魔女は今世でも彼女と一緒にいたい!!仲良くなりたい!!守りたい!! 作:猫とふりかけ
すやすやすや。ぐーぐー。
どうして、眠るという行為はこんなにも気持ちがいいのだろう。
半ば意識があるまま、まどろみに身を任せていると、周囲のガヤガヤとした声がBGMのように心地よく響く。
窓から吹き込む涼しい風と、秋晴れのやわらかな日差し。まるで天然の安眠剤だ。
人の話し声すらも、今は子守唄に思える。いくつもの条件が完璧にそろって、ようやく得られる至福の眠り。
あと必要なのは、オルゴールの音くらいか。
そうすれば、完全に夢の世界へ旅立てる。目指せよ快眠。勝ち取れ安眠。
いざ、夢の世界へ——そんな歌詞が頭の中で反響する。聞いたことがあるような気がする、でも思い出せない。妙に懐かしいメロディ。明らかに平成の曲じゃない。それだけははっきりしている。
なぜ? どうして?
気になるけれど、思案と眠気を天秤にかければ、眠気が勝つ。
思い出せないなら、考えても仕方ない。こんなに心地いい時間なのだから、今は安眠を優先したい。
「……榴……柘……榴……柘榴!」
しつこく呼ばれる声に、ゆっくりと意識が浮上する。重たい瞼を押し上げて机から顔を上げると、正面にはおさげ髪の少女——狩屋鮮花が立っていた。
本当は、あと5分は寝ていたかった。けれど、これ以上彼女を待たせるわけにもいかない。
私はあくびを噛み殺しながら言った。
「……なに?」
「『なに?』じゃないよ! 授業、終わってるってば。今日はトイレ掃除でしょ?」
「トイレ掃除……」
大きく伸びをして、ぼんやりと教室を見渡す。たしかに、社会の野村先生の姿はない。周囲の生徒たちは掃除の準備を始めているようだ。
椅子を机に上げ、私はのそのそと机を移動させる。鮮花は、私の片付けが終わるのを黙って待ってくれていた。
「さて、行きますか」
「うん、行こう」
鮮花が教室のドアを開けると、そこにはクリーム色のスーツを着た女性の姿があった。
教頭の雨森伊代先生だ。髪は後ろでひとつに束ねてある。
なぜ彼女がここに? 鮮花と顔を見合わせる。口を開いたのは、雨森先生の方だった。
「銀灰さん」
「はい、なんでしょう」
「至急、校長室に来てもらっていいかしら?」
「……はい。すまない、鮮花。トイレ掃除、頼むよ」
「りょーかい」
鮮花と別れ、雨森先生のあとをついていく。長い廊下を渡り、階段をのぼって——やがて、校長室の前に辿り着く。
そこには、紺色のスーツを着た中年の男性が立っていた。
不機嫌そうな表情でこちらを見るその人は、私の叔父にあたる銀灰幸治だった。
「叔父さん……来てたんですか?」
「ああ。仕事中だってのに、まったく迷惑な話だ」
「……あはは。すみません」
「お前が謝ることじゃない」
「はい……」
雨森先生が校長室の扉をノックする。中から聞こえたのは、聞き慣れた女性の声。
「どうぞ」
扉を開けると、校長・花川卑弥呼先生が机に向かっていた。彼女は立ち上がり、私たちを迎え入れる。
「どうぞ、おかけください」
——コンコン。
またノックの音が響く。「どうぞ」と花川先生が答えると、入ってきたのは杖をついた理事長、大川平次渦正先生だった。
胸がざわつく。教頭、校長、そして理事長。
ここまでのメンバーが揃うなんて、私はいったい何をやらかしたというのか。
夕方の淡いオレンジの光が、窓から差し込む。
「……あの、姪が何かやらかしたんですか?」
おい。叔父さん、いきなりそれはないでしょ。
失礼すぎるその言葉に、思わず睨みつけてしまった。
だが、大川先生は豪快に笑い、花川先生は首を横に振った。雨森先生は、少しだけ苦笑いを浮かべている。
……うん。正直、心当たりが多すぎるのが困るけど。
「違いますよ。彼女は、問題なく過ごせています」
「では……なんのご用件でしょうか?」
「こちらをご覧ください」
花川先生は一枚の封筒を差し出す。叔父が受け取ると裏には『ホグワーツ魔法魔術学校』と記されている。封は既に剥がされており、読まれた形跡があった。
「拝見しても?」
「どうぞ」
私も手紙を覗き込んだ。そこにはホグワーツの入学許可証が入っている。すべてを把握したのか、幸治叔父さんは羊皮紙でできた許可証を封筒に戻した。それから、叔父さんは静かに言う。
「なるほど、つまり、姪をホグワーツへ留学させたいのですね」
「その生徒が私……」
私の言葉に花川先生は頷いた。ホグワーツ魔法魔術学校。イギリスにある有名な名門校だ。校長はアルバス・ダンブルドアという人物であることも知っている。私がホグワーツに通うなんて、夢のようだ。
「はい、互いの仲を深めさせる為に実施しました。是非、あなたに行ってもらいたい。英語の成績も魔法が優秀なあなたに」
「留学……」
正直なところ留学したいところだ。言葉の壁に関しても問題ない。英語がペラペラなので、留学先でも困らないだろう。だが、問題はある。私にとっては、死活問題になるほどだ。
そう、その問題は……。
(ご飯大丈夫かな?留学すれば、しばらく日本食が食べられない……)
一番の問題は食事である。なんせ、白米、漬物、味噌汁を日常で食べてきた私にとってはしばらく食べられないのは耐えられない。
確かにイギリスでの食事は楽しみであるが、日本食は誰よりも好んでいる。むしろ、愛しているといっても過言ではない。それぐらい私は日本食が好きだ。
もちろん、イギリスの庭で紅茶を片手にスコーンを食べるのは夢である。スコーンにクロテッドクリームとイチゴジャムを塗って、かぶりつく。うん、想像しただけで、腹が鳴りそうだ。
私はしばらく考える。日本食を食べるためにマホウトコロに通うか、自身の夢であるイギリスの留学をとるか、二択の選択が私に迫ってきた。数分経ったのだろうか。私はゆっくりと口を開いた。
「留学に行きます」
「英断、感謝します」
花川先生は微笑み、雨森先生と大川先生は穏やかに頷いている。花川先生は杖を取り出すと軽く振るう。すると座卓の上にA4サイズの封筒が出てきた。花川先生は封筒を私に渡す。封筒の中身は一年生に必要なリストが入っている。
本当に行くんだ。イギリスに。
「それでは、銀灰さん。留学生活を楽しんでくださいね」と雨森先生は言い。「さあ、行って来なさい。また会ったら、土産話を待っておるぞ」大川先生はにこやかに笑う。
「はい、教頭先生、理事長、いってきます。それでは、失礼します」
幸治叔父さんと私は校長室から退出した。彼は腕時計をちらりと見て、私を見る。さながら、面倒くさそうにしていたが、ほんの少しだけ、嬉しそうなのは気のせいだろうか。いや、見間違いなのかもしれない。幸治叔父さんに限ってそんなことはないだろう。彼は私のことをあまり好いていないのだから。
「お金どうしよう……」
その言葉を聞いた幸治叔父さんはため息を吐いた。それから、淡々とした調子で言う。
「心配するな。金に関しては俺が説得する。だから、お前は成績のことだけを考えろ」
「はい、ありがとうございます」
「失くすなよ。しっかり持ってろ」
「はい」
校長室で幸治叔父さんと別れると私はすぐに教室に戻った。それから、2階のトイレ掃除を目指して、歩を進める。トイレに着いたときに鮮花はデッキブラシを持って、床をゴシゴシと磨いていた。仕事の早い鮮花に私はお礼を述べる。
「ありがとう、鮮花。助かったよ」
「いいよいいよ。それで?教頭先生に呼ばれてどうしたの?」
「実は……かくかくしかじかで……」
私は鮮花に自身がホグワーツ魔法魔術学校に留学することを話した。すると、鮮花は驚いた顔で、私を見る。
「え!?すごい!あのホグワーツに留学!?すごいじゃん!流石親友!」
「まさか留学とは思わなかったよ」
「今日は喫茶店でお祝いだね!奢るよ!というわけで、トイレ掃除終わらせるよ!」
「うん、そうだね。ありがとう。友よ」
鮮花は満面の笑みでブラシを動かし、トイレ掃除の仕上げにかかっていた。床に残った水を水切りワイパーでかき出すと、パッと顔を上げて私にウィンクを飛ばす。
「これでよし、と!それじゃあ行こうか!」
「うん」
お手洗いを出て、廊下を渡ると私服姿の桜木清右衛門先輩と若王寺勘兵衛先輩が歩いている。二人の姿を見た鮮花は大声で手を振りながら呼びかけた。
「桜木先輩!若王寺先輩!お久しぶりです!」
「ん?鮮花じゃないか!」
鮮花の声に若王寺先輩が気づいた。桜木先輩も私達の方へ振り向く。すると、彼もにこりと笑う。
私は二人にペコリと頭を下げる。
駆け寄る鮮花に若王寺先輩は「廊下は走るなよ」と言っていた。
私も後から二人の方へ歩み寄る。
それから、鮮花は大ニュースと言わんばかりに興奮気味に二人に話しかけた。
「聞いてください!柘榴がとうとうホグワーツに留学ですよ!」
それを聞いた二人は僅かに目を見開いた後にそれから、私を見る。
若王寺先輩は私に話しかけた。
「本当か?」
「はい、ホグワーツに留学することになりました」
私は照れくさい気持ちを隠しながら、二人にホグワーツに留学したことを話した。
「すごいじゃないか。ホグワーツに留学なんて」と桜木先輩は嬉しそうに言う。「ああ、すごいな」若王寺先輩も桜木先輩に同調した。それを聞いた鮮花は誇らしいのかますます笑顔になる。いや、鮮花さん?留学するの私なんだけど。あなたが喜んでどうするの。
まあ、喜んでくれて、嬉しいけどさ。
「確かイギリスだったな」
「はい、イギリスのスコットランド地方です」
若王寺先輩の言葉に私は頷いた。
「確か14時間だったっけ、大変だよね」と桜木先輩が言うと、私は苦笑しながら頷いた。
「はい、直行便じゃないので、乗り継ぎも含めるともっとかかるかもしれません」
「おお……それは気合いがいるなあ」
桜木先輩は感心したように目を丸くし、腕を組んだ。
「でも、柘榴ならきっと大丈夫だよな」
若王寺先輩が静かに言うその声は、優しくも力強かった。
「ありがとうございます。……正直、まだ実感は湧いていないんですけど、がんばります」
私は少し背筋を伸ばして言った。心の中には不安もあったけれど、こうして背中を押してくれる人たちがいるから、頑張れる気がした。
桜木先輩はその言葉にふっと目を細めた。
「偉いなあ、柘榴は。俺が同じ年だった頃は、将来のことなんて全然考えてなかったよ」
「私もだな」
若王寺先輩が苦笑混じりに呟く。「海外に行くなんて、想像すらしてなかった」
「でも、先輩方だって、今は立派にやってるじゃないですか」
私は思わずそう言った。自然と出た言葉だったけど、二人は少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「……ありがとな」
桜木先輩が頬を人差し指でポリポリと掻いていた。
「そう言ってもらえると、ちょっとは自信がつくな」
若王寺先輩も嬉しそうにしている。
そんなやりとりの後、しばしの沈黙が流れた。
でも、それは気まずいものじゃなく、どこかあたたかくて、言葉がなくても通じるような――そんな沈黙だった。
やがて若王寺先輩が時計を見て、小さく息をつく。
「そろそろ、行かないと」
「あ、そうでしたね。すみません、引き止めちゃって」
「気にするな。いい話を聞けたから、むしろ感謝したいくらいだ」
「応援してるよ、柘榴。体に気をつけて、元気でな」
桜木先輩がそう言って、私の頭を軽くポン、と撫でた。
「……はい。ありがとうございます」
私も深く頭を下げる。隣で鮮花がぱっと手を振った。
「また会いましょうねー! 次は帰国祝いで集合ですよ!」
「おう、楽しみにしてる!」
そう言い残して、二人の先輩は並んで廊下を歩いていった。
その背中が見えなくなるまで、私と鮮花はじっと見送った。
「……いい先輩たちだ」
ぽつりと私が言うと、鮮花は小さく頷いた。
「うん。こういう人たちがいると、未来も少し怖くなくなる気がするよね」
「ああ……そうだね」
私は静かに答えて、そっと胸に手を当てた。
あの人たちに、恥じないように。
私は私の歩幅で、前に進んでいこう。
そう思いながら、私はもう一度、まっすぐに前を見据えた。
それから、教室に辿り着いたときには、生徒のほとんどが席に着いていた。鮮花と私はそっと教室に入り、自分の席に腰を下ろす。数秒後にチャイムが鳴り、ちょうどぴったりのタイミングだった。
「ふぅ、間に合ったね」
鮮花が私の隣で小さく囁いた。私はこくんと頷く。
やがて、教室の前方の引き戸が開いて、土井先生が入ってきた。
ジャージ姿の先生はいつもの柔らかい笑みを浮かべながら、教壇の前に立つ。
「さて、今日のホームルームだけど――」
そう言いかけて、先生の視線がこちらに向く。私と鮮花の方を見て、少し目を細めた。
「銀灰、ちょっと前に出てきてくれるか?」
「えっ、私ですか?」
突然の指名に少し戸惑いながらも、私は立ち上がり、教壇の横まで歩いた。土井先生はにっこり笑って、皆の方を向く。
「今日は、銀灰からみんなに伝えたいことがあるそうだ。な?」
先生の促しに、私は深く息を吸ってから、クラス全体を見渡した。
視線が一斉に集まる。心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
でも、逃げるわけにはいかない。だから、私は真っ直ぐに前を見た。
「えっと……私、明後日から、イギリスにあるホグワーツ魔法魔術学校に留学することになりました」
その瞬間、教室がざわめいた。
「ホグワーツ?」「魔法学校!?」「すごっ!」
と、あちこちから声が上がる。なかには驚いた顔で目を見開いている子もいれば、羨ましそうに見てくる子もいた。
そんななか、土井先生が補足するように話す。
「柘榴は英語の成績も一番で、魔法の成績も優秀なことから留学に選ばれた。皆、拍手をして祝福してくれないか?」
その言葉に、何人かの生徒がぱちぱちと拍手を始めた。次第にクラス全体に広がっていく。
私はその音に包まれながら、少しだけ俯いて、照れたように笑った。
――ああ、こうして見送ってもらえるの、すごく嬉しいな。
ほんの少し、実感が湧いた気がした。
拍手がやんだあと、土井先生は私の肩に手を置いて、少し柔らかい声で言った。
「それで、留学の期間は一年。本人の希望があれば延長も可能だそうです。……しばらく会えなくなるけれど、いつものように明るく送り出してやろう」
「はいっ!」
誰かの元気な返事が教室に響くと、また少し笑いが起きた。
私は小さく会釈して、席に戻ろうとしたそのとき――
「ねぇ、ドラゴンとかいるの!?」「魔術師マーリンも卒業した場所だよね!」
そんな声が上がり、教室は一気にざわついた。
「変な呪文でカエルにされないように気をつけてね!」
口々に質問や冗談が飛び交う。中には「ホグワーツって食堂がめっちゃ広いって聞いたよ!」なんて言ってる子もいて、思わず笑ってしまった。
「全部、行ってから確かめてみるよ」
私はそう返すと、皆がまた「おおー」と騒いだ。
「うらやましいなー!」
「がんばってね、柘榴!」
「写真送ってー!」
次々と投げかけられる声に、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
こんなふうに応援してもらえるなんて、想像してなかった。
でも――本当に、ありがたい。
席に戻ると、隣の鮮花がニコニコしながら親指を立てた。
「大成功じゃん!」
「うん、ちょっと緊張したけど……でも、よかった」
「柘榴がちゃんと頑張ってきたからだよ。みんな知ってるんだってば、あんたの努力」
その言葉に、私は思わず目を伏せた。
たった一言が、こんなに胸にしみるなんて。
もう一度、深呼吸。
教室の窓から差し込む秋の光が、少しだけまぶしく感じられた。
――いよいよ、旅立ちの日が近づいている。
私は少しだけ、拳を握りしめた。
(まだ不安はあるけど……行こう、ホグワーツへ)
「はいはい、そこまで!」
教室の前で手をパンと叩いて、土井先生が笑いながらみんなを制した。
そこから、いつものようにホームルームを再開した。土井先生の変わらない話を聞いて、ホームルームは終了した。
【先生、さようなら!皆さん、さようなら!】
クラス全員の挨拶が終わると、一斉にそれぞれの家へと帰っていった。
鮮花と私は少し教室に残っていたが、そこへ土井先生が歩み寄ってきた。
「柘榴、留学おめでとう」
「ありがとうございます」
私はぺこりと頭を下げた。
こうして皆に明るく見送られることが、思っていた以上に嬉しい。
今まで勉強を頑張ってきて本当によかった。
英語は元々得意分野だし、魔術的な知識も日々積み上げてきたから、そんなに不安はない。
「鮮花、先行っててくれ。後で追いつくから」
「うん!」
鮮花はにこっと笑い、教室を出ていった。
夕焼けの光が差し込む教室に、私と土井先生だけが残る。
先生の顔がふと、少しだけ寂しげに見えた。
ほんの一瞬。
でも、私にはそれがはっきりとわかった。
「ところで、お金のほうは大丈夫か?」
「叔父が説得するとのことなので、たぶん大丈夫です」
「……そうか」
土井先生は少し黙り込み、窓の外を見た。
オレンジ色の光が彼の横顔に落ちて、表情がよく見えない。
懐かしい――不意にそんな気持ちが胸をよぎった。
だって、こうやって“面と向かって話す”のは――
「数百年ぶりですね」
「……ああ」
彼の返事に、少しだけ笑みが混じった。
「乱太郎君たちは……彼らは今、どこで暮らしているんでしょうね」
「たぶん、只人として生活しているんじゃないか?」
只人――魔法を持たない、普通の人間たち。
私たちとは異なる世界に生きる存在。
乱太郎たちは、きっと今も元気に、別の時代、別の場所で暮らしている。
少し寂しいけれど、それでいい。
でも、できるなら――もう一度だけでも、会いたい。
「元気だと、いいですね」
「……ああ、そうだな」
「それじゃあ、行きます。お土産、買ってきますから」
「私としては、元気な姿を見せてくれれば、それでいいんだがな」
「さようなら」
もう一度そう告げて、私はくるりと背を向けた。
そのとき――
「銀灰!」
「はい?」
私は教室の出入り口で立ち止まり、先生を振り返る。
その目は、厳しくも優しく、心の奥を見透かすようだった。
「無茶するなよ」
「大丈夫です」
短く返して、私は教室を出た。
足音が廊下に響く。
走って、走って――飛行場へ向かう。
そこには、鮮花と、大きな影が待っていた。
海の魔力が満ちるこの島で育った、大燕――
その翼は天を裂くほどに大きく、尾は空を切る刃のようだ。
「すまない、待たせたね」
「ううん、ちょうど来たとこ。行こうか」
私は頷き、大燕の背に乗り込んだ。瞬間、風が巻き上がり、視界が一気に開ける。南硫黄島の輪郭が、すぐに遠ざかっていった。
数十分して、広島にある飛行場に大燕は降り立つ。私達は広島にある喫茶店に立ち寄ることにした。
昭和のようなレトロが売りの喫茶店は焙煎されたコーヒー豆の香りが店内に広がる。窓側の席に案内されると二人でメニュー表を開いた。ここの喫茶店はナポリタンが売りである。
「今日は私の奢りだから、好きに頼んでね」
「アップルパイ……チョコレートケーキ……レアチーズケーキ……」
「って聞いてないか」
「よし、決めた!ショートケーキ!」
「じゃあ私はアップルパイ」
ウェイトレスを呼び、決めたメニューを頼んだ。それから、しばらくして紅茶と一緒にケーキが運ばれた。ツヤツヤにコーティングされたアップルパイに宝石のように輝く苺が乗ったショートケーキがテーブルに乗せられる。ショートケーキは絹のように白い生クリームが美味しそうだ。紅茶も湯気から芳醇な香りが鼻を突き抜ける。
ここの喫茶店はケーキも美味しいのは通ったことがない客人にしか知らない。ショートケーキを口に運ぶ。すると、甘酸っぱい苺にほどよい甘さの生クリームが相性抜群だ。スポンジ生地はふんわりとしている。
「アップルパイも食べる?」
「食べる」
「その代わりショートケーキちょうだい」
「いいとも」
アップルパイを食べると、サクサクとしたパイ生地の中から、ほんのり温かい林檎の甘みとシナモンの香りがふわりと広がった。
外はカリッと香ばしく、中はとろりと柔らかい。ひと口で、胸の奥が少しだけ、くすぐったくなるような、どこか懐かしい味。
「……うん、これ好き。温かいのがまたいいね」
「でしょ?ここのアップルパイ、何度でも食べたくなるんだよね」
鮮花が紅茶を一口含んで、ふうっと息を吐く。
その頬が、少し緩んでいた。旅立ちを前にした緊張も、ほんの少し和らいだように見える。
夕方の光が差し込む窓辺には、静かな時間が流れていた。
「……ねえ、柘榴」
「うん?」
「土井先生、なんて言ってた?」
「“無茶するなよ”って。短く、それだけだ」
「ふふっ、らしいね」
鮮花はにこりと笑った。どこか安心したような、だけど少し寂しげな笑みだった。
「ねえ、ホグワーツではどんなことを学ぶの?」
「魔術の応用。向こうの体系はまた違うし……あと、南硫黄島と気候も違うから、薬草の性質や使い方も変わってくるだろうね」
「ふーん……なんかさ、急に遠くに行くって、まだ実感ないんだよね」
「私もだ。でも……行くしかないから」
「……帰ってきてよ。絶対。またここでアップルパイ食べよう」
「うん、約束」
私たちはティーカップを軽くぶつけ合った。
カチン、と乾いた音が、小さく、優しく響く。
外では、夕陽がゆっくりと沈みかけている。
明後日にはもう、異国の空の下にいる。でも――こうして笑い合える時間があるなら、きっとどこにいても、繋がっていられる。
しばらく沈黙があったあと、私はポケットから小さな封筒を取り出した。
「これ、預かっておいてくれ。何かあったら開けて」
「……なにそれ?」
「お守り、みたいなものさ。たぶん、開けることはないと思うけど」
鮮花は少し不安そうにその封筒を見つめたが、黙って頷いた。
「わかった。ちゃんと持ってる」
それからはケーキを食べながら、くだらない話をして、笑って、店を後にした。
一人で電車を待ちながら、ふと――遠い、遠い記憶が蘇る。
数百年も昔の記憶。私の前世は、どこにでもいる見習いくノ一だった。
父が忍者だったこともあり、私も忍者を目指して忍術学園に入学した。
平凡で、どこにでもある日常。だけど、ある日、転機が訪れた。私が五年生になった春のことだった。
その日、裏裏山に“少女が降ってきた”。……信じられない話だけど、本当のことだった。
彼女を最初に発見したのは、私と同じ五年生の仲間だった。
当然、彼女は学園に連れて行かれ、先生達の判断で、しばらく学園で暮らすことになった。
当時は、五・六年生を中心に警戒されていたらしい。(四年生がこっそり教えてくれた)
私が彼女と初めて会ったのは、怪我をして保健室を訪れたときだった。
真っ直ぐで、艶やかな黒髪が印象的な少女。
その日から積極的に声をかけ、彼女に近づいた。
同級生や先輩からは「間者に警戒心がなさすぎる」と言われたけど、そんなの関係なかった。
だって、私は知っていた。彼女が“無害な存在”だってことを。
彼女が未来から来たという話を、信じていない生徒がほとんどだったけど、私はなぜか信じられた。根拠なんてない。ただ、直感だった。
仲良くなるきっかけは、私がふと、頭に浮かんだメロディを口ずさんでいたときだった。
「その曲知ってる!◯◯◯だよね!」
驚いたように目を輝かせた彼女に言われて、私も驚いた。
彼女の話では、平成時代に流行っていた曲らしい。なぜ私が知っていたのか、自分でもわからないが。
「なんで知ってるの?」
「うーん……わからない。ただ、頭の中に浮かんできたんだ」
「もしかして……あなた、転生者じゃないの?」
転生者。未来から過去に来た者を、そう呼ぶらしい。
まったく自覚はなかったけれど、未来の曲を知っている理由がそれだというなら……なんとなく納得した。
彼女と私は、未来の話や音楽の話で盛り上がった。
笑い合う日々が、永遠に続くと思っていた。……あの日が来るまでは。
あの日、彼女は一年生と一緒に掃き掃除をしていた。
私も手伝っていた。いつもと変わらない、静かな日常。
――だけど、その平穏は、突然破られた。
事務員の小松田さんが不在だった時間帯に、敵が現れたのだ。
そのときだった。風が止まったような気がした。
竹ぼうきを手に持ったまま、私は違和感に眉をひそめた。
周囲の音が、ふっと消えたように静かになったのだ。
「……? 変だな。風もないのに、木の葉の音がしない」
その場にいた一年生の子達も、なんとなく落ち着かない様子で辺りを見回していた。
そして――
「……ッ! 危ない!」
私は咄嗟に向けられた手裏剣に、かすり傷を負った。今思えば、それが原因だったのかもしれない。
すると、五人ほどの忍者が現れ、襲いかかってきた。私は護身用に持っていた刀を抜き、応戦するしかなかった。
「皆、危ないから逃げて!」
「先輩はどうするんですか?」
乱太郎が心配そうに言う。私は彼を安心させるように微笑み、答えた。
「私はこの五人を引き受けるよ。大丈夫、また会える。――夕花、一年生を頼む」
「……うん! みんな、私について来て!」
「おい、目的の天女が逃げるぞ! 追え!」
「させるか!」
乱太郎たちが夕花に導かれ走り去っていくのを確認すると、私は正面の敵へと向き直った。五人の忍者はそれぞれ武器を構え、じりじりと間合いを詰めてくる。
「数の利を活かすつもりか……だが、こっちにも守らなければならないものがあるんだ」
私は地を蹴り、一人目へと斬りかかる。体の芯に力を込め、震える手を押さえつけるように刀を握る。手裏剣を投げた者が再び狙ってくる気配。私は身をひねり、その攻撃を辛うじて避けると、回転の勢いを使って一人目の心臓を突いた。
「この女……!」
五人目が息を呑む。予想していなかったらしい。
「舐めるなよ。私は銀灰柘榴、忍術学園五年、くのたま――それなりに修羅場はくぐっている」
一人目の敵は痙攣し、動かなくなった。あと四人。
二人目が手裏剣を投げてくる。私はそれを紙一重でかわし、腹部に蹴りを入れた。怯んだ隙を逃さず、心臓に刀を突き立てる。これで二人目。残るは三人。
刀を構え、三人目を狙う。彼は焦り、距離を取ろうとするが、その行動が隙になる。
「遅い!」
私は踏み込み、低く身を沈めて足を払う。そのまま起き上がる勢いで斬撃を放ち、胸元に深く刃を走らせた。
「ぐっ……あ……!」
血飛沫をあげ、三人目が崩れ落ちる。倒れる寸前、その目に映っていたのは、紛れもない“恐怖”だった。
(あと二人……)
「ゲホッ……え?」
不意に咳き込み、手のひらを口元に当てると、そこにはべっとりと赤黒い血がついていた。
(……もう、限界が近い)
肺が焼けるように痛む。吐いた血の色は、毒の進行を示していた。私は刀を杖のように支えながら、必死に意識を保つ。
「見ろっ! 毒が効いてきてるぞ! 殺るなら今だ! ……あ?」
四人目が指差したその腕を、私は即座に切り落とした。鮮血が舞い、腕が地に落ちる。四人目は呆然と立ち尽くしていた。
「うぎゃああああああ!」
彼の絶叫が木霊する。私は返り血のついた刀を軽く払うと、その首を容赦なく斬り落とした。
「さっきから下卑た声がうるさいな……」
五人目を見据える。彼は震えていた。刀を構えてはいるが、足がすくみ、膝が小刻みに揺れている。
「化け物……いや、違う……あんた、何なんだ……?」
「……私はただのくノ一の見習いだよ」
(でも……もう駄目だ……)
体の内側から寒気と熱が交互に襲ってくる。視界が揺らぎ、手足の感覚が鈍くなっていた。けれど、倒れるわけにはいかない。
敵が近づいてくる。私はふらつき、膝をつきそうになる。敵はその隙を逃さない――刀が迫る、その瞬間。
「ガキン!」
鋼の音が耳を打つ。誰かが、私の前に飛び出した。見覚えのある六年生の制服。
「柘榴!」
「出茂鹿君……」
「出茂鹿之介だ!」
「なんで……」
「一年生が真っ青で、食満に助けを求めてたんだ! それで、私も巻き込まれた! 感謝しろ!」
「ありがとう……」
食満先輩は敵と交戦中だ。クナイで応戦しながら叫ぶ。
「出茂鹿! 柘榴を保健室へ運べ!」
「だーっ! 出茂鹿“之介”だ!」
「……でも、私……」
「うるさい! 怪我人は黙ってろ!」
出茂鹿君は私を横抱きにし、保健室へと走った。視界がぐらつくなか、障子が勢いよく開く音がした。出茂鹿君の声がかすかに聞こえる。
保健室には、善法寺先輩と新野先生がいた。私は布団に優しく寝かされる。
新野先生が私の傷を見た瞬間、顔色が変わった。先生は出茂鹿君と善法寺先輩に何か話している。善法寺先輩はみるみるうちに青ざめ、絶望の表情を浮かべた。
出茂鹿君は新野先生の胸ぐらを掴み、何かを叫ぶ。先生は悔しげに拳を握り締めていた。
私は寒さを感じながら、その光景を見ていた。瞼が重い。息苦しささえも、もう感じない。
それでも、言いたいことがある――
「出茂鹿……君……」
「なんだ?」
彼は、私の声を聞き逃すまいと、顔を近づけてくる。
いつもなら、恥ずかしくて「やめて」と顔を背けるところだけど――
今は、もうそんな力も残っていなかった。
私は震える唇で、なんとか言葉を紡ぐ。
「私と……友達に……なってほしい……」
「……ッ!」
出茂鹿君の琥珀色の瞳が、揺れた。
彼の顔がにじんで見えるのは、私が泣いているからか、それとも彼が泣いているからか。
今となっては、もうわからない。
けれど彼は、少しだけ笑って、こう言った。
「ああ……! なってやるよ……! 友達って奴に……!」
「……よかった……」
その言葉を最後に、私はそっと目を閉じた。
耳の奥で、誰かが悲痛に叫んでいる。
「死なないで!」「目を開けて!」
――この声、一年生達の……声だ。
夕花のすすり泣きも聞こえる。
そうか、私……一年生達を、夕花を、守りきれたんだ。
なら、もう……心残りは、ない。
まるで深い眠りに誘われるように、意識が静かに沈んでいく。
後悔なんて、ない。
ありがとう、みんな。
さようなら、みんな。
――これが、私の前世の記憶。
数百年前、長く、長く続いた物語。
今も私の中で、確かに燻っている。
時は流れ、時代もすべて変わった。
風景も、人も、文化も、すべてが新しく塗り替えられていった。
けれど、変わらないものもある。
あの瞳。あの声。
そして、夜空に瞬く、あの星達も。
『まもなく電車が参ります。黄色い線の内側にお下がりください――』
ホームに響くアナウンスが、現実へと意識を引き戻す。
そろそろ、電車に乗る時間。
次の物語が、また始まる。
主人公
銀灰柘榴(ぎんばいざくろ)
両親が魔法使いの純血。
薬学と天文学が得意。
甘い物に目がない。
銀灰浩二
柘榴の叔父
天文学と薬学に詳しい
狩屋鮮花
柘榴の親友。
クディッチが得意。
アップルパイが好き。
夕花
前世の親友
忍たま乱太郎の世界にトリップした女子高生。