北部高原よりもさらに北、帝国領の中央に位置する帝都アイスベルクでは、街路灯の下を横切る吐息まで白く凍っていた。
魔力を帯びた石の城壁には防護陣が浮き彫りにされ、市街の尖塔では小さな魔力の灯が星とは違う間隔で瞬く。都市のどこからでも、中央にそびえる皇宮の影が見えた。
城門では荷車の底まで改められ、夜警は二人一組で屋根と空を交互に見ている。数か月前から北方へ現れる、銀色の装甲を纏ったギスヤンキと、触手頭のマインド・フレイヤー。帝国はすでに両者と数度衝突し、帝都へ戒厳令を敷いていた。宿の灯りが早々に落とされても、城壁の巡回と尖塔の監視は夜通し続く。
皇宮から少し離れた魔力管理塔では、壁と床を走る術式の光が監視室へ集まっていた。複数の魔法使いが水晶球を囲み、帝都内外に張られた結界網の反応を区画ごとに追っている。
責任者の宮廷魔法使い・アルデリックは水晶球の前に立ち、報告が上がるたび、光の中へ浮かぶ数値を確かめていた。監視員が一つの区画を読み終えると、次を促すように球面の北側を指す。
突如、監視室の水晶球が赤く明滅し、警告音が塔の各階へ響き渡る。アルデリックは腕をほどき、光の中心へ顔を向けた。
「帝都上空に強力な魔力反応! 高度約二百メートル!」
若い監視員は水晶球から目を離せないまま叫んだ。アルデリックは北側を示していた手を引き、赤い光の中心へ身を寄せる。
「魔族か? 銀の戦士、あるいは触手頭の異形との関連性は?」
監視員は水晶球から目を離さず応じる。
「いえ、違います! 全く未知の魔力反応です! 魔族とも違う……こんな魔力反応は見たことがありません。非常に精妙で膨大、未知の術式が確認されています!」
アルデリックは赤い光点と高度目盛りを見比べ、監視室全体へ声を通す。
「即応部隊を緊急召集せよ! 都市上空の結界強度を直ちに最大まで引き上げ、防衛体制を厳重に敷け!」
召集が即応部隊の詰所へ伝わると、灰色の防護ローブを纏った精鋭たちが留め具を締めながら屋上へ駆け上がった。先頭が《飛行魔法》で夜空へ出る。後続も間隔を揃え、報告された高度へ一列ずつ上がっていった。
外套が結界の光を横切るたび、直下の屋根へ細長い影が走る。
その頃、帝都の屋根から二百メートルほど上には、一人の人物が滞空していた。蒼銀の舞台衣装めいたローブをまとい、派手な装飾品で飾られた男、ラジエル・サン=エリオスだ。直下では尖塔と屋根が格子状の街路を囲み、彼の影だけが結界の光を横切っている。視線は尖塔から城壁へ移り、次いで空を横切る結界の光へ止まった。
帝都の魔力探知結界はラジエルの魔力を捉え、城壁から尖塔まで光を走らせていた。彼は眼下で増えていく線を追い、唇を歪める。
(ほう……これはなかなか凝った術式だね。こういう反応を見るのは実に楽しい)
帝都の上空へ展開した即応部隊の隊列から、威圧的な声が響き渡る。
「Eindringling! Du befindest dich unbefugt im Luftraum über der Kaiserstadt Eisberg. Steig sofort herab, gib deine Identität preis und folge unseren Anweisungen!(侵入者よ、貴様は帝都アイスベルクの上空に不法侵入している。直ちに降下し、身元を明かし我々の指示に従え!)」
宮廷魔法使いアルデリックの声が、街全体に響き渡る。彼が使用したのは、《メガディスフォニア(遠距離まで声を拡散する魔法)》だ。しかし、空に浮かぶラジエルはその声の意味を理解できなかったのか、首を傾げ、小さく手を挙げてみせるだけだった。
(さて、これは何と言っているのかな……?)
ラジエルは額に指を当て、眼下の隊列と結界を見比べながら《Tongues(言語会話)》を詠唱し、ゆっくりと口を開いた。
「やあ、こんばんは諸君。攻撃の意志はないんだ。穏やかに会話を試みようと思っているが──」
だが、ラジエルの言葉が帝都を覆う結界に触れた瞬間、予期せぬ異変が起きた。その言葉が結界と干渉し、即応部隊の魔法使いたちの頭に鋭い異質な響きを与えたのだ。
「ぐっ……! これは……頭の中に直接響く……!」
部隊員たちは一斉にこめかみを押さえ、空中の隊列が崩れかける。アルデリックも奥歯を噛み、片手で額を押さえながら呻いた。
「これは精神干渉……いや、結界の干渉か? 侵入者め、何を企んでいる……!」
周囲に浮かぶ即応部隊の隊員たちは互いの間隔を詰め直し、ラジエルへ向けた魔法陣を空中に次々と展開する。光を帯びた術式の中心が、すべて彼の胸元へ揃った。
アルデリックは鋭く叫んだ。
「もう一度問う、侵入者よ。身元を明かし我々の指示に従え! 抵抗するならば撃ち落とす!」
だが、その脅迫に対してもラジエルは額から指を離さず、降下もしなかった。目を細め、結界面に走る術式の継ぎ目を端から端まで追っている。
「へえ……これは実に興味深いね。こんな反応を示す結界は初めてだ。君たちの術式には非常に関心があるよ」
ラジエルが一語発するたび、隊員たちの肩が跳ねる。それでも彼の視線は隊列ではなく、彼らを囲む結界の光条を追い続けていた。即応部隊の隊員たちは空中で円陣を組み、中央のラジエルへ杖先を向けたまま動かない。
蒼銀のローブの裾と指輪の鎖が風に鳴る。ラジエルが続けて言葉を発した瞬間、帝国の魔法使いたちはまたもや顔を歪めた。
「痛みを与えるつもりはないんだがね……申し訳ない。これしか会話の方法を準備していなくてね」
《Tongues(言語会話)》による影響で、言葉は隊員たちの耳ではなく頭蓋の中に直接響き、頭痛にも似た強烈な不快感を与える。隊員たちは額に汗を浮かべ、必死に耐える。
アルデリックは眉を顰めた。ラジエルへ向けた杖先はぶれない。
「……最終通告だ。即刻名乗り、目的を告げろ」
ラジエルは杖先の輪の中央に浮かんだまま、ようやく名を告げた。
「まあ、まずは落ち着いて話そうじゃないか。僕はラジエル・サン=エリオス。君たちが遭遇したのが、銀色の戦士や触手頭の異形なら、名はギスヤンキとマインド・フレイヤーだ。彼らの正体と脅威を知りたいとは思わないか?」
アルデリックの眉間の皺が深くなる。杖先を下げないまま、声を低くして問いただす。
「……なぜ貴様は、その二種が我らの領内に現れたと疑った?」
ラジエルは、二つの名を告げた途端に深くなったアルデリックの眉間の皺を見逃さない。
「今の反応で確かめたのさ。僕も異界から来た。だから、同じように世界を渡る侵略者には心当たりがあったんだよ」
ラジエルの声が頭蓋の内側で重なるたび、隊員の一人が杖を持たない手で耳を塞ぐ。それでも痛みは引かず、呻きが漏れた。
アルデリックのこめかみで脈が跳ねた。頭蓋の内側へ刺さる声を押し返すように、一語ずつ問いを継ぐ。
「つまり貴様も、あの異形の者どもと同じ侵略者か?」
ラジエルは自分へ集まる杖先を順に追い、その数を確かめ終えてから答えた。
「まさか。彼らは世界を破壊し混沌を呼び込むために来た存在だ。だが、僕はその反対。この世界に秩序を取り戻すために神々に派遣された、いわば秩序の使者というわけさ」
アルデリックは杖先を下げない。こめかみを押さえる隊員を横目で確かめ、言葉を絞り出す。
「神々から派遣された秩序の使者……? その言葉を一体どうやって信じろと言うのだ」
ラジエルは額に指を添えたまま、アルデリックだけでなく隊員たちにも目を配った。
「信じ難い話だとは理解しているよ。だけどね、僕には記憶や知識を直接共有する魔法がある。それを使えば、僕が見てきた真実を君たち自身が確かめることも可能だ」
アルデリックは、ラジエルの額に添えられた指から目を離さずに問いかける。
「その魔法というのは、どのような性質を持つ? 攻撃性や侵略性はないと断言できるのか?」
アルデリックが問い終えるより早く、返事が重なった。
「断言しよう。《Encode Thoughts(思考符号化)》という魔法でね。僕の記憶を文字通り見える形にして手渡すだけの魔法だよ。攻撃性なんて一切ない。それに、僕は神々に仕える者。信じてもらえないのは少し悲しいけどね?」
アルデリックは一瞬口を閉ざし、やがて部下の魔法使いに目配せした。魔法使いは小さな使い魔を放ち、帝宮への連絡を迅速に済ませる。間もなく許可の合図が届くと、アルデリックは杖をラジエルへ向けたまま命じる。
「地上へ降りろ。術の安全性を確認し、そこで許可を与える。だが、怪しい動きを見せれば即座に攻撃する。いいな?」
ラジエルは身体を傾け、《Fly(飛行)》でゆっくり地上へ降りていった。即応部隊員たちも円陣を崩さず後に続く。地上へ降り立つと、アルデリックが一歩踏み込み、杖先をラジエルの胸元まで近づけた。
「魔法の使用を許可する。ただし攻撃性が感じられた場合、即座に制圧する」
ラジエルは額に添えた指を離さず、空いた手を胸に当てて大仰に頭を垂れた。
「心得ているよ。秩序の使者がそんな野蛮な真似をするはずがないだろう?」
ラジエルは額に添えていた指を押し当てる。指先から細い青白い糸状の魔力が滲み出すと、それをアルデリックへ差し出した。
アルデリックが糸に触れると、鮮烈な映像が意識に流れ込んできた。銀色の霧が渦巻く広大な虚空、アストラル界で繰り広げられた戦いの記憶だ。銀色の装甲に身を包んだギスヤンキの軍団が、鋭利な銀剣を振りかざしながら次元間を渡る艦艇で襲いかかってくる。その猛攻をラジエルが防壁の術や鋭い稲妻で退ける様子まで克明に再現されていた。
続いて現れたのは、同じくアストラル界に潜む不気味な闇、マインド・フレイヤーとの交戦だった。触手を蠢かせ、精神を操ろうと侵入を試みる異形たちとの、熾烈な精神力のぶつかり合いが生々しく映し出される。
そして最後に、神秘的な光が視界を満たし、その只中から女神ミストラの声がラジエルへ使命を託す場面までもが鮮明に再現された。
映像が途切れると、アルデリックはそばに控える隊員へ糸を渡した。
「お前たちも確認しろ」
隊員たちは一人ずつ糸へ指を触れた。映像が流れ込むたび、次の者へ渡す手が止まり、最後の一人まで同じ場面でギスヤンキの艦艇を目で追っていた。
アルデリックは最後の隊員から糸を受け取り、青白い光越しにラジエルを見た。
「……確かに鮮明な記憶だが、これが真実かどうか、どうやって確認すれば良い?」
問いを受けても、ラジエルを囲む杖の輪は狭まらない。ラジエルはその距離を目で測り、次の提案へ移った。
「当然の疑問だね。では君の思考を僕が直接《Detect Thoughts(思考感知)》で読み取り、その記憶を再び《Encode Thoughts(思考符号化)》で取り出し君に見せよう。それを見れば、この記憶が本物であると理解してもらえるはずだ」
アルデリックは杖先を一寸も下げず、ひと呼吸置いて許可した。
「……良いだろう。ただし、少しでも不穏な兆候があれば即座に制圧する」
ラジエルはアルデリックが戻した魔力の糸を指へ巻き取りながら応じる。
「いいとも。僕には何の問題もないさ。それでは、次の魔法をお見せしようか」
帝国の魔法使いたちは息を詰め、ラジエルの指先と、自分たちが向けた杖先の間を見張り続けた。地上の包囲陣は解かれず、星明かりの下で各人の魔法陣だけが揺れていた。
*
冷たく暗い夜の闇が、炎と咆哮によって切り裂かれていた。かつて栄えていた都市は今や炎に包まれ、その中央部では崩壊した建物の瓦礫が転がり、破壊された防衛拠点からは煙が立ち上っている。市街地は戦場そのもので、市民の悲痛な叫びが交錯し、逃げ惑う人々を追い立てるようにデーモンたちの荒々しい咆哮が響き渡っていた。
都市の防衛網は完全に崩壊していた。炎に呑まれた魔法防壁は砕け散り、残された衛兵とウィザードたちは必死に抵抗していた。衛兵隊長は瓦礫の山を盾にしながら、低く力強い声で的確な指示を放つ。
「シールドウォールを組め! 絶対に崩すな! 隙間から敵を牽制しろ! 後衛、呪文で火力を集中させろ! 突破されれば全員が終わるぞ!」
兵士たちは分厚い盾の縁を噛み合わせ、前列の隙間からスピアの穂先を突き出した。突進してきた下級デーモンのドレッチが盾へ衝突し、その腹へ二本の穂先が食い込む。
その背後から一人の若いウィザードが前へ踏み出し、素早く呪文を紡ぐ。
「《Magic Missile(魔法の矢)》!」
指先から放たれた《Magic Missile(魔法の矢)》が盾列の隙間を曲がり、ドレッチの胴を次々と貫く。一体が倒れても、その背後から別の影が乗り越えてくる。
頭上からはクアジットの群れが盾越しに爪を伸ばす。衛兵が一体の胸をスピアで貫く間に、二体が盾の上へ取りつき、前列の腰が沈んだ。
市街地中央の広場で、敷石を覆うほどの円環状の魔法陣が光った。クアジットが翼を翻して離れた中心へ、重厚なフルプレートを纏うドワーフが降り立つ。背には魔導クロスボウ、手にはモラディンの聖印を刻んだバトルアックス。ブロックス・フレイムスミスだ。
衛兵たちが息を呑む中、ブロックスは重々しい声で叫ぶ。
「おめえら、ぼさっとしてる暇があったら市民を後ろに下げろ! デーモンどもは俺に任せろ!」
言うが早いか、ブロックスは術を唱える。
「鋼よ、我が盾となれ!」
魔力が収束すると、彼の傍らで金属製の機械兵《Steel Defender(鋼の護衛)》が唸りを上げて起動した。機械兵は一直線に前線へ飛び出し、デーモンの群れの攻撃を鋼の腕で防ぎ、市民への接近を阻止した。
ブロックスはバトルアックスを腰の武器掛けへ戻し、背から魔導クロスボウを抜いて後方のデーモンへ構えた。魔導術式が刻まれた矢が飛翔し、コウモリめいた姿で飛び回るクアジットを射落とす。クロスボウを背の留め具へ押し込み、腰へ手を戻した。武器を引き抜く勢いのまま、接近してきたドレッチへ踏み込む。
「こいつはモラディンの炉で鍛えた刃だ! てめえらデーモンどもの穢れなんざ、一瞬で浄化してやる!」
バトルアックスの刃がドレッチの肩口から胴を深く裂き、濁った悲鳴とともに地面へ叩き伏せる。ブロックスは刃を引き抜くと同時に、遠くの瓦礫の間で杖を掲げる黒衣の男たちへ顔を向けた。彼らはオルクスの名を叫び、禍々しい儀式を展開してデーモンを強化している。
杖頭に飾られた山羊の頭蓋と、腐肉色の紋章。死者とアンデッドを支配するデーモンの王子、オルクスに仕える印だった。
ブロックスは低く呻く。
「ちっ、やっぱり黒幕はオルクスの狂信者か……。こりゃ面倒だな」
狂信者へ踏み出しかけた足が、一瞬だけ止まる。雷に包まれたタヴの背が脳裏を過ぎり、バトルアックスの柄を握る指に力が入った。
「いや、今はそれどころじゃねえ。タヴが戻れる世界を守るのも、俺の使命だ」
再び戦意を高めたブロックスは狂信者へ向けて突撃を開始する。《Steel Defender(鋼の護衛)》を囮に使いながら素早く敵陣に斬り込み、呪文で強化されたデーモンを正確に倒していく。狂信者たちは慌てて新たな詠唱を始めるが、ブロックスは距離を詰め、一人の杖をバトルアックスの柄で叩き落とし、そのまま柄頭で顎を打ち上げて沈黙させる。
別の一人が印を結びかけたところへ《Steel Defender(鋼の護衛)》が横合いから体当たりし、よろめいたところを周囲の兵士たちのスピアが突き貫いた。最後の一人は後退しながら地面に呪印を描こうとする。ブロックスはバトルアックスを腰へ掛け、背から魔導クロスボウを引き抜いた。放った矢が腕を縫い止め、直後の蹴りが狂信者を地面へ叩き伏せる。
最後の狂信者が石畳へ倒れる。広場へ入り込んでいたドレッチも《Steel Defender(鋼の護衛)》に押さえ込まれ、衛兵の槍に貫かれた。遠い路地にはまだ咆哮が残るが、広場では炎の爆ぜる音が戻る。衛兵隊長とウィザードが駆け寄ってきた。
「英雄殿、あなたのお陰で何とか持ちこたえましたが……この攻撃で終わりとは思えません」
ブロックスは頷いた。
「その通りだ。オルクスの連中が手を引くとは思えねえ。奴らの真の狙いは都市の完全な崩壊だ。直ぐに次の攻撃が来ると覚悟しておけ」
衛兵とウィザードたちは返事の代わりに盾と杖を握り直す。ブロックスは周囲の瓦礫と路地の幅を見比べ、即座に指示を飛ばした。
「ウィザードは《Alarm(警報)》で接近を拾え! 《Glyph of Warding(守りの秘文)》を使える者は、衛兵の内側で秘文を刻み始めろ。衛兵は障害物を配置して敵の進路を限定しろ! 時間がねえぞ!」
号令と同時にウィザードたちが路地の出入り口へ散り、地面や扉の前へ《Alarm(警報)》の細い線を引き始める。ひとつの区画が閉じるたび、担当する術者の耳元で試験用の音が鳴った。
衛兵たちは近くの樽や崩れた石材、倒れた荷車を運び寄せ、路地の入口に積み上げて進路を狭めていく。即席の盾列を組み、障害物の陰から槍先を突き出せるように立ち位置を整える。
別のウィザードたちは盾列の内側へ膝をつき、積み上げた床石や壁面へ《Glyph of Warding(守りの秘文)》を刻み始めた。紋様の線はまだ途中で途切れ、魔力を流しても光が一周しない。
路地の入口には石材が積み上がり、その手前では《Alarm(警報)》の線が静かに定着していた。その列を確かめたブロックスは、魔導クロスボウを背の留め具へ戻し、腰の武器掛けに収めていたバトルアックスを足元の石材へ立てかける。それからモラディンの聖印を両手で握り締め、頭を垂れた。
「父なるモラディンよ、俺たちに力を貸してくれ。この世界を──守り抜くために」
祈りを終えたブロックスは目を開き、聖印から手を離してバトルアックスを握り直す。都市を包む炎はまだ収まっていない。それでも路地では、衛兵たちが運び込んだ石材の列が伸びていた。
「さあ、次の戦いに備えろ! こっからが本番だ!」
号令を受け、槍先が路地の入口へ揃った。ブロックスはその中央でバトルアックスを構え、崩れた防衛線の先を見据えた。
*
夜のオイサーストでは店の鎧戸が早々に閉まり、石畳に響くのは巡回兵の靴音ばかりだった。
タヴは石畳の道を歩きながら、街灯ごとに立つ兵士と魔法使いを目で追った。街角の検問所では、槍を持つ衛兵が通行人を一人ずつ止め、顔と身分証を見比べている。戦時下で幾度も見た光景と変わらない。
検問所の前で歩調が緩む。通過を許された者たちも、背後の槍を確かめるように何度も振り返っている。異界を渡り歩く中で、混乱や戦争は幾度も見てきた。だが今は、文書館で掌へ爪を立てていたフェルンの姿が、槍の列へ重なって離れない。
「それは……異界の軍勢と本格的な戦争が始まっていても、ですか?」
歩くたび、同じ問いが戻ってくる。あの時のフェルンは視線を伏せ、強く組んだ指をほどけずにいた。戦力の見積もりだけを尋ねる姿ではなかったが、何を言葉にしなかったのかまでは、タヴにもまだ読めない。
(彼女は一体、俺に何を求めているんだ?)
帰還手段を見つけた瞬間、異界の戦力が一人減る。その計算をしただけか。
それとも、タヴが去り、戦火の迫るこの地へ自分たちだけが残される先を見ていたのか。文書館で掌へ食い込んでいた指は、短い旅で隣を歩いた者まで惜しんでいたのか。
どれか一つに決めるには、伏せられた顔と、ほどけなかった指しか材料がない。
帰還という言葉を思い浮かべても、先に現れるのは場所ではなかった。黒焦げの荒野で、透明な力場と幼いタヴの間へ踏み込んだドワーフ、ブロックス・フレイムスミスの背中だ。
(だが俺は……まだそこに帰る場所があるという希望に縋っている。帰還にこだわるのも、機構が救出を諦めていないという甘い期待を捨て切れないからだ……)
ブロックスは封印の合図を止め、排除ではなく制御を教えるべきだと押し通した。タヴを多元安定機構へ推薦し、その後も指導役として傍らにいた。それほどの恩があるのに、なぜ助けたのかと一度も尋ねなかった。
答えを聞く機会はいくらでもあった。今は、機構が救出を断念したのかも、ブロックスがまだ待っているのかも分からない。たとえ帰還できても、以前と同じように迎えられる保証はなかった。
施設の廊下や任務の席を思い描いても、迎える者の顔だけが抜け落ちる。その空白へ、フェルン、シュタルク、フリーレンの顔が順に浮かんだ。
(俺はこの世界にとって、単なる戦力か? それとも……)
三人の顔を追い払うことはできず、宿へ向かう足も止まらなかった。
その時、街路の前方で小さな騒ぎが起こっているのが目に入った。数歩離れた街路の脇で、一人の若い兵士が少年の腕を強く掴み、逃げ道を塞ぐように立っている。抑えた声でも、夜の石壁には明瞭に反響した。
「夜間の外出は制限されているはずだぞ。親は一緒ではないのか?」
少年は掴まれた腕を胸元へ引こうとしながら、途切れ途切れに答える。
「ぼ、僕はただ、家が近いからすぐ戻れると思って……」
兵士は少年の腕をさらに引き寄せ、逃げ道へ半歩回り込んだ。
「そんな言い訳で済むと思っているのか? 事情が分かるまでここで待ってもらうぞ」
タヴは兵士の手と少年の細い腕を見比べ、道の中央で足を止めた。目を逸らして通り過ぎようと一度は身体を傾けたが、次の一歩が出ない。向きを戻し、小さく息を吐いて騒ぎへ近づいた。
兵士はタヴの存在にすぐ気付き、擦り切れた衣装を上から下まで見た。少年の腕を掴んだまま、空いた手を槍の柄へ移して問いただす。
「そこのお前、こんな時間に外を出歩いて何をしている? 身分証はあるのか?」
タヴはゆっくりと懐に手を入れ、大陸魔法協会から発行された金属製の身分証を取り出し、兵士に提示した。金属製のカードには魔法的な刻印が施されており、淡く魔力の光を帯びている。
兵士は身分証を街灯へかざし、刻印の光を二度確かめた。槍の柄に添えていた手が下がる。
「これは……協会発行の身分証か。失礼した、魔法使い殿」
「気にするな。そちらの少年は何か問題でも起こしたのか?」
兵士は眉を顰めて少年を横目で見ながら説明した。
「いや、夜間は市民の外出が制限されているのだが、この子は身分証を提示できないうえに、親の付き添いもない状態で歩いていたのでな。事情を確認するまで足止めしたというわけだ」
少年は兵士の指が食い込む腕と、タヴの顔を交互に見た。胸元へ引こうとするたびに腕は止められ、息だけが短くなる。
タヴは少年の腕に残った指の跡へ一度目を向け、声を荒らげず兵士に話しかけた。
「あんたの職務は理解している。だが、この子の家が本当に近いなら、もう少し柔軟に対応できる余地はあるんじゃないか?」
「それは分かるが、規則は規則だ。このような時勢だからこそ、例外を許すわけには……」
「気持ちはよくわかる。だが規則が市民を守るためのものであるなら、過度に怯えさせるのは本末転倒ではないか? 今は不安を煽るより、安心を与える方が重要だろう」
兵士はタヴの身分証と少年を見比べた。赤く残った指の跡を見て口を結ぶ。
「家が近いと言うなら、俺が戸口まで送り、親に引き渡す。誰もいなければここへ連れ戻す。それなら規則にも反しないだろ」
兵士はカードをタヴへ返し、少年の腕から手を離した。
「……分かった。ただし、寄り道はさせるな。次から夜に出歩く時は、必ず親か身分証を持つ大人と一緒にいるように」
少年は何度も頷いた。タヴとともに路地へ入ると、ほんの数軒先の扉まで駆けていく。叩くより先に扉が開き、外套も羽織らない女性が少年の肩を抱いた。タヴは戸口から二人が中へ入るのを確かめ、検問所へ引き返した。
兵士は槍を立てたまま待っていた。タヴが一人で戻ると、肩をわずかに落として告げる。
「迷惑をかけたな。協力に感謝する」
タヴは路地の明かりが消えたことを確かめて返した。
「お互い、難しい時期だ。こういうこともあるだろう」
再び宿屋への道を歩き出す。今の介入が、不干渉を原則とする機構の規範から外れることは分かっていた。命令を仰ぐ手段も、判断を照会する通信もない以上、目の前で選んだ結果は自分で引き受けるしかない。
ただ、規範より先に浮かんだのは少年とフェルンたちの顔だった。以前の自分なら、まず規範から考えていただろう。
(だが、俺はどこへ向かうべきだ? 帰るべき場所は……)
迷いを抱えたまま、タヴは宿屋の入口に辿り着いた。吊るされたランタンの灯りが優しく揺れ、周囲をほんのり照らしている。
扉をゆっくりと押し開けると、小さな受付が目の前に現れた。奥の広間からは、くつろぐ客たちの静かな会話がかすかに聞こえてくる。受付に近づくと、中年の女性が穏やかに声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。今夜のお泊まりですか?」
タヴは軽く首を振り、短く答えた。
「いや、待ち合わせをしている者たちがいる。エルフの魔法使いと、若い男女の二人連れだ」
受付の女性はすぐに頷き、奥の広間を指し示した。
「ああ、その方たちならあちらのテーブルにおられますよ」
タヴは受付に短く礼を告げると、示された方向に目を向けた。広間の奥にフリーレン、フェルン、シュタルクの姿が見える。彼らはテーブルを囲み、声を抑えて言葉を交わしているようだった。
タヴは答えの出ない問いを抱えたまま、三人のいるテーブルへ向かった。
夜の静けさが支配する宿屋の広間は、温かい灯火に照らされていた。壁際のテーブルには、食事を終えた客たちが小声で会話を交わしている。
タヴが広間に入ると、扉の蝶番が短く鳴った。三人の座るテーブルへ近づくにつれ、続いていた会話が一人ずつ途切れていく。
フェルンは膝元へ視線を伏せ、シュタルクは唇を動かしたものの声を出せずにいる。フリーレンだけがタヴのために椅子を引き、先に口を開いた。
「……来てくれたんだね。ここでは少し話しづらいから、部屋で話そう」
タヴは小さく頷くと、無言で彼らに続いて宿の二階へと向かった。
階段を登り、フリーレンたちが借りている部屋へ入る。扉が閉じても誰も話し始めず、椅子を引く音だけが続いた。腰を下ろしたタヴの耳には、文書館でのフェルンの問いがまた響く。
ランタンの芯が一度爆ぜ、もう一度爆ぜる。その間、タヴは床板の同じ継ぎ目を見ていた。三度目の音が鳴る前に、フェルンへ目を上げる。
「フェルン、文書館で問われたことだが……正直なところ、俺自身も答えが見つからない」
フェルンは顔を上げたが、返事は一拍遅れた。
「申し訳ありません……あんな質問をしてしまって……失礼でした」
タヴは軽く手を挙げて制する。
「いや、謝る必要はない。あの質問は当然のものだ」
フェルンはそれでも視線を膝元へ落としたままだった。シュタルクが軽口を叩いた。
「まあ、あんまり気にするなって。こんな状況じゃ誰だって色々考えちまうさ」
タヴの口元が一瞬だけ緩む。フリーレンはそんな彼らを見つめ、口を挟まなかった。
やがてフリーレンが顔を上げ、タヴと目が合うまで待ってから問いかけた。
「タヴ。あなたがこの世界に残って戦ったとしても、勝つ可能性は低い?」
タヴは目を逸らさず、間を置かずに答える。
「はっきり言うが、俺がこの世界に残って戦ったとしても、勝てる可能性は低い。ゼーリエのような英雄的な魔法使いが存在しても、それはあくまで局所的な対処でしかない。ギスヤンキやマインド・フレイヤーは数だけではなく、極めて強力な個の存在も投入してくる。奴らが本気で制圧を狙っているのなら、そういった強力な個体が複数現れることになるだろう」
タヴの言葉を聞き終えると、フリーレンは目を閉じた。
「……それでも、私たちは戦うしかない。この世界に生きる私たちには、この世界しかないから」
その言葉を皮切りに、フェルンが控えめに話を始めた。
「私は……子供の頃、人間同士の戦争で家族を失いました。もう何もかもが嫌になって、死のうとさえ思ったんです」
彼女は一旦言葉を止め、ひと息ついた。
「でも、ハイター様という僧侶に救われました。ハイター様の薦めでフリーレン様に師事して、魔法使いの道を歩んでいます」
フェルンの視線が、ゆっくりとタヴに向けられた。
「ハイター様はかつて勇者一行の僧侶として魔王を倒し、世界を救いました。だから私は、その救われた世界を守りたいんです。そうでなければ……私が救われた意味がありませんから」
フェルンが言葉を終えると、シュタルクは膝へ両手を置き、少し身を乗り出した。
「俺も、まあ、似たようなもんだ。子供の頃に魔族に故郷を滅ぼされて、拾って育ててくれたのがドワーフの戦士、アイゼン師匠だった」
彼は軽く肩をすくめて続けた。
「師匠は昔、勇者一行として冒険したことがあるって言っていて、その旅がどれほどくだらなくて楽しかったかを、俺に何度も話してくれた」
シュタルクは、そこで小さく笑みを浮かべた。
「だから俺はフリーレンの旅に同行して、くだらない話をいっぱい作って、それを師匠の元に帰って聞かせたいんだ。そのためには俺自身が生き残らなきゃならないし、世界が滅ぶなんて論外だ」
最後にフリーレンが、テーブルの木目へ一度視線を落とし、自身の過去を語り出した。
「私は千年前、エルフの村を魔族に襲われ、死にかけていたところを師匠、フランメという人間の魔法使いに拾われた」
フリーレンは声量も話す速さも変えずに続ける。
「師匠は誰もが魔法を使える世界を夢見て、人類に魔法を広めた偉大な魔法使いだった。そしてその後、私は勇者ヒンメルと出会い、ハイター、アイゼンと共に魔王を倒した」
フリーレンは瞼を閉じ、口元をわずかに緩めた。
「ヒンメルは困っている人を決して見捨てないお人好しだった。師匠もヒンメルたちも、平和な世界を望んで命をかけた。その遺したものを壊されたくない……ただ、それだけ」
文書館で読んだ勇者ヒンメルと、人類の魔法の開祖フランメ。その二つの名が、目の前の三人の師や旅仲間として一本につながる。魔王を倒した勇者一行の魔法使いは、いまタヴの正面に座るフリーレンだった。
(勇者一行と深く繋がっている……それが彼らの覚悟の源か)
フリーレンはタヴと目が合うまで待ち、問いかけた。
「タヴは本当に自分の世界に帰りたいと思っているの?」
その問いにタヴは一瞬言葉を失った。元の世界について話した言葉を辿っても、施設や任務の名ばかりで、帰る場所や待つ人の名は一つも出てこない。返答を探す間、視線だけが床へ落ちた。
フェルンもシュタルクも返答を急かさず、机の向こうで待っている。
「タヴ自身のことをもっと教えて。もちろん、話したくないなら無理にとは言わないけど」
タヴは一瞬口を開きかけるが、息だけを漏らして唇を閉じる。視線は床板の継ぎ目へ落ちたまま、しばらく上がらない。
やがて彼は長く息を吐き、フェルンへ視線を戻して言った。
「……分かった。ただ、説明が難しいことも多くてな……少々長くなるかもしれない」
*
バルダーズ・ゲートの空を紫色の閃光が裂き、石造りの街並みを一瞬だけ白昼のように照らした。ほどなくして轟音が空気を震わせ、汚泥に満ちた街路の人々は頭を庇いながら家々へ駆け込む。
城壁の高みでは石造りの屋敷に灯が並ぶ一方、低い街路では壊れた雨樋から泥水が溢れ、軒下を奪い合う声が雷鳴の間にも聞こえる。巡回の灯りは大通りを曲がらず、細い路地には足を踏み入れなかった。
その街の片隅に、朽ちかけた木造の家屋が一つあった。壁の隙間から雨水が染み込み、木の腐敗臭が漂うその場所で、幼い泣き声が雷鳴に混じって響いていた。
生まれて間もない赤子のタヴが、粗末な毛布に包まれて泣いていた。声が高くなると、遅れて雷鳴が古びた家屋を揺らす。棚の皿が触れ合い、窓枠から落ちた木屑が毛布の脇へ散った。
「まただ! この雷は、あの子が生まれてから続いている!」
隣家の老婆が戸口の陰から腕を伸ばし、赤子のいる部屋を指した。父親は否定の言葉を探すように口を開き、母親は毛布を抱く腕へ力を込める。
「ただの偶然だろう……?」
父親がか細い声で呟いたが、母親は赤子を抱く手を震わせ、否定するように首を振った。
「違う。この子が泣くたびに……あの雷が来るんだ。これは普通じゃないよ……」
赤子の泣き声が高まると、さらに強烈な雷鳴が空を震わせる。向かいの窓が音を立てて閉まり、通りに出ていた住人たちも軒下へ退いた。
「呪われている……あの子はきっと呪われた子だ……!」
住人の一人が叫んだ。その言葉を追うように戸口が次々と閉まり、板壁の向こうでは声を潜めた相談が続いた。
数日後の夜、両親はタヴを抱いて街路を急いだ。互いに目を合わせぬまま、地下にある非合法な取引所へ下りていく。
降りた先は、バルダーズ・ゲートの地下に網を張るギルドの闇市場だった。鉄扉には盗品の荷札と同じ印が刻まれ、取引台の帳簿には武器や薬と並んで売られた者の年齢が記されている。
「この子だ。呪われているが……きっと特別な力がある」
タヴの父親が震える声で《ギルド》の仲介人に伝えた。仲介人は毛布の隙間へ片手をかざし、小さな体から漂う異質な魔力を確かめる。帳簿へ新しい欄を作り、金額を書き込んだ。
「なるほど。これは面白い……。いい値段がつくだろうな」
硬貨の袋が父親へ渡り、母親の腕から赤子が離れる。両親は一度も振り返らず、地下へ下りてきた階段を上っていった。
やがて赤衣の魔法使いたちが現れ、特異な魔力を宿す幼いタヴを実験材料として引き取った。
行き着いたのは、サーイの辺境にそびえる塔の群れだった。収容室へ運ばれたタヴの両手足に拘束具が嵌まり、寝台の周囲では封印術式が赤く灯る。
「この子は魔力の流れが常識を超えている。特異な次元的結合体を持っているようだ」
魔法使いたちの視線は、泣き声ではなく皮膚に走る魔力の光を追った。封印具が肌を焼き、魔力制御針が肉体の内側へ入るたび、寝台の拘束帯が軋む。泣き声へ目を向ける者はなく、術者たちは針の振れと皮膚の光だけを記録して次の器具を運ばせた。同じ部屋へ運び込まれる年月のうちに器具は増え、タヴの肉体と精神は削られていった。
ある実験の最中、痛みに塗り潰された視界の奥へ、見知らぬ薄明の地平が開いた。後に《Shadowfell(シャドウフェル)》と知る、物質界に隣接した死と影の次元だった。崩れかけた意識の揺らぎが境界を弱め、タヴの精神は偶然そこへ触れた。
闇の中で、ひと振りの魔剣を思わせる輪郭が立ち上がった。剣そのものなのか、姿だけを借りた何者かなのか、当時のタヴには分からない。のちに《ヘクスブレード》と呼ぶその存在は、自ら切っ先を巡らせてタヴを捉えた。
「お前は壊れるだけの器ではない……力を望むのなら、我を振るえ」
囁きは実験のたびに痛みの奥から届いた。初めは耳を塞ぐように意識を閉ざしていたタヴも、やがて差し出された力を内側へ受け入れる。ある日の実験中、封印具の継ぎ目から雷光が噴き出した。塔を揺らす魔力の嵐が拘束術式を砕き、研究員たちが寝台から後ずさる。
「封印が破れた! 実験体が暴走している!」
タヴの小さな体から制御不能の雷撃が放たれ、施設の壁を粉砕した。彼は半ば意識を失ったまま、崩れた石材を乗り越えて壁の向こうへ駆け出す。
雷弧は寝台も追ってきた魔法使いも区別せずに襲い、廊下を焼いた。飛び交う制圧術式も、荒れ狂う魔力の中で形を保てない。
「逃がすな! あれを再捕獲しろ!」
廊下を曲がるたび雷が背後へ落ち、追跡者の足を止めた。タヴは外扉を抜け、塔群の外に広がる荒野まで走り続ける。施設の灯りが見えなくなった頃、精神世界の《ヘクスブレード》が一度揺らめき、その意識が語りかけた。
「よくやった。我々の真の力は、まだ目覚めてすらいない……」
施設の灯りが地平の岩陰へ消えるまで、タヴは一度も振り返らなかった。
*
雷雨が去った荒野には、風が焼けた土を擦る音だけが残っていた。
黒焦げの岩肌と枯れた草が点在し、倒木は落雷で幹から裂けている。冷たい風が乾いた土を巻き上げても、動く生き物は見えない。
その広大で生命の気配が希薄な荒野を、小さな影がひとり彷徨っていた。
タヴだった。
実験施設から逃れたばかりの彼はまだ幼い。細い体には傷が幾筋も残り、破れた衣服は砂埃と泥にまみれて原形をとどめていない。乾いた唇が開くたび息が漏れ、足は一歩ごとにふらついた。
膝が折れかけるたび、体内で微かな雷鳴が響き、周囲の空気が渦を巻いた。異質な魔力が無意識に体温と最低限の体力を繋ぎ止めている。その支えがなければ、荒野へ出た時点で倒れていた。
食料を得る時にも、先に動くのは彼自身ではなく魔力だった。
タヴが岩陰へ身を沈めると、その周囲だけ気圧が落ち、局地的な嵐が生まれる。予兆を感じた動物たちは一斉に走り出し、同じ岩陰や洞窟、倒木の下へ逃げ込んできた。
落雷が地面を打てば、落ちていた木の実や果実が割れて芳香を放つ。匂いにつられて近づいたリスや小動物へ、タヴの意思より早く雷撃が走ることもあった。
嵐が収まると、割れた木の実と動かなくなった獲物が残る。タヴはそれを拾い、次の日まで生き延びた。
数日後、タヴは掌を風へ向け、渦を小さくしようと指を閉じた。実験施設で引き出されるまま暴れた力を、自ら制御しようとした最初の試みだった。
「……ぁ……あ……」
彼は声を出そうとするが、言葉の形にならない。教わった音がないまま唇だけが震える。それでも意思を外へ届けようとした時、魔力が応え、始原語が自然に漏れ出した。
《Wind Speaker(風に語る者)》として、彼の魔力は元素界の風と深く結びつき、始原語を理解し操る力を備えていた。その一つである風界語の囁きが空気へ乗り、初めて意思を外へ運ぶ。
やがてタヴは荒野を抜け、小さな村落を見つけた。木と石で造られた質素な家屋が並び、そこには久しく感じていなかった人の営みの気配が満ちていた。彼は空腹と人恋しさから、その村へと近づいていく。
村人たちは突然現れたみすぼらしい少年を遠巻きにし、互いに顔を見合わせた。彼らが何かを問いかけるが、タヴにはその言葉の意味がまったく理解できなかった。
「お前……どこから来た?」
老人は両手を見せたまま、一歩ずつ距離を詰めて声をかける。だがタヴは自らの感情を風界語で呟き始める。耳に慣れぬ、風のざわめきのような言葉が広がると、村人たちは互いの肩へぶつかりながら後ずさった。
「何だ、この言葉は……?」
「この子供……人間じゃない! 精霊か、あるいは呪われた魔物だ!」
村人たちの手に石や棒が握られ、タヴへ向く。最初の石が足元を打つより早く、タヴは身を翻して荒野へ逃げ出した。
その日以降、村の灯りが見えるたび、タヴの足は街道を外れた。森や洞窟を渡り歩き、雨をしのぐ岩棚と食べられる草を一人で探す。人の声を避けたまま、向き合えるものは自らの魔力しかなかった。
夜ごと空腹で眠れず、人影を見れば逃げる日々が重なる。やがて自分と周囲の境目さえ曖昧になり、呼吸に合わせて魔力が荒れ始めた。そのたび精神世界へ《ヘクスブレード》の輪郭が割り込む。
「まだ壊れるには早すぎる」
《ヘクスブレード》の声と同時に冷たい衝撃が走り、散りかけた意識が無理やり引き寄せられる。鋭い刃で内側から縫われるような苦痛。それでも、その痛みだけがタヴの精神を崩壊の手前へ繋ぎ止めた。
日が重なるうち、夜にタヴが声を向ける相手は《ヘクスブレード》だけになった。
「お前には世界を揺るがす力がある。なぜそれを使わない?」
《ヘクスブレード》の声は耳元へ寄せるように始まり、命令の部分だけ一語ずつ強く響いた。従うたびに暴れていた魔力は術式の内側へ収まったが、声が消えたあとも、誰かに背後へ立たれている感覚が残った。
数年が過ぎ、成長したタヴは偶然、小規模な傭兵団のキャンプを見つけた。彼らは数十人ほどで編成され、荒野を旅しながら戦争の中で雇われている傭兵たちだった。
タヴがキャンプの近くに潜んでいるとき、敵の小規模な襲撃部隊が奇襲をかけようと忍び寄っているのに気づいた。危険を感じた瞬間、彼は反射的に《Wind Speaker(風に語る者)》の力を通じて、風界語で警告を呟く。
精霊の囁きのような言葉は風に乗って傭兵団の術者に届き、術者はそれを聞き取って即座に警戒態勢を取った。
「誰かが始原語を使っている……風の精霊か?」
おかげで傭兵団は敵の奇襲に備え、迅速に撃退した。傭兵団の長はその出来事に興味を持ち、周囲を探索した末、潜んでいたタヴを発見した。
「こいつが風界語で警告したのか?」
当初は警戒されたものの、その後も同じように敵の襲撃を未然に防ぐと、傭兵団長はタヴを団に置いた。その扱いは半ば道具同然だった。
翌朝から、タヴは敵陣に近い藪や崩れた壁へ送られた。団長は地図の一点と彼の胸を指し、戻れと手招きする。言葉が分からなくても、求められるのは敵の数と位置だと伝わった。帰れば術者が風界語の報告を共通語にし、食事と次の場所が示された。
戦場が変わっても、役目は変わらない。誰より先に敵を見つけ、矢が届く場所まで近づき、生きて戻る。人の言葉は分からないまま、伏せる合図、逃げる方向、刃を向けられた時に身を守る方法だけが身体へ刻まれていった。
ある戦場では、タヴが戻る前に両軍が衝突した。前方で盾が割れ、すぐ横へ倒れた傭兵の血が頬にかかる。背後から肩を押され、折れかけたショートソードを握ったまま前線へ出された。どちらの兵が味方なのかを見分ける間もなく、矢と刃が四方から迫る。
息を吸うたび、実験施設の拘束帯が胸へ戻ってきた。耳元の怒号は術者たちの命令に変わり、目の前の剣先が魔力制御針と重なる。ショートソードを持つ手から感覚が消えたとき、雷鳴が頭上ではなくタヴの内側で鳴った。
青白い閃光が地面を這い、立っていた兵士の脚を敵味方の区別なく焼く。風は炎と土を巻き上げ、逃げようとする者まで戦場の中央へ押し戻した。タヴが止めようと腕を抱えても、雷は指の間から溢れ続ける。やがて悲鳴が途切れ、嵐の中に残った傭兵たちが、初めて敵へ向けるのと同じ目でタヴを見た。
「あれは人間じゃない……化物だ!」
「今すぐ殺せ! 放置すれば俺たちも巻き込まれる!」
傭兵の一人が剣を抜き、「化物」と叫びながらタヴへ踏み込んだ。切っ先が顔へ迫ると、散りかけていた雷が再び少年の身体へ集まり、風が外側へ膨らんだ。
タヴの悲鳴が轟く雷鳴と融合し、空気が破裂するような爆音が響き渡った。タヴの体から無意識に放たれた魔力は、暴力的なまでの勢いで次元の壁を突き破り、世界そのものに深い亀裂を穿った。
戦場の景色が左右へずれ、裂けた空間の向こうに、次元を隔てた無数の世界が明滅する。
はるか遠く、多元安定機構の観測施設では、巨大な次元波動解析器が警告音を鳴らした。監視員の一人が揺れ続ける波形を固定し、別の者が次元座標を読み上げる。自然現象を示す基準線からは、針が大きく外れていた。
「次元干渉レベル危険域を超過! 原因は自然現象ではありません──人為的、あるいは魔力暴走です!」
監視員が警報印へ掌を重ねると、同じ波形と座標が司令室の作戦卓へ転送される。中心に立つ指揮官は、危険域を越えた針を確認して片手を上げた。
「緊急事態だ。事故対応部隊を即座に派遣しろ。原因を排除し、次元秩序を回復せよ!」
命令を受けて、多元安定機構の実戦部門から臨時に編成された事故対応部隊が次元転送装置の前に集合した。隊列の中には、傷の走る胸甲を着込み、鍛冶神モラディンの聖印を柄へ刻んだバトルアックスを担ぐドワーフがいる。ブロックス・フレイムスミスは、転送光が満ちる直前まで留め具と刃先を確かめていた。
転送光が引くと、靴底の下で土がまだ熱を残していた。倒れた兵士たちの鎧は雷撃で黒く焼け、地面を走る焦げ跡の先では、折れた武器から細い煙が上がっている。
その中央に、小さな影が膝をついていた。
痩せ細ったタヴが、折れたショートソードを震える手で握り締めている。顔は血と煤にまみれ、骨のように細い身体は今にも崩れそうだ。それでも隊員の靴が一歩近づくたび、刃先だけは少しずつ持ち上がる。助けを求める声も、降伏の言葉もなかった。
周囲の《ウィーヴ》が不規則にうねり、空気に焦げた金属の匂いが混じる。少年の身体の内外で魔力が導管のようにつながり、外界からの流入の残滓が火花のように散っているのが見て取れる。
ここで命脈を断てば、その導管が野放しになり、一挙の解放で《ウィーヴ》に甚大な攪乱が起こり得る。事故対応部隊の隊長は、少年ではなく暴走する導管を測る声で告げた。
「対象を封印する。殺害すれば行き場を失った魔力が暴走を引き起こしかねない。まずは動きを封じろ」
隊員たちは即座に動いた。一人の術者がタヴとの間を三歩分空け、《Hold Person(対人金縛り)》を放つ。
拘束の術式が身体を捉えるより早く、タヴの内に眠る魔力が無意識に反応し、《Counterspell(呪文妨害)》が立ち上がって術者の魔法を弾き消す。術者の足が止まった。その間に隊長は一歩踏み出し、腰のポーチから高価なルビーの粉末を掴む。掌で弾いて虚空へ散らすと、険しい目で力の言葉を叩き付けた。
「《Forcecage(力場の檻)》!」
タヴの周囲で空気が硬く鳴り、透明な力場が閉じた。身を引いた少年の背が見えない壁へぶつかる。逃げ道を断たれると膝から力が抜け、そのまま地面へ落ちた。隊長はそれを見下ろし、低く吐き捨てる。
「反射的に《Counterspell(呪文妨害)》が発動されるとはな。まるで魔力そのものが意志を持っているようだ……化物め」
タヴを取り囲む隊員たちは武器を構え直し、隊長は全周に目を配って短く命じた。
「警戒は解くな。次元管理官は次元補佐官二名と《Imprisonment(幽閉)》を準備しろ。封印形式は《宝石の中の小人》だ。術式が組み上がり次第、私が《Forcecage(力場の檻)》を解除する。合図と同時に封印を放て」
ラジエルと補佐官二名が《Forcecage(力場の檻)》の外で詠唱を重ねる。ラジエルが透明なダイアモンドを陣の中央へ掲げると、石を囲む術式線が一本ずつ閉じていった。最後の線だけが力場の表面で止まり、隊長が檻を解く合図を待っている。
ブロックスは《Forcecage(力場の檻)》の前へ半歩踏み出し、術者たちを制した。
「待て」
ブロックスの声が詠唱の間を横切り、補佐官二人の指が止まった。隊長は武器をタヴへ向けたまま、ブロックスとの距離を一歩詰めて問いただす。
「何をしている、ブロックス。陣形を乱すな。私の指示に従え」
ブロックスは少年から目を離さず、短く言い切る。
「この子はまだ幼い。力を制御できれば防げるはずだ。封印は災厄の根本的な解決にはならねえ」
隊長の眉間が寄り、声が荒くなる。
「災害原因を排除するのが我々の使命だ。お前が口を出す問題ではない」
ブロックスは一歩も退かず、力場越しにタヴを見据える。
「隊長、この子を見ろ。恐怖で震えているだけだ。このまま追い詰めれば、本当に手に負えない存在になる。封印が失敗する可能性もある。制御を教えなければ、同じことが繰り返される」
止められた詠唱の余韻と、力場の低い唸りだけが残る。隊長はタヴへ目をやった。少年は膝をつき、逃げ道を探す余力さえ失っている。それでも折れた剣から手を離していなかった。
やがて彼は問う。
「お前はこいつを機構に引き入れようというのか?」
ブロックスは迷わず頷く。
「俺が全責任を負う。訓練と教育を施し、この子を戦力として育てる」
隊長はタヴとブロックスを見比べ、しばらく答えなかった。
「……いいだろう。その判断を尊重する。ただし、全責任はお前が負え」
彼は次元管理官へ顎で合図する。
「術式展開を停止しろ」
次元管理官が頷き、組み上げた術式を逆順に解く。補佐官たちも魔力供給を切り、空間に浮かんでいた封印術式が音もなく消える。ブロックスは《Forcecage(力場の檻)》の前まで歩き、力場の内側で強張るタヴに声を掛ける。
「大丈夫だ、坊主。もう安心していい」
タヴは言葉を返さず、ただ見上げる。ブロックスは小さく頷き、振り返って明確に言う。
「《Forcecage(力場の檻)》を解いてくれ」
隊長がわずかにためらったのち、解除の言葉を落とす。透明な箱がほどけ、空気が流れ込む。折れたショートソードがタヴの緩んだ指から滑り、地面へ落ちた。
ブロックスはゆっくり跪き、目線を合わせてから両腕で小さな身体を抱き上げる。タヴの瞳が揺れ、無言のままブロックスの顔を見続けた。
多元安定機構の施設へ着くと、清潔な服と湯気の立つ食事が差し出された。タヴは椅子へ座らず、皿とブロックスを何度も見比べる。ブロックスはバトルアックスを扉の外へ預け、向かいの椅子へ座った。パンを半分に割り、先に片方を口へ入れてみせる。それから皿を押しつけず、手の届く場所へ置いた。タヴはしばらく動かなかったが、湯気が細くなった頃、ようやく指先で同じパンを取った。
その夜に与えられた部屋には、外から掛ける鍵がなかった。それでもタヴは寝台へ入らず、椅子を扉の前へ押して床で膝を抱えた。廊下で足音が止まるたび、指の間に青白い火花が走る。だが扉は開かず、足音もやがて遠ざかった。朝になると、敷居の外には新しい服と朝食の盆だけが置かれていた。
訓練場では、ブロックスが木剣を床へ置き、両手を見せたまま数歩退いた。タヴが柄へ触れるまで、取れとも構えろとも命じない。少年が木剣を拾うと、ブロックスも離れた場所で一本を取り、まず足の置き方だけをゆっくり示した。そうして、命令されるのを待つのではなく、自分で選んで動く訓練が始まった。
ある日の訓練後、ブロックスは特別許可証をタヴの前に広げた。行き先は、故郷アイアンマスター。一度でいいから家族の温もりと穏やかな日常に触れ、ただの兵器ではないと知ってほしかった。山道を越えた二人は、やがてブロックスの家の戸口に立った。
彼の伴侶リーナは、戸口から動かないタヴとブロックスを見比べて尋ねた。
「あの子、ひと言も喋らないのね」
「ああ、だが見ていろ。あいつは必ず話すようになる」
リーナはそれ以上問わず、食卓の端へ椅子を一脚足した。パンを載せた皿もタヴへ差し出さず、空けた席の前へ置く。ブロックスが先に家へ入り、戸口から離れても、扉は開けたままだった。タヴは敷居の外から鍋の湯気を見つめ、やがて誰にも促されないまま一歩だけ中へ入った。リーナはその一歩にも声を上げず、食器を三人分に並べ直した。
機構での生活が安定すると、タヴは徐々に言語や社会的技能を身につける。しかし、目を閉じるたび《ヘクスブレード》の幻影が脳裏を巡り、次の問いは消えない。
(自分は何者なのか。本当にここにいて良いのか)
その疑念の隙間に、いつものように《ヘクスブレード》の囁きが差し込む。
「迷う必要はない。我が力を望めばよい。お前がどこにいようと、我は常に共にある」
*
オイサーストの夜、宿の小部屋にはランタンの芯が爆ぜる音だけが残った。タヴは膝へ目を落としたまま、続きを口にする。
「それから俺は、機構の任務に就くようになった。ブロックスと──」
「もういいよ、タヴ」
フリーレンが言葉を止めた。タヴは伏せていた目を上げる。
「まだ、話は終わってない」
「うん。でも、今は話さなくていい」
フリーレンの視線はタヴの強張った横顔に止まっていた。話し始めてから、声の高さも速さもほとんど変わっていない。
「サーイの塔で何をされたかは話しても、怖かったとも痛かったとも言わないんだね。起きたことだけを順番に並べていれば、自分のことじゃないみたいに思える?」
フェルンは顔を上げ、シュタルクもフリーレンを見る。タヴは眉をひそめる。
「……勝手に決めつけるな。話し方を聞いただけで、俺が何を感じているのかまで分かったつもりになるな」
フリーレンは首を横に振った。
「分かったつもりはないよ。だから聞いてる。でも、ブロックスの名を出すたびに呼吸は浅くなって、膝の上の手にも力が入った。最後まで話せることと、今話して大丈夫なことは同じじゃない」
タヴは答えず、膝へ視線を落とした。フェルンも、その横顔をじっと見る。
「声が変わらなかったのではなく、変えないようにしていたのですか。感情が動けば、魔力も動くから」
フェルンの問いに、タヴは口元の片側を動かし、先ほどまでと同じ調子で答える。
「俺の魔力は感情に引かれる。怒りや恐怖を拾えば、そのまま暴走に繋がる。術式から余計な感情を外す時と同じように、起きたことだけを順に置けば、力を漏らさずに済む。役に立つ癖だ」
シュタルクは椅子を鳴らして身を乗り出した。
「それで暴れずに済んでも、ずっと一人で耐えることになるだろ」
「救われる必要はない。ただ生き残れれば、それで良かった」
タヴは口元だけを緩めた。目は三人のどこにも定まらない。フリーレンは、浅いままの呼吸を見逃さなかった。
「そうやって生き残ってきたんだろうね。でも、話が終わっても息を詰めたままなら、今も同じやり方で耐えてる。私はそれを平気だとは思わない」
タヴは何か答えようとしたが、息だけが漏れた。
視線が膝元へ落ちる。フェルンはその沈黙を待ってから、声を落とした。
「私たちの前でまで、何も感じていないように話さなくていいと思います」
「そうだぞ。うまく話せなくてもいいし、隠したくなる時だってあるだろうけど、最初から俺たちに背負わせないって決めるなよ」
二人が距離を詰めたわけでもないのに、タヴの肩がわずかに後ろへ引けた。拒む言葉を探しても見つからず、唇だけが震える。ランタンの芯が二度爆ぜたあと、ようやく声が出た。
「……ありがとう。だが、もし再び魔力が暴走すれば、あの頃とは比べ物にならないほどの災厄が起きる。その責任は俺自身が負わなきゃならない」
タヴは語尾まで声を落とさず、三人から目も逸らさなかった。フリーレンもその返答を聞き終えるまでタヴから目を逸らさず、告げる。
「今すぐ考えを変えろとは言わないよ。でも、壊れるまで一人で我慢しなくていい。少なくとも私たちは、それを知ったからってあなたを置いていかない。……勇者ヒンメルなら、きっとそうしたから」
その言葉にフェルンとシュタルクも頷いた。
タヴは返す言葉を失い、膝の上へ視線を戻した。ひと息置いて親指を持ち上げると、掌に残った爪の跡へランタンの光が差した。
「……覚えておく」
声は小さかったが、タヴは言い直さなかった。一度開いた指も、もう握り直さない。ランタンの芯がまた爆ぜたが、今度は誰も急いで次の言葉を探さなかった。
*
凍てつく帝都アイスベルクで、アルデリックら魔法使いたちは異界の来訪者ラジエル・サン=エリオスと対峙していた。
ラジエルは指へ巻き取っていた魔力の糸を消し、アルデリックと向き合った。
「さて、君の頭の中を覗かせてもらうとしようか」
アルデリックは杖先をラジエルへ向けたまま、一度頷く。
「いいだろう。だが、少しでも異常を感じたら即座に制圧する。貴様もそれを心得ているだろうな?」
「もちろんだとも。僕は秩序を乱すことは好まないんだ。安心していいよ」
ラジエルはそう言うと、片手をアルデリックへ向けて《Detect Thoughts(思考感知)》を唱え始めた。アルデリックは眉を寄せる。異質な魔力は表層の記憶へ触れるたび足を止めるように弱まり、無理に奥へ踏み込んではこなかった。
ラジエルはアルデリックの表層思考に触れる力を一定に保つ。片手を向けたまま、空いた手の指を額へ添える。《Encode Thoughts(思考符号化)》の細い青白い魔力の糸が指先から伸び、アルデリックへ差し出された。
「さあ、これが今君が考えていたことだよ。自分の目で確認するといい」
アルデリックは杖を構えたまま、空いた手の指先だけを魔力の糸へ触れさせた。自身の思考が寸分違わず返ってくると、息が止まる。
「……確かに貴様の言う通りだ。この魔法の正確性は疑いようもない」
アルデリックの杖先はわずかに下がったが、ラジエルの胸元からは外れない。その角度を見たラジエルは、口元を緩める。
「さて……それで満足したなら、もう一つ、僕の記憶も見せてあげようか? 君たちが知っておいたほうがいいことだ」
アルデリックは魔力の糸とラジエルを見比べ、杖先を戻さなかった。
ラジエルは先の糸を指へ巻き取って消し、再び額へ触れる。《Encode Thoughts(思考符号化)》の別の光の糸が伸び、アルデリックがそれへ触れると、見覚えのない記憶が流れ込んで杖を握る指の関節が白くなる。
「この記憶は……一体なんだ? 子供を取り囲むように展開しているのは……貴様の仲間たちか? それに、この戦場の惨状は……!」
その反応を見た部隊員たちも、次々に魔力の糸へ触れて記憶を共有した。
アルデリックの視界から帝都の石畳が消え、雷撃に灼かれた戦場が広がった。借り物の視界の手前では、片手が透明なダイアモンドを掲げ、もう一方の手が宝石から透明な壁へ伸びる術式線を支えている。壁の内側には、折れたショートソードを握る少年。外では指示を出していた男が術者たちを並べ、壁の内側から目を離さずに告げる。
「対象を封印する。殺害すれば行き場を失った魔力が暴走を引き起こしかねない。まずは動きを封じろ」
両脇の術者二人が加えた光の線は、透明な壁の表面で止まっている。指示を出した男が壁を解けば、ダイアモンドへ収束する光は少年へ届く。その合図が出る前に、頑丈な体躯のドワーフが術式と少年の間へ踏み込んだ。
「この子はまだ幼い。力を制御できれば防げるはずだ。封印は災厄の根本的な解決にはならねえ」
ダイアモンド越しに、壁の内側で震える少年と、そこから動かないドワーフの背が重なる。やがて術式線を支えていた手が下がり、線へ注がれていた魔力が途切れた。男の命令で透明な壁も解かれ、ドワーフが少年を抱き上げる。
戦場の像が弾け、作戦卓に投影された別の映像へ切り替わった。少年の足元から雷光が噴き上がり、地面の裂け目が空間そのものへ伸びていく。亀裂に触れた兵士も地面も輪郭から崩れ、衝撃が引いた後には黒焦げの地面と倒れた者たちだけが残った。
記憶が終わると、ラジエルはアルデリックへ向けていた手を下ろし、もう一方の指へ光の糸を巻き戻した。声量を変えず告げる。
「見ての通りだよ。この子の存在そのものが大きな災害を生み出す可能性を秘めていた。だからこそ僕らは彼を封じようとしたが、あのドワーフ、ブロックスの判断で、封印ではなく保護と訓練の道が選ばれたのさ」
彼の声は一定の調子を崩さない。帝国の魔法使いたちは杖を握ったまま口を閉じ、誰もすぐには返さなかった。
アルデリックの杖先が再び上がり、ラジエルの胸元へ向く。
「貴様が直接、あの子供を封じ込めようとしていたのか?」
ラジエルは指先に残った青白い光を消し、間を置かず答えた。
「その通り。僕はかつて多元安定機構で次元管理官として働いていてね。こういった次元的な災害を封じるのは日常業務だったんだ」
その言葉を聞いた魔法使いたちの間にざわめきが広がり、互いに険しい視線を交わした。
アルデリックはさらに問いかける。
「……子供を封じることに、何のためらいもなかったのか?」
ラジエルの口角は上がったが、目は細くなった。
「昔の話だけどね。僕の職務は秩序の維持だった。その秩序を乱す可能性があれば、子供だろうと躊躇せず封印する。僕にとっては当たり前の判断だよ」
その言葉にアルデリックの背筋が強張り、杖を握る指へさらに力が入る。
「君が信じられないのも無理はない。ただね、秩序を守るためには時に冷酷にならざるを得ない。それが次元管理官という職務に課せられた責任だったのさ」
その時、ラジエルの笑みがほんの一瞬消え、唇が結ばれた。宮廷の権力闘争で幾多の人間を見てきたアルデリックは、その変化を見逃さない。
(完全な無感情というわけでもないのか……?)
アルデリックは結ばれた唇を見たまま、杖の石突きを地面へ据え直して問いを続けた。
「だが貴様はなぜ今、この記憶を我々に見せた? 我々に協力を打診するだけなら、わざわざ知らせる必要もあるまい」
消えていた笑みが、ラジエルの口元へ戻った。
「そうだね。実は君たちに見せたあの少年はタヴという名で、既に青年に成長している。そして偶然にも、この世界にたどり着いている可能性が高いのさ」
アルデリックが口を開くより先に、周囲の魔法使いたちのざわめきが強まった。
「どういう意味だ? 彼が再び災害を引き起こす可能性があるとでも?」
ラジエルは周囲のざわめきが収まる前に、続ける。
「あの少年はかつて多元宇宙の秩序に影響を与えるほどの魔力を暴走させ、大きな災害を引き起こした。しかし、その後はブロックスというドワーフが彼を引き取り、厳しい訓練を通じて制御を教え込んだ。彼は今や、秩序を乱すだけでなく、秩序を守る力としても成長しているかもしれない」
アルデリックは最後まで聞きながらも、杖先を下げなかった。
「だから我々に、そのタヴという男の対応を委ねるというのか?」
ラジエルは頷く。
「その通りだよ。もし彼が君たちの前に現れたら、警戒するのは当然だろう。ただ、即座に排除せず、慎重に見極めてほしいということさ。彼が再び脅威となるか、それともギスヤンキやマインド・フレイヤーといった侵略者に対抗する強力な味方となるか、それは君たちの判断次第だ」
ラジエルは笑みを保っていたが、アルデリックが返事をするまで視線を外さない。
アルデリックは深く息を吐き、言葉の間を空けて告げる。
「貴様の言葉がどこまで信じられるかは分からないが、意図は理解した。ただし、我々も無防備ではない。貴様の動向は今後も監視させてもらう」
ラジエルは自分を囲んだままの杖先を順に見て、最後にアルデリックへ歯を見せて笑った。
「もちろんだとも、アルデリック殿。君たちが僕を警戒するのは当然のことだ。ただ一つ、忘れないでいてくれ。僕は常に秩序の側に立つ。その秩序が君たちと一致する限り、これほど頼れる味方もいないと思うけどね?」
返事はなかった。アルデリックは動かず、周囲の魔法使いたちも包囲を解かない。ラジエルは笑みを崩さず、彼らの視線を受け止めていた。
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