嵐の神ターロスの領域は、暴風の唸りと雷鳴が途切れず響く次元だ。空は厚い暗雲に覆われ、稲妻が絶え間なく地表へ落ち続ける。そこでは風向きも光も安定せず、落雷と強風が規則を作らない。荒れ狂う気象そのものが、ターロスの神性を示している。
その暴風域の最深部、嵐の中心に据えられた黒曜石の円卓には、二柱の神が向かい合っている。
ひとつは荒ぶる嵐と破壊を司る神格ターロスだ。逞しい巨躯には稲妻がまとわりつき、瞳には鋭い雷光が宿る。ターロスの気性は粗暴で、破壊と混乱を好む。万物の破壊を目的とするターロスにとって、世界の秩序は忌むべき存在であり、秩序を打ち破って混乱を広げることが神としての役割になる。
その対面に座るのはシャー──闇と喪失を司る女神だ。シャーの姿は濃い影に覆われ、輪郭がはっきりしない。見えるのは、黒い瞳の奥に沈むさらに深い闇だけだ。シャーは冷静で狡猾であり、表立った破壊よりも、囁きと計略で状況を動かすことを好む。目的のためなら、手段は選ばない。
ターロスは稲妻を帯びた鋭い眼光をシャーへ向け、苛立ちを声に乗せた。
「混沌の嵐そのものと謳われし小僧が、今や秩序の軛に繋がれるとは嘆かわしいことよな。あのブロックスとか申す愚か者め、まことつまらぬことをしてくれおった。嵐を鎖で縛りつけて何を悦に入っておるのだ?」
シャーは言葉を受け流し、漆黒の瞳にわずかな笑みを浮かべて返す。
「あの次元災害の惨状は、神々の間でも久しく話題となったわ。世界を揺るがし、多元宇宙にまで影響を及ぼしたほどの嵐が、秩序に封じ込められたとしても、本質が消えることはないはずよ。再び彼の内側の力が暴走すれば、あの混乱が再現されることも十分あり得るでしょう?」
ターロスは雷鳴を響かせるように低く唸り、不満げに首を振る。
「そんなことは誰よりもよく分かっておるわ。だが問題は、奴が隔絶された次元に飛ばされてしまったことにあろうが。多元安定機構の連中は勿論、我らとて容易に干渉はできぬ。あのギスヤンキやマインド・フレイヤーどもが暴れ回るその混乱の最中で、我らの力が届かぬとは実に皮肉なことよ」
シャーは穏やかな声音のまま、はっきりとした意図を言葉に混ぜる。
「まだ策がないわけではないわ、ターロス。あの閉ざされた次元に、すでに侵入している者たちがいることを私は知っている。赤の魔道士団の中でも、死と混沌を崇める魔王オルクスの狂信者たちがね」
ターロスの表情が興味深げに歪む。
「ほう……あのオルクスの狂信者どもか。あれらの狂信者たちがどうやって隔絶された次元に潜り込んだかは知らぬが、確かに利用価値はあるやもしれぬ。しかし、奴らが我らの望むままに動くとでも言うのか?」
シャーは口元をわずかに上げ、静かに言葉を続けた。
「彼らに秩序を壊す混沌の種を与えればよいのよ。彼らは死と破滅を希求し、混乱の只中に身を置くことを喜びとする者たち。彼らにあのタヴの存在を教え、その混沌を再び覚醒させるよう仕向けることは難しくないはず。彼らが動けば、あの封じられた次元において再び混沌の嵐が巻き起こるでしょう」
ターロスは稲妻と雷鳴を伴った笑い声を響かせ、満足げに頷いた。
「面白いではないか。流石は闇と喪失の女神よな」
だが次の瞬間、ターロスの瞳の雷光が鋭く増した。ターロスの視線は一点に定まり、何かを確かめるような色が宿る。
「しかしシャーよ、貴様にとってはこれが初めての介入というわけでもあるまい?《Chosen(選ばれし者)》どもを封鎖次元に送り込もうとしていた善神共への妨害──狂信者どもに情報を吹き込み、結果としてデーモンどもが湧き出るよう仕向けたのは貴様の差し金か?」
シャーの瞳が一瞬だけ深い暗さを帯び、口元がわずかに歪む。肯定とも否定とも取れない表情のまま、シャーは淡々と返した。
「さあ……どうだったかしらね?私はただ闇の中に囁きを落としたに過ぎないわ。その囁きがどのように狂信者たちの心を動かし、どのような結果を招いたか──それを私が逐一気にする必要があるのかしら?」
曖昧な返答を聞いたターロスは、満足げに笑い声を上げる。ターロスの様子は、シャーの狡猾さを面白がっているようだった。
「まこと狡猾な女神よな、お前というやつは。その返答だけで十分だ。秩序を信奉する神々が思い通りに動けぬ姿を見るのは何度味わっても愉快なものよな!」
シャーは微笑をわずかに深め、再び計略の色を瞳に宿す。
「あなたも、存分にこの状況を楽しむといいわ。タヴの力が解き放たれれば、この次元だけに留まらず、より広い混沌が生まれるかもしれない。その時こそ、本当の楽しみが訪れるでしょうからね」
シャーの低い囁きに応えるように、ターロスは円卓へ稲妻を叩きつけ、雷鳴を轟かせた。
「望むところよ!多元宇宙を巻き込む大混沌を前に、我が嵐の力を思う存分示してやろうではないか!」
そう言い終えると、シャーの姿は周囲の影に溶けるように見えなくなる。残されたターロスは歓喜の咆哮を上げ、雷鳴と稲妻を操り始める。黒曜石の円卓は再び暴風と落雷の中に沈んでいった。
*
城壁都市ヴァイゼ──かつて大陸でも指折りの繁栄を誇った麗しき街である。その黄金色の城壁は、昇り始めた朝陽に照らされ、冷たくも幻想的な輝きを放っている。
しかし、その栄華は五十年前、魔王直属の七崩賢の一人、マハトによって突如として終わりを迎えた。マハトの魔法により都市全体が一夜にして黄金へと変貌し、生命の息吹は奪われ、時間すら凍りついた悲劇の街と化したのだ。
七崩賢。それは魔王の下にあって、人類の理解を遥かに超える魔法を操る七人の大魔族である。彼らが使う術は人間の生物的な構造では絶対に扱えないとまで言われ、まさしく人類にとって最大の脅威だった。黄金郷ヴァイゼはその脅威の具現として、今も黄金の沈黙を保っている。
街ごと封印することを余儀なくされた大陸魔法協会は、強大な結界を張り巡らせ、ヴァイゼを世界から完全に隔絶した。
マハトが操る禁忌の魔法、《ディーアゴルゼ(万物を黄金に変える魔法)》が際限なく広がり続けることを防ぎ、同時に、術者であるマハト自身を殺害すれば、この魔法が永久に解除不能になることから、結界による封印が唯一の選択だったのだ。そのため、ヴァイゼとマハトは五十年間にわたり静かに囚われ続けている。
いま、その黄金郷ヴァイゼの周辺を異界の銀色の鎧を纏った兵士たち──ギスヤンキの小隊が無言で調査していた。十人ほどの部隊は魔法的な道具を慎重に操りながら結界の構造を分析し、その姿には冷徹なまでの統率と明確な目的意識が見て取れた。
その光景を、遠く離れた丘の上から静かに観察する二つの影があった。
一人は、碧色の美しい髪をなびかせ、小さな角を頭に宿した若い女性型の魔族、ソリテール。そしてもう一人は、黒い軍服に身を包み、血色の槍を肩に担ぎながら悠然と佇む、堂々たる男の姿をした魔族──血塗られし軍神リヴァーレだった。
ソリテールが翡翠の瞳を細め、冷静に口を開いた。
「ギスヤンキの部隊、随分と執拗に結界を探っているわね。彼らもまた、黄金郷やマハトのことを調べているのかもしれないわ」
リヴァーレは興味なさげに槍を軽く回し、唇の端をわずかに上げる。
「マハトか……黄金の坊やに興味はないが、異界の戦士が相手とあらば退屈はせぬな。俺は戦えると聞いて来ただけのことよ」
ソリテールは静かにため息をついた。
「ええ、あなたはそうでしょうね。ただ、今回は魔族も、かつて魔王様が束ねていたように組織的に動かなければならないわ。そして、人間と協力せざるを得ない状況にあるの。このままでは共倒れになる──そのためにも、マハトの力が必要なのよ」
リヴァーレは軽く眉を上げて問う。
「あやつが協力するとは思えぬが?」
ソリテールの声に確信が宿る。
「彼は人間の感情に惹かれている。人間と共存したいという理想を抱いているマハトなら、共通の敵が現れた今、人間の絶滅を座視するとは思えない。きっと協力してくれるわ」
リヴァーレは軽く笑い、槍を肩から降ろした。
「面倒な理屈はお前らに任せる。まずは邪魔な連中を片付けるか」
ソリテールが静かに頷くのを確認すると、リヴァーレはゆっくりと丘を下り始めた。その動きには、どこか悠然とした余裕が漂っている。だが、次の瞬間、彼の瞳に戦いへの渇望の炎が灯り、その静かな足取りが一変した。
リヴァーレは地を蹴り、爆発的な加速でギスヤンキ小隊へ突撃した。眼前に迫る兵士の一人は、反応すら許されず、槍の切っ先に胸を貫かれていた。
「まず一人……!」
リヴァーレは鮮血を払いながら獰猛な笑みを浮かべ、次なる敵へと視線を移した。ソリテールは《飛行魔法》で上空に浮かび、そのまま魔法を展開する。指を優雅に振りかざすと、無数の魔法陣が空中に顕現し、《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》による鮮烈な閃光が放たれた。
魔法から迸る破壊の光が、ギスヤンキの陣形を寸断した。ギスヤンキ側は即座に態勢を整えた。ギスヤンキ小隊の隊長格、ギスヤンキ・ナイトの鋭い怒号が響き渡る。
「Attack formation! Do not falter!(攻撃陣形!ひるむな!)」
異界の兵士たちはその声に即座に従い、俊敏に動きを変える。彼らの手には見慣れぬ材質で精巧に作られたクロスボウが握られており、次の瞬間、一斉射撃がソリテールとリヴァーレへと降り注ぐ。
ソリテールは冷静に《防御魔法》を発動する。飛来する矢に反応し、透明な六角形の魔力板が的確な位置に瞬時に現れては消え、攻撃を全て弾き返した。リヴァーレもまた悠然とした動きで槍を旋回させ、迫りくる矢を軽々と叩き落としていく。
「やはり一筋縄ではいかないようね」
ソリテールは即座に次の詠唱を始める。
「《ゾルトラーク(人を殺す魔法)》」
瞬時に青白い魔力が凝縮され、無慈悲な破壊力を秘めた光線がギスヤンキ戦士に直撃する。一人の女兵士がその攻撃で腕を吹き飛ばされ、血しぶきを撒き散らしながら倒れ込む。
しかし、驚くべきことに彼女は即座に立ち上がり、痛みに顔を歪ませながらもなお攻撃を再開した。
「For Vlaakith! We die with honor!(ヴラーキス様のために!誇りと共に死ぬ!)」
その狂信的な叫びはリヴァーレには言葉としては理解できなかったが、その声音に込められた死をも恐れぬ強烈な覚悟だけは、明確に伝わってきた。彼は高揚した笑みを浮かべ、低く呟いた。
「面白い。存分に楽しませてくれ」
リヴァーレは槍を軽々と振り回し、圧倒的な速度で敵陣へと突入した。クロスボウの矢が次々と放たれるが、そのすべてを槍で打ち払い、軽やかに避けていく。彼の強靭な脚力が地面を砕き、次の瞬間には敵兵がまるで小枝のように吹き飛ばされる。
ギスヤンキ・ナイトは鋭い目でリヴァーレを睨みつけ、即座に指示を出す。
「Use Misty Step! Encircle him!(《霧渡り》を使え!奴を包囲しろ!)」
ギスヤンキたちは瞬時に魔法を唱え、霧のように消え去ったかと思うと別の場所に出現し、リヴァーレを囲んだ。次いで下士官が吠える。
「Enhance Leap! Attack from above!(《強化跳躍》!上空から攻撃を仕掛けろ!)」
強化された脚力で上空からギスヤンキ戦士がリヴァーレに襲いかかる。しかし、彼は余裕の笑みを浮かべ、槍を高く掲げる。
「よい連携だが、それでも足りぬな」
振り下ろした槍の衝撃は凄まじく、地面が割れ、ギスヤンキ戦士たちは成す術なく吹き飛ばされる。ギスヤンキ・ナイトは銀色に輝く大剣を両手で構え、必死にその一撃を受け止めたが、抑えきれない衝撃によって後方へ大きく吹き飛ばされた。
「Gah……! Stand firm! Do not retreat!(ぐっ……!踏みとどまれ!退くな!)」
隊長の叫びに兵士たちは即座に立て直しを図り、数人が《Enhance Leap(強化跳躍)》で強化された跳躍力で、ソリテールに向けて一気に間合いを詰める。ギスヤンキの剣が迫る中、ソリテールは落ち着いた声で《剣を作り出す魔法》を唱える。
瞬時に無数の鋭利な刃が空間を埋め尽くし、宙を舞うギスヤンキ戦士たちを容赦なく貫いた。兵士たちは抗う間もなく悲鳴を上げ、次々と地上へ落ち、静かに息絶える。
「それでも諦めないのね、感心するわ。でも、この世界を渡すつもりはないわ」
ソリテールの声には穏やかな冷笑が込められていた。
戦況は徐々にギスヤンキ側が劣勢になっていく。一人の兵士が深く切り裂かれ血を流しながらも、唸り声を上げて身体を奮い立たせた。彼はファイターが修練によって習得する、肉体の限界を一時的に超える戦技──《Second Wind(底力)》を発動した。
見る見るうちに出血が抑えられ、兵士は再び銀色の剣を握り直し、まさに命が尽きるその瞬間まで戦い続ける。その異常なまでの士気の高さに、リヴァーレは愉快げに笑みを深める。
「まことに見事な戦意だ!このような敵と戦えるとは、ますます愉快である!」
ギスヤンキ戦士たちはなおも諦めずに抵抗を続け、戦場は一層の混沌に包まれていった。
*
目を覚ました瞬間、タヴは静かに天井を見つめたまま昨晩の出来事を思い返していた。
夜明け前のオイサーストは静寂そのもので、薄く開いた窓の隙間から差し込む朝の陽光が、淡い金色の影を壁に揺らしている。宿屋はまだ眠りから覚めきっておらず、階下からはかすかに料理の準備を始める音が響いてくる程度だ。
タヴはゆっくりと身体を起こし、ふと傍らの小さなテーブルを見る。昨晩、彼は宿代を自分で払うと主張したが、フェルンが穏やかな笑顔でそれを押し切ってしまった。そのことを今さら思い出し、彼はわずかに眉をひそめて首を振った。
(……少しばかり、気にしすぎているのかもしれないな)
その呟きは自分自身への皮肉のつもりだったが、どこか温かく胸の奥を撫でていった。昨晩、フリーレンやフェルン、シュタルクが示してくれた奇妙なほどの優しさと理解は、まだ心に残っていた。
深く息を吐き、タヴはベッドから降りて簡単に身支度を整えた。短い滞在とはいえ、多少は休息を取ることができた。まだ問題は山積しているが、それでも身体は少し軽く感じられた。
扉を開けて廊下に出ると、すぐ隣の部屋から慌ただしい気配が伝わってくる。そこはフリーレンたちが泊まっている部屋だ。タヴが耳を澄ませると、フェルンの困惑した声が漏れてきた。
「Frau Frieren! Bitte stehen Sie endlich auf! Wie oft soll ich Sie noch wecken!?(フリーレン様!もう起きてください!何度起こせばいいんですか……!?)」
タヴは眉をひそめた。フェルンの言葉が理解できない。ゼーリエがかけてくれた《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》の効果がついに切れたようだった。
彼は静かに額に指を当て、《Tongues(言語会話)》を小さく唱えた。魔法が発動した瞬間、舌の上に微かな熱を感じる。そして、タヴは壁にもたれて隣の騒ぎを静かに聞いている。
「ううん……まだ眠いよ、フェルン……」
「もう……フリーレン様、髪もこんなに乱れて!」
フリーレンの寝ぼけた声にフェルンが声を荒げる。タヴは思わず溜息をつく。
彼はこれまでの短い旅路の中で、フリーレンがいかに生活習慣にだらしないかを、嫌というほど理解していた。特に朝に関しては絶望的で、寝坊や朝寝は日常茶飯事だった。
タヴのいた世界のエルフは基本的に眠らない。トランスと呼ばれる半覚醒の瞑想状態で休息を取る。それを思うと、この世界のエルフであるフリーレンが、眠気に振り回される姿はどこか奇妙に感じられた。
一方で、その面倒を律儀に見続けるフェルンの完璧な身だしなみや規則正しい姿勢を見ると、皮肉に近い対比を感じずにはいられない。フェルンには気の毒だと思う反面、彼女が黙々とそれをこなしている様子には、不思議な敬意すら覚えてしまうのだった。
(魔王を倒し、勇者と共に旅をした大魔法使いが、これではな……)
やがて扉が慌ただしく開き、櫛や髪飾りを手に持ったフェルンが忙しそうに飛び出してきた。彼女はタヴを見つけると驚いたように立ち止まり、慌ててお辞儀をする。
「おはようございます、タヴ様。フリーレン様がご迷惑をおかけしています……」
申し訳なさそうな表情の彼女に、タヴは軽く手を振った。
「気にするな。むしろフェルンの方が苦労しているのだろう?」
その言葉にフェルンは一瞬、首を傾げて不思議そうな表情を浮かべる。
「あの……タヴ様、声が昨日と少し違うような気がするのですが……?」
「昨日、ゼーリエにかけてもらった翻訳魔法の効果が切れてしまってな。今は《Tongues(言語会話)》を使っている。そのせいだろう」
「そうでしたか。急に声が違ったので、ちょっと驚いてしまいました」
フェルンはほっとしたように微笑む。それを見てタヴは内心で安堵を感じていた。彼女は違和感こそ口にしたが、頭痛などの不快感は訴えていない。ゼンゼとゲナウが検知結界に自分の魔力を登録してくれたおかげで、懸念していた《Tongues(言語会話)》と結界の干渉も起こらなかったようだ。
フェルンは小さく溜息をつきながら、言葉を続ける。
「フリーレン様は昔からこうらしいので……もう慣れました。でも、さすがに毎朝となると少し困りますね」
彼女の苦労が目に浮かぶようだった。タヴは静かに頷き、彼女が部屋へ戻るのを見送った。少しすると、ようやくフリーレンが眠たげな表情で部屋から出てきた。服装はそれなりに整えられているが、まだ髪は乱れ、半ば眠っているような表情をしている。
「おはよう、タヴ。随分早起きだね……」
タヴは腕を組んで軽く肩をすくめた。
「あんたが遅いだけだろう」
フリーレンは眠そうな目をこすりながら首を傾げたが、すぐにフェルンに腕を掴まれ、部屋に引き戻されてしまった。どうやらまだ髪のセットが終わっていないようだった。
宿の食堂に降りると、簡素ながら温かい朝食が用意されていた。焼きたてのパン、野菜の入ったスープ、それに地元で取れた果物が並ぶ。朝の澄んだ空気に混じって漂う芳ばしい匂いが、わずかに食欲を刺激した。
既にシュタルクが席について朝食を取っており、彼はタヴの姿を見ると軽く手を挙げて合図した。タヴは無言で頷きながら彼の向かいの椅子を引き、静かに腰掛ける。
ゆっくりと朝食を取り始めると、シュタルクがのんびりとした口調でタヴに話しかけてきた。
「フリーレンは勇者ヒンメルと旅をしていた時も、毎朝あんな感じだったらしいぜ」
意外そうな表情を浮かべるタヴに、シュタルクは苦笑して肩をすくめた。
「よくそれで旅を続けられたな?」
シュタルクは愉快そうに笑う。
「ああ、結局誰かがフリーレンを起こして、誰かが面倒を見るっていう流れは、あの頃からずっと変わらなかったらしい。まあ、今はフェルンが全部引き受けてるけどな」
その会話を聞いていると、タヴの中で何かが穏やかにほどけていくのを感じた。旅路の中でこうした日常に自分が溶け込んでいること自体が、不思議で、けれど心地良い。完全に彼らの申し出を受け入れたわけではなかったが、それでもこうして過ごす時間は嫌いではなかった。これは、彼にとって初めて覚える新鮮な感覚だった。しばらくしてフェルンが、ようやく身支度の整ったフリーレンを伴って姿を現す。フリーレンはまだ半ば夢うつつのようで、眠そうに目をこすりながらゆったりと歩いてくる。
「お待たせしました。フリーレン様、次からはちゃんと起きてくださいね」
フェルンは半ば呆れた様子で言いながら、フリーレンを椅子に座らせると、慣れた手つきで朝食を用意し始めた。
「フリーレン様、ちゃんとパンを食べてください。スープも冷めちゃいますよ」
「んー……フェルンが食べさせてくれたら食べる……」
フェルンは溜息をつきながらも、丁寧にパンをちぎり、それをフリーレンの口元へと運ぶ。フリーレンは眠そうに目を閉じたまま、ゆっくりと口を開けてパンを頬張る。
その光景を眺めていたシュタルクは大げさに肩を落として呆れた。
「いつもこうだもんな……」
タヴもまた軽く溜息をつき、呆れたように首を振った。しかしその表情には微かな微笑みが浮かんでいた。やがてようやく朝食を終え、フェルンが改めてフリーレンの身なりを整えると、彼らは席を立った。
宿を出ると澄んだ朝の空気が彼らを迎えた。オイサーストの朝は静かで、目覚めたばかりの街はまだ本格的な活動を始めてはいない。それでも、道行く人々の顔には穏やかな活気が戻り始めていた。フリーレンは眠そうに目をこすりながらも、淡々とした口調で告げる。
「まずはこの街で少し資金を稼いでおこう。フェルンの試験は二ヶ月後だし、ここでの滞在は思ったより長引きそうだから」
フェルンは軽く頷き、いつも通り整然とした口調で応じた。
「そうですね、フリーレン様。試験に備えてしっかり修行もしたいですし、そのためにはやっぱり生活費に余裕が必要です」
横を歩くシュタルクも腕を組んで、納得したように頷く。
「俺は特にやることもないし、フェルンの修行に付き合うよ。鍛錬はいつだって歓迎だしな」
それを聞いたフリーレンは気だるげに首を動かし、タヴへとゆるく視線を向けた。
「タヴはどうするの?」
タヴは歩調を少し緩めながら、短く考える仕草を見せて答える。
「まずこの世界についての情報収集と、できれば言語を覚えるのを優先したい。文書館へでも行ってみるつもりだ。金の方は……まあ、最悪、《Wish(願い)》で何とかできるだろう」
《Wish(願い)》には、現実改変を暴走させないために、安全な選択肢が予め術式に組み込まれている。その選択肢の一つに、非魔法の物品を一つだけ無から作成するという効果がある。価値は二万五千金貨相当、最大寸法は一辺およそ九十一メートルまでで、視界内の地上の空いた場所に出現させられる。なお、魔法の効果を模倣する場合を除き、どのような望み方でも必ず反動が残る。
十分な休息を取るまでの間、魔法を行使するたびに呪文の階梯に応じた壊死の痛みが肉体を削り、痛みはいかなる方法でも軽減できない。さらに数日は筋力が著しく低下し、重い物を扱う作業が難しくなる。安静にしていれば回復は早まるが、運が悪ければおおよそ三分の一の確率で、以後は《Wish(願い)》を二度と使えなくなる危険がある。だからこそ「最後の手段」だ。フリーレンは眉をわずかに上げて、静かに言った。
「《Wish(願い)》って、そういうことに使っていい魔法なのかな……」
タヴは苦笑して軽く肩をすくめる。
「だから本当に最終手段だ。無闇に使って、この世界の女神とやらに怒られても困るからな」
その返答に、フェルンは口元に小さな笑みを浮かべ、シュタルクもやや困惑気味に笑った。フリーレンはタヴのボロボロの衣服に視線を落とし、ため息を漏らす。
「それならそれでいいけど、少しは服装も気にしたらどうかな。そのままだと文書館でも目立つよ」
フェルンも頷き、同情的な目でタヴを見た。
「フリーレン様の言う通りです。せめてもう少し整えた方がいいと思います……」
タヴは自分の服を一瞥し、微かな苦笑とともに言葉を返す。
「……考えておく」
そんなやりとりを経て、それぞれの役割が決まった。フリーレンたちは早速冒険者ギルドや依頼所へと向かい、フェルンの修行に役立つ仕事を請け負う算段を立てた。タヴは彼らと別れ、一人静かに街の中心にある文書館へと向かった。朝の柔らかな陽光が彼の背を温め、久々に心地よい孤独感を味わわせてくれた。
文書館の扉を開けると、微かな紙と埃の匂いが鼻をくすぐった。内部は予想以上に整然としており、壁一面にびっしりと並んだ書棚には古びた書物から新しい刊行物までが隙間なく収められている。数人の利用者が静かな集中の中で書物に向かっているが、その人数は多くなく、静かな落ち着きが支配していた。
タヴは書棚をゆっくりと巡りながら、手当たり次第にこの世界の歴史、文化、言語体系に関する書物を取り出し、閲覧用のテーブルへと運んだ。着席すると、額に指を当てて小さく呪文を唱える。
「《Comprehend Languages(言語理解)》」
静かな魔力が頭に染み渡り、異世界の文字は意味を伴ってタヴの意識に流れ込んだ。彼は慎重にページをめくり、一語ずつ正確に音を確認しながら覚え込んでいく。
初めは基本的な単語からだった。
「街、道、宿、食事」──そういった日常で頻繁に使われる言葉を丹念に繰り返す。次に文脈に沿ったフレーズを選び、それを口の中で小さく唱え、発音を確かめるように何度も呟いた。
「Guten Morgen(おはよう)…… Guten Tag(こんにちは)…… Danke(ありがとう)……」
呟くごとに言葉は少しずつ自分の一部になり、その異世界の響きに慣れていく。そして、小さな手帳を取り出すと、覚えた単語やフレーズを簡潔な筆跡で記し、確認するように何度も目を通す。
彼の記憶は鋭く、魔法の補助もあって単語や文法を徐々に習得していった。やがて簡単な文章が目に入ると、魔法を使わずともその意味がわずかに掴めるようになっていることに気付いた。
(焦っても意味がない……少しずつ着実に身につけていこう)
そうして単語の反復と文章の理解を何度も繰り返し、没頭の中で時間は静かに流れていった。その集中は深く、どれほどの時が経ったかタヴ自身にも分からなくなっていた。
そんな時、不意に背後から控えめな声が聞こえた。
「失礼します。あなたがタヴさんでしょうか?」
タヴがゆっくりと振り返ると、そこには落ち着いた雰囲気の若い男が立っていた。黒髪を整え、整然とした紺色のローブを身にまとい、知的な印象を与える眼鏡をかけている。その佇まいからして明らかに魔法使いだった。
「ああ、そうだが……?」
青年は穏やかに微笑み、丁寧な態度で頭を下げた。
「初めまして。ファルシュという者です。大陸魔法協会所属の一級魔法使いで、ゼーリエ様の弟子の一人です。ゼーリエ様があなたをお呼びしています」
その名を聞き、タヴはわずかに眉を寄せる。
「ゼーリエが俺を?」
ファルシュは静かに頷いた。その瞳には穏やかだが明確な意志が宿っている。
「はい。あなたに急ぎ伝えたいことがあるそうで、至急お連れするように言いつけられました」
タヴは一瞬だけ考えたが、すぐに椅子から立ち上がった。
「わかった、すぐ行こう」
ファルシュは安心したように頷き、丁寧な所作で出口へと導いた。タヴはその後ろに従いながら、再び自分自身へ問いかける。
(ゼーリエが俺に一体何の話があるんだ?それに、このタイミング……)
昨晩のフリーレンとの会話が、胸の内で静かにざわめいている。過去と向き合う覚悟、そして未知の状況に対する不安が絡まり合い、タヴの心は落ち着きを失い始めている。
それでも、彼は黙ってファルシュに従い、文書館の外へと歩みを進めた。陽光の中に再び出たタヴは、小さく息を吐き出した。これから自分に待ち受けるものが何であれ、彼はもう目を逸らすわけにはいかなかった。
*
薄く紫がかった空には、明け方の光が静かに滲みはじめていた。だが、その穏やかな夜明けを切り裂くように、赤紫色の禍々しい亀裂が幾筋も走り、異界の魔力が渦巻く不穏な輝きを放っている。
静寂に満ちるはずの夜明けは、すでに戦乱の只中にあった。防壁の外では無数のデーモンが轟音と咆哮を響かせ、兵士たちは必死にそれらを押し返している。夜明けの清廉さは失われ、戦いの熱気と叫喚だけが辺りを支配していた。
最前線の指揮を執るのは、鋼の甲冑を纏ったドワーフ──ブロックス・フレイムスミスだった。彼は鍛冶神モラディンの祝福を受けた戦斧を握りしめ、防衛線の中央で猛然とデーモンの群れを叩き潰していた。
「防衛線を維持しろ!ここを抜かれたら都市は終わりだぞ!」
彼の激しい叫びに、疲労困憊の兵士たちは再び奮い立つ。その傍らでは、自らが鍛え上げた鋼鉄の守護者──《Steel Defender(鋼の護衛)》が唸りを上げ、鋭利な鋼鉄の拳で襲い掛かるデーモンを打ち砕いていた。
「グラァァァ!」
異界の裂け目から這い出した大型デーモン──巨大な肉体と鋭い角を持つバルルグラが、地響きを伴って突進してきた。ブロックスは顔色一つ変えずに、その進路に立ちはだかる。
彼が手にする戦斧は、夜明け前の静かな祈りの時間に、鍛冶神モラディンの恩寵を注ぎ込んだものだった。《Blessing of the Forge(炉の祝福)》──それは鍛冶神の信徒が武具に神聖な魔力を吹き込み、その鋼を魔法の武器へと昇華させる特殊な秘儀だ。
すでに斧身は赤々とした鋼の輝きを帯びており、刃が秘めた神聖な熱気は彼の意志に呼応して揺らめいていた。ブロックスはその祝福された斧を力強く握り締めると、鋼のような眼差しを猛然と突進してくるバルルグラに向ける。
「来い、鋼に宿るモラディンの力を味わわせてやる!」
神の炉で鍛えられた斧は、その言葉に応えるように輝きをさらに増し、迫り来るデーモンを迎え撃つ。凄まじい衝撃とともに戦斧が振り下ろされ、バルルグラの胸部を深々と切り裂いた。炉の炎を宿した刃の熱が、デーモンの肉体を内側から灼いていく。咆哮を上げて倒れるバルルグラの巨体が地を揺らした。
だが、息つく間もなく、次々とデーモンが迫ってくる。兵士の一人が恐怖で立ち尽くしているのを見て、ブロックスは再び檄を飛ばした。
「怯えるな!奴らは数こそ多いが、心はない!お前たちには信仰と鋼がある。耐えろ、俺たちが勝つんだ!」
兵士はその言葉で我に返り、再び武器を構え直す。だが、戦況は決して楽観できるものではなかった。防衛線の一部は徐々に崩壊の兆しを見せている。
ブロックスは状況を冷静に分析し、判断を下す。
「精霊たちよ、俺の周囲を守護しろ。《Spirit Guardians(護りの霊)》!」
低く唱えた彼の周囲に、炎を纏った小さな鍛冶の精霊が無数に現れ、敵対する存在に容赦なく襲いかかった。《Spirit Guardians(護りの霊)》──術者を中心に守護する精霊を召喚し、近づく敵に自動的に攻撃を加えてダメージを与える防御と攻撃を兼ね備えた魔法だ。
精霊たちがデーモンを焼き払い、僅かながら戦況に余裕が生まれる。ブロックスは即座に後方へ視線を向けると、鋭く兵士たちへ命じた。
「防衛線を再編成しろ!アーティフィサーは結界を即座に強化せよ!まだ奴らの勢いは止まってないぞ!」
防衛線が再編されるわずかな時間を稼ぐため、ブロックスはさらに前へ踏み出し、自らデーモンを引き付ける。鋼の守護者も忠実に彼の傍らで戦い続けていた。デーモンの攻撃が鋼の守護者に命中し、装甲がわずかに傷つく。ブロックスはそれを目にすると、即座に鍛え上げた魔力を放った。
「俺の鍛冶に命を吹き込め。《Arcane Jolt(秘術衝撃)》!」
戦斧から放たれた鋼色の魔力が鋼の守護者の損傷部分を瞬時に修復し、さらにその魔力が衝撃波となって周囲のデーモンたちを激しく打ちのめす。
《Arcane Jolt(秘術衝撃)》──戦技鍛造者が作り出した守護者や武器を通じて魔力の衝撃を放ち、敵へのダメージや味方の回復を瞬時に行える能力である。
ブロックスの活躍に兵士たちは再び士気を高めたが、デーモンの数は依然として多く、状況は未だ厳しいままだった。戦況がわずかに落ち着いた頃、ブロックスはようやく息を整えることができた。彼は遠く地平線を見つめながら、神々から受けた啓示を静かに思い返していた。
(セリア・イグナリア、イーシャ・グレイブレア……あいつらがここに到着すれば、この劣勢をひっくり返せるはずだ。だが、まだその時じゃねえ)
ティールに仕えるドラゴンボーンのパラディン、セリア・イグナリア。イルマターに選ばれた慈悲深きハーフリングのローグ、イーシャ・グレイブレア。二人はまだ到着していない。別の戦地で多くの命を守る任務を全うしているからだ。
(二人が任務を果たしてからここに来るまでは、何としても耐え抜くしかねえ。それが神々から与えられた俺の役目だ)
防衛陣を見渡すと、兵士たちは疲弊しながらも必死で再編成を行っている。だが士気の低下は明らかだった。ブロックスは声を張り上げる。
「お前たちにはまだ希望がある!神々に選ばれた英雄が間もなく到着する!それまでは俺が、お前たちの盾となる!」
彼の言葉が兵士たちの胸に響き、再び闘志が燃え上がった。再編成を終えると、ブロックスは即座にアーティフィサーとウィザードたちを召集した。
「守りをさらに強化するぞ!敵の侵入を完全に阻む《Wall of Force(力場の壁)》を展開し、デーモンどもの接近を物理的に防げ。さらにその内側には邪悪な存在の侵入を阻む《Magic Circle(防御円)》を重ね掛けするんだ。二重の障壁で奴らを徹底的に排除する。急げ!」
ウィザードたちは即座に詠唱を開始した。《Wall of Force(力場の壁)》によって不可視かつ堅牢な障壁が都市の防衛線の前に出現し、物理的にも魔力的にも突破を困難にする強力な防壁が築かれていった。
同時に、邪悪な存在を寄せつけない神聖な結界である《Magic Circle(防御円)》がその内側に描かれ、デーモンが仮に第一防衛線を突破したとしても、その内部への侵入を徹底して阻害する構造が完成していく。
さらにアーティフィサーたちは損傷の激しい部分に即座に罠を仕掛けるべく、《Glyph of Warding(守りの秘文)》を設置し、侵入者が近づくや否や爆発的な魔力で撃退できるよう準備を整えた。都市を守る魔力の壁が再び眩く輝きを増し、堅固な二重防護網が完成したことを確認すると、ブロックスはわずかに安堵のため息を漏らす。
(これで少しは時間を稼げるだろう。だが、根本的な脅威は召喚儀式そのものだ。セリアとイーシャが到着次第、一気にそこを叩き潰す)
夜空にはなおも、不気味な魔力の輝きが揺らめいている。戦いはまだ終わっていない。
防衛線の指揮を一時的に現場の兵士に任せると、ブロックスは砦の塔に登り、都市の全景を見渡した。敵の数は依然として圧倒的であり、防衛の限界も近い。
(儀式が完成すれば、この都市だけじゃ済まねえ。この世界全てが危機に晒される……)
彼は静かに眼を閉じ、戦斧を砦の頂に突き立てた。
「Baraz Moradin…… khazâd dumân. Kurûk khazâd, baruk khazâd(誉れあれモラディンよ……我らが鋼の魂よ。ドワーフの力を、ドワーフの斧を)」
重厚で鋭く、鉄槌の打つ響きにも似た言葉が静かな夜気を震わせた。
「Gamil baruk, khazukan dûm…… Zigil baruk, kurduk dûm(鋭き斧に誉れあれ、強き鉄に鋼の心を……炉の炎に誉れあれ、勇気に鋼の意志を)」
彼はゆっくりと拳を握り締めた。戦いで傷つき疲れ果てた手が、再び堅く結ばれる。
「父なる鍛冶神よ。俺の手は磨り減り、我が刃は鈍りつつある。だが、それでもまだ打ち続けたい。あなたの鋼の心を、この世界の盾とするために……」
祈りを終え、彼は深く息を吐き出した。その胸の中には、モラディンの炉より再び吹き込まれた揺るぎない意志が、鋼のごとく満ち溢れていた。
ブロックスは英雄たちの到着を待ちながら、ひたすら防衛を続けている。結界を維持し、根本的な脅威──デーモン召喚の儀式への攻撃機会を伺っている。彼は再び眼下の兵士たちを見つめ、自らの使命を再確認する。
(待つこともまた戦いの一部だ。セリア、イーシャ……お前たちが来るまで、俺は決して倒れねえ)
ブロックスは砦を降り、再び戦場へ戻っていった。鍛冶神モラディンに選ばれた鋼の守護者として、最後まで戦い抜く決意を胸に秘めて。
*
漆黒の夜空が徐々に薄れ、夜明けの淡い光が帝都アイスベルクの防衛中枢を照らし始めていた。都市の中央部にそびえる巨大な塔。その最上階には、精巧かつ複雑な魔法陣が刻まれ、魔力を帯びた水晶球や色鮮やかな宝石が壁や柱を飾っている。これらが発する光は魔力回路を通じて静かに波打ち、塔全体に微かな唸りを響かせていた。
その魔法陣の傍らに立つのは、帝都の宮廷魔法使いアルデリックである。彼の鋭く険しい目が見据える先には、ラジエル・サン=エリオスが楽しげに微笑みながら、ゆったりと歩を進めていた。
「ほう、これはまた興味深い魔法だね。君たちの魔法技術には感心するよ」
ラジエルは魔法陣の周囲を軽やかに一周し、その細かな紋様や配置を一つひとつ興味深げに見ていく。彼の口調は穏やかでありながら、どこか楽しげで、微かな胡散臭さが漂っていた。アルデリックは表情を崩さず、厳しい声で彼に告げる。
「これは帝都を守る結界の中核だ。貴様の魔力を登録することで、帝都内における貴様の魔法使用や行動を完全に把握できるようになる。言い換えれば、常時監視だ。理解しているな?」
ラジエルは軽く肩をすくめ、口元に薄い微笑を浮かべながら答える。
「もちろんだとも。君たちにとっての安心材料が僕への監視であるなら、喜んで協力するよ。僕は帝都の秩序を乱すつもりはないからね」
その言葉に、アルデリックは警戒を緩めることなく短く頷いた。そしてラジエルに対し、魔法陣の中心に立つよう顎で示した。
「では始めよう。中央へ行け」
ラジエルは余裕のある仕草で魔法陣の中心へ歩みを進め、ゆったりとした動作で両手を広げ、目を閉じて魔力を解放し始めた。魔法陣が青白く反応し、彼の魔力の波動を丹念に捉えていく。アルデリックは術式を操作する魔法技師たちに向かって厳しく指示を飛ばした。
「細心の注意を払って記録せよ。魔力波動を一点も漏らすな」
魔法技師たちは慎重に魔法陣を操作し、ラジエルの魔力を結界に刻んでいく。やがて魔力のパターンが完全に結界に調和すると、周囲にある無数の水晶球が一斉に輝きを増した。その光景にラジエルはゆっくりと目を開き、軽く息を吐いた。
「これで無事に僕の魔力が君たちの結界に組み込まれたようだね。安心してもらえたかな?」
アルデリックは警戒心を完全に解くことはなかったが、表面上は静かな声で応じた。
「貴様の動きは今後すべて捕捉される。帝都内で攻撃的な魔法を使えば即座に感知される。忘れるなよ」
ラジエルはその警告を楽しげに受け流し、両手を軽く上げて見せた。
「もちろんだとも。帝都の秩序を守るために、僕もそれくらいの協力は惜しまないよ」
アルデリックはその様子に僅かに眉を寄せつつも、ラジエルに次の問いを投げかけた。
「では、ここからが重要だ。貴様はこの帝都で具体的に何をするつもりだ?」
ラジエルは胸元の複雑な装飾を軽く撫でながら、考え深げに言葉を紡ぐ。
「主に情報収集と分析だよ。君たちの魔法は非常に興味深いからね。それに僕が知っていることを帝国のために活かしたいと思っている。ギスヤンキやマインド・フレイヤ──―君たちが抱える次元的な脅威に対して具体的な対策を立てるのが僕の目的さ」
アルデリックは慎重に言葉を聞き、それからまた問いかける。
「それで具体的に何を要求する?」
ラジエルは軽妙に微笑み、指を軽く揺らしながら返答した。
「図書館や魔法研究施設の利用を許可してもらえると助かるね。帝国の所有する魔法記録を参照し、侵入手法を分析するのが最初の一歩だ。それに、帝都の術者や兵士たちの能力向上も僕なら手助けできるはずだ。互いの利益に繋がると思うよ?」
アルデリックは数秒間慎重に考えた後、短く告げた。
「それでよかろう。ただし、常時監視役をつけさせてもらう」
ラジエルはその言葉に楽しげに微笑みを深める。
「監視もまた信頼を築く大切な方法だよね?大歓迎さ」
こうしてラジエルは帝都内の研究施設や図書館への立ち入りを認められるが、常に監視役の魔法使いが同行することになった。彼自身もそれを当然と受け止め、軽い足取りで帝都の図書館へ向かった。
図書館の扉をくぐると、ラジエルの前には驚嘆すべき魔法と知識の集積場が広がっていた。そこはキャンドルキープの大図書館やウォーターディープのブラックスタッフ塔の大書庫を彷彿とさせる壮麗さを持っていた。高くそびえる丸天井には星座や魔法陣が複雑に彫り込まれ、淡く光る魔法的な明かりが無数に宙を漂い、館内を柔らかく照らしていた。
ホールを囲むように設置された書架は精巧な彫刻が施された木製や黒曜石製のもので、幾重にも重なり、複雑に入り組んだ迷宮を形成している。整然と並べられた書物や巻物の中には、見るからに古く貴重な文献や、魔力を帯びた羊皮紙が収められている。
図書館の中心部には、精巧な魔法陣が描かれた円形の大理石の台座があり、その上には巨大な水晶の球体が静かに浮かんでいた。球体の内部では、かすかに次元や星界の景色が移り変わり、見る者を引き込むように輝いている。
ラジエルはその光景に満足げな笑みを浮かべながら、ゆったりと歩を進めた。
「実に見事なものだね。まるでキャンドルキープの《無限の書架》を小さく凝縮したようだ。いや、ウォーターディープの《ブラックスタッフの秘蔵書庫》に近いかな?」
監視役の魔法使いたちは彼の言葉の意味を完全には理解できなかったが、その言い回しが異界の壮大な知識の殿堂を指していることだけは推測できた。ラジエルはそんな彼らの反応を楽しむように軽く肩をすくめると、額に指を当て静かに意識を集中させる。
《The Third Eye(第三の目)》──《Greater Comprehension(上位理解)》
その瞬間、彼の瞳が淡い青白い輝きを帯び始める。《The Third Eye(第三の目)》とは、占術に熟練したウィザードが感知能力を一時的に強化する技術であり、その中でも《Greater Comprehension(上位理解)》は、どれほど複雑で難解な言語で記されている文献であろうと、瞬時に読み解き、正確に理解する力を授けるものだ。
ラジエルは微かな笑みを浮かべると、素早く書架に並んだ膨大な文献を手に取り、迷いなく目を通し始める。その圧倒的な速度と理解力に、監視役の魔法使いたちは言葉を失い、ただ驚きと警戒の視線を交わすばかりだった。
「君たちも気軽に見て回っていいんだよ?それとも僕が何か悪さをするとでも思っているのかな?」
監視役たちは無言のまま目を逸らす。だが、その態度にラジエルは一層楽しげに笑った。
(まあ、警戒するのも当然だろうけどね。それもまた、この世界を探る楽しみの一つだよ)
膨大な知識を吸収しつつ、ラジエルは次に訪れる展開を静かに待ち構えている。その裏には、表面的な協力とは裏腹に、帝都が抱く彼への疑念と、ラジエル自身が持つ未知の真意が、微かに交錯し続けていた。
*
荘厳な石造りの建物は、長い時を経てなお威厳と威光を保ち続けていた。堂々たる柱と緻密な彫刻が施された壁面は、それ自体が魔力を放っているかのような重々しい存在感を示している。大陸魔法協会北部支部──そこは北側諸国の魔法の中枢であり、多くの優れた魔法使いが集う場所でもある。
広大な敷地を覆う石畳の上を、タヴは静かな足取りでファルシュに続いて歩いていた。彼の瞳は周囲の景観を冷静に観察し、心の底では微かな緊張を感じている。
建物の正面には、高くそびえる尖塔を頂く塔が幾つも連なり、空を切り裂くような鋭い印象を与えていた。その塔の上層へと至るため、タヴたちは長く曲がりくねった階段をゆっくりと登り始めた。
階段は高みへ向かうほど幅が狭まり、周囲には精緻な彫刻が施された窓が一定間隔で設けられている。外から差し込む穏やかな陽光が、その階段を柔らかく照らし、静かな時間の流れを感じさせている。
やがて高みへと至る階段を登り終え、目の前には魔力を帯びた重厚な二重の扉が現れた。ファルシュが前に進み出て静かに手をかざすと、扉は音もなくゆっくりと開き始める。そこから溢れ出した穏やかな光が二人を優しく迎え入れた。ファルシュは一度タヴを振り返り、穏やかな表情で声をかけた。
「ゼーリエ様はこちらでお待ちです。心の準備は良いですか?」
タヴは短く息を吐き、慎重に頷く。
「ああ、大丈夫だ」
ファルシュは微かに微笑んで頷き返すと、扉を丁寧に開け放ち、そのままタヴを内部へと導いた。その向こうには、先ほどよりさらに壮麗で広々とした大広間が広がっていた。高い天井から降り注ぐ柔らかな陽光は磨き抜かれた床を明るく照らし出し、広間全体を温かみのある雰囲気で満たしていた。
その広間の中央には、重厚で精巧な彫刻が施された椅子が置かれ、そこにまるで王のごとく悠然と座っているのは、小柄なエルフの女性──大魔法使いゼーリエだった。彼女の傍らには初老の魔法使いレルネンが控えており、穏やかながら鋭い視線をタヴに向けている。
タヴがゆっくりと部屋に足を踏み入れると、ゼーリエはわずかに目を動かし、気だるげに足を組み直した。その仕草は堂々とした威厳を放っているが、どこか子どものような無邪気さも同時に感じさせる奇妙な対比があった。
「ようやく来たか。待ちくたびれたぞ」
ゼーリエは淡々とそう告げ、頬杖をついてタヴを見据えた。彼女のその姿勢と口調は、彼女がどれほどの年月を生きているのかを物語っていたが、タヴは軽く礼儀正しく頭を下げてから、言葉を口にする。
「待たせて申し訳ない。それで、俺に用があるというのは──」
しかしタヴの言葉はそこで途切れた。ゼーリエが不快そうに表情を歪め、片手を鋭く振って遮ったからだった。
「その魔法を使って喋るな。お前の魔法の翻訳はどこか妙に耳障りだ。別の方法で話せ」
ゼーリエの明確な不満を耳にしたタヴは困惑する。言語を用いずに意思疎通を可能にする《Rary's Telepathic Bond(レアリーの念話結束)》──精神を魔法的に繋ぎ、離れていても互いの思考や意思を直接伝達できる魔法──のような術は存在するが、習得には本格的な学習と研究が必要となる。
生まれつき宿した力を、限られた型でしか扱えないソーサラーでは習得が難しい。そのため、タヴは言葉の通じない相手との意思疎通に使える魔法は、《Tongues(言語会話)》くらいしか覚えていなかった。それは、ゼーリエの不満を魔法で解消できないことを意味する。
わずかに間が空き、空気が静かに張り詰めた。レルネンが微かな微笑みを浮かべて彼の動きを見守っている中、タヴはひとつ決断を下す。
覚悟を決めて、覚えたての異世界の言葉を口にすることにしたのである。文書館で必死に覚えたばかりの言葉を、タヴはぎこちなくゆっくりと口に出した。
「えっと……Guten Tag(こんにちは)……欲しいですか?……あなた、話す、こと」
しかし、その言葉は発音も文法も怪しく、かろうじて意味が通じるような代物だったため、ゼーリエの眉間には深く険しいしわが寄り、その口元には明らかな不快感が漂う。
「何だ、その酷い話し方は。全くもって理解できないぞ」
ゼーリエは眉をひそめて吐き捨てるように告げる。その様子を静かに見ていたレルネンが、穏やかな表情のまま小さく咳払いをして、タヴへと助言を与えた。
「タヴ様、『あなた』という呼びかけは丁寧な表現で『Sie』を使います。『話したいことはありますか?』という場合は、『Möchten Sie etwas besprechen?』と話すのが適切ですよ」
レルネンの助言を聞いたタヴは、軽く頷き、再びそのフレーズを慎重に繰り返してみる。
「Möchten Sie etwas besprechen……?(何かご相談はございますか……?)」
その言葉にゼーリエの表情はあからさまに呆れ返っていた。椅子の上で再び身じろぎし、明らかに苛立った表情でタヴを睨んだ。
見かねたファルシュが控えめに口を挟んだ。
「タヴさん、『besprechen』の『spre』の部分は、もう少し柔らかく、唇を軽く丸める感じで発音すると、より自然になりますよ」
ファルシュの穏やかな指摘にタヴは再び口元で何度か練習すると、小さく頷いて三度目の挑戦をする。
「Möchten Sie etwas besprechen……?(何かご相談はございますか……?)」
多少は改善したものの、ゼーリエの苛立ちは収まる気配がなかった。
「まさか、その覚束ない言葉で会話を続ける気か?冗談じゃないぞ……!」
ゼーリエの鋭い言葉に、タヴはわずかに口元を引き締めた。彼自身も、このまま会話を続けるのが現実的ではないことを理解していたが、他に手段が思い浮かばず、わずかに困惑している様子だった。
ゼーリエは深いため息をつき、やや呆れつつも仕方ないというような表情で手を掲げる。
「もういい。このような無様な会話を続けるのは不毛だ。《エレクティオリンガ(思念を重層翻訳する魔法)》」
その言葉と共に、ゼーリエの指先から透明で精巧な魔力の波動が放たれ、タヴの額へと染み込んでいった。その瞬間、タヴの意識の中には驚くほど精緻で滑らかな思考が流れ込み、明晰な理解が広がった。タヴは軽く息を吐き、《Tongues(言語会話)》を静かに解いた。そして、感嘆の念を隠せない表情でゼーリエを見返す。
「相変わらず凄い魔法だな……助かる」
ゼーリエは再び頬杖をつき、いささか不機嫌そうに視線を戻した。
「最初からこうすればよかったな。まあいい、これでようやくまともな話ができるというものだ」
タヴは改めて、真正面からゼーリエを見据えた。これでようやく、この異世界の大魔法使いと正確に対話することが可能になった。ゼーリエは場の緊張がほどけてきたことを確認すると、小さな息を吐いて姿勢を正した。幼げな外見とは裏腹に、その瞳には長い年月を生き抜いた大魔法使いらしい鋭さが宿っている。
「さて、そろそろ本題に入るとしよう。お前をここへ呼び出した理由は、ギスヤンキやマインド・フレイヤーのことだけではない。より厄介なことが起きている」
ゼーリエの声音は淡々としていたが、明確な警戒心が滲み出ていた。その言葉にタヴは表情を引き締めると、わずかに身を乗り出す。
「厄介なこと……?具体的には何だ?」
ゼーリエは目を細め、注意深く言葉を選んだ。
「既に討伐されたはずの魔族が蘇り、再び姿を現したという報告があった。最近の話だ」
タヴの眉が微かに動いた。彼は文書館やこれまでの旅の道中、フリーレンやフェルンから魔族についての知識を得ていた。ある程度の予備知識はあるが、明らかに深刻な事態だということは即座に理解できる。
「討伐されたはずの魔族……?魔族という存在についてはある程度把握しているつもりだが……魔族はその肉体が魔力そのもので構成され、死と同時に魔力が完全に散逸し、物理的な遺骸は残らないと認識している。それが今、アンデッド化してるということか?」
ゼーリエはゆっくりと頷き、その理解が正しいことを認めた。
「その通りだ。魔族は人間やエルフのように明確な物理的肉体を持たず、存在そのものが純粋な魔力で構成されている。ゆえに死体を媒介とした死霊術の類でアンデッド化させることは、理論上不可能だ。私がこれまで経験した事例でも、その例外はない」
タヴはさらに深刻な表情で尋ねる。
「通常の死霊術とは異なる何らかの方法で魂か魔力核を呼び戻し、新たに身体を再構築した可能性があるということか?」
ゼーリエは重苦しい沈黙をわずかに置いた後、改めて言葉を紡ぐ。
「その可能性は大いにある。ただ問題は、誰が、あるいはどの組織が実行しているかという点だ。それがまるで掴めていない」
タヴは深く息を吐き、慎重に言った。
「……どの魔族が再び現れたんだ?」
ここでレルネンが控えめに咳払いをして、一歩前に出ると静かな口調で答える。
「確認されているのは二体です。一体目はグラナト伯爵領付近で確認された断頭台のアウラ。もう一体はグレーセ森林で確認されたクヴァールです。いずれも完全に討伐されたはずでしたが、現在の彼らには明確な意思が存在せず、まるで操り人形のように動いています」
タヴはフリーレンたちとの会話を思い返した。確かに彼女らは、アウラやクヴァールといった魔族を討伐した話をしていた。この二体は単独で大陸の秩序を根底から揺るがすほどの脅威だったらしい。そのような魔族が再び出現したとなれば、状況は予想以上に深刻だ。
「操り人形のように……か。わざわざ俺を呼んだということは、死んだ魔族が蘇った現象について、俺のいた世界の魔法が絡んでいること考えているのか?」
ゼーリエは冷静なまま厳しい口調で返す。
「そうだ。私が知るものとは明らかに異質な点が多い。この世界で知られている死霊術の範疇を超えている」
タヴはさらに問いかけた。
「具体的にはどんな現象が起きている?」
するとレルネンが穏やかに説明を始める。
「まず、断頭台のアウラについてですが、彼女は我々の世界には存在しないと思われる魔法を使用しました。中心から黒く禍々しい波動が円状に広がり、その範囲内にいた兵士たちの生命力を一瞬で奪い去ったのです──さらに、その魔法に触れた兵士の肉体を別の何かへと変質させる現象も確認されています」
その話を聞いてタヴは眉間にしわを寄せ、考えを口にする。
「生命を奪い尽くす魔法は、《Circle of Death(死の輪)》というものだろう。だが、兵士を変質させる現象は……よく分からないな。少なくとも俺が知っている魔法に、完全に一致するものはない」
レルネンは真摯に頷き、さらに話を続けた。
「さらに奇妙なのは、兵士たちが幼子のような、壊れた囁きを聞いたという報告もあります。その声の正体については未だ解明できていません」
ゼーリエは鋭く補足する。
「アウラは生前、《アゼリューゼ(服従させる魔法)》という特殊な魔法を使用できた。この魔法は自分と対象の魂を天秤にかけ、魔力の大きい方が相手を半永久的に支配することが可能だ。その魔法が何らかの理由で変質した可能性も考えられる」
タヴは慎重に頷いた。
「それは確かにありえるかもな」
レルネンは落ち着いた声で補足を加えた。
「もう一体のクヴァールに関しても、非常に厄介です。彼は緑色の光線を放ち、対象を塵に変えるほどの強力な魔法を使いました」
タヴは即座にその魔法を推測した。
「それはおそらく、《Disintegrate(分解)》だろう。光線が触れた対象の物質を瞬時に分解し、塵に変える魔法だ」
それに対し、レルネンは穏やかながら深刻な表情で続けた。
「あなたが推測したその魔法もまた、この世界には存在しないものです」
ゼーリエは隣で腕を組み、わずかに唇の端を吊り上げ、小さく溜息を漏らしながらタヴを見つめた。
「何はともあれ、状況は極めて深刻だということだ。……まあ、私にとっては久々に退屈しない日々が来たとも言えるがな」
タヴは再び重い沈黙の中で考えを巡らせた。彼の表情は、目の前に迫る問題の複雑さと、それを引き起こしているであろう何者かへの強い警戒を示している。
「俺のいた世界の魔法が絡むとなれば、ギスヤンキやマインド・フレイヤーの侵略と無関係ではないかもしれない」
タヴは一拍置き、視線を上げて続ける。
「だが、ギスヤンキやマインド・フレイヤーは自らの戦術や目的に固執する種族だ。異界の魔族を蘇らせたり、この世界の魔族特有の魔法を融合させたりするような、複雑で手の込んだ真似を好まない。奴ら自身の行動様式とは合致しないからな。つまり、この状況を巧妙に操る何者かが別にいる、と考えるのが自然だろう」
レルネンは穏やかに頷き、慎重に言葉を選んだ。
「我々も同じ結論に達しています。そこで、タヴ様のお力を借りたいのです」
タヴはレルネンの目を真っ直ぐに見つめ返す。
「協力、か……具体的に何をすればいい?」
ゼーリエは厳しい目つきをタヴに向けたまま、淡々と告げた。
「私たちと共に異界由来の魔法を解析し、その背後にいる組織や術者を特定し、排除するための協力をしてほしい。当然、ギスヤンキやマインド・フレイヤーへの対処も含まれる。その対価として金銭的な支援は惜しまないし、お前が元の世界に戻る方法を探す協力も改めて約束しよう」
タヴは少しだけ目を閉じ、フリーレンたちの姿を脳裏に思い描いた。短い時間ではあったが、彼らと共に過ごした時間が胸に蘇り、その穏やかな信頼に応えたいという想いが静かに湧き上がる。
(フリーレンたちにこれ以上迷惑はかけられない──そして、この世界にもだ)
静かに瞳を開くと、明確な決意をもって答える。
「……分かった。引き受けよう」
ゼーリエはその答えに満足げに小さく頷いた。しかしすぐに視線をわずかに落とすと、改めて表情を渋くした。
「それともう一つだ。お前、もう少しまともな服装をしろ。都市の住民や兵士からボロボロの服を着た盗賊のような男がいると苦情が何度も来ている。面倒ごとを増やすな」
タヴはその指摘を受け、ばつの悪そうな表情で深く頭を下げた。
彼自身、《Prestidigitation(奇術)》の魔法で汚れや臭いを除去し、《Mending(修繕)》で布地の裂け目や破れを修復していた。《Prestidigitation(奇術)》は初心者向けの簡単な魔法で、汚れを落としたり小さな炎を点したりといったごく簡単な効果を生む。
一方の《Mending(修繕)》は裂けたり壊れたりした小さな物体を元通りに直せるが、完全に失われた布地や素材までは復元できない。そのため、修復を重ねたところで依然として服は擦り切れており、見苦しい姿であることに変わりはなかった。
「それは……本当に申し訳ない」
ゼーリエは彼の服の傷み具合を観察すると、僅かに視線を逸らし、やや申し訳なさそうに付け加えた。
「まあ、確かにその服がよりボロボロになったのは、私との模擬戦が原因でもあるがな。ファルシュ、すまないが着替えを用意してやれ」
ファルシュは微笑を浮かべ、穏やかに一礼する。
「かしこまりました。着替えはこちらで準備させていただきますので、ご安心ください」
部屋に軽やかな空気が戻る中、タヴは新たに課せられた使命を胸の中に静かに深く刻み込んだ。
*
黄金郷ヴァイゼの周辺は、朝の陽光が差し込む中、無残な惨劇の舞台と化していた。
ギスヤンキの兵士たちは、異界の魔族であるソリテールとリヴァーレによって圧倒され、陣形はとうに崩壊していた。半数以上が致命傷を負い、鮮血と死の匂いが戦場を満たしている。
ギスヤンキ・ナイト──部隊を指揮する隊長格の兵士は、部下たちの返り血を浴びて真紅に染まった鎧を纏いながら、銀色の剣を固く握りしめ、激しい怒号を飛ばした。
「All units, retreat immediately! Fall back to the phase anchor and secure all recording devices! No data must fall into enemy hands!(全員即座に撤退しろ!位相アンカーまで後退し、すべての記録装置を回収せよ!データを敵の手に渡すな!)」
その命令に従い、生き残ったギスヤンキ戦士たちはそれぞれの判断で散開しながら後退を開始した。しかしソリテールはそれを冷ややかに見下ろし、静かに、だが確実に死刑宣告を告げるように呟いた。
「ここで逃がすわけにはいかないわ。あなたたちに情報を持ち帰られると、厄介だから」
次の瞬間、ソリテールが詠唱を終えると空中に無数の魔法陣が展開され、そこから鮮烈な光の柱が次々と地上へ降り注いだ。逃げ惑う兵士たちは背後から容赦なくその魔力に焼き尽くされ、ある者は絶叫と共に倒れ、またある者は跡形もなく吹き飛ばされる。
リヴァーレはその惨劇を楽しげに眺めつつ、無情な槍の一撃で残る兵士を次々と仕留めていった。
「どうした、もう終わりか?退くとはつまらぬな!」
槍が風を裂き、兵士たちは瞬時に命を奪われる。彼らが命がけで守ろうとした記録装置も、リヴァーレの攻撃により次々と粉砕され、情報漏洩の可能性は完全に絶たれた。
やがて、戦場に立っているのはギスヤンキ・ナイトただ一人となった。ナイトは剣を握る手を震わせつつも、鋭い眼差しをリヴァーレに向けて構え直した。その気迫に、リヴァーレは僅かに笑みを浮かべて興味深げに見据える。
「貴様はなかなか腕が立つようだな。最後に俺と一騎打ちをしようではないか?」
しかし、その言葉はギスヤンキ・ナイトには理解できず、苛立ちながらリヴァーレを睨み返す。
「Speak clearly! I cannot understand your damned tongue!(はっきり話せ!お前たちの忌々しい言葉は理解できん!)」
ナイトは苛立ちを隠さずに左手を掲げ、即座に意識を集中させた。短く鋭い思考を走らせると、魔法というよりも念動に近い力が内側で形を取る。《Tongues(言語会話)》──それは詠唱も身振りも要さぬ、ギスヤンキ固有の《Psionics(超能力)》だった。言葉の壁が意識から消え去る感覚を確認しつつ、ナイトは剣を構え直して低く問い返した。
「……もう一度言え。望みは何だ?」
リヴァーレは楽しげな表情で再び告げる。
「一騎打ちを所望する、と言ったのだ。お前の剣技、最後まで存分に味わわせてもらおう」
ナイトはその言葉を聞くと、瞬時に状況を冷徹に分析した。稼働中の位相アンカーまでの距離、敵との実力差──全ての可能性を瞬時に計算し、生還の可能性は絶望的だと結論付ける。
(位相アンカーまでは到底たどり着けない。ここで自分が生き残れる可能性はゼロだ。しかし、無意味に死ぬわけにはいかぬ。ヴラーキス様に忠誠を誓った戦士として、名誉ある死を迎えねばならない)
彼の目的は明確だった。
(まず、この敵を少しでも深手、あるいは相打ちに追い込み、次の調査隊が容易に侵攻できる状況を作り出す。次に、自分の遺体と武器、記録装置を完全に破壊し、敵に一切の情報を渡さない。その二つを同時に達成できる策は……)
ナイトは手に握った銀色の剣の柄を静かに確認した。そこには事前に仕込んでおいた《Delayed Blast Fireball(遅発火球)》のルーンが微かな魔力を帯びながら鼓動するように輝いている。
《Delayed Blast Fireball(遅発火球)》──術者が任意で爆発のタイミングを設定できる強力な火炎魔法で、起動後は莫大な熱量を蓄積し、指定時間に一気に解き放ち周囲を焼き尽くす。術者自身をも巻き込むほどの威力を持つ。
このルーンはナイト自身が仕掛けたものではない。司令部が特殊な作戦においてのみ、あらかじめナイト級の中でも高戦技・高忠誠の査定を通過した個体に限定して仕込んでいたものだ。
撤退手段が不安定な敵地深部への偵察、暗殺、強襲任務などに派遣される者にだけ施される処置であり、万一の際に敵に情報を与えないことを最優先するギスヤンキ軍特有の措置だった。
司令部は「持ち帰るべきデータが皆無になったときのみ使用」と明文化し、通常は使用前に《Sending Stones(送信石)》で即時報告し、承認を得る規則であった。しかし、この封鎖次元においては即時の報告が不可能であり、現場判断での使用が許容されている例外的な状況だ。
ナイトは冷静に自身の任務プロファイルを頭の中で再確認すると、静かな決意を胸に秘めながらルーンの魔力を高め始める。
彼はそれこそが、敵に情報を渡さず、強敵にも一矢報いる──ギスヤンキとしての功利的な判断と、誇り高き戦士としての名誉を同時に満たす、唯一の選択だと直感していた。
ナイトは静かにリヴァーレの目を見据え、厳かに答えた。
「良いだろう。その挑戦、受けて立とう。貴様の強さ、この身を以て確かめさせてもらう。我が名はヴォラキス・アヴァール。この名を覚えておけ」
リヴァーレは笑みを深め、手に持った槍をゆっくりと掲げる。その瞬間、槍の柄が黒い光を帯び始め、見る見るうちに形状が変化していった。鋭い穂先は刀身へと広がり、柄は伸び、漆黒の両手剣へと姿を変える。敵と同じ武器を使うこと──それがリヴァーレなりの敬意の表し方だ。
(魔力による武器の変形か──敵ながら見事な技だ。だがそれ以上に警戒すべきは奴の膂力と速度)
ヴォラキスは自身の呼吸を整え、心中に渦巻く緊張を鎮めてゆく。ギスヤンキ流の冷徹な戦術が脳裏に冴えわたり、わずかな迷いすらも排除していく。
「ヴォラキスか。俺の名はリヴァーレ。誉れ高き異界の戦士よ、貴様に敬意を表し、この剣で相手をしてやろう。ソリテール、邪魔はするなよ」
ソリテールは微かな笑みを浮かべ、上空から静かに頷いた。
「ええ、あなたの楽しみを奪うつもりはないわ」
全身に張り詰めた緊張感が広がり、鋭い呼吸が肺を満たす。目の前に立つ黒服の魔族が余裕の笑みを浮かべているのを視界の隅に捉えながら、ヴォラキスは感覚を極限まで研ぎ澄ましている。
リヴァーレが地を蹴った刹那、その巨躯が一瞬にしてヴォラキスの眼前へと迫る。瞬きすら許されぬ間合いの詰め方だった。ヴォラキスは精神の力を即座に全身に漲らせる。
「《Psionic Power(サイオニックの力)》」
鍛錬により体得した《Psionics(超能力)》を剣技に融合する戦士──《Psi Warrior(サイキック戦士)》である彼は、その念動の力を駆使して身体の周囲に透明な防護の力場、《Protective Field(防御力場)》を展開した。その力場に支えられた強靭な剣技で、ヴォラキスはリヴァーレが振り下ろした黒剣の斬撃を寸前で迎え撃つ。
両者の刃が激しく衝突し、甲高い金属音が周囲の大気を鋭く裂いた。しかし、その凄まじい衝撃を完全には抑え切れず、ヴォラキスの鎧には鋭い裂け目が刻まれ、全身に鈍い痛みが走った。
「ぐっ……!」
それでも彼の瞳に恐怖や動揺は一切浮かばなかった。ヴォラキスは即座に次の動作に移行する。念動力を全開に放つことで周囲に散乱していた破片や武器を自在に操り、一斉に宙へと浮き上がらせる──《Telekinetic Movement(念動の移動)》だ。
それらが猛烈な勢いでリヴァーレに向かって飛来した。だがリヴァーレは興味深げに微笑むと、舞うような軽やかな動きで攻撃を悠然と回避し、さらに勢いを増してヴォラキスへ再度斬り込んでくる。
「その程度か、ヴォラキスよ! もっと俺を愉しませろ!」
ヴォラキスは歯を食いしばり、銀剣で攻撃を《Parry(受け流し)》しようとする。だが、タイミングが僅かにずれ、リヴァーレの黒剣の軌道を逸らしきれず、まともに受け止める形になってしまった。その圧倒的な剛力に徐々に押し込まれ、膝が地面に沈み込み始める。
(くそ、まだだ……!ここで倒れるわけにはいかん!)
彼は自身の体内に眠る最後の力──ファイターの戦技である《Second Wind(底力)》を発動させた。瞬間的に肉体が限界を超えた回復を行い、ヴォラキスは再び立ち上がった。深く裂けた傷口が塞がり、身体に再び活力が戻る。
ヴォラキスは立ち上がるや否や、さらに鋭い攻撃を仕掛ける。再び念動力がその肉体を満たし、銀剣の刃に強力な推進力を加える──《Psionic Strike(サイオニックの一撃)》だ。その一閃はリヴァーレの黒剣を弾き飛ばし、強烈な衝撃を与えた。リヴァーレの身体が僅かに後ろへよろめいた隙を突き、ヴォラキスは即座に間合いを再調整する。
(今だ──距離を保ち、こちらの攻撃範囲に誘い込む)
しかし、リヴァーレの表情に焦りはなく、むしろ高揚が増していた。彼は低く笑いながら再び接近し、猛烈な速度で斬撃を繰り出した。
ヴォラキスは再度《Protective Field(防御力場)》を展開するも、度重なる衝撃に念力の壁が徐々に弱まっていくのを感じていた。それでも彼の戦略は変わらない。ただ一つの勝機──剣に仕込んだルーンが十分な力を蓄積するその瞬間を、ひたすら待ち続けている。
(あと数秒だ……あと僅か……!)
再び強烈な斬撃が襲いかかり、ヴォラキスの念動防御が破れ、剣が彼の肩を深く裂いた。鮮血が舞い散り、鎧はますます深刻な破損を見せるが、彼の表情に焦りはなかった。
(まだ戦える。命を捨ててなお、ヴラーキス様のために果たすべき務めがある──)
ヴォラキスは強靭な精神力で自身の意識を一点に集中し、《Psionic Power(サイオニックの力)》を最大限にまで引き上げた。彼の身体が青白い念動力の光で包まれ、その力を乗せた剣撃がリヴァーレを激しく打ち据える。
その強烈な一撃が刃を交錯させ、二人は完全に動きを止めた。その瞬間、ヴォラキスの瞳に初めて微かな安堵が浮かんだ。彼は静かに、しかし明確に呟いた。
「Queen Vlaakith, accept my soul……!(女王ヴラーキス、我が魂をお受け取りください……!)」
剣の柄に刻まれたルーンが赤く脈打ち、即座に起動した。柄の部分から強烈な魔力の輝きが漏れ出す。その異変に気付いたリヴァーレは一瞬目を見開き、《飛行魔法》で即座に身を引こうとする。
だがヴォラキスはその瞬間を逃さず、残った全身の力と《Telekinesis(念動術)》を総動員してリヴァーレの身体を強引に拘束する。透明な念動の圧力がリヴァーレの四肢を掴み、空中で硬直させた。
その状況に気づいたリヴァーレは、驚くどころか歓喜に満ちた笑みを浮かべ、愉快げに高笑いを上げる。
「自爆か!最期まで実に楽しませてくれる!」
ヴォラキスもまた誇り高きギスヤンキとして、その言葉に静かに、しかし揺るぎない決意で応えた。視線に恐怖はなく、己の運命を受け入れた戦士の穏やかな覚悟だけが宿っている。
「ギスヤンキを侮るな。我らの勝利、決して貴様らには渡さん!」
剣の柄から強烈な爆発が放たれるその刹那、リヴァーレは即座に身を守る《魔力の壁》を展開し、同時に《飛行魔法》で猛烈な勢いで後方へ退いた。念動力の拘束が僅かに緩んだ隙を見逃さなかったのだ。辛うじて致命傷を回避したものの、彼の全身は深い火傷で焼け焦げていた。それでもリヴァーレはその焼け焦げた身体を震わせながら満足げに笑う。
「見事だ……ヴォラキス、その誇り高き魂に敬意を表そう」
上空からその光景を冷静に見下ろしていたソリテールは、小さく呟く。
「ギスヤンキ──想像以上に恐ろしい種族ね。次はより慎重な対策が必要だわ」
戦場には再び沈黙が降りた。魔族たちは次なる局面に備え、その余韻の中で静かに時を刻み続けた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。