藤丸立香との生活 一年生編   作:猫とふりかけ

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藤丸立香との生活【3】

佐藤タチエーーそれが、かつての私の名前だった。

 

カルデアという組織で、とある実験のために生まれたデザイナーベビー。

所詮、私は実験の消耗品でしかなかった。

 

胎児の頃から魔術回路の増幅処置を施され、あらゆる薬品を投与された。

多くの実験体はその過酷な実験に耐えられず、胎児のまま命を落とした。

"失敗作"として記録にも残されず、処分された命は数知れない。

 

生き残ったのは、マシュと私だけだった。

 

マシュは、ある実験に成功した。

だから当然、私の実験も成功するものだと、誰もが期待していたのだろう。

 

その実験――それは「デミ・サーヴァント計画」。

 

人間と英霊を融合させる、禁忌の研究。

吸血鬼が混血を生めないのと同じくらい、不可能に近い領域。

 

七歳のとき、私はその実験体に選ばれた。

だが、結果は――失敗だった。

 

融合の負荷に肉体は耐えきれず、魔術回路は暴走。

私は、生死の境をさまようことになった。

 

実験中は意図的に眠らされていたため、当時の記憶はない。

だが、当時の医師が語る私の状態は、ひどいものだったという。

 

口からは煙を吐き、身体からは焼け焦げた匂いが立ち上っていた。

 

そのときは自分が壊れていく感覚を、夢の中で体験した気がする。

 

本来なら、私はそのまま処分される運命だった。

――あの人が現れるまでは。

 

その人は真っ先に私に駆け寄り、迷わず治療を始めた。

止めようとした彼の制止も聞かず、心臓を必死にマッサージし続けたという。

 

その姿に何かを突き動かされたように、彼も彼女の治療に加わった。

 

数時間にも及ぶ懸命な治療の末、

カルデアのスタッフが見守るなか、私の心臓はようやく動き出した。

 

あの時のことを、彼は今でも覚えているという。

彼女の決死の治療がなければ、私はもうこの世にいなかった、と。

 

私を救ってくれた二人の医師。

一人はマシュの主治医、ロマニ・アーキマン。

そしてもう一人は、私の主治医となった薬師の女医。

 

ポニーテールがよく似合う、ひまわりのような笑顔が印象的な人だった。

 

目を覚ましたとき、視界は白く霞み、焼けるような痛みが全身を襲っていた。

包帯の下からは薬の匂いが漂い、喉は渇き、声もかすかにしか出なかった。

 

そんな私のもとに、白衣の袖をまくり上げた彼女が現れた。

椅子に腰掛け、穏やかに、微笑んで声をかけてくれた。

 

「こんにちは」

 

「こ、こんにちは……。あの、あなたは?」

 

「私? 私はあなたの主治医の佐藤香苗。香苗先生って呼んでね、タチエ」

 

続いて白衣の男性が入ってきた。

ポニーテールの優しげな彼――名札には「ロマニ・アーキマン」と書かれていた。

 

「タチエ、目が覚めたかい?」

 

「えっと……あなたは?」

 

「僕? 僕はロマニ。ちょっと変わったお医者さんかな。よろしくね」

 

ロマニさんは包帯だらけの私の手をそっと握り、優しく上下に振った。

その間に香苗先生は手際よく包帯を外し、爛れた皮膚に薬を塗っていく。

 

その手つきはあまりにも熟練されていて、私はつい見とれてしまった。

 

「はい、終わり。タチエ、調子はどう?」

 

「はい、痛みはありますが、大丈夫です」

 

「それはよかった」

 

「……あの、どうして私の名前を知っているんですか?」

 

「ふふ、実はね……」

 

香苗先生は得意げに微笑んで言った。

 

「私があなたの名付け親だからよ」

 

「名付け……親?」

 

「そう!」

 

嬉しそうに頷く香苗先生は、まるでサプライズが成功した子供のようだった。

 

「『佐藤』って名字は、日本で一番多いの。それに、長い歴史を超えて生き残ってる。強そうでしょ?」

 

「平凡だけどね」

 

「うるさいわよ、ロマニ」

 

ロマニさんの茶化す声に、香苗先生はぷいと口を尖らせる。

 

「じゃあ、タチエは?」

 

「タチエはねぇ……」

 

彼女は懐かしむように目を細め、遠い記憶をたどるように話し始めた。

 

「私の大好きだった祖母の名前なの」

 

「香苗先生のお祖母様……?」

 

「そう。祖母は魔術師でね、薬草で薬を煎じるのが得意だったの。風邪を引いたときも、怪我をしたときも、祖母の薬で治ったわ。その姿を見て、私は医者になろうと思ったの」

 

「ふふっ」

 

その言葉には、どこか温かく、優しい響きがあった。

けれど同時に、深い情熱も感じられた。なんて、素敵な夢なのだろう。幼いながらも、そう感じた。

 

「強くて、優しくて、人を癒やすことにまっすぐな人……あなたの瞳を見ていたら、あの人を思い出したのよ」

 

そう言って香苗先生は私の額にそっと手を当てた。

薬草の香りがふわりと漂う。懐かしく、安心する匂いだった。

 

あのぬくもりを、あの香りを、私は今でも覚えている。

薬草を煎じるたびに、きっと思い出すだろう。

 

あの、苦くて優しい記憶を。

 

――けれど、私は知っている。

 

あの日、医務室で交わされた彼らの会話を聞いてしまった。

実験の影響で、私の寿命が大幅に縮まってしまったことを。

狸寝入りで聞いたあの日、白い天井を見上げていた。誰もいない隔離部屋。眠れない夜。焼け焦げた傷がじんわりと疼く。

 

 

それでも、私は泣かなかった。

怒りに飲まれることも、絶望することもなかった。

 

静かに――ただ、静かにそれを受け入れた。

 

……だって私は、「失敗作」だから。

 

私の部屋の棚は、まるで、香苗先生のおもちゃ箱だ。たくさんの本、CD、DVDが詰め込まれている。私はよく暇つぶしに聴いたり、鑑賞したりした。そのなかでも、仲間由紀恵の主演のドラマや映画は大好きで、『ごくせん』や『TRICK』は何度も繰り返し見ていた。香苗先生にこっそり写真集をもらったときは「ありがとう」と呟いたほどだ。 

 

アニメなら、『クレヨンしんちゃん』と『ドラえもん』。

どちらも笑えるのに、心に染みる話が多く、気づけばすっかり虜になっていた。

 

CDでは、いきものがかりの『SAKURA』や、嵐の『Happiness』をよく聴いていた。

 

その曲が流れるたび、私は元気を分けて貰ったりした。

 

漫画は『銀の匙』と『魔法使いの嫁』。

 

どちらも生い立ちが重なる部分があり、読んでいて共感してしまう。

 

小説では『ハリー・ポッター』シリーズに夢中になった。

自分の出目を知らず、それでも仲間と共に成長していくハリーの姿につい応援したくなった。

 

でも、そのなかでも特に――

私が心を奪われたのは『プリキュア』と『アンパンマン』だった。

 

『プリキュア』は、どんな強敵が現れても、仲間と力を合わせて、立ち向かう。

その姿に、私は勇気を貰った。

 

『アンパンマン』は、敵であっても困っている相手を助ける。

その優しさに、私は憧れた。

 

「ヒーローって、強いだけじゃないんだ」

“与えること”や“守ること”の尊さを教えてくれたのは、彼だった。

 

そして、そんな私が将来「医療を志す」きっかけとなったドラマがある。

 

――『コード・ブルー』と『ドクターX』。

 

特に『コード・ブルー』のリアルな現場描写と、仲間との絆に心を打たれた。命の現場で泣いて、怒って、迷って、それでも患者に向き合う姿に、自分もいつか誰かのために手を差し伸べられる存在になりたいと思った。

 

一方、『ドクターX』の大門未知子には、ただただ憧れた。

「私、失敗しないので」――その自信と腕前に惚れ込んで、録画した全話を何度も観た。あの潔さと強さは、私の中でずっと“かっこいい”の象徴だった。

 

香苗先生にその話をしたとき、「君が医療の道に興味を持ったって聞いて、なんだかすごく嬉しいよ」と微笑んでくれたのが忘れられない。

「でも、あんまり頑張りすぎないでね。君は君のペースでいいから」って、そう言ってくれたのも。

 

――医療ドラマは、ただの“暇つぶし”じゃなかった。

いつしかそれは、私の心の中に小さな灯を灯し、ゆっくりと進むべき道を照らしてくれたのだった。

 

◆♢◆

 

入学式を終えて、私と葵はくノ一の教室へと向かっていた。校庭を二人でしばらく長居していたのか、気づけば、ほとんどの生徒は教室へ向かっていったようだ。

 

廊下を渡りながら、入学式に感じた視線が気になって仕方ない。あのときの視線は夜の森で鍛錬をしているときに感じた視線と似ていた。冷たくて、背中がゾワリとするような気配は今も覚えている。

 

「ねぇ、葵」

 

「ん?なに?」

 

「入学式のとき、"見られてる" 感じ、しなかった?」

 

入学式に感じた、あの視線――それが気になって、私は葵に尋ねてみた。勘の鋭い葵なら、何か気づいているかもしれないからだ。

 

「うーん……。確かに、鋭い視線は感じたね」

 

「やっぱり?」

 

「うん、それがどうかしたの?」

 

「実は……」

 

私は夜の森で感じた視線と入学式で感じた視線が似ていることを、葵に詳しく話した。すると、葵はその話を聞いて面白そうに、ニヤリと笑う。

 

「もしかして……その夜の森にいる何かがタチエを追いかけてきたりして……」

 

そう言って、彼女は両手をだらりと下げて幽霊のポーズをとっている。もしかして、私を怖がらせているのだろうか。

 

「まさか!」

 

「ふふっ。まあ、お化けなんてありえないよね」

 

葵はそう言いながらも、冗談めいた笑みを浮かべたまま私の顔を覗き込んだ。その目には、ほんのわずかだけど警戒の色が宿っている。――きっと、私の話を完全に笑い話として受け流しているわけじゃない。

 

「でもさ、タチエってそういう感覚には鋭そうだよね」

 

葵はひょいっと私の前に出て、くるっと振り返る。

 

「……あんまり気になるなら、調べてみたら?」

 

「調べるって、どうやって?」

 

「逆に仕掛けてみるの。視線を感じた場所に、もう一回行ってみるとか。あるいは、わざと“隙”を見せて誘ってみるとかね」

 

その提案に私は思わず息を呑んだ。

「それって……危なくない?」

 

「うん、危ない。でも、何もせずにびくびくしてるのも性に合わないでしょ?」

 

それは確かにそうだ。私は忍者見習いだ。恐れて立ち止まるより、前に進むべきだというのは、いつも心のどこかにある。……でも、あの視線はただの好奇心ではない。

 

「じゃあ、夜の森にもう一度行ってみようか」

私がそう言うと、葵はちょっとだけ目を丸くして、それからまたニヤリと笑った。

 

「おお、いいね。タチエ、やる気になった?じゃあ、夏休みに準備をしようか。私も付き合うよ」

 

「え……いいの?」

 

「当たり前でしょ。面白そうだし、なにより――」

 

葵はすっと私の肩に手を置いて、いつになく真剣な目で続けた。

 

「タチエが巻き込まれるなら、私も一緒に巻き込まれないとね」

 

その一言に、私は少しだけ緊張がほぐれた気がした。

――夜の森に潜む“何か”が何者なのかはわからない。でも、葵が側にいてくれるなら、きっと、どんな真実にも立ち向かえる気がする。

 

気づけば、教室の入り口がもうすぐそこにあった。

私は、葵の優しさに微笑んでみせながら、気持ちを切り替えようと深く息を吸い込んだ。

 

“あの視線”の意味を確かめるには――

きっと、まだ時間がかかる。

 

でも、気づいてしまった以上、私はきっと、目を逸らせない。

 

そうして私たちは、くノ一の教室にたどり着いた。

戸を開けると、すでに何人かの生徒が席に着いており、ざわざわと雑談の声が飛び交っていた。

 

私達は目立たないよう後ろの席へと向かい、そっと腰を下ろす。

 

しばらく葵と雑談をしていたが、やがてガラリと戸が開く。

そこに現れたのは、スラリと背の高い黒い忍者装束の女性だった。

 

その瞬間、さきほどまで騒がしかったくのたまたちは、水を打ったように静まり返る。

 

アニメを見てきた私には、すぐにわかった。

この人は、くのたまの先生――山本シナ先生だ。

 

教室をぐるりと見渡したあと、彼女はにこやかに微笑む。

うん、やっぱり美人の微笑みは眼福である。

 

サーヴァントにも美男美女はいたけれど、シナ先生の微笑みには、

大人ならではの余裕と気品が漂っていた。

 

(いつ見てもいいな……)

 

彼女はプロのくノ一であり、同時に大人の女性としても完璧な存在。

今の私にとっては、憧れの存在だ。

 

無駄な動きのない所作、冷静な判断、そしてどんな状況でも崩れない強さ。

それでいて、時折見せる微笑みは温かくて――人としての深みを感じさせる。

 

そんなシナ先生が、静かに目を閉じたあと、ひと呼吸おいて私たちに語りかけるように話し始めた。

 

「――皆さん、入学おめでとうございます。」

 

その一言で、教室内の空気がぴんと張りつめた。けれど、それは恐れや緊張ではなく、期待と尊敬が入り混じったものだった。

 

「今日から、あなたたちは“くのたま”として学び、鍛え、成長していきます。忍とは、影のように生きる者。表には見えず、しかし確かに存在する者です」

 

その声音は穏やかでありながら、しっかりと芯を感じさせるものだった。誰もが息を詰めて、彼女の言葉に耳を傾けている。

 

「技術、知識、心。すべてが揃って初めて、“忍”と呼ばれるにふさわしい人間になります。けれど、それらを学ぶ過程で、必ず『自分自身』と向き合うことになるでしょう。忍として、そして、―人として、成長するために」

 

私は思わず、息をのんでしまった。

――自分自身と向き合う。

 

それはまるで、あの“視線”が私の奥底を見透かそうとしていることを、暗に言い当てられているような気がして。

 

「不安なこともあるでしょう。でも安心なさい。この学園には、あなたたちを導く先輩や私がいます。そして、仲間もいます」

 

そう言ったとき、シナ先生の視線が一瞬だけ、こちらを見たような気がした。いや、たぶん気のせいだ。でも、確かに胸の奥に熱いものが灯る。

 

「さあ――始めましょう。今日から、忍者としての第一歩を」

 

その宣言とともに、教室には拍手が湧き起こった。緊張していた子たちも、次第に笑顔になっていく。

 

隣の葵が、ふっと私の腕を小突く。

 

「タチエ、ちょっと顔が怖いよ」

 

「……そう?緊張してるだけ」

 

「ふふ、でもさっきより目が澄んでる。やる気出てきたんじゃない?」

 

「……うん、そうかも」

 

私は小さくうなずいた。

あの視線の謎、きっと簡単には解けない。でも、今はそれよりも――この日常をしっかり生きること。強くなること。学ぶこと。

 

それがきっと、あの“何か”と向き合うときの、力になる。

 

その日、くのたまとしての生活が本格的に始まった。

けれど私の心のどこかには、今もあの視線の冷たさが、静かに燻っていた。

まるで、忍び寄る影のように――。

 

初めての授業は、忍術の基礎――気配を断つ歩き方だった。

 

教室の外に出た私たちは、訓練場に並ばされ、一本の竹の棒を足元に置かれた。棒は細く、軽く踏めば簡単に音が鳴る。私たちの任務は、それを踏まずに、十歩前へ進むことだった。

 

「この訓練は、足の重み、姿勢、呼吸、そして集中力を問うものです」

 

シナ先生は、まるで風のようにすっと竹の棒の上を歩いて見せた。竹はまったく揺れず、音一つ立てなかった。

 

「さあ、始めなさい」

 

簡単そうに見えたけれど、実際にやってみると、違った。

 

一歩、また一歩――ほんのわずかな油断が、パキッという音となって空気を裂く。

 

隣の子が音を立てたとき、私は思わずそちらを見てしまった。

 

「――タチエ、集中を切らしてはだめよ」

 

シナ先生の声が、鋭く飛ぶ。

 

「忍びは、たとえ仲間が倒れても、自分の任務を完遂しなければならない時がある。それが現実です」

 

その言葉に、私は無意識に背筋を伸ばした。

 

仲間が倒れても――。

 

そんな言葉、重すぎる。だけど、それが“忍”という生き方なのだと、心に刻まれる。

 

そして私の番が来た。

 

足の裏で地面の感触を確かめ、そっと重心を移す。

 

一歩、また一歩――呼吸を浅く、静かに。心の中で数を数える。

 

(三歩……四歩……)

 

そのとき、不意にあの視線を感じた。

 

背後から、何かが私を見ている。

 

見られている。

 

心臓が、ドクンと音を立てる。

 

(――今じゃない。考えるな)

 

それでも、その気配は確かにあった。

 

「……!」

 

六歩目で、かすかに棒が揺れた。

 

けれど――音は、しなかった。

 

私は最後まで歩ききった。

 

「よくやったわ」

 

シナ先生の声は短く、それでいて、どこか温かかった。

 

けれど、私はまだ振り返ることができなかった。

 

あの視線の正体が何なのか。なぜ私を見ていたのか。

 

その答えは、まだ遥か先にある。

 

だけど、きっと辿り着ける。そう信じた、訓練初日の午後だった――。

 

夕方の訓練が終わると、空にはうっすらと夕焼けの色がにじみはじめていた。

 

私たちは息を整えつつ、再び教室へ戻った。

 

だが、シナ先生はそのまま立ち止まり、私たちを振り返った。

 

「今日の訓練はこれで終わり……と言いたいところだけれど。もう少し、座学をしましょうか」

 

「ええっ!?」

 

クラスのあちこちから、小さな悲鳴のような声が上がった。

 

葵もこっそり私の耳元で「まだ続くんだね」と囁いたが、私は黙って小さくうなずいた。少しだけ笑ってしまいそうになる。

 

「さあ、教室へ。今日は、“記録”について話します」

 

教室に戻ると、黒板にはすでに先生の手で一文字だけが大きく書かれていた。

 

――記。

 

「忍びにとって、“記録”とは何だと思いますか?」

 

誰も答えない中、先生はゆっくりと教壇を歩いた。

 

「任務中の観察。仲間の動き。敵の癖や配置。土地の地形や天候……それらを正確に記録する力は、忍びとしての技術のひとつです」

 

先生の声はいつも通り静かだったけれど、その目は鋭く、私たちを一人一人見据えていた。

 

「ただ目で見て、ただ覚えるだけでは不十分です。“なぜそうなったのか”“何がそこにあるのか”を、自分なりに分析し、残す。それが、真の“記録”です」

 

私は思わずノートを開き、今日の訓練のことを書き始めていた。

 

竹の棒。重心移動。視線。

 

……あの視線。

 

書いているうちに、手が一瞬止まった。

 

「タチエ」

 

シナ先生の声に、私は顔を上げた。

 

「はい」

 

「気になることがあれば、記録しておきなさい。どんな些細なことでも、“違和感”というのは、後に命を救う鍵になることがある」

 

先生の言葉は、まるで私の思考を見透かしているようだった。

 

(……やっぱり、先生も何か気づいてる?)

 

でも先生はそれ以上、何も言わなかった。

 

「この授業の最後に、課題を出します。明日までに、今日の訓練と授業で学んだことを“記録”し、提出してください。観察と分析、そして――自分なりの気づきを書きなさい」

 

私は黙って、ページをめくり、もう一度ノートに向き直った。

 

“自分なりの気づき”。

 

あの視線は、何かを伝えようとしていたのか。

 

それとも――警告だったのか。

 

何が正解かは、まだわからない。

 

でも、私は記録し続ける。今日の一歩、感じたもの、恐れたこと、心に残った言葉――すべて。

 

忍びとしての道の第一歩を、私は確かに歩き出していた。

 

夜。

夕食を済ませ、風呂に浸かり、それから葵と立ち話をしてから、くノ一の長屋へ辿り着いた。そういえば、同室の子が誰なのかまだ知らない。葵……ではないのはわかる。

 

初対面の緊張を抱えたまま、自室の前に立つ。

戸に手をかけ、意を決して開けた。

 

「…………。」

 

中には、私と同じくらいの年頃の少女がひとり。寛いだ様子で座り、本を読んでいた。

ショートボブの髪が印象的な少女は、私に一瞥をくれるだけで、すぐに本へと視線を戻した。

 

(……あれ? 挨拶、した方がいいよね?)

 

けれど彼女の態度はあまりに自然で、まるで最初からこの部屋に一人きりだったかのような空気を纏っていた。

 

「……こんばんは。今日から同室になる、薬茂タチエです」

 

勇気を出して声をかけると、彼女は一拍遅れて顔を上げた。

涼やかながらも鋭さのある瞳。どこか理知的で、孤独に“慣れた者”の眼差し。

 

「メイ……三崎メイ。よろしく」

 

それだけ言って、再び本へ視線を戻す。

素っ気ないが、不快さは感じない。

 

(……無口なタイプ、かな)

 

そう思いながら、私は宿題の準備を始めた。

部屋は二人で使うには十分な広さだけれど、どんな距離感で過ごせばいいのかは、まだ分からない。

 

ふと、メイの読んでいる本の表紙が目に入った。

装丁は手作りのようで、「Black Cat Town」(黒猫の街)と書かれている。

 

(えっ……これって)

 

カルデア時代、香苗先生に勧められて読んだ推理小説だった。猫にまつわる不思議な事件を描いた物語。 

 

一時期、ドラマの「相棒」の影響で推理小説にハマっていた私はこの本に夢中になった。

 

まさかこの時代に、それを読んでいる人がいるなんて。

 

「推理小説、好きなの?」

 

「うん。お気に入りなの」

 

「もしかして……英語、読めるの?」

 

「うん。独学で。洋書も読みたくて」

 

(独学……すごい)

 

この時代に英語を独学で学ぶなんて、並の努力じゃない。

私も医学書を読むために英語やオランダ語を必死に勉強したっけ。

 

「私も英語は得意だよ」

 

「……君も?」

 

「うん。英語とか、語学はできる方なんだ」

 

「ふぅん……そう……」

 

そのとき、一瞬、口元が緩み、柔らかい印象が灯った。

それは確かに“和らぎ”の表情だった。

 

(よかった……嫌われたわけじゃなさそう)

 

胸をなで下ろしながら、私は筆の準備をした。

夜が更けていく。静かな部屋に、紙をめくる音だけが心地よく響いていた。

 

さて、私は宿題を取り掛からなくては。ノートを開いて、筆を取る。

 

机に向かって黙々とノートにまとめていた。

 

――足の重心移動、呼吸の整え方、シナ先生の言葉。そして、六歩目に感じた気配。

 

筆を止めたとき、ふと、窓の外の風が気になった。

 

音もなく吹き抜ける夜風のなかに、あのときと同じ、微かな違和感があった。

 

(……また、誰かが見てる?)

 

自分の気のせいだと片づけるには、あまりにもはっきりしていた。

 

私は、窓の障子をそっと開け、外を覗いた。

 

月明かりが、校舎の裏手にある竹林を照らしていた。

 

誰もいない――ように見える。

 

だけどそのとき、竹林の奥に、一瞬だけ“影”が揺れた。

 

(……今、いた)

 

私は息を呑み、障子を閉じた。

 

すぐに動くべきじゃない。これは記録しておこう。そう判断して、ノートの隅に短く書き記す。

 

> “校舎裏の竹林に影。月明かりの下、確かに人の気配。目的不明。”

 

気を張っていても、心のどこかで興奮している自分がいた。

 

この謎が、どこへつながっていくのか――怖くて、でも知りたかった。

 

そんな夜が明けて、翌朝。

 

提出の時間になると、生徒たちは思い思いのノートを持ってシナ先生の元へと向かった。

 

私の番になり、ノートを差し出すと、先生はそれを手に取って目を通し、ふっと小さく笑った。

 

「……ずいぶん、鋭いところを見ているのね」

 

「……あの影、先生も?」

 

「それはまだ、君には早い話よ。でも、記録は正しい。書き続けなさい」

 

先生の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。

 

「観察し、考えること。それが、忍びにとっての“剣”にもなるのだから」

 

(……記録は、武器になる)

 

私は静かにうなずいた。

 

それからというもの、私は毎日“記録”をつけるようになった。

 

訓練で得た技術の感覚。

 

仲間たちの癖や、表情の変化。

 

そして、時折感じる、あの影の気配。

 

そう、それは一度だけではなかった。

 

夜の校舎裏、訓練場の片隅――ふとした瞬間に、あの視線は現れ、消えていく。

 

まるで、“試されている”かのように。

 

午後の座学の授業も終わり私は、葵のいる席に向かった。

授業に慣れていないのか、少し疲労が見えている。

その隣にはもう一人のくのたまがいた。三つ編みを一本にまとめた少女はどこか母に似たお嬢様のような雰囲気を持っている。

姿勢といい、髪を掻き上げる所作といい、どこかの貴族のようにも見えた。

 

「葵、その隣にいる人は?」

 

「ああ、この子はリン、鈴川リン」

 

「よろしくね」

 

リンは短くそう言うと、軽く会釈をした。その所作は落ち着いていて、どこか年上のような雰囲気すら感じる。

 

雰囲気は――母だ。でもそれだけじゃない。どこかで見覚えのある気配。

 

……そうだ、宝石が大好きなメソポタミアの天空の神霊に似ている。あの、きらびやかで力強い神性の奥にある、鋭い冷静さ。

無駄を嫌いそうなストイックさが滲んでいた。

 

――たぶん、このなかでも、忍びに向いていそうだ。

 

「リンは、なんか、すごく静かだけど……すごいよ?」と葵がこっそり耳打ちしてくる。「同室だったから、挨拶したけど、一言で名前を言って、はい、終わり」

 

「……早っ」

 

「でしょ?」

 

私はもう一度、彼女を見た。

リンは筆を片付け終えると、静かに立ち上がる。そして私を一瞬だけ見たあと、隣にいる葵に言った。

 

「それじゃあね。私は自室で勉強しているから、また後でね」

 

「うん、じゃあね」

 

私と葵に見送られながら、彼女は颯爽と立ち去っていく。教室には、ほかのくのたまたちの話し声が穏やかに響いていた。

葵はリンが出ていった出入り口を見つめている。名残惜しそうな様子はなく、ただ静かにその背中を見送っていた。そして、私の方へと向き直る。

 

「それで、どうしたの?」

 

「ああ、そうだった。あ、あのね……」

 

首をかしげて私を見てくる彼女に、私は内心ドキドキしていた。正直に言えば、私はコミュニケーションが得意な方ではない。

それでも、葵に話しかけるこの瞬間のために、何度も頭の中でシミュレーションをしてきた。あとは、勇気を出して実行するだけ。

 

「お茶会しない?」

 

◆♢◆

 

「お茶美味しい」

 

「それは良かった」

 

ポカポカと暖かい日差しを浴び、縁側で緑茶を飲みながら、お茶会をした。淡い黄緑色の水面に茶柱が立っている。ここに甘いお菓子があればもっと最高なのだが。それでも、葵と念願の学園でのお茶会ができて私は嬉しい。

 

緑茶を飲み、目の前の葉桜を眺めていた。葵は暖かい日差しに目を細めながら、緑茶を口にする。お互い緑茶を飲みながら、のんびりしていた。

 

穏やかな時間に私は癒されている。ここ最近、夜もよく眠れるようになった。魔術についてバレる心配もないので、ようやく肩の力も抜ける。それにしても、カステラが欲しい。タルトも食べたくなってきた。ああ、駄目だ。甘い物が欲しくて、仕方ない。

 

特に私は現代でお気に入りの甘い物がある。モチモチして、砂糖が優しく包む、まるで幸せみたいな味。

 

ーーポンデリング。

 

私はそのドーナツが大好きだった。学校帰りはいつもミスドに寄って甘いカフェオレと一緒に頂いている。

 

「ポンデリング……」

 

思わず私はドーナツの名前を言ってしまった。懐かしい、ポンデリング。愛おしい、ミスドのドーナツ。そして、大好きな甘いカフェオレ。そんな思い出の味を懐かしむ私に、葵は反応した。

 

「ポンデリングってなに?」

 

「ん、えーと……。」   

 

私は彼女の疑問に言い澱んだ。ポンデリングは数百年先の未来の食べ物。

 

「ポンデリングは西洋の食べ物だよ。モチモチして美味しい」 

 

「それって食べられる?」

 

「うーん。高級だから……」私は目を逸らした。

 

嘘だ。学生でもお手軽に食べられる。小さな罪悪感が胸にチクリと刺す。

 

「じゃあ、無理か……」

 

「うん……」

 

「でも……」

 

「でも?」

 

私は気まぐれにとある事を思いつく。来世にまた会えたらのはなしだが。

 

「葵にそのうち奢るよ」

 

「そのうちって、どのうち?」

 

「そのうちは、そのうちだよ」

 

本当は無理かもしれないけど、願いだけは伝えたい。

すると葵は小指を前に出した。私は首を傾げる。

 

「葵?」

 

「約束だよ」

 

「約束?」

 

「ポンデリング、いつか奢ってね」  

 

その表情は葵にしては、珍しく真剣な眼差しだった。そんなに食べたかったのか。ポンデリング。

私は思わず笑ってしまった。それから小指と小指を絡める。

 

「うん、約束だよ。葵」

 

「約束」

 

こうして、私は約束をしてしまった。来世があるのなら、次があるのなら、葵にポンデリングを奢ろう。学生服を着て、学校帰りにミスドに寄り、好きなドーナツを選んで、甘くて、温かいカフェオレをお供に。 

その日が来ることを、願いながら。

 

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