雲母坂と廊下ですれ違った。瞬間、彼女は大袈裟に身体を震わせ、少し先に居た灰原のところへ駆け寄った。
(……マジで何がしたいんだ?)
世那が高専に赴く回数はさほど多くないのだが、来るたびにこうした謎のパフォーマンスを見せ付けられている。灰原からは「前に訓練でコテンパンにされたのが怖かったらしいですよ」と聞いた。なお、その「訓練」とやらは交流会の日にいちゃもんを付けられた時のことなので、完全に事実無根である。
事あるごとに頼られている灰原はといえば、雲母坂の訴えに対して「僕も散々やられたよ! 加乃舌さんスパルタだよね!」「実際怖いからしょうがないよ!」と相談に乗っているんだかいないんだかよくわからない返答をしていた。優しいから付け込まれているのだろう。彼は世那のこともそれなりに慕ってくれているので、雲母坂が何を言ったとて灰原から世那への好感度が変動することはなかった。
「や、世那」
「傑。どうしたんだ?」
「色々用があってね」
退寮の手続きが終わったので帰宅しようとしたところ、後ろから傑が声をかけてきた。
以前から言っていた高専入学前の子どもたちを保護する中立機関。傑は、嵯峨山家の残った敷地を丸ごと乗っ取ることにしたらしい。現在はリフォーム中で、来年には完成するとか。
たしかに表向きは呪術を扱える子どもたちを受け入れていた施設なだけあって、嵯峨山家の施設は必要なものが揃っている。金に困ってはいないといえど、これから入ってくるであろう子たちを不自由なく育てるためには浪費もしていられない。「あんなのでも私の役に立てるんだから感謝してほしいね」と悪どく笑っていた。
「美々子と奈々子は?」
「施設に来たいってさ。折角普通の家庭で過ごせているんだから、そのままでもいいのにね」
「はは。それだけきみのことが好きなんだろう」
傑が三年生の時に連れて来た双子の少女たち。今は窓の夫婦のもとで平和に暮らしているという。それなのにわざわざ施設で傑と過ごしたいと言うのだ。彼女たちの傑に対する心酔っぷりは高専で保護されていた数日の間でよく思い知った。傑自身満更でもなさそうな顔をしているのだし、全員に不満がないのならそれが一番良いのだろう。
高専には施設の責任者としてこれからよろしくお願いします、という話のために訪れていたらしい。きっちり書面も交わしたそうだ。
「折角だし何か食べに行く?」
「おっ。スタバの期間限定フラペが飲みたかったところなんだ」
ちょうど良い誘いにぎゅっと手を絡めて元気よく振った。手を繋いだまま高専の長い階段を降りていく。
「今の限定って何?」
「レモングリーンティーフラペチーノ」
「ショット追加は合わなさそうだなあ」
「前のいちごよりは甘くないだろ」
カシャ、と後ろで写真を撮る音がした。振り返ってもパッと見では誰も居ないように見えるが、雲母坂が木の後ろに隠れているのが気配でわかった。
傑がすこし声をひそめて世那に聞く。
「誰?」
「一年の雲母坂」
「撒こうか」
「いや……」
顔を寄せてひそひそと囁く。後ろで呪力が膨れ上がり、またシャッター音がした。まだ感情による呪力の揺れをコントロールできていないのか、と思う。
話し合って、とりあえず放置することにした。彼女がどういった行動に出るのか少し興味がある。
長い階段を降りて少し歩き、電車に乗り込む。何駅か行けば、都心とまでは言わずともそこそこ栄えた場所まで行ける。
そうして移動している間も雲母坂はずっと二人の後を追いかけてきた。
目的のコーヒーチェーン店に到着し、世那は飲みたいと語ったレモングリーンティーフラペチーノを頼んだ。ついでに軽食も。横に立った傑が、同時期に発売されている別の期間限定のものをめざとく見つけてそちらを注文した。
特に何のやり取りもなく世那が全額支払う。金があるぶんこの程度の出費には頓着しない。次にまた出かけた時は傑が支払うだけだ。厳密に決まっているわけではないが、なんとなくそういう暗黙のルールができていた。
「トイレに行ってくる」
そう言って世那が席を外す。すると見計らっていたかのように雲母坂がやって来て、世那の座っていた場所を奪った。
「夏油先輩っ」
「……見ない顔だね。京都校の子?」
「東京校一年の雲母坂聖奈です。聖奈って呼んでください」
女子の平均よりやや下の小柄な体躯。光に当たると茶色く見える平凡なセミロングの黒髪に、ぱっちりとした丸っこい瞳。なんというか、今日の夜寝る頃には忘れていそうな顔立ちだ。
「夏油先輩、加乃舌さんに騙されてます。目を覚ましてください」
「どういうこと?」
雲母坂が言うには、世那は悟と付き合っているのにもかかわらず、傑とも関係を持っているとんだ阿婆擦れなのだそうだ。どちらが浮気相手なのかはともかく、そんな女とは早く別れるべきだ、と必死に説得してくる。
傑にとって雲母坂は初対面の相手である。何やら妙な勘違いをしているらしいが、一応はそれを訂正しようと試みる。
「育ちのせいかな。世那は男兄弟しか居ないし、男友達も居たから、あんまり男女差みたいなものは意識していないんだ。君からは恋人のように見えるのかもしれないけど、私も悟もそういう関係ではないよ」
世那はシンプルに距離が近い。仲の良い相手にはそれが顕著だが、そうでない相手でも手に持った書類を見るために顔を近くに寄せる程度のことはする。見知らぬ相手ならば普通は距離を取る場面でも彼女は気にしないのだ。
見た目の印象からはあまりボディタッチをしてくるようなタイプに見えないのも拍車をかけているのだろう。勘違いした補助監督に言い寄られたりして、ここ最近になってその無警戒さがようやく改善されてきたところだ。なお、その補助監督は女性であった。
「そ、それ、「サバサバ系」ってやつですよね」
雲母坂はなお言い募る。
「「私ってサバサバしてるから女子より男子のほうが気合うんだよね〜」みたいなこと言って近付いて、実は男の人を狙ってるんです。たまにいますよ、そういう人。夏油先輩はそんなつもりないかもしれませんけど加乃舌さんは……」
思ったより話が通じなさそうだな。
傑はそう思って、手に持ったカップのストローをぐるぐる回して中身をかき混ぜる。世那が戻る前に全部飲み干してしまいそうだ。
「君の言うとおり悟と世那が付き合っていて、私が浮気相手だとしよう。で、君は一体どうしたいんだい?」
え、と雲母坂は静止する。
「こうして私に忠告するってことは、他人の痴情のもつれを面白おかしく眺めたい……ってわけじゃないんだろう?」
そうして傑は、残酷ながらも正しい言葉を口にする。
「たとえそれで二人が別れたからって、君が悟の恋人になれるわけでもないのに」
それを聞いた彼女の表情は曇り、テーブルの上に視線を落とす。本当に悟と付き合うつもりだったのだろうか。傑はフ、と鼻で笑った。
雲母坂は知らない。いや、知っていてなお、自分はその対象ではないと思っていたのだろうか。夏油傑という人間は、自身の懐に入れた人間以外のことは常にうっすらと見下しているということに。
「クックック。悟に好かれたいならさ、まずはその呪力の乱れから直したほうがいいよ」
言動を矯正してからの悟はずいぶん丸くなったが、かといって本質は変わらない。彼の興味を惹くものは、強者か、呪術界を変えうる新しい風を吹かせてくれるような人物だ。雲母坂はそのどちらにも属さない。一年の頃の悟が彼女に会ったとするなら、一言目は「どっか行けよザコが」、になるだろう。
「だって……私は、私は…………」
傑は携帯をポチポチ弄って後輩とのメールのやりとりを見返した。
「灰原や七海にも世那が怖いって泣きついたんだろう? 迂遠な言い方をして相手が自分の都合の良いように読み取って行動してくれるのを期待した? 言わなくても察してもらえるなんて思わないことだ」
もう四年の付き合いになるのだ。何度も死線を潜り抜けた。一度二度顔を合わせただけの相手に乱されるような関係ではない。
「私からすれば、君はさしずめ「相談女」のように見えるけどね」
雲母坂は駆け出した。逃げていく背を見送りながら、携帯を持ったままの手がメールを送信する。「帰っていったよ」。その文面に、少しして世那が戻ってくる。
「どうだった?」
「ああいうタイプ、君は苦手そうだね」
「はは、よくわかっているな」
雲母坂が接触して来ると読んで敢えて席を外していたのだ。世那は椅子に座ってドリンクを飲んだ。すこし氷が溶けている。
「どうせそのうち自滅するさ」
「言えてる」
うまくいかないことばかりだ。
前世でよく知っていた世界に生まれたというのに、その中核となる人物たちとは世代が微妙に合わない。術式を持って生まれたのに、既に自分の上位互換が居る。
転生したというだけで物語の主人公のように強くなれると当然のように思っていた少女は、ろくな努力もしないまま一人の人物に怨嗟の言葉を吐き続ける。
加乃舌世那。すべて彼女のせいだ。彼女の立ち位置は本来なら自分のものだった。自分ならもっとうまく立ち回ってより多くの人を救うことだってできた。生まれるのが数年遅かった。たったそれだけなのに。
先日傑に「相談女」と言われてから、雲母坂はイライラしっぱなしだ。世那が傑を誑かしたのだ。そうに違いない。
自分は愛され夢主。これは嫌われ夢で、世那は悪女。そのうち世那はその本性を白日の元に晒し、これまでの非礼を詫びることもせずみっともなく喚くだろう。そうすれば傑も悟も彼女に幻滅し、雲母坂に謝罪し、溺愛ルート一直線になるはずだ。
休憩所に向かうと、悟がソファに座っているのが見えた。
彼らは五年生で、高専に頻繁に顔を出すわけではない。事態が思い通りに進展しないままただただ時が過ぎ去ることに雲母坂は焦りを隠せないでいた。その貴重な訪問の機会を逃すわけにはいかない。彼女は一目散に悟のもとへ駆け寄った。
「五条先輩!」
「ん? えーと……誰だっけ」
「雲母坂です」
「ああ……」
適当な返事をして手元に視線を落とす。何かの紙束があった。
「何読んでるんですか?」
「教員向けのハラスメント教育資料だって。これあとでレポートにまとめて学長に提出しなきゃいけないんだよ、クソダルいよねー」
雲母坂は悟の横に座り、「大事な話があるんです」と携帯を取り出した。画面には世那と傑が手を繋いで、親しげに顔を寄せている写真が映っている。
「加乃舌さん……夏油先輩と浮気してるんです」
悟はサングラスの奥にある目をぱちくりとさせ、その言葉を飲み込むと、肩を震わせて笑い出した。
「マジ? 交流会の時のアレ本気にしてたの? 僕が世那と付き合ってるわけないじゃん」
「えっ、でも……」
「悟?」
休憩所の入り口から傑が顔を出した。悟は「傑!」とパッと顔を輝かせて立ち上がり、一目散に飛びついた。
「久しぶり!」
「一週間そこらだろ。犬かよ君は」
「今まで毎日のように会ってたんだから一週間も会えないのは長いでしょ」
「五年になって何ヶ月経ったと思ってるんだ」
「てか何で居るの?」
「学長から頼まれてね。もう終わったけど」
長い腕で幸せそうに傑を抱きしめる。傑のほうも困ったように笑いながら、悟の背をポンポン叩いていた。二人はひとしきりその場で喋ったあと、男子寮のほうへ消えていった。
まるで相手にされていない。雲母坂は両膝の上で拳を握りしめてぶるぶる身体を震わせた。