を提示できないうえに、親の付き添いもない状態で歩いていたのでな。事情を確認するまで足止めしたというわけだ」
少年は怯えたまま、タヴを上目遣いで見つめている。その瞳には必死に助けを求める色が浮かんでいた。
タヴは静かにうなずき、兵士に穏やかな口調で話しかけた。
「あんたの職務は理解している。だが、この子の家が本当に近いなら、もう少し柔軟に対応できる余地はあるんじゃないか?」
兵士はやや困った表情を見せ、しかし依然として職務に忠実な態度を崩さなかった。
「それは分かるが、規則は規則だ。このような時勢だからこそ、例外を許すわけには……」
タヴは冷静に続ける。
「気持ちはよくわかる。だが規則が市民を守るためのものであるなら、過度に怯えさせるのは本末転倒ではないか?今は不安を煽るより、安心を与える方が重要だろう」
兵士はタヴの落ち着いた説得に心を動かされたのか、わずかに戸惑った様子を見せた。やがて、小さくため息を漏らすと少年の方を向き直った。
「……次からは、夜間に出歩くなら必ず親や身分証を持った大人と一緒にいるように。それから、市民の夜間外出は原則制限されていることも忘れるなよ。さあ、もう帰れ」
少年は大きくうなずき、兵士に深々と頭を下げた後、タヴにも小さく礼を述べて、足早に家の方へと駆け去って行った。
兵士が再びタヴに向き直り、改めて敬意を示すように言った。
「迷惑をかけたな。協力に感謝する」
タヴは軽く頷き、穏やかな口調で返した。
「お互い、難しい時期だ。こういうこともあるだろう」
そして、再び宿屋への道を歩き出した。だが、彼の心には先ほどの出来事が静かに波紋を広げていた。
(面倒なことに首を突っ込んだ。不干渉を原則とする機構のやり方からは逸脱している……。だが俺はもう、その規範に縛られる立場でもない)
タヴは胸に渦巻く微妙な感情を整理できぬまま、小さくため息を吐いた。短い間に築かれたフェルンたちとの絆が、自分の行動や価値観を変えつつあることを、彼自身が今はっきりと自覚し始めていた。
(だが、俺はどこへ向かうべきだ?帰るべき場所は……)
迷いを抱えたまま、タヴは宿屋の入口に辿り着いた。吊るされたランタンの灯りが優しく揺れ、周囲をほんのり照らしている。
扉をゆっくりと押し開けると、小さな受付が目の前に現れた。奥の広間からは、くつろぐ客たちの静かな会話がかすかに聞こえてくる。受付に近づくと、中年の女性が穏やかに声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。今夜のお泊まりですか?」
タヴは軽く首を振り、静かな口調で答えた。
「いや、待ち合わせをしている者たちがいる。エルフの魔法使いと、若い男女の二人連れだ」
受付の女性はすぐに頷き、奥の広間を指し示した。
「ああ、その方たちならあちらのテーブルにおられますよ」
タヴは受付に短く礼を告げると、示された方向に目を向けた。広間の奥にフリーレン、フェルン、シュタルクの姿が見える。彼らはテーブルを囲み、何やら静かに言葉を交わしているようだった。
(ひとまず今夜は、フリーレンたちに会ってから考えよう)
その心の奥底にはまだ答えを見つけられていない疑問がいくつもあったが、少なくとも今はそれらを置いておき、彼らがいる場所へ向かうべきだと感じていた。
夜の静けさが支配する宿屋の広間は、温かい灯火に照らされていた。壁際のテーブルには、食事を終えた客たちが小声で会話を交わしている。
その穏やかな雰囲気の中、タヴが足音もなく静かに広間に入る。彼が三人が座っているテーブルに近づくと、一瞬、微妙な沈黙が場を支配した。
フェルンは気まずげに視線を伏せ、シュタルクは言葉を探すように唇を軽く動かしたが、何も言わずに口を閉じた。フリーレンだけがいつもの淡々とした口調で口を開いた。
「……来てくれたんだね。ここでは少し話しづらいから、部屋で話そう」
タヴは小さく頷くと、無言で彼らに続いて宿の二階へと向かった。
階段を登り、フリーレンたちが借りている部屋へ入った後も、気まずい沈黙はそのままだった。四人は部屋の中に静かに座り込み、タヴはフェルンの問いが再び頭の中で巡り始めたことを感じていた。
部屋の中に沈黙が続き、タヴは胸の内の迷いを整理できないまま時間が過ぎていく。やがて、ようやく彼はゆっくりと息を吐き出し、視線をフェルンに向けた。
「フェルン、文書館で問われたことだが……正直なところ、俺自身も答えが見つからない」
フェルンは驚いたように顔を上げると、すぐに申し訳なさそうに眉を寄せた。
「申し訳ありません……あんな質問をしてしまって……失礼でした」
タヴは軽く手を挙げて制する。
「いや、謝る必要はない。あの質問は当然のものだ」
フェルンはそれでも気まずそうに視線を下げ、小さく唇を噛んだ。その微妙な空気を察したシュタルクが、軽口を叩いて場を和ませようとした。
「まあ、あんまり気にするなって。こんな状況じゃ誰だって色々考えちまうさ」
タヴはシュタルクに感謝の視線を送り、小さく微笑んだ。フリーレンはそんな彼らを静かに観察し、あえて口を挟まずに静かに見守っている。
やがて、静かな時間が流れた後、フリーレンが真剣な表情でタヴに問いかけた。
「タヴ。あなたがこの世界に残って戦ったとしても、勝つ可能性は低い?」
タヴは迷いなく頷き、率直な口調で答える。
「はっきり言うが、俺がこの世界に残って戦ったとしても、勝てる可能性は低い。ゼーリエのような英雄的な魔法使いが存在しても、それはあくまで局所的な対処でしかない。ギスヤンキやマインド・フレイヤーは数だけではなく、極めて強力な個の存在も投入してくる。奴らが本気で制圧を狙っているのなら、そういった強力な個体が複数現れることになるだろう」
タヴの言葉を聞き終えると、フリーレンは静かに目を閉じた。
「……それでも、私たちは戦うしかない。この世界に生きる私たちには、この世界しかないから」
その言葉を皮切りに、フェルンが控えめに話を始めた。
「私は……子供の頃、人間同士の戦争で家族を失いました。もう何もかもが嫌になって、死のうとさえ思ったんです」
彼女は一旦言葉を止め、静かに息を整えた。
「でも、ハイター様という僧侶に救われました。ハイター様の薦めでフリーレン様に師事して、魔法使いの道を歩んでいます」
フェルンの視線が、ゆっくりとタヴに向けられた。
「ハイター様はかつて勇者一行の僧侶として魔王を倒し、世界を救いました。だから私は、その救われた世界を守りたいんです。そうでなければ……私が救われた意味がありませんから」
フェルンが言葉を終えると、シュタルクが少し照れ臭そうに口を開いた。
「俺も、まあ、似たようなもんだ。子供の頃に魔族に故郷を滅ぼされて、拾って育ててくれたのがドワーフの戦士、アイゼン師匠だった」
彼は軽く肩をすくめて続けた。
「師匠は昔、勇者一行として冒険したことがあるって言っていて、その旅がどれほどくだらなくて楽しかったかを、俺に何度も話してくれた」
シュタルクは、そこで小さく笑みを浮かべた。
「だから俺はフリーレンの旅に同行して、くだらない話をいっぱい作って、それを師匠の元に帰って聞かせたいんだ。そのためには俺自身が生き残らなきゃならないし、世界が滅ぶなんて論外だ」
最後にフリーレンが、穏やかな口調で自身の過去を語り出した。
「私は千年前、エルフの村を魔族に襲われ、死にかけていたところを師匠、フランメという人間の魔法使いに拾われた」
フリーレンは淡々と続ける。
「師匠は誰もが魔法を使える世界を夢見て、人類に魔法を広めた偉大な魔法使いだった。そしてその後、私は勇者ヒンメルと出会い、ハイター、アイゼンと共に魔王を倒した」
フリーレンは静かに目を閉じ、微かに表情を和らげた。
「ヒンメルは困っている人を決して見捨てないお人好しだった。師匠もヒンメルたちも、平和な世界を望んで命をかけた。その遺したものを壊されたくない……ただ、それだけ」
それらの言葉はタヴに向けてというよりは、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。それぞれが覚悟を確かめるように口にする言葉は、タヴの胸を深く打った。
その中でタヴは、文書館で読んだ書物に記された名前──勇者ヒンメル、人類の魔法の開祖フランメが、今まさに彼らの話に登場していることに気づいた。そして魔王を倒した勇者一行にいた魔法使いが、目の前にいるフリーレンだったことを初めて理解した。
(勇者一行と深く繋がっている……それが彼らの覚悟の源か)
フリーレンはタヴを真っ直ぐに見つめ、静かに問いかけた。
「タヴは本当に自分の世界に帰りたいと思っているの?」
その問いにタヴは一瞬言葉を失った。その言葉には鋭い指摘が込められていた。彼は元の世界のことを話すとき、いつもどこか他人事のように語っており、具体的な帰る場所や待つ人への想いを一切口にしなかった。帰属意識が希薄なことにフリーレンたちは薄々気づいていたのだ。
フェルンとシュタルクも、心配そうに彼を見つめている。
「タヴ自身のことをもっと教えて。もちろん、話したくないなら無理にとは言わないけど」
タヴは言葉を探すように一瞬口を開きかけるが、再び唇を閉じてしまった。その視線は床に落とされ、迷いとためらいが入り混じった沈黙が訪れる。
やがて彼は小さく息を吐き出し、意を決したように静かに言った。
「……分かった。ただ、説明が難しいことも多くてな……少々長くなるかもしれない」
彼は自らの過去に触れることへのためらいを振り切るように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
*
雷鳴がバルダーズ・ゲートの空を深く裂いた。紫色の閃光が夜を切り裂き、石造りの街並みを一瞬だけ白昼のように照らす。ほどなくして轟音が空気を震わせ、汚泥に満ちた街路を歩く人々は恐れ慄き、家々の中へと逃げ込んだ。
バルダーズ・ゲート──富める者と貧しき者が露骨に隔てられ、暴力と混沌が支配する街。その中でも特に劣悪な下層地区は、泥と埃が混じり合い、腐敗と絶望が絶えず渦巻いている場所だった。生活する者たちは日々を生き延びることだけに必死であり、道徳や善悪などという観念は、彼らにとっては贅沢品以外の何物でもなかった。
その街の片隅に、朽ちかけた木造の家屋が一つあった。壁の隙間から雨水が染み込み、木の腐敗臭が漂うその場所で、幼い泣き声が雷鳴に混じって響いていた。
生まれて間もない赤子のタヴが、粗末な毛布に包まれて泣いていた。彼の泣き声に呼応するかのように、雷鳴が再び激しく空を震わせる。その振動は古びた家屋を軋ませ、周囲の人々を不安に陥れた。
「まただ!この雷は、あの子が生まれてから続いている!」
隣家の老婆が怯えた顔で周囲に訴えた。赤子の両親は戸惑いと恐怖の入り混じった目で我が子を見つめている。
「ただの偶然だろう……?」
父親がか細い声で呟いたが、母親は赤子を抱く手を震わせ、否定するように首を振った。
「違う。この子が泣くたびに……あの雷が来るんだ。これは普通じゃないよ……」
赤子の泣き声が高まると、さらに強烈な雷鳴が空を震わせる。窓から見える周囲の住人たちの顔は、不安と恐怖に歪んでいた。
「呪われている……あの子はきっと呪われた子だ……!」
住人の一人が叫んだ。その言葉が引き金となり、周囲の空気は一気に硬化した。
数日後、両親は決断を下した。彼らにとってタヴはもはや我が子ではなく、呪いの化身でしかなかった。息を潜めて夜の街路を歩き、彼らは怯えた視線を交わしながら、地下にある非合法な取引所を目指した。
そこはギルドの管理下にある闇市場だった。
ギルド──バルダーズ・ゲートの地下に網の目のように広がり、盗賊や暗殺者、密輸業者を牛耳る犯罪組織。表の世界がその存在を黙認しつつ、触れることを恐れる影の権力。人間さえも時に貨物として扱われる取引の仲介を請け負うことがあった。
「この子だ。呪われているが……きっと特別な力がある」
タヴの父親が震える声で《ギルド》の仲介人に伝えた。仲介人は興味深そうに赤子を観察し、その小さな体から漂う異質な魔力を感じ取った。
「なるほど。これは面白い……。いい値段がつくだろうな」
取引は成立し、両親は金と引き換えに我が子を手放した。その背を見送ることもなく、彼らはその場を去っていった。タヴはやがてバルダーズ・ゲートを離れ、東方の悪名高き魔法国家、サーイの赤の魔道士団の元へと売り渡された。
赤の魔道士団──死霊術や禁断の魔法を極限まで追求し、人間を道具や材料としてしか見ない非人道的な魔法使い集団。彼らはタヴの特異な魔力を聞きつけると、喜んで高額な代償を支払い、その幼い子を買い取ったのだった。
赤の魔道士団の研究施設は、サーイの辺境に建てられた巨大な塔の群れだった。タヴはそこに収容されると、容赦のない拘束術式と苦痛を伴う魔法実験の対象となった。
「この子は魔力の流れが常識を超えている。特異な次元的結合体を持っているようだ」
魔法使いたちは冷酷に分析し、彼の体に特殊な術式を刻みつけていった。封印の魔法具が皮膚を焼き、魔力制御針が肉体の内側に差し込まれるたび、タヴは激しい苦痛に耐えねばならなかった。実験は年々苛烈さを増し、彼の肉体と精神は極限まで削られ続けた。
精神世界が崩壊寸前に陥ったとき、タヴの意識は《Shadowfell(影界)》──死と影が支配する薄明の次元と偶然繋がった。それは物質界と隣接しながらも、絶望と影が渦巻く暗黒の領域である。極度の苦痛と絶望が引き起こした精神の揺らぎが、次元間の薄い境界を一時的に弱めたのだ。
その刹那、闇の中から《Hexblade(影の剣)》──影界にて「レイヴン・クイーン」と呼ばれる死と運命を司る女神が鍛えたとされる、強力な意思を持つ魔剣──の幻影が浮かび上がり、偶然にもタヴという存在を明確に認識した。
「お前は壊れるだけの器ではない……力を望むのなら、我を振るえ」
影界の力に触れたその魔剣は、絶望の淵に立つタヴに魅かれるように干渉を始めた。その囁きは、耐え難い苦痛に慣れきった彼の心に深く響き、タヴは次第にその力を受け入れ始めた。やがてある日、実験の最中に魔力が暴走した。施設を揺るがす爆発的な魔力の嵐が起こり、術式の拘束は破壊され、研究員たちは恐慌状態に陥った。
「封印が破れた!実験体が暴走している!」
タヴの小さな体からは制御不能の雷撃が放たれ、その一撃が施設の壁を粉砕した。彼自身は半ば無意識のまま、その破壊された壁の向こうへと駆け出した。痛みと孤独の底から生まれた衝動が、彼に逃走を促したのだ。
暴走する魔力が敵味方の区別なく周囲を焼き払い、サーイの魔法使いたちもそれを止める術を見つけられないまま右往左往した。
「逃がすな!あれを再捕獲しろ!」
混乱の中、彼らの追撃を奇跡的に避け続け、タヴは外界へと辿り着いた。雷が嵐となって追跡者たちを妨害し、彼の逃走を助けるかのように荒れ狂った。彼が施設を完全に脱出し、荒野へ逃げ込んだ頃、彼の精神世界にいた《Hexblade(影の剣)》は満足そうに揺らめいた。その意識は語りかけた。
「よくやった。我々の真の力は、まだ目覚めてすらいない……」
まだ幼いタヴは荒野を彷徨い、生存のための過酷な戦いを始める。その先に待つ運命など知る由もなく、ただ生き延びるためだけに、彼は前へと歩みを進めた。
*
雷雨が去った後の荒野は、どこまでも虚無と静寂が広がっていた。
黒焦げになった岩肌と枯れた草が点在し、そこに転がる倒木は落雷によって砕かれていた。生き物の気配は乏しく、時折冷たい風が乾いた土を巻き上げ、微かな音を立てるのみだ。
その広大で生命の気配が希薄な荒野を、小さな影がひとり彷徨っていた。
タヴだった。
実験施設から逃れたばかりの彼はまだ幼く、その細い体には無数の傷跡が痛々しく刻まれていた。身を包む衣服は破れ、砂埃と泥にまみれて原型をとどめていない。飢えと渇きが容赦なく彼を蝕み、足元は既にふらついている。
彼がここまで生き延びられているのは、内側に宿る異質な魔力の力のおかげだった。魔力は無意識のうちに彼の体を守り、生存に必要な最低限の体温と体力を維持していた。飢餓の中で弱り切った体が倒れそうになるたびに、彼の内から微かな雷鳴が響き、小さな嵐が彼の周囲に渦巻いて僅かながらの活力を与える。
食料は主に、自らの魔力が無意識に引き起こす環境の変化によって得ていた。
ソーサラーとしての彼の魔力は、局地的な嵐や急激な気圧変化をもたらした。そのため、嵐の予兆を敏感に感じ取った動物たちは避難場所を求めて移動を始める。タヴが岩陰や洞窟、倒れた大木の陰に身を潜めていると、そこが動物たちの避難場所となり、自然と獲物が集まる。
また、雷の力が落雷として地面に届くと、そこに落ちていた木の実や果実が衝撃で割れ、強い芳香を放った。その香りに誘われて近づいてきたリスや小型哺乳類を、無意識に放つ雷撃が仕留めることもあった。
タヴ自身が意識的に狩りを行っていたわけではなかったが、魔力による副次的な環境変化が結果的に彼に最低限の食料をもたらしていた。
数日が過ぎ、タヴは自らの内にある魔力を徐々に意識し始めた。それは実験施設での苦痛の中で覚醒した力とは異なり、彼自身が初めて能動的に制御を試みるものだった。
「……ぁ……あ……」
彼は声を出そうとするが、うまく言葉が出ない。幼少期の過酷な環境ゆえに彼はまともな言葉を教わっていなかった。それでも感情を伝えようと強く思うと、魔力が反応し、彼の唇から自然に原初語が漏れ出す。
《Wind Speaker(風の語り手)》──彼が持つ魔力は元素界の風の力と深く結びついており、自然と原初語を理解し操ることができた。その一つであるアウラン語を通じ、彼はかすかな囁きを空気に乗せて意思を表現する。
やがてタヴは荒野を抜け、小さな村落を見つけた。木と石で造られた質素な家屋が並び、そこには久しく感じていなかった人の営みの気配が満ちていた。彼は空腹と人恋しさから、その村へと近づいていく。
村人たちは突然現れたみすぼらしい少年を遠巻きに見て、訝しげな表情を浮かべた。彼らが何かを問いかけるが、タヴにはその言葉の意味がまったく理解できなかった。
「お前……どこから来た?」
老人が慎重に声をかける。だがタヴはただ必死に自らの感情をアウラン語で呟き始めた。耳に慣れぬ、風のざわめきのような奇妙な言葉が風に乗って広がると、村人たちは動揺し、怯えたように後ずさった。
「何だ、この言葉は……?」
「この子供……人間じゃない!精霊か、あるいは呪われた魔物だ!」
村人たちは恐怖と敵意を露わにし、タヴを追い払おうと石や棒を手に取った。恐怖に駆られたタヴは身を翻し、再び荒野へと逃げ出すしかなかった。
その日以降、タヴは人間に近づくことを諦めた。自分がどこにも受け入れられない異質な存在だと悟り、再び孤独な放浪を続ける。人の集まる村や街を避け、森や洞窟で暮らしながら、自らの魔力と向き合い続けた。
飢えと孤独、自己嫌悪がタヴの精神を徐々に蝕んでいった。何度も絶望の淵に立ち、感情が激しく乱れ、自分が誰なのかさえ見失いかけたこともあった。その度に、彼の精神世界に現れる《Hexblade(影の剣)》が鋭く介入する。
「まだ壊れるには早すぎる」
《Hexblade(影の剣)》の声が響くと、タヴの精神に冷たい衝撃が走り、その崩壊寸前だった意識を無理やり繋ぎ止めた。まるで鋭利な刃物で、彼の意識を強引に縫い合わせるような感覚だった。苦痛は伴ったが、それが唯一、彼の精神を完全な崩壊から守る手段でもあった。
やがてタヴにとって《Hexblade(影の剣)》の存在は不可欠なものとなり、それだけが彼の唯一の話し相手となる。
「お前には世界を揺るがす力がある。なぜそれを使わない?」
《Hexblade(影の剣)》の声は優しくも厳しく、彼を唆すように語りかける。その声に従えば従うほど、彼の魔力は安定し、強力になっていくように思えたが、同時に得体の知れない恐怖も感じていた。
数年が過ぎ、成長したタヴは偶然、小規模な傭兵団のキャンプを見つけた。彼らは数十人ほどで編成され、荒野を旅しながら戦争の中で雇われている傭兵たちだった。
タヴがキャンプの近くに潜んでいるとき、敵の小規模な襲撃部隊が奇襲をかけようと忍び寄っているのに気づいた。危険を感じた瞬間、彼は反射的に《Wind Speaker(風の語り手)》の力を通じて、アウラン語で警告を呟く。
精霊の囁きのような言葉は風に乗って傭兵団の術者に届き、術者はそれを聞き取って即座に警戒態勢を取った。
「誰かが原初語を使っている……風の精霊か?」
おかげで傭兵団は敵の奇襲に備えることができ、迅速に撃退に成功した。傭兵団の長はその出来事に興味を持ち、周囲を探索した末、潜んでいたタヴを発見した。
「こいつが精霊語で警告したのか?」
当初は警戒されたものの、その後も同じように敵の襲撃を未然に防ぐことで、タヴの持つ特異な力に価値を見出した傭兵団長は、彼を半ば道具として利用することに決める。
その日から、タヴの過酷な少年兵としての日々が始まった。傭兵団に半ば奴隷のように扱われながら、彼は数々の戦場を経験し、嫌でも人間の残酷さや生き残る術を学ばざるを得なかった。言葉を理解できない彼に与えられたのは、敵の情報を伝えるという役割だけだ。
だが、ある戦場で、タヴの精神は極限まで追い詰められる。無数の兵士が倒れ、血と悲鳴が渦巻く混乱の中、彼自身も命の危険にさらされ、恐怖が限界を超えた時、再び魔力が暴走した。制御不能となった雷鳴と嵐が戦場を蹂躙し、敵味方の区別なく兵士たちを焼き払った。その力を目の当たりにした傭兵たちは、初めてタヴに恐怖する。
「あれは人間じゃない……化物だ!」
「今すぐ殺せ!放置すれば俺たちも巻き込まれる!」
恐怖に駆られた傭兵の一人が剣を抜き、タヴへと襲いかかった。その殺意と敵意がタヴの中に眠る魔力の暴走をさらに加速させる。
タヴの悲鳴が轟く雷鳴と融合し、空気が破裂するような爆音が響き渡った。タヴの体から無意識に放たれた魔力は、暴力的なまでの勢いで次元の壁を突き破り、世界そのものに深い亀裂を穿った。
その瞬間、戦場の景色は歪み、空間は揺れ動き、次元を隔てた無数の世界が一瞬垣間見えた。はるか遠く、多元安定機構の観測施設では非常事態を告げる警告音が鳴り響いた。巨大な次元波動解析器の前で、監視員たちは即座に次元座標を特定し、詳細な情報を分析し始める。
「次元干渉レベル危険域を超過!原因は自然現象ではありません──人為的、あるいは魔力暴走です!」
その報告は即座に司令室へと送られ、事故対応部隊への出動命令が下されたのだった。司令室の中心に立つ指揮官が即座に判断を下す。
「緊急事態だ。事故対応部隊を即座に派遣しろ。原因を排除し、次元秩序を回復せよ!」
命令を受けて、多元安定機構の実戦部門から臨時に編成された事故対応部隊が次元転送装置の前に集合した。隊員たちはみな経験豊かな戦士たちだったが、その中にひときわ頑丈な体躯のドワーフがいた。
ブロックス・フレイムスミス。鍛冶神モラディンを信仰する鋼の戦士である。
隊員たちが次元転送され、到着したのは、まさに戦闘の激しかった荒れ果てた戦場だった。雷撃により黒焦げになった兵士たちの遺体が転がり、地面には焼け焦げた痕跡が至るところに残されていた。
その中央に、小さな影が膝をついていた。
痩せ細ったタヴが、折れた剣を震える手で握り締めている。顔は血と煤にまみれ、骨のように細い身体は今にも崩れそうだ。しかし、その目は鋭く、絶望も希望もなく、ただ生きるためだけに前を見据えている。
周囲の《Weave(魔法の網)》が不規則にうねり、空気に焦げた金属の匂いが混じる。少年の身体の内外で魔力が導管のようにつながり、外界からの流入の残滓が火花のように散っているのが見て取れる。
ここで命脈を断てば、その導管が野放しになり、一挙の解放で《Weave(魔法の織り)》に甚大な攪乱が起こり得る──事故対応部隊の隊長はそう判断し、無感情に告げる。
「対象を封印する。殺害すれば行き場を失った魔力が暴走を引き起こしかねない。まずは動きを封じろ」
隊員たちは即座に動く。一人の術者が慎重に距離を取り、《Hold Person(対人金縛り)》──人型生物の動きを魔法的に完全に拘束し、身体を麻痺させる魔法──を組み上げて放とうとした。
刹那──。
タヴの内に眠る魔力が無意識に反応し、《Counterspell(呪文妨害)》が立ち上がって術者の魔法を弾き消す。術者が息を呑んで足を止めるあいだに、隊長は前へ一歩踏み出し、腰のポーチから高価なルビーの粉末を掴み、掌で弾いて虚空へ散らす。険しい目で力の言葉を叩き付けた。
「《Forcecage(力場の檻)》!」
タヴの周囲の空間に見えない壁が出現し、彼を完全に包囲する。《Forcecage(力場の檻)》──術者の選択で檻か箱になる高位の拘束魔法だ。今回は箱として展開され、透明で硬質な力場の立方体が物質の通過を完全に遮り、内外へ向けた呪文も相互に阻まれる。
箱に閉じ込められたタヴは壁へ体重を預けることもできず、逃げ場を失って力が抜け、膝を地面に着く。隊長はそれを見下ろし、低く吐き捨てる。
「反射的に《Counterspell(呪文妨害)》が発動されるとはな。まるで魔力そのものが意志を持っているようだ……化物め」
タヴを取り囲む隊員たちは武器を構え直し、隊長は全周に目を配って短く命じた。
「警戒は解くな。次元管理官は次元補佐官二名と《Imprisonment(幽閉)》を準備しろ。封印形式は《Minimus Containment(宝石の中の小人)》だ。術式が組み上がり次第、私が《Forcecage(力場の檻)》を解除する。合図と同時に封印を放て」
《Imprisonment(幽閉)》──視界内の単一対象を封じる九階梯の魔法。詠唱と刻印に一分を要し、その間の中断は失敗に直結する。対象が強い意志で抵抗すれば拘束は成立せず、同じ術者の同術は以後通らない。封印下の者は呼吸も飲食も不要となり老いも止まり、占術では所在が捉えられない。
《Minimus Containment(宝石の中の小人)》は、対象を一寸ほどに縮小し、透明な宝石の内部に封じる方式だ。光のみが通り、物質も転移も次元移動も通らず、魔法が続く限り宝石は切断も破砕もできない。触媒となる宝石は大ぶりで透明なものが必要で、コランダムやダイヤモンド、ルビーが適する。
指示を受けた次元管理官が瞳を細め、冷徹かつ正確に術式の骨格を組む。手は滞りなく動き、声は平板で乱れがない。次元補佐官二名は空中に連動する陣を描き、魔力の流れを安定化する。次元管理官は短い指示と視線だけで全体を制御する。補佐官の一人が革箱からダイヤモンドを取り出して差し出すと、次元管理官は無駄のない所作で受け取った。
掲げたダイヤモンドが共鳴し、術式陣に静かな律動が生まれた。その佇まいには、多くの次元を見渡してきた者の超然とした気配が宿る。ブロックスはその手際を一瞬だけ視線で確かめ、すぐ《Forcecage(力場の檻)》の前へ半歩踏み出して右手を上げ、術者たちに制止の合図を送る。
「待て」
ブロックスの低い制止に、張り詰めた警戒がさらに強まる。隊長がすぐさま詰め寄り、鋭い声を浴びせる。
「何をしている、ブロックス。陣形を乱すな。私の指示に従え」
ブロックスは少年から目を離さず、短く言い切る。
「この子はまだ幼い。力を制御できれば防げるはずだ。封印は災厄の根本的な解決にはならねえ」
隊長の眉間が寄り、声が荒くなる。
「災害原因を排除するのが我々の使命だ。お前が口を出す問題ではない」
ブロックスは一歩も退かず、箱越しにタヴを見据える。
「隊長、この子を見ろ。恐怖で震えているだけだ。このまま追い詰めれば、本当に手に負えない存在になる。封印が失敗する可能性もある。制御を教えなければ、同じことが繰り返される」
重い沈黙が落ち、隊長の視線が一瞬だけ箱の内側に揺れる。現場の権限は彼にあるが、ブロックスは組織でも指折りの最上位戦力で、数多の戦場で最終判断を任されてきた。そうした者の進言は現場でも作戦上の重みを持つ。加えて、少年の排除に踏み切ることへのわずかな迷いが、隊長自身にも残っていた。
やがて彼は問う。
「お前はこいつを機構に引き入れようというのか?」
ブロックスは迷わず頷く。
「俺が全責任を負う。訓練と教育を施し、この子を戦力として育てる」
隊員たちが一瞬顔を見合わせるが、武器は下ろさない。隊長は短く息を吐き、結論を出す。
「……いいだろう。その判断を尊重する。ただし、全責任はお前が負え」
彼は次元管理官へ顎で合図する。
「術式展開を停止しろ」
次元管理官が頷き、組み上げた術式を逆順に解く。補佐官たちが魔力供給を切り、空間に浮かんでいた封印術式が音もなく消える。彼は一歩退き、感情を見せず状況を見守る。ブロックスは《Forcecage(力場の檻)》の前まで歩き、箱の内側で強張るタヴに声を掛ける。
「大丈夫だ、坊主。もう安心していい」
タヴは言葉を返さず、ただ見上げる。ブロックスは小さく頷き、振り返って明確に言う。
「《Forcecage(力場の檻)》を解いてくれ」
隊長がわずかにためらったのち、解除の言葉を落とす。透明な箱がほどけ、空気が流れ込む。
ブロックスはゆっくり跪き、目線を合わせてから両腕で小さな身体を抱き上げる。その瞬間、タヴの瞳がわずかに揺れる。彼は無言のまま、ブロックスの顔を見続けた。その日からタヴは多元安定機構の一員となる。施設に到着すると、清潔な服、十分な食事、安全な寝床が与えられる。ブロックスが指導役となり、時に厳しく、時に優しく訓練が始まった。
やがてある日、ブロックスは特別な許可を取り、自分の故郷、アイアンマスターへタヴを連れて帰る。一度でいいから家族の温もりと穏やかな日常を知り、ただの兵器ではないと理解してほしかったからだ。
彼の伴侶リーナが静かにタヴを見て尋ねる。
「あの子、ひと言も喋らないのね」
「ああ、だが見ていろ。あいつは必ず話すようになる」
ブロックスはそれを自分自身への誓いとして口にする。
機構での生活が安定すると、タヴは徐々に言語や社会的技能を身につける。しかし内面では《Hexblade(影の剣)》の幻影が渦を巻き、葛藤は消えない。彼は自問する。
(自分は何者なのか。本当にここにいて良いのか)
その疑念の隙間に、いつものように《Hexblade(影の剣)》の囁きが差し込む。
「迷う必要はない。我が力を望めばよい。お前がどこにいようと、私は常に共にある」
そして、運命を変える任務が訪れる。アストラル界で次元の異常を調査していたタヴは、突然生じた裂け目に遭遇し、現れたギスヤンキとマインド・フレイヤーの襲撃を受ける。激しい交戦の最中、裂け目が暴走し、タヴは制御不能の次元転移に巻き込まれた。
その頃ブロックスは別任務で遠方の次元におり、帰還して事態を知ると、深い悔恨が胸を満たした。後に彼は機構を去り、己の力のみでタヴの行方を追い続ける。しかしどれほど探しても辿り着けず、やがて故郷へ戻り、鍛冶神モラディンに祈る。
祈りが次元の壁を越えて神々の座に届く時、ブロックスの新たな戦いが静かに幕を開けることとなった。
*
オイサーストの夜は、不自然なほど静かだった。宿屋の小さな一室で、タヴは淡々と自らの過去を語り終えた。そこに感情はなく、声は一定の調子を保っている。まるで他者の人生を報告しているような、凍りついた響きだった。
「……当時の俺は、自分に何が起きているのか把握できていなかった。ブロックスや多元安定機構の職員から説明を受けて、初めて客観的に理解した。まぁ、経緯としてはそんなところだ」
話し終えると、部屋には苦痛なほど重苦しい沈黙が満ちる。小さなランタンの灯りが淡く揺れる中、フェルンとシュタルクはどう反応すべきか分からず、互いに視線を交わす。
生まれて間もなく親に売られ、その後に送られた施設で非人道的な魔法実験に晒され続けた。命からがら逃げ延びた後も社会から孤立し、生きるために他者を傷つけることを強いられた。タヴがどれほど深刻な精神的外傷を負っているのか、二人には到底想像が及ばなかった。
ただ一人、フリーレンだけは落ち着きを保ったまま、静かな瞳でタヴを見つめている。その眼差しはまるで湖面を透かし見るかのように、タヴの内面に潜む真実を見抜こうとしていた。
「タヴの精神は、本人が自覚する以上に危うい状態だよ」
その指摘に、フェルンは驚いて顔を上げ、シュタルクも困惑してフリーレンを見る。タヴが僅かに眉をひそめ、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「ひどい言い草だな。俺の気が狂っているとでも?」
フリーレンは静かに首を横に振った。
「そうじゃないよ。タヴの魔力や《Hexblade(影の剣)》と呼ばれる魔剣が、精神が壊れないように代替の人格を作り出している。今のタヴは第三者のように自分の人生を俯瞰し、苦痛を遠ざけているんだね」
タヴの表情が固まる。フリーレンの言葉は、決して認めてはならない核心を突いていた。沈黙に耐え切れず、フェルンが声を絞り出す。
「……ずっと、そんな状態で戦ってきたのですか?それではまるで、自分を殺しているようなものじゃないですか」
フェルンの声音に、動揺と深い悲しみがにじんだ。タヴは僅かに苦笑し、抑揚のない声で答えた。
「ソーサラーの魔法は感情に左右される。俺の場合、特に衝動が魔力の暴走に直結する。感情を切り離すことで、暴走を避けてきた。むしろ都合が良いことだろう」
シュタルクがやりきれない様子で割り込んだ。
「それじゃ、ずっと苦しいままだ。心は何も救われないぞ」
「救われる必要はない。ただ生き残れれば、それで十分だ」
タヴは諦念に満ちた微笑を浮かべて応じる。フリーレンが再び口を開いた。
「タヴは自分の内面を認識できていないよ。今見せているその冷静さは、後天的に徹底した訓練で身につけた作法や知識で、本来の幼く傷ついた情動を隠しているだけだね。タヴ自身の心はまだ、過去の苦痛に囚われたままだよ」
それは告発ではなく、ただ静かな事実の指摘だった。タヴはフリーレンの視線を見返したが、その眼差しには言葉にできない恐怖だけがあった。
フリーレンはゆっくりと続けた。
「それは心の強さなんかじゃないよ。いずれ限界が来る。一人で耐えられるものじゃない」
何か言い返そうと口を開きかけたタヴは、言葉を喉に詰まらせた。沈黙を破ったのはフェルンだった。彼女は慎重だが真摯な表情で語りかける。
「もう、自分一人で背負い込むのはやめてもいいと思います。自分の傷を見ないようにしても、痛みは決して消えないですから」
シュタルクも頷いて言葉を重ねた。
「そうだぞ。心が壊れていたとしても、俺たちは受け止める。お前が苦しみを隠す必要なんかないんだ」
二人の言葉にタヴは唇を震わせる。優しさが、何より恐ろしかった。長い沈黙の末、タヴはようやく言葉を紡ぐ。
「……ありがとう。だが、もし再び魔力が暴走すれば、あの頃とは比べ物にならないほどの災厄が起きる。その責任は俺自身が負わねばならない」
タヴの声音には固い決意が滲んでいた。フリーレンは静かに頷き、どこか懐かしむように告げる。
「タヴが今すぐその考えを改める必要はないよ。でも、覚えておいてほしい。私たちはあなたの心が傷つき、壊れたとしても、拒むことはない……勇者ヒンメルなら、きっとそうしたから」
その言葉にフェルンとシュタルクも頷いた。
タヴは彼らの言葉を心の奥底で反芻した。自分の心が壊れることは決して許されないと思っていた。だが彼らは、その壊れかけの自分すらも受け入れると言う。それが単なる優しさに過ぎないのか、それとも本当に自分を救い得る道なのか。タヴにはまだ判断がつかなかった。
だがその夜、タヴは初めて自分が必死に閉じ込めてきた心の壁に、小さな亀裂が入ったことを感じた。それはほんのわずかな、しかし確かな揺らぎだ。
タヴは静かに心に問いかける。
(この亀裂が俺を本当に壊すのか、それとも……新しい何かを生み出す契機になるのか)
その答えはまだ見えなかったが、タヴは初めて、自分の内面に起きた小さな変化を自覚していた。それは、今まで目を逸らし続けてきた自分自身への、最初の問いかけとなった。
*
星の光さえ凍りつくような寒気に包まれた帝都アイスベルク。その張り詰めた空気の中、アルデリックを始めとする魔法使いたちは、謎めいた異界の来訪者ラジエル・サン=エリオスと対峙していた。
ラジエルは自信に満ちた、それでいてどこか胡散臭げな微笑みを浮かべたまま、アルデリックの前でゆったりと両手を広げて見せる。
「さて、君の頭の中を覗かせてもらうとしようか」
アルデリックは厳しい眼差しをラジエルに向けると、小さく頷く。
「いいだろう。だが、少しでも異常を感じたら即座に制圧する。貴様もそれを心得ているだろうな?」
「もちろんだとも。僕は秩序を乱すことは好まないんだ。安心していいよ」
ラジエルは穏やかな口調でそう言うと、静かに《Detect Thoughts(思考探知)》を唱え始めた。瞬間、アルデリックはわずかに眉をひそめ、異質な魔力が自らの精神に触れてくるのを感じ取った。それはどこか優しく、繊細な感触だった。
慎重にアルデリックの表層思考を読み取りながら、その術を維持したまま、もう片方の手で自身の額に指を添えると、《Encode Thoughts(思考符号化)》の呪文を唱えた。指先から細い青白い魔力の糸が紡ぎ出され、それをアルデリックに差し出す。
「さあ、これが今君が考えていたことだよ。自分の目で確認するといい」
アルデリックは慎重にその魔力の糸に触れ、自身の思考が鮮明に再現されていることに息を飲む。
「……確かに貴様の言う通りだ。この魔法の正確性は疑いようもない」
アルデリックは警戒を緩め始めたが、それでも完全な疑念が消えたわけではなかった。そんな彼の微かな表情の変化を楽しむように眺めていたラジエルが、再び淡く微笑む。
「さて……それで満足したなら、もう一つ、僕の記憶も見せてあげようか?君たちが知っておいたほうがいいことだ」
アルデリックは一瞬迷ったが、すぐに慎重に頷いた。
ラジエルは再度額に指を当て、《Encode Thoughts(思考符号化)》を唱えると、別の光の糸を新たに紡ぎ出した。それを受け取ったアルデリックは、今度は全く見覚えのない記憶に触れ、表情を凍りつかせる。
「この記憶は……一体なんだ? 子供を取り囲むように展開しているのは……貴様の仲間たちか? それに、この戦場の惨状は……!」
アルデリックの動揺を察した部隊員たちが次々に魔力の糸へ触れ、その記憶を共有した。
記憶の中では、破壊された戦場が広がっている。雷撃によって黒焦げになった兵士たちの遺体が無数に転がり、地面には焦げ跡が無惨に広がっていた。その惨状の中心で、一人の少年が折れた剣を握りしめ、力なく膝をついている。
少年の全身は血と煤にまみれ、その瞳には絶望すら超越した虚無が宿っていた。周囲には、ラジエルを含む術者たちが現れ、即座に少年を拘束しようと動き始める。
「対象を封印する。殺害すれば行き場を失った魔力が暴走を引き起こしかねない。まずは動きを封じろ」
命令に従い術者が魔法を放つが、少年は無意識のうちにその魔法を瞬時に《Counterspell(呪文妨害)》で打ち消す。直後、強力な《Forcecage(力場の檻)》で少年が拘束された。
ラジエルは冷徹な視線で少年を見下ろしながら、《Imprisonment(幽閉)》の術式を展開していく。
そこへ一人のドワーフ──ブロックス・フレイムスミスが割って入った。
「この子はまだ幼い。力を制御できれば防げるはずだ。封印は災厄の根本的な解決にはならねえ」
ブロックスの強固な意思により封印作業は中止され、少年は保護された。
ラジエルが提示した記憶は、そこで終わっていた。しかし同時に別の映像が示される。少年が次元災害を引き起こした後の悲惨な光景だった。少年の力が暴走した結果、次元の亀裂が発生し、大規模な破壊が起こった場面が克明に描かれている。それは、少年を保護した時点で既に甚大な被害が出ていたことを示していた。
記憶が終わると、ラジエルは淡々と告げる。
「見ての通りだよ。この子の存在そのものが大きな災害を生み出す可能性を秘めていた。だからこそ僕らは彼を封じようとしたが、あのドワーフ──ブロックスの判断で、封印ではなく保護と訓練の道が選ばれたのさ」
彼の言葉には一切の感情がなかったが、帝国の魔法使いたちの間には、記憶に残る悲惨な次元災害と、少年が秘める危険な力への深い恐怖と重苦しい沈黙が広がった。
アルデリックは信じがたいという表情で問い詰める。
「貴様が直接、あの子供を封じ込めようとしていたのか?」
ラジエルは淡々と、まるで仕事の報告をするような口調で答える。
「その通り。僕はかつて多元安定機構で次元管理官として働いていてね。こういった次元的な災害を封じるのは日常業務だったんだ」
その言葉を聞いた魔法使いたちの間にざわめきが広がった。次元を超えた話の異質さに動揺を隠せなかったのだ。
アルデリックはさらに問いかける。
「……子供を封じることに、何のためらいもなかったのか?」
ラジエルの笑みはさらに冷淡になる。
「昔の話だけどね。僕の職務は秩序の維持だった。その秩序を乱す可能性があれば、子供だろうと躊躇せず封印する。僕にとっては当たり前の判断だよ」
その言葉にアルデリックは背筋に冷たいものを感じた。その冷徹さが、本能的な恐怖を呼び起こすほどだ。
「君が信じられないのも無理はない。ただね、秩序を守るためには時に冷酷にならざるを得ない。それが次元管理官という職務に課せられた責任だったのさ」
その時、一瞬だけラジエルの表情に揺らぎが生まれた。長年、宮廷魔法使いとして苛烈な権力闘争を生き抜き、あまたの人間を観察し掌握してきた彼の眼は、その微細な変化を見逃さなかった。
(完全な無感情というわけでもないのか……?)
疑念を抱きつつも、アルデリックは慎重に言葉を紡いだ。
「だが貴様はなぜ今、この記憶を我々に見せた?我々に協力を打診するだけなら、わざわざ知らせる必要もあるまい」
ラジエルは微笑みを再び胡散臭げに戻し、ゆったりと肩をすくめた。
「そうだね。実は君たちに見せたあの少年──タヴという名なのだが、彼は既に青年に成長していてね。そして偶然にも、この世界にたどり着いている可能性が高いのさ」
アルデリックが目を見開き、周囲の魔法使いたちもざわめきを強めた。
「どういう意味だ?彼が再び災害を引き起こす可能性があるとでも?」
ラジエルは静かな口調で続ける。
「あの少年はかつて多元宇宙の秩序に影響を与えるほどの魔力を暴走させ、大きな災害を引き起こした。しかし、その後はブロックスというドワーフが彼を引き取り、厳しい訓練を通じて制御を教え込んだ。彼は今や、秩序を乱すだけでなく、秩序を守る力としても成長しているかもしれない」
アルデリックは注意深くラジエルの言葉を吟味した。
「だから我々に、そのタヴという男の対応を委ねるというのか?」
ラジエルは再び頷く。
「その通りだよ。もし彼が君たちの前に現れたら、警戒するのは当然だろう。ただ、即座に排除せず、慎重に見極めてほしいということさ。彼が再び脅威となるか、それともギスヤンキやマインド・フレイヤーといった侵略者に対抗する強力な味方となるか、それは君たちの判断次第だ」
ラジエルの言葉は穏やかだったが、背後にある意味は明確な警告だった。彼の表情には過去の記憶と職務の重さが影のように漂い、言葉の端々に使命感が滲んでいた。
アルデリックは深く息を吐き、慎重に告げる。
「貴様の言葉がどこまで信じられるかは分からないが、意図は理解した。ただし、我々も無防備ではない。貴様の動向は今後も監視させてもらう」
ラジエルはそれを聞いて楽しげに肩をすくめる。
「もちろんだとも、アルデリック殿。君たちが僕を警戒するのは当然のことだ。ただ一つ、忘れないでいてくれ。僕は常に秩序の側に立つ。その秩序が君たちと一致する限り、これほど頼れる味方もいないと思うけどね?」
軽妙に締めくくられた言葉とは裏腹に、魔法使いたちの表情からは疑念が完全に消えることはなかった。帝都の夜は深く静まり返り、協力という表面上の合意の内側に潜む緊張と警戒心が、静かなままに継続していた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。