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老人は、震える手を胸の前で握りしめたまま、しばらく言葉を探していた。
そして、ようやく絞り出すように口を開く。
「……すまなかった、小町……あの時、何も知らずに……」
小町さんは首を横に振り、穏やかな笑みを浮かべる。
「いいえ……あなたのせいではありません。私は、自分で選んだんです」
「だが……お前は病を……それなのに、ひとりで……」
老人の声は途中で途切れ、目尻に涙が溜まる。
「私、幸せでしたよ」
小町さんの声は、春の陽だまりのように温かかった。
「あなたと過ごした日々があったから……最後まで、怖くなかったんです」
「……小町……」
「それに……あの桜の下で、あなたを見送れたこと。
あれが、私にとっての贈り物でした」
老人は堪えきれず、涙を流した。
「私は……愚かだった……もっと、お前のそばに……」
小町さんは一歩、魔法陣の縁まで近づき、そっと手を伸ばす。
光の花びらが二人の間を舞い、ほんの一瞬、その指先が触れ合った。
「……ありがとう。さようなら」
桜色の光がやわらかく揺れ、彼女の姿は淡く溶けていく。
老人はその場に膝をつき、嗚咽を漏らしながら、最後まで彼女を見送った。
桜色の光が完全に消え、部屋には静寂が戻った。
老人はまだ膝をついたまま、深く頭を垂れている。
リンはそっと私の袖を引き、小声でささやいた。
「……外で待ってるね」
葵もメイも小さくうなずき、音を立てないように障子を開け、二人で静かに外へ出ていった。
残されたのは、私と老人だけ。
障子越しに差し込む光が、かすかに舞う桜の花びらを照らしている。
「……ありがとう」
しばらくして、老人は顔を上げ、赤くなった目で私を見た。
「本当に……一瞬だったが、あの子に会えた。生きてきて……こんな日が来るとは思わなかった」
「……きっと、小町さんも同じ気持ちですよ」
私は静かにそう告げ、持ってきた風呂敷をたたみ始めた。
老人は笑おうとしたが、涙が先にこぼれた。
「これで……やっと、新しい春が来るな」
その言葉に、私は胸の奥がじんと熱くなった。
外では、リンと葵、メイがまだ何も言わず、庭の梅の木の下で私たちを待っている。
「よかったわね。小町さん、再会できて」
「……そうだね」
夕暮れの道を、私たちは並んで歩いていた。
夏が近づくこの季節、どこからかヒグラシの声が響く。
その声が、胸の奥に小さな寂しさを落としていく。
もうすぐ夜が降りてくる。
寂しさと切なさを抱えたまま、夕暮れは静かに夜色へと染まっていった。
――私も会いたい。
香苗先生やマシュ、ロマニさんに。
小町さんを降霊させたとき、その願いが強く心に浮かんでしまった。
もし会えたら、何を話そう。
きっと言葉が見つからなくて、誤魔化すように笑ってしまうだろう。
(会いたいな……)
カナカナと鳴く声が、さらに寂しさを増していく。
今の私には、その再会はほとんど不可能だ。
たとえ生きていても、寿命には勝てない。
もし会えたとしても、そのとき私はもうヨボヨボのおばあさんだろう。
それでも――会いたい。
けれど、叶うことはない。
「会いたいな……」
「誰に?」
「友達に」
葵がこちらを見て言った。
「会いに行けばいいじゃん」
「遠くにいるから、会えない」
言葉にした途端、胸がきゅうっと締めつけられた。
会えない現実と、会いたい気持ちがせめぎ合う。
虚しさが押し寄せ、足取りが少し重くなる。
「大丈夫だよ」
「え?」
意外な返事に、思わず素っ頓狂な声が出た。
「大丈夫。また会えるよ。だから、大丈夫」
「葵……」
「そうね、きっと信じれば会えるわよ」
「リン……」
「私もそう思う」
「メイ……ありがとう、三人とも」
私は強く信じてみたいと思った。
また会える、と。
大丈夫だ、と。
そう自分に言い聞かせる。
ふと、遠く離れた人を想う歌を思い出す。
沖縄の言葉で「涙がぽろぽろ」という意味の歌。
会いたくて、会いたくて、君への想い――涙そうそう。
空には、一番星が紺色と橙色の境に瞬いていた。
私はその光に向かって、そっと願う。
(どうか、マシュたちと会えますように)
足を止め、しばし夜空を見上げる。
やがて、橙色が完全に消え、紺色が空を包み込んでいった。
ヒグラシの声は遠ざかり、かわりに夜風がそっと頬をなでる。
「……行こう」
誰にともなくそうつぶやき、また歩き出す。
隣を歩く三人の足音が、静かな道に規則正しく響く。
振り返れば、さっきまで見えていた夕焼けはもうない。
代わりに、頭上いっぱいの星が私たちを見守っていた。
その光は、まるで遠くの誰かからの返事のように――
やさしく、瞬いていた。
「そういえば、さっきのなによ。魔術とか言っていたけど」
リンがズイッと顔を近づけてくる。尋問する刑事のような鋭い目だ。
葵は目をキラキラさせながら、興奮した様子で声を弾ませた。
「やっぱり、タチエは魔法使いなんだね!すごかった!魔法陣を使った魔法って……!」
「うん、正直、夢でも見てるみたいだったよ」
メイはまだ現実として受け止められないのか、戸惑いを隠せないでいた。
リンはさらに一歩詰め寄ってくる。
「説明しなさいよ。あれを見せられて、“ふーん、そうなんだ〜”で済むわけないでしょ!」
「わかったわかった。話すよ」
私は静かに頷き、三人に自分の家系が代々魔術師であること、そして自分も魔術を扱えることを打ち明けた。
リンとメイは目を見開いて固まり、葵だけがはしゃいでいた。
「魔術師……本の中だけの存在だと思ってたけど……」
信じられないというように、メイが呟いた。
「魔術ってなによ?まあ、前から普通じゃないと思ってたけどね」
リンは眉をひそめながら言う。
「すごいすごい!やっぱりいたんだ、魔法使い!」
葵はまだ夢の中にいるような調子で手を握りしめている。
「魔術っていうのはね、技術では再現できるけど、普通の人には扱えない力のことだよ」
私はそう切り出し、三人の顔を順に見た。
「魔法と似ているようで、実はまったく別のもの。魔法は、どんな技術でも再現できない奇跡のような存在。でも、魔術は理屈と仕組みに基づいていて、代々受け継いだり、研究したりして、ようやく使えるようになる」
葵の目はさらに輝きを増し、メイは信じきれずに眉間にしわを寄せる。
リンは腕を組み、じっと私を見つめた。
「じゃあ、あの魔法陣も理屈があるってわけ?」
「うん。魔力を流すための回路みたいなものだよ」
「……ふーん。でもそれを扱えるってことは、あんた、本当に普通じゃないのね」
「まあ、そういうことになるね」
私が肩をすくめると、葵が身を乗り出してきた。
「ねえねえ!もっと見せてよ、魔術!」
「ダメ。人前で気軽に使うものじゃないの」
「ええ〜!けち!」
リンの目にはまだ疑いが残っていたが、その奥に、ほんの少し興味が混じっているのを私は見逃さなかった。
「……じゃあさ」
リンが真剣な声で言った。さっきまでの探るような調子とは違う、まっすぐな問い。
「タチエは、何のために魔術を使うの?」
その言葉に、葵もメイも口を閉じた。
空気がピンと張り詰め、空気がわずかに重くなる。
私はそっと息を吸い、言葉を選びながら口を開いた。
「……誰かを守るため。大事な人が傷つくのを、見ているだけなんて、もう嫌だから」
言い終えた瞬間、胸の奥にざわめきが走る。
頭の片隅に、あの日の光景が蘇る。
血に染まった手。泣き叫ぶ声。もっと早く、もっと強ければ——
何度も何度も繰り返した後悔。
「……過去に、守れなかった人がいたの?」
メイの声は、静かで、そっと寄り添うような優しさがあった。
私は一瞬、視線を落とし、静かに頷く。
「……うん。でも……そのことは、あまり話したくない。」
リンはしばらく私をじっと見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
葵はそっと私の手を握りしめ、まっすぐに言った。
「じゃあ、もう二度とそんな思いをしなくていいように、みんなで守ろうね!」
「……ありがとう」
胸の奥に積もっていた何かが、少しだけ溶けていく気がした。
「あ、このことは……」
「わかってるわ。今回のことは内緒、でしょ?」
「ありがとう、リン」
「内緒だね!」と、葵がニッコリ笑って言う。
「…………」
メイは無言のまま、優しく頷いてくれた。
こうして、この日から私たち四人だけの秘密ができた。
友達と交わした秘密は、どこかドキドキして、ちょっぴり甘くて。
けれど、それ以上に、心の距離が少し近づいた気がして——
私は、嬉しかった。
火照った体を冷やすように風が吹いた。
蝉の声が遠くで響いている。
夏はまだ始まったばかりだ。
◆◇◆
アブラゼミの鳴き声が、じりじりと耳を焼く。
いつもの縁側で、藤丸を待っていた。
彼が姿を見せたとき、私は氷の浮いたお茶を差し出した。
冷えた湯呑が掌にひやりと伝わるのが、妙に鮮やかに感じられた。
昨日起きた、小町さんの出来事を話す。
藤丸は最初こそ目を見開いていたが、やがて表情が柔らかくなった。
「そっか……小町さん、成仏したんだね」
「はい。まさか、想い人がすぐ近くにいたなんて……」
「俺、昨日の夜、小町さんに会ったよ」
「……え?」
「『ありがとう』って。笑ってた」
「……そうですか」
胸の奥に、ほっとした温もりが広がる。
きっとあの人も、あの世で静かに暮らしているだろう。
空を見上げれば、夏の陽は白く、眩しかった。
……けれど、その安堵の裏に、ぬるりとした疑問が浮かんだ。
「小町さんの想い人、すぐ近くにいたのに……どうして見つけられなかったんでしょう?」
「……俺も、今、それを考えてた」
この街は、彼女にとって馴染みのある場所だったはずだ。
なのに、辿り着けなかった。
私は考えを巡らせ、ひとつの答えを口にした。
「……長く彷徨っていたせいで、記憶が削れてしまったのかもしれません」
「記憶……?」
「猫が飼い主から離れて死ぬみたいに……小町さんも、おじいさんに最期を見せたくなかったんじゃないかと。わざと遠くで、息を引き取ったのかもしれません」
藤丸は頷いたが、その瞳の奥に影が差した。
「死人に口なし」――結局、真実はわからない。
だが私は知っている。
十数年かけて、この街へ辿り着いた彼女は、かすれた記憶をたぐり寄せながら――それでも想い人の家を見つけられず、最後に、藤丸へ助けを求めたのだ。
「そういえば、タチエは夏休み、どうするの?」
「……やることがあります」
森を調査する約束のことを話すと、藤丸の表情が曇った。
「……気をつけろよ」
「はい」
そして、あの夜のことを思い出す。
九歳の頃、夜の森で鍛錬していた時――木々の影の奥から、じっとこちらを見ている気配。
あの目線は、学園の中でも何度も感じた。
葵の「森の何かがタチエを追ってきた」という冗談が、どうしても冗談に思えない。
「……俺も、感じたことがある」
藤丸の低い声に、背筋がぞわりと粟立つ。
仕事中でも、自室でも、背後から貼りつくような視線。
ただ見ているのではない。
まるで、触れようとしているかのような――冷たい指先が皮膚のすぐ上をなぞる感覚。
「他の人は?」
「……誰も。『気のせい』だって」
私たちは無言で視線を交わす。
先生たちが気づかないはずがない。気づかないふりをしている――その方が、ずっと不気味だ。
藤丸がふと思い出したように言う。
「城下町の噂……知ってる?」
「夜な夜な、露出の多い人物が彷徨っている……ですよね?」
彼が小さく頷く。
耳の奥で、じぃ……と蝉の声が続く。
その音が一瞬、途切れたような気がした。
城下町に現れる人物。
私と藤丸が感じる視線。
そして、先生たちの沈黙。
「……全部、繋がっているかもしれません」
「その“何か”が……君を見てる?」
「ええ。魔力の痕跡が、微かに残っていました。人間のものじゃない」
藤丸の顔が険しくなる。
沈黙が縁側に落ちる。
ふと、庭の木々が同時に揺れた。
誰もいないはずの森の方から――湿った息のような風が、私の頬を撫でた。
「……罠かもしれない」
「でも、その罠に乗れば……真実に辿り着けます」
蝉の声が戻る。
だが、どこか遠くから、別の音――かすかな足音が混じっていた気がした。
「わかった。俺も行くよ」
「……ありがとうございます」
この夏の調査が、何を呼び寄せるのか。
まだ、誰も知らなかった。
◆◇◆◇
「そっか、じゃあ、藤丸さんも一緒なんだ」
「うん、そうだよ」
鍛錬の合間、日陰に腰を下ろして水を飲む葵に、今回の調査には藤丸も同行することを伝える。
彼女はごくりと喉を鳴らし、水筒をあおってから素直に頷いた。
葵には何かと負担をかけてしまっているが、本人はそれを苦にしない。むしろ楽しんでいる節すらある。
――本当にありがたい。
もしこれがリンだったら、間違いなく何かしらの報酬を要求してくるはずだ。
もっとも、報酬を求められたらきちんと渡すのが私の流儀でもある。
お金であれ物であれ、需要と供給は大事だ。下手をするとテストに出るくらい大切なことだと思っている。
梅雨が明け、本格的な夏がすぐそこまで迫っていた。
陽射しはじりじりと肌を焼き、空気は重たく、鍛錬の動き一つひとつが体力を奪っていく。
特に葵は、顔が林檎のように真っ赤だ。立ち上がったらそのまま倒れそうで、見ていてヒヤヒヤする。
今は日陰に避難しているからまだいいけれど、油断はできない。
「……葵、大丈夫? 無理ならシナ先生に言ってね。倒れたら大ごとだよ」
「もう、タチエは心配性だな。平気平気」
頬を赤らめながら笑うその顔は、葵らしい真っ直ぐさと眩しさに満ちていて、思わず羨ましくなる。
きっとこれは彼女だけの魅力であり、長所なのだろう。
私はぬるくなった水を口に含み、ふと夏空を仰いだ。
深く澄んだ青が、視界いっぱいに広がっている。
暑さは苦手だが、この時期ならではの景色や食べ物は嫌いじゃない。
水羊羹を食べたくなる季節――この時代にないのが惜しい。
それでも夏野菜の美味しさは今も昔も変わらず、食堂の料理が密かな楽しみになっている。
「お腹空いた……」
「タチエ、もう?」
「カレーが食べたい」
「カレーって?」
「いろんな香辛料を混ぜて作る、インドの料理だよ」
「へぇ……美味しそうだね。食べてみたいな」
すると、六年生の号令がかかった。
私たちは休憩の名残を惜しみながら、日陰を離れる。
──カレー。この時代で食べられるなら、一度は口にしてみたい。そんな淡い願いが胸をかすめた。
鍛錬が終わり、残りの授業も過ぎたころ、メイと連れ立って図書室へ向かう。
棚をなぞるように歩いていると、ふと一冊の背表紙に視線が止まった。名前を見た瞬間、指先が本を引き抜き、ページをめくる手が自然と早まる。
描かれていたのは、一人の女性の肖像だった。
「……虞美人先輩……」
本によれば、不老不死の仙女。あの武将・項羽の愛人として名を残した人。
だが、私の知る彼女は、わがままで、自由奔放で、いつも周囲を振り回す人だった。
その奔放さに、気づけば心を惹かれていたのかもしれない。
「気になるの?」
声に振り返ると、図書委員の中在家長次が立っていた。
いつもより柔らかな笑み。顔に傷がないせいか、別人のようにも見える──けれど、確かに彼だ。
「いや……すみません。立ち読みは駄目ですよね」
「いいんだ。ただ……懐かしそうな顔をしていたから」
「懐かしそう、ですか?」
「うん。それに、少し寂しそうにも見えた」
その言葉に、思わず頬へ手を当てる。
胸の奥に、ひやりとした波が走った。
知らぬ間にそんな顔をしていたなんて……。
いや、Aチームの皆は、大切な人たちなのだ。そう見えても、不思議じゃない。
「大丈夫?」
「え?あ、いや、ちょっと……」
「タチエ?」
「──あ、メイ!」
本棚の影からメイが顔を出す。
彼女がそばに来ると、不思議と胸のざわめきが薄らいでいった。
わざと軽く笑って、メイのほうへ歩み寄る。
「ねぇ、君」
「えーと……なにか?」
「君、タチエだよね?伊作から聞いたよ」
「そっか、それがどうしたの?」
「ボーロ、楽しみにしててね!腕によりをかけて作るから!」
「……うん!」
中在家くんはそう言って、本へ視線を戻した。
私は曖昧に笑って「ちょっと昔の知り合いに似てた人を見ただけ」とメイにだけ呟く。
本棚の奥で探し物をするメイの背を見送りながら、そっと本を閉じた。
紙の温もりと、そこに宿った面影を、胸の奥深くにしまい込む。
その夜、眠る前に日記を開いた。といっても、日記というよりは記録に近い。今日一日の出来事を、報告書のように細かく書き留めていく。
夏の鍛錬のこと。図書室で見つけた虞美人先輩の本のこと。紙の上をペンが滑るたび、思い出が鮮やかに蘇る。
書き終えたときには、すでに二ページが文字で埋まっていた。
虞美人先輩を思うと、心の奥がざらめのように甘く、けれど少しザラザラと引っかかる。そんな感覚が胸に残る。
窓の外では、カエルの合唱がゲロゲロと鳴き交わしていた。田舎ならではの風景――いや、この時代はどこへ行っても、ほとんどが田舎のようなものだろう。
今年の夏は、どうやって過ごそうか。
まずは、あの視線の正体を突き止めること。それから……何をして暇を潰そう。鍛錬、夏休みの宿題、バイオリンの練習、川遊び……。私は別のノートを取り出し、さらさらとやりたいことを書き出していく。文字が並ぶたび、予定表のようにページが埋まっていった。
「ねぇ、メイ」
「ん? なに?」
本を読んでいたメイは、顔を上げずに答える。
「この夏休み、なにするの?」
「うーん……宿題を先に終わらせて、それから読書かな」
「あー、メイらしいね」
本の向こうで、小さく笑ったような気がした。夏休みまであと少し。それまでに、勉学に鍛錬と頑張ろう。そんな小さな決意を胸に私は布団を敷いた。
「あと二日で夏休み……あと二日で夏休み……」
「リン……そんな言わなくても夏休みは逃げないよ」
隣でリンが、呪文のように繰り返す。
私は苦笑しながら、木がきしむ廊下を一緒に歩いた。廊下はむわっと湿気を含んだ空気で、歩くだけで肌に汗がにじむ。
そういえば――あと二日で夏休みだ。まちに待った夏休み……少なくとも、下級生にとっては。
けれど、それは一年生や二年生だけの話だ。
上級生の夏休みは宿題が容赦ない。城への潜入、短期間の奉公、合戦場の見取り図作成、殿様の秘密の聞き出し……。聞いただけで心が折れそうになる任務ばかり。下級生の「植物観察日記」や「忍具の手入れ」とは雲泥の差だ。
……正直、進級なんてしたくない。合戦場の見取り図なんて、私にとっては軽くトラウマ案件だし。
それに、殿様の秘密ってどうやって聞き出すの? まさか色気仕掛け? いや、やっぱりそれしか――って、いやいやいや!
ふと、高校時代の夏休みを思い出す。
涼しい朝に宿題を終わらせ、昼は扇風機の風と蝉の声に包まれてうたた寝していた。エアコンは夜だけ。あの頃は青春そのものだった。
夏休みのバイト、夏祭り、川原から見える花火。暑いなか、汗だくで海の家や旅館で働いた日もあったけれど、それすらも楽しい思い出だった。
「で……リンは夏休み、どうするの?」
「うーん……ほとんど自主勉かな?」
「真面目だね」
「鍛錬も欠かさないし……あとは――お祭りにも行きたいわね。そうだ!」
リンは何かを思いついたように、ポンっと拳を手のひらに打ちつけた。
「ん? どうしたの?」
「そういえば、夏休み中にうちの近くで夏祭りがあるの! よかったら来てみない?」
彼女はキラキラした目でこちらを見ている。
「夏祭りかぁ……うん、いいね。親に聞いてみるよ」
「決まりね! あとは……葵とメイも誘わなきゃ」
指折り数えながら、リンは笑っていた。よほど誘いたかったのだろうか。
「その夏祭りって、いつ?」
「確か……八月の下旬ね」
「八月の下旬、了解」
リンの顔は、さっきまでの蒸し暑さなんて忘れたみたいに明るかった。どうやら、今年の夏休みは退屈しなさそうだ。
◆◇◆◇
「やった〜! 夏休みだ〜!」
校門の前でリンが両手を広げてはしゃいでいる。まるで、すべてのしがらみから解き放たれたかのようだ。
周りからは「やっと夏休みだよ〜」という安堵の声や、「うちで家の手伝いしなきゃなんないんだもん、嫌になっちゃうよ」というぼやきも聞こえてくる。……後者の人は、ドンマイ。
アブラゼミがミンミンと鳴き、真夏の空気をいっそう熱くしている。門の外には葉桜が青々と生い茂り、夏の匂いが漂っていた。
――十一年目の薬茂タチエの夏休み。ここでの夏休みは、楽しまなきゃ絶対に損だ。葵はニコニコ笑っているし、メイは眩しい日差しに目を細めている。そして、メイの荷物は……。なんだこの本の量は。多すぎでしょ。
「ねぇ、メイ。君、長旅でもするの?」
「ああ、これ?本だよ。夏休みの宿題が読書感想文だから」
夏休みの宿題は読書感想文か……。ちなみに私は自由研究である。え?内容?もちろん、決めてない。これが昆虫採集だったら、楽なのだが。夏休みの自由研究は星座の観察からしてみるか。
観察は得意中の得意だ。星の動きや星座の成り立ちを書けばいいのだから。宿題も楽しまなくちゃね。
「あ、いたいた!」
すると、藤丸がこちらへ駆け寄ってきた。
「あ、藤丸さん」
リンが藤丸さんに気づいた。暑いなか、走ってくるとはご苦労である。
「藤丸?なんですか?」
「いや、一応、調査の予定日を確認しようと思ってね」
「ああ、確か、七月の下旬でしたよね」
「うん、そうだね」
藤丸は額の汗を手の甲でぬぐい、ほっと息をついた。真夏の太陽の下、予定の話をしているのに、なんだか遠足前の子どもみたいにわくわくして見える。
「なんだか、わくわくするね!」
葵は私の両手を掴んで、ぶんぶんと振っている。今にも回りだしそうな勢いで、楽しそうにはしゃいでいた。
回れ、回れ。メリーゴーランド。もう決して止まらないように。まるで耳元で軽快なラブソングが流れ出すような――そんな錯覚を覚えるほど、葵と私はぐるぐる回っている。
ちょっと……葵さん。そんなに回らないで。目が……目が回る。
「葵……落ち着いて」
私は無理矢理、葵にストップをかけ、大声で彼女に言う。
「葵隊員!」
「はい!」
「今回の調査、よろしく頼むぞ!」
すると、葵はビシッと敬礼をし、私に合わせて言った。
「了解であります! 薬茂隊長! 精一杯、自分、頑張ります!」
「何やってるのよ……あなたたち……」
その光景をリンは呆れながら笑っていた。
メイはくすくすと肩を揺らし、「楽しそうだね。二人とも。ごっこ遊び?」と微笑む。
「ごっこじゃない。作戦会議だ」
私が真顔で言うと、葵はさらに背筋を伸ばす。
「そうそう、調査任務には士気が大事だからね!」
「……いや、士気よりもまず準備と計画をちゃんと立てなさいよ。何するかわからないけど……」
リンが額に手を当ててため息をつく。
そんなやり取りに、藤丸は苦笑しながら声をかけた。
「じゃあ、細かい作戦はまた今度決めよう。今日はとりあえず解散」
「了解!」
私と葵が声を揃えて敬礼すると、リンが「もう……」と笑いながら首を振った。
――夏休みは、始まる前からすでに賑やかだ。
それから、リンたちと別れ、それぞれの帰路についた。
蒸し暑い熱気が肌にまとわりつくなか、私は家へ向かって歩く。久々の我が家に、胸の奥が弾む。……精霊さんも元気にしているだろうか。
家に近づくにつれて鼓動は早まり、視界の先に屋根が見えた瞬間、私は思わず駆け出していた。
走って、走って――森を駆け抜ける。
そして扉の前にたどり着いた時には、ゼェゼェと息を切らしていた。
しばらく呼吸を整えてから、ゆっくりと扉を開ける。
「ただいま、父さん、母さん」
「おかえりなさい、タチエ」
「おかえり、タチエ」
玄関には、もう父と母が立っていた。
私は迷わず二人に抱きつく。安堵で涙が込み上げそうになるのをこらえながら、そのぬくもりを確かめた。⸺ああ、私って、こんなにも泣き虫だったんだな。子どもの精神に引っ張られるのも、楽じゃない。
やがて、名残惜しくも二人から離れる。母は穏やかな笑顔で尋ねた。
「どうだった? 忍術学園は?」
私はひまわりのようにとびきりの笑顔を咲かせ、胸を張って答える。
「楽しかったよ! とっても!」