藤丸立香との生活 一年生編   作:猫とふりかけ

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藤丸立香との生活【5】

その日の夕方、保健室の床を雑巾がけしていた私は、ひとまず作業を終えて、大きく伸びをした。

ゴキゴキッと腰から嫌な音が鳴るが、まあ、気のせいだろう。きっと疲れて幻聴でも聞こえたに違いない。

 

うん、きっとそうだ。だって、この歳で腰がこっているなんて、年寄りじゃあるまいし。私はまだ若いんだから、まだまだいけるはずだ――。

……けれど、やっぱり、言ってしまう。

 

「ふう~~~、腰が死亡……」

 

「お疲れ様、タチエちゃん。はい、回復道具(=麦茶)」

 

善法寺君が、どこからともなく麦茶を差し出してきた。

差し出された湯飲みを受け取ると、ひんやりとした感触が指先に心地よい。彼は優しく目を細めて、私を労ってくれる。

 

麦茶の香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、疲れた体にじんわりと染みわたっていく。

 

「ぷはぁ……やっぱり、冷たい麦茶って最高だね」

 

「ふふっ、そうだね」

 

善法寺君は穏やかに笑いながら、自分も麦茶を口に運んでいた。

こうして仕事終わりに飲む麦茶は、まるで、労働のあとに飲む一杯のビールみたいだ。

私たちは、どこか仕事仲間のような、そんな空気を纏っている。同じ保健委員同士だから、ある意味、本当に同僚みたいなものだけど。

 

これで甘いものがあれば、もっと最高なんだけど――仕事中だから、残念ながらそれはお預けである。

 

「……甘いものが欲しくなるね」

 

「タチエちゃん、甘いもの好きなの?」

 

「うん、大好き。カステラとか、タルトとか」

 

「へぇ~。じゃあ、ボーロとか好き?」

 

「ボーロ?」

 

ボーロ――ポルトガル語でケーキを意味する言葉。

日本では南蛮菓子の一つとして伝わっていて、しっとりと甘いお菓子だったはずだ。

前世で見たウィキペディアに、そんなことが書かれていた。香苗先生が休日のお土産に買ってきたボーロの味、今でも覚えている。ふわふわで、甘くて、まるで小さなケーキみたいだった。

 

(……前世の知識が、こういう時だけ役に立つんだから)

 

「ボーロか……しっとりしてて、美味しいよね。それがどうかしたの?」

 

「僕の知り合いに、ボーロを作れる子がいるんだ」

 

「えっ、ボーロを!?」

 

思わず身を乗り出すと、善法寺君は嬉しそうに笑った。

知り合いと言われても、何となく心当たりがある。

 

――中在家長次。

図書委員の一人で、無口で、どこか近寄りがたい雰囲気の人。

今はまだ顔に傷はない頃の彼だろうけれど、それでも笑顔を見せるのが苦手な印象は変わらない。

 

そんな彼が作るボーロなら、ぜひ食べてみたい。

 

「じゃあ、今度連れていくよ。

その子、よく食堂のおばちゃんに台所を借りて焼いてるんだ。ちょっと大きめだけど、すごく美味しいよ」

 

「おばちゃんに?」

 

「うん。頼めば貸してくれるって」

 

「……なるほど」

 

これは良いことを聞いた。

私も頼めば貸してもらえるかもしれない。ちょうど、カステラを焼いてみたかったところだったし、遠慮なく相談してみよう。

 

それにしても、ボーロを食べられるなんて――楽しみで仕方ない。

 

「楽しみだなぁ、ボーロ……」

 

「楽しみにしてて。きっと気に入るから」

 

私は胸を弾ませながら、どんなボーロだろうと想像を膨らませた。

ふわふわで、甘くて、口の中でとろけるような……。

ああ、ダメだ。想像しただけでヨダレが出そうだ。

 

「その子って、もしかして――中在家長次君?」

 

「知ってたんだ。すごく器用なんだよ、長次は」

 

「へぇ~。中在家君の作るボーロって、どんなの?」

 

「それは、会ってからのお楽しみ。きっと驚くよ」

 

そうして私たちは、"ボーロ職人"こと中在家長次に会う約束を交わしたのだった。

 

◆♢◆

 

「で、どうだった?初めての委員会活動は?」

 

「疲れたよ……いろいろと……」

 

保健委員の活動がない日に私はまた葵とお茶会をした。今度はカステラをお供に。カステラはおばちゃんにお願いして、台所を貸して貰い、手作りのカステラである。

葵は美味しそうにカステラを頬張った。うん、美味しそうに食べて貰えるのは冥利に尽きる。

 

「カステラ美味し〜」

 

「まだまだ、あるからたんとお食べ」

 

「でも、驚いたよ。まさか、タチエが保健委員に入るなんて」

 

「あくまで補佐なんだけどね……」

 

青々と生い茂る桜の葉を見ながら、緑茶を一口飲む。温かいまろやかな味わいが心を落ち着かせる。後からくる渋みもまたいい。

それから、カステラを千切って口に運ぶ。優しい甘さがほどよくくる。

 

「それでも、凄いよ。私じゃなかなかできないね」

 

「まあ、そうだね……」

 

くのたまが委員会活動をするなんて、小野寺先輩の言う通り、前例がない。まさか、彼もくのたまである私が直談判するなんて思ってもみなかっただろう。きっと、内心、困っていたに違いない。それでも、入れたのは彼らの優しさのおかげだ。善法寺君と小野寺先輩には感謝しかない

 

「タチエ、例の物……持ってきた?」

 

「うん、ここにあるよ」

 

私は静かに風呂敷の包みを解いた。中から現れたのは、丁寧に磨かれた一本のバイオリン。古びてはいたけれど、大切にされてきたのがひと目でわかる。

 

「……本当に、持ってきたんだ……」

 

葵の声は、どこか驚きと、それ以上に安堵が混じっていた。風呂敷で持ってくるときは壊れないかドキドキしながら、持ってきたが。

 

「なにか、弾いてほしい曲はある?」

 

「……なんでもいい。タチエの好きな曲を」

 

私は小さく頷き、バイオリンを肩に乗せる。顎でしっかりと楽器を支え、深く息を吸った。選んだのは、カノン。柔らかく、静かな旋律が心に触れる曲。

 

弓を弦に置いた瞬間、縁側の空気が変わった。

 

キィ……と、最初の一音が空気を切り裂くように響いたかと思えば、すぐに音は穏やかに溶けていった。

 

その場にいたのは、私と、葵だけ。

 

それでも、音は誰かの心に届くために鳴り続けていた。

 

窓の外では風が木々を揺らしていたけれど、そのざわめきさえ、音楽の一部のように思えた。

 

曲が終わったあと、私はそっと弓を下ろした。

 

「……どうだった?」

 

少しだけ、緊張して尋ねた私に、葵はしばらく黙っていた。

 

やがて彼女は、静かに目を閉じたまま呟いた。

 

「……ありがとう。何か、心がほどけるようだった。タチエの音、優しいね」

 

「そう言ってもらえて、うれしいよ」

 

音楽は、薬にはならない。

 

けれど、人の心に触れることはできる。ほんの少しだけでも、痛みを和らげることができる。

 

私はこの楽器が好きだ。音楽が好きだ。

 

そして――それを聴いてくれる人が、もっと好きだと思った。

 

すると、どこからか、パチパチと拍手が聞こえる。葵とその人物を見た。その人物は背が高くて、優しげな印象がある。私はその人物を見たことあった。

 

――土井半助

 

忍たまの乱太郎達の教師になる人であり、今は確か、善法寺君達の教師をしている筈だ。土井先生はこちらに気づかれるとあはは……と笑っていた。

 

「すまない……あまりにも綺麗な音色だったからつい……」

 

「いえ……あなたは?」 

 

「申し遅れたね。私は土井半助。土井先生って呼んでくれ」

 

「土井先生……」

 

葵はポツリと呟いた。私はまさかの彼の参戦に少し戸惑いを感じる。なぜ、彼がここにいるのだろう。そんな疑問を彼は察したのか、土井先生は答えてくれた。 

 

「くのたまの子に挨拶にしに来たんだよ。そしたら、ちょうど不思議な音が聞こえてね。あまりの綺麗な音色につい見てしまったよ。それはなんていう楽器なんだい?」 

 

「バイオリンです」

 

「バイオリンか……」 

 

彼は余韻に浸るように目を細める。まるで、その音色を思い出すかのように、瞼の奥に何かを映しているようだった。

 

「……とても、優しい音だった」

 

土井先生はそう呟くと、少しだけ空を見上げて、微笑んだ。その一言が、私の胸にじんと響いた。このバイオリンで人を癒せるとは……。

 

「ありがとう。タチエさん、だね? 君の音には……なんというか、人の気持ちにすっと染み込んでくるような、そんな不思議な力がある」

 

「……恐縮です」

 

素直にそう返す。でも、その一言に胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。

 

「土井先生、私達、今ちょっと話をしてたんです。……タチエが、くのたまだけど保健委員の手伝いをしたいって」

 

「うん、聞いてたよ。……それも含めて、素敵な時間だった」

 

そうか、彼は私のことを見ていてくれていたんだ。土井先生の声は、いつも通り穏やかで、けれど底に確かな熱がこもっていた。

 

「タチエさん。君は、君のやり方で人を癒してるんだね」

 

私は、少しだけ黙ってから、バイオリンを抱き直す。

 

「薬や包帯じゃ癒せないものがある……って、知ってる人が言ってました。だったら私は、私にできる方法で誰かの力になれたらって」

 

「……いい言葉だね」

 

土井先生はそう言って、柔らかく笑った。

 

その笑顔に、私は少しだけ救われた気がした。葵もまた、その表情に安堵したように、肩の力を抜いていた。

 

夕暮れの縁側に、バイオリンの余韻と、先生の言葉が静かに染み渡っていた。

 

まるでそれらすべてが、この奇妙で少し特別な放課後を、包み込んでくれているかのように。

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