藤丸立香との生活 一年生編   作:猫とふりかけ

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お待たせしました!
藤丸立香との生活 室町時代【7】に突入しました。今回はタチエの過去(前世)の話が主になります。
どうぞ、お楽しみください!



藤丸立香との生活【7】

「これで私も、十歳か……」

 

全身鏡の前で、自分の体をじっと見つめながら、私は小さくつぶやいた。

十歳にしては低すぎる身長と、痩せた体。どう見ても五歳にしか見えない。

できることなら、もう少し身長が欲しいけれど――それは、贅沢な望みだろうか。

 

なかなか成長しない体に不満をこぼしたとき、香苗先生は「大丈夫よ、タチエはこれからよ」と笑ってくれた。

でも本当だろうか? マシュはちゃんと年相応に成長しているのに……。そういえば、今年で十二歳になるはずだ。

 

「誕生日、祝ってもらってるのかな……?」

 

ふとそんな疑問がよぎった。

私は毎年、香苗先生に祝ってもらっている。けれどマシュは? ロマニは、祝ってくれているのだろうか。

 

――あれ、そういえば、マシュの誕生日っていつだっけ?

 

「え? マシュの誕生日かい?」

 

「はい、ロマニさん、知っていますか?」

 

「もちろん。彼女は七月三十日生まれだよ」

 

「そうですか……ありがとうございます」

 

ぺこりと頭を下げて、自室へ戻る。カレンダーを確認すると、そこには大きく「7月30日」の文字。

 

「……あと一週間。間に合うかな……」

 

プレゼントはどうしよう。いや、それよりケーキも必要だよね……。

そんなことを考えているうちに、あっという間に五日が過ぎていた。

 

私は急いでプレゼントの準備に取りかかった。

残念ながらキッチンには入れないため、ケーキの代わりにお菓子を用意することにした。

 

 

――誕生日当日。

 

その日は一緒に『ALWAYS 三丁目の夕日』を観ていた。

エンディングが流れる頃、私はそっと席を立ち、技術スタッフからもらった差し入れの袋を手にマシュの部屋をあとにした。

 

袋の中には、缶のオレンジジュースとチョコパイが入っている。

それだけのものだけど、心を込めたつもりだ。

 

マシュの部屋に戻ると、彼女は袋を不思議そうに見つめていた。

 

「あの、これは……?」

 

私は深呼吸を一つして、手拍子をとる。

 

「♪ ハッピーバースデー・トゥー・ユー……」

 

小さな声だったけど、できるだけ明るく、丁寧に歌った。

マシュは最初きょとんとしていたが、次第に目を丸くし――まるで夢を見ているかのような表情になった。

 

「♪ ハッピーバースデー・ディア マシュ……ハッピーバースデー・トゥー・ユー!」

 

歌い終えると、私は袋を差し出した。

 

「……お誕生日、おめでとう、マシュ」

 

少し照れた声が静かな部屋に響く。

マシュは口を開いたまましばらく動かず、やがてその目に光が宿った。

 

「……タチエさん……」

 

袋をそっと抱えながら、彼女は小さく笑った。

 

「ありがとうございます……こんなふうにお祝いしてもらえるなんて、思っていませんでした」

 

「去年の分も、込めたからね」

 

照れ隠しでそう言うと、マシュはくすっと笑って袋の中をのぞき込んだ。

 

「オレンジジュースと……チョコパイ?」

 

「うん。ほんとはケーキを作りたかったんだけど、厨房には入れなくて……だから代用品だけど」

 

マシュは、まるで高級菓子でも受け取ったかのように、嬉しそうに目を細めた。

 

「とっても素敵です。チョコパイ。あと……このオレンジジュースも、特別な味がします」

 

彼女は缶を取り出して、プシュッと開け、一口飲んだ。

 

「……うん、やっぱり、おいしいです」

 

私は小さくほっと息をついた。

そして、少しだけ迷いながら机の下からもう一つの袋を取り出す。

 

「それと……これ。プレゼントってほどじゃないけど、作ってみたの」

 

中に入っていたのは、薄紫色の布で仕立てた小さなハンカチ。

端には、ぎこちないけれど丁寧に縫い込まれた刺繍が施されていた。

 

「……これは?」

 

「マシュのイメージで作ったんだ。盾の模様、覚えてるでしょ?」

 

彼女がかつて使っていたシールドの紋様を、そっと刺繍に込めた。

マシュはそれを大切そうに手に取り、指先でゆっくりなぞる。

 

「……すごいです。こんなに細かく……本当に、私のために?」

 

「うん。もちろん」

 

ハンカチをぎゅっと抱きしめ、マシュは私をまっすぐに見つめた。

 

「私……今日が来るのが、少し怖かったんです。でも……タチエさんが祝ってくれたから、きっと忘れられない一日になります」

 

「マシュ……」

 

「……ありがとう。心の底から、ありがとう」

 

笑うマシュの姿を見て、私は思った。

 

――祝ってよかった。

誰かの心に、小さなあたたかさを灯せたのなら。

それだけで、私は今日、ちゃんと“生きて”いられたんだ。

 

「じゃあ、映画の続き、見よっか。」

 

「……はい。もう少しだけ、このままでも……いいですか?」

 

「うん。いいよ」

 

私たちは寄り添うようにソファに座り、静かに流れるエンドロールを見つめていた。

まるで、その余韻の中に――

誕生日という名の奇跡を、そっと閉じ込めるように。

 

カルデアの深夜は、いつも静かだ。

人の気配が消えた廊下に、機械の低い駆動音だけがかすかに響いている。

 

その日、ロマニ・アーキマンは偶然にも、遅い時間にマシュ・キリエライトの部屋の前を通りかかった。

中からは明かりが漏れている。こんな時間に彼女が起きているとは珍しい。

 

「……起きてるのか。寝不足にならなきゃいいけどな」

 

そう呟いて通り過ぎようとしたそのとき――

 

ふと、ほんのわずかに開いた扉の隙間から、室内の様子が目に入った。

 

そこには、静かな笑みを浮かべたマシュの姿があった。

 

彼女は机の上に小さなハンカチを丁寧に広げていた。

淡い紫色の布地に、盾の模様の刺繍が入った、手作りの贈り物。

 

それを両手でそっと包み込みながら、マシュはどこかくすぐったそうに笑っていた。

その笑顔には照れも、喜びも、温もりも、すべてが柔らかく混ざっていた。

 

ロマニは息を呑んだ。

それは、彼が何度も願い、夢見てきた光景だった。

 

(……こんな顔をするようになったんだね)

 

マシュは無言のまま、ハンカチにそっと指を滑らせていた。

まるで、それに込められた想いを、指先から少しずつ読み取るように。

 

「……私のために、縫ってくれたんですよね」

 

ぽつりと呟いたマシュの声は、とてもやわらかく、やさしかった。

 

「タチエさん……ありがとう……」

 

言葉は小さかったが、その一言がすべてを物語っていた。

 

ロマニは、そっと扉から目を離し、足音を立てぬようその場を離れた。

その顔には、彼女に気づかれなかったことへの安堵と、静かな感動がにじんでいた。

 

廊下を歩きながら、ロマニは思う。

 

(誰かからの贈り物を大切に思い、それを見つめて微笑む。その当たり前の行動が……今のマシュには、何よりも尊いんだ)

 

数年前、感情を表すのが苦手だった少女。

孤独を当たり前として受け入れていた少女。

自分の存在価値を探し、ただ命令に従っていた少女。

 

その子が、今は心から笑っている。

大切にされる喜びを知り、自分も誰かを大切にしたいと願っている。

 

(人間って……いいものだよね)

 

誰に向けたわけでもない言葉が、静かに胸の奥に落ちた。

 

きっと、この成長はタチエのおかげだ。

彼女が何気なく差し出した優しさが、マシュの心にあたたかな灯をともしたのだろう。

 

ロマニはふっと微笑むと、天井を見上げた。

 

「……ありがとう、マシュ。君が今日も笑ってくれていることが、僕にとっての、何よりのご褒美だよ」

 

その声は誰にも届かなかった。

けれど、それは確かに“祈り”のようなものだった。

 

このまま――

マシュが“人間として”幸せに生きていけますように、と。

 

カルデアの朝は、慌ただしいながらもどこか整然としている。

廊下を行き交う職員たちの足音や、遠くから聞こえる通信の声。それらをかすかに聞きながら、ロマニ・アーキマンはいつものようにマシュの部屋を訪ねた。

 

「おはよう、マシュ。体調はどう?」

 

「おはようございます、ロマニさん。はい、とても元気です」

 

マシュはいつもよりも明るい声でそう返した。

瞳の奥に、柔らかな光が宿っている。

 

「よかった。昨夜、少し遅くまで起きてたようだったから、少し心配だったんだ」

 

「……見ていらしたんですね?」

 

「まあ、ちょっとだけね。君が起きてるときの気配って、意外とすぐにわかるんだよ」

 

マシュは頬をわずかに赤らめながら、視線を伏せた。

けれど、すぐに思い出したように顔を上げると、机の引き出しから何かを取り出した。

 

「ロマニさん、見てください。これ……いただいたんです」

 

差し出されたのは、淡い紫色のハンカチだった。

細やかに刺繍された盾のような模様が、光に照らされて美しく浮かび上がる。

 

「……ああ、それは……」

 

ロマニは目を細めてそれを見た。昨夜、扉越しに見たあのハンカチ。だが、こうしてマシュが自分の手で差し出してくれると、また別の温もりがそこに感じられる。

 

「タチエさんが、私の誕生日にプレゼントしてくれたんです。手縫いなんですよ。私のことを思って作ってくださったって……」

 

マシュの声はどこか誇らしげで、けれど優しい。

その手つきは、まるでガラス細工を扱うように丁寧だった。

 

「すごく……うれしかったんです。こんなふうに、誰かが私のことを考えて、何かを作ってくれるなんて、初めてで……」

 

「うん、いい顔してるね、マシュ」

 

ロマニの言葉に、マシュは一瞬驚いたように目を見開き――そして、すぐに笑った。

 

「タチエさんは、“私が人になりたいと思えるような存在”なんです。あの人といると、少しずつ、私も変われる気がして……」

 

「マシュは、もうとっくに“人”だよ。誰かを大切に思って、誰かの優しさを嬉しいって思える。その時点で、ね」

 

「……そう、でしょうか?」

 

「そうだとも。だから、そのハンカチは――きっと、君が“人として歩き出した”証なんだよ」

 

マシュはハンカチを胸にそっと当てた。

まるで、そこに刻まれた想いを、自分の中に染み込ませるように。

 

「このハンカチ、大切にします。私の宝物です」

 

ロマニはその言葉を聞きながら、心の奥にじんわりと広がる温もりを感じていた。

ああ、この笑顔が見られるなら、今日もまた、生きていてよかった――そんな風に思える朝だった。

 

「……ねえ、マシュ」

 

「はい?」

 

「君がそのハンカチを持ってるところ、写真撮っていい?」

 

「えっ……写真、ですか?」

 

「“記念”にさ。君の初めての宝物だもの。後でタチエちゃんにも見せたら、きっと喜ぶよ」

 

マシュは一瞬迷ったあと、照れたように微笑んで、こくんと頷いた。

 

「……はい。お願いします」

 

シャッターの音が小さく響く。

その写真には、プレゼントを胸に抱き、心からの笑みを浮かべるひとりの少女の姿が――確かに、残された。

 

「次の映画、どうしようか?」

 

「その前にどうしても見せたい物があるんです」

 

「どれ?」

 

「これです」

 

マシュは器用にタブレットを操作したそこには………。

 

マシュの笑顔って、こんなにあったかかったんだ。

ふわりと浮かび上がったホログラムの写真――その中で、彼女は私の作ったハンカチを両手で抱えて、まるで宝物のように大事そうにしていた。

 

それを見せてくれるときのマシュの表情も、どこか自信に満ちていて。

 

私は、どうしようもなく嬉しくなってしまった。

 

「……あー、ダメだ。そんな顔されたら、また何かプレゼント作りたくなるじゃん……」

 

「ふふっ……私は、いつでも大歓迎です」

 

マシュがくすくすと笑ってくれたのが嬉しくて、私は思わずソファにごろんと寝転んだ。

 

「よし、じゃあさ。次の映画会、またやろうよ。……もう決めてるんだ、候補」

 

「本当ですか?」

 

マシュがきらきらした目で私を見てくる。うん、こういう顔をされるとね、張り切っちゃうんだよ。

 

「うん。次はね、『西の魔女が死んだ』って映画にしようかなって思ってる」

 

「……それは、どんなお話なんですか?」

 

「んー……一言で言うなら、“心を育てる”物語かな。すごく静かなんだけどね、見終わった後、なんだか涙が出てくるんだ」

 

マシュは目をぱちぱちと瞬いて、しばらく考えてから言った。

 

「“心を育てる”……少し、私に似てるかもしれません」

 

私は笑った。

 

「そう思って選んだんだ。マシュ、きっと好きになると思う」

 

マシュは少しうつむいて、それからそっとつぶやいた。

 

「……タチエさんと映画を観ていると、私、本当に“感じる”ってことを学んでいる気がします」

 

「それなら、次も楽しみにしてて。きっとまた、“何か”に出会えるよ」

 

そう言って私は起き上がり、軽くマシュの肩を叩いた。

 

「あとね、ちょっと気分を変えて邦画だけじゃなく、アニメ映画もどうかなーって。たとえば、『聲の形』とか」

 

「『聲の形』……聞いたことあります。少し切ないお話なんですよね?」

 

「そう。けっこう心にくる。だけど、すごく綺麗な映画だよ。マシュが感じたこと、きっと全部、まっすぐに返ってくると思う」

 

マシュはそっと頷いた。

 

「……観てみたいです。タチエさんと、なら」

 

その言葉が、なんだかとても優しくて、あたたかかった。

 

よし、じゃあ次の映画会に向けて、お菓子も準備しなきゃ。

今度はマシュの好きな味、リサーチしておこうっと。

 

 

その日、私はいつもより少し早くマシュの部屋を訪れた。

手にはDVDと、簡単に作ったクッキーの入った袋。

 

「こんばんは、マシュ。今日の映画会、準備はいい?」

 

「はい。とても楽しみにしていました」

 

マシュはいつものように丁寧に迎えてくれたけれど、いつもより少しだけ頬が赤い。

私も、なんだかちょっと照れくさくなって、視線を逸らしてしまった。

 

「今日はね、『西の魔女が死んだ』って映画を観ようと思って。静かな物語だけど、すごく深いの。観終わったあと、心がじんわりあったかくなるよ」

 

「“心があったかくなる”……素敵な表現です」

 

DVDをプレイヤーにセットし、部屋の照明を少し落とす。

二人で並んでソファに腰かけて、静かに映画が始まった。

 

――

物語は、森のなかの一軒家。

そこに住む“西の魔女”と呼ばれるおばあちゃんと、心に傷を抱えた孫の少女・まいの物語。

 

会話は少なく、静かな自然音と、丁寧な時間の流れがゆっくりと心にしみこんでいく。

 

マシュは、まるで一言一句逃さないように、真剣な眼差しで画面を見つめていた。

 

おばあちゃんがハーブティーを淹れる場面では、マシュがそっと私を見た。

 

「……ああいうお茶、淹れてみたいです」

 

「きっと、似合うと思うよ。マシュ、丁寧な子だから」

 

そうささやくと、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。

 

――

そして、物語の終盤。

おばあちゃんが亡くなったあと、まいが“成長”していく姿に触れたとき。

 

マシュは、肩をぎゅっとすくめた。

 

私は、そっと彼女の隣に座りなおして、何も言わずに寄り添った。

やがて、エンドロールが流れ始めた。

 

「……静かな映画でした」

 

「うん。でも、静かだからこそ、心の奥まで届く気がするよね」

 

マシュは、しばらく黙っていた。

そして小さく息を吸って、ぽつりとつぶやいた。

 

「“魔女”って、不思議ですね。何か特別な力がある人のことだと思っていました。でも……今日のおばあちゃんは、ただ“優しい”だけでした」

 

「うん。優しさって、いちばん強い“魔法”かもしれないよ」

 

「……タチエさんも、魔女みたいです」

 

私はびっくりして笑ってしまった。

 

「私が? どこが?」

 

「誰かの気持ちをあたたかくできるから。……それって、立派な魔法だと思います」

 

不思議と、泣きそうになった。

 

「ありがとう、マシュ。でもそれなら、マシュももう、ちょっと魔女かもね。今日の映画、ちゃんと“感じて”たでしょう?」

 

マシュは、少し驚いたように目を見開いて、それからふっと微笑んだ。

 

「……そうですね。私、心がぽかぽかしてます」

 

「それで十分だよ」

 

その夜。

私たちはクッキーをつまみながら、もう一度映画の話をした。

 

言葉にできない感情が、確かにあった。

でも、無理に言葉にしなくてもよかった。

 

ただ一緒に感じたことが、なによりの“共有”だった。

 

そして私は思った。

この映画会は、きっとずっと続けていきたい。マシュと一緒に。

 

静かな夜、森の魔女の余韻を胸に――私たちはまた、少しだけ近づいた。

 

「そういえば、タチエはマシュの部屋で何をしているだい?」

 

「と言いますと?」

 

「いや、タチエがマシュの部屋に入るのをよく見るから、気になって」

 

「ああ、それはですね……」

 

私はマシュとの過ごす時間について話した。

 

「ふむ、映画鑑賞会か……」

 

「はい、よくマシュと鑑賞するんですよ」

 

「面白い、今度、私も誘ってくれないか?ついでに香苗やロマニも誘ってみるか」

 

「え?」

 

「嫌かい?」

 

「いいえ、面白そうです!」

 

それから、私が何を観るかを決めることになり、ダ・ヴィンチちゃんが香苗先生とロマニさんを呼んでくれるらしい。私達はその日に打ち合わせをした。自室に戻ったあとに何にするか考えた。それから、ようやく観る映画を見つけて、私は皆に観せるのが楽しみになってきた。

 

――映画鑑賞会当日。

 

マシュの部屋には香苗先生とロマニさんとダ・ヴィンチちゃんとが待っていた。私は約束通りにとある映画持ってきた。それは……。

……『かもめ食堂』だった。

 

「……これにしたのかい?」とロマニさんが首を傾げる。

 

「ええ。静かだけど、あったかくて、観終わったあと心がすーっとするんです。マシュにも合うし、みんなにもきっと合うと思って」

 

「“食”をテーマにした映画か。なるほど……悪くないね」とダ・ヴィンチちゃんは興味深そうにうなずき、

香苗先生はにっこり笑って「お腹すいてくる映画ね」と柔らかく笑った。

 

マシュは私の持ってきたディスクをじっと見つめて、それからこくりと頷いた。

 

「……私、この映画、初めて観ます。楽しみです」

 

ソファの配置を整えて、少し明かりを落として、私たちは画面の前に並んで座った。なんだか、ほんの少し緊張したけど――でも、それ以上にワクワクしていた。

 

映画が始まる。

 

静かなフィンランドの街にたたずむ、小さな日本の食堂。

流れる時間はゆっくりで、登場人物の会話も少なくて――でも、その分、仕草やまなざしの優しさが、画面いっぱいに広がっていた。

 

ロマニさんは「へえ……」と、ときどき感心したように画面を見ていて、香苗先生はにこにこと微笑みながら「こういう雰囲気、落ち着くわね」と呟いた。

ダ・ヴィンチちゃんは「これは料理がすべて哲学になっているのか……奥深いなあ」なんて分析モード。

 

そしてマシュは、あの小さな定食屋の空気を、まるでその場にいるように、静かに感じ取っているようだった。

 

やがて、劇中でごはんと味噌汁の香りが立ちのぼるような描写に差しかかったとき、マシュがぽつりと呟いた。

 

「……なんだか、懐かしい気がします。行ったことも、食べたこともないのに、懐かしい」

 

私は思わず、彼女を見つめた。

 

その目にはちゃんと“感情”が宿っていた。

 

優しい気持ち、さみしさ、あたたかさ――

たくさんの“心”が、ちゃんと彼女の中に芽吹いてる。

 

映画が終わったあと、しばらく部屋には静かな余韻が流れていた。

 

「……良い映画だった」と香苗先生。

 

「こういう映画、疲れたときに効くね。沁みるってやつ」とロマニさん。

 

「タチエちゃん、いいセンスしてるじゃないか」とダ・ヴィンチちゃんが笑った。

 

そしてマシュが、静かに言った。

 

「“特別なことは何もない”、そのことが、こんなにも尊いなんて……思いませんでした」

 

私は少し照れながら笑った。

 

「ね? いい映画だったでしょ」

 

こうして、私たちの“特別じゃないけれど、特別な時間”は終わった。

 

いつかまた、みんなで映画を観よう。

こんなふうに、ただ一緒に時間を過ごして、感じ合えるなら――それだけで、きっと十分だ。

 

映画が終わったあと、マシュの部屋にはしばらく静寂があった。

けれど、それは気まずい沈黙ではなく、誰もが心の中で“何か”を温めているような、穏やかな空気だった。

 

「……さてと。お茶にしましょうか」

 

香苗先生がそっと立ち上がり、小さなポットに湯を注ぎ始める。

 

「おっ、これはジャスミンティーだね」とダ・ヴィンチちゃんが香りをくんくん嗅ぎながら微笑んだ。

 

私は人数分のカップを用意して、テーブルに並べていく。マシュがそれを手伝ってくれた。

お茶菓子として、私が持ってきた簡単なクッキーも添えて。

 

ティーカップから立ち上る湯気が、映画の余韻とともに、部屋をふわりと包み込む。

 

「……おもしろかった」とロマニが最初にぽつりと口を開いた。

 

「派手な展開はないけど、なんか……じわじわくるというか。“毎日を丁寧に生きる”ってことが、あんなにも尊いんだなって」

 

「そうね。あの食堂の空気感、私は好きよ」と香苗先生が頷く。

 

「おにぎりを握る手つきに、あんなに説得力があるなんて驚いたなぁ」とダ・ヴィンチちゃん。

 

「食べることって、生きることそのものなんですね……」とマシュがぽつり。

 

私はそんなみんなの言葉を聞きながら、嬉しくなって胸があったかくなるのを感じていた。

 

「……タチエさん、この映画を選んでくれて、ありがとう」

 

マシュが目を向けて、柔らかく微笑んだ。

 

「ううん。こちらこそ。みんなで観られて嬉しかった。こうやって感想を言い合えるのも、すごく好き」

 

私はお茶をひとくち飲んで、香苗先生の焼いてきてくれたレモンケーキをつまんだ。

 

「……あ、これ美味しいです」とマシュが顔を輝かせる。

 

「でしょ? こういう時間に合うかなって思って、持ってきたのよ」

 

「映画のあとに、こうしてお茶を飲むって、ちょっと“かもめ食堂”みたいですね」と私が言うと、皆が笑った。

 

「確かに。タチエが店主で、私がコーヒー担当か?」とロマニが冗談めかして言う。

 

「マシュがメニュー係で、私はBGMの選曲担当だね」とダ・ヴィンチちゃん。

 

「ふふ、私はスイーツ担当かしら。静かで温かいお店にしたいわね」と香苗先生。

 

そんな風に話しながら、まるで映画の中の世界が少しだけ私たちの部屋に染みこんだようだった。

 

マシュはカップを両手で包むように持ちながら、小さく呟いた。

 

「映画のなかの人たちは、きっと毎日同じことをしていたんでしょうけど、それがとても幸せそうに見えました」

 

「そうだね。大切なのって、派手なことよりも、日常の積み重ねなのかも」

 

「……はい。私、これからの日々も、もっと丁寧に生きたいって思いました」

 

マシュの言葉に、皆が静かに頷いた。

 

この小さなティータイムが、私たちにとって特別なひとときになったのは間違いなかった。

 

映画の話は尽きず、紅茶は少しずつぬるくなっていったけれど、誰も急ごうとはしなかった。

 

ゆっくり、穏やかに。

かもめが飛ぶ空のように、私たちの時間は優しく流れていた。

 

とある日の午後。タチエの部屋にて。

 

「あなたの未来に、私はいますか?」

 

橘咲の問いが、テレビから静かに響く。

タチエは刺繍の針を握ったまま、そっと手を止めた。

 

いつ見ても、このシーンには胸が締めつけられる。

未来という言葉は、いつだって甘く、そして痛い。

 

――その時、扉がノックされ、開いた。

 

「こんにちは、タチエ」

 

香苗先生がふわりと現れたと思えば、その後ろからロマニの顔ものぞいた。

 

「やぁ、ちょっと休憩がてら、寄ってもいいかな?」

 

「……はい。今ちょうど、ドラマを見ていたところです」

 

二人を招き入れると、ロマニがテレビに目を留めた。

 

「ん……? これは、……『JIN-仁-』か……知らないドラマだね」

 

「あら、ロマニ、このドラマ知らないの?」

 

香苗先生が少し驚いたように振り返る。

 

「うん、初めて観たよ」

 

タチエは頷きながら、テレビの画面を指さす。

 

「これは、現代の脳外科医が幕末にタイムスリップして、人々を救う話なんです」

 

「へぇ……それはなかなか興味深い構造だね。過去の世界で、現代の知識を使って命を救う……でも、歴史改変の問題も孕んでるわけだ」

 

ロマニは腕を組みながら、じっと画面を見つめた。

 

「僕が面白いと思うのは、"医者"という立場なんだ。

医術は時代を越えても"誰かを救いたい"という根源的な衝動から来ている。それは、魔術師や研究者にも似てるよね。

でも仁先生は、どんな時代にいても"自分が正しいと思う医療"をしようとしてる。……それって、すごく孤独な行動だと思うんだ」

 

香苗先生が、紅茶を置きながらうなずく。

 

「その通りね。医術って、常に時代と倫理に挟まれているもの。

仁先生は"命を救う"ことを選んだけど、それは"何を救えなかったか"という苦しみも背負うことになる」

 

ロマニは少しだけ寂しそうに笑った。

 

「彼の行動は、歴史の流れに抗っているようでいて、最終的には"運命"と折り合いをつけようとしてるんだろうね。

――それでも、誰かの笑顔や未来のために手を差し伸べる。

それって……どこか、マスターに似てる」

 

ふと、タチエは針を置いた。

 

「……私も、そう思います。仁先生って、誰かの運命を変えたいんじゃなくて、"その人が生きていてほしい"って思ってるだけ。

……でもそれが、一番強い願いなのかもしれません」

 

ロマニは穏やかな笑みを浮かべて、頷いた。

 

「うん。そういう願いこそが、時を越えるんだよ、きっと」

 

テレビの中で、仁が命を救おうと走っていた。

 

午後の静かな部屋に、医術と運命、そして未来についての思索がそっと流れていた。

 

「今日も吹雪か……」

 

カルデアの外は、今日も猛吹雪だった。

南極に位置するこの場所では、晴れ間や星空を見ることなどほとんどない。

曇天と吹雪。それがこの施設の“日常”だ。

 

私はいつものように窓の外を眺めていた。

今年で十一歳。身長がまた少し伸びた。

そんな些細な変化を感じながら、ただ、灰色の空を見つめていた。

 

廊下の向こうではスタッフたちが慌ただしく行き来している。

最近は魔術師の姿もよく見かけるようになった。

 

――さっきも、金髪で整った顔立ちの青年が、数人の魔術師を引き連れて通り過ぎた。

たしか……キリシュタリア・ヴォーダイムだったはず。

他の顔は知らない。

 

彼が一瞬、こちらに視線を向けたような気がした。

……いや、気のせいだろう。

こんな少女に、彼が興味を持つはずがない。

 

そう思いながら、また外へと目を戻した。

雪は風に煽られて渦を巻き、遠くの灯りすら霞んでいる。

 

ふと、視界の端を白髪の女性が通り過ぎた。

思わず目で追ってしまうほどの存在感。――嫌でも覚えている。

 

何度となく、館内を出歩くたびに注意された相手。

あの少女の名は……

 

――オルガマリー・アニムスフィア。

 

カルデア所長の娘。天体科のロードの後継者。

けれど今日は、いつもと違った。

 

彼女は足を止め、じっとこちらを見つめた。

不機嫌そうな声が響く。

 

「ねぇ、あなたはどうして外を見てるの?」

 

「どうしてって?」

 

「だって……吹雪よ? 見たところで、何になるの」

 

「意味はありますよ」

 

静かに、私は答えた。

 

オルガマリーの眉がわずかに動いた。意外そうな顔。

けれどすぐに、いつもの気の強そうな表情に戻る。

 

「ふぅん? たとえば?」

 

「……あの空の向こうに、綺麗な星があるって思い出すためです」

 

彼女は黙り、私の隣に立って窓の外を見た。

渦巻く雪。何も見えない世界。

 

「……センチメンタルね、タチエ」

 

「私の名前を……?」

 

「香苗から聞いてるもの。当然よ」

 

フンッと鼻を鳴らし、けれど目は伏せたまま、彼女はぽつりと問いかけた。

 

「……ねえ、タチエ。あなた、本当は何を見てるの?」

 

その声は、静かだけれど鋭かった。

吹雪の向こう側――私の内側を覗くような、そんな声音。

 

私は少し考えてから、口を開いた。

 

「未来です」

 

「未来?」

 

「……私たちにとって、まだ来ていない時間。

でも、きっと来ると信じたい時間です」

 

オルガマリーは黙ったままだった。

横顔に、迷いの影が落ちたように見えた。

 

「くだらないわね」

 

そう言った声は、どこか柔らかかった。

 

「未来なんて、計算も再現もできない不確かなものに希望を託すなんて。

私なら、もっと確かなものを見るわ。成果、理論、実験結果……そういうものよ」

 

「でも……未来って、そういう確かなものだけじゃ見えないと思うんです。

誰かと話すこと。誰かを想うこと。目の前の吹雪に負けず立っていること――

そういう一つひとつで、少しずつ輪郭が見えてくる気がして」

 

「……変わった子ね、あなた」

 

苦笑しながら呟く彼女は、そっと窓に手を伸ばした。

指先がガラスに触れ、冷たさにわずかに眉をひそめる。

 

「……たしかに、ここじゃ星なんて見えない。

でも、その向こうにあるっていうのは……まあ、否定はしないわ」

 

「でしょう?」

 

私が微笑むと、彼女はぷいと顔を背けて歩き出す。

けれど去り際、背を向けたまま呟いた。

 

「……あんまり勝手に希望なんて持たないで。

壊れたとき、人はあっけなく折れるんだから」

 

その背中に向けて、私はそっと返した。

 

「大丈夫です。

……壊れたときの痛みも、もう知ってますから」

 

窓の外では、雪が音もなく降り続けていた。

それでも――ほんの少しだけ視界が開けたような、そんな気がした。

 

 

オルガマリーとの会話を終え、私は歩き出した。

吹雪の窓辺を背に、ひんやりとした廊下をまっすぐに進む。

 

そのとき――曲がり角の先、休憩室の扉がわずかに開いていた。

中から聞こえた声に、足が止まる。

 

「え? 香苗先生、ほんとに辞めるの?」

 

「うん、上層部にももう話は通ってるって。結婚するんだってさ。

外部の研究者と。一緒に海外に行くって話」

 

「へぇ……あの人、魔術師だけど“普通”に生きるほうが幸せかもね」

 

「惜しいけどね。あの人、優秀だったし。

患者への対応もすごく丁寧だった」

 

「でもカルデアには、“普通”はいらないのよ」

 

その言葉を最後に、私は完全に立ち止まった。

呼吸がすっと浅くなる。

 

――結婚? 退職? 移籍?

 

現実を理解するのに、少し時間がかかった。

 

壁の向こうでは、まだ会話が続いている。

けれどその声は、遠く、空虚に響いていた。

 

香苗先生が――カルデアからいなくなる。

 

“結婚”なんて本来はおめでたいことのはずなのに。

胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残っていた。

 

彼女は、私にとって“日常”だった。

医療の知識だけじゃなく、人としての在り方を教えてくれた。

 

辛いとき、声をかけてくれた。

ひとりぼっちじゃないって、思わせてくれた人だった。

 

そんな人が、突然――

 

「……なんで、何も言ってくれなかったの?」

 

かすれた声がこぼれた。自分でも驚くほど、弱い声だった。

 

私は壁にもたれかかり、そっと目を閉じた。

脳裏に、吹雪の景色がよみがえる。

 

未来を信じようとしたばかりだった。

その矢先に、大切な人が消えていく現実を突きつけられるなんて。

 

それでも、立ち止まるわけにはいかない。

 

――香苗先生は、きっと笑って送り出してほしいと思っている。

わかってる。頭では。

 

でも今だけは――ほんの少し、泣きたかった。

 

誰もいない廊下の片隅で、私は唇を噛みしめた。

手のひらの中、こぼれそうな感情をぎゅっと握りしめながら。

 

「……先生、ずるいよ……」

 

その声は、白い天井へと吸い込まれ、静かに消えていった。

 

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