空は夕焼け色に染まり始め、楽しいお茶会はお開きとなった。葵はリンがいる部屋へ。私はメイがいる図書室へ向かうことにした。正直なところ、図書室はずっと気になっていた場所だ。
昔から、私は図書室にお世話になっている。わからないこと、調べたいことがあれば、真っ先に足を運んだ。そこには、いつも彼女――マシュ・キリエライトがいた。
ほんの些細な疑問も、彼女はすぐに調べてくれた。あるいは、物語を読んでいることも多かった。『海底二万マイル』、『シャーロック・ホームズ』、『星の王子さま』。西洋の古典が、彼女の周りにはいつもあった。私もよく読んでいた。
特に『星の王子さま』はお気に入りだった。大切なものが何かを、教えてくれる物語。
図書室には本だけでなく、DVDも置かれていた。『ホームズ』シリーズはマシュと何度も見返したっけ。
本の感想を言い合うのが、あの頃の日常だった。
(室町時代の図書室には、どんな本があるんだろう。洋書があったら嬉しいな……)
そんな期待を胸に、私は図書室を目指した――のだが。
「……ここ、どこ?」
入学式で渡された地図を見つめながら、私はくノ一寮の縁側からずいぶん離れた場所を彷徨っていた。
どうやら、完全に迷子である。
もともと軽度の方向音痴だった。地図はいつもマシュや藤丸、あるいはサーヴァントたちに任せていた。いつも誰かが地図を見てくれたから、私はその後ろを着いていくだけだった。そのツケが、今ここで回ってきたのかもしれない。
右に行き、左に戻り、また右へ……。どうしても目的の図書室に辿り着けない。
上下逆さまに地図をしても無駄。元の場所に戻っても、やっぱり迷う。
ため息をついて、地図を穴が開くほど睨みつける。けれど道筋は見えない。
まるで、自分だけ謎解きゲームの中にいるみたいだった。
もし私が探偵なら、犯人にはとっくに逃げられているだろう。完全に失格だ。ブツブツと呟いていると――
「……あの」
「ひゃいっ!?」
突然肩を叩かれ、変な声が出た。恥ずかしさにその場で固まり、内心では軽くパニック。
慌てて手のひらに「人」と三回書いて飲み込む。これは藤丸が教えてくれた、緊張を和らげるおまじないだ。
「あの、ごめんね。驚かせちゃった?」
茶色の髪の少年が申し訳なさそうに声をかけてくる。特徴的な顔立ちを見て、私はすぐに彼の正体に気づいた。
――善法寺伊作。
後に保健委員長となり、不運大魔王と名を馳せる人物である。
彼は私を見て少し固まっていたが、すぐに我に返ったように表情を和らげた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。たぶん……」
私は苦笑しながら答える。本当は大丈夫ではない。けれど、大丈夫じゃないと答えるのはなんだか、違う気がして。私は無理矢理、笑顔を作り、質問する。
「それより……ここって?」
「ここは一年は組の教室だよ?」
「えっ?……あっ、本当だ!」
教室の札を見て、ようやく間違った場所に来ていたことに気づく。確かに、札には『は組』とかかれている。あまりの出来事に愕然とした。
(まさか、ここまで方向音痴だったとは……)
いや、私は軽症のはず。決して“重症”ではない。なのに、どうしてこんな真逆の場所に……。
もう一人の自分にクレームを出したくなるほど呆れてしまった。
「……ごめんね。図書室って、どこでしたっけ?」
「図書室? ……全然わかんなかったんだ?」
「うん……ちょっと、地図がね……苦手で……」
「大丈夫だよ。教えてあげる!」
「ありがとう……!」
善法寺君の優しい声が、まるで迷いの霧を払う風のようだった。
彼に道を教えてもらいながら、ようやく図書室へのルートを覚える。どうやら私は、図書室とは完全に反対の方向に歩いていたようだ。彼がいなければ、私は今日中にたどり着けなかったかもしれない。
……いや、本当に彷徨っていたのかもしれない
善法寺君が仏さまに見えてくる。
(ありがたや……ありがたや……)
心の中で、自然と手を合わせてしまった。それくらい彼は救世主である。仏様、神様、天使様、救世主、メサイア、魔王様、いくつかの言葉が浮かんだ。最後のは絶対に違う気がするが。
やっと辿り着いた図書室の前で、私は深呼吸をひとつした。
(よし……!)
静かに引き戸を開けると、メイが一人、本を読んでいた。しんとした空気に、思わず背筋が伸びる。棚にずらりと並んだ本、紙のにおい、静かにページをめくる音……まさに理想の知識の宝庫。
さて、目的の本はどこにあるかな?いやいや、私はメイを探しに来ただけで、本を探しに来たんじゃない。あまりの本の量に惑わされて、目的を間違えてどうする、私よ。
「メイ」
「ん? なんだ……タチエか。どうしたの?」
「そろそろ夕食の時間だよ」
「もうそんな時間か……」
パタンと静かに本を閉じる。表紙には英語で『Flowers of farewell』(別れの花)とあった。知っている。確かこれは、二人の男女が恋に落ち、やがて別れ、それぞれの道を選ぶ――そんな悲しくも美しい恋愛物語だ。
「この図書室って洋書もあるの?」
「あるみたいだよ。英語以外の言語で書かれた本も見かけたし」
「どれ?」
そう言って、メイは別の一冊を棚から取り出し、開いた。表紙には「Genera Plantarum」(植物の種類)と書かれていた。よく見れば、色んな植物のイラストとともに詳しく解説されている。カノコソウのページをメイは開いた。そこにはリッラクス効果や鎮静作用、副作用の症状や注意点がラテン語で記されている。
「えーと……Valerianus……カノコソウ」
「え? 読めるの?」
「うん、これ、ラテン語だよ」
「すごい……」
私は語学が得意だ。英語や日本語に加えて、ラテン語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語。ラテン語とドイツ語は魔術書に触れるためには必須だったので、自然と身についた。自分でも言うのもなんだが、もとから記憶力は良いほうなので、暗記タイプは得意中の得意である。
「他にも読めるの?」
「うん、今言った以外にも少しずつね」
「タチエ、ほんとにすごいね……」
「そう?」
メイは目を僅かに見開いている。ふふん、そうだろ。すごいだろ。
あ、いけないいけない。思わず天狗になってしまったが、これぐらいはカルデアのスタッフもできることなので、別に自慢することではない。けれど、褒められると鼻高々なってしまうのはあまりよくない気がする。気をつけなくては。
それから、私たちは読んでいた本を手に取り、図書室の出入り口へ向かった。出入口には図書委員らしき生徒がいて、メイが本を差し出すと、彼は少し驚いたような顔をした。
「君……これ、読めるの?」
「読めますよ」
「英語だよ?」
「独学で勉強してたので」
「へぇ……まあ、ならいいけど」
三年生くらいの生徒はメイをちらりと見て、それから、本の表紙を眺め、ふと気になったのか、彼女に訊ねる。
「どんな内容の本だい?」
今度は私が代わりに答えた。
「恋愛物です。」
まあ、最後は別れてしまう悲しい恋愛物だが。生徒は感心したように目を細めて、ひと言。
「もったいないな……忍たまだったら、図書委員に入れたのに」
「そうですね。残念です」
メイはその言葉に、わずかに微笑む。本当に残念そうにはしているようにはあまり見えない。まるで、ほんの少しだけ、淡々としているようだった。
「図書委員、かあ……なんだか楽しそうですね」
「うん。きっと君なら、すぐ馴染めると思うよ」
生徒は控えめに笑いながら、本に貸出票を挟んで返した。
「ありがとう」
メイは軽く会釈し、私の方を振り返る。その表情には、羨ましさと、ほんの少しの切なさが混ざっていた。
図書室を出た後、私たちはしばらく無言で廊下を歩いた。夕日が廊下の窓から差し込み、床を橙色に染めている。
「……もし、私が忍たまだったら、って。たまに思うよ」
「うん」
「でも、私には無理だよ。朝早いの苦手だし、走るのも嫌い」
「それだけがすべてじゃないよ」
私は立ち止まり、窓の外を見た。夕焼けの空に、花のように雲が広がっている。淡いオレンジの空から赤色のグラデーションとなっていて、綺麗だ。もう、夕焼け色を血を連想とさせなくて、少しだけ、ホッとしている自分がいた。
「……私は、君のそういうところ、素敵だと思う」
メイは少し驚いたような顔をして、それからふっと笑った。そうだ、くノ一は忍者はそれだけじゃない。メイはメイなりに良いところがあり、それがきっと彼女の魅力の一つでもある。
「ありがと」
それはまるで『Flowers of farewell』のヒロインが、別れ際に見せるような、心の奥にふわりと灯がともるような微笑みだった。
(彼女の綺麗な笑顔が見られたのも……善法寺君のおかげか。ありがたやありがたや)
そう思った矢先、ポケットの中で何かがもぞっと動いた。手を突っ込むと、くしゃっとした小さな紙が出てきた。
――「今度、食堂でお茶でもどう?」
それは、善法寺君の柔らかな筆跡で書かれたメモだった。
(……らしくないけど、ちょっと嬉しいな)
ナンパみたいな一文に、私は思わず苦笑いを浮かべた。
夕食を終え、風呂に入り、再びメイと合流して、夜の部屋で過ごす。私はさっき借りた洋書『The Truth About Sunset』(夕焼けの真実)を読んでいた。人間の複雑でドロドロした感情が描かれた作品だが、それがまた面白い。
「ねぇ、タチエ」
「なに?」
「その本、面白い?」
「うん、人間関係の複雑さが深みになっててね。ただ……」
「ただ?」
「内容がけっこう重たいの。まあ、それも含めて、良い本なんだけど」
「ふーん」
夕焼けのように複雑な立場の主人公が、闇と光の両側に身を置き、葛藤しながらも歩んでいく姿。なんだか、私自身と重なる気がした。
ちらりと隣を見ると、メイは再び読書に集中していた。
私もまた、本のページに目を戻す。
静かな夜の読書は、寝る時間まで続いていった。
残りの桜が散り、完全な葉桜になり始めてから、一週間が経つ。今日も青々とした若い葉が桜の木の枝に生えている。その日、私は静かに洋書コーナーで、本を探していると、それは突然、訪れた。
「タチエちゃん?」
「え?善法寺君?久しぶりだね」
図書室の洋書コーナーで本を取り、離れたときに善法寺君が私に声をかけてきた。
調薬のレシピが書かれている本が密集した棚の前だった。彼は保健委員だからか、薬草の図鑑や調薬のレシピを何冊も抱えている。それにしても、かなりの重量だが、重くはないだろうか?
「大丈夫?」
「だ、大丈夫だよ……」
そう言いながらも、善法寺君の腕はプルプルと震えている。内心ハラハラしながら見守っていた。不運大魔王の彼のことだ。そのうち転んで本をぶちまけかねない。そうなったら、きっと大変だろう。
「とりあえず、本の量を少なくしたら?」
「そ、そうだね。そうするよ」
本の量を減らしてから、座卓の上に置いた。ヨロヨロとよろけながら本を元に戻そうとしていたので、そこは手伝った。それにしても、これを全部読むつもりなのだろうか? だとしたら、かなりの勉強家である。
「これ、全部読むの?」
「うん。保健委員として、もっと役に立ちたくて」
「……すごいね」
彼は照れくさそうに笑ってから、図書委員の生徒に貸出の手続きを頼んだ。私もそれに続き、本を借りる。今回は調薬のレシピの本と、『First-class servant』(一流の使用人)という洋書を選んだ。
内容は、貴族の見習い使用人が一流になるために奮闘する話。
当時の使用人の一日や仕事内容、礼儀作法に至るまでが細かく書かれていた。
善法寺君は私の持つ本をちらりと見て、興味を持ったように尋ねた。
「それ、洋書だよね?」
「うん、英語読めるんだ」
「すごいね……」
善法寺君は感心したように目を見開いていた。私はそれがなんだかか、照れくさく感じる。メイどころか、善法寺君まで、褒められるのは悪くない。気分のいい私は、思わず「えへへ」と言いそうになる。それから、私たちは食堂へ向かうことにした。お茶を飲んで、少し一息つくために。
食堂では、おばちゃんが出かける準備をしていた。外出するおばちゃんはめったに見れない。割烹着以外での、姿は新鮮である。
「お出かけですか?」
「そうそう。ちょうど良い緑茶の茶葉を見つけたから、買いに行こうと思ってね」
「お茶……飲めないね」
「私が淹れるよ」
私を誰だと思っているのかね、善法寺君よ。これぐらいのお茶淹れは得意中の得意だ。むしろ、朝飯前ならぬデザート前である。善法寺君は驚いたように私を見た。
「できるの?」
「得意だから大丈夫。おばちゃん、急いでいるなら、私が代わりにお茶淹れてもいいですか?」
「あら、タチエちゃん? いいのかい? 助かるわぁ。じゃあお願いね」
手ぬぐいを頭にかぶり直しながら、食堂のおばちゃんはぱたぱたと出ていった。あとに残ったのは、ほんのり夕暮れ色に染まった静かな空間。
「じゃあ……少し待ってて」
棚から鉄瓶や急須、茶葉を取り出す。鉄瓶に水を入れて火にかけると、コトコトと音が響き始めた。空気がゆっくりと温まりだす。
善法寺君は椅子に腰を下ろし、じっと私の手元を見ていた。その視線がくすぐったくて、私は少しだけ背筋を伸ばす。
「……茶葉は煎茶?」
「うん。今日の気分は、ちょっとさっぱりしたものがいいかなって」
湯呑みに一度お湯を注ぎ、冷ました。急須に茶葉を適量入れて、湯の温度が落ち着いた頃合いを見てから注ぎ入れる。
「お茶ってさ、ただ淹れるだけじゃないんだね」
「うん。お湯の温度、注ぐ時間、器の温もり……全部が合わさって、初めて“おいしい”になるの」
そう言いながら、私は急須をそっと傾けた。静かにお茶が湯呑みに注がれ、やわらかな緑が広がっていく。
「どうぞ」
湯呑みを差し出すと、善法寺君は丁寧に両手で受け取り、ゆっくりと口に運んだ。
「……わぁ。やさしい味がする」
「それなら良かった」
私も湯呑みを手に取り、一口含む。ふっと、気持ちがほどけていくような、静かな時間が流れた。
「タチエちゃんって、すごいなぁ。こういうとこ、ちゃんとしてて」
「ふふ……そんなことないよ。ただ、お茶が好きなだけ」
いつの間にか陽は傾き、窓の向こうでは風に揺れる葉桜が、淡くきらめいていた。
私は湯呑みの縁をそっと指でなぞりながら、気になっていたことを聞いた。
「保健委員ってさ、どんなことをするの?」
「うーん。そうだな……薬草を取りに出かけたり、調薬したり、怪我人の治療をするよ」
「そっか……」
――もし私が、忍たまだったら。
今頃、保健委員に入っていたかもしれない。
でも、私は女で、くノ一。委員会の仕事は本来、忍たまの役目。
くのたまの私が特別に入れてもらえるなんて、そんな都合のいい話、あるわけない。
それでも――私は学びたい。
調薬の技術も、治療の技も。
迷っている暇なんて、ないから。
「ねぇ、善法寺君」
「なに?」
「私を保健委員に入れてくれないかな?」
善法寺君は、ぽかんとした顔で私を見た。それもそうか、と私は心のなかで、クスリと笑う。いきなりくノ一である私がそんなことをいい出したら、そんな反応に誰だってなる。私が逆の立場ならきっと、善法寺君のように同じ反応するだろう。
「……え?」
「いや、正確には"補佐"として、雇って貰いたいんだけど」
まあ、現代で言うのなら、アルバイトやパートで雇うようなものだ。いきなり正社員として雇ってもらいたいなんて贅沢は言わない。あくまで"補佐"として、雇ってもらいたいのだ。
静かな食堂に、鉄瓶の中でお湯がまだ微かにコトコト鳴っている音が響いていた。
私の言葉に、善法寺君はしばらく黙って考え込んでいたけれど――やがて、困ったように、でもどこか優しく笑った。
「……委員会って、そんなに簡単に出入りできるところじゃないんだ」
「うん、わかってる。だから、“補佐”でもいい」
「どうして、そこまで?」
少し戸惑ったように、けれど真剣な目で、彼は私を見た。彼の瞳に私が映り込む。私の赤い瞳にもきっと善法寺君が映り込んでいるのだろう。きっと私がここまでして、入りたいことに今は理解できない。
私は、一息おいて、湯呑みを両手で包んだまま、小さく息を吐いた。
「……私、自分がどれだけここにいられるかわからないんだ。だったら、その間にできることは全部、やっておきたい。中途半端なままじゃ、悔しいから」
"魔術がバレたら"いつもそんなことを考えていた。そう考えるときっと、残りの時間は少ないように思える。バレたら、良くて追放される可能性がありえる。そんな残り少ない時間を有意義に過ごしたい。今ある時間を一粒でも有効活用していくのが、効率がいい方法だから。
「……」
善法寺君の目が少しだけ見開かれた。私は内心、心臓がドキドキとしていた。それはそれで、手汗を握るものである。けれど、すぐにその目は穏やかな色に変わって、彼はふわりと笑った。
「……いいよ。僕の仕事、手伝って」
「……本当に?」
「うん。でも、あくまで“保健委員の補佐”ってことでね。正式には、やっぱり忍たまじゃないと難しいから」
「うん、それで十分」
私は笑って、頭を下げた。お人好しの彼には心苦しく思う。だって、この後に保健委員長の六年生にも"補佐"として、お願いしなければいけないから。それでも、私は目的の為に成し遂げなければならない。
「ううん。むしろ僕の方こそ、助かるかもしれないよ。最近、仕事が増えてて……留三郎にもよく『お前、倒れるぞ』って言われるし」
「それは……本当に倒れる前にちゃんと休んだ方がいいよ」
二人で顔を見合わせて、笑いあった。
窓の外では、そよ風が葉桜を揺らしていた。
少しずつ、けれど確実に――新しい季節が近づいてきている。
そして私もまた、小さな一歩を踏み出したのだった。
「なるほど、ね……」
目の前には保健委員長・小野寺幸太郎先輩が立っている。私は威圧に負けないように、背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。きっと、ジャンヌ・ダルクが自身を騎士として、戦争へ介入させてほしいと城へ向かって、王に直談判するときと比べたら、天地のさほどの緊張感だが、なぜかそんな気持ちなるにのは気のせいだろうか。
「お願いします! 私を保健委員の手伝いに加えてください!」
「僕からも、お願いします!」
隣で善法寺君も、同じように頭を下げる。小野寺先輩は眉間にしわを寄せて難しい顔をしていたが、やがて深いため息とともに困ったように笑みを浮かべた。さらりと彼の黒いポニーテールが揺れた。それはまるで、本当に馬の尻尾みたいに。
「……全く、善法寺。君は本当にお人好しだな」
呆れたように言いながらも、その声にはとげがなかった。
むしろ、どこか優しさがにじんでいる。あれだろうか、保健委員はお人好しの集まりではないだろうか。普通なら少しだけ刺々しくなるはずなのだが。
「それに――薬茂タチエさん、だったね? 君、くのたまだろう?」
「はい……」
「くのたまが委員会活動に関わるなんて、前例がない。いろいろと難しい立場だってわかっているかい?」
小野寺先輩は一瞬、窓の外に目をやった。夕焼けの光が差し込んで、彼の横顔を淡く照らす。
「……でも、善法寺の推薦なら、信じてみてもいいかもな」
「……!」
驚きと喜びが胸に広がる。
顔を上げると、小野寺先輩はほんの少し、柔らかく笑っていた。
「ただし、正式な保健委員としては扱えない。あくまで補佐、委員の手が足りないときの助っ人として――」
「それでも構いません!」
思わず声を張ってしまった。けれど、それを咎めることはなく、小野寺先輩は微笑を崩さずに頷いた。
「じゃあ、しばらく様子を見させてもらうよ。薬茂さん」
「はいっ!」
その瞬間、隣で善法寺君がにこりと笑った。私も嬉しくて、思わず同じような表情をする。私は善法寺君を見て、お礼の言葉を述べた。
「よかったね、タチエちゃん!」
「うん……本当に、ありがとう。善法寺君、君がいてくれたから」
「僕は、ちょっと背中を押しただけだよ」
そう言って、彼は照れくさそうに笑った。
その笑顔を見たら、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
――これで、私は一歩進めた。
たとえ“正式”じゃなくても、できることを一つずつ積み重ねていけば、いつかきっと――。
「それじゃあ、明日の活動、よろしく頼むよ。補佐の薬茂さん」
小野寺先輩の声に、私は力強くうなずいた。
「はい。精一杯、頑張ります!」
こうして、“くのたま”である私の、保健委員としての第一歩が始まったのだった。
翌日の休日の朝。私は保健委員活動よりも前に来ていた。薬棚にはたくさんの壺が並べられている。他の薬棚には薬草が入っているのだろうか。漢方薬のような匂いに自然と身が引き締まる。昔から匂いを嗅いだことのある懐かしい香りだ。
やることひとつだけ。まずは、箒で埃や塵を掃いていき、それから、雑巾を用意して、水入りの桶を手に持ち、素早く床を拭いていく。懐かしい、アルバイトのときもまずは先に来て、掃除から始めていた。
まさか、現代の頃のアルバイトがここで活かされるとは思わなかった。それに、初日で遅れる訳にはいかない。新人は早くに来るのが社会人としての第一歩である。掃除を終えるとガラガラと保健室の戸が開いた。
「タチエちゃん、おはよう」
「おはよう、善法寺君。早いね」
「そうかな?タチエちゃんも早いね」
「初日だから、しっかりしないとね」
「その意気だよ。タチエちゃん」
善法寺君は嬉しそうに笑うと、薬棚の方に歩み寄る。それから、来るようにとちょいちょいと手招きをしていた。私は棚の方に来ると薬棚はゴチャゴチャしている。どうやら、薬棚の整理するようだ。
「じゃあ、一緒に備品のチェックからやろうか。薬草の整理と、包帯の在庫確認もあるよ」
「はいっ!」
返事をすると、善法寺君は私に作業を分担してくれる。
こうして、保健室の仕事が静かに始まった――はずだった。
だが。
「……タチエちゃん、なんか包帯、すごく几帳面に巻いてるね」
「薬はきちんとラベルの向きも揃えないと不安で……」
「うん、すごい。けど……あの……それ、元々雑に見えても取り出しやすいようにわざとこうなってるんだけど……」
「…………!!」
やってしまった。
くのたまである私は、“効率的な忍具整理”に慣れすぎていたのだ。薬瓶も、包帯も、巻物も、全部自分なりの「戦場仕様」で整えてしまっていた。
「だ、大丈夫だよ!ちゃんと後で僕が直すからね!」
「ご、ごめんなさい……!」
私は思わず、頭を抱える。初日から、やらかした。なんてことをしてくれたんだ、自分。
そのとき――。
「……にぎやかだな、朝から」
背後から聞こえた、やや低めの声。振り返ると、小野寺先輩が立っていた。朝から来るとは保健委員長も大変らしい。
「小野寺先輩!おはようございます!」
ぴしっと背筋を伸ばすと、小野寺先輩は棚の薬瓶を一つ手に取り、くるりとラベルの向きを見た。
「ふむ……確かに整いすぎてるな。忍の現場ならこれもアリだが……」
「す、すみません……!」
「まあ、やる気があるのは伝わってくる。善法寺、今日は初心者向けの手当の手順から教えてやってくれ」
「はいっ!」
善法寺君は元気よく返事し、小野寺先輩は小さく頷いたあと、外へと歩いて行った。
「……ふう。タチエちゃん、今日も一日頑張ろうね」
「う、うん……頑張る!」
ちょっとした失敗から始まった私の“補佐生活”。
けれど、それでも、善法寺君の笑顔に救われて、私は今日も一歩を踏み出す。
――まだまだ先は長い。でも、私はやる。
「じゃあ今日はまず、応急手当の実習をやろうか!」
善法寺君が持ってきたのは――なぜか“人型の藁人形”。
「……あの、これは?」
「僕が昨日作ったんだ! 名前は“マキちゃん”。手当ての練習にぴったりだよ!」
「いや、名前ついてるんだね……」
しかも、なぜか口元に笑顔の刺繍が施されている。地味に芸が細かい。
「じゃあこのマキちゃん、転んで膝を擦りむいたという設定でお願いね!」
「は、はい!」
私は言われた通り、膝に見立てた藁の部分に包帯を巻こうとした。が――
「っ!? この藁……硬い……!」
「うん、実は中に竹筒が入ってるんだ。強度を上げるために」
「そのせいで包帯が全然巻きつかないんですけど!!」
必死に巻いた包帯が、するりとスルリと滑っていく。
「くっ……これが“補佐”の初仕事……!」
「タチエちゃん、無理しなくていいからね!? その顔、ちょっと怖いよ!」
私は力任せにぎゅーっと巻いた結果、マキちゃんの胴体が変形した。
「ぎゃー!マキちゃんがえび反りにィーッ!!」
「ご、ごめんなさい……」
「だ、大丈夫……また縫うから……」
謎の手芸スキルで黙々とマキちゃんを修復し始める善法寺君。私はそっと手を合わせた。
(なんか……私、思ってた“保健委員補佐”と違う……)
しばらくして、他の保健委員達も集まり各々、やるべき作業に取りかかる。といっても、ほとんどの委員達は薬草摘みに行くようだ。残ったのは私と善法寺君と二年生だけになった。二年生の先輩は私に少しだけ緊張してるのか、はにかむように笑う。
「よ、よろしくね。」
「よろしくお願いします」と私は頭を下げる。
一応、先輩には名前を聞いておいたほうがいいだろう。できれば、全員分の名前を覚えておきたいものだ。暗記系は得意なので、人の名前を覚えるくらいは楽勝である。こげ茶のポニーテールの先輩は灰色の瞳をこちらに向けていた。
「あの、なんてお呼びしたら、いいでしょうか?」
「ん?ああ、日比谷でいいよ」
「日比谷先輩ですね。わかりました。」
私が丁寧に答えると、日比谷先輩は、どこかほっとしたようにまた微笑んだ。緊張しているとはいえ、根は穏やかな人のようだ。
その様子を見ていた善法寺君が、隣でにこにこと笑いながら声をかけてくる。
「タチエちゃんは、すぐに仲良くなれるから大丈夫だよ。僕も最初、ちょっと緊張してたけどさ。」
「えっ、そうだったの?」
「うん。最初はね。でも、先輩達は仲良くしてくれたから、そのうち打ち解けられるよ。頼りになるしね」
そう言って善法寺君は穏やかに微笑んだ。私もそれにつられて笑った。横で聞いている先輩は誇らしいのか、鼻の下を指で擦っている。照れているのだろうか。日比谷先輩はそれから、私達に今日の仕事を確認した。
「さて、僕たちに任されてるのは、薬草の整理だったよね。」と日比谷先輩は、棚の方を指差しながら言った。
「はい。乾燥した薬草を種類ごとに分けて、傷んでないかも確認するんですよね。」
善法寺君は棚の前に並んである薬草が入った袋をちらりと見ながら、日比谷先輩に言う。
「そうそう。それから、足りないものをリストにまとめておくこと」
日比谷先輩が確認のために言うと、私は「了解です」と元気よく返事をした。
◆♢◆
「それじゃあ、さっそく始めますか」
「そうだね」
三人で、保健委員会の棚に並ぶ薬草袋を引っ張り出して、作業を始めることにした。
準備を整え、私達は棚の前に並んだ。袋の口を指で摘んで広げると、乾いた草の香りがふわりと立ちのぼった。私はその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
——薬草の匂い。
懐かしい。幼い頃、医者の香苗先生と一緒に干した頃をふと、思い出した。
「タチエちゃん、これ、何の薬草かわかる?」
善法寺君が、少しくすんだ緑色の葉を手にして尋ねた。
「……これは、スイカズラですね。咳止めや、喉の痛みに効きます。」
自信を持って答えると、善法寺君は「すごい!」と目を丸くした。
(……そんなに驚かれることかな?)
普段から薬草を取り扱っているので、これくらいは得意だ。
横にいる日比谷先輩も「へぇ〜」と感心している。
「薬草は、見た目だけじゃなくて、香りも手触りも覚えると、判別しやすくなりますよ。」
私は二人にそう助言すると、二人は頷いて、やる気を見せた。
こうして、私達三人は、和やかな雰囲気のなかで作業を進めていった。
「そう……。お疲れ」
「何とかなって良かったよ」
私は煮物を食べながら、白米を頬張る。出汁が染みている大根は格別に美味しい。それから、塩気の効いた味噌汁を啜る。メイは漬物をポリポリと食べていた。淡々とした様子に、聞いているんだか、聞いていないんだか、わからない。
「でも、いい経験になったね」
「そうなんだけどね……」
すると、隣に二人の少女がそれぞれ私とメイの席に座ってきた。まるで、双子のようにそっくりな彼女達のもう片方が私達に話しかける。
「こんにちは」
「こんにちは!」
「こんにちは」
私は元気よく挨拶をした。遅れてメイも挨拶をする。
「うんうん、いい返事」
にこやかに微笑むその子の声が澄んでいて、どこか安心するような響きだった。私とメイは一瞬顔を見合わせてから、ペコリと頭を下げた。メイの指先が微かに震えていた。たぶん彼女は私よりもずっと緊張しやすい。だからこそ、こうして明るく接してくれる先輩たちがいるのはありがたい。
「糸森先輩と花森先輩は、この時間帯何をしているんですか?」
「休日はお互い喋ったり、城下町に行くんだよね、ね、イヨ?」
「うん。城下町って、ちょっと特別だから好き。あと、昼食をゆっくり食べられるのも大事!」
そう言って笑う花森先輩の笑顔が、どこかメイに似ている気がした。
「君達は、同室なの?」
「はい、私とメイは同じ部屋です。」
「へえ、それは心強いわね。くのたまって、思ってるより大変よ?」
「はい、頑張ります!」
「頑張ります……」
「ふふ、いい返事ね」と糸森先輩が笑い、花森先輩も「うん、初々しくてかわいい」と嬉しそうに頷く。
「ちなみに一年生から城下町に行けるって知ってる?」
「そうなんですか?」
「うん。そいうえば、変な人が城下町に見るって噂あるんだけど、それも知ってる?」
「へ、変なの……?」
メイが不安そうに眉を寄せると、花森先輩が少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「夜の城下町によく見るんだって、露出度が高い服を着た人が彷徨っているって」
「……それは、変ですね」
私が思わずぽつりと呟くと、糸森先輩がくすっと笑った。
「そう、変だよね。二人も気をつけたほうがいいよ」
「は、はい……気をつけます」
メイが小さな声でそう返すと、花森先輩がにっこりと笑って首を傾げた。
「でもね、怖がらなくても大丈夫。私たちがいるし、変な人には近づかないのが基本!」
「そうそう、夜遅くまで外に出歩かなければ、まず大丈夫よ。あと、何かあったらすぐ報告。いいわね?」
「はい……!」
私とメイが頷くと、先輩たちは満足そうに微笑んだ。
けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ、違う色が混ざっているように感じた。
まるで――その「変な人」の正体を、すでに知っているような。
「じゃあ、そろそろ行こうか、イヨ。書庫の整理、終わらせないと」
「うん。またね、ふたりとも」
「はい、ありがとうございました!」
「ありがとうございました」
軽やかな足取りで去っていくふたりの背中を見送って、私は小さく息を吐いた。
落ち着いたと思ったのに、花森先輩の言葉が頭の片隅に引っかかって離れない。
――露出度の高い服を着た人が、夜に彷徨う。
それは単なる噂なのか、それとも、もっと別の意味があるのか。
「ねえ、さっきの話……」
メイが囁くように私の袖を引く。私は思わず彼女を見た。
「うん?」
「私……ああいう話、嫌いじゃないけど……でも、少しだけ怖い。
だって、あのとき、花森先輩、目が笑ってなかった気がして……」
「わかる。私も、ちょっとだけ、そう思った」
昼の光の中で交わした会話なのに、どこか影のようなものが差し込んできた。
でも、まだわからない。
それがただの冗談なのか、それとも――何かの“予兆”なのか。
昼食を終えた私達はそれぞれの場所を目指して、歩いた。
メイは図書室へ。私は保健室に。
保健室は誰もおらず、春の日差しが柔らかく入り込み、木の床を暖かく照らしている。
まるで、淡い過去を映し出しているような、少し夢のなかにいるような空気を纏っていた。
見ているだけで、懐かしい感覚に囚われる。次は窓際の植物たちに目をやった。花瓶に生けられたタンポポたちが陽光を受けて静かに葉を揺らしている。私は近づいて、花瓶の水を替えた。
そのとき――
「……」
ふいに、背後に気配を感じた。
振り向くと、誰もいない。
でも確かに、何かがこちらを見ていたような感覚が、背中を離れない。
「気のせい……かな……」
自分に言い聞かせるように呟く。
だが、手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。
誰もいないはずなのに、気配だけは感じる。それなのに、一向に姿を見せない。相手が何をしたいのか、私にはわからない。何が目的で何の為にわざわざこんなややこしいことをしているのか。
「何がしたいんだ……」
相手は何もしてこないところが意図が読めない。もしかして、まだいるのだろうか?
一歩、二歩、三歩、だんだんと窓際へ静かに近づいていく。シナ先生から教わった気配を絶ち、足音を消す。そして、窓際をそっと覗き込んだ。注意深く周りを見たが、誰もいない。本当に何がしたいのだろうか。
「……タチエちゃん?」
「え?ああ、善法寺君」
声をかけられて振り向くとそこには善法寺君がいた。どうやら昼食を終えてこちらに来たようだ。私は窓際から離れて、善法寺くんを見る。彼は少し心配そうにしていた。
「どうかしたの? なんだか、すごく警戒してるみたいだったけど……」
善法寺君が、そっと声を落とす。
私は一瞬、どう説明したものか迷ったけれど、正直に言うことにした。
「……うん。誰もいないはずなのに、背後から視線を感じたの」
言いながら、もう一度、ちらりと背後を振り返る。
だが、そこにはやはり、誰もいない。
善法寺君は少しだけ眉をひそめた。
けれど、すぐに穏やかな笑みを作って、私に言った。
「きっと気のせいだよ。春って、そういうふうに気が緩んでる時期だし」
「……うん、そうかもね」
私は頷きながらも、どこか釈然としないものを感じていた。
さっきの視線は、そんな軽いものじゃなかった気がする。
それに――あのとき、確かにタンポポの葉も、風がないはずなのに、揺れていた。
「でも、もし本当に何かあったら、すぐ誰か呼んでね」
善法寺君が真剣な顔でそう言ったので、私は少しだけ緊張を解いて笑った。よかった、彼がいてくれて。
「ありがとう。心強いよ、善法寺君」
「ううん、僕も保健委員だしね! お互い、助け合おう!」
彼の明るい声に、私はやっと心から頷くことができた。
その後、善法寺君と一緒に、保健室の整理をすることになった。
手ぬぐいを畳んだり、薬草棚を点検したり――そんな何気ない作業の中で、私はようやく、さっき感じた奇妙な気配を忘れかけていた。
けれど。
(カサ……)
背後で、何かが微かに擦れる音がした。
私はふと手を止める。
善法寺君も、作業の手を止めて、静かに耳を澄ませた。
(――まだ、何かがいる。)
胸の奥で、またあの嫌な予感が顔を覗かせる。
だけど今は、ここに善法寺君がいる。
私は、小さく深呼吸をして、心を落ち着かせた。
(大丈夫。もしもの時は、一緒に対処できる……)
そう、自分に言い聞かせながら、私は再び手を動かし始めた。
春の陽光は、変わらず優しく保健室を照らしている。
けれどその光の裏に、確かに“何か”が潜んでいる気配だけは、消えることはなかった――