朝、通勤途中に必死に駆けていく少女を見たな。

って、それだけのお話。

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衝動

 朝のラッシュアワー

 

 

 誰も彼もが疲れた表情のまま

 

 

 鉄の棺桶の中に自らを押し込めようとする

 

 

 何処へ向かっているのか

 

 

 何処へ向かうべきなのか

 

 

 何もかもを分からないままで

 

 

 世界がモノクロームへと沈むそんな時間帯の中で

 

 

 コートにマフラー姿の一人の少女が駆けていた

 

 

 白い息を弾ませ

 

 

 何かに追われるように

 

 

 事実として少女は追われていたのかも知れない

 

 

 誰かにぶつかる度に気の毒になるくらいに頭を下げて

 

 

 時には自身が跳ね飛ばされそうになっても

 

 

 それでも諦めることを知らぬかのように走り続ける

 

 

 でも滑稽な独演会も長くは続かない

 

 

 少女はとうとう無様に足をもつれさせ

 

 

 そのまま地べたに倒れ伏した

 

 

 立ち上がりたい

 

 

 でも立ち上がれない

 

 

 全身の汗が熱を奪ってゆく

 

 

 荒い呼吸が力を奪ってゆく

 

 

 痛む膝先に悔しそうに顔を歪め

 

 

 それでもと腕を立て

 

 

 立てず

 

 

 ままならぬ無様にアスファルトを睨め付けて

 

 

 それでも、と

 

 

 瞬間、視界が切り替わる

 

 

 強引に腕を取られ引き上げられた

 

 

 知らない大人であった

 

 

 さきほどまで世界に埋没していた

 

 

 昏い目をしていた一人の女性であった

 

 

 誰にもなれなかった

 

 

 何も為せなかった

 

 

 そんないつかの少女の成れの果てであった

 

 

 残骸が何処か眩しそうに唇に弧を描く

 

 

 立たせた少女の背中を乱暴に強く押した

 

 

 ただそれだけ

 

 

 気遣うわけでもない

 

 

 救うわけでもない

 

 

 ただ「もっと走れ」と背中を押しただけ

 

 

「さぁ、あの日の続きを始めよう」

 

 

「もう、自分は走れないのだから」

 

 

 確かに唇がそう動いていた

 

 

 とどのつまりの自己満足

 

 

 身勝手で無責任な押し付けに過ぎない

 

 

 押された勢いが

 

 

 込められた熱が

 

 

 あまりにも強かったせいだろうか

 

 

 少女はその場でたたらを踏む

 

 

 でも、それだけ

 

 

 よろめきながらも

 

 

 転げそうになりながら

 

 

 それでも少女は駆けてゆく

 

 

 何度も何度もつんのめりそうになりながらも

 

 

 その度に

 

 

 疲れた男が

 

 

 くたびれた老人が

 

 

 道行く誰かが

 

 

 これ幸いと少女の背を気軽に押してゆく

 

 

 背中に貼り付けられてゆく無数の手型

 

 

 少女が走る理由は分からない

 

 

 立たせた女にも、走らせた男にも、見送った老人にも

 

 

 誰にも、誰にも

 

 

 きっと、もはや少女自身にも

 

 

 もう本当のところは分からないのかも知れない

 

 

 それでも少女は走り続ける

 

 

 背中の模様はいつしか紅葉のように舞い散って

 

 

 パラパラこぼれつづけるそれは

 

 

 まるで羽根のように少女の加速を後押しする

 

 

 いや、事実それは羽根であった

 

 

 無数の白い羽根は止め処無く少女の背からこぼれつづけて

 

 

 やがて一対の翼となって伸びてゆく

 

 

 何処までも

 

 

 何処までも

 

 

 少女の目指す先へと運んでゆく

 

 

 翼を得た少女は

 

 

 加速する

 

 

 加速する

 

 

 加速する

 

 

 天にも届けと言わんばかりに走り続ける

 

 

 例えその先に干涸らびる未来しか待ってなかったとしても

 

 

 小さなテラリウムの世界を飛び出すために

 

 

 彼女はその一瞬を駆け抜けた

 

 

 もはや行き着く先すらも分からぬままに――。


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