藤丸立香との生活【6】を執筆しました。
楽しんでいただければ何よりです。
マシュちゃん遂に登場!
夢主と交流する話です。
沸々と小鍋が沸き立ち、嗅ぎ慣れた薬品の匂いが鼻腔を擽る。
ガスコンロから鍋を下ろし、木べらで素早くかき混ぜた。やがて、液体は軟膏状へと変化していった。
香苗先生が目の前で、タイムウォッチ片手に静かに見守っているのが視界の端に映る。
(焦っちゃダメ。大丈夫、時間はまだある。あとは容器に詰めるだけ)
「残り、60秒」
冷静な声が響く。落ち着いて、私は軟膏を容器へ丁寧に詰めていく。すべてを詰め終え、先生の前に差し出す。
「残り、20秒」
香苗先生の容赦ないカウントダウンにも、もう動揺はしない。焦って失敗していた頃の自分とは違う。薬草を測る速さも、火を止めるタイミングも、今では身体に染みついている。
「10、9、8……3、2、1、終了。よく頑張ったわね、タチエ」
「はい……疲れました……」
私はその場にへたり込み、椅子に腰を下ろした。心臓が少し速く打っている。わずか数分の調薬でも、神経を研ぎ澄ませていた分、消耗は激しい。
「スピードも大事だけど、質も大事よね」
香苗先生は真剣な面持ちで軟膏をひとすくいし、香りを確かめた後、自身の手の甲に塗ってみる。
そして、その表情がふっと緩んだ。
「よくできてるわね。合格よ」
「よ、よかった……」
私は胸を撫で下ろした。これで、今日は安心して眠れそうだ。
完璧に仕上げたという手応えはあった。でも、やっぱり評価されるまでの時間は、どうしても心臓に悪い。
香苗先生は甘いカフェオレを淹れてくれた。自分はブラックを手に取る。
そして、袋からとあるものを取り出す。それは私の大好きなチョコパイだった。
丸いスポンジにチョコがコーティングされ、間には白いクリーム――甘くて幸せなお菓子。
「チョコパイ……!」
休憩時間に、カフェオレとお菓子で一息つくのが、私のちょっとしたご褒美。
香苗先生はいつも、お菓子と一緒にブラックを飲んでいるけれど、私はブラックの良さがさっぱり分からない。ただ苦いだけの黒い液体のどこが美味しいのか理解できない。
やっぱり、私にはカフェオレしか勝たん。
「今回はどうだった?」
香苗先生がチョコパイを齧りながら、問いかけてくる。
「手応えはありましたね」
「ふーん。じゃあ、次回は時間を短縮しようかしら?」
「いや、勘弁してください……!」
「ふふ、冗談よ」
香苗先生は笑って、またコーヒーを一口すする。
彼女と出会ってから、もう一年が経った。私は、晴れて八歳になった。
実験に失敗したあの日、カルデアの魔術師たちに「失敗作」と呼ばれた。いや、今でも密かにそう呼ばれている。
――だけど、最近になって思うようになった。
私は、本当に失敗作なんだろうか?
そして、今日もまた香苗先生に尋ねてしまう。
「香苗先生」
「ん? なに?」
「私って……失敗作なんですか?」
香苗先生の瞳が、一瞬だけ揺れる。
そして――凛とした、静かな声が返ってきた。
「タチエ。あなたは、失敗作なんかじゃないわ」
「……本当に?」
「ええ。本当に」
「それに、あなたには応援してくれる人たちがいるじゃない」
――確かに。
私を密かに応援してくれる人たちはいる。それは、魔術師ではなく、カルデアの技術スタッフの皆さんだった。
このチョコパイだって、きっとその人たちからの差し入れだ。
私には、私を見てくれる人がいる。それだけで、心は温かくなる。
「あなたを応援してくれて、期待してくれる人がいる。それだけで、頑張れない?」
「いいえ……頑張れます!」
私は背筋を伸ばして、はっきりと答える。香苗先生は、穏やかに頷いてくれた。
そうだ。私は、期待してくれる人たちのために――そして自分のために、今日も前に進もう。
「先生、いつもアレやります?」
「やりたいの?」
「はい!やりたいです!」
香苗先生はクスリと笑い、椅子から立ち上がった。
「そうね、始めましょうか」
そう言って、準備のために部屋を出ていく。
しばらくして扉が開き、彼女が両手で抱えて戻ってきたのは――
人形。
しかしそれは、ただの人形ではなかった。
人間に酷似した容姿、血の通わぬ白い肌、虚ろな眼差し。
そして何より、頭から胸にかけて淡く霞む“霊体”が、肉体にうっすらと重なっている。
「先生……今日のは、“あのマネキン”……」
「ええ。“魂と肉体の接合不全”を再現できる、特別な個体よ。普通の治癒魔術では意味がないわ。霊体との結びつきを修復する――最上級の治癒魔術、“魂縫い”の練習をしましょう」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
“魂縫い”――
霊体が肉体から離れかけている者、いわば「死にかけた命」を繋ぎ止めるための魔術。
ただの治癒では届かない。命そのものに触れる、覚悟のいる行為。
香苗先生がマネキンに魔力を注ぐと、霊体がふるふると震えながら、ゆっくりと浮き始める。
「さあ、時間は限られてるわよ。完全に霊体が剥がれる前に、繋ぎ止めてみなさい」
「……はい!」
私は目を閉じ、呼吸を整えて、詠唱を始める。
(これは、“治す”魔術じゃない。“繋ぎ止める”魔術――命と、命を)
指先から淡い黄金の魔力が滲み出す。
それはただの光ではなく、脈打つ糸のように繊細で、柔らかな“命の糸”。
私はその糸を、浮きかけた霊体と肉体の隙間へと通し、少しずつ“縫って”いく。
「ゆっくり。焦れば糸は切れるわ。霊体は、肉体よりもずっと繊細なの」
香苗先生の声が、まるで糸を導く手のように、私を支えてくれる。
(怖くない。先生がいる。私なら、できる)
最後の一縫いを終えた瞬間、霊体がぴたりと肉体に収まり、マネキンの心音が“ぽん”と一度だけ響いた――
そして静かに、沈黙する。
「……できました、先生」
息を切らしながら、私は顔を上げた。
香苗先生は霊体と縫い目を確認し、ゆっくりとうなずく。
「ええ。完璧よ。少しでも糸が緩んでいたら、拒絶反応を起こす。でもこれは……見事な“魂縫い”ね」
「本当に……?」
「ええ、本当よ。あなたの魔術には“想い”がある。それが一番大事なの」
その言葉に、胸がじんと熱くなる。
目頭が少しだけ、熱を帯びる。
「……ありがとうございます」
香苗先生は、そっと私の頭を撫でてくれた。
「さあ、あと二体。残りも仕上げていきましょう」
「……は、はいぃ〜〜……っ!」
私は泣きそうな顔で笑った。
でもその笑顔には――命に向き合う者としての、確かな覚悟が灯っていた。
「やっと……終わった……」
「お疲れ様、タチエ」
修行が終わる頃には、もうヘトヘトになっていた。ほとんどの魔力を使い果たし、私は床に倒れ込みそうになる。なんとか力を振り絞り、「ボフン」と音を立ててベッドに身を投げ出した。
ああ、本当に疲れた……。このまま眠ってしまいそうになる。けれど、なんとか身体を無理やり起こして、ベッドの上に座り込む。
香苗先生はマネキンの片づけをしていた。その様子をぼんやりと眺めながら、本日二杯目のカフェオレを口にする。温かくて甘いカフェオレを飲んで、ほっと息をついた。やっぱり、体力や魔力を消耗したあとの甘いものは格別だ。
「タチエも、そろそろ板についてきたわね」
「え? 本当ですか?」
「ええ」
香苗先生に褒められるのは、素直に嬉しい。真面目に努力してきた甲斐があるというものだ。
私は香苗先生に医療の基礎から応用まで、さまざまなことを教わってきた。簡単な治癒魔術から、高度なものまで。それだけでなく、出血の止め方や縫合といった外科治療の基本、応急処置の技術など、あらゆる医術を叩き込まれている。
『ドクターX』や『コード・ブルー』といった医療ドラマの知識や、応急処置の方法、怪我や病気の症状なども参考にしてきた。基本的な医学知識は、専門書を読み漁って身につけている。
語学も学んだ。英語は得意だが、日本語やオランダ語、ドイツ語にも挑戦している。特に日本語は難しすぎる。ひらがなとカタカナだけでなく、漢字まで覚えなくてはならないのが大変だ。幸い、記憶力は抜群なので、なんとかなっている。
最初は包帯をうまく巻けず、出血を見ただけでパニックになっていた。縫合なんて怖くてとてもできなかった。けれど、私は香苗先生、そして大門未知子や『コード・ブルー』の人たちに追いつきたくて、毎日のように寝る間を惜しんで練習を重ねてきた。
一年が経つ頃には、包帯は素早くきれいに巻けるようになり、縫合も完璧にこなせるようになった。出血を前にしても、もう動揺しない。冷静に対応できるようになった。
最近では、魔術の訓練にも取り組んでいる。といっても、簡単な暗示や人払いの結界、ガンドなど、基礎的なものが中心だ。
魔術書にはドイツ語やラテン語が多く使われているため、ラテン語も独学で習得した。
午前中は香苗先生の修行に励み、午後はドラマやアニメ、映画で知識と感性を磨く――そんな、忙しくも充実した日々を送っている。
「タチエ、お友達、ほしくない?」
「え、いきなりなんですか?」
香苗先生が、唐突にそんなことを言ってきた。
カルデアには、私と同じ年の子はいない。けれど、ここの魔術師たちの話によると、私より二つ年上のマシュ・キリエライトという女の子が、隔離された部屋にいるらしい。
たぶん、その子のことを言っているのだろう。さっきも言ったとおり、同い年の子はいないのだから。
そうして私は、香苗先生に連れられて、徒歩で数分の場所へと向かった。
胸の奥で緊張が膨らんでいくのを感じながらも、自動ドアは容赦なく、目の前に開いていった。
そこは、マシュの部屋だった。
中に入ると、彼女の主治医だというロマニ・アーキマンさんが、にこやかに出迎えてくれた。
部屋の奥のベッドには、桃色の髪の少女が腰かけて本を読んでいる。片目は長い前髪に隠れていた。
……イメージとしては、『ゲゲゲの鬼太郎』の髪型と言えば伝わるだろうか。
私はというと、まだ緊張で心臓が高鳴っていた。助けを求めようと香苗先生の方を振り返ったが、彼女はロマニさんと話し込んでいて、こちらには気づかない。
さて、何から話せばいいんだろう……。何か、話題を探さなきゃ。
――考えても仕方ない。ここは思い切って、声をかけよう。
「こ、こんにちは……タチエです。よ、よろしく……」
少女は少しだけ首を傾げると、読んでいた本を静かに閉じ、ベッドの上に置いた。そして、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってくる。
ニコニコと笑みを浮かべながら、やわらかい口調で言った。
「タチエさんですね。ちゃんと覚えました。マシュ・キリエライトです。よろしくお願いします」
マシュは、ぺこりと礼儀正しく頭を下げる。
思わず、私もつられて頭を下げてしまった。
……彼女は、思っていた以上に、礼儀正しい子だった。
「マシュ」
「タチエさん」
私はお気に入りのアニメや映画、ドラマのDVDを持って、マシュの部屋に遊びに行くのが日課になっていた。特に、仲間由紀恵のドラマを二人で観ることが多かった。
映画やドラマ、アニメを観ながら、私たちはよく笑ったり、驚いたりした。『TRICK』を観て、一緒に笑い合ったこともある。でも、そんな中で私は一つのことに気づいた。
それは――マシュは、私とは違うということ。
『クレヨンしんちゃん』や『ドラえもん』、『ポケモン』などの感動的なシーンで、私は涙ぐんでいた。でもマシュは泣かない。私の様子を、不思議そうに見つめていた。
ある日、『ONE PIECE』の映画でチョッパーが主役の感動的な場面を観て、私は泣いてしまった。そのとき、マシュが戸惑ったように話しかけてきた。
「どうして、泣いているのですか?」
「え? なんでって……共感してるからだよ」
「共感、ですか?」
「うん。チョッパーの気持ちが、わかるから」
「なるほど……覚えました」
そのとき、私は思った。マシュには感情が欠けているのかもしれない。そう気づいたのは、少し経ってからだった。
マシュは、泣かない。いや、泣くところを一度も見たことがなかった。まるで無垢な子供のようで、同時に感情を学習するAIのようでもあった。
けれど、あるとき『ポケットモンスター・ミュウツーの逆襲』を観ていたとき、彼女は複雑そうな表情を浮かべていた。
クローンとデザイナーベビー。
どちらも、「作られた存在」。
ああ――そうか。
マシュは感情がないのではない。きっと、彼女なりに理解しようとしているのだ。私は、そう感じた。
ある日、二人で『女王の教室』を観たときのこと。マシュがぽつりと感想を言った。
「阿久津先生は……とても厳しいですね。でも、優しい人なんですね」
「うん。あの人なりのやり方なんだろうね。子どもたちが立ち上がっていくシーン、すごくグッとこなかった?」
「“グッとくる”、ですか……。胸の奥が、少し、苦しくなるような……」
そう言って、マシュは胸にそっと手を当てた。
私が何も言わずに見つめると、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「これが……共感、というものでしょうか?」
「うん、たぶんね」
私がそう微笑むと、マシュも少しだけ、ぎこちなく笑った。けれど、その笑顔はたしかに、どこか前よりもあたたかく見えた。
それからも私たちは、たくさんの作品を一緒に観た。悲しい物語、痛みを描いた映画、誰かが誰かを想って泣くアニメ――
ときどきマシュは戸惑いながら、「これは、悲しいことなんでしょうか?」と尋ねてきた。私はうなずいて、「そうだよ」と答えた。
マシュは何度もうなずき、真剣に登場人物たちの気持ちを探ろうとしていた。
そんなマシュの姿に興味が湧いて、私は少し難しい映画を持っていった。
――それは『そして、父になる』。
福山雅治主演の、血のつながらない子どもと育ててきた子どもの間で揺れ動く、家族の物語だ。
「ちょっと難しいかもしれないけど……マシュなら、きっと何か感じると思うから」
そう言ってディスクを差し出すと、マシュは真剣な表情でそれを受け取った。
「タイトルだけでも、胸がざわざわします」
部屋の照明を落とし、私たちは静かに再生ボタンを押した。
映画が始まると、マシュはいつものように黙って画面を見つめていた。セリフ一つひとつに耳を澄ませて、人物の表情や仕草に視線を注いでいた。
子どもたちが無邪気に笑う場面では、マシュも口元を少しゆるめていた。
けれど、物語が進み、親たちの葛藤や選択に触れるにつれて、マシュの表情は次第に硬くなっていった。
そして、「血か、絆か」という問いに直面した父親が苦悩する場面。
そのとき、マシュがぽつりとつぶやいた。
「……どちらが“本当の家族”なのか、答えは……ないんですね」
私は驚いた。
それはまさに、この映画の核心に触れる言葉だった。
「うん。どっちが正しいかなんて、簡単には決められないよね。きっと、どちらも“本当”なんだと思う」
私がそう言うと、マシュはゆっくりと画面に視線を戻した。
エンディングが近づくころ、マシュの目は赤くなっていた。
涙はこぼれていなかったが、呼吸は浅く、小さく震えていた。
「マシュ……大丈夫?」
しばらく黙っていた彼女は、やがてぽつりと話し始めた。
「私は……“つくられた”存在です。だから、自分にとっての“家族”が何か、ずっとわかりませんでした」
「……うん」
「でも……もし、タチエさんが私のことを“家族みたい”って思ってくれているなら……私は、それを信じてもいいのでしょうか?」
私は胸の奥がぎゅっとなるのを感じながら、うなずいた。
「もちろん。マシュは、私の大切な友達だし――できれば、家族みたいに思っていたいよ」
その言葉に、マシュは初めて、迷いのない表情で微笑んだ。
涙は流れていなかった。でもその笑顔は、たしかにこれまでとは違って見えた。
映画が終わったあと、私たちは何も言わず、ただ並んで座っていた。
言葉にしなくても伝わるものが、そこにはたしかにあった。
そして、私は思った。
この子は、ちゃんと“人間”になろうとしている。
その歩みはゆっくりだけれど、一歩ずつ、確実に。
マシュの成長は、私にとっても――かけがえのない宝物だった。
あの夜、映画を観終わったあとのマシュは、ずっと静かだった。
言葉にできないものが、きっと胸の中で渦巻いていたのだろう。
けれど、その沈黙は、以前のような「わからない」から来るものではなかった。
「考えている」沈黙だった。
しばらくして、マシュが口を開いた。
「タチエさん……私は、まだ“心”というものがよくわかりません。けれど……あなたと一緒にいると、時々、胸がぽかぽかします」
私は思わず笑ってしまった。
「それで十分だよ。そうやって少しずつ“感じる”ことができたら、それだけで人間だよ」
マシュはじっと私を見つめてから、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、もう“ぎこちない”ものではなかった。
「私、人になりたいです」
そのつぶやきは小さかったけれど、はっきりしていた。
そこには、確かな決意があった。
「なるよ。大丈夫、マシュ。あなたは、もうとっくに“誰かを想ってる”」
「……誰か、を?」
「私のこと、大切にしてくれてるでしょ?」
一瞬、マシュはきょとんとした顔をしたが、すぐに少し頬を染めて、こくんと頷いた。
その時、私は確かに感じた。
この子は、ちゃんと“人間の心”を育てている。
きっとこれから、悲しみも、喜びも、たくさん知っていくのだろう。
帰り際、部屋を出る前に、マシュがそっと私の袖を引いた。
「タチエさん」
「ん?」
「……また、一緒に映画を観てください。たくさん、たくさん。私、もっと知りたいです。感情のこと、人のこと、あなたのことも」
私は嬉しくなって、つい意地悪な笑みを浮かべた。
「じゃあ、今度は“超泣けるやつ”にしようか?」
「……泣ける、ですか……できるかわかりません。でも、挑戦します」
それから、私たちの“映画会”はますます盛り上がっていくことになる。
時には笑い、時には黙り込み、ときにはマシュがぽつぽつと感想を語ってくれるようになった。
心は、きっと教えられるものじゃない。
けれど、寄り添い、見守ることで、誰かの中で芽吹いていく。
私はマシュを通して、それを学んでいった。
それは、彼女だけでなく――私自身の“成長”でもあったのだ。
次に見せる映画を、私はまだ決めかねていた。
けれど、マシュとなら、どんな物語もきっと大切なものになる。
そんな気がしていた。
私は映画やドラマ、アニメの鑑賞以外にも、ふたつ趣味がある。
ひとつは、刺繍。
刺繍は一針一針、丁寧に下絵に沿って、鳥や花などのモチーフを縫っていく。
はじめはただの線だったものが、糸の色を重ねるたびに、立体感とぬくもりを帯びていく。
細い針が布をすくい、また戻る――規則的な動きが繰り返される静かな時間。
私はその静けさが、好きだった。
焦っても、手を抜いても、美しくは仕上がらない。
だからこそ、一針一針に、気持ちを込める。
まるで自分自身を、ひとつひとつ縫い直しているような、不思議な感覚。
「それ、誰にあげるの?」と聞かれたとき、私は少し考えてから答えた。
「まだわからない。でも、誰かが喜んでくれたら、それだけで嬉しいなって思うの」
“誰かのために”という気持ちを込めて縫うのは、思っていた以上に優しい作業だった。
私はその優しさが、少し誇らしかった。
もうひとつの趣味――それは、歌を歌うこと。
私はドラマの主題歌をよく歌う。特にお気に入りは、『コード・ブルー』の主題歌――Mr.Childrenの『HANABI』。
この曲を聴くと、胸の奥がぎゅっとなる。
うまく言葉にできないけれど、苦しくて、それでも少し前を向けるような……そんな気がする。
今日も、いつものように部屋のCDプレイヤーから『HANABI』を流していた。
流れ出すイントロに合わせて、小さな声で歌い始める。
♪ どれくらいの値打ちがあるだろう
僕が今 生きている この世界に ♪
自分でも、あまり上手いとは思わない。
でも、音程より大切なものを、この曲から教わった気がする。
それは――“気持ち”。
どうしようもなく不器用でも、心を込めて歌えば、きっと誰かに伝わる。
♪ すべてが思うほど うまくはいかないみたいだ ♪
「……タチエさん」
不意に後ろから声がして、振り返ると、マシュが本を読んでいた。
私は少し照れて、苦笑いする。
「ごめん、うるさかった?」
「いえ……とても、きれいな声でした。感情がこもっていて……不思議と、胸があたたかくなります」
マシュはゆっくりと歩いてきて、私の隣にちょこんと座った。
彼女の視線が、CDプレイヤーに向いている。
「この歌、好きなんですか?」
「うん、大好き。何度聴いても、気持ちが揺さぶられるの」
「どんなところが……心に響くんでしょうか?」
私は少し考えてから、ぽつりと答えた。
「きっとね……この歌は、“弱音を吐きたい人”や、“どうしてもうまくいかない”って悩んでる人の心に寄り添ってくれるんだと思う」
マシュは黙って、私の言葉を噛みしめるように聞いていた。
私はもう一度、曲を再生して、サビをそっと口ずさむ。
♪ 誰も皆 悲しみを抱いてる
だけど素敵な明日を願ってる ♪
「マシュもさ……不安になること、あるでしょ?」
「……はい。私という存在に、正解があるのか、ないのか。考えても、答えが出ないことが多くて……でも」
彼女は私を見つめた。
「こうして、タチエさんと一緒にいると、不思議と“それでもいい”と思えるんです」
「それでいいんだよ。マシュはマシュだし、私が“それでいい”って思ってるから」
マシュはほんの少し目を見開き、それからそっと微笑んだ。
「タチエさん、今度……私にも、その歌を教えてくれませんか?」
「もちろん。サビから覚える? それとも最初から?」
「最初から……一緒に覚えたいです」
「じゃあ、繰り返しになるけど、もう一回流すね」
私は再び再生ボタンを押した。
イントロが流れ始め、私はマシュと一緒にゆっくり歌い出した。
少しずつ、でも確かに、彼女の声にも“あたたかさ”が宿っていくのがわかった。
音楽はきっと、心のかけらをつなぐ魔法みたいなもの。
私たちの声が重なって、部屋の空気をやさしく染めていく。
そうして私たちは、“歌”という静かな橋を渡って、もう少しだけ近くなった。
私は今、とある人物と会っている。その人物は単語で表すと美女。いや、話は魔術師達から盗み聞きしてたが、実際に見るとやっぱり本物は違う。
天才画家・レオナルド・ダ・ヴィンチが目の前に立っていた。大きな篭手と派手な衣装に大きな杖が印象的だった。いや、どうしたらいい??目の前に本物のサーヴァントがいるんだが。香苗先生はニコニコ笑ってるし、ロマニは苦笑いをしている。とりあえずは子供らしく挨拶するとしよう。
「こんにちは!タチエです!
八歳です!」
「やあ、こんにちは。ふふっ。元気だね」
「あのあなたは?」
「私かい?私はかの有名な画家、レオナルド・ダ・ヴィンチさ。ダ・ヴィンチちゃんと呼んでくれたまえ」
「ダ・ヴィンチちゃん!」
「よし、いいね!今から工房に君を案内しよう!」
そう言って、ダ・ヴィンチちゃんとは私を工房へ案内してくれた。
「それスケッチブックかい?」
「はい」
「見せてくれるかな?」
「いいですよ」
私はダ・ヴィンチちゃんにスケッチブックを渡した。彼女はペラペラと捲っている。そして、一枚の絵に目が止まった。
「これ、誰だい?」
そこには額に傷のある眼鏡の少年が描かれている。
「ハリー・ポッターのハリーです!」
「ほう、なんと魅力的な線だ。君の観察力はなかなかのものだね、タチエ」
ダ・ヴィンチちゃんは目を細め、絵の中のハリー・ポッターにそっと指を滑らせる。その仕草に、まるで彼女自身がその絵の中の世界を覗き込んでいるかのような気配があった。
「こういう表情を捉えるのは、ただ写すだけじゃできない。君はきっと、心で見て描いているんだね」
「えっ……そんな、ただ好きだから描いただけです」
私はもじもじと指を握った。けれどダ・ヴィンチちゃんはにっこり笑って、膝をついて私の目の高さに合わせてくれた。
「“好き”というのは、とても強い力だよ。君の“好き”は、きっとこれからも君を遠くまで連れていってくれる。……絵を、続けなさい」
「……はい!」
なんだか胸の奥が温かくなるような、でもちょっと泣きたくなるような気持ちだった。私はうなずいて、スケッチブックを胸に抱きしめた。
そのとき、工房の奥から声が響いた。
「ダ・ヴィンチ、ちょっと来てくれ!例の転送装置、また調整ズレたぞ!」
「おっと失礼、ちょっとトラブルだ。技術スタッフのやつ、また手を抜いたな……タチエ、ここで少し待っててくれるかい?」
「はい!スケッチして待ってます!」
「おお、頼もしい!じゃあ、戻ってきたら君にも私の描いた絵を見せてあげよう!」
ぱたぱたとダ・ヴィンチちゃんが工房の奥へ消えると、私はぽつんと残された机に向かい、ペンを握った。描きかけのスケッチをめくると、ふと思いつく。
(今度は……“未来の自分”を描いてみようかな)
そう思って、紙の上にそっとペンを走らせた。
大きな帽子に、長い杖、真っすぐな目。
誰かに優しい言葉をかけている、“未来の私”。
「……なれるかな、あんなふうに」
でも、さっきのダ・ヴィンチちゃんの言葉が背中を押してくれる。
「“好き”があれば、大丈夫」
私は笑って、またペンを走らせた。
それから、約束通りに工房でいろんな絵見たり、設計図や鳥の模型など見せてもらった。
「そんなことがあったんだ!」
「へぇ……ダ・ヴィンチちゃんですか……会ってみたいです」
私とマシュは彼女の部屋で『天空の城ラピュタ』を見ながら、ダ・ヴィンチちゃんの話をしていた。
マシュの部屋は落ち着いた雰囲気で、淡いラベンダーの香りがほんのりと漂っている。ベッドの上に広げたクッションに並んで腰掛け、テレビ画面に映るパズーとシータの冒険を追いながらも、心はすっかりさっきの話に夢中だった。
「うん……ほんとにすごい人だったよ。私のスケッチブック、褒めてくれて……。なんだか、魔法みたいな時間だったなぁ」
私がそう言うと、マシュはふんわりと微笑んで、ぽつりとつぶやいた。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ……人類史上でも指折りの天才。でも、カルデアにいる彼女はそれだけじゃない。“夢”を与えてくれる人、って感じがします」
「うん、わかる。なんだろう……話してると、自分も何かすごいことできそうな気がしてくるんだよね。現実はそんなに甘くないのにさ」
「でも、それが“希望”なんだと思います」
マシュの言葉に、私はふと息を呑んだ。テレビの中では、ラピュタが空を割るようにゆっくりと姿を現していた。
「希望、か……」
「ええ。私、思うんです。ダ・ヴィンチちゃんも、パズーやシータも、そして……タチエさんも。みんな、“何かを守りたい”って強く思ってる。それがあるから、きっと前に進めるんですよね」
私は何も言えずにうなずいた。
胸の奥に、またあのときみたいに、じんわりと温かいものが広がっていた。
「マシュって……やっぱり強いなぁ」
「え?そうですか?」
「うん、そうだよ」
「そうですか……」
私たちはくすくすと笑い合って、映画の世界へとまた目を戻す。
空に浮かぶ城、風を受けて飛ぶ飛行船――その幻想的な風景に、少しだけ未来の自分を重ねてみた。
(私も、あんなふうに空を飛べたら……)
ふと思ったその願いは、いつか誰かに届く夢の種になるかもしれない。
きっと、ダ・ヴィンチちゃんもそう信じて、今日も工房で何かを作っているのだろう。
私たちの冒険は、まだ始まったばかりだ。