藤丸立香との生活 一年生編   作:猫とふりかけ

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藤丸立香との生活いよいよ【10】。
まさか、ここまで続くとは思いませんでしてた。
今回はタチエととある人たちの話です。



藤丸立香との生活【10】

香苗先生がいなくなると知ってから一週間。時間だけが過ぎていく。私はまだ受けいることができずにいた。先生は私ではなく婚約者を選んだ。それがどうしようもなく悲しかった。けれど、嫌でも受け入れなければいけない。

 

悲しい気持ちを胸の奥に押し込んで、私はとあることを思いついた。先生に感謝の気持ちを込めて、お礼の手紙を書く。今の私にできることはこれしかない。

 

先生に内緒で時間の合間に手紙の内容を考えた。なかなか思いつかなくて、何枚もの紙を無駄にしてまった。それでも思いを伝えたくて、ただひたすらに鉛筆を動かした。

 

「え?香苗さん、辞めてしまうんですか」

 

この日もいつものようにマシュ部屋に遊びに来ていた。そして、マシュに香苗先生のことを話した。

 

「うん……。だから、先生にお礼の手紙を書くことにしたんだ。」

 

「それはいいですね!」

 

「でも、やっぱり、受け入れられないよ」

 

「タチエさん……」

 

「なんで、先生は私より婚約者を選んだんだろう……」

 

「それは……わかりません。でも……」

 

「でも?」

 

「少なくとも香苗さんにとって、タチエさんは大切です。それだけは、確かです」

 

「マシュ……」

 

「決めました!私、タチエさんに見てもらいたい映画あるんです」

 

「え?」

 

マシュはタブレットを真剣に操作し始めた。そして、彼女が選んだのは……。

 

ーー「そして父になる」

 

「これ、前も見たやつじゃん……」

 

「今のタチエさんに見てもらいたいんです」

 

「……わかったよ。今なら、前とは違う見方ができるのかもしれないし」

 

私はマシュの真剣な表情に押されて、渋々タブレットを受け取った。

 

上映が始まると、画面の中では、取り違えられた子どもと、その親たちが複雑な感情に揺れ動いていた。

血のつながりか、過ごした時間か、愛情の深さか――何が「家族」を決めるのか。

 

見ているうちに、胸の奥にあるものがじわじわと溢れてきた。香苗先生が選んだのは、私じゃない。

けれど、それは私を否定したわけじゃない。

あの人にとって、私は「過ごした時間の中で、大切な存在」だったのだろう。

 

「……マシュ、これ、泣けるね」

 

「タチエさん……」

 

気づけば、頬を伝う涙をぬぐいながら、声が震えていた。

マシュは何も言わず、ただそっと私にハンカチを差し出す。

 

「ありがとう。……少し、楽になったかも」

 

「じゃあ、手紙の続きを書きましょう。香苗さんに、今のタチエさんの気持ちを伝えるんです」

 

「……うん」

 

深呼吸して、私はまた机に向かった。鉛筆を握る手はまだ震えていたが、さっきまでとは違う。

「さよなら」ではなく、「ありがとう」を――今度こそ、ちゃんと伝えられる気がした。

 

こちらが、文体を整え、感情の流れをより自然にしたリライト版です。

 

「おはよう、タチエ」

 

「おはようございます、先生」

 

手紙を渡す日。

今日もいつものように、香苗先生と治癒魔術の特訓を受けていた。

マネキンを片付け終えると、私はそっと用意していた封筒を取り出す。香苗先生が小さく目を見開き、驚いたように私を見つめた。

 

「タチエ……それは?」

 

「手紙です。……読ませてください」

 

「ええ」

 

深く息を吸い、震える声を押し殺して、私は言葉を紡ぎ始めた。

 

「香苗先生へ。

今までありがとうございました。出会ったあの日を、先生は覚えていますか?

私は、ひまわりのような笑顔のあなたを今も鮮明に覚えています。」

 

部屋に、しんとした静けさが満ちる。

それは不思議と、居心地の悪い沈黙ではなかった。

 

「出会ってからの日々は、楽しくて、まるで夢のようでした。私は、先生を本当の姉のように思っていました。

医療を志したとき、真剣に、そして熱心に教えてくれたこと……とても嬉しかったです。」

 

視界が滲む。唇をきゅっと噛みしめ、こらえながら読み続ける。

手紙を見ているから、先生が今どんな顔をしているのか、私にはわからなかった。

 

「たくさん失敗しました。でも、そのたびに学び、少しずつ成長できました。おかげで、今では医療に自信を持てるようになりました。

……先生がカルデアを辞めると聞いたとき、本当に悲しかったです。

本当は受け入れられないけど……さよならを言います。」

 

肺の奥に残った空気を吐き出すように、ひとつ深いため息を漏らす。

 

「香苗先生、今まで本当に、本当にありがとうございました。

私の姉でいてくれて、ありがとうございました。……お元気で。タチエより」

 

言い終えた途端、教室を包む沈黙が一層深くなる。

恐る恐る顔を上げると、香苗先生は両手で口を押さえ、涙を溜めた瞳で私を見つめていた。

 

「せ、先生!? 大丈夫ですか?」

 

慌てて駆け寄ると、先生は涙を拭いながら首を振った。

 

「ええ……大丈夫よ。ごめんなさい、タチエ。

あなたにはちゃんと伝えようと思っていたのに、怖くて……本当に隠していてごめんなさい。」

 

――あぁ、そうだったんだ。

先生もずっと、怖くて、苦しかったんだ。

私を傷つけたくなくて、黙っていたんだね。悲しいのは、私だけじゃなかったんだ。

 

「先生……私は楽しかったです。今までの全部が。

これからも、先生からもらったものを大切にします。だから――泣かないでください、先生。」

 

「タチエ……」

 

ふっと、二人で笑いあった。

泣き笑い、というやつだろうか。

次の瞬間、先生はそっと私を抱きしめる。

私はその背中を、あやすように優しく撫で返した。

 

しばらくそうしていると、時間がゆっくりと流れていくのがわかる。

悲しみと、温もりと――それらを胸に、私はそっと目を閉じた。

 

別れの日。

廊下を抜けると、目の前には広々としたカルデアの出入口が広がっていた。

白い床に青白い照明が反射し、無機質な光が私たちの影を長く伸ばしている。

吹き抜けを渡る冷たい空調が、頬をかすかに撫でた。

 

私は香苗先生と並んで歩いていた。

どちらからともなく会話は途切れ、靴音だけが静かに響く。

やがて、出入口の前で私が立ち止まると、香苗先生も足を止めてこちらを振り返った。

その表情に、わずかな名残惜しさが宿っているのがわかる。

 

外に出られない私には、搭乗口まで見送ることはできない。

それでも、せめてこの場所で、最後の挨拶だけは伝えたかった。

 

私は笑顔を作り、彼女を見上げる。

 

「香苗先生、お元気で」

 

「ええ、タチエも」

 

短いやり取りのあと、胸の奥に絡みつくような言葉が、どうしても消えなかった。

勇気を振り絞り、声にする。

 

「先生」

 

「なに?」

 

「もし……もしですよ? また会えたら――

今度は立派な医療者になって、香苗先生と働きたいです。……いいですか?」

 

一瞬、彼女の瞳がわずかに揺れる。

そして、柔らかな笑みが花開いた。

 

「ええ、そうね。それまで、楽しみにしてるわ」

 

胸が熱くなるのを感じながら、私は唇をきゅっと結んだ。

別れの言葉が喉に引っかかる。けれど、今はちゃんと伝えたい。

 

「ええ、きっと……。――さようなら、香苗先生。……いえ、お姉ちゃん」

 

その一言に、香苗先生の目が大きく見開かれた。

やがて、今にも涙が零れそうな顔で、確かに頷く。

 

「――またね、タチエ」

 

その声が、やさしい響きとなって胸に残る。

香苗先生がゲートの向こうへと歩き出すと、背中が少しずつ遠ざかっていった。

白い光の中に溶けるように小さくなっていくその姿を、私は最後まで見送った。

 

静寂が訪れた出入口に、私ひとりが立ち尽くす。

けれど、不思議と涙は出なかった。

胸の奥に残るのは、寂しさと、確かなあたたかさだった。

 

 

◆◇◆

 

 

 

香苗先生を見送ったあと、私は足取り重くマシュの部屋へ向かった。

無機質なカルデアの廊下を歩く靴音が、やけに響く。

さっきまで隣にあったはずの温もりが、もう二度と届かない場所へ行ってしまった――その実感が、胸の奥を締めつけていた。

 

ドアを開けると、マシュが心配そうに顔を上げる。

 

「タチエさん……終わったんですね」

 

私は頷き、ベッドの端に腰を下ろした。

指先がまだ微かに震えている。

 

「……うん。見送ってきたよ。笑顔で、ちゃんと……『さようなら』を言えた」

 

「……寂しい、ですか?」

 

「うん。すごく……。胸の中に穴が開いたみたい。でもね……」

 

言葉を探しながら、天井を仰いだ。

香苗先生の最後の言葉が、まだ耳の奥で鮮やかに響いている。

 

「『またね、タチエ』って……先生、そう言ってくれたの。

あの人が選んだのは私じゃなかったけど、私は……先生の教え子として胸を張れるくらい成長したい。

だから――前に進むよ。先生に、また会える日まで」

 

マシュがそっとハンカチを差し出す。

私は受け取り、涙を拭きながら、少し笑った。

 

「ありがとう、マシュ。……大丈夫、もう泣かない。前を向くって決めたから」

 

「はい。タチエさんなら、きっとできます」

 

心の奥にまだ残る寂しさを抱えたまま、私は深く息を吐いた。

それでも、ほんの少しだけ、歩き出せる自分がいる――そう思えた。

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

「え?今なんて……」

 

「何度も言わせないで。あなたを正式にカルデアの医療スタッフとして迎え入れます」

 

「え!? え!?」

 

香苗先生と別れて、もう一年が経った。

ロマニさんに呼ばれてオルガマリー所長の部屋に入った途端、開口一番に告げられたのがこの言葉だった。

 

私はあまりのことに固まってしまった。

耳を疑う。信じられない。これは何かの間違いじゃないのか――?

 

「……あ、あの、本当に私が?」

 

「ええ。あなたの医療技術に問題はないと、複数のスタッフから報告が上がっています。もちろん、しばらくは研修生としての勤務になりますが」

 

「……っ!」

 

胸の奥が一気に熱くなる。

一年間、香苗先生の背中を追いかけながら、必死に積み上げてきた日々。

あの日の「またね、タチエ」という言葉が、今も耳に蘇る。

 

――「もしまた会えたら、立派な医療者になって、一緒に働きたいです」

 

震える手で胸元を押さえながら、私は絞り出すように答えた。

 

「……はい! よろしくお願いします!」

 

所長はわずかに口元を緩め、書類にサインをする。

 

「では、研修はすぐに始めます。期待しているわよ、タチエ」

 

その瞬間、胸の奥にあった寂しさが、そっと温もりに変わっていくのを感じた。

あの別れの日から積み上げてきた時間が、やっとひとつの形になったのだ。

 

――香苗先生、私、やっとここまで来ました。

 

心の中で、あの人にそっと報告する。

 

「マシューっ!!」

 

部屋のドアを勢いよく開けると、マシュが読んでいた本をぱたんと閉じ、驚いた顔でこちらを見た。

 

「た、タチエさん?どうしたんですか、そんなに慌てて」

 

私は息を切らしながら、ぐっと親指を立てた。

 

「……き、聞いてよ! 私……正式に、カルデアの医療スタッフに採用されたの!!」

 

一瞬、マシュの目が丸くなり、次の瞬間、ぱぁっと花が咲いたように笑顔になる。

 

「本当ですか!? やりましたね、タチエさん!!」

 

「う、うん……まだ研修生だけど、でも、やっと……やっとここまで来たんだ……!」

 

胸の奥が熱くて、言葉が詰まりそうになる。

マシュはそんな私の両手をぎゅっと握りしめた。

 

「私、ずっと信じてました。タチエさんなら絶対、香苗さんの言葉通り立派な医療者になれるって!」

 

「マシュ……ありがとう……」

 

涙がにじむ視界の中で、マシュの笑顔が滲む。

そして、彼女は静かに言った。

 

「これで……また、香苗さんに胸を張って会えますね」

 

その言葉に、私の心臓がぎゅっと跳ねた。

――そうだ。あの日交わした約束。

 

「うん、絶対に……。先生に、胸を張って『ただいま』って言えるように、頑張るよ!」

 

マシュと顔を見合わせ、思わず笑い合った。

部屋の中に、これまでにないほど温かな空気が満ちていくのを感じた。 

 

「……あの、実は私も、正式にカルデアのスタッフとして迎え入れられることになったんです」

 

「えっ!?マシュが!? 本当に!? すごいじゃん!」

 

幼い頃からマシュは、体が弱くて隔離室から出られなかった。

だからこそ、スタッフとして認められた今、自由に外の世界を歩けるという事実が、どれほど大きな意味を持つか分かっている。

 

――これからは、マシュと一緒に、いろんな景色を見に行ける。

そのことが、何よりも嬉しかった。

 

「これから、いっぱい案内するよ!マシュ!」

 

「はいっ、楽しみにしています!」

 

「おやおや、いいタイミングだったかな? 二人とも、ちょっと話があるんだ」

 

ロマニさんは抱えていた分厚い書類をテーブルに置き、私とマシュの方を見た。

 

「タチエちゃん、今日正式に医療スタッフに採用されたって所長から聞いたよね?」

 

「はい!」

 

「じゃあ、これが君の研修スケジュールだよ。これから三ヶ月間、カルデア医療班での実地研修に入ってもらう。午前は診療補助、午後は救急対応と薬学研究の訓練だ」

 

私はスケジュール表を覗き込み、思わず息を呑んだ。

びっしりと埋め尽くされた予定――実習、講義、応急処置の演習、薬剤調合テスト……。

 

「これ、かなり……ハードですね」

 

「まあね。でも、タチエちゃんの実力なら大丈夫。特に、香苗先生のもとで鍛えられてきた経験が生きるはずだよ」

 

香苗先生の名前を聞いて、胸が少し熱くなる。

――「またね、タチエ」。

あの日の別れ際の言葉が、今も背中を押してくれているようだった。

 

「……はい。頑張ります!」

 

ロマニさんは頷き、次にマシュに視線を移した。

 

「それとマシュ。君の隔離措置解除に伴い、外出許可が正式に下りたよ。これからはタチエちゃんと一緒に、外の世界を自由に歩ける」

 

「はい! ありがとうございます!」

 

「だから――二人とも、明日から忙しくなる前に、今日はゆっくり休んでね」

 

ロマニさんが柔らかく笑うと、私とマシュは顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。

 

翌日。

 

カルデアの医療フロアに足を踏み入れた瞬間、私は緊張で背筋が固まった。

白い壁に、整然と並ぶ医療機器。

行き交うスタッフたちの、無駄のない動きと真剣な眼差し。

その空気に、私の心臓は今にも跳ね出しそうだった。

 

「今日から、君が新しい研修生ね?」

 

声をかけてきたのは、研修担当の先輩スタッフだった。

白衣のポケットにタブレットを差し込み、こちらをにこやかに見ている。

 

「は、はい! 薬茂タチエです。よろしくお願いします!」

 

「まずは午前中、診療補助から入ってもらうわ。医療器具の準備、患者さんのケア、それから――」

 

先輩の説明を聞きながら、私はメモを取る手を止めない。

けれど、頭の片隅ではずっと「私にできるだろうか」という不安が渦巻いていた。

 

初めて任された仕事は、患者のバイタルサイン測定と簡単な処置の補助だった。

機械の音、スタッフの指示、患者さんの声――すべてが一度に押し寄せ、息が詰まりそうになる。

 

「タチエさん、大丈夫?」

 

隣で声をかけてくれた先輩に、私は慌てて笑顔を作った。

 

「だ、大丈夫です! やります!」

 

手が震えて、計測機のボタンを押す指先が少し冷たい。

それでも、患者さんが「ありがとう」と微笑んでくれた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

――あの日、香苗先生が教えてくれたこと。

「患者さんの『ありがとう』が、あなたの支えになるはずよ」。

 

午後は救急対応の模擬訓練。

思い通りに動けず、何度も先輩に注意された。

悔しさで胸がいっぱいになりながらも、必死に手を動かし、必死に学ぶ。

 

研修初日が終わるころ、足は棒のように重く、全身から力が抜けた。

それでも――疲労の奥に、確かな充実感があった。

 

「……やっぱり、私、この道を選んでよかった」

 

小さく呟き、カルデアの廊下を歩く。

胸の奥で、別れの日の先生の言葉がそっとよみがえった。

 

ーー「またね、タチエ」

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

「どうしでしたか?」

 

「うーん。ぼちぼちかな?」

 

研修を終えたその夜、私はぐったりとマシュの部屋に転がりこんだ。マシュは心配そうに私の顔を覗き込みながら、冷えた缶のオレンジジュースを手渡してくれた。プシュという音とともに缶のプルタブを開けた。グビグビと飲み干して、一息ついた。

 

「ふぅ……研修生というものなかなか疲れるね……」

 

マシュはくすりと笑って、私の隣に腰を下ろした。彼女の笑顔は、まるで柔らかな灯りのように心をほどいてくれる。

 

「でも、タチエさんらしいと思います。どんなに疲れても、『やっぱりよかった』って思えるのが」

 

「……うん、でも今日は本当にヘトヘト。先輩の動きについていけなくて、何度も注意されちゃって。わかってたつもりだったのに、現場ってやっぱり違うね」

 

私がぼやくと、マシュはそっと頷いた。冷たい缶が手のひらから熱を奪っていくのを感じながら、私は天井を見上げた。

 

「職員さんに『ありがとう』って言われたとき……ちょっとだけ、涙が出そうだった。悔しくて、情けなくて……でも、嬉しかった」

 

「きっと、その『ありがとう』は、タチエさんの心に届いたんですね」

 

「……香苗先生が言ってたの。『その言葉が、あなたの支えになる』って。なんだか、やっと意味がわかった気がする」

 

マシュはゆっくり頷いた。そして、少しだけ遠くを見るような目で、ぽつりと言った。

 

「私も、そういうふうに、誰かの支えになれたらって……ずっと思ってたんです」

 

「……なれてるよ。マシュはもう、立派な後輩で、仲間で……支えだよ。私にとっても」

 

ふっと、マシュの瞳が潤んだように見えた。

 

「ありがとうございます、タチエさん」

 

缶のジュースはもう空っぽだったけど、胸の奥には、あたたかいものが静かに広がっていた。

 

その夜、私は深い眠りについた。

 

夢の中、白衣をまとった香苗先生が、どこか懐かしい庭先で手を振っていた。

 

――「タチエ。あなたは、ちゃんと前に進んでるわよ」

 

私は、少し照れながらも笑って、そっと手を振り返した。

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

「こんにちは、あなたが佐藤タチエちゃんね?」

 

「あの……あなたは?」

 

振り返ると、そこに立っていたのは長身で痩せた体格の人物だった。

ピンク色の髪に彫りの深い顔立ち。一見すると男性だけれど、話し方はどこか優雅で、女性的な柔らかさをまとっていた。

 

――後から知ったことだけれど、こういう話し方をする人のことを“オネェ”と呼ぶらしい。

 

「私? スカンジナビア・ペペロンチーノって言うの。よろしくね」

 

「ペペロンチーノさんですね。改めまして、タチエです。よろしくお願いします」

 

私が差し出した手を、彼――いや、彼女はふわりと包み込むように握り返してくれた。

その手のぬくもりは、不思議と優しくて。どこか、哀しさを知っている人の温度がした。

 

「ふふ、礼儀正しいのね。可愛いわ、タチエちゃん」

 

「い、いえ……そんな……」

 

褒め慣れていない私は、思わず視線を逸らしてしまう。どう返せばいいのか、分からなかった。

 

「そういえば、ちょうどよかったわ」

ペペロンチーノさんがふと思い出したように微笑む。

 

「私たち、Aチームで映画鑑賞会をしているの。よかったら、タチエちゃんも参加してみない?」

 

「Aチームで……ですか?」

 

「ええ。堅苦しいものじゃないのよ。ただ、みんなで映画を観て、思ったことを話すだけ。でも、不思議とそれで、距離って縮まるものよ」

 

映画鑑賞会――それは、この場所でまだ見えていない人たちと向き合える機会かもしれない。

自然と、笑顔がこぼれていた。

 

「はい、ぜひ参加させてください!」

 

「ふふ、楽しみにしてるわね」

 

そう言って優雅に手を振りながら去っていく背中を、私はしばらく見送っていた。

 

胸に手を当てる。

――それが、スカンジナビア・ペペロンチーノさんとの、最初の出会いだった。

そのときのやわらかな笑顔と、手のぬくもりを、私は今でも忘れない。

 

 

「タチエちゃん、映画何にするか決めた?」

 

「はい!これを見ようかと思って」

 

ペペロンチーノさんに渡したのは――『ゲド戦記』。

 

主人公・アレンが命の大切さを学んでいく物語だ。

「命を大事にしないやつは大嫌いだ!」という、手嶌葵さんが声をあてるテルーのセリフが、私には強く印象に残っている。

特に、アレンが影と向き合い、剣を抜く場面は、胸に迫る名場面だ。

 

「……意外ね。タチエちゃんならアクション系を選ぶと思ってたわ」

 

「私にとって特別なんです、この映画。アレンが“影”と向き合うところとか……」

 

「そうね。あの場面は、本当に象徴的」

ペペロンチーノさんはパッケージを見つめながら、静かに頷く。

 

「影っていうのは、自分の中にある“恐れ”や“弱さ”の形。アレンはそれと向き合いながらも、進もうとした。……その姿に、私も救われたことがあるの」

 

「私もです。あの世界の不安定さや命の軽さに、怖くなることもあったけど……テルーの言葉に何度も救われました」

 

「“命を大事にしないやつは大嫌いだ!”……ええ、本当に強い言葉よね」

 

ペペロンチーノさんはどこか懐かしげに目を伏せた。

 

「私は医療者の身ですから、あの一言がずしんと心に響いて……。命って、簡単に扱ってはいけないものなんだって、あらためて思いました」

 

「……そうね、私もそう思うわ。昔の私も、そういえばよかったのね」

 

「え……?」

 

「なんでもないわ。行きましょ。皆を待たせるのは悪いもの」

 

「……はい!」

 

 

そして、たどり着いた視聴覚室には、すでに数人のAチームメンバーが集まっていた。

その中で、薄く顎髭を生やした軽薄そうな男が、ペペロンチーノさんに声をかける。

 

「ん? そこのお嬢ちゃんは新入りかい、ペペロンチーノ?」

 

「ええ、そうよ。名前は佐藤タチエ。カルデアの医療スタッフなの」

 

「ふーん、そうかい」

 

彼は最初こそ興味深そうに私を見ていたけれど、数秒後にはもう飽きたのか、すぐにそっぽを向いてどこかへ行ってしまった。

 

「あの……先程の方は?」

 

「ああ、彼はベリル。ベリル・ガットよ。ちょっと変わってるけど、怖くはないわ」

 

「はい……」

 

そう答えたとき、別の人影がこちらへと歩いてきた。

片方の眼帯が印象的な、落ち着いた雰囲気の女性だった。私は思わずぺこりと頭を下げる。

 

「こんにちは。私はオフェリア。オフェリア・ファムルソーネ」

 

「佐藤タチエです。よ、よろしくお願いします」

 

「それで、映画は誰が?」

 

「私です。今回は、『ゲド戦記』を持ってきました」

 

DVDを差し出すと、オフェリアさんは目を細めて言った。

 

「あら、日本のアニメね。初めて観るわ。楽しみ」

 

「確かジブリ作品だったか? ジブリは有名だからな」

ベリルさんがパッケージをちらっと見ながらつぶやく。

 

「アニメか……初めて見るな」

そう言って、またスマホをいじり始めた。

 

「あちらの方は……?」

 

「ああ、彼はカドック。カドック・ゼムルプス。Aチームの一員よ」

 

カドックさんは壁際に立っていた。スマホを手にしているものの、ときおりベリルさんと軽く言葉を交わしている。どうやら一匹狼というわけではなさそうだ。

 

「じゃあ、観ましょうか」

 

ペペロンチーノさんが手慣れた動作でDVDを入れ、再生ボタンを押す。

スクリーンがゆっくり暗くなり、部屋に音が満ちていく。

 

静かな風が流れるようにして、『ゲド戦記』が始まった――。

 

スクリーンの中、静かに崩れていく世界。

アレンの不安げな横顔が映し出されると、視聴覚室の空気も自然と沈黙に包まれた。

 

私は背筋を正し、息を潜めるようにしてスクリーンを見つめていた。

隣に座るペペロンチーノさんは、まるで映像に合わせて呼吸するように、静かに身を委ねている。

その落ち着いた横顔に、私は少しだけ安心する。

 

物語はゆっくりと進み、均衡を失った世界の不穏さと、アレンの揺れる心がじわじわと胸に染み込んでくる。

 

(この感じ……どこか、今のカルデアにも似ている気がする)

 

混乱の中で“命”が軽んじられていく怖さ。

それに対して、テルーの存在はあまりにまっすぐだった。

 

「命を大事にしないやつは大嫌いだ!」

 

そのセリフが響いたとき、私は無意識に胸元を押さえていた。

シンプルで、けれど重たい言葉。それはまるで、今の私自身に言われたようだった。

 

横で、誰かが小さく息を呑む音がした。

オフェリアさんだ。表情は崩れていないけれど、彼女も確かに何かを感じている――そう思った。

 

 

やがて、物語はあの場面へ。

 

アレンが、自分の“影”と向き合い、恐れながらも前に進むと決める瞬間。

震える手で剣を握り、ゆっくりと抜く――そのシーン。

 

私の心臓の音が、自分でも分かるほど高鳴っていた。

拳を握りしめた手は、いつの間にか汗ばみ、膝の上で震えていた。

 

(私は……あの剣を、まだ抜けていない)

 

そう、思ってしまった。

 

「だいじょうぶよ」

 

突然、隣から聞こえたささやき。

ペペロンチーノさんが、そっと私の手の上に手を重ねてくれていた。

 

あたたかかった。

それだけで、不思議と呼吸が楽になった。

 

――それは、私がアレンの影に飲まれそうになった瞬間、テルーが差し出してくれた手のようだった。

 

 

映画が終わり、エンドロールが静かに流れ出す。

誰もすぐには口を開かなかった。まるで、全員がそれぞれの“影”と向き合う時間を与えられたかのように。

 

やがて、室内に明かりが戻り、ぽつりと声が上がる。

 

「……不思議な映画だった。幻想的で、でも重い」

カドックさんだった。スマホはもう手にしていない。

 

「私は初めて観たけれど、心に残るわ」

オフェリアさんが静かに言う。「テルーの強さも、アレンの弱さも……すごく人間らしかった」

 

「“命を大事にしないやつは大嫌いだ!”……ああいう直球、苦手なはずなのにな」

ベリルさんが腕を組みながらつぶやいた。

 

「だけど……悪くなかったよ。あの坊やが剣を抜くとこ、妙に覚えてる」

 

私は驚いてベリルさんを見た。

彼は、こちらを見るでもなく、ただスクリーンの余韻を背中で感じるように立ち上がる。

 

「……ありがとうございます」

私の口から、自然とその言葉がこぼれていた。

 

彼は軽く肩をすくめるだけで、何も言わずに立ち去った。

 

 

「ふふ、初めての鑑賞会、大成功ね」

ペペロンチーノさんが優しく笑いかけてくれた。

 

「はい……皆さんと一緒に観られて、本当に良かったです」

 

「映画って、心を映す鏡なのよ。どんな映画を選ぶかで、その人の“今”が分かることもあるわ」

 

その言葉に、私は少しだけ恥ずかしくなって、でも誇らしくもあった。

 

 

――スクリーンの中の物語は、終わった。

けれど、私の中の物語は、今まさに動き出したばかりだった。

 

“影”と向き合う勇気。

命を、大事にするという決意。

 

それは、私にとってとても小さな一歩だったけれど、確かに自分で踏み出せた一歩だった。

 

そして、私は思った。

また、この場所で映画を観たい。

皆と一緒に、笑ったり、考えたり、少しだけ泣いたりしたい。

 

――そんな気持ちを抱いた夜だった。

 

そんなある日、私の番がやってきた。

映画を選ぶ責任と、ほんの少しの緊張を抱えながら、私は一枚のDVDを視聴覚室に持ち込んだ。

 

それは、私にとっても、そしてマシュにとっても、心の奥深くに残る大切な作品だった。

初めて観たとき、私はただ圧倒されて、しばらく言葉が出なかった。

何度も繰り返し観るうちに、少しずつ、自分の中で形になっていく想いがあった。

 

“考えさせられる”という言葉だけでは足りない。

それは――魂の奥に、風のように吹き込んでくるような、そんな物語。

 

どうしても、Aチームのみんなに観てほしかった。

彼らがこの作品をどう受け取るのか、それを知りたかった。

 

⸺⸺映画は、『風立ちぬ』。

 

 

視聴覚室にはすでに数人が集まっていた。

 

「今日は私の番です」

私はそう言って、静かにDVDを掲げた。

 

「『風立ちぬ』。スタジオジブリの作品です」

 

「またジブリか……本当に好きなんだな」

ベリルさんが肩をすくめながらも、それ以上何も言わず席に着いた。

 

「それ、飛行機の設計士の話だったかしら」

オフェリアさんがうっすらと記憶を辿るように呟く。

 

「戦争の時代背景があるけれど、戦争映画じゃない……って聞いたことがある」

カドックさんは興味深そうにディスクを見つめていた。

 

「夢と現実の間を、風のように行き来する物語よね」

ペペロンチーノさんは、目を細めながら微笑んだ。

 

私は深呼吸をして、再生ボタンを押した。

 

 

風が吹く。

夢の中でカプローニと出会い、青年・堀越二郎の物語が静かに始まる。

 

世界が混乱と不穏に満ちていく中、彼はただ真っ直ぐに“飛行機”を夢見ていた。

美しいものを創るために――その想いを、戦争という現実が容赦なく飲み込んでいく。

 

彼の選択が正しかったのか、間違っていたのか、私には分からない。

けれど、彼のまなざしは、常に遠くの空を見ていた。

その姿が、なぜだか、藤丸先輩にも少しだけ似ている気がした。

 

そして、菜穂子との出会いと別れ。

限られた時間の中で、ふたりが静かに愛を育む様子は、あまりに儚くて、でも確かにそこにあった。

 

私は何度目かの鑑賞だったけれど、それでも涙がこぼれそうになる。

 

――生きねば。

その言葉が、胸の奥に鋭く響いた。

 

 

映画が終わると、しばらくの間、誰も何も言わなかった。

ただ、静かに余韻が部屋を包んでいた。

 

やがて、ぽつりとカドックさんが口を開いた。

 

「……あれだけの情熱を注いで、最後に残るのが“夢は叶った。でも……”って……。あれ、辛いな」

 

「美しいものを創る人が、それを武器として使われるって……理想と現実の残酷な交差ね」

オフェリアさんが目を伏せながら、そっと言った。

 

「俺には……よくわかんねぇな。けど、あの主人公の目は……本気だった」

ベリルさんはそれから、噛み締めるように黙り込んだ。

 

「夢と現実は、きっと対立するものじゃないのよ」

ペペロンチーノさんが、ふわりと笑う。「重なることがある。それが人生の、ほんのひと時だとしてもね」

 

私は、皆の言葉をひとつひとつ胸にしまいながら、静かに頷いた。

 

「……ありがとうございました。皆さんと一緒に観られて、良かったです」

 

「選んでくれてありがとう、タチエちゃん」

ペペロンチーノさんがそう言って、そっと私の肩に手を置いた。

 

 

――生きねば。

堀越二郎が風の中に見送ったもの。

それは、夢でも、命でも、きっと未来だったのだと思う。

 

あの言葉が、今でも耳に残っている。

 

夢に生きた人の背中を、私たちはきっと、どこかで追いかけている。

そう思えた夜だった。

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