嵐の神ターロスの領域では、暴風の唸りと雷鳴が途切れず重なった。厚い暗雲から稲妻が絶え間なく地表へ落ちる。風向きも光も定まらず、落雷と強風に規則はない。焦げ跡へ次の稲妻が重なり、風に削られた岩は地肌まで黒く磨かれている。
その暴風域の最深部、嵐の中心に据えられた黒曜石の円卓には、二柱の神が向かい合っている。
ひとつは荒ぶる嵐と破壊を司る神格ターロスだ。逞しい巨躯には稲妻がまとわりつき、円卓に拳を置くたび黒曜石の表面へ新たな焦げ跡が走る。秩序の名が出るだけで、瞳の雷光は明るさを増した。
その対面に座るのは、闇と喪失を司る女神シャーだ。濃い影に覆われた姿は輪郭が定まらず、黒い瞳だけが嵐の明滅にも揺らがない。稲妻が円卓を焦がしても身じろぎせず、ターロスが言葉を尽くすまで口を開かなかった。
ターロスは太い指で円卓を叩き、稲妻をまとった目をシャーへ向けた。
「混沌の嵐そのものと謳われし小僧が、今や秩序の軛に繋がれるとは嘆かわしいことよな。あのブロックスとか申す愚か者め、まことつまらぬことをしてくれおった。嵐を鎖で縛りつけて何を悦に入っておるのだ?」
シャーは急かされても返事をせず、ターロスの指が円卓を離れるのを待ってから口元を上げた。
「あの次元災害の惨状は、神々の間でも久しく話題となったわ。世界を揺るがし、多元宇宙にまで影響を及ぼしたほどの嵐が、秩序に封じ込められたとしても、本質が消えることはないはずよ。再び彼の内側の力が暴走すれば、あの混乱が再現されることも十分あり得るでしょう?」
ターロスは喉の奥で唸り、首を振るたび角の周囲で稲妻を弾けさせた。
「そんなことは誰よりもよく分かっておるわ。だが問題は、奴が隔絶された次元に飛ばされてしまったことにあろうが。多元安定機構の連中は勿論、我らとて容易に干渉はできぬ。あのギスヤンキやマインド・フレイヤーどもが暴れ回るその混乱の最中で、我らの力が届かぬとは実に皮肉なことよ」
シャーは円卓に落ちた影へ指先を滑らせ、声量を変えずに言う。
「まだ策がないわけではないわ、ターロス。あの閉ざされた次元に、すでに侵入している者たちがいることを私は知っている。レッド・ウィザーズの中でも、死と混沌を崇める魔王オルクスの狂信者たちがね」
ターロスの眉が上がり、円卓を叩いていた指が止まる。
「ほう……あのオルクスの狂信者どもか。あれらの狂信者たちがどうやって隔絶された次元に潜り込んだかは知らぬが、確かに利用価値はあるやもしれぬ。しかし、奴らが我らの望むままに動くとでも言うのか?」
シャーは口元を上げ、影から目を離さず言葉を続けた。
「彼らに秩序を壊す混沌の種を与えればよいのよ。彼らは死と破滅を希求し、混乱の只中に身を置くことを喜びとする者たち。彼らにあのタヴの存在を教え、その混沌を再び覚醒させるよう仕向けることは難しくないはず。彼らが動けば、あの封じられた次元において再び混沌の嵐が巻き起こるでしょう」
ターロスは仰け反って笑い、円卓の上へ稲妻を一本走らせた。
「面白いではないか。流石は闇と喪失の女神よな」
だが次の瞬間、ターロスの笑いが止まった。瞳の雷光が細まり、シャーの黒い目へ視線が定まる。
「しかしシャーよ、貴様にとってはこれが初めての介入というわけでもあるまい? 《選ばれし者》どもを封鎖次元に送り込もうとしていた善神共への妨害──狂信者どもに情報を吹き込み、結果としてデーモンどもが湧き出るよう仕向けたのは貴様の差し金か?」
シャーの瞳に反射していた雷光が一瞬だけ消え、口元が歪む。肯定も否定もせず、問いを返した。
「さあ……どうだったかしらね? 私はただ闇の中に囁きを落としたに過ぎないわ。その囁きがどのように狂信者たちの心を動かし、どのような結果を招いたか──それを私が逐一気にする必要があるのかしら?」
曖昧な返答を聞いたターロスは、膝を打って笑い声を上げる。問いを重ねることはなかった。
「まこと狡猾な女神よな、お前というやつは。その返答だけで十分だ。秩序を信奉する神々が思い通りに動けぬ姿を見るのは何度味わっても愉快なものよな!」
シャーは微笑を深め、指先で円卓の影をターロス側へ押し広げる。
「あなたも、存分にこの状況を楽しむといいわ。タヴの力が解き放たれれば、この次元だけに留まらず、より広い混沌が生まれるかもしれない。その時こそ、本当の楽しみが訪れるでしょうからね」
シャーの低い囁きに応えるように、ターロスは円卓へ稲妻を叩きつけ、雷鳴を轟かせた。
「望むところよ! 多元宇宙を巻き込む大混沌を前に、我が嵐の力を思う存分示してやろうではないか!」
そう言い終えると、シャーの姿は周囲の影に溶けるように見えなくなる。残されたターロスは歓喜の咆哮を上げ、雷鳴と稲妻を操り始める。黒曜石の円卓は再び暴風と落雷の中に沈んでいった。
*
城壁都市ヴァイゼは、かつて大陸でも指折りの繁栄を誇った麗しき街である。黄金色の城壁は、昇り始めた朝陽に照らされ、冷たく幻想的な輝きを返していた。
その輝きは繁栄の名残ではない。五十年前、魔王直属の七崩賢の一人、マハトが都市全体を突如、一夜にして黄金へ変えた。栄華はそこで途絶え、生命の息吹を奪われた街は、時間まで凍りついた悲劇の街となった。
マハトを含む七崩賢は、魔王の下で人類の理解を遥かに超える魔法を操った七人の大魔族だ。その術は、人間の生物的な構造では絶対に扱えないとまで言われる。人類にとって最大の脅威だった七人の力を具現するように、黄金郷ヴァイゼはいまも黄金の沈黙を保っていた。
大陸魔法協会は強大な結界を巡らせ、街ごと封印せざるを得なかった。ヴァイゼは世界から完全に隔絶された。
封印には二つの理由があった。マハトの禁忌の魔法、《ディーアゴルゼ(万物を黄金に変える魔法)》が際限なく広がり続けるのを防ぐこと。そして術者であるマハトを殺せば、黄金化を永久に解除できなくなることだ。結界以外の選択を失ったまま、ヴァイゼとマハトは五十年にわたり、その内側へ囚われ続けている。
いま、その黄金郷ヴァイゼの周辺を、異界の銀色の鎧を纏ったギスヤンキの小隊が無言で調査していた。十人ほどの兵士は二人一組で間隔を揃え、片方が魔法的な道具を結界へ向ける間、もう片方が周囲へクロスボウを構えている。測定具の針が振れるたび先頭が手信号を送り、後続は同じ幅だけ結界から距離を取った。
遠く離れた丘の上では、二つの影が斜面の草に身を隠し、結界沿いを進む小隊を追っていた。
一人は、碧色の美しい髪をなびかせ、小さな角を頭に宿した若い女性型の魔族、ソリテール。そしてもう一人は、黒い軍服に身を包み、血色のランスを肩に担いで丘の斜面に立つ、大柄な男の姿をした魔族。血塗られし軍神リヴァーレだった。
ソリテールは結界へ向けられた測定具の数を目で追い、翡翠の瞳を細めて口を開いた。
「ギスヤンキの部隊、随分と執拗に結界を探っているわね。彼らもまた、黄金郷やマハトのことを調べているのかもしれないわ」
リヴァーレは返事の代わりにランスを軽く回し、唇の端を上げる。
「マハトか……黄金の坊やに興味はないが、異界の戦士が相手とあらば退屈はせぬな。俺は戦えると聞いて来ただけのことよ」
ソリテールは鼻から細く息を抜き、リヴァーレのランスへ一度目をやった。
「ええ、あなたはそうでしょうね。ただ、今回は魔族も、かつて魔王様が束ねていたように組織的に動かなければならないわ。そして、人間と協力せざるを得ない状況にあるの。このままでは共倒れになる──そのためにも、マハトの力が必要なのよ」
リヴァーレは軽く眉を上げて問う。
「あやつが協力するとは思えぬが?」
ソリテールは黄金郷から目を逸らさず、間を置かずに答える。
「彼は人間の感情に惹かれている。人間と共存したいという理想を抱いているマハトなら、共通の敵が現れた今、人間の絶滅を座視するとは思えない。きっと協力してくれるわ」
リヴァーレは軽く笑い、肩に担いだランスの握りを直した。
「面倒な理屈はお前らに任せる。まずは邪魔な連中を片付けるか」
ソリテールが顎を引くのを確認すると、リヴァーレはランスを肩から下ろし、丘を歩いて下り始めた。三歩目で腰を落とすと、斜面の土が踵の下で爆ぜる。
リヴァーレは爆発的な加速でギスヤンキ小隊へ突撃した。眼前に迫る兵士の一人は、反応すら許されず、ランスの切っ先に胸を貫かれていた。
「まず一人……!」
リヴァーレはランスを横に振って血を落とし、次の兵士へ穂先を向けた。ソリテールは《飛行魔法》で樹冠より上へ浮かび、片手を横へ滑らせる。指先を追うように円形の術式が高さをずらして開き、それぞれの中心から《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》の光線が走った。
光線が地面を焼きながら隊列の中央を横切り、兵士たちは左右へ分かれた。間を置かず、後列の兵士が空いた位置へ踏み込む。小隊長のギスヤンキ・ナイトは銀剣を振り上げ、列の端まで命令を響かせた。
「Attack formation! Do not falter!(攻撃陣形! ひるむな!)」
異界の兵士たちは命令に従い、射手はクロスボウを上空のソリテールへ、前衛は地上のリヴァーレへ向ける。異なる角度から矢が放たれ、二人の位置へ集中した。
ソリテールは眼下から角度を変えて伸びてくる矢へ顔を向け、《防御魔法》を発動する。透明な六角形の魔力板が彼女の下方へ角度をずらして現れては消え、上昇する矢を全て弾き返した。地上のリヴァーレはランスの中ほどを握って柄を旋回させ、正面から迫る矢へ穂先と石突きを順に差し入れ、すべてを地面へ叩き落とした。
「やはり一筋縄ではいかないようね」
ソリテールは次の詠唱へ移る。
「《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》」
青白い魔力がソリテールの指先で一点に縮み、細い光線となってギスヤンキ戦士へ伸びる。光は一人の女兵士の肩当てを貫き、その腕を吹き飛ばした。血が鎧と地面へ散り、女兵士は片膝をつく。
女兵士は残った手を地面について身体を起こし、痛みに顔を歪ませながらも攻撃を再開した。
「For Vlaakith! We die with honor!(ヴラーキス様のために! 誇りと共に死ぬ!)」
リヴァーレには叫びの意味は分からなかった。だが片腕を失った兵士は膝を伸ばし、残る手で武器を構え直している。彼は歯を見せ、喉の奥で呟いた。
「面白い。存分に楽しませてくれ」
リヴァーレはランスを振り切った勢いのまま、敵陣へ突入する。クロスボウの矢が次々と放たれるたび、穂先で先頭の矢を払い、柄を返して続く矢を弾く。残る矢は上体を沈めて外し、踏み込んだ脚で地面を砕いた。次の瞬間には、敵兵がまるで小枝のように宙へ散り、砕けた土の破片がその後を追う。
ギスヤンキ・ナイトはリヴァーレの足運びを追い、銀剣を右へ振って指示を出す。
「Use Misty Step! Encircle him!(《霧渡り》を使え! 奴を包囲しろ!)」
ギスヤンキたちは瞬時に魔法を唱え、霧のように消え去ったかと思うと別の場所に出現し、リヴァーレを囲んだ。次いで下士官が吠える。
「Enhance Leap! Attack from above!(《強化跳躍》! 上空から攻撃を仕掛けろ!)」
強化された脚力で上空からギスヤンキ戦士がリヴァーレに襲いかかる。しかし、彼は歯を見せて笑い、ランスを高く掲げる。
「よい連携だが、それでも足りぬな」
振り下ろしたランスの衝撃は凄まじく、地面が割れ、ギスヤンキ戦士たちは成す術なく吹き飛ばされる。ギスヤンキ・ナイトは銀色に輝くグレートソードを両手で構え、必死にその一撃を受け止めたが、抑えきれない衝撃によって後方へ大きく吹き飛ばされた。
「Gah...! Stand firm! Do not retreat!(ぐっ……! 踏みとどまれ! 退くな!)」
隊長の叫びに兵士たちは立て直しを図る。数人が《Enhance Leap(強化跳躍)》で地面を蹴り、樹冠の高さを越えてソリテールとの間合いを一気に詰めた。ギスヤンキの剣が迫る中、ソリテールは刃先から目を逸らさず、《剣を作り出す魔法》を唱える。
瞬時に無数の鋭利な刃がソリテールの周囲へ開く。先頭の一枚が振り下ろされる銀剣を横から弾き、続く刃は空いた肩口と脇腹へ突き立った。跳躍の勢いを空中で殺せない兵士たちは刃の列へ次々に飛び込み、短い悲鳴とともに地上へ落ちて動かなくなる。
「それでも諦めないのね、感心するわ。でも、この世界を渡すつもりはないわ」
ソリテールは落下していく兵士を目で追い、口元だけを上げた。
隊列には倒れた兵の分だけ空所が増え、射手は前衛の背へ隠れながら後退する。その一角で、深く切り裂かれた兵士が唸り声とともに身体を起こし、地面へ落ちた銀剣の柄を探る。
傷は開いたまま、血も鎧の内側を伝っている。それでも兵士は息を長く吐き切り、銀剣を握り直した。崩れかけた膝を踏み締めてリヴァーレへ斬りかかる姿に、リヴァーレの笑みが深まる。
「まことに見事な戦意だ! このような敵と戦えるとは、ますます愉快である!」
生き残ったギスヤンキ戦士たちは倒れた仲間の間から立ち上がり、再び陣形を作って剣とクロスボウを構え直した。斬撃と矢が放たれ、戦闘の音は途切れることなく続いた。
*
目を覚ましたタヴは、天井の梁を目で追ったまま、しばらく毛布から手を出さなかった。窓の隙間から入り始めた淡い光が床板に細い線を引いても、昨晩の言葉が順に戻ってくるばかりだった。
夜が明けたばかりのオイサーストでは、通りを行く靴音もまだ少ない。宿屋も眠りから覚めきっておらず、階下から包丁がまな板へ当たる音と、炉へ薪を足す音だけが聞こえてくる。
タヴは身体を起こし、傍らの小さなテーブルを見る。昨晩、宿代を自分で払うと主張した彼に対し、フェルンは、タヴが財布を引っ込めるまで一歩も受付から退かなかった。その姿を思い出し、タヴは眉をひそめて首を振った。
(……少しばかり、気にしすぎているのかもしれないな)
その呟きは自分自身への皮肉のつもりだった。だが毛布を畳む手はすぐには動かない。昨晩、フリーレンやフェルン、シュタルクから向けられた言葉が、まだ耳に残っていた。
深く息を吐き、タヴはベッドから降りて簡単に身支度を整える。短い滞在でも多少は休息を取ることができた。問題は山積みだが、それでも身体はいくらか軽い。
扉を開けて廊下に出ると、すぐ隣の部屋から慌ただしい気配が伝わってくる。そこはフリーレンたちが泊まっている部屋だ。タヴが耳を澄ませると、フェルンの声が途切れ途切れに漏れてきた。
「Frau Frieren! Bitte stehen Sie endlich auf! Wie oft soll ich Sie noch wecken!?(フリーレン様! もう起きてください! 何度起こせばいいんですか……!?)」
タヴは眉をひそめた。フェルンの言葉が理解できない。ゼーリエがかけてくれた《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》の効果がついに切れたようだった。
彼は額へ指を当て、《Tongues(言語会話)》を小さく唱えた。魔法が発動すると、舌の上に微かな熱が走る。タヴは壁にもたれ、隣の騒ぎへ耳を傾けた。
「ううん……まだ眠いよ、フェルン……」
「もう……フリーレン様、髪もこんなに乱れて!」
フリーレンの寝ぼけた声にフェルンが声を荒げる。タヴは思わず溜息をつく。
短い旅の間にも、フリーレンは朝になるたびフェルンに毛布を剥がされ、荷造りを急かされていた。自分から起きてきた姿を、タヴはまだ一度も見ていない。
タヴのいた世界のエルフは基本的に眠らない。トランスと呼ばれる半覚醒の瞑想状態で休息を取る。それを思うと、この世界のエルフであるフリーレンが、眠気に振り回される姿はどこか奇妙に感じられた。
部屋の中では、フェルンの足音が何度も往復していた。毎朝の光景を投げ出さないことに、タヴは呆れより先に感心していた。
(魔王を倒し、勇者と共に旅をした大魔法使いが、これではな……)
やがて扉が勢いよく開き、櫛や髪飾りを両手に持ったフェルンが飛び出してきた。タヴと目が合うと靴底を鳴らして立ち止まり、道具を落とさぬよう胸元へ寄せて頭を下げる。
「おはようございます、タヴ様。フリーレン様がご迷惑をおかけしています……」
フェルンが何度も隣室を振り返るので、タヴは気にするなと手を振った。
「気にするな。むしろフェルンの方が苦労しているのだろう?」
その言葉にフェルンは櫛を持つ手を止め、首を傾げる。
「あの……タヴ様、声が昨日と少し違うような気がするのですが……?」
「昨日、ゼーリエにかけてもらった翻訳魔法の効果が切れてしまってな。今は《Tongues(言語会話)》を使っている。そのせいだろう」
「そうでしたか。急に声が違ったので、ちょっと驚いてしまいました」
フェルンの眉間から皺が消え、口元が緩む。頭痛などの不快感は訴えていない。ゼンゼとゲナウが検知結界へタヴの魔力を登録したことで、《Tongues(言語会話)》と結界の干渉は起きずに済んだ。タヴも肩から力を抜いた。
フェルンは小さく溜息をつきながら、言葉を続ける。
「フリーレン様は昔からこうらしいので……もう慣れました。でも、さすがに毎朝となると少し困りますね」
タヴが頷くと、フェルンは櫛を握り直して部屋へ戻った。少しすると、ようやくフリーレンが半分閉じた目を擦りながら出てくる。服装はそれなりに整えられているが、髪はまだ片側へ跳ねていた。
「おはよう、タヴ。随分早起きだね……」
タヴは腕を組んで軽く肩をすくめた。
「あんたが遅いだけだろう」
フリーレンは眠そうな目をこすりながら首を傾げたが、すぐにフェルンに腕を掴まれ、部屋に引き戻されてしまった。どうやらまだ髪のセットが終わっていないようだった。
宿の食堂に降りると、簡素ながら温かい朝食が用意されていた。焼きたてのパン、野菜の入ったスープ、それに地元で取れた果物が並ぶ。朝の澄んだ空気に混じって漂う芳ばしい匂いが、わずかに食欲を刺激した。
既にシュタルクが席について朝食を取っており、彼はタヴの姿を見ると軽く手を挙げて合図した。タヴは無言で彼の向かいの椅子を引き、背もたれを鳴らさず腰掛ける。
タヴがパンをちぎり始めると、シュタルクはスープを飲み込み、椅子へ深く座り直して話しかけてきた。
「フリーレンは勇者ヒンメルと旅をしていた時も、毎朝あんな感じだったらしいぜ」
タヴがパンを持つ手を止めると、シュタルクは苦笑して肩をすくめた。
「よくそれで旅を続けられたな?」
シュタルクは口を開けて笑う。
「ああ、結局誰かがフリーレンを起こして、誰かが面倒を見るっていう流れは、あの頃からずっと変わらなかったらしい。まあ、今はフェルンが全部引き受けてるけどな」
タヴは手にしたパンへ視線を落としたが、席を立とうとはしなかった。旅の一員でもない自分が朝の食卓に混じり、昔の旅の話を聞いている。店員が空いた皿を手に傍を通っても席を立たず、シュタルクが次の話を始めるまでパンをちぎって待つ。その居心地の悪さより、席を離れたくない気持ちの方がわずかに勝っていた。しばらくしてフェルンが、身支度を整えたフリーレンを連れて姿を見せる。フリーレンはまだ半ば夢うつつで、目をこすりながら歩いてきた。
「お待たせしました。フリーレン様、次からはちゃんと起きてくださいね」
フェルンは返事を待たずにフリーレンの椅子を引き、座らせると、パンとスープを手の届く位置へ並べた。
「フリーレン様、ちゃんとパンを食べてください。スープも冷めちゃいますよ」
「んー……フェルンが食べさせてくれたら食べる……」
フェルンは溜息をつきながらも、丁寧にパンをちぎり、それをフリーレンの口元へと運ぶ。フリーレンは眠そうに目を閉じたまま、ゆっくりと口を開けてパンを頬張る。
その光景を眺めていたシュタルクは肩を大きく落とし、額に手を当てた。
「いつもこうだもんな……」
タヴも息を吐いて首を振ったが、口元は緩んでいた。やがて朝食を終え、フェルンがフリーレンの襟と髪を整えると、彼らは席を立った。
宿の主人が勘定書きを持ってくると、タヴとフェルンの手がほぼ同時に財布へ向かった。フェルンは昨夜と同じく一歩も譲らず、先に硬貨を数えて卓上へ置く。タヴはしばらくその横顔を見ていたが、結局、取り出しかけた財布を外套の内側へ戻した。代わりに空いた食器を重ね、宿の主人が運びやすいよう卓の端へ寄せる。
宿を出ると、通りでは店主たちが鎧戸を開け始めていた。荷車の車輪と箒の音が石畳に重なっていく。フリーレンは眠そうに目をこすりながら告げる。
「まずはこの街で少し資金を稼いでおこう。フェルンの試験は二ヶ月後だし、ここでの滞在は思ったより長引きそうだから」
フェルンは歩きながら財布の中身を確かめ、すぐに応じた。
「そうですね、フリーレン様。試験に備えてしっかり修行もしたいですし、そのためにはやっぱり生活費に余裕が必要です」
横を歩くシュタルクも腕を組み、二度頷く。
「俺は特にやることもないし、フェルンの修行に付き合うよ。鍛錬はいつだって歓迎だしな」
それを聞いたフリーレンは半分閉じた目のまま首を動かし、タヴへと視線を向けた。
「タヴはどうするの?」
タヴは歩調を少し緩め、通りの先を見ながら答える。
「まずこの世界についての情報収集と、できれば言語を覚えるのを優先したい。文書館へでも行ってみるつもりだ。金の方は……まあ、最悪、《Wish(願い)》で何とかできるだろう」
《Wish(願い)》なら、金に換えられる品を作り出すこともできる。だが、別の魔法を再現するのではなく現実そのものへ望みを通せば、その代価はタヴの肉体へ返ってくる。数日動けなくなるだけで済むとは限らず、二度と《Wish(願い)》が応えなくなることもある。口調ほど気軽な手段ではないと知っているフリーレンは、片眉を上げてタヴの顔を見た。
「そういう《Wish(願い)》の使い方って、やばい反動があるんじゃなかったっけ……」
タヴは片方の口角を上げ、軽く肩をすくめる。
「だから本当に最終手段だ。無闇に使って、この世界の女神とやらに怒られても困るからな」
その返答に、フェルンは口元に小さな笑みを浮かべ、シュタルクも頬を掻きながら笑った。フリーレンはタヴのぼろぼろの衣服に視線を落とし、ため息をつく。
「それならそれでいいけど、少しは服装も気にしたらどうかな。そのままだと文書館でも目立つよ」
フェルンも頷き、タヴの裂けた袖を見る。
「フリーレン様の言う通りです。せめてもう少し整えた方がいいと思います……」
タヴは自分の服を一瞥し、ほつれた袖口を摘んで返す。
「……考えておく」
そんなやりとりを経て、それぞれの役割が決まる。フリーレンたちは早速冒険者ギルドや依頼所へ向かい、フェルンの修行に役立つ仕事を請け負う算段を立てた。タヴは彼らと別れ、一人で街の中心にある文書館へ向かう。朝の陽光が背を温める。三人分の足音が遠ざかり、自分の靴音だけを聞くのは久しぶりだった。
文書館の扉を開けると、紙と埃の微かな匂いが鼻をくすぐった。内部は予想以上に整然としており、壁一面に書棚が並ぶ。古びた書物から新しい刊行物まで隙間なく収められ、数人の利用者が俯いて書物へ向かっていた。聞こえるのはページをめくる音と、時折椅子が軋む音だけだ。
タヴは書棚をゆっくりと巡り、この世界の歴史、文化、言語体系に関する書物を手当たり次第に取り出し、閲覧用のテーブルへ運んだ。着席すると、額に指を当てて小さく呪文を唱える。
「《Comprehend Languages(言語理解)》」
魔力が頭へ染み渡り、異世界の文字が意味を伴ってタヴの意識へ流れ込む。だが、分かることと自分で話せることは違う。タヴは頁をめくり、一語ずつ音を確かめていった。
初めは基本的な単語からだった。
「街、道、宿、食事」。まずは日常で使う言葉を繰り返し、短い挨拶へ進む。声を抑えながらも、舌が異世界の音に追いつくまで何度も唱えた。
「Guten Morgen(おはよう)... Guten Tag(こんにちは)... Danke(ありがとう)...」
呟くたび、異世界の響きが少しずつ舌に馴染んでいく。タヴは手帳へ覚えた単語と短い文を書き留め、用例と見比べた。
同じ語でも、文の中で位置が変われば綴りの末尾が変わる。書物の用例を少し組み替えただけで意味が崩れ、朝に聞いたフェルンの言葉も別の形で現れた。タヴは間違えた箇所へ印をつけ、前後の語から規則を辿り直す。
書き直した文を声に出し、途中で止まらず読めるまで繰り返す。手帳の余白には、宿の主人へ朝食の礼を伝える短い文も作った。次に会った時は、魔法の声ではなく自分の言葉で伝えるつもりだった。魔法なら意味は正確に届く。それでも、借りた力を介さずに伝わる一言の方が、この世界で生きる確かな足場になるように思えた。間違えても、次は自分の声で言い直せばいい。
鋭い記憶と魔法の補助によって、単語と文法を徐々に習得していった。やがて簡単な文章が目に入ると、魔法を使わなくても一部なら意味を掴めることに気づいた。
そうして単語の反復と文章の理解を何度も繰り返すうち、窓から差す光が書見台の端まで移っていた。タヴ自身、どれほどの時が過ぎたのか分からない。
そんな時、不意に背後から控えめな声が聞こえた。
「失礼します。あなたがタヴさんでしょうか?」
タヴが振り返ると、黒髪を整え、紺色のローブをまとった若い男が立っていた。細縁の眼鏡をかけ、ローブの襟は喉元まで留められている。袖口にも埃や折れは見当たらなかった。
「ああ、そうだが……?」
青年は口元を緩め、頭を下げた。
「初めまして。ファルシュという者です。大陸魔法協会所属の一級魔法使いで、ゼーリエ様の弟子の一人です。ゼーリエ様があなたをお呼びしています」
その名を聞き、タヴの眉が寄る。
「ゼーリエが俺を?」
ファルシュは返答を聞き終えると、顎を引いた。
「はい。あなたに急ぎ伝えたいことがあるそうで、至急お連れするように言いつけられました」
タヴは一瞬だけ考えたが、すぐに椅子から立ち上がった。
「わかった、すぐ行こう」
ファルシュの肩が下がり、すぐに頷いて出口へ導いた。タヴはその後ろに従いながら、再び自分自身へ問いかける。
(ゼーリエが俺に一体何の話があるんだ? それに、このタイミング……)
昨晩のフリーレンの問いが、足を踏み出すたび頭の中へ戻ってくる。過去を話すと決めた一方で、何を話せば三人が離れていくのか分からず、指がローブの端を探った。
それでもタヴは黙ってファルシュに従った。文書館の扉をくぐる前、ローブの端へ伸びていた指を下ろす。陽光の中へ出ると小さく息を吐き、そのまま歩調を緩めなかった。
*
東の空が薄紫から白へ変わり始める。その色を断ち切るように、赤紫の亀裂が何本も走っていた。裂け目の縁で光が明滅し、異界の魔力が周囲の雲を巻き込んでいる。
防壁の外では、夜明けの光を背にしたデーモンが盾列へ次々と体当たりしていた。兵士たちは靴底を土へ食い込ませ、咆哮と金属音の中で半歩ずつ押し返している。割れた盾の隙間へ後列が新しい盾を差し込み、倒れた者を壁の内側へ引きずっていた。
最前線の指揮を執るのは、鋼の甲冑を纏ったドワーフ、ブロックス・フレイムスミスだった。盾の隙間へ角が入ればバトルアックスの腹で押し返し、爪が盾縁を越えれば手首ごと刃で落とす。彼は防衛線の中央から動かず、崩れかけた箇所へ鋼の護衛を走らせていた。
「防衛線を維持しろ! ここを抜かれたら都市は終わりだぞ!」
彼の叫びに、兵士たちは盾の下端を土へ戻した。その傍らでは、自ら鍛え上げた《Steel Defender(鋼の護衛)》が四肢の歯車を鳴らし、盾へ取りついたデーモンの肋へ前脚を叩き込む。浮いた胴を横から押し出し、列の外へ転がした。
「グラァァァ!」
異界の裂け目から這い出した大型デーモンのバルルグラが、巨大な肉体を揺らして突進してきた。ブロックスはバトルアックスを両手に持ち替え、足幅を広げてその進路を塞ぐ。
夜明け前にモラディンへ捧げた祈りは、《Blessing of the Forge(鍛冶場の祝福)》として刃へ残っている。刃紋に沿う赤光をバルルグラの胸へ向け、ブロックスは柄を両手で握って進路へ踏み込んだ。
「来い、鋼に宿るモラディンの力を味わわせてやる!」
バルルグラが長い腕を振り上げる。ブロックスは肩の下へ潜り、踏み込みの勢いを乗せてバトルアックスを胸郭へ振り抜いた。刃が骨を割ったところから赤光が傷の奥へ走り、毛と肉の焦げる臭いが噴き出す。巨体は二歩よろめき、盾列の直前へ胸から倒れた。兵士たちは衝撃に膝を沈めながらも、盾を離さなかった。
だが、息つく間もなく次の群れが迫ってくる。角に盾を跳ね上げられた兵士が、槍を胸元へ抱えたまま、開いた隙間へ穂先を突き出せずにいた。ブロックスの檄が、盾を打つ爪の音を割る。
「怯えるな! 奴らは数こそ多いが、心はない! お前たちには信仰と鋼がある。耐えろ、俺たちが勝つんだ!」
兵士は開いた隙間へ槍穂を突き出し、デーモンの顔を狙った。敵が身を引く間に、隣の兵が盾の縁を重ねる。その左翼では二枚の盾が内側へ折れ、兵士の靴跡が土の上を一歩ぶん後ろへ伸びた。
ブロックスは内側へ折れた左翼の二枚の盾と、後方で詠唱を始めた術者たちを順に見て、バトルアックスを胸元へ引き寄せる。
「精霊たちよ、俺の周囲を守護しろ。《Spirit Guardians(護りの霊)》!」
低く唱えた彼の周囲に、炎を纏った小さな鍛冶の精霊が現れる。火箸を抱えた一体がデーモンの足首へ絡み、槌を持つ二体が膝の裏を打つ。前へ雪崩れ込んでいた群れの足が鈍り、盾列との間に一歩ぶんの空間が戻った。ブロックスは即座に後方へ向き、兵士たちに届く声量で命じた。
「防衛線を再編成しろ! 術者は結界の強化へ回れ! まだ奴らの勢いは止まってないぞ!」
防衛線が再編されるまでの時間を稼ぐため、ブロックスはさらに前へ踏み出し、自らデーモンを引き付ける。鋼の守護者も忠実に彼の傍らで戦い続けていた。デーモンの爪が装甲の表面を抉る。鋼の守護者は踏み止まり、胸部を開いた敵へ前脚を叩き込んだ。打撃が命中した瞬間、ブロックスは鍛え上げた魔力をそこへ通す。
「俺の鍛冶に命を吹き込め。《Arcane Jolt(秘術ショック)》!」
命中点で鋼色の魔力が弾け、同じ光が前脚を逆流して鋼の守護者の損傷部分へ走る。抉れた装甲が内側から押し戻され、開いていた継ぎ目が噛み合った。
《Arcane Jolt(秘術ショック)》の力は敵へ追い打ちをかけず、すべて鋼の護衛へ戻っていく。次の爪を受ける前に、前脚の関節は再び深く噛み合った。
兵士たちは再び武器を握り直したが、裂け目から出るデーモンの列は途切れない。押し返した一群との間に距離が開くと、ブロックスはバトルアックスの柄尻を地につき、荒い息を整えた。次の一群ではなく、遠くの地平線へ一度だけ目を向ける。
援軍となるセリア・イグナリアとイーシャ・グレイブレアは、別の戦地で命を守り、まだ到着していない。その間にも左翼の盾がまた軋んだ。ひびの入った盾へ新しい一枚が重なり、後方へ運ばれる負傷者と入れ替わるように予備兵が前へ出る。二人が来れば劣勢を覆せる。それまで、この交代を途切れさせず防衛線を支えることが、神々からブロックスへ託された役目だった。
防衛陣を見渡すと、兵士たちは疲弊しながらも必死で再編成を行っている。だが、その動きは鈍く、隊列には乱れが残っていた。ブロックスは声を張り上げる。
「お前たちにはまだ希望がある! 神々に選ばれた英雄が間もなく到着する! それまでは俺が、お前たちの盾となる!」
彼の言葉を受け、兵士たちは武器を掲げ直し、再編成を急いだ。防衛陣が整うと、ブロックスは即座にウィザードたちを召集した。
「守りをさらに強化するぞ! 《Wall of Force(力場の壁)》で接近を止め、その内側へ《Magic Circle(防御円)》を重ねろ。二重の障壁で押し返すんだ。急げ!」
ウィザードたちは詠唱を揃え、杖を盾列の前へ向けた。先頭のデーモンが振り下ろした爪は、兵士へ届く前に見えない面へ食い込む。巨体が後ろから押し寄せても壁は動かず、爪だけが空中で滑って耳障りな音を立てた。
その内側では、神聖な文字が盾列の足元を結び、一つの円になる。不可視の壁の端へ回り込もうとしたデーモンが境へ腕を差し入れた途端、白光が皮膚を焼いた。腕を引いたところへ槍が二本伸び、盾の外へ押し戻す。
さらに術者たちは、防衛線の要所へ事前に刻んであった《Glyph of Warding(守りの秘文)》を起動した。秘文の光が立ち上がり、新たな防壁の内側へ重なる。不可視の壁が朝靄を平らに押し返し、その内側で防御円の光が途切れず一周した。ブロックスは端から端まで視線で辿り、バトルアックスを握る指を一度緩める。
壁はデーモンの爪を止めても、空に亀裂を開く儀式までは止めない。援軍が着き次第、守りから転じて儀式そのものを断つ必要がある。
空では赤紫の亀裂がなお明滅している。縁へ新たな爪が掛かり、向こう側から押し合う影が次々に姿を現した。
防衛線の指揮を一時的に現場の兵士に任せると、ブロックスは砦の塔に登り、都市の全景を見渡した。敵の数は依然として圧倒的で、防衛の限界も近い。召喚儀式が完成すれば、被害はこの都市だけでは済まない。
彼は眼を閉じ、バトルアックスを砦の頂に突き立てた。
「Baraz Moradin... khazâd dumân. Kurûk khazâd, baruk khazâd(誉れあれモラディンよ……我らが鋼の魂よ。ドワーフの力を、ドワーフの斧を)」
その言葉は一音ごとに区切られ、鉄槌で鋼を打つように冷たい空気を震わせた。
「Gamil baruk, khazukan dûm... Zigil baruk, kurduk dûm(鋭き斧に誉れあれ、強き鉄に鋼の心を……炉の炎に誉れあれ、勇気に鋼の意志を)」
彼はゆっくりと拳を握り締めた。戦いで傷つき疲れ果てた手が、再び堅く結ばれる。
「父なる鍛冶神よ。俺の手は磨り減り、我が刃は鈍りつつある。だが、それでもまだ打ち続けたい。あなたの鋼の心を、この世界の盾とするために……」
祈りを終え、彼は深く息を吐き出した。開いた手でバトルアックスの柄を握り直すと、先ほどまで震えていた指が止まる。
眼下では補修班がひび割れた結界石へ新しい術線を繋ぎ、盾列が倒れた兵の隙間を埋めている。その先で、召喚儀式の赤い光だけが少しずつ強まっていた。ブロックスはバトルアックスを引き抜き、塔の階段へ向き直る。
(待つこともまた戦いの一部だ。セリア、イーシャ……お前たちが来るまで、俺は決して倒れねえ)
ブロックスは砦の塔を駆け下り、防衛陣を組み直す兵士たちのもとへ戻った。城壁の下では、デーモンの咆哮と盾を打つ音が途切れず続いていた。
*
漆黒の夜空が徐々に薄れ、夜明けの淡い光が帝都アイスベルクの防衛中枢を照らし始めていた。都市の中央部にそびえる巨大な塔。その最上階には、幾重もの円と文字を組み合わせた魔法陣が刻まれ、魔力を帯びた水晶球や色鮮やかな宝石が壁や柱を飾っている。そこから流れ出す光が魔力回路を順に伝い、塔全体へ微かな唸りを響かせていた。
魔法陣の傍らで待つのは、帝都の宮廷魔法使いアルデリックだった。ラジエルは床を走る魔力回路を踏まぬよう、光の切れ目を選んで彼の前へ進む。
「ほう、これはまた興味深い魔法だね。君たちの魔法技術には感心するよ」
ラジエルは魔法陣の周囲を一周し、指先で紋様の流れを宙になぞる。宝石の配置ごとに足を止め、最後の一つでアルデリックへ顔を戻した。
「これは帝都を守る結界の中核だ。貴様の魔力を登録することで、帝都内における貴様の魔法使用や行動を完全に把握できるようになる。言い換えれば、常時監視だ。理解しているな?」
ラジエルは最後に確かめた宝石から離れ、魔法陣の外周へ戻った。
「もちろんだとも。君たちにとっての安心材料が僕への監視であるなら、喜んで協力するよ。僕は帝都の秩序を乱すつもりはないからね」
アルデリックは中央へ続く一筋の回路を杖先で示した。
「では始めよう。中央へ行け」
ラジエルは杖先が示す交点に踵を合わせ、両腕を体側から離した。目を閉じて魔力を解放すると、魔法陣が青白く反応し、彼の魔力の波動を追い始める。アルデリックは術式を操作する魔法技師たちへ指示を飛ばした。
「細心の注意を払って記録せよ。魔力波動を一点も漏らすな」
魔法技師たちが魔法陣を操作し、ラジエルの魔力を結界へ刻んでいく。最後の水晶球まで輝くと、ラジエルは魔力の放出を止め、腕を下ろして目を開いた。魔法陣の光が一定の明るさへ落ち着く。
「これで無事に僕の魔力が君たちの結界に組み込まれたようだね。安心してもらえたかな?」
アルデリックは警戒を解かず、ラジエルとの距離を保ったまま応じた。
「貴様の動きは今後すべて捕捉される。帝都内で攻撃的な魔法を使えば即座に感知される。忘れるなよ」
ラジエルは袖に残った回路の青白い反射を眺めながら答えた。
「もちろんだとも。帝都の秩序を守るために、僕もそれくらいの協力は惜しまないよ」
魔法技師の一人が記録板を差し出す。アルデリックは並んだ波形に目を通し、次の問いを投げかけた。
「では、ここからが重要だ。貴様はこの帝都で具体的に何をするつもりだ?」
ラジエルは魔法陣の中央から出て、外周に並ぶ水晶球の間へ移った。
「主に情報収集と分析だよ。君たちの魔法は非常に興味深いからね。それに僕が知っていることを帝国のために活かしたいと思っている。君たちを脅かすギスヤンキやマインド・フレイヤーに対し、具体的な対策を立てるのが僕の目的さ」
アルデリックは最後まで口を挟まずに聞き、それからまた問いかける。
「それで具体的に何を要求する?」
ラジエルは、アルデリックの手にある記録板へ目を留めた。
「図書館や魔法研究施設の利用を許可してもらえると助かるね。帝国の所有する魔法記録を参照し、侵入手法を分析するのが最初の一歩だ。それに、帝都の術者や兵士たちの能力向上も僕なら手助けできるはずだ。互いの利益に繋がると思うよ?」
アルデリックは記録板を魔法技師へ戻し、条件を一つ加えた。
「それでよかろう。ただし、常時監視役をつけさせてもらう」
アルデリックの後方で、二人の魔法使いが出口の両側へ移る。ラジエルは彼らの配置を確かめた。
「監視もまた信頼を築く大切な方法だよね? 大歓迎さ」
登録作業が終わると、二人の監視役が前後を挟み、ラジエルを帝都の図書館へ案内した。
図書館の扉をくぐると、驚嘆すべき魔法と知識を集めた広大な空間がラジエルの前に開けた。キャンドルキープの大図書館や、ウォーターディープのブラックスタッフ塔の大書庫を思わせる壮麗さだった。高い丸天井には星座と魔法陣が複雑に彫り込まれ、その下を淡く光る魔法の明かりが無数に漂い、館内を柔らかく照らしている。
ホールを囲むように設置された書架は精巧な彫刻が施された木製や黒曜石製のもので、幾重にも重なり、複雑に入り組んだ迷宮を形成している。整然と並べられた書物や巻物の中には、見るからに古く貴重な文献や、魔力を帯びた羊皮紙が収められている。
図書館の中心部には、精巧な魔法陣が描かれた円形の大理石の台座があり、その上には巨大な水晶の球体が静かに浮かんでいた。球体の内部では、かすかに次元や星界の景色が移り変わり、見る者を引き込むように輝いている。
ラジエルは巨大な水晶球を半周し、内側を流れる景色が星界から知らない都市へ変わるところで足を止めた。
「実に見事なものだね。まるでキャンドルキープの《無限の書架》を小さく凝縮したようだ。いや、ウォーターディープの《ブラックスタッフの秘蔵書庫》に近いかな?」
監視役の一人がもう一人を見たが、どちらもラジエルの比較には応じない。ラジエルは最寄りの書架の前へ移り、額に指を当てて意識を集中させた。
《The Third Eye(第三の目)》による《Greater Comprehension(読解力向上)》。
その瞬間、彼の瞳が淡い青白い輝きを帯びた。書架の背表紙に並ぶ未知の文字が、ラジエルの中で表題として意味を結ぶ。青白い光が瞳に定着すると、ラジエルは額から指を離した。
ラジエルは表題と索引を拾って必要な巻を書架から抜き出し、未知の術語では前後の記述や参照先へ戻った。それでもラジエルが一冊を閉じた時、監視役の一人はまだ二つ前に抜かれた巻の背表紙を追っていた。
頁の端に同じ印が現れるたび、ラジエルは別の巻を抜き、机へ開いて並べる。片方の記述を指で押さえたまま、もう片方の索引を目だけで追った。監視役が書架の間を一歩詰めると、彼は手を止め、触れている頁と机上の巻数が見えるよう両手を離す。監視役が元の位置へ戻ってから、また同じ行へ指を戻した。
「君たちも気軽に見て回っていいんだよ? それとも僕が何か悪さをするとでも思っているのかな?」
監視役たちは入口とラジエルの間から動かない。ラジエルは返答を待たず、開いていた巻へ頁を戻した。
(まあ、警戒するのも当然だろうけどね。それもまた、この世界を探る楽しみの一つだよ)
ラジエルは読み終えた巻を右へ重ね、次の一冊を開く。入口から足音が響くたび、頁をめくる手だけが一瞬止まった。彼は背を扉へ向けない書架を選び続けた。
*
大陸魔法協会北部支部の正面には、タヴが両腕を広げても届かない太さの石柱が並んでいた。壁面の彫刻に沿って魔力の光が走り、出入りする魔法使いたちのローブを淡く照らしている。正門をくぐる者は一人ずつ徽章を掲げ、門衛が彫刻の光と照合してから中へ通していた。
広大な敷地を覆う石畳の上を、タヴはファルシュから二歩空けて進む。視線は柱、窓、曲がり角の順に移り、ローブの内側では指先が何度も開閉している。
建物の正面には、尖塔を頂く棟が幾つも連なり、空を切り裂くような輪郭を描いていた。その上層へ向け、タヴたちは長く曲がりくねった階段を登り始めた。
階段は高みへ向かうほど幅が狭まり、周囲には精緻な彫刻が施された窓が一定間隔で設けられている。外から差し込む陽光が段ごとに細い筋を落とし、二人の影は登るにつれて短くなっていった。
やがて階段を登り終えると、魔力を帯びた重厚な二重の扉が行く手を塞いでいた。ファルシュが前に進み出て掌をかざすと、二枚の扉は音もなく左右へ開き、奥から漏れた光が床を帯状に照らす。ファルシュは一度タヴを振り返り、扉の奥へ掌を向けた。
「ゼーリエ様はこちらでお待ちです。心の準備は良いですか?」
タヴは短く息を吐き、扉の奥を一度確かめて顎を引く。
「ああ、大丈夫だ」
ファルシュは目尻を緩めて頷き返すと、そのままタヴを内部へ導く。扉の向こうには、奥の壁が遠く霞むほどの大広間が広がっている。高い天井から降り注ぐ陽光が、磨き抜かれた床へ長い窓枠の影を落としていた。
広間の中央には、背もたれ一面に彫刻を施した椅子が置かれている。そこへ深く腰を沈める小柄なエルフの女性が、大魔法使いゼーリエだった。傍らには初老の魔法使いレルネンが控え、両手を前で重ねている。入室するタヴの足元から顔へ、視線だけがゆっくりと上がった。
タヴが部屋に足を踏み入れると、ゼーリエは目だけを動かし、椅子の片側へ寄せていた足を組み直した。王座めいた椅子で頬杖をつく一方、組み替えた足の爪先だけが子供のように一度揺れる。
「ようやく来たか。待ちくたびれたぞ」
ゼーリエは頬杖をつき、瞬きもせずタヴを見据えた。言い終えても指一本動かさない。タヴは腰を折って頭を下げ、顔を上げて言葉を口にした。
「待たせて申し訳ない。それで、俺に用があるというのは──」
しかしタヴの言葉はそこで途切れた。ゼーリエの眉間に皺が寄り、片手が横薙ぎに動いて遮ったからだった。
「その魔法を使って喋るな。お前の魔法の翻訳はどこか妙に耳障りだ。別の方法で話せ」
タヴは口を閉ざし、《Tongues(言語会話)》へ流していた魔力を断った。テレパシーで意思を伝える別の術は習得していない。ゼーリエは眉間の皺を消さず、代案を示す様子もなかった。
タヴは本気で困った。それでも、ゼーリエが答えを待っている以上、聞き流すという選択は浮かばない。レルネンとファルシュの口元を順に見て、覚えたばかりの音を舌先で探る。一度息を吸った。
文書館で必死に覚えた異世界の言葉を、一語ずつ口に出す。
「えっと……Guten Tag(こんにちは)……欲しいですか? ……あなた、話す、こと」
発音も文法も怪しく、かろうじて意味が通じるような代物だった。ゼーリエの上唇が僅かに持ち上がる。
「何だ、その酷い話し方は。全くもって理解できないぞ」
ゼーリエは吐き捨てるように告げる。レルネンは彼女が言い終えるまで待ち、口元を手で隠して一度咳払いをすると、タヴへ助言した。
「タヴ様、『あなた』という呼びかけは丁寧な表現で『Sie』を使います。『話したいことはありますか?』という場合は、『Möchten Sie etwas besprechen?』と話すのが適切ですよ」
タヴはレルネンの口の形を見てから、舌の位置を確かめるようにフレーズを繰り返す。
「Möchten Sie etwas besprechen...?(何かご相談はございますか……?)」
ゼーリエは椅子の肘掛けを指先で二度叩き、タヴを睨んだ。
見かねたファルシュが控えめに口を挟んだ。
「タヴさん、『besprechen』の『spre』の部分は、もう少し柔らかく、唇を軽く丸める感じで発音すると、より自然になりますよ」
ファルシュが示した口の形に合わせ、タヴは声を出さずに二度練習し、三度目の発音を試す。
「Möchten Sie etwas besprechen...?(何かご相談はございますか……?)」
多少は改善したものの、ゼーリエが肘掛けを叩く指は止まらなかった。
「まさか、その覚束ない言葉で会話を続ける気か? 冗談じゃないぞ……!」
ゼーリエの言葉に、タヴの口元が固まる。このまま会話を続けるのが現実的ではないことは分かっている。それでも他の手段がなく、レルネン、ファルシュ、ゼーリエへと視線を巡らせた。
ゼーリエは深く息を吐き、肘掛けから片手を掲げる。
「もういい。このような無様な会話を続けるのは不毛だ。《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》」
その言葉とともに、ゼーリエの指先から透明な魔力の波動が放たれ、タヴの額へ染み込んだ。次の瞬間、ばらばらだった音と意味が意識の中で噛み合い、ゼーリエの言葉が明瞭な概念として届く。タヴは流れ込んだ理解を確かめるように二度瞬いてから、ゼーリエを見返した。
「相変わらず凄い魔法だな……助かる」
ゼーリエは再び頬杖をつき、眉間の皺を残したまま視線を戻した。
「最初からこうすればよかったな。まあいい、これでようやくまともな話ができるというものだ」
タヴは改めてゼーリエを正面から見据えた。これでようやく、言葉の齟齬を挟まずに話せる。ゼーリエは組んでいた足を戻し、座面へ深く腰を据え直した。
「さて、そろそろ本題に入るとしよう。お前をここへ呼び出した理由は、ギスヤンキやマインド・フレイヤーのことだけではない。より厄介なことが起きている」
ゼーリエは頬杖を解き、組んだ指を膝の上へ置く。タヴは椅子との距離を半歩詰める。
「厄介なこと……? 具体的には何だ?」
ゼーリエは目を細め、組んだ指先へ視線を落としてから答えた。
「既に討伐されたはずの魔族が蘇り、再び姿を現したという報告があった。最近の話だ」
タヴの眉が微かに動いた。文書館で読んだ魔族の成り立ちへ、旅の道中でフリーレンやフェルンから聞いた討伐の話を重ねる。死と同時に身体が魔力へ還るなら、埋葬された遺骸を起こす手は使えない。それでも「蘇った」と呼ぶほかないものが現れている。
「討伐されたはずの魔族……? 魔族という存在についてはある程度把握しているつもりだが……魔族はその肉体が魔力そのもので構成され、死と同時に魔力が完全に散逸し、物理的な遺骸は残らないと認識している。それが今、アンデッド化してるということか?」
ゼーリエは一度頷き、その理解が正しいことを認めた。
「その通りだ。魔族は人間やエルフのように明確な物理的肉体を持たず、存在そのものが純粋な魔力で構成されている。ゆえに死体を媒介とした死霊術の類でアンデッド化させることは、理論上不可能だ。私がこれまで経験した事例でも、その例外はない」
タヴは尋ねる。
「通常の死霊術とは異なる何らかの方法で魂か魔力核を呼び戻し、新たに身体を再構築した可能性があるということか?」
ゼーリエは組んだ指を一度ほどき、また組み直してから言葉を継ぐ。
「その可能性は大いにある。ただ問題は、誰が、あるいはどの組織が実行しているかという点だ。それがまるで掴めていない」
タヴは鼻から長く息を吐き、問いを口にした。
「……どの魔族が再び現れたんだ?」
ここでレルネンが一度咳払いし、一歩進み出る。ゼーリエとタヴの間で立ち止まり、答えた。
「確認されているのは二体です。一体目はグラナト伯爵領付近で確認された断頭台のアウラ。もう一体はグレーセ森林で確認されたクヴァールです。いずれも完全に討伐されたはずでしたが、現在の彼らには明確な意思が存在せず、まるで操り人形のように動いています」
タヴはフリーレンたちとの会話を思い返した。アウラは服従させた兵を率い、クヴァールの術は人類の《防御魔法》そのものを変えさせたという。いずれも一体で軍や都市を脅かした魔族だ。その二体が意思を失ったまま、別の術まで使っている。
「操り人形のように……か。わざわざ俺を呼んだということは、死んだ魔族が蘇った現象について、俺のいた世界の魔法が絡んでいると考えているのか?」
ゼーリエは組んだ指を解かず、短く返す。
「そうだ。私が知るものとは明らかに異質な点が多い。この世界で知られている死霊術の範疇を超えている」
タヴはさらに問いかけた。
「具体的にはどんな現象が起きている?」
レルネンはゼーリエが遮らないのを確かめ、説明を始める。
「まず、断頭台のアウラについてですが、彼女は我々の世界には存在しないと思われる魔法を使用しました。中心から黒く禍々しい波動が円状に広がり、その範囲内にいた兵士たちの生命力を一瞬で奪い去ったのです。さらに、その魔法に触れた兵士の肉体を別の何かへと変質させる現象も確認されています」
その話を聞いたタヴは眉間にしわを寄せ、考えを口にする。
「生命を奪い尽くす魔法は、《Circle of Death(死の円環)》というものだろう。だが、兵士を変質させる現象は……よく分からないな。少なくとも俺が知っている魔法に、完全に一致するものはない」
レルネンは一度頷き、ゼーリエが遮らないのを確かめて続けた。
「さらに奇妙なのは、兵士たちが幼子のような、壊れた囁きを聞いたという報告もあります。その声の正体については未だ解明できていません」
その先をゼーリエが引き取る。
「アウラは生前、《アゼリューゼ(服従させる魔法)》という特殊な魔法を使用できた。この魔法は自分と対象の魂を天秤にかけ、魔力の大きい方が相手を半永久的に支配することが可能だ。その魔法が何らかの理由で変質した可能性も考えられる」
タヴは顎に手を置いたまま、一度頷いた。
「それは確かにありえるかもな」
レルネンはタヴの反応を一拍待ち、補足を加えた。
「もう一体のクヴァールに関しても、非常に厄介です。彼は緑色の光線を放ち、対象を塵に変えるほどの強力な魔法を使いました」
タヴは即座にその魔法を推測した。
「それはおそらく、《Disintegrate(分解)》だろう。光線が触れた対象の物質を瞬時に分解し、塵に変える魔法だ」
レルネンは続けた。
「あなたが推測したその魔法もまた、この世界には存在しないものです」
ゼーリエは隣で腕を組み、唇の端を上げたままタヴを見る。
「何はともあれ、状況は極めて深刻だということだ。……まあ、私にとっては久々に退屈しない日々が来たとも言えるがな」
タヴは口を閉ざし、アウラとクヴァールの名を頭の中で並べる。一方は服従、もう一方は《防御魔法》を貫く術式を使う。手段は違っても、正面から力比べを挑む相手ではない。視線は床へ落ちたまま、眉間の皺だけが深くなった。
「だとすれば、ギスヤンキやマインド・フレイヤーの侵略と無関係ではないかもしれない」
タヴは一拍置き、視線を上げて続ける。
「だが、ギスヤンキやマインド・フレイヤーは自らの戦術や目的に固執する種族だ。異界の魔族を蘇らせたり、この世界の魔族特有の魔法を融合させたりするような、複雑で手の込んだ真似を好まない。奴ら自身の行動様式とは合致しないからな。つまり、この状況を巧妙に操る何者かが別にいる、と考えるのが自然だろう」
レルネンは一度口を閉じ、ゼーリエへ視線を送ってから言葉を継いだ。
「我々も同じ結論に達しています。そこで、タヴ様のお力を借りたいのです」
タヴはレルネンの目を真っ直ぐに見つめ返す。
「協力、か……具体的に何をすればいい?」
ゼーリエはタヴから目を逸らさず、区切るように告げた。
「私たちと共に異界由来の魔法を解析し、その背後にいる組織や術者を特定し、排除するための協力をしてほしい。当然、ギスヤンキやマインド・フレイヤーへの対処も含まれる。その対価として金銭的な支援は惜しまないし、お前が元の世界に戻る方法を探す協力も改めて約束しよう」
タヴは少しだけ目を閉じる。宿の食卓でパンを差し出したフェルンと、椅子を空けたフリーレン、向かいで笑ったシュタルクの姿が順に浮かんだ。
(フリーレンたちにこれ以上迷惑はかけられない──そして、この世界にもだ)
瞳を開くと、ゼーリエとレルネンの双方を見て答える。
「……分かった。引き受けよう」
ゼーリエは一度頷く。だがすぐに、視線をタヴの襟元から裾へ落とし、口元をへの字に曲げた。
「それともう一つだ。お前、もう少しまともな服装をしろ。都市の住民や兵士からボロボロの服を着た盗賊のような男がいると苦情が何度も来ている。面倒ごとを増やすな」
タヴは自分の袖口に残る不揃いな欠けへ目を落とし、深く頭を下げた。
汚れや臭いは《Prestidigitation(奇術)》で落とし、裂け目は《Mending(修理)》で繕ってある。それでも袖口の布は痩せ、補修を重ねた箇所だけ色が違っていた。
「それは……本当に申し訳ない」
ゼーリエは傷んだ袖口からファルシュへ視線を移し、付け加えた。
「まあ、確かにその服がよりボロボロになったのは、私との模擬戦が原因でもあるがな。ファルシュ、すまないが着替えを用意してやれ」
ファルシュは口元を緩め、胸元に手を当てて一礼する。
「かしこまりました。着替えはこちらで準備させていただきますので、ご安心ください」
タヴは擦り切れた服を見下ろしてから、ゼーリエとレルネンへ顔を戻した。ファルシュは先ほど入ってきた扉へ回り、今度は先に開けて待つ。タヴが一礼して広間を出るまで、ゼーリエは頬杖をついたまま、その背を追っていた。
*
黄金の城壁が朝陽を跳ね返し、その照り返しが丘の斜面まで届いていた。草地には銀色の鎧が点々と倒れ、動ける兵士は互いの背を守れる距離まで寄っている。十人で組んでいた陣形は半ばを失い、踏み荒らされた草の上を血が細く流れていた。
ソリテールは樹冠より高い位置を保ち、結界と位相アンカーの双方を視界へ収めている。地上ではリヴァーレが退路の中央へ立ち、血色のランスを一振りするたび、残った兵士たちの輪が狭まった。
部隊を指揮する隊長格のギスヤンキ・ナイトは、部下たちの返り血で真紅に染まった鎧を纏い、銀色の剣を固く握って激しい怒号を飛ばした。
「All units, retreat immediately! Fall back to the phase anchor and secure all recording devices! No data must fall into enemy hands!(全員即座に撤退しろ! 位相アンカーまで後退し、すべての記録装置を回収せよ! データを敵の手に渡すな!)」
その命令に従い、生き残ったギスヤンキ戦士たちは散開し、位相アンカーへ向けて走り出す。二人が後方へクロスボウを向け、残る兵は負傷者を挟んで紫の明滅へ急ぐ。装置の傍らへ辿り着いた一人が屈み、地面へ落ちた記録板へ手を伸ばした。
上空のソリテールは地上の動きを追い、退路と兵士の間へ回り込む。指先を向けられた兵士は記録板を掴む前に身を翻し、片手に残していたクロスボウを両手へ持ち替えながら飛び退いた。
「ここで逃がすわけにはいかないわ。あなたたちに情報を持ち帰られると、厄介だから」
次の瞬間、ソリテールが詠唱を終えると空中に無数の魔法陣が展開され、そこから鮮烈な光の柱が次々と地上へ降り注いだ。最初の一条がクロスボウの弦ごと兵士の胸を穿ち、二条目は位相アンカーへ続く地面を斜めに焼く。退路を断たれた兵士が左右へ散るより早く、残る光が鎧の上へ落ちた。
負傷者を支えていた二人が衝撃で離れ、一人はその場へ倒れ込む。もう一人は腕を伸ばしたが、背中を光に貫かれ、届く前に指が土を掻いた。紫の明滅まで残っていた数歩は埋まらない。
リヴァーレは倒れる兵を一瞥し、喉を鳴らして笑う。正面から斬りかかった兵士の銀剣をランスの柄で受け、手首を返して刃を外へ滑らせた。空いた胸元へ石突きを叩き込み、後方の兵士が放った矢は、倒れかけた相手の肩越しに身を沈めて躱す。踏み込みを止めず、ランスを横へ薙いだ。
「どうした、もう終わりか? 退くとはつまらぬな!」
ランスの穂先が鎧の継ぎ目を抜け、兵士は剣を振り切れないまま崩れ落ちる。リヴァーレは返した柄を記録装置へ打ち下ろし、水晶板を枠ごと砕いた。隣の装置には石突きを突き込み、明滅していた文字を消す。最後の一台を抱えて走った兵士も、背後から伸びた穂先に貫かれ、装置ごと地面へ投げ出された。
やがて、戦場に立っているのはギスヤンキ・ナイトただ一人となった。ナイトは剣を握る手を震わせつつも、鋭い眼差しをリヴァーレに向けて構え直した。リヴァーレは口角を上げ、刃先を一寸下げてナイトの出方を待つ。
「貴様はなかなか腕が立つようだな。最後に俺と一騎打ちをしようではないか?」
しかし、その言葉はギスヤンキ・ナイトには理解できなかった。ナイトは眉間に皺を寄せ、銀剣の切っ先をリヴァーレへ向けた。
「Speak clearly! I cannot understand your damned tongue!(はっきり話せ! お前たちの忌々しい言葉は理解できん!)」
リヴァーレは返事を待たず、ランスの穂先でナイトと自分を順に示した。石突きが周囲の死者との間へ弧を引き、再び正面へ構えられる。ナイトは銀剣を構え直し、ギスヤンキ語で短く吐き出した。
「……もう一度言え。望みは何だ?」
言葉はリヴァーレへ届かない。だが、剣の構えは届いた。リヴァーレは歯を見せて再び告げる。
「一騎打ちを所望する、と言ったのだ。お前の剣技、最後まで存分に味わわせてもらおう」
ナイトの視線が、遠くで明滅する位相アンカーから、退路を塞ぐソリテール、正面のリヴァーレへ移る。銀剣の切っ先を下げずに測っても、どちらを抜けて装置へ届く道もなかった。
紫の光へ続く地面には、焼けた記録板と部下たちの遺体が折り重なっている。右へ回ればリヴァーレの間合いに入り、左へ走れば上空のソリテールに背を晒す。生き残った者の気配を探して耳を澄ませても、聞こえるのは火の爆ぜる音と、位相アンカーが刻む低い脈動だけだった。装置を託す相手も、負傷者を連れて抜ける余地も残っていない。
位相アンカーへは届かず、生きて戻る道もない。それでも、ヴラーキスへ忠誠を誓った戦士として無意味な死だけは選べない。敵へ深手を負わせ、遺体も武器も記録も渡さずに終える手段が一つだけ残っていた。
銀剣の柄へ親指を滑らせる。革巻きの継ぎ目で、遅発式の焼却ルーンが脈を打った。敵地で遺体も装備も情報も奪わせぬため、司令部があらかじめ武器へ仕込んだ最後の火だ。起動後は刀身の内側へ熱を溜め、定めた時に一息で解き放つ。間近で発動すれば、術者自身も周囲のすべても焼き尽くす。
封鎖次元へ入ってから、外への通信は一度も応答を返していない。承認を求める相手はいなかった。足元の記録板は砕け、部下は全員倒れ、位相アンカーへの道も塞がれている。ナイトは最後に正面のリヴァーレへ視線を戻した。
ナイトは剣柄のルーンへ魔力を送る。微かな光が革巻きの奥へ潜り、刀身の内側で熱を蓄え始めた。
親指の腹が焼け、焦げた革の臭いが籠もった。今ならまだ指を離せる。ナイトは握りを緩めず、ルーンを隠すように柄へ掌を重ねた。赤光は敵に見えないまま、刀身の奥で強さを増していく。
ナイトは銀剣を胸元へ立て、左手を柄から離した。その拳で自分の胸甲を一度打ち、名だけは一語ずつ区切って答える。
「良いだろう。その挑戦、受けて立とう。貴様の強さ、この身を以て確かめさせてもらう。我が名はヴォラキス・アヴァール。この名を覚えておけ」
名乗りの所作を見たリヴァーレは、自分の胸も拳で軽く打った。
ナイトの視線が、胸を打った拳からリヴァーレの顔へ戻る。リヴァーレは笑みを深め、手にしたランスをゆっくりと掲げた。その瞬間、槍の柄が黒い光を帯び始め、見る見るうちに形状が変化していく。鋭い穂先は刀身へと広がり、柄は伸び、漆黒のグレートソードへと姿を変えた。
ヴォラキスは変じた刀身よりも、リヴァーレの肩と足の向きを追う。警戒すべきは武器の形ではなく、それを振るう膂力と速度だ。一度深く息を吐き、相手との間合い、足の向き、剣を振り下ろす角度を順に確かめていく。
「ヴォラキスか。俺の名はリヴァーレ。誉れ高き異界の戦士よ、貴様に敬意を表し、この剣で相手をしてやろう。ソリテール、邪魔はするなよ」
上空のソリテールは口元を上げ、介入しないことを示すように両手を下ろした。
「ええ、あなたの楽しみを奪うつもりはないわ」
ヴォラキスは目の前に立つ黒服の魔族を視界の中心に収め、足裏で地面の凹凸を探る。剣を握る指の感覚を確かめ、顎を引いた。
リヴァーレが地を蹴った刹那、その巨躯が一瞬にしてヴォラキスの眼前へと迫る。瞬きすら許されぬ間合いの詰め方だった。ヴォラキスは精神の力を即座に全身へ漲らせる。
《Psionic Power(サイオニックの力)》の青白い念動力が腕から銀剣へ走り、身体の前で透明な防壁を結ぶ。黒剣が落ちる寸前、彼は防壁ごと銀剣を押し上げ、刃を迎え撃った。
両者の刃が激しく衝突し、甲高い金属音が大気を裂く。衝撃でヴォラキスの踵が地面を削った。それでも力を抑え切れず、鎧には鋭い裂け目が刻まれ、全身へ鈍い痛みが走る。
「ぐっ……!」
ヴォラキスは痛みに歯を鳴らしても、リヴァーレから目を逸らさない。踵が止まるより先に念動力を全開にし、周囲に散らばる石片と落ちた武器を一斉に宙へ引き上げる。
刃と破片が四方から唸りを上げる。リヴァーレは黒剣を低く構えたまま一歩踏み込み、肩へ向かう刃を上体で外し、足元を薙ぐ石片を跳び越えた。背後から来た槍を黒剣の峰で打ち落とし、着地と同時に地を蹴る。速度を落とさず、ヴォラキスへ斬り込んだ。
「その程度か、ヴォラキスよ! もっと俺を愉しませろ!」
ヴォラキスは歯を食いしばり、銀剣を斜めに差し入れた。黒剣の腹を滑らせ、右肩の外へ送るはずだった。だが刃を合わせるのがほんの一拍遅い。黒剣は銀剣の中ほどへ正面から食い込み、鍔元まで火花を走らせた。
両腕へ落ちた重みを逃がせず、ヴォラキスの靴底が土を削る。腰を落として踏み止まっても、黒剣は押し返せない。右膝が折れ、鎧越しに地面へ沈んだ。
(くそ、まだだ……! ここで倒れるわけにはいかん!)
ヴォラキスは短く息を吸い、胸の奥に残る力を一息に引き出した。痛みの向こうに足場を捉え直し、沈んだ膝を地面から離す。裂けた鎧の内側から血は流れ続けている。それでも握り直した銀剣は、押し込まれていた黒剣をわずかに返した。
立ち上がるや否や、ヴォラキスは銀剣を右下から斬り上げる。刃を包んだ念動力が接触の瞬間に前へ弾け、黒剣を外へ跳ね上げた。リヴァーレの踵が半歩退く。ヴォラキスは追撃へ出ず、銀剣を胸元へ戻しながら二歩分の間合いを取り直した。
しかし、リヴァーレは退いた足をすぐに踏み直した。低い笑いとともに間合いへ戻り、黒剣を肩口、脇腹、膝へ切り返す。ヴォラキスは一撃ごとに銀剣の角度を変え、受ける位置を身体の中心から外していった。それでも三撃目には腕が痺れ、切っ先が地面すれすれまで押し下げられる。
再び展開した念動の防壁には、黒剣を受けるたび白い亀裂が走った。次の斬撃までに塞がる幅は少しずつ狭くなっていく。それでもヴォラキスは、柄の内側で脈打つ熱から親指を離さない。刀身の奥に仕込んだルーンが満ちる、その瞬間を待ち続ける。
次の斬撃が襲いかかり、ヴォラキスの念動防御が破れ、剣が彼の左肩を深く裂いた。鮮血が舞い散り、鎧の亀裂が広がっても、ヴォラキスは銀剣を落とさなかった。
左腕を上げるたび、肩の裂け目から血が鎧の内側へ流れ込む。ヴォラキスは柄を右手へ深く握り直し、左手は鍔の下へ添えた。切っ先は一度も地面へ落ちない。親指の下では、ルーンの熱が血の温度を越えていた。
リヴァーレは黒剣を一度振って血を落とし、肩へ担ぎ直す。次の踏み込みが来る前に、ヴォラキスは残る念動力を全身へ集めた。
(まだ戦える。命を捨ててなお、ヴラーキス様のために果たすべき務めがある──)
ヴォラキスは意識を一点へ絞り、残る念動力を四肢と銀剣へ流し込んだ。身体が青白い光に包まれ、その力を乗せた剣撃がリヴァーレを激しく打ち据える。
その一撃がリヴァーレの刃とぶつかり、二人の動きが完全に止まった。ヴォラキスの瞼が緩み、短い息がこぼれた。彼は刃を押し込んだまま、はっきりと呟く。
「Queen Vlaakith, accept my soul...!(女王ヴラーキス、我が魂をお受け取りください……!)」
剣の柄に刻まれたルーンが赤く脈打ち、蓄えた魔力を解放し始めた。赤い光が柄の継ぎ目から噴き出す。異変に気付いたリヴァーレは目を見開き、《飛行魔法》で身を引こうとした。
だがヴォラキスはリヴァーレが身を引くより早く、残った全身の力と《Telekinesis(念動力)》を総動員してリヴァーレの身体を強引に拘束する。透明な念動の圧力がリヴァーレの四肢を掴み、空中で硬直させた。
剣柄のルーンとヴォラキスの拘束を見比べたリヴァーレは、歯を剥き出しにして高笑いを上げた。
「自爆か! 最期まで実に楽しませてくれる!」
ヴォラキスは銀剣から手を離さず、リヴァーレを見据えた。ルーンの光が強まっても、剣を握る手も視線も動かなかった。
「ギスヤンキを侮るな。我らの勝利、決して貴様らには渡さん!」
剣の柄から強烈な爆発が放たれるその刹那、リヴァーレは身を守る《魔力の壁》を展開し、同時に《飛行魔法》で後方へ跳んだ。念動力の拘束が緩んだ一瞬に、片脚だけが先に動く。次の瞬間、赤白い炎がヴォラキスと銀剣を中心に膨れ上がり、追いついた爆風がリヴァーレの防壁を内側へ撓ませた。
魔力の壁へ走った亀裂から炎が噴き込み、軍服の袖と肩を焼く。リヴァーレは地面へ叩きつけられ、黒剣の切っ先を土へ突き立てて転倒を堪えた。遅れて降る銀剣の破片が足元へ刺さり、爆心から流れてきた熱で周囲の草が黒く縮れていく。
致命傷こそ避けたものの、露出した皮膚には深い火傷が走り、黒剣を支える腕も震えていた。それでもリヴァーレは立ったまま爆心を見据え、喉の奥から低い笑いを漏らす。
「見事だ……ヴォラキス、その誇り高き魂に敬意を表そう」
上空のソリテールは爆心、焼けたリヴァーレ、砕けた銀剣へ順に視線を移し、小さく呟く。
「ギスヤンキは想像以上に恐ろしい種族ね。次はより慎重な対策が必要だわ」
爆煙が薄れるにつれ、砕けた記録装置と焼けた地面が朝陽の下に現れた。ソリテールは上空から記録装置の残骸と周囲の地形へ順に視線を巡らせ、リヴァーレは焼けた腕で黒剣を支えたまま立っていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。