藤丸立香との生活 一年生編   作:猫とふりかけ

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藤丸立香との生活【8】

ザァー……という雨音で目が覚めた。

梅雨に入ってから、こういう朝が増えた気がする。

癖っ毛の黒髪は湿気で見事に跳ねていた。仕方なく、いつもより丁寧に櫛を通す。

 

隣ではメイが寝癖のついたショートボブを直している。

ピョンと跳ねた髪が、妙に可愛かった。

 

身支度を整えた私たちは、並んで食堂へ向かう。

扉を開けると、いつものように活気に満ちた声が響いていた。

 

「はぁ……こう毎日雨だと、気が滅入るわね」

 

そう言ってリンがため息をつくと、メイは少し嬉しそうに言った。

 

「そう? 私は好きだよ。いろいろと」

 

大体、理由は分かっている。

走るのが苦手なメイにとって、朝のランニングは苦行そのもの。

だから、雨で中止になるのが単純に嬉しいのだろう。

 

私とリンは体力には自信があるので、別に苦ではないけれど。

 

窓の外では、雨が葉桜を優しく叩いていた。 味噌汁を啜りながら、葵がぽつりと言った。

 

「でも、斜堂先生は喜びそうだよね」

 

「斜堂先生?」

 

私は首を傾げる。

 

「あれ? タチエ、知らないの? 斜堂影麿先生」

 

「えーと、……ちょっと待って……」

 

葵も私と同じように首を傾げながら、一緒に思い出そうとしているようだった。

 

斜堂先生……斜堂影麿先生……あ、思い出した。

 

確か後に保健委員になる一年ろ組の担任教師、斜堂影麿先生だ。

 

「ああ、思い出した。斜堂影麿先生。斜堂って、“Shadow”って読めるよね。つまり“影”。名字も名前も影なんて、まさに名は体を表すって感じだね」

 

「ちょっと待って、名前が“影”なのはわかるけど……なんで名字まで?」

 

疑問符を浮かべたリンに、私は先ほどの考察を伝えた。

 

リンは少し驚いたような顔をしてから、納得したように頷いた。

 

「なるほど……。“斜堂”は英語で“Shadow”、で、“Shadow”は日本語で“影”だから……たしかに、言われてみればそうね」

 

「そこは気づかなかった……」

 

メイは驚きを隠そとうもしなかった。庭に咲いてある紫陽花をみながら、ふと、私は思った。――藤丸は、今頃どうしているのだろう。

 

入学式で再会して以来、あまり顔を合わせていない。

それと同時に、ふと頭に浮かぶ疑問があった。

忍術学園に、ちゃんと馴染めているのだろうか。

 

今なら、皆に聞ける気がした。

 

「ねぇ、みんな」

 

私が声をかけると、リンたちは一斉にこちらを向く。

 

「藤丸さんのこと、知ってる?」

 

「なによ、藪から棒に」とリンが眉をひそめる。

 

「藤丸さん? うん、知ってるよ」

葵がのんびりと答えた。

 

メイは無言で味噌汁を啜っている。

私は一呼吸おいて、本題を切り出す。

 

「……藤丸さんのこと、どう思ってる?」

 

「親切な人よ。ね、葵?」

 

「うん。リンと城下町に出かけたとき、笑顔で対応してくれたよ」

葵がすぐに返す。

 

「……図書室の場所、教えてくれた」

 

メイがぽつりと呟いた。彼女なりの言葉で好印象を伝えている。

 

予想通り、評判は悪くない。

――というより、藤丸なら当然か。

 

あの人は実質、コミュニケーション能力が怪物級だ。

誰とでもすぐに打ち解ける。いや、前世の彼を思えば当然かもしれない。

 

カルデアでは、常に英霊たちに囲まれていた。

その中に混ざって私も会話を楽しんだことが何度もある。

藤丸の人柄の良さは、皆が知っていた。

 

けれど、お人好しな彼は、ときに騙されることもあった。

だから私は、藤丸の代わりに英霊たちに警戒するようになった。

 

騙されても許してしまうのが、彼の性分。

その優しさに呆れることもあった。

 

でも――だからこそ、英霊たちは彼に協力してくれたのだと思う。

 

藤丸立香という人間の“人望”は、

深海より深く、海よりも広い――少なくとも、カルデアではそうだった。

 

雨音を聞きながら窓の外を見ていたリンが、ふと私の方へ視線を向けた。

 

「……なんで、急にそんなこと聞いたの?」

 

「ああ、藤丸さんとは昔から知り合いでね。

ちゃんと仲良くやれてるのか、ちょっと気になったんだ」

 

「へぇ……初耳ね」

 

「話してなかったからね」

 

私は静かに答えた。

メイの味噌汁の湯気が、ぼんやりと揺れていた。

 

朝食を食べ終えて、私達はくノ一の教室を目指した。教室はガヤガヤと騒がしい。私達はそれぞれの席へ座ることにした。それから、予鈴が鳴り、教室の扉が開かれる。そこにはハート柄の忍者装束を着た時代劇に飛び出してきたような老婆が入ってきた。

 

「ねぇ、誰……?」

 

リンは、コソッと私に聞いてきた。私は冷静にリンに言う。

 

「誰って……シナ先生だよ」

 

「えっ!?シナ先生!?」

 

私の言葉に流石のリンも驚いていた。メイは僅かに目を見開いている。そんなに驚くことだろうか?

葵も二度見はしていたようにも見える。まあ、無理もないか。あれがシナ先生だなんて、初見で驚かないほうがおかしい。ちなみに先輩達はわかっていたのか、立ち上がって一礼をしていた。

 

「こんにちは、皆さん」

 

シナ先生の声にシンと静まり返る。そして、優しい声音で話しだした。

 

「この姿での授業は初めてですよね。改めて名乗ります。山本シナです。どちらが本物かはご想像にお任せしますわ」

 

ほほほっと笑うシナ先生に私達の緊張はほぐれたようだ。ホッと、メイは小さく息をついた。それから、葵は興味深そうにシナ先生を見ている。メイは少しだけ、口を引きつらせて呟いた。

 

「お、おしゃれ……?」

 

ハート柄が忍者装束なのはきっと先生のユーモアなのだろう。たぶん。それから、黒板にチョークを持て、シナ先生はさらさらと美しい字で何かを書き始めた。キュッ、キュッと小気味よい音が教室に響く。

 

「今日の授業は、くノ一としての基本に立ち返る内容です」

 

そう言って、先生が書いたのは——

 

『変装術・初級』

 

「変装……!」

 

リンが声を漏らす。メイは目を細めて、「やっぱり、あれも変装なのかな」と納得したように呟いた。

 

「くノ一たる者、どんな場面でも“演じる力”が必要ですわ。町娘、老女、忍び、武士の妻……あらゆる役を演じてこそ、一流です」

 

シナ先生の言葉には説得力があった。目の前にいる本人が、すでに“説得力の塊”のようなものだったからだ。

 

「さ、皆さんもやってみましょう。“自分とは違う誰か”になる、最初の一歩ですわ」

 

先生はそう言うと、教室の隅にある大きな風呂敷包みをほどき始めた。中からは、町娘のかつら、農民の服、忍者のマント、旅人の杖、お面、化粧道具……さまざまな変装アイテムが現れる。

 

「さすがに用意がいい……!」と、葵が感心していると、先生がにこやかに言った。

 

「さあ、ペアを組んで、即席の変装劇を始めましょう。お題は——“城下町で情報を聞き出せ”」

 

全員、目を見開いた。

 

「変装して、演じて、情報を引き出す……それが、くノ一としての第一歩ですわ」

 

そして、シナ先生はパチンと手を叩いた。

 

「——では、始めっ!」

 

教室内は再び騒がしくなる。けれどそれは、さっきまでのガヤガヤとは違った、どこか楽しげなざわめきだった。私達も顔を見合わせ、ゆっくりと立ち上がった。

 

「ねぇ、どうする? 旅芸人と、そのおつきの忍とか?」

 

「いっそ、私が商人で、タチエが娘っていうのは?」

 

「いや、私、老婆役やってみたいんだけど……。……君たち、楽しんでるなあ」

 

私は笑いながら、風呂敷の中から布を一枚手に取った。それは、くすんだ紫色の町娘の肩掛け。軽く羽織ってみて、鏡の前に立つ。

 

(誰かになりきる。自分を隠す。……でも、本当の私は、どこにいるんだろう?)

 

ほんの少し、心に引っかかる疑問が浮かんだ——が、それを振り払って、私は仲間たちの元へと戻った。

 

教室の一角では、リンが勢いよく商人の風呂敷を肩にかけ、「旦那様、この反物はいかがで?」と芝居がかった声を上げていた。対するメイは、町娘風の装束で袖を揺らしながら、「まあ、お安いこと」と返している。どうやら、商人と客のやりとりらしい。

 

葵はというと、顔の下半分を黒い布で覆い、旅の忍者風。何やら壁際に隠れて、他のペアを観察している。情報収集役に徹しているようだ。

 

私はというと、少し悩んでいた。

 

(誰を演じよう?)

 

風呂敷の中には、老婆のかつらもあれば、男装用の装束もある。けれど、どれもしっくりこない。

 

そのとき、シナ先生がそっと私の肩に手を置いた。

 

「迷ってるのね、薬茂さん」

 

「……え?」

 

「あなたは、素直でまっすぐだからこそ、“何かになりきる”ことに抵抗があるのかもしれませんね。でも、それは悪いことではないの。素直な人ほど、いい演者になります」

 

そう言って、先生は小さな包みを差し出した。中には、薄桃色の布地でできた小袖と、細かな刺繍の入った帯が入っている。

 

「これは……」

 

「花売り娘の装束よ。可憐で、儚げで、けれど芯が強い。あなたにぴったりだと思ったの」

 

私は、布の手触りを確かめながら、静かにうなずいた。

 

(なりきるってことは、自分を偽ることじゃない。自分の中にある、もう一人の“私”を引き出すことなのかもしれない)

 

そっと装束に袖を通し、髪をまとめる。

 

そして、立ち上がる。

 

「……お花、いかがですか?」

 

小さく声に出してみたその言葉に、自分でも驚くほど柔らかく、温かな響きがあった。

 

そのとき、葵が近づいてきた。

 

「タチエ、そのままだと、ちょっと腰の帯が甘いよ。手伝うね」

 

「ありがとう、葵」

 

「ううん。私も、演じるって面白いなって思ってきたところ」

 

教室の中は、もはや別の世界のようだった。町娘、商人、忍者、老婆、芸人——誰もが“自分じゃない誰か”になって、自由に言葉を交わしている。

 

そんな中、シナ先生が黒板の前でゆっくりとつぶやいた。

 

「くノ一というのは、演じ、潜み、笑い、泣き、そして——生きる力そのもの。あなたたち一人ひとりが、“自分の色”を見つけていけますように」

 

その言葉は、教室の空気に、静かに溶けていった。

 

そして私達の小さな“舞台”は、今日も静かに幕を開けるのだった。

 

「お花、いかがですか?」

 

私は再び、小さな声で言った。今度は、少しだけ息の抜けた、日常に馴染むような抑えた口調で。

 

「……うん、いいじゃない」

 

葵が軽く頷いた。帯を整え終えると、一歩下がって私をじっと見つめる。

 

「見た目だけじゃなくて、雰囲気も花売り娘っぽい。ちょっと、儚げで、優しげで……」

 

「演技って、こういうの、なんだね」

 

私は思わず笑ってしまった。自分の中にある“誰か”になりきるのは、少しだけくすぐったくて、でも、不思議な解放感があった。

 

「じゃあ、私は旅の侍にでもなろうかな」

 

そう言って葵は、腰に木刀を差し込み、男物の羽織を肩に掛けた。

 

「ほら、町で情報を聞き出すのが今回の任務。花売り娘と旅侍、偶然出会った風を装って話すのはどう?」

 

「うん、面白そう」

 

そうして私たちは、一つの“即席劇”を始めた。

 

教室の真ん中、簡易的に作られた「城下町」の小道を模したエリアに立ち、私は花を手に、彼女の前に立つ。

 

「お侍さま、お花はいかがですか? 今日入ったばかりの、朝露に濡れた撫子でございます」

 

「……ふむ、なかなか気の利いた口上だな。だが、わしは花より団子でな」

 

「まあ、ご冗談を。ですが、こちらの撫子、町の噂も一緒に届けられるんですよ?」

 

「噂、とな?」

 

葵が眉を上げる。芝居に入り込んでいる。

 

私はほんの少しだけ、声を落として、囁いた。

 

「この通りの角を曲がった先に、新しい茶屋ができたそうで。そこに出入りする客人に、どうやら……“あの城”の者が混じっている、とか」

 

「ほう、それは興味深い」

 

二人で軽く目を合わせ、言葉の裏に含んだ“情報”を共有する。

 

そう、それが任務。演じることの中に、情報を渡すこと。偽りの会話に、真実を忍ばせる。それが、くノ一の技。

 

演技が終わると、周りの生徒たちから小さな拍手が起きた。メイとリンも頷いていた。少し照れくさいけれど、私は心の奥で何かが芽生えた気がした。

 

(きっとこれが、“色”の始まり)

 

「よくできましたね、二人とも」

 

シナ先生が優しく声をかける。

 

「特に薬茂さん。あなたの声のトーンと目線の使い方、たいへん自然でした。……これは才能ですわ」

 

「そ、そんな……」

 

思わず頬が熱くなる。でも、少しだけ、胸が誇らしかった。

 

「では、次のペアの演技を見せてもらいましょう」

 

教室は再びにぎやかになる。けれど、ただの騒がしさではない。誰もが、少しだけ誇りを持って、楽しんでいる。

 

(私も……もう少し、自分の色に向き合ってみようかな)

 

そう思いながら、私は袖口に残る撫子の刺繍を指先でなぞった。花は小さく、けれどしっかりと、布地に根を張っていた。

 

演技を終えた私は、自分の席へ戻った。まだ胸の奥が、ふわふわと温かく落ち着かない。

隣に座るリンが、椅子ごと身体をこちらに向けてニヤニヤと笑っている。

 

「ねえ、タチエ。あなた演技の才能あるんじゃないの?」

 

「……それ、褒めてるの?」

 

「もちろん」

 

リンの声に、思わず肩の力が抜ける。

演技という仮面を外した瞬間、急に恥ずかしさがこみ上げてくるから不思議だ。

 

「私、ああいうの、得意じゃないと思ってたけど……意外とやってみると、面白かった」

 

「花売りの娘役はよかったわ。

次はお侍さんとどう?タチエなら朝飯前ね」

 

「またリンはすぐ調子に乗る……」

 

呆れたように言ったのはメイだった。彼女も席に戻りながら、笑っている。

 

「でも、タチエの演技、自然だったよ。あれは“なりきる”というより、“引き出す”って感じ」

 

「え?」

 

「……ほら、誰にでも“仮面の自分”ってあるじゃない。それを自分で見つけて、必要なときに使うのが、私たちの技術でもあるんでしょ」

 

メイの言葉に、私は小さくうなずく。

仮面。でも、それは偽りではない。たしかに自分の中にある“もうひとつの顔”——

 

(演じることも、技のひとつ。

 それもまた、くノ一の“生き方”なんだ)

 

そんなふうに思ったときだった。

 

「さて、皆さん。今日の授業はここまでです」

 

教壇の前で、シナ先生が手を叩く。

 

「今日のことは、ほんの入り口に過ぎません。これから数回にわたって、“あなたの色”を見つけるための授業を行います。楽しみにしていてくださいね」

 

「あら?まだ、やるの?楽しみだわ」

 

リンが早くもはしゃいでいる。

それを横目に、私はもう一度、黒板の文字を見つめた。

 

『変装術・初級』

 

この一文字一文字が、私たちをまだ見ぬ未来へと導いてくれているように思えた。

 

(私の“色”……見つけられるかな)

 

けれどその問いには、もはや迷いはなかった。

 

見つけたい——そう、心から思ったから。

 

教室の窓の外では、夏の光がそっと差し込んでいた。

まるで、新しい一歩を祝福するかのように。

 

「ああ……始まってしまった……」

 

「まあまあ、メイ。これも修行だよ。頑張らなきゃ!」

 

「頑張りたくない……」

 

空は晴れわたり、初夏の風が頬をなでていく。次の授業は体育。まずはランニングから始まる。

 

校庭の周囲を十周走り、それから縄跳びだ。回数は学年ごとに決まっている。一年生は五十回、二年生は七十回、三年生は八十回。四年生は百回、そして六年生は百五十回。

 

ランニングの後ということもあって、皆ゼェゼェ息を切らしながら跳び続けていた。葵に至っては、顔を真っ赤にしながら跳んでいる。倒れないかと心配になるほどだ。

 

私は飛び終えると、仲間たちを見守りながら応援する。葵が最後に跳び終えたとき、六年生の先輩が声を張り上げた。

 

「終了!休憩時間だよ。各自、水分とってね!」

 

私は水筒の蓋を開け、水を含む。それから手ぬぐいを葵に渡した。葵は汗まみれの額を拭いながら、息も絶え絶えに言う。

 

「ありがとう、タチエ……」

 

「いいよいいよ。無理しすぎないでね」

 

そこへ、ポニーテールの背の高い女性が葵の元へ歩み寄る。

 

「大丈夫? えーと……」

 

「葵です」

 

「葵ちゃん、この後は短距離走だけど、いけそう?」

 

「はい! いけます!」

 

元気な返事に、女性は満足そうに頷いた。私はこっそりメイに耳打ちする。

 

「ねえ、あの先輩って誰?」

 

「ん? ああ、家守ナナコ先輩だよ」

 

ナナコ先輩——どこか凛としていて、言葉は厳しくとも、その節々に優しさが滲んでいる。

 

「世話焼きなんだね」

 

「そうだね。でもね……」

 

メイは水筒をあおりながら続ける。

 

「ナナコ先輩は、やる気のある子にはすごく面倒見がいい。でも手を抜く子には容赦ないらしいよ」

 

「なるほど……」

 

私はなんとなく納得してしまった。葵は体力はないけれど、誰よりも真っ直ぐで努力家だ。きっと、それがナナコ先輩にも伝わっているんだ。

 

「はーい!休憩終了! 次は短距離走だよ!」

 

その声に、くのたまたちから悲鳴のような声が上がる。

 

(……私も葵に負けてられない)

 

水筒を置いて、私は列へと向かう。忍者にとって素早さは命。鍛えるなら今だ。

 

整列したとき、六年生の誰かがニヤリと笑って言った。

 

「タチエさん。よかったら、ナナコと勝負しませんこと?」

 

「えっ……ナナコ先輩と!?」

 

「ふふ、運が悪いね」「がんばれ一年生」そんな声がまわりから飛ぶ。

 

「え、あの……」

 

「よろしくて?」

 

有無を言わさぬ圧に、私はおとなしくナナコ先輩の横へ並んだ。スタートラインに立つと、先輩はちらりと私を見て、にこりと微笑んだ。

 

「気負わなくていいわよ。これは試練じゃなくて“機会”。逃げるか、飛び込むかは……タチエちゃん次第」

 

その言葉に、私は思わず息を呑んだ。

優しく、軽やかな口調なのに、胸の奥に深く響く。

 

(逃げない……私、逃げない)

 

私は先輩の目をまっすぐ見て、小さく頷いた。

 

「位置についてー……」

 

全員が前傾姿勢になる。ナナコ先輩の構えは、まるで無駄がなかった。対する私は、肩に力が入りすぎているのが自分でもわかる。

 

「よーい……」

 

(落ち着いて、集中……!)

 

「ドンッ!」

 

合図と同時に、地面を蹴った。風が頬を裂き、髪が跳ねる。

けれど——ナナコ先輩は、異常なほど速かった。

 

(うそ、もう前に!?)

 

わずか一歩、それだけで差がつく。けれど、私は諦めなかった。

腕を大きく振り、足を高く上げる。全身を前へ、前へと押し出す。

 

(追いつく……絶対に……!)

 

ほんのわずか、先輩の背中が近づいた気がした。

 

けれど——

 

ゴールの白線を先に駆け抜けたのは、やはりナナコ先輩だった。

 

「っ……はぁ、はぁ……!」

 

私が息を切らして辿り着いたとき、先輩はすでに振り返り、手を差し伸べていた。

 

「お見事。思った以上にやるじゃない」

 

「……くっ、悔しいけど、ありがとうございました!」

 

私はしっかりとその手を握った。汗ばんでいたけど、あたたかく、安心できる感触だった。

 

「すごいじゃない!タチエ、猫みたいだったわよ!」

 

後ろからリンの声が飛ぶ。

 

「うん。正面からぶつかって、最後まで走りきった。見事だった」

 

メイも小さく頷いてくれる。

 

私はふっと笑った。悔しさの中に、不思議な清々しさがあった。

 

(ナナコ先輩には敵わなかったけど、それでも……)

 

ほんの少し、自分が強くなれた気がした。

 

そしてその私の姿を、葵がじっと見つめていた。

小さな手でタオルを握りしめながら、何かを感じ取るように。

 

(ね、葵。私も……ちゃんとやってみたよ)

 

もうすぐ、次の種目が始まる。

息を整えて、また前へ進もう。

 

夏の風が吹き抜けた。

ほんのり甘い、陽だまりの匂いを運んで。

 

それから、短距離走を終えて、各々教室に戻り始めた。私はリンと葵に声をかける。

 

「葵、リン!すごかったよ!二人の走り方」

 

「あら?そう?」リンはそっけなくて、「ええ〜。そんなにすごいかな?」葵もコテンと首を傾げていた。

 

「うん!二人とも走り方綺麗だっよ!」

 

リンに関してはまるで、チーターのように素早く走り抜けていた。

葵もしっかりと足を上げて、前へ踏み出していた。お手本になるくらいに綺麗な助走だった。

 

「そういうタチエこそ、すごかったよ。ナナコ先輩といい勝負だったし」

 

「え?そうかな?」

 

私がそう言うと、リンがニヤリと笑って肩をすくめた。

 

「本当よ。ほぼ横並びだったわ」

 

「うんうん、ゴールのとき、タチエの髪がふわってなって、カッコよかったよ」

葵も両手を胸の前でぎゅっと握って、力いっぱい頷いた。

 

「そんな……ありがと。頑張った甲斐あったなぁ……」

 

私は少し照れながら笑った。

教室への道を三人並んで歩く。まだ日差しは強く、空には夏雲がふわふわと浮かんでいる。

 

「タチエは、負けて悔しくなかったの?」とリンがふと聞いてきた。

 

私は少し考えてから、答えた。

 

「うん、悔しかったよ。勝ちたかった。でもね、それ以上に、走れてよかったって思った。ナナコ先輩、すごく速くてさ……でも、その速さに近づけた気がして、嬉しかったんだ」

 

「そっか……うん、それって、いいな」

 

リンが少しだけ静かになって、歩幅を合わせてくれる。

葵も「タチエ、すごいよ」と優しく言ってくれた。

 

(ううん、私だけじゃない。三人とも、すごかった)

 

やがて教室の建物が見えてくる。

木の廊下に足を踏み入れると、少しだけひんやりとした空気に包まれた。

 

「ふぅ〜、やっと日陰〜!」

 

「水、飲も飲も……!」

 

それぞれが席に戻り、水筒を手に取る。

 

ふと、教室の隅に置かれていた黒板を見ると、誰かがふざけて書いた落書きが目に入った。

 

「今日の主役:タチエ」

 

「……え?」

 

「えっ、何それ!? いつの間に!」

私は思わず顔が真っ赤になった。

 

「誰だよ、こんなの書いたの〜!」

 

「さあ? でも、事実じゃない?」

と、リンがおどけて言い、

葵はそっと微笑んだ。

 

「うん。タチエ、今日すっごくかっこよかったもん」

 

——照れくさい。でも、嬉しい。

 

私は黒板の文字を見つめて、そっとチョークを手に取り、横にもう一行書き足した。

 

「でも、みんなも主役だったよ」

 

日差しが窓から差し込んで、

白いチョークの文字がふわっと輝いて見えた。

 

夏は、まだ続いている。

私たちの成長も——これから。

 

それから、授業はまだまだ続いた。

シナ先生は「気配の消し方の基礎」を黒板にカツカツと書き始めていた。

 

(こうして授業を聞いていると、前世の頃に受けたカルデアの講義を思い出す……)

 

あの頃の私は、医療スタッフとしてカルデアで働きながら、合間を縫って講義を受けていた。

といっても、内容はサーヴァントのクラス特性やスキルなどに関するもので、専門的な魔術理論ではなかったけれど。

 

カドック・ゼムルプス——。

私の少し離れた席で、同じように講義を受けていた青年。

彼は優秀な魔術師だけが選ばれるAチームに所属していた。

 

当時、彼と話した記憶はほとんどない。

けれど、技術スタッフを通じて、よく差し入れをくれていた。甘いジュースやカフェオレが多かったように思う。

 

彼は“ぽっと出の魔術師”と揶揄されることも多く、周囲から見下されることもあった。

けれど、今思えばそれは——同じような境遇にある者への、無意識の哀れみだったのかもしれない。

 

Aチームとの映画鑑賞会にも、彼はよく参加していた。

私は自分のリクエストで、『踊る大捜査線』『相棒』『ガリレオ』の映画版など、日本の警察ドラマをよく観てもらっていた。

 

彼は、いつも隅のほうで静かに画面を見つめていた。真剣な眼差しだった。

 

仲良くなれるかもしれない。

いや、きっと、友達になれると信じていた。——それなのに、なぜ……。

 

「タチエ?」

 

リンの声に、ハッと我に返った。

彼女の表情は、少しだけ心配そうだった。

 

「……何かあったの?」

 

「いや、少しだけ……思い出していたんだ」

 

「思い出す?」

 

「うん。私には、友達がいたんだ」

 

そう口にした自分の声が、どこか遠くから響いているように感じた。

 

「……でも、その人とどうしても、分かり合えなかった」

 

私はそっと目を伏せる。

机の木目が陽炎のように揺れて見えたのは、窓の外の熱のせいか、それとも、心がざわついていたせいか。

 

リンはしばらく黙っていたが、やがてふっと笑って言った。

 

「それでも、そう思えるって、すごいことだと思うよ」

 

「……え?」

 

「だって、タチエはその人のことを、ちゃんと“友達”って思ってたんでしょ? 信じたことも、裏切られたことも。全部、本気で向き合ってたってことじゃない」

 

私は、思わず目を見開いた。

リンの言葉はまっすぐで、まるで今の私の心を、そのまま映す鏡のようだった。

 

「……裏切られたって思ってるわけじゃないんだ。ただ……理由が分からなかっただけ」

 

「その人、今どこにいるの?」

 

「……分からない。もう、会えないかもしれない。でも……きっと、どこかで、生きてると思う」

 

リンは「ふうん」とだけ言って、前を向いた。

 

「なら、それでいいじゃん。会えたらラッキー。会えなくても、タチエの心の中に、その人が生きてるなら」

 

私は彼女の横顔を見つめ、静かに頷いた。

 

「……ありがとう、リン」

 

「ううん、なんでもないよ。それより、ほら、気配の授業に集中しないと。シナ先生に怒られるよ?」

 

「あ、やばっ……!」

 

ふたりして慌てて姿勢を正す。

黒板にはいつの間にか「気配遮断の応用」と、次の段階の文字が書き加えられていた。

 

(カドック……。あのとき、あなたは何を思っていたの?)

 

心の奥に残る問いをそっと閉じて、私は今ここにいる“現在”へと意識を戻した。

 

——過去に縛られるのではなく、“今”を生きるために。

 

——けれど、私の知らないところで、

ある魔術師の青年もまた、静かに過去を手繰っていた。

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