次元を超えた無数の世界が交錯する多元宇宙の中央に、多元安定機構の巨大な監視室が広がっている。壁も天井もなく、作業卓の向こうには銀河と星雲が視界の果てまで連なっていた。
今は警告表示が作業卓を赤く染め、報告の声が重なっていた。
淡い光のホログラムが無数に浮かび、赤や紫の警告色が不規則に点滅する。低い警報音が途切れず鳴り続ける。星の位置を扱う調整者が消えかけた座標を作業卓へ留め、隣の者は断たれた次元接続へ救援要請を結び付けていく。
混乱の中心で、主任調整者アルヴァンが情報群に視線を走らせている。長身で痩せたその男は、消える前の警告を指先で拾い上げ、被害の大きい順に作業卓へ並べ直していた。
若い調整者フィンリアスが《送信石》を握り、アルヴァンのもとへ急ぎ足で来る。石を握る指の関節が白くなり、最初の一語が上擦った。
「主任、各次元領域からのデーモンの侵攻報告が急激に増加しています。特に深刻なのは次元境界面における侵食の加速です。各地の結界が破られつつあり、各方面からの支援要請が絶え間なく入っています」
アルヴァンは並べた警告のうち、同じ紋を持つものを指先で結ぶ。赤い線は幾つもの次元を跨ぎ、一つの侵攻経路になった。
「やはり組織的な侵攻だ。元凶はレッド・ウィザーズのオルクス派で間違いないだろう。しかし、この規模は人間の魔道士集団だけでは説明がつかない。背後には強力な悪神が存在していると考えるべきだ」
記録板を走っていたペンが一斉に止まり、次の警報音でまた動き出す。アルヴァンは作業卓の端まで声を通した。
「直ちに非常態勢『次元危機レベル:アルファ』を発令する。全員、《Clairvoyance(透視・透聴)》を最大範囲で展開せよ。各次元界の重要地点に観測点を設定し、広域に渡る状況把握と迅速な情報収集に努めよ」
指示を受けた各拠点では、術者が警告の上がった門や街道へ《Clairvoyance(透視・透聴)》の感知点を据えていく。連絡係は見えたもの、聞こえたものを要点に区切り、一件ずつ監視室へ送った。調整者たちは届いた報告を座標へ結び、同じ軍勢を捉えた観測を重ね合わせていく。
アルヴァンは室内の動きを一度見回し、監視室の奥にある区画へ向かう。そこには、神々との交信に用いる白銀の祭壇が据えられていた。盆には清浄な聖水が張られ、神託の媒体になっている。
アルヴァンは祭壇の前に立ち、両手を広げて祈念の言葉を唱える。聖水の表面が細かく波打ち、淡い光が立ち上がった。
聖水の上に、秩序と守護の神ヘルムの聖印が浮かび上がる。鋼鉄の眼を象るその紋は、線の一本まで明瞭だ。続いて、死と裁定の神ケレンヴォーの天秤と骨の紋章が隣に形を成した。
祭壇の前では誰も身じろぎせず、まずヘルムの声が響いた。
「多元安定機構よ。事態は我々神々が予見したより遥かに深刻である。次元境界への侵食が加速度的に拡大している」
続いてケレンヴォーが、抑揚を一切変えずに告げた。
「既に死者の管理を超える範囲に至っている。この侵攻を支える力は尋常ではない」
アルヴァンは頭を垂れ、二つの聖印を順に見てから問い返す。
「我々もその認識で一致しております。ですが、デーモンプリンス・オルクスの配下のみとは到底思えません。《上級神格》級の悪神が背後にいると推測していますが──」
短い沈黙ののち、ヘルムの聖印が一度明滅し、先ほどより低い声が響く。
「その通りだ。我々が察知したのは、シャーとシアリックの気配である」
混乱と欺瞞そのものを好むシアリックと、長い時間をかけて喪失を仕組むシャーでは、同じ破滅を望んでも手段は噛み合わない。互いを利用するにしても、片方が片方の筋書きに収まる神々ではなかった。
その名が並んだ瞬間、背後の報告が一拍だけ途切れた。ケレンヴォーは間を置かず付け加える。
「シャーとシアリックが結託するのは極めて稀だ。それほどまでに、閉ざされた次元には特別な何かが存在するのだろう」
アルヴァンは頭を垂れた姿勢のまま、顎を一度引く。
「神々のご支援に深く感謝申し上げます。秩序維持のため、我々も全力を尽くします」
聖印の光が薄れ、交信が途切れた。フィンリアスは消えた紋を見たまま、語尾をためらって問いかける。
「主任、しかし……たったひとつの閉ざされた次元のために、神々までもが巻き込まれるとは……その世界には、そこまでの価値があるのでしょうか?」
アルヴァンは聖水に残る二つの波紋が消えるまで待ち、ゆっくりと言葉を返す。
「価値か……。神々すら動かす何かが、あの世界にはあるのだろう。秩序と混沌が交差する特異点。それが何なのか、我々にもまだ分からない」
アルヴァンは祭壇から離れ、監視室の中央に戻る。全員に届く声で命じた。
「これより全ての次元監視拠点および関連次元組織に大動員令を発令する。これは勧告ではない、強制力を伴う命令だ。《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》を即時展開し、各次元間の防衛と侵攻の抑止を最優先に行動するよう通達せよ」
命令を受け、監視室の外に並ぶ《Teleportation Circle(瞬間移動の魔法円)》へ次々と光が走る。行き先の印を照合する声が響き、招集に応じた者たちが装備を抱えて円の向こうへ消えていった。帰還してきた術者と負傷者を迎えるため、空けられた円もある。どの円をどの戦場へ繋ぐか、調整者たちは刻々と変わる被害に合わせて割り振りを変えていく。
フィンリアスが言いよどみながら確認する。
「主任、退役した構成員や既に隠居した英雄たちにも接触を?」
アルヴァンは迷いなく言い切る。
「当然だ。これは緊急事態だ。可能な限りの戦力を動員しなければならない」
その直後から、監視室に緊急報告が次々入る。
「次元1342-A、デーモン軍勢が数千規模で出現!」
「次元2941-D、封印結界の崩壊寸前! 即座の追加支援を!」
アルヴァンは一つ目の報告へ増援を、二つ目へ退避路の確保を指示する。最後にフィンリアスへ正面から向き直った。
「我々が求めるのは勝利ではない。多元宇宙の秩序を守り抜くことだ。例えどれほどの犠牲が出ようと、我々の使命は不変である」
*
地の底深く、人々の記憶から隔絶された闇の聖堂で、青白い炎が淡く灯っている。湿り気を帯びた黒い石壁には鈍い赤の文字が浮かび、一定の間隔で明滅している。天井の闇は照明が届かず、奥行きが判別できない。
聖堂の中央には魔道士たちが集まり、深紅の高襟ローブをまとっている。ローブには黒と金の縁取りが入り、統一された装いだ。彼らの頭は剃り上げられ、頭皮から首筋にかけて紅と黒の呪紋が緻密に刻まれている。指には印章指輪が並び、金属の光の下で術式の印が鈍く反射した。
胸元には銀糸で織り込まれた髑髏と山羊の角の紋章がある。死と不死の魔王オルクスへの忠誠を示す、レッド・ウィザーズ・オルクス派の印だ。彼らは背筋を伸ばし、組んだ手の高さまで揃えている。誰の視線も、正面に立つ司祭長セヴェルスから外れない。
魔道士たちの前に立つのは司祭長セヴェルスだ。参列者の視線が自分へ揃うのを待ち、重い声で語り始める。
「兄弟姉妹よ、ついに待ち望んだ刻が訪れた。我らが偉大なる主オルクス様の御心のままに、多元宇宙を真の混沌と死の支配へと導くための扉が、いま開かれようとしている」
声が聖堂に響き、参列者は顎が胸元へつくほど深く頭を垂れる。セヴェルスはその列を端まで見渡し、言葉を継いだ。
「諸君も知る通り、我々は既に各地の拠点で《Gate(次元門)》の儀式を展開している。しかし、それは陽動にすぎない。我々の真の狙いは、あの忌まわしい女神が強固に封じた次元を内側から破壊し、恒久的な道を開くことだ」
列の間に低いざわめきが走る。その中から高位魔道士が一人だけ顔を上げ、問いかけた。
「司祭長、それほどのことを可能にする力とは……まさか、かつての実験体が?」
セヴェルスは顎をわずかに引き、問いの主が目を逸らすまで見据える。
「その通りだ。あの実験体は今、タヴと呼ばれている。闇から届いた囁きがその名と居場所を示し、ターロス様の啓示が使い道を告げた」
列のあちこちで肩が跳ね、ローブの擦れる音が重なる。セヴェルスは間を置かずに続けた。
「『タヴの内に眠る制御不能な魔力を暴走させれば、混沌の嵐が次元の封印を内側から破壊する』とな」
魔道士たちの囁きが列を行き交い、印章指輪が触れ合って鳴る。セヴェルスは声を一段強めた。
「すでに各地で進められている召喚儀式によって、世界中は混乱と破壊の渦中にある。我々の同志は既に次元内へ侵入している。世界の目が逸れている今こそ、内側から次元の封印を引き裂き、主オルクス様が望まれる永遠の混沌を呼び込むのだ!」
魔道士たちは両腕を掲げ、熱狂の叫びを重ねる。セヴェルスが背を向けて儀式の間へ歩き出すと、深紅のローブの群れが列を崩さず後に続いた。
儀式の間は円形の広い空間だ。床の中央には精緻な門の術式が刻まれ、五千枚の金貨にも値する巨大なダイアモンドが安置されている。その外周を、十数の小さな円が囲んでいた。どの円も術式線の一部だけが開けられ、まだ存在しない対象を迎え入れる形で止められている。
外周の円の前では、拘束を担当する術者が最後の一節を繰り返し、閉じる順序を確かめていた。中央では別の術者たちがダイアモンドを囲み、門を開く詠唱を低く重ねている。
中心に立つセヴェルスは、魔法的な装飾が施された儀式用のダガーを高く掲げ、重々しく宣言した。
「偉大なる混沌の神々よ、この儀式を御覧ください。《Gate(次元門)》を開き、アビスの軍勢をこの世界に招き入れよ!」
その合図と同時に、生贄の若い男女が門の術式へ引き立てられる。二人は目隠しをされ、足をもつれさせながらも、両脇の術者に腕を掴まれて逃げられない。セヴェルスは二人へ目を止め、囁くほどまで声を落として告げた。
「喜べ。お前たちの無価値な命は、偉大な混沌の礎として有意義な最期を迎えるのだ」
刃がためらいなく振り下ろされ、生贄の悲鳴が途絶えた。鮮血が術式を赤黒く染めると同時に、宝石が強烈に輝き、空間に裂け目が広がる。
裂け目の奥から、毛に覆われた巨大な腕が床へ突き出た。続いてバルルグラの頭部と肩が門を押し広げるように現れる。その胸には、まだ何の印もない。血の匂いを嗅ぎつけたデーモンは、最も近い術者へ牙を剥いた。
「来たれ、アビスの尖兵たちよ! 我らが《Planar Binding(他次元クリーチャー使役)》に従い、この世界を混乱と破壊で満たせ!」
外周の術者たちが一斉に掌を返す。床から立ち上がった赤い光壁がバルルグラの突進を横へ逸らし、空いていた小陣へ押し込んだ。開いていた術式線が足元で閉じる。あらかじめ陣へ満たされていた血と呪力が噴き上がり、赤黒い使役印が胸へ焼きついた。
バルルグラは拳で光壁を打ち、咆哮を上げる。印が脈打つたび腕の軌道が鈍り、やがてセヴェルスへ顔を向けた。門から次の影が滲み出る。腐臭を纏うヘズロウも別の小陣へ追い込まれ、同じ拘束の印を刻まれていく。
一体ずつ、召喚と拘束が繰り返された。最後のデーモンを縛り終えると、地上へ続く扉が開かれ、小陣の壁が順に消える。解き放たれた尖兵たちは術者を引き裂こうと身を捩ったが、胸の印に引かれ、石の通路へ向きを変えた。
「好きなだけ殺し、破壊し、世界を狂気と混沌で満たせ! これは陽動に過ぎぬが、遠慮など無用だ!」
セヴェルスの命令に引かれ、最後のデーモンまで儀式の間を飛び出す。爪音と咆哮は枝分かれした通路へ散り、やがて地上の遠い悲鳴と重なった。
最初の門に呼応して、世界各地の拠点でも術式が次々と輝く。裂け目から姿を現したデーモンが拘束陣へ追い込まれ、印を刻まれた後、街道や砦へ放たれていく。救援要請が各組織へ押し寄せる一方、追跡魔法は血に濡れた儀式陣へ届く前に像を失った。シャーとシアリックの祝福が門の痕跡を覆い隠し、防衛組織と多元安定機構は発生源を掴めぬまま、別々の戦場へ戦力を割いていく。
式を終えたセヴェルスは、叫び続ける魔道士たちが口を閉じるまで待ってから宣言した。
「舞台は整った。世界の目が陽動に逸れている今、我々の真の目的が動き出す。閉ざされた次元でタヴを暴走させ、次元の封印を内側から破壊するのだ!」
魔道士たちは歓喜の雄叫びを上げ、司祭長へ両手を伸ばす。セヴェルスは顔をわずかに伏せ、叫びに埋もれない低さで囁いた。
「全ては主オルクス様と混沌の神々の御心のままに……多元宇宙はまもなく、永遠の死と狂気に包まれるだろう」
*
石造りの建物の正面には太い柱が並び、柱頭から扉枠まで杖と魔法陣の浮彫りが刻まれている。大陸魔法協会北部支部──北側諸国の魔法の中枢であり、多くの優れた魔法使いが集う場所だ。
数日前、ゼーリエの要請で正式に協会の協力者となったタヴは、敷地内に与えられた住居を出て、紺色のローブ姿で本館へ向かった。袖口の刺繍は控えめで、目立たない意匠だ。
正面扉の先にある大広間には、魔法使いや軍関係者の抑えた声が行き交っていた。タヴが列の後ろへ入ると、壇上のレルネンが協会の決定を告げ始める。
「現在、我々が直面する事態は極めて深刻であり、従来の知識と能力だけでは解決困難な状況です。よってゼーリエ様の判断により、異界の魔法に精通したタヴ様を正式に協会の助力者として迎え入れ、今後の作戦に全面的に参加していただくこととなりました」
その発言で、広間は一気にざわめいた。若い魔法使いや軍関係者の列から、押し殺しきれない声が次々に上がる。
「本気か……? 異界人を協会の正式な協力者として認めるだと?」
「彼の出自や能力は本当に信頼できるのか?」
「なぜ我々を差し置いて、外部の者に任せる必要がある?」
囁きがあちこちで交錯し、タヴを見ていた何人かが露骨に顔を背けた。タヴは壇上のレルネンから目を逸らさず、指先だけを強く掌へ食い込ませた。
レルネンはざわめきを抑えるようにゆっくりと手を上げ、声を張らずに話を続けた。
「皆様の戸惑いは承知しています。しかし、ゼーリエ様は慎重なご判断の末、この結論を下されました。タヴ様の協力は、我々が直面する未知の脅威を解決するために必要不可欠なものなのです」
広間の騒ぎは徐々に収束したが、タヴと目が合う者はいない。彼は身じろぎせず、沈黙を守った。
レルネンはざわめきの残る広間を見渡し、語尾を一つずつ区切った。
「我々の目的は、大陸の平和を守ることです。そのためには偏見や不信感を捨て、一致団結することが求められます。皆様の協力と理解を強く求めます」
言葉が終わっても、返事はなかった。人々はタヴから目を逸らして俯き、彼が見渡しても視線を返さない。協力者という肩書きだけで、この場に受け入れられたわけではなかった。
翌日、タヴはオイサースト郊外の調査拠点へ派遣された。拠点は臨時に建てられた簡素な監視塔を中心に、いくつもの天幕が整然と並んでいた。オイサーストの街から程近く、近隣の森や丘陵を見渡せる場所に設営されたこの拠点は、異界の脅威と蘇った魔族を調べる最前線の一つである。
タヴが拠点に着くと、調査隊を率いる現場指揮官アロイスが天幕の前で待っていた。中年のベテラン兵士であり、精悍な顔には激戦が刻んだ深い皺が走っている。タヴが挨拶できる距離まで来ると、アロイスが先に声をかけた。
「君が例の異界人か」
アロイスは名乗りを返さず、そのまま低い声を浴びせる。
「いいか。我々が今置かれている状況は極めて厳しい。協会の上層部がどのような考えで君のような者を信用しているのか知らないが、現場を預かる私としては異界の者を信用できない」
タヴはアロイスから目を逸らさない。
「……俺がここにいるのは、あくまで協力するためだ。邪魔をするつもりはない」
アロイスはタヴが言い終えると、間を置かず言葉を重ねた。
「口では何とでも言える。私は異界からの襲撃で多くの部下を失った。異界人の助言など聞き入れるつもりはない。余計な口出しをせず、ただ指示に従ってくれ」
周囲の隊員たちも、タヴから距離を取っていく。タヴは言い返さず、一歩引く。その日の調査でも、彼が危険箇所を指すたび、アロイスは手で制して従来の手順を続けさせる。隊員たちはタヴを見ずに先頭へ続き、最後まで進路を変えない。
数日後、タヴは魔法協会北部支部の資料室で、蘇った魔族に関する過去の調査記録を追っていた。《Comprehend Languages(言語理解)》で浮かぶ意味を指先で辿っていると、若手の魔法使いたちが書架の両側から近づき、机の前で足を止める。
「おい、異界人。調査記録をまともに読めるのか?」
タヴは読んでいた行へ指を置き、顔を上げて《Tongues(言語会話)》を小声で唱えた。声がわずかに魔力を帯び、言語の壁を越えて意図が伝わる。
「俺に何か用か?」
それを見た魔法使いの一人が舌打ちした。
「魔法なしじゃ碌に会話もできないのかよ。協会も落ちたものだな、こんな奴に重要な任務を任せるとは」
別の魔法使いがタヴの指の下から資料を引き抜き、胸元へ抱え込む。
「ゼーリエ様や一級魔法使いたちが何を考えているか知らないが、お前みたいな異界人が施設内を我が物顔で歩き回るのは我慢ならない」
タヴは資料を抱える相手の手へ一度目を向け、それから顔を見て返す。
「あんたたちが俺を信用できないのは理解している。だが、協力を引き受けた以上は責任を果たすつもりだ」
若手魔法使いたちは露骨に眉をひそめ、さらに罵倒を浴びせ始める。
「異界人風情が責任だと? この事態も元々お前ら異界の存在が原因だろ。俺たちを馬鹿にしているのか?」
騒ぎがさらに膨らみかけた瞬間、資料室の入口でゼンゼの靴音が止まった。全員が振り向くより先に、その声が割って入る。
「そこまでだ。侮辱的な発言は慎め。タヴは協会の正式な協力者だ。不満があるなら正式な場で意見を述べるように」
ゼンゼの声に、若手魔法使いたちは肩を強張らせ、口を噤んだ。資料を抱えていた一人は紙束を机へ戻し、タヴを横目で睨んでから、その場を去っていく。ゼンゼは彼らの背を見送り、タヴへ顔を向けた。
「彼らはお前自身を見ず、異界からの脅威だけを重ねている。気にするな」
タヴは机へ戻った資料を押さえ、返事の代わりに小さく頷いた。
「理解はしている。だが、このままでは調査も作戦も噛み合わない」
ゼンゼは言葉を挟まず、短く頷いた。会議の時刻が迫っている。彼女は別の用を済ませるため、タヴより先に資料室を出ていった。
タヴは資料室を出ると、廊下の途中で足を止めた。すれ違う魔法使いたちは壁際へ寄り、誰も声をかけない。背後から一定の歩幅で近づく靴音がして、声がかかる。
「タヴ様、そろそろ時間です。会議室へ向かいましょう」
振り返ると、レルネンが数歩先で待っていた。急かすことなく会議室の方角へ身体を向ける。タヴが後に続くと、すれ違う魔法使いがまた壁際へ寄った。会議室の扉の向こうから、幾人もの声と紙を繰る音が聞こえる。
扉が開く。中の声が止まり、円卓から一斉に視線が上がった。
重厚な木製の円卓を囲む高位魔法使いや軍の代表たちは、タヴが入っても席を立たなかった。すでに着席していたゲナウだけが一度目を合わせ、空いている壁際を顎で示す。何人かの視線がその先を追い、タヴの顔で止まった。タヴは息を一つ吐き、示された位置へ立つ。
壇上に立つレルネンの視線が、広間の一角で壁際に立つタヴへ向く。レルネンは落ち着いた声で問いかけた。
「タヴ様、ギスヤンキとマインド・フレイヤーが用いる具体的な戦術や技術、それに対する対策を話していただけますか?」
タヴは一歩前へ出て、円卓の端から端まで顔を見渡す。椅子を引く音が止まるのを待ち、語り始めた。
「ギスヤンキとマインド・フレイヤーは敵同士だが、どちらも次元を渡る手段として位相アンカーと呼ばれる装置を使う。簡単に言えば、次元間に一時的な亀裂を生じさせ、そこから小規模な部隊や物資を送り込むためのものだ」
タヴの言葉に会議場がざわつく。最初に問いを挟んだのは、軍関係者の一人だった。
「その位相アンカーというのは、どちらの種族も全く同じ技術を使っているということなのか?」
タヴは首を横に振った。
「違う。基本的な概念としては似通っているが、技術の詳細や運用方法、文化的な背景はそれぞれ全く異なっている。例えばギスヤンキの位相アンカーを鹵獲してその技術を解析しても、それをそのままマインド・フレイヤー対策に応用することは不可能だ」
ゲナウが口を開いた。
「具体的にギスヤンキが用いる位相アンカーの運用方法や特徴を教えてくれ」
「ギスヤンキは主に戦闘特化型の部隊を送り込むのに使う。短時間のうちに少数で敵地の中枢を攻撃し、司令官や重要施設を速攻で潰す。そのため、位相アンカーも比較的小型で迅速な設置と撤収が可能だ。だが逆に言えば、物理的に破壊されやすい。俺たちの防衛策としては、都市や拠点の重要区画に精鋭部隊を配備し、敵の位相アンカーが設置されると予想される地点に先回りするのが効果的だ」
タヴが軍関係者へ目を向けると、何人かのペン先が紙から離れた。
筆記の止まった円卓で、別の魔法使いが問いを重ねた。
「ではマインド・フレイヤーはどう違うのだ? 奴らが使う位相アンカーはどのような特徴がある?」
「マインド・フレイヤーは物理的な侵攻よりも精神的な侵略を主体にしている。奴らの位相アンカーは魔力や精神エネルギーを送り込むための次元通路として機能する。まずは少数のマインド・フレイヤー自身や眷属を送り込み、その後、精神波動を放つことで現地生物を操り、混乱を誘発することを目的にしている。物理的な破壊だけでなく、魔法的な妨害が不可欠になる」
先ほどより速い筆音が円卓の周囲を巡る。
ゲナウは列席者を見回し、全員へ届く声量で確認する。
「つまり防衛策としては、ギスヤンキに対しては機動的かつ物理的な防衛配置、マインド・フレイヤーに対しては精神攻撃への防御と魔法的な妨害を主軸にする、ということか」
「そうだ。ギスヤンキの奇襲に対しては、司令官や指揮系統を守るため、拠点周辺に防衛部隊を散開配置して迅速に対応できるようにしておくことが肝要になる。加えて、敵の攻撃目標を複数に分散し、戦術的柔軟性を高めることも有効だ」
ゲナウに代わり、年嵩の魔法使いが問いを挟んだ。
「精神攻撃に関して具体的な防御策はあるか? 奴らに操られて味方同士で殺し合うようでは、いくら数を揃えても意味がないぞ」
「マインド・フレイヤーの精神攻撃も、遮蔽物を無視してどこまでも届くわけじゃない。重要な指揮官や魔法使いは、厚い壁や盾で射線を切れる位置に置くべきだ。また、精神干渉へ抗う訓練を部隊全体で重ね、対処できる者を増やしておく必要がある」
軍関係者の一人がペンを置き、タヴの正面へ顔を上げる。
「貴殿の情報は有益だとは思うが、本当に信頼できるのか? 異界の者である貴殿が協力する真の理由を知りたい」
円卓を走っていたペンの音が途切れた。タヴは両腕を下ろしたまま口を開く。
「……俺自身が異界の人間だ。疑われることも仕方ないと思っている」
タヴはすぐには続けなかった。疑われることは覚悟している。それでも、ここで退くつもりはなかった。
「だが、ひとつだけ聞いてほしい。俺は、ギスヤンキやマインド・フレイヤーがどれほど危険な存在なのか、嫌ってほど知ってる。奴らは容赦なく世界を喰らい尽くす。俺の世界は、それで既に多くを失った」
タヴの声に熱が混じる。
「俺がここにいる理由はただ一つだ。もう二度とあの悲劇を見たくない。この世界でも、自分が大切に思うものが壊されるのは、我慢ならない。奴らを排除するためなら、俺は知識や力を貸すことを惜しまない」
最後に彼は小さく肩をすくめ、張っていた息を吐く。
「……まあ、俺を信じるかどうかは、そちらの自由だ。ただ、俺はやるべきことをやるだけだ」
その言葉を受け、ゲナウが続ける。
「タヴを疑う気持ちも理解できる。だが現状で最も信頼できる情報源は彼だ。判断を誤れば手遅れになる。まずはこの情報に基づいて各問題への対処策を考え、その中で情報の真偽を見極めるしかないだろう」
ゲナウが言い終える頃には、疑問を口にしていた軍関係者も資料へペンを走らせていた。レルネンは次の指示へ移った。
「位相アンカーの破壊、ギスヤンキの奇襲戦術、マインド・フレイヤーの精神攻撃への対処を速やかに進めます。タヴ様の情報を活用し、団結して事態に当たっていきましょう」
資料へ筆を走らせながらも、何人かはタヴのいる側へ顔を向けない。彼は壁際へ戻らず、その場で次の質問を待った。
*
森は静まり返り、淡い朝靄が木々の間に漂っている。山間の森林地帯はどこまでも穏やかで、外の気配が入り込みにくい。ここはオイサーストから馬車で一日半ほど離れた郊外であり、都会の喧騒とは無縁の場所だ。フリーレンがこの地を選んだのは、愛弟子フェルンの一級魔法使い試験に備え、集中して魔法修行を行うためだった。
森の開けた場所で、フェルンは杖先から伸びる魔力を何度も同じ軌道へ通していた。フリーレンはその傍に立ち、流れが外へ膨らむたび指先で位置を示す。
「フェルン、もう少し魔力の流れを繊細に。雑に扱うと魔法構成に歪みが生じて、術式の効率が著しく低下するよ。魔力は常に最適な経路を選ぶから、僅かな揺らぎでも、結果に大きな誤差が出る」
「はい、フリーレン様」
フェルンは杖先を指一本ぶん戻し、膨らんだ箇所の魔力を細く絞る。光の流れはやがて同じ軌道へ収まった。
一方、シュタルクは二人の修行から少し離れ、背のグレートアックスで薪を割っていた。重い刃を落とす手をときおり止め、フェルンの修練を見守りつつ軽口を叩く。
「なあフェルン、試験前なのは分かるけど、あまり力み過ぎるなよ?」
「静かにしてください、シュタルク様」
フェルンは眉をわずかに寄せたまま返す。整えたはずの魔力の流れが、その声でかすかに波打った。
「そうだね、力を抜いて。魔法は集中が途切れると流動性が増して、効果の安定性が下がるから」
フェルンは短く息を吐き、揺れた箇所へ杖先を戻した。
修練を続けるうちに夕暮れが近づく。橙色に染まった空の下、森の奥から一人の老人が慌ただしい足取りで近づいてきた。
「これは皆さん、こんな時間に失礼します」
近くの小さな村の村長だ。滞在中に何度か日用品や食料を買いに行き、顔を合わせていた。村長は帽子を両手で握り、数歩手前で足を止めて声をかける。
「実は、皆様にお願いしたいことがありまして……」
村長は帽子の縁を折り曲げながら、村近くの古い坑道で妙な物音や人影を見た者が相次ぎ、村人が怯えていると話した。原因を確かめ、危険なものなら対処してほしいという依頼だった。
フリーレンは村長が握る帽子と森の方角を見比べ、杖を肩へ戻した。
「構わないよ。フェルンにとってもいい腕試しになるだろうし」
フェルンは杖を胸元へ戻し、シュタルクは軽く肩を竦めながら言った。
「じゃあ、明日の朝一番に行くか。丁度退屈してたところだしな」
村長の肩から力が抜ける。何度も礼を口にして頭を下げると、帽子を胸へ抱えたまま森の道を戻っていった。
翌日の早朝、一行は村から離れた古い坑道跡地へ向かった。坑道は採掘が終わって長い年月が経ち、入口付近は崩れかけて苔が這い、薄暗く静まり返っている。フリーレンが軽く杖を掲げ、《ルミネーア(灯火で辺りを照らす魔法)》を発動すると、柔らかな魔法の光が暗がりを払い、坑道の内部を照らし出した。
坑道の入り口付近には明らかな異常が見える。フリーレンは魔法の光をゆっくり動かしながら、坑道の異常を観察して口を開く。
「自然にできたものじゃないね。何者かが意図的に掘り広げた跡がある」
フェルンも魔力を感知し、残滓を丁寧に追いながら応じる。
「それに……不自然な魔力の残留物があります。ただの魔物の仕業ではないと思います」
フリーレンは杖の明かりをさらに前方へ伸ばした。
「注意して進もう」
一行は光に導かれ、薄暗い坑道を奥へ進む。狭く崩れかけていた通路は次第に広がり、前方に奇妙な明るさが見えてきた。
その先で通路が大きく開けた。平らに削られた天井には魔力灯が同じ間隔で並び、床の細い溝はすべて広間中央の円形石壇へ集まっている。壁も床も工具で均した跡を残し、坑道の岩肌とは切れ目がはっきり分かれていた。石壇の上には、金属と生体組織を継ぎ合わせた装置が据えられている。
螺旋状の金属支柱の内側で、肉質の組織が呼吸のように収縮し、中央の水晶状の核へ筋を絡ませている。核の淡い紫光が一度脈打つたび、石壇の向こうの壁線は左右へずれ、天井の灯りも水面越しのように二重になった。床の砂粒が浮いては落ち、広間の端まで同じ拍で細かく震えている。
「あれ……タヴが言っていた次元装置だね」
フリーレンは小さく呟き、《ルミネーア(灯火で辺りを照らす魔法)》を解除した。
「マインド・フレイヤーの位相アンカー……ですね」
フェルンは杖を装置へ向けたまま確認する。フリーレンは位相アンカーから目を離さず、坑道の奥へ杖先を向けた。
「この装置があるってことは、近くにマインド・フレイヤーがいるはずだ」
フリーレンの言葉を受け、シュタルクはグレートアックスを両手で握り直し、片足を半歩引いた。
「一旦戻った方がいいんじゃないか? 相手は精神を操る異界の侵略者なんだろ。まともに戦って大丈夫なのかよ」
フリーレンは来た道へ一度だけ杖先を戻し、崩れかけた通路までの距離を測った。
「正直なところ、ここで無理に戦う必要はないよ」
杖先が位相アンカーの紫光をかすめたところで、フリーレンは言い落としていたことに気づく。
「あ、そういえば言い忘れてたけど、タヴから私の精神防御について評価してもらったことがあるんだよ。マインド・フレイヤーとの戦いなら、私の精神防御がかなり有効だろうって」
シュタルクの眉間に皺が寄り、グレートアックスの柄尻が床を擦った。
「ちょっと待てよ、フリーレン。そんな重要な話、いつの間にタヴとしたんだ? 俺たち、そんな説明は全然聞いてないぞ」
フェルンは坑道の奥へ向けた杖を下げず、視線だけをフリーレンへ移した。
「確かに私も初耳です。一緒に旅をしている間には、そんな話題は出なかったはずですが……」
フリーレンは位相アンカーの脈動を数えながら答える。
「夜の見張り交代の合間にタヴと二人きりで話したんだよ。個人的にタヴに聞いてみたんだ。私の精神防御がマインド・フレイヤー相手にどれくらい通用するかってね」
紫光が一度明滅する。その間に、夜の焚き火越しでタヴに尋ねた時の声が蘇る。
「そしたらタヴが実際に軽く精神干渉を試してくれて、『……フリーレンの精神にまともに干渉できるのは、エルダー・ブレイン級の最上位個体くらいだな』って、驚いてたんだよ」
フリーレンはタヴの評価を少し得意げに言い切り、二人の反応を待った。シュタルクはしばらく彼女を見たあと、上がっていた肩を息とともに落とす。
「……そんなことしてたのかよ。聞いてないわけだ」
フェルンは杖先を坑道の暗がりへ戻してから、フリーレンに釘を刺す。
「事情は分かりましたが、そういうことは早めに共有をお願いします……」
フリーレンも前方へ警戒を戻しながら応じた。
「ごめんて。マインド・フレイヤーと実際に対峙する機会もなかったから、言い忘れてたんだよ。次からは気をつけるね」
シュタルクは呆れたようにフリーレンを見たあと、床を擦っていたグレートアックスの柄尻を持ち上げ、刃を坑道の奥へ向け直した。
「それならいいけどよ。まったく、肝心なことを忘れないでくれよな」
フェルンは退路にした通路の角へ杖先を振り、位置を確かめてから問いかける。
「つまり、並のマインド・フレイヤー相手なら、フリーレン様を主軸に立ち回れば十分対処可能、ということですか?」
フリーレンの答えは早かった。
「うん。あくまで理論上はね。ただ、私一人では皆を完全に守り切れるとは限らない。大群に押しつぶされたら、私でも限界がある」
シュタルクは背後の狭い通路を親指で示した。
「数が多すぎたら、さすがに俺たちも逃げるしかないってわけだな」
フリーレンも背後の通路へ目をやって返した。
「うん、それが賢明だと思う。今は調査と実戦経験を兼ねているけど、深追いは禁物。危なくなったらすぐ逃げられるように退路は確保しておこう」
フェルンは崩れかけた通路の幅を杖先でなぞり、三人がすぐ戻れるだけの余地を確かめた。
「分かりました。無理はしません」
フリーレンは位相アンカーの陰から伸びる通路へ杖を戻した。
「じゃあ、決まりだね。まずは状況を把握することを優先するよ」
三人は退路を見失わない間隔を保ち、位相アンカーの脇を越える。その瞬間、頭蓋の内側を直接押されるような圧迫が走った。フリーレンの灯りが一気に強まり、杖先が闇の奥を捉える。
「来るよ」
闇の奥から姿を現したのは、まさに異界の魔物だった。脳をむき出しにした四足獣、インテレクト・ディヴァウラーが十数匹まとまって地を這い、こちらへ迫ってくる。その背後では、触手を口元で蠢かせた紫紺の異形が歩みを進めていた。マインド・フレイヤーだ。
中央の個体が触手を一本ずつ持ち上げると、両側の二体も半歩遅れて同じ順に動かした。だが曲げる角度も止める位置も揃わない。中央はタヴから聞いたマインド・フレイヤーの秘術使いだ。両側は、まだ《秘術魔法》を習得し始めたばかりなのだろう。三体は歩幅を崩さず近づいてくる。
フェルンの杖を握る手が震え、小さく呟く。
「これが……マインド・フレイヤー……」
シュタルクはグレートアックスを握り締めて身構え、指の節を白くする。フリーレンの視線は左、中央、右の個体へ順に動いた。
目の前の敵はマインド・フレイヤーが三体。そこに、空間全体を一つの思考で押さえ込むような、タヴが語ったエルダー・ブレインの圧はなかった。周囲のインテレクト・ディヴァウラーも、三体の触手が動くまで前へ出ずに待っている。数は多くても、命令を発する頭は正面の三体だ。
(……最上位個体はいない、相手の数も制御可能。これなら十分勝てるかな)
秘術使いが《Confusion(精神混乱)》の詠唱を始める。左右の二体は触手を半円に開き、中央の詠唱へ自分たちの魔力を重ねた。三体の触手で輪が閉じると、頭蓋の内側を押す圧が一段強まり、三人の意識を呑み込んだ。
歪みに呑まれた途端、フェルンの視界では前後が入れ替わり、隣にいるシュタルクのグレートアックスが自分へ振り上げられたように見えた。シュタルクは踏み出す足を選べず、石床へ足を擦る。
【抗うことは不可能だ……その精神を手放し、混沌に身を委ねよ……】
マインド・フレイヤーの秘術使いのテレパシーが冷たく脳内に響き渡った。
声はフリーレンの思考にも入り込み、仲間と敵の境を塗り替えようとした。だが、千年以上にわたって魔力の揺れを押さえ、自分の内側を見張り続けてきた意識は、紛れ込んだ異物をすぐに拾う。フリーレンは呼吸も杖先も変えず、その声を自分の思考から切り離した。三体の触手がほぼ同時に跳ねる。
(馬鹿な……あのエルフ、そもそも精神への侵入そのものを許していない。……まさか神格に属する存在だというのか?)
秘術使いには、侵入を弾かれた理由が読めない。魔法の膜も神聖な印も見えないまま、エルフの意識だけが動かなかったからだ。
フリーレンは呼吸を乱さず口を開き、二人へ指示を出す。
「シュタルク、フェルン。今見えているものには手を出さないで」
二人は動きを止め、声へ引かれかけた意識をフリーレンの指示へ繋ぎ止める。フリーレンは共有詠唱から流れ込む魔力の癖を読み、その流れと逆向きの魔力を二人へ送り込んだ。《Confusion(精神混乱)》が見せる偽りの位置関係が、一息だけ現実のものへ塗り替わる。フェルンの視界から振り上げられた斧の像が剥がれ、シュタルクの足元も定まった。
戻った視界を逃さず、フェルンは防護魔法を唱えた。
「《ザイヒェンヴァント(外部からの思考を遮る魔法)》!」
薄く透明な魔力の膜がフェルンとシュタルクの頭部を包む。なおも二人へ押し込もうとする《Confusion(精神混乱)》の圧が《ザイヒェンヴァント(外部からの思考を遮る魔法)》の表面を波打たせたが、内側へは届かない。押し返された圧は膜の上で火花となって散り、共有詠唱の輪もほどけた。フェルンは息を弾ませながらも、微かな笑みを浮かべる。
「タヴ様の言った通りですね……!」
フリーレンは杖先をマインド・フレイヤーたちへ据えたまま告げる。
「精神攻撃が通じないと知ったら、次は物理的な攻撃に切り替えてくる。備えて、反撃するよ」
その言葉が終わる前に、三体は別々の呪文へ移る。秘術使いは両の触手の間へ魔力を凝集し、《Lightning Bolt(電撃)》を詠唱した。左右の二体もそれぞれ短く詠唱し、《Magic Missile(魔法の矢)》を放つ。
雷撃はフリーレンへ一直線に走り、複数の魔力の矢は左右へ分かれてフェルンとシュタルクへ曲がった。フリーレンは瞬きもせず、杖を正面に据えて《防御魔法》を起動する。
フリーレンの目前に半透明の六角形状の障壁が瞬時に組み上がり、蜂の巣状に連結して彼女の全身を覆う。《Lightning Bolt(電撃)》は障壁へ激突し、爆音を残して散って消える。
フェルンも杖を短く振り、正面に同じ形の障壁を展開する。自分へ曲がった《Magic Missile(魔法の矢)》が六角形の面で次々に弾ける。杖先はぶれず、光の矢は一つも彼女へ届かない。
「ちょ、なんでこれずっと追ってくんだよ!?」
シュタルクは走りながら何度も向きを変える。だが《Magic Missile(魔法の矢)》も弧を描いて追いすがり、背後から距離を詰めた。
走るだけでは振り切れない。シュタルクは踏み込んだ足を軸に振り返り、グレートアックスを横薙ぎに叩き込む。何本かは広い刃の上で炸裂したが、捌き切れなかった数発が肩と胸を打った。
「いってぇ……!」
派手な炸裂音が地下に反響し、シュタルクは一歩よろける。だがすぐに足を踏み直した。衣服の焦げ跡から細い煙が上がっても、武器を支える腕と脚は動いている。秘術使いは次の呪文へ移り、左右の二体も眷属の背後で間合いを測っていた。
「あれ……? 意外と大丈夫だな……」
シュタルクはグレートアックスを構え直し、敵から目を離さず二人へ声を飛ばす。
「なぁ、なんで今の助けてくれないんだよ!?」
フリーレンは障壁を残したまま、敵の動きから目を離さず答える。
「シュタルクなら、当たっても問題ない魔法だって判断したからね」
フェルンも左右の二体を見比べたまま、眉尻を下げる。
「すみません。シュタルク様の動きが速すぎて、《防御魔法》の展開位置が定められませんでした……」
シュタルクは言葉を飲み込み、グレートアックスを持ち直して敵へ正対する。
その時、秘術使いが《Scorching Ray(灼熱の光線)》をフリーレンへ放った。フリーレンは障壁を斜めに傾けて光線を逸らす。左右の二体もそれを合図に、眷属の背後からさらに左右へ開いた。
マインド・フレイヤーの秘術使いは触手を何度も打ち合わせ、テレパシーで指示を投げる。
【眷属どもよ、前に出て敵を食い尽くせ!】
指示を受けたインテレクト・ディヴァウラーたちが一斉に蠢き、甲高い鳴き声を上げながらフリーレン一行へ突進を始める。フリーレンは迫る群れを見渡し、落ち着いた声で告げる。
「フェルン、シュタルク。好きにやっていいよ」
指示が届くのと同時に、フェルンは前方へ視線を固定し、短い詠唱動作で杖を構えて魔力を整える。
「《ゾルトラーク(魔族を殺す魔法)》」
フェルンの杖先から魔力の弾丸が連続して放たれ、風を切る音とともに先頭のインテレクト・ディヴァウラーを次々に貫く。命中した個体の体はその場で弾け、異臭を帯びた体液が床に散った。撃ち漏らした眷属が左右へ回る間に、シュタルクが彼女の射線を横切らない角度から踏み込む。
「こっちは任せろ!」
シュタルクは力強く叫び、グレートアックスを振り上げたままインテレクト・ディヴァウラーの群れへ踏み込む。前後左右から爪と牙が迫るが、身をひねってかわし、重量を乗せた一撃で順に叩き伏せた。
二人が眷属を削る間も、秘術使いはフリーレンへ《Scorching Ray(灼熱の光線)》と《Ray of Sickness(不調化光線)》を続けざまに放つ。フリーレンは一方を《防御魔法》で遮り、もう一方の射線へ《ゾルトラーク(魔族を殺す魔法)》を差し込んだ。秘術使いの《Shield(盾)》が白い閃光を弾き、触手の先が防御へ引かれる。
その動きを見て、左右の二体は倒れた眷属を踏み越えて前へ出る。頭部の触手を広げ、前方へ強力な精神衝撃波──《Mind Blast(精神爆砕)》を放った。目に見えない波動が広がってシュタルクに迫る。彼は石床を強く蹴って横へ跳び、攻撃範囲から外れた。
波動は一瞬前までシュタルクがいた場所を抜け、奥の壁へぶつかった。石の表面には傷一つつかない。だが波動の端に呑まれたインテレクト・ディヴァウラーは、むき出しの脳を一度痙攣させ、四肢から力を失って床へ崩れた。そのまま動かない。跳び退いたシュタルクのこめかみにも鈍い痺れが走る。彼は片足を滑らせながらグレートアックスの柄を床へ突き、倒れる前に踏みとどまった。
「うわっ、あぶねぇ! 今の当たったら絶対ヤバいやつだろ!」
シュタルクは着地と同時に体勢を整え、勢いを止めずに踏み込む。正面からグレートアックスを振り下ろし、マインド・フレイヤーの一体を叩き切る。触手が痙攣しながら崩れる個体を横目に、残る一体へ向けて体を返した。
秘術使いはフリーレンの防御を崩せないまま、倒れた同胞と減り続ける眷属へ視線を走らせる。フリーレンはその迷いを逃さず、障壁の脇から杖先を返した。
「お前たちの魔法は興味深いけど、少し単調だね」
言い終えるより早く放たれた《ゾルトラーク(魔族を殺す魔法)》を、秘術使いは《Shield(盾)》で受け止める。だが力場の面は先ほどより深く撓み、触手の動きが乱れた。横ではシュタルクが残る一体を押さえ、フェルンが眷属を射線の外へ追い込んでいる。
(このままではジリ貧だ……)
秘術使いは退路を求め、触手を忙しく震わせて《Dimension Door(次元扉)》の詠唱へ入った。背後の空間が縦に歪み、地下空間の外へ逃れるための裂け目が開きかける。
フェルンは残っていた最後のインテレクト・ディヴァウラーを魔力弾で撃ち抜く。十数匹の群れは、これで一体残らず動きを止めた。その向こうで秘術使いの裂け目が開きかける。縁が指一本ほど開くより早く、フェルンの杖先には白い光が集まった。
秘術使いは詠唱を続けたまま身体を半歩ずらすが、フェルンの照準は胸の動きから外れない。
「逃がしませんよ」
フェルンの《ゾルトラーク(魔族を殺す魔法)》が、退避を狙う秘術使いの胸部を正確に撃ち抜く。秘術使いは衝撃で触手を痙攣させ、その場に崩れる。
秘術使いが崩れた瞬間、残るマインド・フレイヤーの触手がばらけ、足が止まった。シュタルクのグレートアックスが迫ると身を引き、反対側のフェルンへ頭部を振る。二人の間で動きが遅れた一拍に、フリーレンの杖先が白く瞬く。
「隙だらけだね」
声と《ゾルトラーク(魔族を殺す魔法)》は同時に届いた。白い魔力が胸を貫き、最後のマインド・フレイヤーが床へ崩れる。地下空間から戦いの音が消え、壁の奥で残響だけが薄れていった。
フェルンは息を整えながら、小さく頷く。
「なんとか……倒せましたね」
シュタルクも軽口を返す。
「マインド・フレイヤーってやつも、意外となんとかなるもんだな」
軽口とは裏腹に、息はまだ荒い。やがて視線が足元のマインド・フレイヤーの亡骸へ落ちた。
そこには、この世界の魔物や魔族とは違う死の形がある。魔物や魔族の体は、倒れれば崩れて消える。一部の強力な魔物が角などを残すことはあっても、死体そのものは残らない。だがこの亡骸は消えず、肉体の形のまま床に残っている。薄紫色の血液が地面を濡らし続ける。
「なんつーか……これ、気味が悪いな……」
フェルンも死体へ視線を向け、杖先をわずかに下げて口を開く。
「魔物や魔族の死体は、倒した瞬間に消えてしまうものですが……人間や動物と同じように、物理的な遺骸が残るんですね……」
フェルンの声量は変わらない。だが、亡骸から目を離すまでに一拍かかった。
二人の反応を見たフリーレンが言葉を添える。
「気味が悪くて当然だよ。二人とも、殺した相手が人と同じように死体を残すのは初めてなんだから。無理に平気なふりをしなくていい」
フリーレンはそれだけ言い、位相アンカーへ杖先を向けた。シュタルクは亡骸から目を外してグレートアックスの柄を握り直し、フェルンも一度だけ頷いて杖先を上げる。
三人は周囲を警戒し、注意を切らさず位相アンカーへ近づく。
戦闘が終わっても、地下空間の中央では位相アンカーの肉質の組織が脈打ち続けていた。そこから伸びた筋は、螺旋状の金属支柱の内側で水晶状の核を掴むように絡んでいる。核が紫光を放つたび、筋も同じ拍で縮み、周囲の空間がわずかに歪んだ。フリーレンは装置の周囲を観察しながらフェルンに尋ねた。
「フェルン、これの破壊方法について、協会から通達が来てたよね?」
フェルンは杖を小脇に挟み、懐から協会の封蝋が施された封書を取り出す。封を開いて文面を確かめた。
「はい。これが協会から届いた正式な通達です」
必要な箇所を目で追い、要点を読み上げる。
「タヴ様が提供した情報を元に、この世界の魔法体系で理論を再構築したものらしいですが……まず、装置中央の魔法陣に刻まれている防護魔法を解除する必要があるそうです」
フリーレンは装置へ視線を戻す。フェルンは文面を追いながら、続きを述べる。
「魔法陣にかけられた術式を無力化して、一時的に装置の防護を解いた後、魔力を供給している水晶状の核を破壊します。その破壊方法は《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》のような攻撃魔法でも、物理的な衝撃でも可能だそうです」
フェルンは一度言葉を切り、小さく息を吐く。
「破壊に成功すれば、溜まっていた魔力が一気に放出されて、装置そのものが自壊するようですが……まだ実際に試された事例はありません。なので……確実に成功するかどうかは未知数だそうです」
それを聞いたシュタルクは、位相アンカーから半歩距離を取り、フリーレンを見る。
「なぁ、それって結構危ないんじゃないのか? 大丈夫なのかよ?」
フリーレンは口元を結んだまま、首を横に振る。
「確かにリスクはあるけど、今ここで試す価値はあると思うよ。放置するのは危険だからね。……フェルン、手順通りやってみて」
フェルンは最後の一行を確認して封書を懐へ戻し、杖を位相アンカーの中心にある複雑な魔法陣へ向ける。呼吸を整え、繊細な魔力の流れを形作りながら詠唱を始める。
「《シュテルングノイル(複雑な構造を解きほぐす魔法)》」
フェルンの杖先から放たれた魔力は、位相アンカーの術式を外から押し潰さず、幾重にも重なった線の隙間へ入り込む。結び目が逆向きにほどけるにつれ、青い外周と紫の内周の脈動がずれ、装置の唸りも途切れ始めた。
徐々に魔法陣の輝きが乱れ、揺らぎが不規則に増していく。フェルンの額には冷や汗が滲み、魔法の維持に力を要する。やがて魔法陣の光が完全に消え、装置の魔力防護が解除されたことが分かる。
「解除できました……理論通りに」
フリーレンは消えた術式の輪を杖先でなぞり、わずかに口元を緩める。
「さすがだね、フェルン。このまま破壊まで頼んでもいい?」
フェルンは杖を握る位置を改め、照準を水晶状の核へ移す。
「《ゾルトラーク(魔族を殺す魔法)》」
魔力の弾丸が閃光を伴って位相アンカーの水晶状の核を貫き、中心部に溜まっていた魔力が暴走を始める。装置全体が激しく振動し、内側から爆ぜて破片が飛ぶ。
鋭い炸裂音とともに地下空間を満たしていた異質な歪みが消え、静寂が戻る。フリーレンは散った破片を見届けて息を吐き、フェルンへ視線を向ける。
「完璧だったね。これで、この世界の魔法理論によってマインド・フレイヤーの位相アンカーが破壊可能だと、初めて実証されたことになるんじゃないかな」
フェルンは頭を下げる。顔を上げても、頬の赤みはわずかに残った。
「ありがとうございます、フリーレン様。協会にも、術式が正しく機能したことをきちんと報告しておきます」
シュタルクはようやく肩の力を抜き、グレートアックスを背に戻して深く息をつく。
「これでやっと安心だな……」
だがフリーレンは散った破片を杖先で示す。
「今回破壊したのは位相アンカーの一つに過ぎないよ。この世界のどこかにまだ多数の装置があるはずだからね」
フェルンは足元へ散った破片の一つを拾い上げた。掌ほどの、緩く弓なりに曲がった金属片で、浅い溝には脈動を失った肉質の組織が細く残っている。眉間に皺を寄せると、組織に触れないよう縁をつまみ、シュタルクへ差し出す。
「シュタルク様、これを」
「え、俺が持つのかよ。まだ肉がついてるぞ」
「だからです」
フェルンは金属片を差し出したまま待つ。シュタルクは顔をしかめながらも、諦めて受け取った。
*
陽動の召喚が終わった頃、闇の聖堂の最奥では、山羊角の髑髏だけが壁面で赤く脈打っていた。瞑想の間に座す司祭長セヴェルスの前には、深紅のローブをまとった六人が並んでいる。セヴェルスが告げた。
「我々の準備は整った。今宵、ついに次元を越える禁忌の門が再び開かれるだろう」
六人が頭を垂れる。ローブの擦れる音が止むと、セヴェルスは瞼を閉じた。赤い光の残像が、幾年も前の円形実験室へ形を変えていく。
床に刻まれた三重の円環には、セヴェルスたちの肉体が横たわっていた。《Astral Projection(アストラル投射)》の詠唱が終わると石床は視界から失せ、銀の虚空が開ける。隣を行く魔道士の背から《シルヴァー・コード》が伸び、振り返れば、自分のコードも実験室の肉体へ続いていた。
一行は銀の虚空を進み、《夢の次元界》への入口を探り当てる。セヴェルスが境を越えた途端、コードが強く張り、肉体と所持品が銀の線を伝ってくる。夢側の足場へ両足が着く頃には、アストラル体は肉体へ戻り、ローブの裾も重さを取り戻していた。背後で役目を終えたコードがほどけて消える。
一行は、見知らぬ寝顔や荒野が水面のように重なる深層へ進んだ。これまでなら、夢に現れた土地や、誰かが術式を組む像を記憶へ留め、《Plane Shift(次元間転移)》で実験室へ帰り、記録に残す。それを繰り返してきた。
だが、このとき、先頭の高位魔道士が深層で足を止めた。そこだけは夢が内側へ沈まない。指を近づければ、薄い膜が押し返してくる。主の記憶も土地の像も浮かばず、境界の向こうには何かがいる気配だけがあった。
高位魔道士は膜の向こうにいる気配へ《Dream(夢のたより)》を伸ばした。光が表面に触れ、指先ほどの窪みを作る。次の瞬間、右腕が肘まで強く痙攣し、彼は足元へ叩きつけられた。
セヴェルスが叫んだ。
「接触を切れ!」
同行していた助手が、倒れた高位魔道士の肩を掴んで膜から引き離した。窪みに残った《Dream(夢のたより)》の光が抜けると、表面は元の形へ戻る。助手に支えられた彼が咳き込みながら身を起こすと、セヴェルスは一行を《Plane Shift(次元間転移)》で実験室へ退かせた。帰還しても、右手は指を開いたまま動かない。それでも円環へ向かう彼の前に、セヴェルスが立つ。高位魔道士は動かない右手を左手で支えた。
「向こうへは届いていません。触れた途端、術がこちらへ返りました」
セヴェルスの脳裏に、実験体の皮膚の下を走った青白い光が蘇る。別の次元へ繋がる反応として、何度も記録した光だった。
「実験体を運べ。次はその夢を道にする」
両手足を拘束された少年が、寝台ごと円環の中央へ運び込まれた。眠りの魔法を重ねられても、皮膚の下を走る青白い光は消えない。拘束具の内側には以前の実験でできた火傷が帯の形に残り、金具へ火花が移るたび、周囲の術者は障壁の外へ半歩ずつ退いた。
実験室で少年の夢へ《Dream(夢のたより)》を繋いでから、術者たちは再びアストラル界へ出て、同じ入口から《夢の次元界》へ渡った。少年の眠りを足掛かりに現れた道は、呼吸に合わせて細くなり、また膨らみながら、先ほどの膜まで伸びていった。
寝台の上で少年の指が拘束帯の下へ食い込む。青白い光が手首から肘へ走るたび、道は膜へ一段深く沈んだ。やがて向こう側から膜が窪み、黒い輪郭が滲み出す。目に似た構造だけが開いては消え、閉ざされた次元の無名の魔族が、その魔力を伝って初めて《夢の次元界》へ姿を現した。
言葉は返ってこない。代わりに、閉じた大地へ細い亀裂が走り、外から流れ込む光を浴びた生き物の形が次々と変わる像が送られてきた。像が途切れると、魔族は少年を包む雷光へ触れ、同じ光景をもう一度返す。
二度目の像では、亀裂の内側に立つ魔族が自ら傷を広げていた。外から落ちた光が腕へ流れ込み、輪郭を別の形へ組み替える。三度目には、変わった輪郭のまま、さらに太い光を求めるように傷へ手を伸ばした。どの像でも最初に少年の雷光が置かれている。
助手の一人が問いかけた。
「我々を招いているのですか?」
セヴェルスはそちらへ顔を向けずに答えた。
「外からの力を求め、自らを作り替える意図は読める。だが、我々への招きかまでは分からん。存在の確認だけは仮説から外せ。残りは観測事実として記録しろ」
接触は一度で終わらなかった。魔族が内側から同じ一点へ傷を刻み、術者たちは外から届く線を増やす。そのたび触媒は割れ、一行は《Plane Shift(次元間転移)》で実験室へ戻った。帰還した者の指には痺れが残った。
やがて別の実験で少年の雷光が拘束具と扉を焼き切り、彼は施設から逃げた。残された魔力の揺らぎを写し取る研究は、その後も続いた。年月を重ね、本人がいなくても同じ波を保つ再現触媒が完成する。
幾年か後、その再現触媒を据えた実験室で、魔道士たちは再び《Astral Projection(アストラル投射)》を行った。アストラル界へ出た一行は、触媒の脈動を辿ってかつての入口を探し当て、《夢の次元界》へ渡った。そこで《Gate(次元門)》と《Plane Shift(次元間転移)》の術式を重ね、境界へ触れる部分だけを細く絞って、夢の底から一点を穿つ。それが、彼らの編み上げた《次元穿孔》だった。
セヴェルスが手を下ろす。《夢の次元界》で組んだ術の尖端が境界面に突き立ち、黒点を作った。だが穴になる前に縁が巻き戻り、術式を押し潰す。反動は一人の魔道士を弾き飛ばし、倒れた身体が後ろの二人を巻き込んだ。実験室側でも触媒の台座に亀裂が走り、押さえた助手の手袋から焦げた臭いが立った。
境界の動きを見ていた同行の助手が報告する。
「内側の固定が早すぎます。こちらの尖端へ届く前に、修復に呑まれました」
「もう一度だ。内側の傷が開いてから穿て」
境界の向こうで、無名の魔族が腕を広げる。《Dimensional Anchor(次元錨)》を応用した鉤が内壁へ食い込み、《Banishment(放逐)》を逆用した力が傷の縁を外へ押した。二つを同時にぶつけず、鉤が傷を留めてから外向きの力を重ねる。魔族は最後の力を保ったまま、外側から尖端が来るのを待った。
傷が最も深くなった瞬間、セヴェルスは手を下ろした。《次元穿孔》が同じ箇所へ突き刺さる。低い軋みが実験室の壁を伝い、今度は黒点が潰れない。白い亀裂が上下へ走り、向こう側の闇を細く覗かせた。針穴ほどだった門は指の幅へ、やがて人が身を滑らせられるほどへ広がった。
「開きました!」
「計時を続けろ。歓声は閉じてからにしろ」
門が開いた際に先行すると定められていた六人が、《夢の次元界》の奥に開いた亀裂の前へ進んだ。先頭は黒いローブの術者だった。一人ずつ身体を滑り込ませ、最後の一人の踵が向こう側へ入ったところで、白い縁はまた狭まり始めた。
六人が抜けた後も、穿孔の衝撃は《夢の次元界》を伝い、彼らが渡ってきた入口のアストラル界側へ白い裂け目を残した。異常を調べに来たタヴは、そこでギスヤンキとマインド・フレイヤーの挟撃を受ける。銀剣と《Mind Blast(精神爆砕)》を凌いだ直後、閉ざされた次元の自己修復が裂け目を内側へ畳み、彼だけを境界の向こうへ引き込んだ。
白い縁が閉じたのを見届け、セヴェルスたちは《Plane Shift(次元間転移)》で実験室へ戻った。触媒の周囲には境界から返った余波が残っていた。術者の一人が揺らぎを辿り、セヴェルスへ顔を上げた。
「位相アンカーによる開口ではありません。最初に境界を穿ったのは、こちらの《次元穿孔》です。その後で三系統の転位反応が重なっています」
触媒と同じ間隔で脈打つ反応だけは、境界の収束へ巻き込まれた先で途切れていた。
「開口と、後から重なった転位を混同するな。消失した一系統も残せ」
そこで過去の実験室は遠のいた。セヴェルスが瞼を開くと、六人の魔道士たちが並ぶ瞑想の間へ戻る。蝋燭の火が揺れるたび、深紅のローブに細い影が走った。
彼は膝から両手を離して立ち上がり、懐から細工を施した小箱を取り出す。蓋の内側には、微かな光を放つ魔力結晶が納められていた。タヴの特異な魔力特性を模した輝きが、七人の顔を下から照らす。
「これこそ、我々が長きにわたり研究を重ねて作り出した、タヴの魔力の再現触媒だ。すでに我らの同志数名は、この触媒を用いて閉ざされた次元への侵入を果たしている。諸君、我々も彼らに続くのだ。今宵、再び《次元穿孔》を展開し、閉ざされた次元への道を完全に切り開く!」
魔道士たちは魔力結晶から目を離さず、床の刻線に沿って所定の位置へついた。室内では息遣いが速まり、詠唱前の沈黙が張りつめる。
儀式の間の円形の床には、幾重もの術式線が中心へ向かって刻まれていた。交点に安置された魔力結晶は、タヴの魔力を模した間隔で明滅し、そのたび床の線へ淡い光が走る。
セヴェルスは魔道士たちに向かって手を広げ、低い声で命じた。
「始めるぞ」
魔道士たちは深紅のローブの内側から、布に包んだ宝物を取り出す。各々が床へ並べるのは、淡く輝く緑色のヒスイと、複雑な装飾彫刻を施した銀の延べ棒だ。詠唱が重なると一組ずつ魔力の光に飲み込まれ、淡い燐光を残して消えていく。
物質的な媒介が消えると同時に、魔道士たちは深い瞑想状態へ入り、セヴェルスの魔力によって《Astral Projection(アストラル投射)》が展開されていく。セヴェルスを含む七人のアストラル体が肉体を離れ、アストラル界へ浮かび上がった。《シルヴァー・コード》はそれぞれの背から、瞑想の間に残した肉体へ伸びている。
銀の虚空に浮かぶ七人の前で、再現触媒と同じ間隔の光が《夢の次元界》への入口まで道筋を描いていた。セヴェルスを先頭に、互いの間隔を保って進む。入口を越えた瞬間、足裏へ肉体の重さが戻った。背後で銀の線がほどけ、七人のローブの裾が地面へ触れた。
渡った先の闇が、再現触媒の明滅に合わせてわずかに揺れる。そこには、かつてタヴを媒介として接触した無名の魔族の痕跡が、幽かな影のように残っていた。
セヴェルスは途切れかけた痕跡を一つずつ見比べ、反応の強い方角を選ぶ。他の魔道士たちも一定の間隔を保ち、その後ろに続いた。
干渉の痕跡は闇の中に残る淡い擦り傷となり、分かれ道のたびに細くなる。七人は痕跡を見失わないよう一列になり、傷が一本の黒い継ぎ目へ収束する場所まで辿った。
夢に残る痕跡が次元間の境界へ触れる地点で、セヴェルスは片手を上げた。
「ここだ、《次元穿孔》を開始せよ」
七人の魔力が再現触媒の明滅と重なり、境界の一点へ細く押し込まれる。滑らかだった面に針穴ほどの黒点が生まれ、そこから白い亀裂が走った。
境界はすぐに亀裂の縁を内側へ巻き込み、傷を塞ごうとする。魔道士たちは流し込む力を強め、縮む縁へ触媒の波を打ち続けた。
セヴェルスが亀裂の中心へ両手で術を押し込み、残る六人が左右から支える。散っていた白線が一本につながり、一人が通れる幅まで押し広げられてゆく。
最初の実験では、亀裂が閉じるたび、内側の無名の魔族が《Dimensional Anchor(次元錨)》と《Banishment(放逐)》を重ねて縁を引き戻した。今回は、その手がない。代わりに再現触媒が、前回の干渉で残った傷と同じ調子で脈打つ。
閉じかけた縁が古い傷に引っ掛かり、激しく震えた。そこへ七人分の力が流れ込み、白い亀裂は内側からの助力がなくても開いたまま残る。
「門は開かれた、侵入せよ!」
セヴェルスの指示の下、七人は《夢の次元界》から境界の亀裂へ次々と身体を滑り込ませた。
七人全員の足が遺跡の床へ着いたのを数え、セヴェルスは長く息を吐く。樹齢数千年はあろうかという巨大な樹が遺跡を覆い、薄い月光が枝葉の隙間から床へ落ちている。彼は入口、崩れた壁、天井を塞ぐ根の順に見たが、遺跡の内部に動くものはなかった。
彼は周囲を見渡した後、ゆっくりと手を掲げ、声量を落として指示を出した。
「我々の侵入は完了したが、ここは既に敵勢力の目が届く可能性が高い。迅速に現地に活動拠点を築き、防衛体制を整える必要がある」
魔道士たちは即座に動く。一人は《Sending(送信)》の文言を周囲にも伝えるため、あえて声に出す。
「司祭長セヴェルス到着、大樹に覆われた遺跡付近。そちらの状況と現在地を報告せよ」
短い沈黙の後、魔道士は詰めていた息を吐き、セヴェルスへ顔を向けた。
「司祭長、応答あり。拠点は確保済みです。《Scrying(念視)》で《関連する物体》を拾った広場へ誘導し、《Teleport(瞬間移動)》で迎えに出るとのことです」
セヴェルスは遺跡の入口と崩れた壁を見回してから応じた。
「よろしい。《Scrying(念視)》を受け入れる。遺跡の景観を照合し、広場までの道筋を送れ」
魔道士たちはセヴェルスの周囲を空け、遺跡の入口と根に覆われた壁が同時に入る場所へ彼を立たせた。肩近くで空気が同心円状に揺れ、《Scrying(念視)》が作る見えない視点が留まる。セヴェルスが入口から崩れた壁、天井を塞ぐ根へ視線を巡らせると、念視を担う先遣隊の魔道士も同じ景観を追った。ほどなく《Sending(送信)》の声が届く。
「司祭長、周囲の景観をこちらの目印と照合できました。これより誘導を開始します。指示された方向へ速やかに移動してください」
最初の指示に従って根の張り出した東口を抜け、倒れた石碑の手前で北へ折れる。新しい目印へ着くたびに周囲を見せ、《Sending(送信)》で次の方角を受け取った。列を崩さず進んだ先に、朽ちた石柱のある小さな広場が開ける。
そこで空間が歪み、紫色の光から黒いローブの先遣者が現れた。最初の門を抜けた魔道士の一人だ。手にしていた広場の石片を革袋へ戻し、代わりに拠点の壁から持ち出した漆喰片を取り出した。
「司祭長セヴェルス、お迎えに参りました。全員、私の近くへ」
セヴェルスが全員へ備えを命じると、先遣者も輪の内側へ入り、《Teleport(瞬間移動)》を唱えた。紫の光が足元から立ち上がり、一行の頭上で閉じる。次の瞬間、迎えの魔道士を含む全員が先遣隊の待つ拠点へ移っていた。
拠点は巨大な遺跡の一部を補強したものだった。石壁の継ぎ目には銀線が埋め込まれ、探知を逸らす呪紋が漆喰の下で淡く明滅している。外の風音は敷居を越えた途端に消えた。先行していた魔道士たちが恭しく迎え入れ、深く頭を下げる。
「司祭長セヴェルス、お待ちしておりました。拠点の防衛体制は万全です。敵勢力に感知されることはないでしょう」
セヴェルスは迎えの魔道士たちと周囲の壁を順に見渡してから頷いた。
「ご苦労であった。先遣の諸君にも目標を伝える。我々はここを拠点とし、タヴという男を探し出す。その内に眠る魔力を暴走させ、次元の封印を内側から破壊する。これにより、我々の悲願である《次元穿孔》の理論を完全なるものへと導き、その魔法を完成させるのだ。慎重かつ迅速に行動せよ」
魔道士たちは力強く頷いた。セヴェルスは拠点の中央へ進み出ると、全員が顔を上げるのを待って告げた。
「我らが主オルクス様の望みを叶えるため、世界を混沌と死に導かん。我らの行く手を遮るものはない」
魔道士たちは深紅と黒のローブを広げ、低い声を重ねてその誓いに続く。最後にセヴェルスは両手を胸の高さで止め、締め括りの言葉を一語ずつ唱えた。
「Ḫenu isfet em ta(世に混沌のあらんことを)」
締めの一語は拠点の壁を巡り、最後の音だけが長く反響する。やがて声は途切れ、松明の燃える音が闇の中へ戻ってきた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
更新は不定期ですが、じっくり丁寧に進めていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。