革靴で落ち葉を踏みしめる音を聞きながら澄んだ空気に溶ける白い息をぼんやりと眺める。
僕は相変わらずこの季節が得意じゃない。乾燥した空気、肩にのしかかるコートの重み、満員電車で押し付けられる他人の体温、年末に向けた仕事のピリついた雰囲気──挙げればキリがないけれど、極めつけは街中のイルミネーションだ。あの光が過去の自分の不甲斐なさを思い出させる。
十七歳の時、自分を変えようと奔走した数ヵ月間。あの時の僕はあと一歩が踏み出せなかった。憧れの森島先輩に対して『自分はふさわしくない』……そんな思考が頭から離れなかった。身の丈に合わないことをして、もう一度中学の時のような思いをするのが怖くて仕方が無かったのだ。
……そんなことをする人ではないってわかっていたはずなのに。
結局僕は誰とも約束をすることもないまま、惰性で創設祭に出た。気まぐれにミスサンタコンテストのステージを眺めると、キラキラとしたステージで森島先輩に声援が送られていた。
まるで周囲の人間すべてが『身の程をわきまえろ』と訴えかけているようで気分が悪くなった。そのまま視界が歪んで──そこからはあまり覚えていない。
後になって梅原に聞いた話だが、うずくまった僕を絢辻さんが介抱して保健室へ連れていってくれたらしい。
……我ながら情けない話だ。ただ勇気が出なかった癖に諦めがつかない。結果を見せつけられても向き合わないなんて、なんて未練がましい人間なのだろう。なんて自己嫌悪してしまう。そんな人間だから今もうだつが上がらない人生を送っているのだろう。
だからこそ今朝、再び彼女を……
自分にそう叱咤して、深くため息を付いた。
……僕の悪い癖だ。多くの過去を振り返り後悔した所で時間は戻ってこないのに深く考えすぎてしまう。他にもいろいろ考えるべきことはたくさんあるっていうのに。
まあともかく、これ以上何か考えた所で事態が好転するわけでもない。今日のところは酒でも飲んで寝てしまおう。せっかくの金曜日なんだ。少し贅沢をしてもバチは当たらない。
そう心に決めて周囲を見渡す。見慣れたチェーン店や古びた居酒屋もライトアップされていて、魅力的に見えた。
歩きながらどの店にしようか考えていると肩に軽く何かが当たった。反射的に「すみません」と声が出る。視線を目の前に戻すとスーツ姿の女性が立っていて、「いいえ」と手を振る。
「こちらこそごめんなさい。ちょっとよそ見を──」
そう話す彼女は目が合うと口を止めた。それから僕のつま先からつむじまで舐めるように確認する。それから口元に手を当てて、記憶を思い返すように考え込んでいる。
「……どうかされました?」
「いや、学生の頃の知り合いに似ていたもので。いや……やっぱり。橘君……だよね?」
「え?」
突発的に出てきた自分の名前に驚きつつ、改めて彼女を見た。眼鏡の下に鋭く細い目付き、肩より少し先まで伸びた髪、体つきはシャープで引き締まっている。
記憶と目の前の人物の特徴が結びつかない。
「ああ、そうか。これじゃわからないよね」
彼女はそう呟いて眼鏡を外すと、後ろ髪を手で束ねて見せる。そこでようやく目の前の彼女の正体を把握した。
「これでどう?」
「ビックリした……塚原先輩だったんですね」
「私も驚いたよ。まさか橘君と合うなんてね。何年ぶりだろ? 高校を卒業して以来だから……十年ぶりぐらい?」
塚原先輩は髪から手を放して微笑む。十年……改めて聞くとかなりの年月が経っている。だというのに僕はいつまで過去を引きずっているのだろうか。
そんな気持ちを押し込めて僕は笑顔を作る。
「塚原先輩はどうしてこんなところに?」
「仕事の帰りだよ。橘君もそうでしょ?」
「まあ、そうですね。お互い苦労しますね。こんな時間まで」
ちらりと腕時計を見る。時刻は午後の七時半を回ったところで、それなりに残業をこなした後といった感じだ。
「私は普段よりはマシだったかな。突発で対処しなきゃいけない患者もいなかったから」
「患者? ──ああ、そうか。塚原先輩って確か医大に行って……」
「うん。今は小児科で働いているの。夢だったとはいえ、苦労は絶えないね……まあ、仕事の話はこの辺にしておこうか」
僕は『そうですね』と頷いた。僕としても仕事の話をするのは本意ではない。今朝の事は今は思い出したくない。
「橘君はこれから時間ある? せっかくだしどこかご飯にでも行かない?」
「ええ、いいですよ。ちょうどどこかで夕飯を済ませようと思っていたところだったので」
「じゃあ決まりね。近くによく行く居酒屋があるからそこでいい?」
塚原先輩は反対側の歩道を指差す。この先に大衆居酒屋の暖簾が揺れているのが見えた。僕は頷いて、彼女の後に続いた。横断歩道を渡って暖簾を潜る。
元気な店員の声に「二人です」と塚原先輩が答えると、半個室のような席に通される。
彼女は席に付くや否や固く結んだネクタイを緩めた。首筋がチラリと覗く。
店員がお通しをテーブルに置くと先に飲み物の注文を聞いてくる。
「ふぅ……私は最初はビールにするけど橘君はどうする?」
「僕もビールで」
「オッケー、注文は飲みながらにしようか。──ひとまず注文は以上で」
塚原先輩がそう言うと店員は会釈をしてこの場を去った。その後間を開けずに二つのジョッキが運ばれてくる。白んだグラスはキンキンに冷えていて、水滴がその淵を滑った。
「じゃあ、ひとまず十年ぶりの再会に乾杯!」
「乾杯!」
微笑みと共に突き出されたジョッキに応えると、ガラスが心地いい音を奏でた。お互いにビールを口にしてテーブルに置く。塚原先輩は「くぅ~」と息を漏らす。年季の入ったその仕草が高校時代からの時の流れを強調する。
「このために仕事をやっているまであるよね」
「そうですね。何かよりかかるものが無いとやっていられないですよ」
「橘君は普段から飲む方なの?」
「週末とか祝日手前に軽くって感じですね」
「あら残念。結構飲む方かと思ったんだけど……当てが外れたか」
塚原先輩は目線を外しながらジョッキを持ち上げてビールを口に運んだ。
「せっかく飲み友達が増えると思ったのに」
「塚原先輩の誘いならいきますよ。勿論、予定が空いていればですけど」
「そう? なら連絡先貰ってもいいかな。この近くで働いているならまた会えそうだしね」
携帯電話を取り出して連絡先を交換する。女性の連絡先が電話帳に登録されたのは随分と久しぶりな気がした。少し頬が緩む。携帯電話を鞄にしまっていると、塚原先輩は頬杖をついてこう言った。
「───それに橘君なら
「え?」と間抜けな声が漏れた。はるか……塚原先輩がこの局面で言う人物は一人しかいない。理解はできても台詞が上滑りして頭に上手く入ってこない。まるで言葉の受け入れを脳みそが拒否しているみたいに。そんな僕を気にせずに塚原先輩は続ける。
「わかるでしょう? 森島はるか。私の同級生でよく一緒に話してた」
「それは……大丈夫です。理解してます。まだ交流があったんですね」
「大学に行ってもたまに面倒を見てたのよ。あの子は……ほら、あんな感じだったじゃない?」
えらく抽象的だな。でもまあ、言いたいことはわかる。高校生の森島先輩は何かと抜けてたし、周囲を無秩序に振り回していた。本人に自覚は無くてもトラブルの元になることは容易に予測できる。
「私は心配だったんだけれど、いろいろと思うところがあったみたいで、二十歳ぐらいだったかな? 周りの様子とかいっちょ前に気にしてみたり、他人の相談に相談に乗ってみたりだとか……」
「それは何というか……あまり想像しにくいですね」
「でしょ? そう言ってくれる人がなかなか居なくてさ」
今日挨拶された時の冷ややかな声を思い出す。かつてのポップで天真爛漫な感じは一片も感じられなかった。僕も碧の瞳を見るまでは同一人物だと確証は持てなかったから、塚原先輩の言うことも納得がいく。
「性根は昔と変わらないんだけどね。これが大人になるってことなのかなぁ……なんて寂しくなったりして」
「……なんだか保護者みたいですね」
「気持ちとしては似たようなものかも。高校の時は目を放すのが怖かったけど、気が付くと突然成長してたりして……驚いてばっかり。最近は部長になったって報告してきたのよ。昔を知っていると余計にびっくりしない?」
思わず表情が引きつる。自分と関係のない事なら素直に祝福できたかもしれないけれど、僕らはもう上司と部下だ。積み重ねた実績の差で身分を区切られている。もう先輩と後輩に戻れないのは当たり前なのだけれど、その事実をまだ消化できない自分がいた。
「──ええ、そうですね」
形だけ返事をしてみたけれど、塚原先輩は何か気になったようで俯く僕をじっと見た。
「うかない顔だね。さては部長にいびられているとか?」
「……別にそんなんじゃないですよ。来週部長と顔を合わせるのが少し億劫なだけです」
「部長関連なのは当たり、か」
次の言葉に詰まった僕を見て、塚原先輩は小さく首を横に振る。
「別に、遠慮しなくてもいいわよ。相談なら乗るし」
「先輩にそんなカウンセラーみたいなことをさせられませんよ」
「みたいなって、私これでも医者なんだけど」
「……そうでしたね」
この劣等感を他人にぶつけても良い物なのか、結論を出せずに眉間にしわが寄る。そんな僕を見兼ねて彼女は言う。
「そんなに辛気臭い顔で一人にしておくのも、気分が悪いしね。ここで会ったのも何かの縁だと思うし、同じ高校のよしみでタダで診察してあげちゃう……なんてね」
顔を上げた僕と目が合うと塚原先輩はパチっとウィンクをする。彼女の優しさに根負けして僕は深くため息を付く。今回といい、森島先輩といい、僕はいつも誰かの善意によって導かれている気がする。このままではいけないと思ってはいるのだけれど、塚原先輩の行為を無下にはできなかった。
「──すみません。じゃあ、診察してもらってもいいですか?」
「よし! お姉さんになんでも話しなさい!」
そう言って胸を張る先輩は可愛らしかったが、結論から言えば僕は全ての悩みを打ち明けることはなかった。
僕の悩みを素直に打ち明けたのなら、塚原先輩は大切な友人の悪口を言われたように感じるだろう。彼女は友人の陰口を静観できるほど薄情な人間でもないはずだ。
無いとは思うけれど僕の言葉であの関係性が歪んでしまうのは、望むところではない。
だから森島先輩のことは伏せて、勤めている会社の吸収合併と、新しい部長の就任、環境の変化に対しての戸惑いを伝えた。
「──なるほどね。それだけ一気に環境が変わったら顔色も悪くなるか」
塚原先輩は口元に手を当てて、僕から手に入れた情報を整理しているようだった。パチパチと瞬きを二度して、再び視線を僕に向ける。
「転職とかは考えてないんだったよね?」
「ええ、それなりに愛着もある会社ですから」
「それなら、まずはもっと部長さんのことをもっと観察してみるっていうのはどうかな?」
森島部長を観察する……? いまいち要領を得ないな。
「つまり、どういうことですか?」
「ああ、ごめん。これじゃわからないよね。順を追って説明するね」
塚原先輩は人差し指を立てて「いい?」と説明を始める。
「逆の立場で考えてみましょう。橘君の勤め先は合併されたとはいえ、会社の機能自体はそのままなんだったよね」
「はい。上層部が入れ替わった形です」
「つまりは……部長さんは完全にアウェーな部署に身一つで乗り込んできた訳だ」
僕は頷く。事実関係には相違はない。森島先輩以外に僕の部署に異動してきた人はいなかった。
「部署に頼れる味方はいないのに、自分が頑張って部署を引っ張って行かなければならない。そんな立場のストレスは凄まじいと思うよ。環境に負けないように気を張ってるはず」
改めて逆の立場を想像する。味方も無しに、成果を出さないといけない状況。心なしか背中に冷や汗が伝った気さえした。
「──そうですね。考えるのも嫌になる」
「そんな感じだと思うから、職場に馴染んで周りに頼れるようになるまでは、ずっとそのままなんじゃないかな……」
「じゃあそれまで嵐が通りすぎるの待つ……みたいな対処しかないんですかね?」
「いや、そうとも限らないよ」
塚原先輩は首を横に振る。
「二つぐらいは考えられるかな。一つは嵐から離れること。早い話が転職だね。これが一番手っ取り早いけど、それは考えてないんだよね?」
「……はい。もう一つは?」
「もう一つは……難しいけど、その人の味方になってあげること。孤立無援の戦場に誰か一人でも味方がいるっていうのはそれだけで心が安らぐと思うよ」
それは……そうだと思うけどそんな簡単にできることでもないんじゃないか?
ましてや相手が相手だ。森島
「そんな嫌そうな顔しないでよ」
「……うまく行く気が全くしなかったもので」
どうやら表情に出てしまってたらしい。
「まだ知り合ってから一日、二日でしょ? やる前から諦めなくても良いじゃない」
「それは……そうなんですけど……」
「まあ、失敗したら残念会でもしましょ。保証になるかわからないけれど、次の職場に困ったらはるかに口利きしてあげる。……採用の権限あるかはわからないけど、話を聞く限りでは同業他社っぽいし」
その予測は大当たりだが、保証が保証として機能してない。全くもって励ましにならない。だけれど、塚原先輩のやさしさだけは受け取っておくことにした。
「ありがとうございます、塚原先輩。僕、頑張ってみますよ。失敗したら骨は拾ってくださいね」
「そこは、失敗しないように頑張る、じゃないの?」
「……そうですね」
それからは塚原先輩と他愛のない話をした。高校の思い出話や、最近あった少し面白い話。酔った勢いで「今は彼女はいないの?」なんて聞かれたりしたけれど、そんなものは「今も昔もいないですよ」と返した。
塚原先輩は意外そうな顔をしていたけれど、彼女から僕はどう見えていたのだろうか。残念ながらモテているように見えるわけが無いし……まあ、どうでもいい事だ。考えても仕方がない。
塚原先輩がお手洗いに行ったタイミングでふと腕時計を見る。時刻は十時半をとっくに通り過ぎていて、楽しい時間は一瞬だったように感じられた。
「お待たせ」
「いいえ、時間も時間ですし、そろそろお開きにしましょうか」
「そうだね。本当はもっと話したかったけれど、それは次回のお楽しみってことで」
僕は彼女の言葉に「はい」と返事をして立ち上がる。いつの間にか普段よりも飲み過ぎたみたいで、足元が安定せずにふらついた。そんな僕の手を塚原先輩が慌てて掴んだ。
「ちょっと橘君、大丈夫? ごめんね。ちょっと飲みすぎちゃった?」
「……みたいですね。久々に塚原先輩に会えたから、つい……はしゃぎ過ぎちゃいました」
「もう、そんな調子の良いこと言って……。ほら、お店から出ましょ」
塚原先輩の肩を借りて、会計を済ませると店から出る。暖簾が伸びた前髪をなぞって、隙間から月明かりが差した。夜風が火照った身体を冷ますように優しく吹く。
「気持ちいい風だね。って聞いてる?」
「……ええ」
塚原先輩の声が少し遠くから聞こえた気がした。……かろうじて意識は保っているが、先輩にこれ以上迷惑をかけたくはない。早めに退散したいところだ。
「駅まで送っていくよ。そこから先は、この調子だとタクシーかな」
「すみません。肩まで貸して貰って。重くないですか?」
「平気だよ。これでも鍛えてるんだ。それに、道端で倒れられても嫌だしね」
駅まで続く道を行く。おぼろげな意識で見た足元のアスファルトは月明かりと街灯で照らされている。靴底が何度かアスファルトを叩いても、僕らの間には会話は無かった。たぶん気分の悪い僕に気を遣って、塚原先輩が静かにしてくれていたのだと思う。
だけれど夏と違って蟲の声もない、ただ風の音だけが通り抜けていく夜道はなんだか不気味だ。曲がり角からホラー映画みたいに怪物が飛び出してきそうだなんて、突飛な想像をしてしまう。
静寂を振り払うかのように陽気に話しかけようとする前に、背後から声がした。
「────響?」
僕らを待ち受けていたのは、想像していたチープな怪異ではなく、現実的で実態のある存在だった。今朝久々に聞いた声がリフレインする。振り返る前に声の主が誰なのか理解してしまう。
今一番逢いたくなかった人、森島先輩が僕の背後にいる。