「はるか? どうしたのよこんな所で」
声で正体を看破したのは僕だけではなった。塚原先輩は少し声を弾ませて背後を振り返る。それに釣られて僕も体を傾けた。自分の前髪の隙間からスーツ姿の森島
ウェーブのかかった黒髪をなびかせて月光を浴びる彼女は本の世界から飛び出してきたかと思うくらいに神秘的だった。
一瞬見惚れた僕に蒼の視線が突き刺さる。
「それはこっちの台詞よ。誰なの? その人」
「そりゃあ……どっかの誰かさんが約束を仕事優先ですっぽかしたからね。代役よ」
あえてなのか嫌みったらしく塚原先輩は肩口に「ねぇ?」と同意を求めたけれど、僕は上手く言葉を返せなかった。
改めて前髪越しに森島先輩を見る。彼女は堅苦しい表情を崩して気まずそうに視線を反らしていた。その姿を見てようやく目の前の女性が森島先輩と紐付けられた気がする。
「それは……悪かったとは思うけど、仕方なかったのよ。だいたいあの課長が──って、そうじゃなくて! どこの馬の骨か知らないけど響に近づかないで!」
「どこの馬の骨って……失礼なことを言うね。はるかは。
塚原先輩がそう言って、僕の背中を撫でた。こそばゆい感覚に思わず背筋が伸びる。森島先輩は目を大きく見開いて、信じられない物を見たような反応だった。
「この子、仕事で昇進はしたけど相変わらずなのよ」
塚原先輩はそう言って僕の肩を叩く。反応を期待する彼女には悪いけれど、僕の頭は真っ白で言葉も何もない。ただただ心臓の音が早く響く。
「くだらない冗談はやめて。そうやってまた私をからかって──」
カツカツと彼女のヒールがコンクリートを叩いて、僕たちに近づいてきている。冷や汗が背中を伝う。不意を突くように僕の前髪が雑にかき上げられると、至近距離で目線がぶつかる。見開かれた蒼い宝石のような瞳が街灯の光を受けて輝いた。
「えっと……お久しぶりです」
「……久しぶり、橘君」
沈黙に耐えかねて僕が挨拶をすると森島先輩は気まずそうにそう言った。すぐに前髪から手を放して、僕と間を開ける。視線を斜め下に向けてウェーブのかかった黒髪をクルクルと指先で弄る姿がかわいらしかった。学生の頃の姿が薄く重なって見える。
それを見た横の塚原先輩が「何それ」と笑った。
「別に冗談を言ってた訳じゃないって。疑う気持ちはわかるけどね」
「……こんな所で会うとは思わなかったのよ」
「……それは、こっちの台詞ですよ」
こんな情けない姿で彼女に会いたくなかった。
本当はもっとしっかりとした誇らしい自分になっておきたかった。もっとも、今更そんなことを言っても仕方がないのだけれど。
自責の念を振り払うように深く息を吐く。こんな気分になるのならお互いのためにも早く離れた方がいいだろう。不機嫌をずっと取り繕えるほど僕は大人じゃない。
「塚原先輩ありがとうございました。もう……大丈夫です。もう一人で立てます」
「そう? 別に遠慮しなくてもいいのに」
「男としてはいつまでも女性に肩を借りているわけにもいきませんよ。終電もありますし、急がないと」
そんな建前を言って僕は塚原先輩の肩から離れた。 驚きと緊張と戸惑いが僕から酔いを奪っていて、意外にも足取りはしっかりとしていた。
ちらりと正面にいる彼女へ視線を送る。
「
彼女をこう呼ぶのはさっと最後だろう。
僕と彼女はどう足掻いても対等じゃない。これからは目に見える役職で区切られてそれが浮き彫りになる。
だから僕も彼女との距離に線を引いて、同僚としての自分にならないといけないんだ。
僕らはもう先輩と後輩ではいられない。
「ありがとうございました」
「……何が?」
「色々とですよ。高校の時の事とか──今日、塚原先輩を貸してくれた事とか」
「じゃあ、どういたしましてかな。響ちゃんを貸したのは不本意だったけどね」
「ちょっと橘くん。私、はるかに管理されたくないんだけど」
「それはそうかもしれませんね」
森島先輩がムッと頬を膨らませて、塚原先輩が微笑む。制服を着ていた頃の彼女らがリフレインする。
苦さで塗りつぶされていた冷たくも甘い記憶の欠片。
長らく思い出すこともなかったそれは餞別として十分だと思った。
「じゃあ、僕はこれで失礼します。塚原先輩、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。今度は三人で飲みましょ」
「ええ、ではまた」
軽く会釈をして、僕は二人に背を向けた。二歩三歩と歩いた所で背後から逸るように二度アスファルトが音を立てる。背後からコートの裾が引かれた。視界の端にウェーブのかかった黒髪が揺れる。
「……どうしました?」
「どう……したんだろうね」
要領を得ない言葉に振り返ると、蒼い瞳が右往左往していた。彼女自身の戸惑いがにじみ出ている。そんな気がした。
そして絞り出すように彼女は言う。
「……わからないの。でも、でもね! 引き止めなきゃいけない気がしたの。……別にもう会えなくなるってわけでもないのにね」
コートに刻まれたシワが少し深くなった気がした。彼女は僕らの関係が切れるわけではないことを知っている。ただ形が変わるだけだ。それでも引き留めるのは何故なのか、思考を巡らせようとして──止めた。
勘違いさせないで欲しい。そうやって期待して、裏切られた気分になってみじめな気になるのは他でもない僕なのだから。
だけどその言葉にどう返せばいいのか、どうやって彼女を遠ざければいいのかわからなくて視線が上滑りする。その先でため息を付いた塚原先輩が見えた。白い息が晴れると優しい微笑みが覗く。彼女は沈黙を保ったままの僕らにゆっくりと近づく。
「はるか、そんなこと言ったって仕方がないでしょ。橘君には終電だってあるんだから」
「それはそうかもしれないけど……」
「それとも何?
視線を伏せる森島先輩に塚原先輩は問いかける。まるでスキップを踏む子供のような……いや、言葉を選ばずに言えば神経を逆撫でする鬱陶しい口ぶりだった。
森島先輩の肩が震える。
「出す。出すもん! それぐらい!」
「だってさ、橘君。申し訳ないけれど頼めるかな? コーヒーの一杯ぐらい付き合ってあげれば満足すると思うから」
塚原先輩はそう言って僕の肩に手を置く。僕の計画していた逃走経路はきっちりと塞がれてしまった。どうやら僕はどうしても森島先輩と向き合うしかないらしい。
深呼吸をしてから少し下に視線を落として、森島先輩を見る。
「……わかりました。ちょっとだけですよ」
「ホント!? じゃあどこでお茶しようか」
「はるか、こんな時間なんだからもうどこも閉まってるって」
「それもそうね」
ごもっともだ。居酒屋から出た時から更に時間は過ぎ、下手をすると民家の明かりも消え始める時間だろう。
森島先輩は周囲を見渡して、少し離れた場所を指差した。
「残念だけどそこのベンチにしましょ。近くに自販機もあることだし」
森島先輩の視線の先、土手の
「……じゃあ私はここまでね」
「何? あれだけ焚きつけておいて響は帰っちゃうの?」
「私は十分話したからね。それに私、酔ってるの。橘君ほどじゃないけれど」
塚原先輩はそう言って笑うと僕に発破をかけるように肩をまた叩いた。
「またね、橘君。はるかのこと、お願いね」
「お願いって……どういう」
「そうね。橘君風に言うなら……
言葉の真意を測りかねた僕を置き去りにして、塚原先輩は僕らに背を向けた。じゃあねと手を振って森島先輩は先に歩きだす。
僕は置いて行かれないように彼女の背中を追いかけた。
「……全く手間のかかる」
僕の背からそんな言葉が聞こえた気がしたけれど、誰に向けた言葉だったのか確かめる術はもうなかった。
▼
ガコンと音を立てて自販機が飲み物を吐き出した。しゃがんでいた森島先輩から缶コーヒーを受け取る。この寒空の下で冷えた手にはありがたい温もりがじんわりと広がる。
本当は僕が支払うつもりだったのだけれど、彼女は僕が財布を出すことを頑なに拒んだ。「私、先輩だから」なんて嬉しそうに言っていたけれど、高校生の頃の彼女はそんなこと気にも止めてなかっただろうに。なんて、心の中でそんな風に悪態を突いた。
森島先輩は小走りでベンチに座って、急かすようにトントンと叩く。
「そんなに慌てなくても逃げませんよ」
「嘘、さっきは逃げようとしてたでしょ」
「……ノーコメントで」
そう言葉を濁して彼女の隣に腰を掛けた。「乾杯」と差し出された缶に応えて、プルタブを起こす。缶コーヒーは苦みを甘さで塗りつぶしたみたいな味がした。
そんなものを口にしたから、蓋をしていた記憶を思い返したのかもしれない。
「先輩は覚えていますか? 学校から少し歩いた所にある、海と大きい山の見える公園」
「覚えてるよ。私、あの公園好きだったから。それこそ昔は毎日行くぐらいに」
「高校一年の時、あそこで先輩に会ったのを思い出しました」
一度目を閉じて記憶を辿る。かつてのクリスマスの反省と、きれいな景色。笑顔で話しかけて来てくれた森島先輩。落ち込んでいた自分を奮い立たせてくれるような一瞬のデアイ。
あの瞬間は過去の僕にとって必要なものだったように思う。
「確か……飼っていた犬に似てる、なんて言われたんでしたかね?」
記憶の断片から拾ったピースを呟くと、隣の彼女が息を呑んだ。
「驚いた……橘君が公園君だったのね」
「……公園君?」
「私が勝手にそう呼んでいただけ。あの時お互いに名乗らなかったじゃない?」
「そうでしたかね?」
「とても印象的で楽しかったから周りにそうやって話してたの。君のこと」
あの時間が彼女にとっても大切なものだったなんて、なんだか光栄な話だ。
「……思い出せなくてごめんなさい」
「良いですよ。別に、覚えてると思って言った訳じゃ無いですから」
沈黙が支配する間に、缶に二度口をつけて、一度吐いた白い息が登るのを眺める。視線の端で森島先輩が両手で缶を握りしめていて、それからゆっくりと口を開く。
「……私ね。あの公園にはジョンと……飼っていた犬とよく行ってたの。何年も前にクリスマスになくなったんだけどね。そのことを思い出す度に辛くて、落ち込んで……もうこれ以上ジョンに心配かけないようにってあの公園に行ったの」
「……嫌なことを思い出させちゃいましたね。すいません」
「え? ああ、そう言うことが言いたかったわけじゃないの」
森島先輩が僕の言葉をかき消すようにひらひらと右手を振った。
「あの時公園のベンチでしょんぼりしている橘君が本当にジョンにそっくりで、ほっとけなくて……嬉しかった。悲しいことはあったけれど、それ以上に楽しい思い出もちゃんと残ってるって思えたの」
ベンチに置いていた右手の上を彼女の左手が滑った。思わず跳ねそうになる肩をぐっと堪えて森島先輩を見る。長髪から覗く耳が紅くなっている気がした。
「だから、ありがとう橘君」
「どういたしまして」
僕はそう言葉を返して右手を少し動かした。手を添えたのはどうやら無意識だったらしく、彼女はは慌てて手を引っ込める。それから何事も無かったかのように早口でまくし立てた。
「と、ところで橘君はあの時、何であの公園にいたの?」
何気ない言葉が僕の古傷をえぐった。彼女は何も知らない。悪気は無いのはわかってる。けれど、何事もなかったように振る舞えるまで失恋を消化できてはなかった。
「ごめんなさい。言いたくないのなら良いの」
森島先輩は申し訳なさそうに、今度は意図的に僕の手に触れた。手の甲を包むように掌が覆う。じんわりと熱が伝わる。
あの時、何年も前。あの公園で会った時もこうやって彼女は寄り添ってくれた。月日と対話を経て距離感はずいぶんと変わったけれど、彼女の優しさは変わらず、今もここにある。
だからずっと秘めたまま、誰にも話さずにいた心の内を晒すことに決めた。
ギリ一年ぶりにならずに済みました。