婚約破棄された悪役令嬢を拾って人生勝ち組になろうとしたら、ドS過ぎて逆に飼われてる 作:こういうのがお好き?
クラリモンド領。
侯爵家から譲り受けたこの地は、古くからの森と石畳の道に囲まれ、まるで時間から取り残されたような静けさがある。
そして、丘の上。
そこに建つ屋敷は、かつての威厳を残しつつも、どこか寂しげな空気を纏っていた。
「……本当に、ここを使うのか?」
俺は門の前で立ち尽くしながら、ふとつぶやいた。
屋敷の壁には蔦が這い、窓枠はところどころ割れている。
名家の余韻はあるが、どう見ても“廃墟一歩手前”だ。
「悪くありませんわ。躯体はしっかりしていますし、構造も王都基準で見劣りしませんの。手を入れれば、充分に蘇りますわ」
そう言って、ルイーゼは屋敷を見上げた。
その眼差しは冷静で、どこか懐かしむようでもあった。
「でも、俺……事業経営の経験はあるけど、こういう“領地経営”なんて初めてなんだ。正直、うまくできる気がしない……」
声が自然と弱くなる。
失敗したら、すべてが崩れる。そう思うと、足元がぐらつく気がした。
「不安なのですね?」
「……うん」
「でも、不安なのはあなただけではありませんわ。あなたが道を示さなければ、困るのは誰だと思って? 民と、従業員たちですのよ」
「……」
「責任ある者は、選ばれる前に、覚悟を問われますの。それが“ノーブレス・オブリージュ”――貴族の義務ですわ」
ルイーゼの声が、風の中で静かに響いた。
その凜とした言葉に、俺は少しだけ背筋を伸ばす。
「あなたの躾けも……そう。“ノーブレス・オブリージュ”ですもの」
「そんなノーブレス・オブリージュあってたまるかぁああ!」
思わず叫んでしまった。
口が勝手に動いて、心の中のM豚が飛び出しそうになった。
「……ぶひっ、じゃない、ぶひ……あ、いや、ワン。ワンです、はい」
慌てて姿勢を正す。
ぶひぃなんて鳴いてたまるか。もう俺は領主だ。
せめて、犬くらいには戻らないと――そう、心に誓った。
ルイーゼがくすっと笑い、歩きながらふと振り返った。
「まあ、ぶひぶひと鳴いているだけの豚からは卒業できたようですわね。会話が成り立ってきましたもの。知性が戻ってきて感心いたします」
「褒めてんのかそれ!? いや、けなしてるだろ確実に!?」
「ふふっ……次の課題に進みますわよ」
ルイーゼは笑顔で続ける。
めずらしく上機嫌だ。
「課題……?」
「まず、この屋敷――売却いたします」
「売っちゃうの? 蘇るって言ってたのに!?」
「当然ですわ。補修にも改修にも、時間とお金がかかりますもの。一度売って現金化し、条件の整った屋敷を借りる方が効率的ですわ」
「なるほど……それはまあ、合理的だけど……」
「それに、大きな屋敷を借りると、女を連れ込もうとする発情犬が現れますもの」
「……連れ込むってやめてくれる!? “雇う”だから!? 俺、使用人を“雇う”って言ってるだけだから!」
「雇う……何て破廉恥な」
「えぇ……」
「家の中に女を入れて、何をするつもりかしら? 掃除? 料理? それとも“密室でふたりきり”?」
「それ、全部普通の業務内容なんだけど!?」
「ですから、女を雇う必要性など微塵もございませんわ。リゼがいれば充分ですもの」
「リゼも女だよ……?」
「リゼはわたくしの“番犬”ですもの。無駄な色気を感じた瞬間に、あなたの命、保証できなくなりますわね」
「たぶん俺が一番怖れてるの、今それ……」
ルイーゼは俺の話に取り合うことなく、続ける。
「この敷地の“離れ”はまだ使える状態でございますわ。そこは孤児院にいたします」
「こ、孤児院?」
「ええ。食事と寝る場所、それと学ぶ機会を、子供たちに提供いたしますの。そして、いずれは学校も設けるつもりでございます」
ルイーゼの瞳は、俺を躾けている時とは一味違う輝きを放っている。
「なんで、そんなにやる気なんだ……?」
「わたくしには、もともと夢がございました。王子の婚約者として、その理想を実現するつもりでおりました。けれど、婚約を破棄されて、それが叶わなくなりましたの……ですから、今、わたくしの手でやるのです」
ルイーゼは、こちらへと視線を向ける。
「あなたのような人間を、これ以上増やしたくはございません」
「……俺?」
「ええ。機会を与えられず、誰かに拾われるのを待つしかなかった人間。あなたはまだ間に合った。でも、すべての人がそうとは限りません。ですから、“学び”は、救いなのです」
その言葉に、俺はなにも言えなかった。
馬鹿にされているわけじゃない。
ただ、見透かされている。
それが、悔しいやら、ありがたいやら……。
「……それに、こんな変態がこの国に増えてしまったら大変ですもの」
「何その理由!? そんな個人攻撃混じりの福祉、聞いたことねぇよ!?」
「エリオット、あなたはここの領主になるの。名目でも構いません。旗を立てる存在が必要なのですわ。運営も整備もプロデュースも、すべてはわたくしがやります。あなたは、わたくしの看板として、立っていればよろしい」
「それ、犬の役目と変わらなくない?」
「同じですわ。躾けられた犬は、忠誠を示すことで周囲に安心を与えるものですもの。返事は?」
「……ワン」
「ふふ。ええ。まずは、良い犬に。次に、良い人に。そして――良い領主に。それが、エリオットがなすべきノーブレス・オブリージュですわ。貴族というのは豊かな生活を送るものを指すわけではありませんのよ。誰かのために働くものを言うのです」
俺はルイーゼの後ろ姿を見ながら、ゆっくりと深呼吸をする。
不安はある。でも、それ以上に――
「誰かのために」という言葉に、心が少しだけ温かくなっていた。
クラリモンド。
かつての貴族の別荘地に、俺たちの新しい物語が始まる。
★★★★★★★★★★
クラリモンドの借り屋敷、その二階のバルコニー。
午後の風が心地よく吹き抜け、陽光がゆったりと石床に影を落とす中、俺はひとり椅子に座っていた。
……最近、罵倒が足りない。
そう思い始めたのは、数日前のことだ。
報告書に誤字を見つけてしまい、震える手でルイーゼ様に差し出した時だって、「呆れて言葉もありませんわ」だけで済んだ。
鞭も軽く一発だけ。踏まれなかった。舌打ちもなかった。最後は溜め息で終わった。
あのルイーゼが――だ。
俺はその夜、ふと鏡の前で思った。
「俺……飽きられた?」って。
ぶひぃとも鳴けずに、犬としても未熟なまま捨てられるのか、と真剣に落ち込んだ。
けれど。
そうじゃない。
ルイーゼは今、クラリモンドという“舞台”を手に入れた。
否定された夢を、もう一度自分の手で取り戻そうとしている。
――だから、変わったんだ。
罵倒が減ったのは、俺がマシになったわけじゃない。
あの人が、未来を見始めたからだ。
……わかってる。わかってるけど。
「罵倒されないと、落ち着かねぇんだよぉ……」
頭を抱えて呻いていると、控えめなノックが響いた。
「失礼します。来客でございます」
現れたのは、冷静そのもののリゼだった。
いつもの黒い制服のまま、無表情で俺に一礼する。
「どなた……?」
「ご自分の“過去”を、優しく撫でにいらしたようですよ」
……なんだその紹介。
そう思う間もなく、ふわりと甘い香りがバルコニーに流れ込んできた。
振り返ると、そこには――
「……ミレーヌ……!」
クリーム色のワンピースに、淡いピンクの羽織。
まるで初夏の貴族小説から抜け出したような姿で、ミレーヌが静かに微笑んでいた。
「ふふっ、久しぶりね、エリオット」
その声に、心臓が跳ねる。
柔らかいのに、芯がある。優しいのに、逃がしてくれない。
「最近、躾けが甘いって聞いたから。ちょっと様子を見に来たのよ?」
「だ、誰から聞いたのそれ!? リゼ!? ちょ、まっ、俺は別に――」
「こっちに来て。お膝、空いてるわ」
「え、ちょっ……ちょっと待って……!」
気づけば俺は、バルコニーの椅子に座るミレーヌの足元に誘導されていた。
膝の上に頭を預けられる。その瞬間、髪を撫でる指先が落ちてきた。
優しい。柔らかい。なのに――逃げられない。
「じっとして。いい子にしてたら、もうちょっとだけ、ご褒美あげるから」
「……っ」
「嬉しそう。こんなに優しくされるの、初めて?」
いや、違う……ルイーゼ様にもされてる……はず……?
なぜか比較してる俺がいる。やばい。これはやばい。
「エリオットは本当に可愛いわね。誰かのものにしておくの、もったいないくらい」
「ミ、ミレーヌ……!」
「ワン、でしょ?」
「……ワン……」
「よくできました」
頬を撫でられる。微笑まれる。
ああもう、これは無理。勝てるわけが――
「……お散歩の時間ですわよ、エリオット」
凍てつく風が背中を走った。
バルコニーの扉が、音もなく開いていた。
その敷居に立つ、漆黒のドレスのシルエット。金の髪。見下ろす瞳は、鋭く静かに怒っていた。
「ル、ルイーゼ様……!」
「ご機嫌いかがかしら、ミレーヌ様。そちらのお相手、わたくしの犬ですの」
「ふふ……馴染んだのは、本人の素質よ。誰が躾けても、いい犬になるだけ」
「“誰が”など、あり得ませんわ――あなたは、おもちゃを欲しがる子どもと変わりませんもの」
「子どもじゃなくて、ライバルとして見てくれたら嬉しいわ」
沈黙が走る。視線だけで火花が散る。
ミレーヌは立ち上がり、軽くスカートを払って微笑んだ。
ルイーゼは黙って一歩、俺の前に出る。
「その犬が、誰の手を舐めて眠るのか――今宵、思い知るがいいですわ」
そして、俺の襟元のリボンをつまむように掴んだ。
「お散歩の時間よ。来なさい、エリオット」
「……ワン!」
俺は反射的に立ち上がり、彼女の後を追う。
手は差し伸べられない。けれど、リードは確かに繋がっていた。
ミレーヌは背後から、静かに呟いた。
「“帰巣本能”……」
ルイーゼは歩きながら、ふとこちらを振り返り――最後に、こう言った。
「ようやく犬らしくなりましたわね。豚になった時はどうしようかと思いましたわ……成り上がり貴族のあなたらしい成長ですわ」
俺はうなだれるしかなかった。けど、ちょっとだけ――嬉しかった。
そして、思い出した。
ああ、そうだ。
俺は――この悪役令嬢を拾ったことで、成り上がろうとしてたんだ。